【洋画】「トロン」+「トロン:レガシー」についてのいくつかの覚書 +魅惑のベンチ写真 +ファンキー・オルガン・バラード

今これを書いてるのは2月の1日のことで、既に十日経って若干旧聞に属する話題になってしまってるんですが映画「トロン:レガシー」を観にいってきました。
観にいってきたのは先月の19日。映画館は三条河原町にあるいつものムービックス京都です。去年から京都駅南側にイオンモールが出来てその最上階に新しいシネコンが稼動し始めてからは、京都での映画館事情はちょっと変化が付け加わりました。このイオンモールではどんなところなのか見物の兼ねて去年の夏頃に「インセプション」を観にいってます。この時の「インセプション」はムービックス京都でも上映してたので、ひょっとしたら今回の「トロン:レガシー」もこの新しい映画館でもかかってたかもと後で思い至ったんですけど、結局馴染みのあるムービックス京都のほうに知らず知らずに足が向いて、今回の「トロン:レガシー」はこっちで観ることになりました。

お正月を結構すぎてたのでお客さんの入りはわたしが観た回では大体30人くらいだったかな。それでもまだ一日に4~5回の上映回数で上映を続けてるようでした。もっとも一日通して上映してるのはこの週が最後で、翌週から一日二回の上映に減ったようでしたけど。

お客さんがいない
Nikon Coolpix P5100 +Picnik

ポスター
Nikon Coolpix P5100 +Picnik


ちなみに上映してたのは3D上映の形で特別料金を別に400円取られました。3Dの映画が流行り始めた頃って300円程度の上乗せじゃなかったかな。今回の映画の追加料金が値上がりしてたのは確実で、しかもこの100円程度の値上がりはかなり高くなった印象を与えました。3Dでの表現が本当に必要な映画なんて限られてるし、3D自体も驚きも何もなくメガネかける鬱陶しさの方が先にたつような感じになってきてたからこの追加料金は無駄に払ってしまったと思いの方が強かったです。それに「トロン:レガシー」は全編3Dじゃなくて2Dのシーンも結構混じってたので、ますます400円の値打ちなしと言う感じがしてました

お正月映画をとりあえず何か一本でも観たかったんですよね。でも何を観にいくかはちょっと決めかねてました。お正月映画といいながら時期的にお正月をかなり外して観にいってるのは人が多いところがかなり苦手と言う理由で、どれを見ようか迷っていた結果と言うわけでもなかったんですけど、今年のお正月映画に去年の「アバター」ほどは引きの強いものがなかったのも事実でした。
それで、何を観ようかちょっと考えた結果、一応製作してるというのも以前から知ってたし、前作も見ていて、SF物が結構好きということもあって「トロン:レガシー」を観ることに決定しました。
基本的に映画は見世物的なものと把握してるせいか、SFなんかは結構気を引かれるジャンルになってます。文芸ものとかも嫌いじゃないですけど、空想的で普段の生活だと見ることも出来ないような世界を実際に眼に見える形で見せてくれるのは極めて映画的だと思ってるので、こういうジャンルの映画はちょっとワクワクさせてくれるところがあります。
それに前作は何十年も前の映画で、長い時間が経つ間にあまり話題に上ったこともないと思われるのに、どうして今頃思いついたみたいに続編が作られることになったのか、そのへんの理由も知りたかったし、映画の中に何かヒントでもあるかなとも思ってました。

ところが前作を見てるという条件もあっての「トロン:レガシー」ではあったものの、それでは前作がどんな映画だったのかと振り返ってみても実は前作のことは殆ど覚えてないというのが実際のところでした。綺麗さっぱりわたしの記憶領域から拭い去られてるというか、光の壁を背後に残しながら直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームで出来た巨大艦がゆっくりとスクリーンを横切っていくというイメージが頭に残ってるだけでどんなお話、内容だったのかはさっぱり思い出せない状態。登場してた俳優もジェフ・ブリッジスしか印象に残ってませんでした。
それで連続したものを観るというのにこれではちょっと勿体無い、ひょっとしたら前作と関連付けてる部分が多々あるような新作だったら話の内容さえも理解できないかもしれないと思い、結局新作の「トロン:レガシー」を観にいく前に前作の「トロン」も何十年かぶりに観てみることにしました。前作の「トロン」は今はDVDで簡単に観ることが出来るようになってます。

☆ ☆ ☆

こういう経緯で新しい「トロン:レガシー」を観にいく数日前に、実際に前作の「トロン」を観賞。
見終わった感想というか印象は、直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームの巨大艦しか記憶に残ってなくて、お話の内容がわたしの頭からすっかり抜け落ちてしまってたのも当然のことだったなぁというものでした。忘れてしまっていたせいで、あのイメージしか頭に残ってなかった巨大艦の意味合いとかどういう風に絡んでくる内容だったのかと割と興味津々で見てたんですけど、再見で確認できたのは、トロンのお話は共感するようなところもあまりなく、まるで他人事のように進んでいく極めて退屈なものだったということ。全体に焦点を欠いたような散漫さで、観てる側がどこにポイントを置いていいのか終始はぐらかされてしまうような物語だったということです。そのつまらなさは視覚表現以外のトロンの内容がわたしの記憶から完全に抜け落ちていたことを妙に納得させるものでした。
他人事と言うなら映画の出来事なんてどんな映画も、あらゆる映画はずべて他人事なんですけど、それでも登場人物に同情したり、共感したり、あるいは一緒になって怒ってみたり、反感を覚えたりと、何らかの係わり合いが生まれてきます。でもこの映画はそういう部分が本当に少なかったというのが見終わった後での一番の感想でした。

☆ ☆ ☆

主人公のフリン(ジェフ・ブリッジス)は天才的なプログラマー。エンロン社というIT企業に在籍してその天才的な発想で「スペース・パラノイア」というコンピュータ・ゲームを作り上げていた。ところがある日自分が作り上げていたゲームが誰かに全部盗まれてるのに気づいてしまう。フリンの成果を横取りしたのは新参で凡庸な才能の同僚プログラマーのディリンジャー(デヴィッド・ワーナー)。しかし悪は正されずに、ディリンジャーはその後このフリンから盗んだゲームを足がかりに出世していき、片やフリンのほうは会社を解雇されると言う結果になってしまう。
エンロン社を追われたフリンはゲームセンター「フリンズ」のオーナーとなり、子供たちは「スペース・パラノイア」で大量のお金を落していくものの、その殆どが自分の方には回ってこないと言う境遇に甘んじていた。
フリンは理不尽な境遇から抜け出そうと宅のコンピュータから「スペース・パラノイア」の著作権が自分にあることを証明するデータを探すためにエンロン社のコンピュータをハッキングした。
エンロン社のコンピュータ内部では元はチェスのプログラムだったものが周囲のプログラムを取り入れながらマスター・コントロール・プログラム(MCP)と言う巨大なプログラムに発達していて、これが恐怖政治によってコンピュータ内部の空間を統治するようになっていた。
ディリンジャーはこのMCPと結託してエンロン社での権力を維持していたが、フリンがハッキングしてくることをMCPから聞かされて、全アクセスを遮断する方針を打ち出すことにした。
フリンの同僚のアラン(ブルース・ボックスライトナー)はMCPからも独立してコンピュータ内部を監視できるセキュリティ・プログラム「トロン」を開発していたものの、アクセス制限の影響で開発が出来なくなってしまう。MCPにとっては自分を監視下における「トロン」の存在も気に食わないものの一つだった。
ディリンジャーとMCPによるアクセス遮断の理由が元同僚フリンの進入にあると知ったアランは同じく同僚で物質をデジタルデータに変化させる物質転送ビーム装置の研究をしてるローラとともにフリンに会いにいった。
ゲームセンター「フリンズ」でディリンジャーとフリンの間にあった著作権のいざこざを聞かされた二人は、フリンが社内に残ってるアクセスルートから侵入してその証拠を見つけられるように手助けをすることに決めた。
三人で会社に侵入した後、フリンは再びシステム内部にアクセスしようとした。そのことを知ったMCPは物質転送ビームを使ってフリンをデータ化したあげくコンピュータ内部に取り込んで、中で行われてる命がけのゲームに強制的に参加させることで、フリンを抹殺しようとした。

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こんな感じで観ている側はフリンとともに物語の本舞台である視覚化されたコンピュータ内部の異世界に導かれていきます。冒頭の語り口はそんなに酷いものではなかったです。プログラムが人の形をして動き回り、直角に曲がるライト・サイクルにのって殺人ゲームをしてるって、にわかに納得しがたい世界のはずなのに、ゲームセンターのゲームと絡めたりしながら、コンピュータの中には小さい人が居てこんな冒険をしてるのが普通だと割りと簡単に思わせてしまいます。でもスムーズに引き込んでいくお話なのに、分かりやすい語り口で語られるそのお話はなぜかちっとも面白くなかったんですね。

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見終わってみて、どうしてここまで心に残らないお話なんだろうってちょっと考えてみました。
まずこのエンロンという会社。「トロン」という映画の現実世界側の舞台になってる会社なんですが、この会社の得体が知れない。何を目的にしてる会社か本当のところ良く分かりません。フリンはゲーム開発で突出したゲームを作り、それを横取りしたディリンジャーが会社の頂点に上り詰めてることからしてわたしとしてはゲーム会社という印象が一番強いんですけど、ディリンジャーが話してるところを見ると30国を相手に防衛システムの取引をしてる国際的な企業らしいです。マイクロソフトだってゲーム作ってるから、べつに世界的なIT企業がゲーム作っていても構わないとはいうものの、この辺はどうもちぐはぐな印象を与えてます。MCPも企業のコンピュータはもう乗っ取るのに飽きてしまって国防省を狙ってるとか、そのうちクレムリンも支配下に置くとか壮大なことを云い出すんですけど、そんなこと云ってる割に、元がゲームのプログラムのせいなのか電脳空間の中でやってることといえば、吸収して不要になったプログラムを集めて殺し合いのゲームしてるだけなんですね。
さらにこの会社はなぜか地下では物質転送ビームなんていう妖しげなものまで研究開発してます。
一言で言うとわたしにはエンロン社にはあまりリアリティが感じられませんでした。物語を成立させるために必要なものを集めてそれっぽい組織にみえるように適当に体裁を整えてみましたという感じに近い気がします。フリンを動かしてる著作権の問題はこのエンロン社の世界がもとになって発生してるわけだから、元になってる世界にリアリティがなければ、主人公の行動原理もまたリアリティが希薄になってくる以外になくなるんじゃないかと思います。

著作権といえば、この物語のきっかけがフリンが横取りされた著作権にあったというのは今度再見してみるまで完全にわたしの記憶から抜け落ちてしまってたもので、こんな動機で動き始める物語だったんだと改めて発見してちょっと吃驚したくらいです。
だって、確かにフリンがコンピュータ内部に入り込むのは著作権が本当は自分にあるということを示すディリンジャーの改変命令とかを探す目的だったにしても、物語の大半を占めるコンピュータ内部の冒険では著作権がどうのこうのって云う話は一切出てこなくなるんだもの。
奪われた著作権の話の代わりに出てくるのは、アランがエンロン社のコンピュータに仕込んだ警備プログラム「トロン」が、圧政を敷くMCPからコンピュータ世界を開放する話で、映画の内容はコンピュータ内部世界が主舞台になると冒頭の展開とは完全に摩り替わってしまいます。結果、映画の大半はこのMCPの元から自由になったトロンがMCPの成敗に向かう話となって、確かにフリンは著作権にまつわる目的を達成するためにはMCPを無効化する以外に方法はないにしても、主役のはずなのにそのうちトロンの行動を補佐するような役回りに変化していくことになります。
この映画で唯一感情移入が出来る人物、自分の作ったものを他人に盗まれて会社から放り出された悔しさといったものを共有して、名誉が回復すればその喜びによってカタルシスが得られるはずだった物語は途中で表舞台から姿を隠しがちになってきます。

☆ ☆ ☆

「トロン」というキャラクターは映画のタイトルにはなってるけど、実は主人公のコンピュータ内部世界での分身という存在ですらなくて、物語の立ち位置は脇役といってもいい存在です。だから主役のジェフ・ブリッジスが補佐に回ってしまいがちになって以降のこの「トロン」という映画は云うならば大活躍する脇役の物語になってるともいえます。

現実世界のアランはフリンが退社してからの事情を知って、同僚とともに回路が閉ざされた会社のコンピュータに別のルートからフリンがアクセスできるようにフリンの手助けをしていきます。だから、コンピュータ内部の出来事も現実と対応していたならアランの分身であるトロンはフリンの行動を補佐する役割になっていたはず。
でも中盤以降中心になっていくコンピュータ内部での物語の要となっていくのはフリンじゃなくてトロンの方なんですね。しかもそのトロンに関しては映画の中では主役に躍り上がったからといってそれ以降では詳しく描かれるかというとそうでもなく、アランが作ったMCPからも独立して監視できるプログラムだということくらいしか説明されないままに放置状態。映画のタイトルになってる割にキャラクター的な内容はほとんど何も描写されてないのと同じくらい印象が薄いです。

トロンがフリンの手助けで殺し合いのゲームの駒にされていた境遇から脱出した後、MCPの追跡を出し抜いて、リアル世界のユーザー、アランと結びつく場所へ趣き、アランからMCPを倒すためのプログラムを受け取るために、ユーザーと繋がる光のビームの中に立って重要な記憶が入ったディスクを頭上高く抱え上げるシーンがあります。このシーンは新作の宣伝でもトロンを代表するイメージとして使われてるくらいのシーンなんですが、そういう映画のイメージを代表しそうなシーンをフリンじゃなくトロンがこなしてる。他にもクライマックスでMCPの手下であるディリンジャーのプログラム人格、ほとんど処刑人といってもいいような「サーク」とディスク・バトルで一騎打ちをするシーンなんかも、著作権を奪われて恨みがあるはずのフリンじゃなくてトロンの方が戦いを挑んでいくような運びになってます。要所要所の見せ場はフリンに対してではなくてトロンのために用意してありました。

要のシーンになると、主人公の友人のプログラム人格がかっこよく決めながら活躍していく展開を観ていて、ジェフ・ブリッジスが主役と思ってみていたわたしの感覚はそのうちに収まるところが見つからなくなってきました。観ていて発見したのは殆ど描写されない人物が大活躍してもやっぱり印象は薄いままなんだということ。これは「トロン」が教えてくれた物語創作上のある種の真実かもしれないです。

トロンという、わたしにはどうみても主役のように見えない人物でも、その人物が展開していく物語に魅力とパワーがあれば、あるいはまた全体の印象は変わったものになっていたかもしれません。でも抑圧されたプログラムの解放という内容はあまり身近な接点をもてるようなものでもなくて、寓意にしてもいささか稚拙なものに終始したままエンディングを迎えたように思えました。

☆ ☆ ☆

それともう一つ。この映画、いわゆる悪役に相当するMCPとディリンジャー、そしてディリンジャーのコンピュータ内部でのプログラム人格である「サーク」にあまり魅力がありません。魅力がないというより何がしたいのか観ていてもなんだかよく分からないから悪役として上手く成立してないという方が当たってるかな。

主人公が悪に立ち向かうというようなシンプルな物語でその悪役に魅力がなかったら映画そのものの成立さえ危なくなってくるところがあると思ってるほうで、極端に云うと主人公は物語を進めるただのコマ扱いであっても悪役のキャラクターさえ立ってたら物語は成立するんじゃないかと考えてます。
そういう点でいくと「トロン」の悪役は全く力不足。
MCPが世界征服なんていうことを口に出しながら、その割りにやってることは大掛かりなコンピュータゲームに過ぎないものばかりというのは上のほうで書きました。他企業のコンピュータを乗っ取った結果コンピュータ内部の世界がどういう風になってるのか、MCPが権力を持つまでの世界とどう変わってしまったのかといったこともほとんど描かれてません。
またコンピュータ内部ではMCPの一番の配下「サーク」となってるディリンジャーも、できるだけ残忍に殺せって言うような指示を出すくらいでそれほど策略をめぐらせるわけでもなく、自分からは動かないMCPの手足になって動いてるだけという印象でした。
それに自分でプログラミングして作り上げてる人格なのに、ディリンジャーはどうしてわざわざ自分からその分身を、MCPに「なかなか残忍になってきたな」と云われて「有難うございます」などと答えるような、こんな馬鹿げた処刑人にしてしまったんだろうって、これもちょっと理解不能な感じがありました。自分で自分の分身をプログラミングできるのに、こんな酷いキャラクター作ってしまう人っておそらくいないでしょう。
MCPが自分から動かない設定だからその手足になって動く、MCPの極悪ささえも肩代わりしてるような悪のキャラクターが必要だったということはなんとなく分かりはするものの、そこまで悪そうにはみえないリアル世界のディリンジャーとサークとは、悪役であるということしか共通項がないような感じになっていて、悪役の造型に適当感がかなり漂ってます。

☆ ☆ ☆

とまあ、久しぶりに観た「トロン」はこんな風にお話はつまらないのが納得できるくらい、適当で、稚拙な印象を与えるものでした。
でもこの映画、お話はこんな体たらくだったんですけど、ビジュアル的には見所が一杯あります。この映画の値打ちはやっぱりコンピュータ世界の描写にあるというのは今回見直して再確認した感じでした。何十年も前に見た時よりもかえって今現在見た方が視覚的には興味深かったとさえいえるかもしれないです。
この映画の異世界構築には今回はじめて知ったんですけどメビウス(jean 'moebius' giraud)が関わってたんですね。映画だと「エイリアン」の初期コンセプトだとか宇宙服のデザイン、「フィフス・エレメント」などの美術に関わった人、本来は漫画家なので「時の支配者」って云うアニメも作った人です。シド・ミードもクレジットされているものの、メビウスは「トロン」では舞台、コスチュームのデザインを担当したそうで、この「トロン」の異世界の雰囲気はメビウスの力の方が大きい感じです。

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技術的に見ると今のコンピュータグラフィックの方がはるかに洗練されてます。トロンが描き出すコンピュータ世界はまるで何十年も前のレトロ・ゲームに見るような世界ではっきり云って稚拙です。でもこの稚拙な世界こそがわたしたちが共有しコンピュータといったときに思い浮かべるような記号的なものに満ち溢れていて、かえってこういう風なシンプルな世界が逆に今見るといかにもコンピュータ的な世界として新鮮に眼に写る感じがします。
広大な空間を予感させる深い闇とハイコントラストの幾何学で作られた異世界といった感じ。質感を与えるための手の込んだテクスチャも貼ってないポリゴンモデルのシンプルで、極めつけにクールなライト・サイクルなどのオブジェクトも含めて、リアルを目指すようないまのCGではあえて発想する人も居ないだろう人工的な世界でもあります。この背景を飲み込んでいくような闇が実に特徴的で、その深さに観ていて夢中になるんですけど、闇が支配するところはプログラムされないものは一切存在しない世界ということなんでしょうね。昔のゲームだって容量が足りないから黒バックっていうのは当たり前にありました。
それとコンピュータ内部の人格の、スーツから露になってるキャラクター部分のビジュアルが荒いモノクロ映像にしてあるのも、今観ても凄く新鮮です。まるで古いドイツ辺りのSF映画を観てるみたい。

この映画を観た当時、コンピュータ・グラフィックで作った映画という売り込み方だったはずですが、実はその意味合いがもうひとつ良く分かりませんでした。手で描くのとどう違うのかとかとか。今は3DCGソフトを触ることもあるので違いは大体分かるようにはなって、そういう意味でもわたしにとっては面白いビジュアル表現でした。実はコンピュータ・グラフィック映画といいながら、手書きで凌いでるところも結構あるんですよね。


☆ ☆ ☆


久しぶりに映画のことを書こうとしたら、ちょっと息切れ気味。なのでここらで一度休憩。

これでも昼間の写真!
Wide Lens Camera : Kodak Ektar 100 +Photoshop : CanoScan 8600f

なぜかは知らないけど、ベンチを見ると撮ってみたくなってます。
これは動物園に持っていったロケン・ロールなカメラ、Wide Lens Camera にコダックの感度100のフィルムを詰めたのをつれて、今年のお正月過ぎに白川疎水道を歩いた時に撮ったものの一枚。


ということで、ベンチで一休みした後さらに続けます。


☆ ☆ ☆


さてそこで、今回の続編「トロン:レガシー」のお話です。

お話の発端はなかなか魅力的な展開で始まります。
時代はフリンが前作のコンピュータ内部の冒険から再びリアル・ワールドに戻って、暫く後のこと。フリンがベッドにいる息子サム(ギャレット・ヘドランド)にトロンとともに体験した冒険について語ってるシーンで映画は幕を開けます。ライト・サイクルで戦ったり、トロンがディスク・バトルで活躍した話など。この辺りは観ている側への説明にもなっていて、観客はサムの視線となって一緒にフリンの話に耳を傾けるようになるはず。
フリンの話は前作の冒険から帰って以降のことにも続いていきます。前回の冒険の後でアランとともにコンピュータ内部、この映画では「グリッド」と称してましたが、そのグリッドに自由に出入りするようになって、でも常時グリッドにいるわけには行かないからそれぞれの分身を、フリンの場合はクルー、前作で最初のハッキングで著作権のファイルを探す命令を受けて探索中に、MCPに捕らえられ抹殺されたフリンのコンピュータ内の人格のクルー、そしてアランは分身トロンを立てて、4人で協力してこのコンピュータ内部の世界を完璧な世界、ある種のユートピアとして作り上げようとしてると息子に語っていきます。そして、そうやってグリッドに完璧な世界を作り上げようとしていた時に、奇蹟が起きたと。
それまで熱心に聞いていたサムは奇蹟って何が起こったのかフリンに尋ねるんですが、フリンはその話はまた今度といってその日のお話を終えてしまいます。その後もっと話を聞きたそうな息子を残してまだ仕事があるからとフリンはバイクで自宅を後にします。バイクで暗闇の中に去っていくフリンと父を窓越しに見送る息子サム。しかしフリンは闇の中へ去ったきり、息子への話も中断したままで、会社の誰にも何も告げずにどこかへ失踪してしまいます。
その後時代は一気に現代へ。青年になったフリンは会社の所有者ではあるものの、失踪したまま行方不明になった父の考えなど無視して進むエンロン社のやり方に馴染めずに会社にいたずらを仕掛けるような屈折した生活を送っています。そんな時20年ぶりくらいに父からポケベルの信号が入ってきたとアランに告げられ、父が経営していて今は廃墟となってるゲームセンター「フリンズ」に趣くことになります。
廃墟と化した「フリンズ」の中を調べてるうちにサムは父のシークレット・ルームを発見。その秘密の部屋のなかには埃を被ったコンピュータがあって、そのコンピュータにアクセスしたサムはそのままコンピュータ内部の世界に転送されてしまいます。

なぜフリンは失踪したのか。観客はどういう映画か知ってみてるからフリンが行った先はある程度予想はつくものの、どうして20年以上も行ったままで連絡しなかったのか、また20年以上も連絡してこなかったのになぜ急にポケベルを使って信号を送ってきたのか。サムにとってはベッドに入って父に聞かされた時からそのまま謎で終わってしまってる、グリッドを理想の世界に作り上げようとしていた時に父が出会った奇蹟とは一体何だったのか。
この辺りのことが謎めいた要素としてちりばめられていて、物語の導入はかなり魅力的でした。どうなるのか知りたくなるような伏線を張りまくって、先を知りたいと思う観客の心をつかんで引っ張っていきます。ポケベルの連絡に導かれてサムが開くゲームセンター「フリンズ」の廃墟も、最近廃墟付いてるわたしにはかなり魅力的でした。前作と殆ど同じ雰囲気のゲーム・センターとして再現されていて、前作で子供たちで賑わっていた光景を知ってると、蜘蛛の巣だらけで人も気配も途絶えて久しいフリンズの光景は対比が効いて廃墟愛好の感性を刺激します。何かが起こりそうな気配も濃厚にあってなかなか楽しいです。

コンピュータ内部に転送されたフリンは放り込まれたグリッドで途方にくれていると、空から降りてきた、門のような形をした巨大飛行物体レコグナイザーに捕らえられて、そのままわけも分からずにゲームの戦闘員に仕立て上げられてしまいます。レコグナイザーも前作で出てきたのを直ぐに思い浮かべるようなデザインで、前作を見ていれば馴染みの世界に帰って来たような感慨を覚えるかもしれません。
この後は事情も分からないサムが分からないままにゲームの対決に巻き込まれていく展開で、分けが分からないのは観客も同じだからサムと同調して、この世界を始めて見る感覚で周囲で巻き起こる出来事に入り込んでいくことになるんでしょう。
いきなり事情も知らせずに始まるバトル・ゲームはディスク・バトルとライト・サイクルのゲームでこれは「トロン」の方にも出てきました。この部分も前作を知ってる人には現在の事情は分からないにしても、再びあの世界に戻ってきたとワクワクする人も多いんじゃないかと思います。

わたしも、なぜ自分が戦わなければならないのか、対戦相手は一体何者なのか、とにかく何も分からない状態でゲームに巻き込まれたサムが、その事態から逃れようと必死になって行動する様子を、サムの心情にシンクロしながら見てました。ディスク・バトルは前作のクライマックスだったのに、今回はグリッド世界が画面に出てきた序盤で早くも使われてるし、ライト・サイクルによるバトルは「トロン」で一番印象に残るシーンでもあったから、「トロン:レガシー」は序盤から結構ハイ・テンションで飛ばしてる映画という印象でした。

☆ ☆ ☆

でも確かに「トロン」とは比べ物にならないくらいパワー・アップしてるし、華麗なアクションを見せてくれるからそれなりにのめりこんで観ていられるんですけど、前作の設定をふんだんに盛り込んでる割に、わたしの場合は観てるうちになんだかこれは本当に{トロン」の世界なのかな?という違和感が出てきたんですね。

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ディスク・バトルの相手がまるで戦隊物の悪役のように妙な決めのポーズを取ったりするのもちょっと違和感があったものの、極めつけはその後のライト・サイクルでのバトル・シーンでライト・サイクルが直角に曲がらなかったこと、これが大きかった。バトルフィールドが「トロン」の格子状の平面から上下に段差のある立体構造に変わってライト・サイクルの動きが立体感を持ったのは新機軸だったんですけど、ライト・サイクルが普通にカーブを描いて曲がるものになっていて、これがものすごい期待外れ感を与えました。光の帯を後ろにひいて、その壁に追突するとクラッシュするというゲームの設定まで同じなのに、ライト・サイクルの挙動は普通の世界のリアルさが導入されて普通にバイクが曲がるように方向を変えます。ライト・サイクルが直角に曲がるのはまさしくトロンにしか出てこないシーンだったので、ライト・サイクルが直角に曲がらない設定はそれだけでここが「トロン」の世界じゃないと明言してるようなものに思えました。

これ以降のグリッド内部の描写全体にもいえることなんですが、「トロン:レガシー」は現在のコンピュータ・グラフィック技術を駆使して、派手な動きも含めてグリッド内部を極めてリアルな存在感を持つような世界として描いてます。ライト・サイクルの動きもライト・サイクル・バトル全体の質感をリアルに作り上げる段階で直角に曲がることのリアリティのなさが浮き上がってしまったんだと思います。でもこの方向は「トロン」という映画の世界を作り上げていくのにはあまり相応しい方向じゃないとわたしには思えました。
端的に云うならば「トロン」は奇想が支配する世界です。そして「トロン:レガシー」では最新の映像技術を駆使してその奇想の世界をとにかくリアルに、ライト・サイクルなら本当に光の帯を後ろにたなびかせて走ってると信じ込ませるくらいに現実感のあるものとして作り上げようとしてました。
誰も観たことがない世界を見える世界に具体化させるというのは、映画の持つ利点であって、そういうことを実現させる技術はたとえば龍がすむようなファンタジー世界をリアルに構築するような場合にはものすごく有用な武器になると思います。だからこういった他のファンタジー、SF映画と同じように「トロン:レガシー」もその世界に圧倒的な存在感を与えるために最新技術をつぎ込んでいたんでしょう。
結果、映画の中には本当に人間が住んでる世界のようにリアルなグリッド空間が出来上がってます。でもこの異世界をあまりにもリアルに描こうとしたせいで、「トロン:レガシー」はグリッドがどんなに奇想の世界であっても、どこか人間が生きてるリアルな世界の延長上に、気が遠くなるほど離れたところであっても必ず人が住めるような馴染みのある世界とどこかでリンクして繋がってる世界という印象を与えることになってるんですね。
逆に「トロン」の時のコンピュータ内部に広がっていた世界は人が住めるようなリアルさを持った世界とは全く次元が違うところに成立したような奇想の世界でした。新作の「トロン:レガシー」はこの次元が違うような異世界といったニュアンスを、異世界であってもリアルな世界という形で作り上げる方向に進んだために希薄にしてしまってるようにわたしには見えました。
言い換えてみると、どれほど奇妙に見えようともわたしたちが住んでる世界と似たような法則で動いてると思わせる世界と、わたしたちが住んでる世界とはまったく別の原理で成立してるとしか思えない世界の違い。「トロン:レガシー」と「トロン」の間には同じ映画の同じグリッド空間を扱いながら、表現手段の進化によって思いもよらないような形でこういう違いが出てきてたように思えます。

これまで書いてきたことからわたしがどちらが面白いと思ったかはいうまでもないことかもしれません。でもあえて云ってしまうとわたしはこの映画に限っては最新技術で作り上げた世界よりも昔の「トロン」のビジュアルの方が興味深かったです。「トロン」の場合は意図してる部分もあったのと同じくらい、当時の技術的な限界でああいう形になったところも多かったと思います。でもどこまで意図できたか、どこが時代の技術的な制約が生み出したものだったのかは別にしても、結果としてあの古いSF映画とシンプルでプリミティブなレトロ・ゲームが混在してるような手触りの世界の方が独自のイメージ世界を作っていたんじゃないかと思います。
ひょっとしたら「トロン:レガシー」のスタッフもレトロ・ゲーム的なイメージの世界をもう一度作りたかったかもしれませんが、現在において「トロン」と同じような感触を持つ世界を作るのはちょっと時代錯誤的で難しかったんだろうなぁって云うのも何となく想像できました。レトロ・ゲーム的なイメージの方が直接的にコンピュータ内部の世界というのを思い起こさせるものの、今やってしまうとやっぱりいつの時代の映画?って云う風になってしまいそうです。
考えてみると物語はくだらなかったけど、「トロン」ってあの時代を逃すと絶対に作れなかった映画なのかもしれませんね。

☆ ☆ ☆

「トロン:レガシー」の前半の展開は謎とアクションのハイテンションでそれなりに面白かったものの、この後謎の女クオラ(オリヴィア・ワイルド)に助けられ連れて行かれた先で父フリンと再会する頃からは、言葉に頼って動きが少ない展開が多くなってくるからなのか、前半のアクションを積み重ねていく展開に比べると、背景が次第に明らかになってフリンやサムたちの行動の目標が定まってくる後半は、わたしには映画が一気にトーンダウンしたような感じになりました。

サムがクオラ連れてこられたところは「2001年」のホワイト・ルーム風のフリンの隠れ家。これは冷たい光に照らされて割とかっこいい部屋でした。
フリンはその隠れ家でサムを食事に誘い、再会した息子サムに失踪した後のグリッドでの出来事についてどういうことが起こって、なぜ帰れなくなったのかといったことを話し聞かせます。
完璧なユートピアを作り上げようとしていた時に、ある日グリッドの中でデジタルDNAを持った生命体「アイソー」が生まれることになった。ところが完璧な世界を作るようにフリンにプログラムされていたクルーにはその生命体はコントロール下に置かれない不完全な存在、グリッドの内部に発生したウィルスとしか見えず、アイソーをグリッドから抹殺するために、アイソーを評価するフリンたちに対して反乱を起こしたということ。その結果グリッドはMCPが支配していたような世界に逆戻り、支配者はMCPからクルーに代わってグリッドは完璧な世界の実現という観念によって抑圧された世界になってると。
この部分がまずトーンダウンの始まり。

冒頭のベッドで父の話を聞くのと同じ構図で、観客はこの話で後半の物語世界の事情をサムとともに理解できるようになってるんですね。でもこの説明はグリッドという特殊な世界で使われる言葉が出てくるせいなのか、一度聞いただけではどうも理解しがたいし、上に書いたような言葉で展開する動きの少ない場面になってしまって結構だれてしまう感じでした。別に難しい話をきいてるわけでもなく、どちらかというとコミックのような話を聞いてるだけなのになんだか妙に理解しがたいという居心地のわるい展開。こちらが住んでる世界とは全く違う世界なので映画のどこかで説明するのは不可避なんですけど、一挙に言葉で説明されるとなんだか話について行くのが精一杯という感じになってました。

サムがフリンと再会してグリッドの事情が分かって以後のお話の展開は、もとはフリンの分身で、一緒になって理想の世界を作り上げる仲間だった「クルー」がコンピュータ内部を圧政下におくだけではなくて、リアルな世界へも侵出して、リアルな世界も自分に命じられた使命どおりに完璧な世界に作り変えようという風に野望を拡大していたために、フリンらがその野望を阻止するべく行動するというような形で進んでいきます。

前作の悪役MCPが結局コンピュータ内部から出る気がなかったのに比べると、今度の悪役クルーは積極的にリアル世界に出ていこうとするアグレッシブなところがあります。でもそういう違いがあっても正直なところ物語そのものはやっぱり前作同様に大した話じゃなかったという印象は強いです。
複雑でもないエピソードが単純に数珠繋ぎされて、それなりの緊張感は維持されてはいるものの、陰影も乏しくゴールまでそつなく連なってるような感じ。またクルーの率いる軍隊が現実世界に出ていく前に、リアル世界に通じるゲートに向かうという物語の枠組みは「トロン」のお話と殆ど一緒で、どうなっていくのかワクワクしてみてるよりもわたしにはなんだか代わり映えしないお話を見てるという気分が強くなってきてました。

「トロン:レガシー」のなかでこの反乱者「クルー」が体現していた物語は完璧な世界を目指してその実現のために世界中に圧政を敷くということで、これはなんだか共産主義を戯画化してるように見えなくもないものの、クルーの描写にはたとえばびっしりと並んだ兵士の前で高い段のうえから檄を飛ばすといった独裁者的なものとしては極めてありきたりなイメージも躊躇いもなく使って、寓意としては「トロン」同様に稚拙といった印象を出るものではなかったです。何よりもこれ、ディズニー映画だし、そんなテーマで考え込ませるような映画でもなかったと思います。

☆ ☆ ☆

「トロン:レガシー」はいろんな要素が絡み合って、父と息子が20年ぶりに再会するという本来なら盛り上がるはずのドラマらしいドラマが始まるころから映画全体がなんだか失速してしまうような、考えてみればある意味結構珍しい映画といえないこともない映画になってしまってます。
ドラマ的なテーマで云うと、当然この主役であるフリンとサムの親子愛がメインになってるんですけど、このテーマはそれほど際立った印象を残しません。わだかまりが残るような別れ方をしたのではないにしても、サムの方には理由もなく放置され、一番大切な人なのに何も連絡してこないままに捨てられてしまったような気持ちは絶対にあっただろうと思うのに、20数年ぶりに再会し、2,3の言葉を交わしただけですべて水に流してしまいます。感情的な齟齬があったとしても再び出会っただけですべて霧消してしまうのは親子であったからこそともいえるんですが、基本アクション映画だったからなのか、こういうところはやっぱりあっさりと流しすぎてるようにみえました。
奇をてらった展開をするわけでもないので、印象としてはこの親子関係は殆ど描かれずに終わったような感じを受けます。でも良く観てると細かいニュアンスとしては、脚本というよりもジェフ・ブリッジスやギャレット・ヘドランドの雰囲気や表情、話し方なんかで、二人の共有できなかった時間を取り戻そうという心のあり方は意外と描かれてているところもあって、描かれはしてるんだけど、周囲の特殊な世界やエキセントリックな人間設定の中でいささか埋没気味になってるといったような感じでした。

わたしとしては印象として残るというか、あとになって心に引っかかりを残していったのは、この親子の話じゃなくて、クルーやアランのほうだったかもしれません。
クルーは完璧な世界を作るという命令をプログラミングされてるわけだから、自らの存在意義にしたがって行動してるだけで、行動自体に非難されるところは本当はないんですね。それが反乱と見做され、最後の方では生みの親であるフリンから完全なものなど世界中探しても本当はどこにもないもの、完璧な世界を作り上げるようにクルーを作ったのは自分の間違いだったみたいなことを言われてしまいます。これ、クルーの存在の完全否定です。完全に敵対してるように見えても、フリンの隠れ家を発見して乗り込んだときの態度からみると、愛憎入り乱れて複雑な感情になってるのも見受けられるので、そんな複雑な感情を抱いている生みの親からこんな救いようのないことを、しかもすまなかったと謝罪まで付け加えて言われたときのクルーの心情を察すると、なんだか同情して余りあるというような気分になってしまいました。
それとアラン。映画のタイトルにもなってるトロンの製作者であるにもかかわらず、「トロン:レガシー」でもサムがグリッドに入る前の序盤とグリッドから現実世界に戻ってきた後のラストシーンにしか登場しないという相変わらずな扱いになってる人物。でもこんな扱いだったのに、この人が20年近く理由も告げずに失踪している友人に今も友情を持ち続けている姿で登場してくるのが、何だか観ていてグッときました。何気にかっこいいです。

もう一人、肝心のトロンの扱いはというと、ひょっとしたらこの人物の扱いが一番ひどかったんじゃないかなぁという有様でした。
「トロン:レガシー」を見終わった後で、結局トロンってなんだったの?とかトロンってどこに出てた?とか疑問に悩まされる人が大量に出てたんじゃないかと思います。
実はこの映画の中でトロンは違う名前で出てきてるんですよね。しかも黒尽くめに最後まで覆面ヘルメットを装着してるからヘルメットの下にどんな顔があるのかもさっぱり分からない状態で。
フリンがサムにグリッドの中で何が起こったのか説明するシーンの過去の回想場面でトロンがプログラム人格としてフリンに同行してるシーンがあって、そのシーンを覚えてるか前作を観てる人はトロンがクルーのような人格を持ったプログラムだと分かるんですけど、シーンとしてはそれほど長くないし、しかも途切れなく話されるフリンの回想の中に出てくるシーンの一つで、あまり印象に残るようなものでもありません。あとは「トロン」の名前すらもクライマックス近くまで出てこなくなります。
この辺りを注意散漫になって観ていた人のなかには、トロンが映画に出てきてる人物のどの人のことなのかはおろか、プログラム人格だということさえ分からないままに映画が終わってしまった人がいるかもしれません。
トロンが最後にどういう結末を迎えるかは書かないにしても、ちょっとかっこいい終わり方だったので、なおのことこのぞんざいな扱いは不憫でした。

☆ ☆ ☆

このニ作を振り返ってみると、全体としては、主役級の人物がどういう意図のもとにあるのか分からないけど、とにかく理不尽に冷遇されるとても不思議な映画だということ。最新作の「トロン:レガシー」に関しては最新技術を駆使したためにかえって想像力にブレーキがかかってしまった映画だったと、こんな風にいえるかもしれません。
そこで次作があるとすればわたしとしてはぜひ主役が主役として屈託なく活躍できる「トロン」を1作でいいからぜひとも作ってほしいということと、ライト・サイクルは直角に曲がれるように再び調整しなおしておいてほしいということ、こういうのを実現した映画を作ってほしいなぁと思ってます。
それで、最初に書いた疑問、なせ今になって続編を作る気になったのかということなんですが、新作の「トロン:レガシー」を観たからといって分かるわけもなかったです。
でも予習で観た前作の「トロン」の最初の方、ジェフ・ブリッジスがエンロン社にハッキングするところで漢字が書いてある法被を着てたのを観て、わたしは「ローズ・イン・タイドランド」で落ち目のロックスターを演じたジェフ・ブリッジスが同じく日本語、確か「ことぶき」だったと思うけど、そういう法被を着ていたのを思いだしました。「トロン」のこのシーンを見ていてひょっとしたらテリー・ギリアムは「タイドランド」で「トロン」へのオマージュみたいのことをやったのかなぁって頭をよぎって、だから意外と「トロン」が好きな人って世界には存在していて、続編ができるのを心待ちにしてたのかもしれないって思いました。

肝心の「トロン:レガシー」ではジェフ・ブリッジスは「トロン」のフリンと地続きのキャラクターを演じてはいたものの、着ている服はインド風というか新興宗教がユニホームで使ってそうなものでした。本家が前作をリスペクトしないでどうすると一言いいたくなってくる感じ。「トロン:レガシー」でグリッドの隠れ家から姿を現したフリンが日本語を書いた法被を羽織って登場してくれたら、「トロン:レガシー」へのわたしの好感度はかなり跳ね上がってたかもしれません。



☆ ☆ ☆


Tron - Trailer


Tron Legacy - Trailer



☆Tron

監督 
スティーブン・リズバーガー
出演
ジェフ・ブリッジス
ブルース・ボックスライトナー
デビッド・ワーナー

☆Tron : Legacy

監督
ジョセフ・コシンスキー
出演
ジェフ・ブリッジス
ギャレット・ヘドランド
ブルース・ボックスライトナー




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Young and Foolish - Richard 'Groove' Holmes



ファンキー・オルガン奏者、リチャード’グルーヴ’ホルムズのアルバム「Night Glider」に入っていた曲。
わたしはこの人はジミー・マクグリフという同じくファンキーなオルガン奏者のバンドと共演したアルバム「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」が好きで良く聴いてました。オルガンって昔はハードロックに割と使われてたりしてわたしとしては馴染みがあった楽器。最近はクラブとか中心にオルガン・ファンク・バンドがメジャー扱いになってはいるものの、やっぱりオルガンって云うのはピアノのようにはなれなくていつの時代も傍流の楽器という扱いだったと思います。このリチャード’グルーヴ’ホルムズなんかはジミー・スミスなどのように、その活動を通して70年代頃からそういう傍流の楽器であるオルガンが傍流のまま廃れてしまわないように尽力をつくした人でした。ひょっとしたらこの人たちの活動がなかったら今のジャズ・ファンクのようなメジャーなオルガン・サウンドって聴けない時代になってたかもしれません。
「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」は別にしても、わたしが聴いた範囲ではそれほどどす黒いファンクでもなくて、ちょっと風通しのいいファンクといった印象です。意外と黒っぽい曲以外のものでもファンキーなタッチを織り交ぜてこなしてしまう人で、代表的なものでは、エロール・ガーナーの「ミスティ」のカバーがありました。これで結構なヒットを飛ばしてます。
「Young and Foolish」はスタンダード曲。50年代のミュージカル「Plain and Fancy.」で使われたAlbert Hagueの曲。
ホルムズはオルガン独特の、なんというかニワトリ奏法とでも云うかそんなテクニックなんかを駆使して、多彩なオルガンの音色を効果的に使いながら、情感を一杯込めて弾いてます。




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ナイト・グライダーナイト・グライダー
(2003/10/25)
リチャード・グルーヴ・ホルムズ

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【洋画】ターミネーター4

今これを書いてるのは2月の19日なんですけど、どうも「アバター」が頭から離れなくて、他の映画の事を考える気になかなかならないという気分が続いてます。「アバター」を観てからほぼ一月くらい経ってるし、実はあれから2度目も観にいってるんですけど、これで完結!次の映画に行こうって云う風にわたしの中で落ちてこなくて、この映画、やっぱり結構中毒性があるようです。
それで頭の中から「アバター」を完全に追い出す気にもならずに次の映画はどうしようかなと考えていて、ジェイク役をやってたサム・ワーシントンが出てる映画繋がりで選ぶのもいいんじゃないかと思いつき、この作品「ターミネーター4」を取り上げることにしました。サム・ワーシントンはこれと「アバター」で去年かなり存在感をアピールした俳優だったのではないかと思います。
もう一つこの映画はターミネーター・ワールドの一部を構成することになるので、「ターミネーター」をこの世に送り出した「アバター」の監督、ジェームズ・キャメロン繋がりにもなりそうなんですけど、残念ながらキャメロン監督が関わったのは「ターミネーター2」まで。それ以降のシリーズ展開には関わっていません。関わってないどころか確か何番目かの奥さんへの慰謝料としてターミネーターに関する権利を全部譲渡してるんですね。キャメロン監督自身は「ターミネーター」は「2」で完結してると云う風に考えているらしいです。

ちなみに前作「ターミネーター3」の監督はジョナサン・モストウ(Jonathan Mostow)。「U-571」というタイトルで潜水艦の映画を撮った人です。
その後をついでターミネーター・ワールドの最新作になる今回の映画を撮ったのはマックジー(MCG。本名ジョゼフ・マクギンティ・ニコル、Joseph McGinty Nichol)という監督。わたしはこの妙な名前の監督に関してはあまり知らないんですけど、「チャーリーズ・エンジェル」で監督デビューした人のようです。まともな人の名前にも見えないし、こういうふざけた名前をつける感覚の背後には、何だか最終的に出来上がったものに責任を持ちたくないといってるような意識が見えるような気がするのはわたしだけでしょうか?

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「ターミネーター4」の公開は去年の夏のことでした。
久しぶりのターミネーター・シリーズの映画ということで期待を一身に背負ったような注目の作品だったんですが、興行成績はどうだったかというと、結果的には大コケの映画ということになってしまいました。製作会社「ハルシオン」は経営難に陥って破産、ターミネーターに関する一切の権利を売りに出すことになります。日本ではそれでも中ヒットくらいはいったらしいんですけど、酷評そろいであったのは避けることが出来ず、映画秘宝で選んだ2009年のトホホ映画では第2位の位置さえも確保してしまう体たらくでした。
秘宝は本屋で見つからなかったので未だに読んでないんですけど酷評の理由は大体想像がついて、おそらく今までのターミネーター・シリーズと全然世界観が違うといったようなところにあるんだと思います。
未来の世界では機械と人間が戦争をしていて、劣勢となった機械側が人類を率いて勝利へ導こうとしてるリーダー、ジョン・コナーをこの世界から消し去るために、ジョンを生む前の母親サラ・コナーを抹殺する目的で、過去の世界に向けてターミネーターを放つというのがターミネーターの世界観でした。未来から来たターミネーターに付け狙われることになったサラは、自分を守るために未来のジョンによって送り込まれたカイル・リースとともに行動するうちに、未来では機械と人間が戦争することになると知り、やがて自らの使命を悟ってたった一人でその未来を変えるべく奮闘することになります。
機械側からの核による人類への総攻撃の日「審判の日」を回避するべく、サラと後には息子のジョンも一緒になって行動するというのがキャメロンがデザインしたターミネーターの世界でした。
ところがモストウが監督した前作の「ターミネーター3」では、実際に機械側の核ミサイルによる攻撃が行われてしまいます。回避すべく行動していたジョンたちはなす術もなく立ち尽くし核攻撃が広がっていく世界を傍観するのみ。
実は「ターミネーター3」もあまり評判が良くなくて、その評価の低さはジョン役がニック・スタールという「2」のエドワード・ファーロングとは似ても似つかないさえない俳優に交代したこととともに、「ターミネーター」「ターミネーター2」というキャメロンワールドでサラとジョンが将来に核戦争が起こらない世界にしようと奮闘してたすべての努力がこの「ターミネーター3」で無駄になってしまったことにもあったように思えます。
そして今回の最新作「ターミネーター4」はその機械による人類への核攻撃、「審判の日」が訪れて以後の世界が舞台になって物語が始まります。将来来る核戦争の日を日常風景に重ねながら孤独な戦いを展開するという「ターミネーター」お馴染みの世界がここでは完全に別のものに置き換わってしまってました。未来からジョンを始末するためにやってくる人の皮をかぶったほとんど無敵の抹殺マシンもこの世界では人と見れば攻撃してくる兵器の一つとして既に日常風景として当たり前のように存在しています。こういうことが従来のキャメロンワールドの「ターミネーター」が好きな観客にとっては、「ターミネーター4」は「ターミネーター」を名乗った全く別の模倣映画のように見えて、本来的な「ターミネーター」を名乗るに値しない映画と判断されたのだと思います。

わたしはと云えば実は「審判の日」がやってくるのは物語の当然の帰結だと思っていたので「3」を観たときもそれほど落胆しませんでした。サイバーダイン社という、未来に人類を敵とみなすことになるスカイネットを開発する会社から、将来「ターミネーター」やスカイネットに繋がっていく情報を引き出し破壊して、スカイネットそのものを開発できなくするという筋道で「ターミネーター2」では一応の成功を見て完結したわけですけど、未来の機械との戦争が回避されたなら、回避が決定した瞬間から、サラとジョンは未来からターミネーターが送られてこなかった世界に移行してるはずで、ターミネーターがやってこない世界に移行したらサラやジョンの記憶からはターミネーターの存在は消えてなくなってるはず。さらに云うなら将来機械の宣戦布告によって核による「審判の日」がやってくるというヴィジョンも当然存在しなくなってるはすです。
なのにクリスタナ・ローケン演じる新型女ターミネーターはやってくるし、相も変わらずシュワルツェネッガーのターミネーターはジョンを助けにこの世界に降り立ってくる。これがどういうことかといえば、サラとジョンが生きてる世界ではたとえジョンたちが別の平行世界に移行していたとしても、その移行した平行世界でもまた必ず将来に「審判の日」がやってきて、その先の未来では機械と人間の戦争が始まってるということです。何をどう試行錯誤してスカイネット誕生に致命的なダメージを与えようと画策しても、シュワルツェネッガーの記憶がジョンにある限り未来ではかならず戦争は起こります。
だからわたしは「3」で「審判の日」が実際に起こっても、到来して当たり前の新しいステージに「ターミネーターワールド」が移行したという取り方の方が強くて、サラやジョンの努力を台無しにする最悪の物語とは思いませんでした。

今回の「ターミネーター4」はその「審判の日」以降の機械との戦争を描いたものとして酷評を呼び起こすことのみ目立ってしまいましたけど、物語の世界を形作ってる「審判の日」を受け入れるかどうかで、その印象は結構変わってくるのではないかと思います。

☆ ☆ ☆

21世紀初頭、人類を敵とみなしたスカイネットによる核攻撃、「審判の日」を生き延びた人類と、スカイネットが操る機械軍団ターミネーターとの間に戦闘状態が続いていた。
2018年、そういう戦闘状態にある中、抵抗軍によってスカイネット研究開発施設の一つを急襲する作戦が立てられる。常々抵抗軍兵士の間で密かに救世主と噂されるジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)もその作戦に参加していた。

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施設のコンピュータ・データを持ち出す目的で施設の地下に降り立ったジョンたちは、そこでスカイネットが人間を捕獲しその細胞から人型潜入タイプのターミネーター「T-800」を開発している研究室を発見した。現在地上を徘徊してるターミネーター「T-600」は機械の体にゴムの皮膚を被せただけのものでとてもではないが人間の中に潜入させて何か出来るというものではなかった。
作戦は目的のコンピュータ・データを持ち出すことには成功するが、連絡の途絶えた地上待機部隊の様子を見にジョンが地上に出ていた時に地下施設が爆発、ジョン以外の部隊員は全滅し、作戦はジョンのみがかろうじて帰還する結果となった。
帰還した先の抵抗軍本部でアッシュダウン将軍(マイケル・アイアンサイド)ら幹部と話をしたジョンは今回の作戦で持ち出した情報は機械が短波を使って交信する際の秘密シグナルで、そのシグナルは機械を制御してるものだから有効に使えば機械の動きをとめることが出来るかもしれないというものだった。そして本部ではそのシグナルが有効であるか確認の後、4日後にはスカイネットの本拠地に総攻撃を仕掛ける予定だという。なぜ4日後なのか尋ねるコナーに幹部の一人は、抵抗軍の幹部全員の抹殺が4日後にスカイネット側で予定されてること、その抹殺リストにはジョンの名前と民間人が一人、カイル・リースの名前が入っていることを教えてくれた。しかも抹殺リストのナンバー1はこの民間人カイル・リースであるらしい。
カイル・リースはスカイネットがジョンの母親サラを抹殺するために過去に送り込んだターミネーターを阻止するべく、ターミネーターの後を追うようにジョン自身が過去に送り込むことになる人物であり、結果的にジョンの父親になる人物でもあった。
ジョンはサラから名前を聞いてはいるものの、カイル・リースがどういう人物なのか全く知らない。おまけにこの時代のカイル・リースはまだそれほど大人にもなっていない、ジョンよりも若い年頃の青年のはずだった。カイル・リースが存在しなければ自分も存在することが出来なくなる。そう思うと4日後の総攻撃と同時進行で、ジョンはトップクラスの重要度で命を狙われてるカイル・リースを探し出す必要があると考え始めた。
一方、ジョンが後にした施設の瓦礫の中からは一人の謎の男マーカス・ライト(サム・ワーシントン)が這い出してきていた。
マーカスは施設の爆発口から這い出てくると、その足で砂漠を横切り、やがてロスアンゼルスの街に辿り着いた。

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LAは核戦争で瓦礫の山と化したままの姿を晒している。マーカスは瓦解したビルの合間をさ迷い歩いてるうちに、LAを徘徊するターミネーター「T-600」に遭遇してしまい、銃撃を受けることになった。
そこへどこからともなく少年が現れ、マーカスは少年の手引きで「T-600」の攻撃から逃れることに成功する。
マーカスを助けた少年はカイル・リース(アントン・イェルチン)と名乗った。
その夜、マーカスらはラジオから流れてくるジョンの抵抗軍兵士への通信を聞いた。抵抗軍に合流しようと提案するカイルとマーカスの意見は分かれたが、とりあえず車を修理してLAの廃墟から出ることにした。
LAからの途上に立ち寄ったコンビニ跡で、生き延びたものの抵抗軍には参加せずに隠れ住む一団と遭遇、マーカスらといざこざを起こしそうになった時に、突如現れた巨大ターミネーター「ハーヴェスター」を含む機械軍団に襲われマーカスはかろうじて逃げ切るも、カイルはコンビニ跡にいた生き残りの人々とともに拉致され、スカイネットの本拠地に連れ去られてしまった。
LA近郊でターミネーターの動きが活発になってることを知ったジョンは誰か人間が襲われてると判断、近くを偵察飛行していたブレア(ムーン・ブラッドグッド)を現場に向かわせた。ブレアはターミネーターが襲撃した現場付近でマーカスと遭遇し、マーカスとともにジョンのいる抵抗軍の秘密基地に戻ることにした。
ジョンは基地にたどり着いたマーカスからカイルが4日後に総攻撃されるスカイネットの本拠地に連れ去られたことを知らされる。本拠地への攻撃日程はずらされる可能性はなく、アッシュダウン将軍は囚われてる人間の救出は目的ではないとまで言い切っているので、このまま総攻撃の日を迎えてしまえば自分の父となるカイルはスカイネット本拠地とともにこの世から消えてしまうことになる。
カイルはスカイネットが抹殺リストのトップに上げたくらい機械と人類の戦争の行方を左右する人物だった。そこでジョンは総攻撃前にスカイネット本拠地に単独潜入してカイルを救出することを考え始めた。

☆ ☆ ☆

映画のプロローグは意表をついていて、始まり方としてはとても上手い展開だったと思います。刑務所の檻のなかで、マーカス・ライトと見るからに異様な謎の女セレナ(ヘレナ・ボナム=カーター)との意味深な会話。マーカスがセレナとの会話のなかで「1時間」と口にするのは観ていると即座に分かることになるんですが、これから自分が処刑されるまでの残り時間のこと。要するに死刑執行直前の死刑囚マーカスの独房の中がこの映画の始まりの地点になってるわけです。タイトルクレジットが進む中でやがて処刑シーンへと画面は移行して、薬物注入による刑執行なので見た目のグロテスクさはないものの、監督の名前が出る直前にマーカスは実際に処刑されてしまいます。
監督の名前がスクリーンに出る前に主要登場人物の一人がかなりショッキングな状況で命を落としてしまうわけで、観てる側はマーカスと会話をしていた見るからに謎の女の印象もあって、このシーンは一体何の意味があるんだろうとか、いきなり登場人物が死んでしまってどうするつもりなんだとかいろいろ考えてしまうと思います。観客の興味を引っ張り出す展開としてはかなり思い切っていて面白いです。
この出来事が2003年で、次のシーンからは2018年、「審判の日」以降の「ターミネーター4」の物語が展開する主要な時代へと飛び、ジョンの紹介を兼ねたスカイネット施設への攻撃シーンに変化していきます。刑務所の独房から砂漠の戦場へと、状況の落差もあってこの展開も興味を引く上ではかなり有効。この映画はスタート時点のシーンの組み立て方はかなり良く出来ています。そして状況の落差の仕上げでもするかのように、その戦闘シーンが終了した直後に冒頭で処刑されたはずのマーカスが地下から這い出してくるシーンが続くことになります。
マーカスの正体は物語的には映画中盤までは明かされません。ブレアと遭遇しジョンのいる基地にたどり着いて始めて、マーカス自身も吃驚するような正体が判明するという筋道になっていて、それまでのカイル・リースとともに行動してる間はマーカスは謎の人物のままです。でも物語的にはそういう展開であっても、死刑という絶対に逃れようもない死を通過してるのに、再び生きて登場した時点で、この映画が人の振りをした機械が大暴れする「ターミネーター」という映画であることを知っていれば、たとえ映画が秘密にしてようと、マーカスの正体は早くも完全に分かってしまうことになります。回避できる死であれば何らかの形で生き延びた可能性もあるけど、死刑では一度死んでるのは確実で、この生存率0というとびっきり意外なプロローグが仇になって、マーカスの正体に関しては再登場とほとんど間をおかずに観客側に予想がつき、謎ではなくなってしまうという結果になってました。映画のスタートの方法が興味を引くやり方としては上手かったので、この予想外に勝手にばれてしまうマーカスの正体に関してはあまり手際が良くないという印象で終始したような感じでした。

マーカスの正体こそ早々と予想はつくものの、冒頭部分の展開はこういう風に観客を若干翻弄するような動きを持って、また施設急襲のシーンも戦闘中のヘリに乗り込んで飛び立ち墜落するまでを操縦席内からの1カットで撮るなんていう凝ったショットも挟み込んで、なかなか面白い出来になっています。
ではマーカスが施設の地下から這い出してきてLAに向かいカイルと出会うというという風に続いていくそれ以降の物語はどうだったかというと、その後の物語の印象は助走を始めた物語に感じた高揚感とは比べ物にならないくらい何だか平板なものになってしまってるようにわたしには思えました。云ってみるならばクライマックスに用意されてるカイル・リース救出劇にむけて映画の時間中そこへ至る前振りばかりが延々と並べられてるような感じ。

長編の物語といっても、結局はその長編の長さになる分だけ小さなエピソードが繋がり重ねられた結果、長編の物語として成立することになります。でも長編の物語が基本的には細かいエピソードの集積物に他ならないとしても、では逆に小さなエピソードを長編の物語になるだけの分量繋いだらそれが長編物語になるかといえば、実は必ずしもそういうことにはならないんですね。エピソードを膨大な量並べても、それは膨大なエピソード集にはなっても、そのまま無条件に長編物語になるとは限らない。
「ターミネーター4」は映画全体は危機、解決、危機、解決という風に並んでいて、アクションなどの個別のシーンを眺めてると、映画としてはそれなりに観られるものに仕上がってます。でもその個別のエピソードが危機から解決へという運動を繰り返してるうちに有機的に絡み合って、より包括的で大きな物語空間を形成していくかと思えば、必ずしもそういう風には動いていきません。
豊かな物語空間がいつ目の前に開かれ始めるのだろうと期待して観ていても、スカイネットと人類の戦いという壮大な世界観の割には極めて限定的で小さなカイル・リース救出というクライマックスが何だか唐突な感じでやってきて、救出シーンで展開される、過去作品へのオマージュなのかどこかで見たようなシーンも多いT-800との戦闘を眺めてるうちに、気がつけば映画が終わってしまってると、そういう感じの映画になってるようでした。
エピソードは揃えているけれど長編を構成するべき何かが欠けていた映画という感じなんですね。結果、見終わった後の全体の印象はスケール感に乏しく散漫なものというような表現が相応しいものへと落ち着いていくことになります。

☆ ☆ ☆

たとえばマーカスが理由もなく向かったLAで都合良く出会った、たった一人の人物がカイル・リースであったりといった、伏線を張るわけでもないシーンの連鎖が、この映画全体の散漫さに繋がっているんだろうと思いますが、登場人物の扱いもまた中心を欠いたようなこの映画の印象を形作ってる要因の一つじゃないかと思いました。
「ターミネーター4」の主要登場人物は後に反乱軍のリーダーとなるジョン・コナーと、ジョンが自分の母親を守るために過去へ送り込むことになるカイル・リース、そして「ターミネーター4」で初登場となる謎の人物マーカス・ライトの3人です。
ターミネーター・シリーズを最初から観てると、カイルは「1」でターミネーターからサラ・コナーを守る人物として主役の位置にいたし(演じていたのはマイケル・ビーン)、ジョン・コナーはそのサラの息子で将来の反乱軍のリーダー。初登場の「2」ではほぼ無敵の液体金属製のT-1000相手に、今度はジョンを守る側に立ったシュワルツェネッガーT-800とともに立ち向かう、まさしくこの「ターミネーターワールド」の主役という位置に相応しい人物だということを知っているはずです。だからこの「ターミネーター4」もこの二人が主役とみなして鑑賞し始めた人も多かったんじゃないかと思います。
ところが本来的な主役であるはずのこの二人の扱いが「ターミネーター4」ではどうだったかというと、あまり重要な人物的な動きを与えられてないという感じでした。

カイルはマーカスがたまたま立ち寄ったLAの廃墟で自称「反乱軍LA支部」と名乗る人物として登場します。

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マーカスとは今の世界で何が起こってるのか話す程度でそれほど重要な会話をする場面もなく、動かせた廃車を使ってLAを出た後は途上のコンビ二跡で巨大ターミネーター「ハーべスター」に襲われ、そのまま拉致されて映画のラスト近くで救出シーンが始まるまでスクリーン上から消えてしまいます。今までシリーズを見ていた人間はカイルの素性は知ってるけど、映画の中ではジョンが抵抗軍として一緒に行動してる奥さんのケイト(ブライス・ダラス・ハワード)に自分の父親になる人物と語るだけなので、その事実は物語全体では共有されないままに終わってしまいます。どういう人物なのかは、喋れない女の子ピースを引き連れてLAで単独で機械に抵抗してる子供という以上のことは説明されず、さらに云うならなぜピースと単独で抵抗してるのかということさえも語られないので、観客にはアントン・イェルチンジョンが演じる外見上の存在感と将来ジョンの父親になるということより他は分からないまま終始するような形になってます。

一方ジョンの方はどういう感じだったかというと、本来ならカイルよりもさらに主役に相応しいし、クリスチャン・ベイルなんていう一流の俳優まで起用してるのに、扱いはひょっとしたらカイルよりも酷いんじゃないかという印象でした。
冒頭のスカイネット施設急襲シーンで始めて画面に登場し、その急襲シーンではそれなりに中心に位置する動き方をしてはいるし、位置を知らせないために返信を拒否する潜水艦内の反乱軍本部へ、自分を迎えに来いと発信しておいて大海原の上空にいるヘリから直接海に飛び込む、いささか無茶ともいうべき行動力のある人物として描かれてるんですが、急襲シーン以降のジョンはその行動力が一体どこに消えてしまったのかと思うくらい何かといえば自軍の秘密基地に閉じこもって、母親のサラが残した機械との戦争に関する知識を詰め込んだテープを聴いてるだけの人物になってしまいます。
ジョンは自室に篭って母親のテープに耳を傾ける以外では、世界中に散らばって個別の抵抗を強いられてる人たちに向けて電波を通じてメッセージを送ることもあるんですけど、それを聞いた人々がなぜジョンの放送に無条件で従うのか、なぜションにそれだけ人を追従させる力があるのか「ターミネーター4」を観てもよくわかりません。人を追従させる力があるから人を追従させると、いささか同語反復的な描写で納得してるような描き方で、全体に印象の薄い人物像に終始してるような感じでした。

今回始めて登場したもう一人の謎の人物、マーカス・ライト。はっきり云って、この人物こそが今回の映画「ターミネーター4」の主役です。
何よりも映画はマーカスが死刑囚の独房にいるところから始まって、マーカスがある行動選択をしたところで終わります。つまり映画の最初と最後がマーカスに関連したことで語られているわけで、こんな扱いを受ける端役なんているわけないです。
ジョンはカイルを自分の父親だとは知ってるけれど、会ったこともないし顔も知りません。この二人が実際に始めて出会うのはもう物語も終わりに近くなってるクライマックスのスカイネット本拠地での救出作戦で、この時ジョンはカイルに対して何者なのか誰何してます。そのぐらいこの場面に至るまで出会ってなかったということ。
またカイルのほうもジョンのことは放送で声を知ってる程度で、しかも終わり近くの場面になったこの時点でも自分が将来目の前にいるジョンの父親になるような最重要人物であることも全く知らないでいます。

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それではこのマーカスはどうかというと、マーカスはジョンとカイルのラインを横断するように、物語前半でカイルと出会い、後半でジョンと出会うという形のストーリ・ラインになってます。従来からの登場人物が物語の最後にならないと出会えないような物語の中で、その両者と満遍なく係わり合いを持っていたのはマーカスだけ。
こういう風に「ターミネーター4」では従来のシリーズ・キャラクターを脇に退けて、マックG監督が創出した新しいキャラクター、マーカス・ライトが一番派手に動き回る位置におかれるということになっていました。

わたしは「ターミネーター」のような支持者が膨大に存在する著名なシリーズものの続編を依頼されて、そういう場合に監督はよく引き受ける気になるなぁっていつも思ってました。シリーズに相応しい面白いものを作らなくてはといった重圧は半端じゃないと思うし、ファンの期待を裏切れないなんて思い始めると到底受けられるようなものではないだろうって。
でも実際はそんなに殊勝な感じのものでもなさそうです。この「ターミネーター4」に関わった人の仕事振りを観てると、もとの「ターミネーター・ワールド」の延長上で雰囲気も壊さずに従来のファンの思い描くようなものを第一に考えるという姿勢よりも、そういう重圧なんかとは最初から完璧に無縁で、どちらかというと自らの世界を実現するためだったら、こういう超有名な世界設定のシリーズを利用しつくすという感じのほうが強いのではないかって思いました。自分たちの考えたものを労せずして超有名な舞台に乗せられるのだったら遠慮することなんてどこにも必要はないって。
マーカスの場合も、「マックジー」印をでかでかとくっつけてるそのキャラクターをターミネーターワールドで活躍させることが出来るなら、今までの物語やそれに馴染んだファンが要請する、本来的な主役であるはずだったジョン・コナーとカイル・リースの重要度をマーカスよりも下げて、脇に回しても差し支えないと考えたんだと思います。
ただその結果は本来活躍するべき人物があまり活躍しないちぐはぐさとしてやはり映画には現れてきていて、観客には「ターミネーター」と「ターミネーター」のようなものの間で揺れ動いてる何か焦点の定まらないものを観ている感触が強かったのではないかと思います。

「ダークナイト」で同じく主役のバットマンだったにもかかわらず悪役ジョーカーを演じたヒース・レジャーに食われてしまった時のように、今度はマーカス・ライトを演じたサム・ワーシントンに良いところを全部持っていかれたクリスチャン・ベイルはちょっと可哀想でした。

☆ ☆ ☆

マーカス・ライトはたとえていうなら、従来のシリーズでシュワルツェネッガーが演じていたT-800に相当するような役割だったのだと思います。未来から抹殺しにきたり保護しにきたりするのとは全く違う状況ではあるものの、ジョンに寄り添うものとして物語的には近似的な形をとってるようにみえました。
しかも「2」でT-800とジョン・コナーの間にあったようなテーマ性が、形や内容は異なっても「ターミネーター4」のマーカスにも同様に与えられています。

「2」では外見上は人のように見えはするものの本質は機械というT-800とジョンとの間に生まれてくる擬似的な父子関係を通して、人の絆や、どういう行動をとることで人は人らしく生きていけるんだろういったことをテーマとして提示してました。演じてるのは人間の俳優シュワルツェネッガーではあったけれど、T-800という命を持たない機械の行動を通して描写するからこそ人が人らしくある有り方といったテーマは際立っていくことになります。そういう風にテーマが描かれることの行き着く先に溶鉱炉の最終シーンでシュワルツェネッガーの差し出した指のサインへの感動があったわけです。実際に生きてる人間でも機械人間シュワルツェネッガーT-800が示した人間的なものよりもはるかに機械的な生き方をしてる人がいたらちょっとは身につまされる思いをするかもしれません。また「2」の面白いところというか、キャメロン監督の凄かったところはこういうテーマを堅苦しい形ではなくアクション映画のなかでエンタテインメントの言葉として語ったところでした。

「ターミネーター4」でマーカスが担ってるテーマは、「命を、生きる価値のある命として生きること」、一言でいうならこんなところだと思います。
マーカスはプロローグの死刑執行1時間前の独房の中で謎の女セレナにもう一度生きるチャンスをやると云われた時、自分のせいで兄と警官二人が死んだからもう一度生きるチャンスなんかいらないと答え、自分の命は生きる価値がない命だと自分で断罪して刑場に赴きます。でも冒頭で自分の命に対してそういう決断をしたマーカスですが、物語の最後には全く逆の心情に変化して、もう一度生きる価値のある命を生きてみたいと、自らの命の有り様をジョンに託すことになります。
こうやって書いて見ると自己犠牲という観点では「2」のT-800の最後を思い起こさせるところもあってやっぱりシュワルツェネッガーの後を継いだようなキャラクターだったんだなと思ったりするわけですが、それはともかく映画は最初と最後をこういう風に構成してることで、マーカスの自分の生に関して180度転換する心情を見せることがテーマだったのは間違いないところだったと思います。
でも、テーマはそういう風に分かるんですが上手く表現できていたかというとちょっと怪しいというか、「2」のジョンとシュワルツェネッガーの間にあったテーマ性ほどには十全に展開できなかったような印象で終始しました。
まず、マーカスが自分の命をいらないとまで言い切ってしまうほどの原因となった事件について、映画の中では何も語られないんですよね。本人の口から兄と二人の警官が死んだということを言われるだけ。マーカスを焦点にしてその人間性を描写しようとするなら、この原因となった出来事を表現しないのは有り得ないです。なぜ自分の命までもいらないと云うほどになってしまったのか分からないと、もう一度意味のある生を生きたいと希求する心情の切実さもまた理解不能となりますから。
もう一つはやっぱり主役級の人物を3人も揃えたことで、物語的にマーカスに焦点を合わせきれなかったことも描写不足に拍車をかけていたようです。こういうところを丁寧に描いていたら「ターミネーター4」はかなり様相の変わったもの、ひょっとしたらトホホ映画の汚名を返上できるような出来の映画に変貌していた可能性さえあったかもしれません。

マーカス・ライトに関してはわたしにはもう一つかなり気になったところがありました。
映画の中ではマーカスは意識を持った機械の一種として扱われていて、その結果映画の最後であのジョンの最終判断に行き着くわけですが、マーカスはどう見ても機械が意識を持った存在じゃないんですね。
マーカスの体の大半は確かに機械に置き換えられてるけど、マーカスの素性をたどれば元人間であることは揺るがすことの出来ない事実で、体の99パーセント機械で置き換わっていたとしても、マーカスの属性は根本部分では機械じゃなくて人間です。
それを脚本を書いた当人がおそらく勘違いしてしまって、人間の振りをしている機械、つまり根本部分が機械である存在として書いてしまってる。だからジョンは最後の判断を軽く頷くだけで済ませてしまってるんですが、マーカスに関する最後の展開は一見「2」のT-800の自己犠牲になぞらえてるように見えはするものの、マーカスはT-800と違って明らかに人間なんだから、わたしにはマーカスの意志を何の躊躇いもなく当たり前のように承諾したジョンの行為は冷酷な殺人そのものとしか見えませんでした。
主人公マーカス・ライトの属性を脚本家自身が勘違いしてる。ひょっとしたらこれがこの映画の最大の傷なんじゃないかと思います。だから結末は「ターミネーター2」的な感動を狙って「2」と相似した形に持って行ってるんだと思いますけど、この部分では「ターミネーター4」はキャメロン監督が描き出した「2」のような感動を覚える結末には到底至らない結果となってます。

☆ ☆ ☆

ターミネーターといえば毎回新型のターミネーターが登場するのも結構な楽しみになってます。「ターミネーター4」で新しく登場したのは人間型ターミネーターT-600と、巨大ターミネーター「ハーベスター」、それに水中用の蛇型ターミネーター「ハイドロボット」とバイクタイプの「モトターミネーター」。
ところが先に書いたようにこの映画に関わったスタッフはどうもターミネーターワールドという超有名な世界を利用して自分のアイディアを披露することにポイントを置いていて、従来の世界観に沿うようなものにするということにはあまり関心がなかったような感じなんですね。どれもこれも確かに機械が動いてるんですけど「ターミネーター」らしくない。

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コンビニ跡に出現する「ハーベスター」は出てくるとすればどう見ても「トランスフォーマー」の方が相応しそうだし、「ハイドロボット」、「モトターミネーター」に至っては人型であることも放棄してしまってます。この映画に出てくるターミネーターって人の形をしてるのが最低限の条件だと思うので、製作した側ではこんな意表をついたターミネーターって凄いでしょうって云うノリなんだと思うけど、わたしにしてみればこれをターミネーターと呼んでしまうのははっきり云って論外でした。しかも強いのかというと、「ハイドロボット」は水に近づく人しか襲えない間抜けだし、「モトターミネーター」は道路にロープ張られただけで簡単にひっくり返ってしまう程度。

ターミネーターで一番の見ものだったのはこういう新型ではなく、最後の方に登場した開発途上のT-800だったのではないかと思います。このT-800というターミネーターは将来ジョンの母親サラ・コナーをこの世から消してしまうためにスカイネットが過去に送り込むことになるターミネーターです。当然見た目は最初の「ターミネーター」が公開された1984年当時の、この役を演じた若い頃のシュワルツェネッガーなんですけど、「ターミネーター4」ではこの若いシュワルツェネッガーの頭部を3DCGを使って完全に再現しています。これがまた驚異的な出来で到底CGで製作されたものとは思えず、本当に若いシュワルツェネッガーを過去から連れてきて撮影したんじゃないかと思えるくらいのとんでもない出来に仕上がっていました。

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少し前の「ベオウルフ」という映画なんかでもフル3DCGで人物を描いてましたけど、まだまだデジタル人形劇という部分は残っていて、実際の人物が演じてるように見えるところまではかなりの隔たりがありましたから、この3DCG製のシュワルツェネッガーは人物の3DCG表現としては完全にステージが別のレベルに上がってしまったという感じでした。ただこのT-800はすぐに外装が剥がれて金属骨格だけのものになってしまうので、若いシュワルツェネッガーが見られるのはわずかなカットのみ。その辺りに何かまだ3DCGによる人物表現の限界があるのかも知れません。

☆ ☆ ☆

この「ターミネーター4」は対スカイネット戦争の時代を背景にした三部作の最初の作品として構想されてるようで、世界観の多くを過去のシリーズに委ねてる他にも、未来にむけては未解決な部分を後に続く作品に投げ渡しているようなところもあって、基本的な部分で舌足らずになってしまう以外にはない映画でした。そこへこれまで書いてきたようなこともあわせて、わたしはこの映画に「ターミネーター」シリーズの新作としては力足らずのところを見てしまったんですけど、それでもアクション映画としてはそんなに酷評を貰ってしまう映画か?と思いながら結構楽しんだところもありました。また、わたしにはサム・ワーシントンという俳優を観られたのもこの映画を鑑賞した収穫だったように思えます。
サム・ワーシントンはマーカス・ミラーという役を通してかなりの存在感を示しています。「アバター」の時にも思ったんですけど、朴訥という印象を持ちながら田舎臭い方向には全く向かっていかない不思議な魅力があるんですよね。寡黙で誠実な役をやるとかなりぴったりと嵌ってしまう俳優じゃないかと思ったりします。またこれと続く「アバター」でも、期せずして目覚めたら違う状態になっていたという役が続いてるのも、サム・ワーシントンにそういう役を引き寄せる何か隠された特質でもありそうで面白いです。
映画ではああいう結末になったので主役を続けていくのは不可能になった可能性が強いですが、新シリーズの三部作がこれから続くのならマーカスをシリーズの主役にした方が良かったんじゃないかと思いました。

あと、クリスチャン・ベイルはもっと役を選んだ方がいいです。



☆ ☆ ☆

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クリスチャン・ベイルサム・ワーシントン

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ターミネーター4 予告編



原題 Terminator Salvation
監督 McG
製作年 2009


最後まで読んでくださってありがとう御座いました。


【洋画】アバター

これを書いてるうちに少々日にちが経ってしまってますけど、先月の20日の水曜日にジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」を観にいってきました。今年のお正月一番の話題作で観たいと思ってた映画だったものの、ここでもよく書いてるように人が集まるところがかなり苦手という性分なので、お正月真っ盛りの間は到底観にいく気にはならず、公開開始からほぼ一ヶ月経過という時期になってようやく行く気になったという感じです。
観にいこうと決めた日にこの「アバター」がゴールデン・グローブ賞の作品賞および監督賞を受賞したというニュースが入ってきて、受賞の話題につられてまた観客が増えたらかなわないなぁとか、受賞のニュースを聞きつけて観に来た唯の野次馬の一人だと思われるんだろうなぁとか、行く間際になってまた余計なことをいろいろと考えたりしたんですが、観に行くと決めた時点で映画を観たいという欲求の方が強くなっていたので、多少は人が多くなっていてもまぁいいかという方向に気分は修正されてました。
上映してた場所はいつものムービックス京都で、その南館の10番スクリーン。上映形態は3D方式の字幕版と吹き替え版、それと従来の2D方式の3パターンが用意されていて、私が観ようと思ったのはこのなかでは3D方式の字幕版でした。
客の混み具合は大体会場の6~7割くらいといったところだったでしょうか。そんななかで私が取った席は前から6列目のかなりスクリーンに近い位置。6~7割の入りで席は十分に空いてはいたけれど、見やすい場所はそれなりに既にふさがってるというような状況でした。

館内

ポスター

ジェームズ・キャメロンとしては「タイタニック」以降、12年振りの劇場用の映画ということで、長い沈黙を破っての登場となってます。
ロジャー・コーマンのニュー・ワールド・ピクチャーズのもとで「殺人魚フライング・キラー」というB級ホラー映画も作ったりしてるんですが、一般的には「ターミネーター」で名前を広く知られ、そのヒットをきっかけに依頼された「エイリアン2」が爆発的にヒット、私はこの映画も好きなんですけど興業的にはあまり振るわなかった「アビス」を経て自作の続編「ターミネーター2」で更なる爆発的なヒットという風にキャリアを積んでいきます。この辺りのキャメロン監督の映画を観てる時にわたしが監督に対して抱いた印象は続編を本編よりもはるかに面白く撮れる唯一人の監督といった感じ。楽しめる映画を撮ることに関しては全幅の信頼を寄せられる監督でもありました。そしてその後「トゥルーライズ」をはさんで撮った「タイタニック」が映画史に残るほどの記録的な大ヒットを収めることになります。

わたしはこの人が持っていたエンタテインメントに対する嗅覚というか、より面白く、エキサイティングな方向へと確実に舵が取れる作劇の感性に夢中になったほうです。だから「タイタニック」が空前の大ヒットを飛ばし、山のようにアカデミー賞を受賞した時に、キャメロン監督はこれがきっかけで、自分は本来は娯楽アクションなんかじゃない人物描写に長けた監督だ!なんてことを考え出したら嫌だなぁって思ってました。勘違いするだけの状況はキャメロン監督の周囲には山のようにあったはずだし、今回の「アバター」にいたるまでに12年のブランクが開いてしまったのも何だかちょっと意味深でした。

とまぁ今回「アバター」という久しぶりのキャメロン映画を見るに際して、そういう勘違い文芸監督ジェームズ・キャメロンの勘違い振りを見せ付けられたらどうしようかなぁという若干の不安をどこかに持ちながら観始めることになったわけです。でも観始めてまもなくそんな予測は完全に覆されることになりました。全く要らない心配を勝手にしてただけ。
主人公ジェイクがコールドスリープから目覚め、惑星パンドラに降り立って自分の化身となるアバターと対面するほんの導入部分に過ぎない部分でも、これから始まる長大な物語に必要な知識を混乱なく提示し、謎めいた部分や驚異的な映像も少しずつ混ぜあわせながら、観客の興味を引きつけつつテンポよく語られる物語にあっという間に入り込んでいけます。エンタテインメントがどういうものなのか熟知した監督が作った映画という特質はジェイクのナレーションを背後に最初の宇宙船が登場してくるようなところから既にはっきりと読み取ることが出来るようでした。文芸物監督どころか、というより「アバター」は恋愛物語そのものなので文芸要素も最大限に混入させた上で、キャメロン監督はこの長大な物語をコントロールしながら自らのエンタテインメント魂を思う存分炸裂させてます。

ジェームズ・キャメロンの12年ぶりの新作劇場映画ということの他に「アバター」が私の興味を引いたのは、この映画が3Dの立体映画として作られたことにもありました。
これも映画が始まってすぐに理解できることだったんですが、「アバター」の場合は3Dの技術は物珍しいものとして単純に追加されたものではなくて、映画が自らを完全な形で成立させるためにその3D技術を要求していたから採用されているという感じでした。いうならば惑星パンドラの世界を十全に描写するのに3D技術は欠かせない、あって当たり前の技術。キャメロン監督自身が「カラーの映画は、今はカラーがいいからカラーで撮ってるとは誰も思わない」といったことを言ってますが、この映画の3Dはまさにそういう扱われ方をしていたといえるでしょう。
だから、この映画に関しては、劇場では普通の2D版も上映してるけど、3D以外の形式で鑑賞するのはほとんど意味を成さないです。絶対に3D方式で観なければ駄目。
同じような意味でDVDでの鑑賞も、おそらくこの映画でもっとも大事な部分が完全に抜け落ちたような形になると思われます。劇場の大画面で、画面の中に入り込む感覚で惑星パンドラの真っ只中にいた体験の記憶、DVDでの家庭内での鑑賞はその記憶の痕跡を再確認する程度の意味合いしか持たないのではないかと思います。
この映画は劇場で観たほうがいいというどころか、観るならば絶対に劇場で観なければいけないという映画です。

ちなみにムービックス京都で採用してる3D方式はXpanD。3Dメガネに液晶シャッターを使ってるもので、電池が仕込んであるせいで重いです。ゴーグル的な大きさがあるので普段使ってるめがねの上からかけることも可能。わたしはめがね族で自前の眼鏡をかけて鑑賞したんですが、この3Dメガネはその上に余裕でかけられました。

☆ ☆ ☆

作戦中の事故で脊髄に損傷を負って下半身不随になり、さらに兄のトミーを不測の事態で亡くして失意の只中にあった元海兵隊員ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)のもとに、兄が参加していたプロジェクトに兄の代わりに参加しないかという依頼が来た。兄のトミーは地球から5光年ほど離れたところにある惑星「パンドラ」で「アバター・プロジェクト」に参加していて、双子の兄と同じDNAを持つジェイクに後を引き継いでもらうのが最善だという。ジェイクはその依頼を承諾し惑星「パンドラ」に赴くことになった。
「パンドラ」は「ナヴィ」という人間に良く似たヒューマノイドの原住民が暮らし、奇態な動植物が生息している神秘的な森の惑星。そして地球環境は危機的な状態にあってそれを救う鉱石「アンオプタニウム」が「パンドラ」には大量に埋蔵されていた。
この貴重な鉱石を得るために地球側は巨大な採掘場を建設して採掘を続けていたが、「パンドラ」の大気は人間には猛毒で採掘作業に支障をきたす要因になっている。
その障害を排除するために立てられたのが、「パンドラ」の大気内でも平気に生活できる「ナヴィ」と人間のDNAを合成してハイブリッド生命体「アバター」を作り、意識を転送する特殊な装置を使ってその生命体「アバター」と一体化、遠隔操作するというプロジェクトだった。
「パンドラ」にやってきたジェイクは意識をリンクする装置を通して、兄トミーのDNAを使って生み出された「アバター」とリンクし、リアルな肉体では車椅子の生活を余儀なくされていたものの、新たに得た肉体「アバター」を使って自由に走り回れる生活を獲得することになった。

「アバター」を使って「パンドラ」の森を調査したり、原住民「ナヴィ」と共生する試みを続けていた科学者グレース(シガニー・ウィーバー)らと森の探索に出た際、ジェイクは森の中でグレースたちとはぐれてしまう。そして夜の森のなか、危険な猛獣に襲われてるところを「ナヴィ」でオマティカヤ族の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)に助けられることになった。
ネイティリは最初はジェイクを余所者として警戒していたが、「聖なる木の精」がジェイクの体に寄り集まってくる光景を見て、ジェイクには「パンドラ」が受け入れる何かがあるのだと確信し、オマティカヤ族のもとにつれて帰ることに決めた。

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ジェイクはグレースら科学者とともに行動する一方、採掘基地の保安部門の指揮官クオリッチ大佐(スティーヴン・ラング)からオマティカヤ族の内部の様相、住居としてる超巨大な樹木「ホーム・ツリー」の構造などをスパイすることも要請されていた。実はオマティカヤ族が住んでいる「ホーム・ツリー」の地下には大量の「アンオプタニウム」の鉱床があった。
大佐からはスパイ任務を与えられていたジェイクだったが、グレースの「アバター」とともにオマティカヤ族に受け入れられてからは、ネイティリに「ナヴィ」のことや「パンドラ」のことを教えてもらってるうちに、ネイティリに好意を寄せるようになり、また全生命体が共生してる「パンドラ」の生命のあり方にも理解を深め共感するようになっていった。

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やがて、ジェイクのスパイ任務にはかばかしい展開が無いどころか、ジェイクが人間を裏切ってナヴィのほうについてることを知った大佐は、「ナヴィ」を追い払うために彼らの住居であったホーム・ツリーに総攻撃をかける決定を下す。
「パンドラ」は森の木々のすべてが根を張り巡らせて惑星規模の命のネットワークを作っているような場所。そして大佐の攻撃目標となった「ホーム・ツリー」はそのネットワークの要のひとつになる巨木だった。ここを破壊されると「パンドラ」の生命ネットワークが破壊されてしまうことになる。
裏切り者の烙印を押され、「ホーム・ツリー」が攻撃されることを知ったジェイクは完全にナヴィの側に立ち地球側と戦う決意をする。そしてオマティカヤ族に「ホーム・ツリー」を破壊しに地球人が攻めてくることを知らせにいくが、スパイ目的で部族に入り込んでいたことを気づかれ、逆にオマティカヤ族の囚われものとなってしまう。

☆ ☆ ☆

3時間近い長尺の映画で、映画的な体験としては圧倒的なものを受け取れる映画であることは間違いないと思いますが、「アバター」の物語そのものは前代未聞の映画を支えるものとして期待するような斬新なものだったかというと実は必ずしもそういう感じでもなくて、むしろ今までにいろんなところで見聞きしてきたものを思い起こさせるような要素で成り立っている物語という印象の方が強いものでした。
環境破壊、自然との共生、支配者と搾取される者、異文化への理解と拒絶、虐げられた者の反乱、などなど。映画だけでなくて小説などでも繰り返し取り上げられてきたようなテーマが「アバター」のなかにはいっぱい詰め込まれてます。オマティカヤ族がその生活の基本的な部分で体現していたような神話性などは今までの映画、小説などにたとえ取り上げられていなくても、人が共通して持つような感覚として無条件で理解できるようなものだったでしょう。
具体的にはこの映画を観て「ナウシカ」だとか「もののけ姫」といったジブリの映画を思い起こした人が多いんじゃないかと思います。キャメロン監督はどうやら宮崎アニメのファンでもあるようですから。
わたしの場合はジブリ映画の熱心な鑑賞者というわけでもないので、映画を観ている時に連想してたのは映画じゃなくて、ゲームの「ファイナル・ファンタジー」でした。「ファイナル・ファンタジー」のなかでも特に「Ⅶ」。個別の生命が閉じた後にその命は精神エネルギーとして共有され、そのエネルギーが一つの星を覆い尽くすような流れになって存在して新た命や文明を生み出していくという設定、これが「アバター」という森の惑星で木々が根を張り巡らせて惑星を覆い尽くすネットワークを形作ってるっていう世界観と良く似てるなぁって映画を観ながら思ってました。「アバター」の地上や空を駆け巡るクリーチャー、特にジェイクがナヴィからも地球人のスパイと看做され、拒絶された後でもう一度受け入れてもらうために伝説の勇者でないと乗りこなせない飛行生物(翼竜?)レオノプテリクスを従えてオマティカヤ族の前に降り立ったシーンなんかは、そういう目で観てると「召還獣」を従えて降臨してきたかのようでもありました。

なんだかこんな書き方をしてみると「アバター」が独創性もない二番煎じ的な要素で成り立った物語、もっと凄い斬新な物語を語るはずだったのに上手くいかなくて無難な着地点ばかりを探ってるような失敗作のように見えるかもしれませんけど、実はこういう物語のあり方は「アバター」の場合は意図的にとられた方法の結果として出来上がってきたものだったようです。
キャメロン監督は「アバター」の物語に関して「見慣れない環境で、見慣れたタイプのアドベンチャーを作り出したいと思った」と云ってます。
つまり今までにどこかで見聞きしたような馴染みのある要素を物語の中に取り込むのは最初から意図的だったということです。
それでなぜ真新しい新鮮な物語を語ることをやめて、あえて古い良く知られてるプロトタイプともいえそうな物語を寄せ集めてその変奏曲のような映画を作ろうとしたのか、そういうことをちょっと考えてみたんですけど、一つは「アバター」は3D映画として成り立ってるわけだから、3時間近くの間その圧倒的な視覚情報が観てる側に雪崩れ込んでくるわけで、そのうえ物語的に複雑な情報を織り込むと情報量が多すぎると判断したんじゃないかって思いました。3Dで徹底的にリアルに再現した「パンドラ」の世界に観客を放り込むっていうのが明らかに映画の一番の意図のように思えるから、キャメロン監督は全神経をそちらのほうに向けて欲しかったのではないかと。アメリカ人は字幕を読まないでもいいけれど、わたしは字幕版を鑑賞して、字幕に向ける注意さえいちいちはぐらかされるような気分になりましたから。3D映画としての圧倒的な映像と、どこか馴染みのある物語は組み合わせとしては上手くバランスが取れていたんじゃないかって思います。
もう一つは出来るだけ大勢の人、広範囲の世代に観て欲しいという意図もあったかもしれません。この映画の場合は一般に大作映画といわれるものよりもさらに莫大な費用をかけて製作された映画、聞くところによると240億くらいだそうで、こんなにお金をかけて映画を作るってもうよほどのことでもない限りできないかもしれないくらいの規模だから、ややこしい話をひねり出して特定のマニア相手に作るわけにはいかないっていう部分もあったと思います。

地球人による植民化のなかで、自らが住む世界を破壊され、追われていく先住民族のナヴィ、そのナヴィが星の生命総合体とでもいえる「エイワ」によって選ばれたジェイクに導かれて、自分たちの聖地を破壊しようとする人間に対して反旗を翻す物語と、その民族の再生に絡めるように語られるジェイクとネイティリとの民族、文明を越えた恋物語。
「アバター」はこういった祖形とも云えるような要素で骨格を形成してる物語に載せて進行していくわけですが、それではそれが詰まらなかったかというと観終わった後の感想は全くの正反対。3時間近い映写時間中、ほとんど退屈もせずに、というよりも退屈するどころか長い上映時間中、時間のことも忘れてしまうくらい夢中になって観てました。

この問答無用の面白さがどこから来てるかといえば、結局ジェームズ・キャメロンの演出の手腕なんですよね。エンタテインメントが何であるか熟知した監督の手腕で「アバター」は全体がエンタテインメントの最上のレベルを保つように仕上げられてる。ここで演出って云ってるのは、あまり小難しい意味じゃなくて「語り口」程度の意味なんですけど、キャメロン監督はたとえば同じ物語を与えられても他の監督よりもそれをより面白く語れる感性を持ってる人なんだと思います。
緩急自在の語り口、観客の興味を意図どおりに引き出し、それを鷲摑みにするように手にして思う方向に引き釣り回す。見慣れた骨格を基にしていても面白く語る方法を会得していればそこからいくらでも面白い物語を紡ぎ出せます。またそういう感性、技術を持ってると確信してるから、キャメロン監督はあえてよく知ってる様な物語を持ってきても、まるで平気だったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

わたしは、エコロジー的な視点とか少数民族に対する抑圧だとか搾取だとか、社会的なテーマを引き出すような観方で映画を観るタイプじゃないので、この映画も登場人物中心というか、驚異的な世界を背景にしたジェイクの遍歴の物語、ジェイクとネイティリの恋物語として観てました。この映画は社会的なテーマを引き出しても物語が類型的な分、そこから引き出されるテーマも類型的なものにしかならないようで、おそらくあまり面白くないです。

登場人物といえば全部ではないにせよこの映画の人物造形って、これもあらゆる世代に対して理解しやすいものにするためだとは思うんですけど、相矛盾する要素を一人の人間のなかに混ぜ合わせて複雑な人間像を作るというよう方法ではなくて、ある程度類型化したものを基礎にしてそのうえにそれぞれの個性を付け加えるようなアイコンを散りばめるという、そういう感じのキャラクター・メイキングをしてるようでした。
主人公のジェイクの場合はとても分かりやすくて、元海兵隊員という類型の上に下半身不随で車椅子生活を余儀なくされてるという個性化のアイコンが付加されるという形。そしてこの歩けないという設定はジェイクの造形という点では実に良く考えられたものだったように思えます。
リンクしたアバターの肉体を使って、無理だと思っていた歩くことや走ることが出来るようになったことが、ジェイクにとってのリアルな世界が採掘基地側の足のなえた肉体ではなく、仮想現実ともいえるアバターのほうにあるとジェイクに思わせていくわけです。
兄のアバターにリンクし、アバターの肉体を我が物として扱えるようになった最初、アバターの肉体ではあったけれど自分のものとして両足で再び立つことが出来た奇跡に狂喜して、研究室の職員を振り切ったあげく、外に出て闇雲に走りまわるシーンのジェイクの喜び、その喜びようから歩けなくなったことが今までどれだけジェイクを苛んできていたか痛いほど分かったし、リンクを解いて本来の自分の肉体に戻った時の再び歩けない現実を前にした絶望も口に出したりこそしないけど、とても良く分かりました。人の1.5倍あるアバターから、リアルな肉体に戻った時の、見るからに萎えてしまった細い足が画面に映るのはなんだか見てられないほど痛々しかったです。
車椅子に乗ってるという設定だけで、ジェイクが地球人としては裏切り者になってまでナヴィ側についたのも、現実の萎えた足の肉体よりも、アバターのいわゆる仮想的な現実の方こそリアルにしたいという思いが意識的にしろ無意識的にしろジェイクのどこかにあって、単純にナヴィの生命観や自然観に感化された結果ではなかったことを良く表現していたと思います。裏切り者になるというポイントでは元海兵隊員という人物造形の基本部分もその変化の振幅の大きさを分かりやすく見せていたかもしれません。
また大佐からスパイを要請される時にもスパイをしてくれれば本当の足をプレゼントするっていう交換条件もだされてます。この条件はナヴィの側につくことでリアルな肉体が足を持つことを諦めなければならないという葛藤を生むし、代わりに得たアバターの肉体は「アバター・プロジェクト」が人間のプロジェクトである以上、人間を追い出してしまうともう使えなくなるかもしれないという葛藤も生みだしてました。クライマックスでパンドラの猛毒の大気が装置のある場所に侵入してきた時でも、装置から防御マスクのある場所までジェイク自身ではたどり着けないっていう形で効果的に使われてました。歩けないって云うだけでちょっと考えただけでもこれだけの陰影をジェイクの人物像に付け加えてるというわけです。

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こういった葛藤を秘めつつも自分の運命に静かに向き合い、パンドラに希望を見出していくジェイクを演じたのはサム・ワーシントン。去年は「ターミネーター4」にも出演して勢いに乗ってる俳優さんです。物静かでどこか朴訥とした印象があり、それがなえた足に絶望はしても表立っては決して泣き言を云わない強さ、ナヴィのなかにいて、彼らと接し学んでいく時の誠実さを上手く体現していたようでした。

でも「アバター」の登場人物のなかで一番印象深かったのは、ヒーローへ向かう王道的な道筋を歩む主人公のジェイクよりも、ヒロイン役のネイティリのほうだったかも。
惑星「パンドラ」の先住民ナヴィの、オマティカヤ族の族長の娘で、見た目はヒューマノイドではあるものの青い皮膚に横縞の模様が入った、しかも人の1,5倍もある巨体の異星人。容貌はおそらく猫科の動物をデザイン・ソースにしてると思われるので、猫好きの人はそれなりに親和性があるかもしれないけど、普通に観れは完全に異形です。

ところがその異形の異星人であるはずのネイティリが、ジェイクに恋し始めると、どんどんと綺麗に可愛らしく見えてくるんですね。ジェイクと出会った当初の、ジェイクを子供のように何も知らない愚か者と思い、女族長の母からジェイクにいろいろ教える係りを命じられて本気で嫌だって云う声を上げた時には全くそんな風には見えなかったのに。
そのうえネイティリはジェイクに見せる少女のような面も持ってるのと同時に、戦いが始まれば戦闘用のペイントを顔に施して、敵に対しては何のためらいもなく矢を放つ強さをも併せ持っています。

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身のこなしもしなやかで躍動感にあふれ、動きそのものが美しい肉体に、強さと可憐さを併せ持ってる女性。ネイティリは簡単に云うとこういうキャラクターとして描き出されていたわけです。
最初から最後まで異星人という異形の形を崩さないで、そういう魅力的な印象にまで持っていけてたのが凄いところなんですが、そういう描写が出来たのもやっぱり演出の力技によってるんだと思います。おそらくこの物語の中心になってる部分は虐待される少数民族とか環境破壊だとかそういうところにあるのではなくて、このジェイクとネイティリのラブロマンスにあると思うんですが、そういう中心部を形作ってるものをきちんと見極めてネイティリを丁寧に描いていった結果ああいう極めて特殊な魅力を持った人物を作り上げることが出来たんでしょう。
ラスト近くアバターにリンクしてない人間形態のジェイクを抱きよせ「ジェイク、マイジェイク」と囁きかけるネイティリの情の深さが泣かせました。
こんな人物を3時間も見せ続けられ、感情をストレートに乗せてくる声を聴いてれば、映画が終わる頃にはジェイク並みにネイティリに夢中になってる人が大勢いたんじゃないかと思います。

ネイティリを演じたのはゾーイ・サルダナ。でもこの役は他のナヴィ役も含めてすべて特殊メイクではなく3DCGで描かれていて、ゾーイ・サルダナの実際の身体、素顔は映画のなかでは一度も出てきません。顔の動きを詳細に捉える新しいモーション・キャプチャーで、エモーション・キャプチャーと名前がついたらしいんですけど、その技術を使ってサルダナの演技をそのままネイティリのCGに移し変え、実際は3DCGのキャラクターなんですけど、ゾーイ・サルダナ本人が特殊メイクを施して演技したものを撮影するのと変わらない動き、感情表現を実現したそうです。

登場人物のなかではもう一人、ミシェル・ロドリゲス演じる採掘場のヘリの操縦士トルーディ・チャコンもよかったですよ。扱いとしては主役級ではなくて脇を固めるような役どころなんですけど、クライマックスである地球人の武装ヘリの大群対翼竜イクランに乗ったナヴィの戦士との戦争シーンではかなり良い部分を一人でかっさらって行ったという感じでした。普段は「アバター・プロジェクト」の科学者グレースらを世話してる人物なんですが、おそらく科学者らと一緒に居る時間が多いせいで、グレースらの仕事に理解を示すようになり、「ホームツリー」攻撃の際には「パンドラ」とナヴィにとってもっとも大切なものを破壊する作戦に従事してることが嫌で、単機離脱、その後心情的には、直属の大佐にではなく科学者らのほうにつくことになります。

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最後の戦争シーンで大佐の乗る旗艦の前に、ナヴィの戦闘用ペイントを施した自分の戦闘ヘリたった一機で立ち向かおうとする登場の仕方はまさに鳥肌ものでした。
キャメロン監督は過去の作品でも、たとえば「エイリアン2」の女性兵士バスケスのような強い女性を好んで出す傾向があるんですけど、ネイティリといいこのトルーディ・チャコンといい、「アバター」でも強い女性の刻印をしっかりと刻み付けて、監督の趣味が全開したような人物造形になってたといえるでしょうね。

☆ ☆ ☆

この映画の最大の特徴は3DCGを駆使して描いた世界を、先にも書いたように立体映画として成立させたことにあります。
映画の意図は惑星「パンドラ」の森や空の真っ只中へ観客を放り込むこと。だから立体表現はほとんどの場合奥行きの表現に使われていて、目の前に飛び出してくるようなアトラクション的な使い方はかなり抑え目にしてありました。
冒頭のジェイクがコールドスリープから目覚めて、装置から排出されるシーン。画面の手前でジェイクが装置から出てくる背後は細長い宇宙船の船内で、はるか向こうの方までチューブ状の船内が見通せ、その空間を無重力状態で乗組員が浮遊してるというシーンがあって、これの奥行き感覚が半端じゃないんですね。おそらくキャメロン監督がこれから観る世界はこういうものなんだよと宣言してるような意味合いのシーンなんだと思うんですが、このシーンの奥行き具合のとんでもなさに感心してしまったのは、おそらくわたしだけじゃないと思います。
その後、超巨大な採掘機のスケール感とか培養器に浮くアバターとジェイクの比較を奥と手前の距離を使ってさりげなく演出してる、小技を効かせたような採掘基地内の描写を挟んで初めてのパンドラの森の探索へ。そしてそこでグレースらとはぐれてしまったジェイクといっしょにパンドラの森を彷徨うことになります。
森の描写は奥行きの表現が効いていて、まるで本当に森の中にいるような感じです。パンドラの世界は誰も見たことが無い異世界ではあるものの、設定としては精緻に作りこまれていて、こういうのはキャメロン監督の映画の特徴かもしれないですが空想的であっても徹底してリアリスティック、奇態な動植物で満ちた世界がまるで現実にどこかに存在するような感じで目の前に広がることになります。このパンドラの異世界の森は特に夜になってからの描写も見事で、様々な発光体が闇の空間を彩り、非常に幻想的で綺麗でした。

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オマティカヤ族に受け入れられ、ハンターになるための通過儀礼で、空中に浮遊してる山「ハレルヤ・マウンテン」に登って翼竜エクランを確保する辺りからは空中を飛ぶシーンが増えてきます。エクランが駆け巡る空間の高さの表現を駆使するシーンは、立体にしてみればかなり見栄えにあるシーンの連続となってました。
そしてクライマックスの戦争シーン。地上の森はAMPスーツで武装した地球人の軍団とダイアホースに乗るナヴィの騎馬軍団、空中は巨大旗艦と武装ヘリの大群とエクランに乗ったナヴィの戦士との戦闘シーンになると、その縦横無尽に動き回るものに対する立体的な演出、展開の派手さといったら今まで見てきた立体視の表現がこのシーンを見るのに目を慣らすための準備期間じゃなかったかと思うほどのものでした。

この映画が最新の3DCG、最新の3D技術を使用して作成されたのはまず間違いありません。ただ3DCGの使い方のほうを観ると、出来上がった画面は超豪華版ファイナルファンタジーといえないことも無いようなところもあって、極めて緻密に仕上げてはいるんですが最新の3DCGを使ってる割には意外と控えめな印象がありました。もうひとつの3Dの方は、これは凄かったです。立体映画としての「アバター」の出来は文字通り特筆すべき仕上がりになっているような感じでした。

でも立体映画としての「アバター」はとにかく目を見張るものではあったんですけど、技術としては最新の3D技術を使ってるにしても、その目新しい立体映画の技術を見せるような使い方はしてないんですね。奥行きはとても深く表現されてはいるけど、奥行きの表現そのものは今までの立体映画でも当たり前のようにあるものでした。
この映画の3D表現が凄いとするなら、3Dを使うのにはこれほど相応しいものは無いという映画で、最も効果的に見えるような演出を通して使われたために、3D形式が本来可能性として持ってるさまざまな効果が、潜在的であったものも含めて最大限に発揮されたような形になったことにあるんじゃないかと思います。
「アバター」はあらゆる場面が3Dをこういう風に使えば一番臨場感が出るといったことの、最上級のサンプルになりえるような完成度の映画になってます。だから立体映画形式を使う場合のもっとも効果のある形を示した映画として確実に転換点となるし、これから以降立体映画を作る際の基準になっていくだろうという意味で特筆すべき映画であるんだと思います。

☆ ☆ ☆

「アバター」を観にいってからこれを書いてるうちに、どうやら興行成績でも「タイタニック」を抜いてしまったようで、ますます怪物振りを発揮してるような感じになってきてますね。
立体映画のメルクマールになったという以外にも周りを取り巻く様々なものがこの映画に祝祭的なイメージを付加し続けてるようです。
こういう今までに例を見ない祝祭的映画の出現した時代に居合わせ、劇場での立体映画という完全な形で体験できたことをわたしはとても幸運だったと思います。こういう映画に参加できた俳優、スタッフ(エンドクレジットは吃驚するような体裁になってます)は本当に幸せだったと思うし、わたしも観客として参加して、その幸福感を多少は分けてもらったような気分になれました。

最後に、わたしは映画に行くといつもパンフレットを買って帰ります。この「アバター」も例に漏れずにパンフレットを買いました。
映画のパンフレットって高い割りに大したことも載ってない内容と言うのが大半で、映画に付随するものでなかったら絶対に買わないようなものが多いんですけど、「アバター」のパンフレットは確か600円くらいだったのに、読むところも多いし、紙質は全ページ光沢のある厚手の紙を使っていて値段にしたら凄くよく出来た仕上がりになってました。
ただ非常に残念なのがミシェル・ロドリゲスの写真で、映画のなかではあんなに美味しい役どころだったのに、パンフでの扱いは付け足しみたいなのが2枚入ってただけでした。
ミシェル・ロドリゲスのファンなら失望間違いなしのパンフです。

☆ ☆ ☆




☆ ☆ ☆


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原題 AVATAR
監督ジェームズ・キャメロン (James Cameron)
公開 2009年


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【洋画】 クローバーフィールド / HAKAISHA - 倒立する映画

この映画、京都での公開はチョコレートファイターと同じムービックス京都だったんですが、劇場公開が始まる前から、とにかく謎めいたポスターが劇場の内部や外壁に貼られていて、その得体の知れない光景がちょっとした興味を引いていました。
貼られていたポスターは全体がグリーンで統一された、グリーンといっても新緑のような溌剌としたものでもなく、まるで水底を藻で覆い尽くされた沼のような淀みのある、映画のポスターにしては沈んだ色調で、そういう陰鬱な緑を基調に首のもげた自由の女神と遠くで煙を上げてるニューヨークの風景が描かれていて、その不吉な予兆に満ちた画像にクローバーフィールドという謎めいたタイトルが重ねてあるというものでした。

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華やかに目を引くようなポスターに混じって、淀んだような雰囲気である意味目立ってたクローバーフィールドのポスター。
そして、これはよく覚えてないのでわたしの勘違いの可能性も高いんですけど、その謎めいたポスターには上映開始前からだったか、気を引く注意書きが添えられていた記憶があります。元からそういうのが付いてたポスターだったのか、劇場側がポスターの上に独自に貼り付けたものだったのか、正確な文章は覚えてないんですが、意味としては前代未聞の映像とか未曾有の躍動感とか、そういう煽り文句が踊り、気分が悪くなる可能性かあるだとか、体調の悪い人は気をつけろといった脅し文句のようなものを織り交ぜた感じの文章だったと思います。
どういう映画なのか予測させないポスターとそれに気を引かれて前に立った人間の好奇心を煽るような注意書きに似た文章。だいたいわたしはホラーでもSFでも何でも良いですけど、とにかく見たこともない光景を見せてくれるというような映画が大好きなので、前代未聞だとかそういう類のことを云われるとそれだけで興味津々になってしまいます。だからこの映画の場合もポスターを見てかなり興味を惹かれることになりました。
ただ、気分が悪くなるとかいう注意はなんだろうと、そういう疑問が出てきたのも確かだったんですが、でもこれは全てが謎につつまれてていたとしても薄々予想がついてました。

それで情報が解禁されてみればやっぱり予想していたとおり、「クローバーフィールド」は全編ハンディカムの揺れまくる画面で最後まで突っ切ってしまう映画で、これを躍動感と表現していたということ。気分が悪くなるっていうのは画面の激しい動きに酔ってしまうっていうことでした。
これが分かった時点で、内容も物凄く謎めいていて映画自体はとても観たかったんですけど、わたしには到底無理と、結局映画館には足を運びませんでした。

実はわたしはこういう「酔い」にはかなり弱い体質。
たとえば3Dのゲーム「サイレントヒル」なんかでもかなり簡単に酔ってしまう。昔のゲームだったら「クーロンズ・ゲート」なんかも始末に終えないくらい酔ってました。自慢じゃないけど京都の市バスに乗っていて酔ったことさえあります。ようするに目の前の光景が揺れるという状況に簡単に耐え切れなくなるタイプの人間っていう事になるわけです。まず映画は耐えられないだろうと、視野を覆う大画面が嫌というほど揺れてたら限界点なんかあっという間にやってくるのは簡単に予測できました。

内容に興味はあったのにそういう要素があったために映画館に出向く決心がつかず、決心がつかないままにやがて上映終了。
そのうち暫らくしてDVDがリリースされることになるんですが、これを見てやはり映画の内容を知りたかったということが動機としてはわたしの中に強くあったせいか、中古ショップで安値で売られてるのを見た時に、結局耐えられるかどうか分からないまま思わず購入してしまいました。

それでも気分が悪くなるかもしれないと分かっていて観るのはなかなか気が進まずにDVDは買ったものの放置状態だったんですが、中身を知りたいという欲求がこのところなぜか強くなってきて、それで今回とうとう観ることにしてみたわけです。

一種の人体実験のような映画鑑賞になりました。
絶対に全編通して観られないのはほぼ分かりきっていたので、10分ほど観ては休憩する形で鑑賞開始!

結果から云うと、この映画鑑賞はほとんど拷問でした。10数分でふらふら。実は暫らく休憩したら続きを観られると思ってたんですが続けてみる勇気がなくなるほど気分悪くなっていく予感がしてきたので、映画の最初の方は次の10分を観るのに翌日廻しにしたりして鑑賞しました。

さすがに最後の方は体が慣れてきたのか、激しく揺れる画面でも視線を滑らせる術を会得してきたのか、それほど中断もせずに何とか見終えることができたんですが、酔う体質の人間にとってはこの映画、確実に凶器のような映画です。

☆ ☆ ☆

さて、この映画を観てわたしの身体が呟いた感想に耳を傾けてみれば、それは上で書いたように「酔う」「拷問」「凶器」といったもので、映画が与える印象としては身体的には必ずしも良いと云えるようなものではなかったんですが、だからといってわたしにとって「クローバーフィールド」が屑のような映画だったかというと、実はこの映画、観終わった後でわたしのなかで「屑」だとか「最低」だとか、必ずしもそういう落ち着き方をした映画でもなかったです。
酔って気分最悪で観てたのに、観終わった感想は意外というか予想をはるかに超えて面白かったというものでした。
年間ベストとかワーストとかの括り方があれば、それのどちらに入れるかと考えてみると、間違いなくベストの枠組みに入れてしまえる、決してワーストの枠組みで最悪を競うランキングに参入する映画じゃなく、ベストの枠組みに入ってそのベストの枠組みの中で順位を競える映画だと思いました。

この映画、表現しようとしてることはただ一つです。普通なら映画が内包するはずの様々な要素の大半がこの映画では蔑ろにされてるように見えるくらい、唯一つのことしか表現しようとしてない。そしてこの一つのことに徹底して拘って、その表現内容を画面の中に定着、実現させることに見事に成功してしまってる。表現しようとしてるものを、理想的な形で画面に定着させることが出来ているという理由だけでこの映画は成功した映画と考えることが出来ると、わたしには思えました。
たとえばこの映画にも普通の映画のように登場人物がいて、この登場人物たちが動くことで物語が進んでいく形を取ってるものの、動き回る理由付けくらいは画面に提示されてはいても、面白いほど人間の内面描写的なものは無視されています。人を描写することが、この映画が目的とするものじゃないからという、ただ一つの強力な理由のもとで。
だからこの映画に「人が描けてない」という理由で低評価を与えるっていうのは全くの方向違いというか、ナンセンスな行為になってしまいます。たとえるなら、目の前に美味しそうな「うな重」があるのに、それを指して「カレーの味がしない」と云って難癖をつけてる様なものです。最初からカレー味にするつもりもないものに対してカレー味じゃないといっても全く意味がないのと同じこと。
おそらく「クローバーフィールド」は自分に向けられる貶し、低評価の大半をこういう形でかわし切ってしまえる映画として成立してると思われます。

☆ ☆ ☆

映画はこれから画面に展開される映像の素性を記した文章で始まります。
合衆国、国防省の名前が記された、デジタル記録、事件目撃記録と題された識別用のテロップ映像。
それはかつてセントラルパークと呼ばれた場所の瓦礫の中から発見されたビデオカメラの中に収められていた映像記録であると、そしてクローバーフィールドという暗号名で呼ばれてる資料であると、そういうことが知らされて、映画が始まります。

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最初に映るのは早朝、画面左下に表示されてる時刻で云うと4月27日の午前6時40分の、とある高層ビルのマンションの一室。べス(オデット・ユーストマン)の父親のマンションで、その室内を撮影してるのはビデオカメラの持ち主でべスの恋人のロブ(マイケル・スタール=デヴィッド)。ロブはカメラで室内を移動しながら、やがてベッドに眠るべスを捉えます。カメラの気配に気づいて起き出したベスとコニーアイランドへ遊びに行く相談なんかしながら、二人でじゃれ合ってるようなプライベートな映像が暫らく続きます。
その後映像は唐突に切り替わって、左下の日付は5月22日午後6時43分に変化。ほぼ一ヵ月後のものに飛びます。収められてる映像はマンションの中ではなく今度はニューヨークの街角を歩きながら写してるものに変化。撮影者はロブの兄ジェイソン(マイク・ヴォーゲル)。ジェイソンの前を歩くのは婚約者のリリー(ジェシカ・ルーカス)で話からするとどうやら2時間後に何かのパーティがあってその準備の買い物に出かけてるらしい。
5月22日のこの映像は4月27日のロブとべスがじゃれあってる日に撮ったものの上に上書きされているらしくて、映像のつなぎ目に時折一ヶ月前の映像が一瞬顔を出すことがあります。
映画を構成してるものが上書きされてる映像だという設定はこの映画の一種のギミックで、素人が撮ってるビデオカメラの映像という感じがよく出てました。簡単な発想なんだけど、その単純な発想の割りに効果は大きかったように思います。実はラストもこの上書き映像としての映画という仕掛けをうまく使った終わり方になってました。

買い物の後映像は同日の7時20分にジャンプ。カメラはパーティ会場となったマンションの一室でパーティの飾りつけが進む中、その飾り付けを手伝ってる一人の男ハッド(T・J・ミラー)に近づいていきます。カメラの外からジェイソンの声でハッドにパーティのカメラマンをするように頼んでるのが聞こえて来ます。ハッドは最初はそんなことやったことがないからと断るんですが、片思いの女マリーナ(リジー・キャプラン)もパーティにやってくるとジェイソンに教えられてカメラマン役を引き受けることに。そしてこれ以後ほぼ映画の最後まで、映画の視点はビデオカメラを抱えてるこのハッドということになり、観客はハッドが観ていく世界の様相を一緒に体験することになります。

パーティーはロブが仕事で日本へ赴任する送別会で、ハッドはリリーやジェイソン相手に少し練習した後でパーティー会場にやって来てる客の間を歩き回っては客からのロブへのメッセージを映像として記録していきます。やがて主賓のロブがやってきてパーティはさらに佳境に入り、ハッドもまた大勢の客からメッセージを取ってくることに奔走することになります。ロブの恋人、冒頭のビデオの一部で出てきたべスもやってきますが、どうやらこの一ヶ月の間ロブが放りっ放しにしておいたせいでべスは別のボーイフレンドと連れ添ってます。

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そのことでパーティーの最中ロブとべスは険悪な状態になってしまい、べスのほうは早々とパーティーを抜け出して自宅のマンションに帰ってしまいます。
ジェイソンとハッドは兄弟と友達という立場でロブを慰めるために非常階段のほうに頭を冷やしに行ったロブを追いかけます。
非常階段の踊り場でべスのような女はなかなかいないから大事にしてやれとか宥めたり説得したりしてる時、突然の大音響とともに電気が消え地響きを伴って地震のように建物が揺れます。

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会場に戻って地震かと騒いでる客とともに屋上に出てみると、遠くのビル街で大爆発が起き、屋上に集まっていたパーティ客は我先に階段を駆け下りて、そのまま大慌てで全員建物から避難して路上へ。何事が起こったのか分からないままにビデオカメラを遠くのビルに向けると、ビルの背後に巨大な生き物のような姿が垣間見えて、それがニューヨークのビル街を破壊し始めているのを目撃することになります。

☆ ☆ ☆

映画は一言で云うと怪獣映画です。巨大なモンスターが暴れてニューヨークの街を破壊していく、極めてオーソドックスでシンプルなゴジラタイプの怪獣映画。
ただ従来の怪獣映画と「クローバーフィールド」が決定的に違うのが「クローバーフィールド」のほうは怪獣が町を破壊していく様子を、その直下で命がけで逃げ回ってる人間の視点で描写しようとしてること。
普通怪獣映画といえば破壊を尽くす怪獣を前にしてその巨大な力に立ち向かっていく人間のドラマとしても成立させることが出来るけれど、これはそういう立場をとっていません。巨大モンスターの間近に居合わすことで体験する、周囲の世界が理不尽で予測もしない巨大な力で崩壊していくヴィジョンや、そのなかを逃げ回る混乱と恐怖感そのものを描くことに専念してます。これがこの映画の表現しようとしてる唯一のテーマで、映画はこれ以外のものには見向きもしてないといえます。
そしてそのテーマを展開するために取られた方法が逃げ回る人間、この映画の場合はたまたまパーティー会場でカメラを渡されたハッドということになるんですが、そういう人間が撮り続けるビデオ映像をそのまま映画として見せるという体裁でした。

たとえばパーティー会場で恋人と喧嘩をしたロブが非常階段のほうに頭を冷やしに行くといったシーン、こういう場面は普通ならロブが頭を冷やしに非常階段に出て行ったという形で画面に収まるんですが、この映画の場合はロブが頭を冷やしに非常階段に出て行くのを見るという形を取ります。この映画は誰かが何かをしたという描写じゃなくて、常に誰かが何かをしたのを見てるという描写の形を取ってる。写してる対象だけじゃなくてその対象を写す写し方そのものも画面に一緒に織り込もうとしてます。
つまりそれはカメラの背後に状況を見ている者、撮影者がいることを絶えず意識させるような構造になってるということであって、そしてその存在を絶えず意識させられることで、映画を観ている側はその撮影者と同化してその現場にいる感覚、臨場感を共有できるようになってくるということです。

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これを端的に表現してるのが、手持ちのビデオカメラで撮影してるように画面を揺らせるという極めてシンプルな演出でした。これはもう極端といっていいほど徹底していて、たとえば逃げ回る途中でカメラマンがカメラを持ったまま転んでしまった時に捉えた偶然の映像もそのまま映画の中に使われたりしてます。この映画はそれに加えてさらに単刀直入に劇中の撮影者ハッドの存在そのものも強調していて、彼はカメラを渡されてからはその背後で画面上は姿を見せない存在となるものの、一人で喋るように饒舌であったり、写されてるロブやリリーと話をしたりすることで何時もそこにいることを示し、さらに自分を忘れるなとでも云いたげにカメラの前に回りこんでレンズを覗き込むようなこともたびたび行ったりします。

もっとも、主観映像的なものを使って撮影者として現場にいるような感覚を観客に体験させるこういう方法は「クローバーフィールド」が最初に使った斬新な方法というわけでも必ずしもなくて、今までに他の映画の中でも使われてます。
一番簡単に思いつくのは「ブレアウィッチ」かな。これも画面が揺れる、わたしが一番苦手にしてる映画でした(白状すると気分悪くて最後まで観てない…)。それでは「ブレアウィッチ」がこの方法を採用した最初の映画かというと、実はさらに「食人族」っていう「ブレアウィッチ」の元ネタらしい映画が80年代初めにあって、これはジャングルで発見されたビデオカメラに収められた映像を見せるという形で、映画の中に手持ちのビデオ映像が展開されていくといった映画でした(これは最後まで観ました。揺れる画面よりも食べるためにでかい亀を解体するシーンのほうがえげつなかったです)。
だから「クローバーフィールド」が使った方法が方法的には必ずしも斬新なものだったというわけでもなかったんですけど、この方法論を持って怪獣映画を撮ったっていうのがこの映画の場合は新機軸だったといえるんじゃないかと思います。この方法を使うことで今まで観たことのない怪獣映画が出来上がったという、その点が斬新だったと。

ところで、手持ちのカメラを駆使して、ぶれた映像を繋いでいくという画面は、先にも書いたように、スクリーンの向こうにある世界を、その場には存在しないカメラを通して、神の目のように眺めてるのではなくて、スクリーンに写る現場には実際にその光景を写すカメラが存在して、そのカメラを覗き込む撮影者と一体になることでカメラが写しとってる世界の真っ只中にいるという感覚を共有する、ライブ感覚に満ち溢れた映像とでもいうようなものなんですが、この映画のそういう映像ってドキュメンタリー的な映像というか、もうちょっと身も蓋も無い言い方をしてみるとドキュメンタリーを偽装してる映画のような感じがあるんですよね。
画面効果として一番目につく激しく揺れ動く映像以外でも、細部の、たとえば左下に入る日付の表示とか、とにかく画面を構成するあらゆるものあらゆる演出が、こうすればドキュメンタリー風の生々しい映像になるという意図、戦略で画策されて画面全体を構成、仕上げる形になってる。
ちょっと直接的には関係ない話になるかもしれないけど、映画の始まりから暫らくの間左下に結構大きく表示されてる撮影時の日付はプライベートビデオ風のイメージをスクリーン全体に与えるのに効果的な役割を果たしてるんですが、映画の最後まで出しておく程の意味はない。というか画面を構成するものとしては結構邪魔なので、プライベートビデオ風の印象を観客に与えたと判断され、もう一つは撮影者が変わったりパーティ当日に日時が予告なくジャンプするのを説明したりする役割を終えた時点でスクリーンから消してしまいます。でもこの消し方が上手くておそらく消えた瞬間が印象に残った人はまずいないだろうと。それほどさりげなく画面から消し去ってます。この辺の必要な部分だけ提示して必要なくなったら画面からさりげなく退場させるというような効率的な計算は、写される光景が無秩序そのものであるのも関わらず、映画全体から細部にいたるまで十分になされてるような印象を受けました。

話を戻すと、この映画はニューヨークの高層ビルを破壊しながら彷徨するモンスターとその直下を逃げ惑う人、モンスターに立ち向かう軍隊の個々の兵士レベルでの様子をドキュメンタリー風に映し出しながら、ドキュメンタリー的に映像を撮るとはどういうことなのかということについて映画自体が自己言及してるような体裁をとってる映画だという風に見えます。ドキュメンタリーの偽装という文脈で云えば、どういう風に偽装(撮影、演出)すればドキュメンタリーのような振りをすることが出来るか、映画の中でたえす検証しながら進行してる映画といった感じ。
思うに現実をそのまま撮り続けてもドキュメンタリーにはならないということ、ドキュメンタリーはドキュメンタリーの文法によって語られなければドキュメンタリーとしては成立しないということ。そういうことが「クローバーフィールド」でハッドが捉える修羅場の映像に見え隠れしながらこちらへささやきかけるように届いてくるんですよね。
実は虚構とは一体どういうものなのかとか、ドキュメンタリーを成立させる文法というものが一体どういうものだとか、そういうことは普段は全部映画の背後に隠されてるものです。隠された上で自明の理として無条件で共有されてる。この映画はそういう自明の物として映画の背後に隠されてるのものを、逐一対象化して目の前に並べていきます。云うならば語られるものとそれを語る方法論が同じレベルで目の前に見える形で並置されていく二重構造を持った映画。
「クローバーフィールド」は語られる内容の臨場感も見物だったんですけど、こういう語り口について意識化させ、映画という存在そのものに目を向けさせ考えさせるような二重構造を最初から最後まで徹底して保持していている点、その徹底振りがなかなか新鮮な映画でもありました。

☆ ☆ ☆

巨大モンスターに蹂躙されていく都市の混乱、その混乱を混乱そのものとしてフィルムに定着させる、これが「クローバーフィールド」のたった一つのテーマなわけですが、ちょっと考えて見ると、こういう映像ってたとえば避難者が走り回ってる街路の瓦礫の上にでもカメラを置いておき、その前を逃げ惑ってる人を写してるだけでも実現できそうな感じがします。カメラの前にあるのはまさしく誰も手を加えない混乱そのものであるし、その場所をそのまま写してる訳だからこれほどリアルなものもないわけです。巨大モンスターが踏み下ろす足が伝える地響きでカメラが道に転げ落ち、逆さになったような映像がそのまま続くなんていうことがあればさらにアクセントになって臨場感も跳ね上がるかもしれません。
でも、これを実際にやったとしたら、まぁ想像するまでもなく、おそらく10分も観れば耐えられないほど退屈な代物になるはずです。なぜかって云うと臨場感のある定点観測の映像ではあるかもしれないけど、これは映画では決してありえないから。映画として語ることを放棄してるからなんですよね。映画は映画として語られることでしか映画にはならないです。

ストーリー的な側面からみると、製作者がそういうことを考えてたかどうかは実際のところわからないけど、結果として「クローバーフィールド」のストーリーは極めてシンプルで、こういう定点観測的な映像のあり方と、映画的に語られる映像のあり方のはざまを渡り歩くように、どちらかというと定点観測的な方向に体の重心を傾けながら進んでいくようなつくり方になってます。
ストーリー的な語り口を楽しみにしてる観客が観ると、こういう立脚地点を探る「クローバーフィールド」のストーリーはおそらく拍子抜けするほど単純で物足りなく感じるかもしれないです。

パーティー会場から避難して路上に出たパーティー客たちを巨大モンスターからの一撃が襲います。その一撃の後、半ば瓦礫と化した一帯からパーティーの客も含めて生き延びた人が集まりだし、安全と思われる地区に向けて大移動を始めるんですが、地区を結ぶ橋の上(ブルックリン橋?)まで来て混雑してる避難者のせいでなかなか進めないところへさらにモンスターの体の一部らしいものが振り下ろされて橋は崩壊、その時点で一群だった避難者の集団はちりぢりばらばらになってしまいます。
カメラを持つハッドの前に残ってるのは、パーティーの主賓でカメラの本来の持ち主ロブと、ロブの兄ジェイソンの婚約者であるリリー、リリーの友人でハッドの片思いの相手であるマリーナの3人。

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そこへロブの携帯電話に恋人のべスから連絡が入って、パーティーを途中で抜け出して帰ってしまったべスは自宅の高層マンションが巨大モンスターの襲撃で倒壊し、生きてはいるが怪我をして動けないということを知らせてきます。
それを聞いて、ロブはベスを助けるために、みんなが逃げるのとは逆方向にあるべスの高層マンション、そこは巨大モンスターが暴れまわってる中心地でもあるんですが、そう言う危険地帯に向かうことを決意します。

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実は「クローバーフィールド」でストーリー的な展開というか仕掛けがあるのはこの部分だけです。それまでは誰が集まってるのかも把握できないパーティー会場を引っ張りまわされた挙句、モンスターの襲来でこれまた誰がどこにいるのか分からなくなったままに橋に向けての逃走。そして橋での二回目の襲撃で上に書いたような状態になって、このロブの決断を挟んで後の展開はべスのマンションに向かう間に遭遇する障害を取り払っては進み、取り払っては進みという形の完全な一本道になってしまいます。ストーリー的な動き方をした思われるのはこの決断の部分だけ。

ストーリーを追うことを楽しみにしていたら肩透かしを食らうのは必定の単純なストーリー・ラインなんですが、それでもこの映画に関して云えばおそらく最も適した仕上がりになってるのではないかと思います。ストーリーの展開に関する選択では「クローバーフィールド」は間違った選択はしてないです。

スト-リーを物語るって云うのは云い換えてみれば、秩序への志向です。乱雑で意味もなく目の前に転がってる世界に秩序を与え、意味として理解できるものへ変貌させようとする意思と云ってもいいかもしれない。こういうものに「混乱」を任せてしまうと、「混乱」は「混乱」そのものではなくなってしまうんですよね。語られた「混乱」「混沌」は語られることでどこかに秩序の枷をはめられてしまいます。
だから「クローバーフィールド」は定点観測映像に堕さないように映画的な語りを必要とするものの、その唯一のテーマを実現させるためには、十全に語ってしまって秩序としての「混沌」しか画面に定着させることが出来なくなるのも避ける必要があった。だからテーマのためにストーリー的なストーリーからは何歩も退く必要があったんじゃないかと思います。

べスのマンションに向かうことにしてからの展開は本当に文字通り一本道です。幾重にも伏線を張って、その伏線を鮮やかに回収して観客を驚かせることも何もしない。伏線を張るというようなことさえほとんどしてないです。
たとえば、中心地に向かう途中で巨大モンスターと対峙してる軍の前哨基地にたどり着くシーンがあります。

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民間人がここから先に入るのは絶対に阻止するのが軍の役目の一つでもあるから、当然ロブたちはここで足止めを食うわけですが、普通だと絶対に通れない関門をロブたちがいかにして潜り抜けるかという展開になりそうなものを、この映画の軍隊は最初こそ止めようとするものの、事情を話せば結構あっさりと関門を通してしまいます。救助ヘリが着陸する場所と時間を教えて、間に合うように帰ってこいと声をかけただけで、護衛もなしに巨大モンスターが暴れてる真っ只中にロブたちを放り出してしまいます。関門を通るためのストーリー展開を助けるために、それまでになんらかの伏線を張って、どうにかするというような形は取らないんですよね。まるでこういう場合、中心地に行くには必ず軍の検問があるから検問のシーンは入れておくけど、それだけの意味しかないシーンなんだと宣言してるみたいな感じ。
伏線を複雑に張り巡らせて構築していく物語が自ずと体現していく安定感のある秩序とは無縁の場所で映画を成立させようとする意図、そういう意図はこういうところでも垣間見ることが出来るような気がします。
だからわたしは前哨基地でのこういう展開は現実的にはリアリティはほとんどないんだろうけど、少なくともこの映画の目的には合致してるような印象を持ちました。
それと、この物語ともいえないようなミニマリズムのシナリオは、唯一の物語的な展開になってるべスのマンションに向かう決断のシーンで登場人物をパーティー客全員から一気に4人+べスに整理してしまうような荒業を使っていて、この辺りの動かし方にはまるで作意がないように見せかけてはいるものの実はかなり上手いところがあるような感じもします。

☆ ☆ ☆

人物描写に関しても事情はよく似ていて、最初の方にも書いたように、ストーリーのミニマリズムに歩調でもあわせるように、これもまた最小限の描写しかなされてません。

最初の送別パーティの、映画全体のバランスから見ると妙に長いシーンで各登場人物の基本的な人間関係、それぞれがおかれてる生活の状況といったことがごく簡単に説明されます。
ロブは、何の会社かは説明されないけど副社長として日本の会社に赴任するらしく、そのことに関係して恋人べスともう一つうまくいってないところが出て来てる。兄ジェイソンに関しては婚約者リリーがいるということと、ロブとはごく普通のどこにでもいる兄弟で、この兄弟に固有の特殊な確執のようなものがあるわけでもない、仲の良い兄弟であるということ。リリーは兄の婚約者として将来の義弟となるロブを気にかけてる。マリーンは友達が来てるからやってきたものの、主賓のロブのことさえもろくに知らないらしい。
冒頭の編集してない録画しっぱなしのように見せてるパーティーシーンで主要な人物について示されるのはこの程度のことで、その後人に関する描写はほぼその範囲から拡がったり深まったりするわけでもなく、映画のなかではパーティ会場をカメラを持ったハッドが無作為に動き回るだけで、やがてモンスターの攻撃が始まると後は画面に出てくる人間全員が逃走モードに突入して、人物の描写など完全に脇に追いやられたような形になっていきます。
おそらくこの映画を見た人のほとんどが最初のパーティシーンで得た人物への印象だけで最後まで行き着いてしまうんじゃないかと思います。

物語的な転回点であった橋崩壊後のロブの決断、恋人べスを助けるために、安全と思われる場所に向かう避難者の一群とは逆方向に進むという決断をするシーンでも、ロブは動機としてはたったそれだけでもまぁ分からないでもないけど、それに従う決断をする他の登場人物の動機なんかは、各人のそれこそ命に関わる選択になるわけだから、おそらく普通の映画だったら事細かに描いてその決断が不自然でないように持って行くだろうと思うんですが、この映画はこういう部分もとにかくミニマリズムに徹していて、たとえばリリーはロブが義弟になる人物だからそばにいなければならないという理由、マリーナはリリーが友達で他に頼れる人物が周囲に見当たらないといったたったそれだけの理由で、ロブについていくリリーにつき従うという形になります。ハッドは明言はされないけどおそらく片思いのマリーナの行く方向に付き従ってるという感じ。各人の行動への決断は納得できるか出来ないかの境界線上にあるというか、そういう感じのごくシンプルな理由付けしかされてません。

また、ハッドに関しては映画の最初からこの修羅場をビデオにとり続けてるという行為自体にかなり不自然で突っ込みどころがあるように見えるんですが、実は橋が崩壊する直前に橋の上で進めなくなって佇んでるロブが「まだ撮るのか?」とハッドに訊くシーンがさりげなく挿入されていて、「撮る」「言葉じゃ駄目なのか」「見る記録じゃないと駄目なんだ」といった会話が交わされてます。一応ハッドが、誰もが逃げること最優先の場所で1人だけ悠長に撮影し続けてる動機めいたものも提示されてる部分があるわけです。
基本的に人物を描くのが目的ではなくて、だから全体的にはミニマリズムに徹してるんですけど、命がかかった選択やこの映画の成立基盤になってるハッドの動機などは、あとで問われた時に最小限の返答ができるようなアリバイ作りみたいな形でさりげなく揃えてある。そういう配慮は随所になされてるような構造になってました。

要所要所で簡単に動機付けするくらいで全体的には人物描写に傾斜しないで終始するというこういうやり方は、普通の映画だとまず間違いなく落第点をつけられてしまでしょうね。でもこの映画はあえてその落第点に直結するような方法を取ってきます。
なぜならこういうやり方が「クローバーフィールド」の趣旨に合ってるから。と云うよりもこういう成立の仕方以外にこの映画の趣旨に合うスタイルはないと思えるから。
どう云うことかというと、撮影者のハッドにとっては被写体のロブたちは既に熟知してる人物なわけで、このビデオを撮影するに当って事細かにどういう人物であるかを描写、表現する必要がハッドに有ったわけがないということです。元々がプライベートなビデオの延長で成り立ってる上に、撮影者ハッドの関心がニューヨークで何が起こってるかを写しとることだけにしかないとなると、ビデオに写ってる人物がどういう人物なのかといった表現はビデオ映像の中に入り込む余地がほとんど無くなります。

わたしがこの映画を観終わった時に持った印象は、言葉で置き換えるならこの記事のタイトルにつけたように「倒立」してるっていうことでした。
普通はおそらく人物描写こそがメインテーマになるし、それが稚拙であったりおざなりであったりすればそれだけで出来の悪い映画という評価を貰ってしまうのはほぼ確実なのに、この映画に関しては普通映画に絶対に必要なテーマである人間描写をやってしまうと、映画の意図したもの、それを映画として成り立たせようとしたものを崩壊させてしまうことになりかねません。
たとえるなら道で偶然拾ったビデオテープを再生した時におそらく感じることが出来るに違いない得体の知れなさのようなものを映画の中のどこかの部分で維持し続けるために、他の映画では普通にやってる、あいまいなものに輪郭をつけていってはっきりと形が分かるようなものにしていく、いわゆる表現行為のかなりの部分を無視する必要があったと。ハッドが撮影したプライベートビデオという体裁をとる映画を成立させるためには、普通に映画を成立させるために必要なものが全く逆に映画を崩壊させかねない要素になってしまうというひねくれた部分が確かに存在していて、そのひねくれた倒立振りがわたしには結構面白いものとして印象に残りました。

☆ ☆ ☆

モンスター映画なので、肝心のモンスターについても思ったことを少しだけ。

この映画には2種類のモンスターが出てきます。ニューヨークの街中を徘徊して高層ビルを破壊しまくる巨大4足歩行モンスターと、中~大型犬くらいの大きさの昆虫タイプのモンスター。映画の中のニュース映像でちょっと写るくらいでよく分からないけど、虫型のほうは4足歩行モンスターの体から零れ落ちてくるらしい。小型の虫型モンスターを引き連れてるのは平成ガメラの2作目に出てきたレギオンをちょっと思い出させます。
昆虫タイプの方はうじゃうじゃと出てきて人を襲うので、大体の姿かたちはそれなりに分かるような形でスクリーンに登場しますが、巨大な方は実は一箇所を除いてあまり姿かたちが分かるような形でスクリーンに登場しません。ビルの背後で這い回ってる気配とか、そういう描写が中心になってます。
モンスターが近づいてきたら、ロブたちには逃げ去るしか選択肢がないから、逃げるハッドのカメラはモンスターとは反対側を向いてる場合がほとんどで、モンスターをきちんと捉えることもなかなか出来ないっていうわけです。

モンスター映画の場合わたしは基本的にはモンスターは見せない方が良いと思う部分もあるんですが、見せきらないと駄目なものもあって、たとえは「遊星からの物体X」なんかはモンスターを見せきって成功した映画だと思います。あれはグロテスクに変形するモンスターを見せないと映画そのものに意味がなくなってしまいます。
逆に「クローバーフィールド」に登場するモンスターの場合は「物体X」とは違って見せない方が良いタイプ。いろんな選択をこの映画はしてるけど、この点でもこの映画の選択は正解だったように思います。

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視覚面だけではなくて、モンスターに関するさまざまな情報も見た目と同じくらいほとんど映画には出てきません。モンスターについて何か書こうと思ってあらためて映画を見渡してみても、実は何も書くことがないと気づくくらいに情報が極端に制限されてます。
たとえば一つ一つの情報は断片的でそれだけでは全然意味を成さないようなものであっても、様々な手がかりが映画の中に散りばめられていて、たとえ映画が明確に説明しなくても、観客がそういう散りばめられた手がかりを参考にしながら推理してモンスターの真相に辿り着けるといった、そういう構成にもされてません。
ニューヨークを破壊する巨大モンスターに関してはどこからやってきて、どういう生き物で、なぜニューヨークを破壊してるのか、人を襲う虫型モンスターは巨大4足歩行モンスターにとっては一体どういう関係にある生き物なのか、そういったことが何も分からないままに放置された状態で映画は進行し、終わってしまいます。見終わって振り返ったら吃驚しますよ。今まで観て来たものが何だったのか全然理解できてないことに。

「クローバーフィールド」はこういう風に普通だったらちょっと考えられないくらい、映画の主役でもあるモンスターの正体について何も分からない状態を維持し続ける映画なんですが、でも考えてみれば、この映画の設定だとこういう状態はごく当たり前のことなんですよね。直下を逃げ回ってるハッドやロブたちには情報を得る手段がないから、ハッドが取り続けるビデオ映像にモンスターに関する情報が整理されて入ってるわけがないということ。
映画の中では混乱してる街中の電器屋が火事場泥棒にあってるシーンで、店内の商品である展示モニターに流れるニュースからと、中心地に向かう途中で遭遇する軍の基地くらいが情報を得られるシーンだったんですが、状況を覆い尽くす混乱の方が大きくて、両方とも情報としては断片的なものを得られるだけのシーンとなり、やはりロブたちはモンスターに関してはほとんど何も知りようがない状態で行動し続ける以外になくなります。
映画の主要な部分に関して、登場人物に何も知らせない、観客にもほとんど情報を与えないっていうストーリー上のこういう選択。これは物語を形作るって云う点では極めて大胆ではあるものの、混乱を画面に映し出すというテーマからは必然の選択だったと思います。

☆ ☆ ☆

「クローバーフィールド」は瓦礫の下から発見されたビデオカメラの映像という形を取ってる映画の性質上、有名俳優、ちょっとでも顔を知られてるような俳優は使うわけにはいかずに、出てくる俳優はみんなほぼ無名という、どうもあまりお金がかかってない映画のように思える映画だったんですけど、視覚効果に関してはかなり出来が良い仕上がりになってました。

纏めてみれば「クローバーフィールド」は怪獣映画という非現実で、ありえない世界を構築するために、大半の部分を視覚効果に寄りかかって成立してる映画です。今まで人間描写だとかストーリーテリングだとか色々書いてきたけど、結局のところこれがちゃちだとそんなこと全部ひっくるめて映画全体が崩壊しかねない側面も持ってる。
だから「クローバーフィールド」はそういうことを十分に承知の上で視覚効果に最大限の試行を重ねていってます。それは映画を一目観ただけで歴然として分かるほどに。その結果としてある部分では以降の映画はこれを基準にしなければならなくなるんじゃないかっていうくらい革新的レベルをクリアするようなところにまで到達しています。俳優に使わなくて済んだ予算をすべて映像技術面につぎ込んだと思わせるくらい、この映画の視覚効果は本当に素晴らしい出来を誇ってました。

最初のモンスターの一撃で、パーティ会場から路上に出てきた人に向かって、引きちぎられた自由の女神の首が飛んでくるシーンから、度肝を抜かれます。この場面はこの映画での一番のスペクタクルシーンじゃないかと思えるくらい、派手で凶悪で印象深いシーンになってます。
こんな非現実的なシーンなのに、現実感という点では文句のない出来栄え。路上の自動車を破壊しながらこちらに転がり飛んでくるこの自由の女神の首の巨大さは十分に表現されてるし、その回りに集まってきた人が、まだ何が起こってるのか今一つ理解してないからなのか路上に転がる首を携帯で写真に撮ってるシーンは、回りに群がる人と首の距離感も正確で、人と路上の首は当然合成なんですけど、人とCGIのこの首がきちんと同じ空気の中、同じ空間のなかに存在してる雰囲気も正確に表現されてます。本来別の空間の空気を纏ってるオブジェをまるで同じ場所にあるように見せようとするなら、カメラの位置、画角から細かい照明のニュアンスまで正確に一致させなければならないはずで、そういう部分もパーフェクトにクリアしてるシーンでした。

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空気感といえば、この映画の距離感の表現も突出していて、遠くにある巨大なものの表現も文句なしのリアリティを持ってました。
対象からこちらまでの空間に存在する大気の層のようなもの、「クローバーフィールド」はこれの表現に長けてるんですよね。この大気の分厚い層を上手く表現できると、遠くにあるような見掛けに仕上げることが可能となります。
地震の後パーティ会場の屋上に上がったロブたちがニューヨークの遠くのビルのはざまで大爆発が起きるのを目撃するシーン。この混乱の一夜の始まりの合図になるシーンですが、この時の大爆発からして、見事に遠くで爆発した感じが出てました。

でもこういう画面の質を高めてリアリティを保障していくような合成技術も目を見張る出来ではあるんですが、それよりもわたしが一番びっくりしたのはこの映画が手ぶれの画面に複雑な合成を重ねていくという、とんでもない荒業をやってたことでした。これは本当に凄かった。
カメラがどんなぶれ方をしようとも、合成されていくものが全てそのぶれにぴったりと同期されてます。

そういう組み立てのシーンで一番強烈だったのは、ロブたちが地上は巨大モンスターが暴れまわってるから地下鉄の線路沿いに地下を進んで行こうと決めるシーン。ところが安全だと思って歩いていた地下の線路上で、ロブたちは虫型モンスターの一群に襲われることになります。
この時カメラを持っていたハッドが襲われて、マリーナが助けに入るという展開になるんですが、襲われてる最中のハッドが持つカメラは手ぶれどころの騒ぎではなくてほとんど振り回してる状態。
地下道なので全体を均一に照らす光もなくて、カメラ付属のライトも振り回される中、それだけでも混乱して収拾がつかなくなってるような画面の中に、襲い掛かるモンスターとそのモンスターを打ちのめそうとするマリーナの姿が一緒に入ってくるんですが、これが全然破綻なく合成されて、同じ空間にいることもきちんと伝わってくる画面になってるんですよね。
しかも「クローバーフィールド」はこういうことを程度の差こそあれ映画全体にわたって破綻なくやってしまってるわけで、この映画の手ぶれ画面に全ての要素をマッチムーヴさせた視覚効果は本当に驚異的な出来を見せてました。

この映画、とにかく素人が撮ってる映像だというのをあらゆる場面で表現しようとしてる映画なんですが、こういう表現での「クローバーフィールド」の技術の使い方を見れば、云うならばぶれぶれの素人映像を再現するために、最新で最高の技術を惜しげもなくつぎ込んでるとも云えるわけで、先に書いた人間描写の処理に対して感じたのと同じような「倒立」振りが、ここでもまた見出せるということになります。

☆ ☆ ☆

身体感覚的な攪拌から始まって、充満する「空虚」や事あるごとに目の前に現れる倒立振りなど、複層にわたるような映画的平衡感覚への揺さぶりをかけられて、本当にこれが「映画」なの?っていう風に呆気に取られて観てるうちに、随所に現れる映画的選択のスイッチがことごとく「正解」側に入っていって、見終わったときにはきっちりと映画的な体験であったと納得させられるという、わたしにとって「クローバーフィールド」はそういう珍しい体験をさせてくれた映画でした。

☆ ☆ ☆


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(2009/05/22)
リジー・キャプランジェシカ・ルーカス

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原題 Cloverfield
制作 J・J・エイブラムス
監督 マット・リーヴス
公開 2008年


クローバーフィールド/HAKAISHA 予告編



お友達のブロガー、ハッピーレオンさんに教えてもらったんですが、来月10月の4日と31日にWOWOWで「クローバーフィールド」が放映されるそうです。

☆ ☆ ☆

最後まで読んでくださって有難うございました。

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【洋画】 ガタカ

映画の話題としてはこの前取り上げたガン=カタの映画に続いて、今度の映画は「ガタカ」。
これがタイトルなんですが、邦題だけじゃなくて原題もこれです。ガン=カタっていう言葉が頭の中にあって、映画のタイトル「リベリオン」よりも印象が強ければ、ガン=カタを観ようと思って間違ってこっちを選ぶ人も多いんじゃないかと思います。ひょっとしたら続編?って思わせるような響きもありますものね。でも期待しても残念ながらあの凄かった銃の演舞は一切出てこないです。

ガン=カタは出てこなくても「ガタカ」もまた同じように近未来を舞台にしたSFです。とは云うものの普通にSFと聞いた時に頭に思い浮かぶようなものとはおそらく全然違う印象を与える映画になってるはずです。
見上げる空に飛び立っていく宇宙船は出てくるものの、物語の舞台としての宇宙船はラスト近くのごく一部を除いては一切映画の中には出てきません。化け物じみた宇宙人との派手な戦闘もない。
この映画はそういうにぎやかで楽しいテーマじゃなく、遺伝子操作が可能になった社会で人間がどう扱われていくかといった社会的なテーマや、兄弟間の確執、持つ者持たざる者のそれぞれの苦悩といった文学的ともいえるようなテーマが中心になっています。

そしてそういうテーマを載せて展開する画面もまた従来的なSFのイメージとは異なって、ワイドスクリーンを効果的に使った極めてスタイリッシュな絵作りをしてます。
襲い掛かる宇宙モンスターや飛び交うビームに画面を揺るがす大爆発といったものが満ち溢れる躍動的な画面ではなくて、どちらかというと絵画的な構造の、静的でクール、未来と過去が入り混じったような不思議な感触の画面が映画全体を占めていて、近未来という時代の、遺伝子を元にした徹底した管理社会の雰囲気、テーマ性をうまく視覚化しています。

タイトルになってる「ガタカ」なんですが、映画の中では主人公ヴィンセント・フリーマン ( イーサン・ホーク )が自分の遺伝子を誤魔化して社員として潜り込む企業の名前として出てくるだけで、直接的な意味は説明されません。
それで映画を観てるだけでは結局この言葉の意味は分からずじまいで終わってしまうんですが、どうやらDNAの塩基配列頭文字、A(アミン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)を組合わせて作った造語だということのようです。

音列は硬質で低温度的な響きがかっこいいです。多少はわたしのお気に入りのガン=カタに引っ張られた印象ではありますけどね。

☆ ☆ ☆

近未来のどこかの時代、人は自らの遺伝子の構造をつきとめ自由に扱う術を獲得していた。
多くの人は我が子が遺伝子的な問題を抱えて生まれてこないように、試験管の中で人工的に操作された出産を望んだ。
しかし中には自然にゆだねるのが最良という考えの元に、昔からの性行為を出発点として自然分娩にいたる過程を選ぶ親たちも存在し、そうして生まれた子供たちは「神の子」と呼ばれることになった。

ヴィンセント・フリーマンもそういう神の子の一人。
この時代は生まれた直後に実施される血液検査で生涯にかかる病気、寿命などを予測できるようになっていて、ヴィンセントは99パーセントの心臓疾患発病率を予想され、寿命は30歳程度と分析されていた。実際にヴィンセントは周りの人間が始終気を使わなければならないような病弱な幼少期を送ることになる。
最初の子供に懲りて両親は次の子供を時代のやり方に沿って授かることを決心する。そしてヴィンセントの弟として、遺伝子的な劣悪因子や疾患を取り除き、両親の遺伝子の掛け合わせとしては最高の状態でアントン・フリーマンが生まれた。

兄であるヴィンセントはあらゆる意味で弟アントンにかなわなかった。やがてヴィンセントは地上にあるもの全てを憎むようになり空高く上っていく宇宙飛行士になることを夢見るようになった。しかし、世界は遺伝子的に優れた「適正者」と劣化した遺伝子の持ち主「不適正者」に二分された階層社会になっていて、宇宙飛行士への道と弟アントンは「適正者」の世界に属して、ヴィンセント自身は「不適正者」の階層に属するものだった。「適正者」と「不適正者」の間は明確に断絶していて、不適正者が適正者の社会に入り込むことは不可能なことだった。
それでもヴィンセントは宇宙飛行士になる勉強を続けていたが、両親はヴィンセントに努力しても無駄なことが存在するといつも云い聞かせていた。

そういう環境のなかで、ヴィンセントとアントンは親の目を盗んでは浜辺に行き何処まで遠くへ泳げるか競うという度胸試しをやっていた。
いつもは弟が勝っていたが、ある日、アントンが途中で力尽き、溺れかける事態が発生する。その時の度胸試しでは溺れかけた弟をヴィンセントが助けることとなった。
絶対に勝てないはずの弟に勝ってしまったこの出来事で、今まで自分に出来ることの限界を他人が決めていた有り方ではなく、予め課せられた不可能を克服するだけの可能性が自分にも残されていることを確信したヴィンセントは、社会に合わせて確かめもせずに自分の可能性を規定しようとする家族の元を去る決心をすることになった。

家を出たヴィンセントは職を転々とし、やがて不適正者の属する新下層階級の清掃員の一人として「ガタカ」にやってくる。
ガタカ社はこの時代に宇宙開発を行う唯一の巨大企業で、宇宙飛行士になるにはここに入る以外に無い。厳重なゲートで選別されてガタカ社に入っていく適性者の集団を清掃しながら毎日眺めていたヴィンセントは必ずこのゲートを潜ってガタカ社に入る決意をするのだった。

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ところが入社のテストを受けてみても、ドアノブに触れただけでその痕跡からDNAを辿られて、不適正者であることがばれてしまって入り込むことが出来ない。いくら努力しても血液検査をされれば即座に落とされるという状況にあって、ヴィンセントはDNAブローカーに会うという最終手段をとることを決意した。
ヴィンセントに体格的に一致する適正者としてブローカーから紹介されたのが元水泳選手のエリート、ジェローム・モロー(ジュード・ロウ)だった。
ジェローム・モローは最高の遺伝子をもつ超人。しかし過去に自殺未遂を起こしていて、そのときの行為が原因で今では車椅子の生活になっていた。
ヴィンセントはジェローム・モローの生活を保障する代わりに、ジェローム・モローのIDを譲り受け、遺伝子を含む垢、ふけ、髪の毛、尿などを提供してもらい、その遺伝子を内包する老廃物を使うことでガタカの検査を突破し、ジェローム・モローに成りすましてガタカの一員になることに成功した。

ヴィンセントがジェローム・モローとしてガタカでの生活を続けていたある日、ガタカ内部で殺人事件が生じる。殺されたのはガタカ社で近々予定されている土星の衛星タイタンへの探査船の打ち上げに反対していたある上司。
その結果ガタカ社で警察の捜査が始まることになった。チリ一つ見逃さない警察の現場検証に、たまたま落としたヴィンセントの睫毛が一本紛れ込んで、蒐集物の分析の結果、不適正者ヴィンセントがガタカ社に紛れ込んでいることが警察にばれてしまった。
ジェローム・モローとして認知されていたヴィンセントに、即座に警察の手がのびてくることは無かったが、警察は確実にヴィンセントを囲い込み、殺人の容疑者としてヴィンセントに向かって捜査の範囲を絞り込んでくる。ヴィンセントはしだいに窮地に立たされていくことになった。

☆ ☆ ☆

簡単に云うならば、4つの遺伝子の物語が4人の主要登場人物に仮託されて語られる、そういう構成の物語になってます。
主人公のヴィンセントは自然のままの状態で、この社会では、あるいは今の現実の社会でも劣性と見做される特質を持った遺伝子を山のように抱えてしまってる存在、映画の冒頭に引用される2つの言葉のうち最初に出てくる「神が曲げたものを誰が直し得よう?」という伝道の書からの言葉をそのまま体現してしまってるような人物。そしてそういう兄に対応する弟のアントンはたとえば天才同士の掛け合わせといったものではなく、ごく普通の人間である両親の遺伝子という制限はあっても、その組み合わせのうちでは最良の選択をなされた存在。
ジェローム・モローは超人と呼ぶに相応しいような完璧な遺伝子の持ち主でありながら、なぜかその遺伝子の能力を十全に発揮できず、目の前に越えられない壁を見出してしまった人物で、もう一人紅一点で、ヴィンセントに惹かれていく女性アイリーン(ウマ・サーマン)は遺伝子操作されて生まれてきたにもかかわらず、ある種の欠陥を抱え込んでいて、適正者の社会にいる資格を充分に持ちガタカ社内部に居場所も見つけながら、ガタカ社の目的である宇宙に飛び立つことを拒絶されてる人物といった感じに役割を割り振られています。

主人公の兄弟は冒頭の伝道の書の言葉と、それに続いて映画の冒頭に出てくるウィラード・ゲイリンの言葉、ゲイリンは実在の人物で1974年に「Harvesting The Dead」という論文を書いて脳死体の医学的な利用価値について言及した人らしいんですが、そのゲイリンの言葉「自然は人間の挑戦を望んでいる」というのをそれぞれ体現してるような存在で、残るジェローム・モローとアイリーンは操作され適正者の側にいながらも、完全なものとしてではなくそれぞれが翳りを背負わされてる人物とでも云い表せるかもしれません。

このように映画「ガタカ」の登場人物はそれぞれかなり明確な役割を割り振られてスクリーンの中に登場します。そしてそれぞれ担ってる遺伝子のロールプレイングをする登場人物といった感じで配置されます。
登場人物それぞれに事情があるものの明確に役割を振られている分、ストーリーの見通しは意外なほど良くて、物語の構造自体も各登場人物ごとにブロック状に切り離せるんじゃないかと思えるくらい、分かりやすい形を取って目の前に展開していきます。
ヴィンセントと弟アントンとの確執のある少年時代の回想、その回想が終われば、適正者を騙って潜り込んだヴィンセントのガタカ社での日々とそこで起こった殺人事件、ヴィンセントに適正者のアイデンティティを与えるジェローム・モローの孤立した生活という風に、それぞれがお互いの領域に関わっているように見えながら、大枠の部分ではきっちりと別の物として扱われ物語の秩序に沿って並べられてる。
複数のストーリーを用意して、ある程度個別の枠組みに収めてしまってるためにいささか散漫な印象があるものの、区画整理された道を歩いてるような見通しのよさがあるというか、そういう感じをうける物語でした。

☆ ☆ ☆

この映画を見終わってみてわたしが感じたのは、まず第一にヴィンセントの、主人公であるにもかかわらず、それほど印象に残らない存在の希薄さでした。

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ヴィンセントがこの映画の主人公であるのはまず間違いがないところ。これには誰も異論がないと思います。
冒頭部分、自分の垢などをガタカ社で不用意に落とさないように、皮が擦りむけるほどに焼却炉に擦り落としてから出社するシーンに始まって、ヴィンセント自身のモノローグで始まる、自分がガタカで適正者に混じって生活してることへ至る過去の回想から、無表情にエリートを演じてるガタカでの日常と場面は続き、最後もヴィンセントのエピソードで終わるこの映画の物語は終始ヴィンセントを画面に捉えていて、明らかにヴィンセントの物語として成立しています。
わたしはヴィンセントが不適正者であっても不可能を努力で可能にして、最後には夢にまで見た土星探査の宇宙飛行士になる物語として観ていました。おそらくこれはわたしたけではなく、この映画を観た大半の人がそういう観点で観始めると思います。
ところが確かにそういう風に進む物語ではあるんですが、実は物語の大半はガタカ内部で起こった殺人事件の話に割り振られてしまってるんですよね。この殺人事件の話はもちろんヴィンセントに密接に関わってくる事件なんですが、ここで扱ってたはずのヴィンセントが生きることを強要されてる遺伝子に規定された生存の形そのものとはあまり関係のないエピソードに終始していくことになります。

この殺人事件というのは、先に書いたようにタイタン探査宇宙船の打ち上げに反対してた上司の殺害というものなんですが、この上司は殺害された形で初めてスクリーンに登場してきて、それ以前の話の中では全く出て来ない人物です。
会社の自室で殺されてるのが発見されるまでに映画としてはまだたったの8分ほどしか経ってない。この8分の間にこの人物は一度も登場しないので、このシーンがやってきた時にわたしが思ったのは、「これ、誰?」っていうものでした。
以後警察が介入してきて、ガタカにヴィンセントが潜り込んでるのがばれてしまい、誰がそのヴィンセントなのかを探る捜査が始まるものの、殺された上司は捜査の過程でガタカのやり方に反対してた人物と説明されるだけで、後は最後まで「これ、誰?」の放置状態です。どういう生活をしていてどういう考えの元に土星探査に異を唱えるようになったのか、この人物に関するそういった描写は皆無で、おそらくヴィンセントとの人間的な係わり合いさえも無い人物でしょう。

結局映画の中で大半を占めているこの出来事は、云うならば殺人事件としての意味合いさえも与えられていない事件として扱われていて、ヴィンセントを追い詰めていくサスペンスを作り出すために用意された物語上の仕掛けにしか過ぎないのは一目瞭然でした。
だから映画はその仕掛けに引きずられて、ヴィンセントが自分に向かって閉じかけてくる容疑から抜け出すためにいろいろ算段する描写に特化してしまい、本来表すべきだった不可能を可能にする努力といったシーンはほとんど出てこないことになってました。

ガタカ社の社員全員にかけられた不適正者の容疑と、その不適正者ヴィンセントを割り出すために試行される様々な検査。ヴィンセントはその検査を全てクリアするべくいろいろ知恵をしぼるんですが、観てる側が感心するほど考え抜いた方法を使うわけでもなく、その場の偶然に頼ったり、理由をつけて暴れた隙に検体を擦りかえるとか、姑息な手段ばかりを披露します。
一応ガタカ社でジェローム・モローに匹敵する能力を発揮するためにヴィンセントがかける努力、本当はこちらの方が本筋なんですが、これもエピソード的に映画の中に挿入はされるものの、腹筋の運動をするときに負荷として使っていた分厚い書物の背が画面に映って、それが宇宙航法に関する本だということが分かったり、といった極めて間接的な描写に終始します。実際に本を読んでるシーンなんて過去の回想に僅かに出てくるだけです。
これでは、ジェローム・モローの体の一部を使って適正者に成りすましたきっかけから、やがてジェローム・モロー並みの能力を身につけるまでに至る壮絶な努力の物語の印象なんて絶対に持たないです

おそらくヴィンセントが地道に努力する過程を延々と映しても、映画を維持できないと判断したせいだと思うんですが、殺人事件によるサスペンスという、この映画が採用した展開は映画を維持は出来ても映画が用意してるテーマを展開するにはあまり適切だったようには思えませんでした。

そういえば弟との肝試しの遠泳でも、これで適正者の弟に勝ったことがヴィンセントに遺伝子の呪縛から解放される道筋も残されてると確信させる出来事だったのに、なぜ勝てたのかはほとんど理由なんてなく、勝てたのも偶然にしか見えないような描き方をしてました。このヴィンセントの出発地点の出来事もエピソード的には弱いといえば弱いです。
ただこの遠泳のシーンは映画の中では三回あるんですが、どのシーンも俯瞰を効果的に挟み込んだりして極めて美しいシーンだったので、シナリオ的には弱くても、絵で納得させるだけの力はあったかもしれません。

☆ ☆ ☆

一方、遺伝子的な超人ジェローム・モローのほうは、これは車椅子に座ってるということもあって自宅から出るシーンはほとんどなく、ガタカ社で展開される映画メインの出来事とは切り離されたような扱いになってるんですが、印象は主人公のヴィンセントよりも余程強烈で、こちらが主役といっても云いくらいの存在感がありました。こちらの印象の方が強烈なので、イーサン・ホークの演じた主役の印象が必要以上に薄いものになってしまってるとさえ云えるかもしれません。

ほかの人物の描写が、たとえるなら最初に割と単純な答えの数字が用意されていて、その数字に行き着くように数式を組み上げていたような作り方をしてたのに対して、この人物は最初から最後まで変数ばかりで構成されてる複雑な人物として造形されてるような印象をあたえました。

最高級の遺伝子を持ちほとんど全てのことで万能とも云える可能性を秘めて水泳選手のスターになったものの、努力を怠ったわけでもないのにいつまでも2位の銀メダルに終始し、遺伝子が確実に保障してるはずの一位に辿り着けない。何故そこへ行き着けないのか自分でも分からないままに、最高級の遺伝子の持ち主という重圧に耐え切れなくなって自殺するために車の前に飛び出したものの生き残ってしまい、自殺未遂の結果半身不随となってそのまま水泳界がら行方をくらませた人物。
最初にヴィンセントと会った時は生活を保障してもらうために、自分のIDを初め、自分の垢やふけや尿を提供する自分のあり方に対して冷笑的な姿勢を示す人物、たとえば身長は?と訊かれて130センチ(車椅子に乗ってる高さ)と答えるような人物として登場するんですが、これだけでも屈折して陰影にとんだ人物としてかなり強い印象を与える感じです。

そしてこの冷笑的な位置にいてヴィンセントとの取引をあくまでもビジネスと考えていた地点から、自分の遺伝子を使って自分の代わりに努力して階段を登っていくヴィンセントと付き合ってるうちに冷笑的だったジェロームの人間性に変化が起きて来ます。
実はこの映画に出てくる登場人物で、他人との係わり合いのなかでその存在を大きく変化させていく人物っていうのはこのジェロームだけなんですよね。ほかの人物も多少は他人の影響を受けはするものの、あくまでも背負わされた遺伝子のロールプレイングをする駒という形を崩さない。さっきのたとえで云えば最初にその人物のものとして想定された単純な数字を乱そうとはしません。ところがジェロームは最後の答えにあたる数字をどんどんと変化させてくる。

ヴィンセントはガタカ社のなかではジェローム・モローのIDとそれを保障する遺伝情報を利用して入り込んでるので、ヴィンセントではなくてジェローム・モローその人です。そしてジェローム・モローはもう一人のジェローム・モローが努力を重ねて宇宙飛行士への道を突き進んでいき、ジェローム・モローの名前を宇宙飛行士として歴史に残そうとしてるのを目の当たりにしていく。自分は水泳選手として銀メダルに甘んじた生涯だったが、自分の一部をまさに共有して自分が届かなかった地点まで登ろうとしてるジェローム=ヴィンセントを見てるうちに、ヴィンセントの存在を自らのことに重ね合わせるように考え、冷笑的だった状態から積極的に協力していくことになります。
ジェローム・モローの屈折振り、複雑さは最後のシーンで取る行動にも現れていて、複雑なキャラクター造形の総仕上げとして曖昧さを最大限に振り切らせたようなシーンが用意されてるんですが、やっぱりこの幾通りにでも解釈できそうな締めくくり方と云いこの人物が映画「ガタカ」のなかで一番印象的といえるんじゃないかと思います。

このジェローム・モローを好演してるのがジュード・ロウ!
「スカイキャプテン」のあの人です。

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刑事が自宅にやって来るというシーンでガタカ社から戻ってくるのが間に合わなくなったヴィンセントの代わりに、刑事がやって来る前に地下の作業場から一階のフロアまで車椅子無しで螺旋階段を這いずり上がっていくような、制限時間つきの一種のスペクタクルシーンはあるものの、大半は車椅子に乗ってるために身体的な表現がほとんど出来ないという状態でこの複雑な変化を伴うジェローム・モローを演じてます。
ほとんどのシーンを限定された上半身の動きと表情のちょっとした変化だけを頼りに演じきってるわけで、その的確な演技ぶりはおそらくこの映画の最大の見せ場になってると思います。

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そして、全ての遺伝子が最高級という人物に相応しい、ジュード・ロウの徹底した美青年振り!
美しくないということはその美しくない分だけ遺伝子が劣化してるという理屈なので、この観点からもジュード・ロウの美貌ぶりはまさに適役でした。

☆ ☆ ☆

ヴィンセントに好意を寄せるアイリーンは人物的な役割よりも、ウマ・サーマンの近未来的な美貌といったもののほうが印象に残る感じでした。人造人間みたいに作りこまれた美貌って云うかあまり人間味を感じさせない人形的な冷たさがあって、映画全体のクールな印象をそのイメージで一人背負っていたというような印象。

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キャラクター的には適正者でありながら欠陥を持っていて宇宙に飛べない境遇にある自分と、同じ臭いをヴィンセントに嗅ぎつけ、接近して密かに身元を調べてみるもののジェローム・モローの完璧なプロフィールと出合ってしまって、感情を揺れ動かされるというような存在なんですが、役回りよりもやっぱり画面に出てくる時のイメージの方が突出してたような気がします。

あと脇役なんですが最後で物凄く印象に残る役割となった、いつもヴィンセントの適正検査をやっていた医師(ザンダー・バークレイ)。この人が意外な役回りでラスト近くに良いところをほとんど全部さらっていきます。役回りとしたらかなり美味しい役です。
はっきりとは書かないですけど、この医師がまさかこの場面でこういう言動をとるとは予想してなかったので、わたしの場合はかなり感動的な印象として残ることになりました。

☆ ☆ ☆

この映画は遺伝子を操作されることによって生まれる差別社会というものを描き出していきます。今はまだ遺伝子相手にそこまでコントロールすることは出来ないけれど、何だか将来は本当にこういうことが出来そうな社会が到来するかもしれないっていう部分もあって、現実の差別と引き合わせて考えたりできる部分もあります。

一応映画の中で描かれたテーマは、こういう優生学的な社会では最初からはじき出されてるヴィンセントはもちろんとしても、適応してるジェロームのような人間も必ずしも幸福にはなれないというものだと思います。
それでは人が幸福に生きるというのはどういうことなんだろうと。
ヴィンセントの正体がアイリーンにばれた時にヴィンセントがアイリーンに云う「何が不可能なのか、欠点を探すことばかりに必死になって本当のところが見えなくなってくる、可能性はあるんだ」という言葉に集約されてるんだろうと思います。
欠点を無くしていくことを目指す社会よりも欠点を許容していく社会の方が人はいつも可能性に満ちていて幸福に生きていけるというのが、この映画の云おうとしてることなんでしょう。

ただ、そういう主張はとても納得するものだし、優生学的に優れた種を優遇していく社会などおぞましいだけというのは賛同するにしても、映画の中ではこういう言葉も出てくるんですよね。
ヴィンセントの両親が「神の子」としてヴィンセントを生んだ後、その扱いに困って弟は遺伝子操作の子として生もうと決心して、医者を訪ねる場面。
医者は生まれてくる子供の受精卵からあらゆる劣性遺伝子を取り去っておくというんですが、ヴィンセントの両親はそこまで徹底しなくてもある程度は自然に任せたほうが良いんじゃないかと問い返します。
その時医者は、子供には最高のスタートを切らせてあげなさい。それでなくとも人間は不完全な存在。ハンデは無用なんですと返答します。

わたしは映画が終わった後もこのやりとりが頭の中に残っていて、たしかに欠点を見つめ許容する目こそが人を可能性に導いていくというこの映画が導いていく結末は素晴らしいんだけど、もしも遺伝子を操作することが可能になった時にこの医者の言葉、提案を投げかけられたら、それにうまく反論できるだろうかっていうことも考えました。

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この映画が内包してる差別を巡る様々なあり方は突き詰めていくとかなり重い主題になってしまうんですが、映画のほうはそこまで深刻にならないで欲しいとも云ってるようなところもあります。

今までガタカ社だとか、宇宙開発を行う唯一の企業だとか便宜的に書いてきたけど、実は映画の中ではこの企業?組織?に関しては「ガタカ」っていう名前しか明らかにしようとはしないんですよね。実際のところ社員らしい人間が廊下を歩いたり整然と並んだ机でコンピュータ相手にデスクワークしてる光景は映るんですが、この人たちはここで何をしてるのか全然説明が無い。タイタンに打ち上げる宇宙船だってタイタンに行って何をするのか目的さえも明らかにならない。映画のほぼ全域を占めてる舞台が一体どういうところなのか映画の中で説明する気配さえないという扱いになってます。

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極めつけは最後にヴィンセントが乗り込むことになるタイタン探査船なんですけど、なんと乗組員はスーツ姿で乗り込みます。乗り込んだ宇宙船の中には背もたれ付きのソファがあって乗組員はそこに普通に腰掛けます。船室内部はミラーボールが反射してるような光が踊ってるただの部屋で、まるでカラオケみたいにしか見えません。1997年に作った映画でこの宇宙船の描写は特別の意図でもない限り普通あり得ないです。
映画全体の舞台である「ガタカ」と宇宙船の描写で、この映画は基本部分でリアリティを放棄していて、SFの衣を借りてるだけの社会派的な映画じゃなく、本来的なSF、ファンタジー的なものして観て欲しいと云ってるようにわたしには思えました。

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ヴィンセントとアイリーンが見上げる空に、雲を残して彼方へ飛び立っていく宇宙船の描写はきわめて美しいです。


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''Gattaca'' Trailer [1997]



監督 アンドリュー・ニコル (Andrew Niccol)
原題 Gattaca
公開 1997年


最後まで読んでくださってありがとう御座いました。

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