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知覚の地図XIV 風をはらむ服を着て

風を呼ぶ装置





角の靴





逆斜光





木馬





竹林風

風をはらむ服が好き。どこかかなたの広大な草原へ誘うような、風にのってかすかに異国の音楽が聴こえてきそうな服。先日ウエストベルトを後ろで結び垂らし、背中を編み上げる紐飾りのついた、ふくらはぎの半ばくらいまであるロングワンピースを羽織りはためかせて歩いていたら、午前中は晴れていたのに夕方近くなって急に雨が降ってきた。風も強く、はためく裾辺りがずぶ濡れになりそうで大慌てだった。日本じゃ乾いた草原という風には上手くいかない。
風をまとって思いをはせる曲と云うならボロディンのこの曲。ちなみにボロディンってこれだけの神がかり的な旋律をこの世界に生み出しておきながら、主に収入を得ていたのは化学者としてだったそうで、これは本当に吃驚。化学の世界でも名を知られてるそうだ。


スタンダードでは「ストレンジャー・イン・パラダイス」という曲として知られ、こっちはそのウクレレバージョン。キヨシ小林のアレンジで楽譜はわたしも持っていてずっと練習中だ。それにしてもこの人は、他にもこの曲集から演奏していて、そのどれもが上手い。始まってすぐの小指使いが痛いんだけど、苦も無く涼しい顔でその運指をこなしている。

もう一度書く。風をはらむ服が好きだ。流行り服など心底どうでもいいし、服くらい他人の目なんか気にせずに好きなものを着ればいいと思う。これこそ簡単に自由になれる方法だろう。どうせ短い命、そのただでさえ短い命のいくばくかを、他律にしか過ぎないわけのわからない束縛に供してどうする。最近歩いていて目につくのは男の子のマッシュルームカット。いくらかっこいいという共有意識が成立してるとはいえ、前髪をすべて前にかき集めておろすような、黒いヘルメット然としたヘアスタイルは画一的で、たとえかっこよくても、なんてつまらないんだろう。


キャベツとアンチョビのソテーにぞっこんになってから、家でも食べようと思ってアンチョビ・フィレを買ってきた。で、いざ家で手をつけるとなるとソテーするのが面倒になって、単純にキャベツのサラダの上に乗せただけでもいいんじゃないかと思いつき、そっちのほうをまず実行してみることに。
盛り付けのセンスのなさは別にして、キャベツの上に乗せたアンチョビの意外なほどに食欲を喪失させる見た目に若干のショックを覚える。話は違うんだけどポストモダン思考の写真なんて云うのをあれやこれやと試行している観点から見ると盛り付けのセンスを度外視してるのは脱構築と云えないかなと、これまた余計なことを考えたりして、そういえば料理にはポストモダンなんて云う潮流がやってこなかったんじゃないか。ノイジー、不協和、相対化、脱構築など、他の表現領域では観念としてわりと当たり前になっているようなものが料理の中には入ってきていない。味覚というのは観念的な快楽なんて云うのを全く度外視して、ただひたすら本能的快楽へ導く調和の感覚しか認めようとはしないってことなんだろう。
まぁそれはともかく、キャベツの上に乗せたアンチョビの、このポストモダン的な感覚。しゃきっとしたみずみずしいキャベツの上に乗るオリーブオイルでぬらりと濡れた質感の不協和音的なコントラスト。土気色で紡錘形の柔らかくぬめりをおびて光る物体は、キャベツの上ではまるでなめくじだ。なめくじ感を強調したければ、千切りのキャベツよりも葉っぱ状の外観が残っている、適度にちぎったキャベツのほうが適してると思う。
もちろんこれがなめくじではなくアンチョビであることは十分に承知してるわけだから、わたしは躊躇うこともなく口に放り込む。
でもあのサイゼリヤでのロートレアモン的な出会いを思い描き期待していたわりには、口の中ではキャベツとアンチョビがちっとも混じりあわない。ロートレアモン的な出会いが約束する痙攣的なものの不在。砕片化した二つのものが細部を細かくしながらどこまで行っても粒立ち良く共存して、それはまるでグルスキーの写真のような食感だった。しかもさらにキャベツからでる水分がアンチョビの塩味を薄めていく。
結果としてこのわたしの手抜き行為はソテーするという手順の偉大さを再発見することになった。単純な行程なのにこれがキャベツから甘みを引き出し、アンチョビのうまみと塩味を加えて混然一体としたものへ、それまでそこに存在していなかった何かへと変化させていく。炒めるという行為を一体だれが発見したのか、その人はそれが偉大な発見だったことに気づいていたのだろうか。
で、アンチョビというのは魚を本来のものとして味わうというよりも、結局のところ魚の持つコクというかうまみを隠し味として付け加える塩分調味料的な存在なわけだから、似たようなもの、例えば塩辛で代用できないんだろうかと思って試しに検索してみたら、キャベツと塩辛のソテーはすでに立派な一品料理として存在していた。誰もが思いつくことだったようだ。

自粛生活だった春から夏の終わりにかけて、いつの間にかやらなくなっていたゲームに手を出したりした以外は、いつもの如く本を読んでいた。読んでいたのは面倒くさい本以外は主に国産のミステリ。今読んでるのはちょっと毛色を変えてテッド・チャンのSF「あなたの人生の物語」だけど、この前読み終わったのは小野不由美の「黒祠の島」だった。同じく小野不由美の「残穢」を読了後に続けて読んで、小野不由美さん、小説書くのちょっと下手になったんじゃないかと思った。ジュブナイルの「ゴーストハント」シリーズや「十二国記」のようなページターナーのものを書いていた人のものとは思えない仕上がりだ。
両方とも現在形の時間軸では物語はほとんど動かない。これが物語の臨場感を確実に削いでいる。「黒祠の島」のほうは事件のすべては物語が始まる直前で終了していて、探偵役の人物は安楽椅子とまではいかないものの、現場を右往左往するだけ。島民からの異物排除の圧を受けながらという不穏なサスペンスは絡んでくるものの、いくらページが進んでも関係者を変えては情報収集するのみにとどまる。海外のミステリによくあるインタビュー小説とでもいったものに近い。ある人物に事情聴取をして、やっとそれが終わったと思ったら、次のシーンでは別の人のところへ赴き、再び同じ出来事に関する事情聴取のシーンになる。人によって別の角度になるとはいえ、今聞いた事件の同じ場面の話をまた最初から聞かされる羽目になる。
かたや「残穢」のほうもマンションに生じた怪異の報告をきっかけにして著者本人を思わせる主人公がその報告者とともに怪異の正体を探るという形で、物語の大半は過去の情報収集が埋め尽くすことになる。
小説も作者の語りを読むという点では同じとは云え、小説内で登場人物の口を借りて過去の間接的なエピソードとして語られる内容は絵画で云うなら背景的な要素を多分に含んでいくことになる。だからこの二冊を読んだ印象は背景ばかりが緻密で豪華な絵画を目の当たりにしている感じに似てる。エピソードに登場する人物もキャラクターが立っているというよりも、ディテールを欠き、輪郭線の少ない姿で背景の一部として紛れ込むように存在してるという印象のほうが強い。これは「残穢」のほうが顕著で、怪異がマンションの一室に起因しているものではないと分かり始めてから、その出所をマンションの建つ場所に求めていく過程で、そのマンションが建つ前にどんな家が建っていてどんな住人が住んでいたのか、一軒じゃなく複数の家が建っていればそれぞれの家族がどこから引っ越してきたのか、あるいは何をきっかけにどこへ引っ越して、引っ越し先で何があったのか、その引っ越し先のさらに後の時代に住んだ人はその後どうなったのかと、戦前を射程に含むほど遠い時代まで過去への調査が進むにつれ、その場所に関係する住人の名前ばかりが増えていって、メモでも取ってない限り混乱するのは必至の描写となっていく。「黒祠の島」のほうも事情は似たようなもので、登場した瞬間に強烈な印象を残す、唯一キャラ立ちしている登場人物、開かずの間の住人であり祭神の守護である、その存在さえ疑問視された少女「神領 浅緋」の登場は物語も終盤に近くなるまで待たなければならない。
まぁ端的に云うと両方とも小説風に肉付けされた名簿を読んでるようで、たいして感情移入もできない人物たちが動きまわるにつれて中だるみしてくる。この人誰だったかと前にページを戻るのも面倒くさくなるくらい、印象が薄いくせに人一倍煩雑な登場人物たちが熱中度に水を差し続ける。
こんな書きっぷりの話ではあったんだけど、テーマ的なものは結構面白いと思った。「残穢」は薄気味悪いホラーの出だしから、ご近所歴史ミステリとでもいうようなあまり例を見ない内容へと発展していって、その時点で最初にあった薄気味悪さ、怖さはまるでなくなるものの、自分の住んでいる場所だって自分が住み始めた時から時間が始まってるわけでもないし、辿っていけばこういう地域極端限定極私的歴史を見出すことになるんだろうなぁと、あるいは自分がいなくなった後でここに住む誰かはわたしがここに住んでいたことなどまるで知らないで過ごしていくんだろうなぁとか、そういうことを想像するような面白さが出てくる。「黒祠の島」は怪しげな因習が広まる孤島の村を舞台にした和風ホラー風味の物語で、でも起きる事件は極めて凄惨なものであってもことさらホラーに傾斜するでもなく、光明へと向かう道はどこにもないと思われる状況から、たった一人の犯人を指し示す論理の道筋を見いだしていく過程はまさしく王道のミステリそのものだった。この部分というかもうクライマックスになるんだけど、ここで無茶苦茶ミステリしてるじゃないかとそれまでだらだらと読んでいた姿勢がまるで正座でもする如く一気によくなり、しまったこういう風になっていくなら途中もうちょっと気を入れて読んでおくんだったと後悔させた。犯人開示と犯人とのやり取りで展開される罪と罰の考察も大谷大学だったか仏教系の大学の出身者らしい内容で興味深い。
「残穢」は山本周五郎賞を取っている。これが賞をとれるほどの内容だったかは正直わたしには微妙だったんだけど、その選評でこの本を身近においておくのも怖いといった内容のことを云われたらしく、これはないだろうと思った。恨みを残す者の、その恨みの相手のみがターゲットになるんじゃなくて、呪怨のようにちょっとでもその場所、ものに触れただけで、まるで無関係でも邪悪な何かが穢れとして無差別に伝播していくという内容だから、この本も忌むべき穢れを運ぶ書物そのものとして身近に置いておくのが嫌という意味だったんだと思う。でも人が誕生してから今の時代まで穢れを生み出す出来事、思いなど星の数ほども誕生してきたのは確実で、そういう意味では世界はすでに穢れがみっしりと敷き詰められてる。いまさら本の一冊を怖がってもしょうがないじゃないかとしか思えない。販促のために云ったとしても、わたしも含めてこの選評に気を引かれたほぼ全員が裏切られた思いを抱くことになるだろう。これは罪深いよ。この選評そのものが穢れについて書かれたこの本よりもはるかに邪悪な一種の穢れだろう。













日々更新していく世の中なので多少旧聞に属する感じになる。内容もそうなんだけど、語り口が無類に面白かった。もうこれ、芸だといってもいいと思う。この人が喋ることのプロなのかどうかはよく知らないけど、ネットの中を彷徨っていて思うのは、ただふざけてるだけ、寒い芸人の口調を真似てノリがいいと勘違いしてるといったユーチューバーのような人が掃いて捨てるほどいる一方で、在野にはプロでもかなわないような面白い人もごろごろいるということだ。
それにしても一つ目の動画のコメント紹介の中に京都系の学者なんて云う言葉が出てくるなぁ。立命の教授の、今回のああいった下手な三文小説でも今どき使わないような陳腐で知性の欠片もない恫喝とその醜態とか、京大の周りには未だにいつの時代かと思うような立て看板が立ってるとか、まぁ京都の大学が左翼の巣窟というのは否定はしない。京都は昔蜷川という共産系の府知事が長い間君臨していたし、そういう方向へと流れる下地はある場所なんだけど、それでも京都系なんて言う言葉のもとで、こういう内実のものとして知られてるのはやっぱり結構不名誉なことではある。





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知覚の地図XIII 托卵

人影





鎌影





居心地の悪い枯れた花





赤い紐
写真はホルガに135フィルムを詰めて撮っていたものを中心にいくつか載せてみた。撮ったのは2015年頃だ。

サミュエル・ベケットが美術に関する異様な評論「三つの対話」でこういうことを書いてる。
要約すると芸術家は失敗することを本領とすべきだといったこと。しかもその失敗は他人があえてしないようなやり方で失敗するようなものでなければならない。この文脈では成功を実現させる、あるいは完成までたどり着くためにはその裏でいっぱい失敗を重ねる必要があるといった意味合いの失敗じゃない。あくまでも純粋に自己完結していて、今まで世界に存在していなかったような失敗、そういう失敗こそが目指すべき唯一のものだと、そういうことを云ってる。そこからしり込みすることは戦列放棄であり、工芸品作り、日常であることに他ならない。
思うに学ぶこと、修練することは、誰もが認めるような何か見栄えのいいものへとたどり着くためじゃなくて、自分の失敗が過去に前例のないものであることを知るためにあるということなんだろうと思う。
前回の記事で幸福な失敗を生み出すカメラ、ダイアナのことを書いたので、ちょっと引き合いに出してみたんだけど、演劇なんていつのころからか関心の対象外になってはいたものの、自分はこういうところからもかなりの影響を受けているんだなと改めて思い知った。ベケットやイヨネスコの異様な不条理演劇も戯曲を読むのは結構好きだったし、ベケットはマルセル・デュシャンとも親交があったらしい。ダダイズムやシュルレアリスムの見慣れないヴィジョンに魅了されて、デュシャンは大昔、わたしの観念的アイドルの一人だった。逸脱、解体、相対化、個性からの解放、世界をとらえる新しい眼差なんていうテーマを巡ってベケットが「失敗」という言葉一つで導き出したような、そういう水脈のごとく続く思想の流れの中にわたしもいるんだと思う。
ただ失敗を目指せ!といえど、前回のダイアナにしてもそうなんだけど、今はその失敗であってもさえ毒気を抜かれて類型の中に秩序づけられ、理解され、了解可能な失敗として並べられていく。了解されないものは、本当はそっちのほうが本義なんだろうけど、失敗にさえたどり着けずに終わるのかもしれない。かなり前にビスケットカメラに関して書いたことでもあるんだけど、その逸脱がトイカメラ風なんて云う類型化されたカテゴリーに収められるほど、一つのジャンルとして理解可能なものへと変換されているなら、これは一見失敗に見えているだけで、本当の意味で失敗とは程遠い場所にいるんだろうと思うところもある。
とまぁちょっと屈折したようなことを考えながらも、ダイアナの記事を書いたのがきっかけで、あのあとフィルムを入れてしまった。ピンクのおもちゃ然としたカメラを持ち歩く気力や勢いを、わたしの体の中から呼び起こさないといけないはめになった。
フィルム装填 ダイアナ
ダイアナはおもちゃ然としてるくせに、フィルムはブローニーフィルムを使う。あらかじめ軸に巻いてある状態で売ってるフィルムを軸ごとセットして、その初端を巻き取り側にセットされてる空軸に巻き込んだあとは、撮影するたびに一コマ分の分量を巻き取っていくだけというシンプル極まりないやり方。巻き取り軸を回すいかにもプラスチックのおもちゃという安っぽいカチカチ音が子気味いい。フィルムと一緒に巻かれてる斜光紙に印字されてる枚数表示の数字が裏蓋に開いている赤窓から見えるので、それに従って巻き取っていけば、二重写しになることもない。あえて巻かない、中途半端に巻き取るといったことをやると意図的に多重露光や一部だけ重ねるなんて云うこともできる。

先日3か月ぶりの定期診察で病院へ行ってきた。もっともわが潰瘍性大腸炎はほぼ寛解状態なので、診察といっても、どうですか?調子いいです。トイレは一日何回くらい?一回か二回くらいかなぁ。出血はしてる?いや、してないです。じゃこのまま今の薬でいきましょう程度の会話でおしまい。一応診察としていつもの、お尻に指を突っ込まれて出血はしてないねとのやり取りはあったけど、それさえもごく短時間。あとはその日の血液検査と尿検査の結果を聞いて特に問題なしとのお墨付きをもらって診察室を出た。次はまた3か月後。ひょっとしたら大腸カメラをやるとか云われるかなと思ってたけど、それもなかった。大腸カメラ、検査そのものは鎮静剤を使うとほとんど苦痛はないものの、2リットル近い大腸洗浄液を飲むなんて云うのから始まる前準備がもう精神的にも体調的にも負担が大きくて、できればやりたくない。
指定難病の経済的な補助を受ける資格を持っているから高額な薬を使わなくてはならない場合もそれほどの負担はない。今回の領収書を見てみると補助がなければ9万近く払うことになっていて、こんなもの、文庫本でさえブックオフの100円文庫で漁ってるのに払えるわけもなく、そうなると治療を断念する以外になくなっているところだ。
ただ、補助を受けるのに審査があって中等症以上だけが該当するという制限は何とかしてほしい。不治の病であり軽症状態でも薬を使って維持する必要がある病気なので、軽症へと移行したからといって経済的な補助を切られれば、その対象から外された軽症状態でさえも維持できなくなる可能性が出てくる。さらに患者数が激増しているようで、希少性というのも変な言い方だけど、そういう病気の希少性が確保できなくなり一般的な病気になった時点で潰瘍性大腸炎そのものが指定難病の対象から外されることもありそうと、色々と先行きには不安な要素がごろごろと転がってる。国としてできるだけ出費を抑えたいというのもわかるんだけど、患者の状況に関してもうちょっと細かい配慮ができないものかとも思う。といっても安倍元総理の持病だから、何かちょっと配慮しただけでも優遇してるとか、またくだらない揚げ足を取られそうでもある。
最近自分の中で人気急上昇の食べ物がキャベツとアンチョビのソテー。サイゼリヤのつけ合わせメニューにあったもので、なんだかちょっと物足りないと思った時に200円で追加できたので注文してみると、これが素朴な家庭料理風の、優し気でどこか懐かしい味がして美味しかった。メニューにも「復活!」なんて云う言葉が添えてあったからサイゼリヤでの人気メニューだったのかもしれない。
サイゼリヤは貧乏人の味方というのもあるんだけど、潰瘍性大腸炎のわが身にとっても食べて大丈夫というメニューがいくつかあったから、食べに行ってもその中から同じものを注文するしかないんだけど、外食時にはよく利用する。イタリア料理というとなんだかイメージとしては真っ赤だったりして色の持つエネルギーだけでも大腸に悪そうなのに、オリーブオイルは潰瘍性大腸炎には意外と刺激が少ないオイルとして油分の補給には重宝する食材だったりする。なんだか店の人にも顔を覚えられてるようで、ドリンクバー飲み放題状態で食事の後もいつも本を読みながら長時間居座ってるから、今日は窓際の席、あそこが空いてますよなんて云う風に明るい席へ案内してくれる。でも限られた同じものしか注文しないから、あの人あの料理がよっぽど好きなんだろうなぁと思われてる確率が高い。
食べ物に関して、潰瘍性大腸炎は意外なことにあまり明確な制限がない。というか辛い香辛料なんかは別にして、これが必ず悪影響を及ぼす、必ず再燃のトリガーになるというような食品が特定されてない。暴飲暴食を慎むなら寛解に近い状態ではほぼ好きなように食べることができる。だからなのかわたしの主治医も良い効果が期待できる食べ物の話はするけど、こういうものは食べるべきじゃないといった話はまるでしてこない。病気に対する影響は腸を通過していく食べ物ならどれも何らかの形で存在するんだろうけど、でもそれが患者に影響してくる度合いは同じ潰瘍性大腸炎であっても人によって千差万別で、何が良くないかは自分の体で実験して自分なりの食べるとやばいリストを作るしかない。
とりあえずキャベツとアンチョビのソテーはわたしには大丈夫な食べ物だった。
200円のこの幸せは結構大きい。その場所に夢中になる本の何冊かを携えていればなお幸福になれる。

それとサイゼリヤのテーブルに置いてあるキッズメニューに載っている間違い探し。これが9月になって新しくなっていた。子供相手にしてはいつも凶悪なクイズで、前回のは何度か通ってるうちに10個の間違い全部発見できたけど、今回のはまだ6個くらい。目が開いてるか閉じてるか、花が一つ多いか少ないか、なんて云うわかりやすいもの以外は、微妙に角度が違うとか微妙に幅が太いとかそういう意地の悪い違いが多いので、大人でも頭をひねること確実だ。さて9月の新作は残り4つほどの間違いを全部発見できるか。




自粛世界へと世界が変貌してから、本を読むのはまぁいつものことで、読む量が増えたといった程度なんだけど、久しく遊んでいなかったゲームに手を出して、そっちのほうに結構はまってる。といっても新しいソフトを買ってどうのこうのといったものじゃなくて、ゲームをやらなくなった頃に手元に買い置いていたものに、ほぼ10年近くたってから手を出したという形。自粛を要望され始めた時にまずドラゴンクエスト8を、そしてその後ファイナルファンタジー12と、両方ともプレイステーション2っていう2世代前のハード用に出されたゲームで、その古臭いゲーム機に乗っかって10年前の世界へと旅してるっていうわけだ。ドラゴンクエストのほうは、買った当時、これを遊び始めてしまったら次のナンバリングのが出るまでまた2年か3年くらい待たなければならないんだろうなぁと思うと、始めるのはもうちょっとあとにしようという気分になって、それがそのままゲーム自体から遠ざかったのに巻き込まれて放置されることになったもの。ファイナルファンタジー12のほうはこのソフトに搭載された新システムが斬新すぎて、何もしてないのにその場をうろうろしてるだけで戦闘が終わってしまっていたりと、システムが判らないというよりもこれで本当に想定されてるような進み方をしてるんだろうかと疑問だらけの状態になった。これでいいのかなんて思って遊ぶのも嫌だ。そこでこんなに勝手に戦闘が終わるのがこのゲームのまともな遊び方なのか確認してから遊び始めようと思ったんだけど、そう思ったのが運のつき。結局確認しようと思ったまま10年近く温存する形となった。
10年前の無印12から始めて、この世界は高画質で体験したいと思いだしたら止まらなくなり、結果として最近新たな装いでリリースされたリマスターバージョンにまで手を出して、それを遊ぶために今年の終わりころには次世代のプレイステーション5が登場するというのに、終わりかけの現行プレイステーション4を買ったりするくらい熱中してしまった。
ゲーム内容を事細かく書いてもあまり意味もなさそうだからそういうのはまぁ書かないとして、10年後にタイムカプセルでも開くかのように始めてみたファイナルファンタジー12に対して一番初めに思ったことは、当時このゲームは酷評と嘲笑に晒されたゲームだったんだけどその当時のゲーマーたちの、そしてわたしも含めてものを見る目のなさについてだった。いったいあの時自分は何を見ていたんだって、本当に呆れ返る。当時この世界を構築したスタッフは、斬新であるが故に向けられたその理不尽なまでの無理解に対して、心底口惜しい思いをしたと思う。10数年後にリマスターという形で再び世の中に出現して、今度は世の中がようやく追いつき高評価に包まれてる状態をみて、少しは溜飲が下がったかな。
シナリオは製作者が病気で途中降板したらしくて、終わりのほうは急ぎすぎという感じがするものの、砂漠の中に出現した中東風近未来都市の、装飾に満ちた絢爛豪華な様相とか、この魅力的な世界構築へ向けた描写力、説得力は半端なく凄い。映像上のリマスターはワイドテレビに対応したのと解像度を上げた程度でポリゴンやテクスチャにほとんど変更は加えていないように見え、ならばこの描画力はプレイステーション2の時代にすでに実現されてたということで、当時のスクエアの技術力のすさまじさがよく判る。
中盤以降のシナリオの失速、帝国と解放軍の骨太の群像劇はどこかになりを潜めてしまい、なんだか古代遺跡巡りツアーみたいになってしまう部分でも、その遺跡の壮大さ、堆積した時間の重さ、滅びて久しい寂寥感、異世界さ、ロマンチシズム等に圧倒されて、占領と解放の闘争なんてそっちのけでツアー客になり切って楽しんでいた。遺跡のビジュアルの壮大さはモンス・デジデリオやピラネージなんかの作品が好きなら、ああいう世界の中に実際に入り込んでいるような感覚をもたらすので夢中になるんじゃないかと思う。
さてゲームも進み、この世界がもうすぐ終わり、ここから抜け出す時が近づいてるのかと思うとなんだかやるせない。12以降ファイナルファンタジーのナンバリングソフトは現在15まで来てるんだけど、12のこの世界はオフライン版ではこれ一作だけで終了している。一作だけでやめてしまうにはあまりにも魅力的な世界だと思うんだけど、どうなのかな。この世界の中でまた違う、濃密でプレイヤーを翻弄するようなストーリーのファイナルファンタジーを作り上げてほしいと思う。リマスターバージョンの出現でそう思ってる人は多いと思うよ。
曲は王都ラバナスタのダウンタウンの曲。長い間ファイナルファンタジーの音楽を作り続けていた植松伸夫氏から崎元仁氏に交代して、植松氏ほど旋律的な音楽でもなくなったのは残念だけど、従来のファイナルファンタジーを旋律的と云うならこの12ではどちらかというと音響的とでもいうか、植松氏では作らなかったと思える曲調となって、これはこれで興味深い。このダウンタウンの曲はパーカッシブでラテン好きの琴線に触れる。ただループが短すぎてちょっと単調かな。繰り返していることそのことが耳についてくる。
王都ラバナスタの地下に広がるこのダウンタウンのシーンはクーロンズ・ゲートを思わせて結構好きだ。実際この動画のように隅から隅まで散策してみたりしてると、人気が絶えた深夜前の錦通りでもそぞろ歩いてる気分になる。

ちなみに先日からプレイステーション5の抽選購入の予約が始まった。この感じだとおそらく当分手にできなさそう。アマゾンのマーケットプレイスでは早速転売屋が跳梁跋扈してるようで、定価5万円ほどの予定のものが40万近い値段で出品されていた。すでに間違ってクリックしてしまった被害者も出ている模様だ。
ハイスペックパソコン並みの内容だと思うから売値は最低でも10万くらいいくだろうと思っていたら、ディスクドライブ内蔵タイプのものでも5万円と意外と安い。現行のプレイステーション4と大して変わらない価格設定だし、この価格だとわたしもいつか買ってしまってるだろうなぁ。気のせいなのかプレステ4の中古ソフトの値段が心持安くなってるような気がする。こういう影響がでてるとするなら大歓迎だ。

















知覚の地図Ⅻ 砂の海のレストランへ

消失する橋





枯木の岸






水没





路地裏
最初の三枚は今年に入ってから、カメラを落っことしてどれだけサルベージできるかなと書いていたフィルムから。カメラはオリンパスのXA2。最後の真四角写真は2015年にダイアナで撮ったちょっと古いものから。そういえばダイアナはこのところ全然使ってない。ロモグラフィーが復刻させた、昔いろんな会社のイベントでノベルティーとして供給されていた香港生まれの怪しい安価なカメラで、復刻版はさらにそこへロモグラフィーの適当さが加味されて、おそらくオリジナルよりももっと暴れ馬的になってるカメラだと思う。ホルガのもとになったカメラなんだけど、ダイアナに比べたらホルガのほうがまだしっかりとまともに写真が撮れる。
完全に計算された画面作りに価値を置く人ならば偶然が支配するようなカメラはカメラとも認めたくないだろうけど、わたしは統制されることではじき出される物事のほうに、何しろポストモダンなシュルレアリストなものだからいろいろと興味があって、だから始末に負えないカメラも結構馴染んで使ってしまうところがある。そう思うとホルガなんかは偶然が支配しながらも、マイケル・ケンナが愛してしまうほどに何だか最後にはそれなりにきちんと写ってしまう、稀有なカメラなのかもしれない。こんなことを書いてるとダイアナやホルガにフィルムを詰めたくなってきた。わたしのダイアナは、買う時に我ながら何を血迷ったのか「ミスター・ピンク」という名前の、サイケなピンクで飾ってるものを選んでしまい、そのおもちゃ然としてる外観と相まって、いい年をした大人が携えて出るのに相応の覚悟と勢いを要求してくる。
ダイアナは写真家マーク・シンクが80年代、ウォーホルやバスキアを撮ったカメラだ。彼はダイアナについて幸せなアクシデントを生むと評している。これはこのカメラにとってこれ以上にない賛辞だろうと思う。
ミスターピンク



数か月前から歯茎に小さなぽつぽつとしたできものができて、六月の終わりころに歯医者に行ってきた。結局組織検査をしないと正確に判断できないということになって大きな病院、都合よくわたしが潰瘍性大腸炎で診てもらってる病院の口腔センターに紹介状を書いてもらって、七月いっぱい口腔センター通いに囚われの身となっていた。最初は患部表面組織をぬぐい取っての検査で、その後腫瘍部分を切り取っての組織検査という段取りで進み、検査で切り取った時にできものそのものを取り除く手術は一応終了しているという形になった。
検査結果は、小さいけど腫瘍は腫瘍で、でも良性の乳頭腫というものだったらしい。まぁ質の悪いものではなかったので一安心というところ。口の中の腫瘍ってある程度珍しいのか、診察のたびにセンターの医者が数人わたしの口の中を覗き込みに来ていた。
口の中を切開するというのはやっぱり後が傷がいえるまではかなり鬱陶しい。何せ食事をするたびに動かす場所だし、歯も磨かないでいいとはならないから、なにをするにつけ恐々となる。傷そのものの痛みとしてはそれほどでもなかったものの食べ物が当たっては飛び上がったりといったことは頻繁にあった。
潰瘍性大腸炎で診てもらっている病院ということが内部でうまく情報伝達できていたのか、処方してもらった痛み止めがロキソニンじゃなくてカロナールだった。こういうことは違う病院だといちいち説明する必要があってかなり面倒くさい。カロナールのアセトアミノフェンは潰瘍性大腸炎でもそれほど影響なく服用できるほとんど唯一の鎮痛剤で、わたしは同じ成分の市販薬タイレノールを常備薬にしている。なによりもタイレノールという名前がブレードランナーぽくってかっこいい。

給付金で以前書いたように眼鏡を買った。
jinsの眼鏡
これも以前に書いた通りJiNSの眼鏡だ。フレーム代8000円と、短焦点レンズだとフレーム代のみで購入できるんだけどわたしの場合は遠近のレンズなのでプラス5000円といった出費になった。鯖江の日本製だとか海外ブランドものとか上を見ればきりがないし、手ごろな価格で売っているもので実際使ってみてどうなのか確認したいという意味もあって、一度ここで買ってみたかった。もしこの価格帯で過不足なく使えるならいろいろと買い揃えたりすることも気軽にできそうだ。
実際に買ってみると、まぁ全体の質感としては正直なところあまり高級感はない。良く云えばシンプルとでもなるんだろうけど、カジュアルに使えるのは良いとしても、細部のいたるところにひと手間省いているような頼りなさを感じる。一度落としでもすれば簡単に歪んだりしそうな質感だ。これはでも値段相応ってところなのかな。
一つ困ったのはこのあまりにも工夫のない単純で細身のモダンのために、極端な汗っかきのわたしだとこの季節、俯いたりしてると汗で滑って眼鏡がずり落ちてくることだった。これを解消するために三度くらいフィッティングをしてもらったんだけど、結局モダンの部分を曲げすぎて耳が痛くなったりしただけでずり落ちはあまり改善されなかった。耳が痛いのはさすがにかけていられないからこれはさらにフィッティングで直してもらったんだけど、細身でこのシンプルすぎる形では極端に汗をかくという特殊な状況でずり落ちやすくなるというのはフィッティングでは解消不可能かもしれない。エアコンがきいて汗をかかない状態だとまるでずり落ちもせずに気分よくかけていられるから、これはもう夏の間炎天の日差しに打ちひしがれそうになっても、顔を上げ胸をはって上を向いて歩けという天からの啓示なのかもしれないと思うことにした。
まぁ形が変わるとかけ心地も変わるだろうと思うので、違うスタイルのものをもう一本くらいはお試しに買ってみるつもり。高級品一点主義もいいし、一本くらいはそういうのも持っていたいけど、いろいろ買いそろえられる価格帯のほうが生活の中の道具としてはやっぱり面白い。
売り場ではボストンとウェリントンとで相当迷った。丸っぽい眼鏡が好きなのでやっぱりボストンに目が行ったんだけど、今度はこの迷ったウェリントンのを買ってみようか。サングラスでキャッツアイなんて云う逸脱ものを平気でかけているくせに一番オーソドックスなウェリントンタイプって今までに一度もかけたことがない。

最近の買い物の話をもう一つ。携帯用の扇風機の衝動買いだ。
ハンディファン
これはもう文字通りの衝動買いで、買ったのは東急ハンズだったんだけど、売り場に置いてあるのを見てそう言えばこういうのを持って歩いてる人が多いなぁと思い至ると自分も一つ持っていてもいいかなと、なんだか知らないうちにレジに持って行ってた。
冷静に考えると効果のほどもおおよそ予想出来て、実際に使ってみるとほぼその予想通りだった。まず炎天下の日中、日差しの中で使うのは単純に30度超えの熱風が吹きかかるだけで涼しくなるわけがない。汗をかいていると気化熱で肌が冷たくなる感覚は出てくるから、濡れた肌という条件下で使って初めて効果らしいものがでてくるものの、これもおそらく木陰とかに避難している場合のことであって、日差しに晒された状態では肌が冷たくなってもたかが知れてるという感じだ。
でも全くの役立たずかというとそんなに云うほどひどいものでもなくて、涼しいとは程遠い状態ではあっても暑さの耐えがたいレベルの目盛りが、耐えがたい範囲の中で二つくらいは下がる気はする。エアコンが効いた部屋に汗をかいた状態で入ってこれを使うと、この場合は目も眩むような効果を得ることだってできる。耐えがたい炎天下でなすすべもなく汗まみれで立ち尽くすような状態には、少なくともなすすべを一つは持っているというのはそれだけで何か逃げ道を見いだせるような気分をもたらしてくれる。
ということで今のところは外出時には欠かさず持って出る道具の一つになっている。
買ったのは良いにしても、買ったことについて実は二つ大失敗をしてる。
一つは全く同じものがOEMなんていう違う装いも纏わずニトリで500円ほども安い値段で売っていたのを発見したこと。東急ハンズで買ったのとパッケージまで同じで、ニトリで売っているくせにニトリのロゴ一つはいってない。
もう一つは黒い服を好むので何の考えもなく黒色のを手に取ったこと。バッグにぶら下げて歩いていると、太陽光でかなり熱くなって冷やす道具とは到底思えないような状態になる。これはもう白を選んでおけばよかったと、白でもおそらく熱くなるだろうとは思うけど、これはやっぱり結構な選択ミスだったと思う。



You Never Give Me Your Money
3:51 Sun King
6:18 Mean Mr. Mustard
7:24 Her Majesty
7:46 Polythene Pam
8:59 She Came In Through The Bathroom Window
10:57 Golden Slumbers
12:29 Carry That Weight
14:05 The End



Ariana Grande - 7 rings (Official Video)


ゆらゆら帝国(Yura Yura Teikoku) - 星ふたつ(Hoshi Futatsu) (Live at 日比谷野外音楽堂)


お気に入りを並べてみて、バラバラな好みだなぁと我ながら思ったものの、まとめて聴いていると、ビートルズの途切れなしの断片的メドレーはこれで一曲として、この三曲の並びのキーワードは「揺らぎ」だなと思いついた。揺らぐものにわたしは見境もなく反応してるんじゃないか。
ゆらゆら帝国のは生きることに必然的に寄り添っていつもそこにある喪失感と、ある種諦観というのもちょっと違うんだけど、寄る辺ない日々の中でその喪失感に抗うでもなく親密な友人と戯れているような視線がいいと思う。ちょっとジャックスを思い浮かべた。
Ariana Grandeのは「My Favorite Things」を大胆に再構築をする過程で、原曲から思いもしないまるで別種の美しさを引き出せてるように思う。普段はこういうポツポツとつぶやくような歌ともなっていない歌い方のは自分としては絶対に聴かないと思っていたんだけど、こういう歌い方でないと立ち現れてこない音空間が確かにあって、それは意外と好みに合うところがありそうだと今更のごとく発見してしまった。
ビートルズのアビーロード後半に収録のメドレーは昔最初に聴いたときは個々の断片は突出した出来である一方、全体としては雑然とした印象を持ったんだけど、様々な切子面を見せながら浮かんでは消えていく様が今では多彩で絢爛豪華な印象へと変わってしまった。個々の断片は本当にこれだけでも王道のポピュラー音楽といった存在感を見せつけてくる。スタートの「You Never Give Me Your Money」からメロディメーカーとしてのポール・マッカートニーの手腕炸裂といった感じなんだけど、この中で出鱈目なスペイン語に切り替わるところとかわりと好きな「San King」はジョン・レノンの曲なんだそうだ。そういわれると確かにこれはジョン・レノンっぽい曲か。ちなみにレノンはこのメドレーをがらくたが集まっただけと評価していたらしい。解散に結びついている感情のとげのようなものが見え隠れする、レノンのこういう水を差すような物言いはあまり同調するところがないなぁ。








知覚の地図Ⅺ 抜殻を拾う夢、饒舌な線路。

缶





壊れ傘





饒舌な線路

使ったのは富士フィルムのコンパクトカメラ、ティアラ。XA2同様のカプセルカメラなんだけど、こっちは同コンセプトに対する富士フィルムのデザイン的な回答といった感じで、向こうが石鹸箱ならこっちはアルミのお弁当箱と、様相を全く違えた結果を出してきているのがなんだか楽しい。そしてどちらも今見ても確実に新鮮、全然古びていない。
カプセルカメラ
とにかく気を許してしまうとストロボがやたらと自動的に光ってしまうのが少々鬱陶しいんだけど、今回はもう光ろうがどうしようがまったく気にしないでいちいちオフにしないまま一本撮っていた。
なんでも撮れる、躊躇いを追い越す速度を持ったカメラだというのは、前回もちょっと書いたことだ。被写体に意味など求めず、世界の色と形のすべてを収める勢いをもってシャッターを切りたいと思う情動を、こういうカメラは加速させていく。でもそうはいっても視界に入るものすべてを切り取っているわけじゃ当然なくて、視界に入ったにもかかわらずシャッターを切らなかったものも当たり前のように存在している。それは高々フィルム一本37枚なんて云う微々たる量では事の最初からまるで相手にされないほど、比較するのもばからしいくらい圧倒的に多かったりする。こうなると何を撮ったのかということよりも、何を撮らなかったのかというほうが関心を呼び起こす。フレームで切り取り、そこはそのフレームの外にある世界とは異なった特別の空間だと特権化することで図らずも意味は付加され、そのことで世界はわたしの目の前から流れ落ち、撮られなかった写真のうちに顕現していく。なぜ撮ったのかは判るんだ。ではなぜシャッターを切らなかったのか。すべてが対象と思いつつ、無意識的に、何を、なぜ撮らなかったのかというのは疑問自体が宙吊りにされて霧散していく。

有栖川 蚕ノ社 帷子ノ辻 鳴滝 と、これは何かというと嵐電、京福嵐山線に連なる駅の名前だったりして、この地霊蠢き満ち溢れるような名前の見事なこと、厨二病路線とでも云われそうな、もうそれぞれの駅がそれぞれの異界へと直行してるに違いない名前であって、嵐山まで電車に乗るだけで異界巡りでもできそうな勢いでもある。JRや京阪や地下鉄の駅にある「六地蔵」、わたしはこの六地蔵の近くにあるMOMOテラスという、ユニクロとGUと3CoinsとJinsが入ってるショッピングモールに行くので馴染みの駅なんだけど、この「六地蔵」という異界への穴が開いてるに違いない名前も、嵐電の華麗な地霊ラインナップには完全に負けてしまう。どうせ嵐山へ行くなら、四条大宮始発の駅から路面電車の風情を残して民家の合間を走り抜ける嵐電に乗って異界巡りしてみるのも一興かと思う。
と、柄にもなく思いついて京都の観光案内。他にも「天使突抜」だとか「悪王子」だとか「血洗町」だとか、単に事物との間の記号関係を逸脱しているような地名が結構あって、京都の地名マップはなかなか面白い。

レジ袋の無料配布の廃止、有料化の義務づけなんて云う愚劣な政策が始まってしばらくたったけど、売る側、利用する側、袋の製造にかかわってる側の困惑、不便、負担に見合うほどの効果といったものが本当にあるんだろうか。わたしの場合はこの袋、ゴミの小分けに使ってるから手元にないと単純に不便。レジで買うこともできるんだけど、今まで無料だったものを、無料で渡してくれていたレジでお金を払って買うのも癪に障るので、わざわざレジ以外の100均で売っているのを買ったり、廃止になる前にレジでもらったのをストックしておいたのを使ってる。こういうのは自分だけかと思ってたら、ほとんどの人がレジ袋を有効に使う術を知っていて、それを活用しにくくなってるようだった。みんな困ってるということだ。わたしみたいにお金を払って別のところから手に入れるようなことをしてるなら、消費されるレジ袋の総数は廃止になる前とはあまり変わらないんじゃないか。有料で売るという選択肢が堂々と提示されてるところからも、義務化自体にそもそもレジ袋を真剣に減らそうという意思はあまりなさそうにもみえる。
たとえ減らす気があったにしても、なによりもこの制度、有料にすれば使う人が減るんじゃないかとみなしているのが、所詮わたしたち生活者はけち臭い貧乏人と見下してるのが透けて見えるようで腹立たしい。代替案のエコバッグは邪魔になるし、使いようによっては不衛生。ちっとも便利じゃないのでできる限り使いたくない。そうなるとむしろ買ったものを持って帰ることの面倒さを考えて買い物を控える場合が増えていきそうな気もする。となるとレジ袋が減る勢いを超えて消費量が減るぞ。
食品はまだイメージ的に見慣れていきそうな感じはする。でも衣料品なんか、さすがにブランド物はそんなことはしてないとは思うけど、商品そのままで手渡されるのはかなり異様な感じがする。本当に誰が得してるんだ、こんな制度。
エコというイデオロギーに盲従して、そこから受ける生活者への影響なんかまるで歯牙にもかけていない、こういう態度は左翼独特のものだと思っていた。これを始めた自民党も極左に偏ったようなほかの政党に比べるとなんだか保守のように見えているというだけで、本質部分は生温い左翼政党なのかもしれないなんて思ったりもする。


ムーミン展フライヤー1
七月に入ってから大阪のあべのハルカスでムーミンの原画展が始まった。アニメのムーミンは熱心な視聴者でもなかった、というかほとんど関心がなかったんだけど、絵柄とか原画の雰囲気はすごい好きで、最近だと去年ユニクロで出たリトルミイの絵柄のTシャツなんかも買ったことがある。わたしは病気のせいで電車のような閉鎖空間に長時間閉じ込められるのが恐怖になってるから、とてもじゃないけど大阪まで行ける自信がない。でも展覧会の内容は知りたかったので、図録をネットで注文して手に入れることにした。
ムーミン展図録
ムーミンは本のほうは講談社文庫で出てるんだけど、これの限定版カバーバージョンっていうのがあって、このカバーのデザインが本当に洒落ていて良い。以前このカバー装丁のものを見かけた時、そのあまりのお洒落さに一目惚れして一冊買ったことがあった。そのうち全九冊揃えてやろうと思ったもののそのままになっていた。今回展覧会のことを知ってこの新装版カバーのことを思い出し調べてみたら、このカバーで出ているのは新装だっただけじゃなく期間限定でもあったらしくて、そう知るともうこれはいつまでも放置しておくわけにはいかずに、手に入るうちに全巻揃えてしまおうと、結局ボックス入りのセットがあるのを見つけて、これも買ってしまった。おまけにボックス入りのを読むのも傷みそうな気がして、実際に多少痛むのも気にしないで読む目的で、ボックスとは別にまた買いそろえたりしてる。我ながら無駄使いだと思ってる。
ムーミン限定カバー
ムーミン限定ボックス



Dancing On The Ceiling · Erroll Garner

エロール・ガーナーのこの演奏で初めて知って好きになった曲。同名の曲が他にもあって、検索するとやたらとライオネル・リッチーが出てきて邪魔をする曲でもあるんだけど、こっちは古いスタンダード曲だ。陽気な中にもどこか愁いをおびた部分があって、その愛らしいメランコリーの質感が自分の感覚にフィットする。でもガーナーのこの演奏以外でもこの曲を聴いたことはあるんだけど、これ以上にいいと思った演奏はない。この曲からこの陽気で愛らしいメランコリーっていうのを引き出しているのはエロール・ガーナーの才覚なんだろうなぁって思う。

Indivisibili · Alessandro Pinnelli,Fabrizio Cesare

どこかで聴いたことがあるでしょ。
一連の曲の中ではこれが一番好きで、一巡するのに大体2時間くらいかかるらしいから、毎回大体一回程度しか聴けない。それでも好きなものだから、周囲の喧騒をかき分けるように聴いているうちにいつしかメロディも覚えてしまって、でもメロディを覚えてしまうくらい聴いていても、これだけでは曲の正体にはたどり着けず、いったい誰のなんて云う曲なんだろうとずっと疑問だった。最近偶然のきっかけで正体はこれと分かったので、本気で霧が晴れたような気分。すっとした。場所がらイタリアもの、モダンなカンツォーネだろうというくらいは予想出来て、それはそれなりに当たっていたというところだけど、真相に迫れるのはそのくらいまでだった。
とまぁちょっとぼかした書き方をしてみたけど、もう一度、これどこかで聴いたことがあるでしょ。

ちなみにYoutubeのもとのページに行くと、コメント欄で答えを書いてる人がいる。




知覚の地図Ⅹ 世界が終る時、聞こえてくる金切り声

壁上のラインダンス





途上





塔





レール01






ランプとヘレンケラー

ムシムシして本当にこれからの数か月の季節は苦手。夏服の解放感は好きだし、どちらかというと裸族に属するようなタイプの性癖の持ち主なんだけど、とにかく汗っかきで、それが体力を消耗して気力がそがれ続ける。その体力消耗戦がすでに始まってる。
一日出歩くと色の濃いシャツなんかを着ているとたすき掛けしたバッグのストラップの下になった辺りが汗で色が変わってる。乾いてくると塩気が白い跡として残っていたりする。特に今年はマスクなんかしてるから余計にきつい。コロナのせいで、いつもの夏なら冷房がきいてる駅の待合室も、窓を開けて換気してる。

撮り終えて放置していたモノクロフィルム二本を先日現像に出してくる。久しぶりに訪れたフォトハウスKはコロナ自粛の後でも何食わぬ顔で店を開いていて一安心。小さい店内に大して売るほどのものも置いてなく、表のコンパクトなショーウィンドウには古いフィルムカメラがいくつか並べてあるにしても、客だからあまり言いたくもないけど相場よりも高い値付けで回転率がどうのこうのというほどに売れてるようにも見えない。客がいるとすれば店内でデジカメからプリントしてるらしい客がちらほら見えるだけ、昔の「ムツミ」という店名から名前を変えつつ今も続けている古い写真屋さんだから現像を頼みに来る馴染みの人は昔からいるにしても、いったい何で売り上げを確保してるんだろうと他人事ながら謎の店だったりする。自粛の後もそんなことなどなかったかのようにまるで平気な顔で店を開いている様子を見ると、ここは何が起きようとも絶対に潰れないんじゃないかとさえ思えてくる。
現像を頼んだうちの一本は不覚にも途中でカメラを落として裏蓋が開いてしまった云うなら事故フィルム、もう一本はその後カメラが壊れていないか確かめるために落としたカメラにさらにフィルムを詰め込んで写してみたものだった。カメラは電池の残量を示すビープ音が鳴らなくなってしまったのが目に見えておかしくなった部分だったけど、それ以外は落とした後もまるで変りなく操作できていた。現像の結果は意外と被害は軽微で、蓋が開いてしまったほうも37枚撮りのうち30枚は救出でき、その後のカメラの調子を見るために撮ったほうはまるで問題なく37枚全部破綻もなく撮れていた。事故フィルムのほうはふたを閉めてから再度残りを撮る前に念のために数コマを空送りしてるから、その分を差し引くと光が入った影響は思ったどにはなかったといえるのかもしれない。現像する前は10枚も無事ならいいほうだと思ってた。
使ったカメラはオリンパスの昔のフィルムコンパクトカメラ、XA2だ。石鹸箱のように小さく、しかも頑丈で、ゾーンフォーカスだからピントのことなどほとんど考えることなく撮れるお手軽カメラ。しかも見た目は昔のカメラとは思えないほどモダンで今でも十分に通じるデザインだと思う。昔のモダンというと今見るとどこか懐かしい未来、レトロフューチャーっぽい印象になりがちなところなんだけど、そういうところもほとんどない結構すごいデザインのカメラだったと思う。掌に包み込んで歩いているとなんだか凄腕の道具を隠し持ってるようで、感覚は新鮮な何かへと変貌するように高揚してくる。
軽快なカメラを持って出歩いていると、風で木の葉が揺らいだとか、窓に反射する光がまぶしいとか、あるいは食べかけのパスタに刺したフォークだとか、炎天下で屹立する所在無げな街路灯とか、なんでもいいけどそういう日常で普通に目にした、まるで際立たないものを片っ端から撮っていくような撮り方も容易になる。構図がどうしたとかあれこれ思考か割り込んでくる前に直感の管轄内でシャッターを切れる可能性を秘めている。こういうカメラは一見決定的瞬間に強そうだけど、実は決定的でない瞬間にも気兼ねなくシャッターを切れるというほうが愛でるべき特徴なんじゃないかと思う。決定的瞬間なんて云うものに比べるまでもなく、世界は決定的でない瞬間に満ち溢れている。世界の真実は実はそういう決定的でない瞬間のうちに潜んでいるはずだ。
思考は過激に先鋭的に直感へと縒り合されて、出来上がる写真はただのどうってことのない写真、こういうのがひねくれていて面白いし、いつもそういうのを狙っていたい。病気でうろつきまわれなかったので停止していたこういう部分への働きかけが頭の中でまた始動し始めてるならいいんだけど、と自分では思っている。



ギタリスト、ジョン・スコフィールドのバンドのライブ。最初の曲の出だしのこの不思議な雰囲気。これは何だろう。どういえばいいのかミステリアスというのか、どこか見知らぬ聞いたこともない異国の音楽がかすめすぎていくような気配。この音楽のミステリアスな気配と、二曲目のドラムとの掛け合い、そしてそこからドラムソロへと雪崩れ込んでいく白熱振りがお気に入りだ。
二曲目のドラムとギターの絡み合いはどちらかが一瞬でも気を抜けば一気に崩壊しそうなテンションを維持していて耳を掴み離さないし、ドラムソロは他の楽器がとにかくドラムをドライブさせることに全精力を傾けているようなところがいい。ほかの楽器が奏でる曲をドラムが煽っていくんじゃなくてその逆っていう感じかな。もう手に汗握るハイテンションな音空間になっていて感覚のどこかが覚醒していく思いだ。
それにしてもジョン・スコフィールドは一応ジャズのギタリストなんだけど、テレキャスターを使うとか、もう独自路線を走ってる感じが使う楽器からも漂ってくる。こういうギタリストでテレキャスターを使ってるのは最近ではそれなりにいるようだけど、わたしは他にはビル・フリゼールくらいしか知らない。そしてまたフリゼールもカントリーに傾斜するとか不思議なジャズギタリストでもある。なんだかみんな持ってるストラトじゃなくテレキャスターっていうのが絶妙の外し具合だ。
ハゲのおじさんでここまでかっこいいのも見事。はっきり言って髪の毛があるほうが似合わないんじゃないかとも思わせる。ハゲっていうんじゃなくて剃っていたんだけど、「麒麟がくる」の本木雅弘もかっこよかったなぁ。髪の毛がないのがあんなに似合ってかっこいいなんて云う俳優はそうはいないし、モックンは将来万が一ハゲたにしても、もうまるでそのことで気にかける必要はないということが、今から確約されてると思う。




アタック25の司会も回答者も俺がアフレコしたら全問正解余裕でした。