市井のジャック・ザ・ドリッパー 屹立する無意識のオブジェ / James Hill - After You"ve Gone

市井のジャック





窓のアブストラクト





枯葉のオブジェ





椅子と光のストラクチャ
2016 / 12 近所
2017 / 11
2017 / 07
2017 / 09 大津京
Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P / 写ルンです / Fuji Naturaclassica
Kodak SG400 / Fuji Natura1600

ジャック・ザ・ドリッパーはアクション・ペインティングの画家ジャクソン・ポロックに対してタイム誌がつけた名前。切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)にかけたものだったけど、マスコミはポロックを胡散臭い存在として扱いもしていたようで、これはひょっとしたらからかいのための蔑称だったのかもしれない。それはともかく街中で見つけたアクション・ペインティングといった風情の写真で今回は始まる。ポロックは水平に置いたカンヴァスの上を絵具缶と筆を携えて歩き回り、刷毛や筆につけた絵具をそのカンヴァス上に撒き散らしてイメージを作り上げた。これもおそらく同様に大工さんが作り上げたという違いがあるだけのアクションペインティングの布なんだろうけど、こちらは残念ながら世界的なアートにはならなかった。でもアートであるかどうかなんて本当はそんなに大層なことでもない。各時代において様々な解釈でアートは成り立っていた。逆に云うと歴史を通して統一したアートという概念なんか端からなかったことになる。だから極端に云えば作った本人がこれはアートなんだといえばそれがアートになってもおかしくないわけだ。芸術は事物の付加価値であって属性じゃない。そして先に云ったように付加価値として芸術という観念を纏った事物が大層なものだということでもないと思う。むしろこの大工さんのアクションペインティングは最初から作品などまるで目指しておらず、ポロックが意識で制御されたものから解放され無意識の領域で作品を作ろうとした苦悩をまるで簡単に実現してる。何かを作り上げようなんて爪の先ほどにも考えていない大工さんのアクションペインティングはその無意識のオブジェ振りが素晴らしい!おまけにこっちは立体でもある分ポロックの作品よりもさらに手のこんだ存在なのかもしれない。町の中には無意識として屹立するオブジェが一杯ある。そういうのを見つけては写し取ってみるのはなかなか面白いと思う。ただこうやって写真に撮るということはせっかく無意識のオブジェとして佇んでいたものに何か特別の意味を与える行為でもあり、オブジェにしてみれば下世話でおせっかいなものになってはいるだろうけど。最近悪質な電話勧誘に見事に引っかかってフレッツ光を使っていたのをコラボ光の業者に代えられてしまった。長年のお馴染みさん扱いだったフレッツ光をまるでそんな希望もなかったのに解約されてしまって、わけの分からないコラボ光業者のサービスを使う羽目に。消費生活センターに相談に行ったけど騙されたまま法的には問題のない筋道を辿らされたようでどうにも無傷で元には戻せないような話だった。契約書さえ送ってきてないと言い張っても向こうは送ったの一点張りで、こっちはないことの証明をするほかなくもちろんそんなことは論理的に不可能だ。まぁ詳細はそのうち気分が静まったら書いてみようと思うけど自分の馬鹿みたいな無防備さも含めてすべてのことに腹が立つ。


James Hill Plays Ukulele Jazz Style After You"ve Gone

ウクレレ買ったし、このくらい弾けるようになりたいものだ。ちょっとジャンゴ・ラインハルトっぽい?もっともこの曲はジャンゴ・ラインハルトも弾いていて、でもこんな感じじゃなかった。





うえの動画のジェームス・ヒルのものじゃないけど、初心者用としては手に入れやすい価格で評価の高い、Ariaのコンサートタイプでコア素材のウクレレ。ソプラノタイプよりもフレット数が多いのでこういうソロ弾きには適してる。





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線分収集家 The Line Collector / 哀歌

奇妙な配線ライン





蔦の跡





水辺の扉





十字通路

2018 / 02 伏見
2016 / 06 心斎橋
2017 / 09 浜大津
Minolta Capios 160A / Nikon Coolpix S9700 / Fuji NaturaClassica
Lomo400 / Natura1600

写真をみていて思いついたタイトルだけど、世界中のあらゆる線をコレクションしてる人が本当にいたら面白いだろうなぁ。直線から曲線から異様に折れ曲がった線からぐるぐると回りこんだ線と、ありとあらゆる線を収集して線で世界を定義しようとする人。きっと頭の中には幾何学的幻想が渦巻いてるに違いないと思う。ちょっと思い出したのがクーロンズゲートの妄人街。あの掛け軸の絵のなかの仙人の頭の中に存在する、物や観念にとりつかれてしまって、そのことだけを延々と考え続けることで人外へと踏み出してしまった人の集まる奇妙な空間。鍵穴に取り付かれて鍵穴のことばかり考えてるうちに自分が鍵穴になってしまった鍵穴男のように線分収集家も頭の中の幾何学的幻想によって異形へと変化していきそうだ。やっぱりちょっと間抜けで逸脱感のある、コクトーの線描のような最初の写真が自分としては面白い。ちなみに使ったミノルタのコンパクトカメラは姉からの貰い物。極めて音の静かなカメラで撮った本人にもシャッターが下りたかどうか分からないくらいだ。このおかげで周囲の注意をあまり引かずに写真が撮れる。画質もミノルタでまるで問題なし。今ではフィルムカメラ好きの間でもまるで話題にも上らない、数あるファミリーカメラの一つ扱いだけれど、結構な掘り出し物かもしれないと思い始めてる。この前のに続いて今回も日本の哀歌二曲。最初のは由紀さおり姉妹で次のは加藤登紀子が歌ってる。ちなみに加藤登紀子のほうは満州里小唄が入っていたレコードに集録されていた。どうも昔からわたしには、この二曲は似たような曲としてセットで頭の中に入ってるようなところがある。冷静に聴いてみると全然違う曲なのに何故なんだろう。七里ヶ浜のほうは逗子開成中学校の生徒十二人がボートの事故で亡くなったことを悼み記録に残そうとした歌。これは亡くなった子供の関係者でなければまったくの他人事なのに、表現が結構一般的、共有できるような形になってるから近しい存在を亡くした経験でもあれば問答無用で泣けてくる。琵琶湖のほうは最後の歌詞に七里ヶ浜と似たような箇所があるものの、全体的には旅情というか、放浪、さすらいの浪漫的な側面を歌ったものだろう。それにしても去年の夏琵琶湖に入り浸ってたのにこの歌はまるで頭の中に流れなかった。今度行ったらこの歌が耳元に蘇ってくるだろうか。


○ 七里ヶ浜の哀歌
Youtubeへ飛びます。

○ 琵琶湖周航の歌












2018年冬、小倉。Let it Be / 満州里小唄

数列ソファ





夕闇停車場





ルーフ





駐車場





待合
2017 / 12
2018 / 01
写ルンです / Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P

2018年、冬の小倉、去年の暮れから捕らわれ滞留を余儀なくされてる場所で。わたし個人に直接関係してくるわけでもないのが幸いなところではあるけど、この生と死が対峙してる場所で足を取られてると写真もまたすべてを飲み込んで逃れようもなく収斂していくこの場所から出られなくなっていく。で、足掻いてみるわけだ。今回の写真はそういう足掻きが色々と見え隠れするようなものになってると自分には見えてくる。そういう場所では捕らわれ淀んでいく状況そのものをあるがままに写し取っていけばいい、淡々と日記でもつけるようにシャッターを切っていけば良いとは思うものの、なかなか達観できない。満州里小唄はこの加藤登紀子のLPに入っていたのを聴いてから好きになった歌だ。歌手本人は左翼の化身のような人でわたしにはまるで賛同できない人種に属するけど、こんな歌を歌ってる部分ではそんなことは関係なくなる。でもあえてこういう戦時下の古い歌を選んでレコードにしたことには、わたしが気づいてないだけで何か左翼的なイデオロギーでもくっついていたんだろうか。気づかせない時点で例え左翼的イデオロギーが入っていたとしても大失敗に終わってるといえそうではあるけど。この加藤登紀子バージョンは今までまるで見つからなかったんだけど、こんなタイトルにしてれば検索には引っかからないわなぁ。検索に引っかかってくるのは知床旅情だとかこういう感じの歌ばかり歌ってるような印象の森繁久彌のもの。それと意外なのはこの歌がジャイアント馬場の愛唱歌だったことか。探せばジャイアント馬場が歌っているのも聴くことができて、あのこもった声は相変わらずだけど愛唱歌だけあって歌いなれてるのか歌は思った以上に上手い。


最後の一節だけが唐突に短調になるのが解せない。明日の望みへと思いを繋ぐ良い部分なのに雰囲気台無し。戦時中のものに明日へと繋がる希望なんかを語らせないと、陰気に転調して台無しにしてやると、これがひょっとして左翼的イデオロギーのささやかな発露なのか。










極私的

近未来的支柱





ボールと縄






青い壁画





回転橋






茫洋とした何か
2017 / 05
Diana Mini
Kodak Tri-X

誰かと共有するつもりもないような極私的な視線。形を成すかなさないかの境界で揺らぐイメージにすらならないイメージ。視線の外周をかすめすぎていく何か。そしてそういう何かを捉えるために焦点をずらす眼と世界。世界は無意味だと、そういう主張をするほどにも意味を持たない、無意味な事物の繋がり渡る集積。後で見て言葉になるのはそんなところなのかもしれないけど、これは本当に後付けで云ってるだけで、撮っている間そんなことを考えてるわけでもないと思う。ぼんやりとした視線ほとんど具体的な事物が目に入らないような半眼で眺める世界の、その世界に茫洋と分け入っていく視線の隅に垣間見えたように思った何か得体の知れないもの。自分ではそういうものの痕跡気配をフィルムの感光面に封じ込めるためにシャッターを切りたいと思っていつもカメラを携えて歩き回ってはいるものの、出来上がる写真の中に見えるものはすべてわたしにとってはいつの間にか既知となったものばかり。期待するのもむなしく得体の知れないものなどどこにも写ってはいない。こういう眼の定めで歩いていると後ろからクラクションを鳴らされるのは常態となってしまって、これは気をつけていないと、とことあるごとに冷やりとして我にかえる。先日四条の十字屋に入ってみて、今はここは一階がカフェ、地下一階が以前の十字屋の面影を少し残す雑貨ショップと成り果てていて、音楽のオーラもほとんどなくなってしまった場所に化してはいたんだけど、まぁそれはともかく何とまぁ様変わりしてしまったものだと思いつつ店内を歩いてる時に目についた12インチのEPレコードのジャケットがあった。エマーソン北村と言うミュージシャンのレコードだったんだけど、ジャケットの写真はどう見てもサブカル狙いの、怪しげで尖がった感性を見せびらかしてるようでどこか薄っぺらい底が見えてるようなものだった。でもこのジャケットでどんな音がおさまってるのかちょっと興味が出てきて帰ってからYoutubeで探してみたら、出てきたのがこういうものだった。



十字屋でみたレコードに入ってるものでもなさそうだったけど、意外と音は、こういうものにありがちなモンドミュージックっぽいところも希薄で、ふわふわした優しげなラウンジミュージックのような雰囲気。このある種気持ちのいい音の連鎖はあのジャケットで妙な期待を抱いてしまうと肩透かしをくらいそうだ。ちなみに十字屋でみたジャケットはこういうものだった。



最近ちょっと音楽づいてる。ウクレレなんていうのを衝動買いしてしまった。これでストレンジャー・イン・パラダイスだとか、リバー・オブ・ノーリターンだとか、好きな曲を弾けるようになりたいな。




もうほとんど最初から壊れてるといってもいいような破綻カメラ。一台で真四角フォーマットとハーフサイズが、フィルムを入れ替えずに撮影途中で切り替えられるなんていう、妙に豪華な仕様になってるのがまるで不釣合いにみえる。





浅い夢 / 夢の書物

浅い夢の夕暮れ





窓辺の人





ポスター





光る自販機





組紐生物
2018 / 02 小倉
2015 / 10 近所
CONTAX T3 / Olympus Pen E-P5
Fuji 業務用400

以前小椋の干拓池跡で疎らに鉄塔が建つだけの地平線と逆光が零れ不安に広がる雲を撮った写真を載せたことがあって、その時は確かジオヤーさんだったと思うけど、まるで夢の中で見た光景のようだといったコメントを貰ったことがあった。ジオヤーさん最近ご無沙汰だけど元気にしてるかな。で、この雲の写真を眺めていてそんなことを思い出し、これもまた浅くまどろむ夢の中でいつか訪れたに違いない場所だと思って、こういう纏め方にしてみた次第。他の写真もどこかそういう雰囲気を持ってるように思うものを選んできてる。ただ内在させてるイメージ空間の輪郭がはっきりとしてるせいか、浅い夢の中でかすかに覚えてるような茫洋とした質感はあまり感じられない写真だとは思うけど。逆に目に写るイメージがはっきりと輪郭を持っていてもその内在させてるイメージ空間は茫洋としてつかみどころがない触感を持ってるっていうのもあるとは思うし、狙うならそういうもののほうが含みが多いものになりそうな気がする。他人が語る夢の話が好きだ。夢と云っても将来何になりたいとかそういう類の夢じゃなくて、まどろむ中で垣間見てしまうような類の夢、じっとりと汗ばんでくる微熱を伴ってさ迷い歩いてるような、ふらふらと息苦しくて地に足がつかない、奇妙で夢魔的な空間や、意味へと届きそうで届かない断片的な物語。そういうのを聞いたり読んだりすると、獏とした不安、見てはいけないものを見てしまったかもしれないという薄気味悪い後味、毛穴がざわめくような感じといったものを享受できたりする。他人の夢なんか関わりが持てるような繋がりがまるでない、所詮他人事の最たるものだと思う人もいるだろうけど、わたしは積極的に関係が持てる。こういう感覚において他人の夢の話には興味深い繋がりを持ちえることがある。まさにシュルレアリスム的な興味だろうと思う。他人の夢を垣間見るという観点で、わたしの好きな書物が何点かある。たとえば赤瀬川原平の「夢泥棒」たとえばつげ義春の「つげ義春と僕」といったもの。これは本当に睡眠時に見た生々しい夢の記録を纏めてある。赤瀬川原平のほうは何しろもう一つの顔が画家なわけだから、文章と絵を総動員して見た夢の視覚的な再現伝達には半端じゃない労力を費やしてるようだ。つげ義春のほうはこの書物に収められた一つが夢に関するものだった。こちらは後に漫画作品へと姿を変えていったものもあって、生々しい夢からどうやって作品へと形を整えていったか窺い知れるところもあるのが興味深い。アンリ・ミショーは夢とはちょっと違うかもしれないけど、メスカリンやLSDを服用してどういう世界を垣間見ることが出来るか自分の体を実験台にして記述していった書物だ。「荒れ騒ぐ無限」というタイトルが本当にかっこいい。ただこれは相当ぶっ飛んだ人体実験の内容なのに、医師の監視の下とはいえ危険な薬の力を使って精神の、脳髄の未知の領域へと踏み込んでいく話なのに、そんなに云うほどぞくぞくしなかった記憶がある。まぁ読んだのは大昔のことなので今読み返してみるとまた違った印象を持つかもしれないけど。夢といえば大御所の内田百間の掌編夢魔小説やその師匠たる漱石の、怪談として秀逸な第三夜を含む「夢十夜」なんかもある。見渡してみれば夢そのものを扱い多方面に枝を張った巨大複合分野なんていうのが成立しているようで、夢というのは興味の対象としては古臭いようでもいつも気になる結構大きな存在なんだろう。











ちなみに漱石の「夢十夜」は青空文庫にあった。