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虚空に浮かぶ蕁麻の扉のこと

半身


一人目は死んだ人だった。
この人は目の前までやってきて静かに横たわると、やがて動かなくなった。
これでこの人は事実の人となった。
二人目は縫う人だった。
いつもすべてのものを縫いあわせていた。
素材の違い関係なくあらゆるものを縫いあわせ、
出来上がったものは触ったことのない手触りの
奇怪な見た目のものとなった。
三人目は見る人だった。
この人は窓際に佇み、日がな一日窓の外に広がる、雨に煙る深い森を眺めていた。
四人目は無限の遠くにいる人だった。
目の前でいつもこちらの模倣をするにもかかわらず、手をのばしても届かない。
その無限の距離は絶望とともにあった。

去年の終わりごろに買った本。歩きづらく本屋まで行くのが苦痛になって、いつものように頻繁に立ち寄ることができなくなった中、久しぶりに行って目についたものを買ってみた。でも未読の本が手元にたまりすぎてるので入手した本の数はブレーキがかかってしまったのか久しぶりに行ったわりに少ない。
まずはラブクラフトの全集の3と4。ラブクラフトは海外の怪奇小説を読み始めたころに一度手を出してるんだけどなんだか肌に合わなくてそれっきりになっていた。100円で全集のうちからまばらに出ていたので今なら読めるかなと思って手元にないものに手を出してみる。大体海外の怪奇小説って怖がって読めたことがない。どこが怖いのかさっぱりわからずに読み終えてしまうことのほうが多い。恐怖の感覚ほど微妙で文化圏が違うとこれほど共通しない分野もない感じだ。
アルチュール・ランボーの詩集「イリュミナシオン」ゴダールの「気狂いピエロ」の最後の海のシーンで流れる有名な詩はこの詩集に掲載されてる。それにしても詩集なんてものは訳者によってまるで印象の違うものになって、違う訳者のものと読み比べするとかしたほうがいいのかもしれない。ランボーの劇的で特異な生涯は以前ディカプリオ主演で映画になっていたなぁ。それと今回ちょっと興味が出て調べてみて初めて知ったのはゴダールの最後が意思で選んだ安楽死だったらしいということ。これは予想外だった。
シュペルヴィエルの「海に住む少女」これは本屋で見て初めて知った。大海原に浮かんでは消える街の話とか想像力を刺激しそうな気がする。

相も変わらず読書のスピードは遅く、とにかくこれを読破しようと手元に積んである本の山がなかなかさばけない。しばらく芥川龍之介の短編や今昔物語集を拾い読みしていたが、ちょっと気分を変えようと以前途中で中断していた西澤保彦の「神のロジック 人間のマジック」を引っ張り出してきた。驚天動地の結末が待ち受けてると評判だったミステリだ。謎めいた学校に世界中から集められる生徒、そこでは推理ゲームを戦わせる授業が行われてるなど、常識からでは考え難い要素満載の環境へと主人公とともに導かれていく導入だけど、なんだかいったいこれはどうなっていくんだと云った引きの要素が自分にはちょっと弱いかなぁ。今のところまるで説明する気もなさそうな環境の羅列ばかりで、本編がなかなか始まらない。登場人物全員が本名とニックネームを持っていて、これが煩雑なうえに感情移入を妨げてもいるようだ。ひとつ文章は芥川を読み続けた後だと異様に読みやすい。芥川も決して読み難い本でもないんだけど、その辺はやっぱり時代的なものが出てるのかもしれないな。

スーパーで「家康」という名前の味噌汁を見つけた。去年の大河ドラマ目当てのものだとすると売れ残りかとも思ったが、大胆なネーミングにちょっと気をひかれた。なぜ家康かというと三河の赤だしを使ってるからだそうで、具材にみつばが使ってある。みつばは好きだし去年どうする家康も見ていたし、物は試しと買って食べてみた。
結果赤だしは塩辛いし、みつばは全然香りがしない。塩辛いのはお湯で調整できるとして、みつばは、これは駄目だ。みつばが入るだけで、たとえばうどんとかその香りで一気にグレードが跳ね上がるのに、かおりのないみつばなんて何の値打ちもない。
ということで、これはリピートなしだなぁ。
家康といえば山田裕貴演じる本田忠勝がお気に入りだった。それにしてもこの役者、東京リベンジャーズの、辮髪でこめかみにドラゴンの入れ墨を入れてるドラケンと同じ人物だったと後で知ってびっくり。常勝の武人と不良、しかも最近ではゴジラマイナス1.0で漁船の船員なんて役もやってる。家康でお気に入りだったのにゴジラでもしばらく気づかなかった。このまま変化自在のカメレオン役者に変貌していくか、このタイプの役者が好みなのでなかなか楽しみだ。
で、今年の大河なんだけど、テレビなんて見なくなって久しい中、無理やり金とられてるからこれだけは意地でも見てるんだけど、今年のは次が見たいという気をあまり起こさせないというか、そもそもドラマにできるほど紫式部の伝記なんて言う資料が残ってるんだろうかと思ってたら、日記が残ってるそうで、でもこの日記、謎めいたところもあってむしろこの謎解きのほうが紫式部の生涯よりも面白いかもしれない。
安倍晴明役がユースケ・サンタマリア。これはない。








この右下のおじさんは何の意味があるのか。このシリーズの動画にたびたび登場しいて凄い邪魔。
雨降りなんか大嫌いだけど、この動画の土砂降りの二つの光景の美しさに目をみはる。あとのほうは東山にでも行けば見出せそうだけど、だからと云ってそこからこの激しい雨の風情を自分が引き出せるかどうかとなると、自分の審美眼にまるで自信がない。きっとこの光景を目にしても素通りするだけだろうなぁ。






mRNAワクチンにおける脂質ナノ粒子の体循環が致命的欠陥


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真昼の海の輝きのなか、あの祝福と呪いが交錯した光は、ひそかにわたしに刻印を施す。刻印は身を灼きながらつぶやくだろう。あるべきものがあるべき姿として現れると。

壁機械

怪獣総進撃という昔の東宝特撮映画を見ていて、それまでのスター怪獣を一つの島に集めるって要するにジュラシックパークだ、ひょっとしてゴジラのこれがスピルバーグの発想のもとになってるんじゃないかと思った。日本は早くもアイディアとして実現してたんだと思うとちょっとうれしくなる。島の周囲にそれぞれ怪獣がいやがる霧だとか電波を発して島のエリアから外に出られなくしてるという設定なんだけど、中にはモスラの幼虫もいて、モスラと云えばインファント島の守り神、そんな存在を怪獣島なんてところにところに閉じ込めて故郷に帰れなくしてるのはいくらなんでもちょっとひどい。
昔の特撮映画のミニチュア然とした街並みがまるで箱庭に入り込んだようで、ドールハウスに住んでみたいと思い続けている自分としては垂涎の的になる。秀逸だったのは「空の大怪獣ラドン」の精密再現した福岡市・天神のミニチュア世界で、ラドンの羽の巻き起こす衝撃波でなぎ倒されてしまうんだけど、街路樹にしがみついて飛ばされないようにしてる人の中に混じってみたかった。この作りものの世界に入り込んで歩き回ってみたかった。CGを使うようになってこういう作り物めいた感覚は永遠に映画から失われてしまった。それがひたすら残念だ。

オリゴ糖を買いに病院内のコンビニに出かける。最初の主治医の先生にオリゴ糖と梅肉エキスを進められ、ここで売ってるもので構わないかと聞けばそれでいいとのこと。梅肉エキスはその後店で扱わなくなったので仕方なく別のものを別のところから調達しているが、オリゴ糖は今に至るまで最初に買ったこれを続けてる。ヤクルトが出してるガラクトオリゴ糖のシロップだ。母乳由来のガラクトオリゴ糖で、スーパーなどで売ってるフラクトオリゴ糖とは異なり、これはなぜか病院のコンビニ以外の、他の店に置いてるのをあまり見ない。こっちが潰瘍性大腸炎に適してるというわけではなくて、体に取り込んでも不具合が起きなかったという消極的理由と,、なぜかフラクトオリゴよりも高価だというのがなんだか効きそうなイメージに結びついたという理由で、わざわざ病院のコンビニまで出かけていっては、これ限定で入手してる。
でもこのところまともに歩けなくなって、なのに病院に行くには送迎バスに乗らなければならず、歩く補助に使ってるカートを持って出られない。杖だけでもまぁ歩けないこともないんだけど、どうしても行かなければならない定期の診察以外で送迎バスに乗って病院に出かけるのは現時点では結構億劫になる。
一応アマゾンで調べてみるとアマゾンでは扱っていて、でも価格はボトル一本2000円近くしてる。えぇ!病院のコンビニで売ってるのってこんなに高かったか?とちょっとびっくり。病院では最初に買った時以降そんなに値段を注視して買ってないから、いざいくらだったか2000円もしてなかったのは確かだけど正確にいくらで売ってたか記憶にない。
そこで結局値段を確かめるために病院へ行くことにした。億劫と云ったのが嘘のような行動力だ。
確認できたところでは病院のコンビニで売っていたヤクルトのオリゴ糖の値段は1200円だった。かたやアマゾンの送料別の2000円に対して同じものがなんと1200円。この差はいったい何だろう。何だか掘り出し物を発見したような気分になって、コンビニを出る時には思わず2本も買ってた。朝のヨーグルトに少し入れる程度だからボトル2本消費するのにいったいいつまでかかるんだ。
帰宅してからアマゾンに確認しに行くと、残り一本だったものが売り切れて在庫なしになっていた。あの2000円のを誰かが買ったんだ。買った人はまさか1200円で売ってるなんて知らないだろうなあと思うと、妙な勝利者感を感じた。
ところで母乳由来ということで、ヤクルトのオリゴ糖製造工場では、おっぱいが張った女性担当要員がずらっと並んで、一斉におっぱいを絞り出してる製造風景が頭に浮かんだんだけど、母乳由来なんて言うものの原料は実際のところどうやって確保してるんだろうなあ。

大好きな曲 Look to the Rainbow









起動

2022 伏見稲荷01
真ん中で腕組んでる兄ちゃんが妙に主張してるなぁ。




伏見稲荷02

去年書いたものを読んでみると初詣は9日に行っていた。元々人が多いところが大の苦手と云うこともあって、毎年こんな感じになるんだけど、今年もその例にならって、でもそれでもちょっと早めの7日の日に伏見稲荷で初詣をしてきた。元旦から早くもお正月の気分なんかにはなかなかなれないままに、さらにそのあと7日も経っていればほとんど普通に伏見稲荷に遊びに行ってるのと変わらない。ハレと云う特別の時間であるお正月も、年々こちらから能動的にお正月だと盛り上げていかない限り、もはや味わうことも難しくなってきている。ちなみに元旦は、それでもちょっとはお正月っぽい雰囲気を味わいたいなと思って一日を始めたものの、久しぶりに食べたお餅やなにやかやでなんだか胃がもたれてしまって、昼過ぎからは家でダウンしていた。
曇り空の寒い日で、一応参拝客も少ないなりにそれでも参道の人の流れは途切れないといった混み具合と云うか空き具合。参拝客がかなり少なくなっても交通整理の警官はまだ出張してきていて、特に整理しなくても安全に渡れる程度になった車道で人の流れをさばいていた。屋台もまだちらほらと店を開いてるし、お正月の熱気も探してみればいろんな隅っこに見出すこともできなくはない。
正面の鳥居の前で一礼して、鳥居の端を通って本殿へ。今年はコロナでどうだったかは知らないけど、三が日に行っていれば必ず目にしていた、本殿に近づくことさえ困難なほどの巨大な人の壁も既になく、スムーズに参拝を済ませることができる。一つ中途半端なのはお正月に参拝に来ると、鈴をしまい込んでいるために鳴らせないこと。あれを鳴らさないと神様にここへ来てることを知らせられないような気がして頼りない。
去年何事もなく無事に過ごせたことへの感謝と今年のことをお願いして参拝を済ませた後、お守りを買いに行く。去年はここで判断ミスと云うか、前の人が買ったのにつられて狐のマスコット状のお守りを買ってしまい、携帯するのに途方にくれた。結局いつも斜め掛けにしている小さなポーチに一年間ぶら下げていたんだけど、こういうものをぶら下げる趣味の持ち主ではないから、はっきり言って始末に困るような携帯の仕方だった。そこで今年はごく普通の形のお守り。毎年希望が全部入ってるお得な総合お守りだったんだけど、今年はちょっと個別に特化した健康のお守りと金運のお守りを買った。実はこの初詣の後買い物で歩き回っていて、ポーチに仮にしまい込んだこの買ったばかりのお守りを、ポーチから財布を出す時に財布に引っ掛けて足もとに落としてしまうと云うことがあった。金運と健康のお守りを手に入れたちょっとあとで下方に落としてしまうって、なんだかげんが悪いというか、まぁこのことに関してはあまり考えないことにしよう。
で、恒例のおみくじとなり、今年ひいたのは末吉だった。悪くはないし、まぁ良いんだろうけど、ちっとも感情が波立たない。悪い結果だったら神社に結び付けて悪いものを全部神様に押しつけてくるところだったんだけど、末吉っていうのはどうすればいいのか。大吉なら持って帰るにしても、心ざわめかないこのおみくじは結んでくるほうに入るのか。おみくじを結ぶ場所で突っ立ったまま逡巡していると、近くに結びに来た人がいて、手元を見るとその人も末吉をひいていた。都合よく末吉仲間が寄ってきて手元を見せてくれたのも何かの啓示かもしれないと、結局それをみてわたしも神社に結んでくることにした。家に帰ってから調べてみたら、吉関連のおみくじも神様と縁を結ぶと云うような意味合いで境内に結んで残してくることもあるそうで、でも大吉とか、伏見稲荷だとさらに大大吉なんていうのもあるんだけど、たとえ縁を結ぶ意味があると知った後だったとしても、そんなのをひいたらやっぱり家に持って帰るほうを選ぶだろうなぁ。

裏手にそびえる稲荷山のほうも登りたいところもあったんだけど、やっぱり体調が許さない。またいつか登りたいね。

その後京都駅まで出てイオンに入っているダイソーに寄ったり、ブックオフに行ってみたりしつつ帰宅した。

買った本
ケイト・モートン 「秘密上・下」 東京創元社
ウィリアム・バロウズ 「ジャンキー」 河出文庫
トーベ・ヤンソン短編集 ちくま文庫
内田樹 「街場の現代思想」文春文庫
谷崎潤一郎訳 「源氏物語 全5巻」 中公文庫
「秘密」だけ単行本で220円、あとは全部100円。
年末から年始にかけて読んでいたプリーストの「魔法」は読了。今はジャック・リッチーの「クライム・マシン」を読んでいるんだけど、これもあとちょっとで読み終わる。次は何を読もうか。


Maria Rita - Heróis da Liberdade








知覚の地図 XXⅢ 視人たちの甘美な駆動装置

一応生存報告。眩暈に順応することを強いられるような生活を続けながら生きている。


つい先日、フランスの文化人類学者であり、のちに思想界を席巻することになる構造主義の創始者、クロード・レヴィ=ストロースの、その名前の英語読みとあのジーンズのリーバイス、Levi Straussが同じであることに気づいた。衝撃的だった。二つとも古くから頭の中に存在していたのに、なぜ今まで気づかなかったんだろう。もっとも細かいことを云えば、リーバイスのほうはStraussが姓で、文化人類学者のほうはレヴィ=ストロースが姓にあたり、まるで違うそうなんだけど、そんなことはこの衝撃の前では些細なことだろう。
大昔、大学の構内をリーバイスを穿いて、レヴィ=ストロースの「野生の思考」を携えて歩いていたこともあったかもしれないなぁと想像してみたりして。
これはたまたま頭の中にあったものに気づかない関連性があって、それに気づいたっていうことだったんだけど、頭のなかのまるで関係もなく眠っているような膨大なものの間に思いもつかない関連性を縦横無尽に生み出せる方法があって、それをマスターし駆使できるなら、世界はきっと面白い状況へと変貌するだろうと確信する。

格子の中に横たわる

四日に眩暈とともに目覚めてから二週間経過。四五日もたてば回転する世界もふらつきもかなり収まって来て、明日できることは今日しないとばかりに放置していた特定疾患の医療費受給資格継続の申請書を書いたり、提出に必要でまだそろっていなかった書類を発行してもらいに役所まで出かけたりと、やっぱりやるべきことはやれるときにやっておくべきだったなぁと思いつつ、まだふらつきの残る足取りで出歩いたりして、一週間も過ぎる頃には眩暈に関してはまぁ云うなら高をくくり若干油断もしていた。すると十日ほどしたころにまた振り出し近くに戻ってしまうように世界ぐるぐる状態が復活、このまま収まっていくんだろうと思っていたところへのこの眩暈の再来は精神的にも結構きつかった。その揺り戻しも今は随分と解消されてきたものの、またこれがやってくる可能性もあるんだと思うと、こう思うこともストレスとなりそうで心持も不安定になる。やっぱり霧が一気に晴れるように気分も一新、一気に回復という具合にはいかないようだ。
眩暈が始まって頭を動かすたびに世界が目の前でぐるぐると回転し始める状態では動くこともできず、何とか病院に行けたのは発病から二日後のことだった。潰瘍性大腸炎で診てもらっている大病院へ、電車二駅と駅前からの送迎バス約五分ほどの移動に耐えられるかどうかかなり不安だったけど、意外とトラブルもなくやり過ごすことができて、路上で倒れてしまうこともなく病院に到着。受付で症状のことを話すととりあえず耳鼻科だろうと云うことで、耳鼻科へ案内された。
診察の結果良性発作性頭位めまい症と診断。難聴などの耳のトラブルや頭痛、嘔吐等もなく、特有の眼振が出ていることから、診断は簡単だったようだ。いかつい病名だけど眩暈としては一番オーソドックスな病名でもある。ちなみにこの眼振の状態を見るために焦点の合わない眼鏡をかけさせられて頭を揺り動かされ、わざと眩暈を起こす検査をやらされるんだけど、とてもじゃないけど最後までで耐え切れず、途中で思わず眼を閉じてしまった。
内科のほうで予防的にもらっていた眩暈の薬、メリスロンが手元にあって、まぁ眩暈を起こしてない状態ではあまり飲んでいなかったんだけど、それを続けて飲んでいればいいと云われ、追加で吐き気止めの薬をもらって診察は終了した。この辺は同じ病院内と云うことで他の科で処方された薬の状況も全部筒抜けとなり、ややこしい状態にはなりにくい。病院にやってくるまでは思っていた以上にトラブルなく来れたのに、この眼振検査のせいで診察後は来た時よりもはるかに気分は悪くなっていて、ふらつきとともにむかつく感じも若干出始めて、帰りの送迎バスからはちょっとした車酔い状態になっていた。
三半規管の中にある平衡感覚をつかさどる装置の一部である耳石が何らかの理由で剥がれ、三半規管の中のイレギュラーな位置へと漂いだしてしまうことで平衡感覚がかき乱されるというのがこの眩暈のメカニズムだ。眩暈と云えば立ち眩みのようなものをイメージするかもしれないけれど、この場合は文字通りの回転で、遊園地のコーヒーカップで思い切り激しく回転させられたような症状として現れる。耳石の位置によって回転が縦方向になった場合は宙返りするジェットコースターってところか。きっかけは上を見上げたり俯いたり、あるいは後ろに体を倒すような特定の方向へ頭を動かしてしまうこと。その動きで三半規管の中で浮遊する耳石も動き平衡感覚を翻弄して視界が回転し始める。回転は三半規管の中で耳石がおとなしくなるまでの数十秒間は続く。頭を眩暈誘発ポイントへ動かすたびにこの一連の症状が繰り返されるので、もう気持ち悪いから乗るのは嫌だと云ってるのに、ふらふらのままで無理やりまたコーヒーカップに乗せられるような状態が続くことになる。
物理的なプロセスが原因なので、遊離した耳石が元の正常な位置に戻るか、溶けて吸収されるかしない限り、眩暈は治まらない。薬は体感的にも付随して現れる不快な症状を緩和するくらいの役目しか果たしていないような気がする。薬でこの回転そのものを止めることは今のところ不可能なんじゃないかな。
遊離して三半規管のリンパの中で漂っている耳石をもとの位置に戻すための体操っていうのもあって、今回の診察でこの体操をやりましょうとやり方を書いたパンフレットももらったけど、眩暈の方向へ頭を動かすような体操なので、こんなの恐ろしくてできないといまだに手付かずのままだ。
おそらく早くても治まるまでにはひと月くらいはかかりそうだ。目が回ることに否応なしに体を順応させられるような生活を続けているうちに、気がつけば頭を動かしても世界は回らなくなっていると、そんな感じで治っていくんじゃないかと思っている。

円

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んでいる。厳密に意味を定義しない、云うなら詩人らしい含みの多い言葉と、由来を知らなければ意味にさえも届かない比喩を多用し、一方でシュルレアリスムについての定義を見定めながらも、その定義は力強さともいえるほどシンプルなものなのに、書いたブルトン本人が宣言の中で「くねくねと蛇行する、頭が変になりそうな文章」と云ってしまっているような、そのシンプルな定義とつかず離れずの微妙な距離感を保ちながら巡り続け攪拌してくる様々な論旨は、注意力を緩めなくても容易に道筋を見失ってしまい、眩暈中の脳みそにはかなりきつい。眩暈がなくても、何度挑戦してもこんな感じの読みっぷりになって、いまだに頭の中に綺麗に収まりきってくれない。まぁその分何度でも読めるっていうことでもあるんだけど、でもやっぱり今の状態で読む本じゃないなぁ。この「シュルレアリスム宣言」を序文に掲げた実践編、オートマティスムによる小説「溶ける魚」のほうは眩暈を加算した状態で読むと、逆に酩酊感覚が加速されて、暴走する言語との戯れにも普段よりも読みごたえが出てきそうだ。



さてこれは陰謀論なのだろうか。この心理作戦が実際に行われているとすれば極めて巧妙だと思う。
『プリオン病/クロイツフェルト・ヤコブ病/狂牛病の主な症状』 (Tomoko Hoeven  6月25日)

誰も「コロナ」で死んでいない―医師らの告発