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のけものたちの砦に砂時計の季節がやってくる。砂の音は砦の長い回廊に降り積もり、その音に抗うようにどこかから大声が聞こえてくる。19MMUS!

死んだ雀の羽


先日歯科に行った時、7,8年ぶりくらいに、温度で色が変わるリングをつけて行った。エスニックの雑貨屋で籠に盛って売られていた安物の指輪で、その直前にアクセサリー入れをひっくり返してしまって持っているのを思い出したものだ。
ところがつけて出かけたのはいいが、治療が終わって診察室を出てみるとどこかで落としてしまっているのに気づいた。家を出てから電車と送迎バスを乗り継いでやってきてるからどの辺りで落としたかなんてわかるわけない。これは諦めるしかない。まぁ安いものだからまた欲しくなったら雑貨屋に買いに行けばいいかと、でもカートなんて持ってはいれるような広い店でもなかったなと色々考えて帰路に就いた。ところが別に探すつもりでもなかったけど、帰りの送迎バスを降りて、駅に向かう路上で道に落ちてるリングを見つけた。歩きにくくてうつむき加減に歩いていて自然と目についた。リングは落とした時に路上を転がるでもなく、目の前にこれ見よがしに落ちていて、拾ってみるとまさしく色の変わるリングだ。こんなヒッピーリングをつけてる人が自分以外に都合よく落としてるとも考えられず、自分のものに間違いなさそうだった。熱い路上に長時間接していたせいか、あるいは踏まれたせいか色の出方がちょっと汚くなっていたけど、ともあれ絶対見つからないと思っていたものが再び自分の指に戻ってきてラッキーと舞い上がった。
舞い上がった気分で駅に着くと目の前に乗るべき電車がやってきていて、改札を通った足でそのまま電車に乗ろうと思ったら、乗り口で派手に転倒してしまった。ホームと電車の段差に脚を取られたようで、完全に車両の床に伸びてしまい、持っていた荷物は周りに飛び散らかしてる。近くにいたおじさんと女の人が起きるのに手を貸してくれて、周りに散らばった荷物をかき集めたあと座席に座ったんだけど、やってしまったとドキドキしたのがなかなか収まらなかった。
ドキドキしたまま怪我でもしてないか確認してみた。転倒した勢いでなんとリュックが肩越しに背中から胸元に移動して、これがどうやらクッションにでもなったのかどこも痛くなったところはない。顔を打って今治療してきた歯を台無しにすると云った最悪の事態にも見舞われてない。派手に転倒したわりに、電車内の視線を集めた以外は何の影響もなかったのはラッキーだった。
この日はこのように二度の幸運を体験した。でもその前にリングを落とすというのと転倒するという二つの不運を体験している。

まさしく禍福は糾える縄の如しの日だった。結局何も起こらないことが最も幸運だったわけだけど、この考えは若干違和感を覚えて居心地が悪い。本当に何も起こらないことが至上の幸運なのか。
たとえば普段の道を普段通りに歩いていて、目の前を歩いていた人に横合いから車が突っ込んできたとする。一寸のタイミングの
違いで自分が遭遇したかもしれないと思うと、これはラッキーなんだけど、自分の行動にはまるで変化はなくても、外的要因でその吉凶がどこかで決まってしまってる。せめて自らの行為が幸運に結びつくようにならないものか。

映画「Fall」を見る。これは高所恐怖症だとまず画面をまともに見てられないだろうな。地上600メートルの鉄塔の上に上ったはいいが梯子が崩落して、頂上の小さな足場から降りられなくなる話だ。一つのシチュエーションに限定して、、絞り込んだテーマに先鋭化するその割り切り方が潔い。舞台は地上600メートル上の、人が三人も立てばめいっぱいの狭い足場で、登場人物はクライマーの女性二人と、絵にかいたような低予算映画だけど、そのそぎ落とした状況がむしろシェイプアップした勢いを生み出しているようだ。それにしても高所の恐怖一点に絞り込んで、このえげつないほど制約を課された状況のもとに100分近くある映画を成立させたシナリオの力技も結構すごい。結局こんなとんでもない場所に立たされて自力で降りられない以上結局やれることはシンプルにただ一つ、地上の誰かにここにいることを知らせること、このただ一つの可能性を巡って考えられる限りの試行錯誤が、立ってることだけで眼がくらみそうな場所で繰り広げられる。高所を舞台にする発想と足がすくむような効果的な演出、そしてこのパワーのある脚本を加えで、際立って勢いのある映画になってる。
物語の最後近くにツイストが一つ用意されてる。中盤過ぎたあたりで、一瞬あれ今のどうして?と違和感を感じる箇所があって、これがこのツイストの伏線になってる。他にもなぜあの時水を飲まなかったのかというのも伏線だなぁ。小さな齟齬が頭の隅に引っかかって、これがツイストの正体で解消されるのはやっぱりちょっとした快感だった。







ジョージ・A・ロメロの有名な映画の、トム・サビーニによるリメイク版。
ダウンロードして、字幕サイトで拾ってきた日本語字幕と一緒に動画ソフトへ放り込めば字幕付きで見られる。
https://subscene.com/subtitles/night-of-the-living-dead-1990
YOUTUBEに上がってた映画なんて適当だろうと思ってたら、この字幕とタイミングがあってた。






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【洋画】「欲望」に関する覚書 -絶対的孤独に関する映画- +街を往く写真たち +歌声は魂にまで届く

この前の記事でNikonの一眼レフカメラを買ってこの写真家と同じ環境になったと書いていた、その写真家が登場したミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画「欲望」。最初に観たのは随分と昔のことになるんですが、この記事を書くのにDVDを引っ張り出してまた見直したりもしてたので、せっかく見たんだからこの映画についてもちょっと書いてみようかなと思い立ちました。
前回の書き様からわたしがこの映画を観たのは登場する写真家に興味があったからと云う印象になっていたかもしれませんが、実は最初にこの映画を観ようと思ったきっかけはこの「欲望」という映画に伝説のロックグループ、ヤードバーズが出ているというのを知ったからでした。音楽好きの人の間ではこの映画はミケランジェロ・アントニオーニの映画というよりもまず先に、このグループがライブ演奏してるところを見られる映画という風に受け取ってる人が多いかもしれないというところがあって、わたしにもそういう感じの映画として捉えてました。
映画が製作されたのは1966年、音楽シーンではビートルズが世界中を席捲していた頃のことです。ヤードバーズは実際の演奏よりもどちらかというと後にロックの三大ギタリストとなる、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックの三人を輩出したバンドとしての存在の方が有名だったりします。
この映画でヤードバーズのライブは、主人公の写真家が謎の女を街中で見かけ、その女を追いかけるように夜のロンドンの街を駆け回ったあげくに、ビルの合間にあるような路地の果てのライブハウスに紛れ込んだところから始まります。
「欲望」が製作された時のメンバー構成だったのか映画に出てくるヤードバーズはジェフ・ベックとジミー・ペイジのツイン・リード・ギターの編成になってます。後にレッド・ツェッペリンを結成して勢力をふるうことになるジミー・ペイジもこの時は云われないと分からないくらい新人然としていて、結構控えめな印象の演奏に終始してる様子。ジェフ・ベックは演奏が始まってまもなく、アンプの調子が悪いのに切れてしまってギターをアンプや床に叩きつけて破壊してしまうので、ツイン・リードのギターは云うほどには聴けない演奏なんですが、それでも今となってはちょっと物珍しいライブを見ることが出来るようになってました。ミケランジェロ・アントニオーニって他の映画、「砂丘」なんかでもピンク・フロイドを使ったりして結構こういうロックシーンの音楽が好きだったんじゃないかと思います。ちなみにこの映画の全体の音楽はハービー・ハンコックが担当してるんですが、映画そのものは映画を効果的に盛り上げる道具として音楽を使うでもなくどちらかというと音のない世界に向かって加速度的に突き進んでいくような、殆ど無音にちかい静寂に満ちたものだったので、ハンコックの音楽もあまり印象には残らなかったです。もともと音楽のない映画として構想されていたところにたまたま監督がハンコックの音楽を聴いて気に入ってしまい、起用することになったとか。だから最終的に無音の世界を開示してしまう映画に若干の彩を与える程度の印象になってるのも仕方ないのかもしれません。

それと、わたしがこの映画を観たきっかけにもう一つ、ポスターのかっこよさがありました。

欲望のポスター
Canon PowerShot A710 IS

こういうポスターです。わたしがたまに行く中古DVD、CDショップにも飾られていて、ちょっと色あせてるような感じになってるけど、強烈な赤をバックにカメラマンとモデルの印象的な絡み合いのポーズが大胆に配置されてます。ここがこうなってるからかっこいいんだとかいった理由に言葉を費やさなくても一目見ただけで分かるかっこよさがありますね。このモダンでスタイリッシュで鮮烈な印象のポスターは映画の内容に期待感を寄せる要因となるもので満ちてるようにわたしには見えました。ちなみにこの有名な絡み合うシーンは実際に映画の中に意外と早いタイミングで出てきたりします。

こんな感じでわたしにとっては映画「欲望」はヤードバーズと美術、それとカメラマンが繰り拡げる世界ということで当時のファッションの生きて動いてるところが見られるというようなことが関心の対象になって観た映画だったわけです。映画そのものとしての印象はどうだったかというと、実はあまりぱっとしたものでもなく、一言で云えば意味不明、サスペンス・スリラー風の進行に沿って観てはいたものの、結局何だかよく分からないうちに終わってしまったなぁといったものでした。これは観るポイントが必ずしも映画そのものの上になかったといったことが理由というよりも、映画そのものとして観ていたとしてもおそらく印象は変わらなかったと思います。

☆ ☆ ☆

誰もが撮られることを熱望する売れっ子の写真家トーマス(デヴィッド・へミングス)、彼は多数のモデルを使ってファッション写真を撮り、スタジオで暴君のように振舞って過ごす合間に、底辺労働者の住み込んでる安宿にぼろぼろの服を着て潜入しては作品としての写真を撮るようなことを繰り返して日々を過ごしている。その生活は労働者の目から離れた場所に行くとぼろぼろの服を着たまま隠していた高級車に乗ってスタジオに戻るようなメリハリの利いた生活ではあったが、選り取りみどりの女たちに囲まれた日常は女にはもう飽きたと云わせるくらいにトーマスを退屈にもさせていた。

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退屈を紛らわせるかのように車を走らせ公園に立ち寄ったトーマスはそこでジェーンという女(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)が中年の男と逢引している現場に出くわす。女も男も知らない人間だったが好奇心を募らせてトーマスはその二人が逢引している様子を写真に収めることにした。木陰から密かに撮っていたもののやがて女にその行為を気づかれ、男はどこかに立ち去ってしまったけれど、近づいてきたジェーンからは写真を渡せと執拗に迫られた。その場は何とか切り抜けてスタジオに戻ったもののジェーンはスタジオを探り当てて写真を取り返しにやってくる。
ネガを渡してくれというジェーンと駆け引きのようなことを重ねた後でトーマスは違うネガを渡してジェーンをスタジオから追い出した。
その後公園で撮った逢引の写真を現像、出来上がった写真を眺めてるうちに、トーマスはその写真の一部に木陰から二人に向けられた銃口が写っているのに気づくことになる。気になるところを見つけてしまったトーマスはさらに写真を何度も拡大し、拡大した印画紙を次々と壁に並べて貼り付けていろいろ比較しながら調べてるうちに、さらに今度は死体らしきものが木陰の地面に横たわっているのを発見した。極端に拡大したために極めて粒子の粗い写真になってはいるが、まさしく人が横たわってるのを確認できるような写真だった。この発見に驚いたトーマスは夜ではあったが即座に公園に確認に行く。そして人気のない夜の公園の木陰で隠れるようにして本当に死体が横たわっているのを発見した。
死体を見た後スタジオに戻ってみると壁に貼っておいた公園の写真やスタジオにおいてあったフィルムのすべてが何者かによって持ち去られているのに気づく。トーマスは力を借りるために友人の編集者ロンのところへことにした。
ロンの家に行く途中夜のロンドンの街の中を車で走っていてトーマスは雑踏の中にジェーンを見つけたと思ったが、直ぐに見失ってしまった。ロックのライブハウスなどを巡りながらロンの家についてみると、そこはマリファナ・パーティの真っ最中で、殺人を見たといっても薬が回ってしまってるロンは結局あまり相手にしてくれなかった。
やがてロンの家のベッドで眠りについてしまい、気がつけば既に夜が明けていた。トーマスは一人でもう一度公園で見つけた死体を確認しようと出かけるが、昨日の夜に見つけた死体は跡形もなく消え去っていた。

☆ ☆ ☆

とまぁこの映画の物語を要約してみたものの、実はこの映画にはストーリーらしいストーリーってほとんどあってないようなものなんですね。
ストーリーといえそうなものは展開から言えば死体を発見して後で見にいったらなぜか消えていたというくらいのもの。内容的には関わりがあった女も殺された相手方らしい男も観客にとってはもちろん主人公のトーマスにとっても最後まで素性は分からないまま映画は終わってしまうし、二人がどういう関係にあってその関係の中に殺人に発展する何があったとかいったことも全く映画では描写されません。死体も最後に消えてしまったきりでこれでこの件はお終いとでも云いたげに、映画はそのまま謎めいた、でもかなり魅力的なテニスコートのラストシーンに向けて急速に収斂していきます。物語という観点では新聞で読む今日の出来事といったようなものの方がまだよっぽど物語的に把握できて事件の内容にも精通できるんじゃないかと思うくらいです。
物語は主人公のカメラマンとは直接的には関係のない人物の間で起こり、カメラマンには謎の女からネガを渡して欲しいと云われるくらいしか係わり合いを持ってこないような類のものなので、ストーリー的な意味合いを持って主人公にはほとんど絡んできません。もちろん観てる側も主人公を介在させてみてるわけだから主人公と同じように傍観者的な位置からしか物語を眺める他なくなってきます。しかも極めて薄い関係でしかないけれど一応主人公に物語が絡み始めるきっかけになる公園での盗撮するシーンは映画開始から30分近く経った頃にようやく現れるうえに、事が動き出すフィルムの中に死体を発見するシーンは後半に入ってからでそこからラスト近くの死体消失まではあっという間、公園に行くまでの前半部分や現像するシーンまでの間は写真家の若くして成功した怖いもの無しの傲慢な日常を描写するのに集中して、ストーリー側面から見ると殆ど関係しない無駄な描写ばかりのように見えるかなり冗長なものになっていました。
おまけにここでは資料にトーマスとかジェーンとか名前が出てるからそれにしたがって書いてますけど、見直した感じではこの主要な登場人物でさえも映画の中では個別の人格を司るような名前を最後まであてがわれてなかった様子。名前はその人物を表わすかなり重要な要因なので、こういう部分は物語はおろかその物語を形作る根幹部分である人を描くことをもそれほど重要視していないというのを暗に指し示してるんじゃないかと思いました。

だからこの映画はやっぱり謎の男女の逢引シーンから束の間の死体出現と消失というサスペンス・スリラーもどきの収拾もつかないストーリーを追って見てると確実にはぐらかされてしまうなぁと云うのが今回見直しても思ったことでした。
この映画の場合、「欲望」という映画を2時間ほど映像を繋いだ唯の映像集ではなくて、映画として成立させてるというか秩序立てて映画の形にしてるものは、ストーリーじゃなくて、テーマなんですよね。まぁストーリーが秩序立てている映画でもテーマがあるならその中に含まれてはいるんだけど、「欲望」の場合はテーマを載せるのにストーリーをあまり利用していないという感じがします。あるテーマに沿ってそれを具現化してるようなエピソードを積み重ねていくという作り方で、ストーリーは最大限にそのテーマを表わしてはいるものの、映画全体を代表するようなものではなく、テーマを具現化してるエピソードの一つという扱い。こういう扱いだから結果として映画全体を見ると、テーマに沿ってはいるもののメインのストーリーとはあまり関係のないシーンが一杯出てくることになります。ストーリーから見ると余計なシーンが一杯あって何だこれはということになるんですけど、テーマの個別的な展開という面では見事に一つの映画として纏まってるというようなちょっと珍しい映画のようにわたしには思えました。

☆ ☆ ☆

それではこの映画が展開しようとしたテーマってなんだったのか。
後半部分の映画を運んでいくストーリー、謎の男女の逢引から銃口は発見されるも銃声の一つもしない、意図のよく分からない殺人と死体発見、一夜にして理由もなく死体が消えてしまうという出来事で展開されるのは、人が世界を認識するということは一体どういうことなのかといったテーマだったんだろうと思います。殺人事件は盗撮写真をブロウ・アップ(引き伸ばし)していく過程でトーマスが発見し、夜の公園でトーマスだけが死体を発見するのにすぎないことで、隣家の好意を寄せている女性に写真を見せても拡大を重ねて極端に粒子が粗くなった写真は同居する抽象画家が描く得体の知れない絵のようだとしか云われません。いわば事件はトーマスだけが目撃したことといってもいいような出来事で、そこから映画が投げかけてくる疑問はたった一人で認識したものは本当に客観的に存在したものといえるのかということじゃないかと思います。たった一人で認識したものは実は存在するとは云えず、それが存在するためには複数の人間が認識しその認識したことを共有しなければならないのではないかと。
そして映画はさらにその延長上で、たとえば現場を写したのかもしれない写真が消滅してしまうとか、当の唯一係わり合いがあった事件の当事者であるジェーンを夜のロンドンで見つけた、あるいは見つけたと思ったものの結局見失ってしまったり、体験を共有してもらおうと思って訪れた友人の編集者がマリファナ・パーティーの真っ最中で相手にしてくれなかったりと云う形を取って、現実は複数の人間が認識を共有しなければ存在できないにもかかわらず、一人が認識したものを他者と同一のものとして共有することの困難さも描いていきます。

また映画「欲望」はこういう風に観察、認識する主観の側の限界を描写する一方で、それに対応する客観的な現実のほうも描写していくんですが、それがどういう扱いだったかというと、主観の扱いと同じように、現実も確固とした存在ではなく、現実の持つ意味とか価値はその一部としていつも変わらずに付属してその特色を決定づけてるような属性でもなんでもなくて、幾らでも変化していくものとして描かれていくことになってました。もう冒頭のトーマスからしてそういう存在として現れるんですね。底辺労働者の写真を撮るためにぼろぼろの服を着た状態で始めて画面に現れるトーマスはその後同一の存在でありながら一瞬にして高級車に乗る若くして成功した一流のカメラマン、別の属性が特徴付ける存在へと変化してしまいます。

映画の中盤にアンティーク・ショップが出てきて、トーマスはここで巨大なプロペラを衝動的に買うんですが、その買ったプロペラはその後スタジオのフロアーに転がされたままで全く物語りに絡んできません。実はこの店での出来事はトーマスのプロペラが代表するように殆ど物語には関係しないという、映画の中ではなぜ出てきたのか分からないちょっと謎めいた部分なんですけど、このアンティーク・ショップも事物の価値が変化する場所、昔ある目的で使われていたものが全く違うたとえば置物としての価値を与えられるような場所として捉えるなら、テーマが秩序立ててるこの映画に出てくるのには相応しい場所であったことが理解できるようになると思います。

また価値が現実そのものの属性じゃないというのは、わたしがこの映画を観るきっかけになったヤードバーズのコンサートのエピソードでも極めて図式的に分かりやすく描写されてます。演奏途中でアンプの調子が悪くなって雑音が混じり始めたことに苛立ったジェフ・ベックはアンプにギターを叩きつけ、床に振り下ろしてギターを破壊し、千切れたネックの部分を観客のほうに投げ込んでしまいます。観客はロック・スター・ギタリストであるジェフ・ベックが使ったギターの一部ということで投げ込まれたネックを我先に取り合って騒然とした雰囲気になってしまいます。なぜかそのネックの争奪戦にトーマスも参加、そして結果として見事手に入れてしまい自分によこせと追いかけるほかの観客から逃げる羽目に陥ってしまいます。ライブハウスからかろうじで逃げ出して大通りまでやってきたトーマスは自分が手にしてる千切れたギターのネックを眺め、今までの争奪戦が嘘だったかのように大通りの路上に投げ捨ててしまいます。これなんかライブハウスのヤードバーズの価値を共有してる場所ではジェフ・ベックの破壊したギターの破片は値打ちがあるものだったけど、そこを離れたとたん唯の木屑に過ぎないものになってしまうということでしょう。

ほかにもパリに行くといっていたモデルとのちに親友の自宅で開催されてるマリファナ・パーティーで出会った時に、そのモデルにここがパリなんだと言わせてみたり、トーマスが尋ねる風景画が店にあるのに、アンティーク・ショップの店番の老人にそんなものは店には無いといわせたりと、こういう齟齬を含んだエピソードを重ねて、映画は確固たる輪郭を失い、あいまいに幾重にもぶれてしまったような世界を描き出していきます。劇中でトーマスの隣家の住人である抽象画家にキュビズム風の絵画を指して、最初は混沌としていてやがて形を成してくると言わせてる辺りが、映画は混沌の段階で終始しているし、形を成すといっても多視点が混在したままのキュビズム風ではあるもののアントニオーニ監督の意図したものだったんだと思います。「欲望」はいうならば映画で表現したキュビズム絵画といったものだったと。

それにしても、いくら多人数が存在しようと認識はたった一人でしか出来ない行為であり、しかもその認識したものは他人と容易に共有できないというヴィジョンはかなりの孤独であり、映画は人が抱えてるそういう絶対的な孤独について述べているんだと思いますけど、映画の結末はだからといってそれほど悲劇的なイメージで終わってるわけでもないように見えます。なによりも主人公のトーマスはラストの有名なテニスシーンで微笑んでもいるようだし。結末を崩壊か近代的な自我からの解放かどちらに取るかで見方は変わってくるかもしれないですけど、わたしは人が課せられたこの孤独から抜け出す道筋が垣間見えてるような気がしました。

唯「欲望」とはこういうテーマの映画だと云って見ても、最後まで意味不明の白塗りモッズ集団といったようなものが随所に出てきたりして、テーマと想定したものと綺麗なイコールで繋がらない部分もあります。おそらくどんな捉え方をしても居心地悪くはみ出てしまう部分が必ず出てきそうな感じ。
それはまるで「欲望」もまた固定化した意味と結びつかない、まさしく「欲望」の中で展開してるあいまいな世界の住人だと主張してるようで、こういうのはアントニオーニ監督のちょっとした策略でもあるのかななんて思ったりしました。

☆ ☆ ☆

内容はこんな感じでサスペンス風の外観にしては割と面倒くさいところがある映画だったんですけど、映像的にはスタイリッシュで見所は結構ありました。絵作りはとにかく絵になるように構図を決めて的確に判断して撮ってる感じ。冒頭の労働者の安宿の門の写し方からしてこの位置から撮るのがベストというような絵の作り方をして、その映像センスは映画の終わりの芝生のシーンまで持続してます。絵を描いたり写真撮ったりする人は構図とか色の使い方でかなり参考になるところがあるんじゃないかと思います。アントニオーニ監督としてはこの映画がカラー作品の第二弾目だったそうですが、映画の中で主人公が車に乗って移動してるシーンで青いビルが出てきたとき、音声解説ではアントニオーニは必要だったら建物の色を塗り変えてしまうくらい平気でやってしまうといってました。

エピソードでわたしが結構気に入ったのはヤードバーズの初々しいジミー・ペイジを見られたことや最初に書いたように生きたローリング・シックスティーズの時代の雰囲気とファッションを目の当たりに出来たこと以外だと、事件が起こる舞台となる公園とロンドンの街の描写、それと写真を幾度もブロウアップしていった果てに粗い粒子の嵐の中で死体を発見してしまうシーンでした。公園は緑しかないような単調な場所なのにどこか不穏な空気が流れてるような雰囲気の作り方が上手く、ロンドンの街は昼間は人の気配が希薄で殆ど廃墟に通じるような不思議な印象があり、またトーマスがジェーンを追って彷徨う夜のロンドンの裏路地はどこかサスペリアっぽい人口的で巨大な箱庭の都市に迷い込んだような感じがして幻想的でした。
写真を引き伸ばしていくシーンはタイトルになってるのも分かるくらいこの映画の見せ場となっていて、一切音楽の援助無しに次第に真相に迫っていく過程がサスペンスフルに描かれていて、緊張感のある演出が見事に成功してるシーンだったと思います。でも写真を引き伸ばしていっても粒子の荒い映像になるだけで隠されていた映像が引き出せるとは到底思えないんですが、そういうことを云うのはきっと野暮なんでしょう。

それと今回は以前に見たときと違って自分もカメラを使いだしてから見ているので、カメラマンとしての主人公の挙動にも興味津々でした。ハッセルのクランクのまわし方とか、ニコンFのストラップを撮影する時だけ首に掛けて普段は手に提げてるスタイルだとか、トーマスも左目使いだとか、それはもう発見が一杯あってかなり面白かったです。

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カメラ関係ではトーマスが底辺労働者の宿にもぐりこんで撮ったモノクロ写真、これを友人の編集者に見せるシーンがあって実際にどんな写真を撮ったのか画面に少しだけ出てくるんですけど、これがまた小道具で適当に撮り作ったようなものじゃなくて、随分と力のある写真なんですね。劇中の主人公が撮った写真としてスクリーンに写されるこの写真は一体本当は誰が撮ったんだろうとか、本当に写真集になってたらぜひ見てみたいとかかなり興味がわいたりもしてました。アントニオーニ監督自身が撮った写真だったら、写真家としても才能がある人なんでしょうね。

登場人物関係ではゲーンズブールに出会う前のジェーン・バーキンがモデル志願でやってくるチョイ役の女の子で登場してるのが見ものです。モデル志願でバーキンと一緒にスタジオにやってくるギリアン・ ヒルズものちに歌手としてデビューしてます。
トーマスのスタジオで暴君のようなトーマスに怒鳴られながら仕事をこなすモデルの中にはこの頃の時代のファッショナブルなイメージを代表する超有名モデル、ペギー・モフィットの姿が見えます。

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音楽ファンのなかではこの人のイメージはルー・ドナルドソンのアルバム「アリゲーター・ブーガルー」のジャケットのイメージで知られてるかも。わたしはこの人が画面に登場した時「アリゲーター・ブーガルー」が動いてる!って思いました。セクシュアルな撮影シーンで登場し、パリに行くといいながらマリファナ・パーティーに紛れ込んでたモデルは当時の実際の売れっ子モデル。それにヤードバーズのジェフ・ベックにジミー・ペイジと、脇を彩る人物が結構豪華なのもこの映画の特色かもしれないです。

スウィンギング・ロンドンの雰囲気を活写して、ファッション、音楽、映像センスなど見所が一杯ある映画なのに、映画的感興を維持するストーリー性だけが殆ど無いに等しいという妙に歪な姿が印象的な映画と云えるかもしれません。

☆ ☆ ☆

撮影シーン

ポスターに登場する有名な撮影シーン。なんだか典型的な写真家の撮影風景って云う感じがします。みんなこんな風にモデルをのせて行って撮ってるんだろうって想像できるくらいの普遍性があるイメージかもしれません。
それとやっぱりセクシュアルなイメージとかなり重なってます。カメラを通して覗き見ることそのものがセクシュアルな行為なのかも知れないなんて思ったりします。
ちなみに最初三脚にのせて撮ってるカメラがハッセルブラッドです。

ヤードバーズ・シーン

これはロックのライブだとは思えないくらい観客が異様に静まり返ってるのもちょっと幻想的な感じで興味深いです。ヤードバーズの演奏がつまらないなんて主張してるわけではなさそうですけど。
廊下のストライプ模様でさえもどことなく60年代してるのも、また面白いところかも。

「欲望」トレーラー




題名 欲望
原題 BLOW-UP
監督
ミケランジェロ・アントニオーニ
製作
カルロ・ポンティ
脚本
ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ
エドワード・ボンド
音楽
ハービー・ハンコック

キャスト
デヴィッド・ヘミングス
ヴァネッサ・レッドグレイヴ
ジェーン・バーキン
サラ・マイルズ

ヤードバーズ




☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




ややこしい映画について自分なりに整理しながら書いてみたけど、言葉足らずのままに気力が尽きてしまいました。もうちょっとうまく書けると思って書き出したんだけどなぁ。思弁的な映画について書くのって難しいですね。
気分転換にいつものように写真もちょっとだけ。

ギターが一杯
VQ1015 Entry

河原町三条の十字屋の地下、楽器売り場のフロアーです。壁面一杯にギターが陳列してある光景はなかなか豪華。ストラトキャスターでも一番廉価なものは10万ほどで手に入るんですね。それを知ってからUSA製のギターを一台欲しいなぁと思いながら、未だに買うところまで行ってません。箱ギターもジャズ・ギタリストが使ってるから欲しいけど、関西で育ったからなのか、フラワーショーだとか横山ホットブラザーズとかのイメージが強くて手が出しにくいです。

輝くドラム
VQ1015 Entry

同じ楽器屋でもこっちは大阪で撮ったもの。若干ぶれてますけど、そんなことは気にしないでおきましょう。ドラムを積み上げて置いてあった光景をスナップしたもので、金属部分が光を反射して結構綺麗でした。
ちなみにこれと上の写真はノー・ファインダーで撮ってます。カメラにまともなファインダーがついてないので。

とあるカフェにて
Nikon Coolpix P5100

とあるカフェで今は使われなくて店の片隅においてあったウェイター風の看板人形。窓の外に見えるビルの写り具合が気に入ってます。

御所前の古道具屋
Ultra Wide & Slim : Kodac Ektar 100 Canoscan 8600F

御所の南端、丸太町通りを挟んで開いてる古道具屋さん。映画のほうにもアンティーク・ショップが出てきてたのでそれにあわせて。一月頃に撮った写真で、冬の白川疎水を撮りに行った時、このUltra Wide & Slimも持っていって撮影してたんですけど、その時使っていたフィルムの中に写したものの一枚です。
色味がお気に入り。それと丸太町通りが遠くに消えていく辺りの並木だとか御所の木々の様子に古い映画っぽい感触があるようにみえるのもいい感じです。

門番
Nikon Coolpix P5100

古道具屋繋がりで、これは東寺の近くにある古道具屋の店先に飾ってある人形。こういう人形が他にももう一体飾ってあって異様な雰囲気になってます。扉の前で監視してるように見えて、一体どんな店なんだろうと思い出すとちょっと怖くて店の中に入れない感じ。
こういう写真が面白く出来たとするならその面白さは対象物にあるのか写真そのものにあるのか判断に迷ってしまうところがありますね。できるなら写真にあるとしたいところなんですけど、写真としては対象物に寄りかかって唯シャッターを切ってるだけだし。構図といってもその対象物をターゲットにして寄っていくとそんなに奇抜な構図も取れそうにないです。一部を拡大するとか足元から見上げるとかするくらいかなぁ。
あるいはこの写真は見返した時に自分でも真正面から単純にシャッター切っただけのように見えたので、こんな風に思ったりするところもあったんですけど、考えてみれば真正面からファインダーを覗いて面白くなければおそらくシャッターは切ってなかったと思うので、真正面から見た時にわたしのなかに面白いと言う判断が働いたと考えることも出来ます。こう考えると単純に向かい合ってシャッター切っただけのように見えても、対象に感じた面白さを上手く切り出すような十分に意図的な要素を含んでることにもなるんですよね。

対象物が存在しないと成立しない写真の類では写真独自のあり方というところで色々考えることが出てきたりします。

美味しそうなリンゴ
CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100

カラフルなのも一枚。これは今月に入ってから撮ったものです。コンタックスなんていう発色のいいカメラでカラー・フィルムを使うなら色の綺麗なものを撮らないと値打ちないなぁと思った写真でした。でも京都って神社の鳥居の赤なんかは目立つんですけど、総体的にカラフルなものってわりと見つけにくいんですよね。リンゴが美味しそうです。

春の鴨川
CONTAX TVS2 : FUJI REALA ACE 100

上のと同じフィルムに収まってた、時期的には桜が咲いてた頃の鴨川の写真。北山通りと交差する辺りで鴨川としてはちょっと北のほうになります。斜めのラインの集合体になって面白そうと思って撮ったもの。ただシャッターを切った後で飛び石を渡る人って題材としてはベタすぎたかなと思ったんですけど、仕上がった写真を見たらそうでもなかったです。
空の色が反射してるんでしょうけど、水の色が思いのほか綺麗に出てました。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




Mahalia Jackson - Crying in the Chapel.


プレスリーの歌で有名な曲。わたしは昔持っていたプラターズのアルバムに入っていたのをよく聴いてたことがあります。でもこのマヘリア・ジャクソンのが圧倒的な存在感がありますね。これを聴いてしまうとプレスリーのものでさえもあまり聴く気にならなくなるかも。魂の奥深くを鷲掴みにしてゆすぶられるような感じというか、タイトルのクライングじゃないけど、この歌声を聴いてるだけでキリスト教徒でもないのに無条件で涙が出てきそうです。
でもクライングとついてるけど、この歌、実は哀しい歌じゃなくて、神様と一緒にいられて幸せで涙が出るという歌なんですね。



☆ ☆ ☆



欲望 [DVD]欲望 [DVD]
(2010/04/21)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、デビッド・ヘミングス 他

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Greatest HitsGreatest Hits
(1997/02/05)
Mahalia Jackson

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わたしが「Crying In The Chapel」を聴いたアルバムもベスト盤だったんですけど、わたしが知ってるジャケットのものは探しても見つからず。
他の情報も寄せ集めてみると、ジャケットはわたしのものとは違うけどどうもこのアルバムらしいです。でもアマゾンのほうでは収録曲名を書いてなかったので、本当にわたしの聴いてるベスト盤と同じものなのか確証は得られませんでした。


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【洋画】「トロン」+「トロン:レガシー」についてのいくつかの覚書 +魅惑のベンチ写真 +ファンキー・オルガン・バラード

今これを書いてるのは2月の1日のことで、既に十日経って若干旧聞に属する話題になってしまってるんですが映画「トロン:レガシー」を観にいってきました。
観にいってきたのは先月の19日。映画館は三条河原町にあるいつものムービックス京都です。去年から京都駅南側にイオンモールが出来てその最上階に新しいシネコンが稼動し始めてからは、京都での映画館事情はちょっと変化が付け加わりました。このイオンモールではどんなところなのか見物の兼ねて去年の夏頃に「インセプション」を観にいってます。この時の「インセプション」はムービックス京都でも上映してたので、ひょっとしたら今回の「トロン:レガシー」もこの新しい映画館でもかかってたかもと後で思い至ったんですけど、結局馴染みのあるムービックス京都のほうに知らず知らずに足が向いて、今回の「トロン:レガシー」はこっちで観ることになりました。

お正月を結構すぎてたのでお客さんの入りはわたしが観た回では大体30人くらいだったかな。それでもまだ一日に4~5回の上映回数で上映を続けてるようでした。もっとも一日通して上映してるのはこの週が最後で、翌週から一日二回の上映に減ったようでしたけど。

お客さんがいない
Nikon Coolpix P5100 +Picnik

ポスター
Nikon Coolpix P5100 +Picnik


ちなみに上映してたのは3D上映の形で特別料金を別に400円取られました。3Dの映画が流行り始めた頃って300円程度の上乗せじゃなかったかな。今回の映画の追加料金が値上がりしてたのは確実で、しかもこの100円程度の値上がりはかなり高くなった印象を与えました。3Dでの表現が本当に必要な映画なんて限られてるし、3D自体も驚きも何もなくメガネかける鬱陶しさの方が先にたつような感じになってきてたからこの追加料金は無駄に払ってしまったと思いの方が強かったです。それに「トロン:レガシー」は全編3Dじゃなくて2Dのシーンも結構混じってたので、ますます400円の値打ちなしと言う感じがしてました

お正月映画をとりあえず何か一本でも観たかったんですよね。でも何を観にいくかはちょっと決めかねてました。お正月映画といいながら時期的にお正月をかなり外して観にいってるのは人が多いところがかなり苦手と言う理由で、どれを見ようか迷っていた結果と言うわけでもなかったんですけど、今年のお正月映画に去年の「アバター」ほどは引きの強いものがなかったのも事実でした。
それで、何を観ようかちょっと考えた結果、一応製作してるというのも以前から知ってたし、前作も見ていて、SF物が結構好きということもあって「トロン:レガシー」を観ることに決定しました。
基本的に映画は見世物的なものと把握してるせいか、SFなんかは結構気を引かれるジャンルになってます。文芸ものとかも嫌いじゃないですけど、空想的で普段の生活だと見ることも出来ないような世界を実際に眼に見える形で見せてくれるのは極めて映画的だと思ってるので、こういうジャンルの映画はちょっとワクワクさせてくれるところがあります。
それに前作は何十年も前の映画で、長い時間が経つ間にあまり話題に上ったこともないと思われるのに、どうして今頃思いついたみたいに続編が作られることになったのか、そのへんの理由も知りたかったし、映画の中に何かヒントでもあるかなとも思ってました。

ところが前作を見てるという条件もあっての「トロン:レガシー」ではあったものの、それでは前作がどんな映画だったのかと振り返ってみても実は前作のことは殆ど覚えてないというのが実際のところでした。綺麗さっぱりわたしの記憶領域から拭い去られてるというか、光の壁を背後に残しながら直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームで出来た巨大艦がゆっくりとスクリーンを横切っていくというイメージが頭に残ってるだけでどんなお話、内容だったのかはさっぱり思い出せない状態。登場してた俳優もジェフ・ブリッジスしか印象に残ってませんでした。
それで連続したものを観るというのにこれではちょっと勿体無い、ひょっとしたら前作と関連付けてる部分が多々あるような新作だったら話の内容さえも理解できないかもしれないと思い、結局新作の「トロン:レガシー」を観にいく前に前作の「トロン」も何十年かぶりに観てみることにしました。前作の「トロン」は今はDVDで簡単に観ることが出来るようになってます。

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こういう経緯で新しい「トロン:レガシー」を観にいく数日前に、実際に前作の「トロン」を観賞。
見終わった感想というか印象は、直角に曲がるライト・サイクルとワイヤーフレームの巨大艦しか記憶に残ってなくて、お話の内容がわたしの頭からすっかり抜け落ちてしまってたのも当然のことだったなぁというものでした。忘れてしまっていたせいで、あのイメージしか頭に残ってなかった巨大艦の意味合いとかどういう風に絡んでくる内容だったのかと割と興味津々で見てたんですけど、再見で確認できたのは、トロンのお話は共感するようなところもあまりなく、まるで他人事のように進んでいく極めて退屈なものだったということ。全体に焦点を欠いたような散漫さで、観てる側がどこにポイントを置いていいのか終始はぐらかされてしまうような物語だったということです。そのつまらなさは視覚表現以外のトロンの内容がわたしの記憶から完全に抜け落ちていたことを妙に納得させるものでした。
他人事と言うなら映画の出来事なんてどんな映画も、あらゆる映画はずべて他人事なんですけど、それでも登場人物に同情したり、共感したり、あるいは一緒になって怒ってみたり、反感を覚えたりと、何らかの係わり合いが生まれてきます。でもこの映画はそういう部分が本当に少なかったというのが見終わった後での一番の感想でした。

☆ ☆ ☆

主人公のフリン(ジェフ・ブリッジス)は天才的なプログラマー。エンロン社というIT企業に在籍してその天才的な発想で「スペース・パラノイア」というコンピュータ・ゲームを作り上げていた。ところがある日自分が作り上げていたゲームが誰かに全部盗まれてるのに気づいてしまう。フリンの成果を横取りしたのは新参で凡庸な才能の同僚プログラマーのディリンジャー(デヴィッド・ワーナー)。しかし悪は正されずに、ディリンジャーはその後このフリンから盗んだゲームを足がかりに出世していき、片やフリンのほうは会社を解雇されると言う結果になってしまう。
エンロン社を追われたフリンはゲームセンター「フリンズ」のオーナーとなり、子供たちは「スペース・パラノイア」で大量のお金を落していくものの、その殆どが自分の方には回ってこないと言う境遇に甘んじていた。
フリンは理不尽な境遇から抜け出そうと宅のコンピュータから「スペース・パラノイア」の著作権が自分にあることを証明するデータを探すためにエンロン社のコンピュータをハッキングした。
エンロン社のコンピュータ内部では元はチェスのプログラムだったものが周囲のプログラムを取り入れながらマスター・コントロール・プログラム(MCP)と言う巨大なプログラムに発達していて、これが恐怖政治によってコンピュータ内部の空間を統治するようになっていた。
ディリンジャーはこのMCPと結託してエンロン社での権力を維持していたが、フリンがハッキングしてくることをMCPから聞かされて、全アクセスを遮断する方針を打ち出すことにした。
フリンの同僚のアラン(ブルース・ボックスライトナー)はMCPからも独立してコンピュータ内部を監視できるセキュリティ・プログラム「トロン」を開発していたものの、アクセス制限の影響で開発が出来なくなってしまう。MCPにとっては自分を監視下における「トロン」の存在も気に食わないものの一つだった。
ディリンジャーとMCPによるアクセス遮断の理由が元同僚フリンの進入にあると知ったアランは同じく同僚で物質をデジタルデータに変化させる物質転送ビーム装置の研究をしてるローラとともにフリンに会いにいった。
ゲームセンター「フリンズ」でディリンジャーとフリンの間にあった著作権のいざこざを聞かされた二人は、フリンが社内に残ってるアクセスルートから侵入してその証拠を見つけられるように手助けをすることに決めた。
三人で会社に侵入した後、フリンは再びシステム内部にアクセスしようとした。そのことを知ったMCPは物質転送ビームを使ってフリンをデータ化したあげくコンピュータ内部に取り込んで、中で行われてる命がけのゲームに強制的に参加させることで、フリンを抹殺しようとした。

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こんな感じで観ている側はフリンとともに物語の本舞台である視覚化されたコンピュータ内部の異世界に導かれていきます。冒頭の語り口はそんなに酷いものではなかったです。プログラムが人の形をして動き回り、直角に曲がるライト・サイクルにのって殺人ゲームをしてるって、にわかに納得しがたい世界のはずなのに、ゲームセンターのゲームと絡めたりしながら、コンピュータの中には小さい人が居てこんな冒険をしてるのが普通だと割りと簡単に思わせてしまいます。でもスムーズに引き込んでいくお話なのに、分かりやすい語り口で語られるそのお話はなぜかちっとも面白くなかったんですね。

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見終わってみて、どうしてここまで心に残らないお話なんだろうってちょっと考えてみました。
まずこのエンロンという会社。「トロン」という映画の現実世界側の舞台になってる会社なんですが、この会社の得体が知れない。何を目的にしてる会社か本当のところ良く分かりません。フリンはゲーム開発で突出したゲームを作り、それを横取りしたディリンジャーが会社の頂点に上り詰めてることからしてわたしとしてはゲーム会社という印象が一番強いんですけど、ディリンジャーが話してるところを見ると30国を相手に防衛システムの取引をしてる国際的な企業らしいです。マイクロソフトだってゲーム作ってるから、べつに世界的なIT企業がゲーム作っていても構わないとはいうものの、この辺はどうもちぐはぐな印象を与えてます。MCPも企業のコンピュータはもう乗っ取るのに飽きてしまって国防省を狙ってるとか、そのうちクレムリンも支配下に置くとか壮大なことを云い出すんですけど、そんなこと云ってる割に、元がゲームのプログラムのせいなのか電脳空間の中でやってることといえば、吸収して不要になったプログラムを集めて殺し合いのゲームしてるだけなんですね。
さらにこの会社はなぜか地下では物質転送ビームなんていう妖しげなものまで研究開発してます。
一言で言うとわたしにはエンロン社にはあまりリアリティが感じられませんでした。物語を成立させるために必要なものを集めてそれっぽい組織にみえるように適当に体裁を整えてみましたという感じに近い気がします。フリンを動かしてる著作権の問題はこのエンロン社の世界がもとになって発生してるわけだから、元になってる世界にリアリティがなければ、主人公の行動原理もまたリアリティが希薄になってくる以外になくなるんじゃないかと思います。

著作権といえば、この物語のきっかけがフリンが横取りされた著作権にあったというのは今度再見してみるまで完全にわたしの記憶から抜け落ちてしまってたもので、こんな動機で動き始める物語だったんだと改めて発見してちょっと吃驚したくらいです。
だって、確かにフリンがコンピュータ内部に入り込むのは著作権が本当は自分にあるということを示すディリンジャーの改変命令とかを探す目的だったにしても、物語の大半を占めるコンピュータ内部の冒険では著作権がどうのこうのって云う話は一切出てこなくなるんだもの。
奪われた著作権の話の代わりに出てくるのは、アランがエンロン社のコンピュータに仕込んだ警備プログラム「トロン」が、圧政を敷くMCPからコンピュータ世界を開放する話で、映画の内容はコンピュータ内部世界が主舞台になると冒頭の展開とは完全に摩り替わってしまいます。結果、映画の大半はこのMCPの元から自由になったトロンがMCPの成敗に向かう話となって、確かにフリンは著作権にまつわる目的を達成するためにはMCPを無効化する以外に方法はないにしても、主役のはずなのにそのうちトロンの行動を補佐するような役回りに変化していくことになります。
この映画で唯一感情移入が出来る人物、自分の作ったものを他人に盗まれて会社から放り出された悔しさといったものを共有して、名誉が回復すればその喜びによってカタルシスが得られるはずだった物語は途中で表舞台から姿を隠しがちになってきます。

☆ ☆ ☆

「トロン」というキャラクターは映画のタイトルにはなってるけど、実は主人公のコンピュータ内部世界での分身という存在ですらなくて、物語の立ち位置は脇役といってもいい存在です。だから主役のジェフ・ブリッジスが補佐に回ってしまいがちになって以降のこの「トロン」という映画は云うならば大活躍する脇役の物語になってるともいえます。

現実世界のアランはフリンが退社してからの事情を知って、同僚とともに回路が閉ざされた会社のコンピュータに別のルートからフリンがアクセスできるようにフリンの手助けをしていきます。だから、コンピュータ内部の出来事も現実と対応していたならアランの分身であるトロンはフリンの行動を補佐する役割になっていたはず。
でも中盤以降中心になっていくコンピュータ内部での物語の要となっていくのはフリンじゃなくてトロンの方なんですね。しかもそのトロンに関しては映画の中では主役に躍り上がったからといってそれ以降では詳しく描かれるかというとそうでもなく、アランが作ったMCPからも独立して監視できるプログラムだということくらいしか説明されないままに放置状態。映画のタイトルになってる割にキャラクター的な内容はほとんど何も描写されてないのと同じくらい印象が薄いです。

トロンがフリンの手助けで殺し合いのゲームの駒にされていた境遇から脱出した後、MCPの追跡を出し抜いて、リアル世界のユーザー、アランと結びつく場所へ趣き、アランからMCPを倒すためのプログラムを受け取るために、ユーザーと繋がる光のビームの中に立って重要な記憶が入ったディスクを頭上高く抱え上げるシーンがあります。このシーンは新作の宣伝でもトロンを代表するイメージとして使われてるくらいのシーンなんですが、そういう映画のイメージを代表しそうなシーンをフリンじゃなくトロンがこなしてる。他にもクライマックスでMCPの手下であるディリンジャーのプログラム人格、ほとんど処刑人といってもいいような「サーク」とディスク・バトルで一騎打ちをするシーンなんかも、著作権を奪われて恨みがあるはずのフリンじゃなくてトロンの方が戦いを挑んでいくような運びになってます。要所要所の見せ場はフリンに対してではなくてトロンのために用意してありました。

要のシーンになると、主人公の友人のプログラム人格がかっこよく決めながら活躍していく展開を観ていて、ジェフ・ブリッジスが主役と思ってみていたわたしの感覚はそのうちに収まるところが見つからなくなってきました。観ていて発見したのは殆ど描写されない人物が大活躍してもやっぱり印象は薄いままなんだということ。これは「トロン」が教えてくれた物語創作上のある種の真実かもしれないです。

トロンという、わたしにはどうみても主役のように見えない人物でも、その人物が展開していく物語に魅力とパワーがあれば、あるいはまた全体の印象は変わったものになっていたかもしれません。でも抑圧されたプログラムの解放という内容はあまり身近な接点をもてるようなものでもなくて、寓意にしてもいささか稚拙なものに終始したままエンディングを迎えたように思えました。

☆ ☆ ☆

それともう一つ。この映画、いわゆる悪役に相当するMCPとディリンジャー、そしてディリンジャーのコンピュータ内部でのプログラム人格である「サーク」にあまり魅力がありません。魅力がないというより何がしたいのか観ていてもなんだかよく分からないから悪役として上手く成立してないという方が当たってるかな。

主人公が悪に立ち向かうというようなシンプルな物語でその悪役に魅力がなかったら映画そのものの成立さえ危なくなってくるところがあると思ってるほうで、極端に云うと主人公は物語を進めるただのコマ扱いであっても悪役のキャラクターさえ立ってたら物語は成立するんじゃないかと考えてます。
そういう点でいくと「トロン」の悪役は全く力不足。
MCPが世界征服なんていうことを口に出しながら、その割りにやってることは大掛かりなコンピュータゲームに過ぎないものばかりというのは上のほうで書きました。他企業のコンピュータを乗っ取った結果コンピュータ内部の世界がどういう風になってるのか、MCPが権力を持つまでの世界とどう変わってしまったのかといったこともほとんど描かれてません。
またコンピュータ内部ではMCPの一番の配下「サーク」となってるディリンジャーも、できるだけ残忍に殺せって言うような指示を出すくらいでそれほど策略をめぐらせるわけでもなく、自分からは動かないMCPの手足になって動いてるだけという印象でした。
それに自分でプログラミングして作り上げてる人格なのに、ディリンジャーはどうしてわざわざ自分からその分身を、MCPに「なかなか残忍になってきたな」と云われて「有難うございます」などと答えるような、こんな馬鹿げた処刑人にしてしまったんだろうって、これもちょっと理解不能な感じがありました。自分で自分の分身をプログラミングできるのに、こんな酷いキャラクター作ってしまう人っておそらくいないでしょう。
MCPが自分から動かない設定だからその手足になって動く、MCPの極悪ささえも肩代わりしてるような悪のキャラクターが必要だったということはなんとなく分かりはするものの、そこまで悪そうにはみえないリアル世界のディリンジャーとサークとは、悪役であるということしか共通項がないような感じになっていて、悪役の造型に適当感がかなり漂ってます。

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とまあ、久しぶりに観た「トロン」はこんな風にお話はつまらないのが納得できるくらい、適当で、稚拙な印象を与えるものでした。
でもこの映画、お話はこんな体たらくだったんですけど、ビジュアル的には見所が一杯あります。この映画の値打ちはやっぱりコンピュータ世界の描写にあるというのは今回見直して再確認した感じでした。何十年も前に見た時よりもかえって今現在見た方が視覚的には興味深かったとさえいえるかもしれないです。
この映画の異世界構築には今回はじめて知ったんですけどメビウス(jean 'moebius' giraud)が関わってたんですね。映画だと「エイリアン」の初期コンセプトだとか宇宙服のデザイン、「フィフス・エレメント」などの美術に関わった人、本来は漫画家なので「時の支配者」って云うアニメも作った人です。シド・ミードもクレジットされているものの、メビウスは「トロン」では舞台、コスチュームのデザインを担当したそうで、この「トロン」の異世界の雰囲気はメビウスの力の方が大きい感じです。

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技術的に見ると今のコンピュータグラフィックの方がはるかに洗練されてます。トロンが描き出すコンピュータ世界はまるで何十年も前のレトロ・ゲームに見るような世界ではっきり云って稚拙です。でもこの稚拙な世界こそがわたしたちが共有しコンピュータといったときに思い浮かべるような記号的なものに満ち溢れていて、かえってこういう風なシンプルな世界が逆に今見るといかにもコンピュータ的な世界として新鮮に眼に写る感じがします。
広大な空間を予感させる深い闇とハイコントラストの幾何学で作られた異世界といった感じ。質感を与えるための手の込んだテクスチャも貼ってないポリゴンモデルのシンプルで、極めつけにクールなライト・サイクルなどのオブジェクトも含めて、リアルを目指すようないまのCGではあえて発想する人も居ないだろう人工的な世界でもあります。この背景を飲み込んでいくような闇が実に特徴的で、その深さに観ていて夢中になるんですけど、闇が支配するところはプログラムされないものは一切存在しない世界ということなんでしょうね。昔のゲームだって容量が足りないから黒バックっていうのは当たり前にありました。
それとコンピュータ内部の人格の、スーツから露になってるキャラクター部分のビジュアルが荒いモノクロ映像にしてあるのも、今観ても凄く新鮮です。まるで古いドイツ辺りのSF映画を観てるみたい。

この映画を観た当時、コンピュータ・グラフィックで作った映画という売り込み方だったはずですが、実はその意味合いがもうひとつ良く分かりませんでした。手で描くのとどう違うのかとかとか。今は3DCGソフトを触ることもあるので違いは大体分かるようにはなって、そういう意味でもわたしにとっては面白いビジュアル表現でした。実はコンピュータ・グラフィック映画といいながら、手書きで凌いでるところも結構あるんですよね。


☆ ☆ ☆


久しぶりに映画のことを書こうとしたら、ちょっと息切れ気味。なのでここらで一度休憩。

これでも昼間の写真!
Wide Lens Camera : Kodak Ektar 100 +Photoshop : CanoScan 8600f

なぜかは知らないけど、ベンチを見ると撮ってみたくなってます。
これは動物園に持っていったロケン・ロールなカメラ、Wide Lens Camera にコダックの感度100のフィルムを詰めたのをつれて、今年のお正月過ぎに白川疎水道を歩いた時に撮ったものの一枚。


ということで、ベンチで一休みした後さらに続けます。


☆ ☆ ☆


さてそこで、今回の続編「トロン:レガシー」のお話です。

お話の発端はなかなか魅力的な展開で始まります。
時代はフリンが前作のコンピュータ内部の冒険から再びリアル・ワールドに戻って、暫く後のこと。フリンがベッドにいる息子サム(ギャレット・ヘドランド)にトロンとともに体験した冒険について語ってるシーンで映画は幕を開けます。ライト・サイクルで戦ったり、トロンがディスク・バトルで活躍した話など。この辺りは観ている側への説明にもなっていて、観客はサムの視線となって一緒にフリンの話に耳を傾けるようになるはず。
フリンの話は前作の冒険から帰って以降のことにも続いていきます。前回の冒険の後でアランとともにコンピュータ内部、この映画では「グリッド」と称してましたが、そのグリッドに自由に出入りするようになって、でも常時グリッドにいるわけには行かないからそれぞれの分身を、フリンの場合はクルー、前作で最初のハッキングで著作権のファイルを探す命令を受けて探索中に、MCPに捕らえられ抹殺されたフリンのコンピュータ内の人格のクルー、そしてアランは分身トロンを立てて、4人で協力してこのコンピュータ内部の世界を完璧な世界、ある種のユートピアとして作り上げようとしてると息子に語っていきます。そして、そうやってグリッドに完璧な世界を作り上げようとしていた時に、奇蹟が起きたと。
それまで熱心に聞いていたサムは奇蹟って何が起こったのかフリンに尋ねるんですが、フリンはその話はまた今度といってその日のお話を終えてしまいます。その後もっと話を聞きたそうな息子を残してまだ仕事があるからとフリンはバイクで自宅を後にします。バイクで暗闇の中に去っていくフリンと父を窓越しに見送る息子サム。しかしフリンは闇の中へ去ったきり、息子への話も中断したままで、会社の誰にも何も告げずにどこかへ失踪してしまいます。
その後時代は一気に現代へ。青年になったフリンは会社の所有者ではあるものの、失踪したまま行方不明になった父の考えなど無視して進むエンロン社のやり方に馴染めずに会社にいたずらを仕掛けるような屈折した生活を送っています。そんな時20年ぶりくらいに父からポケベルの信号が入ってきたとアランに告げられ、父が経営していて今は廃墟となってるゲームセンター「フリンズ」に趣くことになります。
廃墟と化した「フリンズ」の中を調べてるうちにサムは父のシークレット・ルームを発見。その秘密の部屋のなかには埃を被ったコンピュータがあって、そのコンピュータにアクセスしたサムはそのままコンピュータ内部の世界に転送されてしまいます。

なぜフリンは失踪したのか。観客はどういう映画か知ってみてるからフリンが行った先はある程度予想はつくものの、どうして20年以上も行ったままで連絡しなかったのか、また20年以上も連絡してこなかったのになぜ急にポケベルを使って信号を送ってきたのか。サムにとってはベッドに入って父に聞かされた時からそのまま謎で終わってしまってる、グリッドを理想の世界に作り上げようとしていた時に父が出会った奇蹟とは一体何だったのか。
この辺りのことが謎めいた要素としてちりばめられていて、物語の導入はかなり魅力的でした。どうなるのか知りたくなるような伏線を張りまくって、先を知りたいと思う観客の心をつかんで引っ張っていきます。ポケベルの連絡に導かれてサムが開くゲームセンター「フリンズ」の廃墟も、最近廃墟付いてるわたしにはかなり魅力的でした。前作と殆ど同じ雰囲気のゲーム・センターとして再現されていて、前作で子供たちで賑わっていた光景を知ってると、蜘蛛の巣だらけで人も気配も途絶えて久しいフリンズの光景は対比が効いて廃墟愛好の感性を刺激します。何かが起こりそうな気配も濃厚にあってなかなか楽しいです。

コンピュータ内部に転送されたフリンは放り込まれたグリッドで途方にくれていると、空から降りてきた、門のような形をした巨大飛行物体レコグナイザーに捕らえられて、そのままわけも分からずにゲームの戦闘員に仕立て上げられてしまいます。レコグナイザーも前作で出てきたのを直ぐに思い浮かべるようなデザインで、前作を見ていれば馴染みの世界に帰って来たような感慨を覚えるかもしれません。
この後は事情も分からないサムが分からないままにゲームの対決に巻き込まれていく展開で、分けが分からないのは観客も同じだからサムと同調して、この世界を始めて見る感覚で周囲で巻き起こる出来事に入り込んでいくことになるんでしょう。
いきなり事情も知らせずに始まるバトル・ゲームはディスク・バトルとライト・サイクルのゲームでこれは「トロン」の方にも出てきました。この部分も前作を知ってる人には現在の事情は分からないにしても、再びあの世界に戻ってきたとワクワクする人も多いんじゃないかと思います。

わたしも、なぜ自分が戦わなければならないのか、対戦相手は一体何者なのか、とにかく何も分からない状態でゲームに巻き込まれたサムが、その事態から逃れようと必死になって行動する様子を、サムの心情にシンクロしながら見てました。ディスク・バトルは前作のクライマックスだったのに、今回はグリッド世界が画面に出てきた序盤で早くも使われてるし、ライト・サイクルによるバトルは「トロン」で一番印象に残るシーンでもあったから、「トロン:レガシー」は序盤から結構ハイ・テンションで飛ばしてる映画という印象でした。

☆ ☆ ☆

でも確かに「トロン」とは比べ物にならないくらいパワー・アップしてるし、華麗なアクションを見せてくれるからそれなりにのめりこんで観ていられるんですけど、前作の設定をふんだんに盛り込んでる割に、わたしの場合は観てるうちになんだかこれは本当に{トロン」の世界なのかな?という違和感が出てきたんですね。

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ディスク・バトルの相手がまるで戦隊物の悪役のように妙な決めのポーズを取ったりするのもちょっと違和感があったものの、極めつけはその後のライト・サイクルでのバトル・シーンでライト・サイクルが直角に曲がらなかったこと、これが大きかった。バトルフィールドが「トロン」の格子状の平面から上下に段差のある立体構造に変わってライト・サイクルの動きが立体感を持ったのは新機軸だったんですけど、ライト・サイクルが普通にカーブを描いて曲がるものになっていて、これがものすごい期待外れ感を与えました。光の帯を後ろにひいて、その壁に追突するとクラッシュするというゲームの設定まで同じなのに、ライト・サイクルの挙動は普通の世界のリアルさが導入されて普通にバイクが曲がるように方向を変えます。ライト・サイクルが直角に曲がるのはまさしくトロンにしか出てこないシーンだったので、ライト・サイクルが直角に曲がらない設定はそれだけでここが「トロン」の世界じゃないと明言してるようなものに思えました。

これ以降のグリッド内部の描写全体にもいえることなんですが、「トロン:レガシー」は現在のコンピュータ・グラフィック技術を駆使して、派手な動きも含めてグリッド内部を極めてリアルな存在感を持つような世界として描いてます。ライト・サイクルの動きもライト・サイクル・バトル全体の質感をリアルに作り上げる段階で直角に曲がることのリアリティのなさが浮き上がってしまったんだと思います。でもこの方向は「トロン」という映画の世界を作り上げていくのにはあまり相応しい方向じゃないとわたしには思えました。
端的に云うならば「トロン」は奇想が支配する世界です。そして「トロン:レガシー」では最新の映像技術を駆使してその奇想の世界をとにかくリアルに、ライト・サイクルなら本当に光の帯を後ろにたなびかせて走ってると信じ込ませるくらいに現実感のあるものとして作り上げようとしてました。
誰も観たことがない世界を見える世界に具体化させるというのは、映画の持つ利点であって、そういうことを実現させる技術はたとえば龍がすむようなファンタジー世界をリアルに構築するような場合にはものすごく有用な武器になると思います。だからこういった他のファンタジー、SF映画と同じように「トロン:レガシー」もその世界に圧倒的な存在感を与えるために最新技術をつぎ込んでいたんでしょう。
結果、映画の中には本当に人間が住んでる世界のようにリアルなグリッド空間が出来上がってます。でもこの異世界をあまりにもリアルに描こうとしたせいで、「トロン:レガシー」はグリッドがどんなに奇想の世界であっても、どこか人間が生きてるリアルな世界の延長上に、気が遠くなるほど離れたところであっても必ず人が住めるような馴染みのある世界とどこかでリンクして繋がってる世界という印象を与えることになってるんですね。
逆に「トロン」の時のコンピュータ内部に広がっていた世界は人が住めるようなリアルさを持った世界とは全く次元が違うところに成立したような奇想の世界でした。新作の「トロン:レガシー」はこの次元が違うような異世界といったニュアンスを、異世界であってもリアルな世界という形で作り上げる方向に進んだために希薄にしてしまってるようにわたしには見えました。
言い換えてみると、どれほど奇妙に見えようともわたしたちが住んでる世界と似たような法則で動いてると思わせる世界と、わたしたちが住んでる世界とはまったく別の原理で成立してるとしか思えない世界の違い。「トロン:レガシー」と「トロン」の間には同じ映画の同じグリッド空間を扱いながら、表現手段の進化によって思いもよらないような形でこういう違いが出てきてたように思えます。

これまで書いてきたことからわたしがどちらが面白いと思ったかはいうまでもないことかもしれません。でもあえて云ってしまうとわたしはこの映画に限っては最新技術で作り上げた世界よりも昔の「トロン」のビジュアルの方が興味深かったです。「トロン」の場合は意図してる部分もあったのと同じくらい、当時の技術的な限界でああいう形になったところも多かったと思います。でもどこまで意図できたか、どこが時代の技術的な制約が生み出したものだったのかは別にしても、結果としてあの古いSF映画とシンプルでプリミティブなレトロ・ゲームが混在してるような手触りの世界の方が独自のイメージ世界を作っていたんじゃないかと思います。
ひょっとしたら「トロン:レガシー」のスタッフもレトロ・ゲーム的なイメージの世界をもう一度作りたかったかもしれませんが、現在において「トロン」と同じような感触を持つ世界を作るのはちょっと時代錯誤的で難しかったんだろうなぁって云うのも何となく想像できました。レトロ・ゲーム的なイメージの方が直接的にコンピュータ内部の世界というのを思い起こさせるものの、今やってしまうとやっぱりいつの時代の映画?って云う風になってしまいそうです。
考えてみると物語はくだらなかったけど、「トロン」ってあの時代を逃すと絶対に作れなかった映画なのかもしれませんね。

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「トロン:レガシー」の前半の展開は謎とアクションのハイテンションでそれなりに面白かったものの、この後謎の女クオラ(オリヴィア・ワイルド)に助けられ連れて行かれた先で父フリンと再会する頃からは、言葉に頼って動きが少ない展開が多くなってくるからなのか、前半のアクションを積み重ねていく展開に比べると、背景が次第に明らかになってフリンやサムたちの行動の目標が定まってくる後半は、わたしには映画が一気にトーンダウンしたような感じになりました。

サムがクオラ連れてこられたところは「2001年」のホワイト・ルーム風のフリンの隠れ家。これは冷たい光に照らされて割とかっこいい部屋でした。
フリンはその隠れ家でサムを食事に誘い、再会した息子サムに失踪した後のグリッドでの出来事についてどういうことが起こって、なぜ帰れなくなったのかといったことを話し聞かせます。
完璧なユートピアを作り上げようとしていた時に、ある日グリッドの中でデジタルDNAを持った生命体「アイソー」が生まれることになった。ところが完璧な世界を作るようにフリンにプログラムされていたクルーにはその生命体はコントロール下に置かれない不完全な存在、グリッドの内部に発生したウィルスとしか見えず、アイソーをグリッドから抹殺するために、アイソーを評価するフリンたちに対して反乱を起こしたということ。その結果グリッドはMCPが支配していたような世界に逆戻り、支配者はMCPからクルーに代わってグリッドは完璧な世界の実現という観念によって抑圧された世界になってると。
この部分がまずトーンダウンの始まり。

冒頭のベッドで父の話を聞くのと同じ構図で、観客はこの話で後半の物語世界の事情をサムとともに理解できるようになってるんですね。でもこの説明はグリッドという特殊な世界で使われる言葉が出てくるせいなのか、一度聞いただけではどうも理解しがたいし、上に書いたような言葉で展開する動きの少ない場面になってしまって結構だれてしまう感じでした。別に難しい話をきいてるわけでもなく、どちらかというとコミックのような話を聞いてるだけなのになんだか妙に理解しがたいという居心地のわるい展開。こちらが住んでる世界とは全く違う世界なので映画のどこかで説明するのは不可避なんですけど、一挙に言葉で説明されるとなんだか話について行くのが精一杯という感じになってました。

サムがフリンと再会してグリッドの事情が分かって以後のお話の展開は、もとはフリンの分身で、一緒になって理想の世界を作り上げる仲間だった「クルー」がコンピュータ内部を圧政下におくだけではなくて、リアルな世界へも侵出して、リアルな世界も自分に命じられた使命どおりに完璧な世界に作り変えようという風に野望を拡大していたために、フリンらがその野望を阻止するべく行動するというような形で進んでいきます。

前作の悪役MCPが結局コンピュータ内部から出る気がなかったのに比べると、今度の悪役クルーは積極的にリアル世界に出ていこうとするアグレッシブなところがあります。でもそういう違いがあっても正直なところ物語そのものはやっぱり前作同様に大した話じゃなかったという印象は強いです。
複雑でもないエピソードが単純に数珠繋ぎされて、それなりの緊張感は維持されてはいるものの、陰影も乏しくゴールまでそつなく連なってるような感じ。またクルーの率いる軍隊が現実世界に出ていく前に、リアル世界に通じるゲートに向かうという物語の枠組みは「トロン」のお話と殆ど一緒で、どうなっていくのかワクワクしてみてるよりもわたしにはなんだか代わり映えしないお話を見てるという気分が強くなってきてました。

「トロン:レガシー」のなかでこの反乱者「クルー」が体現していた物語は完璧な世界を目指してその実現のために世界中に圧政を敷くということで、これはなんだか共産主義を戯画化してるように見えなくもないものの、クルーの描写にはたとえばびっしりと並んだ兵士の前で高い段のうえから檄を飛ばすといった独裁者的なものとしては極めてありきたりなイメージも躊躇いもなく使って、寓意としては「トロン」同様に稚拙といった印象を出るものではなかったです。何よりもこれ、ディズニー映画だし、そんなテーマで考え込ませるような映画でもなかったと思います。

☆ ☆ ☆

「トロン:レガシー」はいろんな要素が絡み合って、父と息子が20年ぶりに再会するという本来なら盛り上がるはずのドラマらしいドラマが始まるころから映画全体がなんだか失速してしまうような、考えてみればある意味結構珍しい映画といえないこともない映画になってしまってます。
ドラマ的なテーマで云うと、当然この主役であるフリンとサムの親子愛がメインになってるんですけど、このテーマはそれほど際立った印象を残しません。わだかまりが残るような別れ方をしたのではないにしても、サムの方には理由もなく放置され、一番大切な人なのに何も連絡してこないままに捨てられてしまったような気持ちは絶対にあっただろうと思うのに、20数年ぶりに再会し、2,3の言葉を交わしただけですべて水に流してしまいます。感情的な齟齬があったとしても再び出会っただけですべて霧消してしまうのは親子であったからこそともいえるんですが、基本アクション映画だったからなのか、こういうところはやっぱりあっさりと流しすぎてるようにみえました。
奇をてらった展開をするわけでもないので、印象としてはこの親子関係は殆ど描かれずに終わったような感じを受けます。でも良く観てると細かいニュアンスとしては、脚本というよりもジェフ・ブリッジスやギャレット・ヘドランドの雰囲気や表情、話し方なんかで、二人の共有できなかった時間を取り戻そうという心のあり方は意外と描かれてているところもあって、描かれはしてるんだけど、周囲の特殊な世界やエキセントリックな人間設定の中でいささか埋没気味になってるといったような感じでした。

わたしとしては印象として残るというか、あとになって心に引っかかりを残していったのは、この親子の話じゃなくて、クルーやアランのほうだったかもしれません。
クルーは完璧な世界を作るという命令をプログラミングされてるわけだから、自らの存在意義にしたがって行動してるだけで、行動自体に非難されるところは本当はないんですね。それが反乱と見做され、最後の方では生みの親であるフリンから完全なものなど世界中探しても本当はどこにもないもの、完璧な世界を作り上げるようにクルーを作ったのは自分の間違いだったみたいなことを言われてしまいます。これ、クルーの存在の完全否定です。完全に敵対してるように見えても、フリンの隠れ家を発見して乗り込んだときの態度からみると、愛憎入り乱れて複雑な感情になってるのも見受けられるので、そんな複雑な感情を抱いている生みの親からこんな救いようのないことを、しかもすまなかったと謝罪まで付け加えて言われたときのクルーの心情を察すると、なんだか同情して余りあるというような気分になってしまいました。
それとアラン。映画のタイトルにもなってるトロンの製作者であるにもかかわらず、「トロン:レガシー」でもサムがグリッドに入る前の序盤とグリッドから現実世界に戻ってきた後のラストシーンにしか登場しないという相変わらずな扱いになってる人物。でもこんな扱いだったのに、この人が20年近く理由も告げずに失踪している友人に今も友情を持ち続けている姿で登場してくるのが、何だか観ていてグッときました。何気にかっこいいです。

もう一人、肝心のトロンの扱いはというと、ひょっとしたらこの人物の扱いが一番ひどかったんじゃないかなぁという有様でした。
「トロン:レガシー」を見終わった後で、結局トロンってなんだったの?とかトロンってどこに出てた?とか疑問に悩まされる人が大量に出てたんじゃないかと思います。
実はこの映画の中でトロンは違う名前で出てきてるんですよね。しかも黒尽くめに最後まで覆面ヘルメットを装着してるからヘルメットの下にどんな顔があるのかもさっぱり分からない状態で。
フリンがサムにグリッドの中で何が起こったのか説明するシーンの過去の回想場面でトロンがプログラム人格としてフリンに同行してるシーンがあって、そのシーンを覚えてるか前作を観てる人はトロンがクルーのような人格を持ったプログラムだと分かるんですけど、シーンとしてはそれほど長くないし、しかも途切れなく話されるフリンの回想の中に出てくるシーンの一つで、あまり印象に残るようなものでもありません。あとは「トロン」の名前すらもクライマックス近くまで出てこなくなります。
この辺りを注意散漫になって観ていた人のなかには、トロンが映画に出てきてる人物のどの人のことなのかはおろか、プログラム人格だということさえ分からないままに映画が終わってしまった人がいるかもしれません。
トロンが最後にどういう結末を迎えるかは書かないにしても、ちょっとかっこいい終わり方だったので、なおのことこのぞんざいな扱いは不憫でした。

☆ ☆ ☆

このニ作を振り返ってみると、全体としては、主役級の人物がどういう意図のもとにあるのか分からないけど、とにかく理不尽に冷遇されるとても不思議な映画だということ。最新作の「トロン:レガシー」に関しては最新技術を駆使したためにかえって想像力にブレーキがかかってしまった映画だったと、こんな風にいえるかもしれません。
そこで次作があるとすればわたしとしてはぜひ主役が主役として屈託なく活躍できる「トロン」を1作でいいからぜひとも作ってほしいということと、ライト・サイクルは直角に曲がれるように再び調整しなおしておいてほしいということ、こういうのを実現した映画を作ってほしいなぁと思ってます。
それで、最初に書いた疑問、なせ今になって続編を作る気になったのかということなんですが、新作の「トロン:レガシー」を観たからといって分かるわけもなかったです。
でも予習で観た前作の「トロン」の最初の方、ジェフ・ブリッジスがエンロン社にハッキングするところで漢字が書いてある法被を着てたのを観て、わたしは「ローズ・イン・タイドランド」で落ち目のロックスターを演じたジェフ・ブリッジスが同じく日本語、確か「ことぶき」だったと思うけど、そういう法被を着ていたのを思いだしました。「トロン」のこのシーンを見ていてひょっとしたらテリー・ギリアムは「タイドランド」で「トロン」へのオマージュみたいのことをやったのかなぁって頭をよぎって、だから意外と「トロン」が好きな人って世界には存在していて、続編ができるのを心待ちにしてたのかもしれないって思いました。

肝心の「トロン:レガシー」ではジェフ・ブリッジスは「トロン」のフリンと地続きのキャラクターを演じてはいたものの、着ている服はインド風というか新興宗教がユニホームで使ってそうなものでした。本家が前作をリスペクトしないでどうすると一言いいたくなってくる感じ。「トロン:レガシー」でグリッドの隠れ家から姿を現したフリンが日本語を書いた法被を羽織って登場してくれたら、「トロン:レガシー」へのわたしの好感度はかなり跳ね上がってたかもしれません。



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Tron - Trailer


Tron Legacy - Trailer



☆Tron

監督 
スティーブン・リズバーガー
出演
ジェフ・ブリッジス
ブルース・ボックスライトナー
デビッド・ワーナー

☆Tron : Legacy

監督
ジョセフ・コシンスキー
出演
ジェフ・ブリッジス
ギャレット・ヘドランド
ブルース・ボックスライトナー




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Young and Foolish - Richard 'Groove' Holmes



ファンキー・オルガン奏者、リチャード’グルーヴ’ホルムズのアルバム「Night Glider」に入っていた曲。
わたしはこの人はジミー・マクグリフという同じくファンキーなオルガン奏者のバンドと共演したアルバム「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」が好きで良く聴いてました。オルガンって昔はハードロックに割と使われてたりしてわたしとしては馴染みがあった楽器。最近はクラブとか中心にオルガン・ファンク・バンドがメジャー扱いになってはいるものの、やっぱりオルガンって云うのはピアノのようにはなれなくていつの時代も傍流の楽器という扱いだったと思います。このリチャード’グルーヴ’ホルムズなんかはジミー・スミスなどのように、その活動を通して70年代頃からそういう傍流の楽器であるオルガンが傍流のまま廃れてしまわないように尽力をつくした人でした。ひょっとしたらこの人たちの活動がなかったら今のジャズ・ファンクのようなメジャーなオルガン・サウンドって聴けない時代になってたかもしれません。
「ジャイアンツ・オブ・オルガン・イン・コンサート」は別にしても、わたしが聴いた範囲ではそれほどどす黒いファンクでもなくて、ちょっと風通しのいいファンクといった印象です。意外と黒っぽい曲以外のものでもファンキーなタッチを織り交ぜてこなしてしまう人で、代表的なものでは、エロール・ガーナーの「ミスティ」のカバーがありました。これで結構なヒットを飛ばしてます。
「Young and Foolish」はスタンダード曲。50年代のミュージカル「Plain and Fancy.」で使われたAlbert Hagueの曲。
ホルムズはオルガン独特の、なんというかニワトリ奏法とでも云うかそんなテクニックなんかを駆使して、多彩なオルガンの音色を効果的に使いながら、情感を一杯込めて弾いてます。




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【洋画】 アリス・イン・ワンダーランド

4月28日にティム・バートン監督の映画「アリス・イン・ワンダーランド」の一回目を観て来ました。「アバター」で火がついた感じのある3D方式の上映で、「アバター」に続く立体映画として期待されてた映画です。京都はムービックス京都での公開。上映形態は3D字幕版、3D吹き替え版、2D字幕版の3種類が用意されてました。
「アバター」以降の3D映画としては一番注目されてたということもあって、ここは当然3Dの字幕版で鑑賞することに決定。スクリーンは「アバター」と同じ別館の4番シアターということで、ひょっとしたらこの4番シアターはムービックス京都で3D上映する時の専用スクリーンになってるのかもしれません。
観にいったこの時は上映開始から10日ほどしか経ってませんでした。わたしは人の多いところが苦手で、映画館に行くとすれば出来る限りお客さんが少ない終了間際に行くというパターンがほとんどだったので、話題作でしかもロードショー開始からあまり日数が経ってない、しかもゴールデン・ウィーク間近なんていうこの時期に観にいくのはちょっと覚悟が要りました。でも映画が扱ってる題材に結構興味があったし、映画そのものも3D映画の興隆という流れを継ぐ位置にあるような扱いになって関心をもっていたし、実は監督のティム・バートンにはそんなに興味があるほうではなかったんですけど、ジョニー・デップのコスプレ・メイクのイカレっぷりなんかを事前に眼にしていて、一体どんなキャラクターを演じてるのかとかそういうところは気になってたんですね。だから普段だったらこういう時期にはほとんど観に行かないんですけど、今回は話題の中心になってる頃にわたしも参加してみたくなって、いざとなったら人ごみ苦手の満員映画館体験記みたいなものも書けるかもしれないって思って観にいく気になったわけです。

結果としてこの日の混み具合は大体8割くらい席が埋まってる感じ。チケットを買う時に販売員の説明だともう前の方と両端しか残ってないということでした。良い席が無くなるのなんて分かってるんだから予約で買っておけば良いっていうことなんでしょうけど、わたしは明日のことでもどうなるか分からないって云う思考の持ち主なので、そんな先のことを決めるのはもってのほかというか、また未来のある時点を拘束されるのも出来るだけ排除したいというところもあって、こういう日付指定のチケットは、よほどそういうことをやらければならない時以外は買わないことにしてます。ということで、28日にわたしが座れる可能性があったのは最前列近くと中央の両端部分、3Dで最前列は絶対に酔うと思ったのでその非常に偏った配置の空席のなかから中央左端の席を確保することにしました。でも別館4番スクリーンの中央部分は両端が場内へ入るための通路になっていて、端っこの座席といってもその通路分劇場の内側に位置することになってます。実際に座ってみたところそんなに端っこからスクリーンを窺うような位置でもなくて、しかも通路の壁が片側を遮断してくれて、まるで猫が狭いところに入って寛いでるような気分を味わえる席でもありました。

アリス・イン・ワンダーランド ムービックス京都01

アリス・イン・ワンダーランド ムービックス京都02

アリス・イン・ワンダーランド ムービックス京都03


こういう状態で「アリス・イン・ワンダーランド」を観始めたわけです。でもこれはTwitterでも呟いたことなんですけど、映画が始まって暫くしたら欠伸の欲求に支配され始めて、あれはどのくらいまで進んだ頃からだったのか、マッド・ハッターのお茶会の席にアリスが辿り着くような頃には確実に半睡眠状態になってしまったんですね。わたしは映画館で眠くなるってほとんど経験したことがなかったので、これには自分ながらちょっと吃驚。完全に眠りこけてしまうまでにはいかなかったけれど、眼に力を入れて見開いてないと簡単に瞼が閉じてしまうような状態に陥ったまま映画の最後まで付き合うことになってしまいました。目を見開いてたから映像は確実に網膜に映りこんでいたんだろうと思いますけど、何か意味あるものとしてはほとんど頭の中まで到達してくれることもなく、鑑賞終了。映画を観たという記憶だけはあるものの、何を観てきたのかと振り返ればさっぱり分からないままにムービックス京都を出てくることになりました。

仕方ないなぁと思いながらも、観た映画なのに何を観たかさっぱり分からないっていうのは凄く居心地が悪くて、帰宅する頃にはもう一度観にいってくると決断してました。冒頭に一回目を観たと書いたのはそういう意味で、この後、観たのに観てない内容を確認するために二回目を30日に観にいくことになります。
最初は連休初日の29日に行くつもりだったんですけど、空席がほとんどないという状態なのを知ってその日は断念して30日ということに。二回目は3Dじゃなくて2Dの字幕版を選択してます。
劇場について空席状況を見てみると、前日が満席に近かったのが嘘のように4割ほどの混み具合で空席が目立つ状態でした。
この2D字幕版は本館の第4シアターで上映。3D版上映のスクリーンから見ると明らかに小さいスクリーンです。映画館の形態がシネコンになってから、大画面って云っても以前の映画館に比べると凄く小さい画面という印象があったんですけど、その感覚を久しぶりに蘇らせるような小さなスクリーンでした。
3Dの時と比べると迫力ないなぁと思いながらもあまり混んでない理想的な状況で、何箇所か欠伸に支配されかけたけれど今度は最後まで意味のある映画として鑑賞し終えることが出来ました。二回目を観終わった時の感想は、正直なところ同じ料金を払うなら他の映画を見たほうが良かったかなと、そんな感じだったでしょうか。

ちなみにこれは二回目を2D版にした理由でもあるんですけど、「アリス・イン・ワンダーランド」の3Dはわたしにはあまり必要なものだとは思えませんでした。
ムービックス京都の3D上映方式はXpanD、液晶シャッターのめがねを使う方式で「アバター」の時はほとんど感じなかったんですけど、「アリス・イン・ワンダーランド」の方は3Dだとかなり画面が暗くなります。濃い影が全体を覆いつくしてるような森のシーン、穴を落ちていくところからアンダーランド(この映画は住人側が呼ぶアンダーランドという言い方と幼少のアリスが聞き間違えてワンダーランドと呼んだ言い方の2種類が出てきます)へ出る直前の部屋の、暗いままで続いていくシーンなんかは非常に暗くて観難く、3Dを前提にした明るさの設計がなされてるとは到底思えませんでした。結構色彩感に富んだ映画なのでこういう薄暗くしたような状態で観るのははっきり云って凄く勿体無いです。

映画のほうは最初から3Dで完成させることが決まってたらしいんですが、撮影は通常の2Dカメラで行って、後処理的に3Dに変換させたそうです。そのせいなのかどうか画面の暗さ以外でも立体感はそれほど効果的には現れてないような印象でした。半睡眠状態の人間を揺り動かし、眼を覚まさせるほどの力もなかった立体表現。「アリス・イン・ワンダーランド」の3Dは一言で言うとそういう感じの効果に留まってるようにわたしには思えました。


☆ ☆ ☆

19歳になったある日アリス・キングスレー(ミア・ワシコウスカ)は貴族アスコット家のパーティにいくことになった。社会的な慣習や取り決めを強要されることに馴染めないアリスはパーティに向かう馬車の中で母親にコルセットをつけてこなかっただとか、ストッキングを穿いてこなかっただとか小言を云われてうんざりしていた。
赴いたパーティもアリスにとっては退屈そのもの。でもこのパーティはアリスには知らされていなかったが、アスコット家の息子へイミッシュ・アスコットがアリスに求婚するためのパーティでもあった。
退屈極まりないへイミッシュとダンスをしたりして過ごすうちに、パーティの客全員が見守る中、へイミッシュがアリスに求婚する時がやってくる。美貌はあっという間に衰えるから、ここで貴族からの求婚などという機会があるのなら絶対に受けなければ駄目と姉にも諭されてはいたが、アリスにはこの退屈な男へイミッシュと結婚する気など全く無かった。求婚され返答を促されてアリスは途方にくれてしまった。その時アスコット家の邸内でパーティの間中植え込みの影などで見かけていた白うさぎを発見、アリスはそのうさぎが自分を促すのを見て、求婚の場を放り出して集まったハーティ客を尻目にうさぎの後を追いかけていった。
うさぎは大木のもとにある大きな穴に逃げ込む。後を追ってきたアリスがその穴を覗き込むと穴の一部か崩れて、アリスはその穴に落ちていくことになった。
深い穴を延々と落ちていった先にあったのは小さな扉しかない暗い部屋。アリスはその場にあった体が小さくなる飲み薬や反対に大きくなるケーキを使ってその扉から外の世界に出ることに成功した。
アリスの目の前には奇妙な花が咲き奇妙な動物が走り抜けるアンダーランドが広がっていた。実はアリスは6歳の子供の頃にこの場所にやってきたことがあった。その時は夢の中の場所だと思って怖い夢を見たと父親に話したりしていた場所だった。

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ワンダーランドに降り立ったアリスを迎えたのは、ここまでアリスを誘ってきた白うさぎのほかには、似たような言葉を反復する太った双子トウィードルディーとトウィードルダム、ドードー鳥、ヤマネといった一行だった。
彼らはアリスを見たとたん本物のアリスじゃないと言い出す。アリスはこの世界を自分の夢の世界だと思っていて、自分の夢の中なのに自分が偽者なんてありえないと思う。でも変な夢から覚めようと自分をつねってみるものの白うさぎたちは消えてくれなかった。
賢者の青虫アブソレムなら答えを知ってるかもしれないと、アリスたち一行はアブソレムの元へ行くことにした。
アブソレムはやってきたアリスたちに予言の書オラキュラムを見せる。その預言書にはフラブジャスの日にヴォーパルの剣でアリスが怪物ジャバウォッキーを倒すと書かれていた。
アリスはそれを見てこんなのは自分じゃないと云う。アブソレムの見解も目の前のアリスはほとんどアリスではないというものだった。

アブソレムの元を離れ、偽者アリスだと難癖をつけられながら歩いてると、アンダーランドを統治する赤の女王イラスベスが飼ってる怪物バンダースナッチが突然茂みの中から襲い掛かってきた。赤の女王配下のトランプ兵たちもそれに続き、アリスを残して白うさぎたちを赤の女王の城へ拉致してしまう。その時予言の書も赤の女王の臣下ハートのジャックに取られてしまった。
アリスはその場所からかろうじて逃げ出しタルジイの森に入り込んだところでチェシャ猫に出会った。空間を自在に消えたり現れたりする笑い顔の不思議な猫。チェシャ猫は目の前の女性がアリスだと知るとマッドハッターの元に案内してくれた。

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マッドハッター(ジョニー・デップ)は三月うさぎとバンダースナッチの攻撃を逃れたヤマネとともにお茶会の最中だった。やってきたアリスを見るとヤマネがこいつは偽アリスだというにもかかわらず、マッドハッターは、このアリスは本物のアリスで自分はアリスが戻ってくるのをこうしてお茶会を開いてずっと待っていたと話し出した。
アンダーランドには白の女王ミラーナと赤の女王イラスベスという姉妹の女王がいて、マッドハッターはアンダーランドの統治者である白の女王のお抱え帽子職人だった。、ある日赤の女王はジャバウォッキーを操って白の女王を襲いにきた。その時白の女王はヴォーパルの剣を奪われてそれ以降アンダーランドは赤の女王の恐怖政治に支配されることになった。マッドハッターはジャバウォッキー襲撃の時に多くの仲間を失い、赤の女王への復讐に執念を燃やしていた。
そしてマッドハッターは預言書によるとアリスが怪物バンダースナッチを倒して将来アンダーランドの救世主となるはずだということも知っていたのだった。

一方予言の書を手に入れた赤の女王はフラブジャスの日に救世主としてアリスがジャバウォッキーを倒しに来ると知って、ハートのジャックにアリスを発見し捕まえてくるように命令を出した。
マッドハッターは救世主となるはずのアリスをアンダーランドの真の統治者白の女王の下に送り届けようとするが、その途中でトランプ兵たちに捕まって赤の女王の城に連れ去られてしまう。
その時の難を逃れたアリスは白の女王の元へ向かう前に、捕まってしまったマッドハッターや白うさぎたちを助けるために赤の女王の城に潜入することに決めた。

☆ ☆ ☆

一応この「アリス・イン・ワンダーランド」がルイス・キャロルの書いた「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」から色々とエピソードを抜き出し、合わせて一つの物語にしてるというのは事前に知ってました。でも、少女時代のアリスを主人公にした原作とは大きくはなれてこの映画が少女期をかなり過ぎてしまったアリスの後日譚になってるというのは実はわたしは最近まで知らなかったんですね。映画館に行って始めてこんな映画をやるんだって気づくくらい、あまり最新の映画情報を漁る方でもないし、確かにアリス役であるミア・ワシコウスカがモチーフになったポスターなんかも眼にしましたけど、同じくポスターになってたジョニー・デップのマッドハッターの強烈なコスプレイメージの方が印象に残って、アリスのイメージなんかふっ飛ばしてこの奇怪な人物がこの映画のイメージとして全体を覆いつくしてるような印象をずっと受け続けてきました。

原作の「アリス」を特徴付けているのは、少女という、天使のように美しく、気ままでわがままで、時には世間知に長けてる面を併せ持ちながらも無垢であるような存在、そしてそういう少女期という特殊な時期にこそ宿る、独自の輝きに満ちた聖性とも呼べるようなものだったと思います。男性にとってはこれは元から性別が異なってるわけだから、生きている間に一度たりとも絶対に足を踏み入れることが出来ない、ただ遠くから眺めるしかないような領域であり、女性にとっては誰もが一度はその場所に居たことはあるものの誰一人そこに居続けることは出来ない場所。そういう場所に住む少女という存在とその聖性をルイス・キャロルという感性が見出し拾い上げて作品に取り込めたから、「アリス」は「アリス」という独自のものでいられるんだと思ってます。
だからわたしは少なくとも「アリス」を名乗るくらいならこの少女期の持つ無垢なる聖性といったものを作品の中に何らかの形で秘めてるべきだという考えだったので、この映画が少女期のアリスを扱わずに、後日譚というアレンジにしてしまったということを知った時には正直吃驚しました。

大人になったアリスを扱って「アリス」を名乗る映画を作る?当のアリスでさえも少女期を過ぎると作者ルイス・キャロルにはもうアリスじゃないって見做されてしまったのに。
この映画が「アリス」そのものじゃなくて後日譚であると知った時から、こんな疑問を抱きながら4月の28日に「アリス・イン・ワンダーランド」に向かい合うことになったわけです。

実際に映画を観てみると、後日譚とは云っても20歳をとっくに過ぎて完全に大人になりきったアリスが出てくるということではなくて、主人公アリスは19歳。大人になる直前の女性として登場してきます。さすがに完全な大人になったら、もはやそれはアリスじゃないという判断は出来てたのか、一応少女の残滓みたいなものも多少は引きずってる存在として描かれてました。
映画全体は聖性を持った少女の世界を描くわけでもなく、そういうものとは全然違う、少女の最後期にいるアリスが思春期を通過して大人へと変化していく成長の物語という形をとっていました。
最初、貴族アスコット家のパーティに赴く途上のアリスは自分が本来あろうとする姿と、世間が常識としてアリスに強いる姿の間にギャップを感じてるものの、自分のありたい姿もまた自信なく揺らいだ状態にあるといった、脆弱なアイデンティティの持ち主として登場します。公式な人前に出る時にはコルセットをしてストッキングを穿くように云われてるのに、自分流儀じゃないからコルセットもつけずストッキングも穿かないで馬車に乗ってしまうような女の子。でも頭の上に魚を乗せるのが常識だったら疑問も無くそうするのかと反論はするけれど、パーティに行くのを拒否するかといえばそんなところまでは出来ないでいるような、自分独自の感性に価値は置くものの、確かな自分というものにまだ確信がもてないでいるような女の子とでも言い表せるでしょうか。
そういう人物が見るからに退屈な男に求婚されて拒否したいけれど拒否できないようなジレンマに陥り、そこから逃れるためにうさぎを追いかけてアンダーランドの門を開くことになります。アンダーランドでも最初は偽者アリスだといわれ地上同様に相変わらずアイデンティティは揺らいだまま、唯一アリスと認めてくれたマッド・ハッターにも以前心に持っていた強さを失ってるなんて指摘されるような状態です。でもやがてアリスは赤と白の女王の権力争いに巻き込まれて、予言の書に書かれた本当のアリスの姿、怪物ジャバウォッキーと一騎打ちする戦士アリスへの道を辿ることで本当の自分というものを見出していくことになります。

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映画は全体的に結構舌足らずな描き方になってますけど、要するにアリスの幼少時の象徴というか、心の中の世界そのものであるアンダーランドを舞台に、アリスがアンダーランドによって支配されてる自分の思春期と決別するために、その世界を支配する赤の女王の力を現すものである、おそらくアンダーランドでもっとも強いジャバウォッキーを倒す必要があるということ。この成長の物語はそういう形になってるんだと思います。
戦いは赤と白の女王の権力争いと見せながら、本当はアリスにとってのみ意味のある戦いなんですね。
マッドハッターがフラブジャスの日の終わり頃にアリスに向かって、もうここのことは忘れてしまうだろうと云うのも、アリスはジャバウォッキーを倒すことで思春期そのものであるアンダーランドの世界から完全に決別することが出来て、大人の女性としての道を歩み始めるっていうことをマッドハッターが理解しているからなんでしょう。

アンダーランドの冒険を終えて再び地上の世界に戻ってきたアリスは穴に落ちる前とは見違えるほど決断力がある女性に変貌していて、退屈な貴族の御曹司からの求婚の事を始め、目の前にあった課題に次々と決断を下していくことになります。

ただ自立以後のアリスの展開するヴィジョンはいささか紋切り型で、自立はいいんだけどそういう自立の仕方はあまりしたくないなぁって云う部分も多く、わたしにはそれほど共感できる部分はなかった感じでした。特にアリスが自己実現しすぎたような部分、いつまでも王子様と結婚する夢を追って年老いてしまった叔母様に現実を突きつけるような無慈悲な言葉を投げつけたりするほど、自分が一番正しいと思ってる無神経な女になってしまったようなところなんかは、何だか身も蓋もないある種殺伐とした感じがしてあまり好きじゃなかったです。

☆ ☆ ☆

「アリス・イン・ワンダーランド」はこういう風に子供っぽいアリスの冒険映画かと思ってたら、内容的には意外にもフェミニズムっぽい内容の映画でした。
その自己実現の様子は映画の中心となってるアンダーランドでの冒険で語られるわけですが、それではそういうテーマを乗せて展開していったストーリーとはどんな具合だったかというと、簡単に言えば上に書いたことで分かるように極めてオーソドックスなドラゴン(ジャバウォッキー)退治のお話。まるでドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったロール・プレイング・ゲームそのもので、お話としてはかなり単純でありきたりな内容のものでした。しかもロール・プレイング・ゲームとしても難易度はかなり低めのほうというか、たとえば赤の女王の城で白うさぎに出会いヴォーパルの剣の在り処を訊いてみると簡単に教えてくれたりと、謎らしい謎もほとんどありません。
さらに物語の全体は、おそらく子供も見るということを考慮したのか、様々に伏線を張り巡らせて、物語を複雑に組み立てていくという形はとらずに、赤の女王につかまったりそこから逃げ出したりするエピソードが、特に大きな危険にも出会わずに淡々と並べられ続いていくというような、登場人物が色々動き回ってる割には起伏に乏しいお話という感じでした。
とにかくこの映画、思春期のアリスだとか、成長物語だとか、テーマがどうのこうのという前にまず物語が弱すぎます。

そしてこのオーソドックスな物語から、さらに物語の勢いとでも云ったものを削いでいく働きをしていたのがアンダーランドに迷い込んで直ぐに見せられることになる予言の書の存在です。予言の書はアンダーランドで起こるすべてのことがアンダーランドの始まりの時から記されている書物で、もちろんアリスがアンダーランドで行うこともあらかじめすべて記されています。当然アリスが戦士になってフラブジャスの日に戦うことも既に決まったこととして書かれているわけです。恐ろしげな怪物と戦うなんて、そんなことできるわけが無いと思って逡巡してるアリスに賢者の芋虫アブソレムはヴォーパルの剣さえ持っていれば立ったままでも剣が勝手に戦ってくれるとさえ云ってしまいます。
この予言の書があるせいで「アリス・イン・ワンダーランド」の物語全体が予定調和的なものになってしまってます。こんなものを仕込んで、映画の中で色々起こる出来事のすべては既に決定されているというのならば、危機的な状況に陥っても結局は何らかの形で回避していける、全部予測可能な世界の出来事だろうという印象を与えてしまいかねません。これではどうなっていくんだろうと興味を繋いでいくこともはらはらもドキドキもしないです。
まず最初にアリスが自己実現を果たした真の姿を見せておく必要があったからでしょうけど、わたしにはほとんど始まりの地点でこれを見せてしまうのはあまり上手い方法じゃなかったような気がしました。

「アリス・イン・ワンダーランド」は平凡な骨格のうえに組み上げられた予定調和的で平板な物語。これが観終わってわたしが抱いた印象です。何だか一回目に鑑賞した時に半睡眠状態になったことへの言い訳みたいになってますけど、物語に関しては特にここが凄いっていうようなところがほとんど無いような感じで観終えてしまいました。
わたしだけの事情かもしれないですけど、こういう温度の低い係わり合いになってしまったのは、冒頭の貴族のパーティのシーンでアリスが抱いた退屈さをわたしも共有してしまって、それ以後のシーンでもその気分を引きずってしまったということもあるかもしれないです。退屈さを強調するようなシーンは映画の最初に持ってくるような類のものでもなかったような気がします。

同じ3D映画で先行したというだけでちょっと連想してみたんですけど、たとえばエンタテインメントの申し子ジェームス・キャメロンなら、こういうゲーム屋のワゴンセールに投売りされてるような陳腐なドラゴン退治の話でも面白く語る術は持ってるんだろうなって思ったりしました。予言の書をつけるというペナルティを課してもキャメロンなら相当なところまで持っていけるんじゃないかって。
結局のところティム・バートンは幻視者ではあるかもしれないけど、キャメロンのようなストーリーテラーではないということなんですね。「アリス・イン・ワンダーランド」は監督のそういう特質が如実に出てしまった映画だったといえるんじゃないかと思います。

☆ ☆ ☆

物語を物語るという点ではそんな体たらくだったんですが、イメージを紡ぎだしていくという面ではそれなりにバートン趣味が出ていたんじゃないかと思います。アンダーランド全体のイメージもそうなんですけど、登場した様々なキャラクターの造形がなかなかユニーク。チェシャ猫、三月うさぎ辺りはCG造形でしたけど、主要登場人物になるうちのアンダーランドの住人である赤と白の女王とマッドハッターの三人、この辺りはかなり面白かったです。アリスを含む地上の人間も目の周りのメイクなど結構凝っていてまるで退廃的な人形のようにやつしてる部分も見受けられ、これもバートンのビジュアル・センスの表れなんでしょうが、目立つという点ではアンダーランドの住人の方が比較できないくらい目立っていました。

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おそらく一番目立ってたのがジョニー・デップが演じたマッドハッターでしょう。宣伝のポスターでもとにかくこの人が目立ってたし。
ジョニー・デップはバートン監督の映画に付き合うのは7作目だとか云うことで、ほとんどバートン映画の顔みたいになってます。よほどバートン監督と親和性があるのか、インタビューではバートン監督からアリス役を依頼されてもやるって云ってました。
ここでのデップはもうほとんどコスプレといってもいいくらいの扮装になってます。衣装着るとかメイクするとか云う段階を越えて、目の大きさとかCGを使って変化させてるようなことまでやってるらしいです。このマッドハッターっていう役は独自の演技でマッドハッターを作り上げてるから当然ジョニー・デップでしか表現できない人物になってはいるんですが、ここまでコスプレしてしまうと、外見上はもうほとんどジョニー・デップであることが関係なくなってます。外見も好きなファンの人にとって見ればこの方向に突っ走って行くジョニー・デップはどう映ってるんでしょうね。
この役ではジョニー・デップはかなり大げさで作為的な演技をしてるんですがそのくらいやらないとこのとんでもない外見に負けてしまうんでしょう。わたしはマッドハッターを処刑する広場で、蜂起しかけた民衆にむけて赤の女王が放ったジャブジャブ鳥を見た時の、マッドハッターの驚きの表情がツボに嵌ってしまって、この大げさな表情は今でもきちんとわたしの頭の中に刻印されてしまってます。
ただ、デップの演技は適切でマッドハッターというキャラクターを上手く造形していたとしてもマッドハッターの設定についてはかなり疑問符がつくようなものに思えました。
映画では唯一アリスを覚えていて、お茶の会を開いてアリスが再びアンダーランドに戻ってくるのを待ち続けた人物。白の女王の帽子職人として仕えていた時に赤の女王の襲撃によって仲間を失い、その復讐を果たせる唯一の人物アリスと再会した後アリスをサポートしていく人物という、物語の進行に深く関わってくる人物なので、きちんと話が通じるようにしてあるんですね。本来は全く意思疎通が出来ないからこその「マッド」なのに。しかも物語の途中で「自分は頭がおかしくなった」とアリスに嘆いて、アリスが昔父親に云われた「優れてる人はみんな頭がおかしい」っていう言葉で慰められるシーンまである。
こんなマッドハッターなんて有り得ないです。
ルイス・キャロルの原作の特質は「少女の聖性」の他にもう一つナンセンスというものがあります。数学者だったキャロルらしく論理を下敷きにしてその論理の関節を外してしまうような文字通りのナンセンスで、面白おかしいだけのギャグのようなものよりも、論理で成り立つ世界の秩序を崩壊させるようなはるかに強いパワーを持ったナンセンスさといえるようなものです。わたしは「アリス」といえばこの常軌を逸したナンセンスさがかなり好きなんですけど、この映画「アリス・イン・ワンダーランド」では物語の進行上話がまともに通じるようになってしまったマッドハッターと云うあり方が代表してるように、こういう「アリス」を特色付けていたナンセンスが完全に影を潜めてしまうことになってしまいました。
考えてみれば原作「アリス」を特徴付けてる「少女の聖性」も「ナンセンス」もこの映画の中には見当たらないことになって、やっぱりこれは本当にアリスを名乗れる映画なのか?なんて思ってしまいます。

ヘレナ・ボナム=カーターが演じた赤の女王イラスベスも印象は強烈で、異様さではジョニー・デップのマッドハッターにも決して負けてはいませんでした。

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まともに立って歩けるのが不思議なくらい巨大な頭と、真っ白に塗った顔についてるワイパーがふき取った後みたいな形の水色のアイシャドウと唇の形なんか丸っきり無視してハートに模られた口紅。巨大頭に関しては日頃頭のサイズが大きくて被れる帽子が無いとか悩んでる人が見たら、同類がいると安心するよりも自分のウィークポイントを見事に突かれたような暗澹たる思いになりそうな造形になってます。
でも始めて画面に登場して、従者の蛙が並んでる中からおやつのタルトを盗み食いした蛙を見つけるや否やためらいも無く「首を刎ねよ!」と叫ぶ姿はとても衝撃的なんですけど、暫く眺めてるうちにその衝撃力は急速に衰えて、この赤の女王の外観は割りと早く飽きてきてしまうんですね。でか頭で出てきては事あるごとに同じような調子でエキセントリックに「首を刎ねよ!」って云ってるだけのワンパターンな印象に修練していってしまう。異様さではマッドハッターに匹敵しても、衝撃的な印象が持続しないという点ではマッドハッターに何歩か譲ってしまうようなところがありました。
劇中では赤の女王は悪役を割り振られてますが、典型的な根っからの悪人という描き方はされてませんでした。何かといえば首を刎ねたがるという描写に終始してるところはあるんですが、実際に恐怖政治を敷いてる具体的な場面はあまりなく、体の大きくなるアッペルクーヘンを食べ過ぎて巨大化してしまったアリスを大きいからという理由で簡単に受け入れてしまうような優しい描写のほうがメインになってたりします。大きな頭にコンプレックスを持っていて、体の一部あるいは全部が巨大化した者に対しては凄く優しいという面も持ってるように描かれてるんですね。
赤の女王イラスベスは、頭が大きいという異形のせいで満足に愛情を得られなかったから、愛されないくらいならまだ憎まれるほうがいい、憎しみであってもその感情で人が関わってくれるなら愛されないで忘れ去られてるよりもずっといいという風に考える人物として登場していて、一応ヒールとして登場はしてるし主人公のアリスと最後には対決する人物でもあるんですが、でか頭に生まれて無かったら、アリスに見せた親しみのように本当は善人だったのかもしれないというようなニュアンスも含めてちょっとだけ複雑な性格付けをされてるようにわたしには思えました。

アン・ハザウェイが演じた白の女王ミラーナは見た目はこの中では一番おとなしいんですが、でも白の女王なのに妙に黒っぽい口紅をさしていたりしてどことなく異物感があるような雰囲気はきちんと備えてました。

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歩いたりする時のひらひらと動かす手の表情がこれまた異様。赤の女王のような見た目の異様さは少ないけどその分内在する異様さといったものを有してるような感じです。
劇中では悪である赤の女王に対抗する善の役割で登場してますが、赤の女王が単純な悪ではなかったように、白の女王ミラーナも単純な善としては描写されてません。
わたしは生き物は絶対に殺さないといいながら、怪物ジャバウォッキーとの戦いをアリスに押し付けて自分は手を出さない位置に収まっていようとするし、アッペルクーヘンを食べ過ぎて巨大化したままのアリスを元のサイズに戻すための薬を調合してる最中に微笑みながら唾を吐き入れるし、最後の裁定では殺生しないという自分の信条に反するという理由で、孤独を強いるある意味一番無慈悲な決断を下すし、みかけは大人しそうに見えて結構一筋縄でいかないようなかなり腹黒い印象で描かれてます。

女王姉妹にはこういう風に表面的な役割とは正反対の性格をそれぞれ割り振っていて、それで人間の描写が深くなったとしたいのかもしれないですけど、でもどちらかというとわたしには対立するものを入れておけば複雑化するって云うような単純な発想によってるとしか思えませんでした。特に赤の女王が最後は哀れみまで感じさせるほど悪役の位置からぶれてしまってるのは、物語の輪郭までぶれさせてしまってるような気がしました。
結局本当は善であるかもしれない悪と本当は腹黒いかもしれない善が戦うお話で、複雑に見えても結構単純で図式的。わたしはこういう図式のものよりも輪郭のはっきりした極悪と腹黒の戦いの方が見ていて面白かったんじゃないかと思います。

ミア・ワシコウスカが演じたアリスは、19歳という中途半端な年齢を上手く表わしてたと思います。ただ終始眉間にしわ寄せて、しかめっ面をしてるようなイメージがあったのがもう一つでした。最後の剣士になった時の甲冑姿のアリスが巻き毛をなびかせて凄くかっこよかったです。ジャンヌ・ダルクみたいなイメージっていうのか、ちょっと倒錯気味の美しさがあって、ひょっとしてこの姿を画面に出したいからこんなドラゴン退治の話にしたのかなと思ってしまうくらい見栄えがしてました。

☆ ☆ ☆

わたしはティム・バートンの映画といえば細部の表現は凝っているものの全体は冗長っていう印象を受けることが多いです。そういう意味ではこの「アリス・イン・ワンダーランド」もアンダーランドの世界構築、キャラクターのデザイン、衣装など、そういう部分は凄く凝ってるのに、お話は単純で一本調子という、まさしくティム・バートンの映画にわたしが感じるものを備えていたように思えます。ここに出てくるアリスのように世の中とは少し異なった感受性を持ってるために世間からのはぐれ者になってしまったというようなタイプのキャラクターもバートン映画にはよく見られて、そういう逸脱した者に対する共感といったことが映画の中に垣間見えるのもバートンらしいということなんでしょう。
でも映画館を出てわたしが感じてたのは、バートン映画としてはいいのかもしれないけど、アリスとしては違和感があったなぁっていうこと。アリスはやっぱり成長物語なんていうものを盛り付ける器には使って欲しくなかったって云うことでした。
ティム・バートンはオリジナル・アリスは変わったキャラクターが出てきてアリスが一々驚いたり不思議がったりするだけの、ストーリー性を欠いたお話だと云ってるようですが、わたしは妙なストーリーをくっつけるくらいなら、そういうアリスをお得意のダークワールド満載で見せて欲しかったと思います。



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アリスパンフ

今回もパンフレットを買いました。700円だったかな。これも「アバター」のパンフレット同様に紙質はいいし読むところもそれなりにあるので、値段の割には出来がいいパンフレットだと思います。写真も多いけどこれは宣伝とかポスターに使ってた観たことがあるものが多かったです。わたしはこの映画、衣装デザインが結構気に入ったんですけど、パンフレットにはこのデザインスケッチも数点掲載されてます。小さい絵だし数も少ないのが難点ですが、このパンフレットの中ではわたしはこれが意外に興味深かったです。

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Alice in Wonderland - New Official Full Trailer (HQ)



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原題 Alice in Wonderland
監督 ティム・バートン
公開 2010年



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【洋画】 岸辺のふたり -音楽の言葉で綴るー

今回はちょっと趣向を変えてアニメ映画を取り上げてみます。いわゆる「アート・アニメーション」の類に入るものだと思うんですけど、「岸辺のふたり」というタイトルの短編です。
小船に乗って旅立ってしまった父親を岸辺で待ち続けた少女の一生を、たった8分という短い時間のなかに封じ込め表現しきったアニメーション映画。「岸辺のふたり」には「8分間の永遠」というキャッチフレーズがついてるんですが、それがまたこの映画の雰囲気を良く表してるようで、キャッチフレーズとしてはなかなか上手いです。
この短編アニメを作り上げたのは映像作家マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット(Michael Dudok de Wit)という人です。何だか耳に馴染みのない響きを持った名前の監督さんですが、どうやらオランダの人らしいです。
1953年生まれで、いくつか学校を渡り歩くなか、スイスのジュネーブでエッチングを、またイギリスでアニメーションを学んで、最終的には1978年にイギリスのウエストスーリ・カレッジ・オブ・アートを卒業してます。その後バルセロナでフリーランスで活動した後ロンドンに移り住み、コマーシャルの製作などに従事。
映像作家としての代表的な作品はこの「岸辺のふたり」以外では1992年 「掃除屋トム」1994年 「お坊さんと魚」2006年 「The Aroma of Tea」などがあります。
「岸辺のふたり」はDVDでその存在が広く認知され、その後劇場で観たいというリクエストが多く寄せられたために実際に大スクリーンで上映されることになります。「掃除屋トム」と「お坊さんと魚」が併映だったそうですが、8分のアニメが、何か他の長編映画の併映として上映されたのではなく、メインのものとして上映されたのはこれが世界で始めて、DVD発売後にロードショーを行った映画も極めてまれな出来事だったそうです。
ちなみに新宿武蔵野館では去年までモーニングロードショーとして1年間期間限定で「岸辺のふたり」を連続上映していたらしいです。

岸辺のふたり


わたしは「アート・アニメーション」といったカテゴリーに入ってくるようなアニメーションは結構観るのが好きなほうだったりします。数をこなして観て来たわけでもないんですけど、興味を惹かれれば普通の映画と同じように割りと積極的に観たりしてます。でもアート・アニメーション」系の映画って、特に短編なんかは、表現形式の実験的な拡張だとか、絵画的な表現に手の込んだアプローチをしてるようなものだとか、あるいは具体的な物語よりも動きの面白さに特化させてるようなものといった、ストーリーラインに沿って進む通常の映画的な文法からちょっと外れたところに立ってるようなものが多いという印象なので、結構楽しんで観てる割にはどこか少し身構えるような感じでも観てしまいがちになります。

でもこの「岸辺のふたり」に関しては、そういう身構えて見るという感じにはほとんどなりませんでした。
寓意に満ちてはいるけれど、視覚的に現れている形はシンプルで非常に分かりやすいというのがまず最初の印象で、シンプルさに導かれてそのままこの世界に馴染んで入っていけます。実は少女の一生を8分に収めるための手際は結構見事なものだったりするんですけど、そういう表現手段の特異さをあえて対象化して見せようとはしてないからあまり意識に引っかかってくることはありません。
「岸辺のふたり」はそういう凝ってはいるけれど、凝っていることをこれ見よがしに見せない分かりやすい語り口で「人を慕う想い」を伝えようとしたところが、多くの人の共感を呼んだんじゃないかと思います。
ちなみにこの映画はそういう共感に裏打ちされて2001年の米国アカデミー賞短編アニメーション部門、2001年の英国アカデミー賞短編アニメーション賞、2002年の広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ、観客賞などを受賞しています。

☆ ☆ ☆

いつもならこの辺でどんなお話なのかあらすじでも書いておくところなんですが、この短編アニメ「岸辺のふたり」ではそういうことができません。というのもこの映画に関しては物語的に捉えることが出来るようなものが劇的空間のなかにほとんど存在してないからなんですね。複数の登場人物がいてそれぞれが動き回ることでエピソードが生まれ、こまごまとしたエピソードが複雑な伏線で絡まりあいながら起承転結を重ねていくような、普通の映画だとあって当たり前のような物語がここでは見出すことが出来ません。
そういうストーリーが存在しない代わりにここにあるのは、キーワード的な単語を使って云うなら「反復と差異(ジル・ドゥルーズの超難解な思想書の題名から反転させてちょっと拝借!)」といったようなものです。「岸辺のふたり」は物語的な要素にはほとんど目もくれないで、その「反復と差異」とでも言い表せるような構造を使って、時間の流れの中で変容していく少女の姿と、それでも変わらない父への思慕を端的に描き、絶えることのない「人を慕う想い」という感情を、観ている側に鮮烈な形を持ったものとして呼び起こそうとします。

映画は父が小船に乗って去っていったのを見送った少女が、その後もこの岸辺に自転車に乗ってやってきては、父が去っていった彼方を眺めて再び帰路につくという光景を繰り返し描写していきます。少女の様子は岸辺にやってくるたびに変化し、描写を重ねていくうちに少女から大人へと姿を変えていきます。少女の変化に対して画面構成は季節的な変化はあるものの基本的に岸辺の並木道のふもとという構成からは離れていきません。
全体の構想が少女が父と別れた岸辺に再びやってくるシーンの繰り返しであるために、そこへ訪れてくるたびに見せる少女の変化が際立って見えてくることになります。少女の一生という変化を短期間の中で見せるには、表現としては思い切っているもののこれはおそらく最適の方法だったんじゃないかと思います。
こういう「反復」することを効果的に使った表現方法は、他の分野ではどうかというと、たとえば小説などを思い浮かべてみてもほとんど使われてないんじゃないかと思います。小説は短編であって、それがたとえ生活のほんの一部分を切り出したようなものでも、よほどの実験的な作品でない限り物語性を放棄するようなことはしないはずです。小さな小さな日常の一齣でもそれなりに起承転結があって出来上がってる。これはおそらく映画という同じジャンルで見ても、実写の短編映画の場合も同じことだと思います。そういう意味でこの短編アニメはアニメーションでしか表せない世界を適切に表現することが出来た、アニメーションであることに必然性を持っていたアニメだったと云えるかもしれません。

少し話が外れるかもしれないけど、わたしが最初にこのアニメーションを観たときに連想したのは、実は小説や他の実写映画やアニメーションではなくて、分野としては一番離れてるかもしれない「音楽」でした。
連想した音楽は現代音楽の作曲家スティーヴ・ライヒが作った「18人の音楽家のための音楽」。
もちろん「岸辺のふたり」にはサウンドトラックとして「ドナウ川のさざなみ」をモチーフにした音楽がきちんと使われていて、これはこの短編アニメに極めてマッチしてると思ってるので、サウンドトラックにライヒの音楽を使った方が「岸辺のふたり」のイメージ的には良かったという意味じゃなく、作品を成り立たせてる基本の部分でライヒの作品は構造的によく似てるんじゃないかという意味で連想しました。
「18人の音楽家のための音楽」はものすごく簡単に云うと、いわゆるミニマル・ミュージックと呼ばれるカテゴリに属する音楽で、短いシンプルなフレーズが延々と繰り返されていくなかで、そのフレーズがゆらぎ、干渉しあううちに、少しずつ変化していく部分が浮かび上がってくるという、まさしく「反復と差異」を先鋭的に具体化したような感じの曲です。わたしには「岸辺のふたり」が見せる場面の構成がこの曲と凄く近い場所に居るもののように思えました。
考えてみれば「反復と差異」って音楽の基本構造でもあります。だからその音楽的な「反復と差異」で成り立ってる「岸辺のふたり」は、映画であるから鑑賞すれば映画的な内容を伝えては来るにしても、映画であるにもかかわらず映画から派生してくるものよりも音楽から派生してくるようなものを根本に持ってる特異なアニメーション、音楽の言葉で綴られたアニメーションのようにわたしには思えました。
「岸辺のふたり」は少女の一生を8分に凝縮する、ある意味時間の表現に特化する他ないアニメなので、時間そのものでもある音楽と繋がりあうのはとても自然なことだったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

「岸辺のふたり」の絵はペンシルとチャコールを使って仕上げられています。全体はまるで水彩画のようなタッチで描かれていて、どこか素朴で暖かい手触りのある絵といった感じになってます。
でも優しいタッチの絵ではあるけど、優しく穏やかなだけの絵かというと、彩度を落とした色調のせいなのか、コントラストのきつい影が落ちてくるような、あるいはほとんど影絵とでもいえそうな描画スタイルのせいなのか、わたしにはどこか少女が抱え込んでしまった孤独を投影するような絵にもみえる時がありました。このアニメが展開するイメージは穏やかな水彩風の外見なので一見シンプルに見えるようですけど、少女のその時々の心のありようを言葉ではなくて画面に登場する風景や、事物で語りきろうとする、思いのほか含みの多い絵であったと思います。

またアニメなら当然動きの表現となるんですけど、「岸辺のふたり」のアニメーションは、全体が静的な水彩画風の雰囲気の割りにはよく動いてるように見えました。車輪の回転、前後しながら走る、あるいは追い抜いていく自転車、風に揺らぐ木の枝などから始まって父と娘がシーンごとに見せるさまざまな仕草まで、実に丁寧に動きがつけられてます。特に鳥が群れで飛び立つ動きの秀逸なこと。「岸辺のふたり」は「動くものを観ることの快楽」といったアニメの本来的なものを呼び起こすポイントにおいても、とても上手く出来上がってるように思えます。
固有の物語を生成させないためにだと思うけど、この父と娘のふたりが画面に登場する時には、バストショットは皆無で表情も描かれず、台詞も一切ありません。でもそんな登場人物の様子でも、動きの表現が多彩で洗練されてるから、この父と娘の存在は凄く表情豊かに生き生きと表現されてるんですね。動きだけを拠り所にして、その場面場面で移ろい行く情感まで伝えてくるように腐心しているところが「岸辺のふたり」のアニメーションには確かにあります。なんだかわたしは俳優の顔芸に頼りきってバストショットばかりの狭苦しい画面になってるような実写映画にちょっと見習って欲しいと思ったりしました。ちなみにわたしが好きなシーンはお父さんが小船に乗りかけてまた思い直し、娘のところに戻って娘を抱き上げるところ。何だか抱き上げ、抱きしめる動作に万感の想いが込められてるようで、お父さんの気持ちが思いのほか伝わってきます。
動きに関してはもう一つ、たとえば風に乗って自転車が猛スピードで去っていくようなちょっとユーモラスな場面もいろいろと用意してあって、結構重い話と上手くバランスを取ろうとしてるようにみえるところもいいなぁって思いました。重い話だからといってここぞとばかりに深刻な語り口にするだけがいいとは限らないって事です。

☆ ☆ ☆

わたしはこの映画を観て、「岸辺のふたり」は観る人の心の有り様によっては随分と印象が異なってくる映画になるだろうなというようなことを思いました。ある意味自分を写す鏡のように働く映画といった感じでしょうか。
キャッチフレーズの「8分間の永遠」になぞらえて云うなら、人は永遠ではありえないことを現実の感覚として知ってしまった人は、この短編アニメーションが最後に用意してるヴィジョンにたどり着いた時、思いのほか心を揺り動かされてるんじゃないかと思います。そのことがまだ観念的な領域に留まっていて、現実の側面として目の前に現れてきてない人は「岸辺のふたり」を観ても、何だか繰り返しの多いわりに起伏に乏しい、退屈なアニメとしか目に映らない可能性が高いです。
あるいは、寺山修司じゃないけれど「さよならだけが人生」だと、生きることは失うことの総和にしか過ぎないんだと思い定めてしまったような人には、この「岸辺のふたり」というささやかなアニメーションはそういうニヒリズムに対抗するある種の救いのようなものとして姿を現してくるかもしれませんね。


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原題 Father And Daugther
監督 マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット(Michael Dudok de Wit)
製作年 2000年

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Father And Daugther

Steve Reich • Music for 18 Musicians CD Trailer


「岸辺のふたり」とは直接関係ないけど、一応参考までに。こういう曲です。

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岸辺のふたり [DVD]岸辺のふたり [DVD]
(2003/06/04)
不明

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「岸辺のふたり」のDVDです。現在は廃盤。ただこのDVDは、「岸辺のふたり」一本しか収録されてません。
たとえ廃盤でなくても8分のアニメが入ってるだけのDVDを買えるかどうかはかなり決断が要るんじゃないかと思います。他の作品とあわせて作品集のような形でリリースして欲しいところです。

岸辺のふたり―Father and Daughter岸辺のふたり―Father and Daughter
(2003/03)
マイケル・デュドク ドゥ・ヴィット

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マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット監督は自作のこの短編アニメを自分で絵本にしてます。わたしは読んでないの内容まではどんな出来になってるかは分からないんですが、一応こういう展開もしてるということで。



スティーヴ・ライヒ/18人の音楽家のための音楽スティーヴ・ライヒ/18人の音楽家のための音楽
(2008/10/08)
ライヒ(スティーヴ)

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ミニマル・ミュージックの代表作。一種のトランス・ミュージックでもあります。波紋が拡がるように拡散していく音の波に浸りきってると自我の境界面が溶け出していくような感覚に陥っていきます。
リリースされてるCDにはいくつか種類があるようですが、私はこのバージョンをLPで持ってたので。まずなによりもこのジャケットが好きなんですよね。


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最後まで読んでいただき、有難うございました。