神様のデザイン

白い木の実が群れている
2016 / 02 / Fuji Natura Classica / Fuji Natura1600





綿毛
2015 / 07 / Nikon AF600 ( Nikon Mini ) / Kodak Super Gold 400





ライン
2015 / 10 / Nikon F3 / Fuji PRESTO 400を自家現像





街のポロック
2015 / 03 / Nikon F3 / Kodak Gold 200






というわけで、人が作ったものを撮ることに迷い倦み始めると、知らないうちに撮ってるようなものをいくつか。偶然が生み出してるような神様のデザイン。ただこうやって、あの木の曲線じゃなくてこの木のラインといった具合に差別化し、意図としてフレームで切り取ってる以上、画面は完全に偶然に支配されてるというわけでもなく、混沌と偶然のうちにあった神様は、撮ることでわたしの手の内から溶け出して逃れていく。

最初のは宇治川の河川敷、二枚目はどこだったかなぁ、あまり良く憶えてないけど近所を歩いてた時だったかも。次のは去年の後半、木津川で写真撮ってた時だから富野荘の辺りだったと思う。ぐちゃぐちゃに絡まった針金の影。
最初の写真で使ったフジのナチュラクラシカは去年の夏にストラップが切れて地面に落っことしてしまったカメラだけど、これだけ写ってたら落とした影響はほとんどなかったと考えてもいいのかな。ちゃちなファインダーで覗く喜びがまるでないのに、写った写真は好みの写り方になってる場合が多くてお気に入りのカメラだから、壊れてしまうとかなり困る。
空中に浮かぶかのように広がってた小さな白い実(?)を撮りたくて撮ったもの。実は手振れで木の枝は滲み白い実は流れて写ったものもあって、こっちのほうが面白かったんだけど、最近買った奥山由之の写真集の中で、似た感じのものを見つけてしまって、出せなくなってしまった。知らなかったら披露してるところだったんだけど、似たようなものがあると知ると、まぁ平気で出す人もいると思うけど、わたしの場合はちょっと躊躇いが出てしまったというところ。ここに載せたのは幾分端正すぎるところがある。
他人と似たような感覚に従ってるところがあるという点はやっぱり自分にとっては気分的に萎えてしまう感じがする。

三枚目の影の写真は、実際のところ影そのものを撮った写真だと、あぁ面白い影を見つけて撮ったわけねと簡単に了解されてしまって、イメージはそこで閉じてしまうようなところがある。いくら面白い形の被写体でも含みの少ない痩せた写真になりがちで、これもその典型的な撮り方になってるかもしれない。こういうものは、対象はシンプルでも撮る段になると結構工夫が必要なんじゃないかと思ってるんだけど、なかなかね、なかなか上手くいかない。
最近こういう光に纏わるものとしては、その形態のユニークさに引っ張られがちな落ちる影というよりも、影の中に差し込む光といったもののほうが興味を引いてる。
最後のは市井のジャクソン・ポロック。街の中には自覚のない芸術家が潜んでる。


☆ ☆ ☆


ストリートでの写真家の撮影スタイル動画をもう一つ。ウィノグランドの撮影スタイルはチャーミングで結構好き。
一瞬ファインダーを覗くか覗かないくらいのタイミングでシャッター切ってる。ちょっとどんな風に見えるかためしにファインダーでも覗いてみようかなという素振りの間に一瞬で撮ってしまうという感じなのかな。撮った後も撮った!って云う雰囲気じゃなく、ためしに覗いてみただけという雰囲気のままだから、撮られた人もあまり撮られたっていう気分にならないかも。
あといつも迷うんだけどシャッターチャージのタイミング。ウィノグランドのやり方は一枚撮った後すぐにフィルム巻上げ、チャージして、持ち歩いてる間のカメラはずっとチャージ状態のままのようだ。これがタイミングを逃さない一番のやり方だと思うし、シャッターにロックなんかの機構があるところからも、このタイミングが正解なように思うんだけど、何か機械的にずっとテンションがかかってそうで、気分としてはこういうのはどうも落ち着かない。

この動画はウィノグランドが亡くなる2年前のものだそうだ。ウィノグランドは56歳でこの世を去ってる。
かなり変わった写真家というか、撮ることに夢中にはなるけど、現像だとか焼付けだとか、撮った結果のものにはあまり関心がなかったらしく、死後に、本人も見てなかったらしいフィルムが約6500本発見されて、その写真の整理で回顧展を開催するまでに4年近くかかったという。





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回廊にて

回廊
2012 / 10 / Fuji Natura Classica





人工の花
2012 / 10 / Fuji Natura Classica





エスカレーター
2012 / 09 / Nikon F2 / Kodak Try-X





ガラスの中のマネキン
2012 / 10 / Fuji Natura Classica


先日中古で買った森山大道愛用のカメラであるクールピクスS9500、若干不具合が出てきたので返品、買い直しをするということになった。返品は出品業者とやり取りしないと出来ないのかなと、面倒だなぁと思いながらアマゾンの注文履歴の中にあった返品のボタンを押したら、ここが変なんだよ!というこちらの主張を書き記すことは要求するも、その真偽を確かめるでもなくそのまま返品手続きのページに進んで、あっという間に手続き完了となった。
品物の状態を見ずにこちらの主張を全面的に信用してかまわないのか?とちょっと吃驚したんだけど、まぁ面倒なことも無くすみそうなのでそのまま云われるとおりに荷造りをして、アマゾンの専用の集荷サービスがあるようなので、それを使って返送した。
必ず再現される不具合でもなかったから、受け取ってからどこがいかれてるんだと判断され、送り返されてくるかもしれないとも思ってたけど、返品を受け取ったという報告とともに返金の作業も完了したと、その確認の要請をするメールが入ってきて、流れ作業の如く返品の工程も完了することになった。
品物によってはアマゾンの返品を迅速に進めることができる条件で売ってるものがあるようで、中古で買うなら出品業者の何らかの保障の有無と、こういう返品の場合のスムーズな処理とかは安全策として考慮しておいたほうがいい。ちなみに最初どの中古を買おうかと選んでた時に、メーカーの保証書がついてると説明されてる中古も目についたけど、ユーザーのコメントに店名も購入日も記載されて無い保証書なんか使えないとあったから、これはあまり信用出来ないと思ったのもあった。
その後買い直すことにして、森山大道のカメラは数日だけど手元にあってどんなものかは感じとしては分かり、またカメラとして自分には何となく不備なところも分かって、買いなおすにしても同じものは芸が無いと、ちょっと金額を足してもう一世代後のものにすることにした。買わないという選択肢もあったけど、手元にカメラがやってくるという高揚感だけは残っていた。
冷静に考えてみると森山大道の雑誌特集の記事に刺激されて買ってしまうまでの展開は論理的に筋道たって展開してるんだけど、最終的に手にしたカメラは結局森山大道のものとは全く違うカメラとなったわけで、おまけに基本の部分では雑誌見るまでデジカメ増やす気なんてまるでなかったのを思いあわすと、目の前にあるクールピクスS9700を眺めて、まぁ自分で決めて選んで買ってはいるんだけど、なんでこんなものが今わたしの目の前にあると、妙な巡り会わせに思い至らないこともない。


☆ ☆ ☆


写真は2012年に撮ったもの。この頃は西梅田のガーデンシティに入り浸って撮ってたんだけど、その時撮った写真はなぜかこのブログにはほとんど載せてない。別にとんでもなく気に入らないものばかりだったというわけでもないんだけど、ひょっとしたらもうちょっとましな展開になるかもしれないと思ってるうちに、違う場所に気が移って、ここで撮った写真は自分では終わったもの扱いになっていたのかも知れない。
大阪に住んでると別に珍しい場所でもないのかもしれないけど、阪急やJRの駅のほんの近くにあっても、そちらのほうに行かなければそんな場所は存在しないも同然で、わたしが梅田辺りに出かけた時の行動範囲とは方向がずれていたために、この写真を撮った頃までこんな場所があるとは全然知らなかった。
自分にとって物珍しかっただけで、知ってる人には単純に綺麗に整えた散策も出来る商業地区程度のものかもしれないけど、この自分にとって物珍しいというのがやっぱり大きなポイントだったと思う。
自分が珍しいと思って撮ったものでも、自分が知らなかっただけで、一般的にはこれのどこが珍しい?という場合もあって、でもそんなことは全く気にしないことにしてる。

回廊とつけては見たけど、実際は回廊でもなんでもなかったりする。ただ柱が並んで長い廊下に幾何学的な影を落としてるようなイメージが好きで、これを撮った時にそういうイメージを重ね合わせていたというだけのこと。もうひとつ、辻邦生の小説のタイトルから拝借したところもある。辻邦生も亡くなってからは何だか話題にも上らない、読者以外には忘却の縁にいるような作家だけど、「夏の砦」とか「安土往還記」とか、小説を読む楽しみのようなものを濃厚に体験させてくれて面白かった。新潮文庫の白地に濃いグリーンでタイトルのみを記したデザインも好きだった。
二枚目のは商業地区の地下の入り口に飾ってあったもの。おそらく造花だと思う。もともと人工的なものだからどこか不自然なところがあったんだけど、いつものごとくわたしがこういうものを撮ると見るからに妖しげになるという見本みたい。別にわざとやってるわけでもないし、カメラはそこまでわたしの眼として肉化されてはいないはずなんだけど。
それにしても例えカメラが完全に肉化されたとしても、カメラが自分の眼のようになるというのは、一見究極的な形に見えるようだけど、それは本当に理想なのかなとも思う。むしろ他人の眼のようなかたちでもう一つの眼となるほうが、写真が個性のようなもので取り込まれない唯一の存在として面白がってるわたしには相応しいような気もする。
三枚目はこういうオブジェ的なものはもう少し端正に撮れないものかと思う。事物的には美しい形だと思うし、写真の中に写真的にこういう美しさを引き出すには、あまり思い入れとかは無いほうがいいような気がする。この写真に関しては若干ぶれてるので、端正に撮る以前にぶれないで撮ることを練習するのも必要だったりするんだけど。
最後のはまぁいつも撮ってるような反射だとかマネキンだとか、好きなものを集めたようなイメージかな。反射する映像は一枚ベールを被ってるようでどこか記憶の中で探り当てたような手触りがある。
この頃ここで撮った写真を眺めていて、興味を引かれてるのはあまり変わらない事物だったりもするんだけど、撮り方は、今はあまりこんな感じでは撮ってないなっていうのも多かった。そんなに云うほど昔でもないのに、それでもやっぱり変化はあり、流転していく。



夏の眼差 + Bill Frisell - Pretty Flowers Were Made For Blooming

真夏の高架下で
夏の高架下
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400


この夏撮った写真から。
タイトルからいくといかにも夏らしい写真が撮れたような気分だけど、実際はそうでもなかったです。今年の夏は暑さと悪天候であまりうろつきまわれずに使用したフィルムの数もあまり増えないままに終わってしまった感じ。おまけに二回もカメラ落としてしまってるし。
ちなみに今回の写真は落としたナチュラ・クラシカに入れていたフィルムから。
この前の記事を書いてからいかにも雨が降りそうな日だったけど大急ぎで残りを撮ってしまって現像に出してきました。数日前に現像に出しておいたブローニーが仕上がる日に持っていって、35mmのカラーネガは1時間ほどで現像してくれるから、仕上がったブローニーと一緒に持って帰ったのも予定通り。

仕上がったのを見てみると、落としてから以降に撮った写真も特に問題なく写っていて一安心でした。落とした直後にフィルムが幾分ずれたのか、どこから入った光か分からない光線引きと一緒になって、コマがずれて写った写真が一枚あったのが唯一のトラブルでした。でも一応今は普通に使えてるけど、使ってるうちに今回の落下の影響が現れてくる可能性もありそうで、でもまぁその時はその時でまた対応すればいいかと考えてます。
落としたもう一台のホルガはまたこの時の写真で記事を書いた時にでもレポートします。それにしてもカメラって頑丈なのか華奢なのかよく分からない機械だ。

このナチュラ・クラシカ、表面は一見革風なんだけど実はゴムで、わたしは左目が効き目だからファインダーを左目で覗いてるんだけど、その時鼻がカメラの裏側に当たって、鼻の脂なんかがついたするのを繰り返してるうちにその当たっていた部分が劣化してきてます。
それでそのままにしておいたら鼻の頭が黒く汚れそうなので、先日劣化したゴムの部分をエタノールで拭いてみたら、何と裏蓋の塗装部分まではがれてしまって、本体の黒いプラスチック部分が露出してしまいました。
嘘!これ塗装だったんだと思った時にははがれてしまった後でどうしようもなし。
傷だらけになるほど自分の道具の形になってきてるといえばそうも言えるんだけど、やってしまったという感じは拭えないだろうなぁ。
劣化したゴムの部分と塗装がはがれた部分には上から黒のビニールテープを貼って誤魔化してます。

☆ ☆ ☆

カメラは明らかに右目が効き目の人用に作られていて、左目が効き目だと使いにくいところがあるので、最近は右目でファインダーを覗く練習をしてたりします。ちょっと慣れてきてるんだけど、左目も開いた状態でファインダーを覗いてると、やっぱり左目から入ってくる情報が優先されて、ファインダー内の様子を見失うことも多いです。



夏空
夏の曲がり角
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400





夏の空
夏の堤防
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400





夏の屋形船
夏の屋形船
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400


全部伏見の桃山辺りで撮っていた写真。
暗い場所を潜り抜けるという行為が何かの通過儀礼のようなものを暗示させて、出会えば撮りたくなる高架下。
それと、ちょっとありきたりかなと思わないでもない夏空の写真が二枚。道路沿いのはここまで家が並んでいたのが途切れてえらく開放的な空間になってるところで、その一気に広がった空間を撮ろうと思ってシャッター切ってみたんだけど、あまり広がる感じは出てないように思います。曲がり角って言うのもポイントが高い。曲がり角とか向こうに何があるんだろうって思わせるところなんかが結構好きです。ちなみに広がった空間は宇治川の堤防でこの向こうに道路に沿って宇治川が流れてます。

最後のはまるで曇りや雨の日ばかりだった今年の夏の後半に撮ったもの。空がメリハリのない曇り空でこんな写真になったけど、空が青空だったら水面は蒼く染まって、空を行く船のような写真になったかもしれないのが残念といえば残念なところかな。

☆ ☆ ☆

Bill Frisell - Pretty Flowers Were Made For Blooming



ディレイを駆使して一人多重演奏をしてしまうような、とってもユニークなアメリカのギタリスト、ビル・フリゼールのアルバム「ブルース・ドリーム」に入ってる曲。このアルバムはジャケット写真がこれまた惚れ惚れするくらいにかっこいい。
演奏は現代的な感覚とノスタルジックなものが何の齟齬もなく同居してる、幻想的で冷たい夢のような感触の音空間といったところだけど、このいかしたジャケット写真の雰囲気は良く合ってます。
フリゼールは一時アメリカのルーツ・ミュージックに深入りしてたから、そういう要素がフレーズの端々に現れてるようです。これが結構心に染み入ってくるようで、フリゼールはアメリカのルーツ・ミュージックそのものとでもいえるシェナンドーなんかの演奏もしていて、それと通してるようなところが凄い好き。
それにしてもこの人の演奏スタイルは一応ジャズギターに入るんだろうけど、ジャンルに納まりきらないというか、ジャンルを横断してるという感じでもなく、まだ名前のついてないジャンルで一人演奏してるような感じがします。

二枚目の写真の、遠く広がっていく空と、どこかあってるような気がして取り上げてみました。








魔法を唱える機械箱。赤い実、他。 + WAGNER - Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod

赤い花
青い塀と赤い実
2015 /01 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Fuji Natura 1600


20日くらいに近畿も梅雨が明けたようで、湿り気のある日は大の苦手だからそれはよかったんだけど、梅雨明けしたのにまた雨勝ちの日が続いて気分的にはまだ冴えない感じ拭い去れない状態です。
梅雨の間、今年は結構雨が降った梅雨だったんじゃないかと思うけど、こんな憂鬱な雨の合間に写真を撮っていた状況もまた、未だにちょっと引きずってる冴えない気分の原因の一つになってるかもしれません。
梅雨の間写真取ることに関してやっていたことといえば、コダックの100年前のカメラの状態をテストしていたことと、何だか使いこなせない35mmと28mmのレンズを集中的に使ってみたこと。
使い慣れないレンズの集中使用は、判断はその場では下さないというものの、眺めても納得できない写真ばかりを生み出して、使いこなせるようになってうれしいどころか、写真撮る動機がどこかへ雲隠れしそうな按配になりかけていたし、コダックの100年前カメラは蛇腹の穴を塞ぐのに試行錯誤の連続で、穴は塞いだと思って試し撮りした2本目のフィルムが最初の試し撮りのものよりも酷い光漏れを起こしていて途方にくれたりして、これも何しろ100年前のものだから使い勝手の悪さも手伝って、試しに撮ってるだけだから何でもいいのに構える気にもなかなかなれずに、持ち出しても1枚撮って帰るかどうかなんていう使い方をしてました。
ちなみに蛇腹の穴を塞ぐのは、自分でやってみたところでは、木工用ボンドに墨汁とベビーパウダーを適量混ぜたものを塗るというのが一番効果的でした。これ、ネットで調べて見つけた方法の中では一番使えなさそうだったから最後にやってみた方法だったんだけど、蛇腹の伸縮にも剥がれたりせずに難なく追従して、一番しっかりと塞げたのはちょっと吃驚でした。ただベビーパウダーを混ぜる意味がよく分からない。つや消しにするためなのか、ひょっとしたら穴を覆う皮膜の強度を増すためだったのかな。

雨降りが多い梅雨だったから基本的に写真を撮りに出かけることも出来ない日が多く、さらに雨の合間をぬってこんな状態で写真撮ってたから、納得できない写真さえも大した枚数も撮れないで過ぎていきました。
梅雨が明けてから文句なしに晴れた日に、梅雨の間に詰めていたフィルムを使い切ってしまおうと、なじみの50mmレンズに戻して出かけたら、なんだか霧が晴れたような自由さというか、撮りやすさがあって、やっぱりあまり無理するものじゃないなぁと思いました。さてこれでまた以前の気分が戻ってくるといいんだけどな。


螺旋階段
人形と螺旋
2015 / 04 / Nikon FM3A +Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / Fuji PROVIA 100


最初のはまとまりもなく塊で垂れ下がっていた植物を撮ったもので、バックの波板はほとんど目に入ってませんでした。でも仕上がってみるとこんな誰も目に留めないような波板もそれなりに映える感じで写ってたので、自分で撮ったんだけど、へぇ!っと、ちょっと感心してしまった写真でした。
これがそうだと臆面もなく云ってしまう気はないけど、何だか特に作為的にならなくても、シャッターを切るだけ、フレームで切り取るだけで、たまに魔法がかかることがあるというか、写真は実はあれこれひねくり回さなくても、ただシャッターを切るだけで日常を変貌させる魔法を備えてると思うことがあります。ゴミ箱だって綺麗に撮ろうと意識的にならなくても、そういう魔法が発動すればフレームの中へ、見るに値するもののように写せると。
まぁたまにしかその魔法は発動しないし、だから魔法を唱える機械箱を構えていても、意図的に魔法をかけようと画策するのがほとんどだったりはするんだけど。

二枚目のはわたしの好きな神秘の形態、螺旋です。今までに螺旋の形態を撮ったのは何枚かここに乗せてるけど、その一環としての螺旋写真。この場所はステップに置いてある人形に近づいて撮ったのももう一枚別にあるんだけど、ちょっと引いて螺旋の周囲を取り囲む垂直線なんかも取り入れたほうが面白そうと思って、違う日にもう一度行って撮ってみた写真でした。

ガラスの向こうに見える世界っていう、隔離されて到達不可能な気配のある空間というのも結構好き。標本箱とかジョセフ・コーネルの「箱」なんかに見られる感覚に近いかな。箱に対する偏愛はわたしのブログのタイトルでも現れてるのかもしれません。汚れた窓というのも向こうの空間への隔絶感を増幅させてるようでいい感じです。
一応枯れてもいないサボテンが並んでたし、実際は誰かが住んでるんだろうけど、家としてはどう見ても廃墟という感じの場所でした。汚れ越しに見えていた植物もどことなく不気味な印象があって、これも好みのイメージ。


汚れた窓の植物群
汚れた窓の植物群
2015 / 03 / Olympus Mju2 +35mm f2.8 / Fuji Venus 800


☆ ☆ ☆


それで、螺旋といえばわたしにとってはこの曲以外にありえないという曲があって、螺旋写真を載せたからその一曲をピックアップ。

WAGNER - Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod (Furtwangler/Flagstad)


ワーグナーは楽劇そのものは見たことがないんだけど、その曲だけ独立して抜き出せる形になってる前奏曲の類は結構好きで聴いてました。コッポラの「地獄の黙示録」辺りから映画を通してワーグナーを知った人も多いと思うけど、わたしもその口だったかもしれない。
前奏曲の中ではこの「トリスタンとイゾルテ」と「ニュールンベルクのマイスタージンガー」が好き。あとはクナッパーツブッシュが指揮したブルックナーのCDに入っていた、ひょっとしたらおまけだったのかもしれないワーグナーの「ジークフリート牧歌」もよく聴いてました。
で、この「トリスタンとイゾルテ」なんだけど、最初に聴いた時の印象がこの「螺旋」だったんですよね。巨大な螺旋がうねりながら蠢いてる、音はゆっくりと螺旋を描きながら至高点へ向けて高みを上り詰めていくようなイメージ。繰り返す波のように寄せてくる旋律は官能的に美しいし、この無限に高みへと登っていくような感じが気持ちよくて、一撃で好きになった曲でした。それ以来この曲と螺旋はわたしのなかではセットになった形で収まってます。

安アパートの螺旋階段にワーグナーを聴くなんていうのもなかなかのもの。







わたしが聴いてたのは入門用の980円くらいで売ってたもの。確か指揮はショルティだったと思うけど、PVに合わせて、こっちのほうがかっこよさそうなのでフルトヴェングラーのリンクを貼っておこう。
まぁ、指揮者による演奏の違いとかそんなに聞き分けることが出来るほど聴き込んだリスナーでもないので、何でもいいといえばなんでもいいほうだけど、今までに聴いてきたもののなかで指揮者によってまるっきり雰囲気が違うとはっきり分かったCDがあって、それはEMIから出ていたオットー・クレンペラーの指揮によるマーラーの大地の歌でした。ものすごく荒々しい、ざらついたモノクロ写真というか、筆の動きも生々しい極端にコントラストがついた墨絵のような印象の演奏で、これが大地の歌を最初に聴いた演奏だったからこういう曲だと思い込んでたら、後になって確かバーンスタインだったと思う大地の歌を聴いてまるで荒々しくない印象に嘘!と思ったことがあります。
ちなみにクレンペラーのほうが飛びぬけて良かったです。







街の肖像画#8 美しい日々の欠片 + Piero Piccioni - Samba Della Ruota

花の垣根
2015 / 01 / NATURA1600





雨上がりの滑り台
2015 / 01 / NATURA1600





車窓
2015 / 01 / NATURA1600



雨の日の滑り台だけ近所で撮ったもので、それ以外は今年初めの頃に京都駅の南側辺りで撮った写真です。
京都駅を境に南側はもはや観光地のイメージはなく、観光地どころか場所によってはちょっとガラの悪いところに変貌したりもするんだけど、そういう場所も歩いてみると色々と目に付くものがあって面白いです。

こういう写真は狙ってるものも微妙な感覚でどうにも説明しにくいです。
以前ホンマタカシさんが対談だったか何かで云ってた言葉で、かっこよくないものをかっこよく撮るのがかっこいいというような意味合いのものがあったんだけど、めざす感覚としてはそういう感じのものに近いかも。
退屈で何の変哲もない現実を写真を撮ることで美しい日々の欠片といったものに変容させていくような行為とでも云うのかな。それが写真を撮るという行為のすべてではないにしても、わたしはこういうことは写真撮ってる時いつも頭のどこかにあるような気がします。

もっともそういうことを意図して撮ったからといって、その意図が完全に写真の形を取ってくれるかというと、必ずしもそうとは限らず、むしろ色々と画策しないで衝動に任せて撮ったほうが、無意識的なものが滲み出して面白い写真になることもあるのが、難しいところだったりします。


☆ ☆ ☆


Piero Piccioni - Samba Della Ruota


イタリアン・ラウンジの代表的作曲家ピッチオーニの手によるサンバ。63年のイタリア映画「イル・ブーム」に使われた曲です。ピッチオーニのサントラ経由のサンバだと、以前に載せたことがあるSamba Fortunaというのが好きなんだけど、ピッチオーニのサンバにはこういうのもあるということで。
ビッグバンドあり、オルガンあり、スキャットありのサンバ的要素満載の豪華な曲っていうところかな。



ちなみにわたしが大好きなSamba Fortunaはこういう曲。Samba Fortunaは以前にアップしたので、これは別編曲のBlue Suturaのほうなんだけど、編曲が違うだけで旋律は同じもの。どちらも捨てがたいです。
Samba Della Ruotaほどエネルギッシュではないけど、メロディアスで軽やかな高揚感があって良いです。








IL BOOM  イル・ブームIL BOOM イル・ブーム
(2010/09/08)
PIERO PICCIONI ピエロ・ピッチオーニ

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スプレンディド・ピッチオーニ ! N.2スプレンディド・ピッチオーニ ! N.2
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華やかさ一杯のピッチオーニのベスト盤なんだけど、既に廃盤みたいです。