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機械式辻占師言行録 / 打ち捨てられた月のための

チェアーズ





足元





沈む家





影の会話






赤いポスト





辻占
2015 / 12
Olympus 35 DC / Lomography Colornegative 400 (1)(2)(3)(5)(6 )
2013 / 02
ハチカメラ (4)
(4)(5)(6)はスクエアフレームにトリミング

辻占というのは言葉では知ってはいたけど、辻で占いをするんだろうとその程度の認識でしかなかった。最近本を読んでいて辻占というのが確かに辻で占いをすることなんだけど、占い師が辻に立ってなにやら占うというのでは必ずしもなくて、夕方に辻に立ってその場所を行きかう人々の話す声、ざわめきのなかから聴こえてくる言葉に、御神託を見出すという行為のことだと知った。夕方、おそらく逢魔時辺りの時間帯のことだと思うけど、その異界とこの世界が溶け合いそうになっている特別な時間に、辻という境界性の高い場所に身を置いて、意味としては形を成さないようなざわめきのなかにかすかに交じり合ってる彼方からの通信を受信する。なんかこれ、わたしが写真のことを考えてる時に頭に思い浮かんでることと良く似ている。ひょっとしてわたしが写真を撮っていることの意味合いって、写真で辻占をやっているということなのか。写真に逢魔時を呼び込んでオブジェの呟きを顕現させ、異界から届いてくる声に耳を傾ける、そんなことをビジュアル的な領域で成立させたいと思っているんじゃないか。そう考えると写真機は冷たい機械であると同時に境界を縦横無尽に横断するマジカルな装置でもあり、云うならば逢魔時発生装置でもあるのだろう。と、いつもの如く逢魔時だとか異界だとかもう何だか思い切り傾向性のある言葉を乱打しているけど、だからといって禍々しくも不安を誘う曇天に黒雲だとか、闇が集う森だとか、そういういかにもそれっぽい定型文のようなイメージで作るのはまるで面白くないしやる気もない。できることなら日常のあっけらかんとした昼間の遍く光の下で、決して地面に寝転がったりなんかはせずに、普段の立ち上がった目の日常的な位置からむき出しのオブジェの中へと分け入り、そのささやき声が聞こえてこないか試してみようと思ってる。まるで中井英夫が「虚無への供物」で謎めいた大伽藍などではなく、戦後の新興文化住宅を反世界へと一気に反転させたように。試みるならばこのほうが困難さゆえにはるかに面白い。今回の最後の三枚は普通に撮ったコマを四角くトリミングしてる。最近四角いフレームに物凄く興味を引かれていて、以前これほど苦手だと感じていたのが嘘のように写真といえばまずこの枠組みが頭に浮かんでくる。そこで以前に撮ったものをもしも四角いフレームで撮っていたらどういった感じのものになっていたんだろうと、ちょっとした好奇心に導かれて試してみたものだ。以前はトリミングは可能な限りやらないという何かの原理主義のような思考だった。この考え方はある部分わたしの中で未だに場所を占めていて、トリミングしてしまうと端正に思い通りの絵にはなるんだろうけど、同時に収まりかえって勢いの無い写真になってしまいがちだと思っている。特にレンジファインダーのようにファインダーで覗く世界とレンズが捉える範囲が微妙にずれてるカメラの利点はここにあって、完璧を期したつもりで撮っても、思うようには撮れない部分が写真に付加され、それが構図からずれてるだとか、余計なものが写ってるだとか、意図しては撮れないような不安定感、動き、ダイナミズムのようなものを呼び込む可能性を開いていた。トリミングしてこういうものを整理してしまうとこの可能性は完全に閉じてしまう。でも最近のわたしはそんな風に不完全さを可能性に転化させるようなことを考える一方で、この傾きや位置が思い通りじゃないことに我慢ならないとなると、トリミングは可能性を殺すなんていう頑なな思いとはうらはらに、わりと躊躇いなしにトリミングしてしまうほうが多くなってる。この辺の嗜好は何時までたっても着地どころを見出せずにわたしの中で揺れ動いてる部分かもしれない。イメージの開かれた可能性を殺してしまっても何か得るものがあるのかどうか、この辺りのことでトリミングしている時に思ったのは、こうやって後で手を加えることはシャッターを切った瞬間に写真の中に凍結してしまった時間に再び新たな時間を加える行為なんじゃないかということ。フィルムは時間経過によって劣化していき、そういう風に時間を取り込んで変化していけるのはフィルムの特権だと以前に書いたことがあった。こういうトリミングもそういう考え方の延長に位置づけられるんじゃないかなと思ったりした。潰瘍性大腸炎なんていう厄介な病気になって一番頭を悩ますのは食事の問題だろう。腸は内在するものでありながらも外部に開かれていて、食べたものは必ず腸を通って何らかの影響を与えていく。でもだからといって刺激を受けるのが怖いからと、ものを食べずにいるのはどうやっても不可能だ。ところが食事制限といったものが一番に出てきてもよさそうな病気なのに、この病気に関しては食べ物の制限については余り明確な形で定義されていないようにみえる。わたしの主治医も食べ物に関してはこの食べ物は絶対に食べては駄目といったようなことは特に何も云わないし、極端なことをしない限り、常識内で普通に食べていてもかまわないとする医者も多いようだ。理由は病気の原因そのものが不明であるのと同様に、どうやら医学的に食物が本当に潰瘍性大腸炎と関係があるのか、その因果関係が証明されていないからということらしい。食べ物に関してはこの食べ物を食べると必ず潰瘍性大腸炎を発症する、あるいは症状を再燃させるといった食べ物はなくて、その関係になにかありそうであってもそこは食べる人との相性のようなものに落ち着いてしまう。つまりある食べ物がある人の症状を悪化させたとしても他の人に必ずそういう状態をもたらすわけでもなく、それを食べてもまるで平気な人もいるっていうこと。まぁ常識的に唐辛子の塊のような食べ物は傷ついた腸壁を通過して絶対にいい影響は与えないと、そのくらいの判断は出来はしても、他の一般的な食べ物に関しては自分の体と相性が良いのかどうか自分を実験台にして確認していくほかないという感じになっているんだと思う。ネットでちょっと検索をかけてみるだけで、患者がこれはあまりよくなさそうって思ってる食べ物が一杯出てくる。牛肉豚肉は駄目、鶏肉、魚はまだ大丈夫、でも生の魚はやめたほうがいい、貝は全般的にどうやら無理そう、自分からは積極的に食べないからどうでもいいけど牡蠣はまず問答無用でアウト、乳製品は駄目、パンも駄目、コーヒーも駄目、砂糖も駄目、無類のカレー好きなのにスパイスの効いたものもまず全部駄目、油も全般的に駄目、そんななかでオリーブオイルはまだ使える、魚の油も大丈夫、ベジタリアンはどうするのと思ってしまうくらい野菜なんかの食物繊維はおそらく大半が駄目、牛蒡蓮根なんかはもってのほか、水溶性の食物繊維であるバナナは大丈夫、いやバナナも水溶性と云っても食物繊維に変わりないから良い影響は与えない、と、こういうのが延々と連なって目の前に積みあがってくる。食べ物だけに飽き足らず、コーヒーを飲みながら本を読むような時間までもわたしから奪っていきやがる。一応ね、そんな中でもこれはおそらくみんなが食べても大丈夫という食べ物も僅かにあって、でもそのリストアップされたものを見れば低刺激のおかゆだとかうどんとかそんなのばかりだったりするんだな。その絶対安全食品だけとっていれば潰瘍性大腸炎が再燃する可能性は低くなるのかもしれないけど、これはもう他のレベルで体を壊してしまいそうだ。一応世間の最近の話題にも乗っておくとして、数日前に新しい元号が「令和」と決まった。知識だけは豊富だけど言語的なセンス皆無の有識者とか云う人たちが集まって決めるようなものだから大したものは出てこないだろうと思っていたら、これは意外とそんなに悪くない。平成なんていう空気が抜けていくような音的イメージしかないものよりはずっといいと思った。「れい」はこの決定となった本来的なものをまったく無視して、極私的な音の響きの印象だけで云うと「零」であり「冷」であり「霊」であり「光線」であり、虚無や反世界へも回路が開けそうな予兆も覚えてわたしには何だかとてもかっこ良く聞こえる。平成なんていう響きでは本来的な意味も何もどのような形でも虚無への回路は絶対に開かないだろう。ただ元になった万葉集にはこの「令和」の「令」は「令月」という単語で登場して、元号にはそこから一文字取ったということらしいが、これ、「令月」そのままのほうがかっこよくないか。もとからイメージ豊かな言葉なのに、そのイメージを無効にしてまでどうしてそこから一文字だけ取ったんだろう。昭和と同じく「和」と結び付けてあるのは昭和生まれとしては決して嫌じゃないにしろ、元号には元の単語そのままでは使えないなんていう制限でもあるんだろうか。もし令月をそのまま使い、日出づる国の元号に「月」が入ったならば、太陽のもとに月まで包み込んでパーフェクトだったのに。


Vashti Bunyan - If I Were - Same But Different


どちらかというと歌そのものよりもVashti Bunyanの娘であるWhyn Lewisの、古代のどこかの神殿の壁画のように文様的で静謐なアートワークのほうが好みに合ってるかも。歌共々ルナティックって言う形容が意外なほど良く似合う。







こっちもルナティックといえばルナティックなのかも。創元社から出版されたこの文庫版中井英夫全集、刊行当時結局全巻揃えられなかった。持っていない巻は数冊なんだけど、今になって揃えたくなってきた。



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表徴 / Bat-Rat-Spider Creature

k





あちら





階段





天空の蜂





砕け散る光
(1)(3) Nikon Coolpix S9700 (2) Contax T3 (4) ハチカメラ (5) Fuji Clear Shot S AF
(2) Fuji 業務用400 (4) 110フィルム (5) Lomography Colornegative 400



去年の夏、それ以前から急降下しつつあった体調に対して、大腸内視鏡検査および組織検査等で潰瘍性大腸炎と診断される。その後一月ほどサラゾスルファピリジンの投薬、さらにその一月がすんでから薬をペンタサ顆粒に変えてさらに二ヶ月ほど、そしてその飲み薬にさらにペンタサの座薬を追加して去年の年末頃までにはわりと普通の体調に近づくところまではこぎつけることが出来ていた。ところが今年に入ってお正月を過ぎた辺りから症状が再燃し始めて、粘液と下血の大バーゲンセールと化す。一日に十数回、便器が血に染まるのを見るのは、その原因がわかっていて理屈として納得はしていても、感情は荒れ騒ぎ気が滅入ること夥しく、症状が収まりつつあった去年の暮れ頃には何だ難病と云ってもこれならどうってことないと思っていたある種の安心感ははかなくも崩れ去って、さすが難病指定を受ける病気だけあると思い知らされることとなった。安倍総理がこの病気で左翼の心無い中傷、嘲笑に晒されていたけれど、罹ってみるとこの病気の性悪さ極悪さを嫌というほど体感できる。何しろ外出が出来なくなる。いきなりの猛烈な便意に突き上げられて、この唐突さはその直前まで気配さえなかったのに瞬間的にマックスに近い状態でやってくるんだけど、ものの一、二分で駆け込めるトイレをいつも視界の隅に捉えていないとその場で詰んでしまうような状態になる。ちなみにわたしは二階の自室でいきなりマックスのこれに襲われて、一階のトイレに駆け込むのに間に合わず階段途中で洩らしてしまったことがある。本気で情けなくなるよ、これ。そしてこんなことが外出先で起こったらなんて思うと、これはもう恐怖でしかない。ちなみに潰瘍性大腸炎は大腸内部に炎症、糜爛、潰瘍などが生じる病気なんだけど未だに原因が特定されておらず、完治させる治療法も確立されていないために難病の指定を受けている。一応免疫の異常ということくらいは分かっているらしいものの、なぜ免疫が異常を起こして自分の腸を攻撃してしまうのかというレベルまでは解明されていないということなのか、治すんじゃなくてとにかく症状を押える類の治療しか出来ないのが現状のようだ。根本的な部分で治せない病気ゆえに症状が緩やかな時と派手に発現してしまう時期を繰り返すような形となって、治療はまず寛解させて症状が治まった状態へと持って行った後、その寛解状態を出来るだけ長く維持していくという形を取ることになる。たとえ下血も粘液の下痢も無く、お腹が痛むこともまるでなくて美味しくものが食べられるなんていう状態になっても、この病気の場合はそれは治ったわけじゃなくてただ症状が治まっているだけということだ。わたしの場合、結局ペンタサ顆粒で寛解を維持できなくなって今年に入ってからはリアルダ錠とペンタサ座薬という組み合わせに薬が変わった。リアルダもペンタサも中に入っている薬はメサラジンといって同じものなんだけど薬の体内での振舞いがかなり異なる。ペンタサがメサラジンを徐々に放出するカプセル構造の顆粒で出来ている一方、リアルダのほうは錠剤の形をしており、大腸内のpHで始めてその錠剤が開くような仕組みでメサラジンを大腸患部へとピンポイントで運んでいく。このリアルダがそれなりの効果を発揮してくれてるのか、明日のことは分からないにしても今のところは今年に入ってから大暴れしていた症状も徐々に治まりつつある。リアルダの再燃時の服用量である4錠を夕ご飯のあとに服用する。冷蔵庫保存という条件が若干厄介だけど、この一日分を一度に服用してお終いというのは薬としては扱いやすい。ただ服用回数がシンプルなのはいいにしても、一個の錠剤がとにかく馬鹿でかくて、これ簡単に飲めない人もいるんじゃないかな。アメリカのサプリなんかによくありそうな巨大な錠剤が頭に浮かぶ。わたしはアメリカのサプリとか使っていたことがあるのでこの巨大なサイズについてはそれほどビビらなかったんだけど、4個一緒にはさすがに飲めなくて、一錠単位で4回に分けて服用している。状態が落ち着いている時以外は写真を撮りに出かけられなくなっているのが歯がゆい。それでもカメラ持ってできるだけ撮ろうとしているんだけど、思うのはこういう体の状態は撮る写真に何か蔭のようなものを落としているんだろうかということ。どこか以前と違う何かが混ざりこんだ写真を撮ることになっているのか、あるいは潰瘍性大腸炎がどうであれ、そんなものの影響なんかまるで感知出来ないくらいいつも通りの写真を撮り続けているのか、こういうのはちょっと興味深いところだ。自分が身体のどの部分に依存して写真を撮っているのか、ひょっとしたら写真が教えてくれるようになるかもしれない。今回の写真は街中に潜むしるしを拾い集めて、そのしるしに秘められた暗号でも浮き上がらせるべく何か画策してやろうかと思ったものの完全に腰砕け。中井英夫の「人形たちの夜」のパート3探偵小説編みたいな、見慣れた街が非在の空間へと裏返るようなことが体験できれば面白かったんだけど。何だか今回の選択は写真相互の化学反応さえも呼び起こしてなさそうだ。街の中でなぜか気を引くオブジェや空間。気を引くがゆえに注意を集中していると、そばだてる耳元にそれらが語りかけてくる何かの啓示や指示めいたものが微かに届いてくる。そういうものに耳を傾けているうちに日常は何か異様なものへと変容していく。目の前の立て看板から本当に神の啓示が聞こえてきたら、これはちょっと危ない状況だと思うので、そういうのを擬似的に写真を撮ることで体験できないかなと、そういう遊びをしてみたい。ちなみに最初の「K」階段の写真が一番最近撮った写真。潰瘍性大腸炎が再燃し始めた頃に撮った写真だ。写真のストックを眺めてみると今までにこのタイプの階段の写真を複数撮っている。上がっていく階段が光を暗示する方向へと消えていくというパターンが多くて、こういうジェイコブス・ラダーっぽいのが好みなのか。階段特集なんて纏め方で他のもそのうち披露してみよう。この場合気に入ってシャッターを切った要因は、上方へ消えていく階段であることのほかに、薄暗い中で階段を浮かび上がらせている光が仄暗く柔らかい間接光だったということもあった。今大阪市立美術館で展覧会をやってるから書いてみたりするけど、まるでフェルメールだ。駐車場のフェルメール。フェルメールが宇治のこの場所に立ったら、この左上から差し込む光の中に浮かび上がるがらんとした空間と階段と自動車を前にカンバスを立てているかもしれない。




50~60年代の古いSF映画に登場してカルト的な人気のあるモンスター、Bat-Rat-Spider。「The Angry Red Planet」という映画に出てくる、監督のイブ・メルキオールは小説家でもある才人で、おそらく今では何一つ入手できないと思うけどナチスが絡むような冒険小説が講談社や角川から出版されたことがある。このモンスター、長い間スチール写真のみで見ていたもので、その頃からどんな動きをするんだろうとか、その異様な外観も相まって頭の一角に居座り続けていた。映画を見る機会があった時、今でも覚えてるんだけど大昔KBS京都がまだ近畿放送といっていた頃の昼の映画劇場で始めて動いているのを見た時には本当に感動した。でもこの愛すべきモンスターのこの映画の中でのあしらわれ方はちょっと酷いと思う。死んでると思われたのか何だか知らないけど、ただそこにじっと佇んでいただけなのに、思慮を欠いた宇宙飛行士に足を傷つけられて、正当防衛の反撃をやったら今度は眼を潰されてしまう、このモンスターの運命には本当に同情する。眼なんか潰されたら、あのよたよたと逃げていった後、おそらくまともに生きていけなかったんじゃないか。このバットラットスパイダーがこの映画のサイケデリックな造形を一番体現しているモンスターだけど他のモンスターも結構シュールでセンス・オブ・ワンダーに満ち溢れていて楽しい。今の映画では映像はリアリティに満ち溢れているくせに、こういう異世界的な幻想感覚ってなかなか感じ取れないので、この頃のSF映画は本当に好きだ。




邦題は「巨大アメーバの惑星」確かに巨大アメーバは出てくるんだけど、それでも原題そのままか、直訳でも良かったんじゃないかと思う。




陽炎 / A Man in a Room, Gambling - Gavin Bryars and Juan Muñoz

膨張する視線





ふくろう





陽炎の花






バス停
110フィルムを使って、ベビー・ホルガなどトイカメラで撮ったものをスクエアフレームにトリミング。撮影は2013年頃。

この、とにもかくにも圧倒的な低画質。まるでニエプスの始原の写真にカラーがついたような、そんな仕上がりだ。よく写るという方向へ向かう道筋とよく写らないという方向へ向かう道筋の、二方向に伸びる展望というか可能性があるのなら、よく写るほうの行き着く果てにあるもの、たとえばトーンの再現性だとか精密さだとか光の再現度だとか、そういうもののシンプルさに較べて、よく写らないほうの道筋にある分岐点は意図的無意識的イレギュラー、逸脱を初めとしてあらゆる偶然性を巻き込んでそれこそ無数にあるような気がする。この二方向に分かれる道筋のどちらが面白そうかというと、こんなの考えるまでも無く無数に分岐して混沌へとなだれ込んでいく、よく写らない方向だろう。ということで時折壊れかけの怪しいカメラを持って出かけることがやめられないこととなっている。とはいうものの安易に付加しがちな情緒とは遠く離れてオブジェそのものといった身も蓋もないような剥き出し感の横溢する解剖学的な写真も同じように好きなわけで、でもこれは一見まるで異なった志向のように見えて、写真的な中道志向から両極に振り切れているけれど方向が真逆なだけで本質はほとんど一緒なんじゃないかと思っている。解剖学的な写真もまたある一線を越えて詩的な幻想となる。フィルムという物質に定着させてはいるけれど最近写真の物質感のなさのようなものに物足りなさを覚え、プリントという物質に一度落とし込んで、その紙という物理的な存在になったものを加工して何か出来ないかなんて思ったりしている。手に触れる形となったもの、手によって変化させられるような物質的なもの、何だかそういうものに触れてみたいという気分。画家が物足りなくなって彫刻に手を染めるようなのと感覚的には近いかもしれないかな。我が嗜好はデータそのものといったデジタル写真とはますます逆方向を向きつつあるようだ。




A Man in a Room, Gambling | Gavin Bryars and Juan Muñoz

雑踏の中で拾い集めた意味にも届かないようなざわめきの交差のようなもので出来上がったノイズミュージック、頭の中でいつも低く騒いでいるような音とも云えない音、写真に合う音としてそんなのを選びたかったんだけど結局適当なのを思いつかず。で、ギャヴィン・ブライアーズのこんな曲を選んでみた。でも自分がこの写真を撮った時に頭の中に流れていたような音楽とはやっぱりちょっと違うかな。









この世界の切り取り線 / 新調した眼鏡のこと / Pat Martino - I'm Confessin' (That I Love You)

構造体





この世界の折れ線





駐車場の縞模様

2018 / 10 宇治
Canon DEMI17
Lomography Colornegative 100

去年の終わり頃に持ち歩いていたキヤノンのハーフカメラで撮っていたもの。このハーフカメラ、レンズにカビ有りで露出計が動くものと、レンズは綺麗だけど露出計が動かない2台を持っていて、何だかもうどっちつかずの苛つくような状態だったので、両方のカメラを分解したあと露出計が動くほうに綺麗なレンズを付け替えた。レンズを分解してピントが合うかなと不安だったけど特に問題なく使えるカメラになっていたようだ。このあとにフィルムを積めたのがコダックのシグネット35でこれは実はまだ最後まで撮り終えておらず、恐ろしくスローペースになっている。これを撮ったキヤノンのほうもいい加減飽きてきてシグネットに持ち替えたのに、こっちのほうもなかなか撮り終えられずに飽きてしまっている。あと9枚ほど撮ればフィルム取り出せるんだけどなぁ。今回の写真を撮っていたのは宇治駅周辺で、通っている整形外科がJRの駅前にあるものだからその行き帰りに撮っていたものがこのフィルムロールに収まっていた。グラフィカルでポップでキュートでシュール。最近念仏のように頭の中で鳴っているテーマだ。この辺りの空間に切り取り線でもあって、そこから空間を切り開いていくとその向こうに見たこともない何かでもあるんじゃないかと、まぁそんなことを考えたり考えなかったりしながら、視線を捉えたと思ったときにシャッターを切っている。あぁきっとここが空間の接合面だと思ってファインダーを覗くこともあれば、ファインダーを覗いて始めてここに断層があったと気づくこともある。もちろんまるで気づかないことのほうが圧倒的に多いんだろうし、シャッターを切ってしまうことがせっかくの切断面を縫いあわせてしまうことだってあるだろう。それにしても宇治駅周辺、JRと京阪の駅が宇治川を挟むようにして少しはなれて並んでいるこの一帯は平等院があることにはあるんだけど、実のところ他には何も無いといっても云いすぎじゃない。残念な観光地のランクでも取れば上位ランクイン間違い無しだぞ、ここ。わたしが通っている整形外科は宇治川に出てくる商店街の端っこにあって、この宇治川に出てくるポイントは平等院の参道なんかも集合しているような場所なのに、まるで商店街的な活気が無い。地元の人でさえも賑わってなくて観光客が何だか間違ったところに出てきたんじゃないかと所在なさげに歩いているだけだ。整形の隣に丸に十字の屋号も目立つ宇治茶の店があるから、雑誌にでも紹介されているのかここに向かってくる観光客はいるんだけど、店の前で記念撮影して、店に入る以外は、そそくさとみんなどこかに行ってしまう。宇治川の川縁は何とものっぺりと視線を捉える起伏も無くただ川の縁を歩いているだけといった殺風景なものでしかなく、唯一観光地っぽい雰囲気の平等院への短い参道は、どれもこれも宇治茶と茶蕎麦と茶団子の店しか並んでいない。この三つのアイテムしかないならこの参道、三軒の店があれば事足りるだろう。宇治川を越えて平等院の対岸へと足を伸ばせば山間に源氏物語記念館だったか、何だかそういう感じのものが建っていたり、宇治上神社なんかもあるにはあるけど、住宅地の中に点在しているという感じで、散策が楽しいというところまでは一歩及ばないというのが私の正直な感想だったりする。JR宇治の駅前に観光の人力車が客引きをしていて、こういうのを利用すれば平等院以外に何もなさそうなこの辺りもそれなりに楽しめるんじゃないかと思う。わたしは整形に行くだけなので目が合えば挨拶くらいは交わすけど客扱いされると面倒なので傍らを通り過ぎるだけ、様子を見ていると利用するのは興味を持って立ち止まった観光客の半分にも満たないくらいかなぁ。でもこういうところへやってきてこういうものがあるのに利用しない手は無いとは思う。その時は車夫のライブの案内を聴きながら他愛ないおしゃべりをして、ただ人力車に乗って揺られているだけの体験に見えても、あとで結構な想い出になると思う。去年からの引き続くトラブルの一環なのか、年末にキーボードの上にいろはすの桃味を盛大にぶちまけるということをやってしまった。いろはすは水を売っているはずなのに甘味料とか入れてしまってどうなのと思うところも無きにしも非ずというものだったんだけど、この時はたまたまそれを買い込んでいたというわけだ。基本水を売る商品だから甘味料も少しなんだろうと思っていたら、いろはすに濡れたキーボードが乾くにつれてキーがにちゃくちゃとくっついて動かなくなってきた。これ、糖分が結構な量で入ってそう。キーが引っ付くものだから、たとえば「i」をクリックしたりなんかすると、キーが押し込まれたまま、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい、と高速で画面に並んでしまう。このキーの感触にいらついてしまい、結局年末に新しいキーボードを買うことになって、本当に余計な出費続きだった。もっともキーがくっつくキーボードはしつこく叩いているうちに引っかかりながらも何だか使えるような状態になってきたので、新しく買ってきたほうは買いはしたものの未だに取り替えていない。こうなると今のいろはすのキーボードが本気で壊れた時のために取っておこうかなんていう気にもなってきて、取り替えるタイミングを逸し気味になってしまった。



kh サーモントブロー

去年の暮れに転倒して壊してしまった眼鏡を新調して、出来上がったのを取りにいってきた。ボストンシェイプのサーモントブロー。
有体に云ってしまえばタイプとしてはカーネル・サンダースの眼鏡なんだけど、料理次第でクラシカルな雰囲気を持ったままエッジの効いた色気のある形へと変貌する。昔はおじさん専用の印象が強い眼鏡だったのに今やユニセックスの洒落たアイテムだ。写真では色がいまひとつ上手く出なかったんだけど、ブリッジとフレームの下半分の本来の色はシックなゴールド。店の人は借金取りみたいに見えると思われてあまり選ばれない色だといっていたけど、そんなことを店の人が云っていいの?わたしはちゃらちゃらしたのが好きなので迷わずにゴールドだった。
眉に相当する部分はこのタイプのめがねだと普通はセル素材を使ってセルとメタルのコンビ眼鏡になるところを、これはフレーム同様にチタンを使っていた。だからオーソドックスなサーモントブローを少しはずした純正のメタルフレームの眼鏡だともいえる。その辺がエッジの効いた雰囲気に繋がっているのかなぁ。形はやっぱりこういう丸っぽい柔らかい印象のものが好き。でもスクエアとかウェリントンのセルフレームも一度かけてみたい気はある。実はお店でそういうのもとっかえひっかえしてかけてみて、四角いシャープなのも意外といいじゃないかなんて思ったりもしていた。今度壊してみて始めて思ったのは、不測の事態に備えて眼鏡は予備を用意しておくほうがいいということ。とまぁもっともらしい理由もつけられるとなると、さらに今だと新しいレンズの処方箋も手元にあることだから、近いうちに今度はセルのスクエアとか買ってみようか、と物欲に火が点きはじめている。


Pat Martino - I'm Confessin' (That I Love You)

ジャズギタリスト、パット・マルティノがいろんなギタリストと競演した曲を集めたアルバム「All Sides Now]から。一緒に演奏しているギタリストはジョー・サトリアーノ他、ジャズというジャンルに拘らない人選となっている。以前ここに、このCDに入っていたマイク・スターンとコラボした曲を載せたことがあった。今回のはレス・ポールとのコラボ・チューン。つんつん尖がっている部分も混ぜ込みながら艶っぽい演奏になっていると思う。曲は古いスタンダードで、いろんなプレーヤーが演奏を残している。モンクのソロピアノなんかも、ストライドピアノでこれと雰囲気が似ていて自分としては結構好きだ。









2019年の最初

吊り灯篭





写生する人





曲がり角

2017 / 01
Olympus Pen E-P5

新年になってお正月気分も抜けつつある頃合で今年最初の更新。今年になってまだ大した写真どころか一度もシャッターを切っていないので、なんだかそれっぽそうなのを今までに撮った写真から拾い上げて載せてみる。撮ったのは2017年の春日大社の辺りだ。撮ったデジカメはオリンパスのE-P5だったんだけど、このカメラ、部屋の中でベッドの上に置いておいたのが転げ落ちただけで動かなくなってしまった。今はその前に使っていたE-P3をまた引っ張り出してきて、壊れたE-P5は修理には出していないんだけど、こんなにやわなカメラだとは思わなかった。デジカメはちょっと他の機種に気を引かれてしまってるから、動かなくなったE-P5に修理代を出すかどうか決められないままになっている。大晦日からお正月の三が日、昔のテレビドラマ「DOCTORS〜最強の名医〜」がGYAOで全作無料配信されていたのに浸かりきりになっていたら知らない間に過ぎていってしまった。見ているうちに昔見たことがある回もいくつかあったし、分かりやすい誇張された悪役の出てくるベタな作劇のドラマなんだけど、途中でやめるには何だか気分が後を引いてしまって、3シーズン分とスペシャル、結局全話見終えてしまう羽目になった。何年か前の放送だしもうとっくに終了したドラマだと思ってたらスペシャルの一つは去年の新春特別版として放映されている。個々のエピソードそのものはその回その回で収まりはついていくけれど、主人公が画策する病院の改革といった話全体の行く末はまるで完結していないし、これはまだ続いていくということなのかなぁ。医龍もそうだったけど、医者のドラマは予想もしない解決策を見出してとても無理だと思われた患者を救ったりと、見せ場が映える劇的なドラマが作りやすそうで見ていて面白い。四日から今年の整形外科の診察が始まったのでさっそくリハビリに行ってくる。宇治の街中はお正月ということでそれなりに観光客や出歩く人も多くなっていた。リハビリの帰りにJRで伏見稲荷まで出て初詣をしてくる。ここも人出が物凄い。三が日を一日外したくらいではまるで変化が無い。境内も参道も三が日の勢いそのままに屋台が並んでいて、お正月らしい雰囲気を維持していた。といってもわたしは人が一杯いるところは極めて苦手。賑わうのはいいにしても千本鳥居の中を通るのに満員電車のような様相になっていたりするのは辟易したし、それだけで気力を使い果たしてしまった。結局奥の院まで行ってお参りしたあと、正殿では買えないお守りをいくつか買っただけで戻ってきてしまった。おみくじも引かずに、これは去年の夏に引いたおみくじの「のち大吉」というのをもうちょっと待ちたかったからだ。行きはJRの駅を降りた正面にある鳥居から稲荷神社に入り、帰りはJRの方向じゃなく脇の参道を通って京阪の駅へ戻り、そこからそのまま三条京阪まで足を伸ばす。三条京阪の駅ビルにあるブックオフで特に欲しい本も見つからなかったんだけど何となく伊坂幸太郎「あるキング」と筒井康隆「出世の首」の文庫二冊を買う。出費は216円。最近持っていないのを目にしたら買っている川上弘美や西加奈子なんかは既に持っているものばかり。同じブックオフでも店で傾向があるのか最近は時間を置いて漁りにいっても似たようなものしか目にしない。この三条京阪の店では金井美恵子の本なんかまず出てこない。今日泊亜蘭の「光の塔」なんか傾向どころかどのブックオフでも棚にあるのを見たことが無い。ちょっと前に、ちくま文庫で出ていた赤瀬川源平の「東京ミキサー計画」を、これは100円コーナーじゃなかったけれど棚に並んでいるのを目にして、これ結構入手しにくかったんだよなぁと思うと、これを容易く手にする人がいることにちょっと腹が立ってきて、そういうラッキーな人間の手に入らないように、目の前に忽然と現れたこの本を、自分はもう持っているんだけど買ってしまおうかなんて思ったりしたことがあった。お金がもったいないから実際にはそんなことはしなかったけど、数日後に行ったら既に誰かに買われた後だったから、それを見た時は目ざとい人はやっぱりいるんだなと、自分が損したわけでも無いのにちょっと落胆した。写真集のめぼしいものは何もなし、ウクレレの教則本も欲しいと思っているものは見当たらなかった。あとは同じくブックオフの階違いの売り場でPS3のバイオハザードの5と6をこれは本当に衝動買い。第一ゲームなんてもうこの何年もやったことがないし。遊ぶつもりで買ったゲームは家に他にも結構あるんだけど全部放置状態だ。その後お腹が減ってきていたので同じビル内の地下一階だったか、お蕎麦屋さん「あしかり」でサービスランチの遅い昼食をとる。肉とじ丼がついた熱いお蕎麦を注文。グルメには程遠い完全に間に合わせの食事だった。こういう時期に嫌なのが食事をする場所がなかなか見つからないこと。並んでまでものを食べる気が一切ないから本当に困ってしまう。シグネット35をぶら下げていたので何か撮って回ろうかとも思ったものの、疲れ始めていたので写真を撮る気にもなれずに帰路につくことにして、近所のスーパーに寄ってから帰宅。家の戸を明けた瞬間に今日帰りにスーパーで、切れたトイレの電球を買ってくると決めていたことを思い出す。どうしてこういう瞬間に思い出すのか。どうしてスーパーを出た瞬間に思い出さないのか、どうして部屋に入って寛いだあとでまぁ明日でも良いかと思いなおせるような時間に思い出さないのか。結局また家の戸締りをしてスーパーに電球だけを買い足しに戻る。足腰相当疲れて痛くなっていたのにまたスーパーまでの無駄な一往復で、何のためにこの日整形にリハビリしに行ってきたのか分からなくなる。思い切りがいいほどに雲ひとつない晴天だった一日は夜遅くに雨に濡らされて終わった。