2011/06/10
【洋画】「欲望」に関する覚書 -絶対的孤独に関する映画- +街を往く写真たち +歌声は魂にまで届く
この前の記事でNikonの一眼レフカメラを買ってこの写真家と同じ環境になったと書いていた、その写真家が登場したミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画「欲望」。最初に観たのは随分と昔のことになるんですが、この記事を書くのにDVDを引っ張り出してまた見直したりもしてたので、せっかく見たんだからこの映画についてもちょっと書いてみようかなと思い立ちました。前回の書き様からわたしがこの映画を観たのは登場する写真家に興味があったからと云う印象になっていたかもしれませんが、実は最初にこの映画を観ようと思ったきっかけはこの「欲望」という映画に伝説のロックグループ、ヤードバーズが出ているというのを知ったからでした。音楽好きの人の間ではこの映画はミケランジェロ・アントニオーニの映画というよりもまず先に、このグループがライブ演奏してるところを見られる映画という風に受け取ってる人が多いかもしれないというところがあって、わたしにもそういう感じの映画として捉えてました。
映画が製作されたのは1966年、音楽シーンではビートルズが世界中を席捲していた頃のことです。ヤードバーズは実際の演奏よりもどちらかというと後にロックの三大ギタリストとなる、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックの三人を輩出したバンドとしての存在の方が有名だったりします。
この映画でヤードバーズのライブは、主人公の写真家が謎の女を街中で見かけ、その女を追いかけるように夜のロンドンの街を駆け回ったあげくに、ビルの合間にあるような路地の果てのライブハウスに紛れ込んだところから始まります。
「欲望」が製作された時のメンバー構成だったのか映画に出てくるヤードバーズはジェフ・ベックとジミー・ペイジのツイン・リード・ギターの編成になってます。後にレッド・ツェッペリンを結成して勢力をふるうことになるジミー・ペイジもこの時は云われないと分からないくらい新人然としていて、結構控えめな印象の演奏に終始してる様子。ジェフ・ベックは演奏が始まってまもなく、アンプの調子が悪いのに切れてしまってギターをアンプや床に叩きつけて破壊してしまうので、ツイン・リードのギターは云うほどには聴けない演奏なんですが、それでも今となってはちょっと物珍しいライブを見ることが出来るようになってました。ミケランジェロ・アントニオーニって他の映画、「砂丘」なんかでもピンク・フロイドを使ったりして結構こういうロックシーンの音楽が好きだったんじゃないかと思います。ちなみにこの映画の全体の音楽はハービー・ハンコックが担当してるんですが、映画そのものは映画を効果的に盛り上げる道具として音楽を使うでもなくどちらかというと音のない世界に向かって加速度的に突き進んでいくような、殆ど無音にちかい静寂に満ちたものだったので、ハンコックの音楽もあまり印象には残らなかったです。もともと音楽のない映画として構想されていたところにたまたま監督がハンコックの音楽を聴いて気に入ってしまい、起用することになったとか。だから最終的に無音の世界を開示してしまう映画に若干の彩を与える程度の印象になってるのも仕方ないのかもしれません。
それと、わたしがこの映画を観たきっかけにもう一つ、ポスターのかっこよさがありました。

Canon PowerShot A710 IS
こういうポスターです。わたしがたまに行く中古DVD、CDショップにも飾られていて、ちょっと色あせてるような感じになってるけど、強烈な赤をバックにカメラマンとモデルの印象的な絡み合いのポーズが大胆に配置されてます。ここがこうなってるからかっこいいんだとかいった理由に言葉を費やさなくても一目見ただけで分かるかっこよさがありますね。このモダンでスタイリッシュで鮮烈な印象のポスターは映画の内容に期待感を寄せる要因となるもので満ちてるようにわたしには見えました。ちなみにこの有名な絡み合うシーンは実際に映画の中に意外と早いタイミングで出てきたりします。
こんな感じでわたしにとっては映画「欲望」はヤードバーズと美術、それとカメラマンが繰り拡げる世界ということで当時のファッションの生きて動いてるところが見られるというようなことが関心の対象になって観た映画だったわけです。映画そのものとしての印象はどうだったかというと、実はあまりぱっとしたものでもなく、一言で云えば意味不明、サスペンス・スリラー風の進行に沿って観てはいたものの、結局何だかよく分からないうちに終わってしまったなぁといったものでした。これは観るポイントが必ずしも映画そのものの上になかったといったことが理由というよりも、映画そのものとして観ていたとしてもおそらく印象は変わらなかったと思います。
☆ ☆ ☆
誰もが撮られることを熱望する売れっ子の写真家トーマス(デヴィッド・へミングス)、彼は多数のモデルを使ってファッション写真を撮り、スタジオで暴君のように振舞って過ごす合間に、底辺労働者の住み込んでる安宿にぼろぼろの服を着て潜入しては作品としての写真を撮るようなことを繰り返して日々を過ごしている。その生活は労働者の目から離れた場所に行くとぼろぼろの服を着たまま隠していた高級車に乗ってスタジオに戻るようなメリハリの利いた生活ではあったが、選り取りみどりの女たちに囲まれた日常は女にはもう飽きたと云わせるくらいにトーマスを退屈にもさせていた。

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退屈を紛らわせるかのように車を走らせ公園に立ち寄ったトーマスはそこでジェーンという女(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)が中年の男と逢引している現場に出くわす。女も男も知らない人間だったが好奇心を募らせてトーマスはその二人が逢引している様子を写真に収めることにした。木陰から密かに撮っていたもののやがて女にその行為を気づかれ、男はどこかに立ち去ってしまったけれど、近づいてきたジェーンからは写真を渡せと執拗に迫られた。その場は何とか切り抜けてスタジオに戻ったもののジェーンはスタジオを探り当てて写真を取り返しにやってくる。
ネガを渡してくれというジェーンと駆け引きのようなことを重ねた後でトーマスは違うネガを渡してジェーンをスタジオから追い出した。
その後公園で撮った逢引の写真を現像、出来上がった写真を眺めてるうちに、トーマスはその写真の一部に木陰から二人に向けられた銃口が写っているのに気づくことになる。気になるところを見つけてしまったトーマスはさらに写真を何度も拡大し、拡大した印画紙を次々と壁に並べて貼り付けていろいろ比較しながら調べてるうちに、さらに今度は死体らしきものが木陰の地面に横たわっているのを発見した。極端に拡大したために極めて粒子の粗い写真になってはいるが、まさしく人が横たわってるのを確認できるような写真だった。この発見に驚いたトーマスは夜ではあったが即座に公園に確認に行く。そして人気のない夜の公園の木陰で隠れるようにして本当に死体が横たわっているのを発見した。
死体を見た後スタジオに戻ってみると壁に貼っておいた公園の写真やスタジオにおいてあったフィルムのすべてが何者かによって持ち去られているのに気づく。トーマスは力を借りるために友人の編集者ロンのところへことにした。
ロンの家に行く途中夜のロンドンの街の中を車で走っていてトーマスは雑踏の中にジェーンを見つけたと思ったが、直ぐに見失ってしまった。ロックのライブハウスなどを巡りながらロンの家についてみると、そこはマリファナ・パーティの真っ最中で、殺人を見たといっても薬が回ってしまってるロンは結局あまり相手にしてくれなかった。
やがてロンの家のベッドで眠りについてしまい、気がつけば既に夜が明けていた。トーマスは一人でもう一度公園で見つけた死体を確認しようと出かけるが、昨日の夜に見つけた死体は跡形もなく消え去っていた。
☆ ☆ ☆
とまぁこの映画の物語を要約してみたものの、実はこの映画にはストーリーらしいストーリーってほとんどあってないようなものなんですね。
ストーリーといえそうなものは展開から言えば死体を発見して後で見にいったらなぜか消えていたというくらいのもの。内容的には関わりがあった女も殺された相手方らしい男も観客にとってはもちろん主人公のトーマスにとっても最後まで素性は分からないまま映画は終わってしまうし、二人がどういう関係にあってその関係の中に殺人に発展する何があったとかいったことも全く映画では描写されません。死体も最後に消えてしまったきりでこれでこの件はお終いとでも云いたげに、映画はそのまま謎めいた、でもかなり魅力的なテニスコートのラストシーンに向けて急速に収斂していきます。物語という観点では新聞で読む今日の出来事といったようなものの方がまだよっぽど物語的に把握できて事件の内容にも精通できるんじゃないかと思うくらいです。
物語は主人公のカメラマンとは直接的には関係のない人物の間で起こり、カメラマンには謎の女からネガを渡して欲しいと云われるくらいしか係わり合いを持ってこないような類のものなので、ストーリー的な意味合いを持って主人公にはほとんど絡んできません。もちろん観てる側も主人公を介在させてみてるわけだから主人公と同じように傍観者的な位置からしか物語を眺める他なくなってきます。しかも極めて薄い関係でしかないけれど一応主人公に物語が絡み始めるきっかけになる公園での盗撮するシーンは映画開始から30分近く経った頃にようやく現れるうえに、事が動き出すフィルムの中に死体を発見するシーンは後半に入ってからでそこからラスト近くの死体消失まではあっという間、公園に行くまでの前半部分や現像するシーンまでの間は写真家の若くして成功した怖いもの無しの傲慢な日常を描写するのに集中して、ストーリー側面から見ると殆ど関係しない無駄な描写ばかりのように見えるかなり冗長なものになっていました。
おまけにここでは資料にトーマスとかジェーンとか名前が出てるからそれにしたがって書いてますけど、見直した感じではこの主要な登場人物でさえも映画の中では個別の人格を司るような名前を最後まであてがわれてなかった様子。名前はその人物を表わすかなり重要な要因なので、こういう部分は物語はおろかその物語を形作る根幹部分である人を描くことをもそれほど重要視していないというのを暗に指し示してるんじゃないかと思いました。
だからこの映画はやっぱり謎の男女の逢引シーンから束の間の死体出現と消失というサスペンス・スリラーもどきの収拾もつかないストーリーを追って見てると確実にはぐらかされてしまうなぁと云うのが今回見直しても思ったことでした。
この映画の場合、「欲望」という映画を2時間ほど映像を繋いだ唯の映像集ではなくて、映画として成立させてるというか秩序立てて映画の形にしてるものは、ストーリーじゃなくて、テーマなんですよね。まぁストーリーが秩序立てている映画でもテーマがあるならその中に含まれてはいるんだけど、「欲望」の場合はテーマを載せるのにストーリーをあまり利用していないという感じがします。あるテーマに沿ってそれを具現化してるようなエピソードを積み重ねていくという作り方で、ストーリーは最大限にそのテーマを表わしてはいるものの、映画全体を代表するようなものではなく、テーマを具現化してるエピソードの一つという扱い。こういう扱いだから結果として映画全体を見ると、テーマに沿ってはいるもののメインのストーリーとはあまり関係のないシーンが一杯出てくることになります。ストーリーから見ると余計なシーンが一杯あって何だこれはということになるんですけど、テーマの個別的な展開という面では見事に一つの映画として纏まってるというようなちょっと珍しい映画のようにわたしには思えました。
☆ ☆ ☆
それではこの映画が展開しようとしたテーマってなんだったのか。
後半部分の映画を運んでいくストーリー、謎の男女の逢引から銃口は発見されるも銃声の一つもしない、意図のよく分からない殺人と死体発見、一夜にして理由もなく死体が消えてしまうという出来事で展開されるのは、人が世界を認識するということは一体どういうことなのかといったテーマだったんだろうと思います。殺人事件は盗撮写真をブロウ・アップ(引き伸ばし)していく過程でトーマスが発見し、夜の公園でトーマスだけが死体を発見するのにすぎないことで、隣家の好意を寄せている女性に写真を見せても拡大を重ねて極端に粒子が粗くなった写真は同居する抽象画家が描く得体の知れない絵のようだとしか云われません。いわば事件はトーマスだけが目撃したことといってもいいような出来事で、そこから映画が投げかけてくる疑問はたった一人で認識したものは本当に客観的に存在したものといえるのかということじゃないかと思います。たった一人で認識したものは実は存在するとは云えず、それが存在するためには複数の人間が認識しその認識したことを共有しなければならないのではないかと。
そして映画はさらにその延長上で、たとえば現場を写したのかもしれない写真が消滅してしまうとか、当の唯一係わり合いがあった事件の当事者であるジェーンを夜のロンドンで見つけた、あるいは見つけたと思ったものの結局見失ってしまったり、体験を共有してもらおうと思って訪れた友人の編集者がマリファナ・パーティーの真っ最中で相手にしてくれなかったりと云う形を取って、現実は複数の人間が認識を共有しなければ存在できないにもかかわらず、一人が認識したものを他者と同一のものとして共有することの困難さも描いていきます。
また映画「欲望」はこういう風に観察、認識する主観の側の限界を描写する一方で、それに対応する客観的な現実のほうも描写していくんですが、それがどういう扱いだったかというと、主観の扱いと同じように、現実も確固とした存在ではなく、現実の持つ意味とか価値はその一部としていつも変わらずに付属してその特色を決定づけてるような属性でもなんでもなくて、幾らでも変化していくものとして描かれていくことになってました。もう冒頭のトーマスからしてそういう存在として現れるんですね。底辺労働者の写真を撮るためにぼろぼろの服を着た状態で始めて画面に現れるトーマスはその後同一の存在でありながら一瞬にして高級車に乗る若くして成功した一流のカメラマン、別の属性が特徴付ける存在へと変化してしまいます。
映画の中盤にアンティーク・ショップが出てきて、トーマスはここで巨大なプロペラを衝動的に買うんですが、その買ったプロペラはその後スタジオのフロアーに転がされたままで全く物語りに絡んできません。実はこの店での出来事はトーマスのプロペラが代表するように殆ど物語には関係しないという、映画の中ではなぜ出てきたのか分からないちょっと謎めいた部分なんですけど、このアンティーク・ショップも事物の価値が変化する場所、昔ある目的で使われていたものが全く違うたとえば置物としての価値を与えられるような場所として捉えるなら、テーマが秩序立ててるこの映画に出てくるのには相応しい場所であったことが理解できるようになると思います。
また価値が現実そのものの属性じゃないというのは、わたしがこの映画を観るきっかけになったヤードバーズのコンサートのエピソードでも極めて図式的に分かりやすく描写されてます。演奏途中でアンプの調子が悪くなって雑音が混じり始めたことに苛立ったジェフ・ベックはアンプにギターを叩きつけ、床に振り下ろしてギターを破壊し、千切れたネックの部分を観客のほうに投げ込んでしまいます。観客はロック・スター・ギタリストであるジェフ・ベックが使ったギターの一部ということで投げ込まれたネックを我先に取り合って騒然とした雰囲気になってしまいます。なぜかそのネックの争奪戦にトーマスも参加、そして結果として見事手に入れてしまい自分によこせと追いかけるほかの観客から逃げる羽目に陥ってしまいます。ライブハウスからかろうじで逃げ出して大通りまでやってきたトーマスは自分が手にしてる千切れたギターのネックを眺め、今までの争奪戦が嘘だったかのように大通りの路上に投げ捨ててしまいます。これなんかライブハウスのヤードバーズの価値を共有してる場所ではジェフ・ベックの破壊したギターの破片は値打ちがあるものだったけど、そこを離れたとたん唯の木屑に過ぎないものになってしまうということでしょう。
ほかにもパリに行くといっていたモデルとのちに親友の自宅で開催されてるマリファナ・パーティーで出会った時に、そのモデルにここがパリなんだと言わせてみたり、トーマスが尋ねる風景画が店にあるのに、アンティーク・ショップの店番の老人にそんなものは店には無いといわせたりと、こういう齟齬を含んだエピソードを重ねて、映画は確固たる輪郭を失い、あいまいに幾重にもぶれてしまったような世界を描き出していきます。劇中でトーマスの隣家の住人である抽象画家にキュビズム風の絵画を指して、最初は混沌としていてやがて形を成してくると言わせてる辺りが、映画は混沌の段階で終始しているし、形を成すといっても多視点が混在したままのキュビズム風ではあるもののアントニオーニ監督の意図したものだったんだと思います。「欲望」はいうならば映画で表現したキュビズム絵画といったものだったと。
それにしても、いくら多人数が存在しようと認識はたった一人でしか出来ない行為であり、しかもその認識したものは他人と容易に共有できないというヴィジョンはかなりの孤独であり、映画は人が抱えてるそういう絶対的な孤独について述べているんだと思いますけど、映画の結末はだからといってそれほど悲劇的なイメージで終わってるわけでもないように見えます。なによりも主人公のトーマスはラストの有名なテニスシーンで微笑んでもいるようだし。結末を崩壊か近代的な自我からの解放かどちらに取るかで見方は変わってくるかもしれないですけど、わたしは人が課せられたこの孤独から抜け出す道筋が垣間見えてるような気がしました。
唯「欲望」とはこういうテーマの映画だと云って見ても、最後まで意味不明の白塗りモッズ集団といったようなものが随所に出てきたりして、テーマと想定したものと綺麗なイコールで繋がらない部分もあります。おそらくどんな捉え方をしても居心地悪くはみ出てしまう部分が必ず出てきそうな感じ。
それはまるで「欲望」もまた固定化した意味と結びつかない、まさしく「欲望」の中で展開してるあいまいな世界の住人だと主張してるようで、こういうのはアントニオーニ監督のちょっとした策略でもあるのかななんて思ったりしました。
☆ ☆ ☆
内容はこんな感じでサスペンス風の外観にしては割と面倒くさいところがある映画だったんですけど、映像的にはスタイリッシュで見所は結構ありました。絵作りはとにかく絵になるように構図を決めて的確に判断して撮ってる感じ。冒頭の労働者の安宿の門の写し方からしてこの位置から撮るのがベストというような絵の作り方をして、その映像センスは映画の終わりの芝生のシーンまで持続してます。絵を描いたり写真撮ったりする人は構図とか色の使い方でかなり参考になるところがあるんじゃないかと思います。アントニオーニ監督としてはこの映画がカラー作品の第二弾目だったそうですが、映画の中で主人公が車に乗って移動してるシーンで青いビルが出てきたとき、音声解説ではアントニオーニは必要だったら建物の色を塗り変えてしまうくらい平気でやってしまうといってました。
エピソードでわたしが結構気に入ったのはヤードバーズの初々しいジミー・ペイジを見られたことや最初に書いたように生きたローリング・シックスティーズの時代の雰囲気とファッションを目の当たりに出来たこと以外だと、事件が起こる舞台となる公園とロンドンの街の描写、それと写真を幾度もブロウアップしていった果てに粗い粒子の嵐の中で死体を発見してしまうシーンでした。公園は緑しかないような単調な場所なのにどこか不穏な空気が流れてるような雰囲気の作り方が上手く、ロンドンの街は昼間は人の気配が希薄で殆ど廃墟に通じるような不思議な印象があり、またトーマスがジェーンを追って彷徨う夜のロンドンの裏路地はどこかサスペリアっぽい人口的で巨大な箱庭の都市に迷い込んだような感じがして幻想的でした。
写真を引き伸ばしていくシーンはタイトルになってるのも分かるくらいこの映画の見せ場となっていて、一切音楽の援助無しに次第に真相に迫っていく過程がサスペンスフルに描かれていて、緊張感のある演出が見事に成功してるシーンだったと思います。でも写真を引き伸ばしていっても粒子の荒い映像になるだけで隠されていた映像が引き出せるとは到底思えないんですが、そういうことを云うのはきっと野暮なんでしょう。
それと今回は以前に見たときと違って自分もカメラを使いだしてから見ているので、カメラマンとしての主人公の挙動にも興味津々でした。ハッセルのクランクのまわし方とか、ニコンFのストラップを撮影する時だけ首に掛けて普段は手に提げてるスタイルだとか、トーマスも左目使いだとか、それはもう発見が一杯あってかなり面白かったです。

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カメラ関係ではトーマスが底辺労働者の宿にもぐりこんで撮ったモノクロ写真、これを友人の編集者に見せるシーンがあって実際にどんな写真を撮ったのか画面に少しだけ出てくるんですけど、これがまた小道具で適当に撮り作ったようなものじゃなくて、随分と力のある写真なんですね。劇中の主人公が撮った写真としてスクリーンに写されるこの写真は一体本当は誰が撮ったんだろうとか、本当に写真集になってたらぜひ見てみたいとかかなり興味がわいたりもしてました。アントニオーニ監督自身が撮った写真だったら、写真家としても才能がある人なんでしょうね。
登場人物関係ではゲーンズブールに出会う前のジェーン・バーキンがモデル志願でやってくるチョイ役の女の子で登場してるのが見ものです。モデル志願でバーキンと一緒にスタジオにやってくるギリアン・ ヒルズものちに歌手としてデビューしてます。
トーマスのスタジオで暴君のようなトーマスに怒鳴られながら仕事をこなすモデルの中にはこの頃の時代のファッショナブルなイメージを代表する超有名モデル、ペギー・モフィットの姿が見えます。

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音楽ファンのなかではこの人のイメージはルー・ドナルドソンのアルバム「アリゲーター・ブーガルー」のジャケットのイメージで知られてるかも。わたしはこの人が画面に登場した時「アリゲーター・ブーガルー」が動いてる!って思いました。セクシュアルな撮影シーンで登場し、パリに行くといいながらマリファナ・パーティーに紛れ込んでたモデルは当時の実際の売れっ子モデル。それにヤードバーズのジェフ・ベックにジミー・ペイジと、脇を彩る人物が結構豪華なのもこの映画の特色かもしれないです。
スウィンギング・ロンドンの雰囲気を活写して、ファッション、音楽、映像センスなど見所が一杯ある映画なのに、映画的感興を維持するストーリー性だけが殆ど無いに等しいという妙に歪な姿が印象的な映画と云えるかもしれません。
☆ ☆ ☆
撮影シーン
ポスターに登場する有名な撮影シーン。なんだか典型的な写真家の撮影風景って云う感じがします。みんなこんな風にモデルをのせて行って撮ってるんだろうって想像できるくらいの普遍性があるイメージかもしれません。
それとやっぱりセクシュアルなイメージとかなり重なってます。カメラを通して覗き見ることそのものがセクシュアルな行為なのかも知れないなんて思ったりします。
ちなみに最初三脚にのせて撮ってるカメラがハッセルブラッドです。
ヤードバーズ・シーン
これはロックのライブだとは思えないくらい観客が異様に静まり返ってるのもちょっと幻想的な感じで興味深いです。ヤードバーズの演奏がつまらないなんて主張してるわけではなさそうですけど。
廊下のストライプ模様でさえもどことなく60年代してるのも、また面白いところかも。
「欲望」トレーラー
題名 欲望
原題 BLOW-UP
監督
ミケランジェロ・アントニオーニ
製作
カルロ・ポンティ
脚本
ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ
エドワード・ボンド
音楽
ハービー・ハンコック
キャスト
デヴィッド・ヘミングス
ヴァネッサ・レッドグレイヴ
ジェーン・バーキン
サラ・マイルズ
ヤードバーズ
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ややこしい映画について自分なりに整理しながら書いてみたけど、言葉足らずのままに気力が尽きてしまいました。もうちょっとうまく書けると思って書き出したんだけどなぁ。思弁的な映画について書くのって難しいですね。
気分転換にいつものように写真もちょっとだけ。

VQ1015 Entry
河原町三条の十字屋の地下、楽器売り場のフロアーです。壁面一杯にギターが陳列してある光景はなかなか豪華。ストラトキャスターでも一番廉価なものは10万ほどで手に入るんですね。それを知ってからUSA製のギターを一台欲しいなぁと思いながら、未だに買うところまで行ってません。箱ギターもジャズ・ギタリストが使ってるから欲しいけど、関西で育ったからなのか、フラワーショーだとか横山ホットブラザーズとかのイメージが強くて手が出しにくいです。

VQ1015 Entry
同じ楽器屋でもこっちは大阪で撮ったもの。若干ぶれてますけど、そんなことは気にしないでおきましょう。ドラムを積み上げて置いてあった光景をスナップしたもので、金属部分が光を反射して結構綺麗でした。
ちなみにこれと上の写真はノー・ファインダーで撮ってます。カメラにまともなファインダーがついてないので。

Nikon Coolpix P5100
とあるカフェで今は使われなくて店の片隅においてあったウェイター風の看板人形。窓の外に見えるビルの写り具合が気に入ってます。

Ultra Wide & Slim : Kodac Ektar 100 Canoscan 8600F
御所の南端、丸太町通りを挟んで開いてる古道具屋さん。映画のほうにもアンティーク・ショップが出てきてたのでそれにあわせて。一月頃に撮った写真で、冬の白川疎水を撮りに行った時、このUltra Wide & Slimも持っていって撮影してたんですけど、その時使っていたフィルムの中に写したものの一枚です。
色味がお気に入り。それと丸太町通りが遠くに消えていく辺りの並木だとか御所の木々の様子に古い映画っぽい感触があるようにみえるのもいい感じです。

Nikon Coolpix P5100
古道具屋繋がりで、これは東寺の近くにある古道具屋の店先に飾ってある人形。こういう人形が他にももう一体飾ってあって異様な雰囲気になってます。扉の前で監視してるように見えて、一体どんな店なんだろうと思い出すとちょっと怖くて店の中に入れない感じ。
こういう写真が面白く出来たとするならその面白さは対象物にあるのか写真そのものにあるのか判断に迷ってしまうところがありますね。できるなら写真にあるとしたいところなんですけど、写真としては対象物に寄りかかって唯シャッターを切ってるだけだし。構図といってもその対象物をターゲットにして寄っていくとそんなに奇抜な構図も取れそうにないです。一部を拡大するとか足元から見上げるとかするくらいかなぁ。
あるいはこの写真は見返した時に自分でも真正面から単純にシャッター切っただけのように見えたので、こんな風に思ったりするところもあったんですけど、考えてみれば真正面からファインダーを覗いて面白くなければおそらくシャッターは切ってなかったと思うので、真正面から見た時にわたしのなかに面白いと言う判断が働いたと考えることも出来ます。こう考えると単純に向かい合ってシャッター切っただけのように見えても、対象に感じた面白さを上手く切り出すような十分に意図的な要素を含んでることにもなるんですよね。
対象物が存在しないと成立しない写真の類では写真独自のあり方というところで色々考えることが出てきたりします。

CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100
カラフルなのも一枚。これは今月に入ってから撮ったものです。コンタックスなんていう発色のいいカメラでカラー・フィルムを使うなら色の綺麗なものを撮らないと値打ちないなぁと思った写真でした。でも京都って神社の鳥居の赤なんかは目立つんですけど、総体的にカラフルなものってわりと見つけにくいんですよね。リンゴが美味しそうです。

CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100
上のと同じフィルムに収まってた、時期的には桜が咲いてた頃の鴨川の写真。北山通りと交差する辺りで鴨川としてはちょっと北のほうになります。斜めのラインの集合体になって面白そうと思って撮ったもの。ただシャッターを切った後で飛び石を渡る人って題材としてはベタすぎたかなと思ったんですけど、仕上がった写真を見たらそうでもなかったです。
空の色が反射してるんでしょうけど、水の色が思いのほか綺麗に出てました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
Mahalia Jackson - Crying in the Chapel.
プレスリーの歌で有名な曲。わたしは昔持っていたプラターズのアルバムに入っていたのをよく聴いてたことがあります。でもこのマヘリア・ジャクソンのが圧倒的な存在感がありますね。これを聴いてしまうとプレスリーのものでさえもあまり聴く気にならなくなるかも。魂の奥深くを鷲掴みにしてゆすぶられるような感じというか、タイトルのクライングじゃないけど、この歌声を聴いてるだけでキリスト教徒でもないのに無条件で涙が出てきそうです。
でもクライングとついてるけど、この歌、実は哀しい歌じゃなくて、神様と一緒にいられて幸せで涙が出るという歌なんですね。
☆ ☆ ☆
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わたしが「Crying In The Chapel」を聴いたアルバムもベスト盤だったんですけど、わたしが知ってるジャケットのものは探しても見つからず。
他の情報も寄せ集めてみると、ジャケットはわたしのものとは違うけどどうもこのアルバムらしいです。でもアマゾンのほうでは収録曲名を書いてなかったので、本当にわたしの聴いてるベスト盤と同じものなのか確証は得られませんでした。