2011/02/21
【洋画】「トロン」+「トロン:レガシー」についてのいくつかの覚書 +魅惑のベンチ写真 +ファンキー・オルガン・バラード
今これを書いてるのは2月の1日のことで、既に十日経って若干旧聞に属する話題になってしまってるんですが映画「トロン:レガシー」を観にいってきました。観にいってきたのは先月の19日。映画館は三条河原町にあるいつものムービックス京都です。去年から京都駅南側にイオンモールが出来てその最上階に新しいシネコンが稼動し始めてからは、京都での映画館事情はちょっと変化が付け加わりました。このイオンモールではどんなところなのか見物の兼ねて去年の夏頃に「インセプション」を観にいってます。この時の「インセプション」はムービックス京都でも上映してたので、ひょっとしたら今回の「トロン:レガシー」もこの新しい映画館でもかかってたかもと後で思い至ったんですけど、結局馴染みのあるムービックス京都のほうに知らず知らずに足が向いて、今回の「トロン:レガシー」はこっちで観ることになりました。
お正月を結構すぎてたのでお客さんの入りはわたしが観た回では大体30人くらいだったかな。それでもまだ一日に4~5回の上映回数で上映を続けてるようでした。もっとも一日通して上映してるのはこの週が最後で、翌週から一日二回の上映に減ったようでしたけど。

Nikon Coolpix P5100 +Picnik

Nikon Coolpix P5100 +Picnik
ちなみに上映してたのは3D上映の形で特別料金を別に400円取られました。3Dの映画が流行り始めた頃って300円程度の上乗せじゃなかったかな。今回の映画の追加料金が値上がりしてたのは確実で、しかもこの100円程度の値上がりはかなり高くなった印象を与えました。3Dでの表現が本当に必要な映画なんて限られてるし、3D自体も驚きも何もなくメガネかける鬱陶しさの方が先にたつような感じになってきてたからこの追加料金は無駄に払ってしまったと思いの方が強かったです。それに「トロン:レガシー」は全編3Dじゃなくて2Dのシーンも結構混じってたので、ますます400円の値打ちなしと言う感じがしてました
お正月映画をとりあえず何か一本でも観たかったんですよね。でも何を観にいくかはちょっと決めかねてました。お正月映画といいながら時期的にお正月をかなり外して観にいってるのは人が多いところがかなり苦手と言う理由で、どれを見ようか迷っていた結果と言うわけでもなかったんですけど、今年のお正月映画に去年の「アバター」ほどは引きの強いものがなかったのも事実でした。
それで、何を観ようかちょっと考えた結果、一応製作してるというのも以前から知ってたし、前作も見ていて、SF物が結構好きということもあって「トロン:レガシー」を観ることに決定しました。
基本的に映画は見世物的なものと把握してるせいか、SFなんかは結構気を引かれるジャンルになってます。文芸ものとかも嫌いじゃないですけど、空想的で普段の生活だと見ることも出来ないような世界を実際に眼に見える形で見せてくれるのは極めて映画的だと思ってるので、こういうジャンルの映画はちょっとワクワクさせてくれるところがあります。
それに前作は何十年も前の映画で、長い時間が経つ間にあまり話題に上ったこともないと思われるのに、どうして今頃思いついたみたいに続編が作られることになったのか、そのへんの理由も知りたかったし、映画の中に何かヒントでもあるかなとも思ってました。
ところが前作を見てるという条件もあっての「トロン:レガシー」ではあったものの、それでは前作がどんな映画だったのかと振り返ってみても実は前作のことは殆ど覚えてないというのが実際のところでした。綺麗さっぱりわたしの記憶領域から拭い去られてるというか、光の壁を背後に残しながら直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームで出来た巨大艦がゆっくりとスクリーンを横切っていくというイメージが頭に残ってるだけでどんなお話、内容だったのかはさっぱり思い出せない状態。登場してた俳優もジェフ・ブリッジスしか印象に残ってませんでした。
それで連続したものを観るというのにこれではちょっと勿体無い、ひょっとしたら前作と関連付けてる部分が多々あるような新作だったら話の内容さえも理解できないかもしれないと思い、結局新作の「トロン:レガシー」を観にいく前に前作の「トロン」も何十年かぶりに観てみることにしました。前作の「トロン」は今はDVDで簡単に観ることが出来るようになってます。
☆ ☆ ☆
こういう経緯で新しい「トロン:レガシー」を観にいく数日前に、実際に前作の「トロン」を観賞。
見終わった感想というか印象は、直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームの巨大艦しか記憶に残ってなくて、お話の内容がわたしの頭からすっかり抜け落ちてしまってたのも当然のことだったなぁというものでした。忘れてしまっていたせいで、あのイメージしか頭に残ってなかった巨大艦の意味合いとかどういう風に絡んでくる内容だったのかと割と興味津々で見てたんですけど、再見で確認できたのは、トロンのお話は共感するようなところもあまりなく、まるで他人事のように進んでいく極めて退屈なものだったということ。全体に焦点を欠いたような散漫さで、観てる側がどこにポイントを置いていいのか終始はぐらかされてしまうような物語だったということです。そのつまらなさは視覚表現以外のトロンの内容がわたしの記憶から完全に抜け落ちていたことを妙に納得させるものでした。
他人事と言うなら映画の出来事なんてどんな映画も、あらゆる映画はずべて他人事なんですけど、それでも登場人物に同情したり、共感したり、あるいは一緒になって怒ってみたり、反感を覚えたりと、何らかの係わり合いが生まれてきます。でもこの映画はそういう部分が本当に少なかったというのが見終わった後での一番の感想でした。
☆ ☆ ☆
主人公のフリン(ジェフ・ブリッジス)は天才的なプログラマー。エンロン社というIT企業に在籍してその天才的な発想で「スペース・パラノイア」というコンピュータ・ゲームを作り上げていた。ところがある日自分が作り上げていたゲームが誰かに全部盗まれてるのに気づいてしまう。フリンの成果を横取りしたのは新参で凡庸な才能の同僚プログラマーのディリンジャー(デヴィッド・ワーナー)。しかし悪は正されずに、ディリンジャーはその後このフリンから盗んだゲームを足がかりに出世していき、片やフリンのほうは会社を解雇されると言う結果になってしまう。
エンロン社を追われたフリンはゲームセンター「フリンズ」のオーナーとなり、子供たちは「スペース・パラノイア」で大量のお金を落していくものの、その殆どが自分の方には回ってこないと言う境遇に甘んじていた。
フリンは理不尽な境遇から抜け出そうと宅のコンピュータから「スペース・パラノイア」の著作権が自分にあることを証明するデータを探すためにエンロン社のコンピュータをハッキングした。
エンロン社のコンピュータ内部では元はチェスのプログラムだったものが周囲のプログラムを取り入れながらマスター・コントロール・プログラム(MCP)と言う巨大なプログラムに発達していて、これが恐怖政治によってコンピュータ内部の空間を統治するようになっていた。
ディリンジャーはこのMCPと結託してエンロン社での権力を維持していたが、フリンがハッキングしてくることをMCPから聞かされて、全アクセスを遮断する方針を打ち出すことにした。
フリンの同僚のアラン(ブルース・ボックスライトナー)はMCPからも独立してコンピュータ内部を監視できるセキュリティ・プログラム「トロン」を開発していたものの、アクセス制限の影響で開発が出来なくなってしまう。MCPにとっては自分を監視下における「トロン」の存在も気に食わないものの一つだった。
ディリンジャーとMCPによるアクセス遮断の理由が元同僚フリンの進入にあると知ったアランは同じく同僚で物質をデジタルデータに変化させる物質転送ビーム装置の研究をしてるローラとともにフリンに会いにいった。
ゲームセンター「フリンズ」でディリンジャーとフリンの間にあった著作権のいざこざを聞かされた二人は、フリンが社内に残ってるアクセスルートから侵入してその証拠を見つけられるように手助けをすることに決めた。
三人で会社に侵入した後、フリンは再びシステム内部にアクセスしようとした。そのことを知ったMCPは物質転送ビームを使ってフリンをデータ化したあげくコンピュータ内部に取り込んで、中で行われてる命がけのゲームに強制的に参加させることで、フリンを抹殺しようとした。
☆ ☆ ☆
こんな感じで観ている側はフリンとともに物語の本舞台である視覚化されたコンピュータ内部の異世界に導かれていきます。冒頭の語り口はそんなに酷いものではなかったです。プログラムが人の形をして動き回り、直角に曲がるライト・サイクルにのって殺人ゲームをしてるって、にわかに納得しがたい世界のはずなのに、ゲームセンターのゲームと絡めたりしながら、コンピュータの中には小さい人が居てこんな冒険をしてるのが普通だと割りと簡単に思わせてしまいます。でもスムーズに引き込んでいくお話なのに、分かりやすい語り口で語られるそのお話はなぜかちっとも面白くなかったんですね。

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見終わってみて、どうしてここまで心に残らないお話なんだろうってちょっと考えてみました。
まずこのエンロンという会社。「トロン」という映画の現実世界側の舞台になってる会社なんですが、この会社の得体が知れない。何を目的にしてる会社か本当のところ良く分かりません。フリンはゲーム開発で突出したゲームを作り、それを横取りしたディリンジャーが会社の頂点に上り詰めてることからしてわたしとしてはゲーム会社という印象が一番強いんですけど、ディリンジャーが話してるところを見ると30国を相手に防衛システムの取引をしてる国際的な企業らしいです。マイクロソフトだってゲーム作ってるから、べつに世界的なIT企業がゲーム作っていても構わないとはいうものの、この辺はどうもちぐはぐな印象を与えてます。MCPも企業のコンピュータはもう乗っ取るのに飽きてしまって国防省を狙ってるとか、そのうちクレムリンも支配下に置くとか壮大なことを云い出すんですけど、そんなこと云ってる割に、元がゲームのプログラムのせいなのか電脳空間の中でやってることといえば、吸収して不要になったプログラムを集めて殺し合いのゲームしてるだけなんですね。
さらにこの会社はなぜか地下では物質転送ビームなんていう妖しげなものまで研究開発してます。
一言で言うとわたしにはエンロン社にはあまりリアリティが感じられませんでした。物語を成立させるために必要なものを集めてそれっぽい組織にみえるように適当に体裁を整えてみましたという感じに近い気がします。フリンを動かしてる著作権の問題はこのエンロン社の世界がもとになって発生してるわけだから、元になってる世界にリアリティがなければ、主人公の行動原理もまたリアリティが希薄になってくる以外になくなるんじゃないかと思います。
著作権といえば、この物語のきっかけがフリンが横取りされた著作権にあったというのは今度再見してみるまで完全にわたしの記憶から抜け落ちてしまってたもので、こんな動機で動き始める物語だったんだと改めて発見してちょっと吃驚したくらいです。
だって、確かにフリンがコンピュータ内部に入り込むのは著作権が本当は自分にあるということを示すディリンジャーの改変命令とかを探す目的だったにしても、物語の大半を占めるコンピュータ内部の冒険では著作権がどうのこうのって云う話は一切出てこなくなるんだもの。
奪われた著作権の話の代わりに出てくるのは、アランがエンロン社のコンピュータに仕込んだ警備プログラム「トロン」が、圧政を敷くMCPからコンピュータ世界を開放する話で、映画の内容はコンピュータ内部世界が主舞台になると冒頭の展開とは完全に摩り替わってしまいます。結果、映画の大半はこのMCPの元から自由になったトロンがMCPの成敗に向かう話となって、確かにフリンは著作権にまつわる目的を達成するためにはMCPを無効化する以外に方法はないにしても、主役のはずなのにそのうちトロンの行動を補佐するような役回りに変化していくことになります。
この映画で唯一感情移入が出来る人物、自分の作ったものを他人に盗まれて会社から放り出された悔しさといったものを共有して、名誉が回復すればその喜びによってカタルシスが得られるはずだった物語は途中で表舞台から姿を隠しがちになってきます。
☆ ☆ ☆
「トロン」というキャラクターは映画のタイトルにはなってるけど、実は主人公のコンピュータ内部世界での分身という存在ですらなくて、物語の立ち位置は脇役といってもいい存在です。だから主役のジェフ・ブリッジスが補佐に回ってしまいがちになって以降のこの「トロン」という映画は云うならば大活躍する脇役の物語になってるともいえます。
現実世界のアランはフリンが退社してからの事情を知って、同僚とともに回路が閉ざされた会社のコンピュータに別のルートからフリンがアクセスできるようにフリンの手助けをしていきます。だから、コンピュータ内部の出来事も現実と対応していたならアランの分身であるトロンはフリンの行動を補佐する役割になっていたはず。
でも中盤以降中心になっていくコンピュータ内部での物語の要となっていくのはフリンじゃなくてトロンの方なんですね。しかもそのトロンに関しては映画の中では主役に躍り上がったからといってそれ以降では詳しく描かれるかというとそうでもなく、アランが作ったMCPからも独立して監視できるプログラムだということくらいしか説明されないままに放置状態。映画のタイトルになってる割にキャラクター的な内容はほとんど何も描写されてないのと同じくらい印象が薄いです。
トロンがフリンの手助けで殺し合いのゲームの駒にされていた境遇から脱出した後、MCPの追跡を出し抜いて、リアル世界のユーザー、アランと結びつく場所へ趣き、アランからMCPを倒すためのプログラムを受け取るために、ユーザーと繋がる光のビームの中に立って重要な記憶が入ったディスクを頭上高く抱え上げるシーンがあります。このシーンは新作の宣伝でもトロンを代表するイメージとして使われてるくらいのシーンなんですが、そういう映画のイメージを代表しそうなシーンをフリンじゃなくトロンがこなしてる。他にもクライマックスでMCPの手下であるディリンジャーのプログラム人格、ほとんど処刑人といってもいいような「サーク」とディスク・バトルで一騎打ちをするシーンなんかも、著作権を奪われて恨みがあるはずのフリンじゃなくてトロンの方が戦いを挑んでいくような運びになってます。要所要所の見せ場はフリンに対してではなくてトロンのために用意してありました。
要のシーンになると、主人公の友人のプログラム人格がかっこよく決めながら活躍していく展開を観ていて、ジェフ・ブリッジスが主役と思ってみていたわたしの感覚はそのうちに収まるところが見つからなくなってきました。観ていて発見したのは殆ど描写されない人物が大活躍してもやっぱり印象は薄いままなんだということ。これは「トロン」が教えてくれた物語創作上のある種の真実かもしれないです。
トロンという、わたしにはどうみても主役のように見えない人物でも、その人物が展開していく物語に魅力とパワーがあれば、あるいはまた全体の印象は変わったものになっていたかもしれません。でも抑圧されたプログラムの解放という内容はあまり身近な接点をもてるようなものでもなくて、寓意にしてもいささか稚拙なものに終始したままエンディングを迎えたように思えました。
☆ ☆ ☆
それともう一つ。この映画、いわゆる悪役に相当するMCPとディリンジャー、そしてディリンジャーのコンピュータ内部でのプログラム人格である「サーク」にあまり魅力がありません。魅力がないというより何がしたいのか観ていてもなんだかよく分からないから悪役として上手く成立してないという方が当たってるかな。
主人公が悪に立ち向かうというようなシンプルな物語でその悪役に魅力がなかったら映画そのものの成立さえ危なくなってくるところがあると思ってるほうで、極端に云うと主人公は物語を進めるただのコマ扱いであっても悪役のキャラクターさえ立ってたら物語は成立するんじゃないかと考えてます。
そういう点でいくと「トロン」の悪役は全く力不足。
MCPが世界征服なんていうことを口に出しながら、その割りにやってることは大掛かりなコンピュータゲームに過ぎないものばかりというのは上のほうで書きました。他企業のコンピュータを乗っ取った結果コンピュータ内部の世界がどういう風になってるのか、MCPが権力を持つまでの世界とどう変わってしまったのかといったこともほとんど描かれてません。
またコンピュータ内部ではMCPの一番の配下「サーク」となってるディリンジャーも、できるだけ残忍に殺せって言うような指示を出すくらいでそれほど策略をめぐらせるわけでもなく、自分からは動かないMCPの手足になって動いてるだけという印象でした。
それに自分でプログラミングして作り上げてる人格なのに、ディリンジャーはどうしてわざわざ自分からその分身を、MCPに「なかなか残忍になってきたな」と云われて「有難うございます」などと答えるような、こんな馬鹿げた処刑人にしてしまったんだろうって、これもちょっと理解不能な感じがありました。自分で自分の分身をプログラミングできるのに、こんな酷いキャラクター作ってしまう人っておそらくいないでしょう。
MCPが自分から動かない設定だからその手足になって動く、MCPの極悪ささえも肩代わりしてるような悪のキャラクターが必要だったということはなんとなく分かりはするものの、そこまで悪そうにはみえないリアル世界のディリンジャーとサークとは、悪役であるということしか共通項がないような感じになっていて、悪役の造型に適当感がかなり漂ってます。
☆ ☆ ☆
とまあ、久しぶりに観た「トロン」はこんな風にお話はつまらないのが納得できるくらい、適当で、稚拙な印象を与えるものでした。
でもこの映画、お話はこんな体たらくだったんですけど、ビジュアル的には見所が一杯あります。この映画の値打ちはやっぱりコンピュータ世界の描写にあるというのは今回見直して再確認した感じでした。何十年も前に見た時よりもかえって今現在見た方が視覚的には興味深かったとさえいえるかもしれないです。
この映画の異世界構築には今回はじめて知ったんですけどメビウス(jean 'moebius' giraud)が関わってたんですね。映画だと「エイリアン」の初期コンセプトだとか宇宙服のデザイン、「フィフス・エレメント」などの美術に関わった人、本来は漫画家なので「時の支配者」って云うアニメも作った人です。シド・ミードもクレジットされているものの、メビウスは「トロン」では舞台、コスチュームのデザインを担当したそうで、この「トロン」の異世界の雰囲気はメビウスの力の方が大きい感じです。

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技術的に見ると今のコンピュータグラフィックの方がはるかに洗練されてます。トロンが描き出すコンピュータ世界はまるで何十年も前のレトロ・ゲームに見るような世界ではっきり云って稚拙です。でもこの稚拙な世界こそがわたしたちが共有しコンピュータといったときに思い浮かべるような記号的なものに満ち溢れていて、かえってこういう風なシンプルな世界が逆に今見るといかにもコンピュータ的な世界として新鮮に眼に写る感じがします。
広大な空間を予感させる深い闇とハイコントラストの幾何学で作られた異世界といった感じ。質感を与えるための手の込んだテクスチャも貼ってないポリゴンモデルのシンプルで、極めつけにクールなライト・サイクルなどのオブジェクトも含めて、リアルを目指すようないまのCGではあえて発想する人も居ないだろう人工的な世界でもあります。この背景を飲み込んでいくような闇が実に特徴的で、その深さに観ていて夢中になるんですけど、闇が支配するところはプログラムされないものは一切存在しない世界ということなんでしょうね。昔のゲームだって容量が足りないから黒バックっていうのは当たり前にありました。
それとコンピュータ内部の人格の、スーツから露になってるキャラクター部分のビジュアルが荒いモノクロ映像にしてあるのも、今観ても凄く新鮮です。まるで古いドイツ辺りのSF映画を観てるみたい。
この映画を観た当時、コンピュータ・グラフィックで作った映画という売り込み方だったはずですが、実はその意味合いがもうひとつ良く分かりませんでした。手で描くのとどう違うのかとかとか。今は3DCGソフトを触ることもあるので違いは大体分かるようにはなって、そういう意味でもわたしにとっては面白いビジュアル表現でした。実はコンピュータ・グラフィック映画といいながら、手書きで凌いでるところも結構あるんですよね。
☆ ☆ ☆
久しぶりに映画のことを書こうとしたら、ちょっと息切れ気味。なのでここらで一度休憩。

Wide Lens Camera : Kodak Ektar 100 +Photoshop : CanoScan 8600f
なぜかは知らないけど、ベンチを見ると撮ってみたくなってます。
これは動物園に持っていったロケン・ロールなカメラ、Wide Lens Camera にコダックの感度100のフィルムを詰めたのをつれて、今年のお正月過ぎに白川疎水道を歩いた時に撮ったものの一枚。
ということで、ベンチで一休みした後さらに続けます。
☆ ☆ ☆
さてそこで、今回の続編「トロン:レガシー」のお話です。
お話の発端はなかなか魅力的な展開で始まります。
時代はフリンが前作のコンピュータ内部の冒険から再びリアル・ワールドに戻って、暫く後のこと。フリンがベッドにいる息子サム(ギャレット・ヘドランド)にトロンとともに体験した冒険について語ってるシーンで映画は幕を開けます。ライト・サイクルで戦ったり、トロンがディスク・バトルで活躍した話など。この辺りは観ている側への説明にもなっていて、観客はサムの視線となって一緒にフリンの話に耳を傾けるようになるはず。
フリンの話は前作の冒険から帰って以降のことにも続いていきます。前回の冒険の後でアランとともにコンピュータ内部、この映画では「グリッド」と称してましたが、そのグリッドに自由に出入りするようになって、でも常時グリッドにいるわけには行かないからそれぞれの分身を、フリンの場合はクルー、前作で最初のハッキングで著作権のファイルを探す命令を受けて探索中に、MCPに捕らえられ抹殺されたフリンのコンピュータ内の人格のクルー、そしてアランは分身トロンを立てて、4人で協力してこのコンピュータ内部の世界を完璧な世界、ある種のユートピアとして作り上げようとしてると息子に語っていきます。そして、そうやってグリッドに完璧な世界を作り上げようとしていた時に、奇蹟が起きたと。
それまで熱心に聞いていたサムは奇蹟って何が起こったのかフリンに尋ねるんですが、フリンはその話はまた今度といってその日のお話を終えてしまいます。その後もっと話を聞きたそうな息子を残してまだ仕事があるからとフリンはバイクで自宅を後にします。バイクで暗闇の中に去っていくフリンと父を窓越しに見送る息子サム。しかしフリンは闇の中へ去ったきり、息子への話も中断したままで、会社の誰にも何も告げずにどこかへ失踪してしまいます。
その後時代は一気に現代へ。青年になったフリンは会社の所有者ではあるものの、失踪したまま行方不明になった父の考えなど無視して進むエンロン社のやり方に馴染めずに会社にいたずらを仕掛けるような屈折した生活を送っています。そんな時20年ぶりくらいに父からポケベルの信号が入ってきたとアランに告げられ、父が経営していて今は廃墟となってるゲームセンター「フリンズ」に趣くことになります。
廃墟と化した「フリンズ」の中を調べてるうちにサムは父のシークレット・ルームを発見。その秘密の部屋のなかには埃を被ったコンピュータがあって、そのコンピュータにアクセスしたサムはそのままコンピュータ内部の世界に転送されてしまいます。
なぜフリンは失踪したのか。観客はどういう映画か知ってみてるからフリンが行った先はある程度予想はつくものの、どうして20年以上も行ったままで連絡しなかったのか、また20年以上も連絡してこなかったのになぜ急にポケベルを使って信号を送ってきたのか。サムにとってはベッドに入って父に聞かされた時からそのまま謎で終わってしまってる、グリッドを理想の世界に作り上げようとしていた時に父が出会った奇蹟とは一体何だったのか。
この辺りのことが謎めいた要素としてちりばめられていて、物語の導入はかなり魅力的でした。どうなるのか知りたくなるような伏線を張りまくって、先を知りたいと思う観客の心をつかんで引っ張っていきます。ポケベルの連絡に導かれてサムが開くゲームセンター「フリンズ」の廃墟も、最近廃墟付いてるわたしにはかなり魅力的でした。前作と殆ど同じ雰囲気のゲーム・センターとして再現されていて、前作で子供たちで賑わっていた光景を知ってると、蜘蛛の巣だらけで人も気配も途絶えて久しいフリンズの光景は対比が効いて廃墟愛好の感性を刺激します。何かが起こりそうな気配も濃厚にあってなかなか楽しいです。
コンピュータ内部に転送されたフリンは放り込まれたグリッドで途方にくれていると、空から降りてきた、門のような形をした巨大飛行物体レコグナイザーに捕らえられて、そのままわけも分からずにゲームの戦闘員に仕立て上げられてしまいます。レコグナイザーも前作で出てきたのを直ぐに思い浮かべるようなデザインで、前作を見ていれば馴染みの世界に帰って来たような感慨を覚えるかもしれません。
この後は事情も分からないサムが分からないままにゲームの対決に巻き込まれていく展開で、分けが分からないのは観客も同じだからサムと同調して、この世界を始めて見る感覚で周囲で巻き起こる出来事に入り込んでいくことになるんでしょう。
いきなり事情も知らせずに始まるバトル・ゲームはディスク・バトルとライト・サイクルのゲームでこれは「トロン」の方にも出てきました。この部分も前作を知ってる人には現在の事情は分からないにしても、再びあの世界に戻ってきたとワクワクする人も多いんじゃないかと思います。
わたしも、なぜ自分が戦わなければならないのか、対戦相手は一体何者なのか、とにかく何も分からない状態でゲームに巻き込まれたサムが、その事態から逃れようと必死になって行動する様子を、サムの心情にシンクロしながら見てました。ディスク・バトルは前作のクライマックスだったのに、今回はグリッド世界が画面に出てきた序盤で早くも使われてるし、ライト・サイクルによるバトルは「トロン」で一番印象に残るシーンでもあったから、「トロン:レガシー」は序盤から結構ハイ・テンションで飛ばしてる映画という印象でした。
☆ ☆ ☆
でも確かに「トロン」とは比べ物にならないくらいパワー・アップしてるし、華麗なアクションを見せてくれるからそれなりにのめりこんで観ていられるんですけど、前作の設定をふんだんに盛り込んでる割に、わたしの場合は観てるうちになんだかこれは本当に{トロン」の世界なのかな?という違和感が出てきたんですね。

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ディスク・バトルの相手がまるで戦隊物の悪役のように妙な決めのポーズを取ったりするのもちょっと違和感があったものの、極めつけはその後のライト・サイクルでのバトル・シーンでライト・サイクルが直角に曲がらなかったこと、これが大きかった。バトルフィールドが「トロン」の格子状の平面から上下に段差のある立体構造に変わってライト・サイクルの動きが立体感を持ったのは新機軸だったんですけど、ライト・サイクルが普通にカーブを描いて曲がるものになっていて、これがものすごい期待外れ感を与えました。光の帯を後ろにひいて、その壁に追突するとクラッシュするというゲームの設定まで同じなのに、ライト・サイクルの挙動は普通の世界のリアルさが導入されて普通にバイクが曲がるように方向を変えます。ライト・サイクルが直角に曲がるのはまさしくトロンにしか出てこないシーンだったので、ライト・サイクルが直角に曲がらない設定はそれだけでここが「トロン」の世界じゃないと明言してるようなものに思えました。
これ以降のグリッド内部の描写全体にもいえることなんですが、「トロン:レガシー」は現在のコンピュータ・グラフィック技術を駆使して、派手な動きも含めてグリッド内部を極めてリアルな存在感を持つような世界として描いてます。ライト・サイクルの動きもライト・サイクル・バトル全体の質感をリアルに作り上げる段階で直角に曲がることのリアリティのなさが浮き上がってしまったんだと思います。でもこの方向は「トロン」という映画の世界を作り上げていくのにはあまり相応しい方向じゃないとわたしには思えました。
端的に云うならば「トロン」は奇想が支配する世界です。そして「トロン:レガシー」では最新の映像技術を駆使してその奇想の世界をとにかくリアルに、ライト・サイクルなら本当に光の帯を後ろにたなびかせて走ってると信じ込ませるくらいに現実感のあるものとして作り上げようとしてました。
誰も観たことがない世界を見える世界に具体化させるというのは、映画の持つ利点であって、そういうことを実現させる技術はたとえば龍がすむようなファンタジー世界をリアルに構築するような場合にはものすごく有用な武器になると思います。だからこういった他のファンタジー、SF映画と同じように「トロン:レガシー」もその世界に圧倒的な存在感を与えるために最新技術をつぎ込んでいたんでしょう。
結果、映画の中には本当に人間が住んでる世界のようにリアルなグリッド空間が出来上がってます。でもこの異世界をあまりにもリアルに描こうとしたせいで、「トロン:レガシー」はグリッドがどんなに奇想の世界であっても、どこか人間が生きてるリアルな世界の延長上に、気が遠くなるほど離れたところであっても必ず人が住めるような馴染みのある世界とどこかでリンクして繋がってる世界という印象を与えることになってるんですね。
逆に「トロン」の時のコンピュータ内部に広がっていた世界は人が住めるようなリアルさを持った世界とは全く次元が違うところに成立したような奇想の世界でした。新作の「トロン:レガシー」はこの次元が違うような異世界といったニュアンスを、異世界であってもリアルな世界という形で作り上げる方向に進んだために希薄にしてしまってるようにわたしには見えました。
言い換えてみると、どれほど奇妙に見えようともわたしたちが住んでる世界と似たような法則で動いてると思わせる世界と、わたしたちが住んでる世界とはまったく別の原理で成立してるとしか思えない世界の違い。「トロン:レガシー」と「トロン」の間には同じ映画の同じグリッド空間を扱いながら、表現手段の進化によって思いもよらないような形でこういう違いが出てきてたように思えます。
これまで書いてきたことからわたしがどちらが面白いと思ったかはいうまでもないことかもしれません。でもあえて云ってしまうとわたしはこの映画に限っては最新技術で作り上げた世界よりも昔の「トロン」のビジュアルの方が興味深かったです。「トロン」の場合は意図してる部分もあったのと同じくらい、当時の技術的な限界でああいう形になったところも多かったと思います。でもどこまで意図できたか、どこが時代の技術的な制約が生み出したものだったのかは別にしても、結果としてあの古いSF映画とシンプルでプリミティブなレトロ・ゲームが混在してるような手触りの世界の方が独自のイメージ世界を作っていたんじゃないかと思います。
ひょっとしたら「トロン:レガシー」のスタッフもレトロ・ゲーム的なイメージの世界をもう一度作りたかったかもしれませんが、現在において「トロン」と同じような感触を持つ世界を作るのはちょっと時代錯誤的で難しかったんだろうなぁって云うのも何となく想像できました。レトロ・ゲーム的なイメージの方が直接的にコンピュータ内部の世界というのを思い起こさせるものの、今やってしまうとやっぱりいつの時代の映画?って云う風になってしまいそうです。
考えてみると物語はくだらなかったけど、「トロン」ってあの時代を逃すと絶対に作れなかった映画なのかもしれませんね。
☆ ☆ ☆
「トロン:レガシー」の前半の展開は謎とアクションのハイテンションでそれなりに面白かったものの、この後謎の女クオラ(オリヴィア・ワイルド)に助けられ連れて行かれた先で父フリンと再会する頃からは、言葉に頼って動きが少ない展開が多くなってくるからなのか、前半のアクションを積み重ねていく展開に比べると、背景が次第に明らかになってフリンやサムたちの行動の目標が定まってくる後半は、わたしには映画が一気にトーンダウンしたような感じになりました。
サムがクオラ連れてこられたところは「2001年」のホワイト・ルーム風のフリンの隠れ家。これは冷たい光に照らされて割とかっこいい部屋でした。
フリンはその隠れ家でサムを食事に誘い、再会した息子サムに失踪した後のグリッドでの出来事についてどういうことが起こって、なぜ帰れなくなったのかといったことを話し聞かせます。
完璧なユートピアを作り上げようとしていた時に、ある日グリッドの中でデジタルDNAを持った生命体「アイソー」が生まれることになった。ところが完璧な世界を作るようにフリンにプログラムされていたクルーにはその生命体はコントロール下に置かれない不完全な存在、グリッドの内部に発生したウィルスとしか見えず、アイソーをグリッドから抹殺するために、アイソーを評価するフリンたちに対して反乱を起こしたということ。その結果グリッドはMCPが支配していたような世界に逆戻り、支配者はMCPからクルーに代わってグリッドは完璧な世界の実現という観念によって抑圧された世界になってると。
この部分がまずトーンダウンの始まり。
冒頭のベッドで父の話を聞くのと同じ構図で、観客はこの話で後半の物語世界の事情をサムとともに理解できるようになってるんですね。でもこの説明はグリッドという特殊な世界で使われる言葉が出てくるせいなのか、一度聞いただけではどうも理解しがたいし、上に書いたような言葉で展開する動きの少ない場面になってしまって結構だれてしまう感じでした。別に難しい話をきいてるわけでもなく、どちらかというとコミックのような話を聞いてるだけなのになんだか妙に理解しがたいという居心地のわるい展開。こちらが住んでる世界とは全く違う世界なので映画のどこかで説明するのは不可避なんですけど、一挙に言葉で説明されるとなんだか話について行くのが精一杯という感じになってました。
サムがフリンと再会してグリッドの事情が分かって以後のお話の展開は、もとはフリンの分身で、一緒になって理想の世界を作り上げる仲間だった「クルー」がコンピュータ内部を圧政下におくだけではなくて、リアルな世界へも侵出して、リアルな世界も自分に命じられた使命どおりに完璧な世界に作り変えようという風に野望を拡大していたために、フリンらがその野望を阻止するべく行動するというような形で進んでいきます。
前作の悪役MCPが結局コンピュータ内部から出る気がなかったのに比べると、今度の悪役クルーは積極的にリアル世界に出ていこうとするアグレッシブなところがあります。でもそういう違いがあっても正直なところ物語そのものはやっぱり前作同様に大した話じゃなかったという印象は強いです。
複雑でもないエピソードが単純に数珠繋ぎされて、それなりの緊張感は維持されてはいるものの、陰影も乏しくゴールまでそつなく連なってるような感じ。またクルーの率いる軍隊が現実世界に出ていく前に、リアル世界に通じるゲートに向かうという物語の枠組みは「トロン」のお話と殆ど一緒で、どうなっていくのかワクワクしてみてるよりもわたしにはなんだか代わり映えしないお話を見てるという気分が強くなってきてました。
「トロン:レガシー」のなかでこの反乱者「クルー」が体現していた物語は完璧な世界を目指してその実現のために世界中に圧政を敷くということで、これはなんだか共産主義を戯画化してるように見えなくもないものの、クルーの描写にはたとえばびっしりと並んだ兵士の前で高い段のうえから檄を飛ばすといった独裁者的なものとしては極めてありきたりなイメージも躊躇いもなく使って、寓意としては「トロン」同様に稚拙といった印象を出るものではなかったです。何よりもこれ、ディズニー映画だし、そんなテーマで考え込ませるような映画でもなかったと思います。
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「トロン:レガシー」はいろんな要素が絡み合って、父と息子が20年ぶりに再会するという本来なら盛り上がるはずのドラマらしいドラマが始まるころから映画全体がなんだか失速してしまうような、考えてみればある意味結構珍しい映画といえないこともない映画になってしまってます。
ドラマ的なテーマで云うと、当然この主役であるフリンとサムの親子愛がメインになってるんですけど、このテーマはそれほど際立った印象を残しません。わだかまりが残るような別れ方をしたのではないにしても、サムの方には理由もなく放置され、一番大切な人なのに何も連絡してこないままに捨てられてしまったような気持ちは絶対にあっただろうと思うのに、20数年ぶりに再会し、2,3の言葉を交わしただけですべて水に流してしまいます。感情的な齟齬があったとしても再び出会っただけですべて霧消してしまうのは親子であったからこそともいえるんですが、基本アクション映画だったからなのか、こういうところはやっぱりあっさりと流しすぎてるようにみえました。
奇をてらった展開をするわけでもないので、印象としてはこの親子関係は殆ど描かれずに終わったような感じを受けます。でも良く観てると細かいニュアンスとしては、脚本というよりもジェフ・ブリッジスやギャレット・ヘドランドの雰囲気や表情、話し方なんかで、二人の共有できなかった時間を取り戻そうという心のあり方は意外と描かれてているところもあって、描かれはしてるんだけど、周囲の特殊な世界やエキセントリックな人間設定の中でいささか埋没気味になってるといったような感じでした。
わたしとしては印象として残るというか、あとになって心に引っかかりを残していったのは、この親子の話じゃなくて、クルーやアランのほうだったかもしれません。
クルーは完璧な世界を作るという命令をプログラミングされてるわけだから、自らの存在意義にしたがって行動してるだけで、行動自体に非難されるところは本当はないんですね。それが反乱と見做され、最後の方では生みの親であるフリンから完全なものなど世界中探しても本当はどこにもないもの、完璧な世界を作り上げるようにクルーを作ったのは自分の間違いだったみたいなことを言われてしまいます。これ、クルーの存在の完全否定です。完全に敵対してるように見えても、フリンの隠れ家を発見して乗り込んだときの態度からみると、愛憎入り乱れて複雑な感情になってるのも見受けられるので、そんな複雑な感情を抱いている生みの親からこんな救いようのないことを、しかもすまなかったと謝罪まで付け加えて言われたときのクルーの心情を察すると、なんだか同情して余りあるというような気分になってしまいました。
それとアラン。映画のタイトルにもなってるトロンの製作者であるにもかかわらず、「トロン:レガシー」でもサムがグリッドに入る前の序盤とグリッドから現実世界に戻ってきた後のラストシーンにしか登場しないという相変わらずな扱いになってる人物。でもこんな扱いだったのに、この人が20年近く理由も告げずに失踪している友人に今も友情を持ち続けている姿で登場してくるのが、何だか観ていてグッときました。何気にかっこいいです。
もう一人、肝心のトロンの扱いはというと、ひょっとしたらこの人物の扱いが一番ひどかったんじゃないかなぁという有様でした。
「トロン:レガシー」を見終わった後で、結局トロンってなんだったの?とかトロンってどこに出てた?とか疑問に悩まされる人が大量に出てたんじゃないかと思います。
実はこの映画の中でトロンは違う名前で出てきてるんですよね。しかも黒尽くめに最後まで覆面ヘルメットを装着してるからヘルメットの下にどんな顔があるのかもさっぱり分からない状態で。
フリンがサムにグリッドの中で何が起こったのか説明するシーンの過去の回想場面でトロンがプログラム人格としてフリンに同行してるシーンがあって、そのシーンを覚えてるか前作を観てる人はトロンがクルーのような人格を持ったプログラムだと分かるんですけど、シーンとしてはそれほど長くないし、しかも途切れなく話されるフリンの回想の中に出てくるシーンの一つで、あまり印象に残るようなものでもありません。あとは「トロン」の名前すらもクライマックス近くまで出てこなくなります。
この辺りを注意散漫になって観ていた人のなかには、トロンが映画に出てきてる人物のどの人のことなのかはおろか、プログラム人格だということさえ分からないままに映画が終わってしまった人がいるかもしれません。
トロンが最後にどういう結末を迎えるかは書かないにしても、ちょっとかっこいい終わり方だったので、なおのことこのぞんざいな扱いは不憫でした。
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このニ作を振り返ってみると、全体としては、主役級の人物がどういう意図のもとにあるのか分からないけど、とにかく理不尽に冷遇されるとても不思議な映画だということ。最新作の「トロン:レガシー」に関しては最新技術を駆使したためにかえって想像力にブレーキがかかってしまった映画だったと、こんな風にいえるかもしれません。
そこで次作があるとすればわたしとしてはぜひ主役が主役として屈託なく活躍できる「トロン」を1作でいいからぜひとも作ってほしいということと、ライト・サイクルは直角に曲がれるように再び調整しなおしておいてほしいということ、こういうのを実現した映画を作ってほしいなぁと思ってます。
それで、最初に書いた疑問、なせ今になって続編を作る気になったのかということなんですが、新作の「トロン:レガシー」を観たからといって分かるわけもなかったです。
でも予習で観た前作の「トロン」の最初の方、ジェフ・ブリッジスがエンロン社にハッキングするところで漢字が書いてある法被を着てたのを観て、わたしは「ローズ・イン・タイドランド」で落ち目のロックスターを演じたジェフ・ブリッジスが同じく日本語、確か「ことぶき」だったと思うけど、そういう法被を着ていたのを思いだしました。「トロン」のこのシーンを見ていてひょっとしたらテリー・ギリアムは「タイドランド」で「トロン」へのオマージュみたいのことをやったのかなぁって頭をよぎって、だから意外と「トロン」が好きな人って世界には存在していて、続編ができるのを心待ちにしてたのかもしれないって思いました。
肝心の「トロン:レガシー」ではジェフ・ブリッジスは「トロン」のフリンと地続きのキャラクターを演じてはいたものの、着ている服はインド風というか新興宗教がユニホームで使ってそうなものでした。本家が前作をリスペクトしないでどうすると一言いいたくなってくる感じ。「トロン:レガシー」でグリッドの隠れ家から姿を現したフリンが日本語を書いた法被を羽織って登場してくれたら、「トロン:レガシー」へのわたしの好感度はかなり跳ね上がってたかもしれません。
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Tron - Trailer
Tron Legacy - Trailer
☆Tron
監督
スティーブン・リズバーガー
出演
ジェフ・ブリッジス
ブルース・ボックスライトナー
デビッド・ワーナー
☆Tron : Legacy
監督
ジョセフ・コシンスキー
出演
ジェフ・ブリッジス
ギャレット・ヘドランド
ブルース・ボックスライトナー
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Young and Foolish - Richard 'Groove' Holmes
ファンキー・オルガン奏者、リチャード’グルーヴ’ホルムズのアルバム「Night Glider」に入っていた曲。
わたしはこの人はジミー・マクグリフという同じくファンキーなオルガン奏者のバンドと共演したアルバム「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」が好きで良く聴いてました。オルガンって昔はハードロックに割と使われてたりしてわたしとしては馴染みがあった楽器。最近はクラブとか中心にオルガン・ファンク・バンドがメジャー扱いになってはいるものの、やっぱりオルガンって云うのはピアノのようにはなれなくていつの時代も傍流の楽器という扱いだったと思います。このリチャード’グルーヴ’ホルムズなんかはジミー・スミスなどのように、その活動を通して70年代頃からそういう傍流の楽器であるオルガンが傍流のまま廃れてしまわないように尽力をつくした人でした。ひょっとしたらこの人たちの活動がなかったら今のジャズ・ファンクのようなメジャーなオルガン・サウンドって聴けない時代になってたかもしれません。
「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」は別にしても、わたしが聴いた範囲ではそれほどどす黒いファンクでもなくて、ちょっと風通しのいいファンクといった印象です。意外と黒っぽい曲以外のものでもファンキーなタッチを織り交ぜてこなしてしまう人で、代表的なものでは、エロール・ガーナーの「ミスティ」のカバーがありました。これで結構なヒットを飛ばしてます。
「Young and Foolish」はスタンダード曲。50年代のミュージカル「Plain and Fancy.」で使われたAlbert Hagueの曲。
ホルムズはオルガン独特の、なんというかニワトリ奏法とでも云うかそんなテクニックなんかを駆使して、多彩なオルガンの音色を効果的に使いながら、情感を一杯込めて弾いてます。
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