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挑発する大陸、チビッコビルの七夜の罠。 機械式辻占師言行録Ⅴ

川辺リンの不安





不安の正体





隠された何か





潜航
2017 / 02 伏見 (1)(2)(3)
2016 / 10 藤森神社 (4)
Fuji Cardia Travel Mini Dual-P / Nikon L35 AF


目についた単語を並べて冒険小説風のタイトルやね。どうもやはり意味から離れられないのが突き抜けていないところではある。チビッコビルで過ごす七つの夜に仕掛けられた罠とは一体なんだろう。七日間、夜毎に罠をクリアしないと挑発するらしい大陸から生還できなかったりするとかハードルはきわめて高そうだ。あるいはチビッコビルは人の名前のようにも見える。西部劇に出てくる悪党、小さいくせに子供のように無邪気に残忍で、極悪非道な悪党の名前のようにも響いてくる。この前コメントの返事を書いていて、いつもの呪文に「チープ」というのも付け加えてもいいかななんて思った。似たような観念にキッチュなんていうのもあるけど、キッチュなものとかまるで興味がないので、似ているけど非なるものとして「チープ」。それと「寡黙」というのもわたしの志向としては追加しておきたい。チープなものは往々にして饒舌であったりするから、これと寡黙さは相容れないものかもしれないけど。そこにあるオブジェとして、自らがそのオブジェであることしか語ろうとしないもの。自らの物質性をそっちのけにして意味について饒舌になろうとする対象よりも、あるいはその幻想性について言葉多く語りたくてうずうずしているものよりも、それははるかに幻想的なオブジェとして立ち現れるんじゃないかと思う。今回のは随分前に撮ったつもりだったものの日付を見れば2017年とそんなに昔でもなかった。今撮っている写真とは違わないようで違うというか、自分にとっては微妙な感じがする。こういう被写体を選ぶ好みは変わってないはずだけど撮り方は違ってくるかもしれない。話は全然違うんだけど、このところ一斉に「違くて」なんていう言い回しが、まるで解禁されたかのように耳についてくるようになった。わたしがこの言い回しを最初に目にしたのはそれこそ20年くらい前になるか当時リビドーっていうエロゲームのメーカーがあって、そこの広告か何かの文章の中でだった。未だにこんなことを覚えているのは、まず最初にこれどう読むんだ?と読み方の予想もできなくて、「ちがくて」???こんなの日本語じゃないだろうと首を捻った印象が強烈だったからで、わたしの眼の中には違えようのないシンプルな言葉ゆえの異物感そのものとして飛び込んできた。それがこのところ急に当たり前の言い方として身の回りに溢れかえってくるようになっている。CMの歌の歌詞の中にも現れるようになったし、先日なんか病院の看護師が「それとは違くて、どうのこうの」なんて喋っていた。作詞はこんなに言葉に鈍感であっても出来るものなのか。20年来の異物感が、リビドーなんていう今はもう存在しないゲームメーカーを伴って最近になってまた目の前に浮上してきたわけだが、この「違くて」とか「違かった」なんていう言い方、ことのほか「違かった」なんて一体何?もっと普通にたった一文字しかか違わない今までの「違った」でいいじゃないか。それともなにか、「違った」だと命に関わるような不都合でもあるのか?なんて思いかねないほど日本の言語感覚とはずれているんだけど、こういう言葉使いを気持ち悪く感じない人って、少なくともこういうのはまともな書物の中には絶対に出てこない言い回しだし、本を読んだことが無い人なんだろうかとも思ってしまう。もっとも言葉としてはリビドーの例の如く20年位前に既に使われていたようで、話によるともっとはるかに昔からの関東のある地方の方言だということも目にした。ちなみにリビドーは仙台の会社で確かチビッコビルとかいう異様な名前のビルに居を構えていたことまで、あまりにも異物感が横溢していて、別に覚えていたくもないのに記憶の片隅に居座り続けている。この記事を読んだらわたし同様に、おそらく一生の間どのような瞬間がやってきてもまるで役に立たないに違いない知識、昔仙台のチビッコビルというところにリビドーというエロゲーのゲームメーカーがあったという知識が脳細胞のいくつかに染みついてしまうことだろう。わたしの仲間となるのだ。どうでもいい話からちょっとだけ写真の話へ戻す。今回の写真は昔のオートフォーカスのコンパクトフィルムカメラで撮った。現役当時でもそんなに高級なカメラでもなかったように思うが、いまや見つかるとすれば誰も手を出さないような中古ワゴンの中にワンコインでも買えるような状態で転がっているのがほとんどじゃないかなぁ。ちなみに以前河原町のサクラヤで、両方とも「写ルンですよりも安い!」なんていう札を貼って、値段のつかない安物中古を集めた段ボール箱の中に投げ入れられていた。デジのAFコンパクトカメラとやってることは大して変わらないと思うけど、デジでは当たり前の速度感といったものが、こういうお手軽カメラを使うことで、元々スローなフィルムという場ではより顕著に写真に現れてくるんじゃないかと感じるところもあり、一眼レフのような重厚なものとはまた方向性が違う、結構好きな類のカメラとなっている。なによりも所詮ファミリーカメラ、大した写真なんか撮れないと思われがちなカメラを使うっていうのが饒舌嫌いチープ好きにとっては小気味良いし、意外と著名な写真家がこの手のコンパクトフィルムカメラを好んで使っていたりする。たとえばロバート・フランクがオリンパスのμ2を構えている写真を見たことがある。今現在は、これはかつての高級コンパクトフィルムカメラになるコンタックスのT3にフィルムを入れて、後7枚ほどで撮り終える状態。遠出を許してくれない病気の合間に撮ってるにしてはわりとペースはいいほうかな。先日いきなりまるでホースでぶちまけたような豪雨に見舞われて、わがT3もずぶ濡れになってしまい、しばらくはこの雨の影響で挙動に不安が残る状態にはなってるんだけど、壊れて欲しくないなぁ。

サングラス ウエリントンとキャットアイ

サングラスはあれからまたいくつか買って、買っているうちに勢いがとまらなくなって今年の夏はなぜだかサングラス三昧の夏になってしまった。あれから追加になったものにはボストンなんて中途半端な丸型じゃない正真正銘のラウンドのものとかウエリントンタイプの、まぁ3COINSのバーゲンで100円で売っていたほとんどおもちゃみたいなものがある。この欲望の発露の源流には普段用の眼鏡を色々と増やしたいというのが確実にありそうで、そのシミュレーション的に安いサングラスで遊んでるんだろうと思う。なにしろ高くても1500円程度のものばかりだ。いろんなフレームのサングラスをかけてみてあらためて思い知ったのは形としては好きなのに丸顔にはあまり似合わないと痛い自覚をしてしまった丸眼鏡の真実と、キャットアイフレームが丸顔には意外と合うという新発見。でもサングラスではいいかもしれないけれど、普段用の度を入れた眼鏡にキャットアイフレームは冒険のしすぎだろうな。丸眼鏡といえば今やっている大河ドラマ「いだてん」に登場する人物、男も女もみんな丸眼鏡でみんなきっちりと似合っているのは見事。薬師丸ひろ子の丸顔でさえも似合っているんだから、これはもう一体どうなっているんだろう。彼女の丸眼鏡には何かの魔法がかけてあるとしか思えない。「いだてん」はエピソードが積みあがっていくだけでその場で足踏みしているような印象のまま折り返し点を過ぎ、頭に残っているのはこの丸眼鏡の競演と高橋是清を演じる、これが最後の役となった萩原健一のかっこよさばかりだ。

ラウンド2種
上のブルーのがWEGOで売っていたラウンドのミラーサングラス。セールで500円ほどだった。下のは10年以上前に眼鏡研究社で作ったもので、写真ではちょっと分かりづらいけどこれが今風ラウンドなのか、上の今年買ったもののほうがレンズは大きい。眼鏡研究社のは鼻パッドがない一山のクラシック仕様である一方、今年買ったほうは普通に鼻パッドがついている。そういえば「いだてん」に登場する丸眼鏡はすべて一山で、こういうところもそれなりに時代考証されていた。眼鏡のことを知らないと一山の眼鏡という存在自体まず知らないはずだから、劇中に小道具として眼鏡を調達してきた人はこういうことを知っていたということだろう。といっても鼻パッドは1920年代には既に発明されていたそうだから、登場人物全員が一山の眼鏡だということにリアリティがあるのか、古さの演出だけのことなのかどうかは正確には分からないけど。



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ワッフル





グラデーション






四角いリズムで






乾燥した水面





三連
2016 / 12 京都駅
2016 / 04 丹波口
2017 / 12 鴨川
2015 / 09 伏見桃山
Fuji Cardia Travel mini DUAL-P (1,2) / Olympus XA2 (3) / CONTAX T3 (4) / Olympus PEN F (5)
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Kodak Gold 200

グラフィカルでポップでキュートでシュール、いつだって頭の中でこの呪文を唱えながらの撮影だ。この前の「○」に続いて今回は「□」に関する視覚的考察といったところか。とはいっても四角い形というのは街のいたるところに溢れかえって、あまりにもありふれて「○」ほどには感覚的には躍り上がらない。それにこれは四角の写真だと云ってしまうと、あぁなるほど四角いものの写真ですかと、それで適当な落としどころにあっさりと落ち着いてしまうところがあってこういうのもつまらない。確かに四角い形に拘って撮ってはいるんだけどそれに収まりきれない部分がないとやせ細ったイメージにしかならない。それは四角い形を扱っていても切り取り方の感覚によっては痩せ衰えたものにもなるし混沌としたものを含む得体の知れないものに変貌するものもあるということなんだろうと思う。大体これは何々を表現しましたなんて作った側が明言できるようなものなんか大抵は面白くもなんともないものとなってるし、どうせ撮るなら自分にも明言できない得体の知れない何かが寄り添ってる写真を撮りたいと思ってる。それにしてもこの呪文の中でシュールというのが一番扱いにくいかもしれない。なにしろ写真は与えられたものでしか構成できないから。その辺に飽き足らなくなってくると演出写真のような方向へ向かいがちになるんだろうけど、わたしは自我意識でべったりと塗りつぶしたような演出写真は嫌いだからなぁ。おまけに描かずに写し取るという写真の特質。この描かないということは写真を写真として成立させている最大の要因だろう。最近読み始めてちょっと面白がってる本。川上弘美の「椰子・椰子」得体の知れない非日常の要素が日常の中に平然と交じり合ってる不思議世界を語りだしてる内容で、作者自身が見た夢をコアにして実質は夢魔に近いような世界なんだけど、語り口がのほほんとしてるというかあっけらかんとしているというか、怪異譚という手触りとも違う、ちょっと体感したことがないようなユーモラスな幻想空間を味わわせてくれる。日記として書かれた一月の八日、曇りの日に松もとれたので冬眠に入り、二月の三日、晴れの日に冬眠を終える。その間一緒に冬眠させた子供が二倍の大きさにふくらんでいるのを湿度の関係だろうかと考え込む。文庫の解説を書いてる南伸坊が内田百閒を引き合いに出していて、確かに思い切り切り口の変わった内田百閒っていう感じだ。内田百閒好きとしてはいきなり波長が合ってしまい、続いて読むのに何冊か手元に置いておこうと思って他の著書を漁ってみたら、一体どれから手にすればいいんだと途方にくれるくらい、結構な数の本が出ていた。芥川賞作家なんだけど、それだけ人気がある作家なのかな。







Cibo Matto - Sugar Water

ビデオのほうは手抜きのミシェル・ゴンドリー風だけど、音は水底で流行るポップソングなんていう言葉が頭に浮かんで、その低体温っぽい感触がなかなかクールだ。






市井のジャック・ザ・ドリッパー 屹立する無意識のオブジェ / James Hill - After You"ve Gone

市井のジャック





窓のアブストラクト





枯葉のオブジェ





椅子と光のストラクチャ
2016 / 12 近所
2017 / 11
2017 / 07
2017 / 09 大津京
Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P / 写ルンです / Fuji Naturaclassica
Kodak SG400 / Fuji Natura1600

ジャック・ザ・ドリッパーはアクション・ペインティングの画家ジャクソン・ポロックに対してタイム誌がつけた名前。切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)にかけたものだったけど、マスコミはポロックを胡散臭い存在として扱いもしていたようで、これはひょっとしたらからかいのための蔑称だったのかもしれない。それはともかく街中で見つけたアクション・ペインティングといった風情の写真で今回は始まる。ポロックは水平に置いたカンヴァスの上を絵具缶と筆を携えて歩き回り、刷毛や筆につけた絵具をそのカンヴァス上に撒き散らしてイメージを作り上げた。これもおそらく同様に大工さんが作り上げたという違いがあるだけのアクションペインティングの布なんだろうけど、こちらは残念ながら世界的なアートにはならなかった。でもアートであるかどうかなんて本当はそんなに大層なことでもない。各時代において様々な解釈でアートは成り立っていた。逆に云うと歴史を通して統一したアートという概念なんか端からなかったことになる。だから極端に云えば作った本人がこれはアートなんだといえばそれがアートになってもおかしくないわけだ。芸術は事物の付加価値であって属性じゃない。そして先に云ったように付加価値として芸術という観念を纏った事物が大層なものだということでもないと思う。むしろこの大工さんのアクションペインティングは最初から作品などまるで目指しておらず、ポロックが意識で制御されたものから解放され無意識の領域で作品を作ろうとした苦悩をまるで簡単に実現してる。何かを作り上げようなんて爪の先ほどにも考えていない大工さんのアクションペインティングはその無意識のオブジェ振りが素晴らしい!おまけにこっちは立体でもある分ポロックの作品よりもさらに手のこんだ存在なのかもしれない。町の中には無意識として屹立するオブジェが一杯ある。そういうのを見つけては写し取ってみるのはなかなか面白いと思う。ただこうやって写真に撮るということはせっかく無意識のオブジェとして佇んでいたものに何か特別の意味を与える行為でもあり、オブジェにしてみれば下世話でおせっかいなものになってはいるだろうけど。最近悪質な電話勧誘に見事に引っかかってフレッツ光を使っていたのをコラボ光の業者に代えられてしまった。長年のお馴染みさん扱いだったフレッツ光をまるでそんな希望もなかったのに解約されてしまって、わけの分からないコラボ光業者のサービスを使う羽目に。消費生活センターに相談に行ったけど騙されたまま法的には問題のない筋道を辿らされたようでどうにも無傷で元には戻せないような話だった。契約書さえ送ってきてないと言い張っても向こうは送ったの一点張りで、こっちはないことの証明をするほかなくもちろんそんなことは論理的に不可能だ。まぁ詳細はそのうち気分が静まったら書いてみようと思うけど自分の馬鹿みたいな無防備さも含めてすべてのことに腹が立つ。


James Hill Plays Ukulele Jazz Style After You"ve Gone

ウクレレ買ったし、このくらい弾けるようになりたいものだ。ちょっとジャンゴ・ラインハルトっぽい?もっともこの曲はジャンゴ・ラインハルトも弾いていて、でもこんな感じじゃなかった。





うえの動画のジェームス・ヒルのものじゃないけど、初心者用としては手に入れやすい価格で評価の高い、Ariaのコンサートタイプでコア素材のウクレレ。ソプラノタイプよりもフレット数が多いのでこういうソロ弾きには適してる。





2018年冬、小倉。Let it Be / 満州里小唄

数列ソファ





夕闇停車場





ルーフ





駐車場





待合
2017 / 12
2018 / 01
写ルンです / Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P

2018年、冬の小倉、去年の暮れから捕らわれ滞留を余儀なくされてる場所で。わたし個人に直接関係してくるわけでもないのが幸いなところではあるけど、この生と死が対峙してる場所で足を取られてると写真もまたすべてを飲み込んで逃れようもなく収斂していくこの場所から出られなくなっていく。で、足掻いてみるわけだ。今回の写真はそういう足掻きが色々と見え隠れするようなものになってると自分には見えてくる。そういう場所では捕らわれ淀んでいく状況そのものをあるがままに写し取っていけばいい、淡々と日記でもつけるようにシャッターを切っていけば良いとは思うものの、なかなか達観できない。満州里小唄はこの加藤登紀子のLPに入っていたのを聴いてから好きになった歌だ。歌手本人は左翼の化身のような人でわたしにはまるで賛同できない人種に属するけど、こんな歌を歌ってる部分ではそんなことは関係なくなる。でもあえてこういう戦時下の古い歌を選んでレコードにしたことには、わたしが気づいてないだけで何か左翼的なイデオロギーでもくっついていたんだろうか。気づかせない時点で例え左翼的イデオロギーが入っていたとしても大失敗に終わってるといえそうではあるけど。この加藤登紀子バージョンは今までまるで見つからなかったんだけど、こんなタイトルにしてれば検索には引っかからないわなぁ。検索に引っかかってくるのは知床旅情だとかこういう感じの歌ばかり歌ってるような印象の森繁久彌のもの。それと意外なのはこの歌がジャイアント馬場の愛唱歌だったことか。探せばジャイアント馬場が歌っているのも聴くことができて、あのこもった声は相変わらずだけど愛唱歌だけあって歌いなれてるのか歌は思った以上に上手い。


最後の一節だけが唐突に短調になるのが解せない。明日の望みへと思いを繋ぐ良い部分なのに雰囲気台無し。戦時中のものに明日へと繋がる希望なんかを語らせないと、陰気に転調して台無しにしてやると、これがひょっとして左翼的イデオロギーのささやかな発露なのか。










始まりの場所、たどり着く場所 / 今年最後の更新です。

蛇行通路
2016 / 12 / FUJI CARDIA Travel mini DUAL-P / Kodak Super Gold 400





影格子
2016 / 12 / FUJI CARDIA Travel mini DUAL-P / Kodak Super Gold 400





光射す通路
2016 / 12 / 写ルンです シンプルエース400





三本の柱
2016 / 12 / Nikon Coolpix S9700





gate
2016 / 12 / 写ルンです シンプルエース400





夏の午後の駅
2016 / 08 / Howay Anny35 / Kodak Super Gold 400





というわけで、相も変わらず京都駅で撮っている写真から。もうなんて云うか、見慣れすぎた空間を無理やり目新しい印象に仕立てあげようと画策しているというか。それでもそこからちょっとでも気を引くものが出来上がってくれたらそれでいいんだけど、どうかなぁ。やっぱり無理やり絵にしようとしているのが薄々分かってしまうと興ざめかな。
並べてみて思いついたサブタイトルは「冬の光/夏の光」といったものだ。あれだけ暑くてカメラ持って出かける気も失せていた夏だったけど、こんなに寒くなってくると、あの輝く夏の光が懐かしい。最後の写真はそんな意味合いで入れてみた。今年の締めくくりの記事の最後の写真が明るい光に満ちているというのもいいんじゃないかと思う。たどり着きそして再び物事の始まる場所で今年の締めくくりというのも来年に繋がるようで収まりがいい。

☆ ☆ ☆

ということで今年もつたない写真に付き合ってもらって有難うございました。どこか気分が馴染むようなところでもあれば、来年もよろしくお願いします。
それでは皆様良いお年をお迎えください!