廃屋のマリオ + WIM WENDERS Journey to Onomichi

廃屋のマリオ
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Provia 100





地下通路
2015 / 04 / Nikon FM3A / Fuji Acros 100


去年山科で撮っていた写真から。
最初のマリオは潰れたゲーセンの窓から見えたもので、がらんとした空虚な空間の中に、何の筐体なのかよく分からないけどマリオの人形がついてるものが置かれていた。でもこの撮り方だと、時間だけが降り積もってるような空虚な感じはまるで出てないなぁ。
全体にガラス窓やガラス扉で閉ざされ、わたしのいる空間から隔絶されて、それでもガラス越しにかろうじて様子が窺えるというような状況、到達不可能ななにかが、そのガラスや扉の障壁の向こうにあるという感じ、そんな感覚が好きなんだろうと思う。

先斗町の歌舞練場の入り口から垣間見える、鴨川からの逆光が薄暗い空間を照らしている様子がちょうどそんな感じで、これ一度写真に撮ってみたい。歌舞練場の催し物とかまるで興味ないから場違い感が甚だしいけど。

最後のは山科の駅のトンネル状の通路なんだけど、こういうイメージはよくあるなぁと思いながらも撮ってしまったもの。かなりベタなイメージの写真。ベタでも自分が納得するために撮ってみたかった。

FM3Aは夏が始まる少し前にアクロス100のフィルムを入れたまま、夏の間は放置状態。モノクロのフィルムは自分で現像を始めてから、お金出して現像を頼むのも何だか馬鹿らしくなってるんだけど、夏の間はダークバッグの中でフィルムをリールに巻き取るのも、手が出す湿気でフィルムが上手く巻けなくなることがあるし、現像液の温度の管理も大変なので、自分で現像するのもどうも気が進まない。お金払って現像してもらうのも、自分で現像するのも躊躇うとなると、結局このFM3Aに入れたモノクロはなかなか使う気になれないままに一夏越えてしまうこととなった。
季節一つ分モノクロで撮ってなかったから、そろそろこれを持ち出してみるかなぁ。
レンジファインダーだとかコンパクトカメラで撮る写真と一眼レフで撮る写真は随分と撮る態度が違うし、そういう違いが写真にも乗っかってくると思う。

☆ ☆ ☆

そろそろ二週間くらいになるんじゃないかと思う程に、曇りと雨の日日が続いてる。台風が締めくくりになるかと思ったのに、気象庁はまだこの先も曇りと雨の日が続くとつれない予報を出してるし、こうなると室内で写真撮る方向も考えたほうがいいんじゃないかと思ったりもする。

台風がやってくる前日、近所へ買い物に行こうと玄関を出ると、家の前の道路の真ん中に蝶が羽を開いて落ちていた。手を出すとまだ逃げようとするくらいの動きは見せるんだけど、羽は開いたままで動かずよたよたと這い回るのみ、見るからに力尽きようとしているのが分かる。
道路の真ん中だとまず自動車の下敷きになるだろうから、とにかく拾い上げて、近くの植え込みの葉っぱの上に乗せておいた。
買い物から帰ってきて植え込みを見ると乗せたのと同じ場所に留まってる。あぁやっぱりもう動く気力も残っていないんだと思ったけど、これ以上はどうしようもないのでそのままにしておいた。
そして翌日の台風襲来。風はまるできつくなかったけど雨は結構降って、夕方台風が去ってから買い物に出かけようとして、あの蝶はどうなっただろうと思い、乗せておいた場所をみたら、乗せておいた葉っぱの真下の地面、雨水で濡れた場所に広げたままの羽をへばりつかせるようにして落ちていた。
空を飛ぶ羽を持つものが地面に落ちているのをみるのは、たかが蝶だとはいえ痛々しい感じがする。この羽を羽ばたかかせてどういう世界を見てきたんだろうと思う反面、だだっ広い空を一匹で飛び回り、この場合はたまたまわたしが見つけたけれど、誰にも知られずに台風の中濡れた地面に落ちていくことへと収斂していったその孤独にも思いを馳せる。
この世界は随分と無慈悲だと、こんな残酷な世界を作った神様はひょっとしたら三流の神様だったんじゃないかと、朽ち果てていく蝶一匹に、孤独だとかなんだとかなにを大層なという感じだけど、ふとね、そんなことを思った。

台風は今回のは雨台風だったようで、こちらは暴風も吹くことなく何だか腰砕けで通り過ぎていった感じだった。台風の影響は台風そのものじゃなく、台風が去ったあと買い物に行って帰り道の最中に濡れた鉄板の上に足を踏み入れて滑ってしまったこと。何年か前に腕の骨にヒビが入った転倒と同じことをやってしまって、卵も入った買い物袋を派手に放り投げて、しりもちをついた時は、思わず悪態が口からでた。でも一夜明けて今これを書いてる状態では多少筋肉が痛む程度でほぼ影響がなかったようなのでホッとしている。以前に腕の骨にヒビが入った時は5,6時間で痛さのあまり腕が伸ばせないようになったし、一月以上首から攣っていて、首のほうが不快度最大級になっていた。不自由だしあんな体験は二度としたくない。
それにしても足を踏み入れるのが分かってる場所で、すべすべの鉄板なんていう、何であんな摩擦係数の少なくなるものを敷くのかなぁ。使う以前に足場として使用する材料にそもそもあんな素材を選んで作ってること自体が理解しがたい。


☆ ☆ ☆

ヴィム・ヴェンダースの撮った写真の写真集「Journey to Onomichi」

ヴェンダース 尾道1

映画監督の中には写真好きの人がそれなりにいるらしく、中には自分の撮った写真を纏めて写真集という形で世に出している監督さんもいる。
ヴィム・ヴェンダースもその一人。ナスターシャ・キンスキーが出ていた「パリ・テキサス」を撮った監督だ。ヴェンダースの写真集は何冊か出ていて、これは2005年、夫人とともに尾道、直島、鞆の浦などを旅して回った時のスナップ写真を中心に纏められている。
尾道といえば大林宣彦の映画なんかで見るイメージが大きいと思うけど、坂道の街とか、そういうイメージを期待してこの写真集を開いたなら、おそらく間違いなく途方にくれる。なんだこれは?って。
この表紙の写真とか、尾道水道を撮った写真なんかは尾道という言葉で感じるものを想起させるようなところがあるけど、そういう写真はあまり入ってない。ほとんどが何かしらのありふれた被写体がごろんと画面の中に、あるいは無造作に置かれてるように見せかけて、でも背後では周到な構図的配置のもとで画面を作っていると云ったもののほうが多い。道路のコーナーなんかに立ててある丸いミラーや、より合わさってゆるい曲線を描きながら画面の真ん中を降りてゆく一本の木の枝の写真、群れを成す野仏、街中の小さな寺の墓地、道路の曲がり角。
こんなものをこんな風に撮るかという面白さはある。でもその一方で、ヴェンダースは旅の途上で目にした特別なものを写し取っていたと云ってるんだけど、日本人が日常で見ていてそのまま回りの空間に溶け込んでいるものが多く、ヴェンダースが特別なものとして認識したようには、あまり認識できないようにも思う。
「見いだされた物」の写真であるのは確かだろうけど、写真集を眺めていると「見いだされた物」の纏う特殊性はそれほど強調もされていない写真のように見える。これは見慣れすぎた道路のミラーにどう転んでも特殊なオーラがあるようには思えない日本人の感覚と、日本以外に基盤を持つ人物の見る眼との違いなのか、あるいはヴェンダースが垣間見たと思った特殊性を、あえて纏わせないようにして撮ってる結果なのか、どちらなのかはよく分からない。
はっきり云ってあまり媚びないというか、取り付く島がないというか、何気なくこの写真集を開いたらそんな印象を受けると思う。
でも個人的には特殊性で見るものを絡めとろうとするものよりも、情緒や物語性をあまり乗せていかないドライで硬質な写真のほうが好きだったりするところがあるから、ちっとも尾道的じゃないこの写真集も尾道が見当たらないと放り投げることもなく、かと言って見ていて凄く楽しいとか、写真を撮る上で刺激になったとまでは行かなかったんだけど、それなりに関心を持って眺めることが出来た。
ミラーであること、垂れ下がる木の枝であること以外に何も写そうとしてない写真はある意味謎めいている。

ちなみにこの写真集の中で一番好きなのはこの下の喫茶店の、奇妙なソファを撮った写真だ。この写真集の中、尾道的な写真以外で、その特殊性が分かりやすい写真だと思わせる写真じゃないかと思う。




ヴェンダース 尾道3




ヴェンダース 尾道4









流通しているものが途切れると、写真集の場合は一気に値上がりする感じだなぁ。わたしがこの写真集を買った時は、よく憶えていないけど確か2000円を少しオーバーするくらいだったんじゃなかったかな。結構売れていた写真集でも、流通在庫が無くなればそれで終わり。まず再版もされないし、流通している時に買い逃すと、写真集は適切な価格では本当に手に入れにくくなる。
ヴェンダースの写真集はもう一冊欲しいのがあるんだけど、こっちは買い逃してしまって今は古書が高値止まりになってる。



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影と遊ぶ

波板でダンス
2015 / 10 / Nikon F3 / PRESTO 400を自家現像





白い扉
2015 / 06 / Nikon FM3A / LOMO ColorNegative 100





足元で踊る光
2015 / 04 / Konica Bigmini F / Kodak SuperGold 400





水草と光
2015 / 10 / Fuji Natura Classica / Natura 1600



影と遊ぶといっても、何もこの写真だけ特別な態度で撮ったというわけでもなく、写真撮ることは大抵影と遊んでるようなものだと思うし、まぁなにかを云ってるようで実のところ何も云ってないに等しいタイトルではある。何か云ってるようで実のところ何も云ってないというのは、影がどうのこうのという前にわたしの撮ってるような写真には相応しい有り様かも知れない。
なにしろ写真を使って何かを云う、なんていうのよりも、写真そのものがただひたすらにそこにあるだけというような存在の写真、そういうのが理想なんじゃないかと思う時があるくらいだから。
意味という外在する要素で補強され、テーマや意図を伝えるための手段と化した存在ではなくて、意味があるとすればそれが写真であるということだけという、写真としてだけで自立してるような写真。読み取る世界の断片の一つであると同時に読み取られる世界そのものである写真。実際にそんなのが撮れるのかどうかは別にして、何だかこういうことに関して思いをめぐらすのは思いのほか楽しい。

全部去年に撮ってブログで披露しなかった写真だ。それにしても気が多いというか、全部違うカメラで撮ってる。
レンズの味がどうのこうのと、そんな意味合いでもなく、大体レンズの味の区別なんかそんなにつけられるほうでもないし、色々カメラを代えて使ってるのは使い勝手の差といったものや気分転換といったものによるところが大半だったりする。名前は聞くけど使ったことがないという道具がそんなに高価でもない形で目の前に現れれば、好奇心で手を出してみるし、そんなことをしてる間に手元にカメラが集まってきてしまったという感じ。だから数だけは増えていくのに、トイカメラ好きや、写真は写ルンですでも撮れるという考えも相まって、歴史的で高級なカメラとか面白いほど集まってこない。有名な高級カメラというなら父から譲ってもらったハッセルブラッドと、ライカだったら本体じゃなくレンズで、レオタックスにつけて使ってるズミタールを持ってるくらいか。ハッセルブラッドのほうはどうにも正方形フレームが馴染めないし、ズミタールは随分と線の細い繊細な描写をすると思い、使うと凄い楽しいんだけど、特にこれがどうしても使いたいというほど執心してるわけでもない。
そういえば以前、父が昔丹平に所属して写真撮ってたので、知り合いのなかで使わないからライカあげるとか云う人はいないのかと聞いてみたことがあったけど、そんな人いるわけないとつれない返事が返ってきただけだった。


奇譚 + Beach House - Zebra

歪なソファ
湾曲について思考するソファ
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





カリガリ博士の窓
カリガリ博士の部屋
2015 / 10 /Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





逢魔ヶ時
奇譚
2015 / 08 / Ultra Wide & Slim + Ultra-Wide Lens 22mm / Lomo ColorNegative 100


歪なもの、逸脱するものについて視覚を巡らすこと。
特異な何かを見出すと写真を撮ってみたくなる。あまりあからさまに特異というのは、分かりやす過ぎて多少興醒めすることもあるんだけど、写真にすることで見出されそうな何かという形なら、特にこれは風変わりな被写体だ!とも意識しないままにレンズを向けていることがある。
でも本当のところは、こういう対象の特異性に頼って写真を撮らないほうが良いという意識、というか「撮らない!」なんていう、そんなに禁欲的な気分というよりも、対象の特徴に頼らない写真を撮ってみたいという願望もあって、カメラを持って出歩いてる時は、最近は特にその両極の間で揺れ動いてる感じがする。ひょっとしたら今年の春、桜の季節の直後に迷い込んだ山科を歩き回っていた頃からどうも撮りあぐねてるという感覚になってきてるのも、理由はその辺にあるのかもしれないなぁと思ったりする。

まぁ撮りあぐねてるといっても、こうやって面白そうなものがあれば嬉々としてシャッター切ってるわけだけど、特異なものを撮る、風変わりなものを撮るって、多分に写真的には制度化された視線で、わたしの視線、わたしが見るということとは完全に一致しない、なんと云うか他者性のようなものが必ず付きまとってる感じがする。できるならそういう写真的に制度化された視線といったものとは違うところから撮りたいとは思ってるんだけど、なかなか難しいというか、こういうことを考えてるから撮りあぐねるような気分になってくるんだろうなぁ。

お気に入りの写真家の一人、アレック・ソスが普段の大判カメラを離れて、レンズ付きフィルムで写真撮って写真集を出してるのを、最近になって知った。凄い興味がわいて、持ってるカメラだとフジのクリアショットSあたりがフィルム交換できるレンズ付きフィルムといった感じのものだから、これにフィルムを詰めたんだけど、やっぱり本物とは違うんだろうかと思ったので、結局正真正銘のレンズ付きフィルムを買ってしまった。何だかそれなりの決断でもいりそうに書いてるけど、買ったのは「写ルンです1600」で、出費は900円ちょっと。実はこういうカメラは使うのは初めてなので、新しいトイカメラでも手にした気分で結構うきうきしてる。

☆ ☆ ☆

Beach House - Zebra


2000年代に起こったドリームポップと称される音楽の牽引役となったバンドの曲。どっちがバンド名でどっちが曲名なのか一見して分からないけど、Beach Houseのほうがバンドの名前。
この曲は三作目のアルバム「Teen Dream」の一曲目に収録されてる。
中心メンバーはフランス出身のヴィクトリア・ルグランとボルチモア出身のアレックス・スカリーの二人で、ヴィクトリア・ルグランはフランスの作曲家ミシェル・ルグランの姪なんだそうだ。
浮遊感があってちょっとメランコリックなポップソング。
垂れ流しのセンチメンタルじゃなくて、どこかに寄り道してるようなセンチメンタルというか、所々にさりげなく顔を出すそういう部分が耳に残る。


☆ ☆ ☆




一番下の空の写真を撮ったトイカメラ。Vivitarが出したのがオリジナルのような印象だけど、元になったカメラはもっと別のどこか、OEM製品専門の小さな工場で作られて、Vivitarのものも、そのOEMだったかもしれない。
このカメラに関しては、とにかく色を変えたりしただけで同じ形のカメラがいろんなブランドの名前で世に出てきている。今では大半が市場からは消えてしまって、中古市場に出てくるようなカメラでもなく、結果今それなりに容易に手に入るのはこのWide Lens Camera Seriesとして、多色展開してるタイプのもの一種類だけとなってる。といってもこれも既に生産は終了してるようだけど。
ちなみに数年前の京阪のおけいはんポスターで、おけいはんがEximusブランドの黒いボディに赤の差し色が入ってるこのカメラを首にかけて京都を散策していた。
今年の夏。ホルガとともに持ち出していたカメラで、感度100のフィルムを入れてたから、絞り、シャッタースピード固定のトイカメラでは条件がシビア。ちょっと暗いところで撮った写真はそれほど思うような結果にはならないままに終了という形になった。でも撮れないことは無かったからまた感度100のフィルムでトライしてみるかな。
ちなみにわたしはカメラうさぎのホワイトがお気に入りなんだけど、アマゾンでは見つからなかった。














過剰なるものへの考察、夏の陽に滴る魚 + Mars - Helen Fordsdale

過剰であること
過剰なるものへの一考察
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像


実のところ写真は引き算なんていう言葉、本当はそんなに信じてはいない。何しろ混沌としたものが好きだから、そういうものを前にして整理してどうするんだと。
確かに効果的に引き算されてメインの被写体が際立つような撮り方は上手い写真になる可能性は高いと思う。でも上手い写真が必ず良い写真かというと、自分はちょっと即答できないところがある。これはイコールで結ばれるような等式じゃないんじゃないかって。上手くて綺麗で、見た瞬間にわぁ綺麗!って思うんだけど、それだけの写真。意識に引っかかるようなフックが何もないような、綺麗という残像だけ残して通り過ぎていくような写真。そういう写真でも撮れるのは凄いと思うところはあるんだけど、自分が思い描く写真とはやっぱり違う地平に立ってるとしか思えない。でもこういう風に書くと上手く撮れないことへの開き直りのようにも見えるな。
混沌が好きだと云いつつ差し出したこの写真。でもこの写真は混沌じゃない。要素は鉄塔と碍子と電線と、極めて限定的で一緒にあって収まりがいい物の集合だし、そういう意味では最初から選別されてるといってもいいかもしれない。ここにたとえば蝙蝠傘や解剖台が入ってくるような状況は被写体のほうであらかじめ引き算がされてる。撮ったわたしの事情も加えると、密度の違う部分を用意して配置に動きを出そうとしてる。
結局のところ徹底的に無秩序、混沌といったものは撮るのは極めて困難なことなのかもしれないと思う。NO NEW YORKの音楽のような写真とでもいうのかなぁ、そういうのが撮ってみたいと感覚の一部では思ってるんだけど、コントーションズもDNAも結局こちらの地平に戻ってきてしまったし、そういう方向へ歩を進めるのは不毛なのかもしれない。
ところで、こういう変電所のような場所って結構好きなんですよね。碍子の形とか妙に超常的にSFで、なおかつエロチックな曲面の集合体だし、なによりも東宝怪獣映画に出てくるようなイメージなのが最高。



卵が一杯
過剰なるものへのまた別の考察
2015 / 01 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Fuji Natura 1600

巨大な規模でも緻密でもない、貧血のグルスキー。

新京極のスター食堂。子供の頃によく連れて行ってもらったレストラン。以前は隣の寺町にも店があったんだけど、今はこの新京極の店だけとなってる。
これだけ卵料理を並べられると視覚的にももたれてくる感じがする。




夏の陽に滴る魚
夏の陽に滴る魚
2015 / 09 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak Gold 200

思わしくなかった写真の、意味を成さなかった部分の切り出し。



☆ ☆ ☆



Mars - Helen Fordsdale


上の文章でNO NEW YORKなんて書いたものだから、ここから一曲ピックアップ。
わたしはこのコンピレーション・アルバムのなかではコントーションズとDNA命だったんだけど、Marsもなかなかかっこいい。
これ、78年頃のリリースで、収録されたバンドの実際の活動は70年代の中頃からとすると、ゆうに40年近く経ってしまってる。近年来日したジェームス・チャンスなんかチャンス翁なんて書かれてる始末だし、このMarsでもメンバーの二人が既に亡くなってる。
時の流れは容赦ないんだけど、音のほうはそんなすべてを腐食させていくような時間の暴力もなんのその、そんなに時間が経ったような音には到底思えない。これはやっぱり凄い。









吉田山が逃げていく。 + Grant Green - That lucky old sun

向こう側の花
向こう側の花
2015 / 07 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / Kodak GOLD200


百万遍辺りで撮っていた写真の続き。
撮っていた事情は前回書いたので、まぁこういう写真を撮りながら梅雨明け直後の炎天下を歩き回っていたわけです。
この酷暑の間も暑さに辟易しつつ、それでもカメラ持って出歩くことをやめたりはしなかったけど、吉田山に辿りつけない、行けども行けども吉田山が逃げていく、なんて云ってるわりに、結局この時以降百万遍の辺りは2,3回訪れただけで、それ以来こっち方面へは足が遠のいてしまってます。ひょっとしたら百万言界隈の光景に意外と早く飽きてしまって、飽きた地域を通り抜けないと辿り付けない吉田山、なんていう扱いになってしまったのかも。
最近は桃山の御陵のある辺り、この辺も森林地帯なので木が一杯あって、こういうところを歩き回ってます。この辺りは御陵になったせいで原生林がそのまま残っていて、木を見るには不自由しないところなんだけど、でも木は一杯生えてるものの、いまいち自分が想像してる木とは雰囲気が違う。まだ訪れて間もないからどう写真撮れるか判断できないけど、思うようには撮れなさそうな気配がします。

それとこの夏はほとんどホルガとウルトラ・ワイド・スリムで写真撮ってました。ホルガとか面白いカメラなんだけど、やれることと言えば目測の距離決定とシャッター切ることくらい、絞りの変更レバーがついてるけど構造上の欠陥でどの位置にあわせても変らないなんていうカメラなので、さすがにちょっと飽きてきた。夏の初めにフィルム入れて5,6枚撮った状態で休ませてるペンFなんかが控えてるので、そろそろホルガにこのハーフカメラも混ぜて使っていこうかなと思ってます。



黒タイル
黒タイルの家
2015 / 07 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / Kodak GOLD200


ということで、今回の写真については周辺事情は前回に書いたので、実は書くことがほとんど思いつきません。これは困った。
目の前の具体的な写真そのものについてどうこう書くのは、本当はあまりやりたくないところもあり、理想は言葉なんか添えずに写真だけの提示、こんな写真を撮ったけど、どうでしょう?って云うだけのシンプルなあり方のほうが理想的だろうなぁと思ってます。
撮ってる時も自分が何に促されてそういう風な写真を撮ったのか、こういう視線で対象を把握しようとしたのはどうしてなんだろうとか、実は撮った本人もよく分からないままだったりすることも多く、言葉にして、言葉にすることは形を与えることだから、自分の撮った写真を前にして一度そういうことを言語化し、もやもやとした不定形のものじゃなく確かな形を与えてみるのは意味があるとは思います。でも自分との関係ではそう思うものの、自分以外の人に見せるような場合にはどうなのかな。意味があるんだろうか。

まぁそんなことを考えつつ、今回の写真ついて、自分ながら似たようなもののバリエーションで撮ってるなぁと。これは意図しない形だけど、いわゆるテーマ的なものに近似する何かなのか。自分としてはテーマを載せて写真撮るなんて絶対に嫌と言うところもあるんだけど、そのバリエーションのうちで撮り続けてるとそのうちテーマ的に見えるものが現れてくるかもしれず、テーマに従属するような写真じゃなくて、写真からそういうものが立ち現れてくるなら、それはわたしが嫌いな、写真を単なる手段として従属させるようなものとはまた違うものかも知れないなと思ったりもします。
でも自分が持ってるバリエーションのうちでしか撮れなくなったら、これはやっぱり本人としてもあまり面白くはならないだろうなぁとは思います。自分の中の形を持たないものに言語化することで形を与えると、先に書いたのとちょっと矛盾したことを言うけど、写真には自分が盛り込もうとしたもの以外にも、意図しないで混ざり合ういろんなものがあるはずで、そういうものが写真の豊かさの一翼を担ってると信じてるところがあります。自分の馴染みのもののバリエーション以外では撮れなくなってくると、そういうのもやせ細ってきそうな気がするし、自分語りのような写真は全く撮る気がない者としては、自分が見てもこれは一体誰が撮ったんだっていうくらいのものを撮ってしまうことのほうが刺激的で面白そうです。


見放された場所
見放された場所
2015 / 07 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / Kodak GOLD200

☆ ☆ ☆


今日写真撮りながら歩いてる最中に、首から提げていたホルガを落としてしまった。
一応安っぽい合皮のケースに入れてたんだけど、カメラを止めてるのがカメラの片側の上を渡る一本のベルトだけというケースだったので、ケースが何の拍子かさかさまになった時に思い切りすっぽ抜けて、地面向かって一直線のコースを辿っていきました。一本の細いベルトだけだけど、もうちょっと止めてくれてると思ってたのに。
裏蓋がはじけ飛んでフィルムが全部地面に飛び出し、本来フィルターの類はつけられるようにはなってないけど46mm径のものだったら無理やりねじ込めるから、そうやってつけていたフォギーBフィルターがものの見事に割れてしまってました。
フィルムはもちろん全部日に当たったので完全にアウト。ホルガのほうは裏蓋がはじけ飛んでレンズの鏡胴が斜めにゆがんでたけど、ホルガのレンズはおそらく瓶の蓋がねじ込まれてるようなのと大差ない構造なので、強く回したらネジ山が元に戻ったのか、真っ直ぐにスムーズに回転するようになって、どうやらカメラへのダメージはほとんどなかったようでした。ひび割れ一つついてなかったし、ホルガのプラスチックは意外と硬い?
唯一若干華奢な感じのするフラッシュもテストしてみれば問題なく発光して一安心、ホルガはあまりにも単純な構造が、逆に故障のしようがない境地へと導いてるようなカメラだから、そういう妙なタフさが発揮されたのかもしれないです。
それにしてもフィルムが一瞬にしてアウトになったのはやっぱり気落ちします。今日始めて撮り始めたフィルムで落とすまでに8枚ほど撮った状態でした。少ないようだけどブローニーを645のフレームで撮って、撮れる枚数は全部で16枚だから約半分はもう写真になっていたフィルムでした。どこで撮ったかはほとんど覚えてるからもう一度撮りなおせばいいんだけど、これ同じ写真が撮れるかというと、もう一度撮りなおしに行った写真とかなぜか最初のよりも精彩を欠いてる場合がほとんどだったりするから、あまり気乗りがしないです。
ナチュラ・クラシカも持って出ていたから、その後も写真を撮ろうと思えば撮れたんだけど、気落ちして結局その日の残りの予定は全部中止となった一日でした。


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Grant Green - That lucky old sun


以前グラント・グリーンのこの演奏を探して見つからず、代わりにレイ・チャールズの歌ものを載せたことがある曲。
歌ものだとサラ・ヴォーンが歌ったのもスピリチュアルで聴き応えがあります。
グラント・グリーンはジャズ、ファンクのギタリスト。わりとジャンルを横断して、結構色物的な領域の境界線上に足を突っ込んでるような、弾くとなればなんでもこいの演奏をする人なんだけど、基本的にはファンキーなノリで本領発揮するギタリストかな。ここではボッサのリズムに乗ってリラックス、気持ちよさそうに弾いてます。コード弾けないんじゃないかといわれるくらい(実際はコード弾いてるアルバムもあります)、ホーンライクなシングルトーンの、正直に云ってあまり流麗でもない演奏スタイルだけど、気に入ってしまうとその豊かな歌心に夢中になってしまうかも。





これ、ジャケットからだと分からないけど、ドナルド・バードのレコードとカップリングになってるアルバムです。両者のファンなら文句なしのCDなんだけど、片方どうでもいいとなると、はた迷惑なカップリングとなります。
フラント・グリーンのほうはオルガン弾いてるのはラリー・ヤング。オルガンとギターって云う組み合わせは本当に相性がいい。その相性のいい楽器の組み合わせの上に、このミュージシャンのセッションはなかなか癖があって面白いです。