2016/09/24

2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100

2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100

2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Acros 100
去年山科で撮っていた写真から。
最初のマリオは潰れたゲーセンの窓から見えたもので、がらんとした空虚な空間の中に、何の筐体なのかよく分からないけどマリオの人形がついてるものが置かれていた。でもこの撮り方だと、時間だけが降り積もってるような空虚な感じはまるで出てないなぁ。
全体にガラス窓やガラス扉で閉ざされ、わたしのいる空間から隔絶されて、それでもガラス越しにかろうじて様子が窺えるというような状況、到達不可能ななにかが、そのガラスや扉の障壁の向こうにあるという感じ、そんな感覚が好きなんだろうと思う。
先斗町の歌舞練場の入り口から垣間見える、鴨川からの逆光が薄暗い空間を照らしている様子がちょうどそんな感じで、これ一度写真に撮ってみたい。歌舞練場の催し物とかまるで興味ないから場違い感が甚だしいけど。
最後のは山科の駅のトンネル状の通路なんだけど、こういうイメージはよくあるなぁと思いながらも撮ってしまったもの。かなりベタなイメージの写真。ベタでも自分が納得するために撮ってみたかった。
FM3Aは夏が始まる少し前にアクロス100のフィルムを入れたまま、夏の間は放置状態。モノクロのフィルムは自分で現像を始めてから、お金出して現像を頼むのも何だか馬鹿らしくなってるんだけど、夏の間はダークバッグの中でフィルムをリールに巻き取るのも、手が出す湿気でフィルムが上手く巻けなくなることがあるし、現像液の温度の管理も大変なので、自分で現像するのもどうも気が進まない。お金払って現像してもらうのも、自分で現像するのも躊躇うとなると、結局このFM3Aに入れたモノクロはなかなか使う気になれないままに一夏越えてしまうこととなった。
季節一つ分モノクロで撮ってなかったから、そろそろこれを持ち出してみるかなぁ。
レンジファインダーだとかコンパクトカメラで撮る写真と一眼レフで撮る写真は随分と撮る態度が違うし、そういう違いが写真にも乗っかってくると思う。
☆ ☆ ☆
そろそろ二週間くらいになるんじゃないかと思う程に、曇りと雨の日日が続いてる。台風が締めくくりになるかと思ったのに、気象庁はまだこの先も曇りと雨の日が続くとつれない予報を出してるし、こうなると室内で写真撮る方向も考えたほうがいいんじゃないかと思ったりもする。
台風がやってくる前日、近所へ買い物に行こうと玄関を出ると、家の前の道路の真ん中に蝶が羽を開いて落ちていた。手を出すとまだ逃げようとするくらいの動きは見せるんだけど、羽は開いたままで動かずよたよたと這い回るのみ、見るからに力尽きようとしているのが分かる。
道路の真ん中だとまず自動車の下敷きになるだろうから、とにかく拾い上げて、近くの植え込みの葉っぱの上に乗せておいた。
買い物から帰ってきて植え込みを見ると乗せたのと同じ場所に留まってる。あぁやっぱりもう動く気力も残っていないんだと思ったけど、これ以上はどうしようもないのでそのままにしておいた。
そして翌日の台風襲来。風はまるできつくなかったけど雨は結構降って、夕方台風が去ってから買い物に出かけようとして、あの蝶はどうなっただろうと思い、乗せておいた場所をみたら、乗せておいた葉っぱの真下の地面、雨水で濡れた場所に広げたままの羽をへばりつかせるようにして落ちていた。
空を飛ぶ羽を持つものが地面に落ちているのをみるのは、たかが蝶だとはいえ痛々しい感じがする。この羽を羽ばたかかせてどういう世界を見てきたんだろうと思う反面、だだっ広い空を一匹で飛び回り、この場合はたまたまわたしが見つけたけれど、誰にも知られずに台風の中濡れた地面に落ちていくことへと収斂していったその孤独にも思いを馳せる。
この世界は随分と無慈悲だと、こんな残酷な世界を作った神様はひょっとしたら三流の神様だったんじゃないかと、朽ち果てていく蝶一匹に、孤独だとかなんだとかなにを大層なという感じだけど、ふとね、そんなことを思った。
台風は今回のは雨台風だったようで、こちらは暴風も吹くことなく何だか腰砕けで通り過ぎていった感じだった。台風の影響は台風そのものじゃなく、台風が去ったあと買い物に行って帰り道の最中に濡れた鉄板の上に足を踏み入れて滑ってしまったこと。何年か前に腕の骨にヒビが入った転倒と同じことをやってしまって、卵も入った買い物袋を派手に放り投げて、しりもちをついた時は、思わず悪態が口からでた。でも一夜明けて今これを書いてる状態では多少筋肉が痛む程度でほぼ影響がなかったようなのでホッとしている。以前に腕の骨にヒビが入った時は5,6時間で痛さのあまり腕が伸ばせないようになったし、一月以上首から攣っていて、首のほうが不快度最大級になっていた。不自由だしあんな体験は二度としたくない。
それにしても足を踏み入れるのが分かってる場所で、すべすべの鉄板なんていう、何であんな摩擦係数の少なくなるものを敷くのかなぁ。使う以前に足場として使用する材料にそもそもあんな素材を選んで作ってること自体が理解しがたい。
☆ ☆ ☆
ヴィム・ヴェンダースの撮った写真の写真集「Journey to Onomichi」

映画監督の中には写真好きの人がそれなりにいるらしく、中には自分の撮った写真を纏めて写真集という形で世に出している監督さんもいる。
ヴィム・ヴェンダースもその一人。ナスターシャ・キンスキーが出ていた「パリ・テキサス」を撮った監督だ。ヴェンダースの写真集は何冊か出ていて、これは2005年、夫人とともに尾道、直島、鞆の浦などを旅して回った時のスナップ写真を中心に纏められている。
尾道といえば大林宣彦の映画なんかで見るイメージが大きいと思うけど、坂道の街とか、そういうイメージを期待してこの写真集を開いたなら、おそらく間違いなく途方にくれる。なんだこれは?って。
この表紙の写真とか、尾道水道を撮った写真なんかは尾道という言葉で感じるものを想起させるようなところがあるけど、そういう写真はあまり入ってない。ほとんどが何かしらのありふれた被写体がごろんと画面の中に、あるいは無造作に置かれてるように見せかけて、でも背後では周到な構図的配置のもとで画面を作っていると云ったもののほうが多い。道路のコーナーなんかに立ててある丸いミラーや、より合わさってゆるい曲線を描きながら画面の真ん中を降りてゆく一本の木の枝の写真、群れを成す野仏、街中の小さな寺の墓地、道路の曲がり角。
こんなものをこんな風に撮るかという面白さはある。でもその一方で、ヴェンダースは旅の途上で目にした特別なものを写し取っていたと云ってるんだけど、日本人が日常で見ていてそのまま回りの空間に溶け込んでいるものが多く、ヴェンダースが特別なものとして認識したようには、あまり認識できないようにも思う。
「見いだされた物」の写真であるのは確かだろうけど、写真集を眺めていると「見いだされた物」の纏う特殊性はそれほど強調もされていない写真のように見える。これは見慣れすぎた道路のミラーにどう転んでも特殊なオーラがあるようには思えない日本人の感覚と、日本以外に基盤を持つ人物の見る眼との違いなのか、あるいはヴェンダースが垣間見たと思った特殊性を、あえて纏わせないようにして撮ってる結果なのか、どちらなのかはよく分からない。
はっきり云ってあまり媚びないというか、取り付く島がないというか、何気なくこの写真集を開いたらそんな印象を受けると思う。
でも個人的には特殊性で見るものを絡めとろうとするものよりも、情緒や物語性をあまり乗せていかないドライで硬質な写真のほうが好きだったりするところがあるから、ちっとも尾道的じゃないこの写真集も尾道が見当たらないと放り投げることもなく、かと言って見ていて凄く楽しいとか、写真を撮る上で刺激になったとまでは行かなかったんだけど、それなりに関心を持って眺めることが出来た。
ミラーであること、垂れ下がる木の枝であること以外に何も写そうとしてない写真はある意味謎めいている。
ちなみにこの写真集の中で一番好きなのはこの下の喫茶店の、奇妙なソファを撮った写真だ。この写真集の中、尾道的な写真以外で、その特殊性が分かりやすい写真だと思わせる写真じゃないかと思う。


流通しているものが途切れると、写真集の場合は一気に値上がりする感じだなぁ。わたしがこの写真集を買った時は、よく憶えていないけど確か2000円を少しオーバーするくらいだったんじゃなかったかな。結構売れていた写真集でも、流通在庫が無くなればそれで終わり。まず再版もされないし、流通している時に買い逃すと、写真集は適切な価格では本当に手に入れにくくなる。
ヴェンダースの写真集はもう一冊欲しいのがあるんだけど、こっちは買い逃してしまって今は古書が高値止まりになってる。