【洋画】「欲望」に関する覚書 -絶対的孤独に関する映画- +街を往く写真たち +歌声は魂にまで届く

この前の記事でNikonの一眼レフカメラを買ってこの写真家と同じ環境になったと書いていた、その写真家が登場したミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画「欲望」。最初に観たのは随分と昔のことになるんですが、この記事を書くのにDVDを引っ張り出してまた見直したりもしてたので、せっかく見たんだからこの映画についてもちょっと書いてみようかなと思い立ちました。
前回の書き様からわたしがこの映画を観たのは登場する写真家に興味があったからと云う印象になっていたかもしれませんが、実は最初にこの映画を観ようと思ったきっかけはこの「欲望」という映画に伝説のロックグループ、ヤードバーズが出ているというのを知ったからでした。音楽好きの人の間ではこの映画はミケランジェロ・アントニオーニの映画というよりもまず先に、このグループがライブ演奏してるところを見られる映画という風に受け取ってる人が多いかもしれないというところがあって、わたしにもそういう感じの映画として捉えてました。
映画が製作されたのは1966年、音楽シーンではビートルズが世界中を席捲していた頃のことです。ヤードバーズは実際の演奏よりもどちらかというと後にロックの三大ギタリストとなる、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックの三人を輩出したバンドとしての存在の方が有名だったりします。
この映画でヤードバーズのライブは、主人公の写真家が謎の女を街中で見かけ、その女を追いかけるように夜のロンドンの街を駆け回ったあげくに、ビルの合間にあるような路地の果てのライブハウスに紛れ込んだところから始まります。
「欲望」が製作された時のメンバー構成だったのか映画に出てくるヤードバーズはジェフ・ベックとジミー・ペイジのツイン・リード・ギターの編成になってます。後にレッド・ツェッペリンを結成して勢力をふるうことになるジミー・ペイジもこの時は云われないと分からないくらい新人然としていて、結構控えめな印象の演奏に終始してる様子。ジェフ・ベックは演奏が始まってまもなく、アンプの調子が悪いのに切れてしまってギターをアンプや床に叩きつけて破壊してしまうので、ツイン・リードのギターは云うほどには聴けない演奏なんですが、それでも今となってはちょっと物珍しいライブを見ることが出来るようになってました。ミケランジェロ・アントニオーニって他の映画、「砂丘」なんかでもピンク・フロイドを使ったりして結構こういうロックシーンの音楽が好きだったんじゃないかと思います。ちなみにこの映画の全体の音楽はハービー・ハンコックが担当してるんですが、映画そのものは映画を効果的に盛り上げる道具として音楽を使うでもなくどちらかというと音のない世界に向かって加速度的に突き進んでいくような、殆ど無音にちかい静寂に満ちたものだったので、ハンコックの音楽もあまり印象には残らなかったです。もともと音楽のない映画として構想されていたところにたまたま監督がハンコックの音楽を聴いて気に入ってしまい、起用することになったとか。だから最終的に無音の世界を開示してしまう映画に若干の彩を与える程度の印象になってるのも仕方ないのかもしれません。

それと、わたしがこの映画を観たきっかけにもう一つ、ポスターのかっこよさがありました。

欲望のポスター
Canon PowerShot A710 IS

こういうポスターです。わたしがたまに行く中古DVD、CDショップにも飾られていて、ちょっと色あせてるような感じになってるけど、強烈な赤をバックにカメラマンとモデルの印象的な絡み合いのポーズが大胆に配置されてます。ここがこうなってるからかっこいいんだとかいった理由に言葉を費やさなくても一目見ただけで分かるかっこよさがありますね。このモダンでスタイリッシュで鮮烈な印象のポスターは映画の内容に期待感を寄せる要因となるもので満ちてるようにわたしには見えました。ちなみにこの有名な絡み合うシーンは実際に映画の中に意外と早いタイミングで出てきたりします。

こんな感じでわたしにとっては映画「欲望」はヤードバーズと美術、それとカメラマンが繰り拡げる世界ということで当時のファッションの生きて動いてるところが見られるというようなことが関心の対象になって観た映画だったわけです。映画そのものとしての印象はどうだったかというと、実はあまりぱっとしたものでもなく、一言で云えば意味不明、サスペンス・スリラー風の進行に沿って観てはいたものの、結局何だかよく分からないうちに終わってしまったなぁといったものでした。これは観るポイントが必ずしも映画そのものの上になかったといったことが理由というよりも、映画そのものとして観ていたとしてもおそらく印象は変わらなかったと思います。

☆ ☆ ☆

誰もが撮られることを熱望する売れっ子の写真家トーマス(デヴィッド・へミングス)、彼は多数のモデルを使ってファッション写真を撮り、スタジオで暴君のように振舞って過ごす合間に、底辺労働者の住み込んでる安宿にぼろぼろの服を着て潜入しては作品としての写真を撮るようなことを繰り返して日々を過ごしている。その生活は労働者の目から離れた場所に行くとぼろぼろの服を着たまま隠していた高級車に乗ってスタジオに戻るようなメリハリの利いた生活ではあったが、選り取りみどりの女たちに囲まれた日常は女にはもう飽きたと云わせるくらいにトーマスを退屈にもさせていた。

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退屈を紛らわせるかのように車を走らせ公園に立ち寄ったトーマスはそこでジェーンという女(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)が中年の男と逢引している現場に出くわす。女も男も知らない人間だったが好奇心を募らせてトーマスはその二人が逢引している様子を写真に収めることにした。木陰から密かに撮っていたもののやがて女にその行為を気づかれ、男はどこかに立ち去ってしまったけれど、近づいてきたジェーンからは写真を渡せと執拗に迫られた。その場は何とか切り抜けてスタジオに戻ったもののジェーンはスタジオを探り当てて写真を取り返しにやってくる。
ネガを渡してくれというジェーンと駆け引きのようなことを重ねた後でトーマスは違うネガを渡してジェーンをスタジオから追い出した。
その後公園で撮った逢引の写真を現像、出来上がった写真を眺めてるうちに、トーマスはその写真の一部に木陰から二人に向けられた銃口が写っているのに気づくことになる。気になるところを見つけてしまったトーマスはさらに写真を何度も拡大し、拡大した印画紙を次々と壁に並べて貼り付けていろいろ比較しながら調べてるうちに、さらに今度は死体らしきものが木陰の地面に横たわっているのを発見した。極端に拡大したために極めて粒子の粗い写真になってはいるが、まさしく人が横たわってるのを確認できるような写真だった。この発見に驚いたトーマスは夜ではあったが即座に公園に確認に行く。そして人気のない夜の公園の木陰で隠れるようにして本当に死体が横たわっているのを発見した。
死体を見た後スタジオに戻ってみると壁に貼っておいた公園の写真やスタジオにおいてあったフィルムのすべてが何者かによって持ち去られているのに気づく。トーマスは力を借りるために友人の編集者ロンのところへことにした。
ロンの家に行く途中夜のロンドンの街の中を車で走っていてトーマスは雑踏の中にジェーンを見つけたと思ったが、直ぐに見失ってしまった。ロックのライブハウスなどを巡りながらロンの家についてみると、そこはマリファナ・パーティの真っ最中で、殺人を見たといっても薬が回ってしまってるロンは結局あまり相手にしてくれなかった。
やがてロンの家のベッドで眠りについてしまい、気がつけば既に夜が明けていた。トーマスは一人でもう一度公園で見つけた死体を確認しようと出かけるが、昨日の夜に見つけた死体は跡形もなく消え去っていた。

☆ ☆ ☆

とまぁこの映画の物語を要約してみたものの、実はこの映画にはストーリーらしいストーリーってほとんどあってないようなものなんですね。
ストーリーといえそうなものは展開から言えば死体を発見して後で見にいったらなぜか消えていたというくらいのもの。内容的には関わりがあった女も殺された相手方らしい男も観客にとってはもちろん主人公のトーマスにとっても最後まで素性は分からないまま映画は終わってしまうし、二人がどういう関係にあってその関係の中に殺人に発展する何があったとかいったことも全く映画では描写されません。死体も最後に消えてしまったきりでこれでこの件はお終いとでも云いたげに、映画はそのまま謎めいた、でもかなり魅力的なテニスコートのラストシーンに向けて急速に収斂していきます。物語という観点では新聞で読む今日の出来事といったようなものの方がまだよっぽど物語的に把握できて事件の内容にも精通できるんじゃないかと思うくらいです。
物語は主人公のカメラマンとは直接的には関係のない人物の間で起こり、カメラマンには謎の女からネガを渡して欲しいと云われるくらいしか係わり合いを持ってこないような類のものなので、ストーリー的な意味合いを持って主人公にはほとんど絡んできません。もちろん観てる側も主人公を介在させてみてるわけだから主人公と同じように傍観者的な位置からしか物語を眺める他なくなってきます。しかも極めて薄い関係でしかないけれど一応主人公に物語が絡み始めるきっかけになる公園での盗撮するシーンは映画開始から30分近く経った頃にようやく現れるうえに、事が動き出すフィルムの中に死体を発見するシーンは後半に入ってからでそこからラスト近くの死体消失まではあっという間、公園に行くまでの前半部分や現像するシーンまでの間は写真家の若くして成功した怖いもの無しの傲慢な日常を描写するのに集中して、ストーリー側面から見ると殆ど関係しない無駄な描写ばかりのように見えるかなり冗長なものになっていました。
おまけにここでは資料にトーマスとかジェーンとか名前が出てるからそれにしたがって書いてますけど、見直した感じではこの主要な登場人物でさえも映画の中では個別の人格を司るような名前を最後まであてがわれてなかった様子。名前はその人物を表わすかなり重要な要因なので、こういう部分は物語はおろかその物語を形作る根幹部分である人を描くことをもそれほど重要視していないというのを暗に指し示してるんじゃないかと思いました。

だからこの映画はやっぱり謎の男女の逢引シーンから束の間の死体出現と消失というサスペンス・スリラーもどきの収拾もつかないストーリーを追って見てると確実にはぐらかされてしまうなぁと云うのが今回見直しても思ったことでした。
この映画の場合、「欲望」という映画を2時間ほど映像を繋いだ唯の映像集ではなくて、映画として成立させてるというか秩序立てて映画の形にしてるものは、ストーリーじゃなくて、テーマなんですよね。まぁストーリーが秩序立てている映画でもテーマがあるならその中に含まれてはいるんだけど、「欲望」の場合はテーマを載せるのにストーリーをあまり利用していないという感じがします。あるテーマに沿ってそれを具現化してるようなエピソードを積み重ねていくという作り方で、ストーリーは最大限にそのテーマを表わしてはいるものの、映画全体を代表するようなものではなく、テーマを具現化してるエピソードの一つという扱い。こういう扱いだから結果として映画全体を見ると、テーマに沿ってはいるもののメインのストーリーとはあまり関係のないシーンが一杯出てくることになります。ストーリーから見ると余計なシーンが一杯あって何だこれはということになるんですけど、テーマの個別的な展開という面では見事に一つの映画として纏まってるというようなちょっと珍しい映画のようにわたしには思えました。

☆ ☆ ☆

それではこの映画が展開しようとしたテーマってなんだったのか。
後半部分の映画を運んでいくストーリー、謎の男女の逢引から銃口は発見されるも銃声の一つもしない、意図のよく分からない殺人と死体発見、一夜にして理由もなく死体が消えてしまうという出来事で展開されるのは、人が世界を認識するということは一体どういうことなのかといったテーマだったんだろうと思います。殺人事件は盗撮写真をブロウ・アップ(引き伸ばし)していく過程でトーマスが発見し、夜の公園でトーマスだけが死体を発見するのにすぎないことで、隣家の好意を寄せている女性に写真を見せても拡大を重ねて極端に粒子が粗くなった写真は同居する抽象画家が描く得体の知れない絵のようだとしか云われません。いわば事件はトーマスだけが目撃したことといってもいいような出来事で、そこから映画が投げかけてくる疑問はたった一人で認識したものは本当に客観的に存在したものといえるのかということじゃないかと思います。たった一人で認識したものは実は存在するとは云えず、それが存在するためには複数の人間が認識しその認識したことを共有しなければならないのではないかと。
そして映画はさらにその延長上で、たとえば現場を写したのかもしれない写真が消滅してしまうとか、当の唯一係わり合いがあった事件の当事者であるジェーンを夜のロンドンで見つけた、あるいは見つけたと思ったものの結局見失ってしまったり、体験を共有してもらおうと思って訪れた友人の編集者がマリファナ・パーティーの真っ最中で相手にしてくれなかったりと云う形を取って、現実は複数の人間が認識を共有しなければ存在できないにもかかわらず、一人が認識したものを他者と同一のものとして共有することの困難さも描いていきます。

また映画「欲望」はこういう風に観察、認識する主観の側の限界を描写する一方で、それに対応する客観的な現実のほうも描写していくんですが、それがどういう扱いだったかというと、主観の扱いと同じように、現実も確固とした存在ではなく、現実の持つ意味とか価値はその一部としていつも変わらずに付属してその特色を決定づけてるような属性でもなんでもなくて、幾らでも変化していくものとして描かれていくことになってました。もう冒頭のトーマスからしてそういう存在として現れるんですね。底辺労働者の写真を撮るためにぼろぼろの服を着た状態で始めて画面に現れるトーマスはその後同一の存在でありながら一瞬にして高級車に乗る若くして成功した一流のカメラマン、別の属性が特徴付ける存在へと変化してしまいます。

映画の中盤にアンティーク・ショップが出てきて、トーマスはここで巨大なプロペラを衝動的に買うんですが、その買ったプロペラはその後スタジオのフロアーに転がされたままで全く物語りに絡んできません。実はこの店での出来事はトーマスのプロペラが代表するように殆ど物語には関係しないという、映画の中ではなぜ出てきたのか分からないちょっと謎めいた部分なんですけど、このアンティーク・ショップも事物の価値が変化する場所、昔ある目的で使われていたものが全く違うたとえば置物としての価値を与えられるような場所として捉えるなら、テーマが秩序立ててるこの映画に出てくるのには相応しい場所であったことが理解できるようになると思います。

また価値が現実そのものの属性じゃないというのは、わたしがこの映画を観るきっかけになったヤードバーズのコンサートのエピソードでも極めて図式的に分かりやすく描写されてます。演奏途中でアンプの調子が悪くなって雑音が混じり始めたことに苛立ったジェフ・ベックはアンプにギターを叩きつけ、床に振り下ろしてギターを破壊し、千切れたネックの部分を観客のほうに投げ込んでしまいます。観客はロック・スター・ギタリストであるジェフ・ベックが使ったギターの一部ということで投げ込まれたネックを我先に取り合って騒然とした雰囲気になってしまいます。なぜかそのネックの争奪戦にトーマスも参加、そして結果として見事手に入れてしまい自分によこせと追いかけるほかの観客から逃げる羽目に陥ってしまいます。ライブハウスからかろうじで逃げ出して大通りまでやってきたトーマスは自分が手にしてる千切れたギターのネックを眺め、今までの争奪戦が嘘だったかのように大通りの路上に投げ捨ててしまいます。これなんかライブハウスのヤードバーズの価値を共有してる場所ではジェフ・ベックの破壊したギターの破片は値打ちがあるものだったけど、そこを離れたとたん唯の木屑に過ぎないものになってしまうということでしょう。

ほかにもパリに行くといっていたモデルとのちに親友の自宅で開催されてるマリファナ・パーティーで出会った時に、そのモデルにここがパリなんだと言わせてみたり、トーマスが尋ねる風景画が店にあるのに、アンティーク・ショップの店番の老人にそんなものは店には無いといわせたりと、こういう齟齬を含んだエピソードを重ねて、映画は確固たる輪郭を失い、あいまいに幾重にもぶれてしまったような世界を描き出していきます。劇中でトーマスの隣家の住人である抽象画家にキュビズム風の絵画を指して、最初は混沌としていてやがて形を成してくると言わせてる辺りが、映画は混沌の段階で終始しているし、形を成すといっても多視点が混在したままのキュビズム風ではあるもののアントニオーニ監督の意図したものだったんだと思います。「欲望」はいうならば映画で表現したキュビズム絵画といったものだったと。

それにしても、いくら多人数が存在しようと認識はたった一人でしか出来ない行為であり、しかもその認識したものは他人と容易に共有できないというヴィジョンはかなりの孤独であり、映画は人が抱えてるそういう絶対的な孤独について述べているんだと思いますけど、映画の結末はだからといってそれほど悲劇的なイメージで終わってるわけでもないように見えます。なによりも主人公のトーマスはラストの有名なテニスシーンで微笑んでもいるようだし。結末を崩壊か近代的な自我からの解放かどちらに取るかで見方は変わってくるかもしれないですけど、わたしは人が課せられたこの孤独から抜け出す道筋が垣間見えてるような気がしました。

唯「欲望」とはこういうテーマの映画だと云って見ても、最後まで意味不明の白塗りモッズ集団といったようなものが随所に出てきたりして、テーマと想定したものと綺麗なイコールで繋がらない部分もあります。おそらくどんな捉え方をしても居心地悪くはみ出てしまう部分が必ず出てきそうな感じ。
それはまるで「欲望」もまた固定化した意味と結びつかない、まさしく「欲望」の中で展開してるあいまいな世界の住人だと主張してるようで、こういうのはアントニオーニ監督のちょっとした策略でもあるのかななんて思ったりしました。

☆ ☆ ☆

内容はこんな感じでサスペンス風の外観にしては割と面倒くさいところがある映画だったんですけど、映像的にはスタイリッシュで見所は結構ありました。絵作りはとにかく絵になるように構図を決めて的確に判断して撮ってる感じ。冒頭の労働者の安宿の門の写し方からしてこの位置から撮るのがベストというような絵の作り方をして、その映像センスは映画の終わりの芝生のシーンまで持続してます。絵を描いたり写真撮ったりする人は構図とか色の使い方でかなり参考になるところがあるんじゃないかと思います。アントニオーニ監督としてはこの映画がカラー作品の第二弾目だったそうですが、映画の中で主人公が車に乗って移動してるシーンで青いビルが出てきたとき、音声解説ではアントニオーニは必要だったら建物の色を塗り変えてしまうくらい平気でやってしまうといってました。

エピソードでわたしが結構気に入ったのはヤードバーズの初々しいジミー・ペイジを見られたことや最初に書いたように生きたローリング・シックスティーズの時代の雰囲気とファッションを目の当たりに出来たこと以外だと、事件が起こる舞台となる公園とロンドンの街の描写、それと写真を幾度もブロウアップしていった果てに粗い粒子の嵐の中で死体を発見してしまうシーンでした。公園は緑しかないような単調な場所なのにどこか不穏な空気が流れてるような雰囲気の作り方が上手く、ロンドンの街は昼間は人の気配が希薄で殆ど廃墟に通じるような不思議な印象があり、またトーマスがジェーンを追って彷徨う夜のロンドンの裏路地はどこかサスペリアっぽい人口的で巨大な箱庭の都市に迷い込んだような感じがして幻想的でした。
写真を引き伸ばしていくシーンはタイトルになってるのも分かるくらいこの映画の見せ場となっていて、一切音楽の援助無しに次第に真相に迫っていく過程がサスペンスフルに描かれていて、緊張感のある演出が見事に成功してるシーンだったと思います。でも写真を引き伸ばしていっても粒子の荒い映像になるだけで隠されていた映像が引き出せるとは到底思えないんですが、そういうことを云うのはきっと野暮なんでしょう。

それと今回は以前に見たときと違って自分もカメラを使いだしてから見ているので、カメラマンとしての主人公の挙動にも興味津々でした。ハッセルのクランクのまわし方とか、ニコンFのストラップを撮影する時だけ首に掛けて普段は手に提げてるスタイルだとか、トーマスも左目使いだとか、それはもう発見が一杯あってかなり面白かったです。

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カメラ関係ではトーマスが底辺労働者の宿にもぐりこんで撮ったモノクロ写真、これを友人の編集者に見せるシーンがあって実際にどんな写真を撮ったのか画面に少しだけ出てくるんですけど、これがまた小道具で適当に撮り作ったようなものじゃなくて、随分と力のある写真なんですね。劇中の主人公が撮った写真としてスクリーンに写されるこの写真は一体本当は誰が撮ったんだろうとか、本当に写真集になってたらぜひ見てみたいとかかなり興味がわいたりもしてました。アントニオーニ監督自身が撮った写真だったら、写真家としても才能がある人なんでしょうね。

登場人物関係ではゲーンズブールに出会う前のジェーン・バーキンがモデル志願でやってくるチョイ役の女の子で登場してるのが見ものです。モデル志願でバーキンと一緒にスタジオにやってくるギリアン・ ヒルズものちに歌手としてデビューしてます。
トーマスのスタジオで暴君のようなトーマスに怒鳴られながら仕事をこなすモデルの中にはこの頃の時代のファッショナブルなイメージを代表する超有名モデル、ペギー・モフィットの姿が見えます。

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音楽ファンのなかではこの人のイメージはルー・ドナルドソンのアルバム「アリゲーター・ブーガルー」のジャケットのイメージで知られてるかも。わたしはこの人が画面に登場した時「アリゲーター・ブーガルー」が動いてる!って思いました。セクシュアルな撮影シーンで登場し、パリに行くといいながらマリファナ・パーティーに紛れ込んでたモデルは当時の実際の売れっ子モデル。それにヤードバーズのジェフ・ベックにジミー・ペイジと、脇を彩る人物が結構豪華なのもこの映画の特色かもしれないです。

スウィンギング・ロンドンの雰囲気を活写して、ファッション、音楽、映像センスなど見所が一杯ある映画なのに、映画的感興を維持するストーリー性だけが殆ど無いに等しいという妙に歪な姿が印象的な映画と云えるかもしれません。

☆ ☆ ☆

撮影シーン

ポスターに登場する有名な撮影シーン。なんだか典型的な写真家の撮影風景って云う感じがします。みんなこんな風にモデルをのせて行って撮ってるんだろうって想像できるくらいの普遍性があるイメージかもしれません。
それとやっぱりセクシュアルなイメージとかなり重なってます。カメラを通して覗き見ることそのものがセクシュアルな行為なのかも知れないなんて思ったりします。
ちなみに最初三脚にのせて撮ってるカメラがハッセルブラッドです。

ヤードバーズ・シーン

これはロックのライブだとは思えないくらい観客が異様に静まり返ってるのもちょっと幻想的な感じで興味深いです。ヤードバーズの演奏がつまらないなんて主張してるわけではなさそうですけど。
廊下のストライプ模様でさえもどことなく60年代してるのも、また面白いところかも。

「欲望」トレーラー




題名 欲望
原題 BLOW-UP
監督
ミケランジェロ・アントニオーニ
製作
カルロ・ポンティ
脚本
ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ
エドワード・ボンド
音楽
ハービー・ハンコック

キャスト
デヴィッド・ヘミングス
ヴァネッサ・レッドグレイヴ
ジェーン・バーキン
サラ・マイルズ

ヤードバーズ




☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




ややこしい映画について自分なりに整理しながら書いてみたけど、言葉足らずのままに気力が尽きてしまいました。もうちょっとうまく書けると思って書き出したんだけどなぁ。思弁的な映画について書くのって難しいですね。
気分転換にいつものように写真もちょっとだけ。

ギターが一杯
VQ1015 Entry

河原町三条の十字屋の地下、楽器売り場のフロアーです。壁面一杯にギターが陳列してある光景はなかなか豪華。ストラトキャスターでも一番廉価なものは10万ほどで手に入るんですね。それを知ってからUSA製のギターを一台欲しいなぁと思いながら、未だに買うところまで行ってません。箱ギターもジャズ・ギタリストが使ってるから欲しいけど、関西で育ったからなのか、フラワーショーだとか横山ホットブラザーズとかのイメージが強くて手が出しにくいです。

輝くドラム
VQ1015 Entry

同じ楽器屋でもこっちは大阪で撮ったもの。若干ぶれてますけど、そんなことは気にしないでおきましょう。ドラムを積み上げて置いてあった光景をスナップしたもので、金属部分が光を反射して結構綺麗でした。
ちなみにこれと上の写真はノー・ファインダーで撮ってます。カメラにまともなファインダーがついてないので。

とあるカフェにて
Nikon Coolpix P5100

とあるカフェで今は使われなくて店の片隅においてあったウェイター風の看板人形。窓の外に見えるビルの写り具合が気に入ってます。

御所前の古道具屋
Ultra Wide & Slim : Kodac Ektar 100 Canoscan 8600F

御所の南端、丸太町通りを挟んで開いてる古道具屋さん。映画のほうにもアンティーク・ショップが出てきてたのでそれにあわせて。一月頃に撮った写真で、冬の白川疎水を撮りに行った時、このUltra Wide & Slimも持っていって撮影してたんですけど、その時使っていたフィルムの中に写したものの一枚です。
色味がお気に入り。それと丸太町通りが遠くに消えていく辺りの並木だとか御所の木々の様子に古い映画っぽい感触があるようにみえるのもいい感じです。

門番
Nikon Coolpix P5100

古道具屋繋がりで、これは東寺の近くにある古道具屋の店先に飾ってある人形。こういう人形が他にももう一体飾ってあって異様な雰囲気になってます。扉の前で監視してるように見えて、一体どんな店なんだろうと思い出すとちょっと怖くて店の中に入れない感じ。
こういう写真が面白く出来たとするならその面白さは対象物にあるのか写真そのものにあるのか判断に迷ってしまうところがありますね。できるなら写真にあるとしたいところなんですけど、写真としては対象物に寄りかかって唯シャッターを切ってるだけだし。構図といってもその対象物をターゲットにして寄っていくとそんなに奇抜な構図も取れそうにないです。一部を拡大するとか足元から見上げるとかするくらいかなぁ。
あるいはこの写真は見返した時に自分でも真正面から単純にシャッター切っただけのように見えたので、こんな風に思ったりするところもあったんですけど、考えてみれば真正面からファインダーを覗いて面白くなければおそらくシャッターは切ってなかったと思うので、真正面から見た時にわたしのなかに面白いと言う判断が働いたと考えることも出来ます。こう考えると単純に向かい合ってシャッター切っただけのように見えても、対象に感じた面白さを上手く切り出すような十分に意図的な要素を含んでることにもなるんですよね。

対象物が存在しないと成立しない写真の類では写真独自のあり方というところで色々考えることが出てきたりします。

美味しそうなリンゴ
CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100

カラフルなのも一枚。これは今月に入ってから撮ったものです。コンタックスなんていう発色のいいカメラでカラー・フィルムを使うなら色の綺麗なものを撮らないと値打ちないなぁと思った写真でした。でも京都って神社の鳥居の赤なんかは目立つんですけど、総体的にカラフルなものってわりと見つけにくいんですよね。リンゴが美味しそうです。

春の鴨川
CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100

上のと同じフィルムに収まってた、時期的には桜が咲いてた頃の鴨川の写真。北山通りと交差する辺りで鴨川としてはちょっと北のほうになります。斜めのラインの集合体になって面白そうと思って撮ったもの。ただシャッターを切った後で飛び石を渡る人って題材としてはベタすぎたかなと思ったんですけど、仕上がった写真を見たらそうでもなかったです。
空の色が反射してるんでしょうけど、水の色が思いのほか綺麗に出てました。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




Mahalia Jackson - Crying in the Chapel.


プレスリーの歌で有名な曲。わたしは昔持っていたプラターズのアルバムに入っていたのをよく聴いてたことがあります。でもこのマヘリア・ジャクソンのが圧倒的な存在感がありますね。これを聴いてしまうとプレスリーのものでさえもあまり聴く気にならなくなるかも。魂の奥深くを鷲掴みにしてゆすぶられるような感じというか、タイトルのクライングじゃないけど、この歌声を聴いてるだけでキリスト教徒でもないのに無条件で涙が出てきそうです。
でもクライングとついてるけど、この歌、実は哀しい歌じゃなくて、神様と一緒にいられて幸せで涙が出るという歌なんですね。



☆ ☆ ☆



欲望 [DVD]欲望 [DVD]
(2010/04/21)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、デビッド・ヘミングス 他

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Greatest HitsGreatest Hits
(1997/02/05)
Mahalia Jackson

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わたしが「Crying In The Chapel」を聴いたアルバムもベスト盤だったんですけど、わたしが知ってるジャケットのものは探しても見つからず。
他の情報も寄せ集めてみると、ジャケットはわたしのものとは違うけどどうもこのアルバムらしいです。でもアマゾンのほうでは収録曲名を書いてなかったので、本当にわたしの聴いてるベスト盤と同じものなのか確証は得られませんでした。


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【洋画】 マカロニ・ウエスタン 800発の銃弾

わたしはこの映画、観る前に勘違いしてました。800発も弾丸を撃つ壮絶な銃撃戦ウエスタンだと思ってた。
でも違うんですよね、この800発の意味。どうやらたった800発しか銃弾が無い状態で戦い抜くっていう逆の意味らしい。
お互いが1発づつしか弾の出ないような拳銃やライフルで戦う程度で、800発は数としてそんなに少ないのかというと、この映画、基本的に西部のガンマン同士が戦うお話でもありません。
相手は機動隊並みの装備をした警察部隊です。そしてこういうのが相手なので時代は当然現在。
つまり、マカロニ・ウエスタンそのものでもない訳で、では何かというと、この映画、実はマカロニ・ウエスタンのスタントマンのお話です。

☆ ☆ ☆

スペインのアルメリアにある撮影所「テキサス・ハリウッド」では、昔マカロニ・ウエスタンの撮影隊がやってきて映画を撮影し、賑わってた場所だったが、マカロニ・ウエスタンが他の映画に人気を取られると、後は寂れていく一方となり、「テキサス・ハリウッド」はやがてウエスタン村となり、仕事にあぶれたスタントマンだちがそこでウエスタンショーをするようになった。
そこの座長であり保安官役の、フリアン(サンチョ・グラシア)は、かつてクリント・イーストウッドのスタントマンをやったのが自慢だった。そのフリアンのもとにある日孫の男の子カルロス(ルイス・カストロ)がやってくる。
カルロスの父もスタントマンで、フリアンと共に仕事をしていたがスタント中の事故で亡くなってしまっていた。フリアンと亡くなった父のことは母ラウラ(カルメン・マウラ)の思惑でカルロスには詳しく伝えられてなかったが、ある日カルロスは祖父のガンマン・スタイルの写真を見つけて興味を持ってしまい、祖母からはフリアンがまだ生きていることも教えてもらった。
カルロスはある日スキー教室に行くバスから逃げ出して、単身で祖父のいる「テキサス・ハリウッド」を訪れる決心をする。

フリアンは息子がスタント中に亡くなったことで責任を取らされて刑務所にも入った前歴があって、このウエスタン村で家族とは距離を置いた生活を送っていたが、突然現われた孫に戸惑いながらも、亡き息子への思いを重ねるように親密になっていく。
孫のカルロスもフリアンが話す大スター、クリント・イーストウッドと友達にもなるほど親密だった話や、スタントマン時代の物語で祖父フリアンに親しみ、尊敬するようになっていった。

カルロスは他の陽気な元スタントマンたちとの生活も楽しんでいたが、カルロスがスキー教室から行方をくらませたあと、行き先に見当がついた母ラウラがウエスタン村にやってくる。
不動産業を営むラウラは夫の死の原因がフリアンにあると思い、復讐心からフリアンの夢を潰し息子を奪い返すために、ウエスタン村をアメリカ資本主義形のテーマパーク建設計画に売り渡す案を実行する。
地上げが迫って、ウエスタン村を追い出されようとする元スタントマンたちは普段ショーで使ってる空砲を実弾に変えて、ウエスタン村に立てこもることに。
立てこもり事件はやがて警察部隊の出動を招くほどの大ききな事件に発展していく。

☆ ☆ ☆

まず、風景が素晴らしいです。荒涼としたまさしくウエスタン的な風景が堪能できます。でも考えてみればそういう風景があったからこそアルメリアはマカロニ・ウエスタンの撮影に使われたのだから、これは当たり前と云ってしまえは、当たり前ですよね。
そしてそういう荒涼とした風景の中の、寂れたウエスタン村に、男たちが配置されます。

時代に取り残されたおいぼれ元スタントマンの話ということで、ものの見事に美形の俳優は出てきません。癖のある悪役面のやつばかり、しかもスター的なオーラ皆無で、みんな薄汚く、汗臭そう。そういう連中が綻びまくってずたずたになった夢の残滓を纏ってウエスタン村を歩き回ります。
演じるスタントマンのほうがショーを見に来る客よりも多いという状態で、誰が真剣に注目してるわけでもないのに、今日は手をつかずに屋根から落ちることが出来たとか、そういうことに満足し、みんな楽しそうにショーを演じてる。

こういう刹那に生きてるような男たちの日常や、ウエスタン村にやってきたカルロス少年との交流は、人情劇として面白かったです。

でも中盤まではこういう状態で引っ張っていく映画なので、ウエスタンを観ようとしてたら、物凄くかったるいことになります。
と云うか、映画の中盤過ぎまで、画面で展開されるのはウエスタンじゃなくて、ウエスタン・ショー。
観客は映画の中でまばらに見物してた観光客同様に、そのショーを見せられるだけで、「ウエスタン」は映画のどこを取っても体験させてくれません。

☆ ☆ ☆

後半の機動警察部隊との篭城戦は説明不足の上にちぐはぐな演出が目立つような感じでした。派手なんだけど、どこかいまひとつ。
機動警察隊は最初はゴム弾を使ってたのに、そのうち実弾を使い出します。この装備変更はフリアンらが800発の実弾を威嚇じゃなく本気で使い出したからなのは分かるんですが、警察の方の実弾を使うことへの葛藤みたいなものが全然挟み込まれないので、装甲車両の到着、隊員入れ替えのシーンを置いただけで、ゴム弾が実弾に変わってるという展開になります。
全体にコメディ・タッチで進んできたのに説明もなしに結構ハードなシリアス路線が混入してくるから馴染まない部分が頻出。元スタントマンが銃弾を受けて倒れるんだけど、警察が実弾を使い始めてもフリアン側はまだウエスタン・ショーをやってる雰囲気が残ってるから、演技で倒れてるようにしか見えません。

警察隊との銃撃戦を観ていて、タイトルが暗示するような大量の弾丸が飛び交う映画を期待して観てはいたんだけど、実際に大量の弾丸が飛び交いだすと、西部の町で機動隊はやはり全然そぐわないという感じが終始頭にちらついてくるようになりました。ウエスタンで本当に観たいのはもっと他にあるというような感じ。
そういう感想を見越したのか、映画は最後に機動隊との戦闘から離れて、拳銃一つでにらみ合う、一触即発の西部劇的な一騎打ちに持ち込んでいきます。わたしはここにきてようやくワクワクしてきました。
期待してたのは集団銃撃戦だったのに、この映画の場合はそれよりもオーソドックスな一騎打ちのほうが絵になって面白かったです。

☆ ☆ ☆

観て思ったのは、これは「ニュー・シネマ・パラダイス」のウエスタン・バージョンだってことでした。
あちらは映写技師でこちらはスタントマン、両方とも映画に関わってるけど中心にいるわけじゃない。
映画についての映画みたいなスタンスを取っていて、さらに両方とも少年が軸になってる。
この映画もウエスタンという形を借りて大人と子供の心の交流、というか子供が大人を理解し、成長していく過程を描いた映画と見る方が相応しいような気がします。

実際この映画でカルロス役をやった少年ルイス・カストロが結構良いんですよね。
画面に登場した最初は新居の自宅で引越しの手伝いをする大人の邪魔をしたり、まるでテロリストみたいなコスプレで画面中騒ぎまわったり、喧しくて邪魔な子供としか見えなかったのに、祖父のフリアンと出会ってからは、基本は憧憬の感情があるせいか、苛立たせる部分が影を潜めます。

そしてカルロスが祖父を理解するにつれ、この子を通すことによってフリアンの心の形も観客に見えやすくなってくる。普通に見ればどうしようもない人生なのに、カルロスの側でカルロスの見るフリアンを一緒になって感じ取ってると、まぁどうしようもない人生なのは変わらないにしても、他人には絶対に分からない矜持とか、ちょっと違う形も見えてくることになります。

☆ ☆ ☆

↓ちょっとばかりネタばれ気味の書き方してます↓

この映画、中身の大半は無理やりウエスタン・ショーを見せられて、なんだかなぁという気分で付き合うことになりがちな代物なんですが、ラストは良いです。何が良いって最後に「あの人」が出てくる。
そしてカルロス少年に「俺と おじいちゃんは友達だった」と伝える。

カルロスとフリアンは篭城戦の最中に仲たがいしてしまいます。フリアンがカルロスの父の事故の時に、一緒にスタントをやっていて責任を問われたことをカルロスに話さなかったことで、カルロスはフリアンが嘘つきで、今まで自分に云ってきたことが全部でたらめと決め付けてフリアンの下を去って行きます。

ところがあの人のこの一言が、紛い物に見えたフリアンの夢をきっちりと修復してカルロスの心に届ける仲介となるわけです。カルロスはこの一言で祖父フリアンの心の形を完全に理解することになります。
映画はカルロス少年の晴れやかな顔で幕を閉じることになりますが、少年の表情がまた良い。

一つ画竜点睛を欠くのが、「あの人」を本人じゃなくて、別人が演じてること。これはなにがどうなっても本人に出て貰わなければ格好がつかないのに、どうして妥協してしまったのかなぁ。

☆ ☆ ☆

マカロニ・ウエスタン 800発の銃弾マカロニ・ウエスタン 800発の銃弾
(2006/03/24)
サンチョ・グラシアアンヘル・デ・アンドレス

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800 Bullets Trailer



原題 800 Balas
監督 アレックス・デ・ラ・イグレシア
公開 2002年


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【洋画】 アリゾナ・ドリーム

主役のジョニー・デップが若いです。それと鬚無しヴィンセント・ギャロ。
この映画は実はフランス映画で、フランスでは劇場公開されたけど、アメリカではDVD発売のみで劇場公開されなかったそうです。

☆ ☆ ☆

ニューヨークの漁業局で魚の数を数える仕事をしてるアクセル(ジョニー・デップ)のもとに、友人ポール(ヴィンセント・ギャロ)が現われ、アリゾナでキャディラックのディーラーをしてる叔父レオ(ジェリー・ルイス)の結婚式の介添人を依頼してきた。
アクセルは嫌がってたが、酒を飲まされ気がつけばアリゾナに向かうポールの車の中にいる自分を発見する。
アリゾナでは叔父からディーラーの跡継ぎを頼まれて、アクセルは叔父の下で働き始めることになった。
アクセルがセールスを始めた店に、ある日、未亡人のエレイン(フェイ・ダナウェイ)と義娘のグレース(リリ・テイラー)がやってくる。
エレインは空を飛ぶことに執着するし、グレースは自殺癖があり亀になりたいという願望がある、妙な家族だった。
エキセントリックなエレインに一目ぼれをしたアクセルはエレイン宅に泊り込んで、そこでエレインの夢をかなえようと飛行機作りに没頭し始めるが、次第にグレースのほうにも心が揺らぎ始める。

☆ ☆ ☆

はっきりいってよく分からない映画です。幻想的で混沌としてる。
とはいってもストーリーは実のところ物凄くシンプルで、アクセルとエレインとグレースの三角関係と、ほとんど一言で云い切ってしまえます。
ただこの映画は、そのシンプルなストーリーを、関係してるのかしてないのかほとんど区別できないようなディテールでちょっとした隙間までも埋め尽くすように飾り立ててる。
これが曲者なんですよね。
目晦ましが一杯あって、映画そのものを見失ってしまうと云うか。見失わずに捕まえたと思ってもそれが本当の姿なのか確認が難しい。

☆ ☆ ☆

奇妙な夢にとりつかれた人物ばかりが登場します。アクセルは魚が喋らないのは全てを知ってるからだと考え、自分も魚になることを夢見てます。エレインは空を飛ぶことにとりつかれ、さしずめ鳥になることを夢見る女でしょうか。グレースの亀になりたいっていうのはほとんど意図不明でした。
ポールは映画俳優になって35歳で死ぬことが夢のようで、レオはキャデラックを積み上げて月に届きたいという夢を持ってます。

どこかねじが外れたような登場人物がそれぞれ関わりあうことで、何らかの形で夢を成就させたり、潰したりしていく様子をにぎやかにフィルムに収めていった映画とでも云えるのかな。アクセルの母の言葉だったか、アクセル自身が朗読するなかに、「夢はかなってしまうと、夢ではなくなる」という言葉が出てきます。ある意味全員の夢は稚拙なもので、かなうにしろ潰れるにしろ、次のステップにいくには夢でなくしてしまう必要があったということなんでしょうか。

☆ ☆ ☆

ポールとルイの夢は映画の中では傍流というか、中心からは若干外れたような扱いでした。物語の中心となっていたのはアクセルとエレインとグレースの3人の話です。
その中で一番把握しがたいのがグレース。このキャラクターの行動は本当に理解しがたい。

亀になるのが夢で、自殺願望があって、家にいるときは始終アコーデオンを抱えてる女って、いくら懇切丁寧に説明されたとしても、おそらくまともに理解できるとは思えません。

最後のグレースの行動は、エレインにコンプレックスを持っていて、普段からエレインのような女になるくらいなら自殺すると云っていたのに、目当てのアクセルから、「今まではエレインの虜だったが、エレインは雲のようなものだと気づいて、その向こうにグレースがいるのが見えた」と告白された時、結局アクセルは自分の中にエレインをみてるのだと知った結果だと思うものの、やはりよく分からないというのが本当のところでした。
それともアクセルとの思いが成就したので、思い残すことがなくなったから?でもこれはちょっと馬鹿げてる…。
フィルムに余計なものをくっつける割に、肝心な部分をそれほど明確に描写して無いような気配もあるので、あまり詰めても意味が無さそうっていう感じもします。

アクセルはグレースを救えなかったことで、もう魚と話が出来なくなったとエピローグで独白します。
アクセルの夢に出てくる魚オヒョウ(カレイの仲間です)、成長すると目が両側から片側に寄ってしまうその魚に仮託して云われるように、それは成長するにつれ、目が片側に移動していく途中だったアクセルの夢の終わりであって、アクセルはその目が成長したオヒョウのように片側によってしまって、両側にあったとき見ていた光景の半分を失ってしまったかわりに、稚拙な夢から醒めて、大人になったということなんでしょう。

☆ ☆ ☆

全体にコメディそのものを意図してるわけではないことは薄々分かるんだけど、演出は陽気で狂騒的。そういうなかで笑いに持っていこうとしてる部分は結構外してます。
アクセルがエレインとベッドを共にしようとする前、ニワトリの物まねでエレインに近づいていく時の、ジョニー・デップのニワトリ演技が、とても寒い。結構長い間やってたりするので、早く終わってと願いながら観る羽目になります。
グレースがストッキングを使って自殺を試みるシーンでも、ストッキングがゴムひもみたいに伸び縮みして、グレースも上がったり下がったりする動き、ああいうのって笑うところなのかそうでもないところなのか判断に苦しむような演出でした。
陽気にしていこうとする部分は、もう完全にわたしの感覚とは合ってませんでした。この映画のにぎやかな部分ははっきり云って泥臭いです。

☆ ☆ ☆

ポールの映画での位置づけは若干微妙というか、割と画面には出てきて、アクセルの三角関係にも影響していきそうな雰囲気もあったのに、ほとんど絡んでこないような妙な場所に立ち続けてました。
映画マニアのキャラクターらしく、映画の中で、町の映画館でかかってる「レイジング・ブル」のスクリーンの前に立って、映画の進行とそっくりに同じ台詞を喋っていくシーンがあります。
これは小細工無しに、本当に台詞をスクリーンに同調させて喋ったのかな。ほかにもモノマネ「北北西に進路をとれ」を披露するシーンがあるんですが、これも見事でした。

☆ ☆ ☆

冒頭のアラスカのシーンがいいです。これ、アクセルの見た夢なんですが、アリゾナ・ドリームと題してながらいきなりアラスカ、吹雪の中を走る犬橇を出して、意表をつくのもかっこいい。
映画全体に幻想的な雰囲気のある絵作りでそれは気に入ったんですが、アクセルの「アラスカの夢」の延長で、アリゾナの砂漠の上を魚が泳いでいくような光景は、若干ありきたりな印象がありました。幻想的なオブジェに頼ってしまうと、結局そのオブジェが幻想的なだけの画面になってしまいがちです。

アリゾナ・ドリームアリゾナ・ドリーム
(2007/04/01)
ジョニー・デップジェリー・ルイス

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In the Death Car - Iggy Pop/Goran Bregovic

映画の使用曲です。
でもこの曲は旋律が耳について離れなくなりそうなので、ちょっと嫌。冒頭のエスキモー・シーンの最初に流れてた曲の方が好き。
耳につきそうといえば、最後の方のエレインの誕生日のお祝いの席で、マリアッチが奏でる「べサメムーチョ」。これがまた果てしなく続いて、映画の中の人物も呆れてしまうような使い方をしてました。
この映画の音楽の使い方は結構面白いところがあります。

Johnny Depp - Arizona Dream

適当なトレーラーが見つからなかったので、映画の中のジョニー・デップのシーンを集めたものです。音楽はジャンゴ・ラインハルトの曲(を新たに演奏しなおしたもの)だと思うけど、こんなの本編で使ってたかな。本編で何かの家具の上にラインハルトの写真が飾ってあったディテールは記憶にはあるんだけど…。

原題 Arizona Dream
監督 エミール・クストリッツァ
公開 1992年


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【洋画】 ストレンジャー・ザン・パラダイス

ミニシアター系のアートっぽい映画だと思って観ていたら、ラストの途方も無いすれ違いのコントに吃驚してしまった。
確かに、たとえば映画の中ほどで、湖を観に行こうという話になって出かけた後、真冬で凍ってしまった湖の柵の前に肩をすぼめながら並んで、雪でただ白くなってるだけの光景を「美しい!」だとかなんだとか云ってぎこちなく褒めてる、そんなどことなくとぼけたシーンは所々にあったけど、最後にここまで大ボケをかましてくる映画だとは予想もしてませんでした。
でもアート映画なのにふざけたシナリオだとかは少しも思わなかった。むしろこの馬鹿みたいなエンディングでこの映画が逆に好きになったくらいです。

☆ ☆ ☆

ハンガリー生まれでニューヨークに住んでるウィリー(ジョン・ルーリー)の元に、ブダペストからいとこのエヴァ(エスター・バリント)がやってきた。クリーブランドのおばさんのところへ行く予定だったがおばさんの体調が悪くなって10日ほどニューヨークに足止め、ウィリーの部屋で同居することになる。
最初は10日も預かることを嫌がっていたウィリーも一緒に生活するうちにぎこちないままでも親しみを感じていく。部屋にやってくるウィリーの友人エディー(リチャード・エドソン)とも馴染みになった。
10日後、エヴァはクリーブランドに出発したが、翌年博打で大金を掴んだウィリーとエディーはその金でニューヨークを飛び出そうと思い、思いついたのがエヴァに会うためにクリーブランドに行って見ること。そう決めるとさっそく車でクリーブランドに向かうことにした。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」というのは「天国よりも奇妙」というような意味だと思うんだけど、これがちょっと分からない。
奇妙な話どころか、映画は、どこに場所を変えても似たような事しかやってない若者3人の単調な風景を切り取ることに専心してます。
ウィリーらは映画の中で、ニューヨークからクリーブランド、そこでエヴァを加えてさらにフロリダへと車で移動していきます。でも行く先でやってることといえば博打ばかり。違う土地に行っても、ただ単純に背景が変わるくらいの変化しか無い。フロリダのシーンなんか、せっかくフロリダに来てるのに、大半のシーンで安っぽいモーテルの一室ばかりを画面に収めてます。映画ではフロリダで終了だったけど、この3人はこのさきどこへ行ったとしても、やはり安モーテルに泊まって博打に専心というパターンは全然変わらなかったでしょうね。

ひょっとしてフロリダのようなパラダイスに来ても、3人の状況、行動が全然変化しないというのが「奇妙」なんだろうかとさえ思ってしまいます。それと「天国」というのが「奇妙」さを比較する基準になるんだということも、ちょっと不思議。
ミュージカルのスタンダード曲に「ストレンジャー・イン・パラダイス」というのがあって、単純にそこから持ってきただけなのかなぁ。

☆ ☆ ☆

主役の3人はほとんどしろうとという感じ。一番演技がまともに見えるジョン・ルーリーも当時ニューヨークの音楽シーンで「ザ・ラウンジ・リザーズ」というフェイク・ジャズのバンドをやっていたミュージシャンで、この映画でも弦楽を使ったスコアを書いてる。正確なことは知らないけど、俳優は余技の部類だったんじゃないかと思います。
でも、この3人の素人臭いぎこちなさが、映画のテーマみたいなものによく合ってるんですよね。この映画、微妙なすれ違い、さりげない噛み合わなさというような感覚が多彩に盛り込まれてます。そういう映画の手触りにすごく上手く嵌ってる。
ウィリーがテーブルに陣取ってるエヴァの前に座って、会話の接ぎ穂にジョークを云おうとするシーンがあるんですが、オチを忘れたまま話し始めるものだから、結局なにを喋ってるのか直ぐに分からなくなって、言葉が途切れ途切れになってフェードアウトしていくあの感じ。ああいう感じにはぎこちない喋り方が結構違和感無くフィットしてました。

☆ ☆ ☆

「面白い」という領域と「退屈」という領域の境界線上に細い通路を作って、観客にその通路を渡らせるような作り方の映画。思わず足を踏み外してしまった方向がその時の評価になるみたいな。
映画自体は面白がらせようという意図があったとしても極力強調しないようにしてる感じだし、一方だらだらと続くメリハリの無い会話などは、メリハリの無さやぎこちなさを計算しているように見えます。使用フィルムがヴェンダースから貰った余りのフィルムで限りがあるために、リハーサルをしっかりとやってから撮影したというようなことを聞いたことがあるので、全体のメリハリの無さはかなり意図的だったんだろうと思います。

ワンシーン・ワンカットで押し通してる撮影とカットごとに黒く何も写らない繋ぎの部分を挿入してるのは面白い編集だと思いました。物語ることを最優先にカットをスムーズに繋いで、そういう編集をしていることを物語の背後に隠してしまうほうが物語の流れは良くなるはずなので、いちいち黒画面の繋ぎを挿入するという方法は、物語を語ること自体はあまり重要視してないような印象を作ります。
物語じゃなくて登場人物たちの生活の断片を見せられるような感じ、他人の生活を何かの拍子にふと垣間見てしまった気分とでもいうか、物語というよりもそういう感覚のほうが強調されていきます。

この映画はモノクロなんですが、普通モノクロ映画の場合、影の諧調と云うか、黒のほうの表現を豊かにする方向に画面作りがされると思うんだけど、この映画は光のほうにポイントを置いた撮影をしてます。モノクロで光の表情をフィルムに収めようとしてるのは観ていてすごく新鮮でした。

☆ ☆ ☆

ファッションも、今見ても結構かっこいいですよ。ウィリーとエディはいつも帽子を被ってるんですが、こういう帽子、今流行ってるし。
エヴァが10日間の居候の終わりにウィリーからプレゼントされたドレスは、ウィリーの目を離れたところでエヴァが捨ててしまうくらいダサい扱いでした。このドレスは今見てもダサい。映画内のダサさの感覚も、今でも十分通用してます。

ストレンジャー・ザン・パラダイスストレンジャー・ザン・パラダイス
(2006/11/22)
ジョン・ルーリーエスター・バリント

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ストレンジャー・ザン・パラダイス トレーラー


原題 Stranger Than Paradise
監督 ジム・ジャームッシュ
公開 1984年

☆ ☆ ☆

話題に出したので「Stranger In Paradise」という僅かに違うタイトルの曲も。
サラ・ブライトマンが歌ったもので、アルバム「ハレム」に収録されてます。
この曲はブロードウェイ・ミュージカル「キスメット」の中の「風の翼に乗って飛んでゆけ」というのが元なんですが、さらに大元はボロディンの「韃靼人の踊り」というのが原曲になってます。

Stranger In Paradise - Sarah Brightman


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【洋画】 生きてこそ

「アンデスの聖餐」を題材にした映画です。

1972年に起こったウルグアイ空軍機571便のアンデス山脈墜落事故で、搭乗していた南米ウルグアイの学生ラグビーチームら45名が遭難、72日後に16人が生還する。墜落から生き残った乗客は捜索隊にも見放されたまま、極寒のアンデス山中で死亡した乗客の人肉を食べて生き延びたという実話を元にしています。

はっきり云って映画は完全にテーマ負けしてます。というよりもあまりにも重いテーマに、結局そのことには深く触れることが出来ずに判断停止みたいになってしまってるというか。
描写もそういう部分は物凄くあっさりとやり過ごしてる。もっとも人肉食いのシーンを微細に描写されても、スプラッター映画じゃないわけだからあまり意味も無いとはいえ、修羅場はあっただろうと、物凄い葛藤もあったに違いないと思うのに、そういうことにはほとんど言及しないで纏めてしまってます。

実際にはどうだったのか分りませんが、少なくとも映画の中では人を食うくらいなら死を選ぶという人が出て来ません。拒絶してた人も結局は食べることになる。それも実に淡々と。
生き延びるためには他に選択肢が無かったという考え方しか映画には出てこなくて、その考えは間違いの無いものとして生き残ったもの全員に行き渡っていきます。

結局これって態の良い「いいわけ」です。生き延びるためだったし、どんなことをやったとしてもしょうがない、文句言うなよ、みたいな自己肯定のメッセージしか届いてこない。「生き延びるためには人を食う以外に選択肢が無かった」という考えを元に起こした行動が本当に正当だったのか、映画ではその行動を相対化できるようなものが提示されません。

果てしない自己肯定の言いわけを聞かされて心動かされるわけもなく、だから映画の感動、カタルシスは捜索隊にも見放されて自力で脱出口を探す困難な試みと最後にそれが成功して救援隊を呼べたということにほとんど集中してました。

☆ ☆ ☆

ちなみにこの遭難からの生還者は人肉を食べたことに対して、ローマ法王から赦しを与えられましたが、宗教上はそういう許しを得て何も問題なしとなっても、当事者の心の中には拭いきれずに淀んで残るものもあるだろうし、そういう心の底に淀むものがローマ法王の許しですべて解消しているなら、こんな映画を作る必要さえなかったでしょう。
だから映画にするなら描くべきものは他に一杯あったはずで、この映画はこの題材だからこそ描かなければならなかったことをほとんど素通りしてしまってるとしか思えませんでした。

☆ ☆ ☆

映画は墜落時の様子から始まって、遭難者の中から選ばれた選抜隊がシェルターとなった墜落機体の場所を離れて、ほとんど装備も無いままに極寒の山脈を横断して救援隊を呼べる町へ辿り着くまでを時系列に沿って、表現的な小細工もなしに追いかけていきます。
全体に俳優の印象が弱いです。イーサン・ホークが一応目立つ位置にいる俳優だったんですが、それでも印象が薄い。他はジョン・マルコビッチくらいで大半があまり馴染みの無い役者でした。

☆ ☆ ☆

「生きてこそ」って云うタイトルが、すごいあからさまな感じで、なんか嫌。


生きてこそ スペシャル・コレクターズ・エディション生きてこそ スペシャル・コレクターズ・エディション
(2006/04/21)
イーサン・ホークビンセント・スパーノ

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生きてこそ エンドクレジット

トレーラーを探してみたものの「alive」なんていう検索語だと余計なものが山ほど引っかかって、探しきれない…。ということで、一つだけ見つけた、これはエンドクレジットの部分、BGMで「アベマリア」が聴けます。

原題 Alive
監督 フランク・マーシャル
公開 1993年

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