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空の網目、花の街。 + Howard Roberts - Girl Talk

花の街
花の街角
2015 / 04 / Olympus μ2 + Olympus Lens 35mm f2.8 / Kodak SuperGold400





花篭自転車
花篭自転車
2015 / 06 / Nikon FM3A + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Lomography Color Negative 100





空の網目
空の網目
2014 / 03 / Nikon F3 + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Fuji SUPERIA PREMIUM 400


先日テンプレートを変えてみました。以前のはいつの頃からかタイトルバックの色面の四隅が上手く表示されなくなって、ブログの内実には影響はなく、目立つ傷でもなかったんだけど、どうも気になるというような状態になってました。
写真を表示するのでできる限りモニタ画面を全域で使えるようなものというのが条件だったんだけど、FC2にはそういうのはあまり揃ってません。見つかってもなんだかダサいとか、そんなのばかり。
そのなかで、これしかないと思ったのが、この今使ってるテンプレート。実はわたしが選んだ時には公式テンプレートのトップに置いてあった、探すのも無意味だったテンプレートでした。
とにかくプレビューしてみると、段違いに写真が映えます。他ので試してもPCのフォルダに放り込んであるものが外に出ただけって云う印象しか与えないのに、このテンプレートだけまるで写真のグレードが上がったような印象でモニタの中に現れました。
際立って見えるのは、単純にサイドのバナーを下にまとめて、白バックの上にシンプルに配置してるだけのように見えながら、所々に使ってる黒の色面の分量だとか全体の配置だとか、また文字の大きさとかが適材適所的に決まってるからなんだろうと思います。
下のほうまで眺めれば、プロフィール画像が大きめのサイズで置かれてるのも、バランス的な感覚が駆使されてる感じがするし、トップに視線を返せばタイトルバックの黒の分量も、単純にタイトルを載せるためだけならこんなに分量はいらないんだけど、このテンプレートの質感を出すためにはこれだけの分量の黒の色面が必要だと、ただ広い面が必要というだけじゃなくて、その分量までも的確に判断されてるようにみえます。

で、これが凄く気に入ったんだけど、実はブログの管理画面で保存はしたものの、実際に変えてしまうまでには暫く時間を置いてました。1カラムっていうのが、どうなんだろうと思って。ブログを始めた時は3カラム、途中から2カラムにしたけど、1カラムというのは使ったことがありませんでした。
一応この部分にも情報を乗せてるんですよね。たまにクリックしてくれる人がいる、使ってみて感動したタマリスフィトリークの場違いな紹介だとか、お気に入りの写真集のウィジェットだとか。
写真集のほうは気が向けば内容の一部を変えたり追加したりしてるし、このなかからピックアップして記事のほうに何か書いたりもしてます。
今までサイドに載せていたこういうものが完全に隅に追いやられて機能しなくなりそうだなぁって言う危惧があって、保存はしたものの実際に使うのはちょっと躊躇ってました。
結果的に写真の見え方がとにかく良くなるというのが一番だと思って、変更することにしたんだけど、使ってみて数日経過した感じだと、変更してよかったかなと思ってます。思いのほか気分一新されるし、そういうのはやっぱり歓迎すべきことだと。
ただ変更した結果、上に書いたお気に入り写真集のテキストが上手く表示されなくなってるのが、新しい傷ともいえるんだけど、写真の見栄え優先だから、これは仕方ないこととして置いておくしかないといったところか。

☆ ☆ ☆

今回の写真は柄にもなく花が関わる写真。厳密に云うと一番下のは花じゃないけど。
花の類はたまに思いついた時にしか撮らないから、使ったカメラは全部異なったものとなってます。どれもお気に入り、ニコンの二種類の一眼レフは常時メインで使ってるものだし、オリンパスのは防水で、雨の日にも使えて写りもいい上に、店の人の「これ、動くかなぁ」という声とともに確か100円で買ったから、なんだか掘り出し物を見つけた気分が未だに上乗せされてます。

真ん中の写真はヨドバシカメラのデジカメ売り場に掲げてある、スタッフが撮りましたとキャプションがついた作例写真のようだ。

☆ ☆ ☆

根がそれほどロマンチストでもないから、花を撮ってもあまりロマンチックなものにならないなぁ。どこかで従来的なものからはちょっと外そうっていう意識もあったりはするんだけど、それにしても「わぁ綺麗」って云う方向にはなかなか向かない。
今もまだ流行のような、癒し系の写真とか、また対極にあるシリアスで重厚な写真とかも、あまり資質でもなさそうで撮ろうという気にはならないし、自分の撮り方を省みてみると、大体今まで写真が扱ってきたこれこそ写真といった文脈に、これは途中から垣間見るような係わり合いの仕方をしてるからだろうと思うんだけど、そういう王道的なものに浸かりきるほどにはその文脈の中にはいない感じもする。軸足は写真的なものというよりも美術的なほうに傾いてる感じ。というかそういう傾斜で撮ってみたいといつも切望してる。

自分にはどういう写真が撮れるかなんて、撮ってみることでしか形としては現れてこないから、撮ることで見出していくほかないんだけど、今はまだ亡羊としたものの真っ只中。
花を前にしてロマンチックに一歩踏み入れるんじゃなくて、別の方向に数歩踏み出すような撮り方、「風景写真」という言葉に何だか妙な抵抗感を感じる感覚、そんな感覚は一体どんな写真を撮る方向へ導いてくれるんだろう。

☆ ☆ ☆

それでも撮ってみたいと思うものはあって、それは何かというと、耽美的、退廃的なもの。
澁澤龍彦の昔から、こういうものへの傾向、偏愛は止みがたくありました。
でもこれは街中のスナップではまずほとんど不可能というのは分かってます。
耽美的、退廃的というので一番に思い浮かぶのはジョエル=ピーター・ウィトキンだけど、こんなことはとてもじゃないけどできないし、やったとしても二番煎じ丸出しになるだけ。


☆ ☆ ☆


Howard Roberts - Girl Talk


曲は映画「ハーロウ」の主題歌です。元歌はジュリー・ロンドンが歌ってました。
ハワード・ロバーツのギターは、ここで数曲ピックアップしたことがあるバディ・コレットのアルバム「BOSSA NOVA」で演奏していたのがお気に入り。
土臭さとは無縁の洒落た演奏で、そういう特徴はこの曲でも良く現れてると思います。
そんなに難しいところもなくイージーリスニング的に聴けるのもいいし、ギターとオルガンがよく合うって言うのの最上の例にもなってるかもしれない。






ラウンジミュージックのコンピレーションアルバムのシリーズ、ウルトララウンジの一枚。これ全部で何枚リリースされてるんだったかな。この曲はハワード・ロバーツのアルバムとしては「Goodies」って云うのに入ってるんだけど、入手困難です。

このシリーズは選曲もいいし、ジャケットデザインも洒落てる。盤ごとにテーマ的なものを決めて選曲していて、シリーズ全体としての印象は昔の日活映画にでも出てきそうなキャバレー的な曲や、モンド系の怪しげなダンスミュージックなんかの玉手箱といったところかな。





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街の肖像画#14 跳躍する光 見切れ椅子 + Albert Watson 写真集「Cyclops」

Step the light is bouncing
光が跳ねる段差
2015 / 03 / Kodak SuperGold400





3つの椅子
3つのカラフルな椅子
2015 / 01 / Fuji Natura1600


最初のは四条烏丸の交差点、三井ビルを地下道から上がってきたところ。二枚目のは確か大阪梅田の大丸、トイレに向かう通路にあった待合的な空間で、通路にちょっと顔を出していた色の塊が面白くて目を引いた場所でした。顔文字の |ω・`)チラ みたいなものも連想しました。
イメージは極めて断片的でいつものごとくあまり情緒が絡まない、乾いた撮り方になってます。クールな写真は撮ってみたいけど、これはクールというよりもドライという感じかも。もうちょっと情緒を乗せるほうがいいのかどうか、出来上がった写真はいつもどこか腑分けしてるような撮り方だなぁと思うところもあるんだけど、やっぱりこういうのが自分の世界を見る視線なんだろうと思ったりして視線は揺らぎ、そういう視線の揺らぎのようなものを写すのも、写せるものならば面白いのかなと思ったりもします。
それと今回の写真は何かがいろいろ足りないような気がする。シンプルというよりも物足りなさが先にたってる。
でも何が足りないのか答えが出てこない。


このところ「街の肖像画#~」なんていうタイトルで記事を書き続けてるけど、まぁいちいちタイトルを考えないですむのは楽ではあるものの、これ、全部の記事をこのタイトルにしてしまうと、個別の意味も乗らずに、全部同じならいちいちつける必要性もないわけで、やっぱりそれぞれに区別できるものをつけたほうがいいのかなと、ちょっと迷いが生じてる今日この頃。
前にも書いたけどタイトルとかつけるの本当に苦手。ひょっとしたら何を撮ってるのか自分でも判ってないんじゃないかと思うくらいある共通した意味合いで纏めるのが苦手だし、意味のありそうなタイトルをつけようとしても、その方向では有意味なフィールドに辿りつけないんじゃないかと思うものもあって、テーマで纏めると今回のような写真はどういう形で記事にしていいか分からなくなってしまいそうです。

とかなんとか云いながら、それなりにイメージに安定感が出るから、見たままの個別タイトルをそれぞれの写真にくっつけてみたりして。

☆ ☆ ☆

なんだか事あるごとに意味がどうのこうのって言う話題にふれてます。読み返してみて、対象と意味の関連とか乖離とか、自分の中で自分でも思わないほどシリアスな位置にあるのかも。


☆ ☆ ☆

アルバート・ワトソンの写真集「cyclops」です。アルバート・ワトソンの写真集としてはこれが一番最初に出たものらしくて、処女作にすべてが詰まってるなんて云う説に従うと、ここにはワトソンの写真のエッセンスが詰まってるといってもいいかもしれません。
まず「cyclops」って云うタイトルがかっこいい。写真集を見てみると怪物の姿なんてどこにもないし、その内容とはあまり関連してないようだけど、写真集のタイトルとしてはどんなコンセプトで撮られたんだろうと興味を引く意味深なタイトルではあります。
これは情報としては以前から知ってたんだけど、アルバート・ワトソンは生まれつき片目が見えなかったということで、でもこのタイトルとその事実がわたしの中で結びついたのは結構後のこと。気づいた時は、あぁ成程、とパズルピースが組み合い、所定の位置に収まった感じでした



albert watson1



生まれはスコットランドの人、奥さんの仕事の都合でアメリカにやってきて、もともと大学でデザイン関係の勉強はしていたそうだけど、ここで写真家としての自身のキャリアをスタート。のちにヴォーグやハーパースバザーなどで活躍することとなります。そう、活躍の場とした雑誌の名前で一目で分かるとおり、ファッション写真の分野で頭角を現した写真家の一人で、作品はファッション関連だけに留まらず広い範囲をカバーする活動になってるけど、どの写真もそのコアの部分にファッション写真の撮り手であることが明瞭に存在するような、クールでかっこいい写真が目白押しとなってます。
「cyclops」は全写真モノクロでファッション関連が主な活躍の場所ということもあるのか、ポートレートの写真が多いです。
わたしはポートレートって撮ったことないし、撮られた写真を見てももう一つよく分からないっていうのが本音のところで、可愛らしい、美人だ、くらいの反応はするけど、基本的にこの人、誰?って云うところで止まってしまうし、しわだらけの老人の顔とかいかにもイノセントな子供を出して、ヒューマニズムと絡めて何か言いたげで、分かった風な写真は、写真に人生なんか写るかよとばかりに大嫌いとくるから、基本的にはあまり馴染まない素材なんだと思います。
でもこの写真集に出てくるポートレートはファッション的なセンスに軸足を置いて、被写体となってる人物もクラプトンだとかクローネンバーグだとか、マイク・タイソンだとかキース・リチャーズだとか、デニス・ホッパーもいるし挙句の果てには坂本龍一まで分野を越えて有名人ばかりとなると、ポートレート不感症のわたしでも結構興味深く見ることが出来ます。

モノクロの質もトーン重視の人だとまるで版画だと拒否反応が出るかもしれないくらい、影は漆黒に沈みこんでエッジが効いた写真が多いです。ポートレートもオブジェの写真もそんな感じで、漆黒の影を作り出すための、モデルへのライティングとかは、モノクロのポートレートを撮ろうとする人にはかなり参考になるかもしれないと思います。ただ実際にやってしまうと完全にワトソンのコピー写真になってしまうのが落ちだと思うけど。


cyclops1





cyclops2


フィリックス・ザ・キャットの写真と、腕を出したドライバーの写真が凄い好きです。結構前に薬局の前のうさぎの人形の写真で、まさにこんな感じのを撮ったことがあるんだけど、後でこのフィリックス・ザ・キャットの写真見て、圧倒的な存在感の差にめげた事がありました。一体どこにこの存在感の差が出てくるんだろうと。結局自分のうさぎの写真は未だにここに載せてないんだけど、そのうち比較対象でさりげなく載せてみようかな。
ドライバーの写真はデザイン感覚の勝利っていうところ。リアルな空間は色々と雑多なものが存在してるから、その雑然としたところから、こういうシンプルな切り取り方が出来る発想力はもう単純に凄いとしかいいようがない。デザイン方向にのみ突出させたソール・ライターって云う感じで、より街中でのスナップショットにシフトした位置で、斬新なデザイン感覚を持ち込んだ、そのソール・ライターの写真も好きだし、絵的な構成力が際立ってるのがやっぱりわたしの気を引くようです。

もう一つ、全体にクールでかっこいいイメージの写真集なんだけど、その印象に一役買ってるのがデヴィッド・カーソンが担当したタイポグラフィーのセンス。まさにプロフェッショナルになるべくしてなった才能って云うのはこういうものだろうと思わせるセンスは表紙のデザインから全開状態になってます。写真もそうだけどこういう写真を引き立ててるセンスもこの写真集の特筆すべきところなんじゃないかと思います。






実はこの写真集、オリジナル以外にコンパクト版も存在していて、このアマゾンリンクのものは商品情報だとオリジナル版のようだけど、レビューを見るとコンパクト版のレビューも混じりこんで、一体どっちの版か分からなくなってます。
ここで買うのは、どのバーションがやってくるかが分からないので、ちょっと危なっかしいところがあります。
当然オリジナル版の大きな本のほうが写真を十分に見回すには最適で、コンパクト版は予想以上に物足りないんじゃないかと思います。
それとドイツ版と英語版、フランス語版があって、ドイツのほうがオリジナル本流らしいんだけど、レアなのは英語版。わたしのは英語版のオリジナルで、入手するならこれが一番いいんじゃないかと思います。





街の肖像 + 100円のジャンクカメラの結果 + 時計を止めて - Wink / ジャックス

チョコレート少女
2015 / 02 FUJI SUPERIA PREMIUM 400





入り口
2015 / 02 FUJI SUPERIA PREMIUM 400






大きな人と小さな人たち
2015 / 02 FUJISUPERIA PREMIUM 400

四条烏丸の大丸。バレンタインのディスプレイ。
入り口は大阪、梅田で、大きな人と小さな人たちの写真は心斎橋でした。

これは以前にも書いたことだけど、ショーウィンドウの飾りつけとか好きで撮ってみるものの、ディスプレイしたのはわたしじゃないし、かっこよく見えるのはどちらの要因なのか、他人が構成したものからわたしは何か特別なものを抽出できたのだろうか、あるいは他人の構成したものから何かを導き出すことは、そもそも意味のある行為なのかといつも確信が持てずに、よく分からないままに撮ってます。
写真は外在するものを必要とするから、表現主体に完全に還元できずにこういう疑問は必ず寄り添ってるものだと思います。だからといって、より表現主体の側に近づけるために、写真に加工を施したりするのは、否定はしないけど、写真の本義からは外れていくところがある、というか写真が根底にあっても全くの別物に変貌していくような気がします。まぁわたし自身としてはそういう部分には結論を出さずに宙吊りのままにしておくほうだけど、それを写真の拡張と見るか逸脱と見るかは人それぞれなんだろうなぁと思います。



☆ ☆ ☆



この前の記事に書いた、もうカメラを増やさないようにしようと思っていたのに、気がつけば増えていた二台のカメラ。実際はもう一台、ブローニーを使う見慣れた形の一眼レフといえば、知ってるならばすぐに頭に浮かんでくる重戦車並みのあのカメラが手元にやってきていて、ブローニーなんて本当にいつまで供給されるか全く分からないのに、そのうえさらに6×6くらいの大昔の蛇腹のカメラ、ツアイス・イコンのイコンタ・シックス辺りが欲しいと、カメラを増やさないという理性と知らない間に増えてるカメラの形をした欲望に引き裂かれそうになってる最近のわたしの状況ではありますが、それはともかく、この前の記事の二台、600円の現状渡しのオリンパス35DCとジャンク扱いのオリンパスμ2、それぞれフィルムを1本撮ってみて、どういう状態のカメラだったのかは既に判明しています。今回はそのうちのμ2の結果について。

100円で買ったμ2


結果から云うと、ジャンク品だったけど、まるで問題なく動き、写真が撮れました。今回の記事に「街の肖像」と題して載せた三枚の写真はこの100円のジャンク扱いのμ2で撮った写真です。

ジャンクって要するに壊れてるということで、他の商品なら壊れてるものを売るとか正気の沙汰じゃないかもしれないけど、古いフィルムカメラに関しては壊れてるカメラも一定の需要があって売り物になっています。修理するための部品取りが一般的な用途かな。あるいは壊れてるカメラそのものを自分で修理して使えるようにするとか。
今の電子制御のカメラは修理となると素人の手には負えないだろうけど、昔のフィルムカメラには、自分で修理するという人が一定の割合で存在していて、修理と称して本当は壊してる人が多いとは思うけど、そういう人に対しては十分に商品として価値のあるものとなってます。他には直すことなんか度外視で分解して遊ぶという人もいるかもしれないし、また修理なんて大層なことじゃなくて、ちょっと手を加えれば普通に動き出すのを知らないで故障品扱いになってるものも中には混じってるから、そういうのが目当てで買う人もいるんだろうと思います。
本当に故障していてどうしようもないカメラばかりだというのが確信できれば、ジャンクの棚になんかに近づきはしないんだけど、故障してると間違って判断されたものだとか、今となっては値段がつかない類のカメラなので動くかどうかの検査もなしにジャンク棚に直行してるカメラだとかがたまに混じってたりするものだから、完全に無視するのもちょっと出来ないような感じになってます。あるいはまともに動くものを少量だけジャンクに混ぜておくのは、ひょっとしたらこういうわたしみたいな客をおびき寄せるための、店側が仕掛けた餌なのかもしれません。

オリンパスのミューは単焦点の初代が森山大道の使っていたカメラとして有名です。もっとも森山大道はカメラには全く頓着しない写真家で、写せればいいと云わんばかりに、大抵もらい物とかメーカーから借りたもので撮っているという話なので、森山大道が使ってたから凄いカメラというわけでもなく、画質でぬきんでてるのは同じく単焦点の、このミュー2のほうというのが一般的な評価だと思います。
ズームレンズのついたミューだったら、ジャンクコーナーの常連だし、表示どおりほぼ間違いなく故障してるので手に取りもしなかったと思うけど、これはジャンクにはほとんど出てこないものだということもあって、見つけたのも運だと思い、ちょっとおみくじでも引くような気分で、手に取ってみたものでした。何しろ100円だもの、動かなくてもまぁいいかと。100円で、動けばもうけ物だし、買って帰るまで動くかなと楽しみにするだけでも引き合うかなという感じでした。

最初電池入れた時、レンズカバーを開くとわずかにレンズが飛び出してすぐにもとの位置に引っ込むし、フィルムが入ってない表示が出るのは当然だったけど、空シャッターも切れないような一切の操作を受け付けない状態だったから、やっぱり壊れてたと、即座に我が家のジャンク箱入りになりそうだったんだけど、どうしてレンズがすぐに引っ込んでしまうのか、動きが確かめられないかと、裏蓋を開いた状態で試しにシャッターボタンを押してみると、これが見事に反応して、フラッシュが一閃した後、ピント位置までレンズが繰り出してシャッターが切れました。
あれ?!やっぱり動くのかと、今度はダミーのフィルムを入れてみると、まるで操作できなかったのが嘘のようにすべての操作が可能になっていました。
ひょっとしてフィルムを入れてない状態で操作が出来なかったのが故障部分ということなのか?これはむしろフィルムが入ってない時には無駄に電池を使わないということでいい状態だとも考えられます。

ミュー2のレンズは35mmで、コンパクトカメラでは割とよくある画角なんだけど、35mmという画角は未だに使い勝手がいいのか悪いのか分からないところがあって、50mm辺りのレンズになれてるとやっぱりちょっとメインの被写体が小さく見えるというところがあります。
そこで35mmレンズって、普通に辺りを見渡してる時の一体どのくらいの範囲が写ってるのか確かめようと思って、カメラを覗かずに見える範囲と比べてみることにしました。
わたしは小ぶりのオーバルの眼鏡をかけてるから、その眼鏡で区切られてる範囲と35mmレンズの範囲を比べてみようと。
漫然と目の前を見た時の視野と比べると、わたしの眼鏡のフレームでは、35mmの範囲は大体オーバルの眼鏡枠全域よりも周囲一回りくらい小さいといった感じのものでした。
この見え方だと、注視してなくても視界に入ってるような領域も含めて、漫然と視野全域をカバーしてるのが35mmで、対象に若干注視の度合いが加わってくるのが50mmといったところだから、見たままに見える標準レンズとして35mmを上げる人がいるのも納得の結果だと思います。
ニュートラルに視野の全体を画面に納めるから、そのまま撮るとわりと無作為っぽい印象の写真が撮れることが多いのも何だか納得してしまいそう。
眼鏡のフレームを基準にして35mmで切り取った時の感覚をファインダーを覗かずに確認していくと、ひょっとしたら35mmの画角でかっこいい視点を見出すトレーニングになるかもしれないって思いました。


欲しいカメラの一つだったけど、ミュー・シリーズの流線型っぽいデザインはあまり好きじゃないです。人間工学によるものほど無様じゃないのはいいにしても、本来的なカメラの形のほうが好きだし、流れるような曲面だといってもエキザクタのように装飾的というのともまた違い、レトロフューチャー的な付加価値もつきそうになくて、ただ変ったデザインのものとして時代遅れになっていったようなタイプの形だと思います。大体流線型そのものをかっこいいと思ったことはあまりないかも。
カプセルカメラとしては、これが生まれる元になったXAのほうが好き。XAのデザインは今でもちょっと洒落たコンパクトカメラとして通用するんじゃないかと思います。



☆ ☆ ☆



時計をとめて/Wink/ジャックス



この前の記事の続きでWinkの動画を漁っていたら、こんなとんでもないものを見つけてしまいました。Winkが日本のカルト・サイケデリックバンドの曲をカバーしてる。
ジャックスのメンバーには解散後に音楽プロデューサーだかディレクターだかになった人もいるようだから、その人がWinkに歌わせてみたら面白いかもなんて考えて実行した可能性が高そうです。
まるで売れなくて解散してしまったバンドの曲としては、この曲は結構いろんな人がカバーをだしてるけど、まさかWinkがカバーしてるとは思いもよらなかったです。

ちなみに本家のジャックスのはこれ。



粘着質のボーカルに冥界を彷徨うような不安な浮遊感を漂わせた演奏。早川義夫はもう少しジャックスが売れていれば、展開は変ったかもしれないといったことを云ってるのを読んだことがあるけど、これは今聴いてみてもやっぱりコアなファンしかつかない音楽だと思います。
売れ線を狙って大当たりしたジャックスなんていうのもどんなものだったのか聴いてみたい気がします。





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(2011/10/26)
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