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坂道の街

坂の向こうに
坂道の街
2014 / 11 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Ilford XP2 SUPER





坂道
坂道の街
2014 / 11 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Ilford XP2 SUPER





影絵
坂道の街
2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Ilford XP2 SUPER





坂道の街の野良猫
坂道の街の野良猫
2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Ilford XP2 SUPER


また路上にカメラを落としてしまった。今度落としたのはこの前のホルガのようにもともと壊れそうなところがほとんどない単純なカメラじゃなくて、電子制御の繊細なナチュラ・クラシカでした。ちなみに今回の写真の後半二枚を撮ったカメラでもあります。ハンドストラップをつけてたんだけど、ストラップが切れました。
立ち止まって鞄からカメラを出し、ストラップに手を通して下に下げて何かした拍子にいきなり落下。動き回って腕を振ってるような状態で切れたんじゃなかったので、カメラは膝辺りの高さからそのまま真下に向けてアスファルトの上に落ちたと言う感じ、急いで拾ってざっと点検してみたところ外観で破損してるところはなく、作動させてみた限りでは確認できるところは全部問題なく動きました。レンズを繰り出す前でカバーされたまま格納状態だったことと、勢いがつかない状態で比較的落下距離が短かったのが幸運だったのかな。ただシャッターがまともな速度で動いてるか、そもそもシャッターそのものが動いてるかと言ったことはフィルムが入ってる状態なので確認できずに、内部状態はフィルムの仕上がりで判断する他ないところがあります。
落下させた時に撮影済みだったのは15枚くらい。36枚撮りのを入れていたので半分ほどまだ未撮影の状態だったから、とにかくフィルムを全部撮って現像に出す必要がありそうなんだけど、このところ雨ばかり降ってるからこの残り半分のフィルムがなかなか消費できない。なんとか撮り進めて今現在残りあと6枚くらいになったから、週明けに現像に出していたブローニーが1本仕上がるので、その時までにこの残りを撮り終えて現像に出したいんだけど、どうも晴れる気配がないのでイラついてます。

それにしても立て続けに二回もカメラを落とすって、どういうことだ。でも落下続きでどちらもアスファルトの上に落とすなんていう落下条件としては最低の条件で落としてるのに、これは幸運としか言いようがないんだけどほとんど壊れた形跡がない。両方とも落としたのは観月橋の辺りを歩き回ってる時だったんだけど、壊すまではしないからここで撮影するなと言う、何かからの警告でも受けてるのだろうかなんて思ったりしてます。明治天皇の御陵の近くだからなんかありそうな気がする。
ストラップはよく鞄なんかに下げるマスコットとかに使われてるような金具から細いコードのわっかが出てるタイプで、以前からこれ大丈夫かなと思ってたものでした。今回のことでこのタイプはやっぱり使えないと確信。今はアクセサリーに使うつもりで買い置きしてあった小さなナスカンと金属リングで繋ぎなおして、これでまず切れてしまうことはないだろうと思ってます。
ナチュラ・クラシカはトイカメラは別にして、わたしが唯一新品で手に入れたカメラ。最近まで中古屋に行かなくても普通に買えたカメラだったので、フジフィルムのほうで修理もまだまだ受け付けてくれるから、フィルムの状態によっては修理が必要になるかもしれないけど、そういう点は選択肢があるから安心ではあります。


これで切れない?

上が切れたのと同タイプで、この形の繋ぎ手のものは使わないほうが良いです。このタイプの繋ぎ方で鞄につけていたマスコットとかほぼ全部切れてどこかで落としてるし。
下がナスカン使って繋いでみたもの。当然これが落とした当のナチュラ・クラシカになります。

☆ ☆ ☆

今回の写真は去年の秋に紅葉を撮りに泉涌寺の辺りを散策していた時に撮ったものです。
ここも背後に御陵を背負ってるから山の裾野に展開してる街という感じがあって、坂の上り下りが結構目立ちます。市内は盆地だから上下の高低差なんてほとんどなく、そういう地形を見慣れてると上下に展開してる空間というのはそれだけでも物珍しい感覚として視界の中へと入ってきます。一言で云うとスペクタクルな空間という感じかなぁ。下に降りるという感覚も同時にありはするけど登りつめていくという感覚はどこか聖性を帯びた場所に導いていくニュアンスもあって、結構好きな空間の形態になってます。
ルネ・ドーマルの「類推の山」の感覚。

☆ ☆ ☆

最初の二枚はレオタックスにライカのズミタールをつけて撮ってます。レオタックスは日本製のバルナック・ライカのコピー機。海外ではレアな機種としてコピーライカの中ではマニアックな人気があるということらしいです。操作はまるでバルナック・ライカと同じで、バルナック・ライカのマニュアルがあるなら、それをそのまま適用できるくらいそっくりです。
ズミタールはライカのレンズの中では一番人気がないレンズらしくて、そのせいでライカのレンズにしては安価で手に入ります。使った感じは随分と線の細い繊細な写り方をすると云うのが一番の印象でした。ホルガの4Bくらいの鉛筆で描いたようなボヤボヤの描写も好きだけど、こういう繊細な感じも結構好きです。ボケ方は典型的なグルグル回転ボケで、これが嫌いだという人が多そうです。ひょっとしたらズミタールの人気のなさはこの辺に起因してるのかもしれないけど、被写体を真ん中においてみると視線を真ん中へと導くような感じになって面白いです。





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壁伝う影 + William Basinski - d|p 1.2

壁

2014 / 10 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Fuji SPERIA PREMIUM 400





快挙ゲート

2014 / 10 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Fuji SPERIA PREMIUM 400





直進
駐車場
2014 / 06 / Minolta SRT101 / Kodak Gold 200


タイトルはワンダと巨像から。影と壁が要素になってるというだけで写真の意図に特に合ったタイトルでもないけど。
上の2枚は萬福寺の近くにある自衛隊の基地周辺で。自衛隊の基地に隣接して、というか自衛隊の一部なのか、廃墟じみた一角があって、そこで撮ったものです。撮った時は凄くかっこいいのが撮れたと思って現像が仕上がるのが楽しみだったのに、出来上がったのは最初の思惑ほどではなかったという写真でした。でも暫く放置しておいて結構時間が経ってから眺めなおしてみると、思ってるほど酷いこともないかなと、自分の中で居座る位置がレベルアップ。撮った時には自分でも気づかなかった無意識的なものに、何がきっかけだったかは自分でも分からないけど反応するようになったとか云う感じかも知れないです。
最後のは西九条の辺りで撮影。これも最初は要素が少なすぎると思ってた写真だったんだけど、何度か見直してるうちに、このくらいの何もなさ加減のほうがよかったように思えてきた写真でした。闇に沈み込む中に開いた四角い光の窓も何だかかっこいい。

無意識に任せて撮ってみる。判断はその場では下さない、といったところです。





☆ ☆ ☆


William Basinski - d|p 1.2


ミュージシャンであり作曲家でもあるミニマリスト、ウィリアム・バシンスキーによるミニマル・ミュージックの作品。
わたしの勝手なイメージだけど、初期フランク・ステラのようなミニマル・アートにも引っ張られて、ミニマル・ミュージックって言葉を見ると無機的であまり情緒的じゃない音楽を思い浮かべるところがあります。でもこの作品はそういう意識で聴き始めるとかなり新鮮な感覚を覚えることになると思います。短いフレーズがループしてる全体の平坦さはまさしくミニマル・ミュージックなんだけど、聴いた感じは殺伐としてるどころか、相反するようなメランコリーに満ちてる感じがします。アンビエントっぽい感じもあるから、情緒的な部分はそういうところによってるのかも。

ちょっと面白かったのが、バシンスキーは古い録音の音源を使って、オープンリールのテープデッキで繰り返しループさせるような曲作りをしている人だけど、ループさせるうちにテープの劣化などによって音源自体が痛んできて、その結果音の輪郭が曖昧になったりにじんで混ざり合ったりするようになっても、バシンスキーはそういうのを厭わないどころか積極的に活用するらしいということ。こういうバシンスキーの思考を知った時、この考え方はわたしが銀塩写真に対して考えてることと凄くよく似てると思いました。
フィルムとデジタルのどちらがいいなんていうテーマで論争なんかが起きてたら、フィルム派の人は大抵記録の物理的な堅牢性のようなものを、単なるデータの記号的な存在であるデジタルの脆弱性に比較して取り上げるんだけど、これ、わたしが思うには全く逆。
フィルムは時間の経過で劣化するし、むしろ劣化するのがデジタルにはないフィルムの面白いところなんだと思ってます。これはフィルムの弱点じゃなくて、要するにフィルムは撮った瞬間からの時間さえも取り込んで変化していけるということ。云うなら定着されたイメージも時間の中で生きているということで、これは撮った瞬間に凍りついたようなイメージから、意図的な加工によってしか変化することが出来ないデジタルにはない、あえて言うけど長所なんだと考えます。
フィルムに対してこんなことを思ってるから、バシンスキーの劣化する音も取り込んでいく作品の作り方には凄く共鳴するところがありました。

とにかく半端なことはやらないとでも覚悟を決めてるのか、これでもかと反復が続きます。気の長い人でないと最後まで聴けないんじゃないかという気配が、最初の数ループで既に頭をもたげ始める感じかな。数えたことはないけど、終曲までに一体何回ループしてるんだろう。
途中で2回ほとんどの音がストップするところがあって、延々といつ果てるともなく続いてきた音が消え去る少しの間は、その反復する終わりのない音空間に馴染んできていた耳には急に予想もしない場所に放り出されたような気分を呼び起こされるところもあって、妙にドキドキします。
この一瞬は意外とスリリング。













【写真】大川終着 +【音楽】夢見るようにロマンチック Why Shouldn't I - Eydie Gorme

大川始点01


☆ 本題に入る前に、不審な広告ポップアップ・ウィンドウが出る原因があし@クライアントにあるようなので、一時的にクライアントを外してます。
それと今回はコメント欄を開いてますので、何かあればそちらのほうを利用していただけると幸いです。


☆ ☆ ☆

ということでここからが今回の記事。

雨の日の写真を撮るために大川に行ってた頃の話を、途中で放置したままだったので最後まで纏めておきます。
以前源八橋から大川の上流に向けて記事にしようとした時に書きあぐねてると書いたんですけど、実際はこの辺りがどうしてこんなになってるのか事情がよく分からないといったほうが正直なところでした。とにかく源八橋を境にして大川の上流と下流の様子は戸惑うばかりに激変することになります。
どんな風に激変するかと云うと、源八橋の下流は桜の季節には桜並木が絢爛豪華に咲き誇ってお花見のメッカと化すところだし、帝国ホテルを中心とした、映画のセットのようではあるものの外国の街のような洒落た雰囲気の公園や遊歩道が憩いの空間を作ってるところだったけど、源八橋から上流はと言うと、桜並木こそ続いてはいても、道がないと不便だろうからここにも敷いといてやるわとでも言いたげなほどそっけないただの道が伸びるばかりの場所となります。左岸のほうはそれでもウォーキングする人とかが通っていたりするんだけど、右岸のほうは人影自体があまり見られなくなって、そのうち工事現場なんかに立ち入り禁止の目的で立ててある金網フェンスが並べてある場所に出てきて、その向こうに何が見えるかというとビニールなんかで覆うようにして建てられてる掘っ立て小屋のようなものの連なりが散見できるだけ。
つい先ほどまでホテルが提供する優雅な空間だったのに、橋を一本跨ぎ超えただけで、ここ本当に歩いていても大丈夫なのかというようなきな臭い雰囲気さえ纏う場所へと変貌していきます。
明らかにフェンスで道行く人が近づくのを拒否してるそういう小屋以外では、どこかの会社の資材置き場のような場所が並んでいたりするんですが、わたしが歩いていた時間帯ではそこで何か仕事をしてるような人を見かけたのは皆無で、まるで資材置き場の廃墟が並んでるような雰囲気。一応この辺りも公園になってるようだけど、廃墟的空間と掘っ立て小屋の雰囲気に飲み込まれ、実際にあまり管理もされてないような感じも相まって、たまに犬の散歩とかキャッチボールする人を見かける程度で、ただのだだっ広い空間が荒廃した雰囲気を伴って広がってるだけの場所といったものになっていました。



大川 始点 02



大川 始点 03




大川右岸 廃墟的01



ちょっと調べてみたら、この大川行の発端となった天満橋の近くにある大阪城公園の、そのまた中にある大阪陸軍造兵廠周辺には、戦争中空襲にあって残骸と化したまま戦後も大阪陸軍造兵廠に放置されていた鉄くずなどを奪って生活していた当時アパッチ族といわれた一群の人々がいて、このアパッチ族をテーマにして開高健や小松左京らが小説にしてるんだけど、この辺りに建ってる掘っ立て小屋の住人はそのアパッチ族の末裔だとか、そんな説明をしてるところに出くわしたりしました。本当の素性がどうなのかは分からないけど、この掘っ立て小屋の住人たちが源八橋の上流の一区画を不法占拠してるのはどうも間違いなさそうな雰囲気。わたしは社会派の立ち位置にいるわけじゃないので、本当のことが分からないままに、こういうことに何か云うということはまるで適任じゃないと思い出すと、なにを書こうかさっぱりと思いつかなくなってました。

右岸はこんな感じの夜になったら絶対に歩けないだろうと思わせるやばい雰囲気一杯の場所でした。では左岸のほうはどうだったかというと、こちらはこれほど歩いていても大丈夫なのかと思わすような道じゃなかったけど、単調で歩いて楽しくない道であることは共通していました。その上大川の始点手前にある児童公園の道路を挟んで隣にある巨大で威圧感のある建物が大阪拘置所だったりするんですね。京都にも拘置所はあるらしいけど、拘置所なんていうのを実際に見たのはこの大川の縁を歩いていた時が初めてのことでした。このなかで檻に入れられてる人が一杯いるんだと思うと、結構非日常的な感覚になってました。

桜ノ宮というのはわたしはそのときはまるで知らなかったんだけど、大阪でも有数のラブホテル街だったそうで、ラブホテルと帝国ホテルの高級イメージの空間と不法占拠の掘っ立て小屋と廃墟にしか見えない資材置き場と児童公園とセットになったかのような巨大な拘置所が、一つの場所に集まり混ぜ返されてるような、ここにあったのはまさしく混沌としか名づけようがない空間だったんじゃないかと思います。

☆ ☆ ☆

廃墟的な空間は嫌いじゃないけど、こういう荒廃の仕方はあまり見たことがなかったので、写真を撮るにしても結構戸惑ってしまって思うようには撮れなかったです。
映画的なイメージで言うと、マッドマックスに出てくるような近未来的な荒れた世界に、無理してこじつければ見えないこともないかな。やっぱりちょっと違うか。

きな臭くてやばい雰囲気一杯のわりに歩いてみると思いのほか単調で退屈な区域を抜け、この後大川が分岐した先の淀川河川敷へと足を運んでこの一連の撮影行は終わったんですけど、淀川河川敷の写真はまた今度ということで、このお話、もうちょっとだけ続きます。



Leotax F +Summitar f2 / 50mm



☆ ☆ ☆



Why Shouldn't I - Eydie Gorme


イーディ・ゴーメ、この人の歌は本当に好きなんだけど残念なことに暫く前に訃報が入ってきてました。前にも書いたけどパーフェクトといっても云い歌い方が出来る歌手。もうこんな歌い方ができる人ほとんどいないし、こういう歌声は二度とこの世界には現れないかもと思うとやっぱり好きな歌手だけあって喪失感はあります。
とにかく夢見るようにロマンチック。アルバム全体がこんなロマンチックで艶やかな声に満ち溢れていて、この曲だけじゃなくてレコードそのものが好きだったりします。
ブログ村のトラックバック・コミュニティの中にイーディ・ゴーメのものもあって、これも以前に書いた話でコミュニティを主宰してる人とわたしのメンバーはたった二人。しかも主催者はブログを辞めてしまったようで、今やわたし一人しかいないコミュニティになってます。
さて久しぶりにイーディ・ゴーメの曲を取り上げたから、わたし一人だけどトラックバック・コミュニティにも記しに行ってこようっと。





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(2008/12/17)
イーディー・ゴーメ

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