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知覚の地図 XXⅤ 陽射しの音弾けて響くひまわりの日傘

これは真夏の、酷暑の時につけるタイトルだったなぁ。まぁ思いついたのがこの時期だったんだから仕方ない。来年の酷暑の時期まで温存しておくほどのものでもないし、思いついたものは後先考えずに披露したがるほうだ。
こういう内容とまるで関係のないタイトルなんてつけていると、あとで見返した時、自分でも何を書いた内容なのかさっぱり分からなくなってくる。検索にもおそらくろくでもない影響を与えているだろう。
今回のはもう完全に意味に色目を使った制度寄りで、オートマティズムっぽい試行からはちょっと離れてはいるんだけど、でも完全に自動書記で完結させると云うのはほとんど不可能なんじゃないか。どれだけ言葉の自走性に任せてしまおうとしても、体裁を整える意識、無意識は必ず入り込んでくるし、アンドレ・ブルトンもあの自動書記の快作「溶ける魚」で、実際には編集を行っていてすべてを自動書記に任せてはいない。言葉は意味そのもの、意味の化身であって、その制度性は恐ろしく強固だ。

通底器1

さて並べてみる写真はタイトルとは裏腹に、日差しの陽気な音もそれが反響しているひまわりの日傘も一切想起させない、なんだか埋め込まれたチューブの切り口のむこうから薄暗い呟きでも聴こえてきそうだ。



通底器2

同じモチーフを並べてみる。同じようなものばかり並べて何やってるんだかと思うか、だからこそ際立つ微妙な違いに視線を遊ばせることができると思うか、さてどっちなんだろう?



通底器3

同一物をモチーフに並列させることで、単一ではその場に存在しなかった何かが生成されてくる。「差異と反復」といったものがある種のリズムとして、音楽的なものとして、並べられた視覚の上に姿を現してくる。もっともそれを生成させるにはこの四枚ではまったくの不足であることも確かではあるけど。
こんな風に書いてみるとまるで無関係なものとしてつけたタイトルと内容は、視覚と音楽の混在なんて云うポイントでしっかりと繋がってるじゃないかとも思えてくる。




通底器4
iPhone 11 camera

お気に入りは最初のと四枚目、次点で三枚目ってところか。最後のはちょっと状況的になっていて若干テイストが変わってくる。こんな似たような写真でも気に入ったものとそれほどでもないものの違いが出てくるのが面白い。


眩暈は頭の向く特定ポイント一か所を除いて大回転バージョンはほぼ終息した。一か所だけあるほうを向くと回りそうなところがしつこく残っていて、でも怖いからそのほうには頭を動かさないでいるから、実のところこの一か所がいまだに回転し始めるポイントになっているのかどうかは確かめてはいない。ともあれ派手な回転がほぼ姿を消すまで、今回は2か月以上かかった。今もふとした拍子に眩暈になりそうな嫌な気配を感じることはあって、でもそういう時でも冷や汗脂汗ものになったりする程度でやり過ごせていて、これは生活を続けていくうちにさらに頻度は低くなっていくだろうと思う。ちょっと怖いのは今回の眩暈が治まったことがしばらく耳石が剥がれないことの保証にはならないということ。明日また耳石が剥がれて再び大回転が始まる可能性もないとはいえない。でも明日どうなるかなんて考えること自体無駄だから、そんなことに心煩わせても仕方ないんだろうとは思う。
そんな終息しつつある眩暈と新たに加わった歯痛と云う悩みごとの合間を縫って続ける読書は、このところずっと複数の本の掛け持ち読みと云うスタイルを取り続けている。移り気な読書で、このスタイルだと読書量をたとえ多少増やしたとしても、なかなか一冊を読み切れない状態となる。別の見方で云うと、読んでいる本一冊一冊の訴求力がそれほどでもないと云うことで、とにかく続きを読まなければ気が済まないという本に最近出会っていないと云うことでもあるのかもしれない。巻を措く能わずの読書と云えば大昔に読んだ横溝正史の「八つ墓村」がちょうどそんな感じの読書体験だったのを思い出す。あとどのくらいページが残っているのか、あと楽しみはどのくらい残っているのか確認しつつ、終わってしまうのを惜しみながら読んだ記憶がある。今では映画もあるし超有名になってしまって、誰もが読んだ気になって本屋で見かけてもあえて手に取ることもない印象のミステリだけど、実のところ横溝正史のストーリーテラーとしての腕前は超一流、耽美世界の構築も超一流であることに間違いはなく、これを白紙の状態で今から読める人が本当に羨ましい。
映画のことをちょっと云えば、今でもなぜ市川崑の最初の横溝映画が「犬神家の一族」であって、「八つ墓村」じゃなかったのかと思うことがある。その少し後に上映された野村芳太郎の「八つ墓村」は最後に再度オカルトへ方向転換させた段階でこの物語の本質を完全に見誤っていて興ざめだった。
さて「八つ墓村」並みに読者を否応なしに引っ張りまわすような一冊との出会いを求めて今掛け持ちをしている本は、現在のところ大部の短編アンソロジーである「リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン」山田風太郎「明治断頭台」池田晶子「暮らしの哲学」など、そして相も変わらずページを繰ること自体をも楽しんでいるアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」といったところか。
「リテラリー~」は日本の小説や短歌、詩作においてゴシック精神が横溢していると編者が判断したものを集めた本。スタイルとしてのゴシック小説のような古めかしいものじゃなくて言語作品に横溢したゴシック的な要素とでもいったものにポイントを当てている。云うなら、耽美、残酷、驚異、暗黒、薄明、死、不穏といったものにただひたすら奉仕するのみで成り立つような作品群。悪趣味、バッドテイストなものも拒まずと云ったところだが、似てはいてもまるで違う下世話、卑俗な現実などその足元では色褪せる以外にたどる道は残されていない。わたしは吉村昭の「少女架刑」が収録されていたので手にした本だったんだけど、肝心の作品はその少し後で吉村昭の元の短編集に収録されていた形で読んでしまって、こっちの「リテラリー~」のほうは長い間手つかずに放置していた。
しばらく前に、せっかく手元にあるんだしもったいないからそろそろ読んでみるかと読み始めたもので、現在のところ最終ブロックの「文学的ゴシックの現在」の手前まで読み進めている。
泉鏡花あたりの時代を黎明として、以降年代に沿いつつ「血と薔薇」の時代と云ったようにカテゴリーを作りながら採取され並べられている。集められた作家は上記の横溝正史を始め、三島由紀夫、澁澤龍彦、小栗虫太郎、中井英夫と、こういう特質のもとでならば選ばれてくるだろうなぁと云う有名どころを網羅している。ただ選別されている作品は、本自体がリテラリーゴシックが形作る小宇宙といったものを手に取れる形で物質化した一冊という体裁をとっている以上、そのテーマに沿うものが主となるので、かならずしも各作家の代表作、有名作が選ばれてるというわけでもない。この辺りは選んだ側のセンスの見せ所であり、むしろこういう形のほうがこの作家にこういう作品があったのかと再発見することもあって面白い。たとえば横溝正史では「蔵の中」や「鬼火」ではなく「かいやぐら物語」が採用されていたりする。他中堅どころの作家として、個人的趣味として「大広間」の吉田知子、「兎」の金井美恵子、「花曝れ首」の赤江獏が採用されているのが、同じ趣味の人と対面しているようで楽しい。耽美の豪奢な織物とも云うべき赤江獏なんてなぜか知らないけど今や忘れ去られた作家扱いだし、なんだかもうすべてがぶっ飛んでいる吉田知子はこういうアンソロジーで名前を見ること自体が珍しい。
選者のリテラリー・ゴシックと云うポイントからずれてしまったのか、大部になりすぎて入れられなかったのか、不気味な「柳湯の事件」の谷崎潤一郎や、シュルレアリスティックな「片腕」を書いた新感覚派、川端康成が入ってないのは残念だったけど、大御所ばかり揃えても驚きもないアンソロジーになっていたかもしれないと思うと、知る人ぞ知るという作家を織り交ぜてのこのラインアップでメリハリがついてよかったんだと思う。伊藤計劃なんていうのを選んでいる意外性も含み、このアンソロジーの作品を選定する感覚は思いのほかいい。
こういうアンソロジーを読む楽しみには馴染みの作家の知らない作品に出合うという以外に、まるで知らなかった作家を発見するということがある。今回のこのアンソロジーで出会った驚きの作品は竹内健の「紫色の丘」だった。
一読、これはあのバッドテイスト・ムービー「ギニーピッグ」だと、そのシリーズの中でも「血肉の華」や後続のザ・ギニーピッグの一本である「マンホールの中の人魚」を彷彿とさせる極彩色の残虐、被虐、グロテスクにいたる結末に、読みながら思わず舞い上がってしまった。これは凄い。どちらかという内省的な出だしから、その内省性にかすかに不穏な空気は感じられていたにしろ、まさかこんな目も当てられないほど救いのない展開へと進んでいくとはまるで予想もできなかった。最後のカテゴリとしてまとめられている「文学的ゴシックの現在」パートはまだ読んでいないけれど、ここまで読んだ中では、この作品を知ったことだけで、このアンソロジーの元を取ったという感じだ。






Influência do Jazz - Roberto Menescal

Don't Worry 'Bout Me - The John Buzon Trio

両方とも以前にアップしたことがある曲。ドリーミーなある意味バッドテイスト・ミュージック。「THE BOSSA NOVA EXCITING JAZZ SAMBA RHYTHMS」はシリーズ通してジャケットがいかしてる。







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知覚の地図 XXⅣ 湿った柔らかいものが河の中を両手で目隠ししながら通り過ぎると思え。

白茶けた世界

ほとんど眩暈とともに始まったような今年の夏、さらに追い打ちをかけるように歯まで痛くなってきた。今月の初めころに一応歯医者の予約は取ったんだけど、予約日直前で眩暈の嫌な気配を感じだして、一度予約を一週間先に延ばしてもらった。かなり眩暈は治まっているとはいえ、頭を後ろに倒す歯医者の椅子は眩暈誘発度最大クラスで恐怖の対象以外の何物でもない。眩暈中の恐怖の椅子はもう一つあって、それは何かというと美容院の洗髪台の椅子。もうそろそろカットしてパーマかけないとどうにもならなくなってきたと思い始めた頃合いを見定めるように眩暈が始まったせいで、その状態から今に至るまでさらに放置状態になっている。歯医者同様に本当に必要に迫られてるのに、こっちもまだ恐怖感が先立って、行くに行けない。
眩暈と歯痛と酷暑に打ちひしがれた取れかけソバージュのボサボサ頭と驚異の長雨、おまけに歯科で渡された抗生剤の影響だと思うけど潰瘍性大腸炎も再燃気味で下血混じりの、これが今年の夏の総括ってことになりそうだ。何一つ高揚することもなく、冴えないこと夥しい。ソバージュというと、緩めなんだけど細い髪質でかけると結構絡まって毛玉になるなぁ。これ、どうにかならないものか。

並木

眩暈と歯痛の間をぬっての読書はあまり進まず。アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言の周囲をうろついたり、小泉八雲の角川ソフィア文庫版の「新編 日本の怪談」を開いてみたりしている。
ブルトンのほうは改めて思うに自分の写真への態度の多くがこの磁場にあったということ。それは幻想的なイメージを作り上げると云うことではなくて、制度からの感覚や人間の解放といったポイントにおいてそうあり続けたいと思っていたことの根本がやっぱりここにあるということを確認できたということだった。写真というのはもともと制度から最も遠くに離れたところで立ち上がれる可能性を持っていた。だからこそ逆に人一倍制度的な負い目でもあるのか、この分野ではやたらと「師匠」なんていう言葉を見ることがある。デラシネ的なものこそが写真の本来的な強みだったはずなのにね。何の修行もしないものもシャッターを押すだけで写真が撮れる、こういうのって凄いパンキッシュなものなんだと思うし、写真の面白さだと思うのに、そういうパンクな突出点を捨てて絵画や言語が持つ制度的なものを恋焦がれるように取り込み安定しようとする。いわゆる良い写真は塗り重ねられた「既知」であって、そんなものは目指す対象にもなりえない。制度そのものである言語を相手取ってシュルレアリスムへ至ったブルトンのほうがいまだにうんと先へ行っている。
ハーンのほうは、有名な「怪談」収録のものも含めて、ハーンが収集した日本の古い奇譚、怪異譚をテーマ別に編集し直したもの。「怪談」収録のものもテーマに沿ってばらばらにされ、なおかつもとにあったすべてが収録されているというわけでもない。それにしてもこういうものをよくぞ収集して残しておいてくれたものだと思う。物語としてまとめ上げる手腕に乏しければそんなに興味を引くものにならなかった可能性もあって、そういう点でも人物に恵まれていたんだろう。
テーマでの分類と云うのはある種のわかりやすさをもたらしはするけど、分割された「怪談」には「怪談」という一冊の本で纏まり小さな宇宙を作っていた、数ある話の中でその話だけが選ばれてそこにあるというような、その存在感は既になくて、ただ「耳なし芳一」や「むじな」や「雪女」が漫然と並んでいるだけのものとなっていた。これがこの本のマイナスポイントの一つ。
翻訳は「ですます」調のちょっと珍しいもので、これは語り物と云った雰囲気がそれなりに出ていて、こっちはプラスポイントのほうだと思う。
なかには「小豆磨ぎ橋」のような極めて陰惨な話も混じってはいるけれど、読み手側のわたしが純粋に怖がれるほどすでにナイーブでもないし、妖怪譚の類なんかはどちらかと云うと恐怖よりもユーモラスと云うか、できるならそういうのにわたしも一度であってみたいと思うほうが多かった。妖精譚ではあまり類例を知らなかった「ちんちん小袴」辺りが、転生譚では一瞬と永遠が交差する目のくらむような思いへと誘い、最後に箱庭趣味と云うとびっきり意外なヴィジョンを用意していた「安芸之介の夢」が印象に残る。そしてやっぱり「茶わんの中」がお気に入りで面白いんだけど、これは以前に読んだ翻訳のほうがこの話の面白さのコアをよく理解していたように思う。
角川と云うとわたしには昔からその時代に流行っているものばかり取り上げる、後世に残そうという気があまりないイメージのほうが強かったんだけど、角川ソフィア文庫というのは、古典にしろその時に最良の形で残しておこうという気概のようなものが垣間見れることがあって、最近は本屋の棚でも欠かさずに見渡しているコーナーとなっている。
ちなみに「シュルレアリスム宣言」のほうは岩波文庫版が最強で、この稀有な思想と実践の全貌を見渡すには、膨大な脚注、解説も含めて現時点ではこれ以上に緻密なものは他にはないと思う。こんな売れなさそうな本に、しかも文庫と云う形で、よくもまぁここまでの情熱、労力を注ぎ込めたものだと思う。エネルギーが凝縮して今にも眩しい光を放ちそうだ。





もう一つの裏側






異様な雨に祟られてちっとも夏らしくないまま過ぎようとしている、そしてまるで冴えなかったわたしの今年の夏へ。




ギタリストの犬、溶ける星の日。 機械式辻占師言行録Ⅴ

真昼の人影





抜け屋根壁





銀の構成





鳥かご





編目の劇場






赤い破壊

高の原 (1)
2013 / 06 伏見 (2)
2016 / 03 丹波口 (3)
2015 / 10 伏見 (4)

2017 / 01 長池 (6)
CONTAX T3 (1) Olympus Pen S 3.5 (2) Fuji Natura Claassica (6)
Kodak SuperGold 400 (2)(4)


エクスクラメーションマークとクエスチョンマーク。要するに「!」と「?」のことだけど、これは猫の尻尾を後ろから見たところだという。「・」がお尻の穴で上の棒マークが感情を表現してる尻尾本体だ。そう云われると吃驚した時のピンと立った尻尾はまさにそんな感じだ。と、これは最近本を読んでいて出くわしたことだったんだけど、真偽のほうは分からない。まるででたらめだったとしても聞いた人を納得させる妙な説得力があって、このマークを見て猫の尻尾を連想した人の発想力はなかなか面白いと思う。タイトルは読み間違いと目にした単語の偶然的な組み合わせによる。「ギタリストの夫」という一文の、夫が犬とみえてのこのフレーズなんだけど、金井美恵子の小説のタイトルにも「カストロの尻」というのがあった。これは「カストロの尼」というフレーズを読み間違えてしまった結果できたタイトルらしいんだけど、この破壊力抜群のイメージ喚起力に較べると我が「ギタリストの犬」はなんとも大人しすぎるというか、こういう読み間違いにしてもセンスの差が出てくるんだろうと、カストロの尻を捕らえた感性にちょっとした妬みさえも覚えるなぁ。破壊力抜群に読み間違えてみたい。そして当然のことながら、もちろん今回の写真もタイトルとは何の関係もない。写真は相も変わらず体調の加減と暑さと身の回りの主に医療関連の鬱陶しい雑事が時間的にも体力的にも気分的にも障壁となり続けていて、撮りに出かけること自体がままならなくなっている。この前現像に出した半年かけて撮った2本のフィルムはブローニーのほうは終盤の数枚が光線引きしてしまっていて、でもその光線引きもちっともかっこいい結果にはならないような光の漏れ具合の写真だったし、写ルンですのほうも全体にパッとしなかった。これを現像に出した後コンタックスT3にフィルムを入れてるんだけど、撮りに出かけられないものだからまだ3枚くらいしか消費していない。まず出かけられるような状態へと体のコンディションをもっていきたいところで、写真への関心を立て直すのはその後だろう。買い置きのフィルムは消費期限を過ぎてそのまま冷蔵庫の中で居座ったようになっていて、消費量の少なさもあって気がつけばこのところフィルム売り場なんてまるで足が向いていなかった。昨日久しぶりにヨドバシカメラに出かけてためしにフィルム売り場を見てみたら、さらに売り場は縮小されてなんというか見る影もない。売ってないわけでもなかったから手には入るんだけど一杯あるフィルムから気に入ったのや使ったことがないものを選択してどうのこうのというような楽しみは既になくなっている。大手のフジがそんな状態になってる中で、大手が牛耳っていた棚が空いたために、いくつかヨーロッパ系のフィルムが店頭に出てきてるのが小さな光を放っているようだった。廃版が常套句のこの世界にコダックのリバーサルが復活していたのも、これも大いなる希望だろう。そういえば先日マップカメラからのメールにフィルムカメラ、レンズの人気再燃につき買い取り価格再考なんていうのが入ってた。これもささやかな光の気配なのか。




薔薇の殺意〜虚無への供物(1)



昔NHKで放映したテレビドラマ版「虚無への供物」がYoutubeにあった。これ結構早く消されそうだ。ドラマの出来は反世界だとかそういう妖しい雰囲気はあまり上手く表現できてなくて、それほどでもなかったような記憶がある。さらに氷沼三兄弟を筆頭にすべてのキャラクターが具体的な姿を与えられて、それがまた個人的には全然そぐわなかった。全3話で完結。

【映画】サイレントヒル リべレーション3D 【写真】こわごわ猫写真 【音楽】The Main Attraction  Everyday

七月の半ば頃、若干湿度が落ちて過ごしやすい日が数日続いた時、今年の夏はいきなりの強烈な暑さで始まった体験があったせいで、あの暑さを過ぎるとこんな風に意外とすごしやすい夏になるんじゃないかと期待したものの、結局数日で湿度の高さは元通りの酷暑が戻ってきて、期待はむなしく虚空に霧散することとなりました。
云っても仕方がないこととはいえ、ことあるごとに「暑い」という言葉が口から漏れ出し、少し外を歩けばこの言葉が頭の中を埋め尽くしてしまうような状態。
夏の高くなった青空の下、コントラストのきつい影が落ちる、人通りが途絶えた街には、どこかで異界への扉が口を開けていそうで、そういう気配に満ちた場所を探してカメラ片手に歩き回ったりしてるんですけど、暑さのせいで気力が途切れるほうが早く、どうも思惑通りに行かない日を重ねています。
それと、夏の空って青く突き抜けるような空間にもくもくと雲が浮かぶ様相をイメージするんですけど、実際は大抵午後から、天気予報の言い方だと湿った空気で大気が不安定になって午後からは雷を伴うにわか雨が降るといった感じになるんだろうけど、陰鬱な雲が空を覆ってしまう日が多く、結局今年の夏も今のところ夏の空の写真を思うように撮れずにいたりします。イメージとしての夏は入道雲が生える青一色の空なんだけど、実際は結構うっとうしい空模様になる日も多いといった印象ですね。

そういえばこのところ何年も、ごくわずかの機会以外には映画館に足を運んだことがなく、そういう時間に当てていたものをカメラ持って街歩きをすることに費やしていたんですが、今年の夏の映画はちょっと視たいものがあって、久しぶりに映画館に足を運ぶことになりそうです。映画のことも書いていたブログなのに、映画館に行くのって去年のリドリー・スコット監督の「プロメテウス」以来のことになるんじゃないかなぁ。今は写真のことしか書かなくなったけど、一応映画のブログでもあるので、こういう状況になったことはわれながら信じがたいというほかないです。
以前のように小説なんかも面白そうと思うと買ったりするんですけど、読まないままに積んでおくほうが多くなってきてるし、ひょっとしたらもう自分は「物語」を必要としていないんじゃないかって思うこともあったりします。「物語」を必要としなくなったことにどんな意味合いがあるのかは自分でもよく分からないですけど、ちょっと考えてみるのも意味があるかもしれないかな。

それはともかく今年の夏に劇場で見ようと思ったのは「サイレントヒル」の続編と「スタートレック」の続編。両方とも前作を見ていて気に入った映画でした。「スタートレック」のほうはレナード・ニモイなどが出ていた元のTVシリーズは見ていたことはあったけど、それほどのめりこんだ訳でもなく、宇宙空間の冒険の話なのに予算の都合だろうけど宇宙空間はほとんど出てこなくて宇宙船内で話が進んでいくどことなく室内劇のような印象がこちらの期待に全然そぐわなかった物語でした。だから生粋のトレッキーというわけでもなかったんだけど、基本的に宇宙空間を巨大な宇宙船が飛びまわってるような映画が好きなので、しかも意外とそういうストレートな宇宙映画って最近はあまり見ないような気がするし、映画版のスタートレックは室内劇に終始するようなものでもないから結構好みに近い映画になってる可能性が高くて、まるで昔からのトレッキーであったかのごとく胸を高鳴らせています。
「サイレントヒル」のほうはゲームのほうの第一作からのファン。といっても追っかけていたのは「4」まででゲームのプラットフォームを変えたり、第一作のリメイクなんていうのを始めた頃から、ほとんど追いかけなくなってます。なんだか聞くところによるとゲームのほうはもうアメリカ人の手に渡って開発に日本人は関わっていないということらしいので、新作が出ても大したことないんだろうなぁって云う印象のほうが強いです。

映画は「スタートレック」のほうは8月の下旬頃からの公開でもうちょっと先のことになるようだけど、「サイレントヒル」のほうはすでにロードショーが始まってそれなりに日にちが過ぎていて、こちらのほうはこれを書いている時点で見ることが出来ました。

見た印象は、一言期待はずれ。好きなゲームの映画化だから贔屓目に見たいけどやっぱり期待はずれ。
一応鉄錆と金網の世界の地獄巡りをまた体験してるんだとわくわくしながら見られるし、サイレントヒルに踏み込むまでの謎めいた進み具合はそんなに酷くはないものの、それ以降のシナリオがいけない。なんだかどうもご都合主義で成立してるようで、その場その場はなんとなく納得してみていけるんだけど、あとで思い返してみると意識に引っかかってくるところも数少なく薄い印象でとどまるような映画でした。しかもその場で思いついたことを繋いで物語にしてるような立体感のない映画に、起伏がないからこその演出なのか、大きな音で驚かせてくるところが随所にあります。わたしは大きな音で驚かすホラー映画の演出って、いちいち気分がはぐらかされるのであまり好きじゃないです。

せっかく異様な異界に舞台を移しても、とにかく適当な設定で節目節目の危機を回避していくものだから、あれよあれよという間に勝手に話が解決して目の前を流れ去って行く感じ。これからいったいどうなっていくんだろうとはらはらすることもなく、憎悪の主アレッサとへザーがどうしてあの形で一体化したのかなんていうことの説明もないまま、あの形で合体したんだからそういうものなんだろうと気分だけで突っ走り、その後おそらく観客の頭の中に「?」マークを大量に発生させた状態で、主人公のへザーなんかそっちのけにしてモンスター同士のバトルが始まり、気がつけばそれが映画のクライマックスだったらしく、バトルが終わると程なく映画そのものもエンディングを迎えることになってました。
またサイレントヒルでこれこそが特徴というような薄気味の悪さもモンスター方面ではどちらかと言うとヘルレイザー的でサイレントヒルっぽさとは若干ずれてるようなところもあり、この淡白で気分的なシナリオとも相まって基本的にゲームに対する愛情がない人が作ったんじゃないかなぁという思いが強いです。

どうやらアメリカでも不入りで噂ではこれ以降の続編の企画は打ち切りになったそうだけど、そんな噂も納得できるくらいもうちょっと何とかならなかったのかなという思いだけが残る映画でした。原作のゲームはどこかフランシス・ベーコンの幻視にも回路が開いているような幻覚的でいい素材なので、これで終わらせるのはちょっともったいないです。
一作目はクリストフ・ガンズ監督で監督自身がこのゲームのファンだったということもあって、それなりによく出来ていたから、この映画もガンズ監督でもう一度作って欲しいなぁ。霧に沈むサイレントヒルと、そこを侵食してくる瘴気に満ちた鉄錆と金網の世界を気が滅入るほどに思う存分堪能させて欲しい。

まぁそれでも廃墟的なイメージを引きずった異様なイメージが横溢する世界なので、そういうのが大好きな者としては、良かったところも一応書いておくと、異界の病院で登場するナースのシーン、ゲームでもサイレントヒルの病院はまたあそこに入るのかと躊躇わせるくらい気味の悪さで突出していた場所だったけど、そういうひときわ不気味な病院のシーンに出てくるナース型のモンスターはこの映画でも結構よく出来てました。音に反応して攻撃してくるモンスターなんですけど、凶器を振り下ろす時の「あんあん」云ってる声が妙に可愛らしかったりしてちょっと異様なイメージに仕上がってます。音がしなくなると様々なポーズでその場で固まってしまう演出は演じてる人には過酷だっただろうなぁと。のけぞって静止してるナースでピクピク動いてる人がいました。

一つ後で知って吃驚したのがマルコム・マクダウェルが出ていたこと。映画の途中では気がつきませんでした。



☆ ☆ ☆



ということで、久しぶりに映画のことでちょっとだけお茶を濁してはみたものの、夏真っ盛り、酷暑真っ盛りの中であまり言葉を連ねる気にもならなくて、予告、というほど大層なものでもなかったけど今回は猫写真の一部披露へと展開することとなります。前回まで続けていた大川のお話は桜ノ宮から北側のことはどうも書きあぐねるというか、気が滅入ってくるところがあって、写真だけ載せるような形になるかも。

猫に関してはこの前も書いたように、一切飼ったことがないということもあって、面と向かっても何をしたら良いのかまるで見当もつきません。どう撫でると猫が喜ぶのか、撫で方さえも知らない。飼ってる人だとそれなりにあしらえるんだろうけど、わたしの場合は何をして良いのか分からずにただその場でカメラ持ったまま固まるだけ。猫に逃げられないように近づく算段も出来ないです。
だから、猫がいて出会い頭で逃げなかった場合はカメラを構えるんですけど、気分に余裕がないものだから、いい表情を狙おうなんていうこともなく、ただ猫が写ってるというだけの写真になりがちだったりします。

でも、飼ってる猫の写真のように生活の中で見せる仕草や表情を寄って撮れないことへの開き直りというわけでもないんだけど、最近は野良猫の写真の場合は特に寄って撮る必要もないんじゃないかなんていうことも考えます。むしろ環境の中にいる猫っていうイメージのほうが野良猫には似つかわしいんじゃないかって。被写体の猫とその猫がいる環境の関係性で成立させた写真のほうが面白いと思うんですけど、どうかなぁ。


藤森神社の猫01




藤森神社の猫02


暑中見舞いの猫2枚。下のほうは暑中見舞いの写真を撮った時、別に撮った写真です。さらに近づいていくとさすがにこちらの気配に気づいて一度顔を上げてこちらを見たんですけど、見ただけでそのまままた居眠り状態に突入してました。
上のほうはまた別の日。毛繕いしてる途中で、妙な表情をしたときに撮ったものです。



帝国ホテルの猫02

帝国ホテルにいた黒猫の写真を撮った後、暫くしたらもう一匹現れて横に並びました。仲良しなのか?
構図は階段が強調される縦構図のほうが良かったかな。




人懐っこい猫


祇園の某所にいる無茶がつくほど人懐っこい猫。結構有名というか知ってる人が多い猫です。
逃げるどころかちょっとしゃがんだだけでこちら向けて一直線に近づいてきたのであわてて撮った一枚です。どれだけ人懐っこいかと言うと、座っていたらこの猫、全然遠慮なしにひざの上に乗ってきます。
皆が皆いい人ばかりじゃないんだし、もうちょっと警戒心があったほうが良いんじゃないかと思うくらいです。


目ざとい!


これ、東福寺の鴨川にかかる橋のかなり高いところから撮ったんだけど、見事にこちらの気配を嗅ぎ取られてしまいました。こんなに離れてるから気づかれないだろうと思っていたのに、カメラ構えたらきっちりこちらを向いてる状態に。



哲学の道の猫01

哲学の道の若王子側の終点辺りにいる野良猫。いつも数匹の野良猫がいて近所の人なのか世話してる人がいます。基本的に人が途絶えることのない道なので、しかもちやほやする観光客がほとんどだったりするから、まるで人を下僕だとでも思ってるんじゃないかというくらい、人の存在なんかまるで気にしていない風の野良猫ばかり。いるときを狙っていかないと出会えないなんていう感じじゃなく、いつ行ってもここの野良猫には出会えるんじゃないかな。
ちなみにこの猫、カメラを向けてるこちらには見向きもせずにどこを見つめてるかと言うと、餌を与えてる人のほうだったりします。





難波の路地にて


難波の飲食店の裏通りで、子供連れの猫。同じく通りすがりの人がちょっと相手になってました。





CONTAX TVS2
CANON AUTOBOY FXL
OLYMPUS μ ZOOM
LOMO LC-A
NIKON F100
NIKON AF600



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The Main Attraction - Everyday


アヴァランチーズのサンプリング音源だけで作った奇跡的な出来の曲「Since I Left You」でボーカルパートとしてサンプリングされていた元曲。アヴァランチーズのほうを聴いていて本当にこのボーカルもサンプリングなのかと、そのあまりの馴染みのよさに疑っていたけど、サンプリング元を紹介したサイトを見てみると本当に元ネタがありました。

おそらく現在ではアヴァランチーズの曲の元ネタの一つという扱いでしか話題に上らないバンド。
でも聴いてみると60年代のちょっとソフトなロックという雰囲気一杯の曲で、女性ボーカルも凄い綺麗でかっこいい声だし、曲調も凝っていてこれもかっこいい。そんな洒落た曲なのになぜかほとんど知られないままに終わったようで、曲の出来から行くとちょっと信じられないくらい不遇の扱いを受けてるって云う感じがします。




ちなみにこれがアヴァランチーズのサンプリング音源だけで出来てる「Since I Left You」
The Main Attractionの曲は若干ピッチを上げた形でこの中のボーカルパートとして使われています。










Since I Left YouSince I Left You
(2004/07/13)
Avalanches

商品詳細を見る


The Main Attractionのほうは2011年ころにCDが出た様子なんだけど、跡形もなく消えてしまってるという感じ。レコードのほうも出てきたとしてもマニアックな掘り出し物扱いじゃないかな。
でも試しにアマゾンで検索してみたら、ここにリンクは貼れなかったけど、この曲が入ってるアルバム「And Now the Main Attraction」がダウンロードという形で販売されてました。





☆ ☆ ☆


ちょっと体調を崩してるので、夏休みをかねて、ブログを暫くお休みします。
今回はコメント欄も閉じておきます。



【写真】冬枯れの雨の日に、大川沿いを散策する~ 帝国ホテルー設えられた空間。 【音楽】雨の歌

最近モスバーガーのライスバーガーに若干はまり気味。
きっかけはこの一連の大川の撮影よりはかなり後のことで、梅雨に入るかどうかって云う頃、中書島で写真を撮っていた時のことでした。ちょっと小腹がすいてきて、手頃なところで何か食べたいなと思いながら、大手筋商店街までやってきた時にはいってみたのがこのモスバーガーでした。せっかく伏見辺りに来てるんだから、この辺にゆかりのものでも食べればいいんだけど、どうもわたしは初見の食べ物屋に入るのが苦手で、知ってる店をみつければ慣れてる方がいいとばかりに、そちらに入ることがほとんどだったりします。
おまけに観光地としては龍馬の寺田屋がある街、産物としては伏見の名水を使った酒蔵が一際目立つ街であるせいなのか食べ物のほうはどういう食べ物が特産なのかよく知らないというところもありました。

モスバーガーは入ったことはなかったけど、この時は大手筋の商店街を歩いていて幾分入り慣れてるハンバーガーショップを見つけたということで入ってみることにしました。最初に入ったときは普通のハンバーガーを注文したんですが、でも食べながらトレーの上に敷いてあった広告に掲載されてるライスバーガーを見てるうちになんだかおいしそうと思い出して、次にきたときはこれを食べてみようと思いました。
そして次回写真撮りに中書島にやってきた時にその思いつきに従ってライスバーガーを注文してみたというわけです。

どうも以前にテイクアウトのものでこの類のものを食べたようなあやふやな記憶があったんだけど、その時はそれほど美味しいものとは思わなかったのに、海鮮かき揚げが挟み込んであるのを頼んだこのライスバーガーは、以前ソースでべたべたのハンバーグを挟んであったものに比べるとはるかにご飯とマッチした食感なっているようでした。
云ってみるならばかき揚げが入ってる焼きおにぎりって云う感じ。かき揚げはあっさりした塩だれがかかっていて美味しかったです。

それ以降たとえばフォトハウスKで現像が仕上がるのを待っている間の一時間とか、フォトハウスKは三条河原町だけど四条河原町の高島屋辺りまで下ってきて高島屋の近くにあるモスバーガーでこのかき揚げ焼きおにぎりを食べることが多くなってます。
高島屋近くのモスバーガーは店内に始終ビートルズが流れていて、これもポイントが高いです。

ただトレイにのっていたライスバーガーの広告はハンバーガーは若者だけの食べ物じゃない、シニアのかたにぴったりのハンバーガーです!のような薦め方で、いつの時代にも代わり映えしない年寄りの固定的なイメージがあるんだなぁと思ったりしました。


さて、海鮮かき揚げライスバーガーで助走をつけて書き始めたものの、本題に入る最初からこういうことを云ってしまうのもどうかと思うんだけど、今こうやって書き出してみてちょっと困ってます。
何を困ってるのかと云うと、さすがに連続して書いていると大川のことについてあまり書くことがなくなってきたということ。別に大川の専門家でもないし、大川のほとりに立った理由といっても、ただ雨の日の遠くがかすむ情景を撮りたいと思って思いつきで天満橋で降りただけのこと。大川がどうのこうのって、天満橋で降りた時点でここが桜の名所だということさえ知らなかったくらいだから、専門家どころか大阪の人ほどにも知識はなくて、書きながら調べたことをこうやって書き続けているうちに、仕入れたことは大半書いてしまうこととなりました。

この一連の撮影で撮った写真はまだあって、記事としては最終的に淀川河川敷に出るところまで、桜ノ宮駅から上流の桜ノ宮アンダーワールドと毛馬閘門、淀川河川敷公園毛馬地区と、後二回くらいは予定してるんですけど、そのうちほとんど言葉を費やさずに写真並べるだけの展開になっていきそうです。

とまぁ先のことを危惧していても仕方ないところもあるので、気を取り直して今回のお話に入ることにします。
この前に記事に書いたようにJR環状線の桜ノ宮駅を行動の起点にしてからは上流の様子を探りに行く一方で、駅周辺の写真や対岸に渡って少し下流に下ったところにある帝国ホテルのアメニティ・パークなんかをうろついて写真を撮っていました。
4回目に来た時のフィルムで奔走した日、帝国ホテルの傍らを通り過ぎて、なんだか一杯写真撮れるところがありそうと思ってから、フィルムの残りを十分に確保しては源八橋を渡って帝国ホテルの周辺へ様子伺いにやってくることになりました。

大阪アメニティパーク(OAP)は、場所的には対岸を歩いていて死の島のようだと思った場所の北側。死の島のようだと思ったのは京阪国道をはさんで建っている造幣局の元応接所、大阪で現存する洋館のうちでは最古のものらしい泉布観だったんですが、この辺を歩いた時は補修工事中だったその泉布観を取り囲む木立を抜けた北側から、桜ノ宮駅へと向かう源八橋までの大川右岸一帯となります。上で帝国ホテルのアメニティパークと書いているけれど、調べてみると実際は三菱が関連している地所のようで、三菱金属大阪精錬所跡地を再開発した場所とありました。大川というウォーターフロントの利点を生かした再開発のようで、わたしが来てみた印象では帝国ホテルの庭園にしかみえなかったものの、帝国ホテルは大阪アメニティパークを代表する建築物の一つに過ぎなくて、帝国ホテルの一部だと思っていたOAPタワーなどとともにこの一角を構成しているような感じになっています。



帝国ホテル1




帝国ホテル前遊歩道1




帝国ホテル3




帝国ホテル4




帝国ホテル前遊歩道2





帝国ホテル5




ひまわり





帝国ホテルの一角。放射状に突き出ているポールがなに気にかっこよかった部分で、撮ろうと思ったときは鳩が一杯止まっていたんですけど、シャッターを切った時点でこの数に。もっともこのくらいの数の鳩のほうがかっこよかったかなと。アンチ・ドラマチックな瞬間を捉える感覚が冴え渡ってるというか、こっちのほうが鳩が一杯とまってるよりもかっこいいじゃないかと思い出すと、むしろわたしがシャッターチャンスと思ったものは実はシャッターチャンスでもなんでもなくて、そのわたしの中途半端な感覚をはずすことで本来的もっと適切な瞬間にシャッターを切ってるんじゃないかと思うほどであります。

帝国ホテル前の広場から源八橋へ向かう間にある遊歩道。植わっている木々はこのときは知らなかったけど、大半は桜です。結局この地域に撮影に行っていた締めとなった桜の満開の時、このあたり一面薄桃色の霞のような色合いに包まれることになってました。
左手側に帝国ホテルの建物が並んでいて、その建物の隙間から差し込んだ日の光が遊歩道の桜の並木に落ちていた場所。
左から右にかけて光の帯が差し込んでいたんだけど、写真は帯状に立体感を持った光を上手く乗せることができなかった感じです。光に浮き上がってる右端の一本か光を一番まとっている左端の一本に限定したほうがよかったかも。



帝国ホテルと隣接して建っているOAPタワーの間の空間です。二つの建物は低階層の部分で繋がっていて、その繋がっている部分を横断する広場のようになった場所。名前がついていて確か花の広場だったかな。そういえば花壇風になった置物がちりばめられていました。花壇以外にも円形の広場になった周囲には若干店舗が並んでいたりして、そういう商用施設を傍らに並べながら、広場は帝国ホテルの表通りとこの大川沿いのアメニティパークを繋ぐ形に広がっていきます。向こうに見えているのが大川。ウォーターフロントの正面玄関らしく、遊覧船ひまわりの発着場が展開している場所でもあります。

結婚式関連の何かをやってる店かな。

写真を撮る時、縦構図にしようか横構図にしようか結構迷うことがあります。基本的には広がりを見せる時は横構図、奥行きを見せる時は縦構図、被写体を強調するには縦構図、全体の雰囲気を撮るには横構図なんていうような図式が成り立つんですけど、写真の教科書に書いてあるようなそんなのに従ってると、誰か他人の目で眺めてるような公式どおりの写真になりがちであまり面白くないです。で、いつも迷ってしまう。ここは公式どおりだと横構図で撮るのが相応しいんだけどあえて縦構図で撮ってみようなんていうことを考えたりします。余計なことを考えてるとバランスの悪い写真しか撮れないことが多いですけど、そういうバランスの悪さを積みかさねていくことで何か目新しいものでも発見できないかなんていうことも時折考えたりすることもあります。
この写真は外国のホラー小説のペイパーバックの背表紙にでもありそうなイメージといったものが頭の中にありました。そういえば写真集なんかを眺めてると普通のページの形に収まりやすい縦構図の写真というのが結構多いように思います。そういう意味ではたとえば横構図が映画的だとするなら縦構図は書物的ともいえるかもしれないです。
見返してみると自分としては思いのほか縦構図でも撮ってます。この共時的で物語性の希薄なフレームが結構好きなのかも。

表通りと大川を繋ぐ広場の一角。まるでどこか外国の街角といった風情にしつらえられていた空間。

水上ボートが停泊していたアメニティパークの発着場。大川に写真撮りに来て結局川の様子はほとんど撮らずに終わった、その数少ない川が写っている写真のひとつです。




パークの猫




大阪アメニティパークにいた黒猫。ピントが合ってないのか手振れなのか、こっちを向くまで待ってシャッター切ったのに、まるでどちらを向いてるのか分からない、なんだか恐る恐る撮ってるのが丸分かりの写真です。
猫って被写体にすると写真の価値をとにかく掻っ攫っていくところがあるから、カメラを向ける対象としては禁じ手に近い扱いにしたほうがいいように思うこともあるけど、街中で野良猫に出会うとやっぱりカメラを向けてしまいます。
でも自慢じゃないけどわたしは今までペットといえば文鳥とインコくらいしか飼ったことがなくて、猫の生態や仕草のサインなど何一つ理解できず、街角でいきなり出会った野良猫にカメラを向けるのはいいにしても、そのあとどうしていいかわからなくなってそこから近寄ることもできずに固まってしまうんですよね。初手で逃げなかった猫もこっちの緊張感が伝わるのか、なんだこいつ、一緒に遊ぶんじゃないのか?とでも言いたげにいぶかしそうに眺めてくるし。
そのうちちっとも寄れないこわごわ猫写真特集でもやってみようかな。



☆ ☆ ☆


フィルムで奔走した日、初めてこの帝国ホテルの傍らを通り過ぎた時になんだか写真に撮れそうなところが一杯ありそうと思ったのは、この前の記事に書いたとおりでした。そういう印象だったから、それ以後桜ノ宮駅で降りてからもとにかくこの辺りに出向いてみようと、結構頻繁にアメニティパーク内を歩くようにしてみたんですけど、実は訪問する回数が増えるにつれて、実際のところ最初に思ったほど写真撮りたくなるような場所でもないなぁという感想に落ち着いていくことになります。
一つには中心となる建築物の二つが帝国ホテルと下のほうの3~4階を除いて大半がビジネス用途のビルだったOAPタワーという具合に、パークと名前がついているものの会場全部が総出で遊びの空間を作り上げてるわけでもなくて、むしろビジネスオフィスとホテル中心の、遊びで寄るような場所ではなかったということ。パーク内には他にもそびえたつ高層建築があったけど、これも住居棟ということで一般的な空間とは性質が違う場所でした。

帝国ホテル内部といいビジネスのオフィスが並んでるタワーの上層階といい、もちろん住居が入った高層建築も、用もないのにうろつくのは気が引ける場所だったし、実際にカメラ片手にうろつきまわっていたら不審者としてつかまる可能性だってかなり高いんじゃないかと思わせる空間ばかりでした。
一方商用施設のある階も大して活気があるわけでもなく、地下二階分ほどで展開しているレストラン街も日が昇っているうちは大半が準備中の札をかけていて、レストラン街そのものがまるで「ゾンビ」の舞台となったスーパーマーケットのように閑散としていました。開いていたところだと、マクドナルドと、自家製のパンとちょっとした軽食を食べられるカフェのような店が目に付くだけ。ここまで来てマクドナルドに入るのもばかげてるので、この辺りを歩き回ってたときはこの大川に面したカフェでパスタを食べたりしたんですけど、そのうち大川の眺めも飽きてくることとなりました。

もう一つはこのアメニティパーク全体が、一般的に開放されている空間限定という話ではあるけど、訪問してるうちにどうも紛い物くさいものにしか見えなくなってきたということもありました。
大川沿いの庭園も花の広場を中心にした建築物内部の空間も、どこかヨーロッパの街にでもありそうな、煉瓦壁の一角に街路灯が点っているような空間演出の場所があったりするんだけど、おそらく本当の煉瓦積みで造ってるわけでもなさそうで、それ風に設えてあるだけといった印象がつよく、まるで映画のセットのような感触になっている場所がほとんどでした。結果として洒落てるように作ってるんだろうけどなんだか薄っぺらくて、シャッターを切ろうとする指先まで力が入らなかったりすることが多かったです。

こんな感じでアメニティパークでは写真撮ってはいたけど、向えばすぐにどこかの会社のオフィスにぶつかって、来る前に思っていたような夢中になる要素も意外と探し当てることが出来ずに、全体を覆う綺麗に演出された映画のセットのような光景はそのうちあまり興味を引かなくなって、大体その頃には源八橋周辺でも気がすむまで写真撮ったりしていたから、興味の矛先は大川のさらに先には何があるのかといったことにシフトしていくことになりました。


ということで、書くことがないという危機的な状況を視界の片隅に入れながらも、大川行は紛い物空間に見えた帝国ホテルを予想外に早く離脱して、さらに上流へと続いていくこととなります。
大川は桜ノ宮駅を越えると様相を一変させるんですが、アンダーワールドなんて勝手に命名したけど、さてどんな相貌へと変化していくかは次回へのお楽しみということで、ちょっと興味を引くものを残して今回のお話はお終いとします。


最後に源八橋のメタセコイアの写真を前回に続いてもう一枚。こっちのメタセコイアも縦ラインの複雑なリズムはそれなりに崩さないままにごちゃごちゃと混沌として、結構気に入ったイメージで撮れました。
うん、なかなかかっこいい♪


桜ノ宮上流左岸1メタセコイア





Leotax F +Ernst Leitz Summitar 50mm/f2
Olympus μ Zoom 105



☆ ☆ ☆



The Beatles Rain




さて、音楽はどうしようかと、梅雨時だから単純に雨の歌でもいいかなぁと思って何かしっとりしたジャズ・ボーカルのものでもと物色していたんだけど、冒頭で書いたようにこのところ高島屋横のモスバーガーでビートルズのシャワーを浴びてるから、ここは一つビートルズで行ってみようかと思いついて、この選曲となりました。
タイトルは雨そのものの「Rain」
曲はインド系が入って、実はビートルズの音楽の中でインドっぽいのだけが苦手だったりするからそんなに夢中になった曲でもないんだけど。
曲の製作はちょうど「リボルバー」の辺り。曲調も「リボルバー」に入っていても全然違和感のない、タイトでスタイリッシュなサイケデリックといった感じの曲調となっています。
でもなぜか実際はシングル「Paperback Writer」のB面で発売されただけで「リボルバー」には収録されませんでした。別のアルバムだったけどアルバムに収められたのはずっと後のことになります。

音楽的には初期もの以外だと、この「リボルバー」の辺りの、低彩度でハイコントラストの写真のような音、しかもスタイリッシュな中にむき出しのサイケデリックが裸で突っ立てるような感触のあるものが好き。これ以降のまるでツァイスのレンズで濃厚な色彩に撮ったあと、フォトショップで加工しまくった痕跡が目立つような、妙に凝った音楽、ファッションも音同様にいろいろと装飾的なものへと変化して行った頃のサウンドは好き嫌いで云うと、嫌いじゃないけどあまり好みでもなくて、バンドサウンドに回帰しようとしたホワイトアルバムでまたちょっと夢中になるまで、音楽的な意義は認識するものの、若干醒めた視線が入ってきたりします。

この曲は先に書いたようにインドっぽいところが個人的にはいまひとつなんだけど、ベースがかっこいいです。特にこの曲はポールのベースの特徴が出てる感じがします。高音域を極めて効果的に使って独特のドライブ感を作り出しながら、うねるようにほとんどメロディーライン的なものをベースで弾いたのは、こういう音楽分野ではポール・マッカートニーが最初だったんじゃないかと思うけど、思えば私がビートルズに夢中だった要素はソング・ライティングの抜群のセンスの良さと同じくらいこのベースの際立ったかっこよさにありました。今のベースの弾き方のある部分は確実にこのタイプが発展していったものだと思ってます。
それとドラム。聞くところによるとリンゴ・スターはこの曲のドラムを自己ベストとしてるんですね。わたしはこの頃のリンゴのドラムだと「Tomorrow never knows」の催眠術のようなドラミングが好きなんだけど、この辺の評価の違いが興味深かったりします。

ファッション的にもこの「リボルバー」の頃のビートルズが一番好き。マッシュルームカットも板についてきたし、タートルセーターに黒っぽいジャケットって云うのが無闇にかっこいいです。ストイックでスタイリッシュで音楽のイメージともぴったり。
小ぶりのボストンのサングラスもかっこいい。実はこの頃のビートルズのサングラスがかっこよかったので、色はリンゴのかけていたブルーで形はポールのボストンというのを作って今でも持ってます。写真撮るようになってサングラスはかけられなくなったけど、ボストンの眼鏡はまたちょっとかけてみたくなりました。




☆ ☆ ☆





パスト・マスターズ vol.1&2パスト・マスターズ vol.1&2
(2009/09/09)
ザ・ビートルズ

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