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いちばん長い砂糖菓子の微熱 機械式辻占師言行録Ⅳ

ベビーカー沖






未来派





偽砂糖菓子





偽ユージニア






消失面



2017 / 10 八条(1)
2017 / 01 伏見(2)
2018 / 10 京都駅(3)
2016 / 11 近所(4)
2018 / 11 宇治(5)
写ルンです (1) Pentax K100D Super (2) Canon Demi EE17 (3) Nikon F100 (4) Sony SyberShot DSC T9 (5)
Lomography Colornegative 100 (3) Fuji Premium 400 (4)


わが難病、潰瘍性大腸炎の症状はほとんど進展なく、絶不調のために外出もままならないというほどではないにしても、外出時に見舞われる可能性がある病気がらみのトラブルに対する不安感がぬぐえずに、必要なところ以外へ足を伸ばすことがめっきりと少なくなった。症状が好転しても基本的に治す術のない病気である以上、調子が良いという時でも不調である状態のうちの最も軽い状態とでも云うべき感じで、わたしにとっては極めて快調なんていうのはもう二度とやってこないんじゃないかと思ってる。いきおい写真をとる時間も激減していて、それでも時間の隙間、気分のましな時間を集めてはシャッターボタンを押していたら、確か去年の10月頃にイコンタに入れていたブローニーフィルム一本と写ルンです一本を先日ようやく最後まで撮り終えることができた。ブローニーが全12枚、写ルンですが全27枚の半年以上かかって39枚の収穫となるんだけど、これはやっぱり圧倒的に少ない。おまけに病院代や何やかやで医療費貧乏状態が続いてたから撮影済みのこのフィルムは未だに現像にも出せずに手元に置いたままになってる。近々現像を頼みにいつものムツミへ行くつもりではいるけど今年に入ってから店に行ったのは一度きりで、店の人、わたしの名前を絶対に忘れてると思うな。写真に関しては最近あまりここで文字を連ねないほうがいいんじゃないかと思っている。色々と書いているなかでこの写真は~を表現しているなんていう愚にもつかないことはほとんど口にしていないにしてもだ。大体これはこういうことを表現しているなんて言葉で言い表せるならわざわざ写真にしなくても言葉で言い表している。写真としてだけで成立しているものがそこにあるなら、それは言葉には置換できないものだ。だから内容について言及しないように注意を払って、写真について考えていること、対象について写真がどういう風に関わっているのかということ、頼まれもしないのに写真を撮り続けているとは自分にとってどういうことなんだろうとか、そういったことの周辺を巡り、おずおずと突いてみたりしながら色々と思いついたものをそのたびに矛盾をはらむのも承知の上で言葉にしてみるというのを繰り返してきたと思う。でもこれでも、これが表現しているのはこういうことだなんていう身も蓋もない言い方でないにしても、やっぱり少しは写真に傾向性を持たせてる側面はあるんじゃないかと思っている。別に写真に限らなくてもある種傾向を持たせてしまったものはそれ以外のものとしてはなかなか視覚には入ってこない。何よりもわたし自身が私の小さく纏まろうとする思惑を裏切り、超えてくるような写真が出来上がることを楽しみにしているというのにそれはやっぱりつまらない。とまぁ今回はあまり書くことを思いつかないということをまったく別の表現で書いてみたわけだが、やっぱり写真を撮りにいけなくなっているのが、当の撮った写真の激減という具体的な結果だけじゃなくて、写真と自分との距離とか他にいろんな形で影響が出ているんだろうなぁ。本にしてもこのところ写真関連のものにはほとんど手が出なくなって、美術系やミステリ、シュールな文学といったものばかり読んでいるし。今回も載せた写真は落穂拾いのようなものばかり。この半年の間に撮り終えたたった二本のフィルムは体調がいい日を見計らって近日中に現像に出してくるつもりではいるけど、最近撮った写真なんてここに出せるのはもっともっと先のことになると思う。

James White & The Blacks - Contort Yourself (August Darnell Remix) - 1979

James Chance & The ContortionsじゃなくてJames White名義のContort Yourself。The Contortionsほど荒々しい疾走感はない分随分とスタイリッシュ。でもファンキーでダンサブルで小奇麗に仕上げても、おまえ自身を引き攣らせろというだけあってフリーキーな破格の裏打ちをきっちりと仕込んでいるのがかっこいい。なんでもそうだけど、このかっこいいということ、これが重要だ。これだけで十分というかむしろこれこそが至上の価値なんじゃないかと思う。内容なんか別になんでも、どうでもいい。ひたすら惚れ惚れする視覚聴覚的な先鋭的鋭角的センス。写真だってとにかくかっこいい写真が撮りたい。グラフィカルでポップでキュートでシュールなんていつも云ってるけど、言い換えてみると結局こういうことだと思う。つまりはもう一度云うけど、かっこいい写真が撮りたい。被写体なんてシャッターを切るきっかけになるだけの存在でいい。

Lizzy Mercier Descloux performs Mission Impossible Live

70年代後半から80年代の初頭にかけて、なぜスパイ大作戦だったのか未だに良く分からないんだけど、これはやっぱりファンキーに演奏したらかっこいいんじゃないかという、それだけの理由での選曲だったのかもしれない。ライブで客席に下りて行っては客を殴っていた、演奏が出来るちんぴらといった風情のJames Chance。ノーウェーブの歴史的コンピアルバム「NO NEWYORK」のジャケット裏写真で目に黒々とあざを作っていたJames Chanceも今やチャンス翁なんていわれる始末だし、Lizzy Mercier Desclouxにいたっては既にもうこの世にはいない。音は今の空間をも切り裂いて届いてきそうなのに、人の世は…諸行無常だ。














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虚空頌 機械式辻占師言行録Ⅲ

2F





7F





円虚





暗虚





明虚





猟銃





垣間見る悪魔





鳥虚

2015 / 08 高瀬川タイムズビル (1,4,5)
2016 / 01 河原町オーパ (2) 鴨川 (3,8)
2014 / 09 花遊小路 (6,7)
Pentax K100D Super (3,8) / 写ルンです(2) / Wltra Wide And Slim(1,4,5) / Canon 7 (7)
Lomo Colornegative 100 (1,4,5) / Fuji Speria 400 (7)

虚ろな空間への頌(オマージュ)。それはわたしのなかの空洞に共振する。ところでこういう言葉を使うと最近はたちまち中二病なんていうレッテルを貼られて嘲笑されることのほうが多いようだ。薄っぺらい時代になりつつあるというか、またたとえばミステリを社会派が牛耳っていた頃のような伸び代の無い硬直した退屈な感性へと逆戻りしつつあるのか。ニコ動のゲーム実況で虚無という言葉を使ったあるゲームにこういう態度をとっている人を最近見かけて、これは中井英夫が放った「美とか幻想とか聞けばわけもなく失笑するだけの不気味な生物」の手合いだろう。わたしの周囲には幸いにしてこういう手合いはいないんだけど、こういう人は話をあわせるだけでも面倒臭いだろうなぁ。でも中二病っていうネーミングは「ヲタク」と並ぶ奇跡的なネーミングではあると思う。言葉そのものが独特の臭気に満ちたオーラを放ってる。言葉の意表をついてなお対象の全体を適切に掴みとるアクロバティックなセンスは驚嘆はするものの、繋がっていくだろう物事すべてを閉塞させて止まないような負のエネルギーに満ちて、こういう言葉はわたしは大嫌いだ。オブジェが生み出す虚ろな間なんていうのはどこか矛盾しているようでわたしには興味深い。何かを写すことで何もないものをフィルムに定着させる。オブジェが埋め尽くすだだっぴろい空虚。対象になにか充実したものを見ようともしないわたしの感覚のどこかに問題でもあるのかもしれないし、そんな何もないことを見せ付けるようなものを差し出されても困惑しか生まないのかもしれないけど、そういうものを写し取ろうとしてシャッターを切るのはとりあえず今のところは面白いと思ってる。キュートでポップでグラフィカルなんてことをよく書くけど、それに加えてなにもないことというのも付け加えてみる。視覚の力学だけで出来上がってる写真。そんなのが理想だ。








川上弘美が「晴れたり曇ったり」というエッセイ集で内田百閒の著作に始めて出会ったときの事を
へ、へんなものを、み、みつけちゃったよ。
仰天し、狂喜した。
と、書いてる。
これは内田百閒初遭遇の気分としては極めて的確に言い表していて、文学的にどうのこうのって云うんじゃなくて始めて読んで面食らった感覚を上手く表現するなぁと思った。わたしが始めて内田百閒に遭遇した時も、確か「北溟」というタイトルの、寂れた船着場に海のほうから雲のような塊が吹き寄せられていて、良く見るとそれには無数の握り拳大のオットセイが付着しており、みんながそれを拾って食べているので自分も食べてみるという、そんな感じの数ページに満たないどことなく夢魔のように不気味な、まるで言葉で描くシュルレアリスムの絵画といった掌編だったんだけど、そのときの感触は云われてみればまさしくこの変なものを見つけてしまったというものだった。ちなみにわたしが川上弘美の「椰子・椰子」に初遭遇した時の気分もまさにこれ。現代版内田百閒じゃないかと、ダンジョンのなかで宝箱を開けたら思わぬレアアイテムが入っていたような高揚感を味わい嬉しくなった。わたし個人の体験としては藤枝静男に初遭遇した時もこんな仰天、狂喜を味わってる。とまぁ、本を読んでこんな気分になるって、今までに何度味わったか数えて思い出せるほど稀な体験だったりするわけなんだけど、この稀なワクワクした気分を内田百閒のときほどではなかったにせよ蘇らせたのがこの本、川上未映子の「先端で、さすわさされるわそらええわ」だった。手にしたのは内容以前に本屋で目に留まった装丁がきっかけだった。「己の前に立ちあらわれるすべての純潔、すべての無垢、すべての清楚を手当たり次第に踏みにじること」と題された鴻池朋子の絵画が一面に配され、その上を半透明の、これは何の素材なのか固い手触りのカバーがかけられて、そのカバー越しに絵画が見えてる。著者のほかの本には何冊か目を通したことがあって、本屋でちょっと中身を眺めての第一印象は他の本で見られた尖がってる要素ばかりを集めた本っていう印象だった。なんとこれがデビューの本だそうで、ならば作家のすべてが最初の本に詰まってるという定説を地でいくものなのかもしれない。こういう装丁のかっこいい本は文庫でなんて買わない。もっともこれは文庫にはなってなさそうだけど。全部読んだわけでもないけど、もう内容を要約するなんていうこともまるで無意味なような中身で、いうなら言葉を発し、またそれを読むことが本来持っていたはずの過激さ、言葉を眼で追うリズムとか縦横に連鎖するような単語と戯れることの、忘れていたのかもしれない新鮮な感覚を呼び起こすというか、そういうもので満ち溢れた本という印象だった。この本のほかにももちろん川上弘美や最近妙に意識に残ってる円城塔、見つけたら買ってる多和田葉子の本など、日本の文学ってまだこういうものを受け入れるだけの余地があるんだと、全然捨てたものでもないなぁって思って楽しくなった。それにしても写真がシャッターボタンを押すことさえ出来れば誰にでも出来る一番自由な媒体だと思っていたけど、こういうのを読むと文学は未だにその自由さで群を抜いてるとあらためて思う。もうここにはカメラという装置さえ必要としない、言葉を発することが出来るだけですべてが自由であるはずの荒野に立つことが出来るのだから。何だかね、こんな本を読んでると表紙の絵画のタイトルにも触発されて、おさまりかえった上品な写真なんか撮ってる場合じゃないなと、気分は目一杯煽られてくるようだ。




レベッカをもう一度。これはもう圧巻というか、これが力量というものなんだよ分かったかとでも言わんばかりの、何の躊躇も無く気持ちいいほどストレートに声が伸びていく堂々とした歌いっぷりに、あっという間にねじふせられ圧倒される。暴力的に力強いくせに艶っぽくてちっともがさつじゃない。また他にもこの曲が好きな理由があって、リズムがわたしの好きなゲーム、クーロンズ・ゲートの大井路の音楽に似てるということ。これはクーロンズ・ゲートの中で一番好きな音楽だ。こういうリズムの刻み方ってどこか催眠的で知らない間にのせられてどこかに運ばれていくようなトリップ感がある。

クーロンズゲート 大井路













機械式辻占師言行録Ⅱ / レベッカ 1986 早稲田大学 Live

四角い奔流





二本線の幽霊





闇の狸たち





工場天井





モンスターズ





浮かぶ光






壁にへばりついた赤い花
四条坊城(1)(3)
三条大宮(2)(4)(5)('7)
浜大津(6)
2016 / 04 (1)(2)(3)(4)(5)(7)
2017 / 09 (6)
Nikon Coolpix S9700
Fuji NaturaClassica (6)
Fuji Natura1600 (6)

先日新しい病院へ紹介状を持って出かけてきた。病院を変更することになったのは、今までかかっていた病院が入院患者中心の病院となって一般外来が縮小、その結果わたしが通っていた科が消滅したためだったんだけど、紹介状を書いてもらったおかげで新しい病院へはスムーズに移行できた。もっともこの新しい病院へ初めて行った時はどの医者が自分の厄介な病気に合ってるのかなんてさっぱり分からない状態だったのでこの日を選んだのも含めて何もかもが完全に行き当たりばったりだった。結局その日は当日外来担当で出てきていた医者から、潰瘍性大腸炎にとても詳しい先生がいるということで、そちらに院内紹介のような形を取ってもらうこととなった。結局二度手間になるの?おまけに紹介だけできっちり診察料も取られてなんだかなぁっていう感じも抱きつつ、最初だし詳しい医者に担当してもらえるならこの首尾でも今日はまぁいいかと納得する。そして今日その詳しい医者の診察の予約日だったので再び来院。初日から特定疾患の医療費助成の登録の手続きをしてるかと訊かれてしてないと答えるとそれならこちらで書類を作っておきましょうとなにやら展開が速い。特定疾患対応の大病院が希望の火を灯してくれる。大きな病院はある程度治療が進んで一段落すると後はかかりつけの医者のほうに返される形になるけれど、わたしの場合はかかりつけの病院が消滅した形となってるから、できるなら詳しい医者のいる設備の整ったここで治療を続けられればいいと思う。それにしても何ヶ月も下血が続いて絶対に貧血になると思っていたのが意外とそうでもなく、むしろ影響は靴のサイズが一つダウンしたとか、腕時計の留め穴が二つ内側になったとか、そういう方向で出てきてるようだ。あまり食べられないのと吸収とかの臓器の能力も落ちてきてるのかもしれない。ダイエットだとばかりに喜んでもいられないなぁ。線分収集家といい、この機械式辻占師といい、名づけてるのは自分自身に他ならないんだけど妙な肩書きが増えていく今日この頃、その割には肩書きほどには異様な写真も撮れていないというのはまぁご愛嬌というところか。言行録っていうのはアルフレッド・ジャリの著作「フォーストロール博士言行録」から拝借。ちょっと古風な語感が個人的には良かったりする。今回はこの前の記事と同様のタイトルをつけて趣旨は同じとしているものの、趣旨が同じように見える見せかけの下に写真を集めているだけであるのかもしれない。おそらくまったく異なる趣旨を予兆させるタイトルのもとにこの中の数枚を紛れ込ませたら、その別の趣旨に沿った外殻を纏った写真に変貌しているだろう。ところでこの前の写真、K階段の写真をみていて気づいたことがあって、わたしはこの階段をアプリオリに上へ登る階段として記事に書いている。でも上に上がるかどうかはこの写真の中には判断する要素は含まれておらず、これをみて上から下りてくる階段と判断する人もいるんだろうなと気づいてみると、何だか妙な気分になる。わたしが当たり前にみているものも、あらゆるレベルにおいて当たり前でもない可能性がある。わたしが見ている世界は同意されているようにみえる部分のみ共有化されているだけで、実は人の数だけまったく違う世界が並立され、その違いは永遠に共有されることも無く気づくこともない空間に仕舞いこまれてる。空間といえば、別にこれがわたしの大発見というわけでもなく、今までに様々な形で言われてきているものだろうと思うけど、空間そのものとしては存在しない。それはまさしく空ろな間であり、あるものとあるものの間の関係性において成立するものでしかない。つまりは言い換えるならオブジェが空間を生成する。オブジェは何らかの空間の中にあるのではなくて、空間はオブジェの属性であり付帯物なのだろう。どうしてこんなことを書いてるかといえば、写真はオブジェとともにそのオブジェが生成してる空間も写し取っていると思うから。佐内正史だったか雑誌スイッチだったと思うけど、とまるであやふやな記憶で書いてみると、どうして写真っぽい場所で写真を撮らないのかといったことを訊かれて、心底不思議そうに写真を撮るなら写真的じゃない場所しかないでしょと答えていた。この気分はわかる。「いわゆる写真」的なところは実は最も写真から遠いところだと。写すべきは周りの退屈で凡庸な日常であり、しかもそれを退屈で凡庸な日常の様相として捉えるのではなくて、日常に取り囲まれて身動きできなくなっている視線と存在を見晴らしのいい場所へと引き上げる契機とすること。シュルレアリスムの視覚表現なんかとは異なって、写真においてこのことは、見晴らしのいい場所はこれだと押し付けがましく強要するような非日常の対象ではなかなか実現できない。そんなもので視線は解放されないだろう。で、思いついて書き始めたこの話に繋がるかどうかはいまひとつ自信はないけど、先に書いたオブジェが空間を生成するという話。空間はあらかじめそこに存在しているオブジェのための入れ物なんかじゃない。オブジェが、世界の構成物が、日常がその場で生み出していくもっと動的なものだと思う。そしてその動的なものは日常を動的に、空ろな器の中に閉じたものではなくて関係性の場において未知なる何かへとわたしたちを導く可能性を秘めていて、写真はそういうものを顕現させることができる。おそらく優れた写真はそういったものを捉えるのに成功した写真なんじゃないかと思う。対象は風光明媚だとか異様だとか千載一遇の瞬間だとか特別なものではなく、ただの目の前に転がるゴミの一片や積み上げられた椅子であり、そういう非「いわゆる写真」的なものをそれが周囲に生み出す動的な空間共々掬い取ってくる。上手い言葉を思いつかないけれど、その空間には強度といったものがあって、ただのゴミの一片しか被写体になっていなくても、その強度さえあれば有無を言わせない説得力のようなものを身にまとって写真として立ち上がってくる。ゴミを写して唯のゴミの写真になるか問答無用の写真になるかの違いはこの生成される空間の強度の差にあるんじゃないかと思ったりする。わたしの写真はまるで強度不足だ。おそらく、矛盾したことのように見えるかもしれないけど、それはこの退屈で凡庸な日常への愛情のようなものが自分には本来的に欠けてるからなんじゃないかと思う。






モンスターズ ロゴ入り
ちょっと文字を入れてみた。普段写真に文字を入れてみるとかほとんどやらないんだけど、かっこつけた写真にはなるな。ちなみに入れた文字はリンチの廃工場写真集のタイトルだったりする。


レベッカ・・・1986 早稲田大学 Live

これは、今さらの如く人気があったのも当然といった感じがする。小さくて可愛らしいのがステージのそこいらじゅうで縦横無尽に弾けてるような勢いが魅力的だし、MCの予想外にちっともスタイリッシュじゃない、かっこつけない話し方も親近感があっていい。今わたしのヘアスタイルはシルバーベージュにカラーリングしたソバージュっぽい癖毛風縮れ毛パーマだし、このファッションをみて真似したくなって、古着のGジャンを買ってきた。アクセサリーのネックレスとかはパールビーズなんかを買ってきて似たようなのを自分で作れる。こういうのをジャラジャラつけるのは大好きだ。でもアクセサリーをあれやこれやと作ってるうちにGジャンの季節じゃなくなりそうだ。





機械式辻占師言行録 / 打ち捨てられた月のための

チェアーズ





足元





沈む家





影の会話






赤いポスト





辻占
2015 / 12
Olympus 35 DC / Lomography Colornegative 400 (1)(2)(3)(5)(6 )
2013 / 02
ハチカメラ (4)
(4)(5)(6)はスクエアフレームにトリミング

辻占というのは言葉では知ってはいたけど、辻で占いをするんだろうとその程度の認識でしかなかった。最近本を読んでいて辻占というのが確かに辻で占いをすることなんだけど、占い師が辻に立ってなにやら占うというのでは必ずしもなくて、夕方に辻に立ってその場所を行きかう人々の話す声、ざわめきのなかから聴こえてくる言葉に、御神託を見出すという行為のことだと知った。夕方、おそらく逢魔時辺りの時間帯のことだと思うけど、その異界とこの世界が溶け合いそうになっている特別な時間に、辻という境界性の高い場所に身を置いて、意味としては形を成さないようなざわめきのなかにかすかに交じり合ってる彼方からの通信を受信する。なんかこれ、わたしが写真のことを考えてる時に頭に思い浮かんでることと良く似ている。ひょっとしてわたしが写真を撮っていることの意味合いって、写真で辻占をやっているということなのか。写真に逢魔時を呼び込んでオブジェの呟きを顕現させ、異界から届いてくる声に耳を傾ける、そんなことをビジュアル的な領域で成立させたいと思っているんじゃないか。そう考えると写真機は冷たい機械であると同時に境界を縦横無尽に横断するマジカルな装置でもあり、云うならば逢魔時発生装置でもあるのだろう。と、いつもの如く逢魔時だとか異界だとかもう何だか思い切り傾向性のある言葉を乱打しているけど、だからといって禍々しくも不安を誘う曇天に黒雲だとか、闇が集う森だとか、そういういかにもそれっぽい定型文のようなイメージで作るのはまるで面白くないしやる気もない。できることなら日常のあっけらかんとした昼間の遍く光の下で、決して地面に寝転がったりなんかはせずに、普段の立ち上がった目の日常的な位置からむき出しのオブジェの中へと分け入り、そのささやき声が聞こえてこないか試してみようと思ってる。まるで中井英夫が「虚無への供物」で謎めいた大伽藍などではなく、戦後の新興文化住宅を反世界へと一気に反転させたように。試みるならばこのほうが困難さゆえにはるかに面白い。今回の最後の三枚は普通に撮ったコマを四角くトリミングしてる。最近四角いフレームに物凄く興味を引かれていて、以前これほど苦手だと感じていたのが嘘のように写真といえばまずこの枠組みが頭に浮かんでくる。そこで以前に撮ったものをもしも四角いフレームで撮っていたらどういった感じのものになっていたんだろうと、ちょっとした好奇心に導かれて試してみたものだ。以前はトリミングは可能な限りやらないという何かの原理主義のような思考だった。この考え方はある部分わたしの中で未だに場所を占めていて、トリミングしてしまうと端正に思い通りの絵にはなるんだろうけど、同時に収まりかえって勢いの無い写真になってしまいがちだと思っている。特にレンジファインダーのようにファインダーで覗く世界とレンズが捉える範囲が微妙にずれてるカメラの利点はここにあって、完璧を期したつもりで撮っても、思うようには撮れない部分が写真に付加され、それが構図からずれてるだとか、余計なものが写ってるだとか、意図しては撮れないような不安定感、動き、ダイナミズムのようなものを呼び込む可能性を開いていた。トリミングしてこういうものを整理してしまうとこの可能性は完全に閉じてしまう。でも最近のわたしはそんな風に不完全さを可能性に転化させるようなことを考える一方で、この傾きや位置が思い通りじゃないことに我慢ならないとなると、トリミングは可能性を殺すなんていう頑なな思いとはうらはらに、わりと躊躇いなしにトリミングしてしまうほうが多くなってる。この辺の嗜好は何時までたっても着地どころを見出せずにわたしの中で揺れ動いてる部分かもしれない。イメージの開かれた可能性を殺してしまっても何か得るものがあるのかどうか、この辺りのことでトリミングしている時に思ったのは、こうやって後で手を加えることはシャッターを切った瞬間に写真の中に凍結してしまった時間に再び新たな時間を加える行為なんじゃないかということ。フィルムは時間経過によって劣化していき、そういう風に時間を取り込んで変化していけるのはフィルムの特権だと以前に書いたことがあった。こういうトリミングもそういう考え方の延長に位置づけられるんじゃないかなと思ったりした。潰瘍性大腸炎なんていう厄介な病気になって一番頭を悩ますのは食事の問題だろう。腸は内在するものでありながらも外部に開かれていて、食べたものは必ず腸を通って何らかの影響を与えていく。でもだからといって刺激を受けるのが怖いからと、ものを食べずにいるのはどうやっても不可能だ。ところが食事制限といったものが一番に出てきてもよさそうな病気なのに、この病気に関しては食べ物の制限については余り明確な形で定義されていないようにみえる。わたしの主治医も食べ物に関してはこの食べ物は絶対に食べては駄目といったようなことは特に何も云わないし、極端なことをしない限り、常識内で普通に食べていてもかまわないとする医者も多いようだ。理由は病気の原因そのものが不明であるのと同様に、どうやら医学的に食物が本当に潰瘍性大腸炎と関係があるのか、その因果関係が証明されていないからということらしい。食べ物に関してはこの食べ物を食べると必ず潰瘍性大腸炎を発症する、あるいは症状を再燃させるといった食べ物はなくて、その関係になにかありそうであってもそこは食べる人との相性のようなものに落ち着いてしまう。つまりある食べ物がある人の症状を悪化させたとしても他の人に必ずそういう状態をもたらすわけでもなく、それを食べてもまるで平気な人もいるっていうこと。まぁ常識的に唐辛子の塊のような食べ物は傷ついた腸壁を通過して絶対にいい影響は与えないと、そのくらいの判断は出来はしても、他の一般的な食べ物に関しては自分の体と相性が良いのかどうか自分を実験台にして確認していくほかないという感じになっているんだと思う。ネットでちょっと検索をかけてみるだけで、患者がこれはあまりよくなさそうって思ってる食べ物が一杯出てくる。牛肉豚肉は駄目、鶏肉、魚はまだ大丈夫、でも生の魚はやめたほうがいい、貝は全般的にどうやら無理そう、自分からは積極的に食べないからどうでもいいけど牡蠣はまず問答無用でアウト、乳製品は駄目、パンも駄目、コーヒーも駄目、砂糖も駄目、無類のカレー好きなのにスパイスの効いたものもまず全部駄目、油も全般的に駄目、そんななかでオリーブオイルはまだ使える、魚の油も大丈夫、ベジタリアンはどうするのと思ってしまうくらい野菜なんかの食物繊維はおそらく大半が駄目、牛蒡蓮根なんかはもってのほか、水溶性の食物繊維であるバナナは大丈夫、いやバナナも水溶性と云っても食物繊維に変わりないから良い影響は与えない、と、こういうのが延々と連なって目の前に積みあがってくる。食べ物だけに飽き足らず、コーヒーを飲みながら本を読むような時間までもわたしから奪っていきやがる。一応ね、そんな中でもこれはおそらくみんなが食べても大丈夫という食べ物も僅かにあって、でもそのリストアップされたものを見れば低刺激のおかゆだとかうどんとかそんなのばかりだったりするんだな。その絶対安全食品だけとっていれば潰瘍性大腸炎が再燃する可能性は低くなるのかもしれないけど、これはもう他のレベルで体を壊してしまいそうだ。一応世間の最近の話題にも乗っておくとして、数日前に新しい元号が「令和」と決まった。知識だけは豊富だけど言語的なセンス皆無の有識者とか云う人たちが集まって決めるようなものだから大したものは出てこないだろうと思っていたら、これは意外とそんなに悪くない。平成なんていう空気が抜けていくような音的イメージしかないものよりはずっといいと思った。「れい」はこの決定となった本来的なものをまったく無視して、極私的な音の響きの印象だけで云うと「零」であり「冷」であり「霊」であり「光線」であり、虚無や反世界へも回路が開けそうな予兆も覚えてわたしには何だかとてもかっこ良く聞こえる。平成なんていう響きでは本来的な意味も何もどのような形でも虚無への回路は絶対に開かないだろう。ただ元になった万葉集にはこの「令和」の「令」は「令月」という単語で登場して、元号にはそこから一文字取ったということらしいが、これ、「令月」そのままのほうがかっこよくないか。もとからイメージ豊かな言葉なのに、そのイメージを無効にしてまでどうしてそこから一文字だけ取ったんだろう。昭和と同じく「和」と結び付けてあるのは昭和生まれとしては決して嫌じゃないにしろ、元号には元の単語そのままでは使えないなんていう制限でもあるんだろうか。もし令月をそのまま使い、日出づる国の元号に「月」が入ったならば、太陽のもとに月まで包み込んでパーフェクトだったのに。


Vashti Bunyan - If I Were - Same But Different


どちらかというと歌そのものよりもVashti Bunyanの娘であるWhyn Lewisの、古代のどこかの神殿の壁画のように文様的で静謐なアートワークのほうが好みに合ってるかも。歌共々ルナティックって言う形容が意外なほど良く似合う。







こっちもルナティックといえばルナティックなのかも。創元社から出版されたこの文庫版中井英夫全集、刊行当時結局全巻揃えられなかった。持っていない巻は数冊なんだけど、今になって揃えたくなってきた。



表徴 / Bat-Rat-Spider Creature

k





あちら





階段





天空の蜂





砕け散る光
(1)(3) Nikon Coolpix S9700 (2) Contax T3 (4) ハチカメラ (5) Fuji Clear Shot S AF
(2) Fuji 業務用400 (4) 110フィルム (5) Lomography Colornegative 400



去年の夏、それ以前から急降下しつつあった体調に対して、大腸内視鏡検査および組織検査等で潰瘍性大腸炎と診断される。その後一月ほどサラゾスルファピリジンの投薬、さらにその一月がすんでから薬をペンタサ顆粒に変えてさらに二ヶ月ほど、そしてその飲み薬にさらにペンタサの座薬を追加して去年の年末頃までにはわりと普通の体調に近づくところまではこぎつけることが出来ていた。ところが今年に入ってお正月を過ぎた辺りから症状が再燃し始めて、粘液と下血の大バーゲンセールと化す。一日に十数回、便器が血に染まるのを見るのは、その原因がわかっていて理屈として納得はしていても、感情は荒れ騒ぎ気が滅入ること夥しく、症状が収まりつつあった去年の暮れ頃には何だ難病と云ってもこれならどうってことないと思っていたある種の安心感ははかなくも崩れ去って、さすが難病指定を受ける病気だけあると思い知らされることとなった。安倍総理がこの病気で左翼の心無い中傷、嘲笑に晒されていたけれど、罹ってみるとこの病気の性悪さ極悪さを嫌というほど体感できる。何しろ外出が出来なくなる。いきなりの猛烈な便意に突き上げられて、この唐突さはその直前まで気配さえなかったのに瞬間的にマックスに近い状態でやってくるんだけど、ものの一、二分で駆け込めるトイレをいつも視界の隅に捉えていないとその場で詰んでしまうような状態になる。ちなみにわたしは二階の自室でいきなりマックスのこれに襲われて、一階のトイレに駆け込むのに間に合わず階段途中で洩らしてしまったことがある。本気で情けなくなるよ、これ。そしてこんなことが外出先で起こったらなんて思うと、これはもう恐怖でしかない。ちなみに潰瘍性大腸炎は大腸内部に炎症、糜爛、潰瘍などが生じる病気なんだけど未だに原因が特定されておらず、完治させる治療法も確立されていないために難病の指定を受けている。一応免疫の異常ということくらいは分かっているらしいものの、なぜ免疫が異常を起こして自分の腸を攻撃してしまうのかというレベルまでは解明されていないということなのか、治すんじゃなくてとにかく症状を押える類の治療しか出来ないのが現状のようだ。根本的な部分で治せない病気ゆえに症状が緩やかな時と派手に発現してしまう時期を繰り返すような形となって、治療はまず寛解させて症状が治まった状態へと持って行った後、その寛解状態を出来るだけ長く維持していくという形を取ることになる。たとえ下血も粘液の下痢も無く、お腹が痛むこともまるでなくて美味しくものが食べられるなんていう状態になっても、この病気の場合はそれは治ったわけじゃなくてただ症状が治まっているだけということだ。わたしの場合、結局ペンタサ顆粒で寛解を維持できなくなって今年に入ってからはリアルダ錠とペンタサ座薬という組み合わせに薬が変わった。リアルダもペンタサも中に入っている薬はメサラジンといって同じものなんだけど薬の体内での振舞いがかなり異なる。ペンタサがメサラジンを徐々に放出するカプセル構造の顆粒で出来ている一方、リアルダのほうは錠剤の形をしており、大腸内のpHで始めてその錠剤が開くような仕組みでメサラジンを大腸患部へとピンポイントで運んでいく。このリアルダがそれなりの効果を発揮してくれてるのか、明日のことは分からないにしても今のところは今年に入ってから大暴れしていた症状も徐々に治まりつつある。リアルダの再燃時の服用量である4錠を夕ご飯のあとに服用する。冷蔵庫保存という条件が若干厄介だけど、この一日分を一度に服用してお終いというのは薬としては扱いやすい。ただ服用回数がシンプルなのはいいにしても、一個の錠剤がとにかく馬鹿でかくて、これ簡単に飲めない人もいるんじゃないかな。アメリカのサプリなんかによくありそうな巨大な錠剤が頭に浮かぶ。わたしはアメリカのサプリとか使っていたことがあるのでこの巨大なサイズについてはそれほどビビらなかったんだけど、4個一緒にはさすがに飲めなくて、一錠単位で4回に分けて服用している。状態が落ち着いている時以外は写真を撮りに出かけられなくなっているのが歯がゆい。それでもカメラ持ってできるだけ撮ろうとしているんだけど、思うのはこういう体の状態は撮る写真に何か蔭のようなものを落としているんだろうかということ。どこか以前と違う何かが混ざりこんだ写真を撮ることになっているのか、あるいは潰瘍性大腸炎がどうであれ、そんなものの影響なんかまるで感知出来ないくらいいつも通りの写真を撮り続けているのか、こういうのはちょっと興味深いところだ。自分が身体のどの部分に依存して写真を撮っているのか、ひょっとしたら写真が教えてくれるようになるかもしれない。今回の写真は街中に潜むしるしを拾い集めて、そのしるしに秘められた暗号でも浮き上がらせるべく何か画策してやろうかと思ったものの完全に腰砕け。中井英夫の「人形たちの夜」のパート3探偵小説編みたいな、見慣れた街が非在の空間へと裏返るようなことが体験できれば面白かったんだけど。何だか今回の選択は写真相互の化学反応さえも呼び起こしてなさそうだ。街の中でなぜか気を引くオブジェや空間。気を引くがゆえに注意を集中していると、そばだてる耳元にそれらが語りかけてくる何かの啓示や指示めいたものが微かに届いてくる。そういうものに耳を傾けているうちに日常は何か異様なものへと変容していく。目の前の立て看板から本当に神の啓示が聞こえてきたら、これはちょっと危ない状況だと思うので、そういうのを擬似的に写真を撮ることで体験できないかなと、そういう遊びをしてみたい。ちなみに最初の「K」階段の写真が一番最近撮った写真。潰瘍性大腸炎が再燃し始めた頃に撮った写真だ。写真のストックを眺めてみると今までにこのタイプの階段の写真を複数撮っている。上がっていく階段が光を暗示する方向へと消えていくというパターンが多くて、こういうジェイコブス・ラダーっぽいのが好みなのか。階段特集なんて纏め方で他のもそのうち披露してみよう。この場合気に入ってシャッターを切った要因は、上方へ消えていく階段であることのほかに、薄暗い中で階段を浮かび上がらせている光が仄暗く柔らかい間接光だったということもあった。今大阪市立美術館で展覧会をやってるから書いてみたりするけど、まるでフェルメールだ。駐車場のフェルメール。フェルメールが宇治のこの場所に立ったら、この左上から差し込む光の中に浮かび上がるがらんとした空間と階段と自動車を前にカンバスを立てているかもしれない。




50~60年代の古いSF映画に登場してカルト的な人気のあるモンスター、Bat-Rat-Spider。「The Angry Red Planet」という映画に出てくる、監督のイブ・メルキオールは小説家でもある才人で、おそらく今では何一つ入手できないと思うけどナチスが絡むような冒険小説が講談社や角川から出版されたことがある。このモンスター、長い間スチール写真のみで見ていたもので、その頃からどんな動きをするんだろうとか、その異様な外観も相まって頭の一角に居座り続けていた。映画を見る機会があった時、今でも覚えてるんだけど大昔KBS京都がまだ近畿放送といっていた頃の昼の映画劇場で始めて動いているのを見た時には本当に感動した。でもこの愛すべきモンスターのこの映画の中でのあしらわれ方はちょっと酷いと思う。死んでると思われたのか何だか知らないけど、ただそこにじっと佇んでいただけなのに、思慮を欠いた宇宙飛行士に足を傷つけられて、正当防衛の反撃をやったら今度は眼を潰されてしまう、このモンスターの運命には本当に同情する。眼なんか潰されたら、あのよたよたと逃げていった後、おそらくまともに生きていけなかったんじゃないか。このバットラットスパイダーがこの映画のサイケデリックな造形を一番体現しているモンスターだけど他のモンスターも結構シュールでセンス・オブ・ワンダーに満ち溢れていて楽しい。今の映画では映像はリアリティに満ち溢れているくせに、こういう異世界的な幻想感覚ってなかなか感じ取れないので、この頃のSF映画は本当に好きだ。




邦題は「巨大アメーバの惑星」確かに巨大アメーバは出てくるんだけど、それでも原題そのままか、直訳でも良かったんじゃないかと思う。