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【洋画】 ビートルジュース

わたしは絶対にカブトムシのジュースが出てくる映画だと思っていたのに、このグロテスクなタイトルは主人公並みに目立ってる脇役の名前「ベテルギウス」を言い間違えた言葉だというだけで、残念ながら映画の中に「カブトムシのジュース」が出てくるわけじゃなかったです。

映画は1988年のアカデミー賞でメイクアップ賞を受賞。ちなみにアメリカでは結構なヒットになったようです。
監督はオタクで名を馳せるティム・バートン。ティム・バートンとしては長編第2作目で、出演者のウィノナ・ライダーとともに、メジャーになるきっかけとなった作品です
ティム・バートンといえばジョニー・デップと、わたしの頭の中に公式のようなものが出来上がってるんですが、この映画ではジョニー・デップは登場しません。こちらはマイケル・キートンとのコンビ、つまり後のバットマン・コンビの作品になってます。

ホラー・コメディなんですが、コメディ的というよりは、奇想で成り立ってることに惹かれるような映画でした。

☆ ☆ ☆

とある田舎町、アダム(アレック・ボールドウィン)とバーバラ(ジーナ・デイヴィス)は丘の上にある広い邸宅に住んでいた。不動産屋が2人で住むには広すぎるから売ってくれというほどの邸宅で、アダムはその広い屋根裏部屋に自分の住む町のミニチュアを作り上げていくのが趣味だった。
模型つくりの材料を買うためにバーバラと一緒に町の金物屋に寄った帰り、アダムとバーバラが乗った車は橋の上で事故を起こして河に落ちてしまい、アダムもバーバラもその事故で死んでしまう。
ずぶ濡れで我が家に帰ってきた2人は、今度は外に出ようとすると屋外には砂漠のような不気味な世界が広がっているだけ、数歩進んだだけで砂漠にいるサンドワームに追いかけられるので家の外には出られないような状態になっているのを発見する。
自分たちの身に何が起こったのか最初は解らなかったが、部屋に「新しく死者になった者へのガイドブック」というタイトルの本が置いてあるのに気づき、これを見て2人は自分たちが橋の事故で死んでしまったことに漸く思い至ることになる。

いつも家を売れと迫っていた不動産屋は2人の事故死を機に家を売り払ってしまい、やがて新入居者がやって来ることになった。
新しく住人になったのはニューヨークのスノッブな一家チャールズ(ジェフリー・ジョーンズ)と彫刻家のデリア(キャサリン・オハラ)そして娘のリディア(ウィノナ・ライダー)の3人と、いつも一緒に行動してるインテリアデザイナーで超常現象の専門家オットー(グレン・シャディックス)の計4人。
自分たちの城に他人が乱入してきたのが気に食わなくて、アダムたちはこの一家を追い出そうといろいろ脅したりしてみるが、幽霊となったアダムたちの姿はチャールズ夫妻とオットーには見えないようで、いくら脅しても全然効果がなかった。
死後の世界のカウンセラー、ジャノー(ヘレン・ヘイズ)に相談してみると、そういうことを専門に扱うバイオ・エクソシストのビートルジュースというのがいるが、トラブルを起こすだけなのでビートルジュースに頼ってはいけないということだった。
なぜかリディアにだけはアダムたちの姿が見えて、リディアとは仲良くなるのだが、チャールズ夫婦は幽霊の存在にも気づかないまま、ニューヨークの友人を夕食に招待する。
その席で自分たちの存在を知らそうと、チャールズ夫妻らを操って夕食の席で無理やり「バナナ・ボート」を踊らせるのだが、一行は怖がって家から逃げ出すどころか幽霊をネタに商売が出来るという方向に関心が向く結果となった。
追い出し作戦が見事に失敗して、自分たちの手ではどうしようもないと判断したあげく、バイオ・エクソシストに人間の追い出しを依頼するために、制止されていたにもかかわらず、アダムたちはビートルジュース(マイケル・キートン)に頼ることにした。

呼び出したビートルジュースは予想をはるかに超えてお調子者で下品極まりない。
やることなすこととにかく調子外れで破格というとんでもない人物(幽霊)で、やがて丘の上の邸宅では生者と死者とバイオ・エクソシストが三つ巴で絡み合う争奪合戦が始まることになった。

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☆ ☆ ☆

わたしはティム・バートンの映画を観ると、全体の仕上がりはいささか冗長なんだけど、細部は異様に凝っていると、そういう印象を受けることがたまにあります。
物語を支える世界観から始まって、その世界観を具体化するために実際に画面に登場するイメージまで、細かい部分にも趣向を凝らし精緻に仕上げることに全力を注いでいるんだけど、お話そのものは結構だらだらと続いていくというか。
ティム・バートンはひょっとして物語全体をコントロールして緩急自在に語ることにはそれほど関心がないんじゃないかと、そういうことを考えたりします。
この映画も正しくそんな感じでした。ただし物語のテンションは高いんですけどね。

そういうことが端的に現れてたのが、死者の世界の役所だと思うんですが、かなり風変わりで悪趣味なティム・バートン風味のイメージで飾られてる役所のなかを進んで、アダムたちがカウンセラーに会いに行くシーン。ちなみに廊下のデザインはあの歴史的なホラー映画、カリガリ博士!
アダムが腰掛ける待合のベンチに座って順番待ちしてるのは異様な死者ばかり。この辺りのほとんどモンスターともいえる死者のキャラクターは、公開当時この映画の宣伝に頻繁に使われていて、観れば思い出すようなモンスターも絶対にいると思うんですが、映画を観てみるとこういう異様なキャラクターのほぼ全員が、映画が終わるまで役所の待合のベンチにただひたすら座ってるだけ、座って自分の番が来るのを待ってるだけなんですよね。
88年当時はまだ特殊メイクの全盛だったと思うので、そういうメイク技術や造形技術を駆使して仕上げた、若干安っぽくはあるものの凝った作りのモンスターたちが、せっかく画面に登場してるのに、邸宅争奪戦という映画の主軸には全然絡んできません。物語はそっちのけで、見た目面白いモンスター風の死者が並列的に並べられるだけです。

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☆ ☆ ☆

もう一つ、またこれはちょっと意味合いが異なるんだけど、有り方としてはよく似てるなぁと思ったのが、アダムとバーバラの幽霊夫妻とビートルジュースの関係でした。
この映画、タイトルが「ビートルジュース」となってるし、マイケル・キートンが熱演するビートルジュースの見た目も物凄いので、下品な扇動家ビートルジュースがとにかく前に出てくる主役かと思うんですが、主役にしてはこれがまた意外なほど登場シーンが少なくて、結局ビートルジュースはどちらかというと脇役に近い扱いなんだと解ってきます。

新しく侵入してきた人間を追い出したいという、そもそもこの物語が動き始めることになる動機はビートルジュースにあるんじゃなくてアダム幽霊夫妻の側にあります。
ところが、物語を動かしていく主役の立場は明らかに幽霊夫妻の側にあるのに、この幽霊夫妻が映画の中では一番地味で目だたない存在になってるんですよね。人を脅かすために顔を化け物風に変形させるシーンはあるものの、幽霊メイクを一切しないので、映画が終わるまで本当にただの人にしか見えない。はっきり云って死んでる人にも見えないです。

それに反してビートルジュースは実際の出番は少ないのに、見た目が映画の中で一番派手、一番態度がでかい。画面に出てくればかならず視線を独り占めにしてしまう。
どうも、キャラクターへのウエイトのかけ方がちぐはぐで、妙に居心地が悪いというか、はぐらかされてるような気分になるところがいくつかあるんですよね。

☆ ☆ ☆

映画に登場する様々なイメージは「物語」という中心に関わらなくてもそれほど気にしないという感じでスクリーン上に溢れてるし、登場人物も何処か物語をはぐらかすような動かし方に見えるところもあって、いろんなものがおもちゃ箱をひっくり返したみたいに、そこらじゅうに散らばってるような雑然とした感じの映画になってます。
コメディ部分も、そういう全体の冗長さを共有してしまって、わたしにはあまり面白いとは思えなかったです。
霊界の様々なものからデリアの妙な彫刻まで、細部はカラフルで異様なイメージに満ちていて、豪華で楽しい映画です。特殊メイクにクレイアニメーションを混ぜるような、ティム・バートンの風変わりなヴィジョンを堪能できます。でも映画が面白いかといわれると、これがまた微妙に面白くないんですよね。
だからわたしにとって「ビートルジュース」は「面白くないけど楽しい」映画という、ちょっと妙な印象のものとなってます。

☆ ☆ ☆

アダム夫妻の幽霊の設定についても少しだけ。この映画での幽霊の設定は結構風変わりです。
この映画でアダムたちの幽霊がチャールズらに見えない理由は、幽霊はそもそも人間には見えない存在だからという単純なことじゃなくて、特殊なものや常識から外れた異様なものを無視して見ようともしない人間は、幽霊のような常識外れのものは、本当は見えていても見えないもの扱いにしてしまうからという設定になっています。
そして、継母に馴染めなくて、一歩身を引いた様な場所に居場所を構えてしまってる、はぐれ者のようなリディアだけが、自分が例外的であるから、同じく例外的なアダムたちを見ることができるんだと。

わたしは観ている間中これはティム・バートン自身のことなんだろうなと思って画面を眺めてました。

自分の持ってる特異なヴィジョンが、意味あるもの、価値のあるものとしてなかなか認知されないと。
そういう意識があって、見ようと思えば本当は見えてるんだけど、見ようともしない人間には見えないものとして扱われる幽霊という、かなり捻った設定が出てきてるんじゃないかと思いました。

ただこの映画の中でウィノナ・ライダーが演じたはぐれ者リディアは明らかにティム・バートンの化身だと思いますが、リディアこそが幽霊を見ることができる唯一の存在にすることで、家族からはぐれてるような否定的な意味だけじゃなくて、同時にそれこそが個性なんだということも担わされてる二重構造のキャラクターだったような気がします。

☆ ☆ ☆

この映画のウィノナ・ライダーがとにかく良いです。若々しくてとても可愛い。後に万引きするような人になるとは到底見えません。ビートルジュースは例外として、アダム夫妻は最後まで死者にも見えないただの人だから、この映画の中で一番幽霊に見えてたのは、黒尽くめでゴシック・メイクをして、いつも人の視野の外縁に佇んでるようなウィノナ・ライダーでした。ひょっとしてこの映画はウィノナ・ライダーを見るための映画だったのかも。

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アレック・ボールドウィンとジーナ・デイヴィスは、やはり印象が薄いです。

結構目立ってたのがインテリアデザイナーのオットー役のグレン・シャディックス。肥満体で艶々した肌、構築的なヘアスタイル。デヴィッド・リンチの映画にでも出たら似合いそうな人でした。声優もやっていて、どうやら声優としての方が名が通ってそうな感じの人です。

一番派手なビートルジュースはどうかというと、あそこまで型破れだと、ただわめき散らしてるだけでも形になりそうな気がするんだけど、そういう風に思わせるのも、それが自然に見えるように演じたマイケル・キートンの技量の結果ともいえそうな感じもします。
ただこれがのちのバットマンだということに思いを馳せたら、そういうことに関しては、なんだか妙に笑えました。

☆ ☆ ☆

この映画は吹き替えで見たほうが面白いです。DVDでビートルジュースの吹き替えをやったのが西川のりお。
口を合わすことなんかまるっきり無視して、関西弁でまくし立てるビートルジュースの方が、妙にこなれてない字幕よりも絶対に笑えると思います。

☆ ☆ ☆

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(2008/11/19)
ウィノナ・ライダーマイケル・キートン

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Beetlejuice Trailer


BEETLEJUICE O Day Banana Boat Song Harry Belafonte

アダム夫妻が侵入者家族を操って、ハリー・ベラフォンテのバナナボートに合わせて間抜けな踊りを躍らせるシーン。この映画のコメディのタイプはこういう感じのものです。長すぎる…。


原題 BEETLEJUICE
監督 ティム・バートン(Tim Burton)
公開 1988年





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【洋画】 MAY ー メイ ー

ラッキー・マッキー監督は、どうもふざけた名前で損してるような気がしないでもない、新鋭の監督。ダリオ・アルジェントやロマン・ポランスキーに影響を受けた人らしいです。
他の映画では「虫おんな」という強烈なタイトルのホラーも撮ってるようです。タイトルだけで好奇心が動き出すんですが、この「MAY」を観る限りでは視覚的な見せ場たっぷりの映画を撮る人でもなさそう。この映画一応はホラーなんですが、基本はほとんど青春映画のノリです。

主役の女性メイを演じたアンジェラ・ベティスは誰かに似てると、観てる間中思っていて、これには観終わってから思い当たりました。牧瀬里穂に似てるんですよね。
他の出演作、「ブレス・ザ・チャイルド」「ツールボックス・マーダー」とかも観てるのに、そんなに牧瀬里穂が出てると思わなかったので、この映画に関してだけの印象だったんでしょうか。

☆ ☆ ☆

斜視で弱視だったメイは子供の頃を、斜視を隠すためのアイパッチをつけて過ごすような生活だったので、周囲の子供からは奇異に見られ、内気な性格も原因となって友達に恵まれずに、両親から誕生日祝いに貰った人形スージーだけが、しかもこんなものを親が娘に与えるか?というほど不気味な人形だけが友達だった。
メイは大きくなってから動物病院に就職する。裁縫が得意で、自分の着る洋服も手作りしてるほどの裁縫の腕は動物病院の手術の際にも発揮されて、院長からも重宝されていた。
動物病院には同僚のポリー(アンナ・ファリス)もいて、レズビアンのポリーはその性癖のせいなのか、内気なメイにも仲良く接してくれていた。
そんなある日、メイは街中を歩いていて、手の綺麗な青年アダム(ジェレミー・シスト)を見て一目ぼれしてしまう。
偶然のきっかけでメイはアダムと知り合うことになる。

生まれて初めて恋人ができて、職場には仲良しの友達がいる幸せな毎日を、メイは過ごすことになった。
ところが、普段人形と話して生活するようなメイの行動は、普通に見ると行きすぎ、逸脱してるように見えるものも多くて、そういう非日常的な行為を目にするたびに、親密になった人は遠ざかっていくことになった。
アダムは別の女を作り、ポリーも別の友達を作って、次第にメイと距離を置いていく。その距離を埋めようとするメイの行動が、アダムたちにはさらにうとましいものに感じられて、メイが努力すればするほどメイとの距離は拡がっていくばかりだった。
アダムとの距離が離れていく一方なのを自覚したメイはやがて、友達になってくれないなら、自分の手で友達を作ればいいんだと決心する。

メイは理想の友達を自分で作るために、アダムからは綺麗な手を、ポリーからは綺麗な首を、ポリーの新しいレズビアン相手からは綺麗な足を貰ってくることにした。

☆ ☆ ☆

全体的には閉塞感に満ちた映画とでも云えるんでしょうか。

メイに人形を与えた両親は子供の時の誕生日のシーンに出てくるだけで、あとは最後まで出てきません。
メイの個的な領域内に入ってる要素は、メイが大人になってからはその人形だけになり、両親は消滅して、他のものは全部メイの外側にあるものとなっています。
子供の頃のシーンで両親はメイの個的領域を外側に拡張する存在でしたが、大人になってからの物語では綺麗に排除された結果、メイの領域は風通しの穴さえも開いてないような状態に変化しています。

メイの領域を閉じたものにするために両親の存在はいらない、両親が退場した理由はメイの内的な領域の物語には不必要なので描写しないと、両親に関してはこういう感じの扱いだったんだろうと思うんだけど、ある意味物凄く割り切った作り方をしてるという感じです。

メイのこういう状態を当人の視点で描いていくので、当然の事ながら映画の世界は完全に閉じた印象として観ている側に入ってきます。全く嫌になるほどの孤独に関する映画。

両親が確保してくれていた外界との通路を再び自分で手探りで捜し求めなければならない過程を描写して、そういう部分は青春映画的なんですが、不器用でそんな通路など何をしても見つけることも出来ずに、自らの閉じた領域内で妄想を紡ぎだし、しだいに壊れていく後半は青春映画の形のままでホラーに傾斜していきます。
メイの内的な領域は最後まで閉じていて、孤独なままなのは変わらず、というより一度はアダムとの間に通路が開けたように見えた分、孤独はそれ以前よりも凶悪さを増していて、そういう凶悪な孤独に苛まれてメイが狂っていく過程からは、思いのほか痛々しい印象を受けます。

☆ ☆ ☆

ホラー映画だと思って観始め、前半の意外なほどの青春映画の部分に拍子抜けして観ていたら終盤はスプラッターものに変化します。メイは関わった人を次々と殺して、理想の人形つくりのために、その人の体の中で自分が気に入ってたパーツを切り取っていきます。
メイはそうやって切り取った友達のパーツを縫い合わせて人肉人形を作り上げていくんだけれど、その人形は腕と首と足以外は布で出来た作り物。布で作った顔の造作は異様で面白かったものの、全体はボロ布を纏った人が寝てるだけみたいな造形です。
でもこの時点でメイは完全に狂ってしまっていて、全部が人肉で出来てる人形を作ろうとする考えよりも、布と人肉が同居していても全く平気という感覚の方が狂ったメイには相応しいもののようでした。

布と肉の混合物という見るからに常軌を逸した異形のものに、メイは最後にあるものを与えます。その人形の最後のパーツとしてメイが与えたものはグロテスク極まりないものなのに、ここにきて妙に切なさが残るんですよね。グロから連動していく感情としては、感じた自分でもとても意外なものでした。
この最後のパーツのシーンはちょっと上手かったかな。

☆ ☆ ☆

物語的には、友達になろうと努力してる前半と、理想の友達作りのために相手を殺しても構わないという壊れてしまった後半との間にある落差が凄くて、これをうまく乗り越せるかどうかが、脚本、演出の腕の見せ所だったんですが、この辺はちょっと荷が重すぎたのか、メイの内的な変化を丹念に追ってこの深遠ともいえる落差をスムーズに移行させるのではなく、状況でその落差を目立たなくしていく方法をとってました。
動物病院に勤めてるから死体の扱いには馴れてる、裁縫が得意だから集めた友達のパーツを苦もなく縫い合わせることが出来る、部屋中にばらばらになった人形が散らばってるなど、一旦狂ってしまえばそういう発想に進んでもおかしくないキャラクターとして、その状態に繋がっていくものを物語の前半にばら撒いてるんですよね。この辺はちょっと安易だったかなという感じでした。状況で目立たなくさせるんじゃなくて、脚本と演出の力で変化をきちんと見せて欲しかったです。

☆ ☆ ☆

痛々しさを表現してメイを演じたアンジェラ・ベティスはまさに適役という印象でした。線が細くてまるで弱弱しく見える外観なのに、そのくせ外界からは頑なにガードしてる姿勢は崩さず、他者と向かい合う部分は傷口が露出してるようなひりひりする感覚まで伝わってくる感じで好演してます。
劇中弱視用の遠視タイプの眼鏡をかけていて、見た感じ度が入ってるのが良く分かる眼鏡なのに、平気で動き回ってるのはちょっと吃驚しました。こんなの必要でもないのにかけていたら、あっという間に気分悪くなってくるはずなのに。

☆ ☆ ☆

MAY メイMAY メイ
(2004/09/24)
アンジェラ・ベティスジェレミー・シスト

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MAY Trailer


原題 MAY
監督 Edward “Lucky” McKee
公開 2002年


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【洋画】 AVP2 エイリアンズVS. プレデター

「AVP2 エイリアンズVS. プレデター」ということで、前作が終わったところからきっちりと繋げるように物語は始まります。とは云っても前作とは全く関係のない物語へと展開していきますので、お話としては完全に独立してます。今回の売りは「プレデリアン」。エイリアンとプレデターの両方の力を備えたモンスターが出てきます。

前作で亡くなったプレデターの遺体を回収して去っていくプレデターの宇宙船内。
冒頭のシーンで遺体安置室に置かれたプレデターの遺体の胸を破って、「チェスト・バスター」が飛び出してきます。このプレデターはエイリアンとの戦いの途中、エイリアンに寄生されていたというわけです。
プレデターの遺体から飛び出したチェスト・バスターは、その口元がプレデターのように開く構造を持っていて、これが両方の血を受け継いだ「プレデリアン」誕生となりました。

ところで、エイリアンはプレデターに寄生しただけで苦もなく両者の混合体「プレデリアン」として生まれてきたのに、今までの成り行きでは、人に寄生した場合は人型エイリアンにはならなかったんですよね。
なぜなんでしょう?

わたしはあの長い頭部の先に人の顔がついてるようなエイリアンとか観てみたいのに。

☆ ☆ ☆

プレデリアンによって乗組員を殺されたプレデターの小型宇宙船が地球に不時着、プレデリアンと小型艇のなかで生きて捕獲されていたフェイス・ハガー(尻尾のある巨大蜘蛛のような形態のやつ)が、宇宙船の墜落したコロラドの田舎町にばら撒かれることになります。そしてその事情を知り、エイリアン駆除を目的に、後を追うようにして同じその田舎町へ降り立つのがプレデター戦士ザ・クリーナー1人。

今回の映画はエイリアンの方は複数のエイリアンとプレデリアン(以下、面倒臭いので全部プレデリアンで統一します)が登場するものの、プレデターの方はこの1体のみ。この複数のプレデリアンと一人のプレデター戦士がコロラドの田舎町を壊滅させる話です。

自分の町をプレデリアンとプレデター戦士ザ・クリーナーの戦場にされてしまって、逃げ惑う人間側は、結構人数が多いです。
キャラクター付けされてるけど、明らかにプレデリアンが襲う形を見せるためだけに用意されてるキャラクター以外だと、警官のエディ(ジョン・オースティン)のラインでは刑務所帰りでエディのもとにやってきたダラス(スティーヴン・パスカル)と町では若干問題児扱いになってる弟のリッキー(ジョニー・ルイス)その恋人ジェシー(クリスティン・ヘイガー)、ジェシーを間に挟んでリッキーと反目してる男デール(デヴィッド・パートコー)とその仲間。

もう一つ軍隊帰りの女性兵士ケリー(レイコ・エイルスワース)とその娘モリー(アリエル・ゲイド)のラインもあります。父親はプレデリアン襲撃であっけなく退場し、警官のエディたちと合流するまでは母娘だけのサバイバルとなって、こちらはリプリーとニュートのような扱いなのかと思えば、特にそういうキャラクターを思い出させるものでもありませんでした。
こういう登場人物たちがプレデリアンとザ・クリーナーの破壊行動の最中を、ひたすら逃げまくります。
多人数の登場人物のわりに人の動かし方は整理されていて分かりやすい物語になっていました。

☆ ☆ ☆

映画はプレデター・パートと人間パートの2つの層で成り立ってるんですが、この2つの層はプレデリアンを中継にする部分以外は、映画の中でほとんど交わりません。水と油といえば、混ぜ合わそうと思って混ざらないニュアンスも若干ありそうなので、そういう感じでもなく、最初から両方の層とも交わる気がないというか、そんな感じで進行します。
プレデター戦士ザ・クリーナーはコロラドの田舎町に降り立って破壊の限りを尽くすんですが、人間は全く眼中にありません。ザ・クリーナーの目的はプレデリアンを殲滅することと不時着船に残ってるプレデターや自らの行為の痕跡をプレデリアン共々完全に消し去ってしまうこと。これで全部。

武器を持ってる人間は戦闘意志ありと見做して問答無用で殺してしまう以外、人がどこで何をしていようがその辺に転がってる石ころと扱いは大して変わらず、熱源として視覚に入って認識はしてるけれど、能動的に何かの行動を取って関わろうとはしません。

人間側のほうは、最初から最後まで町を破壊しつくそうとしてる者の正体が分からない。何だか巨大で物々しい異形の者たちが常軌を逸した破壊を続けてるという認識からほとんど出ない状態で、要するに訳が分からないままに最後まで逃げ回ってるだけ。

しかもこの、寄り添いはしてるけれどお互いにそっぽを向いていて、交わる気のない2つの層の内、映画は半ばプレデターの物語を基本において作ってるような部分があるんですよね。

冒頭からコロラドへ墜落するまでは明らかにプレデターの物語として語られます。この部分はプレデターが喋らないために、もちろんプレデリアンも喋ったりはしないので、完全に無言劇!考えてみれば凄い作り方をしてます。暫らくは言葉で説明されない、プレデターの動作だけを見て何が起こってるのか理解しなければならない映画なんですから。もちろんこのシークエンスだけじゃなく、人間パートが併走し始めても、ザ・クリーナーとプレデリアンの部分は無言劇から意味を汲み取らなければならないのは全く同じです。

ザ・クリーナーの行動に重心を寄りかからせるような映画の画面作りをしていくために、ザ・クリーナーが全く無視してる人間の存在は、映画としてはこちらのほうが普通に物語として有るのに、半ば周辺に追いやられてるような感じの扱いになっている部分も出てきます。

本来なら中心にあるものが必ずしも中心に据えられずに進む物語というか、考えようによっては、かなり奇妙な手触りの映画でした。

☆ ☆ ☆

暫らく観ていて、ポール・アンダーソンにしては大音響驚愕演出が出てこないなぁと、多少は改心したのかなと思ってたら、この映画はポール・アンダーソンが監督したんじゃなくて、監督交代してるんですね。
そのせいなのか、生きたままエイリアンの酸で顔が溶けていくシーンだとか、プレデターの銃で一瞬にして人の頭が吹っ飛んでしまうシーンだとか、ゴア・シーンでもちょっとリミッターが外れかけてるような過激さが垣間見える作り方をしてました。

子供もお構い無しに殺していくのもそうとう嫌な感じだったんだけど、病院に侵入したプレデリアンがベッドの上で逃げられないでいる妊婦の口へ大量の卵?を流し込むシーン、同じくベッドで動けない他の妊婦がそのおぞましい光景を見て、次は自分がやられると分かって泣き叫んでる光景など、かなり陰惨な印象でした。こういう傾向を好んで映画に盛り込んで、結果としてPG-12の年齢制限がついたようです。
モンスター同士の対決なんて子供が喜びそうな題材なのに、年齢制限で子供を締め出して大丈夫なのかと、そんなこともちょっと思ったけど、基本過激なもののほうが好きなので、どうせ作ってくれるならこういうののほうがやはり面白かったかな。

☆ ☆ ☆

この映画には実は最大の欠点があって、それは何かと云うと、暗すぎて何が写ってるのかさっぱり分からないこと。

別に誇張して云ってるわけでもなく、本当に何が写ってるのか判別できない。夜の闇の中で黒っぽいプレデターとプレデリアンが闘うわけで、しかもかっこつけて影の部分で絵を作ろうとしてるから、よけいに訳分からなくなってます。
さらに始末の悪いことに爆発の閃光とか、プレデターの暗視ゴーグル風の視界で光が入って眩しくなった次の瞬間に真っ暗な画面を出してきたりして、暗さに拍車をかけたりするんですよね。ちょっと酷すぎ。
リドリー・スコットが自らの「エイリアン」を宇宙版の「悪魔のいけにえ」だと云ったという理由で、撮影には「悪魔のいけにえ」の撮影監督を呼んできたらしいんですが、でもわざわざ呼んできた効果がこれでは何の意味もなかったようです。
監督はモンスターを全部見せきるのは愚の骨頂、見せないから良いなどと云ってるらしい。これは基本賛同する部分もあるんですが、この映画の場合、見せないにも程があるというか、プレデリアンがどんな姿だったか映画を見終わって頭の中に残ってた人ってほとんど居なかったんじゃないかと思います。
闘ってるプレデリアンがどんな姿をしてるのかもう一つ良く分からないというのは画面の暗さ以外にも、至近距離からの撮影方法を多用してるからとか、短いカット割の積み重ねでじっくりと見せないようにしてるとか、他にも要因はあったようです。ひょっとしてアクションシーンをまともに撮る自信がなかったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

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Aliens vs Predator Requiem trailer



原題 Aliens vs. Predator - Requiem
監督 コリン・ストラウス&グレッグ・ストラウス
公開 2007年

☆ ☆ ☆

この写真↓は「AVP2」公開当時、京都はムービックス京都で公開してたんですが、そのムービックス京都の入り口に立ててあった宣伝看板です。
四角で囲まれてる中の模様は立体視画像で、この大きさの写真になってもきちんと立体視できます。
見えてくるものはプレデリアンには見えないような立体物なんですが、立体視できるなら、試してみてください。
プレデリアン立体視 Lサイズ
クリックで大きな画像 (1600×1200) が表示されます。

☆ ☆ ☆

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【洋画】 ウィッカーマン

観たのは1973年のオリジナル版のほうです。

ウィッカーマンというのがある装置の名前で、民俗学でもかじっていて、それがどういうものか知っていたなら、結末は容易に想像がつくと云う、タイトルとしては実に大胆なつけ方をした映画です。

一応扱いはホラーなんですが、ちっとも怖くないのも吃驚します。

この映画は容易に観られないという状況も重なって、カルト化してました。
フィルムの辿った道筋はちょっと調べてみると、まるで「メトロポリス」そっくり。

出来上がった2時間のフィルムを、撮影中にEMIに買収された、制作のブリティッシュ・ライオン社からの指示で20分ほどカットしたディレクターズ・カット版でイギリス公開、アメリカ公開のためにハリウッドのプロデューサー、ロジャー・コーマンに意見を聞いて更にカットして、最終的には87分のフィルムになったそうです。しかもアメリカでの公開はドライブ・イン・シアターでの2本立て興行に終わったとか。
その後オリジナルのネガまで破棄されてしまって、もうこの映画を観るのは不可能と思われてたら、ロジャー・コーマンのもとに送った、20分カットした99分のディレクターズカットのフィルムが発見されることになります。
カットにつぐカットでフィルムが散逸した結果オリジナルを観るのが不可能となった「メトロポリス」のように、全長版の発見はほぼ不可能みたいですが今はこの99分のディレクターズカット版を元にしたものが観られるようになってます。
それと、後年ニコラス・ケイジ主演でリメイクされてるんですが、これは評判悪いみたいですね。

ちなみに73年のパリ・ファンタスティック映画祭ではグランプリを受賞してるそうです。

☆ ☆ ☆

物語はシンプルです。ホラーとして成立してる映画ですが、でも物語のタイプとしてはミステリーなんですよね、この映画。

ニール・ハウイー巡査部長(エドワード・ウッドワード)は行方不明の少女ローワンの探索を依頼されて、少女の住んでいる西スコットランドにある孤島、サマーアイル島にやってきた。
島は領主サマーアイル卿(クリストファー・リー)によって支配されてる排他的な雰囲気の土地だった。島に上陸して港にいた島民にローワンのことを尋ねてみるとそんな娘は知らないと云ったり、亡くなったと云ったり要領を得ない。
調査のために宿を取る目的で酒場に立ち寄れば、集まってる住人は人前で平気で卑猥な歌を歌ってる。島を散策してみれば、平原で複数のカップルが隠れもせずに野外セックスをしてるのに出くわすし、学校では少女たちをまえにして男根信仰について教えている。
島はキリスト教以前の古代宗教が普及、支配しているようで、サマーアイル卿によれば、農学者だった祖父の代に土着の宗教を利用して島民を鼓舞し、土地に適合した作物を特産品にしたということで、それ以来古代の宗教が島民を支配し続けてるらしかった。厳格なキリスト教信者だったハウイー巡査部長には島の風土はモラルが崩壊したものにしか見えなかった。

「五月祭」が近づき儀式の準備であわただしくなってくるなかでの捜査はなかなか進まず、そうこうしてるうちにローワンの墓を発見。サマーアイル卿から墓を掘り返す許可を貰って、開いてみれば棺の中に入っていたのはローワンの遺体ではなくてうさぎの死骸だった。
ローワンは去年の感謝祭の主役で、今年、島は不作になってる。不作の時の「五月祭」にはいけにえが捧げられるということを知って、ハウイー巡査部長はローワンがまだどこかで生きていて、間もなく始まる「五月祭」のいけにえにされると確信し始める。

☆ ☆ ☆

観た感じ、ホラーと云うより、どちらかというとオカルトものに近いような感触です。でも「エクソシスト」みたいに派手な悪魔憑きが観られるわけでもなく、当然のことながら殺人鬼もモンスターも出てきません。
物語を進めてるのはハウイー巡査部長役のエドワード・ウッドワードと、クリストファー・リーのほとんど2人で、あとは島民のみというシンプルな人間構成。シンプルな人間構成を元にして基本はあくまでも日常的なものを踏み外さずに進む映画でした。

ハリウッド映画を見慣れていれば、抑制が効き過ぎてるというかなんともメリハリのない演出に見えます。たとえば2人の人物が会話するようなシーンで、画面の左右の端に2人を置いて、左右から会話させるという構図を固定した画面で撮影したりする。
ハリウッドのやり方が全てとは云わないけど、こういうタイプの映画を見慣れないと、動きに乏しい映画と見えてしまうかもしれません。

この映画、殺人鬼やモンスターが出てこない代わりに、日常の風景に半身を置いたまま、もう片側を幻覚に置いてるようなイメージが出てきます。
日常的なものを踏み外さない物語の中に置かれると、こういう白昼夢のようなイメージは結構際立って見える部分もありました。
たとえば喉の痛みをとるために子供の口に生きたカエルを突っ込む母親、カエルが喉の痛みを吸い取ってくれるらしいんだけど、子供はカエルを頬張らされて「不味い」って云います。
他にも「五月祭」が近づいて村人がかぶり始める動物のマスクだとか、祭の途中で六芒星の形に組合わせた鋏の間に頭を突っ込む儀式だとか、ローワンの学校の机の中で、糸で釘に止められて、釘の周りを回り続ける昆虫だとか、墓の前に吊り下げられてる亡くなった人の皮の一部とか、少しづつ、ずれを含んでるようなイメージが時折出てきて、ハウイー巡査部長のミステリー物語の背後から不気味な印象を伝えてくるようです。こういう感じはホラー的だったのかも。

音楽も異様でした。
ギターで歌われる、ほとんどフォーク・ソングみたいな音楽で、白昼夢のようなものを隠し持ってるどことなく不穏な物語に、のどかに被さってきます。ホラーものなのにのどか過ぎて力が抜けてしまいそうな歌。
さらに音楽が出てくる時は大抵、画面に出てる誰かが歌ってるので、この映画の一部はある意味ミュージカル風とも云えるんですが、ミュージカル風というのが全体への異化効果を狙ってたんだとすれば、大成功だったと思います。

☆ ☆ ☆

宗教的な内容に関しては、頑迷なキリスト教信者であるハウイー巡査部長が異文化的な宗教を前にして、それでも自分のキリスト教的な信仰を曲げずに物事に当たろうとする時の当惑だとか、異教によって自分の信仰が相対化されそうになっていくことへの恐怖とか、そういったものがテーマなんだろうと思います。
観客のキリスト教信者はハウイー巡査部長と同調して、自分の持つ価値基準が絶対じゃないとか、信仰の揺らぎみたいなのを疑似体験して恐怖を感じるっていうことなんでしょうか。
この辺りはやはりキリスト教信者でないとその困惑や恐怖も分からないというのが正直な感想です。

ハウイー巡査部長が代表するキリスト教と云う正統の極致にあるものに対して、サマーアイル卿が体現してるセックス狂いの邪教をぶつけて、最後は邪教に勝利させるという結末に持っていくんですが、キリスト教の勝利にしなかったのがこの映画がカルトであることの証明でもあるんでしょう。

☆ ☆ ☆

ラストシーンは、これは公開当時観た人にとっては衝撃的だったと思うし、この物語の流れでも十分衝撃力を持って締めくくってるとは思うんですが、残念なことに最近同様のことを「サイレントヒル」が更に過激にやってしまったので、今更これを観ても、あまり衝撃としては伝わってこなかったです。ただ、幻想的と云う文脈でいうなら、青空を背景にして屹立してる「ウィッカーマン」は十分に異様だったし、同じく青空を背景にして燃え上がってる光景も幻想的といってもいいものだと思います。

☆ ☆ ☆

クリストファー・リーが、妙にさっぱりした青年風のイメージで出てきます。これだけでも結構意外なのに、クライマックスの五月祭の時はなんと女装して、のどかで陽気で不気味な祭の最中に踊りまくります。ドラキュラ伯爵であり、スター・ウォーズのあの重厚な人がこういうことをするのが観られるのは、ひょっとしてこの映画だけ?
さらにクリストファー・リーもこの映画の中で歌を歌うんですが、結構渋い声で上手いんですよね。こんな芸も持ってるとは思ってもいませんでした。

☆ ☆ ☆

ウィッカーマン (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)ウィッカーマン (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)
(2008/08/07)
エドワード・ウッドワードクリストファー・リー

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The Wicker Man - Trailer



原題 The Wicker Man
監督 ロビン・ハーディ
公開 オリジナルのイギリスでの公開は1973年 日本での公開は1998年


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【洋画】 キャビン・フィーバー

一応劇場公開されたみたいだし、DVDだって売られてるから大丈夫だったんだろうと思うけど、どこからも文句が出なかったのがちょっと意外な内容の映画でした。とりあえず一言で云うなら汚い映画。電車のつり革を持つのさえ躊躇うような潔癖症の人が観たら卒倒するかもしれません。ちなみにR-15指定の映画だったらしいです。

監督のイーライ・ロスはデヴィッド・リンチの元でリンチのショート・フィルムのプロデュースをしてたとか。この映画の音楽をリンチ映画の音楽をやってるアンジェロ・パダラメンティが担当していて、それがちょっと意外だったんだけど、おそらくリンチ繋がりだったんでしょう。
リンチの影が見えるからといってリンチ的な映画なのかというと、この映画、実は典型的なB級ホラームービーです。
映画はリンチよりもむしろサム・ライミの影響下にあるような感じです。
舞台となるキャビンの様子や外の風景など「死霊のはらわた」に出てくる小屋と雰囲気が酷使してました。

☆ ☆ ☆

ポール(ライダー・ストロング)とカレン(ジョーダン・ラッド)、ジェフ(ジョーイ・カーン)とマーシー(セリナ・ヴィンセント)の2組のカップルとバート(ジェームズ・デベロ)を合わせて5人の遊び仲間が、夏休みの1週間を森の中の一軒家のキャビンで過ごそうと計画した。
5人は車でキャビンに到着、その夜はキャンプファイヤーを囲んでマリファナをやったり、羽目を外して遊んだ。
その後部屋の中で寛いでいると、玄関を叩く音がする。誰だろうと開けてみれば玄関前には血だらけの男が立っていた。男は病院に連絡してくれというがバートが戸を閉めてしまう。締め出された男は5人の乗ってきた車に立てこもろうとするものの、たいまつを持ったポールに追い立てられて、争ううちに体に火をつけられたまま逃走してしまった。

男の皮膚は爛れ溶けたようになっていて、車に立てこもった時に大量に吐血した様子から見ると何かの感染症にかかってるようだった。
火がついたまま逃走した男の安否が気になったり、これからどうするか決めかねているうちに、カレンの様子がおかしくなり、程なく男と同じ感染症を発病してしまう。他の4人はカレンから感染するのを恐れ、カレンを納屋に隔離することにした。
他に感染したものがいないかお互いの体を調べあうが、発病のしるしが無いからといって感染してないとは云いきれず、お互いが疑心暗鬼になっていく。
感染症男の吐血で血みどろになった車を洗い、男と争って壊れた部分を修理して動く状態になったところでカレンを運び出そうとした時、今度は車を準備してたバートが発病する。自分が発病したことを知られたくないので、バートは一人で車を発進させ、助けを求めるために森の入り口にあった雑貨屋に向かった。
ところが雑貨屋では助けを求めるバートの血で汚れた姿を見て、バートやキャビンにいるほかの4人を助けるどころか、病気を伝染させる余所者を始末してしまおうという話に纏まっていくことになった。

☆ ☆ ☆

遊ぶことしか頭に無いバカ学生カップル2組とお調子者1人という、ホラー映画では典型的なキャラクター・タイプを揃えてるために、区別がつきやすかったということもあるけど、意外なほど人の捌きかたは上手かったという印象があります。人の出入りも観ていてほとんど混乱しなかった。
ただ、バートみたいなキャラクターはホラー映画では必ず出てくるタイプなんだけど、わたしはこういうタイプが出てくるといらいらするほうで、この映画も例外じゃなかったです。

いつもふざけていてそのふざけ具合が場の空気なんかちっとも読んでないというか、調子に乗りすぎというか、そんな行動にばかり走る人物。

たとえばこわごわ歩いてる主人公の背後に、画面のフレームの外からいきなり大音響と共に飛び出してきて吃驚させ、心臓が縮む思いをしてるに違いない主人公に、へらへら笑いながら「吃驚した?」とかほざくようなキャラクター。
バートはその典型だったんだけど、多少は控えめにしてあったり、最後は自分が感染してしまうので、ふざけてるどころじゃ無くなったりして、この映画の場合は、いらいら度はあまり高くは無かったです。
でも、わたしにはホラー映画で必ずこういう人物を配置する理由がよく分かりません。緩和させる役目なのかな?むしろこういうキャラクターはせっかく高まった物語の緊張感をぶつ切りにするだけだと思うんだけどなぁ。

スプラッターものとしてみれば、特殊メイクはKNBエフェクツが担当したらしいんだけど、2,3のメイクを除いて全体的にはあまり予算をかけてないのが丸分かりでした。感染症で皮膚が爛れたようになる表現も赤黒くでこぼこになってる程度を超えるようなものでもなかったし。
ただ、そういう造形の甘さを補うためなのか、感染した後の吐血の表現は強烈で、まるで放水してるみたいに派手に飛び散ります。そのせいでたとえば男が立てこもった車は、車全体が赤く染まるくらいに血だらけに。
感染症の恐怖が中心とすれば、病原菌が周囲に撒き散らされてるのが見て分かるようなこういう表現のほうが相応しく、低予算で特殊メイクの粗を隠すための手段だったとしたら、周囲に撒き散らされる血しぶきというのは、結果的には大成功だったと思います。

この放水するように撒き散らされる、病原菌を一杯含んだ吐血といい、この映画には人体破壊みたいな直接的なグロというよりはむしろ生理的に嫌悪感をおこさせるような表現が目立ってました。
最初に発病するカレンの感染した原因は、汚染された水を飲んだことだったんですが、この水が何故汚染されたかというと、最初に火がついて逃げた男が貯水槽に飛び込んでそのまま死んでしまったからでした。カメラは焼け爛れた死体が浮かんでる貯水槽からパイプを通ってカレンのコップに水が入るまでの経緯を丁寧に描写したりします。

☆ ☆ ☆

何の病気なのか描写する気は全く無かったようなので、感染症にかかった人がどういう経過を辿るかを見せる映画とは全然違うし、村人は余所者を殺そうとはするけど、だからと云って感染が広がっていくのを食い止めようと努力するのを見せる映画でもない。

では何かと云えば、要するに、最初は感染してる男から、その後は感染してしまった仲間から、「うつるから寄って来るな!」とばかりにひたすら逃げることを描写した、云うならば一種の「穢れ」に似た感覚を表現しようとした映画じゃないかと。
わたしはアメリカ人に穢れなんか分からないだろうと前に書いたけど、イーライ・ロス監督はインタビューで日本のホラーをべた褒めしてるんですよね。だからロス監督は日本のホラー映画によく出てくるような、こういう感覚に馴染みがあるのかもしれません。

映画でそういう感覚を代表してたのがジェフで、カレンが発病してからは必ず口元にハンカチを当て、カレンが触ったかもしれない食器から絶対に食べようとはしません。洗ったから大丈夫と他の仲間に云われても絶対に納得しない感覚はまさにその食器が穢れてると思ってるからでしょう。もちろんカレン本人には絶対に近づかない。
ジェフはそういう態度を恋人のマーシーから薄情者となじられます。
社会的にはマーシーが正解でジェフの態度は褒められたものではないんだけど、こういう感情は誰にでもあるし、また当然の反応だと思う。

結局マーシーはカレンの看護をした結果感染してしまい、あらゆる穢れから遠ざかったジェフだけが感染からは免れる結果となります。まぁジェフにはその後とんでもない運命が待ってるのは別にして、ジェフのような感覚に多少の正当性を与えた監督は感覚に正直であろうとしたってことでしょうね。

☆ ☆ ☆

映画の中盤から後半にかけての展開は、破綻してるとしか云い様の無いものでした。血だらけの車を前にしても全然注意を払わずに夜にやるパーティの話に興じる警官とか、信じられないキャラクターが一杯出てきます。主人公のポールの性格もある時を境に激変してしまうし、後半の脚本に一体何があったんだろうと思わせるような出来になってました。
一番訳が分からなかったのが、雑貨屋の店先のベンチで座ってるパンケーキ少年。助けを求めにきたバートを見るや、「パンケーキ!パンケーキ!」と叫んで、カンフーのとび蹴りなんかをしながら近づいてきて、バートの掌に噛み付きます。
これ何のための行動なのか見終わった後でも本気でさっぱり分かりません。

☆ ☆ ☆

こういう映画ではあまり見ないほど意外に美形の女優さんが出演してます。ところがカレンは早々に感染して、顔の下半分が溶けて頭蓋骨丸出しのような様相になるし、マーシーは中頃に発病、せっかくの美形女優が中ほど過ぎで全員退場してしまいます。
あとは男と支離滅裂な行動をする村人ばかりが残って、華のないことおびただしい映画に。
もう一組カップルを登場させて1人くらいは最後まで残って、美形の俳優で画面を華やかにして欲しかったなぁと、そんなことを思いました。

この映画ちょっと調べてみれば、編集は「ブルース・プラザーズ」のジョージ・フォルシーが手がけてるんですね。音楽のパダラメンティといい、特殊メイクのKNBエフェクツのチームといい、スタップは妙に豪華です。イーライ・ロス監督、人脈は凄そうです。

☆ ☆ ☆

キャビン・フィーバー スペシャル・エディションキャビン・フィーバー スペシャル・エディション
(2007/08/24)
ライダー・ストロングジョーダン・ラッド

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Cabin Fever - Trailer


パンケーキ少年のシーン

問題のシーン、映画ではこの謎の行動について、結局最後まで一切触れてくれません。

原題 Cabin Fever
監督 イーライ・ロス
公開 2002年


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