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知覚の地図Ⅷ 夜が耳欹てるしじまの音

斜光





夜の木





孤立光
Nikon Coolpix S9700

日焼け予防も兼ねているのか小池都知事のものはサイズ大きすぎだと思うけど、おそらくその都知事の様子や政府支給マスクが後押しする形となって、気がつjけば布マスクの存在感が際立ってきた。サージカルマスクが手に入らないからもうこれしか選択肢がないし仕方なくつけているという状態から、買えないマスクなんてどうでもいい、布マスクで十分、こっちのほうがいろいろ遊べて楽しいなんて云う風に、なんだか知らない間に意識変化を起こしてきているようだ。布マスクが使い捨てマスクの不本意な代替手段じゃなくて、それ独自の選択としての存在感を持ち始めている。
わたしもその風潮に図らずも乗ってしまったような形で、後追いでニューヨークでも布マスクが無料配布されたなんて云うニュースを見るにつけ、いまだに到着しない政府支給マスクの、いつものごとくスピード感を欠いた役人仕様に苛立ちながら自分でも作ってみたくなった。いろいろと調べてみると意外に簡単にできそうなのも気分の後押しになっている。
でも工作意欲を刺激されたからと云ってマスクが好きなわけじゃない。海外の人もつけ始めて日本のマスク文化が広まっていってるなんて云う人を見かけたけれど、装着した存在を別次元へと押し上げる仮面のようなものならいざしらず、顔をひたすら隠すだけのこんなもの、これから犯罪を犯そうとしている者が大っぴらに人相を隠せると大歓迎するくらいで文化でも何でもないだろう。こういうものをつけなくても出歩ける世界がまたやってきてほしい。
まぁそれはともかくとして、マスクを自分で作るにはまずはミシンがいるだろうということになって、2万程度で名の通ったミシンメーカーのものという基準で探してみると、ブラザーの初心者用のミシンに条件に合うものが見つかった。慣れればほかのものも作りたいという野望も抱く一方で、隅々まで使い倒せるかどうかの自信はない。でもおもちゃのようなものも嫌という選択肢にかなってそうなミシンだった。ちなみにLDKで2万円以下のミシンのランキングでは一位を取っていた機種でもある。
ところが、これだ、これに決めたと意気揚々と注文しようとしたら、これがまた予想外の大きな壁にぶつかってしまうことになった。知らなかったんだけど、今ミシンってマスク並みにものすごい品不足になってる。重いうえに送料だってかさむから転売屋が暗躍しているとも思えないし、本気の品不足なのか?リアルショップでは注文しようにも在庫切れ、入荷未定の表示ばかりだ。
ネットだと楽天とヤフーショッピング、両方に店を出しているミシンショップでこの機種の注文を受け付けているのを見つけ、しかも即日発送で値段もそれなりに安かったのでここで注文することにした。ところが注文する段になって、ここでまた結構大きなハードルに突き当たることになる。注文受付開始時間にカートに入れようとしたんだけど、多少注文内容の確認をしてカートに入れるボタンをクリックしただけなのに、受付開始からほんの十数秒でもう売り切れの表示しか出てこない。この店の注文は休日を除くほぼ毎日同じ時間に開始となっていて、その日しくじっても翌日に同じチャンスが用意されてる。ひょっとしたら一日一台くらいしか扱ってないんじゃないかと思いつつ、毎日用意されてるそのチャンスを渡り歩いて数日間、注文完了までの時間を短縮する工夫を重ねてようやく最後までこぎつけることができた。最終的に注文できた経過時間は開始から2秒だった。ミシンはなんとか注文できたけど、ミシンでこの有様だから当然マスク用のガーゼもどこにも見当たらず、ついでにミシン糸なんかも入手困難となって手芸屋の商品リストはまるで絨毯爆撃でも受けたかのように一面焦土と化している。まぁ生地のほうはガーゼに拘らなければわりと何とかなりそうではあるけど。
手芸店での品不足はマスクを作って寄付するというのも流行っているらしくそういうのも一因になっているとか。こういうのを多分に自己満足的な善意の押し付け、善意なら非難される筋合いはないという錦の御旗を掲げ、勝手な了解のもとにわがもの顔で練り歩く、質の悪いもののようにしか見えないのはわたしがおかしいからなのか?
ほかにもマスクからの衝撃波が広がるようにいろんなものが手に入らなくなってる。今本気で困っているのは薬用のハンドソープが完全に店頭から消え去ってしまったこと。なにしろわたしの難病では毎日座薬を使うので消毒要素のあるハンドソープはもう本当に欠かせないものになっているのに、これがどこにも見当たらない。かろうじて本体なしの詰め替え用の薬用ハンドソープを見つけてとりあえず買ってみたものの、これを入れるための汎用のポンプ式ボトルがこれまた店頭から消えてしまってる。買った詰め替え用は泡のハンドソープじゃなかったので入れ物が見つからなければドレッシングのボトルにでも詰めて使おうかなんてことも考えてる。
そういえば、ブックオフのショーケースから中古のプレイステーションも、PS4まで全世代の機種が見事に消えていた。わたしは巣籠期間中の現在、ゲーム三昧とミステリまみれの生活になっているけど、プレイステーションは2と3を所持し、3のほうで初代と3のソフトを遊ぶという形で初代から3までカバーして、店頭からPSが全部消えてしまってもそれほど不自由はしていない。現行機種の4にはいまだに手を伸ばしていない。プレイステーション4は現行の機種ということもあって中古でもソフトが高すぎて手が出ないんだなぁ。FF7のリメイクとか遊んでみたいのがリリースされてるから興味はあるんだけど。
なんだかなにもかもが、誰かが何か一言でも云ったり、あるいは転売屋の悪意ある行為ひとつで大群衆が移動、殺到するという構図が出来上がりつつあるようで、こんなことが重層的に発生し続ければそのうち社会そのものが崩壊してしまうだろう。



Grant Green Trio live

グラント・グリーンにこんな演奏動画が残っていたなんてちっとも知らなかった。ケニー・バレルとバーニー・ケッセルの三人でのセッションの短い動画しか見たことがなかったし、噂ではグリーンの演奏の様子を伺い知れるものはほとんど現存していないということだったから、こういうのが残っているというのはちょっとした驚きだった。音源だけで聴いているとどちらかというと泥臭い、ひょっとしたらコード弾けないんじゃないかとも思わせかねないシングルノートのヘタウマギタリスト寄りの印象だったんだけど、こういうのを見ると手癖で弾いているようないつものファンキーなフレーズの演奏を見せながらも、意外なほどストイックでクールと、印象はずいぶんと違って見えてくる。闇の中から浮かび上がってくるようなイメージのトーンがしっくりと馴染んでいる。


何度目かのブロッサム・ディアリーの「Now At Last」名曲なのにカヴァーしている人がほとんどいない不幸な曲。


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知覚の地図Ⅶ 新型コロナでいろいろ考えたこと。 ガラス瓶を使ったライトの工作。

花の隙間





挟み込まれる黄色





三色





円円
Konica EYE / Ricoh AutoHalf E / 写ルンです / Fuji Cardia Travel mini DP
Kodak SG400 / Lomography Colornegative 400


非常事態宣言の発動によって各地で外出自粛とか進行中だけど、京都の祇園祭、これどうするのかな。っていうか今の状態だとまず無理か。京都で疫病が流行った時それを駆逐するために始まったお祭りなのに、何はさておき今年こそが絶対に開催するべき状態になってしまっているのに、結局は新型コロナに対する素戔嗚尊の敗北宣言をすることになるんだろうなぁ。今現在八坂神社には茅の輪が設けられている。この異常事態を表すかの如く、期間を外れての設置は143年ぶりのことらしい。

新型コロナも危機的な状況になりつつあるけど、ネットでこれに関するいろんな発言を読んでいるともうコロナヒステリーとでも言っていいような言説が乱れ飛んでいて、若者の代わりに年寄りが死ねだとかいった命の選別まで平気でやってしまいそうな、あるいは給付金をもらえる人への妬みだとか、人のあさましい感情、敵意が溢れ出さんばかりの様子にむしろこっちのほうがさらに危機的な感じもしてくる。日本人ってこんなに偏狭な正義感を振り回して、それに合致しないものを悪意そのもので糾弾してうっ憤を晴らすような、そんな下種な民族だったのか。その余裕のなさにもう心底うんざりして、新型コロナ関連の話題を目にするのも嫌になってきた。
なかなか難しいところだと思うけどコロナヒステリーのように総浮足だつ状態で、一番必要なのは冷静になることだろうと思う。それにしてもコロナがいろんな人の化けの皮を剥がしていくとは、これもネットで見た発言だけど、いい得て妙だ。
政府が配布するマスクに関して、これも集団コロナヒステリーの一環なのかなんだか小馬鹿にするような非難が飛び交っている。でもこれは医者の立場から、配布される布マスクの意味について高須幹弥氏が冷静に解説していたのを聞いてみると、その意図についてはよく理解できる。

でもこれは政府がこういう風に順序だててわかりやすく説明するべき内容だった。ただマスクそのものはまだ届いていないのでどんなものか判らないんだけど、ネットでは小さくて役に立たないとか書かれていたりするのは、そういうことを云われるかもしれないと予測もできない政府の詰めの甘さというか気配りの足りなさを目立たせている。
政府にいろいろと思慮が足りないところがあるというのでは給付金に関することでもそうだ。ややこしい条件付きというのがどういう正当な理由をもとにしていたとしても不公平であることは間違いない。減収によって非課税世帯レベルにまで収入が落ちたら救済するなんて、非課税世帯の底なし沼に落ちる寸前で、その淵から足を滑らそうとしているひとの手を引っ張り上げて助けているようなイメージとして捉えるなら、元から底なし沼に沈んでしまっている非課税世帯はいったいどうなるのか。この基準はとっくにはまり込んで沼の真ん中でもうすぐ頭まで沈み込みそうになっている人の溺れつつある様子を、助け上げた人と一緒に淵に立って黙って眺めているようで、この条件を付けた者の視線は極めて冷酷だろう。こういう冷酷さ、基準を離れたものへの冷たい視線は断じて保守の視線じゃない。まるでイデオロギーに準じてそれ以外のものを一切認めない思想をシミュレートしているようで、頭でこねくり回しただけのイデオロギーじゃなくて長い年月培ってきた生活そのものを基盤とし、いざとなれば清濁併せ持つようなフレキシブルな面さえ持てる保守の精神とはまるで相いれないような気配を感じる。
これは、わりと云っている人がいそうに思うんだけど、とりあえず国民全員に一律に給付金を配ってしまい、そしてあとで確定申告の際に調整すると、これが一番シンプルで、何事も即座に行うという今の最重要な条件である速度をも満たしているんじゃないか。でもこの速度という面に関しても日本政府はどのレベルにおいても致命的に欠けている。
とまぁこんなことを書いた数時間後に条件付き30万円案破棄、一律10万円に決定なんて云うニュースを目にすることになった。まともな選択だと思うけどまたすぐに妙な条件をつけたり、プランそのものの変更なんてことにならないだろうな。
もう一つ高須幹也氏の解説から。これも冷静で分かりやすい。タイトルはちょっと刺激的だ。

わたしの難病、潰瘍性大腸炎は原因は不明なれどメカニズムは免疫の暴走と考えられている。この場合免疫がバーサク状態になっているとか強すぎる状態になっていると思ってもいいのか、どうなんだろう。持病を持っている人は新型コロナにつけこまれやすいといわれるけれど、これだったらむしろ免疫は自分の腸まで見境なく攻撃しているほどに強化されてると考えていいのか?まぁ確かめるためにわざと人の多そうなところへ出かけてみるような気はまるでないけど。わたしは中等症で、しかも寛解気味に踏みとどまっているので、基礎的な投薬のみで済んでいるけど、症状が進んでいる潰瘍性大腸炎の患者は免疫抑制剤を使う場合もあり、これはもう文字通り丸裸にされてるような状態だから、今のバイオハザード的な世界の中を歩き回る勇気は持てないだろうなぁ。

ところで先日イギリスの首相が退院したというニュースが流れていた。この人の新型コロナに対する対応として国民に呼びかけている演説はわかりやすく人の心に直接入ってくるような演説だったので印象的だった。ともあれ生還されたことは朗報で、そのこと自体が力強いメッセージになるだろう。


父の確定申告を済ませる。亡くなった人も確定申告をする必要があり、ただそれは収入400万以上という条件付きで父は該当しなかったんだけど、試しに計算してみたら還付金が発生するようだったので、もらえるものがあるならと書類を提出しておくことにした。亡くなった人の確定申告は準確定申告というそうで、追加に一枚、通常にはない書類が増えている。増えた書類には役所に提出する書類の常でよく判らない項目が二つあった。二つとも相続に関することで一つは法定ー指定と二つのうちから選ぶ項目の下に、真ん中に横棒を一本引いた四角い記入欄がある。もう一つは相続の総額だったか、これは記入する欄の最後に「円」が印刷されていたのでおそらく金額を書き込む欄なのだろう。総額のほうは金額を書くんだということは理解できるが、父が亡くなってからそういう金額が話題に上ったことさえなくて、金額そのものがまるで判らない。もう一つのほうは何を書けと要求されているのかさえもさっぱり判らない。横長の長方形の枠の真ん中に横棒が一本引いてある欄って、これは一体何なんだ?
のちになってこの横棒の枠の意味合いは判った。指定というのは遺言があった場合で法定はそれ以外。横棒の欄は複数の相続人がいた場合それぞれに対する相続の配分を記述する欄で、たとえば1/2とか1/4とかを書く欄だった。この分数の横棒だけが枠の中に印刷されていたということだ。横棒が一本引いてあるだけの欄から、こんなの判るわけない。
両方とも書きようがなかったので空欄のまま一応税務署の相談コーナーで尋ねてみると、空欄はあったものの書類に不備はないということで、その場で提出することができた。
もう一つこのところやっているのは同じく父のことで、父が会員だったゴルフ場の退会に関する手続き。ゴルフ場の会員権は売買することもできるんだけど、父が会員証書の類を一切知らせておいてくれなかったので、どこかにしまい込んであるのかあるいは認知症のせいでわけもわからずに捨ててしまっているのか、会員だった証になるものを何一つ見つけることができすに、結局売ることは断念して退会するほうを選択するしかなかった。なぜ証書の類を見つけるまで決定を先延ばしにしなかったかというとゴルフ場の年会費を払う時期が間近に迫っていて、これがまた4万ほどの結構な金額になるから、その請求が来るまでにもともとわたしとは何の関わり合いもなかったゴルフ場との関係を切っておきたかったからだ。
それにしてもゴルフ場の事務って、あらゆる場面に実印を要求してくるんだなぁ。証書を紛失していることの喪失届も実印、しかも連帯保証人をつけろといい、その連帯保証人の実印も要求してくる。実印なんてめったに押すものじゃないという認識だったので、こんなに簡単に要求してくることにかなり戸惑う。父の生命保険の解約とか年金の未払い分の支払いとかでも普通の認印しか要求されなかったのに。

最近ちょっとした工作にはまっている。細工する部分はほとんどないので工作とまで言えるほどのものじゃないかもしれないけど、貯蔵用の大きなガラス瓶を使ったランプ風の置物だ。ネットで作り方を見たもので、入れ物となる瓶や材料は全部100均で手に入る。レバー式のガラスポッドの蓋の裏に、庭なんかに刺しておくと夜になったら光りだすソーラーライトの頭の部分だけを取り外して両面テープでくっつけておくだけ。ポッドの中にドライフラワーでも入れておけば夜になるとドライフラワーを柔らかく照らすランタン風の置物になる。採取されて特権化したものはガラス瓶に封じ込められることで、さらに際立つ存在に見え始める。採集されたものの二重の特権化というか、ジョセフ・コーネルの箱に通じる何かがあって、コーネルの箱好きとしては結構長い間眺めていても飽きないオブジェとなる。
ドライフラワーポッド
ドライフラワーは別途入手しなければならないと思う。たとえドライフラワーの作り方を知っていたとしても、素材となる花や果実を身の回りのもので間に合わすには種類が少なすぎて、珍しそうなもの、ドライ映えするようなものは結局どこかで買う以外にないだろう。あと、ソーラーライトはメーカーによっては明らかに暗いものがあった。これは店で実際に点灯してみて確かめたほうがいい。
ちなみにドライフラワー以外はガラス瓶250円、ソーラーライト100円、強力両面テープ(黒色)100円の出費となって、すべてダイソーで入手している。

さて写真のほうはというと、潰瘍性大腸炎はそれなりによくなった状態を維持していて、カメラ片手にさ迷っていた見知らぬ街角で急におなかが差し込んできて10数秒後には大惨事が避けられないなんて云う状態にはほとんどならなくなっているので、写真を撮りに出かける気分は盛り上げていけるんだけど、この自粛の嵐の中でそういう気分を発動させるのもままならなくなっているというところか。それでも撮り終えたモノクロフィルムが2本、今手の内にある。そのうちの一本はカメラを落として蓋が開いてしまい、どんな状態になってるのか予想もつかなくなっているもので、こっちは早い目に現像に出してどれだけサルベージできるか確かめてみたい。でもこれを現像に持っていきたいと思っていても、町中に出ていくのがどうにも躊躇われる。フォトハウスK、無事に店開いてるのかな。

あと美容院もそろそろ行きたい。いつもやってもらっている美容師の人、新型コロナになってないだろうなぁ。電話してみて店が潰れていたりしたらどうしよう。







知覚の地図Ⅵ 甲斐田楽 / 頭部MRI検査のこと + そして村上龍「半島を出よ」を読み終えたこと = The Shaggsで関節が外れること。

風圧の旗





階層立体





隠された甲斐田案の家
Olympus XA2 / Ricoh Autohalf E
Lomography Colornegative 400

数日前に頭部MRIの検査。潰瘍性大腸炎の診察の時に、このところ少しめまいの気配があるなんてことをしゃべったら、こういう検査をする羽目になった。いわゆる閉所恐怖症には鬼門の検査だ。といっても検査自体は初めての経験だし、自分が閉所恐怖症なのか自分でもいまいちよくわからない。ディセントだったか、地底洞窟の細い裂け目を潜り抜けていくようなシーンがてんこ盛りの映画で、こんな裂け目で体が詰まって前にも後ろにも動けなくなったらと想像すると嫌な汗が出てきそうにはなったが、映画は明示的にそういう嫌な汗をかかせるようなシーンだったのは明白で、おそらくこういう感覚は誰にでもあるもの、私だけが特に岩の裂け目にはまって動けなくなることに極端な恐怖を感じるわけでもないだろう。と、未知なるものへの多少の身構え程度で検査へ挑むことになった。巨大なドーナツのような輪っかの機械をくぐる検査は以前にやったことがあるんだけど、あれはCTで放射線を使った検査、今回のこれは磁気を利用した検査で検査機器の見かけはよく似ているんだけど仕組みはまるで違うらしい。
機械の中に体の半ばまで入り込んでみると感覚までCTとはまるで違うのが即座に理解できる。かなり目の前近くを機械の内壁が通り過ぎていく段階で、妙な圧迫感に纏いつかれて、自分は閉所恐怖症じゃないと思っていたことになんだか自信がなくなっていく。もうこの段階で早く終わらないかなと目を閉じて心ならず我慢しているような気分になった。そして少しの猶予の後、いきなり耳元で大音響の騒音が鳴り響き、それが奇矯なリズムを伴って延々と続くようになる。検査開始だ。喧しい検査だとは聞いてはいたけどこれほどの騒音を垂れ流すとは思わなかった。とてもじゃないけど病院の機械が出すにふさわしい音とは思えない。耳元で削岩機を稼働させているような爆音の騒音がいつ果てるともなく続いて、目を閉じていると意識がその轟音の地平へと溶け出して大騒音と混じりあって限りなく不定形に広がっていくような錯覚に囚われそうになる。体の輪郭があいまいになって、そのたびに機械の外に出ている掌で自分の体に触り、ここに検査機に体半分突っ込んだ自分が横たわっているのを確認して、溶けだしてしまいそうな意識をつなぎとめているという、そんなあまり体験したことがない苦痛の時間が続いた。これは閉所恐怖症の人が途中で出してくれとわめきだすのも理解できると思った。めまいがするというので受けさせられた検査だったけど、めまいが生じている最中にこんな検査を受けていたら絶対に悪化していたと思う。苦痛の度合いで云うと、15分ほどただ検査台の上で寝ていただけなのに今まで受けたいろんな検査の中ではトップクラス。下剤を飲んだりという面倒さでは大腸内視鏡のほうがはるかに上だけど、もうやりたくないと思わせたのは確実にこちらの検査だった。

先日、村上龍の「半島を出よ」を読了。最初に出版された時に、北朝鮮の軍隊が福岡を占領するなんて、きな臭そうな話だなぁと興味を持つものの、あまりの登場人物の多さとその名前のカタカナの大行列に恐れをなして手つかずのままになっていた小説だった。それをようやく手に取ってみたわけだけど、これだけの世界を構築するのに必要だったとはいえやっぱりこの登場人物の入り乱れるような多さは手強く、結局最後まで巻頭の登場人物表は手放せなかった。とはいうものの物語の強さがそういう煩雑さをはるかに超えていて、結局物語の圧倒的な強度で最後まで読ませてしまう。
物語の強度を下支えしているのは云うならば「七人の侍フォーマット」といったものだろう。圧倒的な規模の北朝鮮侵略軍に、カリスマとは対極にいそうなイシハラのもとに集ったアウトローの少年たちのコミューン、イシハラグループが策略をもって対決するといった変形型「七人の侍フォーマット」。対決するイシハラグループは特殊な知識、技量を持つものがいるとはいえたった二十人ほどの素人の集まりで、従来的な組織の基盤にあるような何かの名目のもとに強い結束力で結びついているわけでもなく、イシハラがいうようにここにいるのも出ていくのもすべてお前の自由だというようなコミューンである一方、相手にする軍隊は鍛えられ装備も整ったうえに兵員の規模は300人に近いという、この絶望的な差をどうやって覆すのか、こんな状況を巡って進む物語が面白くならないわけがない。
物語は二つの軸に沿って進む。一つは北朝鮮侵略軍、物語の中では北朝鮮との関係を表面上断つために、北朝鮮反乱軍という名目で高麗遠征軍と称しているが、その北朝鮮の軍隊の目を通して現れる、いわゆる外部からの視点による現代日本の脆弱極まりない様相と、その外部の視点を説得力のあるものとして形作るための北朝鮮の多角的な描写から成り立っている軸。北朝鮮の視点といっても村上龍は北朝鮮で生活しているわけでもないから北朝鮮人が見る形をとっている村上龍の日本観ということになるんだが、その視線を通して現れるのは、人質を取られただけで右往左往し、テロリストに対してまずとるべき方策、これは物語中でも述べられている通り服従するか殲滅するかの、結局はシンプルな選択になる以外ないんだけど、その一番根本にある態度さえも決めかねた結果、相手が何者であるかも定位できずに何一つ有効な選択肢を採用できない日本政府の醜態だ。小説の中だけじゃなく、リアルな日本もまさにそんな風じゃないかと思わせる。人を最も効果的に支配し服従させる手段としての恐怖や暴力の使い方を熟知し、その目的のために、ためらいなく行使できるよう冷徹な相手に対して、人の命が世界で一番重いなんていう考えはほとんど足枷にしかならず、迫られた覚悟をわがものとしない以上、ただ立ち尽くし思考停止に陥るばかりだろう。またこの物語の中で描写される占領下の福岡の人の占領されたことに対する態度も、臭い物に蓋をするように福岡を閉鎖しただけであと何もやらない、あるいはできない日本政府への見限られたことに対する反発もあって、必ずしも抑圧された生活のほうへと進まずに、むしろ占領した北朝鮮軍に馴染んでしまうというのも、その生活人としての割り切り具合やしたたかさに、いかにも占領下のリアリティがあるんじゃないかと思った。でも小説としてみると膨大な資料に裏打ちされている分この軸はやっぱりどこか展開にもたついているところがある。おそらく誰もが登場人物の名前で苦労すると思うけど、政府の対策会議のシーンとか、ここにしか出てこない閣僚、官僚なんかが大半なので、あえて名前を覚える必要もないかもしれない。
そして物語を構成するもう一つの軸。こちらはこの侵略してきた大軍隊に戦いを挑むアウトローたちの生きざまを巡る様々なエピソードによって成り立っている、アナーキーなパートだ。北朝鮮の侵略に対して立ち上がるのはこのお話では自衛隊じゃない。物語として圧倒的に面白いのは情報小説的、政治シミュレーション的なポリティカルフィクションの軸じゃなく、この孤軍奮闘する後者の少年たちの戦いのほうだ。特に下巻後半の、北朝鮮侵略軍との戦闘開始以降の章は、その疾走感が半端なく、スリリングな描写を積み重ねてページを繰る手を止めさせない。意外なことに、硝煙の煙と爆風と吹き飛ぶ肉片の中で目を覆うようなシーンが幾層にも積みあがっていくのに、この章のタイトルはイシハラグループの一員、カネシロが放った言葉からとられて「美しい時間」と題されている。シーンの臨場感もそうだけど、このハードな外装のもとで命も何もかもが区別なく一瞬にして消え去っていく儚さを、これが世界の定理だとでも云うように見出して、こういう言葉を持ってこられる言語感覚もかっこいい。わたしはテロルのことのみを考え続けていたカネシロが極限の状況で見出したような、自分にとって美しい時間と明言できるほどの時間に出会ったことがない。いつかどこかで自分にとっての美しい時間を見出して「美しい時間は短いに決まってるじゃないか」なんて言うセリフを自分でも達観したようなそぶりで言ってみたいものだ。
このところ命の価値は長さだけなのか?とか、自意識は人にだけかけられた呪いなんだろうとか、そういったことがよく頭の中を巡っている。そういうわたしの頭の中にこのイシハラグループの言動と顛末は木霊のように響いてくる様々な音響を内に含んでいるようにも感じる。
たとえばイシハラグループの一人がこの最後の戦いのさなか、死の瀬戸際に追い詰められてこう思う。「これが死か。全然怖くなかった。自分の代わりは他にもいると思った。イシハラのところで得た経験によると自分の代わりはどこかにいて、自分は決して特別な存在ではない。自分が絶対だと思っている人は死に向かい合ったとき恐怖で錯乱するだろう」世界で一つだけの花がどうのこうのというような歌があるが、そういうのとは全く真逆の存在観だろう。世界に一つの花へと孤立させてそれが良しとする世の中でこういうことを言い切ってしまえるのはどこか風穴が開くような、解き放たれた感覚を覚える。もっとも代替不可能な唯一の存在となった村上龍がこういうことを言ってしまうのはちょっと鼻白む感じはするけど。
あと、エピローグのある印象的なシーンでイシハラグループの少年たちの名前が初めて漢字で記される個所がある。それまでヒノだとかトヨハラだとか全編カタカナで記されていたのがどこか非現実の世界であり神話的な感触を与えていた反面、ここで初めて自分と同じ地平に立つ者たちとして生々しい存在感で迫ってきて、これが思いがけず泣かせる。こういう言葉の使い方、ただ一か所に漢字を使うというだけである種特別な感情を引き出してみせるのはやはり作家の感性の発露なんだろうと思う。

それにしても純文学から出てきてこの下巻のようなエンタテインメントもきっちり書けるというのは強みだろうなぁ。殺傷用ブーメランを操るタテノとか毒虫使いのシノハラとか、もう二,三歩極端な方向に踏み出していたら山田風太郎だもの。上巻のような何らかの現実的な情報をもらえそうな、そういう何かを得るための道具として小説を読む人には、この下巻のある種荒唐無稽さに失速してしまうかもしれない。
わたしはこういうの大好きだ。むしろ上巻の大量の資料を駆使してリアルに侵略の様子を描いていく部分は、この下巻の少年たちの活躍を見せきるための迫真の舞台作りだと捉えるような読み方をしていた。
聖戦の宴が終わって一つ残念だったのはこのブーメランを操るタテノがあまり活躍しなかったこと、上巻のほぼ最初から登場して主役級の謎めいたオーラを放っていたのに。話を進めるにつれてブーメランの使いどころを見失ってしまったか。






My Pal Foot Foot - The Shaggs

MRIのインダストリアルミュージックを思い起こさせる暴走する大騒音とはまた違った居心地の悪さ、関節が外れたような異界へ連れ去ろうとする、逸脱する音楽。一口で云えばへたくそなんだけど、そのへたくそぶりが上手くなることを目指している過程のへたくそさじゃなくて、こっちのイメージしているへたくそさとはまるで次元の違う方向へ暴走しているのが面喰う。このレベルでレコードを作ってしまったのが本当に凄い。どこかで読んだ話によると、どうも本人たちよりも父親が熱心だったようで、この父親の熱意がなければレコードとしてはこの世界に存在することもなく、ある意味奇跡的なこの音楽は私たちの耳にまで届いてこなかっただろう。「半島を出よ」風にいうなら、何をなすのもすべて自由だとでもなるのか、イシハラグループのあのはぐれもの集団のように、理解されようと多数のもとに寄り添うつもりもなく、また逆にへたくそであることに積極的な意味づけをするつもりもなさそうなこの有り様が潔い。実にあっけらかんと悪びれもなくへたくそ。ヘタウマなんて言う言葉も簡単に跳ね返してしまうだろう。フランク・ザッパはビートルスよりも凄いといったそうだけど、そういう評価の仕方は逸脱に対する従来的感性による言説で、ありきたりすぎてつまらない。



ちなみに何枚かアルバムをリリースしていて、最初はこうであっても回を重ねるごとに、おそらく本人たちも意図しない形で手慣れていくというか、上手くなっていく。ところが手慣れて良くなるかといえばこのバンドに限りはそうじゃなくて、上手くなるほどに楽園から追放されたかの如くつまらなくなっていくのが衝撃的だ。



知覚の地図Ⅴ / Heinz Burt

回転残像人間痕跡





骨






色彩の告知





網花





団地池
2020 / 01
Last Camera / Lomography Color Negative 400




      でもそうじゃなくて、一人の人間が死ぬことでその人がその中にいて見続けていた世界そのものが消滅する。その人にとっての世界はその人が死んだ後も存続するようなものじゃなくて、その人の死と同時に世界そのものが跡形もなく消え去ってしまうということ。要するに永続する世界の中の一人の死というんじゃなくて一人の死による一つの世界の全死となる。そこではその人が見ていた、その人にとってのわたしも同時に死ぬ。わたしは他者が死ぬことにおいて不断にわたしの死を経験していくことになるだろう。死んでしまった本人にとっては自分がそこにいた世界も同時に死滅してしまうわけだから、ある意味子気味いい。後腐れがないし、あれを残しておいて誰かにみられたら恥ずかしいなんていうことを憂慮する必要もまるでなくなる。
四十九日を過ぎてわたし自身が巨大な空虚になってしまったような感覚は今も続いている。生きているものはおそらくほとんどが最後はああいう風になってしまうんだとか、自分の病気のことだとか、これから自分はどう生活していけばいいんだろうとか、父が認知症で崩壊していくのを見続ける苦痛からは解放されて一息つけるようになった反面、そういう寄る辺ない思いに捉われて考え込むことが多くなり、意図的に自分を奮い起こさないと何もする気が起きないし、なによりもなんだか一日中眠い。人間の形をした暗い穴のようなものにでもなった気分だ。でもそういう気分でい続けることも現実は許してくれなさそうで、時は着実に進み、今もいろいろと煩雑な手続きが行列をなして早く終えてしまいなよと云わんばかりに待ち構えている。現時点でまず法務局に行かなければならない手続きがあるんだけど、行ってみれば受付のお姉さんが懇切丁寧に案内してくれるとは分かっていても、何か物々しそうなイメージで腰が引ける。また死人の確定申告もしなければならないなんてここにきて始めて知った。

写真はラストカメラで撮ったもの。今年になってから病院の面会に使っていた時間がすっぽりと空いてしまった分を、一緒に面会に行っていた姉の家に遊びに行くことで埋めていて、その折に撮っていた写真だ。木幡の姉の家の周囲で撮る程度ならば、今の体調でもかろうじて可能だ。ラストカメラは自分で組み立てるプラモデルカメラの一種だけど、ひとコマ巻き上げると自動でシャッターチャージもできるといった手の込んだ機構も一通り揃っていて、出来上がったカメラは自作のものとは思えないほど本格的なものになる。その分組み立ては煩雑だったけど。特徴は標準と広角の二種類のレンズがついていて、フィルムがはいっていない時だけという条件付きでレンズ交換が出来るというのと、光線引き用の穴がついているということ。スライドスイッチ一つでこの光線引きを意図的に作れるという仕掛けがこのカメラの売りだ。でもせっかくのユニークな仕掛けなのに、仕組みは一箇所にピンホールが開いているだけという単純なものなので、光線漏れの形がランダムにならずに単調すぎてあまり使い物にはならない。ランダムな光線漏れを引き起こすには一瞬だけ大胆に裏蓋を開けるとかしたほうがいいかもしれないけど、加減が難しいだろうなぁ。
これを撮り終わった後、去年フィルムを入れたままになっていた、35mmレンズつけっ放しのFM3Aで撮影を再開している。さらに最近コンパクトカメラのオリンパスXA2にも、こっちは久しぶりにモノクロフィルムを詰めて、二刀流の形にした。XA2は35mmレンズなのでFM3Aのほうはつけっ放しだった35mmを28mmにでも交換してみようか。ちなみにXA2につめたモノクロは使用期限が2015年のものだった。冷蔵庫に入れっぱなしで、そんなに長い間使っていなかったんだと自分でも吃驚だった。ということは自家現像も最低でも5年くらいはやっていないということになって、おそらく薬液は全滅だろう。でもコンスタントにフィルムを消費できる体調かどうかなんてことを考えると、安いものとはいえ薬液をまた全部そろえるよりはここは大人しく現像に出したほうがいいかもしれない。フィルムの現像は手作り感があって面白いんだけどね。

Live It Up

ザ・トルネイドースの白髪のベーシスト、ハインツ・バートが歌う曲。これはソロになってからのものだと思う。ハインツ・バートはザ・トルネイドースのテルスターのPVの、一番前に陣取ってなんだか不敵な笑みを浮かべて演奏しているのが、白髪とともに妙に印象に残ったミュージシャンだった。
これはLive It Upという音楽映画の1シーンで、登場人物の顔ぶれが面白い。ハインツ・バートの後ろでギタリストを演じているのが、この数年後にミケランジェロ・アントニオーニ監督のスタイリッシュな映画「欲望」でブレイクすることになるデヴィッド・ヘミングスだ。ドラマー役が後のスモール・フェイセスのスティーヴ・マリオット。ベース役のジョン・パイクは60年代のほかの映画に多少姿を見る程度で、その後どうなったのかは情報がほとんど取れずによく分からないんだけど、他の三人に関しては既にもうこの世の人じゃない。ハインツ・バートは70年代には既に音楽の分野から引退していたりして、映像の若々しさがその後に積み重なった時間の層を実感させる。この映画に登場するほかのバンドでは、見ているとMPでも吸い取られそうな妙な腰振りダンスをしながらギターを弾いているリッチー・ブラックモアなんかも見られる。ミッチ・ミッチェルも子役で出ていて、有名になってからしか知らないものだから、最初はみんなこういうことをやっていたんだと色々と興味深い。
ハインツ・バートは白髪と流し目ぽい視線とか目つきが印象に残っているミュージシャンなんだけど、この映画のシーンでの視線の彷徨い具合はとりわけ目立って特徴的だ。あちこち落ち着きなく視線を移ろわせているんだけどなぜかカメラのほうには絶対に向けない。落ち着きのなさの中に垣間見えるこの頑なさが何かちょっと異様だ。
The Outlaws (featuring Ritchie Blackmore) - Law And Order

腰を振る、まるでイメージの違うリッチー・ブラックモア。

Live It Up ! 1963

映画全体はこういうのだけど、字幕がついていないので演奏シーン以外はさっぱりだ。

The Tornados - Telstar





知覚の地図Ⅳ

逆ハート





緑のホース





家路





丸い




踏み切り
Konica EYE / RIchoh Auto Half E / 写ルンです
Fuji 100 / Lomo 400

グラフィカルでポップでキュートでシュールと、そろそろ違う感じのものも撮ってみたいと思いつつもいつもの如く目指すのはこの辺りだ。これにくわえて寡黙さもめざしているのにこれは毛の先ほども実現できずというところか。云うことなど何もないのに云いたそうな気配だけは立ち上っている。最後のは冥界に通じていそう。
今年になって始めての更新。喪中でお正月も出来なかったしちっとも盛り上がりのないままに時間が経過していった半月だった。そのわりに低空飛行を続ける気分のままに葬儀後のいろんな事務処理に引きずりまわされて、それはいつまでたってもまだ始まったばかりのように遅々として進まない状態のまま、なんだか気疲れのみを重ねていくようにわたしを翻弄している。みんないいようにこれをやれあれをやれといってくるけど、わたしは難病なんだぞと、そんな人間を引きずりまわして楽しいのかと文句の一つも云いたくなる。もっともこれだけストレスをかけられて潰瘍性大腸炎は絶対に再燃すると覚悟していたのに、今のところそんなに酷い揺り戻しもないままに平穏状態を何とか維持している。意外とわたしは神経が図太いのか。
まぁそれでもこの半月のことをちょっと書き記しておくと、孤独のグルメの年末スペシャルを見ようと思っていた大晦日、なんと関西での放送局であるテレビ大阪のみがわたしのテレビでは受信できないという呪われたような大トラブルのせいで見ることも出来ないまま、潰瘍性大腸炎では蕎麦は食べないほうが良い食品になっているせいで年越しうどんなんていう得体の知れないものを食べて年越し、年を越してすぐの真夜中に買い忘れていたおやつでも買いにいこうと思って近所のコンビニに行けば、顔を知られてる店員にいきなりあけましておめでとうございますと声をかけられ、ふいをつかれて喪中なのに思わず明けましておめでとうございますと返事をしてしまったことから新しい年が始まった。結局お正月の間新年の挨拶をされると、喪中であることを説明するほどでもなければ、そのうち面倒臭くなってそのまま挨拶を返しまくっていた。フォトハウスKでもそうで、本当に久しぶりにフィルム一本最後まで撮り終えて現像を頼みに行ったらここでもお正月の挨拶。病気だからなかなか写真撮りに出かけらずに、あまりこれなくなってるとは云ってあったけど、喪中を理由に挨拶拒否するのもなんだか躊躇われてしまった。大晦日に見逃した孤独のグルメは元旦にはもうネットにアップされていて一日遅れで見ることができたんだけど、韓国特集のような内容で、お正月に反日国家のことなんかなにが悲しくて見ていなくてはならないのかと興ざめもはなはだしく、ドラマ中に三度あった食事シーンも三度とも最後には全部のおかずをご飯の上にぶちまけてまぜまぜして食べるなんていう汚らしい食べ方を見せられたのにも閉口。フライパンにのせたまま客の前に出したり、ステンレスの容器によそって平気なご飯の出し方も、それは厨房限定の調理器具だろうと思うとまるで美味しそうに見えなかった。主人公の井之頭五郎は西洋の雑貨輸入業で韓国とは直接関係がないものだから、通りすがりの人物とぶつかった時にその人物の持っていた茶器を割ってしまい、その代用品を韓国へ探しに行くなんていう取ってつけたような理由で韓国行きの方向へ持っていっている。茶器に何の意味もないのは結局韓国で立ち寄った店の店頭ワゴンに二束三文で売っていたのを見つけてそれでお終いだったというのでもよく分かる。ついでにワゴンセールの茶器をありがたがっている日本人はセンスがないとでも云いたいのか?ひょっとしてあの時、神戸のサンテレビでさえ映っていたのに、よりによってテレビ大阪だけ映らなかったのは、こんな番組、見る価値もないという天からの啓示だったのかも知れない。こんなことやってると孤独のグルメも長くないんじゃないかな。でもこちらは病気のためにほとんど食べてもいいものがなくなっているのに、あぁ病気じゃなかったらこういうのが食べてみたいとかちっとも思わなくなっていたのは、番組のせいだけじゃなくて、もはやこういういろんなものが出てくる食事というものが自分にとっては別世界での出来事のように思い始めているということなのかもしれない。
テレビドラマといえば19日に一回目の放送があった大河ドラマ「麒麟がくる」。内容どうのこうのという前にあのギトギトとした、振り切るほどに彩度をあげた色彩に面食らう。テレビが壊れたのかと思った家庭も多かったんじゃないか。蛍光色に近い草の緑や空の青の、頭が痛くなるような色彩が画面を埋め尽くしていて、さらに最後のほうに出てきた堺正章の頬は赤く丸く塗られてまるで猿メイクだ。もっとも堺正章は昔猿の役をやってはいたけど。まるでサイケデリック・ムービーでも作りそうな勢いでこれもまた迷走する大河の一つの表れなのか。この勢いのまま突き進んで、よく言えば夢魔のようにシュルレアリスティックな明智光秀を見せてくれるようになるのか、単にセンスの悪いこけおどし的な色彩デザインの映像の垂れ流しに終始することになるのか、ドラマ本体以外の関心事も色々と呼び起こしそうだ。
この半月、木幡に住む姉の家にたまに遊びに行って過ごしていた。そのたびにカメラを持って出て木幡周辺の写真を撮り始める。去年結局カメラに詰めたフィルムはたったの三本で、そのうちの一本は去年の内に撮り終わり、残りの二本のうちのあと残りわずかだった一本をこうして今年に入って木幡での数日で最後まで撮り終えることができた。その後は去年の最後の一本を内に抱えこんだままだったFM3Aを持ち出している。これは去年の春に撮り始めてどうしても撮りたかった被写体を撮った、その時のたったの一枚で中断したままになっていた。とにかく停滞していたフィルムの消費が多少は動き出す感じで今年の初めを過ごしていたのはまず単純にいい兆候だろうと思う。あとやることもないし写真への関心も削がれがちな中、結構本を読んでいた。といっても暇つぶしの娯楽本ばかりだったけど。去年の終わりから続いていた怪談話や妙に文学っぽく太宰治や夏目漱石なんかに溺れかけてみたり、今年は絶対にトマス・ピンチョンのどれかと「失われた時を求めて」を読破してやろうとか、本を巡る興味は写真を撮りにいけない代償のように活発化しているようだ。と、興味が拡散していくさなか、今読んでいるのは村上龍の「半島を出よ」で、文庫が出た当時に買ったまま放置していたものを今さらのように手に取っている。なにしろ巻頭の登場人物一覧に、北朝鮮側の登場人物の区別しがたい名前が山のようにそれもカタカナで連なっていて、これは絶対に覚えきれないと降参状態の本だった。太宰治に関してもしも太宰がツィッターをやっていたらなんていう成りすましアカウントで展開しているのをチラッと見て、面白いことを思いつくもんだなぁと笑ってしまった。
人が死ぬ時、永遠に続く周りの世界の中でその一人の人格が消失してしまう、一人の人格が消失してしまっても周りの世界の連続性は断ち切られない。こういうのが一般的な捉えかたなんだろうけど、でもそうじゃなくて