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知覚の地図Ⅴ / Heinz Burt

回転残像人間痕跡





骨






色彩の告知





網花





団地池
2020 / 01
Last Camera / Lomography Color Negative 400




      でもそうじゃなくて、一人の人間が死ぬことでその人がその中にいて見続けていた世界そのものが消滅する。その人にとっての世界はその人が死んだ後も存続するようなものじゃなくて、その人の死と同時に世界そのものが跡形もなく消え去ってしまうということ。要するに永続する世界の中の一人の死というんじゃなくて一人の死による一つの世界の全死となる。そこではその人が見ていた、その人にとってのわたしも同時に死ぬ。わたしは他者が死ぬことにおいて不断にわたしの死を経験していくことになるだろう。死んでしまった本人にとっては自分がそこにいた世界も同時に死滅してしまうわけだから、ある意味子気味いい。後腐れがないし、あれを残しておいて誰かにみられたら恥ずかしいなんていうことを憂慮する必要もまるでなくなる。
四十九日を過ぎてわたし自身が巨大な空虚になってしまったような感覚は今も続いている。生きているものはおそらくほとんどが最後はああいう風になってしまうんだとか、自分の病気のことだとか、これから自分はどう生活していけばいいんだろうとか、父が認知症で崩壊していくのを見続ける苦痛からは解放されて一息つけるようになった反面、そういう寄る辺ない思いに捉われて考え込むことが多くなり、意図的に自分を奮い起こさないと何もする気が起きないし、なによりもなんだか一日中眠い。人間の形をした暗い穴のようなものにでもなった気分だ。でもそういう気分でい続けることも現実は許してくれなさそうで、時は着実に進み、今もいろいろと煩雑な手続きが行列をなして早く終えてしまいなよと云わんばかりに待ち構えている。現時点でまず法務局に行かなければならない手続きがあるんだけど、行ってみれば受付のお姉さんが懇切丁寧に案内してくれるとは分かっていても、何か物々しそうなイメージで腰が引ける。また死人の確定申告もしなければならないなんてここにきて始めて知った。

写真はラストカメラで撮ったもの。今年になってから病院の面会に使っていた時間がすっぽりと空いてしまった分を、一緒に面会に行っていた姉の家に遊びに行くことで埋めていて、その折に撮っていた写真だ。木幡の姉の家の周囲で撮る程度ならば、今の体調でもかろうじて可能だ。ラストカメラは自分で組み立てるプラモデルカメラの一種だけど、ひとコマ巻き上げると自動でシャッターチャージもできるといった手の込んだ機構も一通り揃っていて、出来上がったカメラは自作のものとは思えないほど本格的なものになる。その分組み立ては煩雑だったけど。特徴は標準と広角の二種類のレンズがついていて、フィルムがはいっていない時だけという条件付きでレンズ交換が出来るというのと、光線引き用の穴がついているということ。スライドスイッチ一つでこの光線引きを意図的に作れるという仕掛けがこのカメラの売りだ。でもせっかくのユニークな仕掛けなのに、仕組みは一箇所にピンホールが開いているだけという単純なものなので、光線漏れの形がランダムにならずに単調すぎてあまり使い物にはならない。ランダムな光線漏れを引き起こすには一瞬だけ大胆に裏蓋を開けるとかしたほうがいいかもしれないけど、加減が難しいだろうなぁ。
これを撮り終わった後、去年フィルムを入れたままになっていた、35mmレンズつけっ放しのFM3Aで撮影を再開している。さらに最近コンパクトカメラのオリンパスXA2にも、こっちは久しぶりにモノクロフィルムを詰めて、二刀流の形にした。XA2は35mmレンズなのでFM3Aのほうはつけっ放しだった35mmを28mmにでも交換してみようか。ちなみにXA2につめたモノクロは使用期限が2015年のものだった。冷蔵庫に入れっぱなしで、そんなに長い間使っていなかったんだと自分でも吃驚だった。ということは自家現像も最低でも5年くらいはやっていないということになって、おそらく薬液は全滅だろう。でもコンスタントにフィルムを消費できる体調かどうかなんてことを考えると、安いものとはいえ薬液をまた全部そろえるよりはここは大人しく現像に出したほうがいいかもしれない。フィルムの現像は手作り感があって面白いんだけどね。

Live It Up

ザ・トルネイドースの白髪のベーシスト、ハインツ・バートが歌う曲。これはソロになってからのものだと思う。ハインツ・バートはザ・トルネイドースのテルスターのPVの、一番前に陣取ってなんだか不敵な笑みを浮かべて演奏しているのが、白髪とともに妙に印象に残ったミュージシャンだった。
これはLive It Upという音楽映画の1シーンで、登場人物の顔ぶれが面白い。ハインツ・バートの後ろでギタリストを演じているのが、この数年後にミケランジェロ・アントニオーニ監督のスタイリッシュな映画「欲望」でブレイクすることになるデヴィッド・ヘミングスだ。ドラマー役が後のスモール・フェイセスのスティーヴ・マリオット。ベース役のジョン・パイクは60年代のほかの映画に多少姿を見る程度で、その後どうなったのかは情報がほとんど取れずによく分からないんだけど、他の三人に関しては既にもうこの世の人じゃない。ハインツ・バートは70年代には既に音楽の分野から引退していたりして、映像の若々しさがその後に積み重なった時間の層を実感させる。この映画に登場するほかのバンドでは、見ているとMPでも吸い取られそうな妙な腰振りダンスをしながらギターを弾いているリッチー・ブラックモアなんかも見られる。ミッチ・ミッチェルも子役で出ていて、有名になってからしか知らないものだから、最初はみんなこういうことをやっていたんだと色々と興味深い。
ハインツ・バートは白髪と流し目ぽい視線とか目つきが印象に残っているミュージシャンなんだけど、この映画のシーンでの視線の彷徨い具合はとりわけ目立って特徴的だ。あちこち落ち着きなく視線を移ろわせているんだけどなぜかカメラのほうには絶対に向けない。落ち着きのなさの中に垣間見えるこの頑なさが何かちょっと異様だ。
The Outlaws (featuring Ritchie Blackmore) - Law And Order

腰を振る、まるでイメージの違うリッチー・ブラックモア。

Live It Up ! 1963

映画全体はこういうのだけど、字幕がついていないので演奏シーン以外はさっぱりだ。

The Tornados - Telstar





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知覚の地図Ⅳ

逆ハート





緑のホース





家路





丸い




踏み切り
Konica EYE / RIchoh Auto Half E / 写ルンです
Fuji 100 / Lomo 400

グラフィカルでポップでキュートでシュールと、そろそろ違う感じのものも撮ってみたいと思いつつもいつもの如く目指すのはこの辺りだ。これにくわえて寡黙さもめざしているのにこれは毛の先ほども実現できずというところか。云うことなど何もないのに云いたそうな気配だけは立ち上っている。最後のは冥界に通じていそう。
今年になって始めての更新。喪中でお正月も出来なかったしちっとも盛り上がりのないままに時間が経過していった半月だった。そのわりに低空飛行を続ける気分のままに葬儀後のいろんな事務処理に引きずりまわされて、それはいつまでたってもまだ始まったばかりのように遅々として進まない状態のまま、なんだか気疲れのみを重ねていくようにわたしを翻弄している。みんないいようにこれをやれあれをやれといってくるけど、わたしは難病なんだぞと、そんな人間を引きずりまわして楽しいのかと文句の一つも云いたくなる。もっともこれだけストレスをかけられて潰瘍性大腸炎は絶対に再燃すると覚悟していたのに、今のところそんなに酷い揺り戻しもないままに平穏状態を何とか維持している。意外とわたしは神経が図太いのか。
まぁそれでもこの半月のことをちょっと書き記しておくと、孤独のグルメの年末スペシャルを見ようと思っていた大晦日、なんと関西での放送局であるテレビ大阪のみがわたしのテレビでは受信できないという呪われたような大トラブルのせいで見ることも出来ないまま、潰瘍性大腸炎では蕎麦は食べないほうが良い食品になっているせいで年越しうどんなんていう得体の知れないものを食べて年越し、年を越してすぐの真夜中に買い忘れていたおやつでも買いにいこうと思って近所のコンビニに行けば、顔を知られてる店員にいきなりあけましておめでとうございますと声をかけられ、ふいをつかれて喪中なのに思わず明けましておめでとうございますと返事をしてしまったことから新しい年が始まった。結局お正月の間新年の挨拶をされると、喪中であることを説明するほどでもなければ、そのうち面倒臭くなってそのまま挨拶を返しまくっていた。フォトハウスKでもそうで、本当に久しぶりにフィルム一本最後まで撮り終えて現像を頼みに行ったらここでもお正月の挨拶。病気だからなかなか写真撮りに出かけらずに、あまりこれなくなってるとは云ってあったけど、喪中を理由に挨拶拒否するのもなんだか躊躇われてしまった。大晦日に見逃した孤独のグルメは元旦にはもうネットにアップされていて一日遅れで見ることができたんだけど、韓国特集のような内容で、お正月に反日国家のことなんかなにが悲しくて見ていなくてはならないのかと興ざめもはなはだしく、ドラマ中に三度あった食事シーンも三度とも最後には全部のおかずをご飯の上にぶちまけてまぜまぜして食べるなんていう汚らしい食べ方を見せられたのにも閉口。フライパンにのせたまま客の前に出したり、ステンレスの容器によそって平気なご飯の出し方も、それは厨房限定の調理器具だろうと思うとまるで美味しそうに見えなかった。主人公の井之頭五郎は西洋の雑貨輸入業で韓国とは直接関係がないものだから、通りすがりの人物とぶつかった時にその人物の持っていた茶器を割ってしまい、その代用品を韓国へ探しに行くなんていう取ってつけたような理由で韓国行きの方向へ持っていっている。茶器に何の意味もないのは結局韓国で立ち寄った店の店頭ワゴンに二束三文で売っていたのを見つけてそれでお終いだったというのでもよく分かる。ついでにワゴンセールの茶器をありがたがっている日本人はセンスがないとでも云いたいのか?ひょっとしてあの時、神戸のサンテレビでさえ映っていたのに、よりによってテレビ大阪だけ映らなかったのは、こんな番組、見る価値もないという天からの啓示だったのかも知れない。こんなことやってると孤独のグルメも長くないんじゃないかな。でもこちらは病気のためにほとんど食べてもいいものがなくなっているのに、あぁ病気じゃなかったらこういうのが食べてみたいとかちっとも思わなくなっていたのは、番組のせいだけじゃなくて、もはやこういういろんなものが出てくる食事というものが自分にとっては別世界での出来事のように思い始めているということなのかもしれない。
テレビドラマといえば19日に一回目の放送があった大河ドラマ「麒麟がくる」。内容どうのこうのという前にあのギトギトとした、振り切るほどに彩度をあげた色彩に面食らう。テレビが壊れたのかと思った家庭も多かったんじゃないか。蛍光色に近い草の緑や空の青の、頭が痛くなるような色彩が画面を埋め尽くしていて、さらに最後のほうに出てきた堺正章の頬は赤く丸く塗られてまるで猿メイクだ。もっとも堺正章は昔猿の役をやってはいたけど。まるでサイケデリック・ムービーでも作りそうな勢いでこれもまた迷走する大河の一つの表れなのか。この勢いのまま突き進んで、よく言えば夢魔のようにシュルレアリスティックな明智光秀を見せてくれるようになるのか、単にセンスの悪いこけおどし的な色彩デザインの映像の垂れ流しに終始することになるのか、ドラマ本体以外の関心事も色々と呼び起こしそうだ。
この半月、木幡に住む姉の家にたまに遊びに行って過ごしていた。そのたびにカメラを持って出て木幡周辺の写真を撮り始める。去年結局カメラに詰めたフィルムはたったの三本で、そのうちの一本は去年の内に撮り終わり、残りの二本のうちのあと残りわずかだった一本をこうして今年に入って木幡での数日で最後まで撮り終えることができた。その後は去年の最後の一本を内に抱えこんだままだったFM3Aを持ち出している。これは去年の春に撮り始めてどうしても撮りたかった被写体を撮った、その時のたったの一枚で中断したままになっていた。とにかく停滞していたフィルムの消費が多少は動き出す感じで今年の初めを過ごしていたのはまず単純にいい兆候だろうと思う。あとやることもないし写真への関心も削がれがちな中、結構本を読んでいた。といっても暇つぶしの娯楽本ばかりだったけど。去年の終わりから続いていた怪談話や妙に文学っぽく太宰治や夏目漱石なんかに溺れかけてみたり、今年は絶対にトマス・ピンチョンのどれかと「失われた時を求めて」を読破してやろうとか、本を巡る興味は写真を撮りにいけない代償のように活発化しているようだ。と、興味が拡散していくさなか、今読んでいるのは村上龍の「半島を出よ」で、文庫が出た当時に買ったまま放置していたものを今さらのように手に取っている。なにしろ巻頭の登場人物一覧に、北朝鮮側の登場人物の区別しがたい名前が山のようにそれもカタカナで連なっていて、これは絶対に覚えきれないと降参状態の本だった。太宰治に関してもしも太宰がツィッターをやっていたらなんていう成りすましアカウントで展開しているのをチラッと見て、面白いことを思いつくもんだなぁと笑ってしまった。
人が死ぬ時、永遠に続く周りの世界の中でその一人の人格が消失してしまう、一人の人格が消失してしまっても周りの世界の連続性は断ち切られない。こういうのが一般的な捉えかたなんだろうけど、でもそうじゃなくて






知覚の地図Ⅲ かっこいいブーツ! 今年もお終い。

茫洋とした希望





彼方にある展望

コンセプトによる写真はそのコンセプトを理解すれば写真も分かりやすくなる。云うならばその写真の繰り出す答えは割り切れる。対し直感による写真はおそらく割り切れない。来年はちょっとそういう直感による写真を撮ってみたい。つまりは撮った本人にもそれが何なのか分からないような写真。どこかで見たような洒落た雰囲気のかっこいい写真をまねて撮るようなことは極力避けよう。そんなのを撮るくらいなら、誰も撮る気を起こさない、まるでちっともかっこよくない写真を撮るほうがずっとましだ。

少し前の記事を読み直していて、涼しくなったらブーツを買うというようなことを書いていたのを思い出した。実際にこの冬ブーツを買ったからブーツを履いてやろうという野望は夏の始まりの頃から持っていたということだ。
きっかけは雑誌というかムックで見たこの写真。おぉ、かっこいい。一歩間違うと路上生活者だけどもちろんそっち方向へはまるで踏み込んでいない。定型を嫌い、漂泊、流浪なんていうロマンチシズムとどこか通底しているところがある、なんていうとちょっと云いすぎか。どう見てもゴージャスという出で立ちでもなく、つげ義春の「貧困旅行記」なんていうのを愛読している、わたしの無産者的な感性ともひょっとしたら近いところがあるのかもしれない。
この写真が載っていたムックは「FASHION PORTRAIT LONDON」というタイトル。エイ出版社から出版されている。

かっこいいブーツ

まぁロンドンでブーツといえばパンク御用達のドクター・マーチンの8アイ・ブーツ辺りが代表格だろうし、これも最初見た時はそうだろうと思ったんだけど、よく見るとパンキッシュでもなくトレッキングシューズのブーツバージョンといったところか。ちょっと探してみたけどオールレザーのエロチックな質感のトレッキングシューズというのはあまり数多くもなく、しかもある程度のロングブーツでかっこいいとなるとほとんど見つからない。そんなこんなで目当てのブーツが見つからないまま、あまり費用をかけたくないということも相まって結局買ったのは一気に理想も下がって中国製の、レザーと表記にあるものの本当かどうか分からないようなドクター・マーチンもどきといった代物になってしまった。どんなものかためしに一度履いてみるという意味ならまぁこれでもいいか。それにしてもこの写真のブーツはどこのブランドのものなんだろう?
そっくりマーチンを履いて歩いてみると、これはまるで足首にギプスでもしているような感じで最初の日は普通にトラブルが出そうなかかととかじゃなく履き口の辺りが痛くなった。足首の部分がほとんど思うように曲がらないからしゃがむのも一苦労。履き口も足の動きにスムーズについてこないからこの痛さなんだろう。この手のブーツがこんなに不自由な履き心地だとは予想もしていなかったけど、何回か履いているうちに履き口の痛さはほとんど感じられなくなり、足のほうがブーツとはこういう感覚のものだから仕方ないとでも諦めてしまったような状態となった。最初のこのギプス的な感覚はなにも中国製偽物マーチンだからということでもなく、本来的にこの形の靴はこういうものなんだろうと思う。
でも決して履き心地がいいわけでもないのにやっぱりこの見た目は気を引かれる。足首辺りに現れる革のしわの入り具合がいつもフェティッシュな美しいものとして見えてくる。
それにしてもアマゾンにはマーチン・ブーツというカテゴリーで怪しい靴がいっぱい並んでいる。

ライトグレーのグレンチェックだけど似たようなツィードのチェスターコートも持っているし、胸に留める四角いバッジまでも手元にある。一夏探して迷彩のパーカーというか、これはコートの類になるのか、中に着ているものは似たものさえも見つけられなかったのが今のところ残念だがコート・オン・コートのような過剰感は何らかの形で身に纏いたい。ボロボロのジーンズは趣味じゃないのでこれはコーデとしてはあまり採用したくないといった感じで、ブーツを元に組み立てるファッションというスタイルになると思うけど、これが今年の冬の服装に関する関心事となっている。

年末になって身内に不幸があった。
気分的に結構まいってしまってしばらくブログから離れようかとも思ったけど、こういうことを続けるのも気晴らしになるかもと考え直して、とりあえずは続けてみることにした。もともと一月に一度なんていう更新頻度だし、休みながらだったとしても見た目は大して変わらないかもしれない。
ということでしばらくはたまにしか出て来られないかもしれないけど、来年もよろしく。
そして今年も一年ありがとう。



伝統と破壊が同居しせめぎ合うようなイギリスの文化は音楽だけじゃなくてファッションにおいても面白い。ことにメンズのファッションは基本が規範でありルールであるにもかかわらず、その不自由さをものともせずにみんな好き勝手に服を楽しんでいる様子がよく分かる、そんな写真が一杯掲載されている。
服装で自由になるって本当に難しいんだよ。


一応本物らしいドクター・マーチンの1460 8アイ・ブーツ。それにしても今回通販で靴を買ってみたけど、これは本当に冒険だった。レビューを参考にしようとも普段サイズで十分という人と大きいという人と小さいという人が入り乱れてまるで判断の材料にならない。まぁサイズ交換できる場合が多いとはいえ手続きは面倒だし、注文ボタンを押すにはちょっとした勢いが必要だった。当然試着後でも交換可能と表記されている靴を選ぶのがベストで、結果としてサイズがぴったり合うなら、アイテム数が桁外れに多い分、通販で靴を買うというのは結構ありかもしれない。





金字塔、謎語像。 知覚の地図Ⅱ 怪奇小説アンソロジーの色々。 The Caretaker

窓の茂り





溶ける螺旋





光に沈む叢





夜の舗道





暗い窓辺

最初の三枚はKodak No. 2 Folding Autographic Brownieというコダックの古い蛇腹カメラで撮った。ほぼ100年くらい前のカメラだ。長い年月を潜り抜けてくる過程で蛇腹が劣化し、穴だらけになっていたせいで盛大に光線引きしている。ただあまりにも穴だらけすぎてほとんど制御できず、というか一面真っ白なんていうのを高確率で生み出して、光が漏れる美しさどころじゃないので結局フィルム2本ほど撮って後は使わなくなった。蛇腹の修理をすればいいんだけど、修理費は高価でそれだけの費用をかけてまで使うようなものでもないし、たとえ修理したとしても穴のまったく開いていない蛇腹もこれはこれでつまらないと言うことで、今はわたしのカメラボックスのなかで眠っている。蛇腹がへたって使えないカメラとなってしまっているものの、それでも逆に言えば蛇腹を修理さえすれば今でもまるで普通に使えるカメラでもあるので、そういうところは道具としてはやっぱりどこか凄みはある。
きっかけは佐藤春夫に「化物屋敷」という怪奇小説の短編があるというのを知ったことで、最近ちょっと怪奇小説を連続で読んでいる。化物屋敷という語感が良い。幽霊屋敷よりもなんだか派手で、奥ゆかしさなんてそっちのけでストレートに迫ってきそうな迫力が言葉からも感じられる。そこで、「化物屋敷」が集録されている本を探して手に取ったのが創元推理文庫から出ている「日本怪奇小説傑作集1」というアンソロジーの一冊だった。「化物屋敷」は全三巻のうちの最初の巻に集録されていて、この本には他に明治から昭和初期にかけての文豪がものにした怪奇小説を中心にコレクションされていた。これで知ったんだけど川端康成なんていう作家も幽霊小説を書いている。まるで興味の対象外だった川端康成も解説で「死臭と霊気ただよう幽明の界を凝視しつづけた特異な作家」と紹介されると俄然興味がわいてくる。目的だった佐藤春夫の「化物屋敷」はまぁ特に凄いと思うところもなく、というかこれから本格的に始まるだろうという手前で終わってしまっているのが拍子抜けで、この屋敷に関しては同居していた門下生だった稲垣足穂も取り上げて小説にしているということを知ったのがどちらかと言うと収穫だったかもしれない。ちなみに佐藤春夫の小説のほうで石垣という名前で登場しているのが稲垣足穂のことらしい。稲垣足穂には「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」というお化け屋敷小説があって、賑やかな百鬼夜行のあとを、大人になってしまえばもう二度と見ることもかなわないとでもいうような喪失感で締めくくり、その郷愁に満ちた余韻が印象的なものだった。これが結構好きだったからこの佐藤春夫がらみの化物屋敷小説もそのうち探し出して読んでみたい。集録作家の中で夏目漱石、内田百閒、江戸川乱歩、夢野久作、谷崎潤一郎辺りはそれぞれ怪異幻想を扱って手馴れているのがよく分かって、というかそういう領域を得意としている面を持っているとこちらが認識して読んでいるから馴染みもあり安定して面白い。作品の選択も漱石なら「夢十夜」の有名な、薄気味の悪さで突出している「第三夜」なんかを持ってこずに「永日小品」から「蛇」なんていう掌編を取り上げていて、有名どころに頼ったような選別でもない。谷崎潤一郎は主人公の女優が自分が出演した覚えもないのに自分が主役として出ている映画が場末の映画館でかけられていることを、そしてその映画が人面疽の話で、夜中に一人で見れば気が狂うという呪いの映画だと知るなんていう謎めいたお話の「人面疽」を、江戸川乱歩は、まぁこの人の短編は全部が代表作みたいなものだから何を選んでも掘り出し物感はほとんどなくなってしまうんだけど「鏡地獄」が選ばれている。収録されている小説の中で予想外に面白かったのが小泉八雲の「茶碗の中」だった。結末を読者に委ねているわけでもないんだけど、読後感はこういったリドルストーリーとよく似ている。時間の彼方の闇の中から不意に浮かび上がり、また再び手の届かない遠くの闇の中へと消えていくような全体の雰囲気が良い。元になった話は古文書にあるものらしいけど結末はまるで違っていて、こういう趣向の結末にしたのは小泉八雲の独自の感性によるものだったらしく、結構モダンな感覚の持ち主だったことに気づく。本全体は文豪が残した怪奇小説という風変わりな切り口も含めて、普通ではあまり目にしないものも収集されているのが楽しく、確かに時代も違うし泉鏡花のものなんか今の文章作法とはかなり異なっていて読みにくいこと夥しかったりするんだけど、時代が違うんだから今の文章と違うのは当たり前、そういうことに文句をつけるのは辛いと注意書きされたカレーに辛いと文句をいうのと変わらないわけで、ここはむしろ読みにくさも楽しんでしまおうと、こういう態度が正しいんじゃないかと思う。本全体の印象は丸ごと恐怖にまみれた体験が出来るかと言うと、そういう方向で一点集中しているという風でもなく、冥界を扱ってそこから引き出すものは千差万別といった感じのアンソロジーだった。
そこで今回のタイトルだ。金字塔という言葉。小栗虫太郎の「金字塔四角に飛ぶ」というのでこの言葉に出会ったのがわたしには最初だったんだけど、これがピラミッドのことだというのはわりとよく知られている。では謎語像のほうはどうか。この言葉、上の怪奇小説アンソロジーに入っていた夢野久作の「難船小僧」に出てきた言葉で、スフィンクスとルビがふってあった。とはいうもののこれが金字塔のように一般化した漢字の使い方だったのかは実のところわたしにはよくわからない。タイトルの「難船小僧」にも「SOSボーイ」とルビをふっていたように、夢野久作は漢字に独自のルビをふるようなことを多用していたから、ひょっとしたら夢野久作しか使っていない漢字の使い方だったのかもしれない。それはともかくスフィンクスに漢字を与えるとしたらこういう風になるだろうと云う的を射てる感じはあって、妙に印象には残った。
この言葉を目にしてそういえば写真も云ってみれば謎語像なんだろうなぁと連想は飛ぶ。属性と遊離したオブジェはおそらく謎そのものとして立ち現れると予測する。もっとも謎そのものとして立ち現れた瞬間にそれを前にしたわたしは何らかの属性を与えて認識可能なものにしてしまうだろうから、オブジェが問いかける謎は一瞬にして認識の外に出てしまうだろうけど。そういう不可能な一瞬の残滓というのかそういうものが立ち現れた気配というか、そういうものがどこかに残っている写真を、可能なら撮ってみたいものだと思う。謎として語りかけるスフィンクスのような存在の写真。撮れるならば、そしてそういうものを眼にすることができるのならば、それは稀有な体験になるだろう。
ということで怪奇小説集から始めた言葉を強引に写真に結び付けてみた。

怪奇小説はこのアンソロジーの一冊を読了したあと、なぜか2巻目だけ買って手元に積読状態になっていた創元推理文庫の「怪奇小説傑作集2 英米編Ⅱ」とポプラ文庫から出版された「てのひら怪談」の二冊へと移った。これを書いている時点では英米編のほうは「ポドロ島」「みどりの想い」「帰ってきたソフィ・メイソン」「船を見ぬ島」と最初から順に四作を読み終えたところ。やっぱり恐怖の質は日本の感性とは結構異なるというのをあらためて思い知らされる。得体の知れないものへの畏怖、畏れと云ったものに裏打ちされている日本の怪談のほうがやはり身に馴染む。「ポドロ島」は怪奇小説としては知られた作品なんだけど、どこが面白いのか、どこが恐怖なのかわたしにはさっぱり分からない。以前読んだはずの記憶があるのにどういう話だったかまるで頭に浮かんでこないのはそのせいだったんだろう。猫を可愛がる気分が殺さなければならないという真逆の感情へと切り替わるのが恐怖を生み出す要因の一つとなるということなんだろうけど、わたしにはなんでいきなり殺さなければならないって思うんだよと疑問符がつくだけの展開にしか見えなかった。疑問から好奇心は生まれはするけど恐怖は生まれてはこない。この四作の中では「船を見ぬ島」が、受け取る情緒としてどこか「5億年ボタン」を思い浮かべるようなところがあって、永遠の耐え難さは伝わってくるものがあり面白く読めた。でもこれの持つ面白さは怪談と云った時に呼び起こされるわたしの感覚とは少し違うものだ。
「てのひら怪談」はネット上で公募した怪談をそのネット上で共有、楽しさを分かちあうというというサイトが母体となって、そこで展開され受賞した作品を集めて一冊の本にしたもの。一話で原稿用紙二枚という制限のある、本にすれば二ページで完結する怪談が山のように集録されている。この800文字という制限が意外と上手く機能して、つまらないものは一瞬にしてやり過ごせるし、面白いものはまさしく怪談的なコアの部分を効果的に切り出すことに成功している。これから怖くなっていくんだろうかと思わせつつ、だらだらと続いていくだけというようなものがひとつもない。なによりも巻頭を飾る「歌舞伎」と題された作品の出来が素晴らしく、わたしの恐怖感覚とも見事に共振するような内容だったので、わたしはこれで一気に引きずり込まれることになった。回りの世界が狂い始めたのか、その世界を眺めているわたしが狂い始めたのか、あるいは世界もわたしもバランスを保っている世界に得体の知れないなにか異様な世界が浸潤してきたのか、そのどれともつかない不安な場所から立ち上がってくる事象の薄気味悪さ。モンスターや殺人鬼なんかまるで出てこないけど、じわっと鳥肌が立つような嫌な感じは伝わってきて、これをアマチュアが書いたんだとちょっと吃驚した。巻頭にこれを持ってきた編集者の選択眼がいい。もちろん収集された話が玉石混合であることは避けられないんだけど、最初に盛り上がったテンションの高さは未だに下がらずに続いていて、ピンとこないものは何しろ800文字だから速やかに読み飛ばし、この怪談のごった煮のような様子を楽しんで読み続けている。この冒頭の「歌舞伎」以外だと今のところ既読の分からでは「ガス室」と題された一編がお気に入りとなっている。この二編を並べてみて、どうもね、わたしは彼方から電波なり何なりにのせて微かに届いてくる意味も不明なメッセージといった類のものに惹かれるんだろうなぁと再認識した次第だ。




The Caretaker - The Story is Lost




The Caretaker - It's just a burning memory


英国のミュージシャン、ジェイムス・リーランド・カービィによるプロジェクト The Cartakerによる曲。ダーク・アンビエント系の音楽になるのか、ムーディなサイケデリックっていう感じがする。
上の曲は元ネタを知っているけれど、下のは知らない。ちなみに知っている上の曲はJeannine I Dream of Lilac Timeという古い曲。以前エロール・ガーナーのピアノ演奏をここで紹介したことがある。それにしてもこの人が作る曲は、この二曲以外のものも含めて引用してくる元曲の選択が見事に同一の雰囲気、印象の曲を探してきているというか、自分が持ち合わせているはずもない記憶の奥深くへと緩慢に沈殿していくかのようにノスタルジックで、そしてそれが極めてわたしの好みにあっている。といってもこの一連の関連していく曲群は曲を重ねるにつれて甘美な音場を離れて崩壊していく。なにしろテーマの一つが認知症だというんだから。こういうのを聴いていると、ノイズ混じりの茫洋としたこういう音でしか表出し得ないものがあるということ、これは写真も同じだよなぁって思う。フィルムの粒子でしか表出し得ないもの、フィルムを通してみる眼でしか見えてこないもの、そういうものが絶対にあると思うし、デジタルがフィルムのすべてに取って代われるなんていう考えは傲慢のひと言に尽きる。
これは音楽以外にもヴィジュアルもシュールで良い。こんなロケーションをよく見つけてきたものだと思う。最後の後ろからの人のショットと煙草の煙は若干の余計な付け足し感はあるけど。















知覚の地図Ⅰ

解ける螺旋





窓辺の幾何





黄色いサイン

2019 / 4~10 宇治
CONTAX T3 / CANON DEMI EE17
Lomography Colornegative 400

たとえば、何でもいいんだけど、宇治の平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーは等価である。平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーを撮る時の態度には何も変わるところがない。それは対象に特別な意味を認めないということであり、対象に意味を求めないのなら、写真はそのほとんどすべてが私的な感覚に帰結するのかもしれない。意識であれ無意識であれ、あらゆる知覚を巻き込んで流動していくその広い、あるいは狭い、流れ、渦巻きの中で、棹差す如く突き出た杭に引っかかり、流れが滞っている場所ではその淀む流れに沈殿していくように、写真のあらゆる光、陰、暈、滲み、粒子、エッジ、コーナー、曲線、色面が寄り添い集まってくる。その流れの中の散在する特異点に呼び寄せられ堆積していく写真の、そのあらゆる断片、要素が、その配置によって意識、無意識、そして意識無意識でもない何か、云うならば流動する茫漠とした全知覚領域の上へ極私的な地図を作っていく。とまぁちょっと思いついてこんなことを書いてみると、いつも近代的な自我なんて相対化する対象だとか、個性なんてまるで信じないなんていう言い方をしているわりに、写真はむしろ私小説的なものじゃないかと、自分はそういう風に把握してるところもあるのかもしれないと思い至って我ながらちょっと吃驚する。写真は極私的である。社会性とは無縁の場所で成立し、他者にとって理解不能で一向に差支えがない。個的な知覚を普遍化させようなんて意図もなく、その知覚の個的地図の中で固有の文様を作って立ち尽くすだけという孤独な存在、わたしが写真に夢想するものはそういうものなのか。藤枝静男は私小説に特化する道筋で幻影への地平を開いた。こんな書物を紐解いていると私小説的なものは幻影への扉を開く可能性を持っているとの確信へと導かれる。写真においてもそういうことは可能なんだろうか。

今回の写真はなかなか撮りきれないと書いていたCONTAX T3に入れていたフィルムから。そう、このフィルム、ようやく撮り終えることができて先日現像に出してきた。フォトハウスKの店長さんもわたしのことは忘れずにいてくれて一安心。一応病気になってあまり来れないかもしれないけどまたよろしくと近況を伝えておく。久しぶりの仕上がった写真を眺めていて、何か病気とはまるで関係ない場所から撮っているような感じがする。病気の影響は写真を撮りに出かけられないという形で出ているだけで、内容に関してはあまり露にはなっていないようだ。たまに体調がよくてカメラを持って出かける気になったら、そういうことが出来る喜びのほうが写真に出て、病気だからといって陰鬱なものとなるよりも、むしろ明るい写真が撮れそうな気もする。能天気なほど陽気な病んだ写真というのも存在としてはなかなかひねくれていて、撮れるなら面白そうではある。

先日胃カメラをやってきた。初体験ではないものの以前に検査したのは10年以上前、最近胸焼けや痛みを覚えることがあるので潰瘍性大腸炎の診察のついでに云ってみると、逆流性食道炎だと思うけどしばらく検査していないなら、一度胃カメラしておくか?と提案されての結果だった。検査中に見た目変なところがあったらしく生検もとられて、検査直後の診断では画像を見て結構酷い逆流性食道炎だなぁと云われ、あとは生検の結果待ち。そして2週間後に生検の結果を聞きにいくと、結構酷い状態だと云われたのに反して、これは特に問題なしということだった。結局わたしの胃は酷い有り様だけど大層な事態に見舞われているいるわけでもないという状況で、胃酸を制限する薬が出ただけで一件落着だった。それとは別に今回の検査は今までの胃カメラにはなかった不思議な体験が出来て、これがちょっと面白かった。なにしろあとで振り返ってみればげろげろした状態になったという記憶がすっぽりと抜け落ちていた。それだけじゃなくこれもあとで気がついたんだけど胃カメラが喉に入ってくる瞬間もまるで記憶にない。大体喉の麻酔なんぞかけてもそんなのまるで役に立たずにげろげろ状態を回避できるわけでもないというのが今までの胃カメラ体験だったのに、今回に関してはこの苦痛の時間がまるでなかったというのがあとで思い返すとなんとも異様な印象だった。これ、端的に云うと鎮静剤の結果だ。この鎮静剤の動きの不思議だったのは、喉に胃カメラが入ってきた瞬間を覚えてないとか、げろげろした記憶がないというのに、そのあいだ眠らされていてたわけじゃなく、検査中に覚醒していた記憶は確実にあり、ここ、変になっているから生検を取っておこうなんて呟いてる検査医師の声も聞こえていて、変なところって一体何?と思ったことも覚えていた。なのに、あとで思い返すと、あれ?そう云えば一体何時胃カメラのチューブが喉を通っていったんだと、そういうところだけはさみで切り取ったように完全に記憶から脱落してしまっていた。げろげろ状態は奇跡的に上手く麻酔が効いて体験しなかった可能性もあるけど、検査をやっておいて胃カメラが喉を通っていかなかったことなんてありえないわけで、眠ってもいないのにこの挿入そのものの記憶がないというのはまるで理にかなっていない。診察後に渡された検査の明細に、使用した鎮静剤はミダゾラムとあった。検索してみると、この鎮静剤には前向性健忘効果があるとされている。前向性健忘というのは発症以降の記憶を保持できなくなるということらしくて、この場合の発症というのは鎮静剤の投入時のことになるんだろう。体験的にいうなら、何らかの障害というか苦痛というか、そういうのが発生した時点のみを選択的に記憶から除去しているような感じで、なんとも都合の良いというか不思議な効果の薬剤ではある。わたしが潰瘍性大腸炎で診てもらっているこの病院で、これまで大腸内視鏡とこの検査をやってみて、両方ともまるで苦痛を感じなかったのは振り返ってみれば驚きだ。大腸のほうも空気を入れるから普通は検査後も空気が排出されるまで結構長い間腹痛が続くんだけど、空気を入れなかったんじゃないかと思うくらい検査後は普通だった。ここだけ特別なやり方でもしてるんじゃないか。今回の胃カメラにしてもよく鼻から入れるほうが苦痛が少ないなんていう提案をするところもあるのが、まったく無意味になるような検査体験だった。

数日前にGYAOで無料配信されている映画、というより映画未満、映画もどきのとんでもないものを見てしまう。無人島に数人のランジェリー姿の女が漂着して何かいろいろやってるという内容らしいんだけど、基本的になにが云いたいのかまるで不明。さらに無人島といいながら遠くに見える海岸線には明らかに街並みが見えているし、浜辺で格闘しているランジェリー女の背後の海ではジェットスキーで遊ぶ人が堂々と横切っていったりするとんでもない代物だった。これでお金を取ろうとした製作者の根性がもう理解不能。こんなもののクレジットに名前を載せられて平気だった人の感覚も信じられない。こんな映画もどきの作り手として名を名乗り人目にさらして恥ずかしくなかったんだろうか。見てしまうといっても最初の3分もたたないうちに耐え切れなくなって、あとのほうは細切れに飛ばして確認した程度だった。おそらくこの見るということだけで体感できる苦痛をはねのけながら全部見てしまったら、時間の大切さについて今さらの如く身を切るような認識を強いられることになっていたと思う。ちょっと今GYAOに戻ってタイトルを確認してきたら「無人島ランジェリーロワイアル」だった。酷く、さもしいタイトルだ。無人島はおそらく物語的世界を構築するだけの能力も予算もないというところからの、想像力を必要とするようなことは何もしなくてすむという意味合いの設定だろうし、あとは下着姿での殺しあいみたいなのをイメージさせて男どもを釣ろうという魂胆だったのだろう。心底くだらなそうなタイトルと、その酷評で溢れているレビューからどれだけ酷いものなのか怖いもの見たさの好奇心が発動した結果覗いてみただけだったんだけど、好奇心は猫をも殺すの実証となったかもしれない。無料配信は12月12日まで。随分と長い。そしてその間にどれだけの人が時間の大切さについて思いを馳せることになるのだろうか。というか最初からこんなの見ようと思う人もほとんどいないか。