It's A Beautiful Summer Day / You're so cool! - True Romance

小寺医院への道





灰の中の線 大津港






輝く夏の光

2017 / 10 墨染
2017 / 09 浜大津
2017 / 09
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

今回はごたごたと面倒くさいことは書かない。単刀直入ストレートなタイトルで。でもごたごたと考えて撮ってるものも基本的にはこういうことをいつも心に置いてシャッターを切ろうとしてる。
それにしてもあれだけ不快な夏の暑さで今年は特にへばってたのに、もう簡単お手軽なカメラしか持って出る気になれすに、そんな軽くて負担にならないカメラでも凶悪な暑さに歩き回る気力を奪われて早々に退散していたのに、いざタイトルをつけるとしたら気分としてはこういうタイトルになるんだなぁ。
そういえば去年の夏の終わりにも「さらば夏の光」なんて感傷的なタイトルをつけてその年の夏に見た光景を記事にしてた。夏真っ盛りの不快さは思い出の中の夏となると一気にどこかに吹き飛んでしまうようで、夏のイメージはいつも甘美なものとして記憶に積もり続けるのかもしれない。

最初のはいつも通ってる医院へ行く道の途中の曲がり角。もう何時だって眺めてる場所なんだけどこの時はちょっと視線が引っかかったような気がして写真を撮ってみた。シャッターを切った直後に、しまった、来年終了のフィルムの一コマを無駄に使ったかと若干後悔したんだけど、現像が仕上がってみれば意外と見栄えがする結果となってる。視線が引っかかった何かがここには写しこまれてる。
二枚目のはツィッターに載せた写真。眺めてると何かこれも良いんじゃないかと思い初めてこっちにも載せてみることにした。「灰の中の線と形象」で載せなかったものの一枚だ。
最後のは琵琶湖疏水の入り口付近にあった船着場。まさしく晩夏の光の場所。

☆ ☆ ☆

それにしても雨が降り続く。合間に一,二日曇りの日があった程度で、もう一週間以上降ってるんじゃないかなぁ。写真撮らずに過ごす時間が積もり続けて、何を見てどんな風に感じて写真を撮っていたのか忘れそうになってる。日を置いてもスイッチが入るように撮影モードに入れる人もいるのかもしれないけど、わたしはどうもそのタイプじゃなくて、日頃絶え間なくシャッターを切っていないと道を見失いそうになるタイプのようだ。

☆ ☆ ☆

You're so cool! - True Romance

雰囲気は懐かしい輝きに満ちた夏の日。トニー・スコット監督の映画「トゥルー・ロマンス」で使われたハンス・ジマーの曲だ。タイトルバックに流れた後、コールガールのパトリシア・アークエットがクリスチャン・スレーターに、アパートの屋上で告白するシーンで再登場、一途で本当に可愛らしいヒロインの告白を盛り上げる。この辺り、まだ物語の序盤なのにシーンの良さと音楽の良さで何かもう早くも心掴まれて、感情を揺すぶられる。





来年の3月で製造終了となるフィルム。使うなら今のうちだ。まぁ売れ行き具合で終了になったんだと思うけど、終了とアナウンスされたとたんにこういうのは品薄になったりする。買占め状態なんてならないで欲しいなぁ。





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誰そ彼

夕闇の琵琶湖汽船






夕闇の路面電車






夕闇の水面反射






夕闇の街灯

2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600

ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。


今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。

とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。

どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。




灰の中の線と形象 / 映画「パンドラム」

線と形象1





線と形象2





線と形象3





線と形象4

2017 / 09
大津港
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600


浜大津から大津京まで歩いた日、ホテル裏の遊歩道から出られた港の岸壁から。ここまで歩いたのが切っ掛けで、この後、前の記事に書いたように二駅分サンダルで歩くことになった。地図によると、関係者立ち入り禁止の柵で囲まれた大津港マリーナという区画の北西方向にあって、琵琶湖浜大津港となってる。大きさでいうとなんだかこのマリーナの付け足しのような規模の港なんだけど、こんな名前がついてるところから見るとこっちが本来的な港なのかな。
曇り空のグレー一色の空間の中に線と形象が浮かび上がってる様子を撮ろうと思ってシャッターを切ったようなことを書いたけど、これがまぁその思惑を現像した結果だ。
なんというか、水墨画的なものに色目を使ってるような、あるいは日本画っぽい印象がどこかに漂ってるような、そういうところが自分としては面白い。日本画的というなら、背景をぼかして主題を際立たせるとかまるで関心もない、平面的であることへの志向というのかな、今回に限らず自分の写真にはいつもそういう要素があるように思ってるんだけど、こういうのは、絵画が持つ立体を平面に落とし込む特質を対象化するような事柄に興味があるからなんだろうと思う。
大体いつもよく書いてることで分かるように、写真が絵画的なモチーフでイメージを作ることは毛嫌いしていて、写真なら絵画の振りなんかせずに写真でしか出来ないことをやってみようよという立ち位置なのに、構造的には結構な絵画志向というようなものが自分の中にはある気がする。絵画への構造的な志向と云っても構図とか絵画的なイメージを組み立てるための方法論のようなものはある程度のところでどうでも良いと思ってるほうで、それはそういう方向じゃなく、こういう平面に対する志向みたいな形で出てきてるように思える。
それにしても、ナチュラ1600はやっぱり良い色に出てるなぁ。曇り空の中で眠くてあまり気を引く色彩でもなかったのに、フィルムに写しこんでみるとくすんだ淡い色の特質を思う存分発揮してるというかな。白い色の出方が繊細なニュアンス一杯で気に入ってる。

☆ ☆ ☆

久しぶりに映画のお話。
最近「パンドラム」という結構拾い物の映画を見た。ジャンルはSFスリラーっていうところ。
SFスリラーといえば今現在は「エイリアン・コヴェナント」辺りだろうけど、こっちのほうはエイリアンを見に来てる人は本当にこんな話が見たいのか?なんていぶかしく思うくらい宗教的で思わせぶりな内容に終始する駄作続きなのに反して、エイリアンの種はむしろこっちのほうに植え付けられたんじゃないかと思えるくらいの、まぁB級ではあるんだけど、とても面白く見られた映画だった。
6万人のコールドスリープ状態の移民を乗せて、はるか彼方の別惑星への宇宙の長い旅に出た蒔種船エリジウムのなかで、主人公がコールドスリープから目覚めるところから物語は始まる。ところが強制的に目覚めさせられたものの、なぜか宇宙船内は大半が電気が落ちていて真っ暗なまま、他の乗員はコールドスリープ中の上官一人を残して消えうせていた。主人公はコールドスリープの副作用で記憶の大半を失ってしまってる。やがて主人公同様に睡眠から無理やり目覚めさせられた上官とともに、この宇宙船のなかで一体何が起こったのか調べるために、上官の無線によるナビゲートを元に闇が淀む巨大な宇宙船内の探検を始めるといった内容。これだけでも面白そうでしょ。
特に前半の暗い船内をたった一人でケミカルライト一本を頼りに進んでいくところの恐怖感はエイリアンが本来与えてくれたはずの感覚そのものだったと思う。こっちも途中から化け物が出てきて、まぁこの最初の恐怖感はあまり感じなくなってくるんだけど、その代わりというか、眠っていた間に宇宙船で一体何が起こったのかという謎で後半は引っ張りまわされることとなる。結末はかなり意外なものが用意されていて、実は物語の途中にところどころで微妙に齟齬を感じる部分があり、それがこのラストへの伏線になっていたんだけど、おそらく初見でこういうのに気付く人はあまりいないんじゃないかと思う。
閉塞感たっぷりの宇宙船の中での暗闇の恐怖に、謎の化け物に襲われるサバイバルアクション、そして全編を覆う謎と思い切り意外な真相。こういうのを上手くさばいて目一杯エンタテインメントの形で綺麗に着地させた小気味良い映画だった。製作は駄目なほうのポール・アンダーソンだったんだけど、ちょっと見直してしまった。








日本公開時には残念ながらヒットしなかったそうだ。まぁこのタイトルじゃよほど興味を持った人しか見に行かなかったのも当然だと思う。




円と戯れ / Mort Garson - Ode to an African Violet

展望台1





丸窓





展望台へ途上





ゲートライト





展望台へ

2017 / 09
浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

浜大津の琵琶湖汽船の発着場。屋上の展望台へ上がる途中と、京阪浜大津駅近くの陸橋へ上り下りするエレベーターの乗り場から。琵琶湖汽船の展望台へ上っていくところは、目にして一瞬で気を惹かれ、これはシャッターを切らないとと思った場所だった。
円や球といった形に惹かれる。自然界に普通にありながら、誰かの意思が介在してるとしか思えない完璧な均整を保ってる、云うならばその中に容易く宇宙を内包しうる神秘の形態だ。
話は写真とはちょっと離れるけど、球体関節人形が好きなのも、この関節に埋め込まれてる球体の形がことのほか魅力的に見えるからで、球体関節人形はこの球体のおかげでその体の内側に完璧な宇宙を内包してると思ってる。この完璧な宇宙そのものの関節の球体に、大抵の球体関節人形にはゴムを通すためのスリットが開けてあって、実はこのスリットが見えるとわたしとしては人形のうちにあった関節の抽象性が一気に失われて、ただの関節を駆動させるための機構に過ぎないものにしか見えなくなってくる。このスリットだけで人形そのものが興ざめになってしまうわけだ。
ところが恋月姫の作る球体関節人形には、今はどうか知らないけど、わたしが興味を持って眺めていた頃のものには、この関節の球体にスリットが入っていなかった。これが結構な謎だったんだなぁ。あれでどうやって稼動する関節を実現させてるんだろうって。そしてこれは今も分からないままだ。一度2004年頃に京都三条のART ZOONで、「月の神殿」と題された恋月姫の人形の展覧会があって、その時にそれまで写真集でしか見たことがなかった人形の実物を見た。その展覧会では腕をつけてない状態でシーンを作っていた人形があったんだけど、それをを見ても結局この球体の秘密は解けなかったのが記憶に残ってる。
展覧会で見た人形は思いのほか小さく華奢で細部の細工が繊細きわまっていたのが印象的だった。秘密を知りたければ一体買えば良いというものだろうけど、作家性が極めて強く、美術品の如くオーナーに名前を連ねてしまうような代物なので、きっと高いだろうなぁ。
そしてもう一つ、窓を通してみる行為も好き。この場合丸い窓だからさらに魅力はアップしてる。窓を通して、ある区切られた領域として目の前に現れる空間は区切られ選ばれることでなにかその場にしかないような特別なものを纏い始める。窓を離れて眺めると、その特別な何かは夢から醒めたかのようにあっという間に霧散してしまって、目の前の空間はごくありきたりの日常としてそこに転がっているだけのものへと立ち返る。
似たようなものだと演劇の舞台、映画のスクリーン、そしてカメラのファインダーなんかが挙げられるかな。この三つは暗闇に縁取られてまた位相が異なった現れ方をするけど、基本は窓から眺める行為と通底してるように思う。窓に囲まれて目の前に現れるこの世界と明らかに切り離された何かがあるのを覗き見る。その覗き見る行為はどこか冷たく暗い欲望に裏打ちされてるような感情を伴ってる。ある種見る事のいかがわしさのようなものなのかもしれないけど、視覚が持つそういういかがわしさは、少なくともわたしにとっては魅力的に見えたりする。

☆ ☆ ☆

フジフィルムが出していたカメラ、ナチュラクラシカとそれ専用のフィルムのような印象だったナチュラ1600の組み合わせは結構お気に入りの雰囲気に絵を仕上げてくれる。最近この組み合わせにちょっとはまり気味で、撮り終えてはまたこのフィルムを買い足して連続で使い続けてる。
全体にざらついた粒子感も好きだし、若干スミが入ったような色合いも良い。でもこの色の感じ、家のスキャナーで読み取っても全然こんな感じに読み取ってくれない、もうこの色の感じを引き出すにはお店頼りになってしまって、このフィルムを使った時は店でデータCD化してもらうのが常となってしまった。
しかしこのところのお気に入りで気分よく使ってるのに、あろうことかフジフィルムはこの魅力的なナチュラ1600をどうやら来年で生産終了させるつもりらしい。これは本当にがっかり。これでカメラも含めてナチュラ関係のものは全滅することになる。こうなるとまだ売ってるうちに一杯使っておこうと思ってるけど、いつか復活すると良いなぁ。

☆ ☆ ☆

Mort Garson - Ode to an African Violet

シンセサイザー黎明期のサイケデリック・エレクトロ・ポップという感じか。植物と植物を愛する人のための、温かいアース・ミュージックという副題がついてるように、ヒーリング・ミュージックのような体裁をとっているものの、どこかモンド感の漂うサイケデリックな雰囲気がある。もとはマットレスのプロモーション用に作られたものらしいんだけど、そんな限定された用途を容易に超えていくものがあるように思えるなぁ。
1976年のアナログシンセのチープな音が曲想を盛り上げて、なんだか儚くおぼろげな美しい音空間を作ってるのが心地良い。




リンクを収得しようとして商品ページをみてみれば、あなたはこの商品を○○年に買いましたとあったので、自分のはアマゾンで買ったんだったと思い出した。それにしても今は無茶苦茶な値段の中古しか出品されてないなぁ。自分のはストラップが切れて一度地面に落としてるし、外側もちょっと塗装がはがれたり傷ついてきたりしてるから、もう一台予備に欲しいんだけど、またフジフィルムが新品で販売してくれないかな。







神様のデザイン

白い木の実が群れている
2016 / 02 / Fuji Natura Classica / Fuji Natura1600





綿毛
2015 / 07 / Nikon AF600 ( Nikon Mini ) / Kodak Super Gold 400





ライン
2015 / 10 / Nikon F3 / Fuji PRESTO 400を自家現像





街のポロック
2015 / 03 / Nikon F3 / Kodak Gold 200






というわけで、人が作ったものを撮ることに迷い倦み始めると、知らないうちに撮ってるようなものをいくつか。偶然が生み出してるような神様のデザイン。ただこうやって、あの木の曲線じゃなくてこの木のラインといった具合に差別化し、意図としてフレームで切り取ってる以上、画面は完全に偶然に支配されてるというわけでもなく、混沌と偶然のうちにあった神様は、撮ることでわたしの手の内から溶け出して逃れていく。

最初のは宇治川の河川敷、二枚目はどこだったかなぁ、あまり良く憶えてないけど近所を歩いてた時だったかも。次のは去年の後半、木津川で写真撮ってた時だから富野荘の辺りだったと思う。ぐちゃぐちゃに絡まった針金の影。
最初の写真で使ったフジのナチュラクラシカは去年の夏にストラップが切れて地面に落っことしてしまったカメラだけど、これだけ写ってたら落とした影響はほとんどなかったと考えてもいいのかな。ちゃちなファインダーで覗く喜びがまるでないのに、写った写真は好みの写り方になってる場合が多くてお気に入りのカメラだから、壊れてしまうとかなり困る。
空中に浮かぶかのように広がってた小さな白い実(?)を撮りたくて撮ったもの。実は手振れで木の枝は滲み白い実は流れて写ったものもあって、こっちのほうが面白かったんだけど、最近買った奥山由之の写真集の中で、似た感じのものを見つけてしまって、出せなくなってしまった。知らなかったら披露してるところだったんだけど、似たようなものがあると知ると、まぁ平気で出す人もいると思うけど、わたしの場合はちょっと躊躇いが出てしまったというところ。ここに載せたのは幾分端正すぎるところがある。
他人と似たような感覚に従ってるところがあるという点はやっぱり自分にとっては気分的に萎えてしまう感じがする。

三枚目の影の写真は、実際のところ影そのものを撮った写真だと、あぁ面白い影を見つけて撮ったわけねと簡単に了解されてしまって、イメージはそこで閉じてしまうようなところがある。いくら面白い形の被写体でも含みの少ない痩せた写真になりがちで、これもその典型的な撮り方になってるかもしれない。こういうものは、対象はシンプルでも撮る段になると結構工夫が必要なんじゃないかと思ってるんだけど、なかなかね、なかなか上手くいかない。
最近こういう光に纏わるものとしては、その形態のユニークさに引っ張られがちな落ちる影というよりも、影の中に差し込む光といったもののほうが興味を引いてる。
最後のは市井のジャクソン・ポロック。街の中には自覚のない芸術家が潜んでる。


☆ ☆ ☆


ストリートでの写真家の撮影スタイル動画をもう一つ。ウィノグランドの撮影スタイルはチャーミングで結構好き。
一瞬ファインダーを覗くか覗かないくらいのタイミングでシャッター切ってる。ちょっとどんな風に見えるかためしにファインダーでも覗いてみようかなという素振りの間に一瞬で撮ってしまうという感じなのかな。撮った後も撮った!って云う雰囲気じゃなく、ためしに覗いてみただけという雰囲気のままだから、撮られた人もあまり撮られたっていう気分にならないかも。
あといつも迷うんだけどシャッターチャージのタイミング。ウィノグランドのやり方は一枚撮った後すぐにフィルム巻上げ、チャージして、持ち歩いてる間のカメラはずっとチャージ状態のままのようだ。これがタイミングを逃さない一番のやり方だと思うし、シャッターにロックなんかの機構があるところからも、このタイミングが正解なように思うんだけど、何か機械的にずっとテンションがかかってそうで、気分としてはこういうのはどうも落ち着かない。

この動画はウィノグランドが亡くなる2年前のものだそうだ。ウィノグランドは56歳でこの世を去ってる。
かなり変わった写真家というか、撮ることに夢中にはなるけど、現像だとか焼付けだとか、撮った結果のものにはあまり関心がなかったらしく、死後に、本人も見てなかったらしいフィルムが約6500本発見されて、その写真の整理で回顧展を開催するまでに4年近くかかったという。