鉱石のまどろむ夢 + Sailors Tale - King Crimson

平城山の壁





湾曲灯





雪模様の壁



2017 / 01 / 平城山
2016 / 12 / 京都駅
2016 / 12 / 八条
写ルンです シンプルエース400 / Nikon Coolpix S9700




無機的で硬質の幻想、狙いどころはそんな感じ。元々あまり主観に拘泥するほうでもないし、ドロドロベタベタの粘液質の幻想はわたしの資質じゃない。
ちょっとね、最近は画像への加工に対するリミッターが外れ気味だ。フィルムで撮った写真への加工は気分的にかなりブレーキがかかっていたのに最近はそうでもない。今回のは一枚デジカメで撮ったのが混じっているんだけど、むしろ一番加工しなかったのがこのデジタルの一枚だったりする。
自分が思い描くようなものに近づけられるならば、フィルムであろうとなんであろうと加工してみる。フィルム使いがそういう行為を許容して、どう云う地平を眼にすることになるのかは今のところよく分からないんだけど、ただ今自分を捉えてる気分なら何か自分にとって意味があるんじゃないかと思うところもあって、あまりそういうことに抗わないほうがいいのかなと、そんなことを考えていたりする。
だったら元々ほとんどリミッターがかからないデジカメで撮ればという声も聞こえてきそうだけど、フィルムで撮るほうが次元が異なっているんじゃないかと思うくらい面白いんだよなぁ。

最後のが暗いアートアニメーションの背景にでも出てきそうだ。こういうのは常に既存の被写体を与えられる構造の写真ではなかなか難しい。演出写真は大嫌いだけれどそんな方向へ向かわなくても、こういう類のものを撮るならセットアップすることも考えたほうがいいのかもしれない。

モノクロのフィルムはずっと自分で現像しているけど、このところの寒さで水物を扱うのが億劫になって久しぶりにモノクロ現像をフォトハウスKに頼んできた。でも話によるとラボのほうが現像依頼のフィルムを回収に来る日を減らしてしまったために、仕上がるのが半月くらい先になるらしい。リバーサルやブローニーを頼んだ時とは違うラボの袋を取り出していたから、モノクロはまた別の現像所になっているようだった。
既に頼んでしまった後だからこれは仕方ないんだけど、半月先というのはちょっと酷いなぁ。やっぱりモノクロは億劫がらずに自分でやるべきだなと思った。自分でやると乾燥させる時間は必要だとしても、あれこれ薬液をとっかえひっかえしている現像作業そのものは30分もあれば終わってしまう。さらに使う薬品はほぼ考慮する必要もないほど極めて安価だ。
回収する日を減らしてしまうくらいモノクロ現像を頼む人が少なくなっているなら、ひょっとしたら現像代も爆上げになってる?なんて考えると仕上がりの日がちょっと恐ろしい。

☆ ☆ ☆

何だかまたPCのスイッチが入りにくくなっている。何回押せば電源が入るかで今日の運勢が占えそうだ。
一年くらい前に一度修理してもらってるのに、Dellのこの機種のスイッチには弱点のようなものがある感じだ。一応この記事、予約投稿の扱いにしているので、PCの状態がどうであろうと投稿はできるんだけど、その後音沙汰無しになっていたとしたら、まずこれが原因になっていると思う。
一応保守サービスは去年に一年延長して今年の5月くらいまでは期間内なので、あまりに酷い状態になってきたらまた修理を頼もうと思う。一回で通電する時はまるで問題なく動き出すわけで、こういう状態は修理が頼みにくいんだけど。
ちなみにDellのサポートの評判は、非日本人が出てきて日本語が微妙に通じないとか云われていて最悪だけど、プレミア版のサポートで契約しておくと日本人担当者が時間無制限で対応に出てくる。つまり対費用で扱いに恐ろしい差がある。でもサポート料金とか基本的には捨てる覚悟のお金になりがちだし、かなり考えて自分はプレミアのほうで契約してはいるけど、保障であまり高価なのは二の足を踏むことになるんだな。


☆ ☆ ☆


Sailors Tale - King Crimson


掛け声が入っていることでも分かるように、これはライブ音源だ。レコードの時は最後の「S」がなかったような記憶がある、アルバム「Islands」に入っていたスタジオ録音のとはそっくりなようで細部は随分と違う。元曲ではギターと絡み合いながら併走していくメル・コリンズのサックスがここでは無くなっているし、またメロトロンのオーケストラ的な陰影付けもない。多彩さが半ば姿を隠してしまっている分、攻撃的で不安定なギターの音が前面に出てきているせいなのか、どこか神経がむき出しのままになっているような、ヒリヒリする感じが伝わってくる。
ブルースなんか爪の先ほども影響を受けていないロバート・フリップのギターが、遠くへ旅立っていた船乗りの持ち帰った、聞いたこともない不思議な話を語りかけてくるようだ。


ちなみにこっちはアルバム「Islands」集録の初出バージョン。サックスとメロトロンが絡み合ってくる。














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恐ろしき錯誤 + 太陽の子供たち - 小野リサ

東寺・堀





日向の柵





風が通り過ぎた時





工事中の東寺の一角






歪な植木

2016 / 12 / 東寺
Nikon F100
Fuji 業務用400


まぁ、大層なタイトルだけど、去年の暮れに弘法市の日だと錯覚して、行ってみたら誰も居なかったという程度の意味合いだ。
どうも最近内容がタイトル負けしているような気が…。

弘法市ということで場所は東寺。
え!うそ!誰も居ない!!
と思ったものの、そのまま帰るのも癪に障るので、周りの町中を歩いたり東寺に戻ったりしながら写真を撮っていた。東寺って周辺の街は京都らしさもまったくなくて街そのものの雰囲気も晴れやかさなんて皆無。東寺の周辺というわりに古びて風情があるほどでもなくて、ただただ平坦に見栄えもしないでそっけない。東寺そのものも拝観料を払わない場所はあまり撮りたいとむらむらするところがないんだよなぁ。
とまぁ、何かを無理やり撮って帰ろうって云う算段に傾きつつ撮ったこのなかでは、自分としては一番最後のがお気に入りかな。最近意図的に試みることがある、どうってことのない被写体をどうってことのない振りをして撮ってみる感じの写真。この前のにも書いたけど、やっぱりどこかに撮りたいと思ったポイントがあり、どうってことのない見せ掛けに見え隠れして、自分の中ではそれほどどうってこともなくないところもある。

写真はかっこつけた写真になるように写すいくつかのメソッドがある。平面化だとか、グラフィカルな図形的構図だとか、奇矯な視点だとか、ボケだとか、決定的瞬間だとか、逆光だとか。かっこいい写真の撮り方なんていう、そういうことに関した本なんかも一杯出ている。確かにこういう特徴のある要素を組み入れると見栄えのする写真にはなるんだけど、そういうものを使わないと写真にならないのかという疑問はいつだってわたしのなかにあった。おまけにそういう方法で生み出されるイメージの振幅は、派手に目を引くわりには意外なほど狭い。どれも、ああ、こういう方法で予測されるイメージねとすぐに納得できるほど、ある種類型化されたところがぬぐえなく存在する。
写真の本質的な部分はそういう簡単にパターン化されるようなものの中にではなく、まぁそれも写真だから幾分かは存在はするんだろうけど、大部分はもっと別のところにあるんじゃないかと思うところもある。
で、たまにはそういうかっこいい写真作りなんていうことに腐心するような視点から逸脱して撮ってみたくなるという訳だ。受けは悪いかもしれないけどね。
類型化された部分を意図的に増幅するような写真もひねくれて面白いと思うところもあるけど、それはまた別の問題。


☆ ☆ ☆


太陽の子供たち - 小野リサ


最近曇り空ばかり、変化があっても太陽が顔を出すとかじゃなくて雪が降ったりする空模様に本気で嫌気が差して、太陽の光を待ち焦がれつつこの曲で憂さ晴らしだ。










飛行船を見た日

祇園の飛行船





祇園のエントランス





駐車場の片隅で





重なるコーン




2016 / 10 / 祇園
Canon A35 Datelux
Fuji 100


去年の秋に祇園辺りを歩いて撮った写真。祇園らしさを外してやろうって云う意図で撮っていたものだけど、これ、考えてみれば祇園だと云わなければそんな思惑はまるで関係なくなる。で、そんな思惑で何を撮っていたかというと、祇園っぽいの対極を目指して、とりたててどうという事のないものばかり撮っていた。
とは云うものの、どうということもない被写体を選んでいるにしても、本当にどうという事もないなぁと思って選んでいたかというと、振り返ってみると必ずしもそうではないような気がする。被写体として選ばずにカメラを向けなかったものと、なんら特異なものがなさそうに見えてカメラを向けてシャッターを切ったものの差が自分の中には歴然とあったんじゃないか。その差異は他人に伝わるかどうかは別にして、自分的にはシャッターを切る切らないで応答は出来ていたと思いたいところだ。

飛行船は結構京都の空を飛んでいるのを見かける。宣伝のためなのに飛行船を見たという記憶しか残らなくて、何の広告を背負っていたのかよく憶えていない。これはあまりどうということもないものでもないか。
二枚目のはおそらくラブホの出入り口。これは外しているようである意味祇園っぽいかもしれない。
あとは孤独な自動車とかっこつけて積みあがったコーンといったところ。
せっかくどうってことのない被写体を選び境界線上でイメージを成立させようとしていたのに、まだ写真としてかっこつけてやろうって云う魂胆が見え隠れしている。


☆ ☆ ☆

The Ocean


The Rain Song


飛行船ということでZepの好きな曲から。
最初のは15/8拍子に終盤はシャッフルなんていう変拍子の、まるでコンクリートを打ち付けているようなハンマービートがかっこいい。ジミー・ペイジの独特のグルーブ感へ引きずり込んでいく骨太のリフもいつも通り。
レインソングはSince I've been loving youに並んで、Zepの中で好きなバラード。天国への階段よりもはるかにお気に入りだ。これもギターのリフが好きなんだなぁ。

それにしてもドラゴンスーツを難なく着こなしていたジミー・ペイジがあんなにじいさんに、しかもギターもそこはかとなく下手になるとは思わなかった。ヤードバーズ出身の三人のギタリストの中では、今はジェフ・ベックがいいな。ギターの語り口というか、そういうのが突出している。おもちゃ的なギミックにしか過ぎないトレモロアームをあれだけ繊細に縦横無尽に使うのはこの人の独壇場だ。
ロック系のギターを弾く人はYoutubeで見るような腕自慢の人も含めてほとんどがブルースフィーリングに絡め撮られたような弾き方をしていて、もうこればっかり、ギターの弾き方はこれしかないという視野の固定感に、ブルース好きでもないものとしては閉口してしまう。クラプトンが自分ではいまひとつ好きじゃないのはこの辺りにあるんだと思う。ブルースなんか爪の先ほども影響を受けてないよといったギタリストのほうが好きだなぁ。ロバート・フリップなんかは今は知らないけどそんな感じだった。




化水幻戯

疎水 伏見付近1





反射する





水の影





水門





忘れ物



2016 / 12 / 墨染 (1)
2016 / 05 / 墨染 (2)
2016 / 12 / 墨染 (3)(4)
2016 / 03 / 墨染 (5)
Nikon Coolpix S9700 / 写ルンです シンプルエース400 / Olympus Pen S3.5
Kodak SuperGold 400


忍法の技の名前みたいなタイトルだ。とは云っても山田風太郎じゃなくて、元は江戸川乱歩から拝借してきた。山田風太郎は甲賀忍法帖のような有名なものもいいけど、わたし的には風来忍法帖が面白い。

京阪の線路と併走している疎水の、墨染を通り過ぎて伏見へとカーブしていくところ、関西電力墨染発電所のある辺りなんだけど、耳鼻科の通院後にたまに墨染から疎水沿いを歩くことがあって、これはそんな時に撮った写真となる。水門だとかの構築物はこの墨染発電所のものだ。実のところもっと水門や機械類を絡めて撮りたいんだけど、当然のことながら発電所には柵があって中に入れないようになっている。最後のは水は写っていないけど、この疎水と変電所の脇にある小さな公園のベンチに置き忘れられていたオブジェだ。
こういうのを見ると各オブジェを配置しなおしたくなる場合がある。以前紅葉のシーズンに地面に落ちたもみじの葉っぱを拾ってきては思うように並べて写真を撮っていた人を見たことがあった。そういうことにあまり抵抗がない人もいるようでも、わたしはちょっと抵抗がある。あまり自分色に染めてしまわない、目の前の空間をそのまま把握するって云う関わり方だから、目の前にこういう配置で存在したものはその配置にも何らかの蓋然性があると考えるほうで、この写真の場合もサングラスや、これはシャボン玉製造機なのか、奇妙なおもちゃの位置が多少バランスを崩していてもそのままにして撮っている。

水は被写体としては面白いね。水そのものは指の隙間から零れ落ちていくほど存在としての確固としたものがないにもかかわらず、反射、透過、屈折、波紋、揺らぎなどの層を通して様々の表情を見せてくれる。日常の当たり前に見るものから神秘的な印象まで、あるいはわたしにとってはさらに恐怖の対象としてまで、刻一刻と変化するその様相は見ていて飽きない。
たった100度程度の範囲で固体から液体さらに気体にまでその存在形態を変える物質は実はかなり特異な存在らしく、これ無しには生命は誕生し得なかったことも考え合わせると、水はある意味奇跡的な物質だ。水道の蛇口から毎日奇跡が迸り出てるんだと思うとなかなか楽しくなる。








ぐるぐる

ぐるぐるいす





多重する植物





廃車





2016 / 11 / 棚倉
2016 / 10 / 河原町
2016 / 11 / 平城山
Pigeon Flex
Fuji Velvia 100


☆ ☆ ☆


最近はパッとしない天気と寒さで何だか写真撮るための勢いみたいなのが削がれ気味だ。
太陽が出ている日でも安定せずに、まるで電灯をつけたり消したりする感じで光の状態は猫の目のように変化する。きちんと露出を計って、この気分の良い光の状態でさぁ撮ってみようと思ったら、もう日が翳っていたなんていうのはざらにある。そうなるとフィルムに定着させようと目論んだ光が再び顔を覗かせるのをその場で立ち尽くして待ったりするわけだ。
こちらの行動のリズムは乱れるし、そういうのは本当に苛つかせる。

棚倉へは電車の車窓から見えた、もっと別の得体の知れないものを撮りに降りたんだけど、地下道を通って反対側に行ってみると、撮ろうと思っていたものよりもはるかに変なものが目の前に現れて、結局駅の反対側の広場で見たこの奇妙なぐるぐるチェアーの虜になってしまった。このぐるぐるの真ん中を通ればどこか別の時空にでも飛ばされそうだ。
他にもさらに二三枚角度とカメラと日にちを変えて撮っているものもあって、その別角度のぐるぐるチェアーの写真はまぁ別の記事に水増しして載せようと思っている。
それにしてもこの椅子はバスかなんかの待合なんだろうか?わたしがカメラ持ってこの周りをうろついていた時は子供が座り込んでゲームをしていたのに出会ったくらいで、バス待ちの人とか一人も見なかった。

棚倉は目的無しには絶対に降りようという気を起こさせない辺鄙な駅にみえて、木津川アートのイベント時には開催エリアの一つになっていたから、こういう目立つオブジェは誰かが写真に撮っていそうだなぁ。っていうかこれひょっとして木津川アートの作品なのか?

二枚目のはフィルムを巻き忘れて意図しない二重写しになったもの。暫くぶりで使ったピジョンフレックスはあまりの単純な構造ゆえの失敗をいくつかやっている。
ピントを合わそうと思って隣にあるフィルムの巻上げノブをまわしてみたり、レンズキャップ代わりに被せていたモノクロ用の黄色いフィルターを取り忘れて、カラーフィルムを仕込んでるのにシャッターを切ったり。
もうね、あまりにもへまなことをやっていたから、途中でこのフィルム破棄してしまおうかと思ったんだけど、普通に写せたものも混じっているからとにかく最後まで撮りきって現像に出してきた。フィルムを巻きすぎたようなのはどうにもならなかった一方で、黄色フィルターを付けたまま撮ってしまったのは薄い色被り程度でわりと普通に見られるような出来になっていた。
こういう巻き上げるのを忘れて二重で写してしまうのはこの手のカメラではむしろ当たり前のようにやってしまうので、ミスとしては凡庸なものになるかも。同じミスをするにしても、思いがけない結果として結実するようなミスをやってみたい。

ピジョンフレックスはヤシカがカメラメーカーとして活動していくきっかけになったようなかなり古臭い二眼レフなので、古臭いカメラによくあるように撮影の細々としたことにはちっとも親切じゃなく、使えばいろいろとストレスになるのが予測できてなかなか持ち出せなかった。、
フィルムをセットしたのが去年の2月でこの時はセットしただけで放置、その後始めて持ち出したのが真夏の真っ只中の8月の大阪で、でもその時も一枚撮っただけで秋も深まるところまで再び放りっぱなしなんていう使い方になってしまっていた。
なにしろシャッタースピードは最高速が1/200秒しかないんだよ。ファインダーだって昼間の幻燈くらいにしか見えない。今のデジカメが当たり前と思ってたら、この使い勝手にはちょっと吃驚するだろう。
そして持ち出すたびに、間が開いてるものだからそのカメラの撮影リズムを忘れて、こんな失敗ばかりしていたというわけだ。
レンズは富岡光学のトリローザでトーンの描写に秀でて、かなり良いんだけどなぁ。少なくともこの見えないファインダーは何とかならないものだろうかと思う。
三枚目のはノーファインダーで撮ったし、ノーファインダーの導くものには興味はあるけれど、ファインダーに呪縛されてみようと思ってよく見えないと云うのは、これはこれで嫌気が差す。