Street of Dreams

彼方へ繋がる道





ラブホ





高架下駐車場





割れたガラスの向こうに

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 01
2015 / 03
高の原 / 新大宮 / 近所
Olympus XA2 / Nikon F100 / Olympus μ2
Kodak SuperGold 400 / Fuji Provia 100F / Ilford XP2 Super


最近は意図的にこういう感じの写真を撮っていることがある。ちょっと引き目で空間を大きく撮ったようなイメージ。自分のもっている距離感覚はもうちょっと寄り気味だと思うんだけど、そこはあえてこういう形になるように立ち位置を意識してカメラを構えている。
ざっと目の前の空間そのものを取り込みたかった。神宿る細部をフィルムの上に残したかった。あえて言葉にするとそんな感じなのかな。細部に関しては以前ブログで書いたけど、クローズアップは細部の普遍化であって、かならずしも神が宿る細部を取り込めるものではないと思っている。神が宿るならその細部はパンフォーカスのイメージに現れる。
で、目の前の空間を細部の集積としてざっと取り込みイメージ化するとしても、単純に目の前に広がるものが写っているだけの写真になるのがほとんど。それでもいいのかもしれないけれど、わたしは今のところそこまで開き直れない。ほとんど意図も感じさせない、カメラの眼に任せたようなイメージにたじろいで、どこかに見栄えの良い絵にしようと自我でカバーする部分が出てくる。
そのせめぎあいの中で写真を撮っているのかもしれないと思う。
ただ意図的に際立つイメージにするための企てを盛り込むにしても、それが目立ってしまうとわたしとしては、これはもう駄目だと思うほかなくなってしまう。
一見まるで無頓着にシャッターを切ったように見えて、実はほとんど気づかれないように自我を潜り込ませる、撮れるならばそんな写真を撮るのが今の気分かもしれない。

写真は街路を撮っていたものを集めてみた。タイトルが頭にあってそれにあわせて選んでいたようなところもあるんだけど、実際にこのタイトルで二枚目のラブホ街の写真なんかを並べると、タイトルの意味合いが随分と矮小化してしまうなぁ。
最後のは結構以前に撮ったもの。このところ若干撮影のスタンスを変えているというこれだけのことで、最近ではあまり撮らない結構雰囲気の違う写真になっている。これは窓ガラスが割れたまま放置されていた廃車の、その窓からカメラを差し入れて、ひび割れが走っていたリアウィンドウ越しに外を撮ったもの。こういうことをすると、見咎められた時に泥棒扱いされる可能性もあって結構スリリングだ。なんだか最近カメラ構えてると、非難までは行かなくても、そこで何してるんですかぁ?とか何か御用でも?と、なにやら胡散臭げに言葉をかけられることが多くなってる。誰もいないと思っていても意外といろんなところから見られてるというのを実感する今日この頃だったりする。

この4枚目の写真を撮ったオリンパスのμ2は去年電池ボックスの蓋の爪が折れてしまって、まぁ蓋をビニールテープで止めたりすれば使えるんだけど、最近は出番がなくなっている。それにしてもカメラの本体が壊れるんじゃなくて、こんなところが取れて使いにくくなるとは思わなかった。



Count Basie & Shirley Scott Street of Dreams


Street of Dreamsといえば、わたしはこれかグラント・グリーンのものが頭に思い浮かぶ。で、この演奏は以前にも載せているんだけど、グラント・グリーンのよりもこっちのほうが好きなので、今回は再登場となる。
曲そのものは古いジャズのスタンダードなんだけど、元歌のほうはなんだか陰気臭くてあまり好きじゃない。オルガン好きということもあって、こういう演奏のほうが好きだ。





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色空凝視 金金金

色の仕組み





空と観察





金金金



2016 / 04
2016 / 07
2016 / 10
烏丸御池 / 七条 鴨川 / 東山 安井金比羅宮
OLYMPUS XA2 / RICOH AUTOHALF E / NIKON COOLPIX S9700
KODAK SUPERGOLD 400


ちょっとシュルレアリストの言葉遊びを真似てタイトルをつけてみようかなと。安井金比羅宮の写真、ワッペンを貼っているようなポップな壁面の様相に気を引かれて撮った写真だったんだけど、この写真を眺めていて「金金金」というタイトルを思いついたのがきっかけ。「金金金」って凄い単語だなぁ。これは使わない手はないし、どうせ使うならもっと意味不明にしてやろう、なんていうことを考えた。
単語単位でばらばらにした言葉をかき集めた中から、ランダムに引き出した単語を並べて文章にしてみるというようなやり方。カットアップ的な方法論で、考えてみれば今の音楽とか結構当たり前のようにやっている。そういう風にみると今まであまり聴く気にもならなかったサンプリングを駆使したようなものもシュルレアリスムの末裔として興味を引くものになってきそうだ。
ちなみに写真のインスタレーションも似た感じに捉えても良さそうだ。一世紀前の思考、感性の革命は普遍的な基盤を持って今も有効性を保っている。
ちょっとこういうことを書いて思い出したんだけど、結構昔の関西ローカルの深夜番組、タイトルは忘れてしまって、確かばんばひろふみが司会をやっていたと思うバラエティ番組で、その中のコーナーに投稿された複数の俳句を三分割し、シャッフルした中からランダムに三つ文節を組み合わせてその場で番組の女の子が読み上げるというのがあった。新たに組みなおされた俳句は読み上げる直前まで伏せられて、読み上げる段階で初めて姿を現す。これ、覚えている人いるかなぁ。途中からその組み合わせに、番組制作者の面白くしようとするあざとい意図が入り込むようになってとたんにつまらなくなったんだけど、ネタ混じりの投稿俳句をばらばらにし、ランダムに組み直してでっちあげた俳句は意味不明で、しかも元々のネタ混じりの部分も絶妙にブレンドされて大笑いだった。ばんばひろふみと云ってもエンドレスナイトじゃなくてそこから派生したような小さな番組だったが、あれはなんていう番組だったかなぁ。やっぱりどうにも思い出せない。それともばんばひろふみでさえもなかったのか。

写真のほうはね、いつものようにこんなものだ。声高に何かを主張するわけでもなく、なにもないことを意味あるように演出する方向へもあまり視線は向いていない。
わたしは自分を取り巻く世界を無意味と認識しているのか、意味の絡み合う編目で覆い尽くされた向こうに意味に絡めとられないで存在しているはずの何かをみたいと思っているのか、その辺りの消息は自分でもよく分かっていないんだけど、少なくともテーマを掲げてテーマに閉じた写真は自分には撮れないと思っている。どうせテーマで閉じたものを作り出せない、そういう世界認識なら、いっそのこと意味から開かれている写真を撮ってみるのも面白い。そんな意気込みで撮っていることが多いかもしれない。
カットアップというなら最初からカットアップされて出来上がっているイメージといったところか。
でもこういうのってブログでさぁどうですかと披露するのにあまり向いていないような気がする。何らかの形で意味あるように纏めてしまわないと形にならないところがあるんだもの。

☆ ☆ ☆



奈良原一高の「Tokyo,the’50s」という写真集。

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

分かりやすいといえば極端に分かりやすい写真集かもしれない。日常に異界が口を開けかけた瞬間を何の迷いもなく取り込んだ写真集と、一言で云ってそんなに外しているとは思えない。

今だ写真家になる前の奈良原一高が東京を歩いて撮っていた写真。のちに写真家になる方向へと導いた写真を撮る傍らで特別な目的もなく東京という都市を彷徨い歩いて撮っていた写真だそうだ。あとがきによると数枚をプリントした程度でそのフィルムはそのままネガケースに放り込まれ放置されていたらしい。
その忘れ去っていたネガフィルムを、似たような動機で再び東京を撮り始めようとした時に思い出し、40年ぶりに再び眼にすることになった結果こういう写真集が出来上がったとある。

撮ることで欲望が充足、完結してしまって、撮っただけでそのまま発表することなく放置、というタイプの写真家は、他にはアマチュアに徹して発表する目論みも持たずに一般市民の視点で東京の街を撮り続けた桑原甲子雄だとか、最近だとヴィヴィアン・マイヤーなんかが頭に浮かんでくる。ゲイリー・ウィノグランドも写真家としては大成したけれど死後整理もされていない大量のネガが発見された、撮ることで充足するタイプの人だったのかもしれない。どういう要素が働いてそうなるのか、シャッターを切る快楽だけが動機という、こういった写真家は結構他にも多そうだ。

それはともかく、この異界への道筋を辿る写真集を眺めていると、異界が開くその瞬間にその場に居合わせることが絶対的な条件だというのがよく分かる、的確な場所と時間、写真の神様が舞い降りるその時空に居合わせるのは間違いなく写真家の才能なんだろうと思う。これは努力なんかとは無縁の才能で、こういうのに恵まれる人もいるんだとため息の一つも出そうな気分になる。

ちなみに奈良原一高がこれを思い出す切っ掛けとなった、40年後に再び東京を撮りだした写真というのは、「ポケット東京」として集められた写真群のことだと思うけれど、同じ奈良原一高なのにこっちのほうはものの見事に異界の扉は閉じてしまっている。
これを取り上げるのにまた眺めてみて、「Tokyo,the’50s」に見えたオーラのようなものが完全に消えているという初見時の感想は変わらない一方で、それなりに面白くは眺められはしたものの、でもやっぱり際立つような写真の神様は40年後の奈良原一高の目の前にはほとんど降り立ってくれなかったんだろうなと思う。
そういう、同じ人間の前にでもほんの数度やってくるかどうかという稀有な瞬間に、シャッターを切ることだけに純粋な欲望を抱いていた写真家が居合わせた、幸福な写真がこの写真集なんだろう。







40年の時を隔てて、奈良原一高の手によってもう一度撮られた東京。続「Tokyo,the’50s」としてみてみると肩透かしを食らうのは間違いなし。
でも異界への扉だとかなんだとか、こういうある種分かりやすい観念を外してみてみると、これもまた別の面白さに満ちている。
全写真真四角フレームの写真で、病気療養のためにしばらくカメラからはなれて肉眼で周囲の世界を見る生活をしていた奈良原一高はそういう人の眼で見る縦も横も関係ない真ん中を切り取る視線にはこのフレームが一番馴染んでいたというようなことを云っていた。異界への導きこそ影を潜めてはいるけれど、こういう視線の感覚は随分と過激で今風でもあり、日の丸構図のどこが悪いといつも思っているわたしには結構フィットする部分がある。
ある種いかにもな写真的情緒といったものの不在が持ち込んでくるそっけなさ、即物性がむしろモダンな印象をもたらしているんだけど、情緒的な写真こそが写真と思っているような層には受けは良くなかったんだろうなぁ。古書価格も全然高騰していないし、わたしがこれを手に入れたのはブックオフだったんだけど、確か500円くらいで投げ売られていた。しかもわたしがお金を払って手に入れるまで結構長い間店の棚に放置されていたし。
つまりね、わたしも長い間ブックオフの本棚にあるのを見ていて、でもこれはあの異界の写真集とは何か違うぞと、500円なのになかなか手を出さなかったというわけだ。