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IN ' OUT '  機械式辻占師言行録Ⅵ

黄光





空が通る穴





地のモンドリアン






ジグザグ
2018/10~2019/05 宇治
写ルンです / Canon DEMI EE17
lomography colornegative 100



五月の二十日に指定難病の特定医療費支給認定の申請を保健所に提出してきた。これは指定難病に関して高額の治療になった場合に、治療費が設定された上限を超えた分は公的に支給してもらえるという制度だ。難病だと誰でも承認、支給されるかというとそうでもなくて、提出の翌月には審査があり、その審査に通って始めてさらにその翌月に認定証が発行されるという段取りになっていた。認定までの三ヶ月というのはやっぱり待っているとやきもきする期間だったんだけど、それでも無事に審査をパスしたようで、書類にあったスケジュールどおりに七月の下旬には認定証が無事にわたしの手元に届くこととなった。これで一安心。わたしの病気の場合高額の治療となると10万単位のものもあるそうなので、そういうのが必要となった場合20万30万と簡単に請求されても、到底実費では払えないことになるところだった。でもこの申請が通るのを切望してはいたけれど、いざ手にしてみると、軽症だと通らない審査だと聞いているから、これはもう確実に軽症ではないとお墨つきをもらったようなものだなぁと、なんだか逃げ場がなくなってしまった気分にもなる。写真は、これは最近撮りに出かけられなくなっていると書いているその時期に、それでも少しずつ撮っていた今現在の写真から何枚か。ポップでキュートでグラフィカルでシュールという呪文に沿って、あるいは生成する空間みたいな関心事を出発点にするような、要するに最近の思考をストレートに押し出そうとしたものとでもいえるかな。といったことを書いたとしても、そういう写真なんだと納得する必要もさらさらなかったりする。撮った本人が書いているからといって何もかも正直に書いているとも限らない。タイトルは今回も偶然性の海から救い上げようと嬉々として遊んでいたんだけど、写真の中にたまたまこのフレーズを見つけ、もとは駐車場の案内表示ではあるものの、なんだか写真ぽい何かにリンクしているように感じて急遽これに決定することとなった。レーモン・ルーセル的方法に色目を使ったりと、最近はもう具体的な内容に沿ったタイトルなんかつける気がまったくなくなっている。後で見返したときタイトルからはどういう内容だったのかまるで判断できなくなるだろうと予測するものの、そういうのもまた混沌として楽しそうでもある。大体、事の最初の「彗星絵具箱」からして水彩絵具のずらし、読み替えなんだからして、最初の感覚に回帰しているといってもいいのかもしれない。もとからこういう遊戯事を好む人間だってことだ。写真集を眺めていたり、美術書を眺めていたりと、まぁビジュアルに関わらず本そのものが好きということもあるんだけど、そういう時間を持つことが楽しいと思う反面、写真集は高価だという壁にやすやすと突き当たることがほとんどだったりもする。新刊も豪華な印刷技術を駆使したりしていると当然価格は跳ね上がるし、写真集なんて初版を逃したらまず書店では目にすることもなくなり、古書となるとこれまた驚愕するほどの値段がついてたりするのがざらだ。おまけに海外の写真集の古書となると高価である以前に本そのものを目にする機会もまれになる。そこでそういうフラストレーションを紛らわせるためにたまにする遊び。諸事情でどうせ中身を見ることがかなわない本なら、ここはいっそのことその中にどんな写真が隠れているのか想像して自分で撮ってみる。手に入らないなら捏造、擬態してみるってことだ。大体見たいと思っている写真集ならどこか自分の嗜好にシンクロしているところがあるはずで、そういうところは何なのか、本や写真家を取り巻くあらゆる要素とフィードバックしながら探り当ててみる。これは擬態しながら撮った写真が、その擬態のもととなった本の中に実際に似たようなものとして載っているかどうかなんていうことはまるで重要じゃない。結果として呆れかえるほどに違っていてもまったくかまわない。元になるものを知らない、見たことがないというのがポイントで、模倣のようでいて模倣でもない、でも自分の嗜好がどういう形で自分の中にあるのかわりと分かりやすい形で浮き出てくることもある、ちょっと不思議な試みになることがある。ちなみに今回の写真の中にそういった方法論で撮ってみた写真が混じっている。


ボストン サングラス
最近のファッションというか、この夏買ったサングラス。白のTシャツと黒地に水玉のショートパンツを身に纏い、アクセサリーを色々つけて、このサングラスで夏の白い日差しの中にいる。上の派手なのはユニクロ、下のは3COINSで売っていた。雑貨屋の安いサングラスの類だ。両方ともボストンでこうやって並べてみると、見た目の派手さに違いがあるのに、それを上回って同類の眼鏡デザインという感じが強い。結局似たようなものを買ってしまって、こういうボストンやラウンドの眼鏡がよほど好きなんだなぁと単純な自分の嗜好に若干あきれる。なにしろブログのURLまで丸眼鏡主義だ。ユニクロのは一見派手すぎて眼鏡だけ浮いてしまうように見えるものの、かけてみると意外にそうでもなくて悪目立ちもせずに落ち着いた印象になるのが不思議だ。販売の終盤では500円にまで値崩れしていたのは、みんなこの一見の派手さに騙されて手が出なかったという事なんだろう。とまぁこの夏雑貨系のサングラスを色々と物色してみたんだけど、普段に度入りの眼鏡を使ってるから、ただのサングラスはかけかえる場合結構面倒で、やっぱり度入りのサングラスのほうがいいなぁと思った。両方ともおもちゃみたいなサングラスだからこれに度入りのレンズを入れるというのも無理な話で、だから気に入ってはいるものの結局のところこれはそんなに長く使えるものでもなさそうだ。これにくわえて最近お気に入りになっているものは靴で、まぁ極端に暑くなってからはサンダルに切り替えたけれど梅雨の終わりくらいまで厨房シューズを履いていた。滑らない靴としてワークマンのスニーカーでいちやく有名になったコック御用達の靴という存在なんだけど、この厨房シューズをコンセプトに作ったワークマンのはあまり好きじゃないスニーカーっぽさがあって、わたしが梅雨の終わりまで愛用していたのはシェフメイトという本物のコックさん用の靴だった。サボっぽいコロンとしたデザインが結構可愛らしくて、お気に入りになっている。厨房という水場で使うのが目的の靴なので、謳い文句どおり濡れた路面でも本当に滑らないし、パッケージには明記していないけれど防水性もかなりある。アマゾンのレビューなんかでは合皮のテカテカした艶があるのがどうも不評のようだけど、わたしはもっとテカテカしてエナメルの靴のようになっていたほうがいいと思ったくちなので、テカテカしてる艶もほとんど気にならない。ポリウレタンの合皮なので何もしなくても空気中の水分に反応して劣化していくはずだけど、2000円前後の価格なので履き潰し、買い換えていく靴として割り切れるだろう。見ようによってはモード系の服に合わないこともない雰囲気で、ギャルソンの靴だと言い張ればひょっとしたらなんとなく通用してしまうかも。モード系によく見るわりとごつごつした靴って云うのも好みで冬には編み上げのロングブーツなんていうのも買ってみようかと春先くらいから計画中なんだけど、その欲求のある部分をこの厨房シューズが満たしてくれてる感じもある。





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ギタリストの犬、溶ける星の日。 機械式辻占師言行録Ⅴ

真昼の人影





抜け屋根壁





銀の構成





鳥かご





編目の劇場






赤い破壊

高の原 (1)
2013 / 06 伏見 (2)
2016 / 03 丹波口 (3)
2015 / 10 伏見 (4)

2017 / 01 長池 (6)
CONTAX T3 (1) Olympus Pen S 3.5 (2) Fuji Natura Claassica (6)
Kodak SuperGold 400 (2)(4)


エクスクラメーションマークとクエスチョンマーク。要するに「!」と「?」のことだけど、これは猫の尻尾を後ろから見たところだという。「・」がお尻の穴で上の棒マークが感情を表現してる尻尾本体だ。そう云われると吃驚した時のピンと立った尻尾はまさにそんな感じだ。と、これは最近本を読んでいて出くわしたことだったんだけど、真偽のほうは分からない。まるででたらめだったとしても聞いた人を納得させる妙な説得力があって、このマークを見て猫の尻尾を連想した人の発想力はなかなか面白いと思う。タイトルは読み間違いと目にした単語の偶然的な組み合わせによる。「ギタリストの夫」という一文の、夫が犬とみえてのこのフレーズなんだけど、金井美恵子の小説のタイトルにも「カストロの尻」というのがあった。これは「カストロの尼」というフレーズを読み間違えてしまった結果できたタイトルらしいんだけど、この破壊力抜群のイメージ喚起力に較べると我が「ギタリストの犬」はなんとも大人しすぎるというか、こういう読み間違いにしてもセンスの差が出てくるんだろうと、カストロの尻を捕らえた感性にちょっとした妬みさえも覚えるなぁ。破壊力抜群に読み間違えてみたい。そして当然のことながら、もちろん今回の写真もタイトルとは何の関係もない。写真は相も変わらず体調の加減と暑さと身の回りの主に医療関連の鬱陶しい雑事が時間的にも体力的にも気分的にも障壁となり続けていて、撮りに出かけること自体がままならなくなっている。この前現像に出した半年かけて撮った2本のフィルムはブローニーのほうは終盤の数枚が光線引きしてしまっていて、でもその光線引きもちっともかっこいい結果にはならないような光の漏れ具合の写真だったし、写ルンですのほうも全体にパッとしなかった。これを現像に出した後コンタックスT3にフィルムを入れてるんだけど、撮りに出かけられないものだからまだ3枚くらいしか消費していない。まず出かけられるような状態へと体のコンディションをもっていきたいところで、写真への関心を立て直すのはその後だろう。買い置きのフィルムは消費期限を過ぎてそのまま冷蔵庫の中で居座ったようになっていて、消費量の少なさもあって気がつけばこのところフィルム売り場なんてまるで足が向いていなかった。昨日久しぶりにヨドバシカメラに出かけてためしにフィルム売り場を見てみたら、さらに売り場は縮小されてなんというか見る影もない。売ってないわけでもなかったから手には入るんだけど一杯あるフィルムから気に入ったのや使ったことがないものを選択してどうのこうのというような楽しみは既になくなっている。大手のフジがそんな状態になってる中で、大手が牛耳っていた棚が空いたために、いくつかヨーロッパ系のフィルムが店頭に出てきてるのが小さな光を放っているようだった。廃版が常套句のこの世界にコダックのリバーサルが復活していたのも、これも大いなる希望だろう。そういえば先日マップカメラからのメールにフィルムカメラ、レンズの人気再燃につき買い取り価格再考なんていうのが入ってた。これもささやかな光の気配なのか。




薔薇の殺意〜虚無への供物(1)

昔NHKで放映したテレビドラマ版「虚無への供物」がYoutubeにあった。これ結構早く消されそうだ。ドラマの出来は反世界だとかそういう妖しい雰囲気はあまり上手く表現できてなくて、それほどでもなかったような記憶がある。さらに氷沼三兄弟を筆頭にすべてのキャラクターが具体的な姿を与えられて、それがまた個人的には全然そぐわなかった。全3話で完結。見つけた時点では残りのもYoutubeに全部揃ってた。

いちばん長い砂糖菓子の微熱 機械式辻占師言行録Ⅳ

ベビーカー沖






未来派





偽砂糖菓子





偽ユージニア






消失面



2017 / 10 八条(1)
2017 / 01 伏見(2)
2018 / 10 京都駅(3)
2016 / 11 近所(4)
2018 / 11 宇治(5)
写ルンです (1) Pentax K100D Super (2) Canon Demi EE17 (3) Nikon F100 (4) Sony SyberShot DSC T9 (5)
Lomography Colornegative 100 (3) Fuji Premium 400 (4)


わが難病、潰瘍性大腸炎の症状はほとんど進展なく、絶不調のために外出もままならないというほどではないにしても、外出時に見舞われる可能性がある病気がらみのトラブルに対する不安感がぬぐえずに、必要なところ以外へ足を伸ばすことがめっきりと少なくなった。症状が好転しても基本的に治す術のない病気である以上、調子が良いという時でも不調である状態のうちの最も軽い状態とでも云うべき感じで、わたしにとっては極めて快調なんていうのはもう二度とやってこないんじゃないかと思ってる。いきおい写真をとる時間も激減していて、それでも時間の隙間、気分のましな時間を集めてはシャッターボタンを押していたら、確か去年の10月頃にイコンタに入れていたブローニーフィルム一本と写ルンです一本を先日ようやく最後まで撮り終えることができた。ブローニーが全12枚、写ルンですが全27枚の半年以上かかって39枚の収穫となるんだけど、これはやっぱり圧倒的に少ない。おまけに病院代や何やかやで医療費貧乏状態が続いてたから撮影済みのこのフィルムは未だに現像にも出せずに手元に置いたままになってる。近々現像を頼みにいつものムツミへ行くつもりではいるけど今年に入ってから店に行ったのは一度きりで、店の人、わたしの名前を絶対に忘れてると思うな。写真に関しては最近あまりここで文字を連ねないほうがいいんじゃないかと思っている。色々と書いているなかでこの写真は~を表現しているなんていう愚にもつかないことはほとんど口にしていないにしてもだ。大体これはこういうことを表現しているなんて言葉で言い表せるならわざわざ写真にしなくても言葉で言い表している。写真としてだけで成立しているものがそこにあるなら、それは言葉には置換できないものだ。だから内容について言及しないように注意を払って、写真について考えていること、対象について写真がどういう風に関わっているのかということ、頼まれもしないのに写真を撮り続けているとは自分にとってどういうことなんだろうとか、そういったことの周辺を巡り、おずおずと突いてみたりしながら色々と思いついたものをそのたびに矛盾をはらむのも承知の上で言葉にしてみるというのを繰り返してきたと思う。でもこれでも、これが表現しているのはこういうことだなんていう身も蓋もない言い方でないにしても、やっぱり少しは写真に傾向性を持たせてる側面はあるんじゃないかと思っている。別に写真に限らなくてもある種傾向を持たせてしまったものはそれ以外のものとしてはなかなか視覚には入ってこない。何よりもわたし自身が私の小さく纏まろうとする思惑を裏切り、超えてくるような写真が出来上がることを楽しみにしているというのにそれはやっぱりつまらない。とまぁ今回はあまり書くことを思いつかないということをまったく別の表現で書いてみたわけだが、やっぱり写真を撮りにいけなくなっているのが、当の撮った写真の激減という具体的な結果だけじゃなくて、写真と自分との距離とか他にいろんな形で影響が出ているんだろうなぁ。本にしてもこのところ写真関連のものにはほとんど手が出なくなって、美術系やミステリ、シュールな文学といったものばかり読んでいるし。今回も載せた写真は落穂拾いのようなものばかり。この半年の間に撮り終えたたった二本のフィルムは体調がいい日を見計らって近日中に現像に出してくるつもりではいるけど、最近撮った写真なんてここに出せるのはもっともっと先のことになると思う。

James White & The Blacks - Contort Yourself (August Darnell Remix) - 1979

James Chance & The ContortionsじゃなくてJames White名義のContort Yourself。The Contortionsほど荒々しい疾走感はない分随分とスタイリッシュ。でもファンキーでダンサブルで小奇麗に仕上げても、おまえ自身を引き攣らせろというだけあってフリーキーな破格の裏打ちをきっちりと仕込んでいるのがかっこいい。なんでもそうだけど、このかっこいいということ、これが重要だ。これだけで十分というかむしろこれこそが至上の価値なんじゃないかと思う。内容なんか別になんでも、どうでもいい。ひたすら惚れ惚れする視覚聴覚的な先鋭的鋭角的センス。写真だってとにかくかっこいい写真が撮りたい。グラフィカルでポップでキュートでシュールなんていつも云ってるけど、言い換えてみると結局こういうことだと思う。つまりはもう一度云うけど、かっこいい写真が撮りたい。被写体なんてシャッターを切るきっかけになるだけの存在でいい。

Lizzy Mercier Descloux performs Mission Impossible Live

70年代後半から80年代の初頭にかけて、なぜスパイ大作戦だったのか未だに良く分からないんだけど、これはやっぱりファンキーに演奏したらかっこいいんじゃないかという、それだけの理由での選曲だったのかもしれない。ライブで客席に下りて行っては客を殴っていた、演奏が出来るちんぴらといった風情のJames Chance。ノーウェーブの歴史的コンピアルバム「NO NEWYORK」のジャケット裏写真で目に黒々とあざを作っていたJames Chanceも今やチャンス翁なんていわれる始末だし、Lizzy Mercier Desclouxにいたっては既にもうこの世にはいない。音は今の空間をも切り裂いて届いてきそうなのに、人の世は…諸行無常だ。














虚空頌 機械式辻占師言行録Ⅲ

2F





7F





円虚





暗虚





明虚





猟銃





垣間見る悪魔





鳥虚

2015 / 08 高瀬川タイムズビル (1,4,5)
2016 / 01 河原町オーパ (2) 鴨川 (3,8)
2014 / 09 花遊小路 (6,7)
Pentax K100D Super (3,8) / 写ルンです(2) / Wltra Wide And Slim(1,4,5) / Canon 7 (7)
Lomo Colornegative 100 (1,4,5) / Fuji Speria 400 (7)

虚ろな空間への頌(オマージュ)。それはわたしのなかの空洞に共振する。ところでこういう言葉を使うと最近はたちまち中二病なんていうレッテルを貼られて嘲笑されることのほうが多いようだ。薄っぺらい時代になりつつあるというか、またたとえばミステリを社会派が牛耳っていた頃のような伸び代の無い硬直した退屈な感性へと逆戻りしつつあるのか。ニコ動のゲーム実況で虚無という言葉を使ったあるゲームにこういう態度をとっている人を最近見かけて、これは中井英夫が放った「美とか幻想とか聞けばわけもなく失笑するだけの不気味な生物」の手合いだろう。わたしの周囲には幸いにしてこういう手合いはいないんだけど、こういう人は話をあわせるだけでも面倒臭いだろうなぁ。でも中二病っていうネーミングは「ヲタク」と並ぶ奇跡的なネーミングではあると思う。言葉そのものが独特の臭気に満ちたオーラを放ってる。言葉の意表をついてなお対象の全体を適切に掴みとるアクロバティックなセンスは驚嘆はするものの、繋がっていくだろう物事すべてを閉塞させて止まないような負のエネルギーに満ちて、こういう言葉はわたしは大嫌いだ。オブジェが生み出す虚ろな間なんていうのはどこか矛盾しているようでわたしには興味深い。何かを写すことで何もないものをフィルムに定着させる。オブジェが埋め尽くすだだっぴろい空虚。対象になにか充実したものを見ようともしないわたしの感覚のどこかに問題でもあるのかもしれないし、そんな何もないことを見せ付けるようなものを差し出されても困惑しか生まないのかもしれないけど、そういうものを写し取ろうとしてシャッターを切るのはとりあえず今のところは面白いと思ってる。キュートでポップでグラフィカルなんてことをよく書くけど、それに加えてなにもないことというのも付け加えてみる。視覚の力学だけで出来上がってる写真。そんなのが理想だ。








川上弘美が「晴れたり曇ったり」というエッセイ集で内田百閒の著作に始めて出会ったときの事を
へ、へんなものを、み、みつけちゃったよ。
仰天し、狂喜した。
と、書いてる。
これは内田百閒初遭遇の気分としては極めて的確に言い表していて、文学的にどうのこうのって云うんじゃなくて始めて読んで面食らった感覚を上手く表現するなぁと思った。わたしが始めて内田百閒に遭遇した時も、確か「北溟」というタイトルの、寂れた船着場に海のほうから雲のような塊が吹き寄せられていて、良く見るとそれには無数の握り拳大のオットセイが付着しており、みんながそれを拾って食べているので自分も食べてみるという、そんな感じの数ページに満たないどことなく夢魔のように不気味な、まるで言葉で描くシュルレアリスムの絵画といった掌編だったんだけど、そのときの感触は云われてみればまさしくこの変なものを見つけてしまったというものだった。ちなみにわたしが川上弘美の「椰子・椰子」に初遭遇した時の気分もまさにこれ。現代版内田百閒じゃないかと、ダンジョンのなかで宝箱を開けたら思わぬレアアイテムが入っていたような高揚感を味わい嬉しくなった。わたし個人の体験としては藤枝静男に初遭遇した時もこんな仰天、狂喜を味わってる。とまぁ、本を読んでこんな気分になるって、今までに何度味わったか数えて思い出せるほど稀な体験だったりするわけなんだけど、この稀なワクワクした気分を内田百閒のときほどではなかったにせよ蘇らせたのがこの本、川上未映子の「先端で、さすわさされるわそらええわ」だった。手にしたのは内容以前に本屋で目に留まった装丁がきっかけだった。「己の前に立ちあらわれるすべての純潔、すべての無垢、すべての清楚を手当たり次第に踏みにじること」と題された鴻池朋子の絵画が一面に配され、その上を半透明の、これは何の素材なのか固い手触りのカバーがかけられて、そのカバー越しに絵画が見えてる。著者のほかの本には何冊か目を通したことがあって、本屋でちょっと中身を眺めての第一印象は他の本で見られた尖がってる要素ばかりを集めた本っていう印象だった。なんとこれがデビューの本だそうで、ならば作家のすべてが最初の本に詰まってるという定説を地でいくものなのかもしれない。こういう装丁のかっこいい本は文庫でなんて買わない。もっともこれは文庫にはなってなさそうだけど。全部読んだわけでもないけど、もう内容を要約するなんていうこともまるで無意味なような中身で、いうなら言葉を発し、またそれを読むことが本来持っていたはずの過激さ、言葉を眼で追うリズムとか縦横に連鎖するような単語と戯れることの、忘れていたのかもしれない新鮮な感覚を呼び起こすというか、そういうもので満ち溢れた本という印象だった。この本のほかにももちろん川上弘美や最近妙に意識に残ってる円城塔、見つけたら買ってる多和田葉子の本など、日本の文学ってまだこういうものを受け入れるだけの余地があるんだと、全然捨てたものでもないなぁって思って楽しくなった。それにしても写真がシャッターボタンを押すことさえ出来れば誰にでも出来る一番自由な媒体だと思っていたけど、こういうのを読むと文学は未だにその自由さで群を抜いてるとあらためて思う。もうここにはカメラという装置さえ必要としない、言葉を発することが出来るだけですべてが自由であるはずの荒野に立つことが出来るのだから。何だかね、こんな本を読んでると表紙の絵画のタイトルにも触発されて、おさまりかえった上品な写真なんか撮ってる場合じゃないなと、気分は目一杯煽られてくるようだ。




レベッカをもう一度。これはもう圧巻というか、これが力量というものなんだよ分かったかとでも言わんばかりの、何の躊躇も無く気持ちいいほどストレートに声が伸びていく堂々とした歌いっぷりに、あっという間にねじふせられ圧倒される。暴力的に力強いくせに艶っぽくてちっともがさつじゃない。また他にもこの曲が好きな理由があって、リズムがわたしの好きなゲーム、クーロンズ・ゲートの大井路の音楽に似てるということ。これはクーロンズ・ゲートの中で一番好きな音楽だ。こういうリズムの刻み方ってどこか催眠的で知らない間にのせられてどこかに運ばれていくようなトリップ感がある。

クーロンズゲート 大井路













機械式辻占師言行録Ⅱ / レベッカ 1986 早稲田大学 Live

四角い奔流





二本線の幽霊





闇の狸たち





工場天井





モンスターズ





浮かぶ光






壁にへばりついた赤い花
四条坊城(1)(3)
三条大宮(2)(4)(5)('7)
浜大津(6)
2016 / 04 (1)(2)(3)(4)(5)(7)
2017 / 09 (6)
Nikon Coolpix S9700
Fuji NaturaClassica (6)
Fuji Natura1600 (6)

先日新しい病院へ紹介状を持って出かけてきた。病院を変更することになったのは、今までかかっていた病院が入院患者中心の病院となって一般外来が縮小、その結果わたしが通っていた科が消滅したためだったんだけど、紹介状を書いてもらったおかげで新しい病院へはスムーズに移行できた。もっともこの新しい病院へ初めて行った時はどの医者が自分の厄介な病気に合ってるのかなんてさっぱり分からない状態だったのでこの日を選んだのも含めて何もかもが完全に行き当たりばったりだった。結局その日は当日外来担当で出てきていた医者から、潰瘍性大腸炎にとても詳しい先生がいるということで、そちらに院内紹介のような形を取ってもらうこととなった。結局二度手間になるの?おまけに紹介だけできっちり診察料も取られてなんだかなぁっていう感じも抱きつつ、最初だし詳しい医者に担当してもらえるならこの首尾でも今日はまぁいいかと納得する。そして今日その詳しい医者の診察の予約日だったので再び来院。初日から特定疾患の医療費助成の登録の手続きをしてるかと訊かれてしてないと答えるとそれならこちらで書類を作っておきましょうとなにやら展開が速い。特定疾患対応の大病院が希望の火を灯してくれる。大きな病院はある程度治療が進んで一段落すると後はかかりつけの医者のほうに返される形になるけれど、わたしの場合はかかりつけの病院が消滅した形となってるから、できるなら詳しい医者のいる設備の整ったここで治療を続けられればいいと思う。それにしても何ヶ月も下血が続いて絶対に貧血になると思っていたのが意外とそうでもなく、むしろ影響は靴のサイズが一つダウンしたとか、腕時計の留め穴が二つ内側になったとか、そういう方向で出てきてるようだ。あまり食べられないのと吸収とかの臓器の能力も落ちてきてるのかもしれない。ダイエットだとばかりに喜んでもいられないなぁ。線分収集家といい、この機械式辻占師といい、名づけてるのは自分自身に他ならないんだけど妙な肩書きが増えていく今日この頃、その割には肩書きほどには異様な写真も撮れていないというのはまぁご愛嬌というところか。言行録っていうのはアルフレッド・ジャリの著作「フォーストロール博士言行録」から拝借。ちょっと古風な語感が個人的には良かったりする。今回はこの前の記事と同様のタイトルをつけて趣旨は同じとしているものの、趣旨が同じように見える見せかけの下に写真を集めているだけであるのかもしれない。おそらくまったく異なる趣旨を予兆させるタイトルのもとにこの中の数枚を紛れ込ませたら、その別の趣旨に沿った外殻を纏った写真に変貌しているだろう。ところでこの前の写真、K階段の写真をみていて気づいたことがあって、わたしはこの階段をアプリオリに上へ登る階段として記事に書いている。でも上に上がるかどうかはこの写真の中には判断する要素は含まれておらず、これをみて上から下りてくる階段と判断する人もいるんだろうなと気づいてみると、何だか妙な気分になる。わたしが当たり前にみているものも、あらゆるレベルにおいて当たり前でもない可能性がある。わたしが見ている世界は同意されているようにみえる部分のみ共有化されているだけで、実は人の数だけまったく違う世界が並立され、その違いは永遠に共有されることも無く気づくこともない空間に仕舞いこまれてる。空間といえば、別にこれがわたしの大発見というわけでもなく、今までに様々な形で言われてきているものだろうと思うけど、空間そのものとしては存在しない。それはまさしく空ろな間であり、あるものとあるものの間の関係性において成立するものでしかない。つまりは言い換えるならオブジェが空間を生成する。オブジェは何らかの空間の中にあるのではなくて、空間はオブジェの属性であり付帯物なのだろう。どうしてこんなことを書いてるかといえば、写真はオブジェとともにそのオブジェが生成してる空間も写し取っていると思うから。佐内正史だったか雑誌スイッチだったと思うけど、とまるであやふやな記憶で書いてみると、どうして写真っぽい場所で写真を撮らないのかといったことを訊かれて、心底不思議そうに写真を撮るなら写真的じゃない場所しかないでしょと答えていた。この気分はわかる。「いわゆる写真」的なところは実は最も写真から遠いところだと。写すべきは周りの退屈で凡庸な日常であり、しかもそれを退屈で凡庸な日常の様相として捉えるのではなくて、日常に取り囲まれて身動きできなくなっている視線と存在を見晴らしのいい場所へと引き上げる契機とすること。シュルレアリスムの視覚表現なんかとは異なって、写真においてこのことは、見晴らしのいい場所はこれだと押し付けがましく強要するような非日常の対象ではなかなか実現できない。そんなもので視線は解放されないだろう。で、思いついて書き始めたこの話に繋がるかどうかはいまひとつ自信はないけど、先に書いたオブジェが空間を生成するという話。空間はあらかじめそこに存在しているオブジェのための入れ物なんかじゃない。オブジェが、世界の構成物が、日常がその場で生み出していくもっと動的なものだと思う。そしてその動的なものは日常を動的に、空ろな器の中に閉じたものではなくて関係性の場において未知なる何かへとわたしたちを導く可能性を秘めていて、写真はそういうものを顕現させることができる。おそらく優れた写真はそういったものを捉えるのに成功した写真なんじゃないかと思う。対象は風光明媚だとか異様だとか千載一遇の瞬間だとか特別なものではなく、ただの目の前に転がるゴミの一片や積み上げられた椅子であり、そういう非「いわゆる写真」的なものをそれが周囲に生み出す動的な空間共々掬い取ってくる。上手い言葉を思いつかないけれど、その空間には強度といったものがあって、ただのゴミの一片しか被写体になっていなくても、その強度さえあれば有無を言わせない説得力のようなものを身にまとって写真として立ち上がってくる。ゴミを写して唯のゴミの写真になるか問答無用の写真になるかの違いはこの生成される空間の強度の差にあるんじゃないかと思ったりする。わたしの写真はまるで強度不足だ。おそらく、矛盾したことのように見えるかもしれないけど、それはこの退屈で凡庸な日常への愛情のようなものが自分には本来的に欠けてるからなんじゃないかと思う。






モンスターズ ロゴ入り
ちょっと文字を入れてみた。普段写真に文字を入れてみるとかほとんどやらないんだけど、かっこつけた写真にはなるな。ちなみに入れた文字はリンチの廃工場写真集のタイトルだったりする。


レベッカ・・・1986 早稲田大学 Live

これは、今さらの如く人気があったのも当然といった感じがする。小さくて可愛らしいのがステージのそこいらじゅうで縦横無尽に弾けてるような勢いが魅力的だし、MCの予想外にちっともスタイリッシュじゃない、かっこつけない話し方も親近感があっていい。今わたしのヘアスタイルはシルバーベージュにカラーリングしたソバージュっぽい癖毛風縮れ毛パーマだし、このファッションをみて真似したくなって、古着のGジャンを買ってきた。アクセサリーのネックレスとかはパールビーズなんかを買ってきて似たようなのを自分で作れる。こういうのをジャラジャラつけるのは大好きだ。でもアクセサリーをあれやこれやと作ってるうちにGジャンの季節じゃなくなりそうだ。