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【近況】展覧会の応募作品を提出したこと +【美術】大阪国立国際美術館 コレクションの誘惑展 +【写真】街角スナップ +【音楽】愛の歌聴き比べ

この前から懸案だった展覧会に応募する写真。なんとか選んで郵送する形にまで持っていけました。これを書いてるのは5月の27日なんですけど、5月終了まで数日という時点で、あとは郵便局に持って行くだけという状態になってます。
別に参加したからといって何かもらえるわけでもないし、3日間無条件で一般的に公開してもらえるというだけのイベントなんですが、いざ送るとなると、どの写真を送ろうか予想外に迷ってしまって選ぶのに難儀してしまいました。
まず迷った要因の一つはあなたのとっておきの一枚を見せてくださいという展覧会の趣旨。とっておきの一枚って、言うのは簡単だけど結構選ぶのに苦労します。だって自分にとっては全部が何らかの形でとっておきなんだから。どのどっておきを送ろうかとこれは本当に途方にくれてしまいました。それと迷ったのがその選びにくいとっておきの一枚にさらに、込めた気持ちを書いてくれという注文がついてたということ。極私的な関心で撮りはしていても、そんなに人に語るような気持ちを込めて撮るような撮り方をしてないから、何を書いても本心じゃない部分が混じってどうも後ろ暗い気分が残りそうでした。

結局最終的に選んだのは、ブログに今まで載せたものは除外するという選び方をしたから、撮った中でも比較的気に入ったものを選べないという制限も出来てしまってこれも選択を難儀にした要素だったんですけど、今まで撮ってブログに載せたもの以外だと、とりあえず見慣れたものからは選びにくいと思ったこともあって、一番最近に撮っていた、自分にも新鮮で、まだブログで記事にしてない奈良で撮ったものから選んでみようということになりました。
そんな風にして選んだ写真は雰囲気的な写真と若干ネタに走ったようなものの2枚。応募は一枚なのでこのうちのどちらかというところまで絞り込み、この2枚を応募の指定サイズに引き伸ばしてみることにしました。引き伸ばしを頼みに行ったのはいつも現像をしてもらってるムツミ・フォトステーション。
期せずして応募しようと選んだ二枚は両方とも縦構図の写真で、横の構図のほうは応募規定では色々とサイズを選べたのに、縦方向の写真は写真を貼る応募パネルの大きさにもよって、六切りサイズ一つの規定となってました。ムツミにネガを持っていって、これとこれを六切りまで引き伸ばして欲しいというと、フィルムカメラで撮ったライカ判の画面サイズは六切りにすると両端を、縦構図の場合は上下になるんですが、かなりトリミングしてしまうことになるサイズなんだとか。六切りのワイド判のようなサイズもあるからライカ判で撮った写真を引き伸ばすにはそちらのほうが良いんじゃないかといったようなことを云われかけたものの、実は応募しようという目的のための引き伸ばしで、そのサイズの指定が六切りなんだと説明することになりました。
その後、どうしてもトリミングする以外に選択肢がないものだから、選んだ写真の上下のどのバランスでトリミングするか店の人と話をしながら決めていくことになったんですが、これがまるで何かの共同作業をしてるようでなかなか面白かったです。
もともとフィルムで写真を撮ってると現像段階でどうしても撮った写真を他人に見られるわけで、担当の人は現像しながらいろいろと思ってるんだろうなぁと想像したりすると、ちょっと恥ずかしくなったりして、その辺は勢いで乗り切ったりしてるところもあるんですけど、そのあとはフィルムをスキャナで取り込んだりフォトショップを通したりと作業はPCの中で完結することになります。そのPCで完結してしまう部分も含めて最後まで今回は他人と話しながら進めて行くようなことになったわけで、頼みに行く前は自分の中だけでは完結しない、意に沿わないようなところやちょっと気が進まないところもあるかもしれないと思ってたのに、実際はそうでもなかったのは結構意外なことでした。

六切りは引き伸ばしにしてはそれほど大きくはならないサイズだったんですが、それでも仕上がった写真を観ると、いつもはL判の同時プリントという出来を確認する程度のプリントで済ませていたところから比べると印象の差は歴然としていて、撮った本人でも見違えるような出来の写真になってました。PCを通して出来上がる写真とはまるっきり密度が違うというか、35mmのフィルムでもここまで緻密な絵としてフィルムに定着されてたんだと再発見でもしたような気分になる印象でした。
今回の引き伸ばしで思ったことは、撮った写真は絶対に印画紙に銀写真プリントしたほうが良いということと、できれば大きめできちんとした写真にしてみるということが必要だということでした、PCで自己完結するのは写真という出来事の途上で立ち止まって引き返してるようなものだと半ば確信した感じ。これからは撮ったフィルムについて、全部というのは負担が大きすぎるので、そのなかで気に入ったものの1~2枚は大きくきちんとした写真にしてみようと思いました。

2枚六切りに引き伸ばしてその両方が縦構図の写真。どちらを選ぼうと縦構図の写真であることは変わらないことになって、応募はここのHNではしなかったから会場ではわたしの写真がどれなのかは分からないはずですけど、縦構図の写真がわたしのものだけだったら自動的に分かることになるなぁと、そんなことを漫然と考えたりしてます。会場は全国各地で設定されていてすべての応募作品が一堂に会するわけでもなく、そのうちのどこの会場に飾って欲しいかは提出する時に選ぶようになってるんですけど、あいにくと京都では会場は設定されてないようだったので大阪の会場を指定しておきました。
会期中に自分でもどんな感じで自分の写真が並べられてるのか確認しに行ってみるつもりでいます。

追記)5月の28日に郵送しました。これで、アンデパンダン形式の気楽な展覧会と自分で云いながらも妙に意識のある部分を占領し気になっていたものが取り除かれて、なんだかホッとした感じです。

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この前の記事に観にいきたいと書いていた展覧会、大阪国立国際美術館で開催されている「コレクションの誘惑」展を観にいってきました。
国立国際美術館ってなんだか物々しい名前の美術館。去年の夏に森山大道展をやっていたのを観にいったきり、ほぼ一年ぶりの訪問となりました。京都からだと京阪の淀屋橋行きに乗って、終点淀屋橋に着く少し手前の京橋駅で、3つほど駅があるだけですぐに終点に着く極めて短い中之島線に乗り換えるという道順になっています。
行ったのは5月の下旬に入ってすぐくらいの時で、一年前の記憶を頼りに、中之島線は京橋から分岐するとすぐに地下にもぐって地下鉄となり、その地下のもぐった目的の駅で降りて地上に出てから一度曲がり角があるくらいで美術館まではほとんど道なりだったのは覚えていたから、特に場所の確認が必要だとも思わずに出かけました。
それで、何の疑問もなく終点の中ノ島で下車。でもその後地下から地上に出て眼前に広がった光景が川沿いだったという点は去年と同じだったものの、去年のようにその川沿いを歩いていっても、見える光景は微妙に印象にないものばかりでした。一年でこんなに変わるのかなと呑気なことを考えながら歩いて見覚えがあるようなないような橋がある所で、去年はここを曲がるとすぐに美術館があったと記憶どおりに道を折れて歩いていきました。ところがこの角を曲がればすぐだと思った角を曲がっていっても、あるはずの美術館に一向に行き着かないんですよね。行き着かないどころか美術館があるはずの場所に何処かの運送会社の倉庫が立ってる。この辺りで道を間違えたというよりも降りる駅を間違えたことに気づき、実は大阪国立国際美術館に行くために降りるべき駅は終点の中之島じゃなくてその一つ前の渡辺橋という駅でした。

降りる駅を間違えたということに気づいてからは、幸運にも間違って降りた駅が終着駅だったから、本来降りるべきだった駅は乗り過ごしてきた駅だったのかここから先にある駅なのか、どちらなんだろうという判断を迫られることもなくて、知らない街に来たついでに街の様子でも見物しながら電車がやってきた方向に戻ってみることにしました。途上でなにやら学校のようなものの廃墟しみた空間を見つけ、門扉の隙間からカメラを突っ込んで写真を撮ってみようかなぁなんて思ったりしながらも、そんなことをしてる場合じゃないと美術館探しに戻ったりしながら歩いてると、一駅戻る程度の距離だったから、程なく美術館の方向案内の看板があるのを見つけ、それを見つけて以降は去年付近を歩いで見たものと一致する光景が一気に目の前に増えてきて、後は簡単に目的の場所にたどり着くことが出来ました。結局美術館は間違って降りた中之島駅とその一つ前の渡辺橋駅の中間少し渡辺橋寄りくらいの位置にありました。

美術館はもとは大阪万博の時の建物を再利用して始まったものらしく、その後この地に移転して今の形になったもののようです。外観はパイプのフレームで組み上げた鉄骨むき出しのような構築物で成り立つドーム状の部分とそこからドーム頭上の空間に突き出たパイプの装飾物で構成されてる建築です。建築というにはちょっと風変わりかも。外空間に突き出てるパイプの装飾はデザイン的にもたいしたことがなく、わたしにはあまり美的なものにはみえないものだったんですけど、建物の存在様式は考えて見るとかなりユニークで、面白い構造になってます。何しろパイプとガラス壁のドームを入ると外からもガラス越しに見える一階部分には案内のテーブルしかなくて、その案内の人に促されるように地下へ降りていくエスカレーターに直通することになります。美術館は地下一階から始まり地下三階まで展示空間を展開する形になっていて、まるで普通だったら地上に積み上げていく建築を逆向きに地下に向けて積み上げて行ったような構造になってるんですね。建築といえば地上に伸び上がっていくもののイメージがあるから、地上部分の本来的に建築物といいたくなるような部分は地下へ降りていくところに蓋をしてるようなドームしかない形になってるこの美術館は、ドームのデザインの今ひとつな感じは別にしても、かなりユニークな印象を与えるものだと思います。


コレクションの誘惑展チラシ1

コレクションの誘惑展チラシ2


さて、そういう風変わりな美術館で開催されていた展覧会なんですけど、結論的に云ってしまうと、予想外に面白い展覧会でした。「コレクションの誘惑」というタイトルからなんだか所蔵品を漫然と並べた展覧会なのかなという印象を持っていて、展示作家の中に興味のある人物がいたからそれを観られるだけでも良いやと思って観に行った程度だったのが、展覧会全体の構成が良く考えられていて会場を出るまで、思ってた以上に興味を持続して各コーナーを巡り歩く感じで鑑賞することが出来ました。

大阪国立国際美術館の趣旨は20世紀の美術と戦後現代美術で拡張されていく様々な芸術的な試みや同じく戦後の日本での芸術動向を跡づけていく作品を収蔵していくというようなものらしくて、非常に広範囲にわたる収蔵品を地下二階の第一会場にタブローや、ミクストメディアによるオブジェ的な作品、地下三階の第二会場には20世紀から現代の写真作品と大きく分けてたうえで、第一会場の美術フロアでは各展示室を、「20世紀初頭~1950年代」「1960年代~1970年代」と10年おきに区切って「2000年以降」という最後の区切りまで、20世紀から今日までの大まかな美術の動きを俯瞰できるような構成になっており、地下三階の第二会場の写真展示のほうは「イメージ」「時間」「身体」「空間」といった、こちらは年代的というよりも写真が内包する各テーマごとに様々な作家がどういう風なアプローチを試みたかというような区分で展示空間を構成してました。
現代美術というだけで、あるテーマや時代や有名画家に偏って闇雲にコレクションしてるのではなくて、時代の全体像を俯瞰できるような意図でコレクションしている美術館の意図が良く分かるような展示になってます。
なにしろ第一会場に入った最初にプロローグ的に目にはいってくるのがピカソの「道化役者と子供」のタブローなんですけど、ピカソ、有名だし集める値打ちがあるといった扱いでもなくて、本当に20世紀美術の開始地点というだけの意味合いで展示されてます。一方会場全体はそんな有名作家にスペースを割くでもない、風変わりでもっと時代に生々しく密着してるような作品が多くて、20世紀から現代までの美術を教科書的ではなく、わたしたちならこういう風に俯瞰するという意図が割りとよくでてる展覧会になってるようでした。

チラシでも分かるかもしれないけど、この展覧会のわたしの一番の目的はデュシャンの作品が観られるということでした。そして、ピカソを眺めながら第一会場に入った最初の展示室で、何しろこの展示室のテーマは「20世紀初頭~1950年代」だものだから、いきなりデュシャンの作品と対面することになりました。
それにしても、このテーマだとまずシュルレアリスムそのものになるところが、ピカソの扱い同様に、シュルレアリスムの代表選手に違いないダリの作品なんかが一つも展示されてないのが小気味良いというか、その代わりといってはなんですけど、エルンストやマン・レイの作品やデュシャンが並べられてるのがわたしの嗜好にぴったりと合ってしまって、ワクワクして作品を眺めることが出来ました。

デュシャンに関しては絵画は早々と描くのを止めて後年はチェスプレーヤーに転進、密かに遺作を作ってはいたものの芸術活動として表立ったことからは完全に身を引いてしまっていたために作品そのものはそれほど多いともいえず、代表はスキャンダラスな、便器を逆さまに置いただけのレディメイド「泉」辺りと捉えられると、ひょっとしてこれが展示されてるのかなというちょっとした危惧がありました。レディメイドという観念は面白いけど、実際のオブジェとして提示される便器は特に見て面白いわけでもないから、デュシャンは好きでもこれが会場に堂々と鎮座してるのもちょっと嫌だなと。
ところがそういう危惧は杞憂というか、会場の真ん中に展示台に載せられて置かれてたのは「トランクの中の箱」という、わたしは写真でしか見たことがなかったユニークな作品でした。観念先走りのデュシャンの作品の中だと見て面白い類に入るようなオブジェ作品。

箱
図録からデジカメで撮ってみました。スキャンするには分厚すぎて。

どういうものかというと自作の作品のミニチュアを箱詰めにして販売したというオブジェなんですね。デュシャン自身は移動美術館と云っていたそうで、中にはミニチュアの「大ガラス」や同じくミニチュアの便器「泉」とかが封入されています。一作オリジナル主義とも云うべき従来の美術の考えの中で、のちに社会の中で一般的になるような大量生産のコピーといった観念を持ち込んでるような作品でもあります。
普及版と豪華版の二種類があったらしく、国立国際美術館が所蔵してるのは普及版のほう。基本複製品がオリジナルの特徴だったから、国内でも他の美術館で所有しているところがあるようです。当時どういう販売方法で売られたのかは知らないけど、美術館がコレクションのために買う以外、一般人も買えたとするなら、買った人は今やガラスケースの向こう側でしか見ることが出来ない作品を手にしたわけで、わたしはこれを買えた人が本当にうらやましいと思った作品でした。
会場では箱を展開して、中に封入されているものが一覧できる形で展示されてました。ちっちゃな便器だとかガラスのヒビまで再現された小さな「大ガラス」がなかなか楽しいというか、ミニチュア的なもの、ドールハウス的なものが大好きなわたしの琴線に触れるものが夥しい展示物でもありました。

他にはマン・レイの物が面白かったです。写真だと、デュシャン関連で、「大ガラス」を話題にしたときにちょっと書いた「埃の培養」が出てたし、デュシャンの女装人格であるローズ・セラヴィの肖像を写した有名なものも展示されてました。「醒めてみる夢の会」の皆で集まってなにやらこれから妖しげな実験でも始めそうな写真はそういう会があったら絶対に入ってみたいと思わせました。
でもマン・レイの作品のなかで今回の展覧会として一番面白かったのは写真ではなくてオブジェ作品である「イジドール・デュカスの謎」でした。あるオブジェを厚手の布で包んで縄で縛った作品。まるで宇治川公園で見た水道管のオブジェそのままのような作品です。こんなのを観るとひょっとしたら宇治川のオブジェは市井に潜む無名のマン・レイが作ったものじゃなかったかと思えてきたりします。

謎
同じく図録に載っていた写真をデジカメで。

そのオブジェにかけられた布のシルエットとタイトルから、タイトルのイジドール・デュカスというのはロートレアモンの本名で、ロートレアモンの詩「マルドロールの歌」に出てくる「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」という一節がシュルレアリスムの本質を表す定義として扱われてるところから、布に包まれてるのはミシンだというのは良く分かるんですけど、たとえばどんな色でどんな装飾が施されたようなミシンだったのか、あるいはタイトルと形からミシンだと良く分かるとと思わせてるだけで、本当は布につつんだ時にミシンに見えるだけの全く違うオブジェが厚布の中に潜んでいるのか、包まれた中身に関するそういったことはこういう風に作品として成立してしまうともう二度と縄を解くわけには行かずに永遠に知られないままになってしまいます。
この永遠に知られないという観念はわたしにはざわざわと波立つような感覚を覚えさせるもので、岡倉天心とフェノロサが法隆寺の千年以上に渡って閉ざされてきた夢殿の封印を解いたのとは逆のバージョンになるんだなぁなんて事を連想しました。時間が経るにつれて観る側のこの縄を解いて厚布を払いのけてみたいという衝動は増して行くことになるでしょうね。

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最大の目的だったデュシャンの作品を展覧会場の一番最初のコーナーで堪能してしまい、後はつけたしかと思いながらも次の展示コーナーに入ってみると、ここがまたとても興味深い展示構成となってました。
20世紀初頭のダダやシュルレアリスムの時代も大好きだけど、60年代のアンダーグラウンド的で混沌とした時代の芸術も結構好きなんですよね。
次の展示テーマである「60年代~70年代」のところでは、そういうわたしの興味に直結する日本のアンダーグラウンド美術がいくつか置いてあって、60年代頃を中心に「人の真似をするな」というテーゼの元に活動した具体美術協会という前衛芸術集団の回顧展で随分と昔に見たことがある、白髪一雄の足で描くアクション・ペインティングなんかもあったんですけど、そのなかでも特に興味深かったのは工藤哲巳のサイケデリックでグロテスクなオブジェと三木富雄の耳のオブジェをみられたことでした。

芸術活動の枠組みを拡張していくような熱気と混沌が渦巻いていたような60年代、パフォーマンスなどでその動的な時代の空気を体現するようなイメージがある工藤哲巳のグロテスクなオブジェは写真では見たことがあったけど、実物を観るのは今回が始めて。まさか工藤哲巳のものが展示されてると思わなかったから、会場の片隅に見つけた時は思いのほか集中して細部まで確認するような感じで眺めてしまいました。鳥かごの中に人体の破片のようなものや、蛍光色でサイケデリックに塗られた男性器風の芋虫的オブジェなど、有機的でグロテスクな断片が詰め込まれた立体作品。写真で見るほどには人体の破片はリアルでもなかったけど、全体の存在感はやっぱりちょっと圧倒的でした。どうせなら生首の造形物が鳥かごの中に転がってる「イオネスコの肖像」が見たかったものの、展示されてるのは「危機の中の芸術家の肖像」などでそこがちょっと心残りだったかなぁ。調べてみると「イオネスコの肖像」はなんと京都国立近代美術館が所蔵してるそうで、もったいぶらずに見せて欲しいと思います。
ちなみに小さいけどチラシの写真の裏のほうの右上に出てる写真が工藤哲巳の作品です。

もう一人、生涯ひたすらに耳をモチーフとした立体作品を作り続けた三木富雄の作品は随分と前に展覧会で一度見たことがあって、とにかく耳に憑かれた作家という印象で記憶に残りました。3Dのモデリングなんかしてみると耳の形って異様というか、こんな形は人の発想では思いつかないと思えるほどユニークなものだと嫌というほど思い知らされるから、形として耳にとりつかれてしまう造形作家の精神は十分に理解できるところがあります。

60年代はポップアートの時代でもあったけど、今回の展覧会ではウォーホルの作品、マリリン・モンローのシルクスクリーンなんかがいくつか飾られていただけでこれは物足りなかったです。オルデンバーグの巨大ハンバーガーだとかリキテンスタインの印刷物をそのまま持ち込んだような絵画とか見てみたかったです。

70年代以降の潮流として展示されていたコンセプチュアル・アート的な作品群は昔は面白かったけど、今は作品の物質性を軽んじすぎていてあまり興味のある対象ではなくなった感じで、河原温なんかの黒地に白で日付だけを書いた作品が壁に掛けてあったものの今ひとつ興味を引かず。でもそういえば昔はこういうアートに凄く興味があったと懐かしい思いで見ることは出来ました。
コンセプチュアル・アートって芸術の観念そのものを対象化していくようなもので実はデュシャンの直系のような位置づけにも出来るんですけど、デュシャンはいつまでも興味の中心にいるのに、コンセプチュアルアートの作家はもう興味の範囲には入らないなぁと云うのが正直な感想でした。でも河原温はアメリカでもっとも成功した日本の美術家の一人なんですよね。

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各展示コーナーは入り口の所でその時代、造形作家たちが時代とどうか代わり合ってどういう作品として結実させていったのか、簡単な外観を説明するパネルがあってそのパネルの内容を裏打ちするような形で作品が展示されてます。
先にも書いたようにシュルレアリスムを説明するのに、これはまぁ所蔵してないからだと思うけど代表的なダリなんかを持ってこなかったりする感性は各展示コーナーでも一貫していて、そうはいっても本当に外せないポップアートのウォーホルの作品なんかはためらいもなく展示したうえで、そこそこ知られてるけどそれほど知れ渡ってる感じでもない、でもそのコーナーの意図は十分に果たせるような作家の作品が上手く配置されてるようでした。

あまりにもマニアックな選択眼にも寄ってない微妙なバランス感覚が、見慣れた作家をあまり展示しない新鮮さを保ちながら、展覧会の展示意図は凄くよく分かるという状態をうまく作っていて、なかなか面白いと思えた展覧会でした。

それと全体を見渡して面白く思えた作品は絵画よりも立体作品のほうが個人的には多かったです。展示の説明書きではミクスト・メディアと表示されていた作品。立体といっても従来的な彫刻なんかの立体作品じゃなくて、いろいろな素材を使ってそれこそユニークな発想の元に手で触れるような量感を伴って空間の一定量を占めてるような作品です。デュシャンの「触ってください」というタイトルのオブジェも含めて、50年代のコーナーにおいてあった、この作家もお気に入りの作家の一人であるジョセフ・コーネルの、世界の些細な断片を集めて組み合わせ、標本箱のような箱に収めて詩的で小さく閉じた世界を作る博物誌のような箱詰めのオブジェをはじめとして、70年代以降の展示には表現形式の多様化の元に従来では見られなかった素材や表現による立体作品が立ち並んでました。
こういう形式にあまり囚われてない立体作品は表現形式を拡張し続ける現代の美術の一番面白い部分を見られるんじゃないかと思うところもあり、これだけいろんな種類のミクスト・メディアの作品を一時に鑑賞してみると、従来の感覚からはみ出てるところが判りにくいという部分もありはするけど、その多様性がかなり豊かなものに感じられるところがあって、なかなか楽しかったです。

こういった今回の展覧会で予想外に面白かった立体作品では、船越桂の木彫りの人物オブジェが、イメージとしては天童荒太の本の装丁や広告などで見慣れたものだったのに、実際に立体物として目の前にしてみると、実物の持つ静謐な存在感とでも云うものにちょっと圧倒されるような印象を持ったのが新鮮でした。前に四谷シモンの人形の前で圧倒されてしばらく動けなくなった時があったんですけど、その時のこの場所を動きたくないという感覚が、この船越桂の作品の前で再びわたしの中で立ち上がってきたような感じになりました。立体はやっぱり紙媒体で見るよりは立体そのものとして体験しないと感じ取れない部分があると痛感します。
それとどうも人の形をしたものに惹かれる傾向があるようで、船越桂の人物オブジェ以外にも、棚田康司のひょろ長い男の子像なんかの前でもいちいち立ち止まって眺め回したりしてました。形として人の形というものにはやっぱり特別な何かがありますね。

文句なしに有名という教科書的な収集でもなく、絵画にこだわらず様々な立体作品も視野に入れてるというのが大阪国立国際美術館のポリシーだとするなら、今回の「コレクションの誘惑」展はまさにその現代美術のバラエティに富んで豊かな部分を魅力的に見せて、その意図は十分に伝わってくるような展覧会だったと思います。
予想外のデュシャンの作品も見られてかなり満足した展覧会でした。

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この展覧会で二部構成になっていたもう一つのテーマである写真。この美術館は写真のコレクションも積極的に展開してるようで、そのコレクションの成果の一端を今回の展覧会で披露してくれてました。
写真のほうは第一部の美術のように年代別の区分じゃなくてテーマ的な区分になってたんですが、それは写真は美術ほどは時代の潮流というか形式の拡大というような方向には向かわないものなのかもしれないということを指し示しているようにも思わせました。確かに印画紙になにかの像を焼き付けるという方法は美術でカンバスを捨てるほどには自由に出来ない方法で、印画紙を捨ててしまうと写真ですらなくなってしまうところから、写真は根本の部分で平面を飛び出して立体作品に拡張していくような方向には向かいにくいのかもしれないと思わせます。
だからこの展覧会の展示も写真が本来的に持ってるような基本的なテーマ、「空間」だとか「身体」だとか「時間」だとかいう写真としていつも携えてるような普遍的なテーマに作家がどういう風に向かい合ったのかという観点での展示になっていたのは凄く当然のことだったのかもしれません。形式の拡張もマン・レイなんかが試みた流れは続いているけど、この展覧会の写真の部は形式の拡張というよりもテーマの現代的な拡張という観点で構成されているようでした。
だからおのずと焦点は時代に見る特徴というよりも展示作家個人の個々の感性に還元されるような感じになって、時代的な流れというのはそれほど見えない展示となり、写真の会場は絵画などの第一会場で感じたような統一した雰囲気というか、まとまった何かがあまり感じられない展示構成になってるようにわたしには見えました。

面白かった写真家のものを上げてみると、まず「イメージ」テーマでまとめられたコーナーにあったドイツのヴォルフガング・ティルマンスの抽象写真。最近美術手帖のバックナンバー、2010年の5月号でこの人の特集を読んだこともあったりして馴染みがあった写真家です。日常的なリアルな瞬間を撮ったように見せるために徹底的にフィクショナルなアプローチを試みる作家のもう一つの側面である、被写体のない印画紙上で操作して作る写真。白バックに揺らめくように流れる色彩の繊細な線が美しい写真で、バックナンバーで触れられていたティルマンスの抽象写真の一端に触れられて興味深かったです。

「時間」テーマのコーナーでは宮本隆司の日比谷映画劇場やベルリン大劇場などの巨大な建築物の廃墟の写真と九龍城を被写体にした写真が圧巻のイメージで迫ってきました。廃墟はもともと対象物としては無視してられないものとしてわたしの中にあるから、それを全面的に扱った写真が面白くないわけがなく、また九龍城の混沌としたイメージを様々な角度から抽出していく写真も、組写真的に数多く展示されてたんですけど、どれも見ていて飽きなかったです。九龍城のような意空間にカメラを持って投げ込まれたらそれこそ一日中飽きもせずにシャッターきってるだろうなぁと思いました。それほど廃墟と九龍城は被写体として魅力的。あと九龍城の写真を見ていて、PSの昔のゲーム「クーロンズ・ゲート」を雰囲気そっくりなんて思い出したりしてました。あまり流行らなかったゲームだけどわたしは美脚屋なんていう妙なものが出てくるこのゲームの世界がかなり好きだったんですよね。

「空間」テーマのところに展示してあった米田知子の一連の空き地写真も面白かったです。可能な限り主観を排したような視線で街中にある空き地を淡々と写した写真群だったんですけど、思い入れを乗せた主観写真が氾濫してるところにこういう空間の特性に任せてしまったような冷たい手触りの写真を観ると凄く新鮮でした。空き地に過去の記憶の風化を絡めとるような意図があるようで、ただの空き地に廃墟的な空間が立ち上がるような気配もあって、そういうところにも惹かれたのかも。でもこの人のもう一つの組み写真、過去の偉人の所持しためがねのフレームを通してその人の著作の文面を撮るというのは、アイディア倒れという感じがしました。写真としてみていてあまり面白くないんだもの。

全体としては現代の写真を集めてるのに、依然モノクロの作品が多かった印象が際立ってました。やっぱりテーマ性を際立たせたりするには色という具体的なものは排除したほうがやりやすいということなのか。こういうのを観てるとわたしもまたモノクロで撮りたくなってきます。モノクロは上手く撮れなかったら精彩を欠いたものになりやすくて、今はカラーを詰めたカメラを持って出歩いてるんですが、ハッセルには宇治川公園で撮りきれなかったモノクロフィルムがまだ入れたままになってるし、あれを再び携えて何処かに写真撮りに行こうかなと思ったりしながら展示を見てました。

コレクション展チケット


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いつものごとく会場の一番最後に設置されていたグッズ・ショップのコーナーで展覧会の図録を購入。本来の売店は地下一階にあるのになぜか今回の展覧会では地下三階の写真フロアの最後にも出張所が設けられてました。

コレクション展図録
NIKON COOLPIX P5100

この図録、タイトルは国立国際美術館2012といったもので、今回の「コレクションの誘惑」展の図録という体裁にはなってません。この美術館の2012年現在での収集物とこれまでの美術館活動の記録を収録したものになっていて、今回の展覧会には出品されてなかった収集物も掲載されてます。今回の展覧会の作品は美術館がこれまでに収集したものの一部を展示するという形だったので、この本の体裁で結果的にこの展覧会の展示作品も掲載されてることになってるわけです。
各作品の簡単な解説と過去の展覧会の記録など、この展覧会の図録として作られるよりも結果的には豪華な本になって、すべてカラーの写真できちんと収録され、この厚さで1500円というのはかなり安いという印象でした。

☆ ☆ ☆

美術館のレストランでランチタイムは過ぎてたけどメニューがそのまま置いてあるのをみて、まだ注文できるかどうか訊いてみたら大丈夫という返事だったので、ここで遅めのランチを食べました。食べたのはハンバーグのランチ。ご飯はお代わり自由なんて書いてあったけど、定食屋でもないちょっとすましたレストランでお代わりする人っているのかなぁ。
その後梅田辺りまで足を伸ばして、中古カメラショップを覗いたりして帰宅。
降りる駅を間違えて始まった一日はどうなることかと思ったけど、それなりに無事に満足感を伴って終了という結果に落ち着きました。


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今までに撮った写真から何枚かアップ。

祇園の路地にて
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
祇園界隈の路地にて

祇園界隈
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
祇園の家の屋根の上

八坂神社
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
八坂神社

全部、オリンパスのハーフカメラで今年のお正月過ぎに撮っていたものです。この前の軒先飾りの写真を撮った時に一緒に撮ったもの。

一番上のは水が溢れてるところと泳いでる魚とどちらを中心にしようか迷って魚のほうを中心にした写真。真ん中は鍾馗さんですね。祇園辺りの家の軒先には結構鍾馗さんが佇んでたりするんですけど、これは祇園だけのことなのかなぁ。どうなんだろう。
一番したのは部分だけクローズアップして撮ってみようと思ってシャッターを切ったもの。「物」を撮りながら「物」の写真となることにちょっと距離を置けるような気がします。

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Sissel - Mon cœur s'ouvre à ta voix


サン=サーンス作曲のオペラ「サムソンとデリラ」で歌われるアリア。邦題は「私の心はあなたの声に開く」というものだそうです。ただひたすらにサムソンへの愛とその愛に応えて欲しいという切なる思いを織り込んでロマンティックに歌いあげられる歌曲で、フランス語の響きがいいです。フランス語ってこういう歌を歌うために作られたんじゃないかと思うくらい。
クロスオーバー系の歌手シセルの歌はかなり素直というか、あえてそういう風にしてるところもあるんでしょうけど、綺麗に聴こえはするけどどことなく押しの足らないような部分も併せ持つ感じが若干あります。
このセシル版は最後の囁くような声で一言愛してると呟くところがお気に入り。この締めくくりの囁きで曲全体のイメージを総仕上げしてるような感じで、余情たっぷりの情感を聴き終わったわたしの中に残していきます。

他にはマリア・カラスが歌ったものも聴いたことがあります。シセルの澄み切った歌声に比べるとちょっと暗い情緒といったものを併せ持っている感じの複雑なテクスチャを纏うような歌声で、歌い方も少しドラマチック。こちらのバージョンもいいです。

Maria Callas - Mon coeur s'ouvre à ta voix




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マイ・ハートマイ・ハート
(2004/06/23)
シセル

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【展覧会】小牧源太郎展 +【写真】モノクローム・スケッチ +【音楽】恋歌

先月15日の水曜日、定期検査で医者のところに行った帰り、ついでに小牧源太郎という画家の展覧会を観にいってきました。展覧会があると知ったのは先月所用で山科のほうに行った時に見た、地下鉄東西線の車内に貼ってあったポスターからでした。
ポスターの名前を見た瞬間、横溝正史の「鬼火」だとか江戸川乱歩の「陰獣」などの耽美的で隠微な幻想に溢れた挿絵を書いた人?と頭に思い浮かび、挿絵が載ってたから角川で持っていたのに創元の推理文庫で正史のものを買い足したことがあるわたしとしてはかなり気を惹かれたものの、耽美な挿絵の人は竹中英太郎であったとその後の一瞬で勘違いだったことに気づきました。
学生の時に学生会館の喫茶室でコーヒー一杯を前にして何日も読みふけってた「黒死館殺人事件」の小栗虫太郎の印象が強烈で、思惑違いであったとしてもわたしにはどうも漢字5文字で「○太郎」という名前の人物には変った作品を残した人というイメージが刷り込まれていて、他の名前と比べると無条件で注意が向かってしまうようです。
ポスターになってる作品のイメージも随分とタッチが違うし、なんだ、「蔵の中」の挿絵の人じゃなかったのかと一旦意気消沈したものの、でも名前は何処かで聞いたことがある画家だし、ポスターの文句を読んでみると、どうやら日本のシュルレアリスムの草分けの人らしくて、シュルレアリスムなら好きだから面白そうだなぁと、その後も気になる展覧会として記憶の一辺を占めることとなりました。

展覧会が始まったのは14日だったんですけど、思い違いで予期しない関心を持った画家だったせいか、それだけのために出かけるほどの勢いはわたしの中を探ってもどこにも無くて、翌日の15日に上に書いたような経緯で観にいくことにしました。

パンフレット表紙

パンフレット2
(会場に入った時に受付で貰ったパンフレット。クリックで拡大します。大きくすればひょっとしたら書いてある文字も読めるかも)

場所は中信美術館というところ。実はこういう美術館があるのは今まで知らなくて、京都中央信用金庫なんていうところが美術館活動をやってるということも今回始めて知りました。調べてみると開設は平成21年だということでかなり新しい美術館だったようです。設立の趣意は京都中央信用金庫や公益財団法人中信美術奨励基金に関係する芸術家の作品展を企画展示し、京都の芸術文化の振興と継承を目的に運営するとありました。

地図を見ると位置的には京都府庁の西側に隣接してるようで、お医者さんで用事を済ませた後京阪の三条まで来てここから地下鉄の東西線、烏丸線を乗り継いで丸太町の駅で降り立ちました。ちょうど御所の南西端辺りで地上に出てくることになり、目的の場所に行くために御所の西側に沿って伸びてる烏丸通りをそのまま北に向かいます。地下鉄の駅の北西の出入り口から出てくるとすぐ脇には煉瓦塀に囲まれた大丸ヴィラが目を引くことになります。大丸社主の下村正太郎邸としてW.M.ヴォーリズによって設計されたチューダー・スタイルの洋館。京都市登録有形文化財である建物なんだそうです。ただし現在は一般には非公開となっていて煉瓦塀から一部を覗き見られる程度となってます。

この日はただひたすら雲が空を覆ってるような重苦しい曇り空で小雪がちらついてもおかしくないような気候でした。家を出るときから天気が悪いのはもう分かりきっていたし、立ち寄る場所が美術館ということもあって、ハッセルやFM3Aのような大層なカメラを持って出る気にはならず、ロケンロールなトイカメラ、Wide Lens Cameraと年末の散財の勢いで買った中古で安く出ていたデジカメ、リコーのGRD3の2台を持って出ていました。

Wide Lens Cameraのほうはもう3~4ヶ月なかなか撮り終わらない感度800のフィルムを入れたままになっていた残り6枚ほどを、この日に残り全部撮りきってしまおうと持ってきていて、地下から出てきて真っ先に目にはいるこの大丸ヴィラをさっそく撮ってみることにしました。

大丸ヴィラ 指写り失敗写真
Wide Lens Camera : SUPERIA Venus 800
大丸ヴィラ

たまには失敗写真も載せてみます。
これは指が写ってしまったもの。Wide Lens Cameraは広角22mmのレンズでレンズがカメラの表面から飛び出してないデザインだから、持ち方で気を許してしまうとかなりの高確率で指が写りこみます。何本かフィルムを通してそれなりに慣れて来たカメラなのに、未だに1ロールで数枚指が写った写真を撮ってしまってます。
写真そのものは内部が煉瓦塀越しにしか見られない上に木陰で曇りの天気という暗さだったのでこのカメラでは感度800のフィルムでもかなり条件がきつかった様子でした。

大丸ヴィラ 門
RICOH GR DIGITAL 3
大丸ヴィラ 正面脇の門

内部非公開のために門扉に阻まれ、指入り写真で失敗したとも知らないままにその場を後にして、大丸ヴィラの側を通り過ぎて北に向かって歩いていくと府庁前に行く下立売通りと交差してるところに出てきます。その交差点の南西に建ってるのが平安女学院の日本聖公会京都教区聖アグネス教会。煉瓦作りの風情が同志社同様に際立っており、ここでもちょっとシャッターをきってみました。

日本聖公会京都教区聖アグネス教会
Wide Lens Camera : SUPERIA Venus 800
聖アグネス教会

とにかく厚い雲に覆われた陰鬱な日だったのも相まって、なんだかホラー映画にでも出てきそうな写り方になってました。こういう建物って見上げるしか視点の取りようがないところがあって、よほどあれこれ試してみないと変化に富んだ写真にするのは意外と難しそうです。中央の丸窓だけ拡大して撮りたかったけど、望遠を使って離れたところから撮るとか、塔の内部に入って内側から窓を撮るとかする以外では、単焦点の広角レンズでははなっから無理な相談でした。

ついでだから載せてみますけど、後日、旧京都府庁に行った時、また別の角度で撮ってみたのがこの写真。
聖アグネス教会
OLYMPUS OM-1 G.ZUIKO 50mm f1.4 : KODAK SUPER GOLD 400
聖アグネス教会

この交差点を府庁の方向に曲がり、教会に続く平安女学院の前を通り過ぎて歩いていきます。
やがて程なく府庁前に到着。京都府庁旧本館も古い建物でちょっと写真にとってみたいところもあるんですが、この日は来たついでに周囲をめぐってこんな写真を撮っただけで、目的の美術館に向かってます。

街灯
RICOH GR DIGITAL 3
京都府庁 周囲
これはちょっとかっこいい写り方かなぁ。ニュアンスの異なる縦向けのラインが集まって単純な構造だけどそれなりに変化もあるし。
縦に長いポール状のものって構図取りが難しいです。少なくともわたしはかなり迷います。どう撮っても芸のない写り方になりそうで。

中信美術館は府庁に隣接してると思い、きっと信用金庫の目立つ建物でもあるんだろうと思って歩いていたら堀川に出てしまい、明らかに行き過ぎてるのが分かったので、一体どこにあったのだろうともう一度府庁のほうに戻りかけて見つけました。周囲には信用金庫のビルなんかは全くなくて、完全に独立した建物が小さなビルや民家の列に馴染むようにしてこじんまりと建ってました。

中信美術館 入り口
RICOH GR DIGITAL 3

草木をモチーフにした天井や鉄扉を側に見て美術館の中に入ると、美術館然とした受付のテーブルと受付の女性、それと目の前の壁に掲げられた大きな絵が視界に入ってきます。ちなみに入場、鑑賞は無料でした。

入ってすぐにある足元の案内にはスリッパに履き替えてくださいといった要望が書かれていてちょっと意表をつかれます。中信美術館は土足では中に入れない美術館なんですね。側にあった棚からスリッパを取り出して履き替え終わるとテーブルの向こうにいた係りの女性が館内にどういう配置で展示してあるか説明してくれて、その指示と廊下にある道順の案内プレートにしたがって館内を巡り歩くような形になってました。
今回の展示の部屋は合計で3つ。それぞれの展示室の大きさはかなりこじんまりとしていて、最近明倫小学校に写真を撮りに行くことが多いので、その関連のイメージで行くと大体一般的な小学校の教室だと、およそその3分の2くらいの広さでした。裕福な家だったら応接間でもこのくらいの広さがあるかもというくらいの規模で、美術館としてはかなり小さな印象でした。
美術館の体裁にはなってるけど、入場料が無料だったことや展示物の展開内容から見ると実質的には規模の大きな画廊といった感じの場所。入り口でスリッパに履き替えたせいなのか、プライベートな空間に紛れ込んだような感じもしました。

☆ ☆ ☆

先に書いたように小牧源太郎という画家に関してはわたしは名前は何処かで聞いたことがある気がするけど、どういう画家だったのかはほとんど知らない状態でした。
もらったパンフレットには略歴も書かれていて、それによると1906年に京都に生まれ1989年に亡くなるまでずっと京都で活動を続けた画家とあります。略歴を読んで思い浮かんだのは、生まれ故郷から出ることなく鳥取の砂漠を舞台にシュールでスタイリッシュな写真を撮っていた写真家植田正治のような画家だなぁということでした。

作品の傾向は活動初期がシュルレアリスム的なイメージ、その後京都で活動してたからなのか仏教的なものやそこからの派生形で民俗学的なものをモチーフにしたり、絵画に精神分析学的な役割を見出そうとするようなことを試みたりしていたそうです。
シュルレアリスム的な時期だとか仏教的な時期だとか民俗学的絵画の時期だとか一人の作家の感性の遍歴を見せるような構成にはなってた展覧会でしたけど、作品は全部で30点しか展示されてないし、わたしが観たかったシュルレアリスム期の作品はたったの2点のみ。個別のテーマに関しても作家の感性の変遷を見るにしても、無料で観ていて云うのもなんだけど、規模的にはかなり物足りない展示だったように思われます。ただ全体を通してこの少ない出展を見ただけでも、小牧源太郎は基本的には記号、図案的なイメージを好む作家で各時期熱中したテーマは変化したけど、全体にわたって記号、図案思考は変らなかった画家だったんだということは分かるような展覧会でした。
そういう意味では展覧会の副題にある造型思考という言葉はこの画家の本質を言い当てていて的確であったと思いました。

さて肝心のわたしの関心ごとであった、小牧源太郎のシュルレアリスム期の2点の作品のうち、わたしの好きな描き方の絵はパンフレットにも載ってる民族病理学(祈り)という油彩の作品でした。活動暦の初期に描かれた作品だったので、展覧会の展示順序では最初から2枚目に目にすることになる絵画。わたしはたとえば食事は好みのものを一番最後まで残しておくタイプで、往々にしてお腹が一杯になってしまって後まで楽しみに取っておいたものをあまり美味しく食べられなくなるということになりがちなんですけど、今回の展覧会はその全く逆で目当てのものを一番最初に見てしまった形になりました。これはわたしがいろんなものに接した時の馴染みのリズムではないわけで、おかげで展覧会の全貌は知らずに観ていたはずなのに、大半の展示作品が目当てのものの後の付け足しのような印象を伴ってしまって、鑑賞体験としては余りいい状態でもなかったかもしれません。

シュルレアリスムでもこういうタイプの絵画は凄く興味を惹かれます。好んで描かれるのは大概が夢魔のような異世界なんですけど、その異世界を異世界として存在を信じ込ませるくらい緻密に描いて、そのリアルな非現実世界にこれまた非現実的で奇妙なオブジェが転がってるような絵画。シュルレアリスムも名前からいくとリアリズムの一種だから、異世界がどんなに異様で奇妙であってもリアルに描かれてるのは必然で、その世界に存在してるオブジェも何なのか皆目分からない謎のものであっても質感等はリアルな手触りを感じるような描かれかたをしてるといった感じの絵画です。さらに異世界に点在するオブジェは有機的なフォルムだったりするのもわたしにとっては必要不可欠な要素だったりします。
シュルレアリスムでこのタイプの絵画でいうと、一番代表的画家だとダリが典型的です。わたしが好きなのはイヴ・タンギーとかマックス・エルンスト辺りの絵画。球体関節人形の作者としてのほうが有名だけどハンス・ヴェルメールが描いた絵画なんかも好きな部類に入ります。特にタンギーの海底を思わせるような静謐な世界に点在する有機的なオブジェ群っていうヴィジョンは異様で、その世界に実際に入り込んで眺め回したりオブジェを手にとってその手触りを体験してみたいと思うくらいです。


Yves Tanguy

Youtubeにイヴ・タンギーの絵画をスライドショーにしたものがありました。こんな絵画です。


小牧源太郎の民族病理学という絵画は様式はまさしくわたしが好きなタイプのシュルレアリスム絵画でした。描かれてるオブジェで一番目立つものはなにやら気味の悪い節足動物かむき出しの肋骨を思わせるような有機的なもので、この辺も異世界的な雰囲気が出ていて面白いです。
でもモチーフは面白いのに、全体的なタッチは実際に大きな実物で見るとそれほど精緻でもなくて、細部が随分と簡略化されてるような印象を受けました。この辺りは展覧会の全体を見通して、小牧源太郎はリアル志向じゃなくて記号、図案の作家なんだと思った要素がこの初期シュルレアリスム絵画にも早くも出てきてる感じで、それがダリ的な世界を扱っても小牧源太郎の個性として出てるんでしょうけど、ディテールの乏しさは異世界構築の絵画としては結構な物足りなさを感じさせるのも確かなところでした。あとこの絵画は戦争中に描かれたもので、戦争批判的な意味合いで戦闘機らしきものが描かれていたりするのも、わたしの趣味に合わないところでした。わたしは社会派とかいった類のものってあまり好きじゃないです。絵画でも音楽でも文学でも、こういうものは何かのための手段と化してるアートよりも、アートそのものとして成立してるアートのほうが好みだったりします。

もう一つのシュルレアリスム絵画は完全に記号的な描き方をした抽象的なもので、わたしが見たかったシュルレアリスム的な絵画はこの展覧会ではこれでお終い。実にあっけなかったです。

同じ展示室にあったほかの油絵ではジャクソン・ポロックのようなドリッピングを使ったアンフォルメルの絵画が印象に残りました。でも、絵具を滴らせた道具を振り回して偶然が描く絵具の軌跡で絵画を描くという手法なんですけど、ここでも飛び散る絵具の勢いやその場限りの偶然性なんかにはあまり興味がないような作り方で、たとえば飛び散った絵具の軌跡の端っこにそれそれ丸い目のようなものを書き入れて、ある種意味合いを与えて形として独立させようとするような、出来上がった偶然そのものの視覚化を静的な形としてカンバスに定着させようとしてる意図が感じられるような描き方だったので、図案思考の小牧源太郎の刻印が押されてる絵画であるのは、アンフォルメルというシュルレアリスムとはまた違ったモチーフの絵画でも同じなんだと思ったりして眺めてました。

☆ ☆ ☆

最初の展示室の最初の絵画数点だけで、ひょっとしてもうシュルレアリスムってお終い?と思いながらその後館内を見歩いてたせいもあって、残り二室の展示は晩年の最重要モチーフの針金状「ひとがた」人間がいろんな形で登場するものを展示室ひとつ分くらい用意して、本来はこの部分こそがこの展覧会の要、小牧源太郎の本質が現れてくる展開だったんでしょうけど、わたしとしては先に書いたように付け足し感のほうが強くなってしまってました。

記号的、図案的な絵画というのも、以前モホイ=ナジの展覧会について書いた時に、ロシアン・フォルマリズムも取り上げたように、実はわたしはこういう絵画も結構好きな部類に入ってます。ただロシア構成主義だとかバウハウスなんかで見られたモダニズム的なもの、エッジの効いたダイナミズムみたいなものによってこういう絵画や運動が好きだった目から見ると、小牧源太郎の構成的な絵画はいささか泥臭いというか、モダニズムとは完全に違う地平で成立してるように見えました。これはおそらく仏教とか民俗学に傾倒した結果が絵に出てきた結果と見て間違いないんじゃないかと思います。
わたしは記号的なものならモダンな抽象形態といったものが好きなので、今回の展覧会ではシュルレアリスム期以降の作品を見ながら展示室を歩いてる時は正直なところあまりピンと来るものがないままに観終わってしまいました。でも帰ってから貰ったパンフレットを見返してみたり、これを書くのに何度も眺めなおしたりするうちに、こういう泥臭さもちょっと面白いかもって思ったりしてます。
この小牧源太郎の洗練されなさを残す図案趣味といった感じのものって、何年か前にアウトサイダー・アートなんていうカテゴリーで紹介されていた、ヘンリー・ダーガーなんかを代表とするカテゴリーの作品群と、図案なのにすっきりと割り切れてないような情念的で混沌としたものを含んでしまってる点で多少は通底してる部分もあるんじゃないかなと。精神分析学的なアプローチを小牧源太郎が試みたということも略歴に書いてあったし、そういう目で見ると、わたしがモダニズム的な感覚を通して関係を持ちようがなかった小牧源太郎の主要作品群も、もうちょっと馴染みがよくなるかもしれないなんて思いました。

☆ ☆ ☆

とまぁこんな感じで展覧会を見終わって、小さな展示室でもそれぞれの部屋に監視の人が一人ついていて、実はわたしが観にいった時は帰り際に一人若い男性が入ってきただけで、鑑賞はずっと一人でする形になっていたから、小さな部屋に監視の人と二人っきりでいると、なんだか退出する時もその人に何か言わなければいけないかなといった感じで、ありがとうございましたと挨拶しながら展示室を出たりしてました。中信美術館ってスリッパに履き替えるのから始まって、監視の人との思いもかけない親密でちょっと居心地の悪い空間といったものも含めて、美術館としては雰囲気は思いのほかユニークといった印象の施設でした。
ひょっとしたら偶然電車の広告を目にして行くことになった今回の展覧会では、結果として小牧源太郎の存在を知ったことよりも、このユニークでこじんまりした美術館が京都府庁の近くにあるということを知ったのが収穫だったのかもしれません。


☆ 展覧会の会期は3月の11日までです。



☆ ☆ ☆ 【写真】モノクローム・スケッチ ☆ ☆ ☆


一月の半ばからの寒波と天気の悪さでこのところ一段とフィルムの消費が落ちた日々が続いてます。それでも嵐山に行ったり西陣の街中を歩き回ったり、最近は近くの中信美術館に行ったのが切っ掛けで、旧府庁なんかに行って写真撮ってはいるものの、気分のほうはずっと若干欲求不満気味。この二月ほど、なにしろ撮る写真のほとんどがぼんやりとした影さえも出ずに、空はいつも白っぽい曇り空で、精彩をかくこと著しい感じです。曇りでも雨の日でもその日の有様だから、その日の世界として写真に撮る値打ちもあるんでしょうけど、青空とコントラストの強い影は毎日撮っていても飽きないのに、曇り空はそればかり撮ってるとなぜか知らないけど飽きてくるんですね。たまに晴れる日も一日も保たずにすぐに下り坂に向かうから、晴れた日はカメラ持って出かけないと勿体無いような気分になってます。
一日だけでお終いというようなこんな晴天じゃなくて、晴れた日が続きだすとこの陰鬱な季節も終わりということになるんでしょう。寒波も曇り空も飽き飽きしてるのでそういう日がやってくるのが待ち遠しいです。

写真はこういう陰鬱な状況のもと、最近撮ったものが数少なくて出すものがないというわけでもないんですけど、この前の続きで、同じフィルム・ロールから別の写真を何点か載せてみます。いつもだったらフィルム一本に5枚も気に入ったのがあれば上等っていうところなんですけど、このロールは結構気に入った写真が撮れたロールでした。撮ってた時期は去年の年末辺り。イルミネーションのイベントをやっていた頃の中之島の写真が多いです。

ディアモール
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
梅田ディアモールの一角

ガラスの向こうに広がる光景と壁に落ちる光、おまけに温室的なドーム状の天井という、わたしが好きな要素が重なったようなイメージです。場所は大阪梅田の地下街ディアモール大阪の、御堂筋線の改札から駅前第二ビルまで行く途中の、地上からの光を取り入れてる通路。なぜか窓枠のように区切られた枠から覗く光景って好きなところがあって、去年の夏に森山大道の展覧会に行ったときにも似たような写真を撮ったことがあります。

まだブログには載せてなかったけど、その時キヤノンのハーフカメラで撮ったのはこんな写真でした。
美術館にて
Canon demi EE17 : FUJI COLOR 100
国立国際美術館

これもほとんど同じ要素で成り立ってます。目測式のカメラだったのでピントは大まか。ガラスのドームの向こうに見えるビルがぼんやりとしてるのも記憶の中の光景みたいでこういうのってわりと好きだったりします。一度わざとピンボケで撮ってみようかと思うものの、ピントを追いこめるカメラだったらどうもきっちりと合わさないといけないような気分になるので、なかなか意図してピンボケ写真って撮れないというか、ちょっと勇気がいりますね。それとドーム状の建物ということだと、植物園ももう一度行ってみてもいいかなと思ってます。以前に学研の付録の二眼カメラを持って植物園に行ったときは温室はどうも有料のようだったから入りませんでした。

コントラスト・タワー
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
中之島界隈

縦に長いものは凄く撮りにくいと書いたのと同じ感じ。縦長のものを撮るために縦長の画面にするとまるで何も考えてないような絵になるし、横画面で撮ると一部しか撮れなくて高さがなかなか上手く感じられなくなりがち。
このビル、何のビルか知らないけど、コントラストが効いた外観で気を引きました。建物としてはこういう現代的なビルって嫌いなほうなんですけど、高さ規制のある京都だと観ない建物でもあるのでちょっと物珍しさがあります。相変わらずの曇り空でモノクロにしなくてもほとんど白一色の背景は、この場合はビルのコントラストを強調して上手くあってたような気がします。

規制といえば京都は町並みに関して色も規制してます。マクドナルドのような店でも京都に出店する時は派手な色を控えてるとか。公認で派手な色って鳥居の赤くらいかな。
別にマクドナルドが地味でも一向に構わないんですけど、カラフルな写真を撮りたくなった時は、京都ではなかなか難儀することになります。

中之島中央公会堂
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
中之島公会堂

建物としたらこういう建物のほうが好き。確か影が落ちてる中で窓周辺に光があたって浮かび上がってるのに気を惹かれて撮ったと記憶してます。

マネキンが目を閉じる
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
四条河原町周辺

四条通りの烏丸から河原町辺りのブティックに飾ってあったマネキン。妙なマネキンと思ってシャッターを切りました。どうもこのブランドの店ではどこでもこの時期はこのマネキンを使っていたようで、大阪を歩いてる時にも見かけたような気がします。最近目を閉じたマネキン自体よく見るように思うんですけど、ひょっとして流行ってるのかなぁ。目を閉じた人形といえば恋月姫の球体関節人形を思い浮かべるけど、同じ目を閉じるにしてもあれとは全くニュアンスが異なる印象になってるようです。

こういうディスプレイ系統を撮る時って出来上がった写真がもしかっこ良かったりしても、そのかっこ良さは写真を撮ったわたしのほうにあるんじゃなくて、ディスプレイをデザインした人の側にあると考えると、わたしが写真を撮る意味というのがいまいち分からなくなってくるところがあるんですね。

だからまぁこれは面白いマネキンだったから撮ってみたんですけど、店先のディスプレイとか洒落て見えても、出来上がるものが最後までわたしの手腕によるものじゃないと思うと、あまり撮る気にはならない場合が多かったりします。
写真はすべて一からそろえて演出するものもあるけど、大抵の場合、対象物そのものを自分で作らないから、シャッターを切ろうとする時にこういうこと、つまり写真に写し取れるものはわたしのものなのか、それとも対象物のものかといったことを考える機会は、わたしの場合はわりとあるような気がします。

重層
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
中之島公園

これはウィンドウに並んだ瓶を撮ったんですけど、仕上がってみたら目一杯対面の光景が映りこんでいたもの。
最初見たときは大失敗と思ったものの、しばらく放置してから再見してみると、意外と良いかもと思いなおした一枚でした。まるで多重露光したように見えて、そう見えてくるとなかなか面白くなってきました。
一度見ていまひとつでもしばらく寝かせておくと違う見方が出来るようなものがあります。フィルムは撮ってしまうと消去できないから、あとから失敗作を眺めるのも苦もなく出来ますけど、デジカメだと失敗はすぐに消してしまう可能性もありますよね。
これ、デジカメ使ってる人はあまり早めに結論を出さないほうがいいです。失敗だと思ってもしばらく残しておいて時間が経ってから見直したりするほうが良いですよ。思わない感覚で見直せることがあるから。

これは画面端っこでぎりぎり見えてる窓枠もいらないからトリミングしたほうが良いかなと思ったけど、額縁みたいにも見えてきて、これがあるほうがイメージが複層化すると思い、トリミングは不要と判断しました。どちらかというと、もともとわたしはほとんどトリミングしないほうです。その時のフレームを覗き込んだ直感を尊重したほうが良い結果になると思ってます。




☆ ☆ ☆ 恋歌 ☆ ☆ ☆


フォーク・クルセダーズのフォークソング。


ユエの流れ - 加藤和彦


フォーク・クルセダーズが歌った曲の中ではかなり好きな部類の曲に入ります。世界のフォークソングを巡るといったコンセプトに沿って、云うならば「イムジン川」路線の曲なんですけど、「イムジン川」が政治的配慮なんていうもののせいで発売中止になったためにかえって有名になってしまったのとは反対に、ほとんど注目されないままに埋もれてしまった曲といえるかもしれません。それにしてもフォーク・クルセダーズはこういう曲を見つけてくるかなり良いセンスを持っていたという印象です。
「ユエの流れ」も「イムジン川」同様に川にまつわる歌で、ユエはベトナム戦争のテト攻勢のときに戦場となった古都フエ(ベトナムは第二次世界大戦前はフランスの植民地だったので、フランス語読みでユエ)のことだとすると、この歌で歌われる川は市の中央を流れる香江(フオンジャン)のことだと思われます。
オリジナルはマリオ清藤という人が歌っていたそうで、このフォーク・クルセダーズのものはそのカバーになるんですけど、わたしはオリジナルのほうは聴いたことがないです。どうもこの曲の情報って調べてもあまり出てこなくて、以前に一度調べた時に作曲者として須摩洋朔という日本人の、第二次世界大戦のときに軍楽隊のメンバーで、のちにNHK交響楽団のトロンボーン奏者となった音楽家の名前が出てきたのが唯一の情報くらいでした。この情報で出てきた曲と加藤和彦が歌うこの曲が同名の異曲でないなら、ベトナムの民謡という装いではあるものの日本人が作った歌という可能性が高いことになります。

収録されてるレコードはフォーク・クルセダーズの解散時のコンサートの実況録音盤である1968年の「フォークルさよならコンサート」。「ユエの流れ」に関してはこのアルバムに入ってるだけでスタジオ録音のものはリリースされていません。
フォークルのライブのものとしてはもう一枚別にある「ハレンチリサイタル」のほうが「大統領様(ボリス・ヴィアンの曲「脱走兵」)」「雨の糸」「こきりこの唄」などお気に入りが一杯入っていて私は好きなんですけど、こちらにはこの曲のほかにもジャックスの「遠い海へ旅に出た私の恋人」など、全体的にはヒットした曲や解散後に端田宣彦が結成することになる「シューベルツ」の曲のお披露目とか、何処かで聴いたことがあるような曲が中心になってるなかで、独特の光芒を放ってるような曲もいくつか収録されています。
このコンサートを聴いていて面白いのは、北山修が合間のおしゃべりでもうすぐ大阪の万博が始まってどうのこうのというようなことを喋ってるところがあるんですね。大阪万博って今ではもうすべての記録が黄ばんで色あせてしまってるようなノスタルジーに満ちた出来事なのに、このコンサートをやってる世界はまだ大阪万博が存在さえしてなかった世界なんだって、なんだかちょっと異世界に連れ込まれたような感覚になったりします。

端田宣彦は数年前まではたまに四条烏丸辺りを歩いてるのを見ることがありました。


フォーク・クルセダーズ - 雨の糸~戦争は知らない(ハレンチリサイタル)

Youtubeじゃないけど、わたしの好きな「雨の糸」とレコードではそれに続いてる「戦争は知らない」もあったので載せておきます。上のリンクをクリックすると別窓が開きます。音量はちょっと小さめかも。

ちなみに「雨の糸」は森昌子に同名の曲がありますけど、全く違う曲です。


☆ ☆ ☆



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【展覧会】もう終了してしまったけど、モホイ=ナジ/イン・モーション展 +岡崎公園での散歩写真 +ジャズの影響

京都では9月の4日までの開催だったので、その点ではあまり意味を成さなくなってるかもしれませんけど、とりあえず観に行った記録として残しておきます。
先月の24日、用事があって外出した際に京都近代美術館で開催されていたモホイ=ナジの展覧会に立ち寄ってきました。7月から開催していたのでそろそろ閉幕も近いという、かなり遅いタイミングでの鑑賞となりました。


イン・モーション展チラシ表

イン・モーション展チラシ裏
イン・モーション展 ちらし表、裏

モホイ=ナジって、昔美術史の中では名前は見たことがあって知ってはいたんですけど、どういう活動をした人なのかほとんど記憶に残ってなかったんですね。ポスターをチラ見した段階ではイン・モーション展なんていうあいまいなタイトルも相まって、名前は知ってるけど、さて70~80年代頃のコンセプチュアル・アートにでも見られたような頭でっかちで退屈なビデオ・アートでも作ってた人だったかと思い切り勘違いしてほとんど見に行く気になってませんでした。昔は確かモホリ=ナギという表示だったはずで、そういうところも記憶に間接的な照明しか当たらなかったような感じになっていたのかもしれません。
それで、開催されてからかなり時間がたった頃に、実は割りと無意識では気になってたのか、何気にそういえばこの展覧会、赤い色の印象的なポスターでちょっと目に付くなぁと思ってチラシを手にしてみた時があって、その時そのチラシの裏に載っていたキネティックアートの写真「ライト・スペース・モデュレーター」(チラシ裏の右上に写真が載ってます)を見て、これの作者だったんだとようやく勘違いに気づくことになりました。頭でっかちのビデオアート作家じゃなかったんですね。これは云ってみれば動く立体造形といったものになるんですけど、この展覧会に出品されてどうやら動いてるところも見られるらしい。そう思うとチラシを見るまでは無関心の度合いのほうが強かったのに、興味の針は一気に逆方向にふれてしまって無性に見たくなってきました。なにしろこういうのは美術の本で写真では見たことがあっても実際に動いてるところなんてほとんど観たことがないから。動いてるのを見られるとしたら千載一遇のチャンスになるかもしれない展覧会でした。
ということで、もう開催期日も終わりに近づいてきた頃に、この動く立体造形の、実際に動いてるさまを見届けるという、ほとんどこの目的だけで展覧会に足を運ぶことになりました。
ちなみにこの展覧会のタイトル、あまり上手くないです。どんな展覧会かもう一つよく伝わってこないし、構成主義の抽象的な作品や光と影の探求をした作家の作品を示すのにあまり適切とは思えないです。というかわたしがこの作家の作品に惹かれた部分が会の主催者が考えたテーマとはまったく違うところにあったということなのかもしれません。

☆ ☆ ☆

会場は京都国立近代美術館。岡崎公園、平安神宮にいたる大通りの入り口にある大鳥居の平安神宮に向かって左にある建物です。ちなみに鳥居をはさんで右にあるのが京都市美術館です。近代美術館のほうはよく行くんですけど、京都市美術館のほうはなぜかほとんど足を運んだことがないです。見たいと思う展覧会が近代美術館のほうに多いということなんでしょうけど、色々満遍なく見てるつもりでも好みは結構反映されてるということでしょうね。

近代美術館前
Canon demi EE17 : Kodak Gold100
美術館前

いつも主要展覧会をやってるメインの会場は次の展覧会の準備だとかでそこにいたる階段から閉鎖されてました。このモホイ=ナジ展は近代美術館の3階と4階を使って展示されてると案内されて、売店横のエレベーターで3階まで直接昇っていきます。案内されたから仕方なく乗っては見たものの、実はエレベーターって大の苦手で、できるなら乗りたくないものの筆頭になってます。知らない人と一緒に狭いところに閉じ込められるのが耐え難いんですね。だからこのときは誰も乗り込まないうちにエレベーターの扉を閉じて、一人でさっさと三階にまで上がってしまいました。

モホイ=ナジ・ラースローはハンガリー生まれの画家。本人は後年にいたっても自分のことを基本的には画家と規定していたらしいですが、生涯にわたって展開した作品群からみると、今で云うところのマルチ・タレントの芸術家といった感じの人物です。出発地点はオーソドックスなドローイングでも、20世紀初頭の芸術運動に感化されキュビズム的な作風に変転して行ったあと、これも当時の芸術運動であったロシア構成主義的な作風で個性を発揮することになります。ロシア構成主義のほかにはダダイズム的な思考を原理としたせいなのか、従来の絵画的な枠組みを簡単に超える思考の柔軟性も持ち合わせてるようでした。あまり芸術の枠組みでは考慮されなかったような新時代の新素材や電気などのテクノロジーを使うことにもなんら躊躇いもなく、また活動内容もドローイングを超えて写真だとか舞台美術だとか多方面に拡散、それぞれをミックスしていくような多彩なものへと変貌していくことになります。戦前のワイマール共和国ではバウハウスの先生もしていて、後に世界中を飛び回ることで、たとえば亡命先のシカゴにニュー・バウハウスを設立したりと、芸術の普及といった側面でも活躍した人でもありました。

今回の展覧会はモホイ=ナジの大回顧展という形になってたので、生涯の作品活動が俯瞰できるように作品が選定され並べられてました。最初のコーナーはまだあまり特異な作風に変化する前のオーソドックスな絵画に当てられていていました。わたしとしてはこのコーナーはあまり面白くなかったというか、何しろ金属で出来た動く立体造型を見に来たわけだから、このドローイングの一群を眺めていても、見たいと思ってるものとははるかにかけ離れたもので、早く通り過ぎて先に進みたいという欲求のほうが強かったです。それなりに何か気を引く要素でもあったなら多少は違ってたかもしれないけど、内容ははがき大の小さな紙に身近な人とかを素描したものが多く見た目にも迫力がなかったし。モホイ=ナジの全容を既に把握してその生涯の作品を辿ってみるという視点でやってきていたなら、画家として目覚め始めたこの頃の作品も興味深い対象になってたかもしれませんが、わたしの場合はそういう事情でもなかったです。ただキュビズム等、当時の芸術運動に感化され始めて以降、次第に描線が主役になって、具体的な対象物の細部がシンプルな形態へと簡略化されていく過程はそれなりに辿ることが出来、自らの進むべき方向へと収斂し始めてるのはこの時期のドローイングからでも十分にうかがえて、そういうところは興味を引きました。

次のコーナーに並べてあったのはダダイスム、構成主義などの芸術運動に共鳴し始めた頃の作品で、ここからはかなり面白い展示になっていきました。ロシア構成主義を代表する作家というほどの位置にいるのを目の当たりにするような作品群、目当ての動く立体造型に繋がってるような要素も一杯含んでいる絵画や写真が並んでいて、それまでの画家として目覚め始めた頃のオーソドックスでやや退屈な絵画の展示とは一線を画すような印象のコーナーになってます。
ロシア構成主義っていうのはロシア革命前後に起こった新しい芸術運動のこと、革命というものの性質なのか新しい世界が希望に満ちた未来を約束してるというようなある種の楽観主義を伴ってるようなモダニズム、抽象的な線や形を駆使して形作っていく未来的な形態と、抽象的な形にシンプルに還元されていく割りに意外と動的で躍動感のあるダイナミックなヴィジョンといった感じの作品を生み出していった芸術運動のことなんですが、スターリン下で共産主義が堅牢なものになるにつれて、楽観的で未来派的なヴィジョンはいわゆる社会派的なリアリズム芸術に取って代わられロシアでは衰退していくことになります。
音楽が好きな人なら、構成主義が展開したのはどういうイメージだったのか割と簡単に把握できるはず。たとえばクラフトワークやフランツ・フェルディナンドがレコードジャケットで試みたようなイメージがまさしくロシア構成主義を借用したものなんですね。日本だとYMOなんかがそのイメージを使ってます。未来派的で抽象的というポイントでテクノなんかにぴったりなイメージかもしれません。
アマゾンからちょっとジャケットを拝借すると、こういうイメージ。

Man MachineMan Machine
(2003/02/11)
Kraftwerk

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You Could Have It So Much BetterYou Could Have It So Much Better
(2005/10/07)
Franz Ferdinand

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ちなみにこれの元ねたはロトチェンコのこの絵画です。

表現形式としてはスタイルはほぼ完成されて閉じてしまってるというようなもので、今となってはその時代の新素材の質感でデザインした未来志向をレトロフューチャー的なイメージとして再生産するか、こういうジャケットデザインのように再利用するといった係わり合いしか出来ないようなものになってるのかもしれないですけど、その時代に造られたこういう作品を見ていると、基本的にレトロフューチャー的なイメージが好きなせいもあって、モホイ=ナジが見出していた新しい時代の可能性という観念に共鳴し、ポジティブな気分に導かれていくようなところがありました。新しい時代の可能性なんていう観念は今の時代心のどこかで休眠してる類のものだけど、作品を眺め歩いてるうちにそういう休眠してる心のどこかが反応してるような感じになってたような気がします。

単純に直方体とか円形に還元された要素でしか成り立ってないのに、動的な配置が効いて動きを内包してるような絵画になってるのに感心して眺めたり、今で云うワイヤーフレーム状態の球体なんかを手書きの線で乱れることもなく描いてるまるで一昔前のコンピュータ・グラフィックスのような絵を観て、相当神経を集中してたんだろうなぁと思いつつ、モホイ=ナジはひょっとしたら映画トロンのような世界を見たら狂喜するんじゃないだろうかなんて想像してみたりしました。

また、こういった意外とダイナミックな動きの構成主義絵画に混じって、このコーナーからは写真もかなり重要なものとして展示され始めていて、これがまたわたしにとっては非常に興味深いというか面白いものでした。ダダや構成主義の影響で、従来ではほとんど美術には使わなかった金属やガラスといったピカピカひかるものなんかを積極的に作品に取り入れていたのがきっかけなのか、従来から関心があってこういう芸術運動に参加することで呼び起こされたのかは知らないけど、モホイ=ナジは「光」にかなり関心があったそうです。光は空間を作り空間は動きを生み出すといったように繋がりがあるなら、その大元に位置する光に関心が及ぶのはとても当たり前のこと。画家的な資質がある人は多かれ少なかれ「光」には関心はあるでしょうけど、モホイ=ナジの光への関心は展示されてる写真をみればかなり突出してたような感じがしました。
この頃のモホイ=ナジの写真の多くは写真といってもカメラなんかを使わないで製作してるきわめて特異な写真です。モホイ=ナジがフォトグラムと呼んだ手法によるもので、おそらく印画紙の上に直接的にオブジェを置いて感光させてるんでしょう。でもそこで形作られてるイメージは置いたオブジェの跡が型抜き状態になるといったような単純なものではなくて、オブジェの質感とかすかな立体感も残したままの抽象的な形態といった感じで印画紙の上に焼き付けられたようなものになってます。この焼き付けられた闇の中に浮かび上がってる事物と抽象形態の狭間にあるような奇妙な混合物のイメージは思いのほか幻想的で、どうやって撮ってるのかなという興味とともにかなり視線を引く展示物でもありました。

☆ ☆ ☆

それで、わたしが見たかった動く立体造型「ライト・スペース・モデュレーター」なんですが、この構成主義作家となったモホイ=ナジの作品群からバウハウスの教師になるあたりの作品群が展示されてる一角、「ライト・スペース・モデュレーター」の製作と時期を同じくするコーナーの一角にこれ専用の小部屋が作られていて、その特別の空間に「ライト・スペース・モデュレーター」一つだけを独立させるような形で設置されていました。
「ライト・スペース・モデュレーター」は部屋の中央よりもやや片側に寄った位置に台の上に置かれて存在感たっぷりに佇んでます。「ライト・スペース・モデュレーター」が偏って置かれた反対側の壁には天井の映写機から「Ein Lichtspiel Schwarz Weiss Grau」というこの作品を動かした時の光と影の様子を収めたモホイ=ナジ自身の手による短編フィルムが大きく映し出されていました。この「ライト・スペース・モデュレーター」は物質的な作品そのものも存在感があるんですが実は作品として想定されてるのはこの装置そのものよりも、この装置が動いている時に生み出す光と影の様子のほうらしいんですね。この展覧会のカタログによると、1930年「フランス装飾美術家協会展」のドイツ工作連盟の一室で初公開された時、70個の着色電球と5つのスポットライトを使って、周囲の壁に色の光とモノクロの光が混合した光の模様を描き出したということらしいです。
京都の会場では動かす時間が決められていて、それ以外の時は止まったまま、ライトは「ライト・スペース・モデュレーター」の形が分かるように照らしてる明り以外で、動きを映し出すという意味のものはスポットライト一個だけじゃなかったかな。
時間表を見ると30分に一度づつ2分間動かすローテーションになってる模様。その時間に行かないと壁に投影されてる短編映画を動かない「ライト・スペース・モデュレーター」の傍らで眺めるだけの鑑賞になってしまいます。わたしが始めてその部屋に入ったときは動かす時間まで20分以上間がありました。他にも数人観客が入ってきましたけど、事情が分かると止まったままの「ライト・スペース・モデュレーター」を眺めたり、壁のアートフィルムを少し眺めたりしては部屋を出て行きます。わたしも一旦部屋を出て他の展示物を見てからもう一度ここに戻ってくることにしました。

展示物の続きをみていて、バウハウスを出て以降の活動のコーナーでは舞台装置や映画の特殊効果なんかもやってるという展示があって、そのなかで古いイギリスのSF映画「来るべき世界」の特殊効果をやってる時の写真や資料が展示されてるのが注意を引きました。古いSF映画の見せるレトロフューチャー的なヴィジョン、とくに作り物感溢れる壮大な未来都市風景とかは凄い好きなので、これは興味深く観てました。ガラスなどの半透明、透明物質を多用した光のまとわりつくようなオブジェを配置してる写真は舞台裏を覗いてるという興味も合わさって好奇心を刺激し、帰ってからモホイ=ナジの「来るべき世界」での手腕を確かめようと映画を観てみました。でも映画を観てみても特殊効果にモホイ=ナジの名前なんか出てこないんですよね。名前も出てこないほど下請けみたいな仕事だったのかと思ったら、カタログによるとモホイ=ナジの案は結局不採用だったと書かれてました。おそらくエンタテインメント映画に使うにはアートに走りすぎていたといったところなんでしょうけど、今となっては残された写真でしか見られなくなってしまったこの案が実現したヴァージョンも観てみたかったと思いました。

会場には光の作家らしく、モホイ=ナジが撮った短編映画が3本上映されてました。ロンドンの動物園に出来た新建築とそこに住むことになった動物たちの様子をとらえた映像スケッチのようなもののほか、本格的な記録映画の体裁をとったロブスターの一生を描いたものなど。特にロブスターの一生の記録映画がその存在理由の奇妙さで面白かったです。ロブスターの一生なんていうテーマ、どういう目的があって取り上げようとしたのか、そしてロブスターの生き様ってどんな人が熱心に見たいと思ってたんだろうって。
展示されていた映像作品の一本、都会でのジプシーの生活をスケッチした短編を見てるうちに「ライト・スペース・モデュレーター」を動かす時間がやってきたので、映画の途中でまたもとの部屋に戻ります。さっき見に来てた観客が何人か再び集まっていて、その注視の中で「ライト・スペース・モデュレーター」動作開始です。

動きはまぁなんというか、きわめてゆっくりとしかもかなり単純な動きをするという感じ。動かしてみるまでは稼動部分はかなり多い印象でしたけど、それぞれの動きがかなりシンプルなので全体もほとんど複雑に動いてるという印象はありませんでした。これはやっぱりあくまでも動くことで作り出す影の様子が主役なんですよね。2分間の稼動のあと再び止められてしまった「ライト・スペース・モデュレーター」の前で観客はわたしもふくめて若干苦笑気味。期待はずれというよりはそんなにエンタテインメント的な動きはしないだろうという予測はあったから、妙に納得してしまったという感じで落ち着いた人が多かったんじゃないかな。満足したかどうかは別問題として観た印象は「なるほどね」っていうような落ち着き方をしたというか。
ともあれ、なかなか観られないものを観たという感慨はありました。
その特別室の壁面に始終映し出されていた短編フィルムがYoutubeにあったので、ちょっと持ってきました。ストーリーもなく6分近く光や影が動き回るだけの実験映画ですけど、こんなフィルムです。
らせん状のガラスの突起物がプルプルと震えながら回ってたのが印象に残ってます。

Laszlo Moholy Nagy Ein Lichtspiel Schwarz Weiss Grau


☆ ☆ ☆

他に凄く面白かったのがもう会場も終盤に近いコーナーで、モホイ=ナジがアメリカ時代に撮ったカラー写真をスライドで80枚近く投影して見せてくれたことでした。構成主義の作家として活躍していた頃の実験的な写真とはまた違って、こちらは具体的な被写体がある、云ってみればスナップ写真なんですけど、ものの見事に今風の雰囲気写真になってるというのにかなり吃驚でした。何気ないものを撮って写真として仕上げるということをいとも軽々と何十年も昔にやってのけてるんですよね。特に被写体として際立ってもいないものを撮って、普通ならただの「見たまま写真」になってお終いとなるところを、それぞれ視線を留めさせるような雰囲気をまとわせた写真として成立させてます。今回の展覧会の構成としては額に入れて飾りもしてなかったので、この一連のスナップ写真はおそらく派生的な意味合いのものだったんでしょうけど80枚近くまったく飽きずに観てられたし、買った図録にはその一部しか載ってないのが凄い物足りなかったくらいこの展示は面白かったです。やっぱり何気ない被写体を見せるものにするのは光と影の工夫なんだなと痛感したしだいです。

単純に「ライト・スペース・モデュレーター」が動くところを見に来て、構成主義の絵画のダイナミズムや実験的な写真に思いのほか魅せられ、光を駆使した作風にかなりの共感を覚えるというかなり大きなおまけをもらって見終わるという展覧会でした。それほど関心があったわけでもない作家だったんですけど、光にこだわる様々な側面は映像に興味があって、さらに今写真機で遊んでもいる当方としては参考になるところが大いにあったし、見ておいて本当によかったと思います。

それと回顧展ということでモホイ=ナジの生涯の活動を俯瞰的に眺められる展覧会だったんですけど、こういうものって一昔前に映画が映画館でしか観られなかったように、展覧会として開催してくれない限り見られない内容なんですよね。自分が見たいと思うときに見られるようなものじゃない。しかもモホイ=ナジなんていうあまり一般的でもない作家の展覧会なんて逃してしまうと次にもうやってくれないかもしれないというところもあるから、こういう展覧会は機会があれば機会を逃すことなくとにかく見ておいたほうがいいと思いました。

あと、この展覧会の図録が結構良い出来でした。

モホイ=ナジ展図録
Nikon Coolpix P5100

3200円とちょっと高かったんですけど、芸術が主義なんかの運動として動いていた時代の雰囲気も取り込んでるような仕上がりの図録で、読むところも多く見ていて楽しいものになってます、図版以外のページの紙質がわざと若干安物っぽくしてあるのも、構成主義やバウハウスの活動が広告的なテクニックとして雑誌なんかの媒体で展開されてる部分が多かったのを、なんだか昔の雑誌でも読んでるような雰囲気で再現していて楽しいです。


☆ ☆ ☆

京都市国立近代美術館の今回の展覧会に関するページはこちら
著作権とかうるさいので載せられなかったモホイ=ナジの作品の一部が見られるようです。

それと京都での展覧会は4日に終了しましたけど、この展覧会は巡回形式の展覧会で、9月の17日から12月の11日まで千葉県のDIC川村記念美術館というところで開催されるようです。どうやらこれが巡回の最後の展覧会の模様。



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この日持って出ていたのは中古カメラ屋のジャンク籠に500円で転がってたキヤノンのdemi EE17というハーフカメラでした。カメラ内蔵の露出計は効いてたけど絞りの動きに反映されてないという状態だったのが唯一の不具合で、カメラに反映されない内蔵露出計を切って、マニュアル設定の露出に切り替えたらまったく普通に使えました。それでちょっと撮ったのがこんな写真。

帰路
Canon demi EE17 : Kodak Gold100

近代美術館の階段です。今見てきたモホイ=ナジの構成主義と光の使い方の影響が速くも出てきた感じかな。我ながら感化されやすいというか。ガラスに映った人の映像と階段の幾何学と壁面の色面の構成。なかなかかっこいいと自画自賛しておきます。

休息
Canon demi EE17 : Kodak Gold100

これも同じく近代美術館。この階段を上がっていったところがいつものメインの展覧会をやってる場所なんですけど、この日はこの会場は準備のために上がれなくしてありました。こういう時でないと撮れない感触の空間ではあります。

お喋り
LOMO LC-A : Agfa Vista 100

売店
LOMO LC-A : Agfa Vista 100

これは違う日に違うカメラ、LOMO LC-Aで撮ったもの。同じ近代美術館の写真なのでここに紛れ込ませておきます。
結構影とか意識して撮ってる時もあるんですよね。下のは美術館の売店の光景です。わたしは美術館の売店が好き。
上の写真はかなりのお気に入りです。

水の表情1
Canon demi EE17 : Kodak Gold100

水の表情2
Canon demi EE17 : Kodak Gold100

再び展覧会当日に戻って、岡崎公園の周辺で撮ったもの。疎水と白川が流れてるので水の写真を撮りたくなってきます。というか、岡崎公園って意外と撮るようなものがないんですね。広い土地に木々が点在してるだけ。平安神宮とか超有名な建築物はあるけど、見慣れすぎていてどうしても撮りたいというほどでもないし。


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Roberto Menescal - Influencia do Jazz


もともとはRoberto Menescal & Seu ConjuntoのBossa Novaというアルバムに入ってる曲。Roberto Menescal & Seu Conjuntoというのはホベルト・メネスカルとその仲間といった程度の意味らしいです。ホベルト・メネスカルはギタリストで編曲などもこなす、ボサノヴァ創成期に重要な役割を演じたミュージシャンの一人。
曲はいろんな人がカヴァーをリリースしてる、カルロス・リラの有名曲です。タイトルは日本語に訳すと「ジャズの影響」といった意味になるのかな。曲の印象とは随分と乖離したなんだかとても異様なタイトルですね。でもごつごつした印象のタイトルとは裏腹に曲は優しげで、このアレンジは特にノスタルジックな感じがして私は好きです。カルロス・リラが甘い歌声で歌ってるオリジナルもいいんですけどね。
今回取り上げてるアルバムはこの曲が再録されたボサノバ、サンバなどのコンピレーションのシリーズの一枚です。このシリーズ、ジャケットがいかがわしくて凄くかっこいいです。ヴィレッジヴァンガードの御用達のCDだから、全シリーズヴィレッジヴァンガードのCDコーナーで見られると思います。



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BOSSA NOVA EXCITING JAZZ SAMBA RHYTHMS - VOLUME 1BOSSA NOVA EXCITING JAZZ SAMBA RHYTHMS - VOLUME 1
(2007/01/13)
オムニバス

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アマゾンではまたしても品切れの模様。わたしが選ぶものがことごとくアマゾンに入ってない。面白いコンピレーションのシリーズなんだけどなぁ。




【展覧会】ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展 +オリンパスペンS3,5と一緒に散策(続) +夏の日の木陰で

3日の日、河原町BAL地下のMuji mealで昼食をとった後、上の階に入ってるジュンク堂へ本を漁りに行き、写真関連の雑誌でも見てこようかと美術書のコーナーに立ち寄った時にヤン・シュヴァンクマイエルの展覧会のポスターが貼ってあるのを見かけました。ポスター近くに設置してある平台を見れば、そこではシュヴァンクマイエル関連の書籍と雑誌が積まれていて特集を組んでました。
シュヴァンクマイエルってわたしにとっては最近は随分とご無沙汰してる作家だったんですけど、特集としていろんなものが目の前に積まれてると、基本的には関心もあり嫌いじゃないから興味を呼び起こされて、本当は写真の雑誌でも見てこようと想って美術書のコーナーに足を運んだのに、そっちへ行く前に平台に乗ってた本を何冊か眺めてみることになりました。置いてあったのはアリスなんかの本にシュヴァンクマイエルが挿絵を製作したようなのが中心になっているようでした。

展覧会1

展覧会2
展覧会チラシ 表と裏

シュヴァンクマイエルは、チェコが生んだシュルレアリストでありアート・アニメーションの作家。チェコのアニメーション作家といえばわたしは「悪魔の発明」を撮った、カレル・ぜマン(昔はゼーマンと表示してたんですけど最近はぜマンに変わったみたい)なんかを思い浮かべたりするわけで、シュヴァンクマイエルは共産主義下で弾圧されながらも製作を続けたらしいですけど、チェコというのはなんだかアート系のアニメーションが生まれてくる土地柄でもありそうな気がします。実際にパリでシュルレアリスムが展開されていた時にチェコでも同じくシュルレアアリスム運動が生まれ、パリと交流していたらしいので、東欧における芸術の都でもあったんだと思います。

ジュンク堂の特設コーナーではシュヴァンクマイエルが挿絵を製作した本が中心になっていて、映画関連は雑誌「夜想」が特集したものとか置いてあったものの数が少ない様子でした。
わたしにとってシュヴァンクマイエルは静止した絵画を制作する人というよりも映画「アリス」のような、物語の骨格だけを援用してそこからインスパイアされた奇矯なイメージとオブジェで溢れかえったようなユーモラスでグロテスクなアニメーション映画を撮ったのに代表される、映像の作家でした。
だから挿絵製作のシュヴァンクマイエルはわたしの興味から行くと若干中心軸を外してる感じがあって、平台の特集は写真の雑誌のほうに向くわたしの足をそちらのほうに向かわせるだけの吸引力はあったものの、それなりの関心を呼んだに過ぎませんでした。でもその特集のコーナーを作るきっかけとなった展覧会のほうはちょっと興味を引くことになりました。
というのもポスターを見ると副題に「映画とその周辺」とあったから。ポスターによるとどうやら展覧会は映画関連の物を扱ってるらしいんですね。興味があるとはいえしばらくシュヴァンクマイエルの映画からは遠ざかっていたわたしとしては、この副題で以前持っていた関心を若干呼び起こされる形になりました。

展覧会場はポスターによると京都文化博物館らしい。しばらく改装工事をやっていて休館状態が続いていた施設です。再開したのは知っていたけどこういう展覧会をやってることは気がつきませんでした。京都文化博物館は河原町のBALからだと歩いていっても10分もかからない場所にあります。それで遠くの美術館とかだったらまた日を改めてということにでもなってたんでしょうが、こんな近いところでやっているならと、この日は展覧会に行く予定でもなんでもなかったけど立ち寄ってみることにしました。わたしは展覧会に行くとか、結構前準備的に気分を盛り上げて、さぁ全神経を集中して鑑賞してこようというような決めの状態になってないと行く気にならないところがあるので、こういう出かけたときはまったく予定もなかったのに思いつきで美術館的なところに行くっていうのはわたしとしては結構珍しい行動パターンでした。

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京都文化博物館
Nikon Coolpix P5100
三条通りからみた京都文化博物館

文化博物館別館
Nikon Coolpix P5100
文化博物館別館出入り口
Nikon Coolpix P5100
こちらは別館の入り口。展覧会を見終わって外にでてから撮ってます。

三条通をまっすぐに歩いていくと程なく京都文化博物館に到着。何の気なく本館の入り口から入ったら、「日本画 きのう 京 あす」というべたなしゃれを織り込んだタイトルの展覧会が目に付くものの、シュヴァンクマイエル展の案内が見つかりません。すぐに分かったんですがシュヴァンクマイエル展は本館じゃなくて別館のほうで開催されてるということでした。このべたなタイトルの展覧会は新装オープンのニュースで知ってたので、シュヴァンクマイエルのほうは主要な展覧会扱いでもなかったということでしょう。
それでせっかく本館から入ったのにその足で別館のほうの通路に足を運ぶことになりました。

案内表示
Nikon Coolpix P5100
別館への案内です。

案内にしたがって本館から別館へ続く通路の途中、真夏の太陽が真上から焼き尽くそうとしてる中庭のテラスの誰も座ってないカフェのテーブルを横目に進み、別館のほうに入って建物内部を少し進むとシュヴァンクマイエル展の会場がありました。

どうみてもとんべり
Nikon Coolpix P5100
炎天下のテラス。今年の10月29日から始まる国民文化祭・京都2011のマスコット「まゆまろ」が孤独に突っ立ってました。これ最初に見たとき「とんべり」だと思ったのはわたしだけじゃないはず。ほうちょうを持ってゆっくりと近づいてきそう。

☆ ☆ ☆

別館は旧日本銀行京都支店の建物をそのまま使っていて、古い建築物の積み重なった時間と歴史が重厚な空間を作ってる場所です。広さは中程度の講堂くらいでそんなに広いとも思えないんですけど、広い天井にしつけられたシャンデリア状の証明器具からの柔らかい光が満ちていて、凄く落ち着いた優雅な空間を形作ってました。
シュヴァンクマイエル展はそのあまり広くもない空間を曲がりくねった通路状に仕切って作品を展示する形で開催されてました。

ここでわたしの早とちりが発覚します。この展覧会実は前期と後期の二部構成になっていて、今回の開催は前期のものとなります。そして副題の「映画とその周辺」というのは実は後期の展覧会のほうだったんですね。それで今回の前期の副題はなんだったかというと「the works for Japan」というものでした。わたしが期待した映画関連のオブジェや小道具は今回は一切展示されておらず、一番期待したものは見事に肩透かしを食らう形となりました。
まぁそれでもせっかく来たのだし、同じシュヴァンクマイエルの展覧会だからとりあえず見て帰ろうと思って入場券を買って中に入ってみます。入り口では切符切りの女性が来場者全員にカメラと筆記具の使用は禁止ですと云って回ってます。わたしはこのときは目立つカメラは持ってなかったんですけど、会場の中で作品を見てるときに首から大きなカメラをぶら下げた女性も入ってきていたので、禁止だからといって入り口でカメラを取られるような事もなかったようでした。

☆ ☆ ☆

会場は上に書いたようにそれほど広い場所でもなくて、実際に展示されてる作品も数はそれなりに多かったんですけど、種類としてはあまり多くないという印象でした。
展示されていたのは主にシュヴァンクマイエルのドローイング、コラージュなどの平面作品と最新作の映画関連で絵コンテだとかシノプシスなどの紙媒体による資料、京都の彫り師や摺り師とのコラボで作成した木版画、細江英公によるシュヴァンクマイエルのポートレイト写真などでした。
平面作品として展示されていたのは新装版「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のための挿絵の原画、江戸川乱歩の「人間椅子」のために製作された挿絵としての平面作品、ラフカディオ・ハーンの「怪談」のための挿絵作品など、わたしの期待したオブジェに関しては映画関連のものではなくて、「人間椅子」の挿絵として作成されたものが展示されている程度にとどまってました。
新作の映画以外は何らかの形で日本が絡んでるものを集めた形になっていて、それが副題の意味合いだったようです。

会場に入ってすぐに眼にすることになるのは「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のための挿絵の群れ。まさしくシュルレアリストの真骨頂とも云うような、他の紙媒体から切り取って持ってきた様々なイメージを素材として貼り合わせて作ったコラージュ作品が並んでます。コラージュはシュルレアリストたちが好んで使った方法で、そこから生み出されるものは異質のものをぶつけ合わせた時に生じる痙攣的な美といった具合に表現されたりします。でもコラージュそのものは今ではありふれた手法であり、シュヴァンクマイエルのこの挿絵も手法においては驚異的な印象を与えるものでもなかったです。
映画同様にルイス・キャロルの元のお話に囚われることなく、そこからシュヴァンクマイエルが拾い出し、自らの感覚に添うような形で展開させた独自のイメージが紙の上に定着させてあります。コラージュというと、もともとシュルレアリスムは意識で縛られない無意識的な何かを導き出す試み、方法論といった側面があるので、その手法が異質のイメージを他の紙媒体から切り抜いてきて一つの場所に再配置した時に現れる「痙攣する美」というものを目的とするなら、出来上がった痙攣的なイメージは作者の意識、感性や個性といったある種閉じてしまってるものをはるかに凌駕するもの、匿名的なものとして立ち現れてくるはず。でもこの一連の挿絵の群れを眺めてると、そういう作者の輪郭を超えて広がるはずのコラージュのイメージもきっちりとシュヴァンクマイエルの刻印が刻まれてるような印象として入ってきます。これは意図としては未見のイメージに向かうためのコラージュというよりも、シュヴァンクマイエルの感性にそう形で、その感性が導く先にある完成形に相応しい素材ばかりを慎重に選んで作成していったコラージュなんだろうなという印象を受けました。たとえば無意識的に他の媒体から切り取ってきた素材とみえて、実は切り取る時にしっかりと作者が自分の好みに沿うものを切り取ってるという感じ。ただコラージュという形を取る限りいくら好みの素材を切り貼りしてきても、直接的に絵筆を取ってコントロールしていくような絵画よりもより多く、シュヴァンクマイエルという閉ざされた自我の形があいまいになるような領域を持ち込むことになるんですけど、シュヴァンクマイエルはそういうあいまいな領域に何か可能性を見出そうとしてるような感じの作り方をしているようにみえました。
ちょっと思ったんですけど、写真撮る時にファインダーの中で隅から隅まで完全に意図的なガチガチの構図を作るのに飽きてきたりパターン化しそうになってきたりする時に、撮る方向だけ意図に任せてあとはノーファインダーでシャッターを切るというような精神のありかたに似てるんじゃないかなと。
シュヴァンクマイエルはコラージュに関して「いつ終わるか分からないことは僕を安堵させる」といってるのも、この自我の外側に少し拡張されたあいまいな領域を持つことで、自我に閉じ込められる閉塞感から絶えず解放されるというような意味合いではないだろうかと推測します。

アリスの挿絵を見ていて、多様なイメージ素材の張り合わせによる、シュヴァンクマイエル風味のキメラ的な怪物世界といったものの面白さのほかに、コラージュ部分以外の画面を部分的に覆ってる模様、細かいものが中に充満してる繊毛の生えたアメーバー状模様といったもの、これがイメージ的には面白かったです。かなり執拗に描きこまれていて、実際にはデザイン的に考えられて要所要所に配置されてるものの、そんな統制力を離れて無限に増殖していくような印象もあり、わたしはこのアメーバーがアリスの挿絵の画面の余白全部を覆い尽くしたら、たとえばヘンリー・ダーガーに代表されるようなアウトサイダー・アートの中に入っていくんじゃないだろうかなんて思ったんですね。コラージュのほうは割りと意図に沿ったある種理性的なタッチが垣間見える感じでしたけど、こっちはかなり病的で妄想的なものが内部で膨らんでるような、ちょっと不安感を覚えさせるようなところがあって興味を引きました。

それにしてもシュヴァンクマイエルとアリスは相性が良いです。この新装版の出版に際してシュヴァンクマイエルに挿絵を依頼した人もそんな印象を持ってたんじゃないかな。

☆ ☆ ☆

二つのアリスのための挿画のコーナーの次に現れるのが江戸川乱歩の小説「人間椅子」のために製作された、同じくコラージュを使った平面作品の一群。映画でも絵画でもオブジェ志向を前面に出してる作家としてはテーマ的には凄くフィットしてる感じです。この展覧会では人間椅子の挿絵、紙媒体のコラージュが中心の作品から、ほとんど立体造形に近い印象の様々なオブジェを貼り付けた作品まで、触覚の芸術というカテゴリーでまとめられてました。
挿絵のほうはシンプルで抽象的な椅子のフォルムに眼と手が大きくコラージュされて、拡大された手と眼は特化された感覚を示し、わたしはあまり上手くないたとえではあるけど土着の感覚を抜いた寺山修二のようだと思うところがありました。それは貼り付けられたオブジェの実在感だとか、眼や手のリアルな写真のコラージュが呪術的なイメージを誇張してるように見えたからで、挿絵はシンプルな抽象画のようなある種クールな外見なのに、コラージュのそういう部分ではマジカルなグロテスクさを付け加えて、全体には歪んだような感覚が生まれているのはなかなか面白かったです。でもこの本、市販されてるんですけど買うかというと、あまり買うほうまでは興味は惹かれなかったかな。
触覚というテーマからこの挿絵には平面イメージを切り貼りした延長で毛の束だとかボタンだとかの立体物も直接貼り付けられています。ただこういうテーマだと本来的には絵に貼られた毛の束やボタンは実際に触られるべきなんですけど、さすがにそういうことはできないようでガラスの向こうにみえるだけ、触覚の芸術の癖に観客はただひたすら触角の感触を想像しながら「観る」という行為を強要されるコーナーでもありました。
あと、アリスの挿絵のほうでも思ったんですけど、実際に別の何かから切りとってきて、作品の中に糊で貼ってるといった痕跡が目の前に、ある種オブジェ的に見えてるという感覚は、絶対に印刷物からは感じ取れない感覚だったので、こういう切り貼りした絵のオブジェ的な質感が視覚的に体感できたのは、実物を展示してくれる展覧会に来た値打ちがあった部分だと思いました。絵の内容は新装版「アリス」や「人間椅子」を購入すれば簡単に眼にすることができるんですけど、ボタンが貼り付けてある絵は見られても、実際にボタンが貼り付けてある質感までは本では絶対に体験できないものだと思います。

それと錆びたおろし金?みたいなオブジェを貼り並べた作品がガラスケースに収まってたのは、映画「欲望」のジェフ・ベックのギターの破片の逆バージョンだなって思ったりしました。あちらはライブ会場を出るとただの木屑に変化しましたけど、こちらはただの錆びたおろし金が作品に貼り付けられガラスケースの中に納まることで作品的な計り知れない価値を付加されてるんですね。

☆ ☆ ☆

そのあと新作の映画の絵コンテとか、細江英公が撮影したシュヴァンクマイエルの作品にマッチさせたようなポートレート写真が展示されてましたが、これは余計だった感じでした。特に細江英公の写真はシュヴァンクマイエルのドローイングのスライドを本人の上に照射するといった形でのポートレイトで、写真の出来がどうのこうのという以前に、シュヴァンクマイエルの作品ですらなく、こんなのを展示するくらいだったらオブジェの一つでも置いてもらったほうが絶対によかったです。
日本の版画とのコラボもわたしは浮世絵とかも結構好きなので版画の手法は興味深かったですけど、あえてシュヴァンクマイエルと組み合わせる意味合いが良く分からないという感想で終わってしまいました。カタログを見ると日本の妖怪をモチーフにした版画原画が掲載されていて、これは一つ目の化け物とか幻覚を見てるような造形のものがあって面白いところもあったんですけど、実は展覧会にこれ展示してたかちょっと記憶がないんですね。会場で見たように思えないんだけど見落としたのかな。この妖怪たちの原画が展示されてたら版画のコーナーはもうちょっと興味を引いてたかもしれません。

ポートレートなどで少しはぐらかされたあと、展示としては今回の展覧会の最後となる「怪談」の挿絵を集めたコーナーに向かいます。実は今回の展覧会でわたしが一番面白く思ったのはこれでした。国書刊行会が出版したラフカディオ・ハーンの「怪談」のために製作されたコラージュ作品。
日本の妖怪のイメージをチェコの古い木版画にコラージュすると言う手法で作られてるんですけど、単純に木版画に描かれてる人物の頭を妖怪の頭と挿げ替えるようなコラージュじゃないんですね。これが凄く面白かった。
たとえば元の木版画に描かれていた人物のシルエット全体が、日本の妖怪の顔の一部分を切り出したものになってるようなイメージの衝突のさせ方をしてます。妖怪全体が画面に登場してるものは少なくて、多くは木版画の一部分が両方の対応を無視して妖怪の一部分に挿げ替えられてるような作品に仕上げられてます。
これが効果を成して、何か怪しいものが物陰に垣間見えるという感じ、視線の片隅に不気味なものが通り過ぎるといった感覚をコラージュの中へ盛り込むことに成功してるという印象でした。妖怪とか怪物とか正面きって出てきた時点で恐怖のほとんどは消え去ってるもので、そういう点から見るとこの一連の「怪談」の挿絵はシュヴァンクマイエルがこの挿画をさして「鳥肌」という単語を使って表現した恐怖感覚をとても上手い形で表出してるもののように思えます。それとこのコラージュのベースになってる古色蒼然とした古いチェコの木版画の世界も薄明の中に浮かび上がる、どこかこの世の果てにでも存在する異界という雰囲気を濃厚に含んで、というかそういう異質のベースに日本の妖怪を紛れ込ませることで日本ともヨーロッパとも違う非在の怪しい世界、彼方にある世界に向けて一気に異界化したようでそういう点で日本の古い世界にこのヨーロッパの木版画を持ち込んだのは大正解だったと思いました。
「人間椅子」は本として持ちたい欲望はそれほど起きなかったけど、これは本として手元においておきたいと思いました。
それとこの「怪談」の挿絵の展示されてる一角の床に枯れた蓮の花托を飾ったスタッフのセンスもよかったです。蓮の花托って抽象的な形のうえに乾いたグロテスクさが濃厚に漂って、こうやって飾られてみるといかにもシュヴァンクマイエル的というイメージで全然違和感がなかったです。

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こんな感じで会場を見回って、最後に設けられてた売店で目録とポストカードを2枚買ってこの日の鑑賞はお終い。ポストカードとか、どの展覧会でも売ってるようだし買ってる人は結構いたんですけど、これって買っても本当に誰かに出す人いるのかなぁ。わたしは完全に自分で持ってる用に買ってます。
結局今回立ち寄ってみた展覧会は「映画とその周辺」という副題の展覧会ではなかったし、シュヴァンクマイエルの最大の特徴であるオブジェの諸要素にもほとんど触れてないような展覧会だったので、期待はずれといえば期待はずれ、主流作品じゃないなぁと思いながら、時には流し見のようになりながら会場を通り過ぎていったら知らない間に出口にたどり着いてたという感じに近いものでした。
だから、オブジェと映画が中心になってるらしい後期のまさしく「映画とその周辺」というテーマでまとめられる展覧会に期待を繋ぐことにします。

わたしはシュヴァンクマイエルの映画DVDの馬鹿高い箱入りセットを持ってるんですけど、実はまだ全部観てません。後期の展覧会までまだ期間があるからその間に全巻踏破しておこうと思ってます。


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ちなみに展覧会の開催期日は前期が今月の14日まで、後期が2011年10月7日から23日までだそうです。
場所は京都文化博物館別館。
料金は当日券おとなは800円でした。前期後期共通の前売り券もあるようです。


ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展 映画とその周辺 公式ページ


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怪談怪談
(2011/07/21)
ラフカディオ・ハーン

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ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス [DVD]ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス [DVD]
(2008/08/10)
ベドジフ・ガラセル、ブラザーズ・クエイ 他

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今回の記事とは直接的に関係はしないけど、わたしが持ってるシュヴァンクマイエルのDVDボックスというのはこれ。アマゾンでは廃盤になった上に若干値段が上がってる。なんか楽しい♪
発売当時でリリースされていたDVDをその時廃盤になっていたものもこれ用に再販して全部まとめたボックスでした。




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この前の祇園祭に持っていったオリンパスペン S3.5は祇園祭の写真を撮ることでフィルムの残りを消費し、一本最後まで撮り終えたんですけど、それまでに撮っていたものもあるのでその中から何枚かアップしてみます。72枚撮って現像に出したもので、結構メモ的に数撮った形になり、自分で見てもこれというのはあまりないロールになってました。日にちをかけて撮る形になってフィルムとしてのまとまりはないものになってましたけど、なかにはそういえばこういうのも撮ったなぁとすっかり忘れてたのもあって、そういう意味では72枚見通すのはそれなりに面白かったです。

高瀬川の木漏れ日
Olympus-Pen S 3.5 : Kodak Ektar100 Canoscan 8600F

祇園祭の記事に載せた木漏れ日写真の別の一枚。同じ時に撮ってます。これも割りと上手くいったほうじゃないかなと思います。高瀬川を横断する飛び石があったようなのに、なぜか今のところ取り去られたままになってました。

カエル
Olympus-Pen S 3.5 : Kodak Ektar100

高瀬川近辺で見かけたカエルです。街中でこういう人形を見たりするとなぜか撮りたくなって来ます。電気のメーターと風鈴も画面内に入れたかったのでこんな配置になりました。色とか影の具合が気に入った感じで出てます。

ジャズ喫茶
Olympus-Pen S 3.5 : Kodak Ektar100

エッタ・ジェームスの崩壊具合が眼を引いた看板だったんですけど、全体の崩壊具合に対して大人しく撮りすぎて面白さ半減といったところかなぁ。面白いものがあったからただ撮っただけという感じ。色味は綺麗に出てるし影の感じも好きなんですけど、もう一工夫必要だったかも。この店に入ったらどんな音が聞こえてくるのか想像できるようなところまで持っていかないと。
ちなみに場所は大阪、難波の裏通りです。京都よりもカオスが広がってるような場所。
こうやって並べてみて気づいたんですけど、主要モチーフが全部左寄りになってますね。

おそらく御堂筋線の心斎橋だったと思う。
Olympus-Pen S 3.5 : Kodak Ektar100

照明がかっこいい大阪の地下鉄御堂筋線。フィルムで前後に収まってた写真からおそらく心斎橋の構内だったと思います。駅によってこの照明の形が違ってるんですよね。
構内の雰囲気も黒っぽくてなかなかかっこいいかな。実際にはもっと明るい場所なんですけどね。写真に撮ってみるとこういう感じになりました。


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Joao Donato - Muito a Vontade


楽器としてはかなり大きな部類に入るピアノなのに、弾く人によって優しげな音色になったりと、随分振幅が大きい楽器だと、そういうことを改めて思い起こさせるような、夢見るように淡いピアノの響きが心地よい曲。わたしにとっては夏の木陰でハンモックに揺られながらいつ果てるともなく聴いていたいという優雅な欲望を喚起するような曲でもあります。ジョアン・ドナートは純正のボサノヴァのピアニストでもなくて、どちらかというとラテン・ジャズ、ジャズ・サンバのピアニストといった感じかな。ボサノヴァがブラジルで勃興した時にアメリカにわたり、そのボサノヴァがアメリカを始め世界中に広がる頃に、今度はブラジルに帰ってしまうといったいささかへそ曲がりな行動をしてた人で、結構アメリカのジャズ的な雰囲気を身につけてるピアニストでもあります。このアメリカっぽいセンスというか、そういうのがスパイスになってこういうしゃれた響きの音楽に形を与えてるのかもしれません。


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Muito a VontadeMuito a Vontade
(2003/03/04)
Joao Donato

商品詳細を見る


近代ブラジル音楽を代表するアルバムの一つなのに、どうも廃盤みたいです。こんなのばっかり。





【美術】 妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 京都国際マンガミュージアム

11日に展覧会「妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 」を観に行ってきました。この日が初日でした。

こういう展覧会です。

妖怪展チラシ表

妖怪展チラシ裏


会場は京都国際マンガミュージアム。地下鉄を利用すると烏丸御池の駅で下車、そのまま地上に出て烏丸通を北に向かって進めばほとんど間をおかずに到着します。交通の便は極めて良好です。
それで、北に進んでいけばそれだけで別に脇道に入る必要も無くあっという間に到着するんですが、間際の御池通りを歩き馴れていてもこういうミュージアムがあるということを知らなければ、知らないままに通り過ぎてる人も多いかもしれません。
実はこの施設、マンガミュージアム用に建設されたものじゃなくて、もとは龍池小学校っていう学校で、廃校になった建物を再利用してます。建物自体はそれっぽく改装はしてるものの、運動場がそのまま残っていて、そこは今は芝生になっていて、座り込んで漫画を読んでる人なんかがいます。あまり美術館っぽい雰囲気でもなく、垂れ幕や入場口に気づいて始めてここがそういう場所だって分かるような感じ。場所としてはなかなか面白い場所です。

烏丸通りを御池から北に行けば左手にこういう光景が広がります。
これがおそらく元校庭。この日はコスプレイヤーの交流会があるとかで、コスプレした人が写真を撮りあってました。
マンガミュージアム外観01

さらに進むと入場口が見えてきます。

マンガミュージアム外観02

ここはマンガの収集と閲覧を目的にしてるので、中に入ると壁面においてあるマンガを一心不乱に読んでる人がやたらと目につきます。内装は小学校の雰囲気をそのまま残してる部分もあるかと思うと美術館的な雰囲気のところもあって、他ではあまり見ないような雰囲気になってます。

マンガミュージアム内部01

マンガミュージアム内部02

マンガミュージアム内部02

それでこれが今回の目的の展覧会場の入り口。展覧会を開く場所は他の空間と区別するようなつくりになっていて、内部は学校を改装したという雰囲気はあまり無かったです。
見上げると展覧会の内装パネルの背後に天井まで積みあがった本棚が見えてたので、もとは図書室だったのかもしれません。それとも雰囲気作りのためにわざと一部が見えるようにパネルを設えてあったかのかな。

展覧会場入り口

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実は小学校を改装し、その空間の一部分しか使ってないギャラリーでは広さ的にも大した数の展示物を揃えられないだろうと思ってあまり期待してなかったんですが、確かに展示物の数はそれほど多くなかったものの、わたしの興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あって、これが観られただけでもわたしにとっては結構面白い展覧会でした。

展覧会は江戸時代を中心として日本の絵巻物や書籍、浮世絵に現れた妖怪のイメージを辿り、現代のキャラクター文化に繋いでいくという観点で構成されてました。
江戸時代に描かれた妖怪を虚構の中から人を楽しませるキャラクターと捉え、現代のキャラクター文化、マンガを現代版の妖怪絵巻と位置づけるような視点だったんですが、わたしはいいたいことは分かるもののそこはちょっと保留というか、江戸時代の妖怪絵巻などが今のマンガ的な役割をしてたのは確かだろうけど、今のマンガの、フィクションの中から人を楽しませるために踊りだしてくるキャラクターの存在やその存在を導いてくる想像力を、江戸時代に妖怪を発想してきた精神のあり方へ還元するのは、妖怪的であることをちょっと無視しすぎてるんじゃないかというのが正直な感想です。妖怪は妖怪であることでしか意味をなさない部分を持っているはずで、妖怪はそういう意味で今のキャラクターマンガ全体と照応するものというよりも、存在の意味合いとしては怪獣だとか、モンスター映画などのほうに限定的に血筋を辿るべきなんだろうと思います。あるいは水木しげるから始まった正真正銘の妖怪マンガに。

この展覧会は妖怪という文脈で水木しげるが果たした役割には心底敬意を表していて、コーナーを設けてるくらいなんですが、その点はわたしも異論は全く無かったです。何しろわたしが様々な妖怪を頭に描く時に出てくるのは必ずこの人が描いたイメージだし、他の人もほぼ全員がそうだろうと思います。水木しげるがいなかったら、わたしは日本人がその想像力の内に妖怪という特異な存在を持ちえたことさえ全く知らないでいたかもしれない。事実水木しげるが妖怪を復権させる以前に、妖怪というものは完全に廃れ忘れ去られた存在に近かったそうです。
今の日本人が持つ妖怪のイメージをたった一人で再構成して作り上げてしまった。水木しげるが成したのはそういうことでこれはやっぱり凄いこととしか云い様が無く、展覧会の一部をこの人に割いてるのは、わたしには極めて妥当なことと思えました。

☆ ☆ ☆

展覧会は江戸期のものが中心となって全体の半分以上が絵巻物、古書の展示に充てられているので、若干古色蒼然とした印象がないこともないんですが、描かれてるのが妖怪ということもあってヴィジュアル的な面白さの方が古臭さを越えてる部分がかなりあり、割と馴染みやすい展示になってます。また古い絵巻物なんかになると描かれてる物語を知らないと肝心の絵の意味が分からないということも結構あるけど、この展覧会に展示されたような絵巻物は妖怪の種類を見せようと意図してるものが多くて、そういう意味で絵巻物の内容を知らなくても楽しめるものが多かったです。
あまりに馬鹿馬鹿しくて印象に残ったのが「神農絵巻」
農業の神様、神農を主役にした妖怪退治の物語なんですが、倒す武器がなんと「屁」。
黄色い火炎放射器のような放屁で妖怪を倒していく光景が描かれてます。これが稚拙というか、何だか能天気なタッチで描かれてるので、観てるだけで頭のねじが何本か緩んできそうな気分になりました。
他には有名どころとして鳥山石燕 の「画図百鬼夜行」なんかも展示されてました。京極夏彦で有名になった、云うならば妖怪百科事典です。
こういう展覧会で絵巻物とか古書とかの展示はその一部を見せるように開いた状態でガラスケースの中に納まってます。仕方の無いことなんだけど、これは苛つくことが多いんですよね。そのちょっと先を見せて欲しいと思っても要求がかなうことは無いわけで、鑑賞体験にしてもそんなごく一部しか見られないで本当に観たといえるのかなんて思ったりもします。

妖怪がテーマとなれば、説話なんかを題材にする浮世絵は絶対に外せないのでここでも幾つか展示されてました。全体的には国芳が中心でした。っていうか他の浮世絵師の作品もあったのに、何故か国芳のものがやけに記憶に残ってます。
わたしは浮世絵って結構好きです。図案的で、表現は大胆。写実なんてことにあまり拘ってない。そういうところが今観ても新鮮な感じがします。
妖怪がらみで土蜘蛛退治とか大江山の酒天童子退治とかが展示されていて、カラフルでダイナミックな構図が目を引きました。国芳の浮世絵は紙を縦に連ねて極端に縦長の画面にして描いてるのもあって、絵柄、構図を考え、必要ならこんな極端なこともしてしまう発想が面白いです。
わたしは国芳の弟子だった月岡芳年の絵が好きなんですけど、残念ながらこの展覧会にはあまり出展されてませんでした。チラシの中央のが芳年の手になる妖怪のはずで、不気味でユーモラスというのが特徴的な絵を多く残してます。

あと浮世絵も展示物に含まれてるなら、北斎の百物語も出品されてないかと思ったんですが、これはやはり妖怪じゃなくて幽霊に近いからか展示物の中には無かったです。他の人が描いた模写の一つとしてただ一部のみ混じってるものがあったんですけど、こんな書きかたしても通じないですよね。
この展覧会と直接関係ないんですけど、ちょっと説明しておくと、北斎が当時の江戸の怪談ブームにのって百物語の絵を100枚制作する計画だったのが、5枚まで描いただけで中断したという代物です。百物語と名はついてるものの5枚で完結。一説では怖すぎて売れなかったのが中断の理由だとか。
わたしは特にさらやしきの絵が好きで、要するに番町皿屋敷なんですけど、こんなお菊さんをイメージしたのは後にも先にもおそらく北斎ただ1人。この人の想像力がいかに桁外れだったかがよく分かる絵になってます。

ネットで探してみたらありました。美術館のページなのか、このページの下のほうにあります。

ー葛飾北斎ー

☆ ☆ ☆

さきに興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あると書きました。

実際展覧会場で激しく気を引かれて、その作品の前で立ち止まってしまったものが幾つかあったんですが、その一つは荒井良の作製した妖怪張り子でした。
荒井良の妖怪張り子は京極夏彦の本の表紙を飾ってる写真のモチーフになってるものなんですが、京極夏彦の本は嫌というほど眺めてるのに、今までこの表紙を飾ってる写真にはそれほど特別な関心を持った事は無かったです。
ところが今回実物を観て吃驚。実物がこんなにとんでもない代物だとは実際に観てみるまで全然想像もできませんでした。
展示してあった中では「魍魎」が一番良かったです。京極夏彦の魍魎を扱った小説のタイトルは「魍魎の匣」だったけれど、これも前面がガラス張り周囲は木製の威圧感のある匣に詰められて閉じた世界を形作ってます。匣はかなり大きく高さは6~70センチはあったかもしれません。
わたしは匣に封じ込めてあるという状態に惹かれます。匣のなかに小さな宇宙が閉じ込められてその匣のなかで完結してるようなイメージ、匣で遮られ、その向こうで完結してる小さな世界に触れることも出来ずに、ただ覗き見るしかないという感覚。他の美術家の作品でそういったタイプのものを上げるならジョセフ・コーネルの箱なんかがそういう感じ。

この展覧会にコレクションされてた「魍魎」は妖怪の世界ということで、匣に閉じ込められた世界も異様でした。魍魎が木の陰から身を乗り出して、土の下から掘り出した棺から女の死体を引きずり出し、今にも貪り食おうとしてる光景、その一瞬を凍結させガラス板の向こうに保存してるような世界。
ただ荒井良の張り子の造形は死体の皮膚感とか青白い肌の下に透き通って見える網目のような血管などかなりリアルにしてあるものの、全体のイメージは映画で云うとスプラッター映画のように扇情的な血飛沫や内臓表現には向かわずに、妖怪の持つユーモラスな側面も引き出しています。こういうユーモラスなものと陰惨で不気味なものの同居なんていうのは、妖怪だけが持ちえた特質なのでしょう。この作品「魍魎」はそういう妖怪の独自の雰囲気をよく表現していました。

ネットで探してみたら荒井良の妖怪張り子の写真が観られるところがありました。

ー魍魎ー
ー化けものつづらー

でもこの作品は匣の質量のようなものを捉えないと一番のポイントを落としてしまいそうで、わたしが京極夏彦の本の表紙を観ていながら全く感じ取れなかったのと同様に、写真ではそういうものは伝わってこないような気がします。これは実物を観る以外に無いです。

もう一つ、立体物で面白かったのが、件の剥製。
「くだん」と読み、字の如く人面の牛という見かけの妖怪です。
「件」は牛から生まれ、人の言葉を話します。そして生まれて数日で死ぬんですが、生きてる間に戦争や大災害、疫病のような世界が大きく動く出来事の予言をする。その予言は必ず当るのだそうです。
「件」といえば、内田百間がこれをモチーフに「件」というそのものの題名で白昼夢のような掌編小説を書いていたのを思い出します。

件
チラシに写真が載ってたので拡大してみました。

「件」の他にはこの展覧会ではもう一体、妖怪の剥製として「人魚」が展示してありました。「件」は初見でしたが、この「人魚」のほうはわたしはいろんなところで写真を目にしたことがあります。もちろん木や紙や魚の骨などを組合わせて作ったフェイクもので、その旨展示物の説明にもかかれてました。
ところがこの「件」の剥製に関しては、会場では作り物であるとかの説明はされてないんですよね。まさか本物ということは無いだろうとは思うけど…。

この妖怪の剥製は「件」を題材にした紙芝居とかの後に締めくくりとして観客に見せていたものだそうです。その紙芝居は絵が数枚残ってはいるけど、話のほうの記録が残ってないのでどういう物語だったのかは今ではもう知ることも出来なくなってると解説してありました。
どんな物語だったんだろうと思いを馳せても、既に永遠に知ることが出来なくなってる。製作者の思惑には無かったにしても、偶然が解けない謎のようなものを作品に付加していったわけで、謎は何時だって魅力的、こういうのは結構想像力を刺激します。

ところがあろうことか会場ではこの残された数枚の絵を元にお話を推測し、絵物語のように仕立て上げたものをビデオで流してました。これでは偶然が与えてくれた謎が台無し。これは本当に蛇足を絵に書いたようなものでした。元絵だけ並べてくれた方か余程親切だったと思います。
ちなみにわたしはこのビデオ、一瞥しただけで全体は観ませんでした。

さらにもう一つ、この展覧会でわたしがよかったと思ったのが「稲生物怪録絵巻」。
これを元にした稲垣足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」がお気に入りということもあって、この絵巻物はわたしのなかでは結構特別の位置に居座ってます。
1749年、16歳の少年稲生平太郎が友人とともに行った百物語でしてはいけないことをしたために、7月の一月毎夜妖怪が平太郎の家にやってくるというような話で、絵巻物も稲垣足穂の小説もただひたすら毎日とっかえひっかえやってくる様々な妖怪の描写を続けていくような内容になってます。
その毎日代わりながらやってくる妖怪が、人の指が足の変わりにうじゃうじゃと生えてる蟹だとか、想像力の限界を試してたんじゃないかと思うくらいユニークで、しかも薄気味悪い。
これは画集という形で出版はされてるんですが、実物としてみたのは今回の展覧会が初めてでした。

☆ ☆ ☆

会場の解説のどこかにあった説明で、妖怪は天変地異などの自然の驚異の象徴としてあり、最初は言葉で名づけられただけの存在で実態などなく、やがてその言葉だけの存在に絵で姿を与えることで恐怖の対象から認知可能な領域に引き下ろしてきたというようなことが書いてありました。姿かたちを与えられることで実は恐怖が付け加えられたのではなく、反対に恐怖が減じられたんだと。モンスター映画と全く一緒だなぁなんて思いました。怪物は正面切ってスクリーンに登場した段階でただそれだけのものに成り下がってしまうんですよね。
それで、言葉だけの存在としての妖怪ってどんなものだったんだろうなんて、会場を廻りながら思ってたんですけど、わたしは既に形としての妖怪を知ってしまってるし、たとえ名前しか知らない妖怪であってもそれはわたしが形を知らないだけで、妖怪である以上形あるものとして有ることをわたしは既に知ってしまってるわけです。
もう言葉だけの存在の妖怪など永遠に体験できないところに立ってるんだと、そんなことを考えました。
あるいはそれだけじゃなくて、形を得た妖怪でさえも散文的な世界の中では姿を見失いそうになる。
足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」は最後は永遠に失われてしまったものへの憧憬で締めくくられていて、この日のわたしのなかで度々顔を覗かせた感覚もそれに似たようなものだったかもしれません。

あとね、わたしが展覧会で興味を引かれたものを列挙してみて、立体造形の方に圧倒的に惹かれてたっていうことに気づいたんですが、生来の立体志向はあるにしても、この展覧会自体、あくまでもマンガの文脈での展覧会だったものの、魅力的なものは平面よりも立体の方に多かった展覧会だったような気がします。

☆ ☆ ☆

それで、「件」と「魍魎」に未練を残しながらも、鑑賞終了。展覧会場の一室を出てから、売店に向かいました。わたしが美術館の売店好きなのは以前の記事に書いてるかもしれないけど、美術館では絶対に立ち寄る場所になってます。
京都国際マンガミュージアムではこんな感じのショップでした。かなり狭かった!

マンガミュージアムショップ

必ず買うのが目録なんですが、この日は初日だったのに、午後の半ば過ぎで図録は売り切れ、店員に訊いてみると直ぐに追加を配達してくるということだったので暫らく待つことになりました。それほど鑑賞客がいたようには思えなかったのに。でも誰も手にしてない状態で入手できたのは良かったかな。

妖怪展図録

手にした図録はこういうある種手軽な展覧会ではよく出てくるタイプのもので、市販されてるムック本と大して変わらない出来のものでした。兵庫県立歴史博物館と京都国際マンガミュージアムの編集とあるから、この展覧会の正式な図録なんだろうけど、このタイプの図録によくあるように展示物全てを掲載してなくて、余計な読み物を入れたりしてます。
わたしは展覧会の記録として欲しいので、展示物全てが掲載されてないこういうのはわたしにとっては半ば意味を失ってしまってます。

☆ ☆ ☆

京都国際マンガミュージアムを出てから烏丸通を南下して、六角堂の近くのよく行く中古DVDショップで何か掘り出し物でもあるかとちょっと物色、ブラザーズ・クエイのDVDを見つけたのでそれを購入してから、さらに南へ向かって進みました。
今京都はちょうど祇園祭の時期でそのまま南へ向かって四条通りと交差するところに出て、四条通りを少し東に行くと、長刀鉾がある場所に着きます。長刀鉾は今組み立ての真っ最中。
祇園祭の巡行の先頭に立つ鉾で、わたしの一番お気に入りの鉾でもあります。11日での組み立て状況はこんなところでした。これ釘なんか一切使わずに組み上げていきます。

2009祇園祭01

2009祇園祭02



四条の商店街のアーケードなんかを歩いてるとお囃子を流してるので、ちょっとづつお祭り気分が盛り上がってきます。
ある店の前にこんなのが出てました。

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妖怪天国ニッポン ー絵巻からマンガまでー
開催期間 2009年7月11日~8月31日

京都国際マンガミュージアム・ホームページ


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最後まで読んでくださってありがとう御座いました。

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