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 彪鶫はいまだにあくびをするばかりで一向に啼こうとはしない。世界の果ては意識のうちにあり、そこで何を計測できるのだろう。

踏切

彪鶫云々のフレーズは妙に気に入ってしまって再登場。ちなみに彪鶫の声はある恐ろしいものを連想させる。ブレーズ・サンドラールは世界の果てまで連れてって!と云ったが、世界の果ては我が蹠にぴったりと寄り添ってもおり、そこでは極大と極小、最遠と最短が縒り合され絡みあう。

先月の末、月が替わる間際に難病の医療費補助の継続手続きの案内が来ていた。提出する書類を集め回らないといけないのに、まともに歩けなくなってる状態で、そういうことを梅雨の真っ最中に要求されることになった。雨の中杖ついて傘さして、なんていうことができるのかと思いつつ、やっておかなければならない作業だし、とにかく雨の降らないタイミングを見計らって、先月の末には病院へ、今月に入ってからは役所へと足を運んでる。JR奈良線の特徴なのかあるいはJR全体に言い得ることなのか、とにかく奈良線には設計者の正気を疑うような駅がある。この役所の最寄りの駅がまさにそうで、二階部分の改札口から入り、上り下りの各ホームへ降りていく構造になっている。ところがこんな構造の駅なのにホームと改札を繋ぐエレベーターもエスカレーターもなく、あるのは階段だけ。改札の外には改札口まで昇降できるエレベーターが設置されてるから、駅の設計者がエレベーターの存在を知らなかったわけでもないだろう。この事情を知ってるから、役所に行く前に階段で転倒しないように頭の中でシミュレーションしていった。もうひとつ奈良線で変な駅を知っていて、こちらは駅の構内からトイレに入れない。トイレはあるにはあるんだけど駅の外にいる人しか利用できず、構内からそちらへ向かう方向へは金網が張ってあって通過するのを阻止してる。
シミュレーションの成果だったのか駅の階段で転げ落ちることもなく、役所で必要な書類を手にすることにも成功し、準備は着々と進んで今月の中旬にでも郵送するつもりだった。ところが中旬になっても5月末に病院で依頼しておいた書類がまだやってこない。梅雨で出かけられる日が限られてるだろうと先手を打って行動していたのが台無しだ。


春の中頃に買ったカート。ふらつきそのものはこれを使ったからといって解消されることはないけど、両手で支える分杖よりは歩行の補助にはなる。電車とホームの段差を超えられるかとかある程度混んだ電車に乗るのは無理だろうとか、悩ましいところはいろいろあるんだけど、扱いはベビーカーと一緒と考えて、混雑に関しては開き直るか乗る時間帯や乗る位置で工夫する以外にないだろうなぁ。
アマゾンで探してみるとこの形のカートはなぜかほとんど選択肢がない。一度全く同じカートを使ってる人を見たくらい、店に常備してるものと同様に使えそうなのは、なぜほかのメーカーがこぞって作らないのか不思議なくらいこれに限られてくる。
使ってみて一つ姑息だなぁと思ったのはバスケット部分が独自仕様のサイズにしてあって、他の一般的なエコバスケットが収まらず、こういうところで囲い込みをしようとしてるところ。写真のチョコレート色のバスケットは寸法表を見比べて何とか収まりそうなのを探し当てた。ブルーのは保冷のエコバックでこれも他で探したもの。なにしろサイズがぴったりあう純正の保冷バックはちゃちなうえに6000円近くしていて、とても買う気になる代物じゃなかった。
あと追加で100均で売っていてアルミのフック二つとベビーカー用のフックを2つ、計4つを取り付けてるし、杖の格納場所がなかったので杖のほうにいろんなところに引っ掛けられる補助具をつけてカートに取り付けてる。
この杖の補助具の発想がなかなかユニークで面白い。黒いゴムのチューブだけという、全体はこれ以上ないくらいシンプルなもので、これをコイル状に杖に巻いて端っこをひっかけたいものの形状に合わせて好きなような形に決めて使う。これだけのことなのに杖はずり落ちず、使い勝手は予想外にいいうえに発想のぶっ飛び具合が形にも現れていて異様で楽しい。
カート





ジャック・カーリイ「デス・コレクターズ」なんだかんだと云いながら五分の四ほど読了。読み終えるのに時間がかかってるくせに実は面白い。30年前に法廷で射殺された芸術家でありシリアルキラーだったマーズデン・へクスキャンプ。その人物が信者を集めて作ったコミュニティで作成されのちに散逸した絵画を巡って30年の時を経て起こる事件、といった内容なんだけど、物語も後半過ぎて、見つかった最後の絵画の下層に隠されていた描かれることがありえないもう一つの絵画の不可能性や、偽ものだけど二十世紀初頭の芸術運動、ダダイズム、シュルレアリズムのカリスマだったマルセル・デュシャンが登場して謎めいたチェスゲームが始まるところなど、予想外の展開で興味を引きずりまわされる。特にデュシャンが登場した時点でうれしくなって舞い上がってしまった。なにしろ二十世紀初頭にデュシャンが展開したコンセプチュアルな事どもはわたしの卒論のテーマだったし、舞い上がるなというほうが無理だ。
実際のデュシャンも絶頂期に芸術家のキャリアをすべて捨ててチェスプレーヤーになった。でもそれ以降も、創作は止めてしまったと思わせておいて、実は秘密裏にある作品を創り続けていた。それはのちに死後公開の条件で披露され、その通称「遺作」はデュシャンがずっと創作を続けていたという事実で人々を驚かせ、その唯一無比の破天荒で妖しい全貌がみんなの度肝を抜いた。観た者すべてを孤独な窃視者にしてしまう。
遺作はフィラデルフィア美術館に設置されてる。わたしの友達で若いころアメリカを放浪してたのがいて、わたしがデュシャン、デュシャンというものだから、フィラデルフィア美術館で実際に遺作を見てきている。あぁ羨ましい。デュシャン展でも京都で開催されたら杖をついてようがどうしようが一目散に駆けつけるんだけど、遺作に関してはその性質上他の場所に移動させるのは不可能だろうなぁ。ちなみに遺作の内部構造について美術館が出版した「Manual of Instructions for Etant Donnes」という本がある。これを持ってるんだけど、遺作設置のための手引書としてデュシャンが書き残したノートを本の形で出版したもので、内部の構造が分かる貴重な写真が満載の本だった。
あともう一つ、へクスキャンプの足跡を追ってパリに行く飛行機の中で、主人公が恐怖に駆られて思いだす、飛行機から落ちたスチュワーデスが地表で赤い染みとなるまでを描いたジェイムズ・ディッキーという作家の存在を知ったのも収穫だった。
Anémic Cinéma

最後に出てくるクレジットのローズ・セラヴィはデュシャンの二重化された自我のひとつだ。女装した形でマン・レイの写真に現れる。

輝きに満ちていて、こういう曲大好き。曲名なんていうんだろう。それにしてもこれだけ流麗に弾けると快感だろうなぁ。腕の痺れから解放されたら練習しないと。


















最近は手の痺れのせいでキーボードが上手く打てないということも相まって、ブログが動画を引っ張ってきた日々の情報の備忘録と化してるなぁ。



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銀の街路で跳ねる宝石のしずく。彪鶫はあくびをするばかりで啼こうとさえしない。

格子

最近またあの部屋の夢を見た。ただある部屋に居るだけの夢なんだけど、見ている本人にとっては結構薄気味悪い。
寝室だか居間だかよく分からない場所を背にして立っている状態で始まる。背後の空間が今そこから出てきたということと寛げる空間だということは分かるんだが、背後を振り返ってみようとしないから後ろに何があるのかは本当のところよく分からない。
そういう場所に突っ立って、あぁまたこの部屋にやってきたと思いつつ前を見ている。部屋は現実世界では踏み入れたこともなく、夢の中でしか見たことがない。
立っていいるわたしの前に幅の広い廊下くらいの空間を挟んで、間を通路で区切られた壁が2枚並んでいる。壁にはそれぞれドアが一枚ずつ設置されていて、ドアを開ける前からその向こうは浴室とトイレだということが分かっている。おそらく今までに夢の中で訪れたどこかの地点でなかを覗いたことでもあったのかもしれない。ちなみに浴室は結構広いのが分かっている。
右手のほうが少し細くなってその先にもドアがある。これはこの部屋に出入りするドアだ。このドアの向こうも以前夢の中でのぞいたことでもあるのか様子は大体わかって、ドアを開くと左右に廊下が伸びている。建物の中ではあるがあくまでも室外に属する類の廊下だ。人の気配はなく廊下の両端は暗がりの中に消えていて、その先がどうなっているのか見当がつかない。
先日の訪問の時一つ変化が出ていることに気づく。目の前の二つの壁に挟まれた細い通路の先、いつも行き止まりだったはずの壁に扉が一つできていたことだ。裏庭にでも出られそうな部屋にそぐわない質素な戸で、この行き止まりの向こうを見られそうなんだけど、壁に挟まれた細い通路の先にある戸はどうも開いてはいけないような気がしてやまない。夢の中で自分は通路方向に注意を引きつけられつつ、その先で誘っているような戸を開けたい自分と葛藤している。でも開けてしまうとろくでもないことが起きそうだ。
とくに部屋をうろつきまわるわけでもなく、何か別のものが登場するわけでもない、ただこの誰もいない部屋にまたやってきたと思うだけの夢なんだけど、最近のは目覚めた後もあの戸は開かないほうがいいよなと現実世界にも妙に後を引くようなところがあった。
と、文字起こししてみると、だから何?っていう内容だなぁ。おどろおどろしくもなくただ突っ立てるだけで劇的にも程遠い。
他人の見た夢の話を読んだりするのは結構好きで、今思い出せるのは赤瀬川源平の「夢泥棒」とかつげ義春「夢日記」辺りだ。こういうのもシュルレアリスムの衛星のひとつなんだろう。




夢じゃなくリアル世界で奇妙な体験をしたのは2度ほどあって、一つはまさしく怪談っぽいものと、もう一つは今においても何が起こったのかさっぱり理解できない意味不明の出来事。両方とも倉敷の大原美術館へ学芸員の実習に行っていた時、泊まっていた倉紡の工場跡を利用したホテルでの出来事だった。そのうちのひとつはかなり前にここに書いたような記憶があるけどあまり確かじゃない。
本はなかなか読み進めない。いったいいつから読んでるんだと思うくらい同じ本が目の前にある。ジャック・カーリイ「デス・コレクターズ」だ。つまらないわけじゃなくそれどころかサイコものにしては予断をはるかに超えて面白い。
前作に比べて謎は複層的に複雑になり、着地点を容易に予測させないし、シリアル・キラーとその信者たちが過去に作っていた特異なコミュニティや犯罪者の作ったものや遺物をコレクションするマニアが作る裏世界のネットワークといった特異で魅力的な世界へいざなってくれる。
でも、面白いんだけど気分がなえてるからか、数ページくらいしか集中力が続かない。併読していたカフカの短編集も中編くらいのボリュームのが出てきて中断してる。
今併読しているのはもっと短く読める根岸 鎮衛「耳嚢」とウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」だ。「耳嚢」は江戸中期に江戸の町で流布した噂話、奇妙な話を集めたもので、まだ町のいたるところに闇が存在していた世界へ入っていける。候文で多少の読みにくさはあるんだけど、一編が短いし、読めないこともない程度のとっつきにくさに収まってる。ほとんど箇条書きの「論理哲学論考」は理解可能かどうかは別にして今の精神状況にはうってつけ。思考との回路が繋がれば妖しい光芒に目がくらみそうになる。
ウィトゲンシュタインはこれを書いたのち、哲学で自分がやることはすべてやったと思い、後年その考えを思いなおすまで小学校の先生をやっていた。教えてもらった小学生はあらゆる意味で凄かっただろうな。
併読










The Beatles - Falling In Love Again, Recording at the Star Club Hamburg December 1962
マレーネ・ディートリッヒが嘆きの天使で歌った曲。ビートルズは革ジャンにリーゼントでこういうスタンダードもよくカバーしていた。









三千億光年の蹠の国へ、そこにり永遠に遠く

パイプの館


マスクは任意でいいよと御触れが出てから、わたしなんかは元々任意のものを任意で構わないというのもおかしな話だと思いつつ、喜びいさんで外したほうなんだけど、周りはどうかと見渡してみると、まぁある程度は予測はできたとはいえ、ほとんど全員がマスクをつけたまま、昨日とまるで何も変わらない光景がこれが日常だとでも言わんばかりに連面と続いていた。これはわたしの周辺に限ったことじゃないと思う。
周囲に従えが心情の国民性の中でマスクなんてなかった本来の日常に戻るには、国からのお達しは千載一遇のチャンスというかきっかけだったのに、誰も強制しないと国が保証したニにも関わらずこの状態だとしたら、もう日本人はマスクを今後一切外せないんじゃないかと思う。デサンティスのような政治家が日本にも必要なのか。
まぁ任意にはマスクをつけ続ける選択肢もあるから大人は勝手に免疫下げてればそれでいいかもしれないが子供がこのチャンスをふいにするのはかわいそうな気だする。

50年近く営業していた近所のスーパーが三月末で閉店した。食料や生活必需品の七割くらいをここで調達していたものだから、ある程度予想していたとはいえ四月に入ってからのこちらの日常生活は激変してしまった。
代わりとしてこれからは距離的に二倍くらい離れたかなり規模の小さなスーパーに行かざるをえなくなった。歩くのが負担になってるところへのこの距離倍増は結構なストレスになる。さらに困ってるのはこのスーパーにテナントとして入っていたドラッグストアなんかも利用できなくなったために、洗剤なんか買うだけで電車に乗って二駅の、ここはGUなんかも入ってる大型っショッピングモールなんだけど、ここまで出かけなければならないことになったことだ。食べ物にしてもそうだ。パスコの国産小麦の食パンを利用してたのに、虫を入れても平気なポリシーの会社と分かって二度と買わないと決めてから、代わりに利用すると選んだ食パンのことごとくが電車に乗らないと行けない店にしか売ってない。歩く距離の負担に電車賃の負担がやたらと加算される。ドラッグストアで買うものや日常雑貨などはネットの通販を利用する手もあるしおそらくそういうのを使わないとやってられないと思うけど、いろいろと生活が煩雑になっていきそうだ。
歩く距離がどうしても増えてしまい、負担軽減のためにカートを買った。店に置いてあるカートを使うと足元のふらつきをそれなりにカバーしてくれる。ああいうのを日常の移動に使うとまともに歩けなくなってるストレスも幾分カバーされるかもしれない。
スーパーの最終日はほかの場所に行っていたので立ち寄ることができなかったんだけど、最後の店の様子が動画としてネットにアップされていて、地元の利用者が集まって、あいさつにならんだ従業員らと別れを惜しんでいた。

本を読みたい気分は旺盛なのに、気力がなえてしまってなかなか手が出ない。手が痺れてるせいで感覚が鈍くなって、読んでる最中の本を目の前で落としてしまったりすると、我ながらなんてことだとげんなりしてしまう。
気力がなえてしまってるくせにやたらと長大な本を読みたい気分は盛り上がって、手元にはそういう本を積み9上げてある。
ダレン・アロノフスキー監督の新作映画、ブレンダン・フレイザーが体重272キロで死に瀕している男を怪演してアカデミーの主演男優賞を取った「ザ・ホエール」

映画も面白そうなんだけど、この映画、遠くにテーマとしてハーマン・メルヴィルの「白鯨」が木霊してるらしく、映画との関連がどの程度のものかは分からないままにちょっと興味がわいて、白鯨のことを書いてあるものを読んでみた。すると分かったのはこれがどうも異様な小説らしいということだった。メインとなる捕鯨の物語は全体の二割くらいであとは薀蓄や過剰なペダントリーの複雑で奇怪な集合体で覆いつくされ、その様子には小栗の黒死館を引き合いに出しているものもあった。黒死館なんていう意外な名前を目にして、これでただの捕鯨の話だと思ってた白鯨のほうにも映画と同じくらい興味を惹かれて、読んでみたくなったというわけだ。メルカリで岩波文庫版の三冊組の状態のいいのをうまい具合に見つけ、おまけに黒死館のほうまで本棚から引っ張り出してきた。最初に読んだ桃源社版の小栗虫太郎全集のほうじゃなくて連載当時の松野一夫の挿絵も収録した文庫版のほうだ。白鯨が捕鯨の映画でもないものにどういう風に組み込まれてるかも興味がある。ちなみに小説にはコーヒー好きの一等航海士、スターバックという人物が登場するそうで、あの店のもとになったんだろうなぁというのは新発見だった。こんなところから取っていたんだ。

白鯨











独身者の言葉が沸き立つ、昏く蒼い一面のねじまきの海

袋小路
一連の文章を書き連ね、そこから何か所か削除して、全体を意味が通らないものにしてみる。

先日自宅で転倒、眉尻辺りを何かに強く打ち付けて切ってしまった。起き上がろうとして目の前の床を見れば血がぽたぽたと滴ってる。やってしまったという感が強く、さてどうしたものかと途方にくれたんだけど、トイレに駆け込む途中のトラブルだったのでとにかく用を足してしまおうと思った。出血は意外と早く止まって、これは一安心だったものの用を済ませてからどうすべきか見当もつかず、とりあえず出来事の次第を共有してもらおうと姉に電話。馴染みの整形外科に連絡してみようということになって電話してみるものの、これはこの電話で知ったんだけど整形は首から下が対象で頭は外科か脳外科に行ったほうがいいということだった。ということで転倒したのは昼ちょっと前だったから、潰瘍性大腸炎で通ってる病院の外科へ午後から行ってみることにした。
外科で診察してもらった結果、血がすぐに止まったことで推測されるように傷はそれほど大したこともなく、不思議な絆創膏を貼ってもらって治療は終了、頭を打っていたからCTを撮って、これは脳に異常もなく骨折もしていないという結果だった。たいしたことなくてよかった。ただ後で腫れて内出血、うった覚えのない目の周りが悪魔のメイクをしたみたいに赤黒くなってしまった。内出血は皮下を巡るようで赤黒くなった箇所は日によって場所をわずかに違えてるようだった。
使ったから切り刻んだあとだけど、もらった不思議な絆創膏はこれ。名前はデュオアクティブ ET とある。
絆創膏
バンドエイドの糊のついてる部分だけのような外観で、病院で貼ってもらったのには傷を覆う白いものがついていたのに、これには傷を覆うガーゼに当たるような部分が一つもない。貰ったはいいけどそのまま傷の上に貼ってもいいのか、というかそのまま貼る以外にやり方を思いつかない。とりあえず傷に直接貼ってみると、そのうち傷を覆うような白い何かの膜のようなものが自然に形成されていた。


映画音楽屈指の名曲。それにしてもリズ・オルトラーニはモンド映画になんでこんな美しい曲をつけたんだろう。もっとも「世界残酷物語」とセットになることで際立ち特徴づけられもして、曲としてはこの映画への提供は結果としては正解ではあったんだけど。

ちなみに映画のほうの「世界残酷物語」は映画配信サイトギャオのサービス終了の最後の日、3/31まで無料配信中。
https://gyao.yahoo.co.jp/title/63d323fc-7923-4c18-8630-4216ae1222dd
GYAOを初めて知ったのは、のちに「12モンキーズ」の元ネタとなった、クリス・マルケルのカルトSF映画「ラ・ジュテ」を見つけた時だった。表面的にラインナップされてるのは誰もが知ってる飽き飽きした名作映画か、一体どういうつもりで買い付けたのかさっぱりわからない劇場にかける価値もないC級映画がやたらと目につくだけで一見大したことないなと思わせるんだけど、深掘りしていくと大和屋竺の「毛の生えた拳銃」なんていう大昔大学の学生会館で上映されてるのを一度見たっきりのアングラ映画が転がり出てきたりして、偏り、なかなかカオスな場所で面白かった。終焉間際に「荒野の千鳥足」だとか「セックス発電」なんか出してくるから終わるまで目が離せない。













荒野と技法

提灯

柿の種にピーナツ無しという形で売っているものがある。本来柿の種っていうのはあのおかきの部分のことだから、正統派と云えば正統派と言えるし、あまり消化が良く無さそうなものはご法度の身としては意外と有難くて、こういう形になったものをたまに食べたりする。先日また買ってこようとスーパーに寄った折売り場の棚を何気なく見渡していると、柿の種ピーナツのみというのが目についた。何それ?袋の中はピーナツだけがぎっしりと詰まっていて、それ、ただのピーナツの袋詰めで、断じて柿の種じゃない。

それにしてもなんだろう、この楽しさ。言葉で書くと工芸品のような優雅な道具を使う楽しさなんていう言葉であらわせるんだろうけど、銀面で鏡面反射する外観、孔雀をあしらった洒落た装飾、角を曲面処理した柔らかい手触り、絶妙の手ごたえのある重さ、そういった感覚器官の末端で受け取るものが、予想を超えて複雑な回路を感覚との間に張り巡らしているような様相を見せ、言葉ですくいきれない情動を生み出していく。まずね、ベンジンを充填することからして楽しい。前日の終わり、燃料を使い果たして昼間の灼熱が次第に衰え失せていく様に、まるで息絶えていくような姿を重ね合わせ、次の日の再び復活させる時を待ち焦がれる。燃料で満たし反応を呼び起こすために小さな火種を近づけて、それはアグニをこの銀色の祭壇に降臨させるための儀式のようだ。そして息を吹き返したことを喜び、再び灼熱を宿した銀の孔雀を体の内に捧げ持つこととなる。
カイロ一式
一方反応を引き起こす火種を与えるために使ってるイムコのライター。ジッポよりも古いライターなんだけどアンティークっぽイメージがまるでなく、モダニズムを纏って、時代を超越したような先鋭性を持つデザインがかっこいい。でもこういう見た目はいいんだけど、見た目に反して実は使い勝手がどうもよくない。蓋がフリントホイールと直結してるために開閉が固い。蓋を開閉する快感がほとんどない。大体蓋を開けた瞬間に自動的に着火してしまうために、ふたの開閉だけで遊ぶことができない。さらに持って見ると分かるんだけど指が炎の間近にきてしまい、しかも炎周囲が簡単に熱くなってしまうので、気をつけないと火傷しかねない。使う手順のわりに道具としての楽しさに結びつかず、道具としてはあまり回路を張り巡らせてくれない。デザインがいいだけにそういうところがもったいない。あるいは指の火傷くらい覚悟のうえで使うものなのか。

杖を突いてよたよたふらふら歩いてると「大丈夫ですか」と、本当にいろんな人に声をかけられる。親切な人が多いと実感できてこの世界もまだ生きるに値する世界なのかもと思いなおしたりもする。
先日近所のスーパーで買い物をしていて、ふと足元を見るとスニーカーの紐がほどけていた。かがんで結びなおそうとするとまず間違いなくバランスを崩して前か後ろにひっくり返るだろう。スーパーの売り場の床に持っていた荷物をぶちまけて、床の上に這いつくばってる自分の姿が容易に想像できる。とてもじゃないけど今結びなおすことはできない。どこか休憩所で椅子に座って結びなおすのが一番の策だろうと、ほどけたまま歩いていた。すると見かねたのか客のおばさんが一人近寄ってきて、足悪そうなのに紐がほどけたままだと危ないから結んであげると云って、目の前にしゃがみこんで結んでくれた。結んでもらってる間中恐縮しっぱなしでお礼を云ったけど、正直こういうことをしてくれる人がいることに驚いていた。

Marc Ribot: Musical Improvisation in the Marlene Dumas Exhibition

ギターという楽器の可能性を探る。美術館という空間にこういう音響的な音楽は似合う。それにしても一人でこの音空間を制御してるのは凄い。
もう一曲。ビートルズの曲だけど、どういう弾き方をしても曲の強靭さで潰れない。三つの曲を繋ぎ合わせたものなのに。ビートルズの曲はみんなそんなところがあって、古びさえしない。


ツイッターで言論弾圧をしていたとして、新オーナーのイーロン・マスクによって解雇された元幹部に対する質疑。追及の容赦なさが凄い。曖昧な回答を一切許す気がない。




ジェフ・ベックもあの世に行ってしまうし、最近クリームのビデオ見てたんだけど、クラプトンも老けてしまったなぁ。


昔聴いてたアルバム。