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木霊2

木霊
2015 / 12 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像





人形たちの夜
2012 / 09 / LOMO SMENA 8M / Kodak GOLD 100




不穏な眼差
2014 / 09 / Goidenhalf / Fuji Venus800



今回のは最近じゃなくてちょっと前に撮ったものとかなり前に撮ったものの混ぜ合わせ。
今月に入ってからはPC周りのトラブルで気が滅入っていたり、あまり天気も良くなかったりでいつもほど撮影しに出かけてない。えらいものでわたしがやってる程度の撮影でも暫く間が開くと、気持ちをそちらのほうに向けたりするのに思いのほか手間がかかる。どういう判断でこの空間が特別だと感じてフレームで切り取っていたのかといった半ば無意識的なスイッチの入り方や、ここで撮らないでどうするといった手応えが今ひとつ掴みきれないような状態になっていたりする。
結果としてファインダーを覗いても特別に何かが見えてくる気配もなくてシャッターを切るまでには行かないなんていうことが多くなってくる。
こういう時に良くやってしまうのが、今まで撮った時の感覚をもう一度再生産するような感じで使ってしまうこと。こういう風に撮った時に結構かっこいい絵になったという経験を引っ張り出してきてもう一度適用させようとする。でも自分の模倣みたいなのは何の役にも立たないし、やるべきでもない。
それは分かってるんだけど。

☆ ☆ ☆

一枚目はマネキンのポーズが何だか絶妙な感じがする。半ば放置気味、あるいは夜の活動時間の遥か前で今だ眠りの真っ最中のマネキンのようだったけど、マネキンでも人前に出てポーズを作ってないと、人前には出さない、気を許した表情を纏ってるようで、何だかプライベートな空間を覗き見してるような気分になった。もう一つ、これ、顔が見えないのがいい。
基本的に人形は好き。人の形を模倣するって云うのは特に妖しげに作られた人形でなくても、ジェニーやペコちゃんでも呪術的だし、やっぱり形としては独特なものだと思う。人の形を抽出したものじゃなく、人を撮ったとしてもわたしはおそらくそんな感覚で見てることになるだろうから、人の生き様とかまるで関係を持てずに、やっぱりポートレート写真は撮れない感覚の持ち主なのかもしれない。
ハーフサイズのトイカメラを使った三枚目は街中で見かけた「眼」を撮ってみようと言う趣向でカメラを向けていたものの一枚。でも街中で「眼」なんてほとんど見ない。ポスターの中の人物の眼とか、そんなのばかりで思ってるほど面白そうな展開は今のところしてくれそうな手ごたえもない。
壁に描かれた眼をひとつ京阪の宇治線に乗ってる時に車窓から見つけたんだけど、工場の専用駐車場に面した民家の裏側の壁といった近づけない場所だったから撮れないでいる。富岡多恵子が「写真の時代」の中で言ってるような、すべてのものが写真を撮られるために存在してるわけではないというのを見事に実践してるようだ。

真ん中に挟んだ、これも人形の写真は今はもう無いある店の窓に飾られていたもの。風変わりな人形が気を引いてシンプルに撮ってみた。ここに何かあるとすれば写真にではなく窓の中のものに属する。
何ヶ月か前に撮ったものと比べてみると、他の写真は時間が経過した分、それなりに工夫を盛り込もうと、あるいは幾分ひねくれて撮ってるのが分かったりする。

☆ ☆ ☆

PCの修理は無事終了。大体1時間くらいだった。修理依頼の電話をかけてから、我がPCはまるで故障などどこの話だと云わんばかりに、それなりに気前良くスイッチが入るへそ曲がり振りを発揮していたのが、ここにきて空気を読んだのか、修理の人の前ではものの見事にうんともすんとも云わない状態になっていて、これは本当に有り難かった。大体PCの現状を把握するために修理の前にテストされるのは分かってたから、ここでまともに動いてると、顧客なのに何だか言い訳じみた説明をしなければならないかもと、妙なストレスがかかってた。
Dellから送られてきていた部品の箱は結構大きくて、どうも基盤、電源ボックスなど、電源が入らない場合に必要とされる可能性があるもの一式入ってたようだけど、一旦スイッチが入ったらその後は普通に使えるので、トラブルは基盤にまでは及んでないと判断され、電源スイッチの交換だけで完了となった。
後でメールで送られてきた修理の内容を詳しくレポートしたものによると、修理中にスイッチを交換してテストした後もう一度もとのスイッチを繋いでみて動かないことの再確認とかやって問題が電源スイッチにあると切り分けをしていたようだった。へそ曲がりのスイッチだったけど最後はよくぞこのテストの間までまるで応答なしの状態でいてくれたものだと思った。
このPC、2chの専用スレとか見てみるとわたしの場合と似たような電源スイッチの不具合が結構あるようで、繊細さを指先にこめて押し込む必要があるかもしれない。

やっぱり目の前で修理してもらえるサービスはいい。来た修理の人も人当たりのいい人だったし、修理はスイッチの交換だけだったんだけど、PC内部とモニタを含む机周りの掃除までしてくれた。
あとは送られてきたものの修理で使われなかった部品を送り返す手順が残ってるけど、修理の人が梱包してくれた箱をこれまた修理の人が手配した運送業者が我が家にやってきた時に手渡すだけ。特にこちらが何かをするという必要もない。

PC関連で期限間近なのでやっておかなければならないことは、セキュリティソフトのライセンスの更新とデルのサポートの延長契約が残ってる。
セキュリティのほうはデルに最初からついていたライセンス期限のあるマカフィーのものを止めて、NTT西日本が回線使用者に提供してる、回線使用料に込みになったもの、どうやらトレンドマイクロの提供するもののようだけど、更新にお金がかかる今のマカフィーからそれへ変更するつもり。トレンドマイクロのはネットで調べてみると評判は最悪だった。でも回線料金に含まれてるので使わないのはあまりにももったいない。
セキュリティソフトの入れ替えはシステム深くに組み込まれてるからあまり気楽な感じがせず、あと一ヵ月半くらいで期限が切れるのに手を出す気になかなかならない。ウィンドウズ98くらいの頃は、使ってたのはノートンだったけど、削除し切れなかったファイルがあるとかメッセージが出て、PCの中にゴミが残ったりした。今のはこんな中途半端なこともなく綺麗さっぱり削除できるのかなぁ。

と、これを書いた数日後にセキュリティソフトの入れ替えを決行。
結果は何も問題も無く簡単に入れ替えることができて一安心というところ。これで少なくともNTT西日本の回線を使ってる限りは、あるいはトレンドマイクロのがとんでもない代物でもない限り、セキュリティソフトのライセンスについてはもう考える必要が無くなった。マカフィーは削除する手順の最初で、使ってもらえない理由をどうか聞かせてくださいと、ちょっと泣き落としのようなメッセージが出てきて、悪いかなと躊躇いを誘うようなところもあった。
でも使わない理由は教えてあげない。


橋の情景

東山陸橋01
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像





九条陸橋03
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像





九条陸橋周辺
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像


今回のはあまり奇をてらわずに撮ったもの。横位置で撮るというだけで客観っぽい要素も顔を出してくるようだ。
見たこともないような視点で撮ってみたいという欲求はいつもあるにしても、奇抜で目を引くっていうのは考えてみれば結構当たり前。もちろんそういうのも面白くて撮る時はいつも頭の中で策略を練ってたりするんだけど、ごく普通に撮って、なおかつそれが際立った印象になってるとすれば、それもまたかっこいいんじゃないかと思う。服装でいうなら流行で尖がったファッションとありきたりのアイテムを上手く着こなしたファッションっていう感じになるかな。ここに載せてるような微妙で微細な何かへと潜行していくような感覚は続けているとやっぱり疲弊してくるし、広い視野に身を置きたいと思うこともある。
でも、特異なイメージになるようにテクニックを駆使して撮るのよりも、普通に撮ってどこか印象に残るような写真を撮るってある意味本当に難しい。写真の持つクリシェに捉われることなく行うのはさらに難しい。
わたしの好きな写真家はでもこういうところは軽々とクリアしてる。アレック・ソスのようにレンズ付きフィルムで撮っても、際立つ写真が撮れてる。その秘密はどこにあるんだろうか。
敬愛する写真家清野賀子さんの白鳥の歌となった写真集の、パウル・ツェランの詩文から取られたタイトル「至るところで 心を集めよ 立っていよ」という言葉が、静かにわたしの心の中へと降りていく。
鍵はこの辺りにあるのかもしれないと思う。
でもあらゆる場所と時間において、心のすべてを集めて、立ち尽くしていることは、思うに孤独であり、云うほどには簡単じゃない。

☆ ☆ ☆

久しぶりにどこで撮ったかも書いておこう。観光案内にはならないと思うけど。
この橋、鴨川にかかってる橋の中では結構好きな橋になる。九条陸橋というあまり風情もない名前の橋で東福寺の近くにかかってる。もとは市電が通っていた橋で、市電が廃止された後、今は車が行きかうだけの橋となってる。名前が陸橋となってるのは鴨川の上だけじゃなく、たとえば東の端は日赤の手前辺りから始まるように、陸の上にもかかっているからなんだと思う。
古風な印象の橋でもなく、市電が通るための目的で作られた無骨な橋にすぎない癖に、どこかちょっとモダンな印象がある橋だ。鴨川にかかる橋としては結構巨大な部類に入り、巨大な分視覚的なダイナミズムもそれなりにある。
JRの鴨川橋梁の上を走る電車から、この橋が見える。JRが鴨川の上を通る時、視界が急に開けるのが視覚的な変化として楽しいんだけど、そのいきなり開けた川の空間の向こう側に見えるこの橋は、結構存在感を主張して視界に入ってくると思う。

☆ ☆ ☆

最近、使ってた安物の時計の電池が切れて、ヨドバシカメラの時計売り場の修理コーナーで電池を入れ替えてもらった。シチズンだったか、Q&Qという名前の雑貨屋時計で、1600円ほどで買ったものに電池の入れ替えで1000円払って、これ、あと600円程度で新しい時計が買えるなら、600円上乗せして買い換えたほうが傷だらけになった安物時計を使い続けるよりも良かったかなと思った。
で、何だか新しい時計も欲しくなって物色してたら、カシオからも似たような安物時計が出ていて、どうやらチープカシオなんて呼ばれてるものらしいけど、そのなかに、金時計を発見。
実は夏頃に若い女の子が、でかくて豪華な金時計にこれまたでかいピンクの玉の、おそらくローズクオーツだと思うブレスレットを組み合わせていて、ラフな服装に合わせた、成金趣味に陥らないその金時計のあしらい方が妙にかっこよく見えて、金時計が欲しいなぁと思っていた。
どうせ高いに決まってると思ってたから、欲しいと思いながら探しもしなかったら、あまりでかくも豪華でもないけど、チープカシオの中に2000円程度で買えるものがあって、思わず買ってしまった。

金時計
ベルトの調節に持ち出しただけで、一度も使ってないから、盤面の保護シールもまだそのままだ。こういうのを剥がす時に結構決断力がいるタイプというか、ある種気合が必要となる。これはまぁ目立つから使う前に剥がすけど、目立たないものだったら出来ればつけたままでいたいと思うほうかも。
最初はアマゾンで見つけて、その後ヨドバシでも発見、値段はヨドバシが200円ほど高価でも、ポイントが200円分ついてその分は帳消し、おまけにヨドバシで買った時計はバンドの調節が無料となると、これはもうアマゾンで買う選択肢は無くなってしまった。



この何年もファッション的なものに手を出してなかったけど、今年の年末はちょっとこういうところに刺激を受けてしまって、身の回りの、飽き飽きしながらも別にそれでもいいわと使い続けてるものを新調したくなってきてる。
金時計の次はチチカカでみたエスニックのリュックが欲しいなぁ。工夫すればカメラも入れられそうな感じだった。バッグに関してはカメラが入るって云うのがまず一番の選択条件になってしまってるから、ろくな選択肢がない。
カメラバッグとして売られてるものはものの見事にダサいし、カメラが入ればそれでいいんだろうと言わんばかりの作り方で、さて財布をどこに入れようかなんていう段階で、既に大いに考え込んでしまうくらい、本当に使い勝手が悪い。だからといってダサくないように工夫したカメラバッグはその魂胆が逆に眼についてしまって、そのままダサいカメラバッグと同じくらいダサかったりする。
わたしの場合は雨が降ってきたときなんかにしまいこむだけの意味合いしかなくて、持ち運びはバッグに入れて移動なんかせずに、襷がけにしたり手に持って歩き回ってる。つまり雨が降らない限りはバッグの中のカメラが入る予定のスペースはいつも何も入ってない状態で持ち歩いてるという、極めて効率の悪い使い方しか出来ない。
だから本格的なカメラバッグじゃなくても、保護用のインナーケースを入れた程度の普通のバッグなりリュックで十分なのかも知れないといつも思ってる。リュックは入れたものが全部底面に集まっていくからインナーケースが一番下に来る形は使いにくいだろうなぁと思うんだけど、どちらにしろカメラバッグは使いにくいものだし、エスニックのデザインが気に入ってしまって、やっぱりあのチチカカのリュックが欲しいなぁ。これ、絶対にそのうちに買ってしまってると思う。





もっと豪華なのがいいんだけど。これちょっと大人しすぎるかも。
一度金色の時計をつけてみたかったので、つけた感じがどんなものか確かめるには最適の時計だった。



Things to Come + 写真に関する書物「The Body: Photographs of the Human Form」

来るべき世界
Things to Come
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





鳩

2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





航路
航路
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像



いろいろとタイトル考えるのに疲れてきたなぁ。拘泥しすぎるとタイトルが思い浮かばなかったらブログに載せられないような気分にさえなってくるから、これはまいる。逆にタイトルが思い浮かぶと、どの写真を組み合わせようか色々と思考が働き始めることもあるんだけど、思いつく思いつかない以前に、そもそも写真に説明する言葉なんか不要という態度が一番最初にあるんじゃなかったのか。
思い浮かばないし、不要だというのなら、いっそのこと全く別の存在として、必ずしも内容に沿うものでもない、はぐらかすためのタイトルでもつけてみるのも面白い。オブジェの間や写真の間だけじゃなく写真とタイトルの間でも、解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いを画策するべく、マルドロールの歌でも朗詠してみようか。

写真のほうは最初のなんかは大昔のSF映画にでも出てきそうな空間という感じかな。SF映画といえば、もうすぐ新作がお目見えするスターウォーズなんかも好きだけど、大昔のモノクロ、レトロフューチャーなSF映画の、手作りによる視覚効果が一杯詰まったようなのも大好き。フリッツ・ラングの「メトロポリス」の都市光景なんか、見るたびにため息もので食い入るように見てしまうんだけど、多層の道路の上をラッシュアワーの列を成して流れていく、本来はそんな小さな車の個別の動きなんか目に留めない、小さなミニチュアの車の一つ一つの動きに注目してみたりすると、これがフィルムの向こう側でコマ撮り撮影などこまごまと操作してる人がいたんだと想像できたりしてなかなか楽しい。こういうのはCGでやってしまうと、リアルには見えるもののそう見えるのが当たり前感満載となって、まるで面白くなくなってしまう。

色々と撮った写真をモニタに流して眺めてると、しかしそれにしてもいつも似たような撮り方をしてるなぁと我ながらに思う。自分が周りの世界を見ることについて写真を撮ってみるというような撮り方をしてるから、それは周囲の世界に対する自分の見方が形を成しつつあるからだと思うなら、目的には近づいてるのかもしれないけど、でも写真を撮ることで、これは逆にいささか硬直してきてないか?
第三の外在する眼であるカメラを通すことによって、二つの肉眼ではなかなか見ることが出来なかったものを察知する、写真を撮るということは視覚の可能性を広げるといったようなことでもあるはずなんだけど、逆にカメラで撮ることが視線を縛りつけようとしてる。
写真を撮るには良い季節になってるんだけど、惑うことも多い。


☆ ☆ ☆


この前書いたのを読んでカメラうさぎって何だ?となるのは必至だと思い、写真を撮ってみた。カメラうさぎってこういうカメラだ。

カメラうさぎ

なかなかキュートなカメラでしょ。
ついでに仲間入りさせておいたのが写ルンです1600。
ちなみにレンズ付フィルムで撮ったアレック・ソスの写真集は「Bogotá Funsaver」というもの。このFunsaverというのがコダックの出してるレンズ付きフィルムの商品名で、要するにソスが家族とともにコロンビアのBogotáへ行った時 コダックの使い捨てカメラFunsaverを使って撮った写真集って言うことになる。積極的にレンズ付きフィルムを選択したというより、行く場所のせいで普通のカメラを持っていくことを制限されたのかな。
フジのレンズ付きフィルムは高くても1000円以内で買えるのに、アマゾンで見てみるとこのFunsaverって云うカメラ、ちょっととんでもない値段で売られてる。ひょっとしたら今はもう製造されてなくてプレミアがついてるのかもしれないけど、それにしてもこんなものにもプレミアとかつくのか?
今F3とオリンパス35DCとコンタックスT3とナチュラクラシカとクリアショットSとゴールデンハーフにフィルム入れてしまってるので写ルンですの出番はかなり先になると思う。いつもは大概カメラ二台にフィルムを入れておく程度で、こんないっぱい同時進行でフィルム入れたことなんて今までに無かったのに、なぜか今そんな状態になってしまってる。


☆ ☆ ☆


最近買った本で面白そうだったもの。面白かった本と云えないのは英語の本なので、まだ読みもしてないから。しかも読んだとしても本当に読めるのかどうかも分からない。
「The Body」というのがその本で副題は「Photographs of the Human Form」となってる。

THE BODY



the body 2
(右側のが、JIri Stachというチェコの写真家の作品、異様で良い。ちょっとジョエル=ピーター・ウィトキンっぽいか?この本には当然の如くウィトキンの作品も一枚紹介されてる。)



写真の中での身体の扱われ方、人間の体という物理的な存在を造形的にどういう風に写真で表現してきたか、あるいは身体のあらゆる側面を使ってどういうものが表現されてきたのかといったことについての評論とでも云えばいいのかな。
ポートレートには不感症だけど、人のフォルムに関する関心だとか、造形的な再構築なんていうアプローチといったものなら、これは理解できるしかなり興味深いテーマともなる。
おまけにこの本、評論主体の本なんだけど、結構写真が多くて、しかも普通の写真の雑誌なんかだとほとんど取り上げられない、見たこともないような作家のものが数多く収録されてる。奇形や皮膚病のような衛生博覧会的なものから、ダークサイドに落ちてしまった幻覚に近いものまで、人間性がどうのこうのという地点からはかけ離れた地平で妄想されたものを見せてくれるような編集とでもいうかな。特に後半の「metamorphosis」とか「mind」と章立てされた部分で展開されてるものは、身体の美を追求するあくまでも綺麗なヌードとかは他の評論や写真集に任せ、ちょっと特殊なポイントからでしか現れない美しさ、ーそれは退廃的でグロテスクではあるんだけど、でも同時にシュルレアリスムなんかの延長上で見出された「美」の範疇であるのは間違いないといったもののコンパクトなコレクションとなっていて、眺めていて本当に楽しい。
しかしまぁ本当に名前も聞いたことが無い作家ばかり。中にはアンドレ・ケルテスなんていう有名どころも混じってるけど、強烈な印象を残すのはこの本で始めて知った作家のほうがほとんどだったりして、拡張されていく写真の領域をまざまざと見せつけられることとなる。
写真を撮ることで視線が縛りつけられるとかいってる場合じゃないな。










日常の、少し手前。 + 雑誌 「KINFOLK」

理容院への階段
しんとして、微かに謎めいた場所
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





車内
斜光
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




電車のだけはJRの奈良線だけど、他の二枚は夏の終わりにティルマンスの展覧会に行ってから、暫くの間中之島辺りに出掛けては街中や川沿いで撮ってた写真から。
大阪は京都には無い高いビルとかあって珍しい。でもやたらといろんなところに警備員がいて、何かというと写真は駄目と詰め寄られるから、嫌気が差して最近は行ってない。そんなことをいうとあの変電所は川縁の堤防から見渡せるし、大阪のビジネスビルなんかよりも変なことされたらよほど危険だと思うんだけど、京都は街中のゴミ箱を撤去したりはするけどある程度おおらかなのかな。

たとえばわたしが目覚めた時から世界はわたしの色に染まって、わたしに了解可能なものとして目の前に現れる。時折想像するんだけど、世界はわたしが目を閉じてる間も同じようにわたし色に染まって存在するんだろうか。もしそうでないなら、わたし色に染まらない世界ってどんなのだろう。目を閉じることでしか出現しないような世界。まるでシュレーディンガーの猫だけど、目を開いた瞬間に霧散してしまうようなそういう世界を垣間見てみたい。
この写真がそういう写真だとは云わないけど、そういうことを夢想する時がある。日常の少し手前から聞こえてくる何かの微かな残響音のようなものが画面からも聴こえてこないかと思いつつ、シャッターを切ってみる。


☆ ☆ ☆


このところ何しろ使用期限が迫ってるモノクロフィルムが数本手元にあるせいで、F3やFM3Aには途切れることなくモノクロフィルムを詰めて、期せずしてモノクロ三昧の撮り方となってる。
モノクロに特化した感覚になるというほど、道を究めようとする剣士のような撮り方ではないにしても、結局モノクロは光の表情を読み、粒子の平面に定着させるといったことなんだろうなぁと体感し始めるようなところがある。おそらく被写体が何であるかはそんなに重要じゃない。被写体が存在しないと光もまた表情を生むことは無いわけで、光こそが主役なら光が表情を持つためにだけ被写体の存在があると、これは必ずしも極論でもなさそうな気がする。
もっとも取り立てて意味もなさそうな被写体を写して見せられても、見せられた側はたまったものじゃないかもしれないし、それは退屈な写真であるかもしれない。でも綺麗だけど凡庸という写真があるように、退屈なのに刺激的というような写真はあるとわたしは思ってる。
まぁそうはいっても、退屈な写真を撮って、なおかつ凡庸という落とし穴も、とてつもなく巨大な穴として眼前にあるわけで、綺麗という軸をあえて外そうという写真は危険が一杯というところかな。








ランプ
ランプ
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




☆ ☆ ☆



kinfolk1



kinfolk2


これ、アマゾンのサイトを覗いた時にわたしへのお勧めって言うような形でやたらとモニタに現れたことがあって、タイトルからは何が頭に思い浮かぶわけでもなく、最初は何の雑誌なんだろうと結構胡散臭く思ってたけど、正体はアメリカのポートランドからネイサン&ケイティ・ウィリアムスという夫婦が中心になって発信するライフスタイルの雑誌だった。小さな集まりのガイドというのがコンセプトなんだそうだ。
実のところライフスタイルがどうのこうのというのは、私のこの雑誌に対する興味の中心では必ずしもないんだけど、ではなぜそういう本を持ってるかというと、アマゾンのお勧めに根負けしたわけじゃなく、中に掲載されてる写真が結構良かったからというのがその理由だったりする。色味とか被写体としてるモチーフの扱い方とか、とにかくシックで綺麗。写真そのものは今風の癒し系の写真とでもいえそうなもので、直接的にはわたしの写真とは繋がるところはあまり無いんだけど、色の感じとかモチーフの質感の捉え方とかはちょっと真似してみたいほど感覚的な親和性がある。
似たような雑誌だと以前に「UNION」というのをピックアップしたことがある。あれはファッション雑誌なのに、今風のコーデ(コーデとか云う言い方は気味悪い)がどうだとかいった服の情報そっちのけでファッションをきっかけにした作品写真に特化した雑誌だったけど、これはライフスタイルをきっかけにして写真に特化した雑誌だと、発行した本人はおそらくそんな意図をこめてたとは思わないけど、受け取る側としてはそういう風に把握しても齟齬を感じないような作りになってると思う。

今までに出版されたものはそれなりに巻数は多いようで、ここにピックアップしたのはその7巻目。アイスクリームの特集で中でも人気がある回なんだとか。
日本語に翻訳されてるのも全巻じゃないようだけど、何冊かは出版され、今も翻訳は継続中ということらしい。










水に触れる、川面の相貌 + Chris Connor - Moonlight in Vermont

水面
水に触れる
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





皮膜の下
川面の相貌
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





風が強く吹く
風が強かった日
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像



暑い季節の間は自分で現像なんかしなかったけど、そろそろ汗もかかなくなってきたということで、夏が過ぎてから初めて現像した一本から。プレストが生産終了になった時に、買いだめというほどでもないけど少し買っておいたのがあって、使用期限が今年の12月となってるのに気づいて慌てて使ってます。冷蔵庫で保存してるし、まぁ1年くらい期限過ぎても大丈夫とは思うけど、暫くはモノクロフィルム中心で写真撮ってるかも。期限が過ぎてるといえば、最近ヴィレッジヴァンガードで買っていた7割引のホルガ。大抵フィルムが1本セットになっていて、コダックのポートラ400VCのブローニーと、これまた今では生産してないフィルムでした。これの使用期限が2012年。また微妙な期間というか、10年くらい過ぎてたらこれは駄目だと判断できるのに、3年くらいだったら使えるんじゃないかと、ちょっと悩ましい存在となって、使うなら早めにと決断を迫られてます。不安定な写りとか偶然を呼び込むなら格好の状態のフィルムなんだけどなぁ…、現像所で現像液が痛むとか拒否されるかな。
暑いさなかに自分で現像しなかったのは、一つはダークバッグの中に突っ込んだ手が汗をかいて、その湿度でフィルムがリールに上手く巻けなくなる可能性があったことと、もう一つは現像液の液温の管理が難しそうだったから。作業中、といってもフィルムが現像液に触れてるのは6分ほどなんだけど、すぐに温度が上がってしまう。寒い時もすぐに温度が下がってしまうとなるはずなんだけど、なぜか体感的には液温が上がるよりも下がっていくほうが対処しやすい感じがします。

☆ ☆ ☆

撮影したのは宇治川派流。夏の間は屋形船が通り、春には桜並木が幻想的な色で染めるささやかな流れの運河。観月橋の少し下流辺りで宇治川からの支流として伏見の街中に流れ込み伏見の酒蔵の合間を縫って、三栖閘門で再び宇治川の本流に合流する川です。屋形船が観光客を乗せて遊覧してるけど、写真撮るのに歩いて往復も簡単にできるくらい距離的には短いです。あっという間だから二往復くらいしないと乗ってる人は絶対に満足してないと思う。

川の水面の少し下、川底から延びてる水草の類がぼんやりと水面下に見えてるという感じが、不気味で幻想的で大好き。水面下に広がる水の巨大で暗い空間というのも、たとえばわたしにとっては宝ヶ池なんかでボートに乗ってる程度でも不安でいたたまれなくなってくるほどに恐怖の対象なんだけど、その異界の奥にぼんやりと姿が望める何か、水面の少し下、形もはっきりとはしなくなる境界辺りで蠢いてるものとか、得体の知れない怖さ、不安で舞い上がってしまうほど大好きだったりします。こういう感覚はブログを始めた当初、映画「フランケンフィッシュ」のことを書いたときにも力説してました。今ではフェイクとして収まってるオーストラリアで撮られたシーサーペントの有名な写真なんか、いつまで眺めていても見飽きないです。

二枚目のこの写真撮ってる時、水面下の水草が揺らめいてる場所で、場所を変えたりしながら何度もシャッターを切ったんだけど、こういうのって上手く写らないですね。今回の場合は荒れた粒子が気に入ったから、上手く写らないほうが面白かったと納得はしてるんだけど。水面の反射とかじゃなくて、光が上手く届かないような水面下のものを撮るコツとかあるのかな。


☆ ☆ ☆


Chris Connor with Stan Free Quartet - Moonlight in Vermont



以前にウィントン・ケリーが演奏したカクテル・ピアノっぽいのを載せたことがある曲。曲自体が好き。
クリス・コナーの歌声はハスキーで、低く太い声、ジャケットの写真もとにかく大きく口を開いて歌ってる写真が目に付くように、全身全霊で音量も豊かに歌う声だけど、張上げるようながさつな感じもしない。歌い方はジャズの大御所的な歌い方でもなく結構オーソドックスなところがあって、これがまたその全身全霊さが素直に届いてくるような感じでよかったりします。いかにもジャズっぽいっていうような軽妙洒脱な歌い方とか、たまに鼻につくことがあるから、イーディ・ゴーメとか割とオーソドックスに歌い上げるような歌手が好きになってるというのがわたしの場合は多いかも。




このCDの船の舳先のジャケットも良いんだけど、クリス・コナーのレコードジャケットといえば、初のレコードとなった10インチアルバム「Sings Lullabys Of Birdland」のマイクを両手で抱え込むように背をそらして歌う姿を写した、バート・ゴールドブラットのデザインによるモノクロジャケットのが良いです。このレコードのジャケット写真、大好き。


一応アマゾンにあったから、小さいけどこういう写真。

人を対象としたポートレート写真はまるで理解できないといつも書いてるけど、省みるとこういうのは凄くかっこいい写真だと思ってるんですよね。人を写してるのは変わりないのに、なぜなんだろう?