時計のある街角 + 今年初のラッキー、ルイジ・ギッリ写真集が手元に舞い込んできた。 + Miss You All The Time - FLABBY

2時過ぎ
2014 / 09 / FUJICOLOR C200

街中で時計を見るとよく写真に撮ってるなぁ。これはとあるブティックが店の前の道路にいつも出していた時計。この店、閉店して今はもう存在してません。



針のない時計
2014 / 10 Kodak SuperGold 400




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かなり好みのイタリアの写真家、ルイジ・ギッリの写真集を、先日ブックオフの洋書コーナーで発見。新刊ではとっくの昔に入手不可能になっていて、古書で手に入れるしかない写真集なんだけど、アマゾンで4万ちょっとで取引されてる本。最もアマゾンの値段はぼったくり過ぎなのが売れ残っての値段だから、実際の古書店ではだいたい1~2万くらいの値段帯で売られるような本でした。といっても店頭に出ることがほとんどなかったり、SOLD OUTだったりするから、1~2万円で買えるといっても手にできる可能性はまずないというのが本当のところ。
そういう写真集がブックオフの棚にあったのを見つけて、ギッリの本だ!と、この人の写真集は限られたものしか見たことがないからとにかく手にとってみたら、ついてる値札を見てさらに吃驚。なんと900円の値段シールが貼られてる!
1~2万からぼったくり4万強辺りで取引されてる写真集が900円。しかもイタリア語版じゃなくて、レアな英語版。
かなり綺麗な状態で、ルイジ・ギッリに関してはお気に入りの写真家なのに見ることが出来る写真集がかなり限られてる状態だったから、思わずやった!って声が出そうになりました。
絶対に他の人に取られてはならないとしっかりと抱え込んで、最近嵌ってる昔読んだミステリで手放してしまったものを100円の文庫で探すというのもそこそこに、レジに持っていって自分のものにしてしまいました。


GHIRRI1



GHIRRI2





中身は個別に纏められた写真集というのではなく、過去の写真集から代表的なものを集めた総集編的な本だけど、ギッリの写真を俯瞰するには収録点数も多くていい編集になってる本だと思います。
今価格的にも手に入れられる範囲のギッリの本といえば、MACKが復刊させたギッリの自費出版ものだった「コダクローム」と、こちらは日本の出版社から最近出された「写真講義」という本くらいかな。
日本ではこの「写真講義」という本の中に引用されてる写真と須賀敦子の文庫全集の表紙に使われてる、ジョルジョ・モランディのアトリエを撮った写真でギッリの写真を見ることが出来るけど、おそらく簡単に眼にすることができるのはそのくらいで、なにしろ日本で出版された写真集の類が一冊もないという写真家だから、ほとんど紹介されてないのと変らない状態にあります。
欧州ではかなり知名度のある写真家らしいけど、夭逝してしまった写真家なので、そういうことも日本で紹介されなかった要因になってるのかもしれません。


GHIRRI3

モダニズムやニュー・トポグラフィー、序文をエグルストンが書いてるようにニューカラー的な視点も併せ持ってるような写真を撮る人というのがわたしが「コダクローム」で最初にギッリの写真を見たときの印象でした。でもトポグラフィーやニューカラーといった概念が出てきたのは70年代くらいだったはずで、そういう意味ではそれ以前からこういう写真を撮っていたギッリは、概念的には纏められてはいなかったけど、同様のコンセプトを先取りしていた写真家だったともいえると思います。

「コダクローム」を見た時は、鏡の反射を多用したようなちょっとした仕掛けのある撮り方だとか、極めて大胆な構図とか、そういうのが面白かったけど、このアンソロジー的な写真集を眺めてみると、なんというかある撮り方を納得するまで試みたらもうその方向は完結して、違う方向に進むことを好む写真家のような印象を持ち、つまり作風の幅が広くて、この本で印象的だったのは「コダクローム」で見たようなものよりは、後半に出てくる極めて静謐で美しい写真の一群のほうでした。悪戯気がある、見た目の斬新さ勝負!的なほうじゃなく、須賀敦子の全集で使われたモランディのアトリエの写真のタイプのほう。
この本の中で須賀敦子の文庫全集では小さな形でしか見られなかったモランディのアトリエの写真が数点、大きな写真としてみることが出来ます。

イタリアっぽい、と云っても行ったことないんだけど、湿度の低い綺麗な色、でもカラフルなんだけど陽気かというとそうでもない落ち着いた色使いの中で、目の前にあるオブジェや空間のかすかに囁く声を、まるでカメラがそういう声を翻訳する機械でもあるように、カメラを通してその囁き声に耳を傾け、囁き返すようにカメラのシャッターを切ってるといった感じ。
そういう事物や空間の声を聴き会話するように写真を撮ってるから、誰が見ても問答無用に美しいもの、たとえばまぁ京都に住んでるからそういう例えで行くと龍安寺の石庭のような名所なんかを特に対象にしなくても、際立つ写真が撮れてるんじゃないかと思います。
日常的に眼にするようなありきたりのものを際立つ写真として撮る、それも写真的なギミックで非日常的にアレンジするようなことをしないで、際立った写真として成立させるって、これはもう本当に難しくて、出来るのは限られてる写真家だけだと思うんだけど、ルイジ・ギッリは確実にそういう限られた写真家の一人だったと思います。
はっきり云って自分もそういう写真が撮りたい。



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Miss You All The Time (Parole Parole) - FLABBY

イタリアの写真家の話題だったので、音楽もイタリアもの。ギッリの写真のように静謐でもないけど、イタリアン・ラウンジのバンドFLABBYの曲から。
これ、ダリダとアラン・ドロンが歌っていた超有名曲のカバーで、今風のエレクトロっぽいボッサのアレンジがお洒落です。



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わたしの知る限りギッリに関する本で日本で出版されてるのはこの本だけだと思う。
でもこの本、多数の図版、写真は入ってはいるけど写真集じゃないんですよね。
大学でギッリが行った講義の記録の本で、挿入されてる写真に関しては講義中に参考として学生に見せたものを可能な限り再録したと言う形になっていて、一応ギッリがどういう写真を撮っていたのか一部は垣間見れるんだけど、すべて小さくて、本来の写真の力のようなものはあまり再現されてはいないと思う。
でも本としては伝えなければならないことをきちんとした形で伝えようとしてる、とてもいい本だと思います。














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【写真集】最近の散財の記録、サラ・ムーン写真集「12345」 +【写真】荒涼たるものたち +【音楽】入り浸った場所

店によって大体一万五千円くらいから二万円近くするものだから、高価で買いそびれていたサラ・ムーンの写真集「12345」(こういうタイトルです)を、思い切って買ってみました。ということで新刊でもないけど購入記念に記事にしてみました。まだぱらぱらと中身を眺めただけなのでレビューっていうほど大層なものでもないけど、良かったら付き合ってみてください。

やっぱりこんな値段だといくら興味があってもなかなか手が出せずにいたんですけど、待っていても小説のように文庫になるわけでもないし、ただ時間が経つにつれ綺麗な状態にあるものを入手する機会が減っていくだけだろうと思って確保することに決めました。もっとも写真集というようなものは、写真の印象が大きさで随分と変る、たとえば自分の撮った写真でもPS3に取り込んで大きなテレビモニターでスライドショーなんかしてみると、どこの上手い人が撮った写真なのかと大いに勘違いできるほど見栄えが良くなるので、文庫で小さくなってしまった写真を観るよりは、当然のごとく大きな元の写真集で観た方が良いのは歴然としている以上、文庫になるのが分かっていたら文庫化を待っていたかというと、例え文庫になったとしてもそういう簡易版は小説のようにはあまり手を出す気にはならなかっただろうと思います。

写真集は全部で5冊。その五冊の大部の写真集がまとめて大きな化粧箱に入った形になってます。持ってみるとかなり重いです。タイトルの「12345」って謎めいてるようにみえるけど、単純に5冊が一緒になってるという意味だったんでしょう。

12345-1
Nikon Coolpix P5100
こういう巨大な写真集です。シュリンクフィルムというのか、透明の薄いフィルムがかけられてるようなものがDVDなんかでもありますけど、シュリンクフィルムを全部引きちぎらなくても中身が出せるようなものだと、わたしはこういう風に取り出し口だけ開いて他は残しておく開き方をします。はっきり云って見た目はあまり良くないです。でもこうしておくと別にカバーになるようなものを調達するよりも安上がりだし、ちょっとでも汚れるのを防げるんですよね。

12345-2
Nikon Coolpix P5100


その5冊のうち3冊が今までに撮られたモノクロ写真をコレクション、残りのうちの一冊がこの写真集が出来た2009年を基準とするサラ・ムーンの最新作のカラー写真を集めたもので、最後の一冊がサラ・ムーンが監督した映画「mississipi One」のDVDとその映画のシーンの写真集という構成になってました。
意外と値打ちがあるのが、実はこの大部の写真集に2万近くのお金を支払う動機になったかなりの大きな部分となったのもなんですけど、この映画のDVDが手に入るということでした。映画はサラ・ムーンの写真が全編に渡って動いてるといった感じのもので、VHSにはなったものの、DVDの形ではリリースされてません。おそらく映画DVDのような形でDVDショップに並ぶことはこれからももうほとんど可能性としてはないといってもいいと思うし、ブルーレイ版は映像派の映画だから多少の可能性はあるかもしれないけど、観たいと思ってる人の数を想像するとこの映画のブルーレイでのリリースはとてもじゃないけど採算が合わないと思います。
つまりサラ・ムーンの映画「mississipi One」を観ようとするなら、今のところもおそらくこれからも、VHSを探すかこの写真集についてるものを観るかのどちらかしか可能性はないっていうことです。

今のところこの映画を観るための唯一の手段となってる写真集「12345」。
でも家に届いたものを早速調べてみると、リージョンの違いくらいは懸念事項として入っていたものの、ビデオの形式までは失念していて、この「mississipi One」のDVD、写真集がイギリスで発売されたものだから当然といえば当然なんですけど、実は日本やアメリカで採用しているNTSC方式じゃなくてPAL方式のDVDでした。今わたしの部屋でテレビに繋いでるこういうものを再生する機械はPS3なんですけど、PS3に入れてみるとPALのDVDなので再生できないとつれない返事が返ってきます。
イギリスはリージョン・コードは日本と同じだし、PCのDVD再生ではこのNTSC/PAL方式の違いは再生には関係なくなるのでPCでみればいいということになるものの、わたしのPCは10年位前の機種で以前異音がするといってたのもそのままに、まだ綱渡りのように使ってるものだから、搭載してるドライブはDVDじゃなくCD-ROMドライブだったりします。DVDドライブは以前外付けで繋いで使っていたのがあったけど、こちらは壊れてしまって、壊れてからはそれっきり。つまり今のわたしのPCではDVDは観られない状態になってるわけです。
ということで期待して手に入れた映画「mississipi One」は新しいPCを買った時くらいまでは視聴するのはお預けという形になってしまいました。まぁ壊れかけてる今のPCなので買い替えはそんなに先の話じゃないとは思うものの、それまで観られないとなるとちょっと欲求不満が高まるかも。

写真集はかなり大きな判で総量4,4キロもある重厚なものなんですが、本そのものの作りはハードカバーでも無くペーパバック程度のもので箱に入って豪華だったもののあまり上質な作りとはいえません。中身は一巻をちょっと見てみた程度では意外とテクストにもページを割いてるという印象。写真だけを無言で並べた写真集とはちょっと印象が異なります。というか、単独で独立したテーマでも持ってる写真集じゃなくて、レコードでいえばベスト盤のような本になってます。わたしはサラ・ムーンの写真集というと「VRAIS SEMBLANTS-幻花」というのと赤ずきんのものしか持ってなかったから、ベスト盤的なものでも知らないものが一杯入ってたのでその点は特に問題なしでした。テクスト部分が多いのはおそらくこういうサラ・ムーンの作家活動を集大成するような視点で組まれてる結果だと思うし、そのテクストにはサラ・ムーンへのインタビュー、サラ・ムーン自身の解題も入ってるようなのでそういうところは面白い構成になってるようでした。今のサラ・ムーンの写真といったときに思い浮かべるようなビザールで幻想的なものになる前の、オブジェがはっきりと写ってるような普通の写真風の最初期のものも収録されていて、最初からあの作風でもなかったと分かるのはちょっと興味深いところでした。
まだ一巻目をぱらぱらとめくった程度でテクストも読みもしてない段階での印象はこんなところかな。それぞれの本の作りや写真のプリントは値段のわりにはあまり豪華でもないけど、写真集としては手ごたえのある感じのものになってました。

これは本とは関係ないんですけど、装苑だったかサラ・ムーンの昔の雑誌のインタビューの記事を紹介してたブログを見つけてそれを読んでみると、サラ・ムーンが使用していたカメラって今はどうか知らないけど、そのインタビュー当時はニコンだったらしいです。映画「欲望」でデヴィッド・へミングスが持ってたカメラと同じ、ニコンのFとF2。廉価版ニコンのニコマートも持ってたけどこれはあまり使わなかったそうです。
サラ・ムーンがニコン派だったと知ってちょっと吃驚。サラ・ムーンの写真を特徴付けてる諸要素はフィルムの現像の段階、印画紙に焼き付ける段階でかなり特殊なことをやって作り上げてると思っていたし、そういう特殊な作業を行うための下地としての素材作りにもそれに相応しいような、もっと特殊なカメラを使ってると思ってました。それがサラ・ムーンはそんな特殊なカメラじゃなくてニコンを使ってると知って、わたしもニコン使いなので、ひょっとしたらわたしもああいう写真が撮れるのかなと、ちょっと希望的な気分になったりしました。
でも同じインタビューの中で、使用してるカメラがなにであるか答えた後で、サラ・ムーンは「カメラの種類って写真とはあまり関係ないと思うけど」、なんていうことも云っていてるんですね。こういうことを云い切れるのはやっぱり写真に絶対の自信があるからなんだろうなぁと、ちょっとうらやましかったりします。こういうかっこいいことをわたしも云ってみたい。

☆ ☆ ☆

サラ・ムーンの写真は写真の絵画的なアプローチの一つの形だと思ってます。サラ・ムーンの写真の特徴的なものを物凄く大雑把に拾い上げてみると、ボケや二重三重になったブレ、そして古びて傷んだようなテクスチャといったところがまず目にはいってくると思います。
ピントに関しては全部とはいわないもののピントを合わせることにほとんど頓着してないような撮り方のものが多いようです。今の写真でボケを使うというと背景をぼかしてメインの被写体を立体的に浮かび上がらせるという効果を狙ってるものがほとんどだと思うんですが、サラ・ムーンのピンボケはこういう意図とは全く反対で、画面のすべてのオブジェにピントを合わさないことで、あるいは二重にぶれた画像にすることで、オブジェの輪郭をあいまいにし、まるで近くのものも遠くにあるものも一緒に溶け合っていくようなイメージを作っていくように見えます。すべてのものが前後の関係を失って同一平面上でお互いの輪郭を浸潤していくような感じ。同じようなボケという効果を使ってサラ・ムーンの写真は立体感を喪失させていくという、今使われてるのとは真逆の意図を実現させていってるようです。
また、まるで現像に失敗したかのような、あるいはしみが広がってまだらになったようなイメージとか、傷が入った画面とか、本来的なオブジェの質感を消してそれに置き換えるようにこういうテクスチャで写真を覆うことも、写真が本来無条件で持っているリアリズムの生々しさや記録性を喪失させ、写真を通して向こうにあるリアリズムの世界に足を踏み入れさせないといったような、よりj絵画的に見せようとする意図があるんだと思います。
しみとか色むらとか傷とか、こういうテクスチャは写真に古びた印象を付け加えて、まるでサラ・ムーンの写真をビクトリア朝の写真のようにしてしまってるのも興味深いところだったりします。それは降り積もる時間を擬似的に写真に取り込んで、これこそが写真の真実だとでも云ってるような感じでもあります。

これは印画紙に焼き付けられたイメージの話なんですが、フィルムそのものに話を拡げても同じことが云えるかもしれないです。
一般的にデジタルとフィルムを比較した時、フィルムの保持性能といったことがフィルムの優位性として上げられることがありますけど、わたしは逆にフィルムはその上に時間が降り積もって変化していくからこそ値打ちがあるんじゃないかと思ったりします。デジタルデータは読み取れる限りはいつまで経っても時間による変化は起きずに、何十年経とうと撮ったその時の映像が見られたりするけど、フィルムは時間経過で色あせてきたりといった変化を取り込んで変貌していく可能性を持ってます。そしてこれは必ずしもフィルムの弱点でもないような気がするんですね。

前の記事で話題にだしたダダイスト、マルセル・デュシャンの作品に「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という奇妙なタイトルがついた、通称「大ガラス」という作品があります。高さ2.7メートルの立てた大きなガラスに独身者の機械といった奇怪なイメージ群を定着させた作品。そのイメージはガラスの上に描かれてるのとはちょっと違って、二枚の大きなガラス板の間に油彩や鉛の箔で形作ったイメージを挟み込んだような形になってます。この作品そのものは結局未完のまま放置という道筋を辿るんですが、ある時この「大ガラス」を運搬中に不手際があってかなり大きなひび割れが幾筋も作品全体に入ってしまうことになります。その時その出来事に対してデュシャンは偶然が作品に加えた一要素として、そのひび割れを「大ガラス」の完成へと繋がるひとつの構成部分として受け入れてしまいます。壊れたと判断してひび割れを修復するんじゃなくて、時間が与えた影響も作品の一部分として取り込んでしまったわけです。今遺作とともにフィラデルフィア美術館に展示されてますが、今ももちろんガラスはひび割れたままになってます。
ちなみにこの作品はマン・レイが「埃の培養」というタイトルで写真を撮って作品として残してます。

The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass)
フィラデルフィア美術館の「大ガラス」のページ。作品の写真があります。


こういう考え方をフィルムにも敷衍すると、経年でいろいろと最初にはなかった要素がフィルムに付加されていくことは、写真が決して写した時間で凍り付いてしまったものではなく、死んだ時間を定着させたものから、時間をも取り込んで生きてる状態に移行していくものと考えることが出来るようになります。なんだかこんな風に考えたほうが面白そうです。時間において開かれてるというのはフィルムの持つ、ひょっとしたら魅力であり特権でもあるのかもしれません。

サラ・ムーンに話を戻すと、サラ・ムーンの写真はこういう時間の降り積もった絵画のような表現に、モノクロだから際立ってる光と闇の表現を従えて、サラ・ムーン独自のモチーフを載せてるという形の写真になるわけです。モチーフは古びたような加工を施してるから何処かノスタルジックなイメージになってるものがほとんどなんですけど、古い写真といっても懐かしいイメージとか甘美な感情が付随してるようなものでもなく、叙情に流れるよりはどちらかというと夢魔に近いようなもの、たとえば「アリス」の物語が持ってるちょっと生臭い毒気があるような領域につま先を浸してるようなところがあって、単純に郷愁的なものに収斂していかないところが特徴であったり魅力であったりするように思われます。


サラ・ムーンの写真をスライドショーにしたものがあったので。7分ちょっとで少し長いです。




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去年の10月頃に嵐山に持って行ったきりだった、ハッセルブラッドを久しぶりに連れて宇治川流域に写真を撮りに行きました。ハッセルブラッドは持って出るのにちょっと気合が必要なところがあって、10月以降気分的な切っ掛けがつかめずになかなか持ち出せませんでした。ハッセルブラッドは持ち出したとしてもシャッター切るのに、ここで本当に良いのか?本当にこの光景を写真を撮りたいと思ってるのか?これが撮るに値するものなのか?とやたらと自問自答してしまい、なかなかシャッターが切れないという状態になり勝ちなカメラ。少なくともわたしにとってはそういう側面のあるカメラで、ブローニーフィルム一本で12枚しか撮れないんですけど、躊躇いながら撮ってるものだから、今回この12枚を撮りきるのに2日ほどかかってます。持ち出した最初の日はシャッター切れたのがたったの二枚。サブとして持って出てた同じくモノクロを詰めたLC-Aは結構撮ってたのに、ハッセルはたったの二枚で、日を変えて宇治川流域を再訪した時に、とにかく構えたらシャッターを押すという決まりごとを自分に課して残り10枚を撮りきるということをしてました。
凄い好きなカメラなんだけど、物理的な重さもあったりして、のめりこんで使ってると何かと疲れ果てるカメラでもあります。だからそれが分かってるから持ち出す時から勢いがないとなかなか持ち出せずになってしまうんですけど、出来上がった写真を見るとあくまでも自分の腕の範囲内ということではあるものの、レベルが異なってるような仕上がりの写真を目にする確率が多くて、そういうのを見てしまうと、疲れ果てたのもちょっと脇に置いておいてまたこれで撮ろうって思わせるカメラでもあったりします。知らない間に気合入れたような状態でファインダーを覗き込んだりしてるものだから使い終わったときは疲れてるんだけど、疲れるからもう使うのは嫌という風にはなかなかならない不思議な魅力のあるカメラです。

今使用中のハッセルブラッドの状態
Nikon Coolpix P5100
今使ってるハッセルブラッドの形はこんな感じ。一昨年に父から譲り受けた時の形はその時に写真を載せてると思いますけど、プリズム・ファインダーにA16フィルムマガジンという組み合わせで、わたしが使いたかった形とは異なってました。ウエストレベル・ファインダーなら確かに持ってたという父の言葉で、その後家捜ししてなんとかウエストレベル・ファインダーをみつけ、6×6の真四角写真が撮れるA12フィルムマガジンを中古ショップで見つけて購入し、これでわたしが使いたかった形となりました。
写真の四角い煙突状に上に突き出た部分がファインダーでここから覗き込んで構図を決めたりします。ただし構造上ファインダーの画像は左右が反転していて、これは最初ちょっと戸惑ったりします。すぐに馴れますけどね。
ちなみにファインダーに浮かび上がる像は驚愕するほど立体的で綺麗です。これ、始めてみた時は感動ものでした。


そんな辟易してるのか陶酔してるのか良く分からないハッセルブラッドを、首から下げると重さで筋でも違えそうなので肩からたすきがけにして、宇治川の川縁へと写真を撮りに行ってきたわけです。
植田正治の砂漠の写真を見ていたりして、植田正治が砂漠を舞台にしてシュールな写真を撮ってたのは砂漠だと余計なものが画面に入らないからと言う理由もあったと知り、私は街中で撮ってるのがほとんどだから、撮るものの大半が色々といらないものも一杯写った雑然とした写真になっていて、一度そういう広々としたところで写真を撮ってみたいなぁと思ってました。
京都でそういう広々としたところはないものかと、高さ制限で高層ビルの類はない都市だけど、それでは垂直方向じゃなくて水平方向に制限のない場所ってあるだろうかと考え、それで思いついたのが京都の南のほうにある小椋池の干拓地でした。昔ここには巨大な池があって、その池全域が干拓された後、今は広大な農地になってる場所です。そう思って行ってみると確かに広大で見渡す限り何もない空間は街中でやたらと視線が跳ね返されるような閉鎖的な空間を見慣れてる目には開放感で圧倒されるような新鮮な感覚を覚えました。
最初に小椋池に様子見に行った時はハッセルブラッドとは別のカメラとモノクロを詰めたLC-Aと言う組み合わせで訪れて、でも写真に撮ってみると、あまりにも何もなさ過ぎというか、何もないくせに農地であることだけははっきり分かるようなロケーションでちょっと撮り難いという感じの場所でした。その日は干拓池で主にLC-Aを使って写真を撮って帰宅。もうちょっと何か写すきっかけのものでもないかと思って、次に行った時は干拓池の北端を流れてる宇治川の川縁を歩いてみることにしました。

広大な場所で写真を撮ってみたいと思いついた時、思惑にあったのはとにかく広大な場所で、見渡す限り荒れた草原のようになってる場所、しかもそのだだっ広い空間のそこかしこに奇妙なオブジェでも転がっていそうな場所、妖しげな研究所の廃墟でも朽ち果てるように建っていたら雰囲気最高とでもいえそうな荒涼としたイメージの場所でした。

でも小椋干拓池に隣接してる宇治川河川敷をさ迷い歩いてみても、複数の多目的なグラウンドが無造作に何枚も並べてあるだけ、その周囲をわずかな木が囲んでるだけの、ただの広い空き地と紙一重の宇治川公園と、公園を越えて歩いていっても、その向こう側に広がっていく鉄塔が立ち並ぶ葦原と云ったものにしか出会わ無いという場所で、視界を遮らない光景は広がるものの、被写体の少なさはまだ農機具なんかが放置されてた干拓池のほうがましだったといった感じでした。

そういう状態の中で撮ってきた写真はこんな感じのものになりました。

荒涼たるもの1
HASSELBLAD 500C/M Carl Zeiss Planar 80mm f2.8 T* : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

宇治川公園のグラウンドに降りていく道の側にあった木。瘤のようになったところで枝が途切れてるという枯れ木はよくみるけど、この木のその先に伸びてる枝がなんだか指というか爪というか、そういうものに見えてちょっと興味を引きました。
暖かくなってから一度また訪問してみると、枝の先に葉っぱが出てたので、枯れ木でもなかったようでした。

荒涼たるもの2
HASSELBLAD 500C/M Carl Zeiss Planar 80mm f2.8 T* : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

グラウンドの脇に生えてた木です。宇治川公園は本当に目を引くものがあまりないなぁと思いながら、枝ぶりが大仰で寒々とした木を撮っておこうと思ってシャッターを切りました。宇治川公園に写真撮りに行ってた時はやたらと木ばかり撮ってました。それが一番目だってたからなんでしょうけど、こうやって写真を整理してると、誰も使ってないグラウンドのくたびれたフェンスのようなものも撮っておいたほうが良かったかなと思います。後になってこういうことを考えるのはわたしは多いほうかもしれません。GW中も奈良に行って写真を撮ってたんですけど、こんなのもあったけどもう一つどういう風に撮れば良いのか判断つかなくて撮れなかったなんていう話しを父としてると、とりあえず撮ってみないと始まらないから、そういうのも撮ってくるべきだと思うというようなことを云われました。

ハッセルブラッドの写真はこうやって見てみると、ツァイスのレンズもそうだけど、面積が広い中判フィルムの利点がよく出ていて、35mmのフィルムで撮るよりも枝の感じなんかはやっぱり精緻で立体的に写せる感じがします。

荒涼たるもの3
HASSELBLAD 500C/M Carl Zeiss Planar 80mm f2.8 T* : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

こんな風に、向こうの川縁に林が少しある程度で、あとは、グラウンドが並んでいただけの場所。グラウンドは主に野球に使われてるようでした。でも公園の外れにあるグラウンドでは広いグラウンドをゴルフの練習で一人で使ってるおじさんがいたり、思えば荒涼としたものというコンセプトで無人の荒野のようなイメージが先にあったから最初から人は撮る気がなかったんだけど、こういう広いグランドで一人でゴルフしてる人というのも荒涼とした被写体だったかもしれません。写しておけばよかった。

これは今回撮った写真の中ではわりと気に入ったものです。配置のバランスが上手く取れてる感じ。丸い要素の木の並びと手前の横方向のラインの組み合わせと、そんな構図的なことだけ考えて撮った写真だったりします。
ちなみに手前の土手の上から撮っていて横方向のラインはグラウンドへ降りていく道とその斜面に映えてる草の面が交互に繰り返されることでこういう形になってます。中央に頭だけ見えてる木は一番最初の写真の木。この構図の中ではちょっと唐突な余計物かな。

荒涼たるもの4
HASSELBLAD 500C/M Carl Zeiss Planar 80mm f2.8 T* : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

水道管?ガス管?どちらかはよく分からないけど、使われてなかったグラウンドの少し外れたところに地面から屹立していたオブジェ。これはグラウンドを始終使うような人にはグラウンドにはあって当たり前の、おなじみの設備なのかもしれないけど、わたしには判断不能のものでした。おそらく保護するためだと思うけど布切れが巻きつけてあって縄で縛ってありました。
奇妙というには水道管とかガス管とか云う具体的なイメージに流れすぎてるものの、布がかけられて縛られてることでちょっと引き立つ感じになってました。奇妙さを狙って撮れたオブジェは今回はこれだけ。このすぐそばの林の中にグラウンドで使っていて壊れたものが投げ捨てられていたりしたのも荒涼としてたんですけど、元の用途が分かるものばかりで犯人の名前が大書きされてるミステリが散らばってるようだと思うとシャッターを切るまでには至らずじまいでした。

荒涼たるもの5
HASSELBLAD 500C/M Carl Zeiss Planar 80mm f2.8 T* : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

宇治川公園をちょっとはなれて対岸の住宅地を歩いていて出会った家。
絶対に廃屋だと思って、前に立って露出を計ったりしてたら、新聞配達の人が自転車でやってきてわたしの目の前で止まり、この家に新聞を投げ入れていきました。廃屋じゃなかったんだ!
ということで他人の家を間近まで近寄って覗き込むことも出来ずに、中途半端な位置からの撮影となった一枚です。
こういう家を撮る時にこのぐらいの位置からこのくらいの範囲で画面に納めてしまうのが一番説明的で、一番面白くないような気がします。これならもうちょっと周囲の光景も入れて場所の雰囲気ごと撮るか、特異な被写体だからといって植物で覆われてる特異なところを全部撮りたくなるのを押さえ、住人がいるとまず出来ないけど、全体像なんかお構いなしに、近寄って一部分だけ切り出して撮るほうが絶対に良いです。

あと、建物とか撮る時にガラスに自分が映るから無意識的にでも斜め方向から撮ることがほとんどなんですけど、こういう被写体は真正面からグラフィカルに撮ったほうが面白そうだなぁと云うようなことも帰ってから眺めてる時に思ったりしてました。

☆ ☆ ☆

宇治川公園には他にもLOMO LC-Aを持っていって撮ってました。LC-Aといえばロシアのコンパクトカメラ、その作りのあまりの未完成振りに普通のカメラとしてではなくトイカメラとして人気が出たカメラです。もともときちんと動いていても担当した組立工のウォッカの量で出来が異なるような不安定なカメラなんですけど、この小椋干拓池や宇治川河川敷、フィルムの残りを撮るのに奈良の平城宮跡にも連れて行った時のLC-Aはとにかく不安定というか本当に調子が良くなくて、露出がばらばら、昼撮ってるのに、まるで夜みたいな画面になってたりといった具合に得体の知れない写真を量産する結果となってました。

LOMO LC-A
NIKON COOLPIX P5100
ちっとも云うことを聞いてくれないLC-Aです。最近汚れを落とそうと無水エタノールで拭いたら、正面のロゴが一部消えてしまいました。


宇治川河川敷で写真を撮っていた時にフィルムは2本消費。一本目を現像に出してる間にその結果を見ずに2本目を詰めて撮ってたので、フィルムを新しく詰め替えた時に調子が今ひとつなのに気づかなかったんですね。それとこのカメラ、たまに光漏れするんですけど、いつもはたまにという頻度だったのが今回は全コマに光漏れ発生。発生箇所は写真の隅だったので、これはトリミングで消し去る処理をする結果になりました。オーロラのような光の幕がかかる感じの面白い光漏れだったら残しておく可能性もあったものの、この光漏れは筆で書いたように強く出てたので邪魔なものにしか見えなかったです。
もう一つ、推測としては現像所のほうでついたんじゃないかと思うんですけど、現像に出したフィルムが結構傷だらけで返って来ました。現像所でついたと予測はしていてもカメラに原因がある可能性もあるので、これに関しては傷がついてるのに気づいた後で撮ったフィルムを結果を見るために違う現像所で今処理してもらっています。今回の記事に載せるのに光漏れ同様スキャンして傷が出てるところはトリミングかフォトショップで消し去る処理をしたりして、凄い手間がかかってしまいました。
デュシャンが「大ガラス」に入ったひび割れを受け入れたのをかっこいい思考と思い、フィルムも開かれた時間を含んで変化していくのが特質と書きながら、やっぱり帰ってきたフィルムに傷が入ってたら気がめいるわけで、明確に言行が一致してないわたしだったりしてます。

という感じで結果としてはあまりぱっとしてなかったLC-Aの写真も何枚かアップしてみたいと思います。

葦の原と鉄塔
LOMO LC-A : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

宇治川公園の側を過ぎて河川敷の土手を歩いていくと一面の葦原が目の前に広がってきます。葦原には距離を置いて鉄塔が建ってるだけで、他の建物は一切見当たりません。葦原は所々踏みならされ奥に向かう道のようになっているところがあり、そういうところには立ち入り禁止の柵が設けられてたりするんですけど、柵は倒れたりして入る気になれば簡単に入れそうな感じになってます。
これは唯一工事中で基部に大掛かりな足場が組まれていた鉄塔。警備の人はいるけど工事現場にしては余り人気のないところだったので奇妙な雰囲気につつまれてました。

河川敷NOWAVE
LOMO LC-A : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

河川敷なんかでよく見るブロックの斜面。
ここでシャッターを切ったときに頭にあったのは、中心軸を欠き、飽和していて、無意味であり、ざらついた何かが神経をささくれ立たせるようなもの、といったことでした。いうならば80年代前後にニューヨークのアンダーグラウンドでNO WAVEのバンドが演奏していたような音楽に通底したコンセプトによる写真。ノイズ的なそんな音楽的なものを写真と云う形で撮ってみたかったと思ってシャッターを切った結果として得た一枚です。
神経をささくれ立たせるほどのところまでは結果としてはいかなかったかな。それに上を覆う蔦で目立たないかと思ったブロックがやっぱり河川敷っぽい具体的なイメージを持ち込んで、こういうのもあまり良くなかったです。



ちなみに NO WAVEのバンドの音ってこういうの。はっきり云ってノイジーで喧しいので、最後まで聴くのは苦痛かもしれないけど、写真のコンセプトだといったものの参考に、良かったら聴いてみてください。

NOT MOVING - DNA


DNA fhoto
こんな人たち。

ブライアン・イーノがプロデュースした、NO WAVEのバンドを集めたコンピレーション・アルバム「NO NEW YORK」のなかで、コントーションズと並んで好きだったバンド、DNAの演奏。チューニングもせずにコードも知らないで弾くノイジーなギターとフリーキーなボーカルでDNAを率いていたBEM風風貌の才人アート・リンゼイはのちにブラジル音楽という、もともと子供の頃をブラジルで過ごした人だったらしいから必然といえば必然なんだけど、DNAからみると予想外の方向に進んで行くことになります。さらにドラムのイクエ・モリは日本人。日本人が参加という辺は日本人のわたしとしては結構ポイントが高かったりします。この人は数年前にCDが出てたのを見かけたので、まだ音楽活動してる模様です。





侵食する影
LOMO LC-A : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

得体の知れない写真として投げ出しておくと、それなりにかっこよさそうですけど、壁に映った木の影です。これ、実は木の本体も写ってるのに影と区別できません。おまけにこれで昼間に撮った写真だというんだから。
LC-Aのこの時の露出の不安定さは、ひょっとしたら電池の容量も関係してるのかもしれないと思って、今入れてるフィルムを撮るため電池を新しいものと交換してみました。結果はすぐには分からないけど、電池が原因ではなかったら、やっぱり驚異のカメラって云うことになりそうです。

雲間
LOMO LC-A : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

宇治川の河川敷から。雲間から光芒が伸びていたのをスナップ。非常に良くみるタイプの写真だと思います。撮るならばかなり工夫して撮る必要がありそう。と言ってもあまりにも奇を狙ったようなのも鼻白むかもしれないのでこういうのを撮るのは難しそうです。
もうちょっと光芒がはっきりと出てるとよかったんだけど、そういう瞬間を待ってもたもたしてると太陽が雲の陰から出てきてすべてが台無しになるんですよね。

鏡面
LOMO LC-A : FUJIFILM NEOPAN ACROS 100

これもちょっとありがちかなぁ。
いつだったか唐突に暴風雨になった日があって、その翌日に宇治川公園で撮った写真です。いたるところに前日の雨による水溜りが出来ていました。その水溜りに映りこんだ荒涼とした木を撮ってみた一枚。雰囲気のある水溜りとかそうしょっちゅう見るものでもないので撮ってみたけど、写す際の工夫とかあまり思い浮かばなかったです。
「荒涼としたもの」って云うテーマはわりと分かりやすいところからイメージを切り出しやすいテーマだったかも。テーマとしては、わたしだったらすぐにホラー映画の一場面を思い浮かべたりして、類型化されやすいものだったような気がします。

☆ ☆ ☆

これを書き続けてる間に、LC-Aの調子を見るために撮って現像に出していたフィルムが仕上がって返って来ました。電池を新品に換えて、このカメラはLR44かSR44どちらかの電池が使えるようになっているので、これまではLR44を使ってたのをSRのほうが安定してるというのでそちらを使って撮ってみた結果、電池交換後に撮ったものは露出に関してはすべてセーフ、元々不安定がデフォルトのカメラだから正確かどうかは分からないけど、絵的に破綻するほどのアンダーになったコマは一つもなかったです。アンダーどころかヒストグラムをみるとどちらかというと露出オーバーになってる感じ。ということで露出に関しては電池の容量が少なくなってた結果と考えても良さそうでした。傷のほうは隅に一本はいるところがあるものの細かい傷は解消されてる感じ。あとは光漏れなんですけど、これは未だにどこが漏れてるのか良く分からない状態です。返って来たフィルムはなぜか光漏れのコマは激減してたものの、皆無になったわけでもなく、それらしいところに斜光用のパーマセル・テープを貼って漏れが防げるかどうか確かめてる最中です。でも未だにここが漏れてると予想した場所はことごとく外れ、確定できてません。なんか3本ほど手間がかかり気落ちするようなフィルムを手にしたために、今カラーのフィルムを入れてるもののこれを撮り終えたら、カラーの出来栄えによっては、しばらく他のものを使おうかなと思案中です。LC-A使うのにちょっとうんざりしてきた。

☆ ☆ ☆

今回「荒涼としたもの」というような、テーマというほど大層なものでもないけど、そういう感じのものを頭の片隅に置いて撮ってみた感想は、荒涼としたものとはその時感じられなかったもの、普段そういうテーマらしいものを持たずに撮影してたら撮っていたかもしれないものを、テーマを頭に置いたために、テーマとは隣接しないものとして撮らずにやり過ごしてた部分が結構ありそうということでした。無意識的に視覚が引っかかり、なぜ気になったかはその場では分からないままにカメラを向けるということがあまりなくて、結構頭で考えて撮っていたところがあった感じ。そういうのがいいのか悪いのか良く分からないけど、ちょっと限定された思考方法で行動していたところがあったようです。

それとテーマ的なものがあってそれが上手く画面に定着させることが出来たら結構力強い印象になるかもしれないと思うものの、下手をすればシンプルになりすぎるところもありそうだなぁということも思いました。何らかのテーマがあったとしても、その一つのテーマに収斂していかない何かが複層のレベルでどこかに混在してるほうが、画像としては面白い出来になるんじゃないかなと。
これもあまり混在してると収拾がつかない印象になりがちですけど、その辺が感覚の勝負どころなのかなと思ったりします。

今回カメラを抱えて宇治川公園で歩き回ってた結果は正直なところ写真としてはそんなに気に入ったものも撮れないままに過ぎていったという感じでした。でも写真はそれほど撮れなかったけど考えることは撮れた写真の量に比べて意外と多かった撮影行だったようです。



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Chrono Cross OST - Dimension Breach


スクエアのゲーム、クロノクロスに使われていた曲です。日本語のタイトルは「次元の狭間」で、タイトルから受ける危なそうな印象とは結構異なってる感じの曲です。
ゲームのほうはもう細かいことなんか完全に忘れていて、この曲が流れていた場所の役割も正確には覚えてないです。時間の中で忘れ去られてしまった廃墟のような静謐なイメージの所だったと記憶してますが、そういう時の果てにあるような場所でこの曲が静かに流れていました。穏やかで、平穏さに満ちていて、このゲームの中で飛びぬけて気に入ってしまった曲だったので、ゲームをやってる間でもゲームの進行なんか関係無しに、用もないのにここにやってきてはこの音楽を聴いてました。
作曲は光田康典。クロノクロスで使われてるほかの曲はゲームに相応しいような勇ましくてにぎやかなものがほとんどだったと記憶していて、この曲に関しては突然変異的な印象を持ってました。
スクエアのゲームというと音楽で代表的なのはFFシリーズの音楽を担当していた植松伸夫になると思うし、この人は日本の音楽では屈指のメロディ・メイカーだったという評価は変わらないんですけど、この曲のメロディ・メイカー振りに関しては光田康典も負けてはいないです。

ゲーム音楽って意外と手が込んでるというか、しっかりと独創的に作られてるものが多い印象です。すぎやまこういちがゲーム音楽のフィールドで仕事をし始めたのと反対に、もし歌謡曲といった分野が壊滅的にならなければ、こういう人たちって歌謡曲の職業作曲家になってた人が多いんじゃないかなと想像したりします。特に好きな音楽が多かったのはスクエア、コナミ、任天堂辺りの出してたゲームの音楽だったんですけど、たとえばゼルダやマリオの曲とか、物凄く自然に耳に馴染むのに、メロディラインは他に似てるものがないくらい、良く聴いてみると独創的だったりして、曲の完成度の高さに吃驚しますよ。






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