木馬と下着 / Dave Clark Five - Because

木馬と下着






駅ガラス






繰り返すステップ






空中回廊から


2014 / 12 (1)(2)
2014 / 11 (3)
2017 / 02 (4)
Nikon F3 / Fuji CARDIA Travel mini DUAL-P
Fuji Venus800 / Kodak SG400 / Kodak Tri-X


下着といえば組み合わせは騾馬のほうがしっくり来るのかもしれないけど、ここは木馬が登場する。何だか文芸調の官能小説にでも出来そうなタイトルだ。そんな官能小説が本当にあれば増村保造辺りが映画化してそうな感じだなぁ。
タイトルに沿うのは最初の一枚だけで、ほかは内容的にはまったく関係ない。関係があって集めたとすれば全部京都駅で撮ったということくらいか。とにかく京都駅ではことあるごとに写真を撮ってる。表現なんていうことに矮小化させず写真の特性を活性化させるのに、同じ場所を執拗に撮るというのは方法論としては有効なんだけど、さすがに同じ京都駅で撮るのは今はちょっと飽きてきた。同じものをひたすら写すって精神的に強靭なところでもないとなかなか続かない。
撮った写真は後々、あの時代の京都駅はこんな風だったと京都駅の歴史を振り返る役に立つかと言うと、おそらく懐かしさも呼び起こさないようなドライな写真ばかりだろう。わたしはそれで良いと思って撮ってるんだけど、多少は本当にそれで良いのかなと思う部分もあるかもしれない。

木馬はバックの暗がりも含めて色の感じもお気に入り。見方によっては濁ってるとも云えそうだけど。


☆ ☆ ☆


Dave Clark Five - Because


ビートルズが活躍してた頃のバンドだ。アメリカのヒットチャートでビートルズの曲を1位から引き摺り下ろしたこともあるほど、当時は人気があった。パワーポップ系統のバンドだったので、しかもバンド名になってるデイブ・クラークがドラマーということもあって、ドラム強調の本来は喧しいのが特徴なんだけど、これはそんなバンドが歌うバラードになる。キーボードのマイク・スミスのソウルフルなボーカルを乗せたラウドな演奏こそがこのバンドの本領だと考えてる人には、この曲は唾棄すべき曲となってるかもしれない。
わたしはこういうミディアムテンポで和音構成が綺麗な曲って好きだけどね。あっという間に終わってしまう儚さも良い。
でも、いくら好きで当時売れたからといって、これを代表曲というのはビートルズの代表曲ってイエスタデイでしょといってしまうのと同じくらい違和感はあるなぁ。
デイブ・クラーク・ファイブはバンドとしては大成功したにもかかわらず、アイドル的な売れ方だったのでその後のロックの変化に乗り切れずに消えていった。デイブ・クラークが音源の一切の権利を持っているらしく、なぜか再版するのを拒み続けて、懐メロ的な復活も出来ずに人の記憶から零れ落ちていったグループでもある。
ちなみにジュリアン・レノンがこの曲をカヴァーしてる。










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影と踊ろう

ハート
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





廃屋の窓
2015 / 11 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像






校舎
2015 / 10 / OLYMPUS PEN E-P5








先日大河ドラマの真田丸を見終わった後、いつもならTVのスイッチ切ってしまうんだけど、この時は何となくつけたままでいたら、次の番組で若冲の特集が始まった。どうやら今東京で展覧会をやってるらしい。
へぇ、そうなんだとちょっと調べてみたら、どうも京都にはやってこないようで、その時点でちょっと腹が立った。
絢爛豪華でなおかつポップでモダンでスタイリッシュ、さらに今で云うところのほとんどドット絵そのものといったぶっ飛んだ絵を発想するような、同時代の絵師たちとはまるで違った独自の眼と技を持っていた画家。その分野の文脈にまるで入らない、自らの感覚のみを頼りに描き続けたような作風は、分野が違っても得るところは多いにある。その分野の文脈で描こうとはしなかったというのはわたしの特に気に入ってるところでもある。わたしは若冲が象を描いたのでも、何しろ象が好きで、というかストレートに象というよりもどちらかと言うとガネーシャなんだけど、ともかく象に関した置物を集めたりしてるくらいだから、この点でも若冲は大好きな日本画家だったりする。
一応今回のこの展覧会は京都には来ないようだけど、数年前、と云ってももう10年くらい前になるか、若冲の展覧会は京都でも開催されていて、確か美術館じゃなくて京都国立博物館のほうだったと思うけど、それは見に行って豪華な図録も手にいれてる。この時の図録は資料的にもかなり良く出来ていたものらしい。
でも一度は開催された展覧会を見に行ってるとはいえ、今やってるのを見られないというのはやっぱりちょっと腹が立つなぁ。
展覧会は開催してるところに行かないと見られないというのが、一点しかないものを見る意味を呼び起こしたりするものの、やっぱりこういうところは古いタイプのシステムなんだと思うところもある。
一応京都で以前に見てるから、お金もかかるし東京へ行く気にまではならないけど、見に行けないなら図録だけでも手に入れたいところだ。美術館のショップのほうではネットでの通信販売はやってなくて、日経の関連ページから注文できるようだった。
展覧会といえば、今は京都で安井仲治の展覧会をやってくれないかなと思ってる。安井仲治のシュルレアリスム的で幻想的な写真は今とても興味を引いてる。また、モホイ=ナジの写真に特化した展覧会もやってくれれば絶対に見に行く。モホイ=ナジの展覧会は数年前に京都で開催されてその時のことはこのブログでも書いてる。でもこの展覧会ではモホイ=ナジの写真に関してはフォトグラム関連以外はあまり展示されずに、会場内の暗くした一室でスライドショーで見せていたくらいで、しかも図録にもあまり記載されてなかった。暗い一室で見ていた一連の写真はスナップショットの類で凄く面白かったんだけどなぁ。フォトグラムは大きく扱われてたけど、この暗い部屋で見たスライドはモホイ=ナジの撮った「その他」の写真扱いで、開催側の学芸員にはバウハウスでの本来の活動やフォトグラムほどには重要に見えてなかったんだろうと思う。
展覧会はそこに行かないと見られないという点と、もう一つ企画する側が企画したものしか見られないという嫌なところもある。向こうの思惑で投げ与えられたものしか見ることが出来ない、自分が今見たいと思っていてもだからといってその展覧会が自動的に発現するわけでもない。これも展覧会のもつ旧態依然とした特徴なんだろうと思う。
与えられたものしか見られないというのは映画でもそういうところはあったんだけど、DVDやブルーレイで今は随分と様子は違ってる。

☆ ☆ ☆

最近はミノルタのフィルム一眼にモノクロフィルムを詰めて、ニコンのコンデジS9700をサブカメラとして、スプリングコートのポケットに入れてるような組み合わせが多い。おかげでS9700が手元に来る前までサブで使ってたオリンパスXA2は撮ってる最中のフィルムが入ったまま一時休業状態のようになってしまってる。フィルムが入ったままというと、ピジョンフレックスと学研のピンホールカメラもそうなんだけど、こっちはフィルムを入れた時の気分と若干違う気分になってるので、これまた手を出せない状態になってる。

あまり面白くないなぁとぼやきながらもポケットからS9700を取り出し、何だかデジのほうでもそれなりにシャッターを切っていて、見直してみれば、デジ臭さを何とか取り除くことができたなら、結果はどうも意外とデジにヒットしたものが多いような気がする。これは本当に思いもしなかった成り行きなんだけど、フィルムで撮ってるほうに当たりが少ないというのが今度は逆に何だか悩ましい気分になる。
街中で撮るには手軽で機動性のいい道具のほうが適合してるんだろうし、ズームもフィルムのほうではほとんど使わなくなってたけど、S9700のズームは機動性を加速させて結構役に立つ。そういうところがコンデジで撮ってる写真に思考が入り込む隙をなるべく作らせないようにしていて、肩の力が抜けた写真を可能にしてくれてるのかもしれない。

一枚目は街中で見たディスプレイの断片。
下に見える、これは店への入り口の上の縁でちょっと邪魔かなと思ったけど、どこか崩して全体に決め決めにならないほうが面白いかなと思って、あえて画面に入れるようにして撮ってみた。結果は崩した不安定感もあまり出てなくて、単に邪魔なだけにも見えてくるなぁ。
街中で撮ってると、どうしても店のディスプレイとか撮ってることが多くなってる。そして、こういうものを撮る時はいつも、これがかっこいいとするならそのかっこよさは撮ったわたしの写真にあるのかディスプレイした人の感覚にあるのかということが頭に浮かんできたりする。前にも書いたけどこれはディスプレイした人の感覚が導いてきたもので、わたしの写真が生み出したものではないだろう。こういうことが頭に浮かんでくるから街中で人間が作ったものはあまり撮りたくないという感情も生まれてくるし、そういう時は森にでも行って神様のデザインによる木々の曲線なんかを撮ってみたりしてる。
単純に街で眼にするものはすべてのものが街を構成するパーツの一つと考えれば、街を観察し撮ることにおいて、何もこんなに屈折した気分にならなくてもすむと思うんだけどね。
二枚目のはとある廃屋で。
最後のは小学校。午後の誰も居なくなった小学校。がらんとした学校の雰囲気は結構好きだ。しかも蛇口が並ぶようなこういう場所は子供の存在をどこかに寄り添わせていて、その不在が際立つ。この場所はさらに全体が日陰になってるところに日差しが差し込んでいた。
閉じた格子状の門の向こうに見えていた場所だったんだけど、陽射しがおちてる光景を撮りたくなって、門の格子の間にレンズを差し入れて撮った写真だった。子供がひけた後とはいえ、小学校でこういうことをやるのはもう完全に不審者の振る舞いだったので、手早くシャッター切って、咎められないうちにレンズを格子から抜いて退散した。


☆ ☆ ☆

ストリートで写真家がどんな風に写真撮ってるか、これ見るたびにいろんな意味で凄いなぁと思う。この動画でも警官に説明してるところがあるけど、日本でやればまず間違いなく交番に連れて行かれる。こういうタイプの撮影方法は認めても、このマーク・コーエンのようなやり方には随分と批判もあるようだ。



了解を取ってたらまず撮れない写真もあると思うから、こういう撮影方法を取るほかないところもあるんだけど、こんなに無礼な態度で接するのは、どこか人の感覚として壊れてるところでもなければ、あるいは変質者だと思われてもまるで平気くらいに開き直るほどでないとできそうにもないだろうなぁ。

人の生き方がどうのこうのなんていうことよりも、壁のこのラインが美しいなんて云ってるのが、自分と似たようなところに反応してる人だなぁと、そういうところも面白かった。







真冬3

冬のプール
2016 / 01 / Nikon F3 / Lomo Color Negative 100





冬のプールサイド
2016 / 01 / Nikon F3 / Lomo Color Negative 100





幼稚園
2016 / 02 / Fuji Natura Classica / Natura1600




真冬というタイトルもそろそろ季節外れになりそうな気配。春になってもまだやってるタイトルじゃないなぁ。
今回の写真はこの前管理棟の写真を載せたプールを撮ったもの。135mmの望遠で撮ってるから平面的、ちょっと絵画的な雰囲気になってる。この誰もいないプールの真横に実は室内プールの建物があって、室内プールと屋外プールは大きなガラス窓で区切られてる程度。室内プールは賑わっていて、この写真を撮ってるすぐ横のことなので、写真撮ってる間、その賑わいは手に取るようにわかった。
フレームで真横にあった賑わいを切り離してるからまるで誰もいないプール、赤い三角コーンが所在無げに転がってる空虚な空間に見えるけど、実際はかなり違って、ようするにちょっと嘘が混じってるというわけだ。

二枚目のはもうちょっと反射光がキラキラして欲しかったけど、あまりキラキラすると夏の光景のようになってしまうかな。とにかくこの冬はなぜか写真を撮ってる間だけ曇ってるという非情な日が多かったので、こんな写り方になってるんだと思うけど、何だかしょぼいなぁ。横の柵が水に沈んでいく感じは若干非日常的で、全体のイメージはそっち方向に引っ張っていけてるとは思うんだけど。

三枚目だけ違うカメラで撮ったもの。これ、幼稚園だったんだけど、何となく絵になりそうだなぁと思って撮ってみたものだった。

さて、このところの撮影気分だけど、やっぱり似たような状態が続いてる。ここぞというところでピンとこない、視線が上滑りしていくような精神状況が続いていて切れ間が無い。今度はあそこに行ってみようかと思いついても、大した写真も撮れなさそうかなと何だか予測めいたものが目の前に立ち上がってしまってなかなか動く気分にまで持っていけないような日々が続いてる。
ちなみに今回のフィルムは使用開始時も記録しておいて、それによるとセットしたのが今年の1月12日で撮り終えて現像に出したのが3月の15日となってる。間にRZ67でブローニーを使っていた期間もあるんだけど、今の気分ではフィルム一本36枚撮るのにこれだけの期間が必要だったということだ。
考えすぎてるんだろうと思う。凄い写真を撮ってやろうというような浅ましい野心が勝ちすぎていて、その心情に絡め取られてしまってる。野心なんかに従わず、直感に従え。連鎖する今の気分に空隙を開くのはこれだと思う。

最近ブルータスで森山大道の特集をやっていた。こういう写真家をとりあげることだけでも面白いんだけどこれはちょっと入門編のような所があって、雑誌の特集だと10年ほど前に出たコヨーテの創刊号でやっていた森山大道の特集のほうが読み応えがありそうな気がする。
そのコヨーテのほうの特集でホンマタカシとの対談の中、一本のフィルムで実際にどのくらい焼くのかという質問に、直感で大体10カットくらいセレクト、その中で気に入ったものは大体1~2カットくらいだけど、500本、600本と撮ってるとかなりの数になってくると答えていた。
わたしなんかこのブログに載せるのに、まぁ全部お気に入りというわけでもなくてこれでもいいかなというのまで載せてるから、フィルムに納まった写真の三分の一くらいは披露してるんだけど、これだ!って云う出来の写真は、プロでもフィルム一本につきこんな数が少ないんだと思うと、つまりフィルムの大半がどうにもならないと判断したもので埋まってるんだと思うと少しは気が楽になる。
傑作を物にしよう、他人に見せて恥ずかしくないようなものを撮ろうと思う遥か手前で、意味へ収斂していく前に直感を拠り所に考えずに撮る。撮っている時にいいとか悪いとか考えず、そうやって膨大に撮っていく中で立ち上がってくる写真を選んでみるって云うような方法だと思うけど、硬直しがちなわたしの頭や感覚にはこういう方法は結構有効的なんじゃないかと思う。


☆ ☆ ☆





同じロモのカラーネガ400よりも色の感じはこっちの100のほうが好き。カメラのシャッタースピードの上限にも関係するけど、大体感度400だと最速のシャッタースピードにしても晴天の屋外では絞り8くらいまで絞る必要があり、絞りをいろいろ変えるような遊びはなかなかやりにくい。一方感度100だと多少絞りを開いたりして色々試せたりする。ただちょっと影のところとかになるとあっという間にシャッタースピードまで落とさざるを得なくなって、望遠レンズをつけてたりすると結構手振れしてしまうことがある。今回のフィルムも135mmのレンズを使って昼間の影の領域で撮ったものに手振れしたものが何枚かあって、昼間なのにありえないと思った。三脚をつければ問題解決なんだけど、街中のスナップで三脚みたいな機動性の悪いものをつけるわけにもいかないし、望遠で撮るならハイスピードのフィルムを使うか、石のように動かなくなる練習でもしたほうがいいかもしれない。 






今さら森山大道って云う気がする人もいるかもしれない。でも、エピゴーネンたちが未だにアレ、ブレ、ボケの周囲をうろつくしか術を持たないような状況で、本人はこだわりもなくさっさと先のほうに進んでいってしまってる、その衰えない疾走感はやっぱり面白い。何しろ絶対にモノクロフィルムに拘りが有るだろうと思ってたのが、いつの間にやらトライXなんか簡単に捨ててしまって、いまやコンデジで撮ってるんだもの。最近使ってるのがニコンのクールピクスS9500っていうコンデジだそうで、森山大道といえばフィルムはオリンパスμ、そしてフィルムとデジで、リコーのGRというイメージが強かったのに、そのGRも簡単に捨ててしまってるこだわりの無さが凄いと思う。写ればカメラなんてなんだって良いというスタンスが、どこのレンズのボケ味がどうのこうのと薀蓄垂れ流してるようなやからを蹴散らかして驀進してるようで小気味がいい。これでしょうもない写真しか撮れなかったら笑いものになるところだったんだけど、結果をきちんと残してるものだからこれはもう平伏するしかないだろう。で、余談だけどこのニコンのコンデジ、森山大道が使ってると知って欲しくなってるわたしがここにいる。拘りが全く無い人が選んだ道具に拘ってしまうというのも妙な話だと、自分でも思ったりするけど。

コヨーテのほうの内容は刊行された当時に行われたパリでの大展覧会や宇和島でのドキュメンタリー、彷徨する写真家の軌跡を辿るような関係者のエッセイとそれに添えられた写真群といったものなんだけど、写真が多くみられたのは写真家の特集としてこれは当然で、それとは別に意外と面白かったのが読書家でもある森山大道の愛読書を紹介してるページだった。おぉやっぱりケルアックなんかも読んでるのねと納得したり、内田百閒も混じってわたしには親近感が増す読書遍歴のようだった。



木霊2

木霊
2015 / 12 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像





人形たちの夜
2012 / 09 / LOMO SMENA 8M / Kodak GOLD 100




不穏な眼差
2014 / 09 / Goidenhalf / Fuji Venus800



今回のは最近じゃなくてちょっと前に撮ったものとかなり前に撮ったものの混ぜ合わせ。
今月に入ってからはPC周りのトラブルで気が滅入っていたり、あまり天気も良くなかったりでいつもほど撮影しに出かけてない。えらいものでわたしがやってる程度の撮影でも暫く間が開くと、気持ちをそちらのほうに向けたりするのに思いのほか手間がかかる。どういう判断でこの空間が特別だと感じてフレームで切り取っていたのかといった半ば無意識的なスイッチの入り方や、ここで撮らないでどうするといった手応えが今ひとつ掴みきれないような状態になっていたりする。
結果としてファインダーを覗いても特別に何かが見えてくる気配もなくてシャッターを切るまでには行かないなんていうことが多くなってくる。
こういう時に良くやってしまうのが、今まで撮った時の感覚をもう一度再生産するような感じで使ってしまうこと。こういう風に撮った時に結構かっこいい絵になったという経験を引っ張り出してきてもう一度適用させようとする。でも自分の模倣みたいなのは何の役にも立たないし、やるべきでもない。
それは分かってるんだけど。

☆ ☆ ☆

一枚目はマネキンのポーズが何だか絶妙な感じがする。半ば放置気味、あるいは夜の活動時間の遥か前で今だ眠りの真っ最中のマネキンのようだったけど、マネキンでも人前に出てポーズを作ってないと、人前には出さない、気を許した表情を纏ってるようで、何だかプライベートな空間を覗き見してるような気分になった。もう一つ、これ、顔が見えないのがいい。
基本的に人形は好き。人の形を模倣するって云うのは特に妖しげに作られた人形でなくても、ジェニーやペコちゃんでも呪術的だし、やっぱり形としては独特なものだと思う。人の形を抽出したものじゃなく、人を撮ったとしてもわたしはおそらくそんな感覚で見てることになるだろうから、人の生き様とかまるで関係を持てずに、やっぱりポートレート写真は撮れない感覚の持ち主なのかもしれない。
ハーフサイズのトイカメラを使った三枚目は街中で見かけた「眼」を撮ってみようと言う趣向でカメラを向けていたものの一枚。でも街中で「眼」なんてほとんど見ない。ポスターの中の人物の眼とか、そんなのばかりで思ってるほど面白そうな展開は今のところしてくれそうな手ごたえもない。
壁に描かれた眼をひとつ京阪の宇治線に乗ってる時に車窓から見つけたんだけど、工場の専用駐車場に面した民家の裏側の壁といった近づけない場所だったから撮れないでいる。富岡多恵子が「写真の時代」の中で言ってるような、すべてのものが写真を撮られるために存在してるわけではないというのを見事に実践してるようだ。

真ん中に挟んだ、これも人形の写真は今はもう無いある店の窓に飾られていたもの。風変わりな人形が気を引いてシンプルに撮ってみた。ここに何かあるとすれば写真にではなく窓の中のものに属する。
何ヶ月か前に撮ったものと比べてみると、他の写真は時間が経過した分、それなりに工夫を盛り込もうと、あるいは幾分ひねくれて撮ってるのが分かったりする。

☆ ☆ ☆

PCの修理は無事終了。大体1時間くらいだった。修理依頼の電話をかけてから、我がPCはまるで故障などどこの話だと云わんばかりに、それなりに気前良くスイッチが入るへそ曲がり振りを発揮していたのが、ここにきて空気を読んだのか、修理の人の前ではものの見事にうんともすんとも云わない状態になっていて、これは本当に有り難かった。大体PCの現状を把握するために修理の前にテストされるのは分かってたから、ここでまともに動いてると、顧客なのに何だか言い訳じみた説明をしなければならないかもと、妙なストレスがかかってた。
Dellから送られてきていた部品の箱は結構大きくて、どうも基盤、電源ボックスなど、電源が入らない場合に必要とされる可能性があるもの一式入ってたようだけど、一旦スイッチが入ったらその後は普通に使えるので、トラブルは基盤にまでは及んでないと判断され、電源スイッチの交換だけで完了となった。
後でメールで送られてきた修理の内容を詳しくレポートしたものによると、修理中にスイッチを交換してテストした後もう一度もとのスイッチを繋いでみて動かないことの再確認とかやって問題が電源スイッチにあると切り分けをしていたようだった。へそ曲がりのスイッチだったけど最後はよくぞこのテストの間までまるで応答なしの状態でいてくれたものだと思った。
このPC、2chの専用スレとか見てみるとわたしの場合と似たような電源スイッチの不具合が結構あるようで、繊細さを指先にこめて押し込む必要があるかもしれない。

やっぱり目の前で修理してもらえるサービスはいい。来た修理の人も人当たりのいい人だったし、修理はスイッチの交換だけだったんだけど、PC内部とモニタを含む机周りの掃除までしてくれた。
あとは送られてきたものの修理で使われなかった部品を送り返す手順が残ってるけど、修理の人が梱包してくれた箱をこれまた修理の人が手配した運送業者が我が家にやってきた時に手渡すだけ。特にこちらが何かをするという必要もない。

PC関連で期限間近なのでやっておかなければならないことは、セキュリティソフトのライセンスの更新とデルのサポートの延長契約が残ってる。
セキュリティのほうはデルに最初からついていたライセンス期限のあるマカフィーのものを止めて、NTT西日本が回線使用者に提供してる、回線使用料に込みになったもの、どうやらトレンドマイクロの提供するもののようだけど、更新にお金がかかる今のマカフィーからそれへ変更するつもり。トレンドマイクロのはネットで調べてみると評判は最悪だった。でも回線料金に含まれてるので使わないのはあまりにももったいない。
セキュリティソフトの入れ替えはシステム深くに組み込まれてるからあまり気楽な感じがせず、あと一ヵ月半くらいで期限が切れるのに手を出す気になかなかならない。ウィンドウズ98くらいの頃は、使ってたのはノートンだったけど、削除し切れなかったファイルがあるとかメッセージが出て、PCの中にゴミが残ったりした。今のはこんな中途半端なこともなく綺麗さっぱり削除できるのかなぁ。

と、これを書いた数日後にセキュリティソフトの入れ替えを決行。
結果は何も問題も無く簡単に入れ替えることができて一安心というところ。これで少なくともNTT西日本の回線を使ってる限りは、あるいはトレンドマイクロのがとんでもない代物でもない限り、セキュリティソフトのライセンスについてはもう考える必要が無くなった。マカフィーは削除する手順の最初で、使ってもらえない理由をどうか聞かせてくださいと、ちょっと泣き落としのようなメッセージが出てきて、悪いかなと躊躇いを誘うようなところもあった。
でも使わない理由は教えてあげない。


橋の情景

東山陸橋01
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像





九条陸橋03
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像





九条陸橋周辺
2015 / 11 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 35mm f2 / Fuji NEOPAN 400 PRESTOを自家現像


今回のはあまり奇をてらわずに撮ったもの。横位置で撮るというだけで客観っぽい要素も顔を出してくるようだ。
見たこともないような視点で撮ってみたいという欲求はいつもあるにしても、奇抜で目を引くっていうのは考えてみれば結構当たり前。もちろんそういうのも面白くて撮る時はいつも頭の中で策略を練ってたりするんだけど、ごく普通に撮って、なおかつそれが際立った印象になってるとすれば、それもまたかっこいいんじゃないかと思う。服装でいうなら流行で尖がったファッションとありきたりのアイテムを上手く着こなしたファッションっていう感じになるかな。ここに載せてるような微妙で微細な何かへと潜行していくような感覚は続けているとやっぱり疲弊してくるし、広い視野に身を置きたいと思うこともある。
でも、特異なイメージになるようにテクニックを駆使して撮るのよりも、普通に撮ってどこか印象に残るような写真を撮るってある意味本当に難しい。写真の持つクリシェに捉われることなく行うのはさらに難しい。
わたしの好きな写真家はでもこういうところは軽々とクリアしてる。アレック・ソスのようにレンズ付きフィルムで撮っても、際立つ写真が撮れてる。その秘密はどこにあるんだろうか。
敬愛する写真家清野賀子さんの白鳥の歌となった写真集の、パウル・ツェランの詩文から取られたタイトル「至るところで 心を集めよ 立っていよ」という言葉が、静かにわたしの心の中へと降りていく。
鍵はこの辺りにあるのかもしれないと思う。
でもあらゆる場所と時間において、心のすべてを集めて、立ち尽くしていることは、思うに孤独であり、云うほどには簡単じゃない。

☆ ☆ ☆

久しぶりにどこで撮ったかも書いておこう。観光案内にはならないと思うけど。
この橋、鴨川にかかってる橋の中では結構好きな橋になる。九条陸橋というあまり風情もない名前の橋で東福寺の近くにかかってる。もとは市電が通っていた橋で、市電が廃止された後、今は車が行きかうだけの橋となってる。名前が陸橋となってるのは鴨川の上だけじゃなく、たとえば東の端は日赤の手前辺りから始まるように、陸の上にもかかっているからなんだと思う。
古風な印象の橋でもなく、市電が通るための目的で作られた無骨な橋にすぎない癖に、どこかちょっとモダンな印象がある橋だ。鴨川にかかる橋としては結構巨大な部類に入り、巨大な分視覚的なダイナミズムもそれなりにある。
JRの鴨川橋梁の上を走る電車から、この橋が見える。JRが鴨川の上を通る時、視界が急に開けるのが視覚的な変化として楽しいんだけど、そのいきなり開けた川の空間の向こう側に見えるこの橋は、結構存在感を主張して視界に入ってくると思う。

☆ ☆ ☆

最近、使ってた安物の時計の電池が切れて、ヨドバシカメラの時計売り場の修理コーナーで電池を入れ替えてもらった。シチズンだったか、Q&Qという名前の雑貨屋時計で、1600円ほどで買ったものに電池の入れ替えで1000円払って、これ、あと600円程度で新しい時計が買えるなら、600円上乗せして買い換えたほうが傷だらけになった安物時計を使い続けるよりも良かったかなと思った。
で、何だか新しい時計も欲しくなって物色してたら、カシオからも似たような安物時計が出ていて、どうやらチープカシオなんて呼ばれてるものらしいけど、そのなかに、金時計を発見。
実は夏頃に若い女の子が、でかくて豪華な金時計にこれまたでかいピンクの玉の、おそらくローズクオーツだと思うブレスレットを組み合わせていて、ラフな服装に合わせた、成金趣味に陥らないその金時計のあしらい方が妙にかっこよく見えて、金時計が欲しいなぁと思っていた。
どうせ高いに決まってると思ってたから、欲しいと思いながら探しもしなかったら、あまりでかくも豪華でもないけど、チープカシオの中に2000円程度で買えるものがあって、思わず買ってしまった。

金時計
ベルトの調節に持ち出しただけで、一度も使ってないから、盤面の保護シールもまだそのままだ。こういうのを剥がす時に結構決断力がいるタイプというか、ある種気合が必要となる。これはまぁ目立つから使う前に剥がすけど、目立たないものだったら出来ればつけたままでいたいと思うほうかも。
最初はアマゾンで見つけて、その後ヨドバシでも発見、値段はヨドバシが200円ほど高価でも、ポイントが200円分ついてその分は帳消し、おまけにヨドバシで買った時計はバンドの調節が無料となると、これはもうアマゾンで買う選択肢は無くなってしまった。



この何年もファッション的なものに手を出してなかったけど、今年の年末はちょっとこういうところに刺激を受けてしまって、身の回りの、飽き飽きしながらも別にそれでもいいわと使い続けてるものを新調したくなってきてる。
金時計の次はチチカカでみたエスニックのリュックが欲しいなぁ。工夫すればカメラも入れられそうな感じだった。バッグに関してはカメラが入るって云うのがまず一番の選択条件になってしまってるから、ろくな選択肢がない。
カメラバッグとして売られてるものはものの見事にダサいし、カメラが入ればそれでいいんだろうと言わんばかりの作り方で、さて財布をどこに入れようかなんていう段階で、既に大いに考え込んでしまうくらい、本当に使い勝手が悪い。だからといってダサくないように工夫したカメラバッグはその魂胆が逆に眼についてしまって、そのままダサいカメラバッグと同じくらいダサかったりする。
わたしの場合は雨が降ってきたときなんかにしまいこむだけの意味合いしかなくて、持ち運びはバッグに入れて移動なんかせずに、襷がけにしたり手に持って歩き回ってる。つまり雨が降らない限りはバッグの中のカメラが入る予定のスペースはいつも何も入ってない状態で持ち歩いてるという、極めて効率の悪い使い方しか出来ない。
だから本格的なカメラバッグじゃなくても、保護用のインナーケースを入れた程度の普通のバッグなりリュックで十分なのかも知れないといつも思ってる。リュックは入れたものが全部底面に集まっていくからインナーケースが一番下に来る形は使いにくいだろうなぁと思うんだけど、どちらにしろカメラバッグは使いにくいものだし、エスニックのデザインが気に入ってしまって、やっぱりあのチチカカのリュックが欲しいなぁ。これ、絶対にそのうちに買ってしまってると思う。





もっと豪華なのがいいんだけど。これちょっと大人しすぎるかも。
一度金色の時計をつけてみたかったので、つけた感じがどんなものか確かめるには最適の時計だった。