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拘束された馬の首 / Joel-Peter Witkin 「The Bone House」

目隠し馬





後ろ手バッグ
2015 / 06 心斎橋
Nikon AF600
Ilford XP2 Super

インパクト狙いのタイトル。まるで違う印象へと導いていくようにつけてみたけど、一応嘘はついてない。
それにしてもモノクロを撮る時はハイコントラストの写真が好みなんだと自分でも痛感する。もう版画に近いようなもので良いというか、ひょっとしたら版画家にでもなりたかったんじゃないかと思うくらい白黒はっきりしたイメージが好きだ。そういえばビートルズの昔からあの有名なジャケットのように、影で世界を黒く塗りつぶせという思いが常に自分の傍らに寄り添ってるような気がする。トーンが豊かでなめらかで独特のしっとりした色気のあるモノクロ写真は、自分で撮るとなるとそういうのは全然撮れないし、狙ってみても全体に締りのないイメージにしかならないから、なおのことそういう風に思うのかもしれない。

☆ ☆ ☆

インパクト狙いのタイトルなんていうので書き出して、実際にまさしくこのタイトルに沿うように退廃的でグロテスクでなおかつ美しいなんていう写真が撮れたら良いと、これはいつも思ってる。わたしのなかでそういうタイプの写真家の筆頭はジョエル=ピーター・ウィトキンだ。
ボーンハウス1
極めてグロテスクで退廃的で、でもそういう側面を織り合わせていかないと絶対に生まれてこない、特異ではあるけれど、言葉にしてみれば美的としか云いようのないものに満ち溢れてる写真を撮る、唯一無比の写真家。私がこの人の名前を知ったのは昔、美術の文脈においてだった。写真が予定調和的に持ってるものとはあまりにかけ離れてるせいなのか、写真そのものであるにもかかわらず、おそらく今も写真の文脈ではあまり名前が出てこない人なんじゃないかと思う。
ボーンハウス2
なにしろ被写体がモルグから持ち出した人の死体の断片や奇形だというんだから、この地点でもう出発してる場所が常人とはまるで異なってる。
子供の時に交通事故で千切れて転がってる少女の首を見てしまったことが感性の出発点だったというジョエル=ピーター・ウィトキンはそういう死体の断片を組み合わせて、まるで静物画のように静謐なイメージを作り、あるいはまた死体に色々と装飾を施してポートレート風の写真を撮る。そうやって撮られた写真には異界へと回路が開いた、死の匂いを撒き散らす幻覚に近いイメージの地平が広がってる。被写体がここぞとばかりに異様なものである反面、全体のイメージの構成は古典的な絵画に寄っていて、その辺りのバランスが被写体の異様さにもかかわらず優美な美しさといったものをもたらしてるんだろうと思う。

いくらこの超現実的で幻覚的なイメージが好きだからといって、あまりにも唯一無比的過ぎて後に続こうという気も起こさせない、この辺りがもどかしいところかもしれない。影響の受けようもないのでジョエル=ピーター・ウィトキンは遠巻きにして眺めてるだけしか出来ない写真家としてわたしのなかでは居座り続けてる。

それにしてもこんな写真家の写真をレビューのためとはいえ載せてしまって自分の写真と同じ区切りの中に並べたら、イメージの質に始まって、動機の切実さも含めてあらゆる部分で完膚なきまでに負けてるじゃないかと、否応なしに気づいてしまうなぁ。いくらお気に入りとはいえ自分の写真に並べてこういうタイプの写真集のレビューをやってしまうというのも考えものだ。




ジョエル=ピーター・ウィトキン自選の写真集。わたしの持ってるこの本はわりと手頃な価格で手に入る。色々と結構高価で手が出しにくい写真集ばかりというなかで、自選ということもあってジョエル=ピーター・ウィトキンの全体像を知るには良い写真集だと思う。箱に入って本そのものは布装と、豪華で堅牢な仕様なのも良い。ペーパーバックのようなのはこの人の写真ではあまり似つかわしくない。
これをきっかけにしてもっと知りたくなったら、さらに大部のものへと手を出せばいい。






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陰に住むもの / 夕陽は赤く-加山雄三

陰に住む魚
2016 / 09 / VREDEBORCH FELICETTE / Fuji ACROS 100を自家現像






振るギア
2016 / 11 / Nikon AF600 / Fuji Acros 100を自家現像





sal
2016 / 04 / Minolta SR505 / Fuji Presto400を自家現像



久々のモノクロ。自分で現像をやり始めると、代金を払って現像してもらうのももったいなくなって、とは云うものの夏の間は作業が若干面倒になるところがあるから、結局夏が過ぎるまではモノクロの撮影そのものから離れていた。暗室なんか持ってないからフィルムを現像リールに巻き取る作業はダークバックという、腕を入れることが出来る黒いビニールの袋状のものの中でやることになる。これが手から出る汗、湿気でフィルムがスムーズにリールの中へと滑り込んでいかなくなる場合があって、フィルムはむき出しの状態で、作業中は腕を抜けないダークパックの中にあるから、そうなるとちょっと厄介なことになる。薬液の温度管理も、これはわたしだけの感覚なのかもしれないけれど、温めておくよりも冷やしておくほうがどうもやりにくい。

で、久々のモノクロで張り切っていたのに、使ったカメラVREDEBORCH FELICETTEははっきり云って壊れてるし、AF600も玉水で盛大に放り投げてから、結局は半壊しているような状態で、夏が過ぎてからモノクロフィルムを詰めたカメラはどうにもこうにもならないというか、久しぶりのモノクロだったのに結果は思わしくなかった。

VREDEBORCH FELICETTEは西ドイツの大衆カメラらしい。でもドイツなのに作りはひょっとしたら2000円程度のトイカメラよりも酷いかもしれない。トイカメラでさえもコマ送りくらいは普通に出来るのに、このカメラはそれさえもまともに出来ないんだから凄い。職人気質のドイツ製品というイメージを面白いほど足蹴にしてくれる。
ニコンのAF600のほうは現像したフィルムに5、6コマ何も写っていない箇所があったりして、何で?と思って後で験しに動きを見てみると、レンズは繰り出すが時々シャッターが開いてないという状態になることが分かった。完全に壊れて何も動かないとなると諦めもつくが、まともに動く中でこういうことがたびたび起こるというのは気分的には一番始末が悪い。こういう不安定さがあると結局は使えない道具にならざるを得ないのに、使いたい気持ちはいつまでも残り続けることになる。まぁ28mmレンズのコンパクトカメラは、おそらくOEMでこのAF600と同じレンズだと噂のティアラだとか、他でも持っているから不自由はしないんだけど、でもこれ結構気に入ってたんだよなぁ。


暴れん坊カメラ
暴れん坊カメラ揃い踏み!


☆ ☆ ☆

最初のと二枚目のがこの夏が終わってから撮ったものだ。最初のは三条御池で、二枚目が烏丸から河原町の間の仏光寺通や綾小路通辺りを歩いていて撮ったものの一枚。仏光寺通、綾小路通辺りはメインの通りからはちょっと離れてはいるけれど路地というほどでもなくて交通量も多く、車を避けながら写真を撮っていても集中できずあまり良くない。
最初の写真はシーフードレストランの看板だ。でもこんな撮り方をしたら客足が遠のきそう。食事に誘うキャラクターというより、魔界から出てきたモンスターのように見えるもの。二枚とも若干コントラストを落としてるんだけど、一枚薄幕を通してみているような非現実感が出てきて面白かった。基本的にはハイコントラストのモノクロのほうが好き。でもやってみて全体に闇が浸潤しているように薄暗く茫洋としているこういうのも嫌いじゃないと思った。
試してみて初めて分かる好みとかもあるんだな。自分のことなのに自分でちっとも分かっていない。
三枚目は裏寺の、以前は京極東宝だったファッションビルで、これを撮った時はセール期間中だった。この突飛な服装のイラストはセール中の飾りかと思ったけど、どうやら普段でも店のショーウィンドウを飾っているようだ。ウィンドウに写り込んでいる対面のビルの様子が淡くざらついた影絵のようで、こういういイメージは結構好きだ。
と云ってファッションビルの飾り物は良く写真に撮っているけれど、自分のファッションはどうかというと、何だかもうファッションにお金をかけるような気にならなくなって、本気でどうでもいいような感じになってる。アクセサリーの類はエスニックやキラキラもの好きだから、結構つけたりはするんだけどね。
ファッションといえば個性だとか自由だとかそういう観念と結びつきやすい。でも考えてみれば、ファッションにおいて自由な人なんかほとんど見たことがない。服装は結局どこかのあるいは何かの集団に属することを表明するサインのようなもので、それそれ自分が属したい範疇を示すものしか着ることができない。最近はあまり聞かないけど、たとえば学校なんかで服装の自由化なんていうことが話題になることがあった。で、自由化を勝ち取っても、その後の服装はどうなるかというと、その時流行の実に画一的で、結局また皆が着ている別の制服としか思えないような私服に落ち着いたりするのがほとんどだろう。ファッションと云うとなんだか自由を絵に描いたようなもののようにも思えるけれど、実際は自由とはもっともかけ離れたものなんじゃないかなと思うことがある。この写真の服装は描画のタッチも加わり、奇矯でサイケデリックでかっこいいんだけど、でもこの服装をしたからといって、やっぱりそんなに自由であるようには思えない。

写真も、誰に頼まれてやっているわけでもなく、たった一つ自分の意志を拠り所にして撮りつづけているものだから、これも自由でありたいと思う。でも自由意志で始めているにもかかわらず、撮っていると何時も幾ばくかの制度的な視線が紛れ込んでくる。隙があれば皆が良いと判断するであろうものに寄り添おうとする。そんなこと無視してシャッター切れよと思うものの、達観も出来ずになかなか難しい。



☆ ☆ ☆



夕陽は赤く-加山雄三

以前から理由もなく気に入っていた曲だった。今にして思うとコードの展開具合とか、どことなくビートルズっぽい。きっとそういうところが気に入っていたんだと思う。
レノンがこれを聴いてDon't Let Me Downを発想したという説があるらしいけど、似ているところがほとんどないしそれは違うだろう。連想で思い浮かぶとするならAnd I Love Her辺りじゃないかな。






加山雄三のベストヒット盤的なものならこの曲はどれにでも入ってると思う。その数あるCDの中でこれはアビーロード・スタジオ・マスタリングなんていうのが値打ちなんだろう。そこはかとなくビートルズと繋がっている。





鉄の魚、水の中の太陽 +うつゆみこ写真集「はこぶねのそと」

鉄の魚
2016 / 06 /OLYMPUS μII 110 / Fuji Superia 400





水の中の太陽
2015 / 07 / Nikon AF600 / Kodak SuperGold 400


単純に2枚の写真を並べただけでインスタレーションもないんだけど、こういうのを一度やってみたかった。二つのイメージが隣接することで、元々そんなに異質のイメージでもなかったりすることもあって、シュルレアリスムの解剖台の上でミシンと蝙蝠傘が不意に出会うような美しさまとまではいかないようだけど、それでも二つのイメージが絡み合う、一枚の写真では出てこない何かがあるような気もする。並べた個々の写真も単独で見るよりも、他のイメージと関連付けるように並べると、新たな意味が生じるなんていう大層なものじゃなくても、ちょっとした余白めいたものが生じるようだ。

街中で見かけたものを採集でもするように四角いフレームで拾い集めていった。これはコピーし記録するという写真本来の意味に沿ったものだと思う。でもこういうものを撮っている時にいつも思い、そしてたびたびここでも書いていることは、かっこいいイメージがあるとするなら、それは鉄の魚を作った人や、インコと植物をドームに封じ込めた人の手腕によっているということだ。
こういうことを考え始めると、従来的な表現行為とは無縁でいられる写真の、ある種の過激性が面白くてカメラを持ち、街の中へ探検に出かけるようになったところもあるのに、わたしの想念は幾分揺らぎ始める。

アンディ・ウォーホルの絵画、というかシルクスクリーンの作品とか、大衆消費社会のアイコンなんていう出来合いのものを相手にして、最終的にはウォーホル独自の感覚によったものを生み出していた。モンローやプレスリーやキャンベルのスープ缶を素材としてああいうイメージを生み出せたのはウォーホルしかいなかった。
写真でああいう方向を見出せないものかと夢想する。誰かの作った鉄の魚を、もう少し自分の領域に引き寄せるような写真。写真を加工すればいいというのは一つの方向ではあるものの、でもコピーし記録するという写真の本質を逸脱したくないという条件がつくと、これはちょっと途方にくれてしまいそうだ。

まぁね、カメラ構えてる時はいつもこんな面倒臭いこと考えてシャッター切ってるわけでもないんだけどね。単純に面白そうなもの、自分が好むものを見つけたらフレームで切り取っているだけ。
ただガラスドームのインコのようなのは、その出来合いの空間との関係性で写真を撮るだけじゃなくて、このガラス容器の中に自分でインコと植物を閉じ込めて配置してみたかったというところはあったりする。

☆ ☆ ☆

こんなことを書いていると、うつゆみこの写真集を思い出した。

はこぶねのそと01

はこぶねのそとというタイトルの写真集。
既存のイメージやオブジェに粘液質で生臭そうなものを組み合わせて、キュートでグロテスクといったイメージの写真を作り出した写真集。今見るとどこかサブカルっぽい印象もあるかな。方法としては随分とユニークに見えるけれど、似たような方法、似たようなイメージで写真を撮っている写真家に今道子という人がいる。ただわたしは今道子のほうは数点の写真しか見たことがないので、はっきりとは云えないんだけど、この写真集のようなキュートさはあまりなさそうな印象だ。

はこぶねのそと02



はこぶねのそと03


上で書いたインコと植物を自分の手でガラス容器に封印してみたいと思ったことを、実際に試みている。既存のイメージに思い切り手を加えて作品世界といったものを構築している反面、写真としてはもう単純に目の前のものを端正に記録しているだけ。記録、コピーとしての写真は写真の本質ではあるんだけど、ここまで徹底されると、これが写真の表現だと言い切ってしまうのには、どうも居心地の悪い思いが頭をもたげてくる。この写真集を見ると、どこか矛盾した写真への思いのようなものに絡め撮られたような気分になってくるんだな。

写真集なんだけど写真を対象化するような行為はほとんどなされず、ひたすらに写真の目前で展開される世界に力が注がれている。写真の本質を体現しながら写真であることは目の前から消えうせている奇妙な感覚。目の前のサブカル臭漂うキュートでグロテスクなイメージを楽しむと同時にそういう奇妙さも体験できる写真集とでも云えるかもしれない。

それにしても一枚の写真を撮るために、こういう立体作品を作って、構築した世界一つに対して写真一枚で完結する創作行為とか、何だか凄い無駄を含んでるような気がしないでもないし、写真に撮って完結させるよりも、立体作品として成立させたほうがいいんじゃないかとも思うんだけど、これだけの手間をかけて最後に写真一枚でフィニッシュにするようなどこかねじくれた感性のようなものこそがいいという感じなのかなぁ。

☆ ☆ ☆

読み返してみると、何だか今回は話が落ち着くようで、散らばったまま終わったような内容だな。



☆ ☆ ☆





作る作品世界は面白いんだけど、この路線でそんなに先のほうまで進めるとも思えないなぁ。というかこの路線で果てしなく続けられたら、それはきっと凄いことなんじゃないかと思う。





【写真】雨の日の窓 +【音楽】David Lynch Lykke Li - I m Waiting Here

雨の日の窓2


結構前に撮った写真。放り込んであったフォルダの表記を見ると2012年の夏頃となってました。フィルムの前後のコマに写ってるものから云うと大阪港、コスモスクエア(そういえばあの近未来的な球型ドームはその後どうなったんだろう)に写真撮りに行ってた頃に撮ったもののよう。
これは大阪港を撮ったフィルムに入っていたけど、撮ったのは奈良です。
奈良公園の辺りを歩いていて、ちょうど雨に降られて逃げ込んだ商店街のアーケード。商店街の立ち並ぶ店の一つ、小さなビルの中に入ったら、隣の街路に向けて入り口が開いてる店舗との間に通路が開いていて、その通路の途中に開いていた窓からみえた光景でした。だから私が雨宿りに逃げ込んだアーケードとその隣接する街路との間に開いてる空間ということになります。
窓の向こうで朧に霞んでる光景なんて好きなイメージなので、これは撮っておかないとと思ってシャッターを切った写真でした。
窓の外の光景を撮るためには必ず室内にいる必要があるし、写真を撮るというポイントにおいては屋外にいるよりも室内に居合わせるほうが難易度は高く、さらに屋内にいてなおかつかっこいいヴィジョンになってる窓を見出すって云うのは機会としてはなかなか巡り合い難いかもしれません。

向こうにある建物が古びた廃墟だったりすれば、手前の窓に植物が這い回りかけていてどことなく朽ちているようなところがあるのとも相まって、もっといい雰囲気になってたと思うけど、残念なことに向こうのビルは新築のそれもさらっぴんのガラスがはめ込まれたばかりのような建築途中のものだったようで、これがせっかくの朽ち果てる窓のイメージを台無しにしてるという感じ。
さらに朽ち果てつつある窓といったイメージも、それにしては窓の汚れ方も中途半端で、もっと汚れていたり雨の筋がくっきりとついていたりするほうがはるかにかっこ良さげでした。

駅前の商店街の只中にそんな退廃的なものを要求するのも無茶だとは思うけど。




使用したカメラはNikon AF600。通称はNikon MIni。
28mm広角のとてもチープなプラスチックのフィルム・コンパクトカメラです。
クリック感がなくてまるで押し甲斐のないゴム製のシャッターを押すくらいしかやることないのに操作感は最悪、でもそんな操作感のわりには写りは吃驚するほどいいというような評価のカメラです。
どうやらレンズはフジのOEMって云う話で、ティアラと同じものだとか。
ティアラも持ってるけど、分からない。同じレンズだとすると同じ味付けの画像が出来上がるはずだけど、そんなに似た絵になるかな。



☆ ☆ ☆


David Lynch Lykke Li - I m Waiting Here
)

デヴィッド・リンチがCDも出してるって知らなかったです。最近廃工場を被写体にした、リンチ撮影のイレイザーヘッド的な写真集が出たというのを知って、この人は有名になった映画の監督以外にも、絵画作品手がけたりしてるから、視覚にまつわる幻視者として写真集はそれほど驚きでもなかったんだけど、こういうのまでリリースしてるのはちょっとした発見をしたような気分になりました。
もっとも意外とはいってもイレイザーヘッドのインダストリアルなノイズ・ミュージックはリンチが作ったものだし、基本的には音楽的想像力も兼ね備えてる人という認識はありました。
この曲はノイズ方面へは向かわないタイプの、それでもリンチ印ははっきりと刻印されてるような曲。
メロディアスな側面を持ちつつ、まるで煙が薄く満ちてるような薄暗い雰囲気はやっぱり退廃的で、知らない間に聴き入ってるような感じになってるんじゃないかと思います。

ボーナストラックで一曲だけコラボしてるのがLykke Liというのも結構意外な組み合わせ。
ブログを始めた頃にこの人の曲を取り上げたことがあって、確かに妙なセンスはあったんだけど、この時はリンチ的なものに親和性があるように思えませんでした。
ちなみにLykke Liで取り上げたって云うのはこの曲でした。
こうやって聴いてみると、以前の歌い方と大して変ってないのに、リンチの曲に入り込んでもほとんど違和感はないのが面白いです。

Lykke Li - Little Bit
)




Big DreamBig Dream
(2013/07/16)
David Lynch

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