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硬水歌集 機械式辻占師言行録Ⅷ

日之影





ミネラルウォーター





朽





物体X





スポットライト
2016/10 祇園
Canon A35 Datelux / Nikon Coolpix S9700

前回の記事でコンタックスT3はあと七枚で撮りきると書いたのはもうちょっとでフィルム一本終了できるという意味だったのに、結果は思惑に反して現在もあと七枚で撮り切るという状態のまま。結局一月の間一度もシャッターを切らなかった!写真は思索じゃなくて体力次第というのが体を通して理解できる一月ではあった。潰瘍性大腸炎はこの数週間それなりに安定してきている様子なので、暑さもようやく過ぎ去りつつあるし、ここは感覚を取り戻すべくカメラを手にして少しずつ行動範囲を広げていきたいところだ。どうしても写真を撮りにいきたい衝動があるのかどうか、それほどでもないから難病に負けて足が動かなくなっているんじゃないか、その辺りを自問する機会も増えている。というところで何しろ写真が増えていないものだから今回も以前に撮ったものから。とはいってもひょっとして既にここに載せたんじゃないかと記憶があやふやになっている写真もあって、すべて始めての写真だったらいいんだけど、我ながら既出くさいのが混じってるような感覚をぬぐえない。撮ったのは祇園。京都の顔のような場所だけど、その分通俗的な要素をぬぐいきれずに写真を撮るのは難しい場所だと思う。祇園といえば最近「舞妓さんちのまかないさん」というコミックを読んだ。花街の裏側というか閉鎖的でいささか特殊なその街で生活をしている人の息づかいを伝えるようなお話。青森から共に舞子さんになる夢を持って祇園へやってきた仲良しの少女二人。一人は舞妓として頭角を現していくがもう一人は目が出ずに結局裏方のまかないさんとして花街の住人となる、その立ち位置が違ってしまっても続く二人の絆と友情を軸として、屋形の台所から映し出す舞子さん修行中の少女たちの四季っていう感じかなぁ。料理が登場して、タイトルにまかないとあっても、いわゆるグルメ漫画とはちょっと毛色が違うと思う。京都の描写がひとコマだけでどこか分かったりするのも楽しく、これは京都の住人の特権なのか。タイトルは全部漢字にしてみたシリーズ。写真を眺めているうちにソングブックなんていう単語が頭に浮かんで、いろんな(ミネラル)ものを混ぜ込んだ写真が歌う歌の歌集っていう感じ。つけてみて色々と上手くこじつけ出来たとほくそ笑んでみる。先々月だったか病院に行った時、主治医の先生からオリゴ糖をとってるかと聞かれ、まぁこれは病院で最初に貰った潰瘍性大腸炎のガイドブックにも載っていたものだしとっていると答えると、梅エキスもとったほうがいいよとさらにアドバイスを貰う。病院内の売店、わたしの診てもらっている病院にはローソンが店を出してるんだけど、そこで売ってるものでいいからと、なんだかこの先生、ローソンの回し者かと思いながらもその日は梅エキスを購入して帰った。その日の夕食時に開封してみると、中の茶色い遮光ガラス瓶に入っていたのは粘度の高い黒々とした液体だった。付属の小さなスプーンのほんの先っちょですくいとった極微量を恐々舐めてみたら、それだけでもうあまりにも酸っぱくて、この酸っぱさはむしろ大腸に対しても刺激一杯なんじゃないかと思ってしまい、翌日から口にし始めるも、朝の超微量以上の分量をとる勇気が出なかった。先月診察の日に梅エキスとってるかと聞かれ、一日一回ちょっとだけと答えると、毎食後に計一日三回とったほうが良いと云われ、量に関しても結構大胆でもかまわないって云う感じの話しっぷりだった。考えてみればパッケージにはそのままでもいいけれど、とりにくかったらお湯で薄めるという方法もあると書かれていて、お湯に溶かすくらいなら付属のスプーンで普通にすくえるくらいの量は必要だろうなぁって云うのは想像できることだった。ということでその診察以降、わたしの場合は食事は以前からほとんど一日二食ですましているから、食後にとるなら一日二回、付属スプーンで普通にすくえるくらいの量、それでも小さなスプーンなので大した量でもなかったが、そのくらいの量をとり続けてみることにした。最近調子が安定してきているのはひょっとしたらこういうのが関係しているのかなと思う。薬じゃなくてあくまでも食品だから薬効どうのこうのというのはないんだろうけど、オリゴ糖が善玉腸内細菌の栄養源となって腸内環境を整えるように、梅エキスも潰瘍性大腸炎の基本薬であるリアルダ(メサラジン)を飲み続けた上でその薬が効果的に働けるような腸の下地を整える補助くらいの役割は果たしているのかもしれない。一応検索してみると梅エキスが潰瘍性大腸炎を緩和させるような研究データもあるようで、極端にすっぱいから大腸への刺激になるんじゃないかという最初の懸念は杞憂ではあったようだ。健康食品としては粘膜関連以外でもいろいろと健康に役立つ効果があるらしいから、潰瘍性大腸炎に効果がなくても摂取していれば体のほかの部分にも何か好影響が出るかもしれない。ということで一応情報として書いておくけど、わたしがとっているのは病院内のローソンで売っていた火の国屋というところの梅エキスだ。ここはどうも地元のメーカーらしい。他メーカーの梅エキスも大して変わらないと思うけど参考なるかもしれないので。ローソンと云っても病院内の店はそれなりに特化しているようで、街中のローソンでは扱っているかどうかは分からない。ちなみにオリゴ糖のほうは、おそらく抽出した原材料の違いだと思うけどいろいろと種類があって、わたしが利用しているのはガラクトオリゴ糖だ。ヤクルトから発売されてるもので、わたしにはなんだかこれが一番しっくり来る。難病の申請は七月に通っていたけど、今年の更新が十月と言うことで、七月の承認通知の中に更新の書類も一緒に入っていた。その更新手続きの期限が七月末だったので、初めて認定を貰った2,3日後にその更新の書類を提出することになって、その更新された受給者証は九月の下旬に無事に到着した。これでこれからの一年間はこの病気に関する医療費の負担はかなり軽くなる。毎年こういう更新をやらなければならないようで、そのたびに今度は通るかなと不安に駆られる期間が発生するんだろうなぁと思うとちょっと憂鬱ではある。今回は申請がとおった直後の更新だったので役所で最新の、正確な名前は忘れたけど課税証明のような書類を用意するだけでよかった。でも次回からの一年ごとの申請だとそのたびに病院からも診断書みたいなのを書いてもらわなければならず、これがまた5000円くらいの出費になるのが痛いと言えば痛いところだ。


Ofenbach - Rock It (Official Video)

わたしがお邪魔しているブログで紹介されていた曲。催眠的、催淫的官能的であまりにもかっこよかったのでわたしも便乗して載せてみた。そこのブログ主さんが指摘するベースラインも耳に残ってかっこいいけど、そのベースラインに絡みつく、やる気のないフォークダンスのような低体温のダンスステップも意表をついて洒落ていて視覚的快感を惹起する。癖になりそうだ。





11巻までリリースされて、全体としては未完。


ガラクトオリゴ糖は母乳中にも含まれている成分を主としているというのが人の体に馴染みやすそうなイメージではある。ヤクルトから発売されているというのもこの類のものの専門の会社だからなんだか安心感がある。ただ、オリゴ糖には他にも植物から取り出したものとかいろんな種類がある中でこれが桁外れに高価というのがちょっと難儀なところなんだけど。




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挑発する大陸、チビッコビルの七夜の罠。 機械式辻占師言行録Ⅴ

川辺リンの不安





不安の正体





隠された何か





潜航
2017 / 02 伏見 (1)(2)(3)
2016 / 10 藤森神社 (4)
Fuji Cardia Travel Mini Dual-P / Nikon L35 AF


目についた単語を並べて冒険小説風のタイトルやね。どうもやはり意味から離れられないのが突き抜けていないところではある。チビッコビルで過ごす七つの夜に仕掛けられた罠とは一体なんだろう。七日間、夜毎に罠をクリアしないと挑発するらしい大陸から生還できなかったりするとかハードルはきわめて高そうだ。あるいはチビッコビルは人の名前のようにも見える。西部劇に出てくる悪党、小さいくせに子供のように無邪気に残忍で、極悪非道な悪党の名前のようにも響いてくる。この前コメントの返事を書いていて、いつもの呪文に「チープ」というのも付け加えてもいいかななんて思った。似たような観念にキッチュなんていうのもあるけど、キッチュなものとかまるで興味がないので、似ているけど非なるものとして「チープ」。それと「寡黙」というのもわたしの志向としては追加しておきたい。チープなものは往々にして饒舌であったりするから、これと寡黙さは相容れないものかもしれないけど。そこにあるオブジェとして、自らがそのオブジェであることしか語ろうとしないもの。自らの物質性をそっちのけにして意味について饒舌になろうとする対象よりも、あるいはその幻想性について言葉多く語りたくてうずうずしているものよりも、それははるかに幻想的なオブジェとして立ち現れるんじゃないかと思う。今回のは随分前に撮ったつもりだったものの日付を見れば2017年とそんなに昔でもなかった。今撮っている写真とは違わないようで違うというか、自分にとっては微妙な感じがする。こういう被写体を選ぶ好みは変わってないはずだけど撮り方は違ってくるかもしれない。話は全然違うんだけど、このところ一斉に「違くて」なんていう言い回しが、まるで解禁されたかのように耳についてくるようになった。わたしがこの言い回しを最初に目にしたのはそれこそ20年くらい前になるか当時リビドーっていうエロゲームのメーカーがあって、そこの広告か何かの文章の中でだった。未だにこんなことを覚えているのは、まず最初にこれどう読むんだ?と読み方の予想もできなくて、「ちがくて」???こんなの日本語じゃないだろうと首を捻った印象が強烈だったからで、わたしの眼の中には違えようのないシンプルな言葉ゆえの異物感そのものとして飛び込んできた。それがこのところ急に当たり前の言い方として身の回りに溢れかえってくるようになっている。CMの歌の歌詞の中にも現れるようになったし、先日なんか病院の看護師が「それとは違くて、どうのこうの」なんて喋っていた。作詞はこんなに言葉に鈍感であっても出来るものなのか。20年来の異物感が、リビドーなんていう今はもう存在しないゲームメーカーを伴って最近になってまた目の前に浮上してきたわけだが、この「違くて」とか「違かった」なんていう言い方、ことのほか「違かった」なんて一体何?もっと普通にたった一文字しかか違わない今までの「違った」でいいじゃないか。それともなにか、「違った」だと命に関わるような不都合でもあるのか?なんて思いかねないほど日本の言語感覚とはずれているんだけど、こういう言葉使いを気持ち悪く感じない人って、少なくともこういうのはまともな書物の中には絶対に出てこない言い回しだし、本を読んだことが無い人なんだろうかとも思ってしまう。もっとも言葉としてはリビドーの例の如く20年位前に既に使われていたようで、話によるともっとはるかに昔からの関東のある地方の方言だということも目にした。ちなみにリビドーは仙台の会社で確かチビッコビルとかいう異様な名前のビルに居を構えていたことまで、あまりにも異物感が横溢していて、別に覚えていたくもないのに記憶の片隅に居座り続けている。この記事を読んだらわたし同様に、おそらく一生の間どのような瞬間がやってきてもまるで役に立たないに違いない知識、昔仙台のチビッコビルというところにリビドーというエロゲーのゲームメーカーがあったという知識が脳細胞のいくつかに染みついてしまうことだろう。わたしの仲間となるのだ。どうでもいい話からちょっとだけ写真の話へ戻す。今回の写真は昔のオートフォーカスのコンパクトフィルムカメラで撮った。現役当時でもそんなに高級なカメラでもなかったように思うが、いまや見つかるとすれば誰も手を出さないような中古ワゴンの中にワンコインでも買えるような状態で転がっているのがほとんどじゃないかなぁ。ちなみに以前河原町のサクラヤで、両方とも「写ルンですよりも安い!」なんていう札を貼って、値段のつかない安物中古を集めた段ボール箱の中に投げ入れられていた。デジのAFコンパクトカメラとやってることは大して変わらないと思うけど、デジでは当たり前の速度感といったものが、こういうお手軽カメラを使うことで、元々スローなフィルムという場ではより顕著に写真に現れてくるんじゃないかと感じるところもあり、一眼レフのような重厚なものとはまた方向性が違う、結構好きな類のカメラとなっている。なによりも所詮ファミリーカメラ、大した写真なんか撮れないと思われがちなカメラを使うっていうのが饒舌嫌いチープ好きにとっては小気味良いし、意外と著名な写真家がこの手のコンパクトフィルムカメラを好んで使っていたりする。たとえばロバート・フランクがオリンパスのμ2を構えている写真を見たことがある。今現在は、これはかつての高級コンパクトフィルムカメラになるコンタックスのT3にフィルムを入れて、後7枚ほどで撮り終える状態。遠出を許してくれない病気の合間に撮ってるにしてはわりとペースはいいほうかな。先日いきなりまるでホースでぶちまけたような豪雨に見舞われて、わがT3もずぶ濡れになってしまい、しばらくはこの雨の影響で挙動に不安が残る状態にはなってるんだけど、壊れて欲しくないなぁ。

サングラス ウエリントンとキャットアイ

サングラスはあれからまたいくつか買って、買っているうちに勢いがとまらなくなって今年の夏はなぜだかサングラス三昧の夏になってしまった。あれから追加になったものにはボストンなんて中途半端な丸型じゃない正真正銘のラウンドのものとかウエリントンタイプの、まぁ3COINSのバーゲンで100円で売っていたほとんどおもちゃみたいなものがある。この欲望の発露の源流には普段用の眼鏡を色々と増やしたいというのが確実にありそうで、そのシミュレーション的に安いサングラスで遊んでるんだろうと思う。なにしろ高くても1500円程度のものばかりだ。いろんなフレームのサングラスをかけてみてあらためて思い知ったのは形としては好きなのに丸顔にはあまり似合わないと痛い自覚をしてしまった丸眼鏡の真実と、キャットアイフレームが丸顔には意外と合うという新発見。でもサングラスではいいかもしれないけれど、普段用の度を入れた眼鏡にキャットアイフレームは冒険のしすぎだろうな。丸眼鏡といえば今やっている大河ドラマ「いだてん」に登場する人物、男も女もみんな丸眼鏡でみんなきっちりと似合っているのは見事。薬師丸ひろ子の丸顔でさえも似合っているんだから、これはもう一体どうなっているんだろう。彼女の丸眼鏡には何かの魔法がかけてあるとしか思えない。「いだてん」はエピソードが積みあがっていくだけでその場で足踏みしているような印象のまま折り返し点を過ぎ、頭に残っているのはこの丸眼鏡の競演と高橋是清を演じる、これが最後の役となった萩原健一のかっこよさばかりだ。

ラウンド2種
上のブルーのがWEGOで売っていたラウンドのミラーサングラス。セールで500円ほどだった。下のは10年以上前に眼鏡研究社で作ったもので、写真ではちょっと分かりづらいけどこれが今風ラウンドなのか、上の今年買ったもののほうがレンズは大きい。眼鏡研究社のは鼻パッドがない一山のクラシック仕様である一方、今年買ったほうは普通に鼻パッドがついている。そういえば「いだてん」に登場する丸眼鏡はすべて一山で、こういうところもそれなりに時代考証されていた。眼鏡のことを知らないと一山の眼鏡という存在自体まず知らないはずだから、劇中に小道具として眼鏡を調達してきた人はこういうことを知っていたということだろう。といっても鼻パッドは1920年代には既に発明されていたそうだから、登場人物全員が一山の眼鏡だということにリアリティがあるのか、古さの演出だけのことなのかどうかは正確には分からないけど。



IN ' OUT '  機械式辻占師言行録Ⅵ

黄光





空が通る穴





地のモンドリアン






ジグザグ
2018/10~2019/05 宇治
写ルンです / Canon DEMI EE17
lomography colornegative 100



五月の二十日に指定難病の特定医療費支給認定の申請を保健所に提出してきた。これは指定難病に関して高額の治療になった場合に、治療費が設定された上限を超えた分は公的に支給してもらえるという制度だ。難病だと誰でも承認、支給されるかというとそうでもなくて、提出の翌月には審査があり、その審査に通って始めてさらにその翌月に認定証が発行されるという段取りになっていた。認定までの三ヶ月というのはやっぱり待っているとやきもきする期間だったんだけど、それでも無事に審査をパスしたようで、書類にあったスケジュールどおりに七月の下旬には認定証が無事にわたしの手元に届くこととなった。これで一安心。わたしの病気の場合高額の治療となると10万単位のものもあるそうなので、そういうのが必要となった場合20万30万と簡単に請求されても、到底実費では払えないことになるところだった。でもこの申請が通るのを切望してはいたけれど、いざ手にしてみると、軽症だと通らない審査だと聞いているから、これはもう確実に軽症ではないとお墨つきをもらったようなものだなぁと、なんだか逃げ場がなくなってしまった気分にもなる。写真は、これは最近撮りに出かけられなくなっていると書いているその時期に、それでも少しずつ撮っていた今現在の写真から何枚か。ポップでキュートでグラフィカルでシュールという呪文に沿って、あるいは生成する空間みたいな関心事を出発点にするような、要するに最近の思考をストレートに押し出そうとしたものとでもいえるかな。といったことを書いたとしても、そういう写真なんだと納得する必要もさらさらなかったりする。撮った本人が書いているからといって何もかも正直に書いているとも限らない。タイトルは今回も偶然性の海から救い上げようと嬉々として遊んでいたんだけど、写真の中にたまたまこのフレーズを見つけ、もとは駐車場の案内表示ではあるものの、なんだか写真ぽい何かにリンクしているように感じて急遽これに決定することとなった。レーモン・ルーセル的方法に色目を使ったりと、最近はもう具体的な内容に沿ったタイトルなんかつける気がまったくなくなっている。後で見返したときタイトルからはどういう内容だったのかまるで判断できなくなるだろうと予測するものの、そういうのもまた混沌として楽しそうでもある。大体、事の最初の「彗星絵具箱」からして水彩絵具のずらし、読み替えなんだからして、最初の感覚に回帰しているといってもいいのかもしれない。もとからこういう遊戯事を好む人間だってことだ。写真集を眺めていたり、美術書を眺めていたりと、まぁビジュアルに関わらず本そのものが好きということもあるんだけど、そういう時間を持つことが楽しいと思う反面、写真集は高価だという壁にやすやすと突き当たることがほとんどだったりもする。新刊も豪華な印刷技術を駆使したりしていると当然価格は跳ね上がるし、写真集なんて初版を逃したらまず書店では目にすることもなくなり、古書となるとこれまた驚愕するほどの値段がついてたりするのがざらだ。おまけに海外の写真集の古書となると高価である以前に本そのものを目にする機会もまれになる。そこでそういうフラストレーションを紛らわせるためにたまにする遊び。諸事情でどうせ中身を見ることがかなわない本なら、ここはいっそのことその中にどんな写真が隠れているのか想像して自分で撮ってみる。手に入らないなら捏造、擬態してみるってことだ。大体見たいと思っている写真集ならどこか自分の嗜好にシンクロしているところがあるはずで、そういうところは何なのか、本や写真家を取り巻くあらゆる要素とフィードバックしながら探り当ててみる。これは擬態しながら撮った写真が、その擬態のもととなった本の中に実際に似たようなものとして載っているかどうかなんていうことはまるで重要じゃない。結果として呆れかえるほどに違っていてもまったくかまわない。元になるものを知らない、見たことがないというのがポイントで、模倣のようでいて模倣でもない、でも自分の嗜好がどういう形で自分の中にあるのかわりと分かりやすい形で浮き出てくることもある、ちょっと不思議な試みになることがある。ちなみに今回の写真の中にそういった方法論で撮ってみた写真が混じっている。


ボストン サングラス
最近のファッションというか、この夏買ったサングラス。白のTシャツと黒地に水玉のショートパンツを身に纏い、アクセサリーを色々つけて、このサングラスで夏の白い日差しの中にいる。上の派手なのはユニクロ、下のは3COINSで売っていた。雑貨屋の安いサングラスの類だ。両方ともボストンでこうやって並べてみると、見た目の派手さに違いがあるのに、それを上回って同類の眼鏡デザインという感じが強い。結局似たようなものを買ってしまって、こういうボストンやラウンドの眼鏡がよほど好きなんだなぁと単純な自分の嗜好に若干あきれる。なにしろブログのURLまで丸眼鏡主義だ。ユニクロのは一見派手すぎて眼鏡だけ浮いてしまうように見えるものの、かけてみると意外にそうでもなくて悪目立ちもせずに落ち着いた印象になるのが不思議だ。販売の終盤では500円にまで値崩れしていたのは、みんなこの一見の派手さに騙されて手が出なかったという事なんだろう。とまぁこの夏雑貨系のサングラスを色々と物色してみたんだけど、普段に度入りの眼鏡を使ってるから、ただのサングラスはかけかえる場合結構面倒で、やっぱり度入りのサングラスのほうがいいなぁと思った。両方ともおもちゃみたいなサングラスだからこれに度入りのレンズを入れるというのも無理な話で、だから気に入ってはいるものの結局のところこれはそんなに長く使えるものでもなさそうだ。これにくわえて最近お気に入りになっているものは靴で、まぁ極端に暑くなってからはサンダルに切り替えたけれど梅雨の終わりくらいまで厨房シューズを履いていた。滑らない靴としてワークマンのスニーカーでいちやく有名になったコック御用達の靴という存在なんだけど、この厨房シューズをコンセプトに作ったワークマンのはあまり好きじゃないスニーカーっぽさがあって、わたしが梅雨の終わりまで愛用していたのはシェフメイトという本物のコックさん用の靴だった。サボっぽいコロンとしたデザインが結構可愛らしくて、お気に入りになっている。厨房という水場で使うのが目的の靴なので、謳い文句どおり濡れた路面でも本当に滑らないし、パッケージには明記していないけれど防水性もかなりある。アマゾンのレビューなんかでは合皮のテカテカした艶があるのがどうも不評のようだけど、わたしはもっとテカテカしてエナメルの靴のようになっていたほうがいいと思ったくちなので、テカテカしてる艶もほとんど気にならない。ポリウレタンの合皮なので何もしなくても空気中の水分に反応して劣化していくはずだけど、2000円前後の価格なので履き潰し、買い換えていく靴として割り切れるだろう。見ようによってはモード系の服に合わないこともない雰囲気で、ギャルソンの靴だと言い張ればひょっとしたらなんとなく通用してしまうかも。モード系によく見るわりとごつごつした靴って云うのも好みで冬には編み上げのロングブーツなんていうのも買ってみようかと春先くらいから計画中なんだけど、その欲求のある部分をこの厨房シューズが満たしてくれてる感じもある。





ギタリストの犬、溶ける星の日。 機械式辻占師言行録Ⅴ

真昼の人影





抜け屋根壁





銀の構成





鳥かご





編目の劇場






赤い破壊

高の原 (1)
2013 / 06 伏見 (2)
2016 / 03 丹波口 (3)
2015 / 10 伏見 (4)

2017 / 01 長池 (6)
CONTAX T3 (1) Olympus Pen S 3.5 (2) Fuji Natura Claassica (6)
Kodak SuperGold 400 (2)(4)


エクスクラメーションマークとクエスチョンマーク。要するに「!」と「?」のことだけど、これは猫の尻尾を後ろから見たところだという。「・」がお尻の穴で上の棒マークが感情を表現してる尻尾本体だ。そう云われると吃驚した時のピンと立った尻尾はまさにそんな感じだ。と、これは最近本を読んでいて出くわしたことだったんだけど、真偽のほうは分からない。まるででたらめだったとしても聞いた人を納得させる妙な説得力があって、このマークを見て猫の尻尾を連想した人の発想力はなかなか面白いと思う。タイトルは読み間違いと目にした単語の偶然的な組み合わせによる。「ギタリストの夫」という一文の、夫が犬とみえてのこのフレーズなんだけど、金井美恵子の小説のタイトルにも「カストロの尻」というのがあった。これは「カストロの尼」というフレーズを読み間違えてしまった結果できたタイトルらしいんだけど、この破壊力抜群のイメージ喚起力に較べると我が「ギタリストの犬」はなんとも大人しすぎるというか、こういう読み間違いにしてもセンスの差が出てくるんだろうと、カストロの尻を捕らえた感性にちょっとした妬みさえも覚えるなぁ。破壊力抜群に読み間違えてみたい。そして当然のことながら、もちろん今回の写真もタイトルとは何の関係もない。写真は相も変わらず体調の加減と暑さと身の回りの主に医療関連の鬱陶しい雑事が時間的にも体力的にも気分的にも障壁となり続けていて、撮りに出かけること自体がままならなくなっている。この前現像に出した半年かけて撮った2本のフィルムはブローニーのほうは終盤の数枚が光線引きしてしまっていて、でもその光線引きもちっともかっこいい結果にはならないような光の漏れ具合の写真だったし、写ルンですのほうも全体にパッとしなかった。これを現像に出した後コンタックスT3にフィルムを入れてるんだけど、撮りに出かけられないものだからまだ3枚くらいしか消費していない。まず出かけられるような状態へと体のコンディションをもっていきたいところで、写真への関心を立て直すのはその後だろう。買い置きのフィルムは消費期限を過ぎてそのまま冷蔵庫の中で居座ったようになっていて、消費量の少なさもあって気がつけばこのところフィルム売り場なんてまるで足が向いていなかった。昨日久しぶりにヨドバシカメラに出かけてためしにフィルム売り場を見てみたら、さらに売り場は縮小されてなんというか見る影もない。売ってないわけでもなかったから手には入るんだけど一杯あるフィルムから気に入ったのや使ったことがないものを選択してどうのこうのというような楽しみは既になくなっている。大手のフジがそんな状態になってる中で、大手が牛耳っていた棚が空いたために、いくつかヨーロッパ系のフィルムが店頭に出てきてるのが小さな光を放っているようだった。廃版が常套句のこの世界にコダックのリバーサルが復活していたのも、これも大いなる希望だろう。そういえば先日マップカメラからのメールにフィルムカメラ、レンズの人気再燃につき買い取り価格再考なんていうのが入ってた。これもささやかな光の気配なのか。




薔薇の殺意〜虚無への供物(1)

昔NHKで放映したテレビドラマ版「虚無への供物」がYoutubeにあった。これ結構早く消されそうだ。ドラマの出来は反世界だとかそういう妖しい雰囲気はあまり上手く表現できてなくて、それほどでもなかったような記憶がある。さらに氷沼三兄弟を筆頭にすべてのキャラクターが具体的な姿を与えられて、それがまた個人的には全然そぐわなかった。全3話で完結。見つけた時点では残りのもYoutubeに全部揃ってた。

いちばん長い砂糖菓子の微熱 機械式辻占師言行録Ⅳ

ベビーカー沖






未来派





偽砂糖菓子





偽ユージニア






消失面



2017 / 10 八条(1)
2017 / 01 伏見(2)
2018 / 10 京都駅(3)
2016 / 11 近所(4)
2018 / 11 宇治(5)
写ルンです (1) Pentax K100D Super (2) Canon Demi EE17 (3) Nikon F100 (4) Sony SyberShot DSC T9 (5)
Lomography Colornegative 100 (3) Fuji Premium 400 (4)


わが難病、潰瘍性大腸炎の症状はほとんど進展なく、絶不調のために外出もままならないというほどではないにしても、外出時に見舞われる可能性がある病気がらみのトラブルに対する不安感がぬぐえずに、必要なところ以外へ足を伸ばすことがめっきりと少なくなった。症状が好転しても基本的に治す術のない病気である以上、調子が良いという時でも不調である状態のうちの最も軽い状態とでも云うべき感じで、わたしにとっては極めて快調なんていうのはもう二度とやってこないんじゃないかと思ってる。いきおい写真をとる時間も激減していて、それでも時間の隙間、気分のましな時間を集めてはシャッターボタンを押していたら、確か去年の10月頃にイコンタに入れていたブローニーフィルム一本と写ルンです一本を先日ようやく最後まで撮り終えることができた。ブローニーが全12枚、写ルンですが全27枚の半年以上かかって39枚の収穫となるんだけど、これはやっぱり圧倒的に少ない。おまけに病院代や何やかやで医療費貧乏状態が続いてたから撮影済みのこのフィルムは未だに現像にも出せずに手元に置いたままになってる。近々現像を頼みにいつものムツミへ行くつもりではいるけど今年に入ってから店に行ったのは一度きりで、店の人、わたしの名前を絶対に忘れてると思うな。写真に関しては最近あまりここで文字を連ねないほうがいいんじゃないかと思っている。色々と書いているなかでこの写真は~を表現しているなんていう愚にもつかないことはほとんど口にしていないにしてもだ。大体これはこういうことを表現しているなんて言葉で言い表せるならわざわざ写真にしなくても言葉で言い表している。写真としてだけで成立しているものがそこにあるなら、それは言葉には置換できないものだ。だから内容について言及しないように注意を払って、写真について考えていること、対象について写真がどういう風に関わっているのかということ、頼まれもしないのに写真を撮り続けているとは自分にとってどういうことなんだろうとか、そういったことの周辺を巡り、おずおずと突いてみたりしながら色々と思いついたものをそのたびに矛盾をはらむのも承知の上で言葉にしてみるというのを繰り返してきたと思う。でもこれでも、これが表現しているのはこういうことだなんていう身も蓋もない言い方でないにしても、やっぱり少しは写真に傾向性を持たせてる側面はあるんじゃないかと思っている。別に写真に限らなくてもある種傾向を持たせてしまったものはそれ以外のものとしてはなかなか視覚には入ってこない。何よりもわたし自身が私の小さく纏まろうとする思惑を裏切り、超えてくるような写真が出来上がることを楽しみにしているというのにそれはやっぱりつまらない。とまぁ今回はあまり書くことを思いつかないということをまったく別の表現で書いてみたわけだが、やっぱり写真を撮りにいけなくなっているのが、当の撮った写真の激減という具体的な結果だけじゃなくて、写真と自分との距離とか他にいろんな形で影響が出ているんだろうなぁ。本にしてもこのところ写真関連のものにはほとんど手が出なくなって、美術系やミステリ、シュールな文学といったものばかり読んでいるし。今回も載せた写真は落穂拾いのようなものばかり。この半年の間に撮り終えたたった二本のフィルムは体調がいい日を見計らって近日中に現像に出してくるつもりではいるけど、最近撮った写真なんてここに出せるのはもっともっと先のことになると思う。

James White & The Blacks - Contort Yourself (August Darnell Remix) - 1979

James Chance & The ContortionsじゃなくてJames White名義のContort Yourself。The Contortionsほど荒々しい疾走感はない分随分とスタイリッシュ。でもファンキーでダンサブルで小奇麗に仕上げても、おまえ自身を引き攣らせろというだけあってフリーキーな破格の裏打ちをきっちりと仕込んでいるのがかっこいい。なんでもそうだけど、このかっこいいということ、これが重要だ。これだけで十分というかむしろこれこそが至上の価値なんじゃないかと思う。内容なんか別になんでも、どうでもいい。ひたすら惚れ惚れする視覚聴覚的な先鋭的鋭角的センス。写真だってとにかくかっこいい写真が撮りたい。グラフィカルでポップでキュートでシュールなんていつも云ってるけど、言い換えてみると結局こういうことだと思う。つまりはもう一度云うけど、かっこいい写真が撮りたい。被写体なんてシャッターを切るきっかけになるだけの存在でいい。

Lizzy Mercier Descloux performs Mission Impossible Live

70年代後半から80年代の初頭にかけて、なぜスパイ大作戦だったのか未だに良く分からないんだけど、これはやっぱりファンキーに演奏したらかっこいいんじゃないかという、それだけの理由での選曲だったのかもしれない。ライブで客席に下りて行っては客を殴っていた、演奏が出来るちんぴらといった風情のJames Chance。ノーウェーブの歴史的コンピアルバム「NO NEWYORK」のジャケット裏写真で目に黒々とあざを作っていたJames Chanceも今やチャンス翁なんていわれる始末だし、Lizzy Mercier Desclouxにいたっては既にもうこの世にはいない。音は今の空間をも切り裂いて届いてきそうなのに、人の世は…諸行無常だ。