真昼の光の中、垣間見えるもの / Simple Use Film Camera かっこいいひねくれカメラ

嵯峨野川縁1






嵯峨野川縁2






嵯峨野チョコレート八つ橋





嵯峨野鏡台

「森で木が倒れるとき、その音を聞くものがいなかったら、そもそも音はするのか」
ロバート・J・ソウヤーのSFミステリ「ゴールデン・フリース」に出てきた一節。移民宇宙船の航行途上で船内のコンピュータが乗員に対して殺人を犯す話で、語り手を当の犯人のコンピュータが勤める形の倒叙タイプのミステリだ。犯人は最初からコンピュータだと分かっていて、船内のすべての情報を犯人であるコンピュータが制御している中で、探偵役の主人公がどうやって真相に迫っていくのかが読ませどころとなる。今のところ半分ちょっとすぎくらいまで読んだけど、ミステリとしての出来はいまひとつ、真相を巡ってのコンピュータとの騙し合いのような展開にはなってない。どうやらコンピュータが犯した犯罪の動機にとんでもないものが用意されてるようで、この辺りの意外性でミステリ的な興味のすべてを納得させようというような趣向らしい。
まぁそれはともかく、こういうお話のなかに上の一節が出てきた。設問としては形を変えていろんなところで見るような類のものかもしれない。物語のほうの主人公はこの問いかけに対してYesという答えだったけど、わたしはどちらかというとそんな音は存在しないと考える。
シュレーディンガーの猫っぽい世界のほうが流動的で面白いと思うほうだし、誰が聞いていようがどうしようが、そんなこと関係なく音がするというような世界は固定的で静的すぎて退屈だろう。観察者の存在によって世界は始めて固定化される。観察されない世界はYesもNoも重なり合ったどちらともつかないものとしてある。それは一体どんな世界なんだと想像すれば眩暈を起こしそうなほど不思議な世界となるだろう。
何かね、ゴールデン・フリースのこの件を読んでるときに写真のことを思い合わせてた。写真も対象と対峙し見ることで目の前にあるものとそっくり重なってはいるものの何か新しいものを生成させ引き出して一枚の絵を作ってるんじゃないか。観察すること徹底的に見ることで垣間見えてくるものがあると信じるから写真機を持って街に出かけようとしてるんじゃないか。
観察されなければ、徹底的に見られなければ存在を顕現しようとはしない何か。そんなのが、それだけとはいわないけれど写真を撮る有力な動機、対象になるんだろう。
逆に世界には未だに観察されない、徹底的に見られなかった何かが層を作ってそこらじゅうを埋め尽くしてるなんて考えると、世界は発見されていない宝の山の中にあるとも考えられて、何だか楽しくなってくる。

嵯峨野で撮ってはいても観光地には立ち寄る気にはなかなかなれない。と云っても一応はその辺りまで足を伸ばしはするんだけど結局シャッターを切らずに戻ってくるっていうような撮り方をしてる。せっかくだから竹林の道なんていうところも行ってはみるんだけど、ちっとも写そうという気分になれない。
で、嵯峨野に行っては特に嵯峨野でなくても良いような街の写真ばかり撮ってきてるんだけど、撮ってきた自分の写真を眺めてるとやっぱりこういう普通に見える場所を撮る時には審美眼のようなものを問われてるんだろうなぁと思うこともある。

少し顔をのぞかせているものっていうのも気を引く対象かも。その向こうに何かここからは見えない世界があるって言うような予感、そういう含みがあるのが何だか楽しい。

嵯峨野玉葱祭
2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100 / Olympus Pen EES-2
Fui業務用400



☆ ☆ ☆


最近こういうカメラを買った。

ロモシンプルユースフィルムカメラ1

ロモシンプルユースフィルムカメラ2
今すぐには使わないからまだ封は切ってないけど、ロモが発売したレンズ付きフィルム。要するにロモ版の「写ルンです」だ。黒地にオレンジのロゴがパンキッシュで、無茶苦茶かっこ良く見えて衝動買いしてしまった。アナログマッドネスなんていうフレーズもいい。モノクロはこういう外観なのに、カラーフィルムが入ったほうはボディに色が入ってこれほどかっこよくはなかったので、あくまでもこのモノクロタイプのがお気に入りだ。
もう一つ好奇心を刺激されたのは写ルンです同等のものとして発売されながら、フィルムの入れ替えが出来るようになってるということ。よくシンプルなカメラを写ルンですのように使えるとか表現したりすることがあるけど、これは写ルンですのように使える写ルンですそっくりのカメラといったところか。フィルム交換が出来るレンズ付きフィルムってかなりひねくれた存在で面白い。
一応フィルムの交換は感電注意の但し書きつきで自己責任ということになってるけど、やり方はロモのページに堂々と紹介してあった。

Simple Use Film Camera (レンズ付きフィルム) 詳細な使い方をご紹介

今のところアマゾン、ヤフー、楽天と、どこを覗いても扱ってないようで、ヨドバシカメラなんかにもおいてなかったから、結局ロモのウェブショップで注文することになった。送料が高くてここで買うのは嫌だったんだけどなぁ。アマゾンに置いてくれないかな。
ロモのショップでは結構売れてるようで頻繁に入荷待ちになってる。

ちなみに写ルンですのほうは一台、10枚ちょっと撮って、今撮影の真っ最中だ。ここにきて雨の日が続いてるから、濡れても気にならないカメラは持って出るにはちょうど良い。







ソウヤーのSFって昔読んだときは凄い面白い印象があったんだけど、今読んでる気分は、あれ?思ってたほど面白くないっていうのが正直なところかなぁ。これもミステリ風の発端で一応ミステリとして進んでは行くんだけど、半分すぎても主人公はコンピュータを疑うことすらしないで探偵らしい行動に向かわないし、犯人のコンピュータが好き放題にやってるだけの展開が続いてる。しかも動機は完全に隠されてるから、一体何がやりたいのかさっぱりわからないままに、犯人であるコンピュータの行動を見物させれらることとなる。謎を小出しにし、ところどころでひっくり返して驚かせつつ、興味をひっぱっていくようなところもほとんどない。J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」辺りの強烈なミステリ趣向を期待してると、完全に肩透かしを食らうと思う。
元々倒叙ものが好きじゃないっていうのもあると思う。最初から犯人がわかってるってもうそれだけで読む気力の半分くらいは失ってるもの。









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真昼の光の中 / 星降らない物置

中空のブランコ






木陰のアパート






干し玉葱

2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100
Fuji 業務用フィルム 400

星が降り心霊が舞い飛んだ写真を36枚も撮った後、やっぱりあの空間、きちんと撮れなかったのは心残りだなぁって云う思いが渦巻いて仕方ない。そこで今度は自分の持ってるカメラで一番失敗が少ないF100に36枚撮りのフィルムを装填して、もう一度同じ場所へ撮りに行って来た。星降る画面の背後でどこを写したかはそれなりに判断できる程度には写ってたから、そのなかからここは思ったほどじゃなかったと云うところは省いての再撮影だった。
感覚的には新鮮味も何もない二番煎じの一本だったけど、内容的にはなにしろ心霊が舞う一本である程度どんな感じになるかを見た上での良いとこ取りの撮影になったから、結果はもちろんお気に入りが詰まった充実の一本になった感じだ。何ならここで全コマ一枚ずつ毎日アップしてもかまわないくらい。全コマといえば以前にフィルム一本、何でこんなのを撮ったんだと自分でも首を傾げてしまうようなのとかどうしようもない出来のコマも含めて全部アップして、自分の意識の流れのあとをつけてみるのも面白いかもと思ったことがあった。実行には移さなかったけどね。デジタルにはフィルム一本という区切り、纏まりが無い。フィルムはロールフィルムを使ってる分にはこれを結構意識する。この区切りの単位はそこに収めていく写真にも何らかの影響を与えているかもしれない。サージェントペパーズのようなコンセプトアルバムに比するコンセプトフィルムなんていうのも出来てくる可能性だってある。
それにしてもF100の分割測光は精度が良いというか、本当にめったなことじゃ外さないなぁ。影がくっきり出る雲ひとつ無い晴天の昼間、そこらじゅうに濃い影が落ちてる空間で、光の部分も飛ばずに影の中も潰れないできちんと捉えてる。確か説明書に分割測光を使ってる時は露出補正はするなと書いてあったと思うけど、それだけニコンのほうにも自信があったんだろう。おまけにオートフォーカスとプログラムオートで使ってるから、やってることはフレーミングしてシャッターボタンを押してるだけ。云わば超豪華な写ルンですといったところだ。
唯一の難点は見た目がいわゆるデジイチのおにぎりのようなずんぐりしたスタイルに移行していく過程のデザインになっていて、クラシックカメラのオーラが皆無なこと。最近のデジタルはクラシックカメラ回帰のようなデザインのが増えていて、これはこれで紛い物臭くてやめてくれと思うんだけど、そういうのに比べるとF100はダサいデジイチのそれもさらに古臭い形っていう雰囲気をどことなく纏ってるのが、何とかならなかったんだろうかと思う。でも性能の良さが見た目を完全に上回ってるのでお気に入りのカメラだけどね。

ちなみに最後の写真が前回の星降る物置と同じ場所。吊ってある玉葱の、群れを成す複雑な赤い色と枯れ草色が撮りたいと思ったポイントだった。




☆ ☆ ☆




無印フィルムで十分って云う感じがする。10本まとめてだとそれなりの値段になってしまうけど、一本当たりにしてみるとブランドがついたフィルムの大体半額くらいだし、結果は半額を確実に上回ってるものとして出てくるように思う。








笠置拾遺 / 荒木経惟 + 陽子 「東京は、秋」

笠置渓谷






銀の帯の廃墟風






笠置路地







笠置猫2






笠置商店2






笠置の波紋


2016 / 11
笠置
Nikon F100
Kodak SuperGold400 / Agfa Vista Plus 400

去年の秋の終わり頃に笠置に行って撮っていた写真からまだ載せていなかったものを何枚か。
それにしてもこの頃執拗に通って撮っていたのに紅葉が始まるくらいの頃から一気に足が遠のいた感じだ。理由は簡単でつぎに行ったらあの笠置山を登らないと気がすまないだろうなぁと、天辺に紅葉の公園があるらしいからこんな時期に行ってしまうとなおのことあの山登りをせざるを得ない気分に追い込まれるだろうなぁと、そんなことを考えたからだった。あの山道、利用しやすいハイキングコースのように案内されてるくせに結構きつい。ここのいくつかあるハイキングコースって、自然任せの何だか危険な臭いがぷんぷんするところがあって、そのうちの一つは落石の危険があるということでわたしが通っていた間中完全に閉鎖、また今回の二枚目の写真はそのコースの他の一つ、山の中腹でJRの線路脇を併走する銀の帯と命名された場所なんだけど、この森の中から忽然として現れた古代遺跡風のアーチのすぐ向こうをJRが走ってる。ここは金網がはってあるけど、途中は真横の線路との間にこんなに頑丈そうな柵がないところもあって、また反対側も足を滑らせればそのまま木津川渓谷にまっさかさまと、こんなところ本当に歩いていいのかと思うこと必至のコースだったりする。しかもわたしがここを歩いたのは雨が降った数日後だったから、山から流れてくる水がまだ途切れておらず、足元はぬかるんで滑りそう。誰とも出会わない奇妙な静けさのなかにいたことも相まって妙に怖かった。

この後笠置に至るJR沿線の駅や同じく南に延びる近鉄沿線の、普通だったら降りる用事もない一生縁のなかったに違いない駅に降りて撮影行の行動範囲を広げていった。紅葉を過ぎれば笠置山に登らなければという強迫観念も薄れるかも知れないので、再び冬の笠置に写真を撮りに立ち寄っても良かったはずだったんだけど、結局はそうはならずに京都の南、奈良の北側で歩き回ることに専念していた。
でもただの郊外の農地に立って、辺境の惑星にでも降り立ったような気分にふけるのも、なにしろ正直に云ってしまうとこちらがかなり能動的なフィルターでもかけて眺めないと、客観的には何もない退屈極まりない場所がほとんどだったりするから、さすがに飽きてきて、最近は嵯峨嵐山辺りに行く場所を変更してる。観光客の外国人がぞろぞろと歩いてるというのが、誰もいない農地の真ん中に立っていた者にとっては妙に新鮮だ。嵯峨野あたりで観光地的な雰囲気を排除して写真を撮る遊びのようなことをやってる。



☆ ☆ ☆

東京は、秋1

東京は秋2

東京は秋3



荒木経惟が東京を撮っていた写真を集めた写真集。荒木経惟の写真集って東京と名前がついてるのが山のようにある印象で、しかもタイトルに東京とついてなくても、どの本も大抵東京の写真でもあるから、どうにも区別がつきにくいところがある。で、この本はそんな区別のつきにくい写真集の中ではちょっと風変わりで、本の中に並んだ写真を今は亡き陽子夫人と一緒に眺め、その写真についてちょっとした会話を交わしているのを写真に並べて載せるという構成になってる。
その会話が写真を肴にして、思い出の場所であったりするものを仲の良さそうな雰囲気で喋ってるのが伝わってきてなかなか楽しい。そしてその会話は写真の素人とプロが会話しているといった教え教えられる堅苦しい関係のものとはかなり違う。
荒木経惟も、自分の撮った写真を前に、ここの、この電柱の並び方が良かったんだよとか、その場で目の前にあったものに対してどういう関心事でシャッターを切っていたのか、そういうことを日常会話として楽しそうに喋ってる。
荒木経惟の写真や言葉は私小説風を装ったりと、時に策略に満ちていてそのまま鵜呑みに出来ないところも多々あるようにわたしには思えるんだけど、この本ではそういうところはあまり感じられない。
また、写真に関する態度についてところどころで明かしているのも面白い。たとえば歩道橋を行く人の写真について、ぶれると物(ブツ)じゃなくなるから、自分はぶれるのが嫌いで、隅々までピントが合うように絞り込んで撮るとか、水溜りに落ちて吹き溜まったものの写真では、写真屋さんは町が表現しているものをそのままフレーミングしてくりゃいいんだよと云い、また、背中に太陽を背負って撮るのが一番面白い、なぜならのっぺりしたなにもない写真となって、そういう写真は見る人がそこに自由にドラマを組み立てやすくなるからという風に語る。
写真はちっとも真似をしようとは思わないんだけど、考え方は自分と近いものが一杯ある感じで共感するところが多かったりする。

荒木経惟って自分にとってはなんか妙な存在の写真家なんだな。真似したくなる写真でもないのに、機会があれば荒木経惟の写真を好んで眺めてる。言動を見れば共感する部分は多いのに気づくんだけど、それでも影響を受けてるのか受けてないのかよく分からない写真家だ。







最近再版されたみたい。本屋で中身を見てみると、こっちのほうがサイズも大きく、写真も大きく載ってるけど、その大きな写真を本の綴じ目を跨いで載せていた。1ページにつき写真一枚という形で載せてるわけでもないのは、いくら写真が大きくなったとはいえ賛否両論ありそうだ。


アグファもよく分からないなぁ。この会社、結構前に倒産したんじゃなかったか。フィルムは別の会社が名前を引き継いでどうのこうのっていうのはどこかで読んだことはあるけど、おそらく大手のOEMなんじゃないかな。
昔この名前で出ていたフィルムとはおそらく中身はまったくの別物だろう。




重力の庭 Gravity Garden / 松江泰治写真集 「 Cell 」

集積階段






焼肉






駐車ライト






浮き草
2017 / 02 (1)(2)(3)
2015 / 10 (4)
長池 / 近所
Nikon F100 / Contax T3
Lpmography Colorne3gative 100 / 400

日本語の単語だと、一文字違いのトマス・ピンチョンだ。
ちょっと特殊な言葉使いでかっこいいと思ったんだけど、Gravity Gardenと英単語に置き換えて検索してみると結構ヒットした。それもここで使おうとしていた意味とはまるで関係ない単語として。
ユニークな言葉を使おうとしても大概先に誰かが発想してる。こういうことを知ると本気でげんなりする。

一見なんてことのない光景であっても、どこか空間の質感が特別に見える場所がある。そこだけ比重が大きくなってるとか、さも異質の重力がかかっているような気配。というかどんな空間でも様々に重力がかかっていてそれは均一じゃない。その重力のかかり方の比率は主観的、わたし個人の関係性において発生しているだけでまるで一般的じゃないんだけどね。だから他人にとっては何だか重要に見える空間でもわたしにはさっぱり関心を呼ばない場所であったり、またまるで逆に、わたしにとっては特別な印象として繋がれる場所が、他人にとってはまったくどうでもいい空間であったりもする。
万人に一様に重力がかかっている空間もある。風光明媚な場所とか観光の名所とか。でもその重力のかかり方をしている場所は最近ではちっとも関心を呼ばなくなってる。カメラを持って対峙して、今一番興味を引かれるのはわたしとの関係において発生する重力の密度だ。
でもその空間の密度を写真の形に出来るかと云うと、それはまた別の問題になったりする。なかなか思うようにはいかないものだ。

三枚目の駐車場のライトと柱の写真は車の後ろの一部はもうちょっとフレームの中に入っていたほうが良かった。四枚目のは水面のグラデーションが上手くスキャンできなかった、もう一度スキャンしてみたい気分だけどしまい込んだネガを探し出すのに一苦労しそうで断念した。撮り終えたフィルムは数が多くなってしまって、有効な方法を思いつかずに上手く整理できなくなってきてる。
店で現像してもらってる場合はフィルムの先頭にナンバーを記したタグが貼られていて、一度これが上手く貼れなくて店の人にお詫びされたことがあった。わたしはほとんど意識してないタグだったので、なぜお詫びされるのか分からなかったんだけど、聞いてみるとこのタグのナンバーをフィルムの整理に使ってる人がいるという話だった。
みんなフィルムの整理には苦労してるんだろうな。


☆ ☆ ☆

T3
最後の花の写真を撮ったのがこのカメラ、CONTAX T3。
わたしの個体は若干アンダー気味に出てくるようで、これで撮ったカラーネガはほとんど壊れてるわたしのスキャナーだと結構読みにくい。ひょっとしたら元々ポジフィルム用にチューニングされてるのかな。
ヤフオクだと下手すれば今でも10万越えて落札されてる時もあって、コンタックス人気は衰えてない感じがする。
わたしが買ったのはヴォルフガング・ティルマンスが使っていたという理由でかなりミーハー的な動機だった。でもコンタックスのカメラはもう一つ持ってるTVSⅡとも、どちらも手にしている感触に独特のものがあってどこか馴染めない。一番はシャッターの感触で、ちょっと触れただけで落ちるくらい敏感すぎる。半押しの力加減は結構慣れが必要で、押し切るつもりもなかったのに、あっというまに全押し状態で一枚写真を撮ってしまったという事態になる。
よく写るカメラであるのは間違いないとして、わたしは昔中古を5万くらいで買ったんだけど、これでも値段相応かと言うとそれほどでもないかなと云うのが正直なところだったりする。使っている道具としての手に伝わる感覚って意外と思い入れに反映されるんだな。
と云う感じで、高価な買物だったわりにいまひとつ思い入れをこめられないところがあるT3だけど、最近使ってないしそろそろまたフィルム入れてみてもいいかも。

☆ ☆ ☆

松江泰治の写真集「Cell」
cell1

cell2

cell3

とってもユーモラスでしかも俯瞰好きの琴線に触れまくる写真集だ。わたしは本屋さんの店頭、写真集の棚で初めてこれを手に取ってみた時から欲しくて仕方なかった。結構高い写真集だったからなかなか手が出せずに、ヤフオクで手軽な値段で出品されてるのを見つけてからようやく手に入れることが出来た。
一見どうやって撮ってるのか不思議に思うんだけど、航空写真並みの視点から大判を使って撮った写真の、ごく微細な一部を正方形に切り取り、極端に拡大して一枚の写真にしているということらしい。
松江泰治によると人の眼はきちんと見てるようで本当のところはそんなに見てはいない。この作品群はそういう視点から、大判で細部まで写りこむ方法で撮った細部を微細に切り出すことで、見ていながら見ていなかった光景を見えるものにするといった意図で撮られてるらしい。
写真そのものは切り出す全体の大判写真を提示してるわけじゃないから、元がはるかに大きな写真だったというのは直接的には説明はされてないんだけど、大判で撮ってもこれだけ小さな部分を切り出すとざらついたテクスチャになったりするから、非常に小さなポイントを凝視しているのだという感覚は良く伝わってくる。この感じは盗視という感覚に非常に近い。密やかな誰も注視していないところをたまたま息を呑んで盗み見ているといった感覚だ。キャンディッド・フォトなんかが近そうに思えるけど、盗み見ている感じはこちらのほうが格段に強くなってる。人の秘めた生活の一部を遠くから知られずに覗き見ているんだという、この下世話でちょっと背徳感を裏打ちにしているような感覚がなかなか楽しい。
被写体は圧倒的に人。カメラの前で取り繕わない、人のユーモラスで愛らしい様子が写真集全体に散りばめられてる。人の様子を写すものとして、雑踏を写したものとはまた別の感触があって、人の存在に対する親愛の情はむしろこっちのほうに満ちているような気がする。
それに、この写真集の成立はかなりコンセプチュアルなものなんだけど、イメージの出来としてもきちんと絵として成立しているのがいい。コンセプトなんか関係無しでもイメージ的にだけで見るに耐える画像に仕上がっている。全部真四角のフレームに納まってる写真で、真四角フレームだと途方にくれる場合が多いわたしにはスクエア・フォーマットの使い方、絵の作り方で非常に得るものが多い感じがした。






アマゾンでも中古を出品してる業者がいた。でもこれ、買う人いないだろう。




ロモのやっすいフィルムの中でオーソドックスなネガフィルムとなると、この感度100のがお気に入り。感度400はもう一つだなぁ。
先日ビックカメラに買いに行ってフィルムの冷蔵棚の中を見れば、置いてあったロモのこのフィルムは消費期限が来年の夏くらいのものばかりだった。若干古いのが置いてあるままといった印象で、ひょっとしてロモはもうフィルム作るのをやめてるってことはないだろうな。あのアナログのトイカメラで遊びたおしてたロモもデジタルの製品を少しずつ増やしてるし、その延長でフィルムの生産をやめるなんて云い出さないで欲しい。



コンセプトが前面に出てくるものは写真に限らず美術なんかでもあまり好きじゃないんだけど、これは写真としても面白かった。
ただ、どうもどこかでこういうのを見てるような気がするという感覚が本を開くたびに呼び起こされて、後で気づいたのはグーグルマップに感覚的に近いんじゃないかということだった。無限にクローズアップできるグーグルマップがあれば、きっとこんな感じのイメージが得られるはずだ。でもグーグルマップは無限にクローズアップできないし、やっぱりこの写真集が唯一無比の存在であることには変わりないんだけどね。




辺境 / コニー・ウィリス「航路」

繋がる場所





行き止まりの陸橋





クレーン二連





木立の中の顔

2017 / 01
2017 / 03
2017 / 01
2017 / 03
近所 / 高の原 / 新大宮
Nikon F100 / Yashica Electro 35 GX
Lomography Colornegative 100 / Fuji Provia 100F


「辺境」という観念は結構好きだ。対立する観念は「中央」といったところだろうと思うけど、中央で正統的でふんぞり返っているようなのよりも、周辺でいつも中央を穿とうとする不遜な雰囲気が生じて来そうなところが好きだ。中央だけでは生まれなかったような動的な何かが生まれてくる場所のような気がする。あるいはまた、まったく同じ場所で逆に取り残されてその場で立ち腐れになっていくといった退廃的な雰囲気もある、オルタナティブな場所なんていうのはかっこよすぎか。
境界域というのも好きな観念だ。ここから先はもう明らかに違った世界が広がっているという予感。その瀬戸際に立っているという期待感と不安感。そんなのもひっくるめてわたしの「辺境」は成り立ってる。

住んでいるところだって京都の中心でもない。わたしの中には具体的にも観念的にも「辺境」が幾層にも折り重なって存在しているようで、写真も実際に「辺境」に立たなくても「辺境」的な気配に反応して撮っているところが多いかもしれない。
ということで最近は京都の南や奈良にいたる辺りの農地が広がる町外れに出かけては、世界の果てにでも降り立った気分でいるといったところか。実際には郊外といったほうがぴったりくるんだろうけど。郊外といってしまうと「辺境」という観念が含んでいたものが面白いように霧散してしまうなぁ。

☆ ☆ ☆

最近コニー・ウィリスの「航路」を読んでる。かなり以前に「このミス」で話題になった小説だったと記憶してる。最初に出た単行本はパスして、その後文庫になった時に購入。そしてそのまま積み上げてる本の中に紛れてしまってた。積み上げて放置していた未読本の切り崩しにかかってる一環でようやく手に取ったというわけだ。今やわたしの持ってる文庫とは違う出版社からさらに新しい形の文庫として出ているくらい買ってから時間が経ってしまっている。
で、まだ読み終えてなくて三部構成になる長大な物語の、今第二部の終盤辺り。噂ではどうやらこの部分にサプライズがひとつ用意されてるそうで、寸前まで来てこれはちょっと楽しみではある。
臨死体験がテーマの小説で、臨死体験で見た場所の謎解きめいたところがあるから、若干ミステリっぽい味つけをしてある。でもこの味つけで物語を引っ張っていくほどの牽引力は生まれてこなくて、今のところ小説としては冗長、本気で長すぎる。舞台はほとんど病院から移動せずに、臨死体験実験の被験者ボランティアが語る体験の内容が人を変えて延々と続くだけ。そういう動きのない物語を動的にするための仕掛けは横槍を入れ邪魔をしに来るキャラクターを多層レベルで用意しているのと、頻繁な行き違いを設定している程度で、メリハリをつけるためなのか何時行っても絶対に閉まっている勤務病院のカフェテラスなんていうあまり笑えないシチュエーションコメディの要素も織り交ぜて、これが動きやサスペンスを生み出すというよりもいちいち物語を中断させて鬱陶しい。
それにしても臨死体験をテーマに小説を書くって、まぁこの話の中のものは薬物を使って擬似的にそういう状態を作り出しているだけで、それは臨死体験じゃないだろうと突っ込みを入れたくなるんだけど、それはともかくこんなテーマでよく何か書こうと思ったものだと感心する。おそらくどんな作家でもこんなものを十全に描ききるには力不足だろうし、この「航路」でも今のところ書こうと思いついたことに、思いついたコニー・ウィリス自身の力量が追いついていないという感じがしている。

よく言われるような死んだ親しい人と再会したとか光に満ちた場所で天使にあったとか、世界の秘密を知ったとか、臨死体験のイメージにあるようなものは、見たいと思ったものを見ているつもりになってるだけとし、そんな作り話じゃなくて科学的アプローチで真相に迫ろうとする科学者が主人公になって、自らその臨死体験の被験者になりながらもそこで見たヴィジョンの意味、真相を探っていく。
臨死体験で流布されるお決まりのイメージに新奇な味つけをしてファンタジー交じりに語っても十分に形になる内容だと思うけど、何だかコニー・ウィリス自身があえて茨の道を歩もうとしているような展開のお話だ。

でも従来の臨死体験イメージを否定するのはいいとして、だからといって物語の中のプロジェクトが進める、それが瀕死の脳内化学物質の反応によって生み出されることの実証と解明なんていう結末に持っていくのは小説としてはまるで面白くない顛末にしかならないのも予測できる。
この物語は一体どんな終着地点へ繋がって行く航路なのか。それがなかなか見えないって云うのが面白いところではあるんだけど、これ、読者を納得させるには、死に臨んだ体験の先にあるものをよほど予想外でなおかつ十分に肯定できるものとして用意しておかないと話にならないわけで、他人のものとして間接的にしか誰も経験したことがない死という事象に対してこんなものを用意できるわけないだろうと思うと、やっぱり無茶なテーマに挑んでいるなぁというのが第二部の終わりくらいまで読んだ今のところの感想となってる。
だから物語そのものは動きがなくて冗長なんだけど、どう考えても困難そのものといったその航路が導く先の光景を見てみたい、作家の無謀な試みの結果を見てみたいと思う興味はなかなか失せない。
宣伝によるとすべての謎が解かれ、感動的な結末が用意されてるそうだけど、これは宣伝文句だからなぁ。さて最終の第三部はどんな話が待ってるんだろう。