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2018年 冬の情景 / Eugène Atget Paris

レール





赤いライト





雨の夕





子供
2018 / 03
Minolta Capios 160A
Lomo Colornegative 400

今年に入って状況によって身動きが取れなくなりつつある中で隙を見ては撮っていた写真からいくつか。見渡してみると本当に雑然としていてまるで統一性がない。あるとすればある程度形への関心とかそういうのがありそうに見える程度か。これらの写真の何かがわたしの中で共通のものを形作ってるのだろうか。世界の裏面に潜んでいるかもしれない何か、そんなものが撮りたいとするなら、周りの世界のあらゆる細部から導き出すのが必然と、あえて落ち着く先を見つけるような言い方をしてみると、この雑念とした感じはそんなところに着地してしまうのかなと思ったりもする。最近ブルトンのシュルレアリスム宣言の昔の単行本バージョンを買ったりしていた。岩波からリリースされている、版としては一番新しい文庫バージョンは以前から持ってはいたんだけど、昔の単行本のほうには瀧口修造の序文や、中西夏之や野中ユリの作品を撮った高梨豊の写真など、文庫バージョンには入ってないものが収められていたので、あらためて欲しくなった結果のことだった。最近再刊されたブルトンの希少本「魔術的芸術」なんていうのを入手したのがきっかけになったのか、この類の書物を手にすることのほうが写真に関するものに眼を通すことよりも多くなってきてる。現実世界には存在しないイメージを追及してるように見えるシュルレアリスムと現実のコピーが本領である写真とでは一見水と油の、まるでかけ離れたもののように見える。でも外見上はそういう風に見えても写真とシュルレアリスムは意外と近い関係にある。20世紀初頭消えていく古いパリの街角を撮り続けたウジェーヌ・アジェの写真をおそらく世界で始めて注目し「シュルレアリスム革命」誌に掲載して紹介したのはマン・レイだったし、ブルトンのシュルレアリスム小説「ナジャ」は随所に写真が挿入され、文章と相まって謎めいた雰囲気を撒き散らしてた。自分の中でも写真とシュルレアリスムというこの二つのものはそんなにかけ離れた方向を向いてる風でもない。なによりも写真は機械に撮ってもらってるという側面を極端化していけば自動記述的だしその一点で紛れもなくシュルレアリスム的な装置だろう。でも自分の事物への態度においてとなると、そういうシンプルな有り方以外に、どういう結びつき方をして自分の中にあるのか、あるいはこれからどういう接点を持って自分の中で結びついていくのか、今のところ自分でもさっぱり分からないのも確かだ。何だかいつももどかしい思いに駆られてる。





これも白水社の新書バージョンとこの文庫バージョンの二冊を持ってる。文庫のほうはブルトンの全面改訂版をもとに注釈一杯の決定版となってる一方で、新書バージョンのほうは集録されてる写真のサイズが大きい。


アジェの写真は実は結構好き。同じ頃のパリを撮った写真家はブラッサイだとかウィリー・ロニだとか他にも一杯いるけど、何故かアジェほどには惹かれない。アジェのどこに他の写真家とは違うものがあるんだろう。そしてこの端正な写真群のどこがシュルレアリストたちを魅了したのだろう。一般的には古いパリの様子を記録した、この人がいなければ古い時代のパリの様子を知ることが出来なかった記録者的な扱いで、写真そのものも作品というよりは当時画家なんかに資料として売っていたという認識のままのようなところがどこかにある印象なんだけど、一目見ただけでも単純に資料的な写真というだけじゃないのは丸分かりで、写真的なオーラに包まれてる。でもマン・レイらが惹かれたのはそういう写真的なオーラだったんだろうか。

アジェ1

アジェ2

アジェ3




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祇園で寄り道 + Henry Mancini - Dear Heart

格子 簾
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の曲がり角
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100



父に今日はどこで写真撮ってきたんや?と訊かれて、祇園で撮っていたと答えたら、あんなとこ撮るとこなかったやろと云われてしまった。
まぁね、確かに街全体が一致協力して単一の超強力なイメージを生み出すことに専心しているような場所だから、あの街でイメージをずらし、読み替えて再構築するような思惑は、まず間違いなく拾い集めるのも困難なほど粉砕されるのが落ちなんだろうと思う。
実のところ祇園そのものを撮りに行ったんじゃなくて、東山の護国神社に登っていく道の一筋南隣に沿って延びている坂道、その坂道に隣接して建っている、壁面をパイプが縦横に覆っている、実際は廃墟じゃないんだけど半ば廃墟じみた場所を撮りに行った。だからこの時、祇園はそこへ行くまでに通過する場所だったんだけれど、どうせ通っていくなら写真も撮ってみようと思って、寄り道しながら歩き回ってみたというわけだ。結局目的の場所には思いのほか到着するのが遅くなって、当初思っていたほどには撮れない結果となった。

寄り道といいながら、意外と時間をかけて撮り歩いていた。決まりきった祇園のイメージが巨大な障壁のように立ちはだかってる前で、この場所で延々と再生産され続けているイメージにカメラを委ねて、ちまちまとした個性なんか吹っ飛ばす、誰が撮っても全部同じなんていうのもある種過激なんじゃないかとも思ったり、細部を祇園じゃなくなるまで切り分けていったり、それなりに時間をかけて歩き回っていたところをみると、撮ることを楽しむのはどこでもそれなりに出来るということだったのかもしれない。



光さす祇園
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の玄関
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100


全体になんだか納まりかえったような撮り方になってる。もうちょっと自然体で撮れないものかと思う。ある種通りすがりで目の前を掠めたような、あるいは対象の前に座り込んで絵具でも出しながら絵を描いているような感じじゃなく、その時その場所で出会った一瞬の刹那感とか、あまりがちがちに構えないでそういうものが入り込むような撮り方を試みてみたいところだ。
撮っていたカメラはキヤノンの昔のレンジファインダー機で、レンズの画角は40mm。50mmからこの辺りの標準域のレンズが納まりかえったイメージに貢献しているんじゃないかとも思ったりする。これより広角になると自分としては使いにくいなぁという範疇になってくるんだけど、こういう書き方の延長で言うとこれよりも広角になると体裁よく纏まったイメージが作りにくくなるからとでもいえそうな気がする。
最初の写真は、わざわざ植木がある場所を選んで撮ったんだけど、この木は必要なかったなぁ。いかにもかっこつけて撮ってますという主張以外の役に立っていない。


☆ ☆ ☆

Henry Mancini - Dear Heart

以前に一度載せたことがある曲で、アンディ・ウィリアムスとかペギー・リーなんかのアレンジ違いを載せようかとも思ったんだけど、こういう艶のあるコーラスが好きなので、これがやっぱり一番いい。
ロマンチックで、シンプルだけどヘンリー・マンシーニのメロディメーカーとしての本領発揮といった曲だと思う。










2016年の始まり

人形
2016 / 01 / PENTAX K100D SUPER + SMC PENTAX-A 50mm f1.7


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて、これを書いてる時点でお正月も早二日目。皆様は良いお正月をお過ごしでしょうか。
それにしてもあっという間にお正月も二日になって、子供の頃は特別な日が残り少なくなっていくことに、だんだんと我にかえってくるような味気ない思いを募らせてたんだけど、そういう気分は大人になってもまだ少し残っていて、日常に戻るのがなんだか名残惜しいような感じを未だに抱きます。

わたしはといえば元旦はいい天気に誘われて向島の団地へ、年末もここでちょっと写真撮っていた続きをやりにいったりして、二日はこれまたいい天気が続いたのに気をよくして初詣なんかに行ったりしてました。
今年は初詣は原点回帰で八坂神社へ。
何だかブログに書こうということが頭にあるせいでこのところ毎年違ったところに初詣に行ってたんだけど、そういうことを始める前は基本的には八坂神社贔屓なので、久しぶりにこのスサノオノミコトを祭る神社にお参りしてこようかなと思い至った次第。
相も変らず驚愕の人出のなかを京阪の駅から歩いていきました。脇道から行くともっと人がいないところを通っていけるんだけど、新しい年の初めに脇道を通るのも何だか癪なので、ここは真正面から挑むしかないと、真正面から人波に乗って境内へと進んでいきました。
いつも初詣でやることを全部やってきたんだけど、今年はおみくじでちょっと戸惑うことがあって、何かというと、引いたおみくじに書いてあった数字が読めなかったんですよね。細い棒に書かれてるせいで物凄い適当に書かれたような形になって最初の「十」というのは判読できたんだけど、次の数字がどうみても読めない。
真ん中に傷が入ったような線がやや斜めにたてに一筋とその横に横棒が二段重ねで記されてるとしか見えない。ひらがなの「に」?
読めないからといってもう一度引くわけにも行かず、次の人が横で待ってるから判読に頭を捻ったまま独占してるわけにも行かなかったので、とにかく「に」としか読めないから「十に」なんて絶対に変だと思いながらも、12番で行くしかないと判断して、その12番でおみくじをもらいに行きました。
おみくじの結果は半吉。なかなか大吉は引けないなぁと思いながらも、まぁまずまずの結果だろうと一年の初めのおみくじとしては納得した次第でした。
この謎の数字に関しては二日もかなり後になってから急に何であったか理解しました。天啓は予告もなくいきなりやってくる。
わたしは引き出したおみくじの棒を横向けにして、「十に」としか読めないと思い込んでしまったんだけど、これたてに書いてあってしかも数字の最初はおみくじの棒が収まってる筒のほうから順番に並んでいたんだと唐突に気づいたら、一気に疑問氷解、あれは「十に」なんていう変なものじゃなくて「十六」だったと思い至りました。「六」がかなり適当に書いてあったのと、なぜか横書きだと思い込んでしまったことの複合技がわたしの中で謎を生んでしまったと。「十」も縦横全く同じ形だから、思い込みを補強する役目を担っていたんじゃないかなと思います。
かなりあとになって「十に」じゃなくて「十六」だと分かったとしても、どうしようもない。結局本来的に引くはずだった「十六」番のおみくじになにが書かれていたのか分からずじまいという謎をはらんだ一年の始まりとなった感じです。

読み違うことも含めて今年のわたしの運勢なのかとも思ったり。本当だったら大吉だったのを半吉に修正してしまったんだったらなんだかなぁって言う気分だけど、本来のくじが大凶だったらいいほうに偶然が働いたっていうことで、こっちだったら納得の気分になる。二つの仮定はまるで正反対の様相となるんだけど、なにしろ本来引くべきだったおみくじの結果が分からないものだから、結局はずべて謎のまま解けないものとして残ることとなります。

このあと三条のユニクロに寄ろうと祇園の飲み屋街の辺りを歩いてると、信号待ちで止まった前の男の人が、あの声とあの顔ですぐに分かった西川のりおだったりして、今は元祇園会館が吉本の花月になってるから、その関係でこの辺りを吉本芸人がよく歩いてるんだろうけど、お正月に西川のりおの実物を見てしまうのは吉兆なのか凶兆なのかどっちなんだろうと、なんだかおみくじの読み間違いとか、妙に謎めいたサインが解読せよといわんばかりに目の前をよぎっていくような一日でした。


☆ ☆ ☆


川沿いの団地
2015 / 12 / PENTAX K100D SUPER + SMC PENTAX-A 50mm f1.7



お正月っぽい写真を撮ってこようと思ったけど、人ごみに疲れて八坂神社では一枚も撮れず、祇園の飲み屋街で数枚撮っただけの首尾で終わったお正月の二日目。
特にお正月っぽいわけでもないけど、最初の、よく見るとあまりかっこよくも異様でもない人形の写真が、西川のりおを見た後で今日撮った2016年の初めて載せる写真。鴨川沿いの団地の写真は去年の暮れに東九条の辺りを撮り歩いていた時に撮ったものです

カメラは去年の暮れに買ったペンタックスのデジイチ、K100D SUPER。2007年に登場した古臭いデジタル一眼カメラです。
何となくフィルムっぽい写り方?まぁ多少銀塩らしく見えるように細工はしてるんだけど、基本的にフィルムっぽいところがないとどんなに細工してもデジタル臭さは残ってしまうわけで、そういう意味ではどこかフィルム的なニュアンスも内在させたデジタルカメラなのかなと思います。
そのフィルム的な気配を引き出せそうなところが、今は使われてないCCDセンサーの持ち味なのか、あるいは600万画素という低画素のなせる技なのか、よくは分からないんだけど、デジカメとしては使ってみると意外と面白いです。









太陽が見た夢の話 + Anita Bryant - Laughing On The Outside (Crying On The Inside)

石塀
石塀
2014 / 05 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / ILFORD XP2 SUPER 400





ボンネット

2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / ILFORD XP2 SUPER 400


前回同様に、若干影の分量が多いような写真をさらにアップ。
光が作る影の写真ということで、太陽が見た夢なんていうタイトルをつけてみたけど、考えてみれば陽光で視覚化される世界を掬い取るなんていう意味では、大抵の写真が太陽がまどろむ夢の結晶なわけで、ちょっと大上段に振りかぶりすぎという気配がなくもないっていうようなところ。

それにしても影中心に撮ってみようとすると、わたしがやると何だかホラーものの情景のようになるというか、もうちょっとコントラストの低い柔らかい写真も撮ってみたいと思うんだけど、なぜかこんな写真ばかりになってしまうようです。
というかコントラストの強いモノクロでも、ホラーものっぽいのじゃない雰囲気の写真が撮ってみたい。





路地へ
路地へ
2015 / 05 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak TriX 自家現像


最初のは泉涌寺だったか東福寺だったか、あの辺りを歩いてる時に撮った一枚でした。あまりはっきりとは覚えてない。
二枚目は車のボンネットに写りこんだイメージ。方法としては特に目新しいものでもないけど。
最後のは最近おなじみの山科の街中でスナップしたものです。誰も通ってない道路に濃い影が落ちる、しんとした真昼とか、その場に立ち止まってると、周りの世界はシュルレアリスティックに変容していきそうな気配に満ちてきます。

いつものFM3Aとフジのコンパクトカメラを使用してます。35mmもそうだけど、28mmももうちょっと使いこなせるようになりたいと、このティアラとか梅雨に入ってからは同じく28mmレンズ搭載のニコン・ミニなんかをサブに持って出てます。ティアラのほうは晩年の植田正治の愛機で、このコンパクトカメラで撮った写真を集めた写真集なんかも出版されて、わたしも持ってるんだけど、軽々と使いこなしてるのが手に取るようにわかる写真集だったりして、眺めてみるとこんな風には撮れないなぁとため息が出るばかり。



☆ ☆ ☆


Anita Bryant - Laughing On The Outside (Crying On The Inside)


1946年のポピュラーソングです。
単純に旋律が好きな曲かな。こういうメロディはわたしにとっては聴いていて気持ちよく高揚するタイプのもので、なぜ好きかなんて説明することはできません。
よく聴いたのはアレサ・フランクリンのアルバム「Aretha Sings the Blues」に収録されていたバージョンでした。
これはアレサ・フランクリンのいつもながらのソウルフルなバラードになっていたけど、今回はちょっと変えて、50~60年代に活動したアメリカの歌手Anita Bryantのオールディーズ風のものをピックアップです。


リリースされたのは65年、シングルの「Welcome, Welcome Home」のB面でした。
LPだと「ANITA BRYANT WORLD OF LONELY PEOPLE」というのに収録されてるんだけど、CDでは出てないのかな。アマゾンでは見つからなかったです。










お知らせ

昨日からルーターの故障でネットに接続できません。今これは違うところから書いてるんですけど、とても書きにくいです。
プロバイダに連絡したところ新しいルーターと交換するということで、交換品がやってくるのは今週末の予定。ネットには来週くらいまで復帰できそうにない状態です。
ということで、しばらく引っ込みます。

エアコンが壊れて間もないというのに、今度はネットの故障。ちょっとトラブル続きといった感じになってます。

☆ ☆ ☆

お知らせだけでも何なんで、元気が出そうな曲を一曲。音楽の楽しみに満ちてるような曲。