路上 / 稲越功一写真集 「PARIS 1989」

反射の洪水





壁の領土





奥の暗がりへ





三角が空間を歪める






崩壊する反射

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 04
2016 / 04
2016 / 09
長池 / 新大宮 / 近所
Nikon F100 / Fuji NaturaClassica / Fuji 写ルンです シンプルエース / Nikon CoolPix S9700
Lomography ColorNegative 100 / Kodak SuperGold 400

最近の街路写真と以前に撮った得体の知れない写真のロートレアモン形式。

今回はどうにもタイトルを思いつかなかった。そのうち考えるのが面倒になってケルアックばりに路上と名づけてみるも、要するに今までの写真の大半を路上で撮っているわけだから、この命名は何も云っていないのに等しい。
何も云っていないといえば、最近は写真について説明なんかしないほうがいいんじゃないかと、これは以前から思ってはいたことだけど、この所ことのほかそういう風に考えたりする。とにかく撮った、そしてそれを見たと、これだけで十分で、そこに何が生まれようと、あるいは何も生まれるものがなくともそれがすべてでいいんだと思う。生まれたものがあったとしても、それが正解であるかどうかなんてどうでもいいし、そういう場所を生成するのに、この写真の意図はこういうものだとか、こういう風にして撮ったなんていう言葉はノイズにしかならないと思う。

☆ ☆ ☆

最近はデジタルで加工することに対してリミッターが外れ気味と以前に書いたことがある。で、加工することに抵抗がなくなってきてるなら、せっかくフィルムを使ってるんだからデジタル処理なんていう始めると意外と夢中になるも振り返れば大して面白くもないものに手間ひまかけるよりも、ここはサラ・ムーンを見習って、フィルムという物質に対していろんなアプローチを考えたほうが面白いんじゃないかと思えてきた。これこそフィルムでしか出来ないことだろうと思う。ただ、こういうことをやってしまうと絶対にもとに戻すことは出来ないわけで、その辺りは物凄く勇気がいる。サラ・ムーンなんかが持っているこういう思い切りの良さ、強さみたいなもの、元に戻せなくても一向に平気、むしろすべてが解体した先にあるものが見てみたいなんていう志向、欲望は結構すごいものだと思うし、わたしもそういう思い切りのいい強さのようなものが欲しい。なにしろすぐにまとまりのある、見栄えのいい収まった形にしてしまおうなんていうところがあるから。

☆ ☆ ☆

さっきネットでロバート・フランクがカメラ構えてる写真を見たんだけど、わたしと同じく写真家としては不自由な左目が効き目の構え方をしてるそのカメラは、どう見てもオリンパスのコンパクトカメラ、μシリーズのどれかだった。ロバート・フランクもこういう類のカメラの愛好者なんだ。ロバート・フランクの写真はスナップショットのお手本のように扱われてる初期の「The Americans」よりも、近年の曖昧で揺らぎの中にある詩的な写真のほうが好きなんだけど、この揺らぎの写真をμで撮っていたって云うことなのか。こんなものを目にしてしまえば、しまいこんであるμのどれかをまた引っ張り出さないと気がすまなくなりそうだ。


☆ ☆ ☆

パリを撮った稲越功一の写真集を紹介してみる。
レビューといえば最近はここで使っているのとは別の名前で、アマゾンで買ったものにレビューを書いてる。書いてみて初めて分かったんだけど、いちいちアマゾンから御礼のメールが来るのね。当社並びに Amazon でショッピングする数百万人というお客様方が大変喜んでおりますなんていう内容のメール。なんかね、根が単純なものだからそんなことを云われると、実利もないのにちょっといい気になりそうになるな。
ちなみにこの写真集についてはアマゾンで買ったものでもないしまだ何も書いてない。そのうち書くかもしれないけど、その時はここで書いたのと似たようなことを書いてしまいそうだ。
稲越パリ1

稲越パリ2

稲越功一は矢沢永吉など、タレントやアイドルを撮った、広告やポートレートの写真家として知られてる部分が多い。このせいでなのか、アート系の写真誌とかではこの写真家の名前はほとんど目にすることがない。でもわたしはこの人の撮った写真が大好き。数年前に亡くなってしまったのが本当に惜しまれる。
何で読んだかは忘れてしまったけれど、一緒に写真を撮りに行ってその場で同じものを見ていたはずなのにこの人だけはみんなと違った印象の写真を撮っていたという証言があった。云うならば普段何気なく見ている周囲の世界を独特の視線で切り取るのが上手かった写真家だ。それもわたしはこれだけ他の人とは違う感性を持っているのだ!なんていう押しつけがましく嫌味ったらしい部分もなく、本当に何気なく撮ってかっこいいという稀有な作家だった。
ちょっとね、この人の写真を見ていると秘密を知りたくなってくる。どうしてこんなに際立つ印象で写真が撮れるんだろう?一体他の際立たない写真とどこが違うんだろう?って、見て楽しむ以上に気がつくと考え込んでしまっていたりする。

この写真集はそういう小粋な感性を持った写真家がパリという手垢にまみれた古い都市を撮った写真集になっている。いとも軽々とこの歴史の積み重なった街を横断して、捉われ勝ちになるものから解き放たれてシャッターを切っている。ヴィム・ヴェンダースが解説で云っているように、既視感で満ち溢れたパリのイメージを解体し、見過ごしてきたパリのイメージを光の屈折と反射の中に再構築しているというのがよく伝わってくる。

アート系の写真家としてあまり扱われていないのが幸いしているのか、初期の手に入らなくなっている写真集を除いて、ほとんどの本が手に入れやすい価格で流通しているのも助かる。わたしはフォトエッセイの類の本を何冊かと、今では手に入れにくい大型のものを含む写真集を何冊か手元に持っている。ただフォトエッセイのように文章を織り交ぜての本となると、正直愛読するというところまでいったのは今のところほとんどない。この辺は写真よりも文章のほうが饒舌なんじゃないかと思わせる金村修のほうが、まぁ写真も書く文章もまるでタイプが違うんだけど、圧倒的に刺激的で読ませてしまう。
あと、稲越功一は写真家でも扱う対象に得手不得手があるんだなぁって云うのを明確に感じる写真家でもある。花を撮ったり、工場地帯を撮ったりしている写真もあるんだけど、この辺りのテーマで撮った写真は矢沢永吉の写真同様にわたしにはまるでピンと来ない。この気に入った写真家の写真だからみんな良いという方向には向かわない。工場や廃墟じみた被写体、金属属性の被写体なんかわりとどんな撮り方でも関心を引き寄せられたりするのに、まぁ関心を引き寄せられたからこそその手の物を被写体にした稲越功一の本も手元に置いてはいるんだけど、そういう本は一度目を通したきりで、積んだままになっていたりする。









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薄明

西の空に明けの明星が輝く頃





スタンド





闇の工場





光の車





屋上



2017 / 01 / 奈良 新大宮
NIKON F100 / OLYMPUS PEN E-P5 / FUJI CARDIA Travel Mini DP
Kodak SuperGold 400


今日、半月前に頼んだモノクロフィルムの現像が上がっていたので取りにいってきた。フィルムを入れてあった袋にはKJイメージングという会社名とKJ浦和なんていうスタンプ文字が見える。浦和ってひょっとして関東?関西では聞いたことがない地名だけど、関東まで持って行ってたのなら、それは遅くなるだろうなぁ。恐れていた現像代は800円ほどだった。カラーネガよりも若干高いか。自分でやれば30分もかからないし、やっぱりモノクロは面倒臭がらずに自分で現像しよう。

☆ ☆ ☆

前回の続きのような、暗闇の中にまぎれて撮っていた写真から。

最初の写真を眺めながら、西の空に明けの明星が輝く頃、なんていうタイトルをつけてウルトラセブン最終話を気取ってみようと思ったものの、残念ながらこれは朝の空じゃなくて夕闇が迫る頃に撮ったものだ。
セブンのナレーションに関しては、明けの明星は東の空だろうというつっこみが最終話放送の昔からあったそうだけど、ただこれは西の空という言葉もあえて使って、意図的に朝と夕方をごちゃ混ぜにしたイメージにしようとしてのことだったのかもしれない。

パラボラアンテナが並んでいる光景がかっこよくて撮った写真だった。でも何だか画面がせせこましい。一杯並んでいるのが面白かったのに、それがいまひとつ生きてこない。バックにある鉄柵も余計だったかなぁ。薄明の空もアンテナと同じくらいポイントだったのに、アンテナに気を取られて空を大きく取れなかったのもその場の思い違いだったんだろうと思う。
あるいはその何かを見て直感的にイメージしたものを具体化しようとしても、その直感を得た対象そのものがそこから発想し具体化しようとするイメージにいまひとつそぐわなかったと、そんな場合もあるかもしれない。

で、薄明といいながらそれっぽいのは最初の二枚だけ。パラボラアンテナの写真を眺めて思いついただけなのでそんな感じに収まってるんだけど、薄明というキーワードを思いついたのならそのキーワードに沿って、今度は意図的に写真を撮ってみるというのは良いかもしれない。思いついたものは何でも、そこから派生的に展開できる道筋が見えるかどうか確認してみたほうがいいと思う。
ウルトラセブンがごちゃ混ぜにしたような、何時の時間帯とも知れない薄明の広がる世界で写真を撮るのは面白そうだ。マジックアワーなんていう手垢のついたものへ寄りかからずにやろうとするなら、一気に難易度は跳ね上がりそうだけど。

闇に向かう写真中心に乗せているので、今回の締めは明るいものにしてみる。次もまた闇に向かうかもしれないし。
それにしても今年の冬はこんなに一点の曇りもない青空とか、本当に数えるほどしか目にしなかったなぁ。

恐ろしき錯誤 + 太陽の子供たち - 小野リサ

東寺・堀





日向の柵





風が通り過ぎた時





工事中の東寺の一角






歪な植木

2016 / 12 / 東寺
Nikon F100
Fuji 業務用400


まぁ、大層なタイトルだけど、去年の暮れに弘法市の日だと錯覚して、行ってみたら誰も居なかったという程度の意味合いだ。
どうも最近内容がタイトル負けしているような気が…。

弘法市ということで場所は東寺。
え!うそ!誰も居ない!!
と思ったものの、そのまま帰るのも癪に障るので、周りの町中を歩いたり東寺に戻ったりしながら写真を撮っていた。東寺って周辺の街は京都らしさもまったくなくて街そのものの雰囲気も晴れやかさなんて皆無。東寺の周辺というわりに古びて風情があるほどでもなくて、ただただ平坦に見栄えもしないでそっけない。東寺そのものも拝観料を払わない場所はあまり撮りたいとむらむらするところがないんだよなぁ。
とまぁ、何かを無理やり撮って帰ろうって云う算段に傾きつつ撮ったこのなかでは、自分としては一番最後のがお気に入りかな。最近意図的に試みることがある、どうってことのない被写体をどうってことのない振りをして撮ってみる感じの写真。この前のにも書いたけど、やっぱりどこかに撮りたいと思ったポイントがあり、どうってことのない見せ掛けに見え隠れして、自分の中ではそれほどどうってこともなくないところもある。

写真はかっこつけた写真になるように写すいくつかのメソッドがある。平面化だとか、グラフィカルな図形的構図だとか、奇矯な視点だとか、ボケだとか、決定的瞬間だとか、逆光だとか。かっこいい写真の撮り方なんていう、そういうことに関した本なんかも一杯出ている。確かにこういう特徴のある要素を組み入れると見栄えのする写真にはなるんだけど、そういうものを使わないと写真にならないのかという疑問はいつだってわたしのなかにあった。おまけにそういう方法で生み出されるイメージの振幅は、派手に目を引くわりには意外なほど狭い。どれも、ああ、こういう方法で予測されるイメージねとすぐに納得できるほど、ある種類型化されたところがぬぐえなく存在する。
写真の本質的な部分はそういう簡単にパターン化されるようなものの中にではなく、まぁそれも写真だから幾分かは存在はするんだろうけど、大部分はもっと別のところにあるんじゃないかと思うところもある。
で、たまにはそういうかっこいい写真作りなんていうことに腐心するような視点から逸脱して撮ってみたくなるという訳だ。受けは悪いかもしれないけどね。
類型化された部分を意図的に増幅するような写真もひねくれて面白いと思うところもあるけど、それはまた別の問題。


☆ ☆ ☆


太陽の子供たち - 小野リサ


最近曇り空ばかり、変化があっても太陽が顔を出すとかじゃなくて雪が降ったりする空模様に本気で嫌気が差して、太陽の光を待ち焦がれつつこの曲で憂さ晴らしだ。










亡びてしまったのは、いったい何であったのだろう。 / Whispering a Prayer - Steve Vai

時計塔の煙突





風の気配





干上がった池の畔で





冬枯れの木


2016 / 11 平城山 (1)(2)(3)
2016 / 11 棚倉   (4)
Nikon F100 / 写ルンです シンプルエース
AgfaVistaPlus / フジ業務用

☆ ☆ ☆


束の間形となって現れ、虚空へ消えていくもの。
風の囁く声。
かつてそこにあった何か。
枯れ果て、そして再生していくものたち。


タイトルの元ネタは中原中也の詩の一節の、さらに一部から。かっこつけてみようと思ったけどあまり上手くいかなかった感じだ。
儚さ、揺らぎ、刹那、非在、喪失、異界、気配、変容、そういった眼に見えないものへの憧憬と偏愛。
一方でだだ眼に見えるだけの事物性への志向があり、この眼に見えないものへの偏愛とともに、渦を巻いてわたしのなかに混沌としてある。
そういうものの一端を掴み取りたいと思う。わたしの中で渦を巻くものを写真は掬い取れるのだろうかと思う。

ところで中原中也ってあの黒い帽子とマントの有名な写真しか現存していないんだと思っていたら、普通にスーツ着て写真館で撮ったような写真も残っている。これはね、これはちょっと興ざめ。あの有名な写真しか残っていないというほうが浪漫的だったなぁ。


☆ ☆ ☆


フィルム使いにとっては朗報となるものの情報を一つ。
コダックが今年の後半、リバーサルフィルム(ポジフィルム)を一種類復活させるそうだ。復活するフィルムはエクタクローム。
リバーサルフィルムに関しては、2012年にコダックが全廃してから、フジの感度100のものが二種類残っているだけだった。そういう選びようがなかったところに久しぶりに選択肢が一つ増えることとなった。
廃止したフィルムの復活をコダックに決断させたのは、再びフィルムを使う人が増えつつあるということだったらしい。
これは何だか心強い。
フジも見習ってモノクロの感度400のものと、リアラを復活させてくれないかなぁ。リアラは本当に気に入って使っていたから廃盤にされた時は途方にくれた。
それとさらに希望を云うなら、利用者が少なくなっているからという理由で急速に値上がりしていったのを多少は元に戻して欲しいところだ。でも値下げはちょっと無理かな。
とりあえず一度製造廃止になったフィルムが復活するのはほとんどないことだったから、これは単純に嬉しいし期待したいと思う。
コダックはもう見捨てて、フジに鞍替えすると云っていたんだけどね。またちょっと応援してみるか。


☆ ☆ ☆


Whispering a Prayer - Steve Vai


スティーヴ・ヴァイのこの類の曲は結構聴き惚れてしまうものが多い。後半はいつもの派手なギターパフォーマンスになるものの、どこかアジアの大草原を吹きぬけていく風を思い起こすような壮大で、愛らしい祈りの曲。
こういうのを聴きながら、祈りの写真とか撮れるのかなぁなんて空想は広がっていく。
先にあげた見えないものへの偏愛の項に祈りも加えておきたい。


☆ ☆ ☆






平城山 水の輪環

平城山 池
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





川の段差
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





藻
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400



平城山と書いて「ならやま」と読む。わたしも実際にやってくるまでこういう風に読むとは知らなかった、というか当たり前の如く「へいじょうやま」と読んで疑問も抱かなかったので、このことに関してはえらそうなことは云えない。PCに打ち込んでみると「ならやま」で一発変換できるから、この読み方で知れ渡っているのだろう。でも読ませ方としては結構無理があるなぁ。
JR奈良線の木津駅の一つ向こう側の駅で、京都から乗っているのを前提に書いているから、いちいちどちら側から向かってといった方向は示さないけれど、終点の奈良の一つ手前の駅となる。
笠置に通いだしてから、黄檗辺りまでは乗ったことがあったJR奈良線のさらに先のほうまで乗るようになって、でも笠置へは木津で別の路線に乗り換えていたから、奈良線の木津以降の方向へは初めて乗ることとなった。木津で乗り換えもなしにそのまま乗って発車するのを待っている間、必ずここで乗り換えていたものだから、今日は乗り換えなくてもいいのか?乗り換えるなら今だぞと、意味もなくせかされてるような気分が湧き上がってきて落ち着かなかった。木津から終点の奈良までは二駅なんだけど、いつもは木津で降りているその先の光景が始めて車窓の外を流れていくと、それはそれなりにまた笠置に行き始めた頃のように新鮮に眼の中に入ってきた。
近鉄の奈良駅周辺はどんなところか知っているから、この日、本当は終点の奈良まで乗ってJRのほうの奈良は一体どういう風になっているのか、その様子を見に行ってこようと思っていた。ところが木津を出てから程なく車窓に大きな池と縦横に走る川、駅に入る頃に巨大な金属柱風の構築物と、時計が設置してある何かの塔状のものが見えてきて、興味を引かれて奈良まで乗らずにここで降りてしまった。
一応奈良まで行ってみようという大枠はあったものの、基本的にはどこへ行くと決めての行動でもなかった。でもそんなゆるい思惑であっても、降りる明確な予定もなかった駅にいざ降りる段になると、行動し始めるのに思いのほかエネルギーを必要とする。実際にやってみると分かるけど、意味も必然性もなくここで降りてみようと思っても、電車のドアを跨いでホームに足を下ろすのはそれなりの勢いと決断を要する。

この日は車窓から見えた場所へとにかく行ってみようと思って歩き始めた。時計塔のある場所はなぜか奈良バイパスに阻まれて近づくことが出来ない。あとで道路の向こう側に渡る道を見つけたけれど、この時は近場で渡る場所が分からなかったのでそちら方面に向かうのは諦めて、線路沿いに見えた池のほうへ行ってみることにした。
そして撮ったのが今回の写真だ。

☆ ☆ ☆

池は二つ並んでいて、この写真を撮った池の名前は分からず、隣にあったもう一つの池のほうは五領池と云うらしい。
曲がりくねった川、といってもほとんど人工的に作ったような川だったけど、その川と池の狭間に延びている道を行くと、三脚を立てた人が点々と佇んでいる。三脚の上には巨大なバズーカのような望遠レンズをつけたカメラが乗っかっていた。
何だか妙に胡散臭そうな視線を投げかけられ絡められて、わずかに目礼めいたものを返して歩いていった。池のほうを見ると水鳥が飛来していて、どうやらこれを撮ろうという人が、この日に限ってのことではなく、常時数人はやってきているようだった。
わたしはそういうのを撮る気がまるでないし、そういう人が集まりそうな場所にも絶対に行かないから、あんな巨大なレンズを掲げて木陰から遠くのものを狙っている人が本当にいるんだと、ちょっと珍しいものを見たような気分になった。

最初のはバズーカレンズが設置されているような場所からは幾分はなれて撮った。逆光の写真だ。逆光も光の内なんだけど、いかにもドラマチックで見栄えの良い雰囲気の写真が撮れる反面、イメージとしてはありきたり。綺麗でドラマチックでなおかつどこかで見たような退屈な写真といったものになりがちだ。本当のところはそういったギミックめいたものを使わないで印象に残る写真を撮りたいところだ。

ちなみにわたしは「風景」という言葉がどうもね、好きじゃない。この言葉で連想するのは、上に書いた言い方をもう一度使うなら、収まりかえった泰西名画風で、綺麗なんだろうけど退屈といったもの。だから気がついてる人がいるかもしれないけど、このブログで今まで一度も「風景」という単語は使っていないはずだ。わたしは空間を撮ろうとはするけれど、「風景」なんか撮りたくもない。根はいい加減でも、こういうところは結構頑ななんだなぁ。