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知覚の地図Ⅺ 抜殻を拾う夢、饒舌な線路。

缶





壊れ傘





饒舌な線路

使ったのは富士フィルムのコンパクトカメラ、ティアラ。XA2同様のカプセルカメラなんだけど、こっちは同コンセプトに対する富士フィルムのデザイン的な回答といった感じで、向こうが石鹸箱ならこっちはアルミのお弁当箱と、様相を全く違えた結果を出してきているのがなんだか楽しい。そしてどちらも今見ても確実に新鮮、全然古びていない。
カプセルカメラ
とにかく気を許してしまうとストロボがやたらと自動的に光ってしまうのが少々鬱陶しいんだけど、今回はもう光ろうがどうしようがまったく気にしないでいちいちオフにしないまま一本撮っていた。
なんでも撮れる、躊躇いを追い越す速度を持ったカメラだというのは、前回もちょっと書いたことだ。被写体に意味など求めず、世界の色と形のすべてを収める勢いをもってシャッターを切りたいと思う情動を、こういうカメラは加速させていく。でもそうはいっても視界に入るものすべてを切り取っているわけじゃ当然なくて、視界に入ったにもかかわらずシャッターを切らなかったものも当たり前のように存在している。それは高々フィルム一本37枚なんて云う微々たる量では事の最初からまるで相手にされないほど、比較するのもばからしいくらい圧倒的に多かったりする。こうなると何を撮ったのかということよりも、何を撮らなかったのかというほうが関心を呼び起こす。フレームで切り取り、そこはそのフレームの外にある世界とは異なった特別の空間だと特権化することで図らずも意味は付加され、そのことで世界はわたしの目の前から流れ落ち、撮られなかった写真のうちに顕現していく。なぜ撮ったのかは判るんだ。ではなぜシャッターを切らなかったのか。すべてが対象と思いつつ、無意識的に、何を、なぜ撮らなかったのかというのは疑問自体が宙吊りにされて霧散していく。

有栖川 蚕ノ社 帷子ノ辻 鳴滝 と、これは何かというと嵐電、京福嵐山線に連なる駅の名前だったりして、この地霊蠢き満ち溢れるような名前の見事なこと、厨二病路線とでも云われそうな、もうそれぞれの駅がそれぞれの異界へと直行してるに違いない名前であって、嵐山まで電車に乗るだけで異界巡りでもできそうな勢いでもある。JRや京阪や地下鉄の駅にある「六地蔵」、わたしはこの六地蔵の近くにあるMOMOテラスという、ユニクロとGUと3CoinsとJinsが入ってるショッピングモールに行くので馴染みの駅なんだけど、この「六地蔵」という異界への穴が開いてるに違いない名前も、嵐電の華麗な地霊ラインナップには完全に負けてしまう。どうせ嵐山へ行くなら、四条大宮始発の駅から路面電車の風情を残して民家の合間を走り抜ける嵐電に乗って異界巡りしてみるのも一興かと思う。
と、柄にもなく思いついて京都の観光案内。他にも「天使突抜」だとか「悪王子」だとか「血洗町」だとか、単に事物との間の記号関係を逸脱しているような地名が結構あって、京都の地名マップはなかなか面白い。

レジ袋の無料配布の廃止、有料化の義務づけなんて云う愚劣な政策が始まってしばらくたったけど、売る側、利用する側、袋の製造にかかわってる側の困惑、不便、負担に見合うほどの効果といったものが本当にあるんだろうか。わたしの場合はこの袋、ゴミの小分けに使ってるから手元にないと単純に不便。レジで買うこともできるんだけど、今まで無料だったものを、無料で渡してくれていたレジでお金を払って買うのも癪に障るので、わざわざレジ以外の100均で売っているのを買ったり、廃止になる前にレジでもらったのをストックしておいたのを使ってる。こういうのは自分だけかと思ってたら、ほとんどの人がレジ袋を有効に使う術を知っていて、それを活用しにくくなってるようだった。みんな困ってるということだ。わたしみたいにお金を払って別のところから手に入れるようなことをしてるなら、消費されるレジ袋の総数は廃止になる前とはあまり変わらないんじゃないか。有料で売るという選択肢が堂々と提示されてるところからも、義務化自体にそもそもレジ袋を真剣に減らそうという意思はあまりなさそうにもみえる。
たとえ減らす気があったにしても、なによりもこの制度、有料にすれば使う人が減るんじゃないかとみなしているのが、所詮わたしたち生活者はけち臭い貧乏人と見下してるのが透けて見えるようで腹立たしい。代替案のエコバッグは邪魔になるし、使いようによっては不衛生。ちっとも便利じゃないのでできる限り使いたくない。そうなるとむしろ買ったものを持って帰ることの面倒さを考えて買い物を控える場合が増えていきそうな気もする。となるとレジ袋が減る勢いを超えて消費量が減るぞ。
食品はまだイメージ的に見慣れていきそうな感じはする。でも衣料品なんか、さすがにブランド物はそんなことはしてないとは思うけど、商品そのままで手渡されるのはかなり異様な感じがする。本当に誰が得してるんだ、こんな制度。
エコというイデオロギーに盲従して、そこから受ける生活者への影響なんかまるで歯牙にもかけていない、こういう態度は左翼独特のものだと思っていた。これを始めた自民党も極左に偏ったようなほかの政党に比べるとなんだか保守のように見えているというだけで、本質部分は生温い左翼政党なのかもしれないなんて思ったりもする。


ムーミン展フライヤー1
七月に入ってから大阪のあべのハルカスでムーミンの原画展が始まった。アニメのムーミンは熱心な視聴者でもなかった、というかほとんど関心がなかったんだけど、絵柄とか原画の雰囲気はすごい好きで、最近だと去年ユニクロで出たリトルミイの絵柄のTシャツなんかも買ったことがある。わたしは病気のせいで電車のような閉鎖空間に長時間閉じ込められるのが恐怖になってるから、とてもじゃないけど大阪まで行ける自信がない。でも展覧会の内容は知りたかったので、図録をネットで注文して手に入れることにした。
ムーミン展図録
ムーミンは本のほうは講談社文庫で出てるんだけど、これの限定版カバーバージョンっていうのがあって、このカバーのデザインが本当に洒落ていて良い。以前このカバー装丁のものを見かけた時、そのあまりのお洒落さに一目惚れして一冊買ったことがあった。そのうち全九冊揃えてやろうと思ったもののそのままになっていた。今回展覧会のことを知ってこの新装版カバーのことを思い出し調べてみたら、このカバーで出ているのは新装だっただけじゃなく期間限定でもあったらしくて、そう知るともうこれはいつまでも放置しておくわけにはいかずに、手に入るうちに全巻揃えてしまおうと、結局ボックス入りのセットがあるのを見つけて、これも買ってしまった。おまけにボックス入りのを読むのも傷みそうな気がして、実際に多少痛むのも気にしないで読む目的で、ボックスとは別にまた買いそろえたりしてる。我ながら無駄使いだと思ってる。
ムーミン限定カバー
ムーミン限定ボックス



Dancing On The Ceiling · Erroll Garner

エロール・ガーナーのこの演奏で初めて知って好きになった曲。同名の曲が他にもあって、検索するとやたらとライオネル・リッチーが出てきて邪魔をする曲でもあるんだけど、こっちは古いスタンダード曲だ。陽気な中にもどこか愁いをおびた部分があって、その愛らしいメランコリーの質感が自分の感覚にフィットする。でもガーナーのこの演奏以外でもこの曲を聴いたことはあるんだけど、これ以上にいいと思った演奏はない。この曲からこの陽気で愛らしいメランコリーっていうのを引き出しているのはエロール・ガーナーの才覚なんだろうなぁって思う。

Indivisibili · Alessandro Pinnelli,Fabrizio Cesare

どこかで聴いたことがあるでしょ。
一連の曲の中ではこれが一番好きで、一巡するのに大体2時間くらいかかるらしいから、毎回大体一回程度しか聴けない。それでも好きなものだから、周囲の喧騒をかき分けるように聴いているうちにいつしかメロディも覚えてしまって、でもメロディを覚えてしまうくらい聴いていても、これだけでは曲の正体にはたどり着けず、いったい誰のなんて云う曲なんだろうとずっと疑問だった。最近偶然のきっかけで正体はこれと分かったので、本気で霧が晴れたような気分。すっとした。場所がらイタリアもの、モダンなカンツォーネだろうというくらいは予想出来て、それはそれなりに当たっていたというところだけど、真相に迫れるのはそのくらいまでだった。
とまぁちょっとぼかした書き方をしてみたけど、もう一度、これどこかで聴いたことがあるでしょ。

ちなみにYoutubeのもとのページに行くと、コメント欄で答えを書いてる人がいる。




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覗く眼 / 飛び出し坊やの開き

闇から覗くおかめ





飛び出し坊やの開き





ポン

2015 / 05 山科
Fuji Tiara / Nikon F3
Kodak Tri-X / Fuji C200

2015年に山科の疏水沿いの桜並木を撮りに行ってた頃、疎水を離れて街中で撮っていたものから。
ちなみに云っておくとお面は自分で置いた物じゃないよ。何故か山科の街中のあちこちにこういうおかめのお面が神出鬼没といった感じで飾られていた。通りすがりにとってはまったくの意味不明で、頭の上に「?」マークが何本か生えたままになってた。何かのお祭りか行事の関連物かと思うけど、置き方の場違い感と、そのくせあまりにもさりげない日常性で際立つことに終始して、詳細は分からないままだ。とまぁこんなことを云っても通りすがりだけが抱く疑問に過ぎないのであって、山科に住んでる人だったら素性もわかって面白くもなんともないものかもしれない。それにしてもこのお面、一体なんだったんだろう。
最近はこういう露骨に変わったものとかはあまり撮らなくなった。その異質性に頼りすぎてるような気がして、このところは変なものを見てもまず一呼吸。ちょっと冷静になってからもっとさりげない感じで撮ろうとするのがほとんどだと思う。あまりに絵に描いたように変なものとかは、異様さに当たり前感が漂ってしまって、逆にそういうものだと異界の扉は開きにくいような気がしてる。


ポン!





宇治 抹茶ソフトを食べながら寂れた街の大冒険。 + 海洋堂のガシャポン珍獣動物園を集めてみた。

横断歩道と廃屋
廃屋
2015 / 06 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak Tri-Xの自家現像





街中のさりげない廃屋
廃屋
2015 / 06 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak Tri-Xの自家現像





廃車
廃車
2015 / 06 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak Tri-Xの自家現像



JRの宇治駅から宇治橋辺りまでの市街地を探検して撮っていた写真から。
寂れたものとか放置されて誰も見向きもしなくなったものとか好んで撮ってるのもあるけど、それにしても寂れた街角というか、あとちょっと押せばゴーストタウンへとまっしぐらに転げ落ちていきそうな風情の街の印象。実際にほとんど人も通ってなかったし。
JRの駅から北東の方向へ宇治橋の辺りまで進んでいく間にみる街の様子は商店街があってもあまり活気がない様子で、裏通りに入ったら大抵こんな感じの場所になってます。
とまぁ初見であったかのような書き方だけど、実はわたしが通っていた整形外科は宇治橋の近くにあったので、電車乗って一定期間定期的にに訪れたりして、この雰囲気は結構周知のものでもありました。

宇治というと何だか観光地っぽいイメージがあるものの、確かに宇治橋の傍らには平等院があったり、橋を渡って山手のほうに行くと宇治上神社とかあったりはするけど、ピンポイントで観光スポットになってる場所が離れ小島のように点在するだけで、そのピンポイントを離れると、古びて風情があるわけでもない茫洋とした住宅地が広がるばかり、宇治と言う街そのものはまるで自らを観光地として活性化させようなんて思いもしてないような様子です。あるいは平等院とお茶だけでいろんなことが成り立ってしまったからそれ以上のことをやる気が失せてしまったとか。その平等院もそこへ至る参道には観光地的な店舗が並んでるけど、長くもない参道の両側はほぼ全部の店がお茶を扱う店で、こんなの一軒あったら全部事足りると、バリエーションの欠乏感は底なしの気配だったりします。決して東山のようになってとは言わないけど、もうちょっと散策する人のことも考えて欲しい。
一方、宇治橋をはさんで平等院とは反対側のエリアは宇治川に沿ってユニチカの工場地帯が広がっていて、わたしにとっては工場地帯のほうが写真撮るところが多そうなのでちょっと歓迎したいところもあるんだけど、もはや平等院見物の延長で足を踏み入れるところではなくなってます。

宇治橋の辺りに来たらタイトルに書いた如く抹茶ソフトを買ったりするんだけど、抹茶ソフトは夏になると本当にいたるところで売ってます。ある種宇治の名物扱い。


☆ ☆ ☆

今年の春頃から35mmや28mmのレンズを使って、どうも納得がいくように使えない、どう使っていいのかよく分からないと試行錯誤を始めた期間に撮ったもの。試行錯誤の途中経過報告のようなもので今回のは28mmを使って撮った写真です。場所的にはユニチカの東隣辺りの住宅地区域。ユニチカって名前は知ってるんだけど、何してる会社?寂れたほとんど廃墟のような浄水場を見つけたんだけど、水関係の会社でもなさそうだし。

ちょっと引き目で撮ろうと思っていたのもこういう広角よりのレンズを使ってみようと思った動機の一つでした。まぁ、望遠でもうんと離れれば広く写るし、広角でも近づけば近接の撮影ができるんだけど、かたいことは云わない。
広い範囲を写せるとなるといろんなものが画面に入り込んできて、実は混沌としたものは嫌いじゃないんだけど、何を拠り所にしようかと決めかねる場合が多いって云う感じです。混沌が好きなはずなのに、混沌そのものを前面に押し出すほどの思い切りの良さもなく、雑然といろんなものが入り込んだ、何が写したいのかもう一つよく分からないって云うように見える写真の割合が、試行錯誤を始めてから結構多くなってきました。
広角こそ近接で撮影するべきレンズと言う考え方もあるようなんだけど、直線が歪んだりするのがどうも馴染めなくて、あまり撮りたい絵の種類でもなかったりします。

複数の被写体がフレームの中に入ってくるから、被写体単体の写真と言うよりも、よりその場の空間を掬い取るような視点にシフトした撮り方になると思うし、最初に書いたちょっと引いて撮ってみようと思ったのもそういう空間をフレームに収めてみたかったからと云うのもありました。
わたしが思ってる空間はオブジェが入っていて配置されてる容器のような静的なものじゃなくて、オブジェの関係性においてそこで生成されてくるような空間。よく言う空気感といったものもあるだろうし、解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いが作りだす空間もそういうものの範疇に入ってくると思うと、結構カバーする範囲は広そうな観念ではあると思います。
云うのは簡単なそういう空間をフレーム内に生成したいと、思いついては一人ワークショップのように広く写るレンズのカメラを持ち出してるんだけど、結果はなかなかついてきてはくれない今日この頃ではあります。




陸橋
陸橋
2015 / 06 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak Tri-Xの自家現像



☆ ☆ ☆


最近久しぶりにガシャポンをやっていて、目当ては海洋堂カプセルQミュージアムの珍獣動物園全5種の中に入っていたハシビロコウでした。
一回300円とちょっと高い。3回くらいダブったらその時点で止めるという感じでハンドルを回して、数日で結局カピバラが一体ダブっただけで全5種出揃う結果となって、あらゆるくじは外れしか引いたことがない者としてはかなり運がよかったんじゃないかと思います。でも目当てのハシビロコウは結局一番最後に出ることになったから、本気で運がよかったら最初に出てくると思うので、そこまでは運がよかったわけでもなかったと言う感じかな。
これ海洋堂なんですよね。で、かなり期待したんだけどハシビロコウの造形はいま一つって所かなぁ。チャームポイントの後頭部の羽毛とか、あまり入魂の造形にも見えないし。

ガシャポン

ハシビロコウがこのセットの中では一番の売りだと思って、でも全部集まってみるとひょっとしたらハダカデバネズミのほうが一番の売りだったような気配もあるかな。稼動部分のギミックがあったのもハシビロコウとこのハダカデバネズミだけだったし、造形はこっちのほうが気合はいってそうです。と言ってもこれが一番の売りで数も少ししか入ってなかったとしても、あまり欲しくはならないと思うけど。






【写真】木馬と紙の兵隊 +【音楽】Tears For Fears - Everybody Wants To Rule The World

木馬1


伏見稲荷大社のお話の真っ最中ではありますが、話し始めると鳥居と狐と裏参道の猫の写真が暫く続きそうで、選ぶほうも似たようなのを眺めてるとどれを載せようか判断しにくくなったりするから、鳥居と狐と裏参道の猫写真の合間に毛色の違う写真も時折挟み込んでいきます。

ということで、狐と猫の写真の合間に馬の写真。
これ、五条河原町を少し上がったところにある、多国籍風でどうも外人相手の宿泊施設のような感じではあるものの、中は薄暗くてよく分からない建物、雰囲気は喫茶店か雑貨屋のようなところもあるんだけど、たとえそういう店であっても薄暗すぎてお客さんは入らないだろうなぁと思わせる、そんな他人を拒絶してるような妙な店構えの得体の知れない建物のショー・ウィンドウに飾られていたものです。
実はこれを撮る形になっていったのには経緯があって、普段ほとんど通ったことのない五条河原町のあたりを、去年の夏の終わり頃に大徳寺の周辺で写真を撮った帰り、市バスに乗って通り過ぎようとした時、河原町通りに面して等身大くらいの明らかにダンボールかなんかに描いた稚拙なイギリスの儀仗兵の立て看板が視界に入ったのがきっかけでした。
かなり目立つ看板で得体の知れなさでも周囲から浮き上がりまくっていて、あれは何だと思ってバスの窓から首を巡らせながら確かめようとしたんだけど、バスはわたしの意向なんか無視してひたすら通り過ぎようとするだけ。その時は謎の儀仗兵の安っぽい立て看板がある奇妙な一角という印象を与えたまま、わたしの視界から流れ去っていきました。

この紙人形は妙に印象に残っていて、すぐにではなかったけど、五条あたりは東山のほうへ向けて夏頃から写真を撮って歩いていたから、ある時これを思い出し、東山とは反対の方向へと足を伸ばしてみることにしました。五条河原町辺りって四条河原町で繁華街が途切れて以降の地域だから特に行く目的もないところでした。
場所は記憶に残ってるというほど複雑なところでもないから、あっという間に見つかりバスの車窓から眺めたダンボール儀仗兵と間近で対面することに。
その時に撮ったのがこの写真。


ダンボールの兵士


写真は撮ってみたものの、市バスから眺めた時のやけに目立つ存在感もほとんど感じられないような写真にしかならなかったので、特に気に入ることもなく、結局ブログにも載せなかったんだけど、眺めてるうちに、ダンボール兵士の後ろになにやら馬のようなものが写っているのに気がつきました。
これ撮った時、ダンボール兵士にしか注意がいってなかったし、薄暗がりの窓の向こうからなんだかこちらの挙動を見張られてるような気もしたので、その場ではこの背後のウィンドウに気がつきませんでした。
この写真を眺めて紙人形よりもうしろの馬らしきものがどうにも気になって、さらに暫くしてからまたここに写真を撮りに来ることになります。

まずは一度昼間に再訪して、この馬らしくみえたもの、実際は木馬だったんだけど、その木馬を撮ってみたものの、河原町通りを行きかう車が反射で写り込んで、窓ガラスの反射とか好きなほうなのに、この時撮った写真は木馬の様子が上手く撮れなかったのが気に入らない写真となりました。

最初に載せたのはその後3回目にこの場所に行った時に撮った写真です。何回か前の記事でフィルムカメラでも条件を整えたら意外と夜でも手持ちで凌げると書いた、あの延長上で夕方から夜にかけて五条界隈を写真撮って歩いていた時に、そういえばあのウィンドウ、中を照らす照明や電球も飾ってあったようなことを思い出して、照明がついてるなら手持ちで夜がどうのこうのというまでもなく楽勝だと思って、またここまで写真撮りに行ってみたわけです。

やってきてみると、その日だけの事情だったのかなんだかよく分からないけれど、照明装置はついてるもののすべて消灯状態の真っ暗闇。照明のランプも木馬を引き立てるためのただの飾りだったのか、さすがにここまで明かりがないと普通に撮影するには限度を越えてました。
でもせっかくきたんだから、一眼レフのほうはストロボなんて持ってなかったけど、サブで持ってきていたコンパクトカメラにはストロボが内蔵されていたので、とにかく何か撮って帰ろうと、ストロボを使って撮ってみた写真がこんな仕上がり具合になりました。
思った以上にかっこいい。

☆ ☆ ☆

ストロボを使うと自然の光とか柔らかいニュアンスといった写真とはまるで傾向の違う仕上がりになるから、使うこと自体が敬遠されそうなところがあります。わたしもほとんど積極的には使わないほうだし(大体一眼レフ用のストロボそのものを持ってない)、スイッチを入れるたびにストロボがオートになってしまうコンパクトカメラの設定を、撮影しようとするたびに発光禁止にしたりするんですけど、ストロボ写真はたまにフラットで人工的でクールでロケン・ローな写真になることがあるので、ぴかぴか鬱陶しいしほとんど使わないけど実は徹底的に嫌ってるというわけでもなかったりします。上手く使いこなせたら面白いだろうなぁと思うほうかな。ストロボ・フォトって云う語感も未来的でかっこいい。

プロの写真家って意外とストロボ使って、自然に見せるための工夫もそれほど必要ないといわんばかりの状態で、普通に撮ってる人も多いし、暗すぎて撮れないという場合は、撮るのをやめるというよりもストロボを使ってとにかく撮っておくというのが良いような気がします。


木馬2

こっちは木馬の足元のほうを写した写真なんだけど、要素はこっちのほうがバラエティに富んでるものの、ストロボの光芒が入ってるほうがやっぱりかっこいいかな。


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使ったカメラはフジのティアラ。

ティアラ初代

梅田の駅前第二ビルにある委託品の店で、安価で入手したもの。
写真家植田正治が晩年、印籠カメラとニックネームをつけて愛用していたカメラです。
広角28mmレンズのカメラで普段50mm辺りの標準レンズを使ってるとちょっともてあますところがあるんだけど、さすがに植田正治、氏がこのカメラで撮った写真は「印籠カメラ寫眞帖」という写真集に纏められていて、この写真集を見ると、広角のカメラを苦もなく自在に使いこなしてる様子がよく分かります。28mmレンズはこう使うって云うののいいお手本になりそうな感じ。
氏の鳥取砂丘を舞台にした演出写真は実のところそれほど好きでもないけど、このコンパクトカメラ片手の、実際には隅まで計算されてはいるんだけど、一見そうは見させないタッチで撮られた写真は思いのほか面白く見られました。
鳥取にある記念館にはこのティアラが電池を抜いた状態で展示されてるそうです。わたしの手元にある全く同じカメラは委託品の棚に並べてあった時から自由に触り放題なのに、記念館のティアラはガラスの向こうで触れない状態で展示してあるというのも、全く同じカメラなのになんだか妙な感じというか。
以前京都文化博物館でロボットの歴史のようなテーマで展覧会があった時、現代のロボットとしてソニーのアイボが展示されてました。展示物につき触れないようにという但し書きがついていたと思うけど、家電ショップに行けば簡単に触れるものが恭しく展示されて、妙な感じと思ったのと似てます。


☆ ☆ ☆

Tears For Fears - Everybody Wants To Rule The World


きわめて個人的な理由というか、最近までメロディの一節だけが頭にあって、どういう曲なのかタイトルも何もかも分からないという、そういう曲だったのが最近ある映画をみていてエンドクレジットで連想が働き、ひょっとしてこのグループの曲なのかと調べてみたら、見事に的中。長い間頭の片隅を占めていた謎の一節の正体が分かって、一気に霧が晴れたような気分になった曲です。
音楽は言葉と違って、メロディだけが頭にあるという状態では調べようがなく、再びその曲と何らかの形で出会うまではまず正体を知ることは出来ないと思われるので、もうこの曲が何なのか知らないままでいるほかにないのかと思ってました。
で、もっと古い曲、バッドフィンガーとか、その辺りのグループの曲だと思ってたのが、意外と新しい、といっても古いかもしれないけど、バッドフィンガー辺りの時代から見ると相当新しい時代の曲だったのがかなり意外でした。
探すとするとこの昔の時代だったので、見つからなかったはずです。
わたしは音楽を聴く時にある分野の曲を気に入ってしまうと暫くその分野の曲ばかり聴いてるという聴き方をすることが多く、その間は他の分野の曲をほとんど身を入れて聴いてないという状態になりがち。おそらくこの曲を耳にしたときも他の分野の音楽に夢中になってるときで、特徴のあるフレーズのみが記憶に残ったということだったんじゃないかと思います。

聴いてみると頭に残っていた特長的なフレーズ以外、特徴のない曲だったのが、ちょっと残念。頭に残っていた部分だけで十分だったということなのか。
PVはガソリンスタンドの前でダンスするシーンがのんびりした雰囲気で好き。

頭にフレーズというのではもっと極端なのがもう一曲あって、これは口ずさめるほどのメロディラインさえも頭に残ってなく、一度だけ聴いた時にいい旋律だったという印象が残っただけの曲。細野晴臣が出ていた音楽番組で紹介され、当時のアイドルに提供した曲というのは分かってるんだけど、この曲結構好きと思った時点で曲目の紹介とアイドルの紹介はすでにすんでしまっていて、結局そのアイドルもその後見ることもなく印象に残らなかったから誰かも分からずに、好きな旋律だったという印象だけが今でも残ってる曲。
もう一度聴いてみたいんだけど、細野晴臣全仕事なんていうのに手を出すほどでもなくて、だとするならこれの正体はよほどの幸運にめぐり合えないと分からないだろうなぁと思ってます。



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