重力の庭 Gravity Garden / 松江泰治写真集 「 Cell 」

集積階段






焼肉






駐車ライト






浮き草
2017 / 02 (1)(2)(3)
2015 / 10 (4)
長池 / 近所
Nikon F100 / Contax T3
Lpmography Colorne3gative 100 / 400

日本語の単語だと、一文字違いのトマス・ピンチョンだ。
ちょっと特殊な言葉使いでかっこいいと思ったんだけど、Gravity Gardenと英単語に置き換えて検索してみると結構ヒットした。それもここで使おうとしていた意味とはまるで関係ない単語として。
ユニークな言葉を使おうとしても大概先に誰かが発想してる。こういうことを知ると本気でげんなりする。

一見なんてことのない光景であっても、どこか空間の質感が特別に見える場所がある。そこだけ比重が大きくなってるとか、さも異質の重力がかかっているような気配。というかどんな空間でも様々に重力がかかっていてそれは均一じゃない。その重力のかかり方の比率は主観的、わたし個人の関係性において発生しているだけでまるで一般的じゃないんだけどね。だから他人にとっては何だか重要に見える空間でもわたしにはさっぱり関心を呼ばない場所であったり、またまるで逆に、わたしにとっては特別な印象として繋がれる場所が、他人にとってはまったくどうでもいい空間であったりもする。
万人に一様に重力がかかっている空間もある。風光明媚な場所とか観光の名所とか。でもその重力のかかり方をしている場所は最近ではちっとも関心を呼ばなくなってる。カメラを持って対峙して、今一番興味を引かれるのはわたしとの関係において発生する重力の密度だ。
でもその空間の密度を写真の形に出来るかと云うと、それはまた別の問題になったりする。なかなか思うようにはいかないものだ。

三枚目の駐車場のライトと柱の写真は車の後ろの一部はもうちょっとフレームの中に入っていたほうが良かった。四枚目のは水面のグラデーションが上手くスキャンできなかった、もう一度スキャンしてみたい気分だけどしまい込んだネガを探し出すのに一苦労しそうで断念した。撮り終えたフィルムは数が多くなってしまって、有効な方法を思いつかずに上手く整理できなくなってきてる。
店で現像してもらってる場合はフィルムの先頭にナンバーを記したタグが貼られていて、一度これが上手く貼れなくて店の人にお詫びされたことがあった。わたしはほとんど意識してないタグだったので、なぜお詫びされるのか分からなかったんだけど、聞いてみるとこのタグのナンバーをフィルムの整理に使ってる人がいるという話だった。
みんなフィルムの整理には苦労してるんだろうな。


☆ ☆ ☆

T3
最後の花の写真を撮ったのがこのカメラ、CONTAX T3。
わたしの個体は若干アンダー気味に出てくるようで、これで撮ったカラーネガはほとんど壊れてるわたしのスキャナーだと結構読みにくい。ひょっとしたら元々ポジフィルム用にチューニングされてるのかな。
ヤフオクだと下手すれば今でも10万越えて落札されてる時もあって、コンタックス人気は衰えてない感じがする。
わたしが買ったのはヴォルフガング・ティルマンスが使っていたという理由でかなりミーハー的な動機だった。でもコンタックスのカメラはもう一つ持ってるTVSⅡとも、どちらも手にしている感触に独特のものがあってどこか馴染めない。一番はシャッターの感触で、ちょっと触れただけで落ちるくらい敏感すぎる。半押しの力加減は結構慣れが必要で、押し切るつもりもなかったのに、あっというまに全押し状態で一枚写真を撮ってしまったという事態になる。
よく写るカメラであるのは間違いないとして、わたしは昔中古を5万くらいで買ったんだけど、これでも値段相応かと言うとそれほどでもないかなと云うのが正直なところだったりする。使っている道具としての手に伝わる感覚って意外と思い入れに反映されるんだな。
と云う感じで、高価な買物だったわりにいまひとつ思い入れをこめられないところがあるT3だけど、最近使ってないしそろそろまたフィルム入れてみてもいいかも。

☆ ☆ ☆

松江泰治の写真集「Cell」
cell1

cell2

cell3

とってもユーモラスでしかも俯瞰好きの琴線に触れまくる写真集だ。わたしは本屋さんの店頭、写真集の棚で初めてこれを手に取ってみた時から欲しくて仕方なかった。結構高い写真集だったからなかなか手が出せずに、ヤフオクで手軽な値段で出品されてるのを見つけてからようやく手に入れることが出来た。
一見どうやって撮ってるのか不思議に思うんだけど、航空写真並みの視点から大判を使って撮った写真の、ごく微細な一部を正方形に切り取り、極端に拡大して一枚の写真にしているということらしい。
松江泰治によると人の眼はきちんと見てるようで本当のところはそんなに見てはいない。この作品群はそういう視点から、大判で細部まで写りこむ方法で撮った細部を微細に切り出すことで、見ていながら見ていなかった光景を見えるものにするといった意図で撮られてるらしい。
写真そのものは切り出す全体の大判写真を提示してるわけじゃないから、元がはるかに大きな写真だったというのは直接的には説明はされてないんだけど、大判で撮ってもこれだけ小さな部分を切り出すとざらついたテクスチャになったりするから、非常に小さなポイントを凝視しているのだという感覚は良く伝わってくる。この感じは盗視という感覚に非常に近い。密やかな誰も注視していないところをたまたま息を呑んで盗み見ているといった感覚だ。キャンディッド・フォトなんかが近そうに思えるけど、盗み見ている感じはこちらのほうが格段に強くなってる。人の秘めた生活の一部を遠くから知られずに覗き見ているんだという、この下世話でちょっと背徳感を裏打ちにしているような感覚がなかなか楽しい。
被写体は圧倒的に人。カメラの前で取り繕わない、人のユーモラスで愛らしい様子が写真集全体に散りばめられてる。人の様子を写すものとして、雑踏を写したものとはまた別の感触があって、人の存在に対する親愛の情はむしろこっちのほうに満ちているような気がする。
それに、この写真集の成立はかなりコンセプチュアルなものなんだけど、イメージの出来としてもきちんと絵として成立しているのがいい。コンセプトなんか関係無しでもイメージ的にだけで見るに耐える画像に仕上がっている。全部真四角のフレームに納まってる写真で、真四角フレームだと途方にくれる場合が多いわたしにはスクエア・フォーマットの使い方、絵の作り方で非常に得るものが多い感じがした。






アマゾンでも中古を出品してる業者がいた。でもこれ、買う人いないだろう。




ロモのやっすいフィルムの中でオーソドックスなネガフィルムとなると、この感度100のがお気に入り。感度400はもう一つだなぁ。
先日ビックカメラに買いに行ってフィルムの冷蔵棚の中を見れば、置いてあったロモのこのフィルムは消費期限が来年の夏くらいのものばかりだった。若干古いのが置いてあるままといった印象で、ひょっとしてロモはもうフィルム作るのをやめてるってことはないだろうな。あのアナログのトイカメラで遊びたおしてたロモもデジタルの製品を少しずつ増やしてるし、その延長でフィルムの生産をやめるなんて云い出さないで欲しい。



コンセプトが前面に出てくるものは写真に限らず美術なんかでもあまり好きじゃないんだけど、これは写真としても面白かった。
ただ、どうもどこかでこういうのを見てるような気がするという感覚が本を開くたびに呼び起こされて、後で気づいたのはグーグルマップに感覚的に近いんじゃないかということだった。無限にクローズアップできるグーグルマップがあれば、きっとこんな感じのイメージが得られるはずだ。でもグーグルマップは無限にクローズアップできないし、やっぱりこの写真集が唯一無比の存在であることには変わりないんだけどね。




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浸潤 Shadows Within and Without

駐輪場





天女






陰鬱な鯉






密枝
2017 / 04 (1)(2) (4)
2017 / 05 (3)
新祝園 / 近所 / 高の原
Canon Autoboy FXL / Olympus μ2
Fuji Presto400 / Kodak TriX を自家現像。


ー 口の中にも握った拳の中にも影ができるだろうが。

昨日「スウィートホーム」を見ていたら、伊丹十三演じる謎の老人山村の台詞にこんなのがあった。悪霊と化した屋敷の住人間宮夫人の潜む闇へ入りこもうとして山城新吾演じるTVディレクターが撮影用の照明を持ち込もうとする場面で、その行為を咎めた時の台詞。なんかね、どんなものでもその内に闇を内包しているという風に読み取ってみると、ちょっとかっこよくて印象に残った。
真っ二つに切断されて上半身だけで床を這い回る古舘伊知郎とか、ローファイのSFXがちゃちなんだけど趣向を凝らしてなかなか楽しい。CGI全盛になってからこういう楽しさは本当に映画から霧散してしまった。
映画は監督をした黒沢清と製作総指揮だった伊丹十三との間で生じた訴訟騒ぎのせいで未だに封印されたままで、そのトラブルがこの映画にかえってカルト的な価値をつけてるところがある。そういう封印された映画なんていう余計な要因に釣られて期待を膨らまして見ると肩透かしを食らうかもしれないけど、でもふつうにホラー映画としては結構しっかりと、つぼを押えた作りの映画になってると思う。
山村老人の辺鄙なガソリンスタンドの雰囲気といったところまでも、おそらく製作陣がこれまでに影響を受けたアメリカのB級ホラー映画の雰囲気を持ち込んで、そういう洋画ホラーの洋館物のタッチのなかに和風のじめじめした気味悪さを混ぜ込もうとしてる意図はきちんと伝わってくるような仕上がりになってる。訴訟の影響を未だに引きずって、封印されたままにしておくなんてちょっともったいない映画だと思う。
ちなみにゲーム版の「スウィートホーム」というものもあって、このゲームを世に送り出した製作チームはこれの発展系としてのちに「バイオハザード」を作ることになる。そういえば、ジル・バレンタインのコスチュームはどことなく「スウィートホーム」での古舘伊知郎の珍奇なコスチュームを連想させる。ゲームの「バイオハザード」はやがてハリウッド映画としてシリーズになるほどヒットして里帰りすることになるわけだけど、あらゆるものが因果の巡る網の目の中にあるって云う感じがするなぁ。
もうひとつ、この映画の製作総指揮をした伊丹十三とわたしは誕生日が一緒。伊丹十三の映画はわたしには一回見たらそれでいいと、見ている間は楽しめるものの正直そんなに後を引かない映画になってるんだけど、こういうところではちょっと親近感がある。

こんな風に書いてみて、写真も何回も見たくなるようなのがいいんだろうなぁなんて思った。


☆ ☆ ☆


汚いガラス越しに見えた駐輪場、天女の色っぽい腰つき、陰鬱な鯉のぼり、異界の茂み。

自らのどこか深いところからから滲み出す闇と、その自らの滲み出す闇に浸されそのなかに沈み込んでいく事物。最初の小汚い窓ガラス越に眺めた駐輪場と最後の写真はそんな感じだろうか。

最初のはガラスの汚れがどう出るか偶然任せで試してみたかった。最後の茂みの写真は最初から対象は異様な感じで目の前にあったし、それが切っ掛けでシャッターを切ったものの、こういう異様さをブーストされたようなイメージに結実したのは半ば偶然の産物だった。
そういう偶然を呼び込むのも才能のうちと思ってるので、そういう才能を振るえるほどにのばしてみたいものだ。偶然とかチャンスを呼び込むって、他の表現分野でも意外と重要な要素になってるんじゃないかと思う。それを足がかりに自分では乗り越えられなかった方向を見出せるかもしれないし、そうやって表現を拡張していった先人たちは一杯いると思う。特にシュルレアリスムの信奉者なら、こういう考え方には馴染みがあるんじゃないかな。
だから失敗や思いもかけなかったものは本当は喜ばなくちゃいけない。成功したものよりもそこから引き出せるものは多いかもしれない。意図通りに出来たものなんかよりもよほど面白い。


fxl
使ったカメラはキヤノンの昔のコンパクトカメラだ。これ、上面のスイッチでストロボをオフに固定しておけるのが意外なほど便利。この手の昔のファミリーコンパクトカメラは上手い下手は別にして、とにかく何かが写ることだけは絶対に保障しておかなければならない、予想外に暗かったからといって撮影に失敗してしまうのはどうしても避けるべきだというような設計になってるから、ストロボを使わない設定にしていても電源OFFにするとリセットされて、やたらとピカピカ光るカメラとなるのがほとんどだ。わたしは最近はストロボも躊躇無しに使ってるからこういうのはあまり関係なさそうに見えるけど、どうしてもストロボを使いたくないという時もあって、そういう時にいちいちストロボの設定がリセットされないのは単純なわりに使い勝手はかなり向上する。
このFXLを防水仕様にしたカメラとしてAutoboy D5というのがある。中身は同じなのに見た目はまるで違って、マリンスポーツにいかにも合いそうな、水の中に落としてもすぐに分かるような派手な外観になってる。たまにオークションに出てくるのを見て入札しようとするんだけど、最終的に妙に高い落札額まで上がってしまうので、未だに手に入れていない。コンパクトな防水カメラは電池蓋の爪が折れてビニールテープで止めてるオリンパスのμ2を持ってるだけなので、安くて使い易いコンパクトな防水カメラを画角違いで何台か欲しい。









青嵐 / 森山大道 「大道 東京」

こいのぼり





翠明





翠門





樹霞

2017 / 04
2017 / 01
2016
2017 / 01
高の原 / 新大宮 / 近所
Nikon L35AF / 写ルンです シンプルエース / Fuji Natura Classica
Fuji 業務用400 / Kodak SuperGold 400

この前鯉のぼりを撮ったので、こんなの披露出来るのは今しかないだろうと思って載せてみることに。他も年は違えど5月に撮ったものと思って選ぼうとしたものの、結果は必ずしもそうは行かなかった。まぁ適当に、実際は一月に撮ってるようなものでも、今の季節っぽいかなと見えるようなのを並べている。
五月はねぇ、わたしの季節なんだわ。この世界に初めて触れたこの月が体調も気分も一番状態がいい。いつものほほんとして闘争心の欠片もないって云う、春の朧な性格を貰ったのは負の刻印と云えないこともないけど、それでもやっぱり五月が好きだ。


☆ ☆ ☆


daido tokyo 1

daido tokyo2

daido tokyo3

森山大道の写真集。というか2016年初頭にパリのカルティエ現代美術財団が開催した同タイトルの展覧会の図録だと思う。分量的には前半がカラー写真、後半がモノクロ写真の、ページ数でいくとほぼ同量の二部構成になってる。面白いのは後半のモノクロの部が別に単独の形で出版されてる写真集「犬と網タイツ」をそのまま集録してること。どうやら「犬と網タイツ」として撮られた写真群そのものがこの展覧会のためにカルティエ現代美術財団から依頼されたものだったらしい。いちいち確認はしてないけど、別途出版された「犬と網タイツ」の全写真がそのまま掲載されてるんじゃないかと思わせるくらいの大ボリュームとなってる。
要するに「犬と網タイツ」にかなりの分量のカラー写真を追加した一冊になっていて、単純に「犬と網タイツ」の内容を知るには「犬と網タイツ」を入手するよりもかなり得な写真集となってる。ちなみにこの写真集には犬も網タイツも出てこない。ボリス・ヴィアンの「北京の秋」のようなタイトルのつけ方だ。
ただ、「犬と網タイツ」がそのまま内包されているかというと、話はそこまで旨くできてはいなくて、まず印刷の仕様が異なっていて、こっちのほうは黒い紙にシルバーのインクで印刷、全体に白い部分がグレーがかった仕上がりになってる。また1ページに4枚の写真を並べているところがあって、1ページ1枚の写真を載せていた別途写真集ほど余裕を持った編集になっていなかったりもする。まぁそれでもまるで印象が異なっているわけでもないし、由来から言えばこちらがオリジナルともいえそうなので、やっぱり盛りだくさんのお得な写真集になってると思う。
モノクロを撮っているとどうしても森山大道が撮ってきたような写真に捉われてしまうようなところがあったりするんだけど、当の本人はそういう自分のスタイルにそんなに云うほど捉われてるようでもなくて、その辺の拘りのなさというか自由であり続ける感性はやっぱり凄いなぁと思う。これだけ森山大道風って云うスタイルが世間に広まってしまうと、本人はもう本当に撮りにくくなると思うんだけどね。
カメラやフィルムにもまるで拘らなくて、今やニコンの安いコンデジで撮ってるというんだから、この自由さ、ただ写真を撮るということができればそれでいいという、その一点に拘り続けてるだけという身軽さは凄いと思う。デジタルのカラーで撮ってる写真はどちらかというとデジタル特有のペラペラのイメージになってる印象なんだけど、だから駄目だと否定もしないで、デジタルがそういうイメージを生み出すならそのペラペラ加減をむしろ楽しんでやろうって云うところも見えて、そういうところの許容量の広さも興味深かったりする。
何だかもう散々見飽きてきたような気もする森山大道の写真も、新しい写真はどんなものかと実際に見てみるとちっとも飽きてないことに気づいたりする。見慣れて馴染んだ森山大道の刻印が押されていながら、それと同じ場所でまるで新しいイメージが生み出されてるのに見入ってしまってる自分がいる。
全体はまさしく都市の断片を撒き散らしたパズルのような写真群で、森山大道によって仕掛けられたパズル越しに見せる都市の表情は極めて異様で新鮮だ。

この本のレビューの、単に説明補助のために撮っただけの写真なので、遊びでちょっと日付を入れてみた。荒木経惟なんかは好んで日付入れてるけど、いつも撮っているような写真にこれを入れるのは結構勇気がいる。スナップ写真は一気にスナップっぽくなるとは思う。でもこういうのが効果的に見えるイメージをあまり作らないから自分の写真に入れるとやっぱり浮いてしまうかなぁ。

☆ ☆ ☆

GONTITI / 28

どこかで耳にしたような印象の曲だと、さっきまで悩んでた。喉元まで出掛かっていて、でもその正体がつかめないもどかしさで悶絶してた。さっきようやく思い出したんだけど、ピッチオーニの曲だ。旋律の端々でピッチオーニのArizona Dreamingを連想する。









奥山由之の新作の写真集が今月の二日に出版された。わたしは予約しておいたのでもうすぐ手元にやってくる。
ということで一応情報だけ。ポラロイドで撮ってるくらいの情報しか見てないから、中身については今のところ何も書けない。






辺境 / コニー・ウィリス「航路」

繋がる場所





行き止まりの陸橋





クレーン二連





木立の中の顔

2017 / 01
2017 / 03
2017 / 01
2017 / 03
近所 / 高の原 / 新大宮
Nikon F100 / Yashica Electro 35 GX
Lomography Colornegative 100 / Fuji Provia 100F


「辺境」という観念は結構好きだ。対立する観念は「中央」といったところだろうと思うけど、中央で正統的でふんぞり返っているようなのよりも、周辺でいつも中央を穿とうとする不遜な雰囲気が生じて来そうなところが好きだ。中央だけでは生まれなかったような動的な何かが生まれてくる場所のような気がする。あるいはまた、まったく同じ場所で逆に取り残されてその場で立ち腐れになっていくといった退廃的な雰囲気もある、オルタナティブな場所なんていうのはかっこよすぎか。
境界域というのも好きな観念だ。ここから先はもう明らかに違った世界が広がっているという予感。その瀬戸際に立っているという期待感と不安感。そんなのもひっくるめてわたしの「辺境」は成り立ってる。

住んでいるところだって京都の中心でもない。わたしの中には具体的にも観念的にも「辺境」が幾層にも折り重なって存在しているようで、写真も実際に「辺境」に立たなくても「辺境」的な気配に反応して撮っているところが多いかもしれない。
ということで最近は京都の南や奈良にいたる辺りの農地が広がる町外れに出かけては、世界の果てにでも降り立った気分でいるといったところか。実際には郊外といったほうがぴったりくるんだろうけど。郊外といってしまうと「辺境」という観念が含んでいたものが面白いように霧散してしまうなぁ。

☆ ☆ ☆

最近コニー・ウィリスの「航路」を読んでる。かなり以前に「このミス」で話題になった小説だったと記憶してる。最初に出た単行本はパスして、その後文庫になった時に購入。そしてそのまま積み上げてる本の中に紛れてしまってた。積み上げて放置していた未読本の切り崩しにかかってる一環でようやく手に取ったというわけだ。今やわたしの持ってる文庫とは違う出版社からさらに新しい形の文庫として出ているくらい買ってから時間が経ってしまっている。
で、まだ読み終えてなくて三部構成になる長大な物語の、今第二部の終盤辺り。噂ではどうやらこの部分にサプライズがひとつ用意されてるそうで、寸前まで来てこれはちょっと楽しみではある。
臨死体験がテーマの小説で、臨死体験で見た場所の謎解きめいたところがあるから、若干ミステリっぽい味つけをしてある。でもこの味つけで物語を引っ張っていくほどの牽引力は生まれてこなくて、今のところ小説としては冗長、本気で長すぎる。舞台はほとんど病院から移動せずに、臨死体験実験の被験者ボランティアが語る体験の内容が人を変えて延々と続くだけ。そういう動きのない物語を動的にするための仕掛けは横槍を入れ邪魔をしに来るキャラクターを多層レベルで用意しているのと、頻繁な行き違いを設定している程度で、メリハリをつけるためなのか何時行っても絶対に閉まっている勤務病院のカフェテラスなんていうあまり笑えないシチュエーションコメディの要素も織り交ぜて、これが動きやサスペンスを生み出すというよりもいちいち物語を中断させて鬱陶しい。
それにしても臨死体験をテーマに小説を書くって、まぁこの話の中のものは薬物を使って擬似的にそういう状態を作り出しているだけで、それは臨死体験じゃないだろうと突っ込みを入れたくなるんだけど、それはともかくこんなテーマでよく何か書こうと思ったものだと感心する。おそらくどんな作家でもこんなものを十全に描ききるには力不足だろうし、この「航路」でも今のところ書こうと思いついたことに、思いついたコニー・ウィリス自身の力量が追いついていないという感じがしている。

よく言われるような死んだ親しい人と再会したとか光に満ちた場所で天使にあったとか、世界の秘密を知ったとか、臨死体験のイメージにあるようなものは、見たいと思ったものを見ているつもりになってるだけとし、そんな作り話じゃなくて科学的アプローチで真相に迫ろうとする科学者が主人公になって、自らその臨死体験の被験者になりながらもそこで見たヴィジョンの意味、真相を探っていく。
臨死体験で流布されるお決まりのイメージに新奇な味つけをしてファンタジー交じりに語っても十分に形になる内容だと思うけど、何だかコニー・ウィリス自身があえて茨の道を歩もうとしているような展開のお話だ。

でも従来の臨死体験イメージを否定するのはいいとして、だからといって物語の中のプロジェクトが進める、それが瀕死の脳内化学物質の反応によって生み出されることの実証と解明なんていう結末に持っていくのは小説としてはまるで面白くない顛末にしかならないのも予測できる。
この物語は一体どんな終着地点へ繋がって行く航路なのか。それがなかなか見えないって云うのが面白いところではあるんだけど、これ、読者を納得させるには、死に臨んだ体験の先にあるものをよほど予想外でなおかつ十分に肯定できるものとして用意しておかないと話にならないわけで、他人のものとして間接的にしか誰も経験したことがない死という事象に対してこんなものを用意できるわけないだろうと思うと、やっぱり無茶なテーマに挑んでいるなぁというのが第二部の終わりくらいまで読んだ今のところの感想となってる。
だから物語そのものは動きがなくて冗長なんだけど、どう考えても困難そのものといったその航路が導く先の光景を見てみたい、作家の無謀な試みの結果を見てみたいと思う興味はなかなか失せない。
宣伝によるとすべての謎が解かれ、感動的な結末が用意されてるそうだけど、これは宣伝文句だからなぁ。さて最終の第三部はどんな話が待ってるんだろう。









路上 / 稲越功一写真集 「PARIS 1989」

反射の洪水





壁の領土





奥の暗がりへ





三角が空間を歪める






崩壊する反射

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 04
2016 / 04
2016 / 09
長池 / 新大宮 / 近所
Nikon F100 / Fuji NaturaClassica / Fuji 写ルンです シンプルエース / Nikon CoolPix S9700
Lomography ColorNegative 100 / Kodak SuperGold 400

最近の街路写真と以前に撮った得体の知れない写真のロートレアモン形式。

今回はどうにもタイトルを思いつかなかった。そのうち考えるのが面倒になってケルアックばりに路上と名づけてみるも、要するに今までの写真の大半を路上で撮っているわけだから、この命名は何も云っていないのに等しい。
何も云っていないといえば、最近は写真について説明なんかしないほうがいいんじゃないかと、これは以前から思ってはいたことだけど、この所ことのほかそういう風に考えたりする。とにかく撮った、そしてそれを見たと、これだけで十分で、そこに何が生まれようと、あるいは何も生まれるものがなくともそれがすべてでいいんだと思う。生まれたものがあったとしても、それが正解であるかどうかなんてどうでもいいし、そういう場所を生成するのに、この写真の意図はこういうものだとか、こういう風にして撮ったなんていう言葉はノイズにしかならないと思う。

☆ ☆ ☆

最近はデジタルで加工することに対してリミッターが外れ気味と以前に書いたことがある。で、加工することに抵抗がなくなってきてるなら、せっかくフィルムを使ってるんだからデジタル処理なんていう始めると意外と夢中になるも振り返れば大して面白くもないものに手間ひまかけるよりも、ここはサラ・ムーンを見習って、フィルムという物質に対していろんなアプローチを考えたほうが面白いんじゃないかと思えてきた。これこそフィルムでしか出来ないことだろうと思う。ただ、こういうことをやってしまうと絶対にもとに戻すことは出来ないわけで、その辺りは物凄く勇気がいる。サラ・ムーンなんかが持っているこういう思い切りの良さ、強さみたいなもの、元に戻せなくても一向に平気、むしろすべてが解体した先にあるものが見てみたいなんていう志向、欲望は結構すごいものだと思うし、わたしもそういう思い切りのいい強さのようなものが欲しい。なにしろすぐにまとまりのある、見栄えのいい収まった形にしてしまおうなんていうところがあるから。

☆ ☆ ☆

さっきネットでロバート・フランクがカメラ構えてる写真を見たんだけど、わたしと同じく写真家としては不自由な左目が効き目の構え方をしてるそのカメラは、どう見てもオリンパスのコンパクトカメラ、μシリーズのどれかだった。ロバート・フランクもこういう類のカメラの愛好者なんだ。ロバート・フランクの写真はスナップショットのお手本のように扱われてる初期の「The Americans」よりも、近年の曖昧で揺らぎの中にある詩的な写真のほうが好きなんだけど、この揺らぎの写真をμで撮っていたって云うことなのか。こんなものを目にしてしまえば、しまいこんであるμのどれかをまた引っ張り出さないと気がすまなくなりそうだ。


☆ ☆ ☆

パリを撮った稲越功一の写真集を紹介してみる。
レビューといえば最近はここで使っているのとは別の名前で、アマゾンで買ったものにレビューを書いてる。書いてみて初めて分かったんだけど、いちいちアマゾンから御礼のメールが来るのね。当社並びに Amazon でショッピングする数百万人というお客様方が大変喜んでおりますなんていう内容のメール。なんかね、根が単純なものだからそんなことを云われると、実利もないのにちょっといい気になりそうになるな。
ちなみにこの写真集についてはアマゾンで買ったものでもないしまだ何も書いてない。そのうち書くかもしれないけど、その時はここで書いたのと似たようなことを書いてしまいそうだ。
稲越パリ1

稲越パリ2

稲越功一は矢沢永吉など、タレントやアイドルを撮った、広告やポートレートの写真家として知られてる部分が多い。このせいでなのか、アート系の写真誌とかではこの写真家の名前はほとんど目にすることがない。でもわたしはこの人の撮った写真が大好き。数年前に亡くなってしまったのが本当に惜しまれる。
何で読んだかは忘れてしまったけれど、一緒に写真を撮りに行ってその場で同じものを見ていたはずなのにこの人だけはみんなと違った印象の写真を撮っていたという証言があった。云うならば普段何気なく見ている周囲の世界を独特の視線で切り取るのが上手かった写真家だ。それもわたしはこれだけ他の人とは違う感性を持っているのだ!なんていう押しつけがましく嫌味ったらしい部分もなく、本当に何気なく撮ってかっこいいという稀有な作家だった。
ちょっとね、この人の写真を見ていると秘密を知りたくなってくる。どうしてこんなに際立つ印象で写真が撮れるんだろう?一体他の際立たない写真とどこが違うんだろう?って、見て楽しむ以上に気がつくと考え込んでしまっていたりする。

この写真集はそういう小粋な感性を持った写真家がパリという手垢にまみれた古い都市を撮った写真集になっている。いとも軽々とこの歴史の積み重なった街を横断して、捉われ勝ちになるものから解き放たれてシャッターを切っている。ヴィム・ヴェンダースが解説で云っているように、既視感で満ち溢れたパリのイメージを解体し、見過ごしてきたパリのイメージを光の屈折と反射の中に再構築しているというのがよく伝わってくる。

アート系の写真家としてあまり扱われていないのが幸いしているのか、初期の手に入らなくなっている写真集を除いて、ほとんどの本が手に入れやすい価格で流通しているのも助かる。わたしはフォトエッセイの類の本を何冊かと、今では手に入れにくい大型のものを含む写真集を何冊か手元に持っている。ただフォトエッセイのように文章を織り交ぜての本となると、正直愛読するというところまでいったのは今のところほとんどない。この辺は写真よりも文章のほうが饒舌なんじゃないかと思わせる金村修のほうが、まぁ写真も書く文章もまるでタイプが違うんだけど、圧倒的に刺激的で読ませてしまう。
あと、稲越功一は写真家でも扱う対象に得手不得手があるんだなぁって云うのを明確に感じる写真家でもある。花を撮ったり、工場地帯を撮ったりしている写真もあるんだけど、この辺りのテーマで撮った写真は矢沢永吉の写真同様にわたしにはまるでピンと来ない。この気に入った写真家の写真だからみんな良いという方向には向かわない。工場や廃墟じみた被写体、金属属性の被写体なんかわりとどんな撮り方でも関心を引き寄せられたりするのに、まぁ関心を引き寄せられたからこそその手の物を被写体にした稲越功一の本も手元に置いてはいるんだけど、そういう本は一度目を通したきりで、積んだままになっていたりする。