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知覚の地図 XXVII 青くかがやく広告版が秘密をもらす。れみりい れみりい、ま鳴くび、目耳虫。

ビニール片





水の中の枯葉





水紋



家の郵便受けに入っていた広告チラシ、まとめて積んでおいたその一部がはみ出て、はみ出た部分に書いてあった「シーチキン丼」なんて云う言葉が目に入ってきた。シーチキン丼って何?なんだか面妖な丼だ。丼飯の上に缶から直接、山盛りのシーチキンを油一杯に盛り付けてあるイメージがわいてきて、ちっとも食欲がわかない。おまけに値段のところも広告の山からはみ出て見えていたけど1000円近くする価格だった。誰がそんなものを1000円も出して注文する?と思って、そもそもシーチキン丼と云うのがわたしの頭に浮かんできた食欲のわかないイメージ通りのものなのかも確認したくなって、写真でも載っているだろうと、捨てるつもりで積んであったその広告チラシの山の中からはみ出ていたのを引っ張り出してみた。
引っ張り出したチラシ全域を眺め渡した結果、わかったのは「シーチキン丼」じゃなくて、「ジューシーチキン丼」という品名の一部がはみ出て目についただけと云うことだったんだけど、一瞬この世に出現してはかなく消えていった「シーチキン丼」と云う存在。イメージとしては鮮烈だった。
それにしてもジューシーチキン丼というのも聞きなれないというか、わたしには初めて目にするものだったんだけど、こんな丼、一般的に知られたものなのか。チキンマニアでもない限り、これもあまり美味しそうなイメージで頭に浮かび上がってこない。

コミック「妖怪ギガ」が面白い。タイトルのギガはどうやら戯画のことのようで、そうなら和洋折衷、わたしのHNと似てるわけでそういう点でもなぜか個人的には親近感がわく感性を感じ取れたりするわけだ。
各話の扉絵を除くと大体一話七ページと云う分量の短編が並んでいる。一つだけ守り神クロと青年の物語だけは続き物としてその独立した短い話の合間に適時挿入されているが、基本各話はそれぞれ妖怪が一人テーマになって、その妖怪の特徴を生かした話が展開する。各話の扉絵こそ古書から抜け出したような王道の妖怪絵ではあるが、本編で登場するその妖怪はみんな二頭身か三頭身くらいのまるっこい、キモかわいいぬいぐるみ然とした様子で動き回ってる。
人を驚かし命を脅かすような人外の存在のはずなのに、この本の妖怪はそのぬいぐるみ然とした様相と相まってなんとも人間臭く、しかも間が抜けていて、愛らしい。その間の抜けたはぐらかし加減、斜め方向への突っ走りぶりに、驚かされてるはずの人間のほうがあっけに取られ、勝手に右往左往している妖怪の様子を唖然として眺めている。
「置いてけ堀」の妖怪では「置いてけ」と云う台詞の震え上がらせるような言い方を師匠に伝授されている弟子の妖怪が、人を脅かした挙句いったい何を置いていってもらえるのかふと疑問に思ってしまい、師匠に尋ねる。ところが師匠は脅かすことには長けていても今まで一度も何かおいていってもらったことがないので、質問をどうはぐらかすか頭を悩ませはじめる。
「嘗女」は同僚の男性の半袖から延びるたくましい腕に惚れ込んで、何とか嘗めてみたいとデートに誘うものの、男はデートには必ず上着を着てくる。でもどうやって上着を脱がせて腕を露出させる会話に持っていくか皆目見当がつかない。こんな話が並んでいる。
そういう話の間をぬうように連続物として挟み込まれる小さな守り神クロと青年の物語がいい。子供のころは一緒に遊んだりしていたクロは青年が大人になるにつれ見えない存在へとなっていったけれど、それでもクロが今もそこにいることを青年は確信していて、一日の終わりに見えない相手への挨拶を欠かさない。クロは自分が見えない存在になっていても影となって青年を守り続ける。結婚することになる相手との間を陰から取り持ったりしながら絆で結ばれた生活をしていくがやがて世界は戦争へと雪崩れ込んでいって、青年にも赤紙がやってくる。読んでいるとこっちをメインにしたほうがいいんじゃないかと思うくらい家族や人のつながりを情感あふれる語り口で物語るものとなっていて、ギャグに走る一話ものがちょっと邪魔になってくる時もある。
それと絵が上手い。クロの話での、新婚初夜の新妻、真琴さんの寄せる情の深さ、遂げられた思いの幸福さを、言葉なんかを一切使わずにたった一二枚の絵で、それもことさらあられもない表現をするわけでもないのに見ていると妙にドキドキするような絵で表現してしまうところなんか舌を巻く。さらに、萌え絵なんて一つも出てこない。妖怪たちも時には水木しげる風、油断していると本格的恐怖絵の襲来と自在に画風を操り、絵が生きている。やっぱりコミックなんだからこういうのはポイントが高いと思う。

公式サイトの試し読みのコーナー。各巻の冒頭部分だけだけど無料で読むことができる。
https://comics.shogakukan.co.jp/book-series?cd=46351







この残酷な世界へ至る道筋のどこかで止める手段はなかったのか。ワクチンをトリガーにして、なんでいともたやすく世界はこんなに野蛮で唾棄すべき姿に変貌していったんだろう。
日本も他人事じゃないよ、これ。

豪州・人権活動家モニカ・スミットの懇願メッセージ






京大理学部OBで分子生物学、免疫学の理学博士である荒川央 (あらかわ ひろし)氏のコロナワクチンに関する様々な考察を集めたブログ。反ワクチン派だとか陰謀論だとかレッテル貼って思考停止になってる暇があるなら、一度立ち止まって冷静に状況分析し直すのもいいかと。すべての記事がかなり専門的な内容だけど今までとは違うものの見方をできるかもしれない。荒川氏の云うように、自分や大切な人の命を守るためには疑い、調べ、考え続ける事が大切だと、これに尽きる。
それにしてもこのnoteっていうサイト、クリエイターのための街のような場所を目指すという設立趣旨らしいけど結構いいなぁ。情報統制の様なこともほとんど行われていないようだし。こっちにもアカウント作ってみようかな。
https://note.com/hiroshi_arakawa


11/22 買った本。古書。
日本探偵小説全集3 大下宇陀児 角田喜久雄 集 創元推理文庫
与太郎戦記 春風亭柳昇 ちくま文庫
日本語が亡びる時 水村美苗 ちくま文庫 すべて100円
容疑者の夜行列車 多和田葉子 青土社 20円

東寺駅前のブックオフに訳あり本と云った感じの値段のつけようがない本を集めた棚が一つある。多和田葉子の「容疑者の夜行列車」はそこで見つけた。多少汚れてはいたけど値段のつけようがない本と云った感じではなかったのに、とにかくなぜか20円だった。このコーナーでは以前ロレンス・ダレルの「黒い本」だとかヘンリー・ミラーの「北回帰線」なんかを似たような馬鹿げた価格で見つけたことがある。

秘密


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知覚の地図 XXⅥ 白い丘の上で、羅針儀が痙攣しながら示す、遠い石の街。

ペンダント

写真は以前ニコンのデジカメで撮ったもの。このカメラ今では壊れてしまって使えなくなってる。結構使い勝手のいいデジカメだったんだけど、中古で買い直すのも修理に出すのも想定外の出費になるから放置状態だ。
放置と云えば以前にも書いたあと6枚撮れば現像に出せるフィルムが装填されたままのFM3A、あれも結局あれから触りもせずに6枚残ったまま埃をかぶっている。結局潰瘍性大腸炎で動き回れる範囲が極端に狭くなってからの精神状況っていうようなのが、そのままになっているんだと思う。そうこうしているうちにフィルム事情もますます悪化してきてるに違いなく、このところフィルムも買いに行ってないから正確には分からないけど、おそらく種類はもっと少なく価格は常軌を逸したように高価になっているんだろうなぁ。何やかや、いろんな事情が水を差して、写真へのモチベーションが維持しにくくなりつつある。このところはもう手軽も手軽、アイフォンのカメラでかろうじてそのモチベーションを維持している状態なんだけど、それにしてもアイフォンをカメラとして使った時のあの持ちにくさは何だろう。ファインダーをのぞかないと気が済まない感覚の持ち主としてはあの持ちにくさも相まって、写真を撮っている気分には全然なれないまま、結果としては見るからに手軽な写真が手元に残り続けることとなっている。
入れっぱなしの残りの6枚をとにかく撮って現像に出せば、そして今やコードを外して別の機材を繋いでいるPCの差し込み口に再びスキャナーを繋ぎなおせば、多少はあの時の熱が戻ってくるだろうか。現像を頼んでいたところもご無沙汰だけど、今でもわたしのことを覚えてるかな。というか今も現像をやってるのかも不安だ。

赤と白の椅子
Nikon CoolPix S9700

今回は最近お気に入りのコミックの話。
「SHIORI EXPERIENCE~ジミなわたしとヘンなおじさん~」っていう音楽コミック。音楽ものは画面から音が聞こえてきそうなよくできたものがいくつかあるけど、これもその一つじゃないかと思う。
ギターにあこがれて昔バンドを組んでいたものの、今は冴えない女教師となっている主人公が、手違いでクロスロードでの悪魔の契約をしたということになってしまい、その結果、またギターが弾けるという理由だけでそのクロスロードの番人になっていたジミ・ヘンドリックスが主人公の元へ下りてきて憑りついてしまうという話だ。契約に課された条件は27歳が終わるまでに音楽的伝説を作らなければ死ぬということ。でもこの物語を動かすための設定は、主人公本人がほとんど気にしている様子もなく物語の主軸にはなかなかなっていかない。むしろはぐれ者が集まってバンドを結成して、再び一緒に音を出す喜びを見いだす一方、目の前に次々と立ちはだかる様々な障壁に挑み、挫折を味わいながらも成長していくという王道派の熱い物語が、あくの強い悪役を絡めて展開していく。
強烈なのはこの憑依するジミヘンのキャラクターで、もっとも姿は主人公本人やバンドメンバーのオカルト少女にしか見えてはいないんだけど、これがまた音楽に関して無茶苦茶にシリアスでかっこいい言動を見せるかと思えば、タイトル通りアフロヘアのへんなおじさんとしかいいようのないオフビートのお笑いをまき散らすキャラクターへと変貌するような、強烈な個性を発揮している。読んでいてこのお笑いのセンスどこかで体験したことあるんだよなぁと、そのアフロの風貌と相まって記憶を刺激され続け、思い当たったのが、「探偵物語」の工藤ちゃんだった。工藤ちゃんを演じた松田優作があのノリでこのジミヘンを演じたら、おそらくコミックから受ける印象と寸分変わらなくなるんじゃないか。「探偵物語」のノリが好きなら、このコミックも絶対に気に入ると思う。
そして絵が上手い。登場人物の個性が際立ち、みんな同じ顔にしか見えない萌え絵なんて一つも出てこない。ギャグに走るジミヘンも主人公にジャックインしてソウルフルなギターを弾くジミヘンも、両方ともジミヘンそのものであると信じ込ませるほどにイメージ的に説得力がある。演奏シーンの決まったポーズもかっこいい。ギターをもってステージを駆け回り、様になる姿が満載で、それがコミックの中で演奏される音楽の躍動感を伝えてくる。音楽ものコミックとしてはそれほど有名でもないのかなぁ。あまり話題に上ってこないような印象なのがもったいない。


公式サイトの試読のコーナー、ここで第一話を丸ごと試読できる。
https://magazine.jp.square-enix.com/biggangan/tachiyomi/shiori_01/





☆ ☆ ☆

この前3COINSで買った眼鏡ストラップ。前からこういうのが欲しくて自作するつもりだったんだけど、長さがどのくらいだとジャストなのか決めかねてそのままになっていた。売り場で見つけてしまえば、なにせ300円だし、自分で作る時の参考にもなるし、と云うことで試しに一つ購入。つけてみると長さはこれで過不足無しだった。他にもパールビーズと色味の入ったパーツを組み合わせたものなど、三種類ほど売り場にはおいてあって、そのうち他のもまた追加で買ってくるつもりだ。
わたしの眼鏡は老眼鏡の遠近両用だから、頻繁に掛けたり外したりする必要もなくて、そういう用途ではわたしには意味のないアイテムなんだけど、純粋にアクセサリーとしてつけてみたかった。
眼鏡ストラップ1

もうずっとお気に入りのコックシューズ。コックシューズ普及委員会としては紹介する衝動を抑えきれない。以前はシェフメイトと云うのを履いていたけど、最近のこれはアキレスのもので、クッキングメイトと云う名前がついている。コロンとしたシンプルなサボ風のシルエットが、モード系の服だって思いのほか馴染んでしまう。
とにかく雨の日には最強になる靴で、厨房という水場で使うことを想定されているから、濡れた路面でもまるで滑らない。もちろん雨がしみ込むこともない。合皮だから汚れても水拭きで綺麗になる。気楽に履けるのも気に入って、結局雨降りじゃない日も履いて出かけている。
わたしは靴の本体の色と関係なくソールが白い板状になって底にくっついているようなスニーカー的色配分の繊細さの欠片もないセンスが嫌いでスニーカーはほとんど履かない。コックシューズにもこのスニーカー的配色のものが当たり前のようにあるなか、この靴は全体が単一色で統一されているから、そういうポイントでも好みの基準を満たしている。ただソールそのものは白っぽい色なのでそれが気にくわないと云えば気にくわないんだけど、接地しいている状態では見える範囲にはほとんど出てこないから、まぁ良いとしよう。
今年の冬はドクター・マーチンのブーツとクレマンのチロリアン・シューズとこれのローテーションでいってみよう。
ちなみに寒くなってからはこういう感じの上にGジャンという組み合わせが多い。
コックシューズとスカート









知覚の地図 XXⅤ 陽射しの音弾けて響くひまわりの日傘

これは真夏の、酷暑の時につけるタイトルだったなぁ。まぁ思いついたのがこの時期だったんだから仕方ない。来年の酷暑の時期まで温存しておくほどのものでもないし、思いついたものは後先考えずに披露したがるほうだ。
こういう内容とまるで関係のないタイトルなんてつけていると、あとで見返した時、自分でも何を書いた内容なのかさっぱり分からなくなってくる。検索にもおそらくろくでもない影響を与えているだろう。
今回のはもう完全に意味に色目を使った制度寄りで、オートマティズムっぽい試行からはちょっと離れてはいるんだけど、でも完全に自動書記で完結させると云うのはほとんど不可能なんじゃないか。どれだけ言葉の自走性に任せてしまおうとしても、体裁を整える意識、無意識は必ず入り込んでくるし、アンドレ・ブルトンもあの自動書記の快作「溶ける魚」で、実際には編集を行っていてすべてを自動書記に任せてはいない。言葉は意味そのもの、意味の化身であって、その制度性は恐ろしく強固だ。

通底器1

さて並べてみる写真はタイトルとは裏腹に、日差しの陽気な音もそれが反響しているひまわりの日傘も一切想起させない、なんだか埋め込まれたチューブの切り口のむこうから薄暗い呟きでも聴こえてきそうだ。



通底器2

同じモチーフを並べてみる。同じようなものばかり並べて何やってるんだかと思うか、だからこそ際立つ微妙な違いに視線を遊ばせることができると思うか、さてどっちなんだろう?



通底器3

同一物をモチーフに並列させることで、単一ではその場に存在しなかった何かが生成されてくる。「差異と反復」といったものがある種のリズムとして、音楽的なものとして、並べられた視覚の上に姿を現してくる。もっともそれを生成させるにはこの四枚ではまったくの不足であることも確かではあるけど。
こんな風に書いてみるとまるで無関係なものとしてつけたタイトルと内容は、視覚と音楽の混在なんて云うポイントでしっかりと繋がってるじゃないかとも思えてくる。




通底器4
iPhone 11 camera

お気に入りは最初のと四枚目、次点で三枚目ってところか。最後のはちょっと状況的になっていて若干テイストが変わってくる。こんな似たような写真でも気に入ったものとそれほどでもないものの違いが出てくるのが面白い。


眩暈は頭の向く特定ポイント一か所を除いて大回転バージョンはほぼ終息した。一か所だけあるほうを向くと回りそうなところがしつこく残っていて、でも怖いからそのほうには頭を動かさないでいるから、実のところこの一か所がいまだに回転し始めるポイントになっているのかどうかは確かめてはいない。ともあれ派手な回転がほぼ姿を消すまで、今回は2か月以上かかった。今もふとした拍子に眩暈になりそうな嫌な気配を感じることはあって、でもそういう時でも冷や汗脂汗ものになったりする程度でやり過ごせていて、これは生活を続けていくうちにさらに頻度は低くなっていくだろうと思う。ちょっと怖いのは今回の眩暈が治まったことがしばらく耳石が剥がれないことの保証にはならないということ。明日また耳石が剥がれて再び大回転が始まる可能性もないとはいえない。でも明日どうなるかなんて考えること自体無駄だから、そんなことに心煩わせても仕方ないんだろうとは思う。
そんな終息しつつある眩暈と新たに加わった歯痛と云う悩みごとの合間を縫って続ける読書は、このところずっと複数の本の掛け持ち読みと云うスタイルを取り続けている。移り気な読書で、このスタイルだと読書量をたとえ多少増やしたとしても、なかなか一冊を読み切れない状態となる。別の見方で云うと、読んでいる本一冊一冊の訴求力がそれほどでもないと云うことで、とにかく続きを読まなければ気が済まないという本に最近出会っていないと云うことでもあるのかもしれない。巻を措く能わずの読書と云えば大昔に読んだ横溝正史の「八つ墓村」がちょうどそんな感じの読書体験だったのを思い出す。あとどのくらいページが残っているのか、あと楽しみはどのくらい残っているのか確認しつつ、終わってしまうのを惜しみながら読んだ記憶がある。今では映画もあるし超有名になってしまって、誰もが読んだ気になって本屋で見かけてもあえて手に取ることもない印象のミステリだけど、実のところ横溝正史のストーリーテラーとしての腕前は超一流、耽美世界の構築も超一流であることに間違いはなく、これを白紙の状態で今から読める人が本当に羨ましい。
映画のことをちょっと云えば、今でもなぜ市川崑の最初の横溝映画が「犬神家の一族」であって、「八つ墓村」じゃなかったのかと思うことがある。その少し後に上映された野村芳太郎の「八つ墓村」は最後に再度オカルトへ方向転換させた段階でこの物語の本質を完全に見誤っていて興ざめだった。
さて「八つ墓村」並みに読者を否応なしに引っ張りまわすような一冊との出会いを求めて今掛け持ちをしている本は、現在のところ大部の短編アンソロジーである「リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン」山田風太郎「明治断頭台」池田晶子「暮らしの哲学」など、そして相も変わらずページを繰ること自体をも楽しんでいるアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」といったところか。
「リテラリー~」は日本の小説や短歌、詩作においてゴシック精神が横溢していると編者が判断したものを集めた本。スタイルとしてのゴシック小説のような古めかしいものじゃなくて言語作品に横溢したゴシック的な要素とでもいったものにポイントを当てている。云うなら、耽美、残酷、驚異、暗黒、薄明、死、不穏といったものにただひたすら奉仕するのみで成り立つような作品群。悪趣味、バッドテイストなものも拒まずと云ったところだが、似てはいてもまるで違う下世話、卑俗な現実などその足元では色褪せる以外にたどる道は残されていない。わたしは吉村昭の「少女架刑」が収録されていたので手にした本だったんだけど、肝心の作品はその少し後で吉村昭の元の短編集に収録されていた形で読んでしまって、こっちの「リテラリー~」のほうは長い間手つかずに放置していた。
しばらく前に、せっかく手元にあるんだしもったいないからそろそろ読んでみるかと読み始めたもので、現在のところ最終ブロックの「文学的ゴシックの現在」の手前まで読み進めている。
泉鏡花あたりの時代を黎明として、以降年代に沿いつつ「血と薔薇」の時代と云ったようにカテゴリーを作りながら採取され並べられている。集められた作家は上記の横溝正史を始め、三島由紀夫、澁澤龍彦、小栗虫太郎、中井英夫と、こういう特質のもとでならば選ばれてくるだろうなぁと云う有名どころを網羅している。ただ選別されている作品は、本自体がリテラリーゴシックが形作る小宇宙といったものを手に取れる形で物質化した一冊という体裁をとっている以上、そのテーマに沿うものが主となるので、かならずしも各作家の代表作、有名作が選ばれてるというわけでもない。この辺りは選んだ側のセンスの見せ所であり、むしろこういう形のほうがこの作家にこういう作品があったのかと再発見することもあって面白い。たとえば横溝正史では「蔵の中」や「鬼火」ではなく「かいやぐら物語」が採用されていたりする。他中堅どころの作家として、個人的趣味として「大広間」の吉田知子、「兎」の金井美恵子、「花曝れ首」の赤江獏が採用されているのが、同じ趣味の人と対面しているようで楽しい。耽美の豪奢な織物とも云うべき赤江獏なんてなぜか知らないけど今や忘れ去られた作家扱いだし、なんだかもうすべてがぶっ飛んでいる吉田知子はこういうアンソロジーで名前を見ること自体が珍しい。
選者のリテラリー・ゴシックと云うポイントからずれてしまったのか、大部になりすぎて入れられなかったのか、不気味な「柳湯の事件」の谷崎潤一郎や、シュルレアリスティックな「片腕」を書いた新感覚派、川端康成が入ってないのは残念だったけど、大御所ばかり揃えても驚きもないアンソロジーになっていたかもしれないと思うと、知る人ぞ知るという作家を織り交ぜてのこのラインアップでメリハリがついてよかったんだと思う。伊藤計劃なんていうのを選んでいる意外性も含み、このアンソロジーの作品を選定する感覚は思いのほかいい。
こういうアンソロジーを読む楽しみには馴染みの作家の知らない作品に出合うという以外に、まるで知らなかった作家を発見するということがある。今回のこのアンソロジーで出会った驚きの作品は竹内健の「紫色の丘」だった。
一読、これはあのバッドテイスト・ムービー「ギニーピッグ」だと、そのシリーズの中でも「血肉の華」や後続のザ・ギニーピッグの一本である「マンホールの中の人魚」を彷彿とさせる極彩色の残虐、被虐、グロテスクにいたる結末に、読みながら思わず舞い上がってしまった。これは凄い。どちらかという内省的な出だしから、その内省性にかすかに不穏な空気は感じられていたにしろ、まさかこんな目も当てられないほど救いのない展開へと進んでいくとはまるで予想もできなかった。最後のカテゴリとしてまとめられている「文学的ゴシックの現在」パートはまだ読んでいないけれど、ここまで読んだ中では、この作品を知ったことだけで、このアンソロジーの元を取ったという感じだ。






Influência do Jazz - Roberto Menescal

Don't Worry 'Bout Me - The John Buzon Trio

両方とも以前にアップしたことがある曲。ドリーミーなある意味バッドテイスト・ミュージック。「THE BOSSA NOVA EXCITING JAZZ SAMBA RHYTHMS」はシリーズ通してジャケットがいかしてる。







知覚の地図 XXⅣ 湿った柔らかいものが河の中を両手で目隠ししながら通り過ぎると思え。

白茶けた世界

ほとんど眩暈とともに始まったような今年の夏、さらに追い打ちをかけるように歯まで痛くなってきた。今月の初めころに一応歯医者の予約は取ったんだけど、予約日直前で眩暈の嫌な気配を感じだして、一度予約を一週間先に延ばしてもらった。かなり眩暈は治まっているとはいえ、頭を後ろに倒す歯医者の椅子は眩暈誘発度最大クラスで恐怖の対象以外の何物でもない。眩暈中の恐怖の椅子はもう一つあって、それは何かというと美容院の洗髪台の椅子。もうそろそろカットしてパーマかけないとどうにもならなくなってきたと思い始めた頃合いを見定めるように眩暈が始まったせいで、その状態から今に至るまでさらに放置状態になっている。歯医者同様に本当に必要に迫られてるのに、こっちもまだ恐怖感が先立って、行くに行けない。
眩暈と歯痛と酷暑に打ちひしがれた取れかけソバージュのボサボサ頭と驚異の長雨、おまけに歯科で渡された抗生剤の影響だと思うけど潰瘍性大腸炎も再燃気味で下血混じりの、これが今年の夏の総括ってことになりそうだ。何一つ高揚することもなく、冴えないこと夥しい。ソバージュというと、緩めなんだけど細い髪質でかけると結構絡まって毛玉になるなぁ。これ、どうにかならないものか。

並木

眩暈と歯痛の間をぬっての読書はあまり進まず。アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言の周囲をうろついたり、小泉八雲の角川ソフィア文庫版の「新編 日本の怪談」を開いてみたりしている。
ブルトンのほうは改めて思うに自分の写真への態度の多くがこの磁場にあったということ。それは幻想的なイメージを作り上げると云うことではなくて、制度からの感覚や人間の解放といったポイントにおいてそうあり続けたいと思っていたことの根本がやっぱりここにあるということを確認できたということだった。写真というのはもともと制度から最も遠くに離れたところで立ち上がれる可能性を持っていた。だからこそ逆に人一倍制度的な負い目でもあるのか、この分野ではやたらと「師匠」なんていう言葉を見ることがある。デラシネ的なものこそが写真の本来的な強みだったはずなのにね。何の修行もしないものもシャッターを押すだけで写真が撮れる、こういうのって凄いパンキッシュなものなんだと思うし、写真の面白さだと思うのに、そういうパンクな突出点を捨てて絵画や言語が持つ制度的なものを恋焦がれるように取り込み安定しようとする。いわゆる良い写真は塗り重ねられた「既知」であって、そんなものは目指す対象にもなりえない。制度そのものである言語を相手取ってシュルレアリスムへ至ったブルトンのほうがいまだにうんと先へ行っている。
ハーンのほうは、有名な「怪談」収録のものも含めて、ハーンが収集した日本の古い奇譚、怪異譚をテーマ別に編集し直したもの。「怪談」収録のものもテーマに沿ってばらばらにされ、なおかつもとにあったすべてが収録されているというわけでもない。それにしてもこういうものをよくぞ収集して残しておいてくれたものだと思う。物語としてまとめ上げる手腕に乏しければそんなに興味を引くものにならなかった可能性もあって、そういう点でも人物に恵まれていたんだろう。
テーマでの分類と云うのはある種のわかりやすさをもたらしはするけど、分割された「怪談」には「怪談」という一冊の本で纏まり小さな宇宙を作っていた、数ある話の中でその話だけが選ばれてそこにあるというような、その存在感は既になくて、ただ「耳なし芳一」や「むじな」や「雪女」が漫然と並んでいるだけのものとなっていた。これがこの本のマイナスポイントの一つ。
翻訳は「ですます」調のちょっと珍しいもので、これは語り物と云った雰囲気がそれなりに出ていて、こっちはプラスポイントのほうだと思う。
なかには「小豆磨ぎ橋」のような極めて陰惨な話も混じってはいるけれど、読み手側のわたしが純粋に怖がれるほどすでにナイーブでもないし、妖怪譚の類なんかはどちらかと云うと恐怖よりもユーモラスと云うか、できるならそういうのにわたしも一度であってみたいと思うほうが多かった。妖精譚ではあまり類例を知らなかった「ちんちん小袴」辺りが、転生譚では一瞬と永遠が交差する目のくらむような思いへと誘い、最後に箱庭趣味と云うとびっきり意外なヴィジョンを用意していた「安芸之介の夢」が印象に残る。そしてやっぱり「茶わんの中」がお気に入りで面白いんだけど、これは以前に読んだ翻訳のほうがこの話の面白さのコアをよく理解していたように思う。
角川と云うとわたしには昔からその時代に流行っているものばかり取り上げる、後世に残そうという気があまりないイメージのほうが強かったんだけど、角川ソフィア文庫というのは、古典にしろその時に最良の形で残しておこうという気概のようなものが垣間見れることがあって、最近は本屋の棚でも欠かさずに見渡しているコーナーとなっている。
ちなみに「シュルレアリスム宣言」のほうは岩波文庫版が最強で、この稀有な思想と実践の全貌を見渡すには、膨大な脚注、解説も含めて現時点ではこれ以上に緻密なものは他にはないと思う。こんな売れなさそうな本に、しかも文庫と云う形で、よくもまぁここまでの情熱、労力を注ぎ込めたものだと思う。エネルギーが凝縮して今にも眩しい光を放ちそうだ。





もう一つの裏側






異様な雨に祟られてちっとも夏らしくないまま過ぎようとしている、そしてまるで冴えなかったわたしの今年の夏へ。




知覚の地図 XXⅢ 視人たちの甘美な駆動装置

一応生存報告。眩暈に順応することを強いられるような生活を続けながら生きている。


つい先日、フランスの文化人類学者であり、のちに思想界を席巻することになる構造主義の創始者、クロード・レヴィ=ストロースの、その名前の英語読みとあのジーンズのリーバイス、Levi Straussが同じであることに気づいた。衝撃的だった。二つとも古くから頭の中に存在していたのに、なぜ今まで気づかなかったんだろう。もっとも細かいことを云えば、リーバイスのほうはStraussが姓で、文化人類学者のほうはレヴィ=ストロースが姓にあたり、まるで違うそうなんだけど、そんなことはこの衝撃の前では些細なことだろう。
大昔、大学の構内をリーバイスを穿いて、レヴィ=ストロースの「野生の思考」を携えて歩いていたこともあったかもしれないなぁと想像してみたりして。
これはたまたま頭の中にあったものに気づかない関連性があって、それに気づいたっていうことだったんだけど、頭のなかのまるで関係もなく眠っているような膨大なものの間に思いもつかない関連性を縦横無尽に生み出せる方法があって、それをマスターし駆使できるなら、世界はきっと面白い状況へと変貌するだろうと確信する。

格子の中に横たわる

四日に眩暈とともに目覚めてから二週間経過。四五日もたてば回転する世界もふらつきもかなり収まって来て、明日できることは今日しないとばかりに放置していた特定疾患の医療費受給資格継続の申請書を書いたり、提出に必要でまだそろっていなかった書類を発行してもらいに役所まで出かけたりと、やっぱりやるべきことはやれるときにやっておくべきだったなぁと思いつつ、まだふらつきの残る足取りで出歩いたりして、一週間も過ぎる頃には眩暈に関してはまぁ云うなら高をくくり若干油断もしていた。すると十日ほどしたころにまた振り出し近くに戻ってしまうように世界ぐるぐる状態が復活、このまま収まっていくんだろうと思っていたところへのこの眩暈の再来は精神的にも結構きつかった。その揺り戻しも今は随分と解消されてきたものの、またこれがやってくる可能性もあるんだと思うと、こう思うこともストレスとなりそうで心持も不安定になる。やっぱり霧が一気に晴れるように気分も一新、一気に回復という具合にはいかないようだ。
眩暈が始まって頭を動かすたびに世界が目の前でぐるぐると回転し始める状態では動くこともできず、何とか病院に行けたのは発病から二日後のことだった。潰瘍性大腸炎で診てもらっている大病院へ、電車二駅と駅前からの送迎バス約五分ほどの移動に耐えられるかどうかかなり不安だったけど、意外とトラブルもなくやり過ごすことができて、路上で倒れてしまうこともなく病院に到着。受付で症状のことを話すととりあえず耳鼻科だろうと云うことで、耳鼻科へ案内された。
診察の結果良性発作性頭位めまい症と診断。難聴などの耳のトラブルや頭痛、嘔吐等もなく、特有の眼振が出ていることから、診断は簡単だったようだ。いかつい病名だけど眩暈としては一番オーソドックスな病名でもある。ちなみにこの眼振の状態を見るために焦点の合わない眼鏡をかけさせられて頭を揺り動かされ、わざと眩暈を起こす検査をやらされるんだけど、とてもじゃないけど最後までで耐え切れず、途中で思わず眼を閉じてしまった。
内科のほうで予防的にもらっていた眩暈の薬、メリスロンが手元にあって、まぁ眩暈を起こしてない状態ではあまり飲んでいなかったんだけど、それを続けて飲んでいればいいと云われ、追加で吐き気止めの薬をもらって診察は終了した。この辺は同じ病院内と云うことで他の科で処方された薬の状況も全部筒抜けとなり、ややこしい状態にはなりにくい。病院にやってくるまでは思っていた以上にトラブルなく来れたのに、この眼振検査のせいで診察後は来た時よりもはるかに気分は悪くなっていて、ふらつきとともにむかつく感じも若干出始めて、帰りの送迎バスからはちょっとした車酔い状態になっていた。
三半規管の中にある平衡感覚をつかさどる装置の一部である耳石が何らかの理由で剥がれ、三半規管の中のイレギュラーな位置へと漂いだしてしまうことで平衡感覚がかき乱されるというのがこの眩暈のメカニズムだ。眩暈と云えば立ち眩みのようなものをイメージするかもしれないけれど、この場合は文字通りの回転で、遊園地のコーヒーカップで思い切り激しく回転させられたような症状として現れる。耳石の位置によって回転が縦方向になった場合は宙返りするジェットコースターってところか。きっかけは上を見上げたり俯いたり、あるいは後ろに体を倒すような特定の方向へ頭を動かしてしまうこと。その動きで三半規管の中で浮遊する耳石も動き平衡感覚を翻弄して視界が回転し始める。回転は三半規管の中で耳石がおとなしくなるまでの数十秒間は続く。頭を眩暈誘発ポイントへ動かすたびにこの一連の症状が繰り返されるので、もう気持ち悪いから乗るのは嫌だと云ってるのに、ふらふらのままで無理やりまたコーヒーカップに乗せられるような状態が続くことになる。
物理的なプロセスが原因なので、遊離した耳石が元の正常な位置に戻るか、溶けて吸収されるかしない限り、眩暈は治まらない。薬は体感的にも付随して現れる不快な症状を緩和するくらいの役目しか果たしていないような気がする。薬でこの回転そのものを止めることは今のところ不可能なんじゃないかな。
遊離して三半規管のリンパの中で漂っている耳石をもとの位置に戻すための体操っていうのもあって、今回の診察でこの体操をやりましょうとやり方を書いたパンフレットももらったけど、眩暈の方向へ頭を動かすような体操なので、こんなの恐ろしくてできないといまだに手付かずのままだ。
おそらく早くても治まるまでにはひと月くらいはかかりそうだ。目が回ることに否応なしに体を順応させられるような生活を続けているうちに、気がつけば頭を動かしても世界は回らなくなっていると、そんな感じで治っていくんじゃないかと思っている。

円

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んでいる。厳密に意味を定義しない、云うなら詩人らしい含みの多い言葉と、由来を知らなければ意味にさえも届かない比喩を多用し、一方でシュルレアリスムについての定義を見定めながらも、その定義は力強さともいえるほどシンプルなものなのに、書いたブルトン本人が宣言の中で「くねくねと蛇行する、頭が変になりそうな文章」と云ってしまっているような、そのシンプルな定義とつかず離れずの微妙な距離感を保ちながら巡り続け攪拌してくる様々な論旨は、注意力を緩めなくても容易に道筋を見失ってしまい、眩暈中の脳みそにはかなりきつい。眩暈がなくても、何度挑戦してもこんな感じの読みっぷりになって、いまだに頭の中に綺麗に収まりきってくれない。まぁその分何度でも読めるっていうことでもあるんだけど、でもやっぱり今の状態で読む本じゃないなぁ。この「シュルレアリスム宣言」を序文に掲げた実践編、オートマティスムによる小説「溶ける魚」のほうは眩暈を加算した状態で読むと、逆に酩酊感覚が加速されて、暴走する言語との戯れにも普段よりも読みごたえが出てきそうだ。



さてこれは陰謀論なのだろうか。この心理作戦が実際に行われているとすれば極めて巧妙だと思う。
『プリオン病/クロイツフェルト・ヤコブ病/狂牛病の主な症状』 (Tomoko Hoeven  6月25日)

誰も「コロナ」で死んでいない―医師らの告発