薄明

西の空に明けの明星が輝く頃





スタンド





闇の工場





光の車





屋上



2017 / 01 / 奈良 新大宮
NIKON F100 / OLYMPUS PEN E-P5 / FUJI CARDIA Travel Mini DP
Kodak SuperGold 400


今日、半月前に頼んだモノクロフィルムの現像が上がっていたので取りにいってきた。フィルムを入れてあった袋にはKJイメージングという会社名とKJ浦和なんていうスタンプ文字が見える。浦和ってひょっとして関東?関西では聞いたことがない地名だけど、関東まで持って行ってたのなら、それは遅くなるだろうなぁ。恐れていた現像代は800円ほどだった。カラーネガよりも若干高いか。自分でやれば30分もかからないし、やっぱりモノクロは面倒臭がらずに自分で現像しよう。

☆ ☆ ☆

前回の続きのような、暗闇の中にまぎれて撮っていた写真から。

最初の写真を眺めながら、西の空に明けの明星が輝く頃、なんていうタイトルをつけてウルトラセブン最終話を気取ってみようと思ったものの、残念ながらこれは朝の空じゃなくて夕闇が迫る頃に撮ったものだ。
セブンのナレーションに関しては、明けの明星は東の空だろうというつっこみが最終話放送の昔からあったそうだけど、ただこれは西の空という言葉もあえて使って、意図的に朝と夕方をごちゃ混ぜにしたイメージにしようとしてのことだったのかもしれない。

パラボラアンテナが並んでいる光景がかっこよくて撮った写真だった。でも何だか画面がせせこましい。一杯並んでいるのが面白かったのに、それがいまひとつ生きてこない。バックにある鉄柵も余計だったかなぁ。薄明の空もアンテナと同じくらいポイントだったのに、アンテナに気を取られて空を大きく取れなかったのもその場の思い違いだったんだろうと思う。
あるいはその何かを見て直感的にイメージしたものを具体化しようとしても、その直感を得た対象そのものがそこから発想し具体化しようとするイメージにいまひとつそぐわなかったと、そんな場合もあるかもしれない。

で、薄明といいながらそれっぽいのは最初の二枚だけ。パラボラアンテナの写真を眺めて思いついただけなのでそんな感じに収まってるんだけど、薄明というキーワードを思いついたのならそのキーワードに沿って、今度は意図的に写真を撮ってみるというのは良いかもしれない。思いついたものは何でも、そこから派生的に展開できる道筋が見えるかどうか確認してみたほうがいいと思う。
ウルトラセブンがごちゃ混ぜにしたような、何時の時間帯とも知れない薄明の広がる世界で写真を撮るのは面白そうだ。マジックアワーなんていう手垢のついたものへ寄りかからずにやろうとするなら、一気に難易度は跳ね上がりそうだけど。

闇に向かう写真中心に乗せているので、今回の締めは明るいものにしてみる。次もまた闇に向かうかもしれないし。
それにしても今年の冬はこんなに一点の曇りもない青空とか、本当に数えるほどしか目にしなかったなぁ。

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恐ろしき錯誤 + 太陽の子供たち - 小野リサ

東寺・堀





日向の柵





風が通り過ぎた時





工事中の東寺の一角






歪な植木

2016 / 12 / 東寺
Nikon F100
Fuji 業務用400


まぁ、大層なタイトルだけど、去年の暮れに弘法市の日だと錯覚して、行ってみたら誰も居なかったという程度の意味合いだ。
どうも最近内容がタイトル負けしているような気が…。

弘法市ということで場所は東寺。
え!うそ!誰も居ない!!
と思ったものの、そのまま帰るのも癪に障るので、周りの町中を歩いたり東寺に戻ったりしながら写真を撮っていた。東寺って周辺の街は京都らしさもまったくなくて街そのものの雰囲気も晴れやかさなんて皆無。東寺の周辺というわりに古びて風情があるほどでもなくて、ただただ平坦に見栄えもしないでそっけない。東寺そのものも拝観料を払わない場所はあまり撮りたいとむらむらするところがないんだよなぁ。
とまぁ、何かを無理やり撮って帰ろうって云う算段に傾きつつ撮ったこのなかでは、自分としては一番最後のがお気に入りかな。最近意図的に試みることがある、どうってことのない被写体をどうってことのない振りをして撮ってみる感じの写真。この前のにも書いたけど、やっぱりどこかに撮りたいと思ったポイントがあり、どうってことのない見せ掛けに見え隠れして、自分の中ではそれほどどうってこともなくないところもある。

写真はかっこつけた写真になるように写すいくつかのメソッドがある。平面化だとか、グラフィカルな図形的構図だとか、奇矯な視点だとか、ボケだとか、決定的瞬間だとか、逆光だとか。かっこいい写真の撮り方なんていう、そういうことに関した本なんかも一杯出ている。確かにこういう特徴のある要素を組み入れると見栄えのする写真にはなるんだけど、そういうものを使わないと写真にならないのかという疑問はいつだってわたしのなかにあった。おまけにそういう方法で生み出されるイメージの振幅は、派手に目を引くわりには意外なほど狭い。どれも、ああ、こういう方法で予測されるイメージねとすぐに納得できるほど、ある種類型化されたところがぬぐえなく存在する。
写真の本質的な部分はそういう簡単にパターン化されるようなものの中にではなく、まぁそれも写真だから幾分かは存在はするんだろうけど、大部分はもっと別のところにあるんじゃないかと思うところもある。
で、たまにはそういうかっこいい写真作りなんていうことに腐心するような視点から逸脱して撮ってみたくなるという訳だ。受けは悪いかもしれないけどね。
類型化された部分を意図的に増幅するような写真もひねくれて面白いと思うところもあるけど、それはまた別の問題。


☆ ☆ ☆


太陽の子供たち - 小野リサ


最近曇り空ばかり、変化があっても太陽が顔を出すとかじゃなくて雪が降ったりする空模様に本気で嫌気が差して、太陽の光を待ち焦がれつつこの曲で憂さ晴らしだ。










亡びてしまったのは、いったい何であったのだろう。 / Whispering a Prayer - Steve Vai

時計塔の煙突





風の気配





干上がった池の畔で





冬枯れの木


2016 / 11 平城山 (1)(2)(3)
2016 / 11 棚倉   (4)
Nikon F100 / 写ルンです シンプルエース
AgfaVistaPlus / フジ業務用

☆ ☆ ☆


束の間形となって現れ、虚空へ消えていくもの。
風の囁く声。
かつてそこにあった何か。
枯れ果て、そして再生していくものたち。


タイトルの元ネタは中原中也の詩の一節の、さらに一部から。かっこつけてみようと思ったけどあまり上手くいかなかった感じだ。
儚さ、揺らぎ、刹那、非在、喪失、異界、気配、変容、そういった眼に見えないものへの憧憬と偏愛。
一方でだだ眼に見えるだけの事物性への志向があり、この眼に見えないものへの偏愛とともに、渦を巻いてわたしのなかに混沌としてある。
そういうものの一端を掴み取りたいと思う。わたしの中で渦を巻くものを写真は掬い取れるのだろうかと思う。

ところで中原中也ってあの黒い帽子とマントの有名な写真しか現存していないんだと思っていたら、普通にスーツ着て写真館で撮ったような写真も残っている。これはね、これはちょっと興ざめ。あの有名な写真しか残っていないというほうが浪漫的だったなぁ。


☆ ☆ ☆


フィルム使いにとっては朗報となるものの情報を一つ。
コダックが今年の後半、リバーサルフィルム(ポジフィルム)を一種類復活させるそうだ。復活するフィルムはエクタクローム。
リバーサルフィルムに関しては、2012年にコダックが全廃してから、フジの感度100のものが二種類残っているだけだった。そういう選びようがなかったところに久しぶりに選択肢が一つ増えることとなった。
廃止したフィルムの復活をコダックに決断させたのは、再びフィルムを使う人が増えつつあるということだったらしい。
これは何だか心強い。
フジも見習ってモノクロの感度400のものと、リアラを復活させてくれないかなぁ。リアラは本当に気に入って使っていたから廃盤にされた時は途方にくれた。
それとさらに希望を云うなら、利用者が少なくなっているからという理由で急速に値上がりしていったのを多少は元に戻して欲しいところだ。でも値下げはちょっと無理かな。
とりあえず一度製造廃止になったフィルムが復活するのはほとんどないことだったから、これは単純に嬉しいし期待したいと思う。
コダックはもう見捨てて、フジに鞍替えすると云っていたんだけどね。またちょっと応援してみるか。


☆ ☆ ☆


Whispering a Prayer - Steve Vai


スティーヴ・ヴァイのこの類の曲は結構聴き惚れてしまうものが多い。後半はいつもの派手なギターパフォーマンスになるものの、どこかアジアの大草原を吹きぬけていく風を思い起こすような壮大で、愛らしい祈りの曲。
こういうのを聴きながら、祈りの写真とか撮れるのかなぁなんて空想は広がっていく。
先にあげた見えないものへの偏愛の項に祈りも加えておきたい。


☆ ☆ ☆






平城山 水の輪環

平城山 池
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





川の段差
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





藻
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400



平城山と書いて「ならやま」と読む。わたしも実際にやってくるまでこういう風に読むとは知らなかった、というか当たり前の如く「へいじょうやま」と読んで疑問も抱かなかったので、このことに関してはえらそうなことは云えない。PCに打ち込んでみると「ならやま」で一発変換できるから、この読み方で知れ渡っているのだろう。でも読ませ方としては結構無理があるなぁ。
JR奈良線の木津駅の一つ向こう側の駅で、京都から乗っているのを前提に書いているから、いちいちどちら側から向かってといった方向は示さないけれど、終点の奈良の一つ手前の駅となる。
笠置に通いだしてから、黄檗辺りまでは乗ったことがあったJR奈良線のさらに先のほうまで乗るようになって、でも笠置へは木津で別の路線に乗り換えていたから、奈良線の木津以降の方向へは初めて乗ることとなった。木津で乗り換えもなしにそのまま乗って発車するのを待っている間、必ずここで乗り換えていたものだから、今日は乗り換えなくてもいいのか?乗り換えるなら今だぞと、意味もなくせかされてるような気分が湧き上がってきて落ち着かなかった。木津から終点の奈良までは二駅なんだけど、いつもは木津で降りているその先の光景が始めて車窓の外を流れていくと、それはそれなりにまた笠置に行き始めた頃のように新鮮に眼の中に入ってきた。
近鉄の奈良駅周辺はどんなところか知っているから、この日、本当は終点の奈良まで乗ってJRのほうの奈良は一体どういう風になっているのか、その様子を見に行ってこようと思っていた。ところが木津を出てから程なく車窓に大きな池と縦横に走る川、駅に入る頃に巨大な金属柱風の構築物と、時計が設置してある何かの塔状のものが見えてきて、興味を引かれて奈良まで乗らずにここで降りてしまった。
一応奈良まで行ってみようという大枠はあったものの、基本的にはどこへ行くと決めての行動でもなかった。でもそんなゆるい思惑であっても、降りる明確な予定もなかった駅にいざ降りる段になると、行動し始めるのに思いのほかエネルギーを必要とする。実際にやってみると分かるけど、意味も必然性もなくここで降りてみようと思っても、電車のドアを跨いでホームに足を下ろすのはそれなりの勢いと決断を要する。

この日は車窓から見えた場所へとにかく行ってみようと思って歩き始めた。時計塔のある場所はなぜか奈良バイパスに阻まれて近づくことが出来ない。あとで道路の向こう側に渡る道を見つけたけれど、この時は近場で渡る場所が分からなかったのでそちら方面に向かうのは諦めて、線路沿いに見えた池のほうへ行ってみることにした。
そして撮ったのが今回の写真だ。

☆ ☆ ☆

池は二つ並んでいて、この写真を撮った池の名前は分からず、隣にあったもう一つの池のほうは五領池と云うらしい。
曲がりくねった川、といってもほとんど人工的に作ったような川だったけど、その川と池の狭間に延びている道を行くと、三脚を立てた人が点々と佇んでいる。三脚の上には巨大なバズーカのような望遠レンズをつけたカメラが乗っかっていた。
何だか妙に胡散臭そうな視線を投げかけられ絡められて、わずかに目礼めいたものを返して歩いていった。池のほうを見ると水鳥が飛来していて、どうやらこれを撮ろうという人が、この日に限ってのことではなく、常時数人はやってきているようだった。
わたしはそういうのを撮る気がまるでないし、そういう人が集まりそうな場所にも絶対に行かないから、あんな巨大なレンズを掲げて木陰から遠くのものを狙っている人が本当にいるんだと、ちょっと珍しいものを見たような気分になった。

最初のはバズーカレンズが設置されているような場所からは幾分はなれて撮った。逆光の写真だ。逆光も光の内なんだけど、いかにもドラマチックで見栄えの良い雰囲気の写真が撮れる反面、イメージとしてはありきたり。綺麗でドラマチックでなおかつどこかで見たような退屈な写真といったものになりがちだ。本当のところはそういったギミックめいたものを使わないで印象に残る写真を撮りたいところだ。

ちなみにわたしは「風景」という言葉がどうもね、好きじゃない。この言葉で連想するのは、上に書いた言い方をもう一度使うなら、収まりかえった泰西名画風で、綺麗なんだろうけど退屈といったもの。だから気がついてる人がいるかもしれないけど、このブログで今まで一度も「風景」という単語は使っていないはずだ。わたしは空間を撮ろうとはするけれど、「風景」なんか撮りたくもない。根はいい加減でも、こういうところは結構頑ななんだなぁ。







笠置へ その3 街のかたち / 猫の街

路地裏 市場墓地
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





市場墓地への路地
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400





浮遊巨石
2016 / 11 / Nikon F100 / Fuji Superia Premium 400





蔦と螺旋の歩道橋の上
2016 / 11 / Nikon F100 / Fuji Superia Premium 400





笠置猫1
2016 / 11 / Nikon F100 / Agfa Vista Plus 400


再び笠置で撮っていた写真から。最近は若干足が遠のいている。
まぁ多少は飽きてきたというか、入り浸っていると結構日常の範囲に入ってきている感じで、旅行気分も薄らいできているということもある。さらに今の時期は笠置は紅葉で舞い上がっているようで、これは誘いのように見えても必ずしも今のわたしにとってはそうはならない。もみじまつりの幟も立ち始めて丁度いいから紅葉を撮りに行こうかなとか書いていたけれど、こんな時期に行ってしまうともみじ公園のある笠置山の頂上まで登らない訳にはいかなくなりそうで、そういう気分がかなり大きなブレーキとなってわたしの足を止めてもいる。あの山、正直云うとあまり登りたくない。

とはいうものの、いくつかあるハイキングコースはあまり踏破していないし、そのうちの一本鹿ヶ淵のコースは落石注意で通行止めになっていて、全部のコースを征服するのは無理としても、途中で引き返してきた銀の帯コース、JR関西線の真横を、もう本当に山裾を走る電車に触れるくらい真横を歩くハイキングコースなんかは最後まで歩いてみたい。この時なぜ引き返してきたかというと、コース半ばから危険を感じるくらいあまりにもJRの線路に近いところを併走していて、道も草が半ば覆っているような放置された道のようにも見えたために、ここ、本当にハイキングのコース?間違って立ち入り禁止のところに入り込んでいるんじゃない?なんて思ってしまったからだった。
ところで笠置にやってきた当初から、この名前の銀の帯って何のことかと思っていたけど、今これを書いていて急に線路のことなのか!とひらめいたな。天駆ける銀河を歩くような随分と詩的な命名だと思っていたけど、それほどでもなかったのか。

で、そういう部分ではまだ多少は行く気はあるものの、最近はこれが切っ掛けで乗り始めてしまったJR奈良線のほかの駅で適当に降りて冒険している。今のところ、溝に足を取られてひっくり返った玉水とか、他には駅に際立つ地下通路のある棚倉、煙を吐く時計塔の見える平城山辺り。平城山は降りてみて初めて奈良ドリームランドの近くだと知った。今はどうなっているのか知らないけれど、遊園地は廃業後に巨大な廃墟になって放置されていた。子供の時に連れて行ってもらった記憶はあるといっても、こんなところにあったなんて今の今まで知らなかった。

☆ ☆ ☆

最近はニコンのF100ばかり集中的に持ち出しているので、今回の写真は全部同じカメラで撮ったものになってる。操作を忘れていたからとりあえずお手軽プログラムオートで撮っていて、そのうち他の操作も思い出して行こうと思っていたものの、これで綺麗に撮れるならもうプログラムオートで良いかと思い始めている。
最初の二枚は笠置の町中、坂になった路地裏を登っていったところ。市場墓地と記されている場所で、確かに登り詰めた果てには小さな墓地があった。市場墓地という命名が、由来を知ってみればなんてことはないのかもしれないけれど、結構謎めいている。
ちなみに両方とも同じフィルムなんだけど、上のはCDにしてもらったもので下のは家のスキャナーで読み込んだもの。シーンが違っているから単純に比較は出来ないかもしれないけど、基本的な色調といったものがイメージ化する方法によって微妙に違ってくる。
アグファは確か倒産したんだったか、どこか別の会社がブランドを引き継いでるはずだけどよく分からない。いずれにしろアグファはとっくの昔に自社でフィルムを作るのは止めてしまっていて、これは中身はメイドインジャパンだ。日本でフィルムを作っているのはフジだけだから、当然フジのOEMとなる。フジブランドで出ているのよりは安いと思うんだけど、ブランドを外したフジの業務用フィルムの仕上がり具合によってはおそらくアグファを使うのはこれっきりになるだろうなぁ。アグファは自社製造の時はトイカメラ御用達のフィルムだったんだけどね。
あとはまぁ見ての通りだ。巨石は実際にも空中に浮いているように見えて面白かった。



☆ ☆ ☆


Cruise to Japan in 1932 日本へのクルーズ

最近ネットで話題になっていた動画。1932年の日本の様子を記録した動画なんだけど、2分49秒あたりに登場する、町中を歩く女子高生の姿が、まるで今の女子高生と同じという、かなり意表をついてくるところがあって面白い。現代の女子高生としか思えないその様子はまるでタイムトラベラーじゃないかと思うくらいだ。
だってこれ、ミニスカートだよ。60年代にツィッギーによって世界に広まったミニスカートが1932年の日本の路上で闊歩してるんだから、これはやっぱりちょっと吃驚する。
戦後の教育で戦前と戦後の間には超えがたい断絶があって戦前は抑圧された自由のない暗い時代だと刷り込まれていれば、こういうフィルムを見ると戦前にも自由はあり戦後とは実は地続きで繋がっていると、認識を新たにすることになるかもしれない。
それとこういう記録映像を見る時はよく思うんだけど、この現代の女子高生としか思えない溌剌とした2人も今も生きているとしたら100歳近い年になっているはずで、そんなことに思い至るとその諸行無常さに目のくらむ思いがする。
この世界にもういないというなら、このフィルムに登場しているほとんどの人は鹿も含めてもうこの世界に存在していないし、云うならこれは死者の饗宴とでも云った映像なんだろうと思う。これも目がくらむ思いがするなぁ。