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隙間構造体 / Jim Jones at Botany Bay

フェンス越しの家





隙間すべり台





見えないストライプ

2017 / 06 嵯峨野
2017 / 07 嵯峨野
2017 / 05 木屋町
Olympus Pen EES-2 / 写ルンです / Konica EYE
Fuji 業務用400 / Fuji 100

隙間構造体とは何かと問われても、返答に困る。なにしろ写真見て思いついた言葉に過ぎないのだから適当といえばこれほど適当なことはない。でも適当に繋げた単語で出来上がった言葉が、それまでに存在さえしていなかった新たな何かを出現させるかもしれないという可能性はある。言葉があるゆえに存在が可能になったもの。そういうものがあったとしたらそれはそれで面白い。

今回のはある種の目隠し写真だ。感覚的には覗き穴の暗い欲望的感覚の変種って云うところもあるかもしれない。
見えないことへの考察と云ってみたいところだけど、そんなに云ってしまうと何だか物凄く大層な写真のようにも見えてくる。実際には今回のはそんなに大層なものじゃない。それでも写真が徹底して見えることに対する何らかの感覚的な考察であるとするなら、その裏側には必ず対になる見えないことという何かが寄り添っているようにも思う。
まぁこんな持って回ったような言い方をしなくても、単純に隠れてる部分があると想像力が働く余地が生まれてくるっていうことだ。今回のはあからさまに隠してる部分があるんだけど、こんな風に露骨に目隠しが入ってなくても、空間的にも感覚的にもどこか見せないところがある写真は、全部見せてしまう、全部説明しきってしまうような写真よりは、そういう余地が生まれて幾分かは面白くなるんじゃないかなと思う。

一方で自分の感覚の中には、写っているものしか写っていないというような、事物主義というか、表層に留まり続ける写真も結構好きだという部分もある。こういうのと隠匿された何かを予感させる写真の二つがわたしの中で共存するのは矛盾のような気もするんだけど、これ、考えてみたら両方とも「謎」というキーワードで括れそうな気もする。写ってるものしか写っていない、写ってるものがすべてという、写真が内に孕むことを当たり前に期待してしまうようなものが見当たらないことへの謎と、隠されてる何かを予感させる、云うならば付加されてるものの謎とでも云うのかな。方向がプラスマイナスの逆のほうを向いてるだけで根は謎めいているということで一致してるんじゃないかと思う。
とまぁこんなことを考えてると、やっぱり全部を説明しようとする写真が一番あからさまで白茶けていて面白くないという結論へ落ち着いていくことになりそうだ。

で、こんなことを云った口の根も乾かないうちに書いてしまうんだけど、今回の写真の「説明」だ。
最初のは嵯峨野の路地を歩いてる時に傍らのフェンス越しに撮ったもの。フェンスの向こうの細部を失った空間が気に入ってシャッターを切った。でもわざわざ嵯峨野なんかに行ってまでして撮るようなものでもないなぁ。二枚目は以前載せたブランコに乗ってる子供を俯瞰で撮った写真と同じ場所。最後のは木屋町の路地にかけてあった案内板で、おそらく廃業した店の案内だけが残っているんだと思う。偶然見えてる赤い色が上手い具合にアクセントになってる。


Jim Jones at Botany Bay - scene from The Hateful Eight

タランティーノ監督の映画「ヘイトフル・エイト」の途中で出てくる歌。西部劇にいかにもな雰囲気を添える曲で、音楽のクレジットにエンニオ・モリコーネの名前があるからこの人の曲だと思ってたら、実際はニュージーランドの古いフォークソングなんだそうだ。
もう早弾き自慢のギターとは対極の位置にあるような素朴なギターにのせて、これは出演してる女優ジェニファー・ジェイソン・リー本人が歌ってるんだけど、なかなか味のある歌に仕上がってる。ちなみにこの女優さんはあのヴィック・モローの娘だ。
映画はタランティーノの撮った西部劇ミステリなんていう紹介のされ方をしたらしい。確かに後半毒薬をコーヒーに仕込んだのは誰かという謎を中心に進みはするけど、でも紹介とは裏腹にその辺はミステリ好きを満足させるほどには展開しないで血飛沫飛び散る別方向へ進んでいく。映画そのものも膨大な台詞の応酬とかいかにもこの人の映画っていう感じなところもあるものの、会話の話題の中心が南北戦争のことだったりしてどうも馴染めずに、どこかから回りしてる印象のほうが強い。
それよりも髭面のカート・ラッセルが吹雪で閉ざされた山小屋の中でライフルを持って立ってる雰囲気なんかまるで「遊星からの物体X」で、なんだか「物体X」へのオマージュ映画なのかなんて思ったりした。手洗いが小屋からはかなり離れたところにあって、夜の暗い猛吹雪の中その間をロープで道を作ってるところなんか、画面の感じそのものがまるで「遊星からの物体X」以外のなにものでもないって云う感じだった。









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鋼鉄都市 / 京都文化博物館 パリ・マグナム展

トロッコ列車1





機構内部





影の段






積みあがる底面

2017 / 07 (1)(2) 嵯峨嵐山
2015 / 09 (3) 中之島
2017 / 03 (4) 近所
Olympus Pen EES-2 / Holga +35mm Film Holder / Nikon F100
Fuji 業務用400 / Lomo Colornegative 400 / 100

硬く冷たいもの、光沢があるもの、稜線がはっきりとしていて鋭角的なもの、用途不明の何か。機械の類や工場が好きなのはこんな要因が絡んでのことじゃないかなと思ってる。こういうものは視線をひきつけるしシャッターを切りたくなってくる。用途不明に関しては知らない自分だけの事情で、知ってる人にはこんなものの何が珍しいという程度のものだろうとは思うけど。
誰一人その用途の想像もつかない複雑な機械とかあったら、もうわたしとしては夢中になってるに違いないと思う。ちょうど映画「禁断の惑星」で姿かたちも分からない、遥か以前に死滅してしまった惑星の前住人が残し、作った種族はとっくの昔にいなくなったのに今でも自動で駆動し続けている地下の巨大都市のような感じ。あんなところに入り込んだらもう寝食を忘れて写真撮り捲ってるだろう。

そのシーンだけ抜き出した動画があった。
Forbidden Planet: The great machine

これ、レスリー・ニールセンが出てるんだなぁ。ばかげたコメディ俳優のイメージが強烈だし、今まで気づかなかった。

☆ ☆ ☆

パリマグナム1
Nikon Coolpix S9700

パリマグナム2

パリマグナム3


京都文化博物館へ「パリ・マグナム写真展」を見に行って来た。
結果的に云うと結構面白かった。マグナム・フォトっていうのは展覧会のフライヤーによるとカルティエ=ブレッソンらが作った「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張することを目的とした」組織だけど、個人的には社会性に積極的に関係しようとするジャーナリスティックな写真家の集団なんていう勝手なイメージがあった。だから写真の社会性なんかまるで関心がないものとしては、大して面白くないかもと思いつつ出かけてみたところもあったんだけど、見終わって出た感想はこういうものだった。
パリの歴史的な動きに連動してる写真はまさしく社会性を前面に押し出していて、その生々しさはやっぱり写真という手段を取ったことでよく伝わってくる。第二次世界大戦の時のレジスタンスが路上で銃を持って潜んでる写真とか、戦争映画では良く見るけど、リアルに路上にいたレジスタンスの姿は命のやり取りをしてる際どさが伝わってくるし、五月革命の時の暴動を撮った写真も、毛沢東の肖像を飾った思想は賛同できないにしても、でもそういう賛同できない本質も含めて現場の空気感が良く伝わってくるような感じだった。
で、見ていて意外だったのはマグナムの写真は大半がこういう社会性のある写真だと思ってたら、そういうのとは違った写真、ジャーナリスティックなものとはかなり距離を置いた毛色の変わった写真を撮る写真家も結構受け入れられて、参加してるということだった。歴史を辿る生々しい写真に混じってひたすらイメージに淫する写真が顔を出してくると、ドキュメンタリー的な写真も意外と面白かった上に、まさにわたしの関心の対象となり得る写真も色々と目にすることが出来て、こういう楽しさは会場にやってくるまではあまり思いもしなかった。
会場は歴史的なラインに沿っていくつかのブロックに纏められていて、社会的なリアリズムといったものを一義に置かない写真はやっぱり現代に近づいてくるにつれ多くなってくるようだった。カメラだって、これ、どう見てもホルガ使ってるだろうって言うのもあったし、マグナム・フォトの集団の中でトイカメラを見るとは思わなかったので、これにはちょっと吃驚した。偶然最近ホルガをまた使おうかなと思っていたから、これを見たとたんにその気分に火がついてしまった。
会場で区分けされていたものとしては最後の「解体の時代 1990-2018」と題されたブロック、これが面白かった。展示されていた写真家で云うとマーティン・パーとゲオルギィ・ピンカソフ、そしてハリー・グリエールにホルガの使い手で意表をついていたクリストファー・アンダーソンといった辺り。
なかでもゲオルギィ・ピンカソフが良かったなぁ。この写真家の写真がひときわ目を引いた。写っている事物の意味なんかそっちのけで、光と影と事物の形をいかにフレーム内に納めるかということ一点に腐心してるような写真。出来上がるイメージは極めて複雑で視覚的な豊穣さに満ち溢れてる。この写真家のことを知っただけでもこの展覧会を見に行った意味があったかも。

会場は4階のフロア全面で展開されていて、展示総数は100点以上と、それなりに見ごたえがある。一回りして会場を出ると、下の階で同時開催されてる展覧会に誘導される。これが近代京都へのまなざしー写真にみる都の姿ーっていうタイトルの展示だったんだけど、ついでに立ち寄ったにしては面白かった。っていうか本編の展覧会を見た後であまり面白いものを見てしまうと、パリ・マグナム展での印象が薄れてしまうじゃないかと思って、面白さに困ってしまった。
明治の初めくらいかな、そのころの写真を大きくプリントしたものが小さなオリジナルを添えて展示されてる。オリジナルとなってるものは一枚が木の特別な入れ物に入れられた形で保存されていたのがそのまま展示されていて、その当時の写真がどういう扱われ方をしていたかもよく分かる展示だったし、降り積もった時間の層の厚さを実感できるような存在感だった。他にも京都の古い様子を写したものは、さすがに自分の生きてきた時代ではなかったけれど、今の様子を知っていたりするから、その変遷の具合に興味を引かれる。明治の頃の八坂神社の石段下の光景なんか、片隅にお気に入りの狛犬が写ってたりして、まるで懐かしいものに出会ったような気分になったりした。
予想外の面白さに若干困るけど、パリ・マグナム展のおまけで見られるなら意外と豪華で本格的、お徳感満載の展示だったと思う。
また、これだけ単独で見ようとしたら一応料金を取られると後になって知った。そういう意味でも見ないと損なおまけだった。




空蝉の木の影 / Anne Sophie Merryman - Mrs. Merryman's Collection

黒い雲が飛ぶ壁





配管の曲がり角






工事展望

2016 / 08
2017 / 07/ 05
Canon Demi EE17 / Olympus Pen EES-2 / Konica EYE
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Fuji 100

季節が終わるまで毎回書いてそうな気がするけど、とにかく暑い。体の中から溶け出して、汗と一緒に気力も何もかも流れ出ていってしまう。このところ見つめるのは体の中に空虚に空いたからっぽの空間ばかりだ。
周りを埋め尽くす蝉の声を聞きながら、己が空虚を覗き込んでいると、空蝉なんていう言葉が立ち上がってくる。
空蝉っていうのは夏の季語で、もちろん蝉の抜け殻をさす言葉だけど、人の住む世、いうならば現実を表す言葉でもあるらしい。
昔の人はこの現世がからっぽの空虚な世界だと看破していたということなんだろうけど、なかなか侮れない認識だと感心する。
この言葉から木の幹に留まる抜け殻とおそらく世界樹のようなイメージが合わさって、無限の蝉の抜け殻をびっしりと纏わりつかせた巨大な木が頭に浮かんだ。
どこかへと溶け出したからっぽの空間を体の中に抱えて、その空蝉の世界樹の元に佇んでる。夏の暑さにへばりかけてイメージするのはそんな世界。写真に撮れるものなら撮ってみたいところだけどね。

まぁそんなことを云っていても始まらない。からっぽならわたしの中の空っぽの写真を撮り続けるほかないだろう。
先日撮り終えた写ルンですの現像をフォトハウスKに頼みに行った時、ハーフサイズで撮ったフィルムもCDに出来るようになりましたと教えてもらった。今まではハーフサイズのネガは同時プリントをしないなら、インデックスも作れずに家でスキャンするほかなく、36枚撮りで撮っていたら倍の72枚をスキャンしなければなかった。あまり上手くスキャンできないわたしのスキャナーではその作業はストレスかかりまくりだった。だからCDを読み込むだけで全部取り込めるとなると、これは本当に助かる。
で、どんなに便利になるのか体験したくなり、ものは試しにと久しぶりにフィルムを装填するのはハーフカメラにすることに決めた。
フィルムを詰めたのはキヤノンのデミEE17。今回の最初の写真を撮った、そこはかとなく調子の悪いハーフカメラだ。
27枚撮りのフィルムだったので撮れる総数は最低でも54枚。この気分だと全部撮り終えるのにひょっとしたらこの夏中かかるかもしれないと、装填した直後にやっぱり普通のカメラのほうが良かったかなと思ったけど、まぁそれもいいか。暑さにへばりかけて集中できないような時に、あまり考えずに流すように大量に撮るのも空虚さを埋めるリハビリになるかも。

2枚目の写真はちょっと奇妙な触感を狙ったものだった。そして奇妙な、まるで異界からの通信を傍受してしまったような不思議な感触を残す写真が並んでるのが、今回の「Mrs. Merryman's Collection」という写真集だ。

☆ ☆ ☆

Anne Sophie Merrymanが亡くなった祖母であるAnne-Marie Merrymanから受け継いだポストカード・コレクション。一度も会ったことのなかった祖母とそのカードを仲介して邂逅したAnne Sophie Merrymanは、そのポストカードのイメージを編集して一冊の本に仕上げた。1937年から1980年の間にAnne-Marie Merrymanによって集められたポストカード・コレクションにはどことも分からない異国の奇妙なイメージが数多く封印されていた。

メリーマン1

メリーマン2

メリーマン3

といった背景がある写真集なんだけど、この本は策略に満ちてる印象で、こういう成立過程も文字通りに受け取る必要もなさそうな気がする。
それはともかく、ポストカードを集めることで世界を旅してる気分を味わっていた古い時代の女性と、今や何時どこで写したかも分からなくなってるような古びたポストカードという、そういう有様が写真に想像力を広げる余地を生み出してるのが手に取るように伝わってきて、これはとても面白い。
そういう魅力的な背景に乗って展開されるポストカードの写真は、通常思い浮かべる観光地写真の範疇を大いに逸脱して、夢のように風変わりでサイケデリックなイメージで溢れそうになってる。この世界とは明らかにずれを生じているようなその写真群は、時間の彼方から届いてくる、意味の形も取れなくなってるようなかすかな囁きも伴って、まさに異界の扉が開きかけている状況を活写してるようで、目を惹きつけ、心が騒ぐ。
これは本の形で展開してるものだけど、実際に一品ものとしてAnne-Marie Merrymanが所持していたポストカードとそれを詰め込んだ古いトランクも存在していて、まるである種のオブジェ作品のような佇まいで写されてる写真も見たことがある。その圧倒的な事物感はおそらくこの心が騒ぐ感じを増幅して、異界からのささやきもまた本よりも生々しい感覚として迫ってくるんだろうと思うと、この実物も一度見てみたいものだと思う。

メリーマン4

それでこの本、ばらすのも無作法なので何とは云わないまでも全体に策略に満ちているのに加えて、もう一つ物理的な仕掛けがあり、最後の二枚のページが赤い糸で縫い合わされてる。これを解くとちょっと驚くような何かが出てくるらしいんだけど、実はもったいなくてこの赤い糸、未だに解いてない。こんな仕掛けは実際のところ有難迷惑そのもので、わたしの気性としてはこういうのはそのままにしておきたい気分のほうが先に来る。
だからこの糸でとじてある秘密についてはわたしは未だに何なのか分からず謎のままになってる。ここまで放置しておいて期待値をあげた後では、実際に開けてみたら何だこんなものかと思うに決まってるから、今ではなおのこと謎を白日のものに晒せなくなってしまった。