2016/05/02
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700
2015 / 11 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像
2015 / 10 / OLYMPUS PEN E-P5
先日大河ドラマの真田丸を見終わった後、いつもならTVのスイッチ切ってしまうんだけど、この時は何となくつけたままでいたら、次の番組で若冲の特集が始まった。どうやら今東京で展覧会をやってるらしい。
へぇ、そうなんだとちょっと調べてみたら、どうも京都にはやってこないようで、その時点でちょっと腹が立った。
絢爛豪華でなおかつポップでモダンでスタイリッシュ、さらに今で云うところのほとんどドット絵そのものといったぶっ飛んだ絵を発想するような、同時代の絵師たちとはまるで違った独自の眼と技を持っていた画家。その分野の文脈にまるで入らない、自らの感覚のみを頼りに描き続けたような作風は、分野が違っても得るところは多いにある。その分野の文脈で描こうとはしなかったというのはわたしの特に気に入ってるところでもある。わたしは若冲が象を描いたのでも、何しろ象が好きで、というかストレートに象というよりもどちらかと言うとガネーシャなんだけど、ともかく象に関した置物を集めたりしてるくらいだから、この点でも若冲は大好きな日本画家だったりする。
一応今回のこの展覧会は京都には来ないようだけど、数年前、と云ってももう10年くらい前になるか、若冲の展覧会は京都でも開催されていて、確か美術館じゃなくて京都国立博物館のほうだったと思うけど、それは見に行って豪華な図録も手にいれてる。この時の図録は資料的にもかなり良く出来ていたものらしい。
でも一度は開催された展覧会を見に行ってるとはいえ、今やってるのを見られないというのはやっぱりちょっと腹が立つなぁ。
展覧会は開催してるところに行かないと見られないというのが、一点しかないものを見る意味を呼び起こしたりするものの、やっぱりこういうところは古いタイプのシステムなんだと思うところもある。
一応京都で以前に見てるから、お金もかかるし東京へ行く気にまではならないけど、見に行けないなら図録だけでも手に入れたいところだ。美術館のショップのほうではネットでの通信販売はやってなくて、日経の関連ページから注文できるようだった。
展覧会といえば、今は京都で安井仲治の展覧会をやってくれないかなと思ってる。安井仲治のシュルレアリスム的で幻想的な写真は今とても興味を引いてる。また、モホイ=ナジの写真に特化した展覧会もやってくれれば絶対に見に行く。モホイ=ナジの展覧会は数年前に京都で開催されてその時のことはこのブログでも書いてる。でもこの展覧会ではモホイ=ナジの写真に関してはフォトグラム関連以外はあまり展示されずに、会場内の暗くした一室でスライドショーで見せていたくらいで、しかも図録にもあまり記載されてなかった。暗い一室で見ていた一連の写真はスナップショットの類で凄く面白かったんだけどなぁ。フォトグラムは大きく扱われてたけど、この暗い部屋で見たスライドはモホイ=ナジの撮った「その他」の写真扱いで、開催側の学芸員にはバウハウスでの本来の活動やフォトグラムほどには重要に見えてなかったんだろうと思う。
展覧会はそこに行かないと見られないという点と、もう一つ企画する側が企画したものしか見られないという嫌なところもある。向こうの思惑で投げ与えられたものしか見ることが出来ない、自分が今見たいと思っていてもだからといってその展覧会が自動的に発現するわけでもない。これも展覧会のもつ旧態依然とした特徴なんだろうと思う。
与えられたものしか見られないというのは映画でもそういうところはあったんだけど、DVDやブルーレイで今は随分と様子は違ってる。
☆ ☆ ☆
最近はミノルタのフィルム一眼にモノクロフィルムを詰めて、ニコンのコンデジS9700をサブカメラとして、スプリングコートのポケットに入れてるような組み合わせが多い。おかげでS9700が手元に来る前までサブで使ってたオリンパスXA2は撮ってる最中のフィルムが入ったまま一時休業状態のようになってしまってる。フィルムが入ったままというと、ピジョンフレックスと学研のピンホールカメラもそうなんだけど、こっちはフィルムを入れた時の気分と若干違う気分になってるので、これまた手を出せない状態になってる。
あまり面白くないなぁとぼやきながらもポケットからS9700を取り出し、何だかデジのほうでもそれなりにシャッターを切っていて、見直してみれば、デジ臭さを何とか取り除くことができたなら、結果はどうも意外とデジにヒットしたものが多いような気がする。これは本当に思いもしなかった成り行きなんだけど、フィルムで撮ってるほうに当たりが少ないというのが今度は逆に何だか悩ましい気分になる。
街中で撮るには手軽で機動性のいい道具のほうが適合してるんだろうし、ズームもフィルムのほうではほとんど使わなくなってたけど、S9700のズームは機動性を加速させて結構役に立つ。そういうところがコンデジで撮ってる写真に思考が入り込む隙をなるべく作らせないようにしていて、肩の力が抜けた写真を可能にしてくれてるのかもしれない。
一枚目は街中で見たディスプレイの断片。
下に見える、これは店への入り口の上の縁でちょっと邪魔かなと思ったけど、どこか崩して全体に決め決めにならないほうが面白いかなと思って、あえて画面に入れるようにして撮ってみた。結果は崩した不安定感もあまり出てなくて、単に邪魔なだけにも見えてくるなぁ。
街中で撮ってると、どうしても店のディスプレイとか撮ってることが多くなってる。そして、こういうものを撮る時はいつも、これがかっこいいとするならそのかっこよさは撮ったわたしの写真にあるのかディスプレイした人の感覚にあるのかということが頭に浮かんできたりする。前にも書いたけどこれはディスプレイした人の感覚が導いてきたもので、わたしの写真が生み出したものではないだろう。こういうことが頭に浮かんでくるから街中で人間が作ったものはあまり撮りたくないという感情も生まれてくるし、そういう時は森にでも行って神様のデザインによる木々の曲線なんかを撮ってみたりしてる。
単純に街で眼にするものはすべてのものが街を構成するパーツの一つと考えれば、街を観察し撮ることにおいて、何もこんなに屈折した気分にならなくてもすむと思うんだけどね。
二枚目のはとある廃屋で。
最後のは小学校。午後の誰も居なくなった小学校。がらんとした学校の雰囲気は結構好きだ。しかも蛇口が並ぶようなこういう場所は子供の存在をどこかに寄り添わせていて、その不在が際立つ。この場所はさらに全体が日陰になってるところに日差しが差し込んでいた。
閉じた格子状の門の向こうに見えていた場所だったんだけど、陽射しがおちてる光景を撮りたくなって、門の格子の間にレンズを差し入れて撮った写真だった。子供がひけた後とはいえ、小学校でこういうことをやるのはもう完全に不審者の振る舞いだったので、手早くシャッター切って、咎められないうちにレンズを格子から抜いて退散した。
☆ ☆ ☆
ストリートで写真家がどんな風に写真撮ってるか、これ見るたびにいろんな意味で凄いなぁと思う。この動画でも警官に説明してるところがあるけど、日本でやればまず間違いなく交番に連れて行かれる。こういうタイプの撮影方法は認めても、このマーク・コーエンのようなやり方には随分と批判もあるようだ。
VIDEO 了解を取ってたらまず撮れない写真もあると思うから、こういう撮影方法を取るほかないところもあるんだけど、こんなに無礼な態度で接するのは、どこか人の感覚として壊れてるところでもなければ、あるいは変質者だと思われてもまるで平気くらいに開き直るほどでないとできそうにもないだろうなぁ。
人の生き方がどうのこうのなんていうことよりも、壁のこのラインが美しいなんて云ってるのが、自分と似たようなところに反応してる人だなぁと、そういうところも面白かった。