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【邦画】マタンゴ +【写真】モノクローム・スケッチ +【音楽】やっぱりリズムが命

先日、わたしがよく遊びに行ってる、とのさんが主宰されてるブログ「殿様の試写室」で、メインの記事じゃなくてコメント欄のほうだったんですけど、この昔の日本のSFホラー映画「マタンゴ」の名前が出ていて、それで一寸懐かしく思い久々に観てみることにしました。子供の時に一度見て、時間が経つにつれてストーリーなどの細かいところはすべて記憶から脱落しても衝撃的な結末と全体の雰囲気が心に深く刻み込まれた映画でした。後に大きくなってからも観てるはずなので、今回は最低でも観るのは3回目ということになるんですが、さて見た印象は変化したのかしなかったのか。


マタンゴ - トレーラー



この映画は怪獣映画など特殊撮影を主体とした一連のエンタテインメント映画で他を寄せ付けなかった東宝が怪獣映画とはまた別の路線、「変身人間シリーズ」路線の上で作り上げた一作という位置づけになってます。ちなみに東宝の変身人間シリーズは1958年の「美女と液体人間」1960年の「電送人間」と同じく60年の「ガス人間第一号」の三作があり、その後に続いた「マタンゴ」はこのシリーズを締めくくる意味合いの映画でもあったりします。
でも締めくくるといっても「マタンゴ」の製作年は1963年で最初を除き他の二作が同年に立て続けに製作されたことからみると若干のブランクをはさんで製作されたことになります。さらにシリーズとは云ってもタイトルにこの映画だけ「~人間」という言葉も入ってません。
調べてみると1962年にゴジラ映画のほうはキングコング対ゴジラが作られ、アンギラスという怪獣が出てくるゴジラの続編があったものの、それまでの「空の大怪獣ラドン」(実はこの映画も大好き)などの単発的な怪獣ものが主流だった時期から、のちの怪獣同士が戦う怪獣プロレス路線に入り込む岐路にたってたように時期でもあった様で、まぁこれは推測なんですけど、怪獣映画の要にいた本多猪四郎監督と特撮監督だった円谷英二監督は次第に子供路線に入っていこうとしてるゴジラ映画や、怪獣映画以外にも「妖星ゴラス」や「地球防衛軍」などもっと多彩だった自らのフィールドである東宝の特撮映画に対して、一応「~人間」というシリーズでは3作で納まっていたものをもう一度持ち出して、子供に迎合する傾向へ進みそうな予兆へ一種のカウンターを当てるような意味合いでこのSFミステリーホラー映画を作ったんじゃないかとも想像したりします。

登場人物を見ると、60年代にはすでに邦画は黄金期を過ぎて衰退期に入りかけていた時期だったらしいんですけど、ある種ゲテモノモンスター映画でもあるにもかかわらずかなりの豪華メンバーで占められてることに一寸吃驚します。
密室劇的な体裁をとってるので登場人物は7人と少ないものの、船長役の小泉博や、東宝特撮映画の顔でいつもなら主役で登場するはずが、今回は脇の悪役という形で出てくる漁師役の佐原健二を筆頭に、プロローグと衝撃のエピローグを飾ることになる主役の大学の教授役の久保明、男どもの視線を一手に集める妖艶な美貌の歌手水野久美など、数シーン見ただけで役柄の混同もしなくなるような際立った個性の俳優を集めてます。個性という点では主役の久保明が一番印象が薄かったかもしれないけど、衝撃のエピローグを担う人物だとこのくらいの薄い個性だったからかえってラストシーンが際立ったのかもしれないです。
主役とは反対に映画中で過剰に個性を極めてたのが怪人土屋嘉男でしょうか。物語の始まるきっかけとなるヨットのオーナーで金持ちの若社長、最後はなんだかうやむやに終わってしまう人物だったけど、「地球防衛軍」で遊星人ミステリアンの統領を演じた、日本で一番最初に宇宙人の役をやった俳優としての存在感は際立ってました。この人を見てると演技の癖というか雰囲気が竹中直人にそっくり。竹中直人は今の役者の中ではワンパターンではあるもののユニークの極みという印象があったのに、こうやってみてみるととっくの昔に同タイプの先人がいてそれほどユニークでもなかったのかなぁなんて思ったりしました。
怪人といえば今回観てからクレジットを調べたら天本英世も出てるんですね。観終わってから知って、こんな特徴的な俳優さんなのに劇中では全然気づかず、うそ!どこに出てたんだ??と思ったんですけど、なんと半人間タイプのマタンゴ、マタンゴ怪人の役でした。特異な存在感から確かにマタンゴ役はぴったりかもしれないけど、この容貌を誰か分からなくなるまでマタンゴメイクで覆い隠してしまうのはいささか勿体無かったんじゃないかなと思いました。

それと、この映画はタイトルが秀逸です。だってなんと云っても「マタンゴ」だもの。他の何を連想させるわけでもなく、名詞としてはこの世界にあるものとは何も繋がっていないくせに、なぜかキノコの名前として提示されると、危ないキノコというイメージだけはきっちり呼び起こして、近づくだけでも危険なキノコの名前ならこれしかないだろうという誂えたような語感を持ってる得体の知れない不思議な言葉。ママタンゴというキノコの名前からとられたという説があるけど、そんなキノコが本当にあるのかどうかもはっきりしません。誰が思いついたんだか、東宝は怪獣の名前といいこういう名前を考え出すのが上手いです。
英語のタイトルでは「Attack of the Mushroom People」というのがあるそうで、こんなにネタばれさせてもいいのかと思うほど直接的で芸のないタイトルに比べると、「マタンゴ」のほうが圧倒的に色彩豊かなイメージを内包して優れてると思います。
ちなみにこの映画に奇怪なキノコ人間が登場することは、予告編なんか見てみるとこの時点で正々堂々と姿を現してるので、公開当時から秘密でもなんでもなかったようです。

☆ ☆ ☆

お話はこんな感じ。

都会の夜を日夜遊び歩く裕福な若者たち7人、ある日彼らは誘い合って会社社長の笠井(土屋嘉男)のヨットで海に乗り出すことにした。メンバーは笠井の愛人である歌手の関口麻美(水野久美)、大学助教授の村井(久保明)とその教え子の大学生相馬(八代美紀)、若手推理作家の吉田悦郎(太刀川寛)、笠井の会社の従業員でヨットの船長を任された作田直之(小泉博)、臨時で雇われた漁師の小山仙造(佐原健二)といった面々。

最初は調子よくバカンスを楽しんでいたが海の天候は変りやすくやがて雲行きが怪しくなりヨットは暴風雨に巻き込まれることになる。
なんとか嵐のなかを通り過ぎたヨットは帆も折れて自由に航行することも出来ない状態になり順調だったバカンスも漂流状態へと一変することになったが、やがて笠井たちは水平線の向こうに霧に包まれた孤島を発見することになる。
大破したヨットでの漂流状態から逃れるために彼らはこの島に上陸することになった。上陸した島の位置は確認できず自分たちがどこにいるかも分からないままに彼らは島に住んでいる住人を探しに内部に分け入っていく。やがて地面の石の配置などに人が触った痕跡はいくつか見つかるものの人そのものは見当たらないという状況に絶望しかける頃、自分たちが上陸した海岸とは別の海岸に大きな船影を見つけ出し、誰かいるのかもしれないと喜び勇んで近づいていった。
しかし近づくにつれ分かったのは発見した船は難破船であり、しかも難破してからかなり長い時間が経ってるような朽ち果てた様子の船だということだった。
とりあえず難破船の内部を探検してみると、船に乗っていたはずの人間は死体も含めてどこにも見当たらず、内部は苔や毒々しい黴に覆われたすさまじい様相と成り果ててはいた。だが黴などによる汚れは酷いものだったが掃除すればなんとか住めそうな雰囲気だったので、彼らはこの難破船を島での行動の拠点とすることにした。
この船が何の船だったか、食料が残されているのに船の住民は一体どこに消えてしまったのか、船内の鏡がすべて取り外されているのはなぜなのか、謎めいたことが多い船だったが、船に残された資料を調べていくうちに、核実験の影響を調べる国籍不明の海洋調査船だったことが判明する。
船に残されていた缶詰で一週間ほどは賄えそうだが、食糧の確保は急を要する課題となっていた。船内には木箱に納められマタンゴと表記された巨大なキノコが置かれていた。しかし発見された難破船の航海日誌には島に生えているキノコは麻薬のように神経を冒してしまう物質が含まれているので食べないようにと注意が書かれていた。船の住民の消失もどうやらこのキノコを食べたことが原因のようだった。

やがて船内で7人以外の怪しい人影を見たりするようなこともあって、早く食料を確保してこの島から出たほうがいいという結論に至るも、残されていた缶詰が残り少なくなるにつれ難破船の中では生存をめぐるエゴイズムが横溢し、同行の女と食料をめぐって男たちの間で主導権争いと仲間割れが始まることとなった。

☆ ☆ ☆

観終わった後わたしはカーペンター監督のSFホラー映画「遊星からの物体X」を思い浮かべました。物体Xはブリザードに閉ざされた南極のアメリカ基地が舞台で、外に連絡もしようがなく助けも呼びにいけない閉鎖的で逃げ場のない空間で恐怖の物語が進行します。かたや「マタンゴ」のほうは昼夜を問わず深い霧に包まれ、側を通り過ぎる船があってもまず発見はされないような絶海の孤島で、乗ってきた船は大破、見つけた難破船では島からは絶対に出られないという場所で、こちらも助けも呼べないし逃げることも出来ない閉ざされた空間で起こる物語となってます。
「物体X」で物語の発端となったノルウェー隊基地の謎めいた全滅振りとその全滅した基地に残されていた資料で一体何が起こってるのか判明し始めるのも、「マタンゴ」の謎の難破船とその航海日誌から島での異常な出来事が次第にはっきりしていく過程と照応してるようで、とてもよく似てると思いました。

こういう物語の形は極めて王道的というか、物語の祖形みたいなところがあって、たとえばミステリだと雪の山荘ものといったカテゴリー的に分類できるほどの形で存在したりするように、物語としては安定した面白さを展開できるような形になってるものだと思います。でも同じ祖形から派生的に出てきてると思える「物体X」と観終わったこの「マタンゴ」を比べてみると、わたしは「物体X」は自分が見た映画の中ではベスト10入りするほど面白かったんですけど、どうも「マタンゴ」はつまらなくはないけど面白さとしては「物体X」と肩を並べるようなところまでは行かずにはるか遠いところで立ち止まってしまってるというような印象でした。今までに最低でも2回は見てるということで見慣れてしまったというわけでもなく、どちらかというと以前に観た時とは間が離れすぎていて、おぼろげな印象しか残ってなかったのに、今回の鑑賞体験は我を忘れて見入るほどのものではなかったというのが正直なところでした。

ではなぜ、王道的な物語の枠組みを持ちながら、ストーリー的には悪くない展開を持っていたのに、それほど熱狂的な気分で見終えることが出来なかったのか。

マタンゴが着ぐるみであること、マタンゴという名前で映画に登場したキノコ人間そのものは造型的には不気味で優れたデザインだと思うんですけど、動かす段階でなかに人が入ってるのが丸分かりになって稚拙であることは、実はわたしがあまりのめりこまなかったことの理由にはほとんどならなかったです。
怪獣映画を見慣れてるからなのか、確かに時代的な制限もあって、今の映画の非現実的な映像世界の実現具合から見るとマタンゴの表現には子供だまし的な要素は多分にあるものの、実はそういう稚拙さは思うほどには気にもなってなかったりします。こういう映画を観る時には、着ぐるみなりの独自の存在感、実はモンスターを着ぐるみで表現するというのは日本独自のやり方だったそうで、そういうリアリティとはちょっとずれたところで成立してる存在感をむしろ楽しんでる部分もあると思います。中の人、熱演してるなぁっていう感じ。

この映画には海上を漂う大破したヨットとか、模型を使った表現もいくつか出てきて、それぞれが今の映画が目指してるような本物そっくり、本当の大破したヨットが洋上を漂流してるとしか思えないような映像が画面に現れるのとはちょっと違う、本物らしく見せようと工夫を凝らしてる部分が見えるリアリティというものを体現してる映像として出てきます。もちろん意図してこうなったというよりも、3DCGという手段も持たずに本物そっくりの映像を作ろうとしてこの段階が精一杯のものだったということの結果なのかもしれないけど、結果として本当にリアルなものとはちょっとずれた作り物感が残ってるリアルさといった独特の雰囲気を持つものに仕上がっていて、こういう映像の質感はマタンゴの着ぐるみ感と同様にこの当時の特撮映画を観る楽しさを担うものになってるようにわたしには思えます。

☆ ☆ ☆

わたしがこの映画にもう一つのめりこめなかった要因はこういったマタンゴの着ぐるみ的な存在感のせいではなくて、映画全体を通してマタンゴが一体何をしたかったのかよく分からなかったことでした。
マタンゴは遠目に目視されたり、物語の途中でおそらく天本英世が演じてたんだろうと思えるまだ人間の姿を残してる形で難破船に進入してくる以外は、正面きって登場するのは物語もほとんど終盤に入ってからです。それもマタンゴが群生してる場所に、この孤島に漂着した7人の誰かが入り込んだときに地面から生え上がるように姿を現して纏わりついてくるという形がほとんど。
物語の祖形としてよく似ているカーペンター監督の「物体X」を引き合いに出すと、「物体X」に登場したモンスター(異星人)はそれが唯一の目的であるように積極的に人を襲い、襲った人間に同化、成りすましてさらに獲物を探すべく人の集まる中に進入していきます。この進入方法によってアメリカ隊のメンバーはお互いが本当に人間なのか「物体X」がその人物に成りすましてるのかが分からなくなり、ブリザードに閉ざされたアメリカ基地で疑心暗鬼に囚われていくという形で恐怖感覚を盛り上げていきます。
「物体X」は目的もはっきりしてるし積極的にアメリカ隊員の内部に進入して行って恐怖の物語をきっちりと形作っていくのに対し、「マタンゴ」のほうは結局最後までキノコ人間のほうから積極的に7人の方向へは働きかけようとはしません。マタンゴの侵入によって主人公たち7人が動的に追い詰められていくサスペンス的な要素もなく、マタンゴという毒々しいキノコを食べると奇怪なキノコ人間になってしまうというのが唯一の恐怖の表現となってます。また「マタンゴ」が森に迷い込んだ人間になぜ纏わりついてくるのかもよく分からないというか、予告編には吸血生物と出てくるからそれが目的なんでしょうけど、映画の中では吸血どうのこうのというのは一切説明されてないので、結局分からないままに映画は終わってしまうことになってます。

結局マタンゴというキノコとそれを食べることでキノコ人間になってしまうことに対する恐怖があったとしても、得体の知れない形でどんどんと侵入してくる「物体X」のように不可抗力的に登場人物たちに降りかかってくるほどのものではなくて、マタンゴに対する恐怖は映画が進むにつれ、見た目の奇怪さ以外は要するにマタンゴを食べるか食べないかという凄い単純なポイントに還元されてしまうようでした。確かに食料に限界があってマタンゴという明らかに負の要素だけで成り立ってるようなものを食べるか食べないかの決断を迫られるとなるとそれなりに追い詰められる感じはあるものの、食料が完全に用意できないという状態を用意しない限りは、結局それはそれぞれの自由意志の問題になってしまって、何しろほとんどの登場人物が享楽主義的で、キノコ人間になることが分かってながら、それは当面のことではないとばかりに目の前の欲望に負けて簡単にキノコを食べてしまいそうな人ばかりだったから、それほどサスペンス的な要素には繋がらなくなってしまったように思えました。
ただ登場人物の中では、妖艶さを武器に打算的な世渡りをしてる水野久美とは全く反対の良識派の代表だった清楚な大学生、八代美紀演じる相馬が自分の意思で最後にキノコを食べてしまった後、一気に変化してしまうのは、それが良識派の自由意志であったがためにかなり強烈で、自由意志で選択するという形がこういうシーンを作り出せたのはなかなか面白いところでした。

キノコ人間のラインがこんな感じになってしまって、これでは恐怖感が形作れないとでも思ったのか、結局物語の大半は孤島に漂着してしまった7人の間に生まれる生き残るためのエゴイズム、仲間割れのほうに重点が置かれることになります。
でもこの心理の推移も描き方は物凄く単純でした。皆で分けようと決めた難破船に残されていた缶詰を黙ってくすねてしまうことから始まって、仲間を裏切ることで生まれる躊躇いや葛藤もなにも全くなく、友達の振りをしていた次の瞬間にあっけなく裏切ったあげくに島で自分で見つけてきた食料を自分だけで独り占めするような描写、難破船にあった猟銃をためらいもなく仲間に向けて女以外はみんな殺すと云わせるような描写の仕方で終始します。主役の助教授と教え子が一応の善人という以外は、全員が根っからの悪党というのが早々と見えてしまうという感じなんですね。

映画全体の人間描写は、裕福で遊び暮らしてる若者の人間関係なんてうわべだけで、友人として付き合ってるように見えても一皮剥けば自分が生き残るためには他人がどうなろうと知ったことではない、そんな友達など自分が生き残るためだったら躊躇なく裏切ってもまったく平気といった、そういうある種の偏見を前提にしてないと成り立たないような単純な描写の積み重ねになってます。
それはまた見る側にもこの若者像を共有してることを期待してるような作り方で、この金持ちの虚飾に満ちたうわべだけの交友というクリッシェに近いような認識はわたしにもわりと理解できる形だったから、登場人物たちがともに生き延びようとするよりも自分だけが助かる方向に簡単に動いていくお話もそれほど違和感なく見終えることができました。

孤島のサバイバルが始まる頃に仲間から勝手にリーダーを気取るなと文句を云われる、まとめ役で頼りになりそうな船長、小泉博が最後にとった行動とその結末なんかは、頼りがいがある人物だっただけに、嫌な後味として意外と印象に残るものだったりするんですが、でもやっぱりお話としては単純化しすぎていて登場人物の複雑な心の動きが予測不可能な物語を紡いでいくわけでもなく、サスペンスを生み出すほどの深みも持てない物語という結果で終わってしまったように思います。

☆ ☆ ☆

「マタンゴ」はキノコ人間のラインは地味な展開、登場人物のラインは常套句的でシンプルと、お話そのものの内容は面白い物語の祖形を含んでいながらも、面白い物語に到達する直前で力尽きたような形になってました。でも「マタンゴ」という映画は語られる物語のほかにその物語を語る語り口が結構特異で、この語り口は物語に面白い仕掛けを付け加えているようでした。

「マタンゴ」は絶海の孤島で展開する奇怪な物語を、唯一生き延びた久保明演じる助教授村井が東京の精神病院の一室で語るというプロローグと語り終えた後の病室というエピローグで挟み込む構成になってます。マタンゴという物語は、映画だから物語が始まってしまうと描写は直接的になってしまうんですけど、あくまでも当事者の一人が語った物語という形をとることで説話的な雰囲気を纏うことになります。この伝え聞くような雰囲気が物語の物語性を高めているというか、ストーリーとしては思いのほか単調だった孤島の物語により物語的な手触りを付け加えていたように思います。

それとこの形式をとったことで衝撃のエピローグを付け加えることが出来たのも大成功でした。この結末のショックシーン、久しぶりに観て思ったというか気づいたことは、実は視覚的なショックシーンの印象が強烈だったので今まではそれほど気づかないで観終えてしまってたんですけど、村井の話と現実は根本的な部分で矛盾してるんですね。その矛盾をワンショットのイメージで伝え切った演出も面白かったですが、この矛盾があることで今まで語られてきた絶海の孤島での奇怪な話は実は村井が勝手にそう思ってるだけで、実際はまったく違ったことが島で起こってたんじゃないかと思わせる含みを持たせることが出来てます。云うならばこのエピローグがあるために、今まで村井によって語られてきた肝心の「マタンゴ」という物語が、舞台であった霧に飲み込まれた孤島のように、最後の最後になってからもう一度霧の中に投げ込まれすべてが不確かな混沌に戻っていってしまうような結末。物語るという趣向では、このエピローグがつくことで単純に神の視点を用いて島の奇怪な物語を描写していくよりもはるかに面白い効果を出していたと思います。
お話そのものは意図不明のマタンゴの行動や登場人物たちの薄い描写などで問答無用で面白いというような出来ではなかったけど、そんな物語もこの含みのある構成で終わることで、最後になってそれなりに物語的な外観を整えたという感じになっているようでした。

直接的な終わり方で物語が締めくくられていたらおそらくこんなに後まで記憶に残るような映画になってなかったんじゃないかと思いました。

☆ ☆ ☆

お話はプロローグとエピローグがつくことでそれなりに落ち着きのいい外観を整えてなんとか着地に失敗しなかったような印象。最後の衝撃のシーンも子供だったらトラウマになりそうなシーンでこれもよく出来ていました。でもわたしとしてはこの映画の本当の見所はこういった物語よりもやっぱりビジュアルの展開とか独特の雰囲気にあったんじゃないかと思います。
難破船に始めて入った時に画面に広がる黴に覆われた毒々しい世界。そこから展開していく孤島のじめじめとして、世界が腐敗していくような雰囲気。この映画全体の瘴気に満ちたようなイメージはいうならばサイケデリックともいえそうな雰囲気でなかなか面白いです。キノコを食べてしまった歌手の関口(水野久美)がキノコを食べるごとになぜか濃い化粧で見るからに妖艶になっていく変化の、サイケデリックな世界に相応しいようなどぎつさ。そして歩き回るキノコ人間の奇怪な姿。すべてがこの膿爛れていくような世界のイメージの実現に奉仕しているようでした。

視覚的なことといえば、プロローグとエピローグで出てくる精神病院の部屋の窓から見える東京の夜景。これ、よく観ると作り物なんですね。対面のビルの窓に写る人影とか見てると完全に人形の動きで、巨大なミニチュアで東京の夜景を再現してるのが分かります。おそらく実際の東京の夜景では思ったようなネオンサインとかが画面に納められないので、夜景そのものを作ってしまったんでしょうけど、こんな妙なところのビジュアルに神経を使う視覚センスは「マタンゴ」という、考えて見ればゲテモノホラーという仮装の元で、結構サイケデリックでシュールだった映画の全体に敷衍され、その奇妙な世界を形作る助けになってるんじゃないかと思いました。

☆ ☆ ☆

最後にテーマ的なことも少しだけ。
「マタンゴ」を観た後で勢いづいて同じく変身人間シリーズの「美女と液体人間」も観てみました。溶けていく人間や築地、地下水路炎上がなかなか非現実的で美しい絵を作っていた意外と視覚的には見ごたえのある映画。佐原健二、土屋嘉男もそれぞれ科学者、刑事というように、「マタンゴ」のエゴイスティックな悪党とはがらりと変った役柄で出ていて、続けてみてみるとなかなか面白いところがありました。
この「美女と液体人間」に出てくる液体人間はマグロ漁船「第二竜神丸」の乗組員が核実験の放射線を浴びたために細胞が変化して液体化してしまうという設定で、1954年のビキニ環礁で行われた水爆実験とその時近海にいて死の灰を浴び被爆してしまった第五福竜丸の事件が元になっています。「マタンゴ」のトレーラーで第3の生物というテロップが出てきますが、「美女と液体人間」で液体人間のことを放射能が生んだ第二の人類というような云い方をしていたので、明らかにキノコ人間は放射線で変化した次世代の人類という延長線上にいるものと設定されていたんでしょう。
初代ゴジラもこの実験で生まれたという設定のものだし、おそらく当時の日本人は今の震災を通過した日本人と同じくらい放射線被爆といったものが身近にあるものとして考えられていたんじゃないかと思います。
神の力を垣間見てしまった人類の行く先はそれまでとは全く違う道筋を辿るだろうと、「マタンゴ」は神の力と同化せよという興味深い結末を用意してはいたものの、その道筋の先には恐怖としか言いようのないものが立ちふさがっているのかもしれないといった不安の形象化がこういった映画になってるんだと思います。
でも同じ不安を抱いていたとしても、被爆者をモンスター化させる、こういう形で形象化するのはおそらく人権問題のようなものがある今の日本では到底無理な話で、そういう意味では「マタンゴ」はおおらかな時代に作られた貴重な作品だといえるのかもしれません。

☆ ☆ ☆

この映画、公開当時の同時上映は「ハワイの若大将」だったそうで、海を共通のキーワードにした斬新な組み合わせとして一緒に上映されたのかもしれないけど、観にいった人は気分を切り替えるのが大変だったでしょうね。



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☆ ☆ ☆ 【写真】モノクローム・スケッチ ☆ ☆ ☆



去年の12月頃にCONTAX TVS2を連れて街中で撮っていた写真です。モノクロを使ってたのはこれが一番最近のフィルムで、この後はオリンパスOM-1の試し撮りで伏見に行ったり、初詣の晴明神社に行ったりしてカラーネガを使ってました。
しばらくモノクロから離れていたので、こうやって眺めてみるとやっぱりモノクロはいいなぁと云う感じが蘇ってきます。本当はモノクロになった時にどう写るか光を読んで、モノクロにしたら映えそうな写真を撮るべきなんでしょうけど、そこまで光を読むまでも行かずに出来上がったモノクロ写真を見ては一番驚いてるのが撮った当の本人だったりします。

鉄骨とガラスの部屋
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
京阪藤森駅近くの京都市青少年科学センターの裏手。

墨染の駅から隣の藤森の駅まで一区間の間をいつもは電車に乗ってしまうところを歩いてみた時に撮った写真。
ドームとガラス張りの温室。両方とも建築物としては好きなものです。
ドームにちょっと未来的なイメージがあるのと、鉄骨とガラスを組み合わせた質感がいいのかなぁ。温室はわたしには怪しい実験室といったイメージも重なってるようで、そういうところにも気を惹かれます。

絵全体の怪しい抽象性が手前の立て札の具体性に乱されてる感じで、この植物の名前の札はなかったほうがよかったです。というか撮ってる時にこういう具体性が入り込んでるのに気づきませんでした。

裏手の金網越しに、金網にレンズを突っ込んで撮ったんですけど、この時は何の設備か分からず。金網で閉ざされさらに入り口はどこにも見当たらずに、わたしが抱く私的なイメージだけじゃなくて本当に怪しい施設でした。その後表側に回って青少年科学センターというところの施設の一部だと知りました。

高架
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
藤森駅付近、名神高架下。

自動車が写りこまない瞬間と、自転車がやってくるのを待って撮りました。待ってる間この人は何をしてるんだろうって不審がられてたんじゃないかと思います。
向こうに見えてるのが上の写真の青少年科学センターの正面です。
影の使い方としたらちょっとありきたりだったかも。

高架下の公園
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
藤森駅付近、名神高架下の公園。

上の写真の高架下を通って出てきたところにあった、高速道路沿いの公園です。まだ紅葉の時期だったかな。
葉っぱの色がそんな感じに見えます。若干逆光気味の空気感が気に入って撮ってみたものだった記憶があるんですけど、さてその空気感は写し取れたかどうか。

錦
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
錦小路

京都の台所、錦小路でおでん屋さんの湯気が撮ってみたくてシャッターを切りました。
湯気はもっと広範囲に広がってたように見えたのに、写真にとって見ると意外と小ぶりでした。
注目したところは大きな印象として目にはいってくるのかもしれないです。






☆ ☆ ☆ 【音楽】やっぱりリズムが命 ☆ ☆ ☆





OOIOO "SOL"


前にも貼ったOOIOOのまた別の曲。
いきなりノイズで始まりますけど壊れてるんじゃなくて、こういう曲です。

現代音楽や民俗音楽などの混合だと思うんですけど、そういう要素を小難しく詰め込むんじゃなくて、キュートでスリリングといったようなちょっとありえない形で纏めてしまってるのが面白いです。
相変わらずドラムとパーカッションが面白いです。さらにこの曲では不安なコーラス部分が結構好き。

Beryl Cunningham - Why O


これは実はルイス・エンリケスの「マシュ・ケ・ナダ」に続いてビザール・シリーズとして出そうと思ってたものなんですけど、考えてみたらシリーズにするほどビザールものって知ってるわけでもないので、この辺で出してしまいます。
ちなみにこの人のことはよく知らないです。どうもヨーロッパのB級映画に出てる役者さんのようなんですけど、正確な情報じゃないです。

ドラムとパーカッションのみをバックにして歌うという大胆な始まりで耳を釘付けにします。ベースくらい追加したらいいのにと思うんですけど、やっぱりこのリズム楽器だけをバックに歌うというほうがインパクトはありそうです。
途中から他の楽器も入ってきて曲らしい雰囲気になってくるものの、後半になるにつれて今度は歌のほうが羽目を外してくるようになります。
最後のほうはなんだか酔っ払いに絡まれてるみたいです。

☆ ☆ ☆

当初の予定では、今回は上の2曲で完了のつもりだったんですけど、並べて続けて聴いてみるとなんだか口直しの一曲が必要に思えてきました^^
ということで、最後にビル・エヴァンスの愛らしくてリリカルなのを一曲。

Bill Evans Trio - Lucky to be me






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【邦画】 ガメラ 3 邪神イリス覚醒 - ガメラ 平成三部作

平成ガメラは「ガメラ 大怪獣空中決戦」「ガメラ 2 レギオン襲来」「ガメラ 3 邪神イリス覚醒」の三本。
3作とも最初に観たのはかなり前です。アニメの方法論に則った演出で、とにかくかっこいい動きに満ちた怪獣映画という印象がありました。
なにせガメラは空を飛ぶから、立体的な動きを見せ場にしやすい。

再見してみて発見したのは、「大怪獣空中決戦」の火球三連射ちとか「レギオン襲来」の飛行形態からドリフト(!)しながらの着地とか、アニメ的なかっこいい動きはあるんだけど、そういうシーンが占める量が意外と少なかったということ。
わりと普通の動きのシーンも結構ありました。初見の時はとにかく新鮮な動きのシーンが印象に残って、それが印象全体を覆ってたっていうことなんでしょうか。

でも、意外と普通のシーンが多かったと云っても、怪獣映画というと着ぐるみがもっさりした動作で動き回るくらいのイメージしか無いなら、この平成ガメラを観たらおそらく吃驚すると思います。

世評では二作目の「レギオン襲来」の評価が高いようですが、個人的には三作目の「邪神イリス覚醒」のほうが好き。

「邪神イリス覚醒」は主役の少女(前田愛)が、前作でガメラが壊した建物の中にいた両親を、巻き添えで亡くしてしまったことから、ガメラを憎んでるという設定なので、映画としては基調トーン自体が暗く、さらにオカルティズムを織り込んで澱んだストーリー、オカルト関連の単語が頻出するよく分からないストーリーとの絡みで出てくる山崎千里らのこれまたほとんど意味不明のキャラクター、自衛隊があまり活躍しない等と、こういうところが三作の中で評価を落としてしまってるんだと思うし、その評価そのものにはかなり同意します。
でも、それを上回る個人的ポイントになってるのは、この映画の最終決戦の舞台が新生の京都駅だってことです。

「邪神イリス覚醒」は物語がもう一つなのを補うかのように、怪獣による破壊シーンは見所が多いです。破壊する快感を十分に味わわせてくれる。
この映画で大規模な破壊シーンがあるのは渋谷と京都。
「邪神イリス覚醒」の渋谷壊滅シーンは怪獣映画の到達点だとは思うものの、わたしとしてはやはりここは京都駅での死闘のポイントが高い。こちらだって渋谷のシーンに負けないくらいの破壊ぶりを見せます。
出来たばかりの京都駅を壊すという、何だか暴挙に近いような勢いも凄いです。

映画が作製された時、京都駅は駅自体まだ見慣れないものだったんですが、今この映画を観ると結構隅々まで知ってしまってる京都駅の崩壊ぶりがやけに詳細に理解でき、わたしにとっては臨場感が只事じゃありません。音楽までも無茶苦茶に煽り立ててくる。
前田愛を助けに来た少年が京都駅の東側から空中大回廊に登って、京都駅構内で死闘の真っ最中のイリスとガメラの頭上を通過して、京都駅西側の大階段のほうに向かう。こういった動きも手に取るように分かる。
見上げる視線でイリスの背後に空中大回廊の底面が見えてるけど、京都駅を知らない限りあれが通路だとは気づかないだろうし、ひょっとしたら少年の移動経緯は駅を知ってる者にしか理解できてないかもしれません。

空中大回廊
空中大回廊って、実物はこれです。京都駅正面のガラス・ドームの天辺にこういう通路が取り付けてあります。上がってみれば正体は展望台なんですが。

ちなみに怪獣映画好きの夢は自分の住んでる町や自分の家のミニチュアが映画の中に登場して、運がよければ怪獣に自分の住んでる家のミニチュアを蹴散らかしてもらうことなんですが、せっかく京都に飛来してくれたのに、ガメラとイリスは京都駅を壊しただけで満足してしまったようです。

☆ ☆ ☆

あとガメラは必ず満身創痍になってしまうんですよね。とにかく大量に血飛沫が飛び散る。色は緑色だけどこれだけ流血シーンのある怪獣映画もおそらくガメラだけ。ガメラをこういう状態にまで追い込むから、そこから再び立ち上がってくるヒーローとしてのガメラが際立ってきます。
京都駅でのイリスとの死闘で片腕を失った状態のガメラが、ぼろぼろになりながらもさらに大量に日本に飛来してくるギャオスを迎え撃とうとする姿。
これはもうほとんどやくざ映画のノリです。

ガメラがどう動けばかっこいいのか、そのガメラをどう撮ればもっとかっこいいのか、こういうことをただひたすら考えて作ってる。作る側にガメラに対する愛情があるのが物凄くよく分かる映画です。

☆ ☆ ☆

「邪神イリス覚醒」ではエキストラ扱いとして出演してる仲間由紀恵が見られます。キャンプかなんかに来てる若者の一人で、画面に出てきてほぼ即座にイリスの触手にとっ捕まって、生気吸い出されてミイラになってしまう役でした。

ガメラ3 邪神<イリス>覚醒ガメラ3 邪神<イリス>覚醒
(2007/10/26)
中山忍.前田愛.藤谷文子.山咲千里.手塚とおる.安藤希.小山優.津川雅彦.清川虹子

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ガメラ3 トレーラー


監督 金子修介
公開 1999年


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【邦画】 ようやく「崖の上のポニョ」を観に行ってきました。

内容的にはストーリーが破綻してるとかいうよりも遥か以前の代物を見せられたという印象です。
結局ポニョって、一体何者だったんでしょうか。観ている間はああいう生き物としてその場限りの納得状態にはなってたけど、振り返ってたとえば言葉で説明しようとすれば、人面魚くらいしか言葉が出てこない。
まるで正体不明の「物体X」です。

一回だけフジモトがポニョを本名?「ブリュンヒルデ」って呼んでたように思うんだけど、BGMもワルキューレの騎行もどきが恥ずかしげもなく鳴り響いていたところをみると、ひょっとしてそういう関係が背後に設定されてる?
でもポニョのキャラクターにそういう背景設定があったとしても、こういう映画の作り方だと、だからなに?としか云い様がないというか。

ポニョの素性だけじゃない。フジモトが何者で何故あんな乗り物に乗ってしかも水中で何をしてるのか、ポニョの母らしい、船をも凌ぐ超巨大女はどういう存在なのか、大災害が起きてるのに何故みんな平然として、楽しそうなのか、後半部分でソウスケとポニョに何か試練らしいものがあったみたいだけど、一体何のどこが試練だったのか、何のための試練だったのか、ポニョが人になろうとすると何故人工衛星が落ちてくるのか、もう何から何まで何もかも全然説明してくれない。

こんなに内容が無い映画を観たのは本当にまれな体験でした。みんな、こんなのを「宮崎駿」だというだけで受け入れてしまうんだと再認識。これを観た人って本当に全員理解できて、満足して劇場を出られたんでしょうか。

☆ ☆ ☆

お伽話なんだから、それを捕まえて現実に即してないとかいった批判は場違いなんていう意見もありそうだけど、たとえば助けてもいない亀が恩返しに来たような話だったらどうするのか。
浦島太郎が助けたからこそ亀は恩返しに竜宮城へ連れて行ってくれるわけで、何でも有りのお伽話でもそういう骨格はあります。その骨格の上で、亀が人の言葉を話そうがどうしようが自由奔放な世界が構築されていく。

「ポニョ」にはそういう骨格が無いように見えます。助けてもいない亀が恩返しに来るような世界に属してる物語のように見える。
実は「ワルキューレもどき」辺りに骨格がありそうなんだけど、「ポニョ」はなぜかそれを隠してしまってます。そして、ちょっとだけ釣り糸を垂れて誰か食いつくのを待ってるような作り方をしてる。
この骨格は姿を違うものに変えさせても、隠しては駄目だと思う。その骨格を隠すから「ポニョ」が物凄くだらしないファンタジーになってしまってるんだと思う。

☆ ☆ ☆

ということで、内容はさっぱり。良いとか悪いとか判断に辿り着く前にほぼ理解不能だったので、結局印象に残ったのは展開されるイメージとか動きとかそういうものに限定されました。もっとも個人的にこういうのは、映画の中で最優先事項だとは思ってます。

全体に不気味な印象に導くもの、不安感を隠し持ってるようなイメージが多かったのはかなり意外でした。宮崎駿はこういう雰囲気的なものを、見える形にするのが凄く上手い。わたしはこういう不気味、不安なイメージは嫌いじゃないので、そういうものが形になって目の前に出てくることは本当に面白かった。

細かいものがびっしりと画面を覆いつくしてる、そういうシーンが対象を変えてはいくつも出てきました。フジモトの顔にびっしりと汗の水滴が付着してるのなんか、たちの悪い皮膚病でも患ってるように見えた。こういうの生理的に駄目な人だったら、鑑賞中に気分悪くなってたんじゃないかな。

また、水没した町が水の層を通して眼下に垣間見えるとか、木漏れ日で薄暗く、あるいはほの明るくなった空間とその道の先にある光に満ちた光景の気配とか、母親リサの気配だけが消えてしまってる車とか、暗闇が待ち構えてるトンネルだとか。こういうイメージは、わたしにとっては不安感をかきたてる光景でした。終盤で、眠りに囚われ始めるポニョも観ていて凄く不安な気持ちになった。

☆ ☆ ☆

動きは、これはもう宮崎駿の独壇場でしょうね。空を飛ぶシーンこそ無かったけど、津波の上を疾走してくるポニョの動きなんてそれだけで、観ていること自体が快感に繋がってくるんですよね。子供の細かい仕草も表情豊かに捉えていて、それを動きとして的確に画面に乗せてくる。こういう辺りは本当に上手いと思います。

☆ ☆ ☆

あと、人タイプのポニョ、リサ、一応ソウスケも、主要登場人物のヘアスタイルがボブカットで、絶壁じゃないきちんと後頭部がある形のいい頭を披露してたのが気に入りました。その形の良い頭の上でボブの髪の毛が揺れるのが、何回も見たくなるくらいに視覚的に心地良かった。

ポニョ1 ポニョ2

監督 宮崎駿
公開 2008年


崖の上のポニョ - 予告編



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【邦画】 HOUSE (ハウス)

HOUSEHOUSE
(2001/09/21)
池上季実子大場久美子

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稚拙な視覚効果が目立つ映画という印象が一番強く残ります。さらにホラーもののフォーマットに従って出来上がってるけど、もともと怖さなんてまるっきり狙ってない映画です。

狙ってるのはバッド・テイスト、それも気持ち悪い類じゃなくて、「ポップな悪趣味」とでも云えそうなもの。
でもその狙いもあざとさが先にたってその部分ではあまり面白くありません。映画全体を覆っている稚拙な視覚効果も、効果自体を悪趣味に見せるためにあえて稚拙にやってるんだと思うけど、本当に拙い技術でやってるようにも見えて、そう見え出すと興ざめでした。
レビューで「当時の技術では最先端だったんだろうが今観ると~」なんてことを云われてるのを見ることがあります。でも、この映画、撮られたのは「スターウォーズ」と同時期で、アメリカと日本の事情の違いはあるとしても、この程度の技術は当時の最先端でも何でもないわけで、わざと意図的に稚拙にやってるのをこんな風に見られた時点で目論みとしては失敗してます。

話自体は夏休みに田舎のおばさんの屋敷に遊びに行ったら、出迎えたおばさんは本当はもう亡くなっていて、屋敷はお化け屋敷になり、泊まりに行った女の子たちが次々と家に食べられていく、といった単純なものです。
そういう話の脚本にも「ポップな悪趣味」が安っぽく全開しています。
登場する女の子がお互いに「オシャレ」だとか「メロディ」だとか「クンフー」だとか「ファンタ」だとか「スィート」だとか、そういうとんでもないニックネームで呼び合う段階で、観てるのが気恥ずかしくなってくるのを皮切りに、鳥肌が立つほどの台詞がてんこ盛り。観ていて気を許すと、安っぽい特殊効果の画面に乗って、そういう気恥ずかしいものが山のように目の前に押し寄せてきます。

わたしは「バッド・テイスト」な映画は、好んで観るほどではなくてもそれなりに楽しめる方なんですが、この映画の悪趣味さにはどこかピントが外れてる印象が付き纏ってました。

少女が一杯出てくる、「少女コレクション」のほうでは、この映画は力が入ってました。映画全体が大林宣彦の美少女主義で隅から隅まで塗りつぶされてます。
でもこういう部分は今となってはとても貴重。特にコメットさんの大場久美子が画面の中で生きて動いてるのが物凄くポイント高い。
以前のDHCのコマーシャルでは、まるで観音菩薩みたいに納まりかえっていた神保美喜も、この頃は物凄く初々しい。

HOUSE (ハウス) Trailer


監督 大林宣彦
公開 1977年


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【邦画】 どろろ

どろろ(通常版)どろろ(通常版)
(2007/07/13)
柴咲コウ瑛太

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プロローグの後、オープニング曲に「Huun-Huur-Tu」の「Throat Singing」をフューチャーしたものを使って、異国風日本の雰囲気で始まります。
始まってすぐに、選曲の面白さにのめり込み気味になって観てました。だから最初は好意的です。

冒頭に出てくる仮面をかぶったダンサーも異界情緒満載。
妻夫木の百鬼丸は序盤、闇をはらんでるような雰囲気もそれなりにあってなかなか良い。
最初の大蜘蛛の化け物との戦いも、酷い酷いと云われてる割にはよく出来てると、好意的立場から出発してそのまま引き込まれて観てたんですが、それも中盤の土屋アンナの妖怪の話が終わる頃まででした。

この映画は土屋アンナの妖怪以降の魔物との戦いをダイジェストで見せるという信じがたい演出方法を取ってます。それを語るのが目的の映画なのに、その内容を要約で済ませてる。こんなの有り得ないです。
しかも出てくる魔物はCGIで作りこんだそれまでの妖怪から、まるで「○○戦隊」とでも云ったほうが相応しいような「なんたら怪人」レベルのものばかりになる。着ぐるみが関節部分をたるませながらどたどたと恥ずかしげも無く登場する。
登場順に撮影してるわけじゃないはずなのに、土屋アンナまでは凝った作りにしたらそこで予算が完全に無くなったと、まるでそんな事情が大文字で画面にでかでかと書き入れてあるような状態になってます。

☆ ☆ ☆

テーマは「許し」らしく、主人公二人とも、どろろ(柴咲コウ)は両親を殺した相手に、百鬼丸は自分の体を魔物に売り渡した相手に対して、復讐心の化身みたいになってるのが、最終的にその復讐心から解き放たれる物語です。

どろろは百鬼丸が親のかたきである醍醐景光(中井貴一)の息子と知った時点で、ものの見事に刀で百鬼丸の心臓を突き刺します。百鬼丸はその時はまだ魔物から心臓を取り戻していなかったのでその一撃でやられてしまうことは無かったものの、どろろはためらいも無く刀を突き立てた。これだけでもこの瞬間、どろろは既に百鬼丸を自分の側の人間と考えてることを止めてしまっています。
その少し後で、なにやら悩んだ挙句、百鬼丸に復讐の相手は自分の親だから百鬼丸には切れないだとか、自分は復讐を諦めるから百鬼丸も諦めろと説得にかかります。でも、構わないから切れと云われた相手に、逡巡を重ねて結局切れずじまいだったならまだしも、ほとんど身内のように共に行動していた百鬼丸に対してためらいも無く刀を突き刺しておきながら、その後でこんなことを云っても全然説得力がありません。どろろに百鬼丸を刺させた意図が本当に分からない。

上滑りする言葉の果てに「復讐を諦める」と言葉で云って、どろろの復讐は完了。
ちなみに百鬼丸のほうも醍醐景光との最後の戦いの後で、「恨みを捨てる」と言葉で云っておしまいでした。

その後も醍醐景光に魔物の親玉が憑依するような見せ場もあるんですが、百鬼丸との戦いの後では今一盛り上がりに欠けて、ちょっと蛇足っぽい感じです。

☆ ☆ ☆

柴咲コウの「どろろ」は熱演してるのは分かるんですが、「乱」でのピーター並みに泥臭くて恥ずかしい演技があって、でもこのぐらい過剰にやらないとやはり「柴咲コウ」から「どろろ」へシフトするのは難しいのかな。


どろろ トレーラー


監督 塩田明彦
公開 2007年


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