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青い光

テニスコートの隅で





点と線





犬と橋






草木の地






陸橋を潜る

2015 / 04 山科
Nikon FM3A / Konica Big mini F / Fuji Tiara
Fuji Provia100 / Kodak SuperGold 400 / Fuji C200

2015年、桜を撮りに春の山科疎水の辺りを歩いていた頃に撮った写真。去年の夏大津へ行くのにJRの山科駅を通過する時、電車はこの小高いところを流れる疎水の縁と展望台の一部が見える山裾を回り込むように通って、そのたびにそういえば最近ここへは降りてないなぁと思ってた。それにしても撮ってからしばらく経ってるのに写真を見ればこの辺りを歩いていたのがまるで昨日のことのような思い出せる。こういうのは小難しいことを考えて撮ろうがどうしようが、やっぱり写真の大きな効用のひとつだろう。今回はどうやって纏めようか思いつかずに放置していた写真を集めてみた。最初の写真は撮った時からこの色合いで頭の中にインプットされた写真だった。一応今回の代表としてこの写真から青い光なんてタイトルにしてみたけど、これは青じゃないといえば青でもない微妙な色だなぁ。ましてや光じゃなくて壁の色だろうなんていうことは口が裂けても云わない。光といえば最近ソニーのデジカメのCMでネイチャーフォトグラファーとか云う人が出てきてやたらと光がどうしたこうしたとかっこつけてカメラ構えてる姿を背景にして云ってるのを見たけど、写真撮ってる人がこういうことを云ってしまうのは傍から見て陳腐だなぁと思った。写真撮っていればそんなことは当たり前のことなのに、当たり前のことをいかにもドラマチックに大層に云うのはどちらかと言うとかっこ悪い、とこれは自分に向けての感想でもあったりする。二枚目のはこれはちょっと極端かと思って出しそびれていたもの。でも極端化と曖昧化は表現の有力な手法だと信じてる。私事であまり自分の時間が取れない、しかもストレスかかり放題の環境になってしまって、時間の隙間を作ってはたまにカメラ持って出かけても気分的に写真を撮れなくなりつつある。そのうえ撮影行為には迷いばかりが増大してそういう気分を増幅しようとしてくる。時間のほうは仕方ないにしてもこういう時は立ち戻るべき写真といったものが、色々な外圧がその陰のうちに隠してしまおうとするもの、忘れそうになってる何かをもう一度手元に呼び起こす役に立つんじゃないかと思う。そういうものを自分の捉われてしまった枠組みを外れて自分が影響を受けた外部の写真に求めるなら、自分にとっては今だとスティーブン・ショア辺りか。ローライ35を片手にアメリカを広く旅して、目についたもの建物ウィンドウディスプレイテレビ地平線ホテルでの食事汚れた便器出会った人などをとにかくひたすらに撮り続けて纏めたAmerican Surfaces。コダックの現像袋を模したカバーに入れてあるというギミックも楽しいこの写真集が砂漠に染み入る水のようにわたしの皮膚を通して今のわたしに親和性を呼び起こしてくる。ローライ35という、云ってみるなら写りのいいお手軽コンパクトカメラで手当たり次第に、でもそういうことをやること自体がコンセプチュアルな行為ではあるんだけど、それでも見たものをとにかく切り取っていく撮影行為は小難しいことを考えがちな時には引き返してくる道をいつも暗示してくれるように思う。ただいつも書いてることだけど、どんな撮影行為をとるにしても最終的には美しい写真として完結させること、それはポップアートやサイケデリックなどを横断した眼にはたとえ退屈さや奇矯なものに積極的に裏打ちされてはいても明確な美意識として存在するものなんだけど、American Surfacesは、あるいはスティーブン・ショアの写真はこういう部分をいつもきっちりと足固めしてるような写真として眼に映る。ただそのことによって自分にとってはスティーブン・ショアの写真は立ち戻るべき写真の姿の一つでありながら回りは登り難い壁で固められてるような印象ではある。








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廃屋のマリオ + WIM WENDERS Journey to Onomichi

廃屋のマリオ
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





地下通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Acros 100


去年山科で撮っていた写真から。
最初のマリオは潰れたゲーセンの窓から見えたもので、がらんとした空虚な空間の中に、何の筐体なのかよく分からないけどマリオの人形がついてるものが置かれていた。でもこの撮り方だと、時間だけが降り積もってるような空虚な感じはまるで出てないなぁ。
全体にガラス窓やガラス扉で閉ざされ、わたしのいる空間から隔絶されて、それでもガラス越しにかろうじて様子が窺えるというような状況、到達不可能ななにかが、そのガラスや扉の障壁の向こうにあるという感じ、そんな感覚が好きなんだろうと思う。

先斗町の歌舞練場の入り口から垣間見える、鴨川からの逆光が薄暗い空間を照らしている様子がちょうどそんな感じで、これ一度写真に撮ってみたい。歌舞練場の催し物とかまるで興味ないから場違い感が甚だしいけど。

最後のは山科の駅のトンネル状の通路なんだけど、こういうイメージはよくあるなぁと思いながらも撮ってしまったもの。かなりベタなイメージの写真。ベタでも自分が納得するために撮ってみたかった。

FM3Aは夏が始まる少し前にアクロス100のフィルムを入れたまま、夏の間は放置状態。モノクロのフィルムは自分で現像を始めてから、お金出して現像を頼むのも何だか馬鹿らしくなってるんだけど、夏の間はダークバッグの中でフィルムをリールに巻き取るのも、手が出す湿気でフィルムが上手く巻けなくなることがあるし、現像液の温度の管理も大変なので、自分で現像するのもどうも気が進まない。お金払って現像してもらうのも、自分で現像するのも躊躇うとなると、結局このFM3Aに入れたモノクロはなかなか使う気になれないままに一夏越えてしまうこととなった。
季節一つ分モノクロで撮ってなかったから、そろそろこれを持ち出してみるかなぁ。
レンジファインダーだとかコンパクトカメラで撮る写真と一眼レフで撮る写真は随分と撮る態度が違うし、そういう違いが写真にも乗っかってくると思う。

☆ ☆ ☆

そろそろ二週間くらいになるんじゃないかと思う程に、曇りと雨の日日が続いてる。台風が締めくくりになるかと思ったのに、気象庁はまだこの先も曇りと雨の日が続くとつれない予報を出してるし、こうなると室内で写真撮る方向も考えたほうがいいんじゃないかと思ったりもする。

台風がやってくる前日、近所へ買い物に行こうと玄関を出ると、家の前の道路の真ん中に蝶が羽を開いて落ちていた。手を出すとまだ逃げようとするくらいの動きは見せるんだけど、羽は開いたままで動かずよたよたと這い回るのみ、見るからに力尽きようとしているのが分かる。
道路の真ん中だとまず自動車の下敷きになるだろうから、とにかく拾い上げて、近くの植え込みの葉っぱの上に乗せておいた。
買い物から帰ってきて植え込みを見ると乗せたのと同じ場所に留まってる。あぁやっぱりもう動く気力も残っていないんだと思ったけど、これ以上はどうしようもないのでそのままにしておいた。
そして翌日の台風襲来。風はまるできつくなかったけど雨は結構降って、夕方台風が去ってから買い物に出かけようとして、あの蝶はどうなっただろうと思い、乗せておいた場所をみたら、乗せておいた葉っぱの真下の地面、雨水で濡れた場所に広げたままの羽をへばりつかせるようにして落ちていた。
空を飛ぶ羽を持つものが地面に落ちているのをみるのは、たかが蝶だとはいえ痛々しい感じがする。この羽を羽ばたかかせてどういう世界を見てきたんだろうと思う反面、だだっ広い空を一匹で飛び回り、この場合はたまたまわたしが見つけたけれど、誰にも知られずに台風の中濡れた地面に落ちていくことへと収斂していったその孤独にも思いを馳せる。
この世界は随分と無慈悲だと、こんな残酷な世界を作った神様はひょっとしたら三流の神様だったんじゃないかと、朽ち果てていく蝶一匹に、孤独だとかなんだとかなにを大層なという感じだけど、ふとね、そんなことを思った。

台風は今回のは雨台風だったようで、こちらは暴風も吹くことなく何だか腰砕けで通り過ぎていった感じだった。台風の影響は台風そのものじゃなく、台風が去ったあと買い物に行って帰り道の最中に濡れた鉄板の上に足を踏み入れて滑ってしまったこと。何年か前に腕の骨にヒビが入った転倒と同じことをやってしまって、卵も入った買い物袋を派手に放り投げて、しりもちをついた時は、思わず悪態が口からでた。でも一夜明けて今これを書いてる状態では多少筋肉が痛む程度でほぼ影響がなかったようなのでホッとしている。以前に腕の骨にヒビが入った時は5,6時間で痛さのあまり腕が伸ばせないようになったし、一月以上首から攣っていて、首のほうが不快度最大級になっていた。不自由だしあんな体験は二度としたくない。
それにしても足を踏み入れるのが分かってる場所で、すべすべの鉄板なんていう、何であんな摩擦係数の少なくなるものを敷くのかなぁ。使う以前に足場として使用する材料にそもそもあんな素材を選んで作ってること自体が理解しがたい。


☆ ☆ ☆

ヴィム・ヴェンダースの撮った写真の写真集「Journey to Onomichi」

ヴェンダース 尾道1

映画監督の中には写真好きの人がそれなりにいるらしく、中には自分の撮った写真を纏めて写真集という形で世に出している監督さんもいる。
ヴィム・ヴェンダースもその一人。ナスターシャ・キンスキーが出ていた「パリ・テキサス」を撮った監督だ。ヴェンダースの写真集は何冊か出ていて、これは2005年、夫人とともに尾道、直島、鞆の浦などを旅して回った時のスナップ写真を中心に纏められている。
尾道といえば大林宣彦の映画なんかで見るイメージが大きいと思うけど、坂道の街とか、そういうイメージを期待してこの写真集を開いたなら、おそらく間違いなく途方にくれる。なんだこれは?って。
この表紙の写真とか、尾道水道を撮った写真なんかは尾道という言葉で感じるものを想起させるようなところがあるけど、そういう写真はあまり入ってない。ほとんどが何かしらのありふれた被写体がごろんと画面の中に、あるいは無造作に置かれてるように見せかけて、でも背後では周到な構図的配置のもとで画面を作っていると云ったもののほうが多い。道路のコーナーなんかに立ててある丸いミラーや、より合わさってゆるい曲線を描きながら画面の真ん中を降りてゆく一本の木の枝の写真、群れを成す野仏、街中の小さな寺の墓地、道路の曲がり角。
こんなものをこんな風に撮るかという面白さはある。でもその一方で、ヴェンダースは旅の途上で目にした特別なものを写し取っていたと云ってるんだけど、日本人が日常で見ていてそのまま回りの空間に溶け込んでいるものが多く、ヴェンダースが特別なものとして認識したようには、あまり認識できないようにも思う。
「見いだされた物」の写真であるのは確かだろうけど、写真集を眺めていると「見いだされた物」の纏う特殊性はそれほど強調もされていない写真のように見える。これは見慣れすぎた道路のミラーにどう転んでも特殊なオーラがあるようには思えない日本人の感覚と、日本以外に基盤を持つ人物の見る眼との違いなのか、あるいはヴェンダースが垣間見たと思った特殊性を、あえて纏わせないようにして撮ってる結果なのか、どちらなのかはよく分からない。
はっきり云ってあまり媚びないというか、取り付く島がないというか、何気なくこの写真集を開いたらそんな印象を受けると思う。
でも個人的には特殊性で見るものを絡めとろうとするものよりも、情緒や物語性をあまり乗せていかないドライで硬質な写真のほうが好きだったりするところがあるから、ちっとも尾道的じゃないこの写真集も尾道が見当たらないと放り投げることもなく、かと言って見ていて凄く楽しいとか、写真を撮る上で刺激になったとまでは行かなかったんだけど、それなりに関心を持って眺めることが出来た。
ミラーであること、垂れ下がる木の枝であること以外に何も写そうとしてない写真はある意味謎めいている。

ちなみにこの写真集の中で一番好きなのはこの下の喫茶店の、奇妙なソファを撮った写真だ。この写真集の中、尾道的な写真以外で、その特殊性が分かりやすい写真だと思わせる写真じゃないかと思う。




ヴェンダース 尾道3




ヴェンダース 尾道4









流通しているものが途切れると、写真集の場合は一気に値上がりする感じだなぁ。わたしがこの写真集を買った時は、よく憶えていないけど確か2000円を少しオーバーするくらいだったんじゃなかったかな。結構売れていた写真集でも、流通在庫が無くなればそれで終わり。まず再版もされないし、流通している時に買い逃すと、写真集は適切な価格では本当に手に入れにくくなる。
ヴェンダースの写真集はもう一冊欲しいのがあるんだけど、こっちは買い逃してしまって今は古書が高値止まりになってる。



影と遊ぶ

波板でダンス
2015 / 10 / Nikon F3 / PRESTO 400を自家現像





白い扉
2015 / 06 / Nikon FM3A / LOMO ColorNegative 100





足元で踊る光
2015 / 04 / Konica Bigmini F / Kodak SuperGold 400





水草と光
2015 / 10 / Fuji Natura Classica / Natura 1600



影と遊ぶといっても、何もこの写真だけ特別な態度で撮ったというわけでもなく、写真撮ることは大抵影と遊んでるようなものだと思うし、まぁなにかを云ってるようで実のところ何も云ってないに等しいタイトルではある。何か云ってるようで実のところ何も云ってないというのは、影がどうのこうのという前にわたしの撮ってるような写真には相応しい有り様かも知れない。
なにしろ写真を使って何かを云う、なんていうのよりも、写真そのものがただひたすらにそこにあるだけというような存在の写真、そういうのが理想なんじゃないかと思う時があるくらいだから。
意味という外在する要素で補強され、テーマや意図を伝えるための手段と化した存在ではなくて、意味があるとすればそれが写真であるということだけという、写真としてだけで自立してるような写真。読み取る世界の断片の一つであると同時に読み取られる世界そのものである写真。実際にそんなのが撮れるのかどうかは別にして、何だかこういうことに関して思いをめぐらすのは思いのほか楽しい。

全部去年に撮ってブログで披露しなかった写真だ。それにしても気が多いというか、全部違うカメラで撮ってる。
レンズの味がどうのこうのと、そんな意味合いでもなく、大体レンズの味の区別なんかそんなにつけられるほうでもないし、色々カメラを代えて使ってるのは使い勝手の差といったものや気分転換といったものによるところが大半だったりする。名前は聞くけど使ったことがないという道具がそんなに高価でもない形で目の前に現れれば、好奇心で手を出してみるし、そんなことをしてる間に手元にカメラが集まってきてしまったという感じ。だから数だけは増えていくのに、トイカメラ好きや、写真は写ルンですでも撮れるという考えも相まって、歴史的で高級なカメラとか面白いほど集まってこない。有名な高級カメラというなら父から譲ってもらったハッセルブラッドと、ライカだったら本体じゃなくレンズで、レオタックスにつけて使ってるズミタールを持ってるくらいか。ハッセルブラッドのほうはどうにも正方形フレームが馴染めないし、ズミタールは随分と線の細い繊細な描写をすると思い、使うと凄い楽しいんだけど、特にこれがどうしても使いたいというほど執心してるわけでもない。
そういえば以前、父が昔丹平に所属して写真撮ってたので、知り合いのなかで使わないからライカあげるとか云う人はいないのかと聞いてみたことがあったけど、そんな人いるわけないとつれない返事が返ってきただけだった。


奇譚 + Beach House - Zebra

歪なソファ
湾曲について思考するソファ
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





カリガリ博士の窓
カリガリ博士の部屋
2015 / 10 /Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





逢魔ヶ時
奇譚
2015 / 08 / Ultra Wide & Slim + Ultra-Wide Lens 22mm / Lomo ColorNegative 100


歪なもの、逸脱するものについて視覚を巡らすこと。
特異な何かを見出すと写真を撮ってみたくなる。あまりあからさまに特異というのは、分かりやす過ぎて多少興醒めすることもあるんだけど、写真にすることで見出されそうな何かという形なら、特にこれは風変わりな被写体だ!とも意識しないままにレンズを向けていることがある。
でも本当のところは、こういう対象の特異性に頼って写真を撮らないほうが良いという意識、というか「撮らない!」なんていう、そんなに禁欲的な気分というよりも、対象の特徴に頼らない写真を撮ってみたいという願望もあって、カメラを持って出歩いてる時は、最近は特にその両極の間で揺れ動いてる感じがする。ひょっとしたら今年の春、桜の季節の直後に迷い込んだ山科を歩き回っていた頃からどうも撮りあぐねてるという感覚になってきてるのも、理由はその辺にあるのかもしれないなぁと思ったりする。

まぁ撮りあぐねてるといっても、こうやって面白そうなものがあれば嬉々としてシャッター切ってるわけだけど、特異なものを撮る、風変わりなものを撮るって、多分に写真的には制度化された視線で、わたしの視線、わたしが見るということとは完全に一致しない、なんと云うか他者性のようなものが必ず付きまとってる感じがする。できるならそういう写真的に制度化された視線といったものとは違うところから撮りたいとは思ってるんだけど、なかなか難しいというか、こういうことを考えてるから撮りあぐねるような気分になってくるんだろうなぁ。

お気に入りの写真家の一人、アレック・ソスが普段の大判カメラを離れて、レンズ付きフィルムで写真撮って写真集を出してるのを、最近になって知った。凄い興味がわいて、持ってるカメラだとフジのクリアショットSあたりがフィルム交換できるレンズ付きフィルムといった感じのものだから、これにフィルムを詰めたんだけど、やっぱり本物とは違うんだろうかと思ったので、結局正真正銘のレンズ付きフィルムを買ってしまった。何だかそれなりの決断でもいりそうに書いてるけど、買ったのは「写ルンです1600」で、出費は900円ちょっと。実はこういうカメラは使うのは初めてなので、新しいトイカメラでも手にした気分で結構うきうきしてる。

☆ ☆ ☆

Beach House - Zebra


2000年代に起こったドリームポップと称される音楽の牽引役となったバンドの曲。どっちがバンド名でどっちが曲名なのか一見して分からないけど、Beach Houseのほうがバンドの名前。
この曲は三作目のアルバム「Teen Dream」の一曲目に収録されてる。
中心メンバーはフランス出身のヴィクトリア・ルグランとボルチモア出身のアレックス・スカリーの二人で、ヴィクトリア・ルグランはフランスの作曲家ミシェル・ルグランの姪なんだそうだ。
浮遊感があってちょっとメランコリックなポップソング。
垂れ流しのセンチメンタルじゃなくて、どこかに寄り道してるようなセンチメンタルというか、所々にさりげなく顔を出すそういう部分が耳に残る。


☆ ☆ ☆




一番下の空の写真を撮ったトイカメラ。Vivitarが出したのがオリジナルのような印象だけど、元になったカメラはもっと別のどこか、OEM製品専門の小さな工場で作られて、Vivitarのものも、そのOEMだったかもしれない。
このカメラに関しては、とにかく色を変えたりしただけで同じ形のカメラがいろんなブランドの名前で世に出てきている。今では大半が市場からは消えてしまって、中古市場に出てくるようなカメラでもなく、結果今それなりに容易に手に入るのはこのWide Lens Camera Seriesとして、多色展開してるタイプのもの一種類だけとなってる。といってもこれも既に生産は終了してるようだけど。
ちなみに数年前の京阪のおけいはんポスターで、おけいはんがEximusブランドの黒いボディに赤の差し色が入ってるこのカメラを首にかけて京都を散策していた。
今年の夏。ホルガとともに持ち出していたカメラで、感度100のフィルムを入れてたから、絞り、シャッタースピード固定のトイカメラでは条件がシビア。ちょっと暗いところで撮った写真はそれほど思うような結果にはならないままに終了という形になった。でも撮れないことは無かったからまた感度100のフィルムでトライしてみるかな。
ちなみにわたしはカメラうさぎのホワイトがお気に入りなんだけど、アマゾンでは見つからなかった。














過剰なるものへの考察、夏の陽に滴る魚 + Mars - Helen Fordsdale

過剰であること
過剰なるものへの一考察
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像


実のところ写真は引き算なんていう言葉、本当はそんなに信じてはいない。何しろ混沌としたものが好きだから、そういうものを前にして整理してどうするんだと。
確かに効果的に引き算されてメインの被写体が際立つような撮り方は上手い写真になる可能性は高いと思う。でも上手い写真が必ず良い写真かというと、自分はちょっと即答できないところがある。これはイコールで結ばれるような等式じゃないんじゃないかって。上手くて綺麗で、見た瞬間にわぁ綺麗!って思うんだけど、それだけの写真。意識に引っかかるようなフックが何もないような、綺麗という残像だけ残して通り過ぎていくような写真。そういう写真でも撮れるのは凄いと思うところはあるんだけど、自分が思い描く写真とはやっぱり違う地平に立ってるとしか思えない。でもこういう風に書くと上手く撮れないことへの開き直りのようにも見えるな。
混沌が好きだと云いつつ差し出したこの写真。でもこの写真は混沌じゃない。要素は鉄塔と碍子と電線と、極めて限定的で一緒にあって収まりがいい物の集合だし、そういう意味では最初から選別されてるといってもいいかもしれない。ここにたとえば蝙蝠傘や解剖台が入ってくるような状況は被写体のほうであらかじめ引き算がされてる。撮ったわたしの事情も加えると、密度の違う部分を用意して配置に動きを出そうとしてる。
結局のところ徹底的に無秩序、混沌といったものは撮るのは極めて困難なことなのかもしれないと思う。NO NEW YORKの音楽のような写真とでもいうのかなぁ、そういうのが撮ってみたいと感覚の一部では思ってるんだけど、コントーションズもDNAも結局こちらの地平に戻ってきてしまったし、そういう方向へ歩を進めるのは不毛なのかもしれない。
ところで、こういう変電所のような場所って結構好きなんですよね。碍子の形とか妙に超常的にSFで、なおかつエロチックな曲面の集合体だし、なによりも東宝怪獣映画に出てくるようなイメージなのが最高。



卵が一杯
過剰なるものへのまた別の考察
2015 / 01 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Fuji Natura 1600

巨大な規模でも緻密でもない、貧血のグルスキー。

新京極のスター食堂。子供の頃によく連れて行ってもらったレストラン。以前は隣の寺町にも店があったんだけど、今はこの新京極の店だけとなってる。
これだけ卵料理を並べられると視覚的にももたれてくる感じがする。




夏の陽に滴る魚
夏の陽に滴る魚
2015 / 09 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak Gold 200

思わしくなかった写真の、意味を成さなかった部分の切り出し。



☆ ☆ ☆



Mars - Helen Fordsdale


上の文章でNO NEW YORKなんて書いたものだから、ここから一曲ピックアップ。
わたしはこのコンピレーション・アルバムのなかではコントーションズとDNA命だったんだけど、Marsもなかなかかっこいい。
これ、78年頃のリリースで、収録されたバンドの実際の活動は70年代の中頃からとすると、ゆうに40年近く経ってしまってる。近年来日したジェームス・チャンスなんかチャンス翁なんて書かれてる始末だし、このMarsでもメンバーの二人が既に亡くなってる。
時の流れは容赦ないんだけど、音のほうはそんなすべてを腐食させていくような時間の暴力もなんのその、そんなに時間が経ったような音には到底思えない。これはやっぱり凄い。