隙間構造体 / Jim Jones at Botany Bay

フェンス越しの家





隙間すべり台





見えないストライプ

2017 / 06 嵯峨野
2017 / 07 嵯峨野
2017 / 05 木屋町
Olympus Pen EES-2 / 写ルンです / Konica EYE
Fuji 業務用400 / Fuji 100

隙間構造体とは何かと問われても、返答に困る。なにしろ写真見て思いついた言葉に過ぎないのだから適当といえばこれほど適当なことはない。でも適当に繋げた単語で出来上がった言葉が、それまでに存在さえしていなかった新たな何かを出現させるかもしれないという可能性はある。言葉があるゆえに存在が可能になったもの。そういうものがあったとしたらそれはそれで面白い。

今回のはある種の目隠し写真だ。感覚的には覗き穴の暗い欲望的感覚の変種って云うところもあるかもしれない。
見えないことへの考察と云ってみたいところだけど、そんなに云ってしまうと何だか物凄く大層な写真のようにも見えてくる。実際には今回のはそんなに大層なものじゃない。それでも写真が徹底して見えることに対する何らかの感覚的な考察であるとするなら、その裏側には必ず対になる見えないことという何かが寄り添っているようにも思う。
まぁこんな持って回ったような言い方をしなくても、単純に隠れてる部分があると想像力が働く余地が生まれてくるっていうことだ。今回のはあからさまに隠してる部分があるんだけど、こんな風に露骨に目隠しが入ってなくても、空間的にも感覚的にもどこか見せないところがある写真は、全部見せてしまう、全部説明しきってしまうような写真よりは、そういう余地が生まれて幾分かは面白くなるんじゃないかなと思う。

一方で自分の感覚の中には、写っているものしか写っていないというような、事物主義というか、表層に留まり続ける写真も結構好きだという部分もある。こういうのと隠匿された何かを予感させる写真の二つがわたしの中で共存するのは矛盾のような気もするんだけど、これ、考えてみたら両方とも「謎」というキーワードで括れそうな気もする。写ってるものしか写っていない、写ってるものがすべてという、写真が内に孕むことを当たり前に期待してしまうようなものが見当たらないことへの謎と、隠されてる何かを予感させる、云うならば付加されてるものの謎とでも云うのかな。方向がプラスマイナスの逆のほうを向いてるだけで根は謎めいているということで一致してるんじゃないかと思う。
とまぁこんなことを考えてると、やっぱり全部を説明しようとする写真が一番あからさまで白茶けていて面白くないという結論へ落ち着いていくことになりそうだ。

で、こんなことを云った口の根も乾かないうちに書いてしまうんだけど、今回の写真の「説明」だ。
最初のは嵯峨野の路地を歩いてる時に傍らのフェンス越しに撮ったもの。フェンスの向こうの細部を失った空間が気に入ってシャッターを切った。でもわざわざ嵯峨野なんかに行ってまでして撮るようなものでもないなぁ。二枚目は以前載せたブランコに乗ってる子供を俯瞰で撮った写真と同じ場所。最後のは木屋町の路地にかけてあった案内板で、おそらく廃業した店の案内だけが残っているんだと思う。偶然見えてる赤い色が上手い具合にアクセントになってる。


Jim Jones at Botany Bay - scene from The Hateful Eight

タランティーノ監督の映画「ヘイトフル・エイト」の途中で出てくる歌。西部劇にいかにもな雰囲気を添える曲で、音楽のクレジットにエンニオ・モリコーネの名前があるからこの人の曲だと思ってたら、実際はニュージーランドの古いフォークソングなんだそうだ。
もう早弾き自慢のギターとは対極の位置にあるような素朴なギターにのせて、これは出演してる女優ジェニファー・ジェイソン・リー本人が歌ってるんだけど、なかなか味のある歌に仕上がってる。ちなみにこの女優さんはあのヴィック・モローの娘だ。
映画はタランティーノの撮った西部劇ミステリなんていう紹介のされ方をしたらしい。確かに後半毒薬をコーヒーに仕込んだのは誰かという謎を中心に進みはするけど、でも紹介とは裏腹にその辺はミステリ好きを満足させるほどには展開しないで血飛沫飛び散る別方向へ進んでいく。映画そのものも膨大な台詞の応酬とかいかにもこの人の映画っていう感じなところもあるものの、会話の話題の中心が南北戦争のことだったりしてどうも馴染めずに、どこかから回りしてる印象のほうが強い。
それよりも髭面のカート・ラッセルが吹雪で閉ざされた山小屋の中でライフルを持って立ってる雰囲気なんかまるで「遊星からの物体X」で、なんだか「物体X」へのオマージュ映画なのかなんて思ったりした。手洗いが小屋からはかなり離れたところにあって、夜の暗い猛吹雪の中その間をロープで道を作ってるところなんか、画面の感じそのものがまるで「遊星からの物体X」以外のなにものでもないって云う感じだった。









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1/B1 ☆ 映画「プリデスティネーション」

1/B1





包囲されたバイク







柵と色

2017 / 08
大津京 / 浜大津
Fuji Natura Classica / Olympus Pen E-P3
Fuji Natura 1600

まだまだ続く大津写真♡
なにしろ7月くらいから今に至るまでここでしか写真撮ってないし。今年の夏はカメラ持ったらとにかくJRで10分ほどの京都にとっては手頃なリゾート地に足繁く通ってた。大吉おみくじの東が良いよという吉方のお告げに従っての場所選択だったけど、本当に琵琶湖湖岸は吉方だったのか、東でももっと違う方向だったんじゃないかと、とにかくここで撮った写真ばかりを前にして変化に富んだ選択をできるかと頭を悩ましながら思ってる。それに夏の開始を皮切りに頭の中に琵琶湖湖岸が勢いよく流れ込んできてスイッチが切り替わったために、ここに通いだす直前に撮っていた写真がかなり綺麗に頭から弾き飛ばされてしまってる。先日そういえば琵琶湖に来る前に何撮ってたんだかと見直してみて初めて、ああこういうのを撮ってたんだと思い出す始末。この頃、嵯峨野で写真撮っていた後のおそらく梅雨の間とその直前くらいに撮っていたものはほとんどブログには出してない。涼しくなってきたらこの弾き飛ばされた方面にちょっと接続しなおしたほうが良いかななんて思ったりしてる。

1/B1なんてタイトルに書いてみて、要するにこれはあるものとあるものの狭間のことだと思い至ると、境界域だとか現実世界に開く異界の入り口だとか、見えるものと見えないものの接線だとか、こういうのって写真に撮ってみたいもののひとつだし、なんだか写真のタイトルにもぴったりなんじゃないかと思えてきた。
今回のは歪な感じっていうのかな。最後のは自分では特にそんな感じがする。おそらく構図的にはもっとおさまりの良い位置があるのかもしれないけど、構図的に収まりきったイメージとかあまり面白いと思わないほうで、どこか崩れて不安定なほうが見ていて落ち着かなくて面白い。大体構図とか結局のところ他律であって、他人が良いと判断したものの総計にしか過ぎない。そんなもので絵を作って面白いのか。この写真は構図が良いですねなんて云われたら、あなたの感覚で組み立てたところなんてどこにもないと言われてるようなもので、本当は怒らなければならないんじゃないかなんてことも思ったりする。


☆ ☆ ☆

Predestination トレーラー


またまた映画の話。
ロバート・A・ハインラインの小説「輪廻の蛇」が原作と知って、よくもまぁこんな小説を映画にしようと思ったものだと興味がわいた映画だった。
元の小説はタイムトラベルを扱った結構短い短編小説で、タイムパラドックスの思考実験のような話。原因から結果へと流れていくこの世界の理の関節をすべて脱臼させてみたらどういう世界が出現するかといった内容で、出口のない迷路に入り込んでしまったような袋小路の論理が生み出していく悪夢の世界を体験できるお話だった。わたしが読んだのは大昔の話で「輪廻の蛇」は長い間絶版になっていたようだ。それがこの映画のリリースが切っ掛けで再版されたらしくて、これは映画の好影響の一つだったと思う。

理詰めの部分を全部放棄して、理由は分からないけどこんなに奇妙な世界が出現するって言うポイントだけで作ればかなりの妄想映画になったかもしれない。でもここではそういう方向をとらずにあくまでも迷宮を彷徨う論理の筋道を辿って映画の世界を作ってる。この脱臼した論理の世界を頭の中で考えてみると何だか脳みその表面がチリチリとざわめいてくるような感じがして止むことがなく、そういう感覚はこの映画の作り方のほうが上手く表現できていたんじゃないかと思う。

で、この映画、こんな事情で映画の表面的なストーリーでさえも書けるようなものじゃない。一応連続爆弾魔の犯行を防ぐために時間を縦横無尽に駆け巡るって云うストーリーにはなってるんだけど、爆弾魔の話って結局のところタイムトラベルを発生させパラドックスを生起させるための切っ掛けに使われてるに過ぎなくて、あくまでも映画の目的は、一体どこが始まりなんだ、一体どこが終わりなんだと、この脳みそがざわめく感覚を生み出すことだったと思う。
しかも物語の中盤手前くらいまでほとんど登場人物二人の会話劇のような様相を帯びてるのも意表をついて面白い。
時空エージェントであるイーサン・ホークが70年代のとあるバーでバーテンに身をやつしてる時、バーにやってきたしょぼくれた中年男に面白い話を聞かせてくれたらビールをおごるという約束で二人の会話が始まる。中年男は自分がまだ少女だった頃、と前置いて身の上話を始める。
もうこの、自分が少女だった頃なんていうフレーズだけで、その会話劇に引き込まれること間違いなしだと思う。

ハインラインには「夏への扉」っていうタイムトラベルテーマの、こちらは長編の小説がある。「輪廻の蛇」のように異様な話じゃなくてもっと読みやすいし、なによりもこの小説には本筋とはあまり関わらないのがちょっと残念だけど、家の扉のどれかが夏に通じてると信じて、冬になると夏への扉を探し始める愛すべき猫ピートが出てくる。映画にするにはこっちのほうがずっと相応しいように思うのに、ハインラインの小説は「輪廻の蛇」以外に「宇宙の戦士」が「スターシップ・トゥルーパーズ」なんて云うのに姿を変えて映画になったのが一般的に目につくくらいで、これはなぜか今までに一度も映画になったことがない。












誰そ彼

夕闇の琵琶湖汽船






夕闇の路面電車






夕闇の水面反射






夕闇の街灯

2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600

ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。


今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。

とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。

どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。




灰の中の線と形象 / 映画「パンドラム」

線と形象1





線と形象2





線と形象3





線と形象4

2017 / 09
大津港
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600


浜大津から大津京まで歩いた日、ホテル裏の遊歩道から出られた港の岸壁から。ここまで歩いたのが切っ掛けで、この後、前の記事に書いたように二駅分サンダルで歩くことになった。地図によると、関係者立ち入り禁止の柵で囲まれた大津港マリーナという区画の北西方向にあって、琵琶湖浜大津港となってる。大きさでいうとなんだかこのマリーナの付け足しのような規模の港なんだけど、こんな名前がついてるところから見るとこっちが本来的な港なのかな。
曇り空のグレー一色の空間の中に線と形象が浮かび上がってる様子を撮ろうと思ってシャッターを切ったようなことを書いたけど、これがまぁその思惑を現像した結果だ。
なんというか、水墨画的なものに色目を使ってるような、あるいは日本画っぽい印象がどこかに漂ってるような、そういうところが自分としては面白い。日本画的というなら、背景をぼかして主題を際立たせるとかまるで関心もない、平面的であることへの志向というのかな、今回に限らず自分の写真にはいつもそういう要素があるように思ってるんだけど、こういうのは、絵画が持つ立体を平面に落とし込む特質を対象化するような事柄に興味があるからなんだろうと思う。
大体いつもよく書いてることで分かるように、写真が絵画的なモチーフでイメージを作ることは毛嫌いしていて、写真なら絵画の振りなんかせずに写真でしか出来ないことをやってみようよという立ち位置なのに、構造的には結構な絵画志向というようなものが自分の中にはある気がする。絵画への構造的な志向と云っても構図とか絵画的なイメージを組み立てるための方法論のようなものはある程度のところでどうでも良いと思ってるほうで、それはそういう方向じゃなく、こういう平面に対する志向みたいな形で出てきてるように思える。
それにしても、ナチュラ1600はやっぱり良い色に出てるなぁ。曇り空の中で眠くてあまり気を引く色彩でもなかったのに、フィルムに写しこんでみるとくすんだ淡い色の特質を思う存分発揮してるというかな。白い色の出方が繊細なニュアンス一杯で気に入ってる。

☆ ☆ ☆

久しぶりに映画のお話。
最近「パンドラム」という結構拾い物の映画を見た。ジャンルはSFスリラーっていうところ。
SFスリラーといえば今現在は「エイリアン・コヴェナント」辺りだろうけど、こっちのほうはエイリアンを見に来てる人は本当にこんな話が見たいのか?なんていぶかしく思うくらい宗教的で思わせぶりな内容に終始する駄作続きなのに反して、エイリアンの種はむしろこっちのほうに植え付けられたんじゃないかと思えるくらいの、まぁB級ではあるんだけど、とても面白く見られた映画だった。
6万人のコールドスリープ状態の移民を乗せて、はるか彼方の別惑星への宇宙の長い旅に出た蒔種船エリジウムのなかで、主人公がコールドスリープから目覚めるところから物語は始まる。ところが強制的に目覚めさせられたものの、なぜか宇宙船内は大半が電気が落ちていて真っ暗なまま、他の乗員はコールドスリープ中の上官一人を残して消えうせていた。主人公はコールドスリープの副作用で記憶の大半を失ってしまってる。やがて主人公同様に睡眠から無理やり目覚めさせられた上官とともに、この宇宙船のなかで一体何が起こったのか調べるために、上官の無線によるナビゲートを元に闇が淀む巨大な宇宙船内の探検を始めるといった内容。これだけでも面白そうでしょ。
特に前半の暗い船内をたった一人でケミカルライト一本を頼りに進んでいくところの恐怖感はエイリアンが本来与えてくれたはずの感覚そのものだったと思う。こっちも途中から化け物が出てきて、まぁこの最初の恐怖感はあまり感じなくなってくるんだけど、その代わりというか、眠っていた間に宇宙船で一体何が起こったのかという謎で後半は引っ張りまわされることとなる。結末はかなり意外なものが用意されていて、実は物語の途中にところどころで微妙に齟齬を感じる部分があり、それがこのラストへの伏線になっていたんだけど、おそらく初見でこういうのに気付く人はあまりいないんじゃないかと思う。
閉塞感たっぷりの宇宙船の中での暗闇の恐怖に、謎の化け物に襲われるサバイバルアクション、そして全編を覆う謎と思い切り意外な真相。こういうのを上手くさばいて目一杯エンタテインメントの形で綺麗に着地させた小気味良い映画だった。製作は駄目なほうのポール・アンダーソンだったんだけど、ちょっと見直してしまった。








日本公開時には残念ながらヒットしなかったそうだ。まぁこのタイトルじゃよほど興味を持った人しか見に行かなかったのも当然だと思う。




円と戯れ / Mort Garson - Ode to an African Violet

展望台1





丸窓





展望台へ途上





ゲートライト





展望台へ

2017 / 09
浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

浜大津の琵琶湖汽船の発着場。屋上の展望台へ上がる途中と、京阪浜大津駅近くの陸橋へ上り下りするエレベーターの乗り場から。琵琶湖汽船の展望台へ上っていくところは、目にして一瞬で気を惹かれ、これはシャッターを切らないとと思った場所だった。
円や球といった形に惹かれる。自然界に普通にありながら、誰かの意思が介在してるとしか思えない完璧な均整を保ってる、云うならばその中に容易く宇宙を内包しうる神秘の形態だ。
話は写真とはちょっと離れるけど、球体関節人形が好きなのも、この関節に埋め込まれてる球体の形がことのほか魅力的に見えるからで、球体関節人形はこの球体のおかげでその体の内側に完璧な宇宙を内包してると思ってる。この完璧な宇宙そのものの関節の球体に、大抵の球体関節人形にはゴムを通すためのスリットが開けてあって、実はこのスリットが見えるとわたしとしては人形のうちにあった関節の抽象性が一気に失われて、ただの関節を駆動させるための機構に過ぎないものにしか見えなくなってくる。このスリットだけで人形そのものが興ざめになってしまうわけだ。
ところが恋月姫の作る球体関節人形には、今はどうか知らないけど、わたしが興味を持って眺めていた頃のものには、この関節の球体にスリットが入っていなかった。これが結構な謎だったんだなぁ。あれでどうやって稼動する関節を実現させてるんだろうって。そしてこれは今も分からないままだ。一度2004年頃に京都三条のART ZOONで、「月の神殿」と題された恋月姫の人形の展覧会があって、その時にそれまで写真集でしか見たことがなかった人形の実物を見た。その展覧会では腕をつけてない状態でシーンを作っていた人形があったんだけど、それをを見ても結局この球体の秘密は解けなかったのが記憶に残ってる。
展覧会で見た人形は思いのほか小さく華奢で細部の細工が繊細きわまっていたのが印象的だった。秘密を知りたければ一体買えば良いというものだろうけど、作家性が極めて強く、美術品の如くオーナーに名前を連ねてしまうような代物なので、きっと高いだろうなぁ。
そしてもう一つ、窓を通してみる行為も好き。この場合丸い窓だからさらに魅力はアップしてる。窓を通して、ある区切られた領域として目の前に現れる空間は区切られ選ばれることでなにかその場にしかないような特別なものを纏い始める。窓を離れて眺めると、その特別な何かは夢から醒めたかのようにあっという間に霧散してしまって、目の前の空間はごくありきたりの日常としてそこに転がっているだけのものへと立ち返る。
似たようなものだと演劇の舞台、映画のスクリーン、そしてカメラのファインダーなんかが挙げられるかな。この三つは暗闇に縁取られてまた位相が異なった現れ方をするけど、基本は窓から眺める行為と通底してるように思う。窓に囲まれて目の前に現れるこの世界と明らかに切り離された何かがあるのを覗き見る。その覗き見る行為はどこか冷たく暗い欲望に裏打ちされてるような感情を伴ってる。ある種見る事のいかがわしさのようなものなのかもしれないけど、視覚が持つそういういかがわしさは、少なくともわたしにとっては魅力的に見えたりする。

☆ ☆ ☆

フジフィルムが出していたカメラ、ナチュラクラシカとそれ専用のフィルムのような印象だったナチュラ1600の組み合わせは結構お気に入りの雰囲気に絵を仕上げてくれる。最近この組み合わせにちょっとはまり気味で、撮り終えてはまたこのフィルムを買い足して連続で使い続けてる。
全体にざらついた粒子感も好きだし、若干スミが入ったような色合いも良い。でもこの色の感じ、家のスキャナーで読み取っても全然こんな感じに読み取ってくれない、もうこの色の感じを引き出すにはお店頼りになってしまって、このフィルムを使った時は店でデータCD化してもらうのが常となってしまった。
しかしこのところのお気に入りで気分よく使ってるのに、あろうことかフジフィルムはこの魅力的なナチュラ1600をどうやら来年で生産終了させるつもりらしい。これは本当にがっかり。これでカメラも含めてナチュラ関係のものは全滅することになる。こうなるとまだ売ってるうちに一杯使っておこうと思ってるけど、いつか復活すると良いなぁ。

☆ ☆ ☆

Mort Garson - Ode to an African Violet

シンセサイザー黎明期のサイケデリック・エレクトロ・ポップという感じか。植物と植物を愛する人のための、温かいアース・ミュージックという副題がついてるように、ヒーリング・ミュージックのような体裁をとっているものの、どこかモンド感の漂うサイケデリックな雰囲気がある。もとはマットレスのプロモーション用に作られたものらしいんだけど、そんな限定された用途を容易に超えていくものがあるように思えるなぁ。
1976年のアナログシンセのチープな音が曲想を盛り上げて、なんだか儚くおぼろげな美しい音空間を作ってるのが心地良い。




リンクを収得しようとして商品ページをみてみれば、あなたはこの商品を○○年に買いましたとあったので、自分のはアマゾンで買ったんだったと思い出した。それにしても今は無茶苦茶な値段の中古しか出品されてないなぁ。自分のはストラップが切れて一度地面に落としてるし、外側もちょっと塗装がはがれたり傷ついてきたりしてるから、もう一台予備に欲しいんだけど、またフジフィルムが新品で販売してくれないかな。