【洋楽】 Concert By The Sea - Erroll Garner

ピアニスト、エロール・ガーナーによって、カリフォルニアの港町カーメルで行われたコンサートの記録です。

先日四条河原町のファッションビル「オーパ」9階にあるタワーレコードをうろついてる時に、このCDがジャケット面を表にして飾ってあったのをみて、今の時期にぴったりかもと思ったのが今回取り上げる切っ掛けになりました。このアルバムには秋に似合わなければ一体何時が似合うんだと問い詰めてもいいくらいお似合いの超有名曲、「枯葉」が入ってるんですよね。
しかもいろんな「枯葉」の演奏がある中で、わたしはこのコンサートでの「枯葉」の演奏がことのほか好き。
このコンサートでエロール・ガーナーが演奏した「枯葉」は他の演奏者だとあまりこういう演奏はしないんじゃないかというような、ある意味ちょっとユニークな仕上がりになっていて、そこがわたしにとっては非常に面白いところだったりします。

オーパ9階 タワーレコード

店内

棚


しかし実はこのアルバム、「枯葉」が大好きと云ってる割に、わたしのなかではかなり長い期間聴いてない類のCDの扱いになっていて、タワーレコードで偶然目にするまではほとんど忘れてました。そういう扱いになってたものが久しぶりに目の前に現れたので、ちょっと懐かしさもあって店頭で見つけた時にはしげしげと眺めたりしてみることに。
それで眺めて程なく気づいたんですけど、タワーレコードで見つけたこの「Concert By The Sea」のジャケット、波が打ち寄せる岩場の海岸に、両手を天に向かって広げ何かを謳歌するような女性をあしらってるというデザインのCDジャケットなんですが、棚に正面向けて置いてあったものはわたしが持ってるCDとは微妙に違うものを使ってました。

実際見比べてみると結構違ってるんだけど、絵を構成するコンセプトが全く一緒だったので、店頭で見つけた最初の瞬間は違ってることにあまり注意が向きませんでした。

わたしが所有してるCDをスキャンして並べてみると、こんな具合です。
上のがわたしが持ってるCDのもので、下のが店頭で見たもの。

concert by the sea front

concert by the sea front 2



家に帰ってから調べてみると、どうやら今店頭に置いてある下のデザインの方がオリジナルのレコードジャケットに使われてた写真のようでした。でも、岩場の海岸線と画像左下付近に何かを謳歌するような女性をあしらってるという、ほとんど同じコンセプトのデザインなのに何故2種類も用意したのか、これがわたしには全く意味不明。最初に使った画像で何か気に入らないところでもあったのかもしれないけど、どこが駄目だったのか、わたしには分かりません。

☆ ☆ ☆

わたしが持ってるCDのジャケットの方をもとに話を続けてみると、直接演奏者の写真なんか使われてないけれど、全体的に開放感とどこか喜びの感覚に満ちているような感触があって、絵柄としてはそれなりに見栄えのするものになってるように思えます。エロール・ガーナーのピアノが陽気で、音楽の幸福な時間を紡ぎだすことだけに熱中してるような演奏なので、エロール・ガーナーの写真なんか出さなくてもその音楽の本質を表現してるジャケットだとも云えるのかもしれません。

ただそれでも一つだけ以前からちょっと違和感があるところがあって、それはどこかと云うと、左下の女性のイメージなんですよね。
わたしの持ってるCDから一部拡大してスキャンしてみるとこんな感じ。

コンサート・バイ・ザ・シー 女性

この女性なんですけど、何だかヒッピー風に見えませんか?
わたしにはそう見えます。60年代中〜後期、70年代初頭にかけてくらいの典型的なファッション。
それでこのCDの場合、明るさに満ちたエロール・ガーナーの演奏と、ヒッピー的な自由を謳歌するイメージが非常によく合っていて、わたしはこれを手に入れた当初、アルバム自体がヒッピーの時代のレコードのような印象を持ちました。
でも実際は60年代のレコードでも70年代のレコードでもなく、このコンサートが港町カーメルで録音されたのは55年です。実に半世紀近く前の録音なんですよね。
このジャケットがヒッピー時代のものだと云う印象を最初に受けてから、わたしの中ではこのジャケットから受けるイメージと実際の年代の間には感覚的な違和感が生じてしまうことになりました。
同じ図柄のイメージを2つ用意してるというのもそうなんですが、50年代のレコードに何故70年前後の時代を思い起こさせる女性が配置されることになったのか、これもわたしの中では未だに「謎」のままとなっています。

ただCDの音自体は半世紀前の録音とはいっても、どうもカーメルの教会として使われてる、かなり音響効果のいい施設(公会堂)で録音されたらしく、そういう条件がよかったのか今でもそれなりに聴ける音で収録されてます。

☆ ☆ ☆

エロール・ガーナーの音楽は上にも書いたように楽しく陽気で、幸福感と開放感に満ちた音楽と、ほとんど一言で云い切ってしまえます。眉間に皺を5〜6本も寄せて、呻吟しながら聴くような音楽とは完全に無縁の場所で立ち上がってる。そういう側面を指して「演芸ピアノ」なんていう云い方で揶揄されることもあるんですけど、わたしにしてみれば演芸ピアノのどこが悪い?としか云い様がないです。
このCDの最後の曲「Erroll's Theme」で司会者がメンバー紹介した後にちょっとだけインタビューめいたものが入ってこのCDは終わるんですが、そのインタビューの中にエロール・ガーナー自身の声で「ルイ・アームストロング」の名前が出てきます。それにならうなら、エロール・ガーナーはその音楽を楽しむことに徹底した演奏で、ピアノのルイ・アームストロングとでもいえる存在じゃないかと思います。

1921年にペンシルバニアに生まれて、1977年1月2日に55歳で死去。結構若くして亡くなってます。
ちょっとキャリアを調べてみたんですけど、1944年にニューヨークに出てきて、割と早目にミュージシャンとしての居場所を見つけたようで、50年にコロンビアと契約してからソロであったり、トリオであったり、当時のサックス奏者であったチャーリー・パーカーらとも共演してレコードを残していったらしいです。
そしてそういうピアニスト生活を送ってるうちに、この「コンサート・バイ・ザ・シー」が大ヒット。
そのヒットが切っ掛けで、それまでは共演ミュージシャンの受けは良かったようですが、ごくありきたりのピアニスト扱いという範囲に留まってたのが、一般的にも一流のピアニストとして知られるようになりました。

演奏してる光景とか手の動きとか見てると俄かには信じがたいんですけど、著名なピアニストとして活躍したものの、実はエロール・ガーナーは正規のピアノ教育を受けていませんでした。3歳の時にレコードのコピーでピアノを始めて以降、ピアニストとして頭角を現しても、この人のピアノは全部独学。
さらにそれに加えて、楽譜の読み書きも生涯を通じて全く出来なかったそうです。よくもまぁそんな状態でピアノを習得していったものだと思うんですが、どうやらエロール・ガーナーはかなり良い耳と記憶の持ち主だったらしくて、正規の教育は受けなかったものの、そういう自分の特質を頼りに独自のピアノを形作っていったということのようです。

楽譜が読み書きできなかったということに関して、この人はスタンダード曲「ミスティ」の作曲者としても有名なんですが、この曲はニューヨークからシカゴに向かう飛行機の中にいるときにエロール・ガーナーに降臨して来たらしく、楽譜が書けないものだから降臨してきたメロディをその場で記録しておくことが出来ずに、帰宅するまでずっと頭の中で繰り続けて、帰って来てから大急ぎでピアノで弾いたものを録音してようやく記録することに成功したって云うエピソードが残ってます。この時エロール・ガーナーの音楽的な記憶力が並みの力しか持ってなかったり、飛行機の中から帰宅するまでの間にエロール・ガーナーの注意をそらす様な出来事が起こったり、誰かが執拗に話しかけるなどの邪魔をしてたら、「ミスティ」はこの世界に誕生してなかったかも知れないなんて思うと、この曲を聴く時に偶然が生み出した奇跡に似た何かが「ミスティ」とともに木霊の様に耳に届いてくるのも感じ取れるかもしれません。

☆ ☆ ☆

エロール・ガーナーがピアノの教育を一切受けなかったということは、ガーナーのピアノにマイナスに働いたどころか、ある種積極的な特徴を与えました。
この人のピアノの最大の特徴は「Behind The Beat(ビハインド・ザ・ビート)」と云われる独特のリズム感にあります。これがエロール・ガーナーのピアノに独特の臨場感を付け加えてます。
どういうものかというと左手のリズムよりも旋律を奏でる右手の動きが僅かに遅く出るという特徴。演奏上の一種の手癖です
こういう特長を持った演奏になったのは、一つにはガーナーが左利きだったということもあるんですけど、本式のピアノ演奏の訓練を受けなかったために左利きという癖も奏法上の矯正を受けなかったし、両手を同じタイミングで使いこなす基礎的なことも学べなかった結果だったんだろうと思います。
普通ならちぐはぐな演奏になってしまう可能性のほうが高いのに、エロール・ガーナーの場合はこのアンバランスさが結果的にはガーナーのピアノに非常に個性的なスウィング感、ドライブ感を付け加えることになりました。

左手は「ビハインド・ザ・ビート」という個性的なスタイルのもとで、左利きという特質がまともに出た、ストライド・ピアノ風の強力なビートを刻んでくるような弾き方を特徴としてたんですが、もう一方の右手の方はどうだったかというと、右手の演奏は力強さにあわせて、歌心とリリシズムに満ち溢れた和音や旋律を奏でていくようなスタイルでした。わたしはエロール・ガーナーの生来持ってるリリシズムは結構好きなほうなんですが、この辺りの力強さとしなやかさのようなダイナミックなコントラストもガーナーのピアノの魅力なんだと思います。

ガーナー1

☆ ☆ ☆

さらに演奏スタイルの特徴として、これは結構目立つと思うんですが、エロール・ガーナーは演奏中に唸ります。メロディに乗せて、その背後でメロディに同調するように唸ってる。このアルバムでも結構盛大に唸り声が聴こえてきます。
演奏中に唸るミュージシャンはピアニストでは割と見かけるような印象です。わたしが今思いつくだけでも、キース・ジャレット、バド・パウエル、セロニアス・モンク、クラシックならグレン・グールドとピアニストばかり頭に浮かんできます。ホーン奏者は口にマウスピースを咥えてるので演奏中に唸るのは不可能なんですが、それ以外の楽器で、たとえばギターなんか演奏しながら唸るのには絶好の楽器だと思うのに、唸りながら演奏する人ってあまり思いつかないです。カート・ローゼンウィンケルが旋律を口ずさみながらギターを弾いてるのを聴いた事が一度だけあって、その時に珍しいなぁと思ったくらいでしょうか。
なぜ唸るのか、本人でない限りその衝動は理解不能でしょうけど、頭の中に渦巻いてる旋律をピアノの鍵盤に移し変えていく最中に思わず声として出てしまうのか、ただ単純に声に出してしまうと楽しいからなのか。
一つ云えることはこのタイプの演奏家は自分が声を出すことが演奏にとって邪魔にはなってないと考えてるんだろうなと類推できることです。完成した音よりもその場で音を引き出してる行為の方が重要だと思ってるような感じ。でもなぜピアニストにこのタイプの人が多いのかはやっぱりよく分からないです。

☆ ☆ ☆

それと目立つ特徴としてもう一つ。
エロール・ガーナーは本当に楽しそうにピアノを弾きます。演奏中に鍵盤とその上の自分の手元を見てるよりも、演奏しながら楽しそうに客席を眺めてる時間のほうが多いんじゃないかという、そんな演奏スタイルのピアニストでした。ビル・エヴァンスのように深く俯いて沈思していくのとは全く正反対。客席の方に顔を向けてはニコニコしてる。
何だか客席に向かって「みんな、楽しんでる?」っていうようなことを語りかけてるようで、陽気で楽しい音楽を追い求めたミュージシャンの演奏スタイルとして妙に納得できたりします。

演奏中のエロール・ガーナーの動画があったので。曲はこのアルバムとは関係ないんですけど、演奏スタイルがどういうものだったかはよく分かります。
それにしても、チャーミングな演奏♪

Jeannine ( I dream of lilac time )


☆ ☆ ☆

アルバム「Concert By The Sea」に収められてる、1955年の9月19日にカーメルの公会堂で開催されたコンサートの曲目は次のようなものでした。

1. I'll Remember April
2. Teach Me Tonight
3. Mambo Carmel
4. Autumn Leaves
5. It's All Right with Me
6. Red Top
7. April in Paris
8. They Can't Take That Away from Me
9. How Could You Do a Thing Like That to Me
10. Where or When
11. Erroll's Theme

邦題はこんな感じです。

1. 四月の想い出
2. ティーチ・ミー・トゥナイト
3. マンボ・カーメル
4. 枯葉
5. イッツ・オールライト・ウィズ・ミー
6. レッド・トップ
7. パリの四月
8. 私からは奪えない
9. つれない仕打ち
10. いつか,どこかで
11. エロールのテーマ

この日の楽器構成はベースにEddie Calhoun、ドラムにDenzil Bestというシンプルなトリオ構成。エロール・ガーナーは規模の大きい編成は好まなかったそうで、この演奏形態もそういう嗜好にあってるようです。
曲のプログラムはジャズやポピュラーのスタンダードを中心にして「3」のようなオリジナル曲を混ぜてるような構成になってます。

最初の曲「I'll Remember April」はアボット/コステロ・コンビが出演した1942年の映画「Ride 'Em Cowboy」に使われたGene de Paulの曲。
わたしは「想い出」なんていう言葉がつけられてるだけでしっとりしたバラードを思い浮かべるんですが、これは結構軽やかな曲です。「四月」という季節に相応しい明るく、暖かい気分に満ちた曲。
エロール・ガーナーはこの最初の曲の出だしから、ミディアムアップテンポ寄りのスピードでブロックコードを強く繰り出していきます。様子探りのウォームアップなんか全然眼中にないという感じで、いきなりのハイテンションでコンサートは始まるわけですが、この最初の曲がエロール・ガーナーのピアノがどんなものか即座に分かるような紹介を兼ねてるような感じです。

2曲目の「Teach Me Tonight」は、これもGene de Paulの曲。
最初は全く売れなかったのがDe Castro Sistersが歌うことで徐々に広まっていき、Jo Staffordの歌で大ヒット。
色々取り上げられることのあるスタンダード曲ですが、わたしはこの曲のガーナー風の処理も結構好き。テンポはミディアムくらい、歩く歩調に合わせたくらいのスピードで進んでいきます。De Castro Sistersが歌ってるようなのを聴くと、ちょっとゴージャスな印象があるんですけど、ここではリラックスした感じの弾き方で紡がれるシングルトーンの旋律が、歌心に溢れていてなかなか心地いい感じです。

3曲目はエロール・ガーナーのオリジナル。タイトルでも分かるように若干ラテンのテイストが入ってます。でもほんの僅か。ラテンものだと思って聴くと拍子抜けするかもしれません。この曲で再びアップテンポに戻って、終盤で2つのメロディラインが縒り合わさっていくような複雑な動きをするのが面白いです。エロール・ガーナーは左右の手で、異なった旋律を同時に弾く事も出来て、この最後の絡み合うメロディはおそらくそういうやり方で演奏してるのだと思います。

次の曲がわたしの大好きな「枯葉」。1945年にJoseph Kosmaが作った超有名曲です。マルセル・カルネ監督の映画「夜の門」でイヴ・モンタンが歌ったのが今知られるこの曲の、歌曲としての原型らしいんですがこれはあまりヒットしなくて、後にジュリエット・グレコが歌うことで一般に知られることになります。このコンサートでは始めてバラードらしいバラードの登場となる曲です。
「枯葉」は有名曲なので、いろいろ演奏されたものが残ってます。ジャズで一番有名な「枯葉」の演奏といえば、マイルス・デイヴィスがアルバム「サムシング・エルス」に残したものになるんでしょうか。
ビル・エヴァンスも銀行員風のファッションが衝撃的なアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ」でこの曲を演奏してます。わたしはビル・エヴァンスの「枯葉」はスコット・ラファロ、ポール・モチアンとの三つ巴のインタープレイがスリリングで結構好きなんですが、何故だかマイルス・デイヴィスの「枯葉」はあまりピンと来ないです。出だしのフレーズからして肌に合わない雰囲気があるというか。マイルス・デイヴィスは電化マイルスの頃の演奏なんか大好きなんですけど、マイルス版「枯葉」のイメージはわたしの持ってる「枯葉」のイメージの範疇には入ってないという感じが強いです。
この「コンサート・バイ・ザ・シー」でのエロール・ガーナーの「枯葉」はといえば、一般的な「枯葉」のイメージは冷たさの混じりだした秋の風が吹く中をちらほらと枯葉が舞い降りてくるような、ちょっと寂しい感じの光景だろうと思うんですが、おそらくこういうイメージのものとはかなり異なった印象を与えることになると思います。
エロール・ガーナーが演奏すると、このメランコリーにつつまれた曲でさえもどこか明るい光が差し込んでるような、春の暖かい陽光が肌のどこかに射して来てるような感触が紛れ込んでくる感じがします。
全体の感じを一言で云うなら「絢爛豪華」とでもなりそう。他の曲同様にこの曲も強弱つけたメリハリのある演奏で、ブロックコードでオーケストラ的な厚みを出してるところなんか、2〜3枚の枯葉がひらひらと舞い落ちてくるというよりも、何十枚もの枯葉が山のように頭上に雪崩れ落ちてきては、風に乗って周囲で乱舞してるような感じにさえ聴こえるかもしれません。
また、ダイナミックな演奏だから余計に目だってくるのか、旋律が際立つ部分ではエロール・ガーナーのリリシズムがよく表現された演奏になってます。この「枯葉」に限ったことじゃないんですけど、スケールを羅列するだけの演奏というのではなくて、この人の演奏はピアノが本当によく歌うんですよね。特に「枯葉」は元の旋律が極めて綺麗なので、ころころと気持ちよく転がっていくピアノの音が歌心に満ちたメロディを紡ぎだしていく様はかなり聴き応えがあると思います。

続く5曲目の「It's All Right with Me」もこのアルバムの中では「枯葉」に次いで好きな曲です。Cole Porterが1953年のミュージカル「カンカン」のために作った曲。この曲、タイトルから想像できなくても聴いた瞬間に、どこかで聴いたことがあるって云う人は多いかもしれません。バラードに続いてコントラストをつけるかのように再びのアップテンポの曲の登場となって、疾走感に満ちたガーナーの演奏が楽しめます。

☆ ☆ ☆

このアルバムでわたしが気に入ってる曲は大体前半に集中していて、これは何故かといえば、後半ちょっと飽きてくるというと云い過ぎなんですけど、煽り方がほとんど「ビハインド・ザ・ビート」一つなものだから、聴いてる内にどうしても同じ印象のようなものを聴いてる感じになってくるからなんですよね。
さらに7曲目の「April in Paris」なんかは、このアルバムでは二度目のバラード登場になるんですが、その前に演奏された「枯葉」の印象が強すぎて、かなり損してるような感じになってます。

6曲目の「Red Top」はちょっとユーモラスな感じの曲、9曲目の「How Could You Do a Thing Like That to Me」の洒脱な感じのものとともに軽妙さをアルバムにもたらすような構成も考えられてはいるんですが、全体の印象としては前半部分よりもやはり若干弱い感じがします。

11曲目は「ただ今の演奏はエロール・ガーナー・トリオでした!」っていう感じの纏め的な短い演奏で、その後司会者が奏者の紹介に入ってコンサートの幕が下ろされるという展開になってるので、この日の事実上のラストとなってる曲は10曲目の「Where or When」ということになると思います。

曲そのものの話題とはちょっと離れるんですけど、この「Where or When」を「いつか、どこかで」っていう風に訳した邦題が本当にいいです。短いのに詩的で、いろんな情感やニュアンスを含んでる。原題の「Where or When」はこの邦題が持ってるような詩情やニュアンスを含み持ってるのかどうか、一体どうなんでしょう。
英語圏の人間じゃないので分からないけど、おそらくあまり含まれてないんじゃないかなんて思ったりします。

それはさておき1937年にRichard Rodgersが作曲したこの曲、他の人の演奏ではもう少しゆっくり目のテンポになってると思うんですが、そういう曲をエロール・ガーナーはかなりアップテンポで煽り立てるように弾いていきます。ひょっとしたらこのコンサートの曲の中で1、2を争うくらいハイスピードで。
力強く打ち鳴らされるブロックコードの上を、音数の多い旋律部分が縦横に駆け巡って、印象が薄かったアルバム後半部分を盛り上げていきます。後半部分の曲では最後で本領発揮というか、これが飛びぬけて印象的。考えてみれば、お終い近くなのにこれだけ強く勢いのある演奏が出来る力があるというのはやっぱり凄いことだと思います。

☆ ☆ ☆

ところで「枯葉」が入っていて、それがまたわたしの大好きな演奏の「枯葉」だったりするから、今の季節、「秋」にぴったりと思いついてこのアルバムを選択したわけですけど、改めて聴き通してみると、これはやっぱり「秋」のアルバムじゃないですね。音楽を聴くことの楽しさをそれこそ耳だけじゃなく体全体に呼び起こしてくるような、力強さと輝きに満ちた演奏が並んでいて、「枯葉」は入ってるものの、「秋」というよりもどちらかというと「春」の方が相応しいようなアルバムです。後半部分に「パリの四月」が入ってるし、そもそもCDのスタートする曲が「四月の想い出」なんていう曲で「春」を織り込んでる。
アルバム全体の雰囲気は最初の曲から既に明示されていたっていうことなのでしょうね。


☆ ☆ ☆

オープニング曲の「 I'll Remember April」です。



4曲目のお気に入り。「Autumn Leaves」



エロール・ガーナーのフレーズの作り方は、わたしにはどことなくギターの演奏を思わせるところがあります。チョーキングだとかハンマリングだとかギターを弾くテクニックで出来上がるようなフレーズをピアノのテクニックで弾いてしまってるという感じ。この曲の旋律の弾き方でもそういう感じを受けるんですがそんな感じを受けるのはわたしだけなのかな。わたしはそういう弾き方がある種ブルージーな感覚をガーナーの演奏に付け加えてるような気がしてます。

5曲目のこれまたお気に入りの「It's All Right With Me」





☆ ☆ ☆


CONCERT BY THE SEACONCERT BY THE SEA
(2009/03/07)
ERROLL GARNER TRIO

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☆ ☆ ☆



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【洋画】 クローバーフィールド / HAKAISHA − 倒立する映画

この映画、京都での公開はチョコレートファイターと同じムービックス京都だったんですが、劇場公開が始まる前から、とにかく謎めいたポスターが劇場の内部や外壁に貼られていて、その得体の知れない光景がちょっとした興味を引いていました。
貼られていたポスターは全体がグリーンで統一された、グリーンといっても新緑のような溌剌としたものでもなく、まるで水底を藻で覆い尽くされた沼のような淀みのある、映画のポスターにしては沈んだ色調で、そういう陰鬱な緑を基調に首のもげた自由の女神と遠くで煙を上げてるニューヨークの風景が描かれていて、その不吉な予兆に満ちた画像にクローバーフィールドという謎めいたタイトルが重ねてあるというものでした。

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華やかに目を引くようなポスターに混じって、淀んだような雰囲気である意味目立ってたクローバーフィールドのポスター。
そして、これはよく覚えてないのでわたしの勘違いの可能性も高いんですけど、その謎めいたポスターには上映開始前からだったか、気を引く注意書きが添えられていた記憶があります。元からそういうのが付いてたポスターだったのか、劇場側がポスターの上に独自に貼り付けたものだったのか、正確な文章は覚えてないんですが、意味としては前代未聞の映像とか未曾有の躍動感とか、そういう煽り文句が踊り、気分が悪くなる可能性かあるだとか、体調の悪い人は気をつけろといった脅し文句のようなものを織り交ぜた感じの文章だったと思います。
どういう映画なのか予測させないポスターとそれに気を引かれて前に立った人間の好奇心を煽るような注意書きに似た文章。だいたいわたしはホラーでもSFでも何でも良いですけど、とにかく見たこともない光景を見せてくれるというような映画が大好きなので、前代未聞だとかそういう類のことを云われるとそれだけで興味津々になってしまいます。だからこの映画の場合もポスターを見てかなり興味を惹かれることになりました。
ただ、気分が悪くなるとかいう注意はなんだろうと、そういう疑問が出てきたのも確かだったんですが、でもこれは全てが謎につつまれてていたとしても薄々予想がついてました。

それで情報が解禁されてみればやっぱり予想していたとおり、「クローバーフィールド」は全編ハンディカムの揺れまくる画面で最後まで突っ切ってしまう映画で、これを躍動感と表現していたということ。気分が悪くなるっていうのは画面の激しい動きに酔ってしまうっていうことでした。
これが分かった時点で、内容も物凄く謎めいていて映画自体はとても観たかったんですけど、わたしには到底無理と、結局映画館には足を運びませんでした。

実はわたしはこういう「酔い」にはかなり弱い体質。
たとえば3Dのゲーム「サイレントヒル」なんかでもかなり簡単に酔ってしまう。昔のゲームだったら「クーロンズ・ゲート」なんかも始末に終えないくらい酔ってました。自慢じゃないけど京都の市バスに乗っていて酔ったことさえあります。ようするに目の前の光景が揺れるという状況に簡単に耐え切れなくなるタイプの人間っていう事になるわけです。まず映画は耐えられないだろうと、視野を覆う大画面が嫌というほど揺れてたら限界点なんかあっという間にやってくるのは簡単に予測できました。

内容に興味はあったのにそういう要素があったために映画館に出向く決心がつかず、決心がつかないままにやがて上映終了。
そのうち暫らくしてDVDがリリースされることになるんですが、これを見てやはり映画の内容を知りたかったということが動機としてはわたしの中に強くあったせいか、中古ショップで安値で売られてるのを見た時に、結局耐えられるかどうか分からないまま思わず購入してしまいました。

それでも気分が悪くなるかもしれないと分かっていて観るのはなかなか気が進まずにDVDは買ったものの放置状態だったんですが、中身を知りたいという欲求がこのところなぜか強くなってきて、それで今回とうとう観ることにしてみたわけです。

一種の人体実験のような映画鑑賞になりました。
絶対に全編通して観られないのはほぼ分かりきっていたので、10分ほど観ては休憩する形で鑑賞開始!

結果から云うと、この映画鑑賞はほとんど拷問でした。10数分でふらふら。実は暫らく休憩したら続きを観られると思ってたんですが続けてみる勇気がなくなるほど気分悪くなっていく予感がしてきたので、映画の最初の方は次の10分を観るのに翌日廻しにしたりして鑑賞しました。

さすがに最後の方は体が慣れてきたのか、激しく揺れる画面でも視線を滑らせる術を会得してきたのか、それほど中断もせずに何とか見終えることができたんですが、酔う体質の人間にとってはこの映画、確実に凶器のような映画です。

☆ ☆ ☆

さて、この映画を観てわたしの身体が呟いた感想に耳を傾けてみれば、それは上で書いたように「酔う」「拷問」「凶器」といったもので、映画が与える印象としては身体的には必ずしも良いと云えるようなものではなかったんですが、だからといってわたしにとって「クローバーフィールド」が屑のような映画だったかというと、実はこの映画、観終わった後でわたしのなかで「屑」だとか「最低」だとか、必ずしもそういう落ち着き方をした映画でもなかったです。
酔って気分最悪で観てたのに、観終わった感想は意外というか予想をはるかに超えて面白かったというものでした。
年間ベストとかワーストとかの括り方があれば、それのどちらに入れるかと考えてみると、間違いなくベストの枠組みに入れてしまえる、決してワーストの枠組みで最悪を競うランキングに参入する映画じゃなく、ベストの枠組みに入ってそのベストの枠組みの中で順位を競える映画だと思いました。

この映画、表現しようとしてることはただ一つです。普通なら映画が内包するはずの様々な要素の大半がこの映画では蔑ろにされてるように見えるくらい、唯一つのことしか表現しようとしてない。そしてこの一つのことに徹底して拘って、その表現内容を画面の中に定着、実現させることに見事に成功してしまってる。表現しようとしてるものを、理想的な形で画面に定着させることが出来ているという理由だけでこの映画は成功した映画と考えることが出来ると、わたしには思えました。
たとえばこの映画にも普通の映画のように登場人物がいて、この登場人物たちが動くことで物語が進んでいく形を取ってるものの、動き回る理由付けくらいは画面に提示されてはいても、面白いほど人間の内面描写的なものは無視されています。人を描写することが、この映画が目的とするものじゃないからという、ただ一つの強力な理由のもとで。
だからこの映画に「人が描けてない」という理由で低評価を与えるっていうのは全くの方向違いというか、ナンセンスな行為になってしまいます。たとえるなら、目の前に美味しそうな「うな重」があるのに、それを指して「カレーの味がしない」と云って難癖をつけてる様なものです。最初からカレー味にするつもりもないものに対してカレー味じゃないといっても全く意味がないのと同じこと。
おそらく「クローバーフィールド」は自分に向けられる貶し、低評価の大半をこういう形でかわし切ってしまえる映画として成立してると思われます。

☆ ☆ ☆

映画はこれから画面に展開される映像の素性を記した文章で始まります。
合衆国、国防省の名前が記された、デジタル記録、事件目撃記録と題された識別用のテロップ映像。
それはかつてセントラルパークと呼ばれた場所の瓦礫の中から発見されたビデオカメラの中に収められていた映像記録であると、そしてクローバーフィールドという暗号名で呼ばれてる資料であると、そういうことが知らされて、映画が始まります。

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最初に映るのは早朝、画面左下に表示されてる時刻で云うと4月27日の午前6時40分の、とある高層ビルのマンションの一室。べス(オデット・ユーストマン)の父親のマンションで、その室内を撮影してるのはビデオカメラの持ち主でべスの恋人のロブ(マイケル・スタール=デヴィッド)。ロブはカメラで室内を移動しながら、やがてベッドに眠るべスを捉えます。カメラの気配に気づいて起き出したベスとコニーアイランドへ遊びに行く相談なんかしながら、二人でじゃれ合ってるようなプライベートな映像が暫らく続きます。
その後映像は唐突に切り替わって、左下の日付は5月22日午後6時43分に変化。ほぼ一ヵ月後のものに飛びます。収められてる映像はマンションの中ではなく今度はニューヨークの街角を歩きながら写してるものに変化。撮影者はロブの兄ジェイソン(マイク・ヴォーゲル)。ジェイソンの前を歩くのは婚約者のリリー(ジェシカ・ルーカス)で話からするとどうやら2時間後に何かのパーティがあってその準備の買い物に出かけてるらしい。
5月22日のこの映像は4月27日のロブとべスがじゃれあってる日に撮ったものの上に上書きされているらしくて、映像のつなぎ目に時折一ヶ月前の映像が一瞬顔を出すことがあります。
映画を構成してるものが上書きされてる映像だという設定はこの映画の一種のギミックで、素人が撮ってるビデオカメラの映像という感じがよく出てました。簡単な発想なんだけど、その単純な発想の割りに効果は大きかったように思います。実はラストもこの上書き映像としての映画という仕掛けをうまく使った終わり方になってました。

買い物の後映像は同日の7時20分にジャンプ。カメラはパーティ会場となったマンションの一室でパーティの飾りつけが進む中、その飾り付けを手伝ってる一人の男ハッド(T・J・ミラー)に近づいていきます。カメラの外からジェイソンの声でハッドにパーティのカメラマンをするように頼んでるのが聞こえて来ます。ハッドは最初はそんなことやったことがないからと断るんですが、片思いの女マリーナ(リジー・キャプラン)もパーティにやってくるとジェイソンに教えられてカメラマン役を引き受けることに。そしてこれ以後ほぼ映画の最後まで、映画の視点はビデオカメラを抱えてるこのハッドということになり、観客はハッドが観ていく世界の様相を一緒に体験することになります。

パーティーはロブが仕事で日本へ赴任する送別会で、ハッドはリリーやジェイソン相手に少し練習した後でパーティー会場にやって来てる客の間を歩き回っては客からのロブへのメッセージを映像として記録していきます。やがて主賓のロブがやってきてパーティはさらに佳境に入り、ハッドもまた大勢の客からメッセージを取ってくることに奔走することになります。ロブの恋人、冒頭のビデオの一部で出てきたべスもやってきますが、どうやらこの一ヶ月の間ロブが放りっ放しにしておいたせいでべスは別のボーイフレンドと連れ添ってます。

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そのことでパーティーの最中ロブとべスは険悪な状態になってしまい、べスのほうは早々とパーティーを抜け出して自宅のマンションに帰ってしまいます。
ジェイソンとハッドは兄弟と友達という立場でロブを慰めるために非常階段のほうに頭を冷やしに行ったロブを追いかけます。
非常階段の踊り場でべスのような女はなかなかいないから大事にしてやれとか宥めたり説得したりしてる時、突然の大音響とともに電気が消え地響きを伴って地震のように建物が揺れます。

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会場に戻って地震かと騒いでる客とともに屋上に出てみると、遠くのビル街で大爆発が起き、屋上に集まっていたパーティ客は我先に階段を駆け下りて、そのまま大慌てで全員建物から避難して路上へ。何事が起こったのか分からないままにビデオカメラを遠くのビルに向けると、ビルの背後に巨大な生き物のような姿が垣間見えて、それがニューヨークのビル街を破壊し始めているのを目撃することになります。

☆ ☆ ☆

映画は一言で云うと怪獣映画です。巨大なモンスターが暴れてニューヨークの街を破壊していく、極めてオーソドックスでシンプルなゴジラタイプの怪獣映画。
ただ従来の怪獣映画と「クローバーフィールド」が決定的に違うのが「クローバーフィールド」のほうは怪獣が町を破壊していく様子を、その直下で命がけで逃げ回ってる人間の視点で描写しようとしてること。
普通怪獣映画といえば破壊を尽くす怪獣を前にしてその巨大な力に立ち向かっていく人間のドラマとしても成立させることが出来るけれど、これはそういう立場をとっていません。巨大モンスターの間近に居合わすことで体験する、周囲の世界が理不尽で予測もしない巨大な力で崩壊していくヴィジョンや、そのなかを逃げ回る混乱と恐怖感そのものを描くことに専念してます。これがこの映画の表現しようとしてる唯一のテーマで、映画はこれ以外のものには見向きもしてないといえます。
そしてそのテーマを展開するために取られた方法が逃げ回る人間、この映画の場合はたまたまパーティー会場でカメラを渡されたハッドということになるんですが、そういう人間が撮り続けるビデオ映像をそのまま映画として見せるという体裁でした。

たとえばパーティー会場で恋人と喧嘩をしたロブが非常階段のほうに頭を冷やしに行くといったシーン、こういう場面は普通ならロブが頭を冷やしに非常階段に出て行ったという形で画面に収まるんですが、この映画の場合はロブが頭を冷やしに非常階段に出て行くのを見るという形を取ります。この映画は誰かが何かをしたという描写じゃなくて、常に誰かが何かをしたのを見てるという描写の形を取ってる。写してる対象だけじゃなくてその対象を写す写し方そのものも画面に一緒に織り込もうとしてます。
つまりそれはカメラの背後に状況を見ている者、撮影者がいることを絶えず意識させるような構造になってるということであって、そしてその存在を絶えず意識させられることで、映画を観ている側はその撮影者と同化してその現場にいる感覚、臨場感を共有できるようになってくるということです。

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これを端的に表現してるのが、手持ちのビデオカメラで撮影してるように画面を揺らせるという極めてシンプルな演出でした。これはもう極端といっていいほど徹底していて、たとえば逃げ回る途中でカメラマンがカメラを持ったまま転んでしまった時に捉えた偶然の映像もそのまま映画の中に使われたりしてます。この映画はそれに加えてさらに単刀直入に劇中の撮影者ハッドの存在そのものも強調していて、彼はカメラを渡されてからはその背後で画面上は姿を見せない存在となるものの、一人で喋るように饒舌であったり、写されてるロブやリリーと話をしたりすることで何時もそこにいることを示し、さらに自分を忘れるなとでも云いたげにカメラの前に回りこんでレンズを覗き込むようなこともたびたび行ったりします。

もっとも、主観映像的なものを使って撮影者として現場にいるような感覚を観客に体験させるこういう方法は「クローバーフィールド」が最初に使った斬新な方法というわけでも必ずしもなくて、今までに他の映画の中でも使われてます。
一番簡単に思いつくのは「ブレアウィッチ」かな。これも画面が揺れる、わたしが一番苦手にしてる映画でした(白状すると気分悪くて最後まで観てない…)。それでは「ブレアウィッチ」がこの方法を採用した最初の映画かというと、実はさらに「食人族」っていう「ブレアウィッチ」の元ネタらしい映画が80年代初めにあって、これはジャングルで発見されたビデオカメラに収められた映像を見せるという形で、映画の中に手持ちのビデオ映像が展開されていくといった映画でした(これは最後まで観ました。揺れる画面よりも食べるためにでかい亀を解体するシーンのほうがえげつなかったです)。
だから「クローバーフィールド」が使った方法が方法的には必ずしも斬新なものだったというわけでもなかったんですけど、この方法論を持って怪獣映画を撮ったっていうのがこの映画の場合は新機軸だったといえるんじゃないかと思います。この方法を使うことで今まで観たことのない怪獣映画が出来上がったという、その点が斬新だったと。

ところで、手持ちのカメラを駆使して、ぶれた映像を繋いでいくという画面は、先にも書いたように、スクリーンの向こうにある世界を、その場には存在しないカメラを通して、神の目のように眺めてるのではなくて、スクリーンに写る現場には実際にその光景を写すカメラが存在して、そのカメラを覗き込む撮影者と一体になることでカメラが写しとってる世界の真っ只中にいるという感覚を共有する、ライブ感覚に満ち溢れた映像とでもいうようなものなんですが、この映画のそういう映像ってドキュメンタリー的な映像というか、もうちょっと身も蓋も無い言い方をしてみるとドキュメンタリーを偽装してる映画のような感じがあるんですよね。
画面効果として一番目につく激しく揺れ動く映像以外でも、細部の、たとえば左下に入る日付の表示とか、とにかく画面を構成するあらゆるものあらゆる演出が、こうすればドキュメンタリー風の生々しい映像になるという意図、戦略で画策されて画面全体を構成、仕上げる形になってる。
ちょっと直接的には関係ない話になるかもしれないけど、映画の始まりから暫らくの間左下に結構大きく表示されてる撮影時の日付はプライベートビデオ風のイメージをスクリーン全体に与えるのに効果的な役割を果たしてるんですが、映画の最後まで出しておく程の意味はない。というか画面を構成するものとしては結構邪魔なので、プライベートビデオ風の印象を観客に与えたと判断され、もう一つは撮影者が変わったりパーティ当日に日時が予告なくジャンプするのを説明したりする役割を終えた時点でスクリーンから消してしまいます。でもこの消し方が上手くておそらく消えた瞬間が印象に残った人はまずいないだろうと。それほどさりげなく画面から消し去ってます。この辺の必要な部分だけ提示して必要なくなったら画面からさりげなく退場させるというような効率的な計算は、写される光景が無秩序そのものであるのも関わらず、映画全体から細部にいたるまで十分になされてるような印象を受けました。

話を戻すと、この映画はニューヨークの高層ビルを破壊しながら彷徨するモンスターとその直下を逃げ惑う人、モンスターに立ち向かう軍隊の個々の兵士レベルでの様子をドキュメンタリー風に映し出しながら、ドキュメンタリー的に映像を撮るとはどういうことなのかということについて映画自体が自己言及してるような体裁をとってる映画だという風に見えます。ドキュメンタリーの偽装という文脈で云えば、どういう風に偽装(撮影、演出)すればドキュメンタリーのような振りをすることが出来るか、映画の中でたえす検証しながら進行してる映画といった感じ。
思うに現実をそのまま撮り続けてもドキュメンタリーにはならないということ、ドキュメンタリーはドキュメンタリーの文法によって語られなければドキュメンタリーとしては成立しないということ。そういうことが「クローバーフィールド」でハッドが捉える修羅場の映像に見え隠れしながらこちらへささやきかけるように届いてくるんですよね。
実は虚構とは一体どういうものなのかとか、ドキュメンタリーを成立させる文法というものが一体どういうものだとか、そういうことは普段は全部映画の背後に隠されてるものです。隠された上で自明の理として無条件で共有されてる。この映画はそういう自明の物として映画の背後に隠されてるのものを、逐一対象化して目の前に並べていきます。云うならば語られるものとそれを語る方法論が同じレベルで目の前に見える形で並置されていく二重構造を持った映画。
「クローバーフィールド」は語られる内容の臨場感も見物だったんですけど、こういう語り口について意識化させ、映画という存在そのものに目を向けさせ考えさせるような二重構造を最初から最後まで徹底して保持していている点、その徹底振りがなかなか新鮮な映画でもありました。

☆ ☆ ☆

巨大モンスターに蹂躙されていく都市の混乱、その混乱を混乱そのものとしてフィルムに定着させる、これが「クローバーフィールド」のたった一つのテーマなわけですが、ちょっと考えて見ると、こういう映像ってたとえば避難者が走り回ってる街路の瓦礫の上にでもカメラを置いておき、その前を逃げ惑ってる人を写してるだけでも実現できそうな感じがします。カメラの前にあるのはまさしく誰も手を加えない混乱そのものであるし、その場所をそのまま写してる訳だからこれほどリアルなものもないわけです。巨大モンスターが踏み下ろす足が伝える地響きでカメラが道に転げ落ち、逆さになったような映像がそのまま続くなんていうことがあればさらにアクセントになって臨場感も跳ね上がるかもしれません。
でも、これを実際にやったとしたら、まぁ想像するまでもなく、おそらく10分も観れば耐えられないほど退屈な代物になるはずです。なぜかって云うと臨場感のある定点観測の映像ではあるかもしれないけど、これは映画では決してありえないから。映画として語ることを放棄してるからなんですよね。映画は映画として語られることでしか映画にはならないです。

ストーリー的な側面からみると、製作者がそういうことを考えてたかどうかは実際のところわからないけど、結果として「クローバーフィールド」のストーリーは極めてシンプルで、こういう定点観測的な映像のあり方と、映画的に語られる映像のあり方のはざまを渡り歩くように、どちらかというと定点観測的な方向に体の重心を傾けながら進んでいくようなつくり方になってます。
ストーリー的な語り口を楽しみにしてる観客が観ると、こういう立脚地点を探る「クローバーフィールド」のストーリーはおそらく拍子抜けするほど単純で物足りなく感じるかもしれないです。

パーティー会場から避難して路上に出たパーティー客たちを巨大モンスターからの一撃が襲います。その一撃の後、半ば瓦礫と化した一帯からパーティーの客も含めて生き延びた人が集まりだし、安全と思われる地区に向けて大移動を始めるんですが、地区を結ぶ橋の上(ブルックリン橋?)まで来て混雑してる避難者のせいでなかなか進めないところへさらにモンスターの体の一部らしいものが振り下ろされて橋は崩壊、その時点で一群だった避難者の集団はちりぢりばらばらになってしまいます。
カメラを持つハッドの前に残ってるのは、パーティーの主賓でカメラの本来の持ち主ロブと、ロブの兄ジェイソンの婚約者であるリリー、リリーの友人でハッドの片思いの相手であるマリーナの3人。

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そこへロブの携帯電話に恋人のべスから連絡が入って、パーティーを途中で抜け出して帰ってしまったべスは自宅の高層マンションが巨大モンスターの襲撃で倒壊し、生きてはいるが怪我をして動けないということを知らせてきます。
それを聞いて、ロブはベスを助けるために、みんなが逃げるのとは逆方向にあるべスの高層マンション、そこは巨大モンスターが暴れまわってる中心地でもあるんですが、そう言う危険地帯に向かうことを決意します。

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実は「クローバーフィールド」でストーリー的な展開というか仕掛けがあるのはこの部分だけです。それまでは誰が集まってるのかも把握できないパーティー会場を引っ張りまわされた挙句、モンスターの襲来でこれまた誰がどこにいるのか分からなくなったままに橋に向けての逃走。そして橋での二回目の襲撃で上に書いたような状態になって、このロブの決断を挟んで後の展開はべスのマンションに向かう間に遭遇する障害を取り払っては進み、取り払っては進みという形の完全な一本道になってしまいます。ストーリー的な動き方をした思われるのはこの決断の部分だけ。

ストーリーを追うことを楽しみにしていたら肩透かしを食らうのは必定の単純なストーリー・ラインなんですが、それでもこの映画に関して云えばおそらく最も適した仕上がりになってるのではないかと思います。ストーリーの展開に関する選択では「クローバーフィールド」は間違った選択はしてないです。

スト−リーを物語るって云うのは云い換えてみれば、秩序への志向です。乱雑で意味もなく目の前に転がってる世界に秩序を与え、意味として理解できるものへ変貌させようとする意思と云ってもいいかもしれない。こういうものに「混乱」を任せてしまうと、「混乱」は「混乱」そのものではなくなってしまうんですよね。語られた「混乱」「混沌」は語られることでどこかに秩序の枷をはめられてしまいます。
だから「クローバーフィールド」は定点観測映像に堕さないように映画的な語りを必要とするものの、その唯一のテーマを実現させるためには、十全に語ってしまって秩序としての「混沌」しか画面に定着させることが出来なくなるのも避ける必要があった。だからテーマのためにストーリー的なストーリーからは何歩も退く必要があったんじゃないかと思います。

べスのマンションに向かうことにしてからの展開は本当に文字通り一本道です。幾重にも伏線を張って、その伏線を鮮やかに回収して観客を驚かせることも何もしない。伏線を張るというようなことさえほとんどしてないです。
たとえば、中心地に向かう途中で巨大モンスターと対峙してる軍の前哨基地にたどり着くシーンがあります。

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民間人がここから先に入るのは絶対に阻止するのが軍の役目の一つでもあるから、当然ロブたちはここで足止めを食うわけですが、普通だと絶対に通れない関門をロブたちがいかにして潜り抜けるかという展開になりそうなものを、この映画の軍隊は最初こそ止めようとするものの、事情を話せば結構あっさりと関門を通してしまいます。救助ヘリが着陸する場所と時間を教えて、間に合うように帰ってこいと声をかけただけで、護衛もなしに巨大モンスターが暴れてる真っ只中にロブたちを放り出してしまいます。関門を通るためのストーリー展開を助けるために、それまでになんらかの伏線を張って、どうにかするというような形は取らないんですよね。まるでこういう場合、中心地に行くには必ず軍の検問があるから検問のシーンは入れておくけど、それだけの意味しかないシーンなんだと宣言してるみたいな感じ。
伏線を複雑に張り巡らせて構築していく物語が自ずと体現していく安定感のある秩序とは無縁の場所で映画を成立させようとする意図、そういう意図はこういうところでも垣間見ることが出来るような気がします。
だからわたしは前哨基地でのこういう展開は現実的にはリアリティはほとんどないんだろうけど、少なくともこの映画の目的には合致してるような印象を持ちました。
それと、この物語ともいえないようなミニマリズムのシナリオは、唯一の物語的な展開になってるべスのマンションに向かう決断のシーンで登場人物をパーティー客全員から一気に4人+べスに整理してしまうような荒業を使っていて、この辺りの動かし方にはまるで作意がないように見せかけてはいるものの実はかなり上手いところがあるような感じもします。

☆ ☆ ☆

人物描写に関しても事情はよく似ていて、最初の方にも書いたように、ストーリーのミニマリズムに歩調でもあわせるように、これもまた最小限の描写しかなされてません。

最初の送別パーティの、映画全体のバランスから見ると妙に長いシーンで各登場人物の基本的な人間関係、それぞれがおかれてる生活の状況といったことがごく簡単に説明されます。
ロブは、何の会社かは説明されないけど副社長として日本の会社に赴任するらしく、そのことに関係して恋人べスともう一つうまくいってないところが出て来てる。兄ジェイソンに関しては婚約者リリーがいるということと、ロブとはごく普通のどこにでもいる兄弟で、この兄弟に固有の特殊な確執のようなものがあるわけでもない、仲の良い兄弟であるということ。リリーは兄の婚約者として将来の義弟となるロブを気にかけてる。マリーンは友達が来てるからやってきたものの、主賓のロブのことさえもろくに知らないらしい。
冒頭の編集してない録画しっぱなしのように見せてるパーティーシーンで主要な人物について示されるのはこの程度のことで、その後人に関する描写はほぼその範囲から拡がったり深まったりするわけでもなく、映画のなかではパーティ会場をカメラを持ったハッドが無作為に動き回るだけで、やがてモンスターの攻撃が始まると後は画面に出てくる人間全員が逃走モードに突入して、人物の描写など完全に脇に追いやられたような形になっていきます。
おそらくこの映画を見た人のほとんどが最初のパーティシーンで得た人物への印象だけで最後まで行き着いてしまうんじゃないかと思います。

物語的な転回点であった橋崩壊後のロブの決断、恋人べスを助けるために、安全と思われる場所に向かう避難者の一群とは逆方向に進むという決断をするシーンでも、ロブは動機としてはたったそれだけでもまぁ分からないでもないけど、それに従う決断をする他の登場人物の動機なんかは、各人のそれこそ命に関わる選択になるわけだから、おそらく普通の映画だったら事細かに描いてその決断が不自然でないように持って行くだろうと思うんですが、この映画はこういう部分もとにかくミニマリズムに徹していて、たとえばリリーはロブが義弟になる人物だからそばにいなければならないという理由、マリーナはリリーが友達で他に頼れる人物が周囲に見当たらないといったたったそれだけの理由で、ロブについていくリリーにつき従うという形になります。ハッドは明言はされないけどおそらく片思いのマリーナの行く方向に付き従ってるという感じ。各人の行動への決断は納得できるか出来ないかの境界線上にあるというか、そういう感じのごくシンプルな理由付けしかされてません。

また、ハッドに関しては映画の最初からこの修羅場をビデオにとり続けてるという行為自体にかなり不自然で突っ込みどころがあるように見えるんですが、実は橋が崩壊する直前に橋の上で進めなくなって佇んでるロブが「まだ撮るのか?」とハッドに訊くシーンがさりげなく挿入されていて、「撮る」「言葉じゃ駄目なのか」「見る記録じゃないと駄目なんだ」といった会話が交わされてます。一応ハッドが、誰もが逃げること最優先の場所で1人だけ悠長に撮影し続けてる動機めいたものも提示されてる部分があるわけです。
基本的に人物を描くのが目的ではなくて、だから全体的にはミニマリズムに徹してるんですけど、命がかかった選択やこの映画の成立基盤になってるハッドの動機などは、あとで問われた時に最小限の返答ができるようなアリバイ作りみたいな形でさりげなく揃えてある。そういう配慮は随所になされてるような構造になってました。

要所要所で簡単に動機付けするくらいで全体的には人物描写に傾斜しないで終始するというこういうやり方は、普通の映画だとまず間違いなく落第点をつけられてしまでしょうね。でもこの映画はあえてその落第点に直結するような方法を取ってきます。
なぜならこういうやり方が「クローバーフィールド」の趣旨に合ってるから。と云うよりもこういう成立の仕方以外にこの映画の趣旨に合うスタイルはないと思えるから。
どう云うことかというと、撮影者のハッドにとっては被写体のロブたちは既に熟知してる人物なわけで、このビデオを撮影するに当って事細かにどういう人物であるかを描写、表現する必要がハッドに有ったわけがないということです。元々がプライベートなビデオの延長で成り立ってる上に、撮影者ハッドの関心がニューヨークで何が起こってるかを写しとることだけにしかないとなると、ビデオに写ってる人物がどういう人物なのかといった表現はビデオ映像の中に入り込む余地がほとんど無くなります。

わたしがこの映画を観終わった時に持った印象は、言葉で置き換えるならこの記事のタイトルにつけたように「倒立」してるっていうことでした。
普通はおそらく人物描写こそがメインテーマになるし、それが稚拙であったりおざなりであったりすればそれだけで出来の悪い映画という評価を貰ってしまうのはほぼ確実なのに、この映画に関しては普通映画に絶対に必要なテーマである人間描写をやってしまうと、映画の意図したもの、それを映画として成り立たせようとしたものを崩壊させてしまうことになりかねません。
たとえるなら道で偶然拾ったビデオテープを再生した時におそらく感じることが出来るに違いない得体の知れなさのようなものを映画の中のどこかの部分で維持し続けるために、他の映画では普通にやってる、あいまいなものに輪郭をつけていってはっきりと形が分かるようなものにしていく、いわゆる表現行為のかなりの部分を無視する必要があったと。ハッドが撮影したプライベートビデオという体裁をとる映画を成立させるためには、普通に映画を成立させるために必要なものが全く逆に映画を崩壊させかねない要素になってしまうというひねくれた部分が確かに存在していて、そのひねくれた倒立振りがわたしには結構面白いものとして印象に残りました。

☆ ☆ ☆

モンスター映画なので、肝心のモンスターについても思ったことを少しだけ。

この映画には2種類のモンスターが出てきます。ニューヨークの街中を徘徊して高層ビルを破壊しまくる巨大4足歩行モンスターと、中〜大型犬くらいの大きさの昆虫タイプのモンスター。映画の中のニュース映像でちょっと写るくらいでよく分からないけど、虫型のほうは4足歩行モンスターの体から零れ落ちてくるらしい。小型の虫型モンスターを引き連れてるのは平成ガメラの2作目に出てきたレギオンをちょっと思い出させます。
昆虫タイプの方はうじゃうじゃと出てきて人を襲うので、大体の姿かたちはそれなりに分かるような形でスクリーンに登場しますが、巨大な方は実は一箇所を除いてあまり姿かたちが分かるような形でスクリーンに登場しません。ビルの背後で這い回ってる気配とか、そういう描写が中心になってます。
モンスターが近づいてきたら、ロブたちには逃げ去るしか選択肢がないから、逃げるハッドのカメラはモンスターとは反対側を向いてる場合がほとんどで、モンスターをきちんと捉えることもなかなか出来ないっていうわけです。

モンスター映画の場合わたしは基本的にはモンスターは見せない方が良いと思う部分もあるんですが、見せきらないと駄目なものもあって、たとえは「遊星からの物体X」なんかはモンスターを見せきって成功した映画だと思います。あれはグロテスクに変形するモンスターを見せないと映画そのものに意味がなくなってしまいます。
逆に「クローバーフィールド」に登場するモンスターの場合は「物体X」とは違って見せない方が良いタイプ。いろんな選択をこの映画はしてるけど、この点でもこの映画の選択は正解だったように思います。

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視覚面だけではなくて、モンスターに関するさまざまな情報も見た目と同じくらいほとんど映画には出てきません。モンスターについて何か書こうと思ってあらためて映画を見渡してみても、実は何も書くことがないと気づくくらいに情報が極端に制限されてます。
たとえば一つ一つの情報は断片的でそれだけでは全然意味を成さないようなものであっても、様々な手がかりが映画の中に散りばめられていて、たとえ映画が明確に説明しなくても、観客がそういう散りばめられた手がかりを参考にしながら推理してモンスターの真相に辿り着けるといった、そういう構成にもされてません。
ニューヨークを破壊する巨大モンスターに関してはどこからやってきて、どういう生き物で、なぜニューヨークを破壊してるのか、人を襲う虫型モンスターは巨大4足歩行モンスターにとっては一体どういう関係にある生き物なのか、そういったことが何も分からないままに放置された状態で映画は進行し、終わってしまいます。見終わって振り返ったら吃驚しますよ。今まで観て来たものが何だったのか全然理解できてないことに。

「クローバーフィールド」はこういう風に普通だったらちょっと考えられないくらい、映画の主役でもあるモンスターの正体について何も分からない状態を維持し続ける映画なんですが、でも考えてみれば、この映画の設定だとこういう状態はごく当たり前のことなんですよね。直下を逃げ回ってるハッドやロブたちには情報を得る手段がないから、ハッドが取り続けるビデオ映像にモンスターに関する情報が整理されて入ってるわけがないということ。
映画の中では混乱してる街中の電器屋が火事場泥棒にあってるシーンで、店内の商品である展示モニターに流れるニュースからと、中心地に向かう途中で遭遇する軍の基地くらいが情報を得られるシーンだったんですが、状況を覆い尽くす混乱の方が大きくて、両方とも情報としては断片的なものを得られるだけのシーンとなり、やはりロブたちはモンスターに関してはほとんど何も知りようがない状態で行動し続ける以外になくなります。
映画の主要な部分に関して、登場人物に何も知らせない、観客にもほとんど情報を与えないっていうストーリー上のこういう選択。これは物語を形作るって云う点では極めて大胆ではあるものの、混乱を画面に映し出すというテーマからは必然の選択だったと思います。

☆ ☆ ☆

「クローバーフィールド」は瓦礫の下から発見されたビデオカメラの映像という形を取ってる映画の性質上、有名俳優、ちょっとでも顔を知られてるような俳優は使うわけにはいかずに、出てくる俳優はみんなほぼ無名という、どうもあまりお金がかかってない映画のように思える映画だったんですけど、視覚効果に関してはかなり出来が良い仕上がりになってました。

纏めてみれば「クローバーフィールド」は怪獣映画という非現実で、ありえない世界を構築するために、大半の部分を視覚効果に寄りかかって成立してる映画です。今まで人間描写だとかストーリーテリングだとか色々書いてきたけど、結局のところこれがちゃちだとそんなこと全部ひっくるめて映画全体が崩壊しかねない側面も持ってる。
だから「クローバーフィールド」はそういうことを十分に承知の上で視覚効果に最大限の試行を重ねていってます。それは映画を一目観ただけで歴然として分かるほどに。その結果としてある部分では以降の映画はこれを基準にしなければならなくなるんじゃないかっていうくらい革新的レベルをクリアするようなところにまで到達しています。俳優に使わなくて済んだ予算をすべて映像技術面につぎ込んだと思わせるくらい、この映画の視覚効果は本当に素晴らしい出来を誇ってました。

最初のモンスターの一撃で、パーティ会場から路上に出てきた人に向かって、引きちぎられた自由の女神の首が飛んでくるシーンから、度肝を抜かれます。この場面はこの映画での一番のスペクタクルシーンじゃないかと思えるくらい、派手で凶悪で印象深いシーンになってます。
こんな非現実的なシーンなのに、現実感という点では文句のない出来栄え。路上の自動車を破壊しながらこちらに転がり飛んでくるこの自由の女神の首の巨大さは十分に表現されてるし、その回りに集まってきた人が、まだ何が起こってるのか今一つ理解してないからなのか路上に転がる首を携帯で写真に撮ってるシーンは、回りに群がる人と首の距離感も正確で、人と路上の首は当然合成なんですけど、人とCGIのこの首がきちんと同じ空気の中、同じ空間のなかに存在してる雰囲気も正確に表現されてます。本来別の空間の空気を纏ってるオブジェをまるで同じ場所にあるように見せようとするなら、カメラの位置、画角から細かい照明のニュアンスまで正確に一致させなければならないはずで、そういう部分もパーフェクトにクリアしてるシーンでした。

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空気感といえば、この映画の距離感の表現も突出していて、遠くにある巨大なものの表現も文句なしのリアリティを持ってました。
対象からこちらまでの空間に存在する大気の層のようなもの、「クローバーフィールド」はこれの表現に長けてるんですよね。この大気の分厚い層を上手く表現できると、遠くにあるような見掛けに仕上げることが可能となります。
地震の後パーティ会場の屋上に上がったロブたちがニューヨークの遠くのビルのはざまで大爆発が起きるのを目撃するシーン。この混乱の一夜の始まりの合図になるシーンですが、この時の大爆発からして、見事に遠くで爆発した感じが出てました。

でもこういう画面の質を高めてリアリティを保障していくような合成技術も目を見張る出来ではあるんですが、それよりもわたしが一番びっくりしたのはこの映画が手ぶれの画面に複雑な合成を重ねていくという、とんでもない荒業をやってたことでした。これは本当に凄かった。
カメラがどんなぶれ方をしようとも、合成されていくものが全てそのぶれにぴったりと同期されてます。

そういう組み立てのシーンで一番強烈だったのは、ロブたちが地上は巨大モンスターが暴れまわってるから地下鉄の線路沿いに地下を進んで行こうと決めるシーン。ところが安全だと思って歩いていた地下の線路上で、ロブたちは虫型モンスターの一群に襲われることになります。
この時カメラを持っていたハッドが襲われて、マリーナが助けに入るという展開になるんですが、襲われてる最中のハッドが持つカメラは手ぶれどころの騒ぎではなくてほとんど振り回してる状態。
地下道なので全体を均一に照らす光もなくて、カメラ付属のライトも振り回される中、それだけでも混乱して収拾がつかなくなってるような画面の中に、襲い掛かるモンスターとそのモンスターを打ちのめそうとするマリーナの姿が一緒に入ってくるんですが、これが全然破綻なく合成されて、同じ空間にいることもきちんと伝わってくる画面になってるんですよね。
しかも「クローバーフィールド」はこういうことを程度の差こそあれ映画全体にわたって破綻なくやってしまってるわけで、この映画の手ぶれ画面に全ての要素をマッチムーヴさせた視覚効果は本当に驚異的な出来を見せてました。

この映画、とにかく素人が撮ってる映像だというのをあらゆる場面で表現しようとしてる映画なんですが、こういう表現での「クローバーフィールド」の技術の使い方を見れば、云うならばぶれぶれの素人映像を再現するために、最新で最高の技術を惜しげもなくつぎ込んでるとも云えるわけで、先に書いた人間描写の処理に対して感じたのと同じような「倒立」振りが、ここでもまた見出せるということになります。

☆ ☆ ☆

身体感覚的な攪拌から始まって、充満する「空虚」や事あるごとに目の前に現れる倒立振りなど、複層にわたるような映画的平衡感覚への揺さぶりをかけられて、本当にこれが「映画」なの?っていう風に呆気に取られて観てるうちに、随所に現れる映画的選択のスイッチがことごとく「正解」側に入っていって、見終わったときにはきっちりと映画的な体験であったと納得させられるという、わたしにとって「クローバーフィールド」はそういう珍しい体験をさせてくれた映画でした。

☆ ☆ ☆


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(2009/05/22)
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原題 Cloverfield
制作 J・J・エイブラムス
監督 マット・リーヴス
公開 2008年


クローバーフィールド/HAKAISHA 予告編



お友達のブロガー、ハッピーレオンさんに教えてもらったんですが、来月10月の4日と31日にWOWOWで「クローバーフィールド」が放映されるそうです。

☆ ☆ ☆

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高校野球を見ていて思ったこと 〜 瞼を閉じない世界新記録 〜 しげる色のチョコレート人形

高校野球を見ていてふと思いついたことがあって、高校野球の優勝校って地方予選の試合も含めて全部の試合に勝って始めて優勝の栄冠を勝ち取りますよね。頂点に立つまでにどれくらいの数の試合をしてくるのか知らないけど、優勝校はとにかく全ての試合に勝ってくる。普通に試合をやってるとこれだけ連続で勝つのはちょっと不自然という数を勝ち抜いて決勝まで登ってくるんですが、これを可能にしてるのがトーナメントって云う形式なわけで、考えてみるとトーナメントって随分と変な現象を起こすんだなって、まぁ高校野球を見ながら何となくそんなことを思ってしまったわけです。

高校野球の夏の甲子園の優勝校が勝ち取ってくる勝利数の連続記録くらい普通に試合をこなしていても可能だというなら、話をもっと極端にすればその奇妙さが際立ってきます。
たとえば10000回連続勝利で頂点に立てるようなトーナメントがあったとします。常軌を逸するほどでかいトーナメント表になろうとも、とにかく10000回の連続勝利を要求するトーナメントがあると。
どんなスポーツでも良いんですけど、ただ試合をこなしてるだけで10000回の連続勝利を勝ち取るなんてまず不可能でしょう。10000連勝なんて聞いたこともないし言葉としても違和感有りまくりです。
でもこのトーナメントを実施すると必ず1チームだけは、その驚異的な記録を自動的に達成してしまうことになるんですよね。トーナメントはシステムとして10000連勝というあり得ない現象をたった一つのチームにだけという限定はあるけれども、完全に保障することになります。

もうちょっと考えを拡げて、たとえば集まったチームがすべて、自分たちは絶対に連続で勝ったりはしないと心に誓ってるチーム、連続で勝ちそうになるとどんなに卑劣な手段を使ってでも絶対に負けてやるという決意を持ったチームだったとしても、事情は全く同じ。
トーナメントに組み込まれてしまうことで、そのトーナメントの強固なシステムの力で、必ず1チームだけは不本意かもしれないけれど10000回連続勝利を達成してしまいます。
これ、考えてみると物凄く奇妙だと思いませんか。わたしは凄い変!って思いました。

もちろん実力があって始めて頂点に上り詰めることが出来るということに変わりはないんですけど、このあり得ない連勝数を保障してるある部分は、視点を変えれば、優勝するはずのチーム以外の参加チームの総数という完全な外因によってるんだというのが、さらに奇妙な感じを付け加えてるようです。

☆ ☆ ☆

とまぁ、他の記事を書いてる最中だったんだけど、高校野球をみていてこんなことが頭を過ぎったら、ブログにどうしても書き残したくなってきたので書いてみました。

ついでにいつかこれをブログに載せてみようと思っていたものの,どういう形の記事にしたらいいのかさっぱり思いつかずに、切っ掛けを失いっぱなしで載せられなかった動画をいくつか、残暑見舞い代わりに。
夏バテ気味のところなら、肩が凝らなくていいかもしれません。

☆ ☆ ☆

あり得ない記録繋がりということで、瞼を閉じない世界新記録に挑戦

これは森永のチョコレートのCMらしいんですけど、海外で放送されたものなのかな。わたしはTVで見た記憶がないです。もっともほとんどTV見てないので、わたしが見なかったからといって日本で放映してなかったとは云えないんですけど。


しげる色のチョコレート人形

これ男性用化粧品ブランドAXEのキャラクター「チョコマン」とのコラボPVです。このチョコレート人形の扱いがとってもシュール。
松崎しげるっていうのは顔色から云ってもチョコレートのコマーシャルにはピッタリのキャラクターだと思うのに、この曲は最初はチョコレートのCMに使われていたものとはいえ、その後松崎しげる=チョコレートって云う強烈な図式にはあまりなりませんでしたね。
それにしてもこのPVの松崎しげるはなんだか病的にやつれてるんですが、どうしたのかな。


もう一つの「愛のメモリー」

これを本人が歌ってしまうのが吃驚です。本人が被り物をしてたらまず歌わなかったでしょうね。
この内容でさえも相変わらずの驚異的な歌唱力で完全に歌いきってしまうのが、なんとも凄いというか(^^;

☆ ☆ ☆

まだまだ暑い日が続いてますが、皆様健康にはくれぐれもお気を付けくださいね。

☆ ☆ ☆


最後まで読んでくださってありがとう御座いました。

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暑中お見舞い申し上げます

2009年暑中見舞い

暑中お見舞い申し上げます。

今日近畿も梅雨明けしたそうです。ようやく季節も進んで本格的な夏がやってきました。
今年の梅雨は嫌になるほどしつこかった。いろんなところに被害も出したし、じっとりと水気を含んだ毎日に心底うんざりしてましたから、梅雨明けは本当に嬉しいです。

何時来てもあまり変わり映えのしないわたしのブログに、それでも遊びに来てくれる読者の皆様、いつも本当に有難うございます。
夏バテしないように体調には気をつけて、ようやく始まった夏を楽しんでいきましょう♪

☆ ☆ ☆

さっきハードディスクのなかをいろいろ探ってたらかなり以前に制作した画像を発見。暑中見舞いにちょうどいいのでアップしてみます。
3DCGの画像です。
わたしは最近は時間がかけられなくなってあまり触ってないんですが、3DCGで絵を作成したりするの、趣味なんですよね。

作製したのは結構前。Bryceっていう地形生成ソフトを使って作製してみました。
3DCGのソフトって馬鹿げてるほどに高価でなかなか手に出来ないんですが、Bryceは比較的安価で手が出しやすいソフトでした。

本当は山並みとか海原とか風景を作るためのソフトで、Bryce単体では簡単なモデリングも出来ず、何か意図的に形を作ろうとしたら、プリミティブの立体を組合わせて、元になる立体を組合わせた立体の形でくり抜くブーリアン演算という方法くらいしか用意してないソフトだったんですが、それでもあれこれやりくりして作ってたらこの程度のものは出来上がることになりました。

ちょっとはプールサイドにいるような雰囲気味わえますか?
メロンソーダは美味しそうに見えるでしょうか(^^

☆ ☆ ☆

自作の絵をアップして自慢するだけというのもあれなので、
夏ということでここは一つ夏に相応しいような曲をアップしておきます。

Bebel Gilberto - So Nice (Summer Samba)


antonio carlos jobim - wave unknown fantastic recording


Luiz Bonfa - The Shade of the Mango Tree


☆ ☆ ☆

今のところ、一応映画の記事を予定して書き進めてます。
もし楽しみにしてくれてる読者の方がいらっしゃるのならば、もうちょっと待ってくださいね。


☆ ☆ ☆

追記

2曲目の「Wave」、ジョビンの曲なんですけど、わたしが知ってるものとは随分と編曲が違うものでした。わたしが知ってるのは原曲盤というかジョビン自身のアルバムで、ボサノヴァのCDでは超が付くほどの定番アルバムなんですけど、じつはわたしはこの定番アルバムを聴くといつでもスーパーのBGMとか、デパートの屋上ででもかかってそうなBGMというか、そういう感じの曲を連想してしまってあまり好きなアルバムじゃなかったです。
この別アレンジは聴いてみるとそんな感じが全然しなくて、シングルトーンのピアノがきわめて繊細に曲を進めていくし、後半はそういう繊細さを維持したまま疾走感まで付け加えていって結構スリリングな演奏になっていきます。
オーケストラも抑制された彩を添えてピアノを引き立ててる感じで、なかなか面白く聴けるものでした。
それで最初はジョビンの別テイクだと思っていたんですが、かなりタッチも違うしどうやら全く違うもののようだったのでちょっと調べてみたら、この別テイクと思える「Wave」の詳細が分かりました。
このピアノ、演奏してるのはジョビンじゃなくて、ジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンです。
この「Wave」はオスカー・ピーターソンのアルバム「Motions & Emotions」に収録されてます。

Motions & EmotionsMotions & Emotions
(2005/10/18)
Oscar Peterson

商品詳細を見る


3曲目のルイズ・ボンファは「黒いオルフェ」の作曲者として有名。ギタリストです。
この曲はオーストラリアのフルート奏者ドン・バローズとの1978年の共演アルバム「Bonfa, Burrows, Brazil」に収録。
アマゾンでは該当のCDはでてくるものの取り扱いできないと表記されてます。

Bonfa Burrows BrazilBonfa Burrows Brazil
(2000/04/01)
Luiz Bonf醇@

商品詳細を見る



☆ ☆ ☆

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【美術】 妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 京都国際マンガミュージアム

11日に展覧会「妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 」を観に行ってきました。この日が初日でした。

こういう展覧会です。

妖怪展チラシ表

妖怪展チラシ裏


会場は京都国際マンガミュージアム。地下鉄を利用すると烏丸御池の駅で下車、そのまま地上に出て烏丸通を北に向かって進めばほとんど間をおかずに到着します。交通の便は極めて良好です。
それで、北に進んでいけばそれだけで別に脇道に入る必要も無くあっという間に到着するんですが、間際の御池通りを歩き馴れていてもこういうミュージアムがあるということを知らなければ、知らないままに通り過ぎてる人も多いかもしれません。
実はこの施設、マンガミュージアム用に建設されたものじゃなくて、もとは龍池小学校っていう学校で、廃校になった建物を再利用してます。建物自体はそれっぽく改装はしてるものの、運動場がそのまま残っていて、そこは今は芝生になっていて、座り込んで漫画を読んでる人なんかがいます。あまり美術館っぽい雰囲気でもなく、垂れ幕や入場口に気づいて始めてここがそういう場所だって分かるような感じ。場所としてはなかなか面白い場所です。

烏丸通りを御池から北に行けば左手にこういう光景が広がります。
これがおそらく元校庭。この日はコスプレイヤーの交流会があるとかで、コスプレした人が写真を撮りあってました。
マンガミュージアム外観01

さらに進むと入場口が見えてきます。

マンガミュージアム外観02

ここはマンガの収集と閲覧を目的にしてるので、中に入ると壁面においてあるマンガを一心不乱に読んでる人がやたらと目につきます。内装は小学校の雰囲気をそのまま残してる部分もあるかと思うと美術館的な雰囲気のところもあって、他ではあまり見ないような雰囲気になってます。

マンガミュージアム内部01

マンガミュージアム内部02

マンガミュージアム内部02

それでこれが今回の目的の展覧会場の入り口。展覧会を開く場所は他の空間と区別するようなつくりになっていて、内部は学校を改装したという雰囲気はあまり無かったです。
見上げると展覧会の内装パネルの背後に天井まで積みあがった本棚が見えてたので、もとは図書室だったのかもしれません。それとも雰囲気作りのためにわざと一部が見えるようにパネルを設えてあったかのかな。

展覧会場入り口

☆ ☆ ☆

実は小学校を改装し、その空間の一部分しか使ってないギャラリーでは広さ的にも大した数の展示物を揃えられないだろうと思ってあまり期待してなかったんですが、確かに展示物の数はそれほど多くなかったものの、わたしの興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あって、これが観られただけでもわたしにとっては結構面白い展覧会でした。

展覧会は江戸時代を中心として日本の絵巻物や書籍、浮世絵に現れた妖怪のイメージを辿り、現代のキャラクター文化に繋いでいくという観点で構成されてました。
江戸時代に描かれた妖怪を虚構の中から人を楽しませるキャラクターと捉え、現代のキャラクター文化、マンガを現代版の妖怪絵巻と位置づけるような視点だったんですが、わたしはいいたいことは分かるもののそこはちょっと保留というか、江戸時代の妖怪絵巻などが今のマンガ的な役割をしてたのは確かだろうけど、今のマンガの、フィクションの中から人を楽しませるために踊りだしてくるキャラクターの存在やその存在を導いてくる想像力を、江戸時代に妖怪を発想してきた精神のあり方へ還元するのは、妖怪的であることをちょっと無視しすぎてるんじゃないかというのが正直な感想です。妖怪は妖怪であることでしか意味をなさない部分を持っているはずで、妖怪はそういう意味で今のキャラクターマンガ全体と照応するものというよりも、存在の意味合いとしては怪獣だとか、モンスター映画などのほうに限定的に血筋を辿るべきなんだろうと思います。あるいは水木しげるから始まった正真正銘の妖怪マンガに。

この展覧会は妖怪という文脈で水木しげるが果たした役割には心底敬意を表していて、コーナーを設けてるくらいなんですが、その点はわたしも異論は全く無かったです。何しろわたしが様々な妖怪を頭に描く時に出てくるのは必ずこの人が描いたイメージだし、他の人もほぼ全員がそうだろうと思います。水木しげるがいなかったら、わたしは日本人がその想像力の内に妖怪という特異な存在を持ちえたことさえ全く知らないでいたかもしれない。事実水木しげるが妖怪を復権させる以前に、妖怪というものは完全に廃れ忘れ去られた存在に近かったそうです。
今の日本人が持つ妖怪のイメージをたった一人で再構成して作り上げてしまった。水木しげるが成したのはそういうことでこれはやっぱり凄いこととしか云い様が無く、展覧会の一部をこの人に割いてるのは、わたしには極めて妥当なことと思えました。

☆ ☆ ☆

展覧会は江戸期のものが中心となって全体の半分以上が絵巻物、古書の展示に充てられているので、若干古色蒼然とした印象がないこともないんですが、描かれてるのが妖怪ということもあってヴィジュアル的な面白さの方が古臭さを越えてる部分がかなりあり、割と馴染みやすい展示になってます。また古い絵巻物なんかになると描かれてる物語を知らないと肝心の絵の意味が分からないということも結構あるけど、この展覧会に展示されたような絵巻物は妖怪の種類を見せようと意図してるものが多くて、そういう意味で絵巻物の内容を知らなくても楽しめるものが多かったです。
あまりに馬鹿馬鹿しくて印象に残ったのが「神農絵巻」
農業の神様、神農を主役にした妖怪退治の物語なんですが、倒す武器がなんと「屁」。
黄色い火炎放射器のような放屁で妖怪を倒していく光景が描かれてます。これが稚拙というか、何だか能天気なタッチで描かれてるので、観てるだけで頭のねじが何本か緩んできそうな気分になりました。
他には有名どころとして鳥山石燕 の「画図百鬼夜行」なんかも展示されてました。京極夏彦で有名になった、云うならば妖怪百科事典です。
こういう展覧会で絵巻物とか古書とかの展示はその一部を見せるように開いた状態でガラスケースの中に納まってます。仕方の無いことなんだけど、これは苛つくことが多いんですよね。そのちょっと先を見せて欲しいと思っても要求がかなうことは無いわけで、鑑賞体験にしてもそんなごく一部しか見られないで本当に観たといえるのかなんて思ったりもします。

妖怪がテーマとなれば、説話なんかを題材にする浮世絵は絶対に外せないのでここでも幾つか展示されてました。全体的には国芳が中心でした。っていうか他の浮世絵師の作品もあったのに、何故か国芳のものがやけに記憶に残ってます。
わたしは浮世絵って結構好きです。図案的で、表現は大胆。写実なんてことにあまり拘ってない。そういうところが今観ても新鮮な感じがします。
妖怪がらみで土蜘蛛退治とか大江山の酒天童子退治とかが展示されていて、カラフルでダイナミックな構図が目を引きました。国芳の浮世絵は紙を縦に連ねて極端に縦長の画面にして描いてるのもあって、絵柄、構図を考え、必要ならこんな極端なこともしてしまう発想が面白いです。
わたしは国芳の弟子だった月岡芳年の絵が好きなんですけど、残念ながらこの展覧会にはあまり出展されてませんでした。チラシの中央のが芳年の手になる妖怪のはずで、不気味でユーモラスというのが特徴的な絵を多く残してます。

あと浮世絵も展示物に含まれてるなら、北斎の百物語も出品されてないかと思ったんですが、これはやはり妖怪じゃなくて幽霊に近いからか展示物の中には無かったです。他の人が描いた模写の一つとしてただ一部のみ混じってるものがあったんですけど、こんな書きかたしても通じないですよね。
この展覧会と直接関係ないんですけど、ちょっと説明しておくと、北斎が当時の江戸の怪談ブームにのって百物語の絵を100枚制作する計画だったのが、5枚まで描いただけで中断したという代物です。百物語と名はついてるものの5枚で完結。一説では怖すぎて売れなかったのが中断の理由だとか。
わたしは特にさらやしきの絵が好きで、要するに番町皿屋敷なんですけど、こんなお菊さんをイメージしたのは後にも先にもおそらく北斎ただ1人。この人の想像力がいかに桁外れだったかがよく分かる絵になってます。

ネットで探してみたらありました。美術館のページなのか、このページの下のほうにあります。

ー葛飾北斎ー

☆ ☆ ☆

さきに興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あると書きました。

実際展覧会場で激しく気を引かれて、その作品の前で立ち止まってしまったものが幾つかあったんですが、その一つは荒井良の作製した妖怪張り子でした。
荒井良の妖怪張り子は京極夏彦の本の表紙を飾ってる写真のモチーフになってるものなんですが、京極夏彦の本は嫌というほど眺めてるのに、今までこの表紙を飾ってる写真にはそれほど特別な関心を持った事は無かったです。
ところが今回実物を観て吃驚。実物がこんなにとんでもない代物だとは実際に観てみるまで全然想像もできませんでした。
展示してあった中では「魍魎」が一番良かったです。京極夏彦の魍魎を扱った小説のタイトルは「魍魎の匣」だったけれど、これも前面がガラス張り周囲は木製の威圧感のある匣に詰められて閉じた世界を形作ってます。匣はかなり大きく高さは6〜70センチはあったかもしれません。
わたしは匣に封じ込めてあるという状態に惹かれます。匣のなかに小さな宇宙が閉じ込められてその匣のなかで完結してるようなイメージ、匣で遮られ、その向こうで完結してる小さな世界に触れることも出来ずに、ただ覗き見るしかないという感覚。他の美術家の作品でそういったタイプのものを上げるならジョセフ・コーネルの箱なんかがそういう感じ。

この展覧会にコレクションされてた「魍魎」は妖怪の世界ということで、匣に閉じ込められた世界も異様でした。魍魎が木の陰から身を乗り出して、土の下から掘り出した棺から女の死体を引きずり出し、今にも貪り食おうとしてる光景、その一瞬を凍結させガラス板の向こうに保存してるような世界。
ただ荒井良の張り子の造形は死体の皮膚感とか青白い肌の下に透き通って見える網目のような血管などかなりリアルにしてあるものの、全体のイメージは映画で云うとスプラッター映画のように扇情的な血飛沫や内臓表現には向かわずに、妖怪の持つユーモラスな側面も引き出しています。こういうユーモラスなものと陰惨で不気味なものの同居なんていうのは、妖怪だけが持ちえた特質なのでしょう。この作品「魍魎」はそういう妖怪の独自の雰囲気をよく表現していました。

ネットで探してみたら荒井良の妖怪張り子の写真が観られるところがありました。

ー魍魎ー
ー化けものつづらー

でもこの作品は匣の質量のようなものを捉えないと一番のポイントを落としてしまいそうで、わたしが京極夏彦の本の表紙を観ていながら全く感じ取れなかったのと同様に、写真ではそういうものは伝わってこないような気がします。これは実物を観る以外に無いです。

もう一つ、立体物で面白かったのが、件の剥製。
「くだん」と読み、字の如く人面の牛という見かけの妖怪です。
「件」は牛から生まれ、人の言葉を話します。そして生まれて数日で死ぬんですが、生きてる間に戦争や大災害、疫病のような世界が大きく動く出来事の予言をする。その予言は必ず当るのだそうです。
「件」といえば、内田百間がこれをモチーフに「件」というそのものの題名で白昼夢のような掌編小説を書いていたのを思い出します。

件
チラシに写真が載ってたので拡大してみました。

「件」の他にはこの展覧会ではもう一体、妖怪の剥製として「人魚」が展示してありました。「件」は初見でしたが、この「人魚」のほうはわたしはいろんなところで写真を目にしたことがあります。もちろん木や紙や魚の骨などを組合わせて作ったフェイクもので、その旨展示物の説明にもかかれてました。
ところがこの「件」の剥製に関しては、会場では作り物であるとかの説明はされてないんですよね。まさか本物ということは無いだろうとは思うけど…。

この妖怪の剥製は「件」を題材にした紙芝居とかの後に締めくくりとして観客に見せていたものだそうです。その紙芝居は絵が数枚残ってはいるけど、話のほうの記録が残ってないのでどういう物語だったのかは今ではもう知ることも出来なくなってると解説してありました。
どんな物語だったんだろうと思いを馳せても、既に永遠に知ることが出来なくなってる。製作者の思惑には無かったにしても、偶然が解けない謎のようなものを作品に付加していったわけで、謎は何時だって魅力的、こういうのは結構想像力を刺激します。

ところがあろうことか会場ではこの残された数枚の絵を元にお話を推測し、絵物語のように仕立て上げたものをビデオで流してました。これでは偶然が与えてくれた謎が台無し。これは本当に蛇足を絵に書いたようなものでした。元絵だけ並べてくれた方か余程親切だったと思います。
ちなみにわたしはこのビデオ、一瞥しただけで全体は観ませんでした。

さらにもう一つ、この展覧会でわたしがよかったと思ったのが「稲生物怪録絵巻」。
これを元にした稲垣足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」がお気に入りということもあって、この絵巻物はわたしのなかでは結構特別の位置に居座ってます。
1749年、16歳の少年稲生平太郎が友人とともに行った百物語でしてはいけないことをしたために、7月の一月毎夜妖怪が平太郎の家にやってくるというような話で、絵巻物も稲垣足穂の小説もただひたすら毎日とっかえひっかえやってくる様々な妖怪の描写を続けていくような内容になってます。
その毎日代わりながらやってくる妖怪が、人の指が足の変わりにうじゃうじゃと生えてる蟹だとか、想像力の限界を試してたんじゃないかと思うくらいユニークで、しかも薄気味悪い。
これは画集という形で出版はされてるんですが、実物としてみたのは今回の展覧会が初めてでした。

☆ ☆ ☆

会場の解説のどこかにあった説明で、妖怪は天変地異などの自然の驚異の象徴としてあり、最初は言葉で名づけられただけの存在で実態などなく、やがてその言葉だけの存在に絵で姿を与えることで恐怖の対象から認知可能な領域に引き下ろしてきたというようなことが書いてありました。姿かたちを与えられることで実は恐怖が付け加えられたのではなく、反対に恐怖が減じられたんだと。モンスター映画と全く一緒だなぁなんて思いました。怪物は正面切ってスクリーンに登場した段階でただそれだけのものに成り下がってしまうんですよね。
それで、言葉だけの存在としての妖怪ってどんなものだったんだろうなんて、会場を廻りながら思ってたんですけど、わたしは既に形としての妖怪を知ってしまってるし、たとえ名前しか知らない妖怪であってもそれはわたしが形を知らないだけで、妖怪である以上形あるものとして有ることをわたしは既に知ってしまってるわけです。
もう言葉だけの存在の妖怪など永遠に体験できないところに立ってるんだと、そんなことを考えました。
あるいはそれだけじゃなくて、形を得た妖怪でさえも散文的な世界の中では姿を見失いそうになる。
足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」は最後は永遠に失われてしまったものへの憧憬で締めくくられていて、この日のわたしのなかで度々顔を覗かせた感覚もそれに似たようなものだったかもしれません。

あとね、わたしが展覧会で興味を引かれたものを列挙してみて、立体造形の方に圧倒的に惹かれてたっていうことに気づいたんですが、生来の立体志向はあるにしても、この展覧会自体、あくまでもマンガの文脈での展覧会だったものの、魅力的なものは平面よりも立体の方に多かった展覧会だったような気がします。

☆ ☆ ☆

それで、「件」と「魍魎」に未練を残しながらも、鑑賞終了。展覧会場の一室を出てから、売店に向かいました。わたしが美術館の売店好きなのは以前の記事に書いてるかもしれないけど、美術館では絶対に立ち寄る場所になってます。
京都国際マンガミュージアムではこんな感じのショップでした。かなり狭かった!

マンガミュージアムショップ

必ず買うのが目録なんですが、この日は初日だったのに、午後の半ば過ぎで図録は売り切れ、店員に訊いてみると直ぐに追加を配達してくるということだったので暫らく待つことになりました。それほど鑑賞客がいたようには思えなかったのに。でも誰も手にしてない状態で入手できたのは良かったかな。

妖怪展図録

手にした図録はこういうある種手軽な展覧会ではよく出てくるタイプのもので、市販されてるムック本と大して変わらない出来のものでした。兵庫県立歴史博物館と京都国際マンガミュージアムの編集とあるから、この展覧会の正式な図録なんだろうけど、このタイプの図録によくあるように展示物全てを掲載してなくて、余計な読み物を入れたりしてます。
わたしは展覧会の記録として欲しいので、展示物全てが掲載されてないこういうのはわたしにとっては半ば意味を失ってしまってます。

☆ ☆ ☆

京都国際マンガミュージアムを出てから烏丸通を南下して、六角堂の近くのよく行く中古DVDショップで何か掘り出し物でもあるかとちょっと物色、ブラザーズ・クエイのDVDを見つけたのでそれを購入してから、さらに南へ向かって進みました。
今京都はちょうど祇園祭の時期でそのまま南へ向かって四条通りと交差するところに出て、四条通りを少し東に行くと、長刀鉾がある場所に着きます。長刀鉾は今組み立ての真っ最中。
祇園祭の巡行の先頭に立つ鉾で、わたしの一番お気に入りの鉾でもあります。11日での組み立て状況はこんなところでした。これ釘なんか一切使わずに組み上げていきます。

2009祇園祭01

2009祇園祭02



四条の商店街のアーケードなんかを歩いてるとお囃子を流してるので、ちょっとづつお祭り気分が盛り上がってきます。
ある店の前にこんなのが出てました。

アナログtwitter

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☆ ☆ ☆


妖怪天国ニッポン ー絵巻からマンガまでー
開催期間 2009年7月11日〜8月31日

京都国際マンガミュージアム・ホームページ


☆ ☆ ☆

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プロフィール

薄荷グリーン

Author:薄荷グリーン
映画、音楽を巡る、好奇心の記録。
他にも京都のこととか、いろいろあるんですけど、まぁその辺りは追々と。

面倒臭い文章を書いてますが、本性はいたって気楽な性分です。
コメント等、気軽に残してもらえれば幸いです。

でもわたしが不快と判断したコメは問答無用で虚空の彼方に投げ捨てますので。

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