廃屋のマリオ + WIM WENDERS Journey to Onomichi

廃屋のマリオ
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





地下通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Acros 100


去年山科で撮っていた写真から。
最初のマリオは潰れたゲーセンの窓から見えたもので、がらんとした空虚な空間の中に、何の筐体なのかよく分からないけどマリオの人形がついてるものが置かれていた。でもこの撮り方だと、時間だけが降り積もってるような空虚な感じはまるで出てないなぁ。
全体にガラス窓やガラス扉で閉ざされ、わたしのいる空間から隔絶されて、それでもガラス越しにかろうじて様子が窺えるというような状況、到達不可能ななにかが、そのガラスや扉の障壁の向こうにあるという感じ、そんな感覚が好きなんだろうと思う。

先斗町の歌舞練場の入り口から垣間見える、鴨川からの逆光が薄暗い空間を照らしている様子がちょうどそんな感じで、これ一度写真に撮ってみたい。歌舞練場の催し物とかまるで興味ないから場違い感が甚だしいけど。

最後のは山科の駅のトンネル状の通路なんだけど、こういうイメージはよくあるなぁと思いながらも撮ってしまったもの。かなりベタなイメージの写真。ベタでも自分が納得するために撮ってみたかった。

FM3Aは夏が始まる少し前にアクロス100のフィルムを入れたまま、夏の間は放置状態。モノクロのフィルムは自分で現像を始めてから、お金出して現像を頼むのも何だか馬鹿らしくなってるんだけど、夏の間はダークバッグの中でフィルムをリールに巻き取るのも、手が出す湿気でフィルムが上手く巻けなくなることがあるし、現像液の温度の管理も大変なので、自分で現像するのもどうも気が進まない。お金払って現像してもらうのも、自分で現像するのも躊躇うとなると、結局このFM3Aに入れたモノクロはなかなか使う気になれないままに一夏越えてしまうこととなった。
季節一つ分モノクロで撮ってなかったから、そろそろこれを持ち出してみるかなぁ。
レンジファインダーだとかコンパクトカメラで撮る写真と一眼レフで撮る写真は随分と撮る態度が違うし、そういう違いが写真にも乗っかってくると思う。

☆ ☆ ☆

そろそろ二週間くらいになるんじゃないかと思う程に、曇りと雨の日日が続いてる。台風が締めくくりになるかと思ったのに、気象庁はまだこの先も曇りと雨の日が続くとつれない予報を出してるし、こうなると室内で写真撮る方向も考えたほうがいいんじゃないかと思ったりもする。

台風がやってくる前日、近所へ買い物に行こうと玄関を出ると、家の前の道路の真ん中に蝶が羽を開いて落ちていた。手を出すとまだ逃げようとするくらいの動きは見せるんだけど、羽は開いたままで動かずよたよたと這い回るのみ、見るからに力尽きようとしているのが分かる。
道路の真ん中だとまず自動車の下敷きになるだろうから、とにかく拾い上げて、近くの植え込みの葉っぱの上に乗せておいた。
買い物から帰ってきて植え込みを見ると乗せたのと同じ場所に留まってる。あぁやっぱりもう動く気力も残っていないんだと思ったけど、これ以上はどうしようもないのでそのままにしておいた。
そして翌日の台風襲来。風はまるできつくなかったけど雨は結構降って、夕方台風が去ってから買い物に出かけようとして、あの蝶はどうなっただろうと思い、乗せておいた場所をみたら、乗せておいた葉っぱの真下の地面、雨水で濡れた場所に広げたままの羽をへばりつかせるようにして落ちていた。
空を飛ぶ羽を持つものが地面に落ちているのをみるのは、たかが蝶だとはいえ痛々しい感じがする。この羽を羽ばたかかせてどういう世界を見てきたんだろうと思う反面、だだっ広い空を一匹で飛び回り、この場合はたまたまわたしが見つけたけれど、誰にも知られずに台風の中濡れた地面に落ちていくことへと収斂していったその孤独にも思いを馳せる。
この世界は随分と無慈悲だと、こんな残酷な世界を作った神様はひょっとしたら三流の神様だったんじゃないかと、朽ち果てていく蝶一匹に、孤独だとかなんだとかなにを大層なという感じだけど、ふとね、そんなことを思った。

台風は今回のは雨台風だったようで、こちらは暴風も吹くことなく何だか腰砕けで通り過ぎていった感じだった。台風の影響は台風そのものじゃなく、台風が去ったあと買い物に行って帰り道の最中に濡れた鉄板の上に足を踏み入れて滑ってしまったこと。何年か前に腕の骨にヒビが入った転倒と同じことをやってしまって、卵も入った買い物袋を派手に放り投げて、しりもちをついた時は、思わず悪態が口からでた。でも一夜明けて今これを書いてる状態では多少筋肉が痛む程度でほぼ影響がなかったようなのでホッとしている。以前に腕の骨にヒビが入った時は5,6時間で痛さのあまり腕が伸ばせないようになったし、一月以上首から攣っていて、首のほうが不快度最大級になっていた。不自由だしあんな体験は二度としたくない。
それにしても足を踏み入れるのが分かってる場所で、すべすべの鉄板なんていう、何であんな摩擦係数の少なくなるものを敷くのかなぁ。使う以前に足場として使用する材料にそもそもあんな素材を選んで作ってること自体が理解しがたい。


☆ ☆ ☆

ヴィム・ヴェンダースの撮った写真の写真集「Journey to Onomichi」

ヴェンダース 尾道1

映画監督の中には写真好きの人がそれなりにいるらしく、中には自分の撮った写真を纏めて写真集という形で世に出している監督さんもいる。
ヴィム・ヴェンダースもその一人。ナスターシャ・キンスキーが出ていた「パリ・テキサス」を撮った監督だ。ヴェンダースの写真集は何冊か出ていて、これは2005年、夫人とともに尾道、直島、鞆の浦などを旅して回った時のスナップ写真を中心に纏められている。
尾道といえば大林宣彦の映画なんかで見るイメージが大きいと思うけど、坂道の街とか、そういうイメージを期待してこの写真集を開いたなら、おそらく間違いなく途方にくれる。なんだこれは?って。
この表紙の写真とか、尾道水道を撮った写真なんかは尾道という言葉で感じるものを想起させるようなところがあるけど、そういう写真はあまり入ってない。ほとんどが何かしらのありふれた被写体がごろんと画面の中に、あるいは無造作に置かれてるように見せかけて、でも背後では周到な構図的配置のもとで画面を作っていると云ったもののほうが多い。道路のコーナーなんかに立ててある丸いミラーや、より合わさってゆるい曲線を描きながら画面の真ん中を降りてゆく一本の木の枝の写真、群れを成す野仏、街中の小さな寺の墓地、道路の曲がり角。
こんなものをこんな風に撮るかという面白さはある。でもその一方で、ヴェンダースは旅の途上で目にした特別なものを写し取っていたと云ってるんだけど、日本人が日常で見ていてそのまま回りの空間に溶け込んでいるものが多く、ヴェンダースが特別なものとして認識したようには、あまり認識できないようにも思う。
「見いだされた物」の写真であるのは確かだろうけど、写真集を眺めていると「見いだされた物」の纏う特殊性はそれほど強調もされていない写真のように見える。これは見慣れすぎた道路のミラーにどう転んでも特殊なオーラがあるようには思えない日本人の感覚と、日本以外に基盤を持つ人物の見る眼との違いなのか、あるいはヴェンダースが垣間見たと思った特殊性を、あえて纏わせないようにして撮ってる結果なのか、どちらなのかはよく分からない。
はっきり云ってあまり媚びないというか、取り付く島がないというか、何気なくこの写真集を開いたらそんな印象を受けると思う。
でも個人的には特殊性で見るものを絡めとろうとするものよりも、情緒や物語性をあまり乗せていかないドライで硬質な写真のほうが好きだったりするところがあるから、ちっとも尾道的じゃないこの写真集も尾道が見当たらないと放り投げることもなく、かと言って見ていて凄く楽しいとか、写真を撮る上で刺激になったとまでは行かなかったんだけど、それなりに関心を持って眺めることが出来た。
ミラーであること、垂れ下がる木の枝であること以外に何も写そうとしてない写真はある意味謎めいている。

ちなみにこの写真集の中で一番好きなのはこの下の喫茶店の、奇妙なソファを撮った写真だ。この写真集の中、尾道的な写真以外で、その特殊性が分かりやすい写真だと思わせる写真じゃないかと思う。




ヴェンダース 尾道3




ヴェンダース 尾道4









流通しているものが途切れると、写真集の場合は一気に値上がりする感じだなぁ。わたしがこの写真集を買った時は、よく憶えていないけど確か2000円を少しオーバーするくらいだったんじゃなかったかな。結構売れていた写真集でも、流通在庫が無くなればそれで終わり。まず再版もされないし、流通している時に買い逃すと、写真集は適切な価格では本当に手に入れにくくなる。
ヴェンダースの写真集はもう一冊欲しいのがあるんだけど、こっちは買い逃してしまって今は古書が高値止まりになってる。



矩形変奏曲

矩形変奏曲
2016 / 09 / 写ルンです シンプルエース





不揃いの矩形たち
2016 / 09 / 写ルンです シンプルエース





かかしの夏
2016 / 09 / 写ルンです シンプルエース


数日前、電車の吊り広告で知ったんだけど、彼岸花の英名はRed Spider Lilyなんだそうだ。ずっと何となく不気味な花だと思っていた理由の一つに思い至り、そうかこの世界の花じゃない存在感のほかにも蜘蛛に似てるところが不気味な印象を作っていたんだと、これは大いに納得するところだった。

今年の夏は最後になってからとんでもない締めくくりを用意していた。どんな締めくくりがやってきたかというと、それはアラクノフォビアなら悶絶必至の蜘蛛、アシダカグモが我が部屋に侵入してくるという形を取ってやってきた。
蜘蛛の写真は?写真のことを書いてるのに写真を撮らないでどうするという声が聞こえてきそうだけど、そんな余裕なんか簡単に吹っ飛ばしてしまうほどの蜘蛛で、何しろ日本では最大を誇る蜘蛛、ちょっと調べてみるとHuntsman spiderという名前で、実は日本だけじゃなく世界レベルでも最大級のものらしい。
たとえ写真に撮ってたとしても、こんなものの存在が我がブログを開くたびに現れるというのは、もう簡単に許容量を越えてしまってるから、載せることなんて絶対に出来ない。ということでどんな蜘蛛だったかはアシダカグモで検索してもらうと山のように写真が出てくるから、そっちのほうで確認して欲しい。2chだとアシダカ軍曹というニックネームがついてるほどある意味人気者の蜘蛛でもあったりする。
目の前に現れたのは今現在のところでは回数としては2回。最初の遭遇はPCのモニタを眺めながらブログ巡りをしていた時だったんだけど、ふと視線をモニタの斜め上の壁にやったら、自分では自覚はしてなかったけどおそらく何かの気配に反応してそっちに視線を向けたんだろう、その視線の先の壁に中程度のお皿ほどの大きさの蜘蛛が八本の足を目一杯広げてへばりついていた。
あのね、こんなものに不意をつかれると、思わず叫び声に近いものがでるぞ。我ながら映画なんかでこんなシーンが出てきたらベタな演出だなぁと思うに違いない反応を返してしまって、でもそんなことを考える余裕もなく、何しろ声を上げたことで向こうも吃驚したのか、壁から跳んで、下の棚においてあったフラットベッド・スキャナーの上に、八本の凶悪に長い足を振り乱し、音を立てて落ちてきた。落ちた時に音を立てるほどの質量がある蜘蛛とか想像できる?ちなみにアシダカグモはゴキブリの天敵で、巨大なわりにゴキブリに負けないくらいすばしっこいんだけど、こういう時は走り去るよりも逃げる速度が速いから壁から問答無用で離れ落ちてくる。
わたしは一瞬PCの前から離れようとしたけど、アシダカグモのほうはスキャナーの上に落ちたあと慌てふためいて棚の向こう側に入り込んでしまったので、PCの前から離れようとしたままちょっとの間その場で固まってしまった。


☆ ☆ ☆

蜘蛛との顛末を書こうと思って始めたけど、蜘蛛のことを書いた文章が記事内で大きな場所を取るのも何だか嫌気がさしてきたので、この辺で止め!

今回の写真はこの前の記事で云っていた、この夏中持ち歩いていた写ルンですから。
こういうカメラとかトイカメラを好んで使うのは、高級海外ブランド機材とかそのスペックだとか、レンズの味だとか解像度がどうのこうのとか、そういうことどもに何だか捉われてうんざりしてきた時の、ある種の毒消しみたいな意味合いがあるんじゃないかと自分では思ってるところもある。いつだってこれ以上にないほどシンプルに、写真を撮るとはこういうことだよと囁いてくれそうなところがあって、その囁きを耳にしながらシャッターを切るのは沈殿物でよどみそうになってる精神のある部分を確実にリセットしていってくれて、気分も軽くなるような気がする。

最初の二枚は祇園白川。青空をシュールに変える案山子は小椋の干拓池の通学路に並べられていたものの一体。これが一番目を引いた案山子だった。
真ん中の壁の写真はパターンになりそうでならない、纏まってそうでどこかちぐはぐな印象が楽しい。ちぐはぐな印象で纏まってるなんていう言い方をすると、イメージもどこかトリッキーなものに見えてきたりして。
祇園白川といえば靴下を履いた人懐っこい野良猫がいた。今年の夏も久しぶりに歩いてみてあの猫に会えるかと思ったものの結局会えず仕舞い。餌をやっていた料亭の路地裏空間に何時も置いてあった餌の容器も片付けられてたし、もうここにはいないのかな。猫って不意に目の前から姿を消してしまう印象があって、まだどこかの路地裏を歩き回ってるなら、もう一度出会ってみたいところだ。





いつも現像を頼んでるフォトハウスKの店先には、このところフィルムあります、写ルンですありますと書いた立て看板が入り口に置かれてる。仕入れたもののあまりにも売れなくて出てる看板なのか、よく売れるからもっと売るための看板なのかどちらかは分からない。でも夏の真っ盛りの時にヨドバシカメラで防水仕様の写ルンですを買ってた女性を見かけたことがあるし、それなりに使う人は増えてるのかもしれないなぁ。何にしろフィルムを使う人が増えるのは仲間が増えてるようで頼もしい。
音楽だとアコースティックと電子楽器は何の苦もなく混在しているのに、なぜ写真は一つの選択肢しか取ろうとしないんだろう。





さらば夏の光たち

出町の夏空
2016 / 09 / Olympus Pen S 3.5 / Kodak SuperGold 400





夏草のベンチ
2016 / 07 / Konica C35 EF / Lomography Colornegative 400





夏の校舎
2016 / 07 / Konica C35 EF / Lomography Colornegative 400


語尾がちょっと違う吉田喜重の映画のタイトルやね。吉田喜重の映画はもう凝りに凝ったスタイリッシュな映像の集積物と云ってもいいような映画なので大好き。これは単純にタイトルとして思い浮かんだだけだったけど、思いついたついでに、映画のほうもまたちょっと見てみようかな。何だか内容よりもその内容を形にしている構造や形式のほうに反応しがちなわたしの性癖がよく出ている映画の好みのような気がする。

最初のは出町柳の辺りの鴨川、夏草のベンチと夏休みの校舎は藤森神社の近くで撮った。
出町柳は加茂大橋から鴨川デルタを望むようなロケーションを良く見るけど、わたしはむしろ鴨川デルタに降りて、出町橋のほうを向いた空間のほうが好き。以前大阪の大川を源流までさかのぼって写真を撮り続けていたことがあったけど、出来上がったのを見た時にその頃のことを思い出した。あの時は川と橋をうんと下に配置して空が圧倒的な分量で画面を占めるような撮り方を意図的にやってたんだけど、今回のはちょっと大人しめかな。9月に入ったというのに、この夏こんな夏っぽい空が広がったのを始めてみた。
ハーフカメラで撮るような対象でもないなぁと思ったものの、普通の一コマの半分しかフィルムを使わない細部の解像感のなさが、むしろちょっとした雰囲気を付け加えているかもしれない。

ついでに書いておくけど、ペンS3.5は今回も単体の露出計を持たないで使っていた。露出計のついてないカメラを使う時単体の露出計があるともちろん露出値はどうなんだと迷うことはない。でも実際はそんな細かいことを考えなくてもあるパターンを覚えておくとそんなに失敗もせずに写真を撮ることができる。
考え方は太陽の光線は場所によって色々と強くなったり弱くなったりといった風に異なるわけではなく、どこにいても光量は一緒、というのが元になっていて、感度分の16というのが有名だけど、わたしは「千八(せんぱち)」のほうを使ってる。
感度分の16は晴天の時に感度400のフィルムを使った場合、絞りを16、シャッタースピードを1/400にすると適正露出になるというもの、感度100のフィルムを使った場合は絞り16、SS1/100となる。一方「せんぱち」のほうは感度400のフィルムを使って晴天の時に絞りを8、シャッタースピードを1/1000秒にすることで適正露出になるという設定方法だ。感度分の16は自分でやってみた感じだとアンダー気味になるように思えて、ネガを使う分には、こっちは逆に若干オーバー気味になるんだけど「せんぱち」のほうが破綻してない絵に仕上がる感じがする。フィルムは露出オーバーの方向での許容量はかなり広いから、失敗も少なくなると思う。ちなみにわたしの持っているニコンF3の露出計は「せんぱち」のほうの値に近い結果を示す。
で、晴天の時の露出設定、感度400のフィルムを使って絞り8、SS1/1000を基準にして、曇り、日陰はそこから二段開く、さらに夕方はその基準から三段、実は眼で見てるよりも意外と暗い室内で五段、夜は八段、逆光時はこの基本パターンにプラスしてさらに一~二段、それぞれ開く、とこれだけのパターンが頭に入ってるだけで、大抵の状況で本当に写真が撮れる。日がさしている場所と木陰のような場所が半々くらいで混在してる時は一段程度開くなんていう風にパターンを増やしていくと結構ニュアンスも拾い上げるような撮り方さえできたりする。
露出計のついてないクラシックカメラを使おうと思うなら、高い単体露出計に手を出す前にこういう方法を試してみるのも一興。こんな厳密性に欠けたやり方でも、意外にまともに撮れるから、結果に吃驚するかも。

面白いんだよなぁ。この簡単なパターンでも、知らないと昔のカメラは登攀不能な絶壁が立ちふさがってる如く、まるで何も撮らせてくれようとしないのに、こんな単純なパターンを知ってるだけで魔法のように写真を撮ることができるようになる。この違いの僅差が生み出す結果の格段の差。本当にこれは魔法の呪文なのかもしれない。


☆ ☆ ☆



いつの間にやら写ルンですの30周年記念バージョンの第二弾が出ていた。当然封入されてる記念グッズも第一弾のものとは違うようだ。
今回は違うカメラで撮った写真だけど、今使ってる写ルンですはあと5枚ほどで撮りきるので、撮り終えていいのかあったらまたここに載せてみるつもりだ。オークションで落としたカメラの試し撮りなんかしてたから、写ルンですは持って出てはいたけど、撮っていたのは単発的で、そんな使い方の結果として夏の始め頃からの季節一つ分の写真が詰まってるはず。正直何を写したかあまり憶えてないから、残り数枚早めに撮りきって現像に出すのが自分でも楽しみだ。



Joker、大阪の夏

ジョーカー
2016 / 07 / Konica C35 EF / Lomography Colornegative 400





細断
2016 / 07 / Konica C35 EF / Lomography Colornegative 400





破れ目に落書
2016 / 07 / Ricoh AUTO HALF E / Kodak SuperGold 400



大阪のアメリカ村で見かけたジョーカーの、これは案山子??
なんやこれ!と、思わずシャッターを切ったものだけど、これもまた自分だけが知らなくて、本当はアメリカ村のジョーカーとして誰もが知ってるものだった可能性もある。そうだったとすると、道頓堀のグリコの看板に、わあ、すごい!とばかりに一人で舞い上がってたようなもので、ちょっとかっこ悪いなぁ。
おまけにこういう特異な被写体なんかはこの前をカメラ持って通った人はおそらく100パーセント写真に撮ってると思うので、これも難波の巨大な信楽焼のたぬきと同じように、撮った瞬間に被写体が物珍しいだけでありきたりな一枚になってしまってる可能性もある。

ごちゃごちゃしたもの好きの好奇心が動いた写真。満遍なく散らばってるような様子が混沌としていていい。写真は引き算だなんてまるで思ってないし、おそらくこういうのが、自分が周囲の世界を見ている時の基盤になってる形なんだというような気がする。
で、フレーム内満遍なく散らばって混沌としていれば何でもいいのかというと、混沌と散らばっているものを前にしてもシャッターを切る気にもならない場合もあって、そこにやっぱりシャッターを切るきっかけになってる何かがある。でもそれが何なのかは自分でも分からない。

今年の夏はあまり写真が撮れなかった。いや、数こそいつもより少なくはなってるけど、一応撮るには撮っていた。なのにあまり撮れなかったという感触が拭いきれないのは、枚数を撮っていても今年の夏はこういうのを撮った!という実感のようなものが希薄だからなんだと思う。それなりに出かけてはカメラを構えていたけれど、あとで見直してこれは上手く撮れたなぁとか、こういうのも好きなんだよと認識を新たにするとか、自分の写真を楽しんだり考えたりすることがあまりできない季節だった。ここまで暑さに辟易するタイプじゃないと思っていたけど、今年の暑さにはどうにも我慢できないところがあって、出かけはしても写真を撮ろうっていう勢いのほうが負けてしまっていたところもあるし、被写体的にも感覚的にもなんだか既知のものばかり撮っているような気もする。
まだ残暑の真っ最中のようだけど今年の夏の纏めでもしてみれば、暑い暑いと、ただひたすら唸っていただけで、その間に夏のほうは目の前を勝手に通り過ぎて行ってしまったといったところかなぁ。

ちょっと仕切り直しをしてみたいところだ。






村時雨 + Melt-Banana - Free The Bee

·村時雨
2016 / 08 / Kodak Pony 135 / Kodak Super Gold 400





レジの光景
2016 / 08 / Kodak Pony 135 / Kodak Super Gold 400





かき氷とわらび餅
2016 / 08 / Kodak Pony 135 / Kodak Super Gold 400


ある日京阪の祇園四条で電車を降りて地表に出ようとしたら、地上は土砂降りの雨の真っ最中。これはその時地下から外に出る階段の途中で雨宿りしてる人を撮ったものだ。京阪が地下に入り込む東福寺の辺りは雨なんか降ってなかったのに、歩いてでも行けるくらい近距離の駅三つ分離れてるだけで、やかましいほどの音を立てて降る雨に取り囲まれていた。
まぁ、通り雨だと分かっていたから大人しくここで雨宿りしてたけど、思ったとおり程なく雲が切れ始めて、鴨川を眺める場所まで傘無しで出てこられるようになった。

夏のイメージは輝きに満ちた青空だとか、その青空で引き立つ入道雲だとか、降り注ぐ光の中で版画のようにくっきりとした影が作る超現実的な様相だとか、そういうのが頭に上ってくるものの、実際はあまり天気がよくない日のほうが多いんじゃないかと、冷静に見渡してみるとそんなことに気づき始めたりする。
湿った空気で大気が不安定だとか、そのせいで午後を少し過ぎた辺りから必ず薄曇の空になったり、この時のようにいきなり暗雲立ち込めて大雨が降り出したり、台風がきたりとか毎日そんなのばかりで、一面の輝きに満ちた青空なんてどこが夏の代表的なイメージなんだよと云いたくなってくる。誰に向かってなのか自分でも分からないけど、ともあれ一言云ってみたくなる。
カメラ持って出歩いてると、こういうことにはかなり注意深くなっていたりするんだな。

三枚目のは祇園白川の路地なんだけど、路地の向こうの出口のフレームの中を誰か横切らないかなと、いかにもベタなイメージを作ってみようとカメラ構えて待ち構えていたのに、こんなに観光客がたむろしてる中で、なぜか誰も通ってくれなくて、もういいやとシャッターを切ってしまったものだ。

☆ ☆ ☆

使ったのはコダックのポニーというカメラ。
kodak pony
軍艦部のミント系の配色と素材感が、どこかデボネアを思い起こさせて、トイカメラっぽい印象もある。見た目はちょっとチャーミングでまぁ確かに幾分かはトイカメラ的な部分もあるにはあるけど、一応きちんと作られた大衆カメラの一つといったところだろうと思う。昔のコダックのカメラで、当然コダックのフィルムの販促用途という目的を背負ったカメラだったので、写りに関しては見かけのトイカメラ風によらず結構しっかりとしている。といっても特徴があるかというとそれほど印象に残る絵を作ってくれるわけでもなく、味のある線を描けないけどそっくりに描くのは上手い絵描きが描いた絵のような感じか。最近家のスキャナーの調子が最低状態なので、フォトハウスKで現像してもらう時に一緒にデータ化したCDを作ってもらってる。そのデータ化してもらった結果の写真と、宥めすかしながら使ってみた家のスキャナでの結果の写真の印象が随分と違っていた。線を描く訓練が不十分な絵描き風の仕上がりはデータ化してもらったほうで、ここに上げてるのは家のスキャナーによるものなんだけど、こっちはそんなに新米の絵描き風でもなくて、どちらがよりフィルムに定着したものに近いんだろう?

うちのポニー135にはシャッターに若干難があって、バルブ以外4種類ある速度のうち最高速はまぁまともに動いてはくれるんだけど、それに続く中間速2種はたまに閉じるのがかなり遅くなる時があり、最低速はまず開いたきりで閉じてくれない。このたまに設定どおりに閉じてくれないというのが曲者で、最低速のように絶対にまともに動かないなら使わないんだけど、ほとんどは動いてくれるものだから排除することも出来ずに、この中間速のシャッタースピードを使う時はロシアンルーレットのようにスリリングな体験となる。
あと使いにくいというほどではないものの距離の表示がメートルじゃなくてフィートの表示になってる。これは1フィート約30センチとみなしてると、3フィートで約1メートルと、距離の目測に利用する程度のメートルへの換算はそんなに難しいわけでもなくて、すぐに慣れてしまうから、フィート表示のクラシックカメラもそれで敬遠するのは結構もったいないんじゃないかと思う。

こんなことを書いたから、予想できる通り、ポニーは目測のカメラだ。
子供用のトイカメラといい、こういう一般的な大衆カメラといい、プロカメラマンを相手にしているわけでもないカメラで、被写体までの距離を決めるのに目測が使われていたのが今もってどうも不思議で、昔の人は苦手意識もなく当たり前のように平気で、あの柱までは4メートルだなとか目測していたんだろうか。目測とかもうほとんど特殊能力で、なんだか一番難しい方法のようにも思えるんだけどなぁ。
もう一つ、ポニーのレンズは50mmで、こういう類のカメラではちょっと珍しい画角となってる。これが結構使いやすい。もっとも被写界深度を利用した目測となると、標準のレンズを使ったために広角のレンズほどには簡単ではなくなるところはあるんだけど。

☆ ☆ ☆

オークションを利用し始めてから、やたらとカメラが増えてきている。それも安いカメラばかり。出品されてるのは中古屋からさらに投げ出されてきたものとか、大抵ろくでもないものだと分かってるんだけど、使ってみたいと思っていても、そう思ったちょうどその時にその目的のカメラがリアル中古カメラ屋に都合よくおいてある可能性もほとんどない状況で、そういうものが出品されてるのを見ると、オーバーホール前提の代物だと分かっていてもやっぱり興味を引く。
一応ね、そんなにカメラを増やしてどうするんだとも思うところもある。何しろいくらカメラを持っていてもシャッターを押す指は一本しかないわけだし。
でも次にフィルムを入れるのはどのカメラにしようかと迷うのは結構楽しかったりするんだな。持ってるカメラが一台しかなかったら迷うわけにも行かないから、この迷うためにだけ数を増やしていると云ってもいいかもしれない。


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Melt-Banana - Free The Bee

意外と多彩な音を出してるノイズ・ギターと発狂した鶏のようなボーカルがかっこいい。特にボーカルはまるで声量がないんだけど、その声量のなさを逆手に取ってるような歌いっぷりが浮き足立ったようなドライブ感を生み出して面白いと思う。
ギターの人はこのマスクと帽子はやめたほうがいいと思うんだけどなぁ。あまり音楽にあってないような気もするし、顔を隠すにしてももっとケレン味のあるスタイルにしないと、それ普段着だろうと云いたくなるほど、あまりに華がない感じがする。

で、写真でこういう感じのものを撮るとするならどんな感じの写真になるんだろうかと思う。我が志向の一部は確実にこういう方向に向いているし、ゆるくてふわふわしたものよりもこういう世界のほうが居心地がいいところもあるんだな。