失われてしまったものたち さらば新風館

彼方の新風館1





彼方の新風館2






見いだされたもの

2012 / 09
2011 / 05
2017 / 08
新風館
Canon Autoboy Tele / Olympus Pen EE-2 / Last Camera
Kodak T-Max / SuperGold400 / Fuji Premium400

先週「パリ・マグナム写真展」に行った帰り、この辺を歩くのは久しぶりだなぁと思いながら、観てきた展覧会のハリー・グリエールの写真が良かったとかゲオルギィ.ピンカソフみたいに撮れないものだろうかなどと、受けた刺激を反芻しつつ新風館の近くまでやって来た時、新風館の古風なレンガ造りの建物を白いフェンスが囲んでいるのに気づいた。
あれ、新装改築中なのかなと思いながらも、改装にしても何だか建物の規模が敷地の半分くらいに小さくなってないかと気づき、フェンスの一部が開かれて中を通り抜けられるようになってるところを見つけて覗き込んでみれば、以前円形の舞台があったところだと思うけど、その辺りすべて建物が消えうせて駐車場になってた。
一体何があったんだと不審に思いつつもその場は何枚か写真撮っただけで帰宅、帰ってから調べてみるとなんと新風館は既に閉館となってた。しかも一年以上前の去年の三月に。
新風館が閉館していたのもそうだけど、この烏丸御池辺りに一年以上も立ち寄ってなかったことに気づいて、これにも我ながら吃驚した。そんなに足が遠のいていたとは。
まぁ一年以上、ひょっとしたらもっと以前から立ち寄ってないくらいだから、「さらば」なんて云うほど愛惜の情があるほどでもなくて、たまに立ち寄って写真撮ったり、中央の広場の椅子で休憩したり、テナントで入っていたヴィレッジ・ヴァンガードを冷やかしていた程度だった。でもこの世界から、一応今のところからっぽの建物が半分くらいは残ってるようだけど、残り半分が消えうせてしまったことにはやぱり心を騒がせるものがある。
元はたしかNTTの古いビルで、その古風な雰囲気を生かしたファッション中心の施設だった。フェンスの向こうには半分だけまだ残ってるその元NTTの煉瓦作りの建築もそのうち全部取り壊してしまうのかなぁ。駐車場の入り口から空き空間となった元広場の辺りを縦断できるようになっていて、元新風館だった空間の中にちょっと足を踏み入れてみたんだけど、残った部分も上層に上がるための階段とかは全部取り払われて工事の足場があっただけ。一番上の階のヴィレッジ・ヴァンガードのあったところはまだ残っていて、でも今は扉の向こうのおそらくからっぽになった暗がりを遠くから望めるだけだった。

もうちょっと写真を撮っておけばと思った。今回こういう記事にまとめようとして新風館で撮った写真を探そうとしたものの、意外と撮ってなかったのか他の写真に紛れてしまったのかあまり見つけ出すことが出来なかったのが残念だ。
もう一つ写真で残しておけばよかったと思ってるのが寺町の電気屋街。あの辺りの様変わりは凄まじくて、わたしがたまに行っていた時とはまるで別世界のようになっておまけに寂れてる。こういう変わり果てた街を見てると、なんだかみんなどこに行ってしまったんだろうと、一人取り残されてるような気分になってしまう。

☆ ☆ ☆

写真はなにしろこの前の「パリ・マグナム展」以降に撮った出来立てほやほやの最後のが、やっぱり自分にとってはいちばん新鮮なものになってる。どことなくちょっと不穏な感じがしないか。ちなみにこの赤煉瓦の建物が話の流れでもちろん新風館となる。建築はここから左側にもっと続いていたのに、この場所で断ち切られて、フェンスの向こうは駐車場になってた。


スポンサーサイト

鋼鉄都市 / 京都文化博物館 パリ・マグナム展

トロッコ列車1





機構内部





影の段






積みあがる底面

2017 / 07 (1)(2) 嵯峨嵐山
2015 / 09 (3) 中之島
2017 / 03 (4) 近所
Olympus Pen EES-2 / Holga +35mm Film Holder / Nikon F100
Fuji 業務用400 / Lomo Colornegative 400 / 100

硬く冷たいもの、光沢があるもの、稜線がはっきりとしていて鋭角的なもの、用途不明の何か。機械の類や工場が好きなのはこんな要因が絡んでのことじゃないかなと思ってる。こういうものは視線をひきつけるしシャッターを切りたくなってくる。用途不明に関しては知らない自分だけの事情で、知ってる人にはこんなものの何が珍しいという程度のものだろうとは思うけど。
誰一人その用途の想像もつかない複雑な機械とかあったら、もうわたしとしては夢中になってるに違いないと思う。ちょうど映画「禁断の惑星」で姿かたちも分からない、遥か以前に死滅してしまった惑星の前住人が残し、作った種族はとっくの昔にいなくなったのに今でも自動で駆動し続けている地下の巨大都市のような感じ。あんなところに入り込んだらもう寝食を忘れて写真撮り捲ってるだろう。

そのシーンだけ抜き出した動画があった。
Forbidden Planet: The great machine

これ、レスリー・ニールセンが出てるんだなぁ。ばかげたコメディ俳優のイメージが強烈だし、今まで気づかなかった。

☆ ☆ ☆

パリマグナム1
Nikon Coolpix S9700

パリマグナム2

パリマグナム3


京都文化博物館へ「パリ・マグナム写真展」を見に行って来た。
結果的に云うと結構面白かった。マグナム・フォトっていうのは展覧会のフライヤーによるとカルティエ=ブレッソンらが作った「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張することを目的とした」組織だけど、個人的には社会性に積極的に関係しようとするジャーナリスティックな写真家の集団なんていう勝手なイメージがあった。だから写真の社会性なんかまるで関心がないものとしては、大して面白くないかもと思いつつ出かけてみたところもあったんだけど、見終わって出た感想はこういうものだった。
パリの歴史的な動きに連動してる写真はまさしく社会性を前面に押し出していて、その生々しさはやっぱり写真という手段を取ったことでよく伝わってくる。第二次世界大戦の時のレジスタンスが路上で銃を持って潜んでる写真とか、戦争映画では良く見るけど、リアルに路上にいたレジスタンスの姿は命のやり取りをしてる際どさが伝わってくるし、五月革命の時の暴動を撮った写真も、毛沢東の肖像を飾った思想は賛同できないにしても、でもそういう賛同できない本質も含めて現場の空気感が良く伝わってくるような感じだった。
で、見ていて意外だったのはマグナムの写真は大半がこういう社会性のある写真だと思ってたら、そういうのとは違った写真、ジャーナリスティックなものとはかなり距離を置いた毛色の変わった写真を撮る写真家も結構受け入れられて、参加してるということだった。歴史を辿る生々しい写真に混じってひたすらイメージに淫する写真が顔を出してくると、ドキュメンタリー的な写真も意外と面白かった上に、まさにわたしの関心の対象となり得る写真も色々と目にすることが出来て、こういう楽しさは会場にやってくるまではあまり思いもしなかった。
会場は歴史的なラインに沿っていくつかのブロックに纏められていて、社会的なリアリズムといったものを一義に置かない写真はやっぱり現代に近づいてくるにつれ多くなってくるようだった。カメラだって、これ、どう見てもホルガ使ってるだろうって言うのもあったし、マグナム・フォトの集団の中でトイカメラを見るとは思わなかったので、これにはちょっと吃驚した。偶然最近ホルガをまた使おうかなと思っていたから、これを見たとたんにその気分に火がついてしまった。
会場で区分けされていたものとしては最後の「解体の時代 1990-2018」と題されたブロック、これが面白かった。展示されていた写真家で云うとマーティン・パーとゲオルギィ・ピンカソフ、そしてハリー・グリエールにホルガの使い手で意表をついていたクリストファー・アンダーソンといった辺り。
なかでもゲオルギィ・ピンカソフが良かったなぁ。この写真家の写真がひときわ目を引いた。写っている事物の意味なんかそっちのけで、光と影と事物の形をいかにフレーム内に納めるかということ一点に腐心してるような写真。出来上がるイメージは極めて複雑で視覚的な豊穣さに満ち溢れてる。この写真家のことを知っただけでもこの展覧会を見に行った意味があったかも。

会場は4階のフロア全面で展開されていて、展示総数は100点以上と、それなりに見ごたえがある。一回りして会場を出ると、下の階で同時開催されてる展覧会に誘導される。これが近代京都へのまなざしー写真にみる都の姿ーっていうタイトルの展示だったんだけど、ついでに立ち寄ったにしては面白かった。っていうか本編の展覧会を見た後であまり面白いものを見てしまうと、パリ・マグナム展での印象が薄れてしまうじゃないかと思って、面白さに困ってしまった。
明治の初めくらいかな、そのころの写真を大きくプリントしたものが小さなオリジナルを添えて展示されてる。オリジナルとなってるものは一枚が木の特別な入れ物に入れられた形で保存されていたのがそのまま展示されていて、その当時の写真がどういう扱われ方をしていたかもよく分かる展示だったし、降り積もった時間の層の厚さを実感できるような存在感だった。他にも京都の古い様子を写したものは、さすがに自分の生きてきた時代ではなかったけれど、今の様子を知っていたりするから、その変遷の具合に興味を引かれる。明治の頃の八坂神社の石段下の光景なんか、片隅にお気に入りの狛犬が写ってたりして、まるで懐かしいものに出会ったような気分になったりした。
予想外の面白さに若干困るけど、パリ・マグナム展のおまけで見られるなら意外と豪華で本格的、お徳感満載の展示だったと思う。
また、これだけ単独で見ようとしたら一応料金を取られると後になって知った。そういう意味でも見ないと損なおまけだった。




空蝉の木の影 / Anne Sophie Merryman - Mrs. Merryman's Collection

黒い雲が飛ぶ壁





配管の曲がり角






工事展望

2016 / 08
2017 / 07/ 05
Canon Demi EE17 / Olympus Pen EES-2 / Konica EYE
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Fuji 100

季節が終わるまで毎回書いてそうな気がするけど、とにかく暑い。体の中から溶け出して、汗と一緒に気力も何もかも流れ出ていってしまう。このところ見つめるのは体の中に空虚に空いたからっぽの空間ばかりだ。
周りを埋め尽くす蝉の声を聞きながら、己が空虚を覗き込んでいると、空蝉なんていう言葉が立ち上がってくる。
空蝉っていうのは夏の季語で、もちろん蝉の抜け殻をさす言葉だけど、人の住む世、いうならば現実を表す言葉でもあるらしい。
昔の人はこの現世がからっぽの空虚な世界だと看破していたということなんだろうけど、なかなか侮れない認識だと感心する。
この言葉から木の幹に留まる抜け殻とおそらく世界樹のようなイメージが合わさって、無限の蝉の抜け殻をびっしりと纏わりつかせた巨大な木が頭に浮かんだ。
どこかへと溶け出したからっぽの空間を体の中に抱えて、その空蝉の世界樹の元に佇んでる。夏の暑さにへばりかけてイメージするのはそんな世界。写真に撮れるものなら撮ってみたいところだけどね。

まぁそんなことを云っていても始まらない。からっぽならわたしの中の空っぽの写真を撮り続けるほかないだろう。
先日撮り終えた写ルンですの現像をフォトハウスKに頼みに行った時、ハーフサイズで撮ったフィルムもCDに出来るようになりましたと教えてもらった。今まではハーフサイズのネガは同時プリントをしないなら、インデックスも作れずに家でスキャンするほかなく、36枚撮りで撮っていたら倍の72枚をスキャンしなければなかった。あまり上手くスキャンできないわたしのスキャナーではその作業はストレスかかりまくりだった。だからCDを読み込むだけで全部取り込めるとなると、これは本当に助かる。
で、どんなに便利になるのか体験したくなり、ものは試しにと久しぶりにフィルムを装填するのはハーフカメラにすることに決めた。
フィルムを詰めたのはキヤノンのデミEE17。今回の最初の写真を撮った、そこはかとなく調子の悪いハーフカメラだ。
27枚撮りのフィルムだったので撮れる総数は最低でも54枚。この気分だと全部撮り終えるのにひょっとしたらこの夏中かかるかもしれないと、装填した直後にやっぱり普通のカメラのほうが良かったかなと思ったけど、まぁそれもいいか。暑さにへばりかけて集中できないような時に、あまり考えずに流すように大量に撮るのも空虚さを埋めるリハビリになるかも。

2枚目の写真はちょっと奇妙な触感を狙ったものだった。そして奇妙な、まるで異界からの通信を傍受してしまったような不思議な感触を残す写真が並んでるのが、今回の「Mrs. Merryman's Collection」という写真集だ。

☆ ☆ ☆

Anne Sophie Merrymanが亡くなった祖母であるAnne-Marie Merrymanから受け継いだポストカード・コレクション。一度も会ったことのなかった祖母とそのカードを仲介して邂逅したAnne Sophie Merrymanは、そのポストカードのイメージを編集して一冊の本に仕上げた。1937年から1980年の間にAnne-Marie Merrymanによって集められたポストカード・コレクションにはどことも分からない異国の奇妙なイメージが数多く封印されていた。

メリーマン1

メリーマン2

メリーマン3

といった背景がある写真集なんだけど、この本は策略に満ちてる印象で、こういう成立過程も文字通りに受け取る必要もなさそうな気がする。
それはともかく、ポストカードを集めることで世界を旅してる気分を味わっていた古い時代の女性と、今や何時どこで写したかも分からなくなってるような古びたポストカードという、そういう有様が写真に想像力を広げる余地を生み出してるのが手に取るように伝わってきて、これはとても面白い。
そういう魅力的な背景に乗って展開されるポストカードの写真は、通常思い浮かべる観光地写真の範疇を大いに逸脱して、夢のように風変わりでサイケデリックなイメージで溢れそうになってる。この世界とは明らかにずれを生じているようなその写真群は、時間の彼方から届いてくる、意味の形も取れなくなってるようなかすかな囁きも伴って、まさに異界の扉が開きかけている状況を活写してるようで、目を惹きつけ、心が騒ぐ。
これは本の形で展開してるものだけど、実際に一品ものとしてAnne-Marie Merrymanが所持していたポストカードとそれを詰め込んだ古いトランクも存在していて、まるである種のオブジェ作品のような佇まいで写されてる写真も見たことがある。その圧倒的な事物感はおそらくこの心が騒ぐ感じを増幅して、異界からのささやきもまた本よりも生々しい感覚として迫ってくるんだろうと思うと、この実物も一度見てみたいものだと思う。

メリーマン4

それでこの本、ばらすのも無作法なので何とは云わないまでも全体に策略に満ちているのに加えて、もう一つ物理的な仕掛けがあり、最後の二枚のページが赤い糸で縫い合わされてる。これを解くとちょっと驚くような何かが出てくるらしいんだけど、実はもったいなくてこの赤い糸、未だに解いてない。こんな仕掛けは実際のところ有難迷惑そのもので、わたしの気性としてはこういうのはそのままにしておきたい気分のほうが先に来る。
だからこの糸でとじてある秘密についてはわたしは未だに何なのか分からず謎のままになってる。ここまで放置しておいて期待値をあげた後では、実際に開けてみたら何だこんなものかと思うに決まってるから、今ではなおのこと謎を白日のものに晒せなくなってしまった。













暑中お見舞い申し上げます

2017暑中見舞い





2017祇園祭1





2017祇園祭2






2017祇園祭3





2017祇園祭4






2017祇園祭6

2017 / 07
祇園祭 室町通
Olympus Pen E-P5

祇園祭でも撮ってこようと思って夕方に出かけた時のもの。ちなみに前回書いた長刀鉾の粽を全力確保する決意のことだけど、決意が結実したのか今年は無事に手中に収めることが出来た。
それにしても暑すぎる毎日に、まだ夏は始まったばかりというのに早くも気力は加速度的に減退して、カメラ持って出かける気になかなかなれなくなってる。ここへ行けばきっと面白い写真が撮れるなんていう予感めいたものがまったく頭に上ってこなくて、ここへ行ってもどうせ大した物も見つからないだろうという思いのほうが先に来る。
今回の写真を撮りにいったのは夕方だったんだけど、撮り歩いてるうちに思ったのは太陽が頭上にある時よりもやっぱり多少は過ごしやすくなってるなっていうことだった。この感じだと昼間は壊滅状態になってる気力が、夜だとなんとか蘇って来る可能性もある。そんなこんなで夏の間は夜の撮影に徹するかなぁなんて思い始めた。実のところフィルムは夜の撮影に弱くて、というか撮れる人には撮れるんだろうけど、自分はとっても苦手で、今までほとんど撮ったことが無い。今回のもフィルムじゃ無理だと、もう最初からデジカメ持参の撮影だった。
でも夜にフィルムも使ってみたいんだなぁ。そういえばこういうことを書いてみて思い出したけど、この室町通を歩いてる時に、二眼レフを構えてる若者を一人見かけた。こんなに暗いところで昼間でも見難いウエストレベルファインダーを覗いていたけど、その有様を見ていて夜の空間をフィルムでも撮れるんだと思った。まぁ本当に撮れたかどうかはあの人に結果を聞いて見なければ分からないけど。
夜をフィルムで撮る、これは今後のちょっとした課題になるかも。

今回の写真はブロドヴィッチ先生に怒られそう。祇園祭を新鮮なイメージで撮る方法を誰かに伝授してもらいたいところだ。










言葉へ、あと数歩 / ALEXEY BRODO-VITCH

玄関の豚






オブジェ展覧会






陸橋公園

2017 / 05
嵯峨野
Zeiss Ikon Ikonta 521/16
Kodak Tri-X

最初のはこの前のと続けてしまうと、動物置物シリーズみたいだ。
陸橋は俯瞰でブランコを撮った場所。この高架下の雰囲気は結構好きだ。

まだまだ続く嵯峨嵐山の写真。別に嵯峨野でなくてもかまわない写真と云ったけれど、でもこういうのも嵯峨野で見たものだし嵯峨野でしか見られないというなら、これもやっぱり嵯峨野でなくてはならなかった写真なのかもしれない。
最近は体感として似たような写真ばかり撮ってるなぁって思う。ハーパーズ・バザーのアートディレクターで知られるアレクセイ・ブロドヴィッチは「何かを見て、前に見たことがあると思うならシャッターを切るな」と云ったそうだけど、まぁなかなか実行するのは難しいにしても、こういう言葉はいつも心のどこかに留め置いておくほうが良いのかもしれない。

それにしても暑い。カメラ持って歩き回る気力がなかなか出てこない。夏のイメージは意外と好きなんだけど、体感する夏はやっぱり大の苦手だ。おまけにこれを書いてる今はまだ梅雨も明けてなくて、鬱陶しさが倍増してる。このところデジカメを持って出てるのは下手にフィルムを入れてしまうと、雨が降り続いたりしたら撮影途中のフィルムがそのままになってしまい、撮り終えられずに現像できない状態が続くと思ったからだったんだけど、デジカメを持って出た結果として、今度は現在撮ってる途中のフィルムもなかなか終わらないなんていうことになってる。
春の終わり頃から時折つれて歩いてる写ルンですは一応あと10枚ほどで撮り終えるところまで来てる。でもそれからがなかなか進まずに最初のほうで何を撮ったのかも忘れてしまった。

さて京都市内は今、祇園祭で盛り上がりつつある。去年、いつも買ってる長刀鉾の粽は、売り切れなんていう出来事に阻止されて手に入れられず、代わりに近くの菊水鉾のを買ってそれは今でも玄関に吊ってある。間に合わせで買ったというと菊水鉾から呪いでもかけられそうだから口が裂けても云わないものの、やっぱりいつもの贔屓の鉾の粽が欲しい。今年はとにかく買い逃したくないということで、今週辺りから長刀鉾の様子伺いを始めた。月曜日に前を通った時はまだ骨組みの下半分を組み立ててる最中で売店の影も形もなかったんだけど、12日には曳き初めのニュースをやっていたから、祭りの準備は始まると急速に形を整えていくようだ。
ついでにといっては何だけど久しぶりに鉾の写真でも撮り歩いてくるかなぁ。どこかで見たような写真ばかりしか撮れなくて、一体わたしの言葉から何を学んだんだとブロドヴィッチに怒られそうだけど。



☆ ☆ ☆


ブロドヴィッチ1

ブロドヴィッチ2

わたしが持ってるブロドヴィッチに関する本だ。どうやら1998年にパリで開催されたブロドヴィッチの展覧会の図録のよう。まぁ安くで見つけて、スタイリッシュな写真が一杯載ってるというので買ってみただけだったので、本の素性までは気にもならなくて調べなかった。だからこれを書くまで展覧会の図録だということは知らなかった。ブロドヴィッチには「BALLET」っていう20世紀の伝説的な写真集があるらしいけど、そっちは未見だ。
レイアウトカンプなども含めて、ブロドヴィッチがアート・ディレクターを務めた紙面が集められてる。分量的にはあまり多くないので見ごたえはそんなにはないかな。使用されてる写真にはアヴェドンだとかマン・レイだとか昔の有名どころが揃い踏みだ。とは云うもののあくまでもブロドヴィッチのアートディレクションの中で扱われてるというだけで各写真家の掘り下げはほとんどなされてないから、写真家についてはどういう写真を主に撮っていた人なのかということさえもこの本からはほとんど伝わっては来ない。反面いろんな写真家の写真がファション的なフィルターをかけられるとどうなるかといったものはそれなりに伝わってくる。
でもファッションに関わる事物の宿命なのか、やっぱりハーパーズ・バザーなどが牽引していた時代の雰囲気のなかにあるっていうようなのが多い気がするなぁ。ここで見られるような雰囲気は嫌いじゃないけどね。