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よそみ

よそみ





呪物





鶴





池の上の叢






乱舞する花





大願のひよこ





屋根の上の鳩





さあ冴えるもの





幕の中へ

2018 / 04 六角堂
2014 / 10 六角堂
Nikon F3HP / Minolta New X-700
ILFORD PANF PLUS 50 / Kodak SuperGold 400

今年の猛暑とそれに続く長雨、そして絶不調の体調も重なってこのところまるで写真を撮れていない。何時入れたのかキヤノンのデミに詰め込んだフィルムは、何しろデミはハーフサイズで通常の二倍撮れるカメラなものだから、まだ30枚近く撮らないと取り出せない状態のままだ。撮り終わらないものだからいつも現像を頼んでるフォトハウスKにもこのところご無沙汰で、ひょっとしたらもう忘れ去られてるんじゃないかと一抹の不安がよぎる。外界と自分を繋いでいたカメラという装置も外界同様の異物感、よそよそしさを垣間見せて何だか妙にそぐわない手触りを伝えてくる。モノクロは今年の春ごろ、カラーのほうは日付の記録を見てみると2014年の秋に、烏丸御池の六角堂で撮ったもの。六角堂はこのモノクロを撮った時に、近くにあった新風館が一年近く前に閉館していたのも知らなかったくらい、気がつけばいつの間にか足が遠のいていた場所だった。ただ久しぶりにやってきたとはいえ取り立てて目新しいものがあるというわけでもない。文字通り六角形のお堂を中心に周囲を巡る砂利道の回廊があるというだけの小さな場所で、何時やってきても見慣れたものばかりが目に入ってくることとなる。鳩豆を持って売店から出てきたとたんに集団で襲い掛かってくる、ことさらに凶暴な鳩も、境内の池に住み着いて噛み付くので注意と掲示された獰猛な白鳥も、時間が止まってしまったかのようにいつもそこにいる。もう撮るものなんてないという感覚が足を踏み入れた瞬間からわたしの中で濃厚に立ち上がってくる。こういう見慣れすぎた場所で写真を撮ることはできるのだろうか。すべての目につくものを何らかの形で写真に収めてしまったと思える場所でさらに写真は撮ることができるのだろうか。久しぶりであろうとなんであろうと、周知のものしかない場所に立って、何だかそんなことを意識しながら周囲にカメラを向けることになる。同じ場所同じ被写体をまるで定点観測のように撮り続けて出来上がる写真は一瞬を切り取る写真、出会い頭に目新しい被写体と切り交わした情動を確かめるような写真とはまるで異なったものになっていくだろう。何度も同じ場所に立ち返って撮る写真はそこから物語を、被写体に纏わせようとする情緒を削ぎ落としていく。写真は見えるものしか写さないし、写っているものしか写っていない。目新しい刺激をそっちのけにして撮る写真はおそらくそういう写真へと近づいていくんじゃないかと夢想する。目の前にあるオブジェ性しか写そうとはしない写真のあまりの寄る辺なさに不安を覚えて、すぐに物語で化粧し、情緒を纏わりつかせて何か写真であること以外の意味のあるもののように仕立てようとするけれど、そういう寄る辺なさに途方にくれてしまう写真こそが写真だけが本来的に持ってる特質なんじゃないかとわたしは思ってるわけだ。何も絵画の真似をする必要もない。シャッターボタンを押すことで誰にでも撮ることができる写真は、修練の結晶である筆の痕跡を残さずには成立しない絵画などとはまるで異なったものとして成立しうる。世界を解釈から解き放つ。実際にはフレームで切り取ることだけでも世界に解釈を与えてはいるんだけど、そういうことが出来る可能性は写真のみが内に秘めているんだろうと思ってる。わたしは解釈されていない世界、定義されていない世界を見てみたい。




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森を辿る道 / 孤独で美しい場所

暗がりに浮かぶ枝





木立の合間から




貯水池と枝





深部







闇に落ちる木漏れ日





垣間見る鳳凰





廃墟アパート

2018 / 04 今熊野観音寺周辺
2013 / 91 八幡男山
2014 / 11 今熊野観音寺周辺
Nikon F3 / ピンホールホルガ / Leotax F
Ilford PanF Plus 50 / Xp2 Super

東福寺の北東近くにある泉涌寺への参道である泉涌寺通りを、九条通りから抜けていく途上で脇道に分け入っていくと、今熊野観音寺というぼけ封じで有名な小さなお寺の前に出てくる。今熊野観音寺は泉涌寺山内にあって泉涌寺の塔頭となる。今回の写真は一枚だけ岩清水八幡宮で撮ったものが混じっているけど、ほかのものはこの観音寺の周辺で撮っている。ただ泉涌寺通りからは入らずにもう少し北のほうの、観音寺の裏手の墓地に続く道からここまで辿っていった。観音寺はこの辺りの他の寺院同様東山の山裾に囲まれて、観音寺の北東の山中は一條天皇皇后定子 鳥戸野陵となっている。疎らな人家とパワースポットの境界にあるようなこの辺りを歩いていると、観光客もほとんどおらず、俗世界と聖域が交じり合ってる独特の雰囲気を感じることが出来る。実際には面倒臭さが先にたってしまって、さてそこへ行こうと積極的な意識にはなれないにしても、森の中で写真を撮るっていうのはわりと親和性のあるシチュエーションだ。街中で人工物を撮ってると、これを撮った写真がかっこよかったとしてもそこにはわたしが作り出したものなどないに等しくすべては被写体を製作した者の腕前によってるんだと、表現など一片の薄っぺらい観念の一枚として相対化してしまう思想のシャワーをたっぷりと浴びているにもかかわらず、デュシャンのように徹底化も出来ずに未だに創造性の一端でも信じているのか、写真は創造じゃなく見出すことだと思い至っては、何時もどこか居心地の悪い思いを拭いきれないでいる。反面自然物はそういうところが微塵もないから写真を撮るにも思いのほか余計なことを考えないですむ。自然の著作権を持ってるのは神様だろうけど、この写真がかっこいいとして、それは神様の表現力によって成り立ってると思っても、まぁそうなんだろうなと、その程度ですんでしまう。おまけに神様は著作権など主張しない。リハビリは相も変わらず続いてこの前から背骨の牽引が加わった。これは物理的に体を引き伸ばすもので、大仰な治療装置のわりに治療法としてやってることはシンプルといえばシンプル極まりない。懸垂してるところへ誰かが腰にしがみついてでもいるかのような状態をベッドの上で再現してるとでもいうのかな、苦痛かといえば意外と何かのアトラクションでもやってるような感じで面白く、背骨を支える筋肉が引き伸ばされ解されて気持ちがいいところもある。診察ではMRIも撮ったほうがいいといわれて、でも今は時間も金もないから、まぁ露骨に検査代が払えないとはさすがに云わなかったが、ちょっと様子見したいと色々と濁すような云い方で逃げている。逃げ切れなくなったらそのうちこの検査はやる以外になくなるだろうなぁ。




つるの剛士がウクレレで弾いていたこの曲、この前曲名が分からないって書いたけど、曲名が判明。Where Is My Love Tonightというタイトルでハワイの作曲家クイ・リーの曲だそうだ。あぁすっきりした。ウクレレの第一人者であるハーブ・オオタの演奏が有名で、この元のも聴いたけど、この演奏は元とはまた違うアレンジが施されていて、さらに耳コピだというんだから恐れ入る。耳コピである以上ひょっとしてアレンジも自分でやってるのか?正直言って元曲よりもこのアレンジのほうが好みだったりする。






木馬と下着 / Dave Clark Five - Because

木馬と下着






駅ガラス






繰り返すステップ






空中回廊から


2014 / 12 (1)(2)
2014 / 11 (3)
2017 / 02 (4)
Nikon F3 / Fuji CARDIA Travel mini DUAL-P
Fuji Venus800 / Kodak SG400 / Kodak Tri-X


下着といえば組み合わせは騾馬のほうがしっくり来るのかもしれないけど、ここは木馬が登場する。何だか文芸調の官能小説にでも出来そうなタイトルだ。そんな官能小説が本当にあれば増村保造辺りが映画化してそうな感じだなぁ。
タイトルに沿うのは最初の一枚だけで、ほかは内容的にはまったく関係ない。関係があって集めたとすれば全部京都駅で撮ったということくらいか。とにかく京都駅ではことあるごとに写真を撮ってる。表現なんていうことに矮小化させず写真の特性を活性化させるのに、同じ場所を執拗に撮るというのは方法論としては有効なんだけど、さすがに同じ京都駅で撮るのは今はちょっと飽きてきた。同じものをひたすら写すって精神的に強靭なところでもないとなかなか続かない。
撮った写真は後々、あの時代の京都駅はこんな風だったと京都駅の歴史を振り返る役に立つかと言うと、おそらく懐かしさも呼び起こさないようなドライな写真ばかりだろう。わたしはそれで良いと思って撮ってるんだけど、多少は本当にそれで良いのかなと思う部分もあるかもしれない。

木馬はバックの暗がりも含めて色の感じもお気に入り。見方によっては濁ってるとも云えそうだけど。


☆ ☆ ☆


Dave Clark Five - Because


ビートルズが活躍してた頃のバンドだ。アメリカのヒットチャートでビートルズの曲を1位から引き摺り下ろしたこともあるほど、当時は人気があった。パワーポップ系統のバンドだったので、しかもバンド名になってるデイブ・クラークがドラマーということもあって、ドラム強調の本来は喧しいのが特徴なんだけど、これはそんなバンドが歌うバラードになる。キーボードのマイク・スミスのソウルフルなボーカルを乗せたラウドな演奏こそがこのバンドの本領だと考えてる人には、この曲は唾棄すべき曲となってるかもしれない。
わたしはこういうミディアムテンポで和音構成が綺麗な曲って好きだけどね。あっという間に終わってしまう儚さも良い。
でも、いくら好きで当時売れたからといって、これを代表曲というのはビートルズの代表曲ってイエスタデイでしょといってしまうのと同じくらい違和感はあるなぁ。
デイブ・クラーク・ファイブはバンドとしては大成功したにもかかわらず、アイドル的な売れ方だったのでその後のロックの変化に乗り切れずに消えていった。デイブ・クラークが音源の一切の権利を持っているらしく、なぜか再版するのを拒み続けて、懐メロ的な復活も出来ずに人の記憶から零れ落ちていったグループでもある。
ちなみにジュリアン・レノンがこの曲をカヴァーしてる。










影と踊ろう

ハート
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





廃屋の窓
2015 / 11 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像






校舎
2015 / 10 / OLYMPUS PEN E-P5








先日大河ドラマの真田丸を見終わった後、いつもならTVのスイッチ切ってしまうんだけど、この時は何となくつけたままでいたら、次の番組で若冲の特集が始まった。どうやら今東京で展覧会をやってるらしい。
へぇ、そうなんだとちょっと調べてみたら、どうも京都にはやってこないようで、その時点でちょっと腹が立った。
絢爛豪華でなおかつポップでモダンでスタイリッシュ、さらに今で云うところのほとんどドット絵そのものといったぶっ飛んだ絵を発想するような、同時代の絵師たちとはまるで違った独自の眼と技を持っていた画家。その分野の文脈にまるで入らない、自らの感覚のみを頼りに描き続けたような作風は、分野が違っても得るところは多いにある。その分野の文脈で描こうとはしなかったというのはわたしの特に気に入ってるところでもある。わたしは若冲が象を描いたのでも、何しろ象が好きで、というかストレートに象というよりもどちらかと言うとガネーシャなんだけど、ともかく象に関した置物を集めたりしてるくらいだから、この点でも若冲は大好きな日本画家だったりする。
一応今回のこの展覧会は京都には来ないようだけど、数年前、と云ってももう10年くらい前になるか、若冲の展覧会は京都でも開催されていて、確か美術館じゃなくて京都国立博物館のほうだったと思うけど、それは見に行って豪華な図録も手にいれてる。この時の図録は資料的にもかなり良く出来ていたものらしい。
でも一度は開催された展覧会を見に行ってるとはいえ、今やってるのを見られないというのはやっぱりちょっと腹が立つなぁ。
展覧会は開催してるところに行かないと見られないというのが、一点しかないものを見る意味を呼び起こしたりするものの、やっぱりこういうところは古いタイプのシステムなんだと思うところもある。
一応京都で以前に見てるから、お金もかかるし東京へ行く気にまではならないけど、見に行けないなら図録だけでも手に入れたいところだ。美術館のショップのほうではネットでの通信販売はやってなくて、日経の関連ページから注文できるようだった。
展覧会といえば、今は京都で安井仲治の展覧会をやってくれないかなと思ってる。安井仲治のシュルレアリスム的で幻想的な写真は今とても興味を引いてる。また、モホイ=ナジの写真に特化した展覧会もやってくれれば絶対に見に行く。モホイ=ナジの展覧会は数年前に京都で開催されてその時のことはこのブログでも書いてる。でもこの展覧会ではモホイ=ナジの写真に関してはフォトグラム関連以外はあまり展示されずに、会場内の暗くした一室でスライドショーで見せていたくらいで、しかも図録にもあまり記載されてなかった。暗い一室で見ていた一連の写真はスナップショットの類で凄く面白かったんだけどなぁ。フォトグラムは大きく扱われてたけど、この暗い部屋で見たスライドはモホイ=ナジの撮った「その他」の写真扱いで、開催側の学芸員にはバウハウスでの本来の活動やフォトグラムほどには重要に見えてなかったんだろうと思う。
展覧会はそこに行かないと見られないという点と、もう一つ企画する側が企画したものしか見られないという嫌なところもある。向こうの思惑で投げ与えられたものしか見ることが出来ない、自分が今見たいと思っていてもだからといってその展覧会が自動的に発現するわけでもない。これも展覧会のもつ旧態依然とした特徴なんだろうと思う。
与えられたものしか見られないというのは映画でもそういうところはあったんだけど、DVDやブルーレイで今は随分と様子は違ってる。

☆ ☆ ☆

最近はミノルタのフィルム一眼にモノクロフィルムを詰めて、ニコンのコンデジS9700をサブカメラとして、スプリングコートのポケットに入れてるような組み合わせが多い。おかげでS9700が手元に来る前までサブで使ってたオリンパスXA2は撮ってる最中のフィルムが入ったまま一時休業状態のようになってしまってる。フィルムが入ったままというと、ピジョンフレックスと学研のピンホールカメラもそうなんだけど、こっちはフィルムを入れた時の気分と若干違う気分になってるので、これまた手を出せない状態になってる。

あまり面白くないなぁとぼやきながらもポケットからS9700を取り出し、何だかデジのほうでもそれなりにシャッターを切っていて、見直してみれば、デジ臭さを何とか取り除くことができたなら、結果はどうも意外とデジにヒットしたものが多いような気がする。これは本当に思いもしなかった成り行きなんだけど、フィルムで撮ってるほうに当たりが少ないというのが今度は逆に何だか悩ましい気分になる。
街中で撮るには手軽で機動性のいい道具のほうが適合してるんだろうし、ズームもフィルムのほうではほとんど使わなくなってたけど、S9700のズームは機動性を加速させて結構役に立つ。そういうところがコンデジで撮ってる写真に思考が入り込む隙をなるべく作らせないようにしていて、肩の力が抜けた写真を可能にしてくれてるのかもしれない。

一枚目は街中で見たディスプレイの断片。
下に見える、これは店への入り口の上の縁でちょっと邪魔かなと思ったけど、どこか崩して全体に決め決めにならないほうが面白いかなと思って、あえて画面に入れるようにして撮ってみた。結果は崩した不安定感もあまり出てなくて、単に邪魔なだけにも見えてくるなぁ。
街中で撮ってると、どうしても店のディスプレイとか撮ってることが多くなってる。そして、こういうものを撮る時はいつも、これがかっこいいとするならそのかっこよさは撮ったわたしの写真にあるのかディスプレイした人の感覚にあるのかということが頭に浮かんできたりする。前にも書いたけどこれはディスプレイした人の感覚が導いてきたもので、わたしの写真が生み出したものではないだろう。こういうことが頭に浮かんでくるから街中で人間が作ったものはあまり撮りたくないという感情も生まれてくるし、そういう時は森にでも行って神様のデザインによる木々の曲線なんかを撮ってみたりしてる。
単純に街で眼にするものはすべてのものが街を構成するパーツの一つと考えれば、街を観察し撮ることにおいて、何もこんなに屈折した気分にならなくてもすむと思うんだけどね。
二枚目のはとある廃屋で。
最後のは小学校。午後の誰も居なくなった小学校。がらんとした学校の雰囲気は結構好きだ。しかも蛇口が並ぶようなこういう場所は子供の存在をどこかに寄り添わせていて、その不在が際立つ。この場所はさらに全体が日陰になってるところに日差しが差し込んでいた。
閉じた格子状の門の向こうに見えていた場所だったんだけど、陽射しがおちてる光景を撮りたくなって、門の格子の間にレンズを差し入れて撮った写真だった。子供がひけた後とはいえ、小学校でこういうことをやるのはもう完全に不審者の振る舞いだったので、手早くシャッター切って、咎められないうちにレンズを格子から抜いて退散した。


☆ ☆ ☆

ストリートで写真家がどんな風に写真撮ってるか、これ見るたびにいろんな意味で凄いなぁと思う。この動画でも警官に説明してるところがあるけど、日本でやればまず間違いなく交番に連れて行かれる。こういうタイプの撮影方法は認めても、このマーク・コーエンのようなやり方には随分と批判もあるようだ。



了解を取ってたらまず撮れない写真もあると思うから、こういう撮影方法を取るほかないところもあるんだけど、こんなに無礼な態度で接するのは、どこか人の感覚として壊れてるところでもなければ、あるいは変質者だと思われてもまるで平気くらいに開き直るほどでないとできそうにもないだろうなぁ。

人の生き方がどうのこうのなんていうことよりも、壁のこのラインが美しいなんて云ってるのが、自分と似たようなところに反応してる人だなぁと、そういうところも面白かった。







真冬3

冬のプール
2016 / 01 / Nikon F3 / Lomo Color Negative 100





冬のプールサイド
2016 / 01 / Nikon F3 / Lomo Color Negative 100





幼稚園
2016 / 02 / Fuji Natura Classica / Natura1600




真冬というタイトルもそろそろ季節外れになりそうな気配。春になってもまだやってるタイトルじゃないなぁ。
今回の写真はこの前管理棟の写真を載せたプールを撮ったもの。135mmの望遠で撮ってるから平面的、ちょっと絵画的な雰囲気になってる。この誰もいないプールの真横に実は室内プールの建物があって、室内プールと屋外プールは大きなガラス窓で区切られてる程度。室内プールは賑わっていて、この写真を撮ってるすぐ横のことなので、写真撮ってる間、その賑わいは手に取るようにわかった。
フレームで真横にあった賑わいを切り離してるからまるで誰もいないプール、赤い三角コーンが所在無げに転がってる空虚な空間に見えるけど、実際はかなり違って、ようするにちょっと嘘が混じってるというわけだ。

二枚目のはもうちょっと反射光がキラキラして欲しかったけど、あまりキラキラすると夏の光景のようになってしまうかな。とにかくこの冬はなぜか写真を撮ってる間だけ曇ってるという非情な日が多かったので、こんな写り方になってるんだと思うけど、何だかしょぼいなぁ。横の柵が水に沈んでいく感じは若干非日常的で、全体のイメージはそっち方向に引っ張っていけてるとは思うんだけど。

三枚目だけ違うカメラで撮ったもの。これ、幼稚園だったんだけど、何となく絵になりそうだなぁと思って撮ってみたものだった。

さて、このところの撮影気分だけど、やっぱり似たような状態が続いてる。ここぞというところでピンとこない、視線が上滑りしていくような精神状況が続いていて切れ間が無い。今度はあそこに行ってみようかと思いついても、大した写真も撮れなさそうかなと何だか予測めいたものが目の前に立ち上がってしまってなかなか動く気分にまで持っていけないような日々が続いてる。
ちなみに今回のフィルムは使用開始時も記録しておいて、それによるとセットしたのが今年の1月12日で撮り終えて現像に出したのが3月の15日となってる。間にRZ67でブローニーを使っていた期間もあるんだけど、今の気分ではフィルム一本36枚撮るのにこれだけの期間が必要だったということだ。
考えすぎてるんだろうと思う。凄い写真を撮ってやろうというような浅ましい野心が勝ちすぎていて、その心情に絡め取られてしまってる。野心なんかに従わず、直感に従え。連鎖する今の気分に空隙を開くのはこれだと思う。

最近ブルータスで森山大道の特集をやっていた。こういう写真家をとりあげることだけでも面白いんだけどこれはちょっと入門編のような所があって、雑誌の特集だと10年ほど前に出たコヨーテの創刊号でやっていた森山大道の特集のほうが読み応えがありそうな気がする。
そのコヨーテのほうの特集でホンマタカシとの対談の中、一本のフィルムで実際にどのくらい焼くのかという質問に、直感で大体10カットくらいセレクト、その中で気に入ったものは大体1~2カットくらいだけど、500本、600本と撮ってるとかなりの数になってくると答えていた。
わたしなんかこのブログに載せるのに、まぁ全部お気に入りというわけでもなくてこれでもいいかなというのまで載せてるから、フィルムに納まった写真の三分の一くらいは披露してるんだけど、これだ!って云う出来の写真は、プロでもフィルム一本につきこんな数が少ないんだと思うと、つまりフィルムの大半がどうにもならないと判断したもので埋まってるんだと思うと少しは気が楽になる。
傑作を物にしよう、他人に見せて恥ずかしくないようなものを撮ろうと思う遥か手前で、意味へ収斂していく前に直感を拠り所に考えずに撮る。撮っている時にいいとか悪いとか考えず、そうやって膨大に撮っていく中で立ち上がってくる写真を選んでみるって云うような方法だと思うけど、硬直しがちなわたしの頭や感覚にはこういう方法は結構有効的なんじゃないかと思う。


☆ ☆ ☆





同じロモのカラーネガ400よりも色の感じはこっちの100のほうが好き。カメラのシャッタースピードの上限にも関係するけど、大体感度400だと最速のシャッタースピードにしても晴天の屋外では絞り8くらいまで絞る必要があり、絞りをいろいろ変えるような遊びはなかなかやりにくい。一方感度100だと多少絞りを開いたりして色々試せたりする。ただちょっと影のところとかになるとあっという間にシャッタースピードまで落とさざるを得なくなって、望遠レンズをつけてたりすると結構手振れしてしまうことがある。今回のフィルムも135mmのレンズを使って昼間の影の領域で撮ったものに手振れしたものが何枚かあって、昼間なのにありえないと思った。三脚をつければ問題解決なんだけど、街中のスナップで三脚みたいな機動性の悪いものをつけるわけにもいかないし、望遠で撮るならハイスピードのフィルムを使うか、石のように動かなくなる練習でもしたほうがいいかもしれない。 






今さら森山大道って云う気がする人もいるかもしれない。でも、エピゴーネンたちが未だにアレ、ブレ、ボケの周囲をうろつくしか術を持たないような状況で、本人はこだわりもなくさっさと先のほうに進んでいってしまってる、その衰えない疾走感はやっぱり面白い。何しろ絶対にモノクロフィルムに拘りが有るだろうと思ってたのが、いつの間にやらトライXなんか簡単に捨ててしまって、いまやコンデジで撮ってるんだもの。最近使ってるのがニコンのクールピクスS9500っていうコンデジだそうで、森山大道といえばフィルムはオリンパスμ、そしてフィルムとデジで、リコーのGRというイメージが強かったのに、そのGRも簡単に捨ててしまってるこだわりの無さが凄いと思う。写ればカメラなんてなんだって良いというスタンスが、どこのレンズのボケ味がどうのこうのと薀蓄垂れ流してるようなやからを蹴散らかして驀進してるようで小気味がいい。これでしょうもない写真しか撮れなかったら笑いものになるところだったんだけど、結果をきちんと残してるものだからこれはもう平伏するしかないだろう。で、余談だけどこのニコンのコンデジ、森山大道が使ってると知って欲しくなってるわたしがここにいる。拘りが全く無い人が選んだ道具に拘ってしまうというのも妙な話だと、自分でも思ったりするけど。

コヨーテのほうの内容は刊行された当時に行われたパリでの大展覧会や宇和島でのドキュメンタリー、彷徨する写真家の軌跡を辿るような関係者のエッセイとそれに添えられた写真群といったものなんだけど、写真が多くみられたのは写真家の特集としてこれは当然で、それとは別に意外と面白かったのが読書家でもある森山大道の愛読書を紹介してるページだった。おぉやっぱりケルアックなんかも読んでるのねと納得したり、内田百閒も混じってわたしには親近感が増す読書遍歴のようだった。