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冬の日高くのびるもの、その掌に陽光を掴む / 加藤和彦 - ユエの流れ

陽光を掴む





枝道の終端で
2017 / 11 蹴上
Fuji Naturaclassica / Natura1600

要するにひたすら美しい写真を撮ろうと画策する今日この頃、もうこれだけあれば十分というか、コンセプチュアルにあれこれ仕込みをしても、結局のところこれを欠いてはいくら大層なコンセプトでも話にならないと、そんなことをよく考える。風光明媚とか手垢にまみれた美しさには興味はないけれど、そういうものとはまた別種の美しさを何の変哲もないもののあらゆる細部から見出してみたい。世界を秩序づけるものは美しくあることそれだけで十分と、穢れた世を見るくらいなら見えないほうがましと眼を潰してしまったオイディプス王の如き勢いでファインダーを覗き込んでみたいものだと思う。
去年の後半に久しぶりに蹴上のほうに行って、インクラインの南側、神明山山中のパワースポット日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)へ登っていく途上あたりで撮ったもの。一枚目は空間の質感、二枚目は壁面の表情とディテールの写真といったところか。二枚目のは山の上のほうへ伸びてる半ば私道のような雰囲気の枝道を誰一人通っていないのをいいことに上って行った行き止まりにあった建築物だった。何か道そのものが用もないのに入ってくるなと主張してそうで、こういう道は図らずも迷い込んでしまったという風を装っても、歩いていてドキドキものだ。そしてこういうのを撮ってるとわたしの場合シャッターを切ったとたんに家から住人が出てきたり、外出から帰ってきた住人に鉢合わせするからシャッター切ったらすぐに退散することにしてる。
この日は九条山の浄水場の廃墟を撮ろうと思って行ったものの、以前同様にフェンスに阻まれて大して近寄ることも出来なくて結局一枚も撮れずじまい。隣接するヴィラ九条山もどう見ても放置されたままとしか見えない廃墟振りを晒していたけれど、浄水場とあわせてこのあたり一帯の樹木の刈り込みに作業員と車が散見できて、時折の鳥の羽ばたく音くらいしか聴こえない、終末世界を連想させる人っ子一人いない静寂の空間が台無しだった。今回の写真を含めてこの時は視線に引っかかるようなものもなくほとんどシャッターが切れなかった。
日向大神宮からさらに山の奥へと入っていく道を辿ってみようかとも思ったものの、やってきたのが午後を結構すぎていたので、これも断念してしまった。もう一度行ってもいいけど、この辺りはちょっと見慣れすぎているせいか、山奥に入ってみる以外に行動範囲を広げられないような気がして二の足を踏んでる。

☆ ☆ ☆

甲斐よしひろのカバーばかりが引っかかってくる中で、ニコニコにフォークルバージョンを見つけたので再掲載してみる。以前に一度載せてるはずだけど間違いなくリンク切れしてると思う。
フォークルはこういう歌を発掘してくるのが上手くて一番有名なのはイムジン河だろう。わたしはイムジン河同様にこの曲が好きなんだけど、イムジン河のビッグネームに隠れてしまってるような感じなのがもったいないと思う。
ベトナムの恋歌のように見えながら、作曲は意外なことに日本人。須摩洋朔という人で戦時中は軍楽隊に、戦後はNHK交響楽団のトロンボーン奏者を勤めた人らしい。
ユエの流れはこの人と筒美恭平の合作だというこれまた意外な名前が現れてくる。
オリジナルを歌ったのはマリオ清藤という歌手。またカバーとしては元ちとせが歌ってるものもある。








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斑草

樹の変容1





ゲームセンターの赤い灯






樹の変容2






斑樹





赤い実の群

2017 / 07 太秦
2017 / 08 浜大津
2017 / 07 太秦
2017 / 01 花園
2014 / 12 藤森

Olympus Pen E-P5 / Fuji NaturaClassica
Fuji Natura1600 / Kodak SuperGold400

この前ムーミンのフィギュアを出した時、ムーミンの挿絵なんかに見られる北欧の暗い幻想的な雰囲気が好みなんて書いてから、書いたことで自分でも火がついてしまって、トーベ・ヤンソンの画集を探し回ってる。トーベ・ヤンソンはムーミンのお話を書いた童話作家でもあるんだけど画家でもあって、ガシャポンで主人公のフィギュアが出て残念というくらいにムーミンの話そのものはあまりはまらなかったのに、その幻想味あふれてなおかつ洒落たタッチは個人的には結構波長の合うところがあった。
こんな感じで最近は写真集よりも画集の類に刺激を受けることのほうが多い。展開されるイメージの多彩さはこのところずっと写真ばかり見ていた目にとっては異質の絢爛豪華さを伴って迫ってくる。こういう物に対して、写真のレンジが狭くみえる部分は被写体に拘束されるところがある写真の宿命なのかもしれないと思うんだけど、かといって写真が表現のほうに傾いていった場合は多彩というよりも、わたしには陳腐なものに見え始めることが多くて、表現から一歩身を引いたようなもののほうが写真としては逆に面白かったりする。絵画は表現と結びついて絢爛豪華な結果を生み出す直線的な経路がある反面、写真と表現は屈折した関係にあると、これはこういうことを考え始めるといつも痛感するところだ。

今回のは最後の以外は透過、反射するものの写真。写真を重層化できる方法だけど、ちょっと手垢にまみれてるやり方でもある。そういえば似たようなのを笠置の歩道橋で撮った記憶があるように、一枚何かの遮蔽的な幕の向こうに何かあるというイメージが結構好きなところがあって、こういうのを見かけたら結構な頻度でシャッターを切ってると思う。
幻想の方向へ持っていこうとしたものと幻想さえも捨てるつもりで撮ってるものとの組み合わせといったところかな。



樹の如きもの / ムーミンとシン・ゴジラ

樹の如きもの





孤立





斜光
2017 / 02 四条
2017 / 09 浜大津
2017 / 09 大津京
NaturaClassica
SuperGold400 Natura1600

長雨と台風の来襲ですっかり撮影モードから切り離されてしまって、この前ようやく晴れた日に久しぶりにカメラ持って出かけたら、何だか気分に物凄い場違い感が芽生えてた。夜行生物が真昼間に顔を出してしまったような気分。雨が降り続く間にいつのまにやらどんよりと淀んだような暗い幻想と仲良くなってしまい、そんな写真を撮ってみたいなぁと思い始めていたこともあって、真昼の明るい光がまるで魅力的に見えずに白茶けた気分しか呼び起こさなかった。
どこかに暗い荒涼とした幻想を導き出せるような場所はないものか。少なくとも琵琶湖じゃないことは確かだろうなぁ。

長雨の間、写真はまるで撮れなかったけど、本はよく読んでた。写真の本では湯沢薫の写真集「幻夢」だとかホンマタカシの「たのしい写真3」なんか、フィクションだとハーンの「怪談」とか、柳田國男の「遠野物語」、セリーヌの「夜の果ての旅」やギュイヨタ;の「五十万の兵士の墓」なんかが手元に今手に取れるように置いてある。今の嗜好にはこういうのも多少は影響してるんだろうと思う。

樹の如きもの、と云っても写真に写ってるのは樹だけどね。言葉の元ネタは坂口安吾だ。
樹を写して樹のごときものを写す。解釈不可能な何かを写すなんてことが出来るなら、写真を撮っていてこれほど楽しいことはないだろう。

☆ ☆ ☆

ムーミンゴジラ
最近久しぶりにガシャポン。お題はシン・ゴジラとムーミンだった。シン・ゴジラのほうは第二形態が欲しかったのに、二回やって出てこず、ムーミンはスナフキンかミーを狙って回してみたものの見ての通りムーミンそのものが出てきたに留まった。
この一番新しいシン・ゴジラのガシャポンの内容は全部で四種類。そのうちの一つが第二形態で他の三つは全部第四形態のゴジラだ。その三種類の第四形態は一つだけ尻尾の先が若干異なってるのが混じってる以外、全体的には塗装が違うだけの同一造形となってる。今回はこのなかで尻尾も同じタイプの塗装違いが2つ手元に出てきた。一応同じものが出てきたというわけではないものの、造形がまったく同じなので違うものを手にしたという実感がまるでない。この回のは一つだけまるで形の違う第二形態がやっぱり目玉なんだろうなと思う。ところでシン・ゴジラ、第○形態なんていうから、あの馴染みのゴジラがさらに異様なものへと変化していくんだと思ってたら、最終的に馴染みのゴジラへとなっていく過程でいくつか形の異なる姿を取ってるってことだったのね。これは映画を見た時に初めて知った。ラブカがデザインソースの第二形態がやっぱり異形ぶりを発揮していて一番好きだなぁ。
ムーミンは造形的にこれほど手抜き感に満ち溢れてるものはないって言うフィギュアだった。主役の癖にその見応えのない質感のせいで一番出て欲しくないと思わせるくらいはずれ感に満ち溢れてるなんていうのは本当に珍しい。ミーが欲しかったけど、またムーミンが出た時の落胆振りを想像すると、これで一回300円もするものだから、まずもう手を出さないかと思う。




カプセルから取り出して全種類コンプの形で纏めて売ってる。以前こういう方法で重複しないような形にセットしたものを、ガシャポンで運任せに手に入れるよりも高値設定にして売ってるショップがあったんだけど、大阪の日本橋にあった店も京都の寺町にあった店も閉店してしまった。面白みはないけど重複して無駄な出費をせずに確実に手に入れるにはこういう方法が一番だろうとは思う。


It's A Beautiful Summer Day / You're so cool! - True Romance

小寺医院への道





灰の中の線 大津港






輝く夏の光

2017 / 10 墨染
2017 / 09 浜大津
2017 / 09
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

今回はごたごたと面倒くさいことは書かない。単刀直入ストレートなタイトルで。でもごたごたと考えて撮ってるものも基本的にはこういうことをいつも心に置いてシャッターを切ろうとしてる。
それにしてもあれだけ不快な夏の暑さで今年は特にへばってたのに、もう簡単お手軽なカメラしか持って出る気になれすに、そんな軽くて負担にならないカメラでも凶悪な暑さに歩き回る気力を奪われて早々に退散していたのに、いざタイトルをつけるとしたら気分としてはこういうタイトルになるんだなぁ。
そういえば去年の夏の終わりにも「さらば夏の光」なんて感傷的なタイトルをつけてその年の夏に見た光景を記事にしてた。夏真っ盛りの不快さは思い出の中の夏となると一気にどこかに吹き飛んでしまうようで、夏のイメージはいつも甘美なものとして記憶に積もり続けるのかもしれない。

最初のはいつも通ってる医院へ行く道の途中の曲がり角。もう何時だって眺めてる場所なんだけどこの時はちょっと視線が引っかかったような気がして写真を撮ってみた。シャッターを切った直後に、しまった、来年終了のフィルムの一コマを無駄に使ったかと若干後悔したんだけど、現像が仕上がってみれば意外と見栄えがする結果となってる。視線が引っかかった何かがここには写しこまれてる。
二枚目のはツィッターに載せた写真。眺めてると何かこれも良いんじゃないかと思い初めてこっちにも載せてみることにした。「灰の中の線と形象」で載せなかったものの一枚だ。
最後のは琵琶湖疏水の入り口付近にあった船着場。まさしく晩夏の光の場所。

☆ ☆ ☆

それにしても雨が降り続く。合間に一,二日曇りの日があった程度で、もう一週間以上降ってるんじゃないかなぁ。写真撮らずに過ごす時間が積もり続けて、何を見てどんな風に感じて写真を撮っていたのか忘れそうになってる。日を置いてもスイッチが入るように撮影モードに入れる人もいるのかもしれないけど、わたしはどうもそのタイプじゃなくて、日頃絶え間なくシャッターを切っていないと道を見失いそうになるタイプのようだ。

☆ ☆ ☆

You're so cool! - True Romance

雰囲気は懐かしい輝きに満ちた夏の日。トニー・スコット監督の映画「トゥルー・ロマンス」で使われたハンス・ジマーの曲だ。タイトルバックに流れた後、コールガールのパトリシア・アークエットがクリスチャン・スレーターに、アパートの屋上で告白するシーンで再登場、一途で本当に可愛らしいヒロインの告白を盛り上げる。この辺り、まだ物語の序盤なのにシーンの良さと音楽の良さで何かもう早くも心掴まれて、感情を揺すぶられる。





来年の3月で製造終了となるフィルム。使うなら今のうちだ。まぁ売れ行き具合で終了になったんだと思うけど、終了とアナウンスされたとたんにこういうのは品薄になったりする。買占め状態なんてならないで欲しいなぁ。





誰そ彼

夕闇の琵琶湖汽船






夕闇の路面電車






夕闇の水面反射






夕闇の街灯

2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600

ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。


今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。

とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。

どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。