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起動

2022 伏見稲荷01
真ん中で腕組んでる兄ちゃんが妙に主張してるなぁ。




伏見稲荷02

去年書いたものを読んでみると初詣は9日に行っていた。元々人が多いところが大の苦手と云うこともあって、毎年こんな感じになるんだけど、今年もその例にならって、でもそれでもちょっと早めの7日の日に伏見稲荷で初詣をしてきた。元旦から早くもお正月の気分なんかにはなかなかなれないままに、さらにそのあと7日も経っていればほとんど普通に伏見稲荷に遊びに行ってるのと変わらない。ハレと云う特別の時間であるお正月も、年々こちらから能動的にお正月だと盛り上げていかない限り、もはや味わうことも難しくなってきている。ちなみに元旦は、それでもちょっとはお正月っぽい雰囲気を味わいたいなと思って一日を始めたものの、久しぶりに食べたお餅やなにやかやでなんだか胃がもたれてしまって、昼過ぎからは家でダウンしていた。
曇り空の寒い日で、一応参拝客も少ないなりにそれでも参道の人の流れは途切れないといった混み具合と云うか空き具合。参拝客がかなり少なくなっても交通整理の警官はまだ出張してきていて、特に整理しなくても安全に渡れる程度になった車道で人の流れをさばいていた。屋台もまだちらほらと店を開いてるし、お正月の熱気も探してみればいろんな隅っこに見出すこともできなくはない。
正面の鳥居の前で一礼して、鳥居の端を通って本殿へ。今年はコロナでどうだったかは知らないけど、三が日に行っていれば必ず目にしていた、本殿に近づくことさえ困難なほどの巨大な人の壁も既になく、スムーズに参拝を済ませることができる。一つ中途半端なのはお正月に参拝に来ると、鈴をしまい込んでいるために鳴らせないこと。あれを鳴らさないと神様にここへ来てることを知らせられないような気がして頼りない。
去年何事もなく無事に過ごせたことへの感謝と今年のことをお願いして参拝を済ませた後、お守りを買いに行く。去年はここで判断ミスと云うか、前の人が買ったのにつられて狐のマスコット状のお守りを買ってしまい、携帯するのに途方にくれた。結局いつも斜め掛けにしている小さなポーチに一年間ぶら下げていたんだけど、こういうものをぶら下げる趣味の持ち主ではないから、はっきり言って始末に困るような携帯の仕方だった。そこで今年はごく普通の形のお守り。毎年希望が全部入ってるお得な総合お守りだったんだけど、今年はちょっと個別に特化した健康のお守りと金運のお守りを買った。実はこの初詣の後買い物で歩き回っていて、ポーチに仮にしまい込んだこの買ったばかりのお守りを、ポーチから財布を出す時に財布に引っ掛けて足もとに落としてしまうと云うことがあった。金運と健康のお守りを手に入れたちょっとあとで下方に落としてしまうって、なんだかげんが悪いというか、まぁこのことに関してはあまり考えないことにしよう。
で、恒例のおみくじとなり、今年ひいたのは末吉だった。悪くはないし、まぁ良いんだろうけど、ちっとも感情が波立たない。悪い結果だったら神社に結び付けて悪いものを全部神様に押しつけてくるところだったんだけど、末吉っていうのはどうすればいいのか。大吉なら持って帰るにしても、心ざわめかないこのおみくじは結んでくるほうに入るのか。おみくじを結ぶ場所で突っ立ったまま逡巡していると、近くに結びに来た人がいて、手元を見るとその人も末吉をひいていた。都合よく末吉仲間が寄ってきて手元を見せてくれたのも何かの啓示かもしれないと、結局それをみてわたしも神社に結んでくることにした。家に帰ってから調べてみたら、吉関連のおみくじも神様と縁を結ぶと云うような意味合いで境内に結んで残してくることもあるそうで、でも大吉とか、伏見稲荷だとさらに大大吉なんていうのもあるんだけど、たとえ縁を結ぶ意味があると知った後だったとしても、そんなのをひいたらやっぱり家に持って帰るほうを選ぶだろうなぁ。

裏手にそびえる稲荷山のほうも登りたいところもあったんだけど、やっぱり体調が許さない。またいつか登りたいね。

その後京都駅まで出てイオンに入っているダイソーに寄ったり、ブックオフに行ってみたりしつつ帰宅した。

買った本
ケイト・モートン 「秘密上・下」 東京創元社
ウィリアム・バロウズ 「ジャンキー」 河出文庫
トーベ・ヤンソン短編集 ちくま文庫
内田樹 「街場の現代思想」文春文庫
谷崎潤一郎訳 「源氏物語 全5巻」 中公文庫
「秘密」だけ単行本で220円、あとは全部100円。
年末から年始にかけて読んでいたプリーストの「魔法」は読了。今はジャック・リッチーの「クライム・マシン」を読んでいるんだけど、これもあとちょっとで読み終わる。次は何を読もうか。


Maria Rita - Heróis da Liberdade








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知覚の地図 XXⅢ 視人たちの甘美な駆動装置

一応生存報告。眩暈に順応することを強いられるような生活を続けながら生きている。


つい先日、フランスの文化人類学者であり、のちに思想界を席巻することになる構造主義の創始者、クロード・レヴィ=ストロースの、その名前の英語読みとあのジーンズのリーバイス、Levi Straussが同じであることに気づいた。衝撃的だった。二つとも古くから頭の中に存在していたのに、なぜ今まで気づかなかったんだろう。もっとも細かいことを云えば、リーバイスのほうはStraussが姓で、文化人類学者のほうはレヴィ=ストロースが姓にあたり、まるで違うそうなんだけど、そんなことはこの衝撃の前では些細なことだろう。
大昔、大学の構内をリーバイスを穿いて、レヴィ=ストロースの「野生の思考」を携えて歩いていたこともあったかもしれないなぁと想像してみたりして。
これはたまたま頭の中にあったものに気づかない関連性があって、それに気づいたっていうことだったんだけど、頭のなかのまるで関係もなく眠っているような膨大なものの間に思いもつかない関連性を縦横無尽に生み出せる方法があって、それをマスターし駆使できるなら、世界はきっと面白い状況へと変貌するだろうと確信する。

格子の中に横たわる

四日に眩暈とともに目覚めてから二週間経過。四五日もたてば回転する世界もふらつきもかなり収まって来て、明日できることは今日しないとばかりに放置していた特定疾患の医療費受給資格継続の申請書を書いたり、提出に必要でまだそろっていなかった書類を発行してもらいに役所まで出かけたりと、やっぱりやるべきことはやれるときにやっておくべきだったなぁと思いつつ、まだふらつきの残る足取りで出歩いたりして、一週間も過ぎる頃には眩暈に関してはまぁ云うなら高をくくり若干油断もしていた。すると十日ほどしたころにまた振り出し近くに戻ってしまうように世界ぐるぐる状態が復活、このまま収まっていくんだろうと思っていたところへのこの眩暈の再来は精神的にも結構きつかった。その揺り戻しも今は随分と解消されてきたものの、またこれがやってくる可能性もあるんだと思うと、こう思うこともストレスとなりそうで心持も不安定になる。やっぱり霧が一気に晴れるように気分も一新、一気に回復という具合にはいかないようだ。
眩暈が始まって頭を動かすたびに世界が目の前でぐるぐると回転し始める状態では動くこともできず、何とか病院に行けたのは発病から二日後のことだった。潰瘍性大腸炎で診てもらっている大病院へ、電車二駅と駅前からの送迎バス約五分ほどの移動に耐えられるかどうかかなり不安だったけど、意外とトラブルもなくやり過ごすことができて、路上で倒れてしまうこともなく病院に到着。受付で症状のことを話すととりあえず耳鼻科だろうと云うことで、耳鼻科へ案内された。
診察の結果良性発作性頭位めまい症と診断。難聴などの耳のトラブルや頭痛、嘔吐等もなく、特有の眼振が出ていることから、診断は簡単だったようだ。いかつい病名だけど眩暈としては一番オーソドックスな病名でもある。ちなみにこの眼振の状態を見るために焦点の合わない眼鏡をかけさせられて頭を揺り動かされ、わざと眩暈を起こす検査をやらされるんだけど、とてもじゃないけど最後までで耐え切れず、途中で思わず眼を閉じてしまった。
内科のほうで予防的にもらっていた眩暈の薬、メリスロンが手元にあって、まぁ眩暈を起こしてない状態ではあまり飲んでいなかったんだけど、それを続けて飲んでいればいいと云われ、追加で吐き気止めの薬をもらって診察は終了した。この辺は同じ病院内と云うことで他の科で処方された薬の状況も全部筒抜けとなり、ややこしい状態にはなりにくい。病院にやってくるまでは思っていた以上にトラブルなく来れたのに、この眼振検査のせいで診察後は来た時よりもはるかに気分は悪くなっていて、ふらつきとともにむかつく感じも若干出始めて、帰りの送迎バスからはちょっとした車酔い状態になっていた。
三半規管の中にある平衡感覚をつかさどる装置の一部である耳石が何らかの理由で剥がれ、三半規管の中のイレギュラーな位置へと漂いだしてしまうことで平衡感覚がかき乱されるというのがこの眩暈のメカニズムだ。眩暈と云えば立ち眩みのようなものをイメージするかもしれないけれど、この場合は文字通りの回転で、遊園地のコーヒーカップで思い切り激しく回転させられたような症状として現れる。耳石の位置によって回転が縦方向になった場合は宙返りするジェットコースターってところか。きっかけは上を見上げたり俯いたり、あるいは後ろに体を倒すような特定の方向へ頭を動かしてしまうこと。その動きで三半規管の中で浮遊する耳石も動き平衡感覚を翻弄して視界が回転し始める。回転は三半規管の中で耳石がおとなしくなるまでの数十秒間は続く。頭を眩暈誘発ポイントへ動かすたびにこの一連の症状が繰り返されるので、もう気持ち悪いから乗るのは嫌だと云ってるのに、ふらふらのままで無理やりまたコーヒーカップに乗せられるような状態が続くことになる。
物理的なプロセスが原因なので、遊離した耳石が元の正常な位置に戻るか、溶けて吸収されるかしない限り、眩暈は治まらない。薬は体感的にも付随して現れる不快な症状を緩和するくらいの役目しか果たしていないような気がする。薬でこの回転そのものを止めることは今のところ不可能なんじゃないかな。
遊離して三半規管のリンパの中で漂っている耳石をもとの位置に戻すための体操っていうのもあって、今回の診察でこの体操をやりましょうとやり方を書いたパンフレットももらったけど、眩暈の方向へ頭を動かすような体操なので、こんなの恐ろしくてできないといまだに手付かずのままだ。
おそらく早くても治まるまでにはひと月くらいはかかりそうだ。目が回ることに否応なしに体を順応させられるような生活を続けているうちに、気がつけば頭を動かしても世界は回らなくなっていると、そんな感じで治っていくんじゃないかと思っている。

円

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んでいる。厳密に意味を定義しない、云うなら詩人らしい含みの多い言葉と、由来を知らなければ意味にさえも届かない比喩を多用し、一方でシュルレアリスムについての定義を見定めながらも、その定義は力強さともいえるほどシンプルなものなのに、書いたブルトン本人が宣言の中で「くねくねと蛇行する、頭が変になりそうな文章」と云ってしまっているような、そのシンプルな定義とつかず離れずの微妙な距離感を保ちながら巡り続け攪拌してくる様々な論旨は、注意力を緩めなくても容易に道筋を見失ってしまい、眩暈中の脳みそにはかなりきつい。眩暈がなくても、何度挑戦してもこんな感じの読みっぷりになって、いまだに頭の中に綺麗に収まりきってくれない。まぁその分何度でも読めるっていうことでもあるんだけど、でもやっぱり今の状態で読む本じゃないなぁ。この「シュルレアリスム宣言」を序文に掲げた実践編、オートマティスムによる小説「溶ける魚」のほうは眩暈を加算した状態で読むと、逆に酩酊感覚が加速されて、暴走する言語との戯れにも普段よりも読みごたえが出てきそうだ。



さてこれは陰謀論なのだろうか。この心理作戦が実際に行われているとすれば極めて巧妙だと思う。
『プリオン病/クロイツフェルト・ヤコブ病/狂牛病の主な症状』 (Tomoko Hoeven  6月25日)

誰も「コロナ」で死んでいない―医師らの告発



表徴 / Bat-Rat-Spider Creature

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あちら





階段





天空の蜂





砕け散る光
(1)(3) Nikon Coolpix S9700 (2) Contax T3 (4) ハチカメラ (5) Fuji Clear Shot S AF
(2) Fuji 業務用400 (4) 110フィルム (5) Lomography Colornegative 400



去年の夏、それ以前から急降下しつつあった体調に対して、大腸内視鏡検査および組織検査等で潰瘍性大腸炎と診断される。その後一月ほどサラゾスルファピリジンの投薬、さらにその一月がすんでから薬をペンタサ顆粒に変えてさらに二ヶ月ほど、そしてその飲み薬にさらにペンタサの座薬を追加して去年の年末頃までにはわりと普通の体調に近づくところまではこぎつけることが出来ていた。ところが今年に入ってお正月を過ぎた辺りから症状が再燃し始めて、粘液と下血の大バーゲンセールと化す。一日に十数回、便器が血に染まるのを見るのは、その原因がわかっていて理屈として納得はしていても、感情は荒れ騒ぎ気が滅入ること夥しく、症状が収まりつつあった去年の暮れ頃には何だ難病と云ってもこれならどうってことないと思っていたある種の安心感ははかなくも崩れ去って、さすが難病指定を受ける病気だけあると思い知らされることとなった。安倍総理がこの病気で左翼の心無い中傷、嘲笑に晒されていたけれど、罹ってみるとこの病気の性悪さ極悪さを嫌というほど体感できる。何しろ外出が出来なくなる。いきなりの猛烈な便意に突き上げられて、この唐突さはその直前まで気配さえなかったのに瞬間的にマックスに近い状態でやってくるんだけど、ものの一、二分で駆け込めるトイレをいつも視界の隅に捉えていないとその場で詰んでしまうような状態になる。ちなみにわたしは二階の自室でいきなりマックスのこれに襲われて、一階のトイレに駆け込むのに間に合わず階段途中で洩らしてしまったことがある。本気で情けなくなるよ、これ。そしてこんなことが外出先で起こったらなんて思うと、これはもう恐怖でしかない。ちなみに潰瘍性大腸炎は大腸内部に炎症、糜爛、潰瘍などが生じる病気なんだけど未だに原因が特定されておらず、完治させる治療法も確立されていないために難病の指定を受けている。一応免疫の異常ということくらいは分かっているらしいものの、なぜ免疫が異常を起こして自分の腸を攻撃してしまうのかというレベルまでは解明されていないということなのか、治すんじゃなくてとにかく症状を押える類の治療しか出来ないのが現状のようだ。根本的な部分で治せない病気ゆえに症状が緩やかな時と派手に発現してしまう時期を繰り返すような形となって、治療はまず寛解させて症状が治まった状態へと持って行った後、その寛解状態を出来るだけ長く維持していくという形を取ることになる。たとえ下血も粘液の下痢も無く、お腹が痛むこともまるでなくて美味しくものが食べられるなんていう状態になっても、この病気の場合はそれは治ったわけじゃなくてただ症状が治まっているだけということだ。わたしの場合、結局ペンタサ顆粒で寛解を維持できなくなって今年に入ってからはリアルダ錠とペンタサ座薬という組み合わせに薬が変わった。リアルダもペンタサも中に入っている薬はメサラジンといって同じものなんだけど薬の体内での振舞いがかなり異なる。ペンタサがメサラジンを徐々に放出するカプセル構造の顆粒で出来ている一方、リアルダのほうは錠剤の形をしており、大腸内のpHで始めてその錠剤が開くような仕組みでメサラジンを大腸患部へとピンポイントで運んでいく。このリアルダがそれなりの効果を発揮してくれてるのか、明日のことは分からないにしても今のところは今年に入ってから大暴れしていた症状も徐々に治まりつつある。リアルダの再燃時の服用量である4錠を夕ご飯のあとに服用する。冷蔵庫保存という条件が若干厄介だけど、この一日分を一度に服用してお終いというのは薬としては扱いやすい。ただ服用回数がシンプルなのはいいにしても、一個の錠剤がとにかく馬鹿でかくて、これ簡単に飲めない人もいるんじゃないかな。アメリカのサプリなんかによくありそうな巨大な錠剤が頭に浮かぶ。わたしはアメリカのサプリとか使っていたことがあるのでこの巨大なサイズについてはそれほどビビらなかったんだけど、4個一緒にはさすがに飲めなくて、一錠単位で4回に分けて服用している。状態が落ち着いている時以外は写真を撮りに出かけられなくなっているのが歯がゆい。それでもカメラ持ってできるだけ撮ろうとしているんだけど、思うのはこういう体の状態は撮る写真に何か蔭のようなものを落としているんだろうかということ。どこか以前と違う何かが混ざりこんだ写真を撮ることになっているのか、あるいは潰瘍性大腸炎がどうであれ、そんなものの影響なんかまるで感知出来ないくらいいつも通りの写真を撮り続けているのか、こういうのはちょっと興味深いところだ。自分が身体のどの部分に依存して写真を撮っているのか、ひょっとしたら写真が教えてくれるようになるかもしれない。今回の写真は街中に潜むしるしを拾い集めて、そのしるしに秘められた暗号でも浮き上がらせるべく何か画策してやろうかと思ったものの完全に腰砕け。中井英夫の「人形たちの夜」のパート3探偵小説編みたいな、見慣れた街が非在の空間へと裏返るようなことが体験できれば面白かったんだけど。何だか今回の選択は写真相互の化学反応さえも呼び起こしてなさそうだ。街の中でなぜか気を引くオブジェや空間。気を引くがゆえに注意を集中していると、そばだてる耳元にそれらが語りかけてくる何かの啓示や指示めいたものが微かに届いてくる。そういうものに耳を傾けているうちに日常は何か異様なものへと変容していく。目の前の立て看板から本当に神の啓示が聞こえてきたら、これはちょっと危ない状況だと思うので、そういうのを擬似的に写真を撮ることで体験できないかなと、そういう遊びをしてみたい。ちなみに最初の「K」階段の写真が一番最近撮った写真。潰瘍性大腸炎が再燃し始めた頃に撮った写真だ。写真のストックを眺めてみると今までにこのタイプの階段の写真を複数撮っている。上がっていく階段が光を暗示する方向へと消えていくというパターンが多くて、こういうジェイコブス・ラダーっぽいのが好みなのか。階段特集なんて纏め方で他のもそのうち披露してみよう。この場合気に入ってシャッターを切った要因は、上方へ消えていく階段であることのほかに、薄暗い中で階段を浮かび上がらせている光が仄暗く柔らかい間接光だったということもあった。今大阪市立美術館で展覧会をやってるから書いてみたりするけど、まるでフェルメールだ。駐車場のフェルメール。フェルメールが宇治のこの場所に立ったら、この左上から差し込む光の中に浮かび上がるがらんとした空間と階段と自動車を前にカンバスを立てているかもしれない。




50~60年代の古いSF映画に登場してカルト的な人気のあるモンスター、Bat-Rat-Spider。「The Angry Red Planet」という映画に出てくる、監督のイブ・メルキオールは小説家でもある才人で、おそらく今では何一つ入手できないと思うけどナチスが絡むような冒険小説が講談社や角川から出版されたことがある。このモンスター、長い間スチール写真のみで見ていたもので、その頃からどんな動きをするんだろうとか、その異様な外観も相まって頭の一角に居座り続けていた。映画を見る機会があった時、今でも覚えてるんだけど大昔KBS京都がまだ近畿放送といっていた頃の昼の映画劇場で始めて動いているのを見た時には本当に感動した。でもこの愛すべきモンスターのこの映画の中でのあしらわれ方はちょっと酷いと思う。死んでると思われたのか何だか知らないけど、ただそこにじっと佇んでいただけなのに、思慮を欠いた宇宙飛行士に足を傷つけられて、正当防衛の反撃をやったら今度は眼を潰されてしまう、このモンスターの運命には本当に同情する。眼なんか潰されたら、あのよたよたと逃げていった後、おそらくまともに生きていけなかったんじゃないか。このバットラットスパイダーがこの映画のサイケデリックな造形を一番体現しているモンスターだけど他のモンスターも結構シュールでセンス・オブ・ワンダーに満ち溢れていて楽しい。今の映画では映像はリアリティに満ち溢れているくせに、こういう異世界的な幻想感覚ってなかなか感じ取れないので、この頃のSF映画は本当に好きだ。




邦題は「巨大アメーバの惑星」確かに巨大アメーバは出てくるんだけど、それでも原題そのままか、直訳でも良かったんじゃないかと思う。




PCクラッシュとようやくの復帰。 【写真】Flowers 【音楽】 復活の狼煙 Pat Martino & Mike Stern Outrider

ブログ放置中にもかかわらず訪問していただいていた方々へどうもありがとうございました。タイトルにあるとおりPCがクラッシュして、ネットに繋げなくなってました。

一応記録として書いておくと、クラッシュしたのは連休の真っ最中だった2日のこと。
朝PCをつけて中古カメラショップのページで何か面白そうなものが出ていないか眺めてる時にいきなりモニタがブラックアウト。もう10年以上使ってるPCだったからいわゆる致命的エラーっていうのもたまに起こしたりするので、この時もその類かと思ってPCが自動で再起動するのを待っていたのに真っ暗なモニタの状態はいつ果てるともなく続き、結局二度と再起動して元通りになった画面を見られるようにはなりませんでした。
その日は午後から京都駅前のヨドバシカメラに出かけて、もうほとんど壊れかけのPCだったからしばらく前に店頭でチラシを貰ってきてたりしたんだけど、その時から状態が変わっているのかどうか様子伺いに行ってきました。
ずっと使っていたのはDELLのワークステーションで注文時に中身の構成を好きなように変更できるから、今回もDELL中心でチラシを貰ってきていたのが、ベースになる機種に変更はなかったけどこの日の様子伺いで以前よりも2万くらい高くなっているのを知りました。

かと言ってPCがないと本当に不便なので、帰宅してからしばらく考え、結局値上がりした分をスペックを落とすことで妥協することに決定。メモリの搭載量を若干減らし12Gに、基本パッケージではBRディスクドライブだったのをDVDに変更するという形にして、どちらも必要とあれば後で簡単に追加できるし、メモリに関してはそれまでに使っていたワークステーションが1Gだったから、スペックダウンしても10倍以上という形になっていたので、相当快適になるだろうと翌日の3日に早速注文しに行ってきました。

あとテカテカの光沢モニタはどうにも使い辛そうだったので、非光沢のものに変更したくらい。売り場で捕まえたDELLから派遣できていた店員にモニタは光沢がないほうがいいと言うと、即座に「高機能のほうですね」なんて返ってきたけど、その辺はどうなんだろう。テカテカ液晶のほうが新しく出てきたから機能的には高そうなイメージもあったんだけど。
店の人は商品の確認や支払いのことなどを処理しているときに写真やられるんですかと聞いていたから、テカテカじゃないモニターを買う人って写真を見るのが目的の人が多いのかもしれないです。
こういうことは前もって決めていたから注文はそれほど滞ることなく、まぁ大体考えていた予算内でおさめることができるようでした。

ちなみに前日の朝まで動いていたワークステーションのこともちょっと書いておくと、10年位前に3DCGのソフトを動かすために買ったもので3DCG用のAPIであったオープンGLに特化したグラフィックカードなんかをそろえていったら当時で50万くらいになった代物でした。それでも3DCG用途のワークステーションでは安いほうで、3DCGは今でもそうなんだろうけどソフト、ハードともにとにかく高いものばかりでした。
ワークステーション用のCPUだったXIONを二基搭載、グラフィックはクアドロを使ったものだったけど、今回PCを新しくするに際していろいろ見て回って、ペンティアムなんか完全に消えてしまってるのに、XIONだとかはいまだにワークステーション用に進化し続けてるのを知ってなんかちょっと楽しかったです。
3Dはこんなワークステーションを買ったにもかかわらずそのうちあまり興味を引かなくなってしまいました。写真と見まがうばかりの絵が製作できるんだけど、写真とそっくりなら写真撮ってくればいいわけだし、モデリングの作業はモニタの中の仮想空間で粘土細工でもやってるような感じで楽しかったけど、そのうち物質的な触感もない作業に物足りなさを覚えて、実際に粘土で細工してるほうが絶対に面白いと思い出すと、モニタの中で仮想的な粘土をこねくり回してるのも物足りなさが際立つようになってきました。
こういうことは一度まとめて書いてみたいけど、ともあれ10年前にワークステーションを買った動機は今はほとんど切実なものとしてわたしの中には存在していなくなっていたので、今回買ったのは写真をPC上で管理できる程度、フォトショップがストレスなしに動かせる程度の性能があれば十分ということで機種を選ぶことになりました。おそらく一番安い形で買っても10年前のワークステーションよりも快適なんじゃないかと思います。

いざ注文してみると、明日にでも使えるかもしれないと期待していたにもかかわらず、連休中は注文は受けるけど実際にカスタマイズした形で組み上げるのは連休が明けてから、しかも注文が集中してるそうで大体2週間から一月くらいかかるという話でした。

納期の期間をもっと短くしてと要求しても詮無いことなので、こんな形でしばらくネットから離れる生活をすることになったわけです。情報が得られないことはかなり不自由ではあったけど、PCが使えない間は、いつものようにカメラ持って出かけたり(中書島の元遊郭なんていうところに行ってみたりしてました)、たまってる本や映画のDVDを見たり、久しぶりにゲームしてみたりと、ネットが時間を占領していたために疎外されがちになっていたことをやって時間を過ごしていました。
映画は「ヘルレイザー」のシリーズを集中してみたり、「メトロポリス」を、そういえば一番小さな子役も含めてこの映画に関係した人はもう誰もこの世にいない、あの世の映画なんだなぁと思いつつ、そのロシア構成主義的な都市造型を久しぶりに楽しんだり、ピーター・ジャクソン監督の「乙女の祈り」で主人公と一緒にマリオ・ランツァの歌声に聴き入ってしまったり。
ゲームは「ゼルダ」のDSでリリースされたのを以前買って放置していたのをやってみたんですが、これがちょっと意外だったのは以前ほどゲームが楽しめなくなってるって言うことでした。
主人公リンクの行動を阻害するイベントのことごとくが、突破する快感よりも無理やり足止めされたうっとうしさのほうが先にたってそのうちゲームを進めるのがかったるくなってきてました。以前はすごくゲームが好きだったんだけど、われながらどうしたんだろうと思うくらい知らない間に嗜好が変わっていてちょっとびっくりするような変化でした。

そんなこんなで、急に音信不通になってブログに来てくれていた人はなんて思ってるかなとか、ひょっとしたら誰ももう彗星絵具箱には来てないんじゃないかなとか思いながらもPC不在の時間を過ごしていたんですけど、下手をすると一月くらいはかかるといわれていたPCは実際には思いのほか早くわたしの手元にやってくる結果となりました。
DELLの人が気を利かせて、ないと不便だろうと大急ぎで作ってくれたのか、でも気を利かせてもらったのはありがたかったけど、こっちはもっと先だと思って置き場所の整理もしていなかったから、わたしのもとに予想をはるかに超えて早くやってきた新しいPCを設置するのは、なにしろいろんなものが乱雑においてある部屋だったのでちょっとパニックになってました。

アクセスできなくなった古いほうのワークステーションのほうはと云えば、駆動する音を聞いてる限りではそれほどトラブル的な感じがしなくて、新しいPCを注文した後でもひょっとしたらまだ生きてるかと思っているところもありました。だから新モニタがやってきた時にためしにモニタの別系列にちょっとだけ期待をこめてつないでみました。そうしたら最初に今まで見たこともない起動オプションが表示されはしたものの、指示に従っているうちにトラブル告知ランプ(ワークステーションなのでこういうのがついてました)の点灯組み合わせもそのうち正常を示すものに変化して、とりあえずしばらくは使えそうな感じなのを確認。これはちょっと助かりました。
フィルムからスキャンした写真データなどは外付けのハードディスクに入れてあるので内蔵のハードディスクが壊れてもあまり被害はない状態にしてあったけど、ブログに近々アップするつもりだった写真の、ネット用に圧縮したものはすぐに使うつもりで特に保存のことなど考えてなかったので、内蔵HDに入れたままのものもありました。もう一度圧縮すればいいんだけどそこはやっぱり面倒ということで、サルベージできるならしたかったんですね。

今のところ以前に使っていた状態に近づけるためにソフトの入れ直しとかやってる最中となってます。不安だったのがフォトショップのオーナーの権利を継続した形で認識してくれるかということだったんですけど、これは簡単にクリア。
スキャナーをつなぐ時にドライバーが先か機材をつなぐのが先か確か順番があって間違うとトラブルが発生する可能性があったはずと覚えていたけど、どちらが先だったのか思い出せず、これもどうしようかと思ってたのが、部屋中ひっくり返してマニュアルを発見してドライバーを先にインストールするという正解を見つけることができました。古い機種なのでドライバーも所持してるものは古くこれの対応はどうなってるんだろうとメーカーのホームページに行ってみたら、わたしが新しく買ったPCのOS、WINDOWS7版のものも発見できて、まだつないではいないんだけど障害になりそうなものはほとんど取り払えたような状態になってます。

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しばらくぶりにネットに繋いでみて、離脱を余儀なくされていたブログを覗いてみると、放置した状態だったにもかかわらず見慣れたHNの人が彗星絵具箱にきてくれていることにちょっと感動したりしました。

ブログに人が来ていたことに感動しつつもこの新しいPCでネットにつないでみた具合のほうはどうかというと、ネットは回線のスピードに依存してるから、わたしのところはADSLなので、これはPCが新しくなったからといってそんなに変わらない感じではありました。でも処理スピードは格段に上がっているようで、たとえばこうやってブログの記事を書いている時にYoutubeのリンクを入れてると、文字を変換するたびに動画の読み直しで若干タイムラグができていたのが、まったく待たされることがなくなってるし、メモリが10倍以上になったのでファイルスワップとかが簡単に発生しない分はスピードアップになってると思います。
モニタもワイドのもので作業領域がかなり広くなったのもなかなか爽快。
結局以前のシステムで崩壊したのは主にモニタだったようだけど、異音がする10年ワークステーションをそのまま使い続けても完璧に壊れるのは時間の問題だったしモニタだけじゃなくて全体で新調したのは正解だったと思います。

ただ今の状態で早くもかなり大きなストレスになってるのが付属していたキーボードの使いにくさ。ノートパソコンについてそうな、中央もくぼんでいない平たいキーが間隔をあけて並んでるタイプのもので、アイソレーション・キーボードというものらしいんだけど、これが極端に打ちにくい。誰が流行らせたんだか、こんなキーボードが主になってる状況は信じがたいところで、わたしとしては板チョコ風にキーが山のように盛り上がって、押し込む感覚があるキーボードのほうがはるかにいいです。平たいというだけで指が滑ってこれを書いている間もミスタッチを連発してます。キーボードは今日明日にでももっと普通のものに買い換えてるかも。

新しいPCにした利点はもうひとつありました。
サラ・ムーンの写真集についていた「ミシシッピ・ワン」のDVDがPAL方式だったので見られなかったのが見られるようになったこと。けっこう気になってたのがここにきて付随的に解消されることになりました。


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お休みして思ったのはずいぶんとネットに取り込まれてしまったような生活を知らないうちに続けていたんだなということで、ブログから離れた生活をやっていた間、ネットやブログとの係わり合い方をこの辺りでちょっと見直したほうがいいのかもしれないと考えていました。
こういうことは以前から頭に上ることもあったんですが、なんだかちょうど良い機会のようにも思えて、暫くランキングとおきてがみをおりてみることに決めました。
長い間応援してくださったかたへ、今まで本当にありがとうございました。


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写真といって特にまとまって用意してないから、たまに撮っていた花の写真をいくつか披露。
花ってわたしにとってはなぜかあまり被写体にならないものなんですけど、それでもフィルムロール一本の中に1~2枚くらいは撮っていたりするので、そういうもののなかでそのうちブログに載せようと圧縮しておいたものを旧ワークステーションからサルベージしたもののなかから載せておきます。
ちょっと妖しい花の写真♪

花01

花?

花03



使用機材
CANON AUTOBOY FXL
LOMO SMENA 8M


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Pat Martino& Mike Stern-Outrider


ブログ復活に際して、脳動脈瘤の手術でギタリストであった記憶を完全に失うという最悪の状態にあって、自分の演奏をコピーすることから始めて奇跡の復活を果たしたギタリスト、パット・マルティーノの演奏を一曲。
この曲が収録されてるCDはマルティーノがいろんなギタリストと競演したもので纏められていて、この曲はマイク・スターンとの競演となっています。マイク・スターンってマイルス・デイビスのところにいた人ですね。
硬質でいつ果てるともなく続くうねりを帯びたスリリングでミステリアスなフレーズ。この曲、主題が容易に耳に残るようなところがあって、やたらとかっこいいです。
ミステリアスな感じが今回の妖しげな花の写真にも意外とあってるかも。

この曲の入ったCD、先日河原町オーパのタワーレコードに行ったら輸入盤ブルーノートの安売りワゴンで、アマゾンの安売りよりも安い690円で売ってました。国内盤の価格は馬鹿げてるので安いのは歓迎するにしても、このCD、もうちょっと値打ちあると思うんだけどなぁ。




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