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【洋画】アバター

これを書いてるうちに少々日にちが経ってしまってますけど、先月の20日の水曜日にジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」を観にいってきました。今年のお正月一番の話題作で観たいと思ってた映画だったものの、ここでもよく書いてるように人が集まるところがかなり苦手という性分なので、お正月真っ盛りの間は到底観にいく気にはならず、公開開始からほぼ一ヶ月経過という時期になってようやく行く気になったという感じです。
観にいこうと決めた日にこの「アバター」がゴールデン・グローブ賞の作品賞および監督賞を受賞したというニュースが入ってきて、受賞の話題につられてまた観客が増えたらかなわないなぁとか、受賞のニュースを聞きつけて観に来た唯の野次馬の一人だと思われるんだろうなぁとか、行く間際になってまた余計なことをいろいろと考えたりしたんですが、観に行くと決めた時点で映画を観たいという欲求の方が強くなっていたので、多少は人が多くなっていてもまぁいいかという方向に気分は修正されてました。
上映してた場所はいつものムービックス京都で、その南館の10番スクリーン。上映形態は3D方式の字幕版と吹き替え版、それと従来の2D方式の3パターンが用意されていて、私が観ようと思ったのはこのなかでは3D方式の字幕版でした。
客の混み具合は大体会場の6~7割くらいといったところだったでしょうか。そんななかで私が取った席は前から6列目のかなりスクリーンに近い位置。6~7割の入りで席は十分に空いてはいたけれど、見やすい場所はそれなりに既にふさがってるというような状況でした。

館内

ポスター

ジェームズ・キャメロンとしては「タイタニック」以降、12年振りの劇場用の映画ということで、長い沈黙を破っての登場となってます。
ロジャー・コーマンのニュー・ワールド・ピクチャーズのもとで「殺人魚フライング・キラー」というB級ホラー映画も作ったりしてるんですが、一般的には「ターミネーター」で名前を広く知られ、そのヒットをきっかけに依頼された「エイリアン2」が爆発的にヒット、私はこの映画も好きなんですけど興業的にはあまり振るわなかった「アビス」を経て自作の続編「ターミネーター2」で更なる爆発的なヒットという風にキャリアを積んでいきます。この辺りのキャメロン監督の映画を観てる時にわたしが監督に対して抱いた印象は続編を本編よりもはるかに面白く撮れる唯一人の監督といった感じ。楽しめる映画を撮ることに関しては全幅の信頼を寄せられる監督でもありました。そしてその後「トゥルーライズ」をはさんで撮った「タイタニック」が映画史に残るほどの記録的な大ヒットを収めることになります。

わたしはこの人が持っていたエンタテインメントに対する嗅覚というか、より面白く、エキサイティングな方向へと確実に舵が取れる作劇の感性に夢中になったほうです。だから「タイタニック」が空前の大ヒットを飛ばし、山のようにアカデミー賞を受賞した時に、キャメロン監督はこれがきっかけで、自分は本来は娯楽アクションなんかじゃない人物描写に長けた監督だ!なんてことを考え出したら嫌だなぁって思ってました。勘違いするだけの状況はキャメロン監督の周囲には山のようにあったはずだし、今回の「アバター」にいたるまでに12年のブランクが開いてしまったのも何だかちょっと意味深でした。

とまぁ今回「アバター」という久しぶりのキャメロン映画を見るに際して、そういう勘違い文芸監督ジェームズ・キャメロンの勘違い振りを見せ付けられたらどうしようかなぁという若干の不安をどこかに持ちながら観始めることになったわけです。でも観始めてまもなくそんな予測は完全に覆されることになりました。全く要らない心配を勝手にしてただけ。
主人公ジェイクがコールドスリープから目覚め、惑星パンドラに降り立って自分の化身となるアバターと対面するほんの導入部分に過ぎない部分でも、これから始まる長大な物語に必要な知識を混乱なく提示し、謎めいた部分や驚異的な映像も少しずつ混ぜあわせながら、観客の興味を引きつけつつテンポよく語られる物語にあっという間に入り込んでいけます。エンタテインメントがどういうものなのか熟知した監督が作った映画という特質はジェイクのナレーションを背後に最初の宇宙船が登場してくるようなところから既にはっきりと読み取ることが出来るようでした。文芸物監督どころか、というより「アバター」は恋愛物語そのものなので文芸要素も最大限に混入させた上で、キャメロン監督はこの長大な物語をコントロールしながら自らのエンタテインメント魂を思う存分炸裂させてます。

ジェームズ・キャメロンの12年ぶりの新作劇場映画ということの他に「アバター」が私の興味を引いたのは、この映画が3Dの立体映画として作られたことにもありました。
これも映画が始まってすぐに理解できることだったんですが、「アバター」の場合は3Dの技術は物珍しいものとして単純に追加されたものではなくて、映画が自らを完全な形で成立させるためにその3D技術を要求していたから採用されているという感じでした。いうならば惑星パンドラの世界を十全に描写するのに3D技術は欠かせない、あって当たり前の技術。キャメロン監督自身が「カラーの映画は、今はカラーがいいからカラーで撮ってるとは誰も思わない」といったことを言ってますが、この映画の3Dはまさにそういう扱われ方をしていたといえるでしょう。
だから、この映画に関しては、劇場では普通の2D版も上映してるけど、3D以外の形式で鑑賞するのはほとんど意味を成さないです。絶対に3D方式で観なければ駄目。
同じような意味でDVDでの鑑賞も、おそらくこの映画でもっとも大事な部分が完全に抜け落ちたような形になると思われます。劇場の大画面で、画面の中に入り込む感覚で惑星パンドラの真っ只中にいた体験の記憶、DVDでの家庭内での鑑賞はその記憶の痕跡を再確認する程度の意味合いしか持たないのではないかと思います。
この映画は劇場で観たほうがいいというどころか、観るならば絶対に劇場で観なければいけないという映画です。

ちなみにムービックス京都で採用してる3D方式はXpanD。3Dメガネに液晶シャッターを使ってるもので、電池が仕込んであるせいで重いです。ゴーグル的な大きさがあるので普段使ってるめがねの上からかけることも可能。わたしはめがね族で自前の眼鏡をかけて鑑賞したんですが、この3Dメガネはその上に余裕でかけられました。

☆ ☆ ☆

作戦中の事故で脊髄に損傷を負って下半身不随になり、さらに兄のトミーを不測の事態で亡くして失意の只中にあった元海兵隊員ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)のもとに、兄が参加していたプロジェクトに兄の代わりに参加しないかという依頼が来た。兄のトミーは地球から5光年ほど離れたところにある惑星「パンドラ」で「アバター・プロジェクト」に参加していて、双子の兄と同じDNAを持つジェイクに後を引き継いでもらうのが最善だという。ジェイクはその依頼を承諾し惑星「パンドラ」に赴くことになった。
「パンドラ」は「ナヴィ」という人間に良く似たヒューマノイドの原住民が暮らし、奇態な動植物が生息している神秘的な森の惑星。そして地球環境は危機的な状態にあってそれを救う鉱石「アンオプタニウム」が「パンドラ」には大量に埋蔵されていた。
この貴重な鉱石を得るために地球側は巨大な採掘場を建設して採掘を続けていたが、「パンドラ」の大気は人間には猛毒で採掘作業に支障をきたす要因になっている。
その障害を排除するために立てられたのが、「パンドラ」の大気内でも平気に生活できる「ナヴィ」と人間のDNAを合成してハイブリッド生命体「アバター」を作り、意識を転送する特殊な装置を使ってその生命体「アバター」と一体化、遠隔操作するというプロジェクトだった。
「パンドラ」にやってきたジェイクは意識をリンクする装置を通して、兄トミーのDNAを使って生み出された「アバター」とリンクし、リアルな肉体では車椅子の生活を余儀なくされていたものの、新たに得た肉体「アバター」を使って自由に走り回れる生活を獲得することになった。

「アバター」を使って「パンドラ」の森を調査したり、原住民「ナヴィ」と共生する試みを続けていた科学者グレース(シガニー・ウィーバー)らと森の探索に出た際、ジェイクは森の中でグレースたちとはぐれてしまう。そして夜の森のなか、危険な猛獣に襲われてるところを「ナヴィ」でオマティカヤ族の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)に助けられることになった。
ネイティリは最初はジェイクを余所者として警戒していたが、「聖なる木の精」がジェイクの体に寄り集まってくる光景を見て、ジェイクには「パンドラ」が受け入れる何かがあるのだと確信し、オマティカヤ族のもとにつれて帰ることに決めた。

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ジェイクはグレースら科学者とともに行動する一方、採掘基地の保安部門の指揮官クオリッチ大佐(スティーヴン・ラング)からオマティカヤ族の内部の様相、住居としてる超巨大な樹木「ホーム・ツリー」の構造などをスパイすることも要請されていた。実はオマティカヤ族が住んでいる「ホーム・ツリー」の地下には大量の「アンオプタニウム」の鉱床があった。
大佐からはスパイ任務を与えられていたジェイクだったが、グレースの「アバター」とともにオマティカヤ族に受け入れられてからは、ネイティリに「ナヴィ」のことや「パンドラ」のことを教えてもらってるうちに、ネイティリに好意を寄せるようになり、また全生命体が共生してる「パンドラ」の生命のあり方にも理解を深め共感するようになっていった。

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やがて、ジェイクのスパイ任務にはかばかしい展開が無いどころか、ジェイクが人間を裏切ってナヴィのほうについてることを知った大佐は、「ナヴィ」を追い払うために彼らの住居であったホーム・ツリーに総攻撃をかける決定を下す。
「パンドラ」は森の木々のすべてが根を張り巡らせて惑星規模の命のネットワークを作っているような場所。そして大佐の攻撃目標となった「ホーム・ツリー」はそのネットワークの要のひとつになる巨木だった。ここを破壊されると「パンドラ」の生命ネットワークが破壊されてしまうことになる。
裏切り者の烙印を押され、「ホーム・ツリー」が攻撃されることを知ったジェイクは完全にナヴィの側に立ち地球側と戦う決意をする。そしてオマティカヤ族に「ホーム・ツリー」を破壊しに地球人が攻めてくることを知らせにいくが、スパイ目的で部族に入り込んでいたことを気づかれ、逆にオマティカヤ族の囚われものとなってしまう。

☆ ☆ ☆

3時間近い長尺の映画で、映画的な体験としては圧倒的なものを受け取れる映画であることは間違いないと思いますが、「アバター」の物語そのものは前代未聞の映画を支えるものとして期待するような斬新なものだったかというと実は必ずしもそういう感じでもなくて、むしろ今までにいろんなところで見聞きしてきたものを思い起こさせるような要素で成り立っている物語という印象の方が強いものでした。
環境破壊、自然との共生、支配者と搾取される者、異文化への理解と拒絶、虐げられた者の反乱、などなど。映画だけでなくて小説などでも繰り返し取り上げられてきたようなテーマが「アバター」のなかにはいっぱい詰め込まれてます。オマティカヤ族がその生活の基本的な部分で体現していたような神話性などは今までの映画、小説などにたとえ取り上げられていなくても、人が共通して持つような感覚として無条件で理解できるようなものだったでしょう。
具体的にはこの映画を観て「ナウシカ」だとか「もののけ姫」といったジブリの映画を思い起こした人が多いんじゃないかと思います。キャメロン監督はどうやら宮崎アニメのファンでもあるようですから。
わたしの場合はジブリ映画の熱心な鑑賞者というわけでもないので、映画を観ている時に連想してたのは映画じゃなくて、ゲームの「ファイナル・ファンタジー」でした。「ファイナル・ファンタジー」のなかでも特に「Ⅶ」。個別の生命が閉じた後にその命は精神エネルギーとして共有され、そのエネルギーが一つの星を覆い尽くすような流れになって存在して新た命や文明を生み出していくという設定、これが「アバター」という森の惑星で木々が根を張り巡らせて惑星を覆い尽くすネットワークを形作ってるっていう世界観と良く似てるなぁって映画を観ながら思ってました。「アバター」の地上や空を駆け巡るクリーチャー、特にジェイクがナヴィからも地球人のスパイと看做され、拒絶された後でもう一度受け入れてもらうために伝説の勇者でないと乗りこなせない飛行生物(翼竜?)レオノプテリクスを従えてオマティカヤ族の前に降り立ったシーンなんかは、そういう目で観てると「召還獣」を従えて降臨してきたかのようでもありました。

なんだかこんな書き方をしてみると「アバター」が独創性もない二番煎じ的な要素で成り立った物語、もっと凄い斬新な物語を語るはずだったのに上手くいかなくて無難な着地点ばかりを探ってるような失敗作のように見えるかもしれませんけど、実はこういう物語のあり方は「アバター」の場合は意図的にとられた方法の結果として出来上がってきたものだったようです。
キャメロン監督は「アバター」の物語に関して「見慣れない環境で、見慣れたタイプのアドベンチャーを作り出したいと思った」と云ってます。
つまり今までにどこかで見聞きしたような馴染みのある要素を物語の中に取り込むのは最初から意図的だったということです。
それでなぜ真新しい新鮮な物語を語ることをやめて、あえて古い良く知られてるプロトタイプともいえそうな物語を寄せ集めてその変奏曲のような映画を作ろうとしたのか、そういうことをちょっと考えてみたんですけど、一つは「アバター」は3D映画として成り立ってるわけだから、3時間近くの間その圧倒的な視覚情報が観てる側に雪崩れ込んでくるわけで、そのうえ物語的に複雑な情報を織り込むと情報量が多すぎると判断したんじゃないかって思いました。3Dで徹底的にリアルに再現した「パンドラ」の世界に観客を放り込むっていうのが明らかに映画の一番の意図のように思えるから、キャメロン監督は全神経をそちらのほうに向けて欲しかったのではないかと。アメリカ人は字幕を読まないでもいいけれど、わたしは字幕版を鑑賞して、字幕に向ける注意さえいちいちはぐらかされるような気分になりましたから。3D映画としての圧倒的な映像と、どこか馴染みのある物語は組み合わせとしては上手くバランスが取れていたんじゃないかって思います。
もう一つは出来るだけ大勢の人、広範囲の世代に観て欲しいという意図もあったかもしれません。この映画の場合は一般に大作映画といわれるものよりもさらに莫大な費用をかけて製作された映画、聞くところによると240億くらいだそうで、こんなにお金をかけて映画を作るってもうよほどのことでもない限りできないかもしれないくらいの規模だから、ややこしい話をひねり出して特定のマニア相手に作るわけにはいかないっていう部分もあったと思います。

地球人による植民化のなかで、自らが住む世界を破壊され、追われていく先住民族のナヴィ、そのナヴィが星の生命総合体とでもいえる「エイワ」によって選ばれたジェイクに導かれて、自分たちの聖地を破壊しようとする人間に対して反旗を翻す物語と、その民族の再生に絡めるように語られるジェイクとネイティリとの民族、文明を越えた恋物語。
「アバター」はこういった祖形とも云えるような要素で骨格を形成してる物語に載せて進行していくわけですが、それではそれが詰まらなかったかというと観終わった後の感想は全くの正反対。3時間近い映写時間中、ほとんど退屈もせずに、というよりも退屈するどころか長い上映時間中、時間のことも忘れてしまうくらい夢中になって観てました。

この問答無用の面白さがどこから来てるかといえば、結局ジェームズ・キャメロンの演出の手腕なんですよね。エンタテインメントが何であるか熟知した監督の手腕で「アバター」は全体がエンタテインメントの最上のレベルを保つように仕上げられてる。ここで演出って云ってるのは、あまり小難しい意味じゃなくて「語り口」程度の意味なんですけど、キャメロン監督はたとえば同じ物語を与えられても他の監督よりもそれをより面白く語れる感性を持ってる人なんだと思います。
緩急自在の語り口、観客の興味を意図どおりに引き出し、それを鷲摑みにするように手にして思う方向に引き釣り回す。見慣れた骨格を基にしていても面白く語る方法を会得していればそこからいくらでも面白い物語を紡ぎ出せます。またそういう感性、技術を持ってると確信してるから、キャメロン監督はあえてよく知ってる様な物語を持ってきても、まるで平気だったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

わたしは、エコロジー的な視点とか少数民族に対する抑圧だとか搾取だとか、社会的なテーマを引き出すような観方で映画を観るタイプじゃないので、この映画も登場人物中心というか、驚異的な世界を背景にしたジェイクの遍歴の物語、ジェイクとネイティリの恋物語として観てました。この映画は社会的なテーマを引き出しても物語が類型的な分、そこから引き出されるテーマも類型的なものにしかならないようで、おそらくあまり面白くないです。

登場人物といえば全部ではないにせよこの映画の人物造形って、これもあらゆる世代に対して理解しやすいものにするためだとは思うんですけど、相矛盾する要素を一人の人間のなかに混ぜ合わせて複雑な人間像を作るというよう方法ではなくて、ある程度類型化したものを基礎にしてそのうえにそれぞれの個性を付け加えるようなアイコンを散りばめるという、そういう感じのキャラクター・メイキングをしてるようでした。
主人公のジェイクの場合はとても分かりやすくて、元海兵隊員という類型の上に下半身不随で車椅子生活を余儀なくされてるという個性化のアイコンが付加されるという形。そしてこの歩けないという設定はジェイクの造形という点では実に良く考えられたものだったように思えます。
リンクしたアバターの肉体を使って、無理だと思っていた歩くことや走ることが出来るようになったことが、ジェイクにとってのリアルな世界が採掘基地側の足のなえた肉体ではなく、仮想現実ともいえるアバターのほうにあるとジェイクに思わせていくわけです。
兄のアバターにリンクし、アバターの肉体を我が物として扱えるようになった最初、アバターの肉体ではあったけれど自分のものとして両足で再び立つことが出来た奇跡に狂喜して、研究室の職員を振り切ったあげく、外に出て闇雲に走りまわるシーンのジェイクの喜び、その喜びようから歩けなくなったことが今までどれだけジェイクを苛んできていたか痛いほど分かったし、リンクを解いて本来の自分の肉体に戻った時の再び歩けない現実を前にした絶望も口に出したりこそしないけど、とても良く分かりました。人の1.5倍あるアバターから、リアルな肉体に戻った時の、見るからに萎えてしまった細い足が画面に映るのはなんだか見てられないほど痛々しかったです。
車椅子に乗ってるという設定だけで、ジェイクが地球人としては裏切り者になってまでナヴィ側についたのも、現実の萎えた足の肉体よりも、アバターのいわゆる仮想的な現実の方こそリアルにしたいという思いが意識的にしろ無意識的にしろジェイクのどこかにあって、単純にナヴィの生命観や自然観に感化された結果ではなかったことを良く表現していたと思います。裏切り者になるというポイントでは元海兵隊員という人物造形の基本部分もその変化の振幅の大きさを分かりやすく見せていたかもしれません。
また大佐からスパイを要請される時にもスパイをしてくれれば本当の足をプレゼントするっていう交換条件もだされてます。この条件はナヴィの側につくことでリアルな肉体が足を持つことを諦めなければならないという葛藤を生むし、代わりに得たアバターの肉体は「アバター・プロジェクト」が人間のプロジェクトである以上、人間を追い出してしまうともう使えなくなるかもしれないという葛藤も生みだしてました。クライマックスでパンドラの猛毒の大気が装置のある場所に侵入してきた時でも、装置から防御マスクのある場所までジェイク自身ではたどり着けないっていう形で効果的に使われてました。歩けないって云うだけでちょっと考えただけでもこれだけの陰影をジェイクの人物像に付け加えてるというわけです。

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こういった葛藤を秘めつつも自分の運命に静かに向き合い、パンドラに希望を見出していくジェイクを演じたのはサム・ワーシントン。去年は「ターミネーター4」にも出演して勢いに乗ってる俳優さんです。物静かでどこか朴訥とした印象があり、それがなえた足に絶望はしても表立っては決して泣き言を云わない強さ、ナヴィのなかにいて、彼らと接し学んでいく時の誠実さを上手く体現していたようでした。

でも「アバター」の登場人物のなかで一番印象深かったのは、ヒーローへ向かう王道的な道筋を歩む主人公のジェイクよりも、ヒロイン役のネイティリのほうだったかも。
惑星「パンドラ」の先住民ナヴィの、オマティカヤ族の族長の娘で、見た目はヒューマノイドではあるものの青い皮膚に横縞の模様が入った、しかも人の1,5倍もある巨体の異星人。容貌はおそらく猫科の動物をデザイン・ソースにしてると思われるので、猫好きの人はそれなりに親和性があるかもしれないけど、普通に観れは完全に異形です。

ところがその異形の異星人であるはずのネイティリが、ジェイクに恋し始めると、どんどんと綺麗に可愛らしく見えてくるんですね。ジェイクと出会った当初の、ジェイクを子供のように何も知らない愚か者と思い、女族長の母からジェイクにいろいろ教える係りを命じられて本気で嫌だって云う声を上げた時には全くそんな風には見えなかったのに。
そのうえネイティリはジェイクに見せる少女のような面も持ってるのと同時に、戦いが始まれば戦闘用のペイントを顔に施して、敵に対しては何のためらいもなく矢を放つ強さをも併せ持っています。

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身のこなしもしなやかで躍動感にあふれ、動きそのものが美しい肉体に、強さと可憐さを併せ持ってる女性。ネイティリは簡単に云うとこういうキャラクターとして描き出されていたわけです。
最初から最後まで異星人という異形の形を崩さないで、そういう魅力的な印象にまで持っていけてたのが凄いところなんですが、そういう描写が出来たのもやっぱり演出の力技によってるんだと思います。おそらくこの物語の中心になってる部分は虐待される少数民族とか環境破壊だとかそういうところにあるのではなくて、このジェイクとネイティリのラブロマンスにあると思うんですが、そういう中心部を形作ってるものをきちんと見極めてネイティリを丁寧に描いていった結果ああいう極めて特殊な魅力を持った人物を作り上げることが出来たんでしょう。
ラスト近くアバターにリンクしてない人間形態のジェイクを抱きよせ「ジェイク、マイジェイク」と囁きかけるネイティリの情の深さが泣かせました。
こんな人物を3時間も見せ続けられ、感情をストレートに乗せてくる声を聴いてれば、映画が終わる頃にはジェイク並みにネイティリに夢中になってる人が大勢いたんじゃないかと思います。

ネイティリを演じたのはゾーイ・サルダナ。でもこの役は他のナヴィ役も含めてすべて特殊メイクではなく3DCGで描かれていて、ゾーイ・サルダナの実際の身体、素顔は映画のなかでは一度も出てきません。顔の動きを詳細に捉える新しいモーション・キャプチャーで、エモーション・キャプチャーと名前がついたらしいんですけど、その技術を使ってサルダナの演技をそのままネイティリのCGに移し変え、実際は3DCGのキャラクターなんですけど、ゾーイ・サルダナ本人が特殊メイクを施して演技したものを撮影するのと変わらない動き、感情表現を実現したそうです。

登場人物のなかではもう一人、ミシェル・ロドリゲス演じる採掘場のヘリの操縦士トルーディ・チャコンもよかったですよ。扱いとしては主役級ではなくて脇を固めるような役どころなんですけど、クライマックスである地球人の武装ヘリの大群対翼竜イクランに乗ったナヴィの戦士との戦争シーンではかなり良い部分を一人でかっさらって行ったという感じでした。普段は「アバター・プロジェクト」の科学者グレースらを世話してる人物なんですが、おそらく科学者らと一緒に居る時間が多いせいで、グレースらの仕事に理解を示すようになり、「ホームツリー」攻撃の際には「パンドラ」とナヴィにとってもっとも大切なものを破壊する作戦に従事してることが嫌で、単機離脱、その後心情的には、直属の大佐にではなく科学者らのほうにつくことになります。

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最後の戦争シーンで大佐の乗る旗艦の前に、ナヴィの戦闘用ペイントを施した自分の戦闘ヘリたった一機で立ち向かおうとする登場の仕方はまさに鳥肌ものでした。
キャメロン監督は過去の作品でも、たとえば「エイリアン2」の女性兵士バスケスのような強い女性を好んで出す傾向があるんですけど、ネイティリといいこのトルーディ・チャコンといい、「アバター」でも強い女性の刻印をしっかりと刻み付けて、監督の趣味が全開したような人物造形になってたといえるでしょうね。

☆ ☆ ☆

この映画の最大の特徴は3DCGを駆使して描いた世界を、先にも書いたように立体映画として成立させたことにあります。
映画の意図は惑星「パンドラ」の森や空の真っ只中へ観客を放り込むこと。だから立体表現はほとんどの場合奥行きの表現に使われていて、目の前に飛び出してくるようなアトラクション的な使い方はかなり抑え目にしてありました。
冒頭のジェイクがコールドスリープから目覚めて、装置から排出されるシーン。画面の手前でジェイクが装置から出てくる背後は細長い宇宙船の船内で、はるか向こうの方までチューブ状の船内が見通せ、その空間を無重力状態で乗組員が浮遊してるというシーンがあって、これの奥行き感覚が半端じゃないんですね。おそらくキャメロン監督がこれから観る世界はこういうものなんだよと宣言してるような意味合いのシーンなんだと思うんですが、このシーンの奥行き具合のとんでもなさに感心してしまったのは、おそらくわたしだけじゃないと思います。
その後、超巨大な採掘機のスケール感とか培養器に浮くアバターとジェイクの比較を奥と手前の距離を使ってさりげなく演出してる、小技を効かせたような採掘基地内の描写を挟んで初めてのパンドラの森の探索へ。そしてそこでグレースらとはぐれてしまったジェイクといっしょにパンドラの森を彷徨うことになります。
森の描写は奥行きの表現が効いていて、まるで本当に森の中にいるような感じです。パンドラの世界は誰も見たことが無い異世界ではあるものの、設定としては精緻に作りこまれていて、こういうのはキャメロン監督の映画の特徴かもしれないですが空想的であっても徹底してリアリスティック、奇態な動植物で満ちた世界がまるで現実にどこかに存在するような感じで目の前に広がることになります。このパンドラの異世界の森は特に夜になってからの描写も見事で、様々な発光体が闇の空間を彩り、非常に幻想的で綺麗でした。

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オマティカヤ族に受け入れられ、ハンターになるための通過儀礼で、空中に浮遊してる山「ハレルヤ・マウンテン」に登って翼竜エクランを確保する辺りからは空中を飛ぶシーンが増えてきます。エクランが駆け巡る空間の高さの表現を駆使するシーンは、立体にしてみればかなり見栄えにあるシーンの連続となってました。
そしてクライマックスの戦争シーン。地上の森はAMPスーツで武装した地球人の軍団とダイアホースに乗るナヴィの騎馬軍団、空中は巨大旗艦と武装ヘリの大群とエクランに乗ったナヴィの戦士との戦闘シーンになると、その縦横無尽に動き回るものに対する立体的な演出、展開の派手さといったら今まで見てきた立体視の表現がこのシーンを見るのに目を慣らすための準備期間じゃなかったかと思うほどのものでした。

この映画が最新の3DCG、最新の3D技術を使用して作成されたのはまず間違いありません。ただ3DCGの使い方のほうを観ると、出来上がった画面は超豪華版ファイナルファンタジーといえないことも無いようなところもあって、極めて緻密に仕上げてはいるんですが最新の3DCGを使ってる割には意外と控えめな印象がありました。もうひとつの3Dの方は、これは凄かったです。立体映画としての「アバター」の出来は文字通り特筆すべき仕上がりになっているような感じでした。

でも立体映画としての「アバター」はとにかく目を見張るものではあったんですけど、技術としては最新の3D技術を使ってるにしても、その目新しい立体映画の技術を見せるような使い方はしてないんですね。奥行きはとても深く表現されてはいるけど、奥行きの表現そのものは今までの立体映画でも当たり前のようにあるものでした。
この映画の3D表現が凄いとするなら、3Dを使うのにはこれほど相応しいものは無いという映画で、最も効果的に見えるような演出を通して使われたために、3D形式が本来可能性として持ってるさまざまな効果が、潜在的であったものも含めて最大限に発揮されたような形になったことにあるんじゃないかと思います。
「アバター」はあらゆる場面が3Dをこういう風に使えば一番臨場感が出るといったことの、最上級のサンプルになりえるような完成度の映画になってます。だから立体映画形式を使う場合のもっとも効果のある形を示した映画として確実に転換点となるし、これから以降立体映画を作る際の基準になっていくだろうという意味で特筆すべき映画であるんだと思います。

☆ ☆ ☆

「アバター」を観にいってからこれを書いてるうちに、どうやら興行成績でも「タイタニック」を抜いてしまったようで、ますます怪物振りを発揮してるような感じになってきてますね。
立体映画のメルクマールになったという以外にも周りを取り巻く様々なものがこの映画に祝祭的なイメージを付加し続けてるようです。
こういう今までに例を見ない祝祭的映画の出現した時代に居合わせ、劇場での立体映画という完全な形で体験できたことをわたしはとても幸運だったと思います。こういう映画に参加できた俳優、スタッフ(エンドクレジットは吃驚するような体裁になってます)は本当に幸せだったと思うし、わたしも観客として参加して、その幸福感を多少は分けてもらったような気分になれました。

最後に、わたしは映画に行くといつもパンフレットを買って帰ります。この「アバター」も例に漏れずにパンフレットを買いました。
映画のパンフレットって高い割りに大したことも載ってない内容と言うのが大半で、映画に付随するものでなかったら絶対に買わないようなものが多いんですけど、「アバター」のパンフレットは確か600円くらいだったのに、読むところも多いし、紙質は全ページ光沢のある厚手の紙を使っていて値段にしたら凄くよく出来た仕上がりになってました。
ただ非常に残念なのがミシェル・ロドリゲスの写真で、映画のなかではあんなに美味しい役どころだったのに、パンフでの扱いは付け足しみたいなのが2枚入ってただけでした。
ミシェル・ロドリゲスのファンなら失望間違いなしのパンフです。

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原題 AVATAR
監督ジェームズ・キャメロン (James Cameron)
公開 2009年


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【洋画】 クローバーフィールド / HAKAISHA - 倒立する映画

この映画、京都での公開はチョコレートファイターと同じムービックス京都だったんですが、劇場公開が始まる前から、とにかく謎めいたポスターが劇場の内部や外壁に貼られていて、その得体の知れない光景がちょっとした興味を引いていました。
貼られていたポスターは全体がグリーンで統一された、グリーンといっても新緑のような溌剌としたものでもなく、まるで水底を藻で覆い尽くされた沼のような淀みのある、映画のポスターにしては沈んだ色調で、そういう陰鬱な緑を基調に首のもげた自由の女神と遠くで煙を上げてるニューヨークの風景が描かれていて、その不吉な予兆に満ちた画像にクローバーフィールドという謎めいたタイトルが重ねてあるというものでした。

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華やかに目を引くようなポスターに混じって、淀んだような雰囲気である意味目立ってたクローバーフィールドのポスター。
そして、これはよく覚えてないのでわたしの勘違いの可能性も高いんですけど、その謎めいたポスターには上映開始前からだったか、気を引く注意書きが添えられていた記憶があります。元からそういうのが付いてたポスターだったのか、劇場側がポスターの上に独自に貼り付けたものだったのか、正確な文章は覚えてないんですが、意味としては前代未聞の映像とか未曾有の躍動感とか、そういう煽り文句が踊り、気分が悪くなる可能性かあるだとか、体調の悪い人は気をつけろといった脅し文句のようなものを織り交ぜた感じの文章だったと思います。
どういう映画なのか予測させないポスターとそれに気を引かれて前に立った人間の好奇心を煽るような注意書きに似た文章。だいたいわたしはホラーでもSFでも何でも良いですけど、とにかく見たこともない光景を見せてくれるというような映画が大好きなので、前代未聞だとかそういう類のことを云われるとそれだけで興味津々になってしまいます。だからこの映画の場合もポスターを見てかなり興味を惹かれることになりました。
ただ、気分が悪くなるとかいう注意はなんだろうと、そういう疑問が出てきたのも確かだったんですが、でもこれは全てが謎につつまれてていたとしても薄々予想がついてました。

それで情報が解禁されてみればやっぱり予想していたとおり、「クローバーフィールド」は全編ハンディカムの揺れまくる画面で最後まで突っ切ってしまう映画で、これを躍動感と表現していたということ。気分が悪くなるっていうのは画面の激しい動きに酔ってしまうっていうことでした。
これが分かった時点で、内容も物凄く謎めいていて映画自体はとても観たかったんですけど、わたしには到底無理と、結局映画館には足を運びませんでした。

実はわたしはこういう「酔い」にはかなり弱い体質。
たとえば3Dのゲーム「サイレントヒル」なんかでもかなり簡単に酔ってしまう。昔のゲームだったら「クーロンズ・ゲート」なんかも始末に終えないくらい酔ってました。自慢じゃないけど京都の市バスに乗っていて酔ったことさえあります。ようするに目の前の光景が揺れるという状況に簡単に耐え切れなくなるタイプの人間っていう事になるわけです。まず映画は耐えられないだろうと、視野を覆う大画面が嫌というほど揺れてたら限界点なんかあっという間にやってくるのは簡単に予測できました。

内容に興味はあったのにそういう要素があったために映画館に出向く決心がつかず、決心がつかないままにやがて上映終了。
そのうち暫らくしてDVDがリリースされることになるんですが、これを見てやはり映画の内容を知りたかったということが動機としてはわたしの中に強くあったせいか、中古ショップで安値で売られてるのを見た時に、結局耐えられるかどうか分からないまま思わず購入してしまいました。

それでも気分が悪くなるかもしれないと分かっていて観るのはなかなか気が進まずにDVDは買ったものの放置状態だったんですが、中身を知りたいという欲求がこのところなぜか強くなってきて、それで今回とうとう観ることにしてみたわけです。

一種の人体実験のような映画鑑賞になりました。
絶対に全編通して観られないのはほぼ分かりきっていたので、10分ほど観ては休憩する形で鑑賞開始!

結果から云うと、この映画鑑賞はほとんど拷問でした。10数分でふらふら。実は暫らく休憩したら続きを観られると思ってたんですが続けてみる勇気がなくなるほど気分悪くなっていく予感がしてきたので、映画の最初の方は次の10分を観るのに翌日廻しにしたりして鑑賞しました。

さすがに最後の方は体が慣れてきたのか、激しく揺れる画面でも視線を滑らせる術を会得してきたのか、それほど中断もせずに何とか見終えることができたんですが、酔う体質の人間にとってはこの映画、確実に凶器のような映画です。

☆ ☆ ☆

さて、この映画を観てわたしの身体が呟いた感想に耳を傾けてみれば、それは上で書いたように「酔う」「拷問」「凶器」といったもので、映画が与える印象としては身体的には必ずしも良いと云えるようなものではなかったんですが、だからといってわたしにとって「クローバーフィールド」が屑のような映画だったかというと、実はこの映画、観終わった後でわたしのなかで「屑」だとか「最低」だとか、必ずしもそういう落ち着き方をした映画でもなかったです。
酔って気分最悪で観てたのに、観終わった感想は意外というか予想をはるかに超えて面白かったというものでした。
年間ベストとかワーストとかの括り方があれば、それのどちらに入れるかと考えてみると、間違いなくベストの枠組みに入れてしまえる、決してワーストの枠組みで最悪を競うランキングに参入する映画じゃなく、ベストの枠組みに入ってそのベストの枠組みの中で順位を競える映画だと思いました。

この映画、表現しようとしてることはただ一つです。普通なら映画が内包するはずの様々な要素の大半がこの映画では蔑ろにされてるように見えるくらい、唯一つのことしか表現しようとしてない。そしてこの一つのことに徹底して拘って、その表現内容を画面の中に定着、実現させることに見事に成功してしまってる。表現しようとしてるものを、理想的な形で画面に定着させることが出来ているという理由だけでこの映画は成功した映画と考えることが出来ると、わたしには思えました。
たとえばこの映画にも普通の映画のように登場人物がいて、この登場人物たちが動くことで物語が進んでいく形を取ってるものの、動き回る理由付けくらいは画面に提示されてはいても、面白いほど人間の内面描写的なものは無視されています。人を描写することが、この映画が目的とするものじゃないからという、ただ一つの強力な理由のもとで。
だからこの映画に「人が描けてない」という理由で低評価を与えるっていうのは全くの方向違いというか、ナンセンスな行為になってしまいます。たとえるなら、目の前に美味しそうな「うな重」があるのに、それを指して「カレーの味がしない」と云って難癖をつけてる様なものです。最初からカレー味にするつもりもないものに対してカレー味じゃないといっても全く意味がないのと同じこと。
おそらく「クローバーフィールド」は自分に向けられる貶し、低評価の大半をこういう形でかわし切ってしまえる映画として成立してると思われます。

☆ ☆ ☆

映画はこれから画面に展開される映像の素性を記した文章で始まります。
合衆国、国防省の名前が記された、デジタル記録、事件目撃記録と題された識別用のテロップ映像。
それはかつてセントラルパークと呼ばれた場所の瓦礫の中から発見されたビデオカメラの中に収められていた映像記録であると、そしてクローバーフィールドという暗号名で呼ばれてる資料であると、そういうことが知らされて、映画が始まります。

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最初に映るのは早朝、画面左下に表示されてる時刻で云うと4月27日の午前6時40分の、とある高層ビルのマンションの一室。べス(オデット・ユーストマン)の父親のマンションで、その室内を撮影してるのはビデオカメラの持ち主でべスの恋人のロブ(マイケル・スタール=デヴィッド)。ロブはカメラで室内を移動しながら、やがてベッドに眠るべスを捉えます。カメラの気配に気づいて起き出したベスとコニーアイランドへ遊びに行く相談なんかしながら、二人でじゃれ合ってるようなプライベートな映像が暫らく続きます。
その後映像は唐突に切り替わって、左下の日付は5月22日午後6時43分に変化。ほぼ一ヵ月後のものに飛びます。収められてる映像はマンションの中ではなく今度はニューヨークの街角を歩きながら写してるものに変化。撮影者はロブの兄ジェイソン(マイク・ヴォーゲル)。ジェイソンの前を歩くのは婚約者のリリー(ジェシカ・ルーカス)で話からするとどうやら2時間後に何かのパーティがあってその準備の買い物に出かけてるらしい。
5月22日のこの映像は4月27日のロブとべスがじゃれあってる日に撮ったものの上に上書きされているらしくて、映像のつなぎ目に時折一ヶ月前の映像が一瞬顔を出すことがあります。
映画を構成してるものが上書きされてる映像だという設定はこの映画の一種のギミックで、素人が撮ってるビデオカメラの映像という感じがよく出てました。簡単な発想なんだけど、その単純な発想の割りに効果は大きかったように思います。実はラストもこの上書き映像としての映画という仕掛けをうまく使った終わり方になってました。

買い物の後映像は同日の7時20分にジャンプ。カメラはパーティ会場となったマンションの一室でパーティの飾りつけが進む中、その飾り付けを手伝ってる一人の男ハッド(T・J・ミラー)に近づいていきます。カメラの外からジェイソンの声でハッドにパーティのカメラマンをするように頼んでるのが聞こえて来ます。ハッドは最初はそんなことやったことがないからと断るんですが、片思いの女マリーナ(リジー・キャプラン)もパーティにやってくるとジェイソンに教えられてカメラマン役を引き受けることに。そしてこれ以後ほぼ映画の最後まで、映画の視点はビデオカメラを抱えてるこのハッドということになり、観客はハッドが観ていく世界の様相を一緒に体験することになります。

パーティーはロブが仕事で日本へ赴任する送別会で、ハッドはリリーやジェイソン相手に少し練習した後でパーティー会場にやって来てる客の間を歩き回っては客からのロブへのメッセージを映像として記録していきます。やがて主賓のロブがやってきてパーティはさらに佳境に入り、ハッドもまた大勢の客からメッセージを取ってくることに奔走することになります。ロブの恋人、冒頭のビデオの一部で出てきたべスもやってきますが、どうやらこの一ヶ月の間ロブが放りっ放しにしておいたせいでべスは別のボーイフレンドと連れ添ってます。

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そのことでパーティーの最中ロブとべスは険悪な状態になってしまい、べスのほうは早々とパーティーを抜け出して自宅のマンションに帰ってしまいます。
ジェイソンとハッドは兄弟と友達という立場でロブを慰めるために非常階段のほうに頭を冷やしに行ったロブを追いかけます。
非常階段の踊り場でべスのような女はなかなかいないから大事にしてやれとか宥めたり説得したりしてる時、突然の大音響とともに電気が消え地響きを伴って地震のように建物が揺れます。

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会場に戻って地震かと騒いでる客とともに屋上に出てみると、遠くのビル街で大爆発が起き、屋上に集まっていたパーティ客は我先に階段を駆け下りて、そのまま大慌てで全員建物から避難して路上へ。何事が起こったのか分からないままにビデオカメラを遠くのビルに向けると、ビルの背後に巨大な生き物のような姿が垣間見えて、それがニューヨークのビル街を破壊し始めているのを目撃することになります。

☆ ☆ ☆

映画は一言で云うと怪獣映画です。巨大なモンスターが暴れてニューヨークの街を破壊していく、極めてオーソドックスでシンプルなゴジラタイプの怪獣映画。
ただ従来の怪獣映画と「クローバーフィールド」が決定的に違うのが「クローバーフィールド」のほうは怪獣が町を破壊していく様子を、その直下で命がけで逃げ回ってる人間の視点で描写しようとしてること。
普通怪獣映画といえば破壊を尽くす怪獣を前にしてその巨大な力に立ち向かっていく人間のドラマとしても成立させることが出来るけれど、これはそういう立場をとっていません。巨大モンスターの間近に居合わすことで体験する、周囲の世界が理不尽で予測もしない巨大な力で崩壊していくヴィジョンや、そのなかを逃げ回る混乱と恐怖感そのものを描くことに専念してます。これがこの映画の表現しようとしてる唯一のテーマで、映画はこれ以外のものには見向きもしてないといえます。
そしてそのテーマを展開するために取られた方法が逃げ回る人間、この映画の場合はたまたまパーティー会場でカメラを渡されたハッドということになるんですが、そういう人間が撮り続けるビデオ映像をそのまま映画として見せるという体裁でした。

たとえばパーティー会場で恋人と喧嘩をしたロブが非常階段のほうに頭を冷やしに行くといったシーン、こういう場面は普通ならロブが頭を冷やしに非常階段に出て行ったという形で画面に収まるんですが、この映画の場合はロブが頭を冷やしに非常階段に出て行くのを見るという形を取ります。この映画は誰かが何かをしたという描写じゃなくて、常に誰かが何かをしたのを見てるという描写の形を取ってる。写してる対象だけじゃなくてその対象を写す写し方そのものも画面に一緒に織り込もうとしてます。
つまりそれはカメラの背後に状況を見ている者、撮影者がいることを絶えず意識させるような構造になってるということであって、そしてその存在を絶えず意識させられることで、映画を観ている側はその撮影者と同化してその現場にいる感覚、臨場感を共有できるようになってくるということです。

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これを端的に表現してるのが、手持ちのビデオカメラで撮影してるように画面を揺らせるという極めてシンプルな演出でした。これはもう極端といっていいほど徹底していて、たとえば逃げ回る途中でカメラマンがカメラを持ったまま転んでしまった時に捉えた偶然の映像もそのまま映画の中に使われたりしてます。この映画はそれに加えてさらに単刀直入に劇中の撮影者ハッドの存在そのものも強調していて、彼はカメラを渡されてからはその背後で画面上は姿を見せない存在となるものの、一人で喋るように饒舌であったり、写されてるロブやリリーと話をしたりすることで何時もそこにいることを示し、さらに自分を忘れるなとでも云いたげにカメラの前に回りこんでレンズを覗き込むようなこともたびたび行ったりします。

もっとも、主観映像的なものを使って撮影者として現場にいるような感覚を観客に体験させるこういう方法は「クローバーフィールド」が最初に使った斬新な方法というわけでも必ずしもなくて、今までに他の映画の中でも使われてます。
一番簡単に思いつくのは「ブレアウィッチ」かな。これも画面が揺れる、わたしが一番苦手にしてる映画でした(白状すると気分悪くて最後まで観てない…)。それでは「ブレアウィッチ」がこの方法を採用した最初の映画かというと、実はさらに「食人族」っていう「ブレアウィッチ」の元ネタらしい映画が80年代初めにあって、これはジャングルで発見されたビデオカメラに収められた映像を見せるという形で、映画の中に手持ちのビデオ映像が展開されていくといった映画でした(これは最後まで観ました。揺れる画面よりも食べるためにでかい亀を解体するシーンのほうがえげつなかったです)。
だから「クローバーフィールド」が使った方法が方法的には必ずしも斬新なものだったというわけでもなかったんですけど、この方法論を持って怪獣映画を撮ったっていうのがこの映画の場合は新機軸だったといえるんじゃないかと思います。この方法を使うことで今まで観たことのない怪獣映画が出来上がったという、その点が斬新だったと。

ところで、手持ちのカメラを駆使して、ぶれた映像を繋いでいくという画面は、先にも書いたように、スクリーンの向こうにある世界を、その場には存在しないカメラを通して、神の目のように眺めてるのではなくて、スクリーンに写る現場には実際にその光景を写すカメラが存在して、そのカメラを覗き込む撮影者と一体になることでカメラが写しとってる世界の真っ只中にいるという感覚を共有する、ライブ感覚に満ち溢れた映像とでもいうようなものなんですが、この映画のそういう映像ってドキュメンタリー的な映像というか、もうちょっと身も蓋も無い言い方をしてみるとドキュメンタリーを偽装してる映画のような感じがあるんですよね。
画面効果として一番目につく激しく揺れ動く映像以外でも、細部の、たとえば左下に入る日付の表示とか、とにかく画面を構成するあらゆるものあらゆる演出が、こうすればドキュメンタリー風の生々しい映像になるという意図、戦略で画策されて画面全体を構成、仕上げる形になってる。
ちょっと直接的には関係ない話になるかもしれないけど、映画の始まりから暫らくの間左下に結構大きく表示されてる撮影時の日付はプライベートビデオ風のイメージをスクリーン全体に与えるのに効果的な役割を果たしてるんですが、映画の最後まで出しておく程の意味はない。というか画面を構成するものとしては結構邪魔なので、プライベートビデオ風の印象を観客に与えたと判断され、もう一つは撮影者が変わったりパーティ当日に日時が予告なくジャンプするのを説明したりする役割を終えた時点でスクリーンから消してしまいます。でもこの消し方が上手くておそらく消えた瞬間が印象に残った人はまずいないだろうと。それほどさりげなく画面から消し去ってます。この辺の必要な部分だけ提示して必要なくなったら画面からさりげなく退場させるというような効率的な計算は、写される光景が無秩序そのものであるのも関わらず、映画全体から細部にいたるまで十分になされてるような印象を受けました。

話を戻すと、この映画はニューヨークの高層ビルを破壊しながら彷徨するモンスターとその直下を逃げ惑う人、モンスターに立ち向かう軍隊の個々の兵士レベルでの様子をドキュメンタリー風に映し出しながら、ドキュメンタリー的に映像を撮るとはどういうことなのかということについて映画自体が自己言及してるような体裁をとってる映画だという風に見えます。ドキュメンタリーの偽装という文脈で云えば、どういう風に偽装(撮影、演出)すればドキュメンタリーのような振りをすることが出来るか、映画の中でたえす検証しながら進行してる映画といった感じ。
思うに現実をそのまま撮り続けてもドキュメンタリーにはならないということ、ドキュメンタリーはドキュメンタリーの文法によって語られなければドキュメンタリーとしては成立しないということ。そういうことが「クローバーフィールド」でハッドが捉える修羅場の映像に見え隠れしながらこちらへささやきかけるように届いてくるんですよね。
実は虚構とは一体どういうものなのかとか、ドキュメンタリーを成立させる文法というものが一体どういうものだとか、そういうことは普段は全部映画の背後に隠されてるものです。隠された上で自明の理として無条件で共有されてる。この映画はそういう自明の物として映画の背後に隠されてるのものを、逐一対象化して目の前に並べていきます。云うならば語られるものとそれを語る方法論が同じレベルで目の前に見える形で並置されていく二重構造を持った映画。
「クローバーフィールド」は語られる内容の臨場感も見物だったんですけど、こういう語り口について意識化させ、映画という存在そのものに目を向けさせ考えさせるような二重構造を最初から最後まで徹底して保持していている点、その徹底振りがなかなか新鮮な映画でもありました。

☆ ☆ ☆

巨大モンスターに蹂躙されていく都市の混乱、その混乱を混乱そのものとしてフィルムに定着させる、これが「クローバーフィールド」のたった一つのテーマなわけですが、ちょっと考えて見ると、こういう映像ってたとえば避難者が走り回ってる街路の瓦礫の上にでもカメラを置いておき、その前を逃げ惑ってる人を写してるだけでも実現できそうな感じがします。カメラの前にあるのはまさしく誰も手を加えない混乱そのものであるし、その場所をそのまま写してる訳だからこれほどリアルなものもないわけです。巨大モンスターが踏み下ろす足が伝える地響きでカメラが道に転げ落ち、逆さになったような映像がそのまま続くなんていうことがあればさらにアクセントになって臨場感も跳ね上がるかもしれません。
でも、これを実際にやったとしたら、まぁ想像するまでもなく、おそらく10分も観れば耐えられないほど退屈な代物になるはずです。なぜかって云うと臨場感のある定点観測の映像ではあるかもしれないけど、これは映画では決してありえないから。映画として語ることを放棄してるからなんですよね。映画は映画として語られることでしか映画にはならないです。

ストーリー的な側面からみると、製作者がそういうことを考えてたかどうかは実際のところわからないけど、結果として「クローバーフィールド」のストーリーは極めてシンプルで、こういう定点観測的な映像のあり方と、映画的に語られる映像のあり方のはざまを渡り歩くように、どちらかというと定点観測的な方向に体の重心を傾けながら進んでいくようなつくり方になってます。
ストーリー的な語り口を楽しみにしてる観客が観ると、こういう立脚地点を探る「クローバーフィールド」のストーリーはおそらく拍子抜けするほど単純で物足りなく感じるかもしれないです。

パーティー会場から避難して路上に出たパーティー客たちを巨大モンスターからの一撃が襲います。その一撃の後、半ば瓦礫と化した一帯からパーティーの客も含めて生き延びた人が集まりだし、安全と思われる地区に向けて大移動を始めるんですが、地区を結ぶ橋の上(ブルックリン橋?)まで来て混雑してる避難者のせいでなかなか進めないところへさらにモンスターの体の一部らしいものが振り下ろされて橋は崩壊、その時点で一群だった避難者の集団はちりぢりばらばらになってしまいます。
カメラを持つハッドの前に残ってるのは、パーティーの主賓でカメラの本来の持ち主ロブと、ロブの兄ジェイソンの婚約者であるリリー、リリーの友人でハッドの片思いの相手であるマリーナの3人。

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そこへロブの携帯電話に恋人のべスから連絡が入って、パーティーを途中で抜け出して帰ってしまったべスは自宅の高層マンションが巨大モンスターの襲撃で倒壊し、生きてはいるが怪我をして動けないということを知らせてきます。
それを聞いて、ロブはベスを助けるために、みんなが逃げるのとは逆方向にあるべスの高層マンション、そこは巨大モンスターが暴れまわってる中心地でもあるんですが、そう言う危険地帯に向かうことを決意します。

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実は「クローバーフィールド」でストーリー的な展開というか仕掛けがあるのはこの部分だけです。それまでは誰が集まってるのかも把握できないパーティー会場を引っ張りまわされた挙句、モンスターの襲来でこれまた誰がどこにいるのか分からなくなったままに橋に向けての逃走。そして橋での二回目の襲撃で上に書いたような状態になって、このロブの決断を挟んで後の展開はべスのマンションに向かう間に遭遇する障害を取り払っては進み、取り払っては進みという形の完全な一本道になってしまいます。ストーリー的な動き方をした思われるのはこの決断の部分だけ。

ストーリーを追うことを楽しみにしていたら肩透かしを食らうのは必定の単純なストーリー・ラインなんですが、それでもこの映画に関して云えばおそらく最も適した仕上がりになってるのではないかと思います。ストーリーの展開に関する選択では「クローバーフィールド」は間違った選択はしてないです。

スト-リーを物語るって云うのは云い換えてみれば、秩序への志向です。乱雑で意味もなく目の前に転がってる世界に秩序を与え、意味として理解できるものへ変貌させようとする意思と云ってもいいかもしれない。こういうものに「混乱」を任せてしまうと、「混乱」は「混乱」そのものではなくなってしまうんですよね。語られた「混乱」「混沌」は語られることでどこかに秩序の枷をはめられてしまいます。
だから「クローバーフィールド」は定点観測映像に堕さないように映画的な語りを必要とするものの、その唯一のテーマを実現させるためには、十全に語ってしまって秩序としての「混沌」しか画面に定着させることが出来なくなるのも避ける必要があった。だからテーマのためにストーリー的なストーリーからは何歩も退く必要があったんじゃないかと思います。

べスのマンションに向かうことにしてからの展開は本当に文字通り一本道です。幾重にも伏線を張って、その伏線を鮮やかに回収して観客を驚かせることも何もしない。伏線を張るというようなことさえほとんどしてないです。
たとえば、中心地に向かう途中で巨大モンスターと対峙してる軍の前哨基地にたどり着くシーンがあります。

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民間人がここから先に入るのは絶対に阻止するのが軍の役目の一つでもあるから、当然ロブたちはここで足止めを食うわけですが、普通だと絶対に通れない関門をロブたちがいかにして潜り抜けるかという展開になりそうなものを、この映画の軍隊は最初こそ止めようとするものの、事情を話せば結構あっさりと関門を通してしまいます。救助ヘリが着陸する場所と時間を教えて、間に合うように帰ってこいと声をかけただけで、護衛もなしに巨大モンスターが暴れてる真っ只中にロブたちを放り出してしまいます。関門を通るためのストーリー展開を助けるために、それまでになんらかの伏線を張って、どうにかするというような形は取らないんですよね。まるでこういう場合、中心地に行くには必ず軍の検問があるから検問のシーンは入れておくけど、それだけの意味しかないシーンなんだと宣言してるみたいな感じ。
伏線を複雑に張り巡らせて構築していく物語が自ずと体現していく安定感のある秩序とは無縁の場所で映画を成立させようとする意図、そういう意図はこういうところでも垣間見ることが出来るような気がします。
だからわたしは前哨基地でのこういう展開は現実的にはリアリティはほとんどないんだろうけど、少なくともこの映画の目的には合致してるような印象を持ちました。
それと、この物語ともいえないようなミニマリズムのシナリオは、唯一の物語的な展開になってるべスのマンションに向かう決断のシーンで登場人物をパーティー客全員から一気に4人+べスに整理してしまうような荒業を使っていて、この辺りの動かし方にはまるで作意がないように見せかけてはいるものの実はかなり上手いところがあるような感じもします。

☆ ☆ ☆

人物描写に関しても事情はよく似ていて、最初の方にも書いたように、ストーリーのミニマリズムに歩調でもあわせるように、これもまた最小限の描写しかなされてません。

最初の送別パーティの、映画全体のバランスから見ると妙に長いシーンで各登場人物の基本的な人間関係、それぞれがおかれてる生活の状況といったことがごく簡単に説明されます。
ロブは、何の会社かは説明されないけど副社長として日本の会社に赴任するらしく、そのことに関係して恋人べスともう一つうまくいってないところが出て来てる。兄ジェイソンに関しては婚約者リリーがいるということと、ロブとはごく普通のどこにでもいる兄弟で、この兄弟に固有の特殊な確執のようなものがあるわけでもない、仲の良い兄弟であるということ。リリーは兄の婚約者として将来の義弟となるロブを気にかけてる。マリーンは友達が来てるからやってきたものの、主賓のロブのことさえもろくに知らないらしい。
冒頭の編集してない録画しっぱなしのように見せてるパーティーシーンで主要な人物について示されるのはこの程度のことで、その後人に関する描写はほぼその範囲から拡がったり深まったりするわけでもなく、映画のなかではパーティ会場をカメラを持ったハッドが無作為に動き回るだけで、やがてモンスターの攻撃が始まると後は画面に出てくる人間全員が逃走モードに突入して、人物の描写など完全に脇に追いやられたような形になっていきます。
おそらくこの映画を見た人のほとんどが最初のパーティシーンで得た人物への印象だけで最後まで行き着いてしまうんじゃないかと思います。

物語的な転回点であった橋崩壊後のロブの決断、恋人べスを助けるために、安全と思われる場所に向かう避難者の一群とは逆方向に進むという決断をするシーンでも、ロブは動機としてはたったそれだけでもまぁ分からないでもないけど、それに従う決断をする他の登場人物の動機なんかは、各人のそれこそ命に関わる選択になるわけだから、おそらく普通の映画だったら事細かに描いてその決断が不自然でないように持って行くだろうと思うんですが、この映画はこういう部分もとにかくミニマリズムに徹していて、たとえばリリーはロブが義弟になる人物だからそばにいなければならないという理由、マリーナはリリーが友達で他に頼れる人物が周囲に見当たらないといったたったそれだけの理由で、ロブについていくリリーにつき従うという形になります。ハッドは明言はされないけどおそらく片思いのマリーナの行く方向に付き従ってるという感じ。各人の行動への決断は納得できるか出来ないかの境界線上にあるというか、そういう感じのごくシンプルな理由付けしかされてません。

また、ハッドに関しては映画の最初からこの修羅場をビデオにとり続けてるという行為自体にかなり不自然で突っ込みどころがあるように見えるんですが、実は橋が崩壊する直前に橋の上で進めなくなって佇んでるロブが「まだ撮るのか?」とハッドに訊くシーンがさりげなく挿入されていて、「撮る」「言葉じゃ駄目なのか」「見る記録じゃないと駄目なんだ」といった会話が交わされてます。一応ハッドが、誰もが逃げること最優先の場所で1人だけ悠長に撮影し続けてる動機めいたものも提示されてる部分があるわけです。
基本的に人物を描くのが目的ではなくて、だから全体的にはミニマリズムに徹してるんですけど、命がかかった選択やこの映画の成立基盤になってるハッドの動機などは、あとで問われた時に最小限の返答ができるようなアリバイ作りみたいな形でさりげなく揃えてある。そういう配慮は随所になされてるような構造になってました。

要所要所で簡単に動機付けするくらいで全体的には人物描写に傾斜しないで終始するというこういうやり方は、普通の映画だとまず間違いなく落第点をつけられてしまでしょうね。でもこの映画はあえてその落第点に直結するような方法を取ってきます。
なぜならこういうやり方が「クローバーフィールド」の趣旨に合ってるから。と云うよりもこういう成立の仕方以外にこの映画の趣旨に合うスタイルはないと思えるから。
どう云うことかというと、撮影者のハッドにとっては被写体のロブたちは既に熟知してる人物なわけで、このビデオを撮影するに当って事細かにどういう人物であるかを描写、表現する必要がハッドに有ったわけがないということです。元々がプライベートなビデオの延長で成り立ってる上に、撮影者ハッドの関心がニューヨークで何が起こってるかを写しとることだけにしかないとなると、ビデオに写ってる人物がどういう人物なのかといった表現はビデオ映像の中に入り込む余地がほとんど無くなります。

わたしがこの映画を観終わった時に持った印象は、言葉で置き換えるならこの記事のタイトルにつけたように「倒立」してるっていうことでした。
普通はおそらく人物描写こそがメインテーマになるし、それが稚拙であったりおざなりであったりすればそれだけで出来の悪い映画という評価を貰ってしまうのはほぼ確実なのに、この映画に関しては普通映画に絶対に必要なテーマである人間描写をやってしまうと、映画の意図したもの、それを映画として成り立たせようとしたものを崩壊させてしまうことになりかねません。
たとえるなら道で偶然拾ったビデオテープを再生した時におそらく感じることが出来るに違いない得体の知れなさのようなものを映画の中のどこかの部分で維持し続けるために、他の映画では普通にやってる、あいまいなものに輪郭をつけていってはっきりと形が分かるようなものにしていく、いわゆる表現行為のかなりの部分を無視する必要があったと。ハッドが撮影したプライベートビデオという体裁をとる映画を成立させるためには、普通に映画を成立させるために必要なものが全く逆に映画を崩壊させかねない要素になってしまうというひねくれた部分が確かに存在していて、そのひねくれた倒立振りがわたしには結構面白いものとして印象に残りました。

☆ ☆ ☆

モンスター映画なので、肝心のモンスターについても思ったことを少しだけ。

この映画には2種類のモンスターが出てきます。ニューヨークの街中を徘徊して高層ビルを破壊しまくる巨大4足歩行モンスターと、中~大型犬くらいの大きさの昆虫タイプのモンスター。映画の中のニュース映像でちょっと写るくらいでよく分からないけど、虫型のほうは4足歩行モンスターの体から零れ落ちてくるらしい。小型の虫型モンスターを引き連れてるのは平成ガメラの2作目に出てきたレギオンをちょっと思い出させます。
昆虫タイプの方はうじゃうじゃと出てきて人を襲うので、大体の姿かたちはそれなりに分かるような形でスクリーンに登場しますが、巨大な方は実は一箇所を除いてあまり姿かたちが分かるような形でスクリーンに登場しません。ビルの背後で這い回ってる気配とか、そういう描写が中心になってます。
モンスターが近づいてきたら、ロブたちには逃げ去るしか選択肢がないから、逃げるハッドのカメラはモンスターとは反対側を向いてる場合がほとんどで、モンスターをきちんと捉えることもなかなか出来ないっていうわけです。

モンスター映画の場合わたしは基本的にはモンスターは見せない方が良いと思う部分もあるんですが、見せきらないと駄目なものもあって、たとえは「遊星からの物体X」なんかはモンスターを見せきって成功した映画だと思います。あれはグロテスクに変形するモンスターを見せないと映画そのものに意味がなくなってしまいます。
逆に「クローバーフィールド」に登場するモンスターの場合は「物体X」とは違って見せない方が良いタイプ。いろんな選択をこの映画はしてるけど、この点でもこの映画の選択は正解だったように思います。

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視覚面だけではなくて、モンスターに関するさまざまな情報も見た目と同じくらいほとんど映画には出てきません。モンスターについて何か書こうと思ってあらためて映画を見渡してみても、実は何も書くことがないと気づくくらいに情報が極端に制限されてます。
たとえば一つ一つの情報は断片的でそれだけでは全然意味を成さないようなものであっても、様々な手がかりが映画の中に散りばめられていて、たとえ映画が明確に説明しなくても、観客がそういう散りばめられた手がかりを参考にしながら推理してモンスターの真相に辿り着けるといった、そういう構成にもされてません。
ニューヨークを破壊する巨大モンスターに関してはどこからやってきて、どういう生き物で、なぜニューヨークを破壊してるのか、人を襲う虫型モンスターは巨大4足歩行モンスターにとっては一体どういう関係にある生き物なのか、そういったことが何も分からないままに放置された状態で映画は進行し、終わってしまいます。見終わって振り返ったら吃驚しますよ。今まで観て来たものが何だったのか全然理解できてないことに。

「クローバーフィールド」はこういう風に普通だったらちょっと考えられないくらい、映画の主役でもあるモンスターの正体について何も分からない状態を維持し続ける映画なんですが、でも考えてみれば、この映画の設定だとこういう状態はごく当たり前のことなんですよね。直下を逃げ回ってるハッドやロブたちには情報を得る手段がないから、ハッドが取り続けるビデオ映像にモンスターに関する情報が整理されて入ってるわけがないということ。
映画の中では混乱してる街中の電器屋が火事場泥棒にあってるシーンで、店内の商品である展示モニターに流れるニュースからと、中心地に向かう途中で遭遇する軍の基地くらいが情報を得られるシーンだったんですが、状況を覆い尽くす混乱の方が大きくて、両方とも情報としては断片的なものを得られるだけのシーンとなり、やはりロブたちはモンスターに関してはほとんど何も知りようがない状態で行動し続ける以外になくなります。
映画の主要な部分に関して、登場人物に何も知らせない、観客にもほとんど情報を与えないっていうストーリー上のこういう選択。これは物語を形作るって云う点では極めて大胆ではあるものの、混乱を画面に映し出すというテーマからは必然の選択だったと思います。

☆ ☆ ☆

「クローバーフィールド」は瓦礫の下から発見されたビデオカメラの映像という形を取ってる映画の性質上、有名俳優、ちょっとでも顔を知られてるような俳優は使うわけにはいかずに、出てくる俳優はみんなほぼ無名という、どうもあまりお金がかかってない映画のように思える映画だったんですけど、視覚効果に関してはかなり出来が良い仕上がりになってました。

纏めてみれば「クローバーフィールド」は怪獣映画という非現実で、ありえない世界を構築するために、大半の部分を視覚効果に寄りかかって成立してる映画です。今まで人間描写だとかストーリーテリングだとか色々書いてきたけど、結局のところこれがちゃちだとそんなこと全部ひっくるめて映画全体が崩壊しかねない側面も持ってる。
だから「クローバーフィールド」はそういうことを十分に承知の上で視覚効果に最大限の試行を重ねていってます。それは映画を一目観ただけで歴然として分かるほどに。その結果としてある部分では以降の映画はこれを基準にしなければならなくなるんじゃないかっていうくらい革新的レベルをクリアするようなところにまで到達しています。俳優に使わなくて済んだ予算をすべて映像技術面につぎ込んだと思わせるくらい、この映画の視覚効果は本当に素晴らしい出来を誇ってました。

最初のモンスターの一撃で、パーティ会場から路上に出てきた人に向かって、引きちぎられた自由の女神の首が飛んでくるシーンから、度肝を抜かれます。この場面はこの映画での一番のスペクタクルシーンじゃないかと思えるくらい、派手で凶悪で印象深いシーンになってます。
こんな非現実的なシーンなのに、現実感という点では文句のない出来栄え。路上の自動車を破壊しながらこちらに転がり飛んでくるこの自由の女神の首の巨大さは十分に表現されてるし、その回りに集まってきた人が、まだ何が起こってるのか今一つ理解してないからなのか路上に転がる首を携帯で写真に撮ってるシーンは、回りに群がる人と首の距離感も正確で、人と路上の首は当然合成なんですけど、人とCGIのこの首がきちんと同じ空気の中、同じ空間のなかに存在してる雰囲気も正確に表現されてます。本来別の空間の空気を纏ってるオブジェをまるで同じ場所にあるように見せようとするなら、カメラの位置、画角から細かい照明のニュアンスまで正確に一致させなければならないはずで、そういう部分もパーフェクトにクリアしてるシーンでした。

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空気感といえば、この映画の距離感の表現も突出していて、遠くにある巨大なものの表現も文句なしのリアリティを持ってました。
対象からこちらまでの空間に存在する大気の層のようなもの、「クローバーフィールド」はこれの表現に長けてるんですよね。この大気の分厚い層を上手く表現できると、遠くにあるような見掛けに仕上げることが可能となります。
地震の後パーティ会場の屋上に上がったロブたちがニューヨークの遠くのビルのはざまで大爆発が起きるのを目撃するシーン。この混乱の一夜の始まりの合図になるシーンですが、この時の大爆発からして、見事に遠くで爆発した感じが出てました。

でもこういう画面の質を高めてリアリティを保障していくような合成技術も目を見張る出来ではあるんですが、それよりもわたしが一番びっくりしたのはこの映画が手ぶれの画面に複雑な合成を重ねていくという、とんでもない荒業をやってたことでした。これは本当に凄かった。
カメラがどんなぶれ方をしようとも、合成されていくものが全てそのぶれにぴったりと同期されてます。

そういう組み立てのシーンで一番強烈だったのは、ロブたちが地上は巨大モンスターが暴れまわってるから地下鉄の線路沿いに地下を進んで行こうと決めるシーン。ところが安全だと思って歩いていた地下の線路上で、ロブたちは虫型モンスターの一群に襲われることになります。
この時カメラを持っていたハッドが襲われて、マリーナが助けに入るという展開になるんですが、襲われてる最中のハッドが持つカメラは手ぶれどころの騒ぎではなくてほとんど振り回してる状態。
地下道なので全体を均一に照らす光もなくて、カメラ付属のライトも振り回される中、それだけでも混乱して収拾がつかなくなってるような画面の中に、襲い掛かるモンスターとそのモンスターを打ちのめそうとするマリーナの姿が一緒に入ってくるんですが、これが全然破綻なく合成されて、同じ空間にいることもきちんと伝わってくる画面になってるんですよね。
しかも「クローバーフィールド」はこういうことを程度の差こそあれ映画全体にわたって破綻なくやってしまってるわけで、この映画の手ぶれ画面に全ての要素をマッチムーヴさせた視覚効果は本当に驚異的な出来を見せてました。

この映画、とにかく素人が撮ってる映像だというのをあらゆる場面で表現しようとしてる映画なんですが、こういう表現での「クローバーフィールド」の技術の使い方を見れば、云うならばぶれぶれの素人映像を再現するために、最新で最高の技術を惜しげもなくつぎ込んでるとも云えるわけで、先に書いた人間描写の処理に対して感じたのと同じような「倒立」振りが、ここでもまた見出せるということになります。

☆ ☆ ☆

身体感覚的な攪拌から始まって、充満する「空虚」や事あるごとに目の前に現れる倒立振りなど、複層にわたるような映画的平衡感覚への揺さぶりをかけられて、本当にこれが「映画」なの?っていう風に呆気に取られて観てるうちに、随所に現れる映画的選択のスイッチがことごとく「正解」側に入っていって、見終わったときにはきっちりと映画的な体験であったと納得させられるという、わたしにとって「クローバーフィールド」はそういう珍しい体験をさせてくれた映画でした。

☆ ☆ ☆


クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
(2009/05/22)
リジー・キャプランジェシカ・ルーカス

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原題 Cloverfield
制作 J・J・エイブラムス
監督 マット・リーヴス
公開 2008年


クローバーフィールド/HAKAISHA 予告編



お友達のブロガー、ハッピーレオンさんに教えてもらったんですが、来月10月の4日と31日にWOWOWで「クローバーフィールド」が放映されるそうです。

☆ ☆ ☆

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チョコレート・ファイター体験記

先週の11日に、映画「チョコレート・ファイター」を観に行って来ました。
実はわたしは格闘技の映画って今まで、というか今でも完全に守備範囲外で、ほとんど興味が沸きませんでした。ブルース・リーにしても、何故こんなに夢中になってる人がいるのか昔からさっぱり分からなかったし、ジャッキー・チェンの映画は人間離れしたアクションには多少興味を引かれはしたものの、そこから好んでのめりこんでいくということも無かったです。
ジャキー・チェンの映画辺りからハリウッド映画に拡がって云ったカンフータイプの映画、細かい手順に沿って一定のリズムでお互いにリズミカルに手を出し合うような格闘シーンとか見ても、何だか極めて派手で過激な「せっせっせ」でも観てるような気分になることのほうが多かったです。

それで、格闘技映画にその程度の興味しかなかったのになぜこの映画に興味をひかれたのかというと、少女が小細工無しの極めて過酷な格闘を演じてるっていうのを知って、これが妙に新鮮に頭の中に入ってきたんですよね。スタントは使わない、ワイヤー、CGは一切使わない、フィルムのコマを落として早く動いてるようにも見せない、その条件で人間離れしたアクションを、おそらく存在としては最も遠い位置にいるかもしれない少女がこなしてる。人間離れしたアクションっていうのはカンフーものの中でもジャッキー・チェンの映画の唯一興味を引かれた部分でもあったので、ここではカンフーじゃなくムエタイなんですが、それをこういうかけ離れた少女がやってしまったって云う点に新鮮さを感じました。何か前代未聞のものが観られるんじゃないかと、そんな風に思ったわけです。

上映してたのはムービックス京都で、観に行った日は上映最終日の一日前。記録的な意味合いで書いておくとスクリーンは以前の松竹座、今は一階が紀伊国屋書店になってるムービックス京都の南側の建物の2F、9番スクリーンを使用して、終了間際のこの時点での上映回数は1日2回になってました。お客さんは大体10人くらいだったかな。期間中にどれだけ客が来たかは分からないですが、最終日一日前にしてもちょっと少なかったかもしれません。
劇場の中央少し前辺りを予約して、まぁチケット買うときにどこでもほとんど空いてますと云われたので予約する意味も無かったんですが、ともあれその辺りに座って観ていると、遠くから人の気配はかすかに伝わってくるものの、ほとんど独占状態で観てるような感じになってました。終了してから劇場を見渡してみたんですが、最後列近くに並ぶように座席が埋まっていて、意外と後ろの方の席を確保する人が多かったようです。
わたしは今までに一度も経験が無いんですけど、劇場で本当に1人で観てる状態になれば、完全独占状態で凄く気分良いか、逆に自分だけのための巨大な施設を動かしてもらってると思って居心地が悪くなるか、どちらになるんでしょうね。

6/11a
当日のムービックス京都の中です。

6/11b


一応一度だけ鑑賞した印象をちょっと纏めておくつもりで書いてるんですが、何時になるかこれをブログにアップする頃には当然上映は終了してるわけで、記事にするタイミングとしてはあまり良くないです。こういうことをするつもりならあまりぎりぎりまで放りっ放しするのは考えものですね。

☆ ☆ ☆

主役の少女ゼン("ジージャー"ヤーニン・ウィサミタナン、通称ジージャー)は、傷のあるものに惹かれるという性癖を小さい頃から持っていた日本のやくざマサシ(阿部寛)と、タイのマフィアの女ジン("ソム"アマラー・シリポン)との間に生まれた子供。
勢力を拡大しようとする日本のやくざとナンバー8(ポンパット・ワチラバンジョン)率いる現地のマフィア組織の抗争が続くタイで、マサシはナンバー8の片腕とも云うべき女ジンと運命的な恋におち、ナンバー8の前からジンをさらっていったが、やがてマサシの身を案じるジンによって日本へ帰国することを勧められる。
マサシを帰国させてからジンは1人でマサシとの子を産み、その少女を日本にちなんだ言葉「禅」からゼンと名づけた。
ゼンは脳に障害を持って生まれた子供だった。しかし、日常は他人とまともなコミュニケーションもなかなか取れないような生活ではあったものの、その障害と引き換えにゼンには常人には到底持ち得ない身体能力が備わっていた。
ゼンは驚異的な反射神経と、目にしたものの動きを全て瞬時に把握して自分のものにすることが出来るという能力を持っていた。
ジンと一緒にナンバー8から身を隠して生活していた住処の近くにあった、ムエタイ道場の練習風景を眺めるだけで、ゼンはムエタイのすべての動きを自分のものにしていく。TVで観るカンフー映画や格闘ゲーム(!)からも格闘術のあらゆる動きを完璧に把握していった。
ゼンは幼馴染のムン(タポン・ポップワンディー)と一緒になって、その驚異の身体能力に磨きをかけながら成長していった。

やがて母親ジンが白血病を患っていることが発覚する。ゼンとムンは路上で反射神経を利用した大道芸を披露して小銭を稼いでいたが、母親の薬を賄うにはそれでは到底追いつかなかった。

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金に困り果てている時ムンはジンが隠し持っていた昔の帳簿を発見して、未だに回収してない借金がかなりあることを発見し、帳簿を元に昔の負債者から金を返してもらおうと、ゼンとともに負債者のところを廻り歩くことにした。

やがてその事がナンバー8の知ることになる。自分の島を荒らされてることと、ジンが未だにマサシへ心を残してることを知った嫉妬心から、ナンバー8はジン親子とムンへ復讐し、破滅させることを決意する。

☆ ☆ ☆

お話はまぁこういう感じで動き出すんですが、簡単にまとめて読み返してみたら、ディテールには荒唐無稽というかユーモラスな部分が結構入り込んでる話だったんだなぁとあらためて思ってしまいました。かなりシリアスな部分とか絵的に美しい部分が随所にあって観てる間はそれほどとも思わなかったんですが、ヒロインがやってることって、映画の前半部分は借金の取立て屋ですものね。ジージャーの台詞も、ゼンの設定がコミュニケーション不全ということもあって全体に台詞はかなり少なかったんですけど、その辺りのシーンでは口を開けば「金返せ」という類の台詞しか出てこなかったです。
荒唐無稽なユーモアの混ぜ加減で全体的には不思議な感触が加わった映画になってる感じがします。

この映画の最大の見所は華奢な美少女が同時に史上最強のファイターでもあるという、その矛盾に満ちた特異な存在感にあったと思います。普通だとこの二つはまず両立不可能。大人の女だと戦う女はたとえばアンジェリーナ・ジョリーのトゥーム・レイダーとかいろいろあるんですが、こういう少女ではほとんど無いんじゃないかと思います。
そこでこの両立不可能とも見える要素を同じ場所に並置するために、プラッチャヤー・ピンゲーオ監督が選んだ方法はこの美少女ヒロインを障害者にするという設定でした。
知的障害者が特定の分野のみに特異な才能を発揮する所謂サヴァン症候群の設定なんですけど、この症候群が出てきた映画で直ぐに思いついたのが「キューブ」。あの映画でも他のことでは全く役立たずなのにキューブから脱出するための複雑な計算だけは暗算で簡単にやってしまう人物が出てました。
ただこの映画で描かれるような、驚異的な反射神経とか一度見ただけで全ての動きを把握し自分のものに出来るという能力が本当にサヴァン症候群から生まれてくるのかどうかは、わたしは知らないです。ちょっと都合が良すぎる?

主人公を障害者に設定してこういう形で表現するのは、今の日本ではおそらく不可能だと思います。そういう意味では国情の違いが出ていて興味深いかもしれません。他にも終盤近くにゼンの前に立ち塞がる強敵の障害者が出てきたり、まぁこれは障害者でもないけど、タイだからなのかオカマの暗殺者集団が出てきたりで、いささか見世物的な演出もしてあるんですが、ゼンの周囲はむしろ他とは違う選ばれた者といった存在感の方が強く出る描き方をしてる映画なので、わたしは障害者がどうのこうのといったこととは全く関係無しで、普通に共鳴し感情移入して観てました。
監督は映画の冒頭に子供たちに対してメッセージを残してます。これはハンディキャップのせいで普通の生活もなかなか送れないような子供たちへの応援のメッセージだと監督は云ってるんですが、ゼンのようにある意味恵まれてある障害者は稀にしかいないわけで、あれが直接的に応援の言葉になるのかなというのはちょっと考えるところがありました。

この自らの内に閉じようとして、限られた人間との間にしか意思疎通のルートを開けないような今にも壊れそうな存在なのに、自分の大切にしてるものを奪われ損なわれようとしてるのを目の前にして怒りを全身から暴発させる、存在感に満ちた少女ゼンを演じたジージャーはまさに適役。驚異的な身体能力を駆使して、史上最強の少女という、ある意味倒錯的とでも云えるような今まであまり見たことのない魅力を持ったキャラクターを怪演してます。

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もともとテコンドーの使い手で高校の時にはバンコクのユース・テコンドー大会で金メダルを取るほどの腕前だったらしく、そういう格闘技の素質をこの映画のために4年間特訓して挑んだそうです。
見た目はどちらかというと日本人に近い感じの美少女で、日本人であるわたしにはより親近感がある女優さんでした。
脳に異常がある知的障害者(日本での宣伝などでは自閉症、心の病と言い換えてたそうです)という役どころなので、台詞は極めて少なく、先に書いたように借金の取立て屋をやってるシーンではとにかく金返せのバリエーションを繰り返すだけなんですが、新人女優でテコンドーの実力だけ買われて映画に登場したために台詞が多いと不都合だったとかそういう表現のレベルじゃなくて、ジージャーは確実に知的障害者という役柄を演じてました。そういう部分に説得力がないと、そこから派生して獲得していく驚異の武術も荒唐無稽の部分のみ目立ったような結果になったと思います。

前に取り上げた「ガタカ」も云うならば不適正者ヴィンセントという障害者を極めてクールな美しさで描写した映画とも云えたわけで、そういう云い方でいくとこの映画は血なまぐさい形の真っ只中で障害者をまた別の凛とした美しさで撮ろうとした映画だといえるかもしれません。

☆ ☆ ☆

格闘アクション映画なので、映画の比率は同然の事ながらアクションシーンを重点に置くような形にしてあります。マサシとのドラマ部分とかゼンの成立背景とかは前半に纏め、マサシなんかは物語りに絡んでこないように最初の内に日本に返してしまって、ゼンとムンが取立て屋を始めることから、アクションシーンの連続となって行きます。
借金の取立て屋を始めてから、ストーリーを挟み込みながらも連続するように3つのバトルステージが映画の中で展開していきます。この3つのステージはムンが発見したジンの昔の帳簿に記されていた人物を順番に訪ね歩くという形で連なっていました。
そのステージとは、最初に製氷工場、まん中に、これは倉庫会社なのかな、棚とか箱とかが天井高く積み上げられてる巨大な空間、そして最後に精肉工場。それぞれの空間の特徴は取り立てに行く負債者の職によって異なったものになってます。
わたしはカンフー映画って積極的にはほとんど観て来なかったので知らなかったんですが、最初のステージの製氷工場とかはブルース・リーの映画にも出てきた場所らしいですね。2番目のステージに出てくるロッカーの扉を使った攻防は、これはわたしにも分かるジャッキー・チェン的な雰囲気があったし、バトルステージ全体に過去の格闘映画に対するオマージュ的なものが含まれてるようでした。

最初の製氷工場で借金を取り立てに行ったゼンは負債者には全く相手にされずに逆にその場にいた手下の男たちに袋叩きにされます。そして命の危険に晒されるような状態にまで追い詰められて初めて、今まで見てきた格闘の動きが全身に降りてきてゼンはファイターとして覚醒することになります。
ファイターとして目覚め、袋叩きにあった状態から立ち上がって別人のような戦闘モードに入ったゼンは、このシーンではまるでブルース・リーのようで、あの特徴のある怪鳥的な雄たけびや鼻に手をやる動作などを見せます。この辺でわたしは、ひょっとしてこの映画の格闘ってブルース・リーのコピーを見せるだけ?って思ったんですが、これはゼンのキャラクター付けの細かい設定のようなもので、要するにゼンがそれまで観ていた映画がブルース・リーの映画だったから、最初に無条件で降りてきた動きがブルース・リーのものだったということのようです。わたしは延々とブルース・リーもどきの映画を見せられるのかと少々不安になったんですが、実際はブルース・リー的な格闘を見せるのはこの製氷工場のシーンだけでした。ゼンは戦いを重ねることで相手の動きを見切って全て自家薬籠中のものにしていくので、戦闘のスタイルは映画が進むにつれて変化していきます。

ただこの3つの戦闘ステージの配置は物語的にはあまり上手くない配置だったと思います。
それぞれのステージは趣向を凝らしてます。倉庫会社では入り組んだ障害物や段差のある中での戦闘で、ジージャは180度開脚横回転だとか、低空で投げつけられた障害物の下をすれすれで潜り抜けるなんていう無茶なアクションを披露してくれますし、精肉工場では肉きりの刃物が投げつけられ飛び交うような、相手にダメージを与えるだけじゃなくて完全に殺すことを目的にするようなステージが展開します。

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でも、それぞれのステージはこういう風に戦闘タイプの違うものを揃えてるんですが、物語的には同じ重みづけのエピソードが並置されてるだけというか、ジンの帳簿に載ってる人物を1人づつチェックしていくだけの単調な作業をこなしていくのに似たような展開になりがちでした。
似たようなエピソードで登場人物の名前だけが変わってる短編集みたいなのを読んでる感じ。一つのステージを勝ち進んだことが次の展開に何らかの影響を与えてるという感じがなくて、エピソードがあまり繋がりも持たずに並んでるのを順番に観ていく感じというか、物語的な展開としてはいささか単調な進行になってました。バトルステージごとに趣向が凝らされてたのでこれはちょっと勿体無かったかもしれません。

バトルステージが物語的な盛り上がりとともに機能してるような感じは、ナンバー8がジン親子とムンに対して復讐を始めてからの展開に従ってようやく出てきます。

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それまでの取立て屋モードの戦闘では、それぞれの負債者が倒すべき最終目標となって、ストーリー的には強敵が相応しいと思うのに、結局は全員ただのおじさんにしか過ぎず、配下の屈強な部下を差し向けては来るものの部下を全員倒したところでバトルモード終了、負債者はその時点で大人しく金を返すだけでエピソードそのものの終わりという展開になってたんですが、ナンバー8の本拠地であるアジトビルでの最後のバトルステージに入って、ここにきて初めてゼンの目前に強敵が立ち塞がることになります。TVゲームで云えば中ボスといったところでしょうか。
わたしが観た感じではこの映画、この場面に来るまでに、これを突破しなければ先には進めないって云うような感じがするところってほとんどなかったんですよね。

ここで現れるのが、これがまた異様な相手で、はっきり云って映画の中での扱いはゼンと同じ戦闘に特化したサヴァン症候群の障害者。アディダスのジャージ上下を来た眼鏡で坊主頭の少年で、名前はトーマス、まるで全身が暴走したチック症にかかってるかのように、全く予測不可能な動きをする強烈なキャラクターとして登場します。
主人公の前に立ちはだかる、明らかに常人とは違う感じのこういう強敵は設定としてはかなり荒唐無稽になるかもしれないけど、要所要所に配置した方が物語的には盛り上がっただろうと思います。最後のアジトビルでの戦闘では他にもこういう格闘技マスター的な人物は出てきてはしたものの、異様な雰囲気を引き連れて登場するのはこのトーマス少年だけでした。トーマス少年のような際立ったキャラクターを持つ存在が他に出てこなかったのは、ちょっと残念でした。
この少年の登場シーンは映画全体の空気感を変えたし、そこまで襲い掛かってくる敵をなぎ倒して進んできたゼンがトーマス少年の予想外の動きに翻弄されていく展開もあってなかなか面白かったです。また、ゼンが翻弄され追い込まれながらも、トーマス少年の動きをトレースして自分のものにしていく過程もトーマス少年の存在が異様であるだけに際立ってくるところもありました。

敵アジトビルでの最後の戦闘は、映画のクライマックスでもあるんですが、4階建てのビルの壁面の垂直、水平両方向への空間をフルに使った縦横無尽の攻防戦となります。これは分量的にも結構長くて、壮絶の一言でした。
足場は人の幅ほどの窓の下の出っ張りだけ、路上の空中高くに突き出た看板に体当たりして反射しながら下の出っ張りに移動とか、そんな細い足場と看板を使って空中を乱舞するような、もう絶対に何人か死んでるんじゃないかと思うくらいの驚異的なアクションシーンが延々と続きます。4階からそのまま地面まで落ちた人もいたし。こういうところは、映画の宣伝ではワイヤーアクションは使ってないと言うことでしたけど、明らかに使ってるでしょうね。でもワイヤー使ったからと云って、それがこのシーンの勢いをそぐような方向には向いてなかったので、それはそれで構わないと思いました。
わたしはこの最後の壁面の壮絶な攻防を眺めていて、スクリーンから伝わってくる熱気というか波動というか、何だか知らないけどこちらの感情を無茶苦茶に揺り動かしてくるようなものに翻弄されて、感情の制御を若干失ったような感じになり、別に悲しくもないのになぜか涙が出そうになりました。
でも、この最後の攻防を観て涙流しかけたのって絶対にわたしだけじゃないと思います。

☆ ☆ ☆

それとこの映画、最初の方にも書いたように阿部寛が出てるんですよね。映画は阿部寛の日本語のナレーションで始まるので、タイの映画だと思って観始めたわたしは、これでまず吃驚しました。ひょっとして間違って吹き替え版を選んだんじゃないかって。
でもこのナレーションはどうやら日本で公開した「チョコレート・ファイター」だけの特別仕様だったそうです。

阿部寛って出始めた最初の頃は、モデル出身で見た目だけで飽きられたら消えていくだろうって思ってたら、結構存在感のある俳優になってしまって、この映画でもかっこよかったです。
前半で日本に帰国して退場してしまったマサシも、ゼンたちがナンバー8の手にかかって窮地に追い込まれてると知って、日本で築き上げたもの全てを投げ捨ててタイに戻り、終盤のアジトビルでの攻防では日本刀を持って単身殴り込みをかけてきます。この辺は完全にやくざ映画のノリかも。阿部寛も「トリック」なんかで見せていたとぼけた部分を完全に隠してシリアスに徹してます。

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この父親の行動で刀の動きをトレースしたゼンが、同じく日本刀を振りかざして襲い掛かってくるナンバー8の配下の者たちを刀じゃなく両手に鞘を持って立ち向かっていくというひねりが入った格闘シーンへと繋がっていくんですが、マサシの再登場はそういうシーンを導き出しては来るものの、物語的には前半しにしか登場してなかったので、中途半端な感じは免れませんでした。せっかくのいい俳優を使ったのに、ちょっと勿体無かった。
もっともマサシの出る部分はノワール風の映画で、ゼンが活躍する部分とはちょっと合いにくいって所はあったかもしれません。ラストはマサシの、傷のあるものに惹かれ続けるという冒頭のナレーションに戻るような終わり方で映画を纏めていくんですが、ゼンのなかで父親がどういう位置に居たのか、物語の中では母子の絆に関しては丹念に描写されてたのに、父親との絆についてはゼンの側からもマサシの側からも全然描写されてないから、若干ぶれたようなまとめ方という印象でした。

☆ ☆ ☆

この映画で阿部寛のベッドシーン、全裸が観られます。

☆ ☆ ☆

一度観た印象としては、大体こんなところです。
高橋留美子展の時にも書いたように、わたしは映画でも何か戦利品を持って帰らないと気がすまないので、パンフレットは必ず買ってます。

チョコレートファイターパンフ

「チョコレート・ファイター」のパンフレットもいつものように買ったんですが、このパンフレット表紙の紙も中の紙と同じようにぺらぺらの材質のを使ってるんですよね。
こんなにちゃちな映画パンフレットっで初めて手にしました。これで700円したんですが、やっぱり高すぎという印象です。

☆ ☆ ☆



追記 京都では上映は終了しましたが、6/17現在、未だ上映中、あるいはこれから公開という地域もあるそうです。

チョコレート・ファイター公式サイト

↑のTheaterガイドで詳しい情報を知ることが出来ます。




原題 Chocolate
監督 プラッチャヤー・ピンゲーオ
公開 2009年


☆ ☆ ☆


チョコレート・ファイター 予告編



こっちはタイ版の予告編?



チョコレート・ファイターのアクションシーンをいくつか集めたものがYoutubeに置いてありました。
ジージャーファンが作ったもののようで、BGMは映画のものではなくてThe Ting Tingsの曲です。




☆ ☆ ☆


最後まで読んでくださってありがとう御座いました。

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【洋画】 ガタカ

映画の話題としてはこの前取り上げたガン=カタの映画に続いて、今度の映画は「ガタカ」。
これがタイトルなんですが、邦題だけじゃなくて原題もこれです。ガン=カタっていう言葉が頭の中にあって、映画のタイトル「リベリオン」よりも印象が強ければ、ガン=カタを観ようと思って間違ってこっちを選ぶ人も多いんじゃないかと思います。ひょっとしたら続編?って思わせるような響きもありますものね。でも期待しても残念ながらあの凄かった銃の演舞は一切出てこないです。

ガン=カタは出てこなくても「ガタカ」もまた同じように近未来を舞台にしたSFです。とは云うものの普通にSFと聞いた時に頭に思い浮かぶようなものとはおそらく全然違う印象を与える映画になってるはずです。
見上げる空に飛び立っていく宇宙船は出てくるものの、物語の舞台としての宇宙船はラスト近くのごく一部を除いては一切映画の中には出てきません。化け物じみた宇宙人との派手な戦闘もない。
この映画はそういうにぎやかで楽しいテーマじゃなく、遺伝子操作が可能になった社会で人間がどう扱われていくかといった社会的なテーマや、兄弟間の確執、持つ者持たざる者のそれぞれの苦悩といった文学的ともいえるようなテーマが中心になっています。

そしてそういうテーマを載せて展開する画面もまた従来的なSFのイメージとは異なって、ワイドスクリーンを効果的に使った極めてスタイリッシュな絵作りをしてます。
襲い掛かる宇宙モンスターや飛び交うビームに画面を揺るがす大爆発といったものが満ち溢れる躍動的な画面ではなくて、どちらかというと絵画的な構造の、静的でクール、未来と過去が入り混じったような不思議な感触の画面が映画全体を占めていて、近未来という時代の、遺伝子を元にした徹底した管理社会の雰囲気、テーマ性をうまく視覚化しています。

タイトルになってる「ガタカ」なんですが、映画の中では主人公ヴィンセント・フリーマン ( イーサン・ホーク )が自分の遺伝子を誤魔化して社員として潜り込む企業の名前として出てくるだけで、直接的な意味は説明されません。
それで映画を観てるだけでは結局この言葉の意味は分からずじまいで終わってしまうんですが、どうやらDNAの塩基配列頭文字、A(アミン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)を組合わせて作った造語だということのようです。

音列は硬質で低温度的な響きがかっこいいです。多少はわたしのお気に入りのガン=カタに引っ張られた印象ではありますけどね。

☆ ☆ ☆

近未来のどこかの時代、人は自らの遺伝子の構造をつきとめ自由に扱う術を獲得していた。
多くの人は我が子が遺伝子的な問題を抱えて生まれてこないように、試験管の中で人工的に操作された出産を望んだ。
しかし中には自然にゆだねるのが最良という考えの元に、昔からの性行為を出発点として自然分娩にいたる過程を選ぶ親たちも存在し、そうして生まれた子供たちは「神の子」と呼ばれることになった。

ヴィンセント・フリーマンもそういう神の子の一人。
この時代は生まれた直後に実施される血液検査で生涯にかかる病気、寿命などを予測できるようになっていて、ヴィンセントは99パーセントの心臓疾患発病率を予想され、寿命は30歳程度と分析されていた。実際にヴィンセントは周りの人間が始終気を使わなければならないような病弱な幼少期を送ることになる。
最初の子供に懲りて両親は次の子供を時代のやり方に沿って授かることを決心する。そしてヴィンセントの弟として、遺伝子的な劣悪因子や疾患を取り除き、両親の遺伝子の掛け合わせとしては最高の状態でアントン・フリーマンが生まれた。

兄であるヴィンセントはあらゆる意味で弟アントンにかなわなかった。やがてヴィンセントは地上にあるもの全てを憎むようになり空高く上っていく宇宙飛行士になることを夢見るようになった。しかし、世界は遺伝子的に優れた「適正者」と劣化した遺伝子の持ち主「不適正者」に二分された階層社会になっていて、宇宙飛行士への道と弟アントンは「適正者」の世界に属して、ヴィンセント自身は「不適正者」の階層に属するものだった。「適正者」と「不適正者」の間は明確に断絶していて、不適正者が適正者の社会に入り込むことは不可能なことだった。
それでもヴィンセントは宇宙飛行士になる勉強を続けていたが、両親はヴィンセントに努力しても無駄なことが存在するといつも云い聞かせていた。

そういう環境のなかで、ヴィンセントとアントンは親の目を盗んでは浜辺に行き何処まで遠くへ泳げるか競うという度胸試しをやっていた。
いつもは弟が勝っていたが、ある日、アントンが途中で力尽き、溺れかける事態が発生する。その時の度胸試しでは溺れかけた弟をヴィンセントが助けることとなった。
絶対に勝てないはずの弟に勝ってしまったこの出来事で、今まで自分に出来ることの限界を他人が決めていた有り方ではなく、予め課せられた不可能を克服するだけの可能性が自分にも残されていることを確信したヴィンセントは、社会に合わせて確かめもせずに自分の可能性を規定しようとする家族の元を去る決心をすることになった。

家を出たヴィンセントは職を転々とし、やがて不適正者の属する新下層階級の清掃員の一人として「ガタカ」にやってくる。
ガタカ社はこの時代に宇宙開発を行う唯一の巨大企業で、宇宙飛行士になるにはここに入る以外に無い。厳重なゲートで選別されてガタカ社に入っていく適性者の集団を清掃しながら毎日眺めていたヴィンセントは必ずこのゲートを潜ってガタカ社に入る決意をするのだった。

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ところが入社のテストを受けてみても、ドアノブに触れただけでその痕跡からDNAを辿られて、不適正者であることがばれてしまって入り込むことが出来ない。いくら努力しても血液検査をされれば即座に落とされるという状況にあって、ヴィンセントはDNAブローカーに会うという最終手段をとることを決意した。
ヴィンセントに体格的に一致する適正者としてブローカーから紹介されたのが元水泳選手のエリート、ジェローム・モロー(ジュード・ロウ)だった。
ジェローム・モローは最高の遺伝子をもつ超人。しかし過去に自殺未遂を起こしていて、そのときの行為が原因で今では車椅子の生活になっていた。
ヴィンセントはジェローム・モローの生活を保障する代わりに、ジェローム・モローのIDを譲り受け、遺伝子を含む垢、ふけ、髪の毛、尿などを提供してもらい、その遺伝子を内包する老廃物を使うことでガタカの検査を突破し、ジェローム・モローに成りすましてガタカの一員になることに成功した。

ヴィンセントがジェローム・モローとしてガタカでの生活を続けていたある日、ガタカ内部で殺人事件が生じる。殺されたのはガタカ社で近々予定されている土星の衛星タイタンへの探査船の打ち上げに反対していたある上司。
その結果ガタカ社で警察の捜査が始まることになった。チリ一つ見逃さない警察の現場検証に、たまたま落としたヴィンセントの睫毛が一本紛れ込んで、蒐集物の分析の結果、不適正者ヴィンセントがガタカ社に紛れ込んでいることが警察にばれてしまった。
ジェローム・モローとして認知されていたヴィンセントに、即座に警察の手がのびてくることは無かったが、警察は確実にヴィンセントを囲い込み、殺人の容疑者としてヴィンセントに向かって捜査の範囲を絞り込んでくる。ヴィンセントはしだいに窮地に立たされていくことになった。

☆ ☆ ☆

簡単に云うならば、4つの遺伝子の物語が4人の主要登場人物に仮託されて語られる、そういう構成の物語になってます。
主人公のヴィンセントは自然のままの状態で、この社会では、あるいは今の現実の社会でも劣性と見做される特質を持った遺伝子を山のように抱えてしまってる存在、映画の冒頭に引用される2つの言葉のうち最初に出てくる「神が曲げたものを誰が直し得よう?」という伝道の書からの言葉をそのまま体現してしまってるような人物。そしてそういう兄に対応する弟のアントンはたとえば天才同士の掛け合わせといったものではなく、ごく普通の人間である両親の遺伝子という制限はあっても、その組み合わせのうちでは最良の選択をなされた存在。
ジェローム・モローは超人と呼ぶに相応しいような完璧な遺伝子の持ち主でありながら、なぜかその遺伝子の能力を十全に発揮できず、目の前に越えられない壁を見出してしまった人物で、もう一人紅一点で、ヴィンセントに惹かれていく女性アイリーン(ウマ・サーマン)は遺伝子操作されて生まれてきたにもかかわらず、ある種の欠陥を抱え込んでいて、適正者の社会にいる資格を充分に持ちガタカ社内部に居場所も見つけながら、ガタカ社の目的である宇宙に飛び立つことを拒絶されてる人物といった感じに役割を割り振られています。

主人公の兄弟は冒頭の伝道の書の言葉と、それに続いて映画の冒頭に出てくるウィラード・ゲイリンの言葉、ゲイリンは実在の人物で1974年に「Harvesting The Dead」という論文を書いて脳死体の医学的な利用価値について言及した人らしいんですが、そのゲイリンの言葉「自然は人間の挑戦を望んでいる」というのをそれぞれ体現してるような存在で、残るジェローム・モローとアイリーンは操作され適正者の側にいながらも、完全なものとしてではなくそれぞれが翳りを背負わされてる人物とでも云い表せるかもしれません。

このように映画「ガタカ」の登場人物はそれぞれかなり明確な役割を割り振られてスクリーンの中に登場します。そしてそれぞれ担ってる遺伝子のロールプレイングをする登場人物といった感じで配置されます。
登場人物それぞれに事情があるものの明確に役割を振られている分、ストーリーの見通しは意外なほど良くて、物語の構造自体も各登場人物ごとにブロック状に切り離せるんじゃないかと思えるくらい、分かりやすい形を取って目の前に展開していきます。
ヴィンセントと弟アントンとの確執のある少年時代の回想、その回想が終われば、適正者を騙って潜り込んだヴィンセントのガタカ社での日々とそこで起こった殺人事件、ヴィンセントに適正者のアイデンティティを与えるジェローム・モローの孤立した生活という風に、それぞれがお互いの領域に関わっているように見えながら、大枠の部分ではきっちりと別の物として扱われ物語の秩序に沿って並べられてる。
複数のストーリーを用意して、ある程度個別の枠組みに収めてしまってるためにいささか散漫な印象があるものの、区画整理された道を歩いてるような見通しのよさがあるというか、そういう感じをうける物語でした。

☆ ☆ ☆

この映画を見終わってみてわたしが感じたのは、まず第一にヴィンセントの、主人公であるにもかかわらず、それほど印象に残らない存在の希薄さでした。

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ヴィンセントがこの映画の主人公であるのはまず間違いがないところ。これには誰も異論がないと思います。
冒頭部分、自分の垢などをガタカ社で不用意に落とさないように、皮が擦りむけるほどに焼却炉に擦り落としてから出社するシーンに始まって、ヴィンセント自身のモノローグで始まる、自分がガタカで適正者に混じって生活してることへ至る過去の回想から、無表情にエリートを演じてるガタカでの日常と場面は続き、最後もヴィンセントのエピソードで終わるこの映画の物語は終始ヴィンセントを画面に捉えていて、明らかにヴィンセントの物語として成立しています。
わたしはヴィンセントが不適正者であっても不可能を努力で可能にして、最後には夢にまで見た土星探査の宇宙飛行士になる物語として観ていました。おそらくこれはわたしたけではなく、この映画を観た大半の人がそういう観点で観始めると思います。
ところが確かにそういう風に進む物語ではあるんですが、実は物語の大半はガタカ内部で起こった殺人事件の話に割り振られてしまってるんですよね。この殺人事件の話はもちろんヴィンセントに密接に関わってくる事件なんですが、ここで扱ってたはずのヴィンセントが生きることを強要されてる遺伝子に規定された生存の形そのものとはあまり関係のないエピソードに終始していくことになります。

この殺人事件というのは、先に書いたようにタイタン探査宇宙船の打ち上げに反対してた上司の殺害というものなんですが、この上司は殺害された形で初めてスクリーンに登場してきて、それ以前の話の中では全く出て来ない人物です。
会社の自室で殺されてるのが発見されるまでに映画としてはまだたったの8分ほどしか経ってない。この8分の間にこの人物は一度も登場しないので、このシーンがやってきた時にわたしが思ったのは、「これ、誰?」っていうものでした。
以後警察が介入してきて、ガタカにヴィンセントが潜り込んでるのがばれてしまい、誰がそのヴィンセントなのかを探る捜査が始まるものの、殺された上司は捜査の過程でガタカのやり方に反対してた人物と説明されるだけで、後は最後まで「これ、誰?」の放置状態です。どういう生活をしていてどういう考えの元に土星探査に異を唱えるようになったのか、この人物に関するそういった描写は皆無で、おそらくヴィンセントとの人間的な係わり合いさえも無い人物でしょう。

結局映画の中で大半を占めているこの出来事は、云うならば殺人事件としての意味合いさえも与えられていない事件として扱われていて、ヴィンセントを追い詰めていくサスペンスを作り出すために用意された物語上の仕掛けにしか過ぎないのは一目瞭然でした。
だから映画はその仕掛けに引きずられて、ヴィンセントが自分に向かって閉じかけてくる容疑から抜け出すためにいろいろ算段する描写に特化してしまい、本来表すべきだった不可能を可能にする努力といったシーンはほとんど出てこないことになってました。

ガタカ社の社員全員にかけられた不適正者の容疑と、その不適正者ヴィンセントを割り出すために試行される様々な検査。ヴィンセントはその検査を全てクリアするべくいろいろ知恵をしぼるんですが、観てる側が感心するほど考え抜いた方法を使うわけでもなく、その場の偶然に頼ったり、理由をつけて暴れた隙に検体を擦りかえるとか、姑息な手段ばかりを披露します。
一応ガタカ社でジェローム・モローに匹敵する能力を発揮するためにヴィンセントがかける努力、本当はこちらの方が本筋なんですが、これもエピソード的に映画の中に挿入はされるものの、腹筋の運動をするときに負荷として使っていた分厚い書物の背が画面に映って、それが宇宙航法に関する本だということが分かったり、といった極めて間接的な描写に終始します。実際に本を読んでるシーンなんて過去の回想に僅かに出てくるだけです。
これでは、ジェローム・モローの体の一部を使って適正者に成りすましたきっかけから、やがてジェローム・モロー並みの能力を身につけるまでに至る壮絶な努力の物語の印象なんて絶対に持たないです

おそらくヴィンセントが地道に努力する過程を延々と映しても、映画を維持できないと判断したせいだと思うんですが、殺人事件によるサスペンスという、この映画が採用した展開は映画を維持は出来ても映画が用意してるテーマを展開するにはあまり適切だったようには思えませんでした。

そういえば弟との肝試しの遠泳でも、これで適正者の弟に勝ったことがヴィンセントに遺伝子の呪縛から解放される道筋も残されてると確信させる出来事だったのに、なぜ勝てたのかはほとんど理由なんてなく、勝てたのも偶然にしか見えないような描き方をしてました。このヴィンセントの出発地点の出来事もエピソード的には弱いといえば弱いです。
ただこの遠泳のシーンは映画の中では三回あるんですが、どのシーンも俯瞰を効果的に挟み込んだりして極めて美しいシーンだったので、シナリオ的には弱くても、絵で納得させるだけの力はあったかもしれません。

☆ ☆ ☆

一方、遺伝子的な超人ジェローム・モローのほうは、これは車椅子に座ってるということもあって自宅から出るシーンはほとんどなく、ガタカ社で展開される映画メインの出来事とは切り離されたような扱いになってるんですが、印象は主人公のヴィンセントよりも余程強烈で、こちらが主役といっても云いくらいの存在感がありました。こちらの印象の方が強烈なので、イーサン・ホークの演じた主役の印象が必要以上に薄いものになってしまってるとさえ云えるかもしれません。

ほかの人物の描写が、たとえるなら最初に割と単純な答えの数字が用意されていて、その数字に行き着くように数式を組み上げていたような作り方をしてたのに対して、この人物は最初から最後まで変数ばかりで構成されてる複雑な人物として造形されてるような印象をあたえました。

最高級の遺伝子を持ちほとんど全てのことで万能とも云える可能性を秘めて水泳選手のスターになったものの、努力を怠ったわけでもないのにいつまでも2位の銀メダルに終始し、遺伝子が確実に保障してるはずの一位に辿り着けない。何故そこへ行き着けないのか自分でも分からないままに、最高級の遺伝子の持ち主という重圧に耐え切れなくなって自殺するために車の前に飛び出したものの生き残ってしまい、自殺未遂の結果半身不随となってそのまま水泳界がら行方をくらませた人物。
最初にヴィンセントと会った時は生活を保障してもらうために、自分のIDを初め、自分の垢やふけや尿を提供する自分のあり方に対して冷笑的な姿勢を示す人物、たとえば身長は?と訊かれて130センチ(車椅子に乗ってる高さ)と答えるような人物として登場するんですが、これだけでも屈折して陰影にとんだ人物としてかなり強い印象を与える感じです。

そしてこの冷笑的な位置にいてヴィンセントとの取引をあくまでもビジネスと考えていた地点から、自分の遺伝子を使って自分の代わりに努力して階段を登っていくヴィンセントと付き合ってるうちに冷笑的だったジェロームの人間性に変化が起きて来ます。
実はこの映画に出てくる登場人物で、他人との係わり合いのなかでその存在を大きく変化させていく人物っていうのはこのジェロームだけなんですよね。ほかの人物も多少は他人の影響を受けはするものの、あくまでも背負わされた遺伝子のロールプレイングをする駒という形を崩さない。さっきのたとえで云えば最初にその人物のものとして想定された単純な数字を乱そうとはしません。ところがジェロームは最後の答えにあたる数字をどんどんと変化させてくる。

ヴィンセントはガタカ社のなかではジェローム・モローのIDとそれを保障する遺伝情報を利用して入り込んでるので、ヴィンセントではなくてジェローム・モローその人です。そしてジェローム・モローはもう一人のジェローム・モローが努力を重ねて宇宙飛行士への道を突き進んでいき、ジェローム・モローの名前を宇宙飛行士として歴史に残そうとしてるのを目の当たりにしていく。自分は水泳選手として銀メダルに甘んじた生涯だったが、自分の一部をまさに共有して自分が届かなかった地点まで登ろうとしてるジェローム=ヴィンセントを見てるうちに、ヴィンセントの存在を自らのことに重ね合わせるように考え、冷笑的だった状態から積極的に協力していくことになります。
ジェローム・モローの屈折振り、複雑さは最後のシーンで取る行動にも現れていて、複雑なキャラクター造形の総仕上げとして曖昧さを最大限に振り切らせたようなシーンが用意されてるんですが、やっぱりこの幾通りにでも解釈できそうな締めくくり方と云いこの人物が映画「ガタカ」のなかで一番印象的といえるんじゃないかと思います。

このジェローム・モローを好演してるのがジュード・ロウ!
「スカイキャプテン」のあの人です。

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刑事が自宅にやって来るというシーンでガタカ社から戻ってくるのが間に合わなくなったヴィンセントの代わりに、刑事がやって来る前に地下の作業場から一階のフロアまで車椅子無しで螺旋階段を這いずり上がっていくような、制限時間つきの一種のスペクタクルシーンはあるものの、大半は車椅子に乗ってるために身体的な表現がほとんど出来ないという状態でこの複雑な変化を伴うジェローム・モローを演じてます。
ほとんどのシーンを限定された上半身の動きと表情のちょっとした変化だけを頼りに演じきってるわけで、その的確な演技ぶりはおそらくこの映画の最大の見せ場になってると思います。

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そして、全ての遺伝子が最高級という人物に相応しい、ジュード・ロウの徹底した美青年振り!
美しくないということはその美しくない分だけ遺伝子が劣化してるという理屈なので、この観点からもジュード・ロウの美貌ぶりはまさに適役でした。

☆ ☆ ☆

ヴィンセントに好意を寄せるアイリーンは人物的な役割よりも、ウマ・サーマンの近未来的な美貌といったもののほうが印象に残る感じでした。人造人間みたいに作りこまれた美貌って云うかあまり人間味を感じさせない人形的な冷たさがあって、映画全体のクールな印象をそのイメージで一人背負っていたというような印象。

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キャラクター的には適正者でありながら欠陥を持っていて宇宙に飛べない境遇にある自分と同じ臭いをヴィンセントに嗅ぎつけ、接近して密かに身元を調べてみるもののジェローム・モローの完璧なプロフィールと出合ってしまって、感情を揺れ動かされるというような存在なんですが、役回りよりもやっぱり画面に出てくる時のイメージの方が突出してたような気がします。

あと脇役なんですが最後で物凄く印象に残る役割となった、いつもヴィンセントの適正検査をやっていた医師(ザンダー・バークレイ)。この人が意外な役回りでラスト近くに良いところをほとんど全部さらっていきます。役回りとしたらかなり美味しい役です。
はっきりとは書かないですけど、この医師がまさかこの場面でこういう言動をとるとは予想してなかったので、わたしの場合はかなり感動的な印象として残ることになりました。

☆ ☆ ☆

この映画は遺伝子を操作されることによって生まれる差別社会というものを描き出していきます。今はまだ遺伝子相手にそこまでコントロールすることは出来ないけれど、何だか将来は本当にこういうことが出来そうな社会が到来するかもしれないっていう部分もあって、現実の差別と引き合わせて考えたりできる部分もあります。

一応映画の中で描かれたテーマは、こういう優生学的な社会では最初からはじき出されてるヴィンセントはもちろんとしても、適応してるジェロームのような人間も必ずしも幸福にはなれないというものだと思います。
それでは人が幸福に生きるというのはどういうことなんだろうと。
ヴィンセントの正体がアイリーンにばれた時にヴィンセントがアイリーンに云う「何が不可能なのか、欠点を探すことばかりに必死になって本当のところが見えなくなってくる、可能性はあるんだ」という言葉に集約されてるんだろうと思います。
欠点を無くしていくことを目指す社会よりも欠点を許容していく社会の方が人はいつも可能性に満ちていて幸福に生きていけるというのが、この映画の云おうとしてることなんでしょう。

ただ、そういう主張はとても納得するものだし、優生学的に優れた種を優遇していく社会などおぞましいだけというのは賛同するにしても、映画の中ではこういう言葉も出てくるんですよね。
ヴィンセントの両親が「神の子」としてヴィンセントを生んだ後、その扱いに困って弟は遺伝子操作の子として生もうと決心して、医者を訪ねる場面。
医者は生まれてくる子供の受精卵からあらゆる劣性遺伝子を取り去っておくというんですが、ヴィンセントの両親はそこまで徹底しなくてもある程度は自然に任せたほうが良いんじゃないかと問い返します。
その時医者は、子供には最高のスタートを切らせてあげなさい。それでなくとも人間は不完全な存在。ハンデは無用なんですと返答します。

わたしは映画が終わった後もこのやりとりが頭の中に残っていて、たしかに欠点を見つめ許容する目こそが人を可能性に導いていくというこの映画が導いていく結末は素晴らしいんだけど、もしも遺伝子を操作することが可能になった時にこの医者の言葉、提案を投げかけられたら、それにうまく反論できるだろうかっていうことも考えました。

☆ ☆ ☆

この映画が内包してる差別を巡る様々なあり方は突き詰めていくとかなり重い主題になってしまうんですが、映画のほうはそこまで深刻にならないで欲しいとも云ってるようなところもあります。

今までガタカ社だとか、宇宙開発を行う唯一の企業だとか便宜的に書いてきたけど、実は映画の中ではこの企業?組織?に関しては「ガタカ」っていう名前しか明らかにしようとはしないんですよね。実際のところ社員らしい人間が廊下を歩いたり整然と並んだ机でコンピュータ相手にデスクワークしてる光景は映るんですが、この人たちはここで何をしてるのか全然説明が無い。タイタンに打ち上げる宇宙船だってタイタンに行って何をするのか目的さえも明らかにならない。映画のほぼ全域を占めてる舞台が一体どういうところなのか映画の中で説明する気配さえないという扱いになってます。

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極めつけは最後にヴィンセントが乗り込むことになるタイタン探査船なんですけど、なんと乗組員はスーツ姿で乗り込みます。乗り込んだ宇宙船の中には背もたれ付きのソファがあって乗組員はそこに普通に腰掛けます。船室内部はミラーボールが反射してるような光が踊ってるただの部屋で、まるでカラオケみたいにしか見えません。1997年に作った映画でこの宇宙船の描写は特別の意図でもない限り普通あり得ないです。
映画全体の舞台である「ガタカ」と宇宙船の描写で、この映画は基本部分でリアリティを放棄していて、SFの衣を借りてるだけの社会派的な映画じゃなく、本来的なSF、ファンタジー的なものして観て欲しいと云ってるようにわたしには思えました。

☆ ☆ ☆

ヴィンセントとアイリーンが見上げる空に、雲を残して彼方へ飛び立っていく宇宙船の描写はきわめて美しいです。


☆ ☆ ☆




☆ ☆ ☆

''Gattaca'' Trailer [1997]



監督 アンドリュー・ニコル (Andrew Niccol)
原題 Gattaca
公開 1997年


最後まで読んでくださってありがとう御座いました。




【洋画】 リベリオン 反逆者

あまり予算がかかってなくて、感触は明らかにB級なのに、そういう感触にもかかわらず結構面白く観られた映画でした。一応SFアクション映画といった分類になると思うんですが、「ガン=カタ」と称されるアクションが他に類を見ないほどユニークで、これがこの映画の印象を決定付けてる感じがします。
作った側はこの映画で見せるべきポイントがどこにあるのかきっちりと分かっていて、力の入れ所を見失わなかったように思えました。
ただ見せるべきポイントは押さえていて、そういう意味では形は綺麗な映画なんですが、全体にスケール感が乏しいというか、そういう印象がありました。設定の割に物語的な広がりがないんですよね。

映画の空間は、まるで巨大な箱庭でした。
わたしたちが生きてる世界と基本部分での成り立ちが違う世界を描くのには、本当は空間的にも時間的にも拡がりのある舞台が必要だったと思うんだけど、映画は一つの都市国家、リブリアというごく限られた範囲に限定して進んでいきます。

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都市自体も外の世界とは壁で区切られた、巨大ではあるんだけど閉鎖されたような世界。さらにそのなかでごく限られた特殊な組織に属する一人の男の周辺に限定されるような物語空間。
予算の関係とやはり全体をコントロールしやすいからそういう方向に向かったんだと思いますが、そういう限定空間を背負わされて、物語もまた世界のスケールの大きさに較べて、狭苦しい範囲に終始していた感があります。
「ガン=カタ」アクションでかなり満足して見終えるものの、振り返ってみれば壮大な設定の割りに物語がありきたりで薄いことに意外な感じを受けるかもしれません。

☆ ☆ ☆

第3次世界大戦を経験した近未来の世界は、もしも第4次世界大戦が始まればその時は必ず人類は滅びると判断し、第4次世界大戦を回避するために人間から暴力的なものを取り除くことを発案、一切の感情を押さえ込む薬物「プロジアム」を開発して世界中の人間に摂取することを義務付けた。さらに感情を刺激するような音楽、文学、絵画などの一切の芸術作品を探し出し、歴史的な価値があるようなものでも見つけ次第焼却処分して、この世の中から抹殺する方針を固めた。

その任務に当るのが戦闘術「ガン=カタ」をマスターした「グラマトン・クラリック」と呼ばれる特殊部隊員たちで、かれらは美術品などを隠し持ってる反乱者を発見すると、問答無用で射殺、押収した美術品をその場で焼きはらった。

有能なクラリックであるジョン・プレストン(クリスチャン・ベール)はパートナーのクラリックであるパートリッジ(ショーン・ビーン)と行動をともにして任務に当っていた。

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ところがパートリッジはクラリックであるにもかかわらず、プロジアムを服用するのを密かに止めていて、禁じられた「感情」を持ち、反乱者のアジトから押収したイェーツの詩集を読みふけるような生活を陰で続けていた。
やがてプレストンはパートナーのその禁断の生活に気づいて、パートリッジを違反者として銃殺してしまう。この出来事はプレストンの心にある痕跡を残していった。
プレストンはパートリッジの後釜にクラリックのブラント(テイ・ディグス)とパートナーを組むことになる。ブラントは上昇志向の強い若者だった。

ある日の朝プレストンはその日に摂取すべきプロジアムのガラス・カプセルを落として割ってしまう。出勤の途上で代わりのプロジアムを手に入れるつもりだったが、銃殺したパートナー、バートリッジのことが心にひっかかって、その日はプロジアムを貰いに行くことをやめてしまい、摂取しないで行動することになった。
その日確保しに行った違反者はメアリー・オブライエン(エミリー・ワトソン)という女性で、壁に仕切られた部屋に工芸品を隠し持っていた。プレストンはメアリーを尋問している間、どこか冷静でいられないような気分を味わった。
次の日の朝プレストンは朝日が昇る光景を目にして今まで感じたことの無い感情に翻弄され、急いでその日のプロジアムを服用しようとしたが、今度は自分の意志でやめてしまった。プレストンは感情を持つということがどういうことなのか、体感として理解し始めていた。

その後もプロジアムを服用しない生活を続けていくうちに、さまざまな場面で感情を動かされることがあり、ある時には感情を持ってしまってることを悟られかけた挙句、警官を射殺したりもして違反者として疑われるところまでいってしまった。
やがて感情の重要さに気づき、人々の人間性が抑圧され損なわれてると確信し始めたプレストンは反乱組織のリーダー、ユルゲン(ウイリアム・フィッチナー)と知り合い、彼の反乱組織に協力するようになる。
最終目的はプロシアムで人々を抑圧、支配してる独裁者、ファーザー(ショーン・パートウィー)の打倒。そのためにプレストンが反乱組織を逮捕したように見せかけ、ユルゲンらを政府内部に侵入させる作戦を発動することになった。
ユルゲンらを逮捕したプレストンはその功績でファーザーに謁見することになり、ブレストンの目の前にファーザーを倒す千載一遇のチャンスが訪れることになった。

☆ ☆ ☆

物語の背景となる世界は支配ー被支配、管理ー反乱といった単純化された二項対立を元にしていて分かりやすい反面、薬で人類の感情を消してしまうという荒唐無稽な内容とも相まって、それほどリアリティのあるものではなかったです。
でも映画はそのリアリティを補強するために、感情を抑圧され、管理された世界というのがどんなものなのか、その有様を様々な形で見せていくというような方向には進まずに、それはそういうものとして置いておいて、主人公プレストンがパートナーのパートリッジを平気で射殺できるような冷酷な処刑人から、感情を回復して反乱組織の一員になっていく過程をただひたすらミクロ的に追い続けることに終始します。

わたしには監督がもとから、そういう世界をリアルなものとして映画の中に作り上げる意図はそれほど持ってなかったんじゃないかという風に思えました。感情を抑圧される世界というのは中心的なテーマになってるわけでもなくて、プレストンが突破するための障害物扱いというか、そういう目的で映画の中に配置されてるだけっていう感じがします。

なによりも、感情を抑圧されてると云いながら、映画の中で見るプレストンやパートナーのブラントは明らかに物語に都合の良い感情だけはなぜか持ってるとしかみえないところがあるんですよね。
ブラントなんかは上昇志向の欲望に沿ってプレストンを追い落とし、その地位に自分が居座るために策略をめぐらし罠を仕掛けるほどの情動の持ち主で、こんなの感情を抑圧してるどころか普通の人間以上にはるかに感情的です。
この映画は近未来を舞台にするものとしてSF的な世界設定はされてるものの、そういう設定が映画の要のところで、ご都合主義に流れてしまってるようなところがある作りになってます。

そういう風にある意味適当なところもある世界を背景にして、プレストンの感情回復の物語が語られていくわけです。
映画の世界は語るほど分厚いものじゃなかったけれど、感情を回復していく過程のプレストンの状態の推移はかなり上手く表現されていたと思います。
方法的にはなだらかに連続したものとして回復の過程を見せる一方で、大きなイベントを用意してイベントごとに感情のステージが上がっていくような形を取ってます。
一番大きく動いてるのがよく分かるシーンだと、パートリッジが火葬される夢を見て動揺して起きた後、窓の外に広がる朝焼けの光景を目にして体験したことの無い感覚に動揺する場面、感情を刺激するものとして射殺されようとしてる仔犬の一匹を検疫のためと称して連れ帰り密かに保護してしまう場面、強襲して全滅させた反乱者のアジトの隠し部屋でレコードを発見して、ベートーヴェンの第9を聴いてしまった場面。

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プレストンが、見てるものの何に心動かされてるのかが凄くよく分かるシーンで、そういうものを挿入していくことでプレストンの感情がまた一段階解放されたんだということを観て納得できるような形にしてあります。安易な方法ではあるんですが、分かりやすくて効果的。
そしてそれに重ねて、無表情のなかに僅かに光が射したような感じ、抑圧の内部で何かが立ち上がってきてる感じ、そういう極めて微妙なものを的確に表現するクリスチャン・ベールの演技が補強していくわけです。クリスチャン・ベールのこういう演技は中々上手いと思いました。こういうのって激高したりするのよりもはるかに難しいと思いますから。

もう一つ、話自体はプレストンが感情を回復させていく極めてシンプルでストレートな物語なんですが、考えてみるとプレストンが出会う抑圧された側の人間は抑圧されきった人なんて誰も出てこなくて、メアリーといい反乱組織のリーダー、ユルゲンといい、全員とっくの昔に薬を服用するのをやめて感情を回復させた人間なんですよね。そしてそういう人間を解放する役割のプレストンのほうが支配側に忠実で薬で感情を抑圧してる。物語的には管理抑圧された人々をプレストンが救い出すっていう形になってるんですが、関わる市民側が全員覚醒済みという形にもなってるために、ヒーローものとして見たらちょっと倒立したような印象を受けるところがありました。わたしはこの倒立してるようにも見える関係が観ていて面白かったです。でもこの奇妙な倒立関係は最初から意図して出してきたのか偶然そういう風になったのかどっちだったんでしょうね。

☆ ☆ ☆

物語はプレストンの覚醒の物語が大半を占めていて、一人の男が感情を取りもどす物語なんて、当然の如く結構かったるい部分があります。それでそういう冗長な部分のある物語を要所要所で引き締めてるのが、この映画の最大の売りである「ガン=カタ」ということになってきます。
「ガン=カタ」というのは一言で云うと、二挺拳銃を持った舞い。剣を持っていれば確実に剣舞と云えるもので、その剣舞を剣の代わりに拳銃を持って舞ってしまったというものです。監督の話では格闘家に演じてもらうよりもダンサーに演じてもらいたいと思ってたとか。
映画の中では都市国家・リブリアを支配するテトラグラマトン党の副総裁デュポン(アンガス・マクファーデン)の口を借りてこういう風に説明されます。
「多くの銃撃戦を分析した。敵対者たちが幾何学的な配置であるならば、その動きを予見できる。ガン=カタを極め銃を活用しろ。最も効果的な攻撃位置に立て。最大のダメージを最大の人数に。一方自分は予測可能な敵の狙いを外して立て」

要するに相手の銃弾の飛んでくる位置は統計的に予測可能で、ガン=カタを駆使することで相手の銃撃をよけ、自分に有利な位置を絶えず掴んで最大の攻撃を与えることが出来るということ、ガン=カタはそういうことを可能にする武術とされています。これって、主人公に対しては全然弾が当らないって云う、よくあるアクション映画の特徴に完全な理由をつけてるように思えます。
ともあれガン=カタは外見的には、独特の構えから始まって、拳銃使いなのにまるで見得を切るような残心まで揃えた演武で、敵の弾を見切って全てよけながら猛スピードの銃撃で敵をなぎ倒していく、壮絶な技。トリッキーな動きが組み入れられて見た目も派手で面白いです
これを思いついた時の監督は、きっと舞い上がったでしょうね。

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映画でガン=カタが出てくるシーンは全部で4箇所。意外に少なくて、少々物足りない感じもあるんですが、このくらいの分量の方が飽きないでいられる適量かもしれません。
しかもそれぞれに違う味付けがしてあって演出はかなり考えられてます。
最初に出てくるのはクラリックが初登場する、反乱グループのアジト急襲のシーンで、真っ暗闇の中での銃撃戦。無音の暗闇が結構長くとってあって、何が起こるのか期待させます。この時の撮影は銃のマズル・フラッシュの明かりだけでそれにシンクロする装置を使って撮影したとか。
中盤での違う反乱グループのアジトでの戦闘は、銃を使って行う格闘戦。
ラストのファーザーの元に向かうシーンではクライマックスというだけあって、3段階のガン=カタ戦闘シーンが用意されてます。
ひとつは長い廊下の両側にずらりと並んだ敵兵が浴びせる銃撃の中を、ガン=カタを駆使して、敵兵をなぎ倒しながら中央突破するシーン。そのあとファーザーの室内でプレストンの周りを囲んできた近衛兵たちとの、今度は銃を刀に持ち替えてのガン=カタ。これは要するに大立ち回りのチャンバラなんですよね。ガン=カタ自体が構えだとか見得だとか、日本の時代劇から発想を得てるのが丸分かりだから、このシーンはそのルーツが観られるってことでしょうか。その直後に上昇志向のパートナー、ブラントとの刀での一騎打ちと続いて、最後は大ボスとの銃撃を使ったガン=カタの超接近戦と続きます。

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ガン=カタ戦闘シーンでよかったのは、スローモーションを使わなかったこと。時代的にこの映画が出来た時、アクションシーンでスローモーションを使うことが既に流行ってたのかどうか知らないんですが、スローモーションのアクションシーンってはっきり云って食傷気味なので、こういうスピードをスピードとしてみせる演出の方が新鮮に思えました。

もう一つ、これは今一だと思ったことなんですが、刀だと刀と相手の体の間に切る切られるという関係がきっちりと見えるんだけど、銃撃はそういう関係が見えないから、ガン=カタで猛スピードで乱射されると、倒れる敵と銃を乱れ打ちしてるプレストンが関係として結び付けにくいんですよね。勝手に銃を乱射して、敵も勝手に倒れていくような絵になってくる。こういう画面は派手さを追加は出来るけど、刀が肉体と結ぶような緊張感を持たせることは中々難しいようだと思いました。

☆ ☆ ☆

低予算映画の割りに良い俳優を使ってる映画です。

クリスチャン・ベールは冷酷な処刑人がよく似合うし、基本無表情なので感情回復後も激情を内に秘めてるクールさみたいなのも自然と出てきてかっこいい。

最初のパートナー、パートリッジを演じたショーン・ビーンは、出番が少なくて残念でした。この人がガン=カタを舞ってるシーンはあまり想像できないんだけど、禁制の詩集を禁制だと知りながら読みふけってる姿は妙に板についてました。

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この役は出演シーンが少なすぎていろんな俳優に断られたらしいんですが、プレストンが感情に対して考えが揺れ動いていくきっかけになる人物だから実は物語的にはかなり重要な役なんですよね。ショーン・ビーンはよく受けたと思います。この重要性がわかってたのかな。

メアリー役のエミリー・ワトソンはラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」の女優ですね。プレストンに国家から受けた仕打ちを思い出させ反逆に踏み込ませるきっかけになる役でした。この人はやり直すたびに演技がよくなっていくタイプだったらしくて、監督はテイクをやり直すのが楽しみだったそうです。

この映画、日本での公開当時はほとんど宣伝しなくて、一ヶ月程度で上映打ち切りになったそうです。後に口コミで広がってカルト化していくんですが、この辺の展開は「ブレードランナー」を思い起こさせます。後になっても思い出されもしない作品よりははるかに良いとは思うものの、できれば公開時に流行って欲しかったんじゃないかと思います。

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Equilibrium U.S. Trailer


「ガン=カタ」シーン



原題 Equilibrium
監督 カート・ウィマー
公開 2002年

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