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機械式辻占師言行録 / 打ち捨てられた月のための

チェアーズ





足元





沈む家





影の会話






赤いポスト





辻占
2015 / 12
Olympus 35 DC / Lomography Colornegative 400 (1)(2)(3)(5)(6 )
2013 / 02
ハチカメラ (4)
(4)(5)(6)はスクエアフレームにトリミング

辻占というのは言葉では知ってはいたけど、辻で占いをするんだろうとその程度の認識でしかなかった。最近本を読んでいて辻占というのが確かに辻で占いをすることなんだけど、占い師が辻に立ってなにやら占うというのでは必ずしもなくて、夕方に辻に立ってその場所を行きかう人々の話す声、ざわめきのなかから聴こえてくる言葉に、御神託を見出すという行為のことだと知った。夕方、おそらく逢魔時辺りの時間帯のことだと思うけど、その異界とこの世界が溶け合いそうになっている特別な時間に、辻という境界性の高い場所に身を置いて、意味としては形を成さないようなざわめきのなかにかすかに交じり合ってる彼方からの通信を受信する。なんかこれ、わたしが写真のことを考えてる時に頭に思い浮かんでることと良く似ている。ひょっとしてわたしが写真を撮っていることの意味合いって、写真で辻占をやっているということなのか。写真に逢魔時を呼び込んでオブジェの呟きを顕現させ、異界から届いてくる声に耳を傾ける、そんなことをビジュアル的な領域で成立させたいと思っているんじゃないか。そう考えると写真機は冷たい機械であると同時に境界を縦横無尽に横断するマジカルな装置でもあり、云うならば逢魔時発生装置でもあるのだろう。と、いつもの如く逢魔時だとか異界だとかもう何だか思い切り傾向性のある言葉を乱打しているけど、だからといって禍々しくも不安を誘う曇天に黒雲だとか、闇が集う森だとか、そういういかにもそれっぽい定型文のようなイメージで作るのはまるで面白くないしやる気もない。できることなら日常のあっけらかんとした昼間の遍く光の下で、決して地面に寝転がったりなんかはせずに、普段の立ち上がった目の日常的な位置からむき出しのオブジェの中へと分け入り、そのささやき声が聞こえてこないか試してみようと思ってる。まるで中井英夫が「虚無への供物」で謎めいた大伽藍などではなく、戦後の新興文化住宅を反世界へと一気に反転させたように。試みるならばこのほうが困難さゆえにはるかに面白い。今回の最後の三枚は普通に撮ったコマを四角くトリミングしてる。最近四角いフレームに物凄く興味を引かれていて、以前これほど苦手だと感じていたのが嘘のように写真といえばまずこの枠組みが頭に浮かんでくる。そこで以前に撮ったものをもしも四角いフレームで撮っていたらどういった感じのものになっていたんだろうと、ちょっとした好奇心に導かれて試してみたものだ。以前はトリミングは可能な限りやらないという何かの原理主義のような思考だった。この考え方はある部分わたしの中で未だに場所を占めていて、トリミングしてしまうと端正に思い通りの絵にはなるんだろうけど、同時に収まりかえって勢いの無い写真になってしまいがちだと思っている。特にレンジファインダーのようにファインダーで覗く世界とレンズが捉える範囲が微妙にずれてるカメラの利点はここにあって、完璧を期したつもりで撮っても、思うようには撮れない部分が写真に付加され、それが構図からずれてるだとか、余計なものが写ってるだとか、意図しては撮れないような不安定感、動き、ダイナミズムのようなものを呼び込む可能性を開いていた。トリミングしてこういうものを整理してしまうとこの可能性は完全に閉じてしまう。でも最近のわたしはそんな風に不完全さを可能性に転化させるようなことを考える一方で、この傾きや位置が思い通りじゃないことに我慢ならないとなると、トリミングは可能性を殺すなんていう頑なな思いとはうらはらに、わりと躊躇いなしにトリミングしてしまうほうが多くなってる。この辺の嗜好は何時までたっても着地どころを見出せずにわたしの中で揺れ動いてる部分かもしれない。イメージの開かれた可能性を殺してしまっても何か得るものがあるのかどうか、この辺りのことでトリミングしている時に思ったのは、こうやって後で手を加えることはシャッターを切った瞬間に写真の中に凍結してしまった時間に再び新たな時間を加える行為なんじゃないかということ。フィルムは時間経過によって劣化していき、そういう風に時間を取り込んで変化していけるのはフィルムの特権だと以前に書いたことがあった。こういうトリミングもそういう考え方の延長に位置づけられるんじゃないかなと思ったりした。潰瘍性大腸炎なんていう厄介な病気になって一番頭を悩ますのは食事の問題だろう。腸は内在するものでありながらも外部に開かれていて、食べたものは必ず腸を通って何らかの影響を与えていく。でもだからといって刺激を受けるのが怖いからと、ものを食べずにいるのはどうやっても不可能だ。ところが食事制限といったものが一番に出てきてもよさそうな病気なのに、この病気に関しては食べ物の制限については余り明確な形で定義されていないようにみえる。わたしの主治医も食べ物に関してはこの食べ物は絶対に食べては駄目といったようなことは特に何も云わないし、極端なことをしない限り、常識内で普通に食べていてもかまわないとする医者も多いようだ。理由は病気の原因そのものが不明であるのと同様に、どうやら医学的に食物が本当に潰瘍性大腸炎と関係があるのか、その因果関係が証明されていないからということらしい。食べ物に関してはこの食べ物を食べると必ず潰瘍性大腸炎を発症する、あるいは症状を再燃させるといった食べ物はなくて、その関係になにかありそうであってもそこは食べる人との相性のようなものに落ち着いてしまう。つまりある食べ物がある人の症状を悪化させたとしても他の人に必ずそういう状態をもたらすわけでもなく、それを食べてもまるで平気な人もいるっていうこと。まぁ常識的に唐辛子の塊のような食べ物は傷ついた腸壁を通過して絶対にいい影響は与えないと、そのくらいの判断は出来はしても、他の一般的な食べ物に関しては自分の体と相性が良いのかどうか自分を実験台にして確認していくほかないという感じになっているんだと思う。ネットでちょっと検索をかけてみるだけで、患者がこれはあまりよくなさそうって思ってる食べ物が一杯出てくる。牛肉豚肉は駄目、鶏肉、魚はまだ大丈夫、でも生の魚はやめたほうがいい、貝は全般的にどうやら無理そう、自分からは積極的に食べないからどうでもいいけど牡蠣はまず問答無用でアウト、乳製品は駄目、パンも駄目、コーヒーも駄目、砂糖も駄目、無類のカレー好きなのにスパイスの効いたものもまず全部駄目、油も全般的に駄目、そんななかでオリーブオイルはまだ使える、魚の油も大丈夫、ベジタリアンはどうするのと思ってしまうくらい野菜なんかの食物繊維はおそらく大半が駄目、牛蒡蓮根なんかはもってのほか、水溶性の食物繊維であるバナナは大丈夫、いやバナナも水溶性と云っても食物繊維に変わりないから良い影響は与えない、と、こういうのが延々と連なって目の前に積みあがってくる。食べ物だけに飽き足らず、コーヒーを飲みながら本を読むような時間までもわたしから奪っていきやがる。一応ね、そんな中でもこれはおそらくみんなが食べても大丈夫という食べ物も僅かにあって、でもそのリストアップされたものを見れば低刺激のおかゆだとかうどんとかそんなのばかりだったりするんだな。その絶対安全食品だけとっていれば潰瘍性大腸炎が再燃する可能性は低くなるのかもしれないけど、これはもう他のレベルで体を壊してしまいそうだ。一応世間の最近の話題にも乗っておくとして、数日前に新しい元号が「令和」と決まった。知識だけは豊富だけど言語的なセンス皆無の有識者とか云う人たちが集まって決めるようなものだから大したものは出てこないだろうと思っていたら、これは意外とそんなに悪くない。平成なんていう空気が抜けていくような音的イメージしかないものよりはずっといいと思った。「れい」はこの決定となった本来的なものをまったく無視して、極私的な音の響きの印象だけで云うと「零」であり「冷」であり「霊」であり「光線」であり、虚無や反世界へも回路が開けそうな予兆も覚えてわたしには何だかとてもかっこ良く聞こえる。平成なんていう響きでは本来的な意味も何もどのような形でも虚無への回路は絶対に開かないだろう。ただ元になった万葉集にはこの「令和」の「令」は「令月」という単語で登場して、元号にはそこから一文字取ったということらしいが、これ、「令月」そのままのほうがかっこよくないか。もとからイメージ豊かな言葉なのに、そのイメージを無効にしてまでどうしてそこから一文字だけ取ったんだろう。昭和と同じく「和」と結び付けてあるのは昭和生まれとしては決して嫌じゃないにしろ、元号には元の単語そのままでは使えないなんていう制限でもあるんだろうか。もし令月をそのまま使い、日出づる国の元号に「月」が入ったならば、太陽のもとに月まで包み込んでパーフェクトだったのに。


Vashti Bunyan - If I Were - Same But Different


どちらかというと歌そのものよりもVashti Bunyanの娘であるWhyn Lewisの、古代のどこかの神殿の壁画のように文様的で静謐なアートワークのほうが好みに合ってるかも。歌共々ルナティックって言う形容が意外なほど良く似合う。







こっちもルナティックといえばルナティックなのかも。創元社から出版されたこの文庫版中井英夫全集、刊行当時結局全巻揃えられなかった。持っていない巻は数冊なんだけど、今になって揃えたくなってきた。



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木馬と街

街の木馬
2015 / 12 / Olympus 35DC / Lomography Color Negative 400


河原町辺りに買い物なんかに出かけた時に撮っていたものから。
単純に気を引いたり、目に留まったものにカメラを向けシャッターを切っていた。ただ目の前にあるものを写し取ってるだけの行為なんだけど、影の感じとか、光の差し込む形だとか、色彩や形の、あらゆるレベルでのコントラストの配分だとか、あるいはフィルムの調子だとか、カメラの光漏れの具合だとか、そういった様々なことが上手く噛み合って、たまにどこか際立つ痕跡のようなものが一緒に写る。その場所やオブジェを切り出したのはわたしでも、それは云わば外在する力で、わたしという主体とは基本的には無関係なものであり、時には写真を撮ったわたしに対してさえ異化する効果があって、それをわたしは面白いと思う。
逆に、大抵の場合はこうなんだけど、ファインダーを覗いても目の前のものがただフレームの中に納まってるだけで、まるでオーラがないじゃないかと、ファインダーから目を離し、カメラを下ろしてしまうこともある。
その辺の事情の違いが明確に分かるなら、喜び勇んでシャッターを切る機会も増えるんだけど、極めて感覚的なことなのでなかなかそうも上手くいかない。
あるいはたとえ明文化でき法則として抽出できたとしても、こうすれば可愛い写真が撮れるというようなハウツー本を読んでるようなものになるなら、それはそれでつまらなそうに見える。




不在の光
2015 / 05 / Olympus 35 DC 35DC / Fuji C200





ドアノブ
2015 / 12 / Olympus 35DC / Lomography Color Negative 400


木馬はお気に入りの被写体だ。街の中で木馬を見つけたら必ずカメラを向けてる。
と云いたいほど気に入ってるんだけど、街中で木馬を見るなんて可能性はほとんどないに等しい。
以前に一度民家の玄関先に木馬が放置されてたのを見つけて撮ったくらいかな。これは確か記事に載せてるはず。特に子供の頃に木馬で遊んでたと言うこともないのに、どこか心をそそる造形物であり続けてる。
二枚目のは特に何が被写体と言うものでもなく、空間の質感を撮ったもの。なぜか結構気に入ってたりする。壁のクリーム色と赤色のコントラスト、横から差し込んでる外光と階段下の暗がりの対比、黒いコードと白い配管のフレーム、曲線と直線のコントラスト、色々複雑な要素が交じり合って、自分には気を引く空間となってる。
電球のランダムさもいいし、この電球、明かりが灯ってないのも良い。これに火が灯ってたらすべてが揃って当たり前のイメージになってたと思う。云うならここにはないもの、不在を写した写真と言った感じかな。何かの「不在」という形で写真撮ってることは結構あるような気がする。

最後のは、説明されてもそうは見えない、ドアの取っ手だ。最初は奇妙な取っ手を写すつもりでカメラを向けたものの気がつけばドアの取っ手であることを伝えようと言う意思などどこかに放り出してシャッターを切ってた。取っ手自体は黒潰れでシルエット状になってしまって、これはこれで何かの記号のようで、取っ手であることは放棄してるイメージだけど、それなりに視覚的には強さをもってるように思う。さらに背景のぼんやり映った何かとか淡い色が滲んで広がってるのが、意味ありげなニュアンスを付け加えてるようだ。


オリンパスのレンジファインダー機 35DCで撮ってる。見返してみると意外なほど気に入った写真が撮れてるのに気づくカメラだったりして、わたしとは相性がいいのかもしれない。シャッターを切ればどのカメラも律儀に写真を撮ってくれるけど、カメラとの相性とかあるんじゃないかなと思う。
でもわたしの35DCはファインダーが曇ってるんだよなぁ。陽の当たるところに向けると青く霞んだような見え方しかしない。これ何とか掃除したいんだけど、モルトくらいは交換できてもこういうのは自力ではちょっと無理そう。




すべてがばらばらで、なおかつすべてが纏まっている + 千切れたフィルムの顛末

廃棄物堆積
2015 / 12 / PENTAX K100D SUPER + SMC PENTAX-A 50mm f1.7





錆びた扉
2015 / 11 / Lomography La Sardina + 21mm Lens / Kodak Gold 200





木とプレート
2016 / 01 / OLYMPUS 35DC +F.ZUIKO 40mm f1.7 / Lomography Color Negative 400


去年の暮れから今年にかけて撮っていた写真で、得体の知れないのを3枚ほどピックアップ。
テクスチャや事物の質感、空間に接する皮膚感覚といったものに関心を持って撮ったというなら確かにそうなんだけど、そういってしまうと何かを見失ってしまいそうな感じもする。あるものに注視することでもやもやとしていたものの大半が消え去ってしまうような感じ。だからもやもやのままで置いておきたいところだけど、テクスチャがどうしたとか書いてみたいわたしもこうやって存在してたりする。
でもそのもやもやとしたものに何か意味があるかと言うなら、意味なんてどこにもない。

それが写真のすべてとは云わないけれど、事物が纏ってる意味の薄皮を少し剥ぎ取ってみたい。写真による主観の表現とか半ば信じちゃいないけど、そういうことなら写真には出来そうに思える。そしてその皮膜の下からどんなものが顔を出してくるのか見てみたい。
想像してみるとなんだか殺伐とした写真になってしまいそうだけど。

とまぁ、わかったようでわからない、そんな曖昧な想念をちょっとメモしておいた。まだ自分の中でも整理がついていない。

☆ ☆ ☆

最初のは廃屋で破棄された雑多なものが積み重ねられていた場所。廃屋であることよりも、いろんな質感が寄り集まってるのが面白かった。ごたごたと無関係なものが集まってるけど、全体の印象は個々の被写体ほどには雑多な感じがしない。
二枚目は四条河原町を少し下がったところにある寿ビルで。
三枚目の写真は実は左端にはいってる壁の継ぎ目の縦のラインが結構な関心事だった。このラインをフレームに入れるかどうかで印象が変ってくる。少なくともわたしにはそう見える。言い換えるとそういう部分にしか関心がいってないし、そういう要素のみで成り立った写真ともいえる。
それにしても並んだ木の配置間隔だとか、右の木だけ枝が広がってる対比だとか、朽ち果てた謎のパネルの位置だとか、なんだかすべてがばらばらでなおかつすべてがとても収まり具合がいい。枝のバランスなんか完全に神様のデザインセンスなんだろうと思う。

☆ ☆ ☆

この前の記事で最初十数枚撮って放置してると書いたペンF。36枚撮りのフィルムを入れていたから倍の72枚と少しをその後撮り終えて、巻き戻そうとしたらカメラの中でフィルムが切れた。その時はもちろんカメラの中を確認できなかったので、まず切れたんだろうと判断したものの本当はどんな状態になったかは分からず、でも急に抵抗がなくなって巻き戻しのクランクが完全に空回りしてるようだった。
巻き戻しを始めて直後の出来事だったので、フィルムはほとんどパトローネの中に巻き戻されてない状態でカメラの中に取り残されてる。そんなイレギュラーな状態のフィルムをいつも現像を頼んでるフォトハウスKにカメラごと持っていって何とかしてくれと頼み込むのも、店側に余計な責任が発生してしまいそうで、厄介なことを持ち込まれたと思われたりしたら何だか気が重い。その後の展開に気を使いそうなところに嫌気が差して、撮影再開後の分はどこでどういう風に撮ったかほとんど覚えていたから、また撮りに行けば良いやと思って、フィルムが全滅するのを承知の上で裏蓋を開いてみた。まぁ、中が一体どんな状態になってしまったか見てみたい好奇心もあった。

開いてみた結果は思ったとおり、フィルムは切れると言うよりも斜めに裂けたような状態になってた。

フィルムが切れた

こんなことは初めてだ。何しろ巻き取り始めて直後のことで、特に力を入れて無理に巻き取ったと言うことでもないのにこういう状態になったのはちょっと信じがたい。この部分だけ巻き癖が逆についてるから、パトローネの中で最初からおかしな状態でセットされてた可能性がありそう。
普段使っていたコダックのフィルムが値上げ攻勢を続ける中、たまに使っていた廉価のフィルムを常用にしようかと変えた結果の出来事だった。色のりがあまりよくないなぁと思いつつ、時折使っていたこのフィルムも今まではトラブルがなかったし、たまたま今回のフィルムだけがトラブルのある代物だったと言う可能性もあるんだけど、やっぱりいつも使ってたフィルムのほうが安心して使えそうだ。

それにしても全滅を納得して裏蓋を開いたけど、思いのほか食らったダメージは大きいようだ。何しろ70枚以上が虚空に消えてしまったわけで、裏蓋を開いた時は思い切ったつもりが、今頃になって気落ちしてきた。中の状態を見てみたいという好奇心を抑えて、気が重いなんていわずに駄目もとでフォトハウスKに持っていけばよかったかなと思う。と言うか今度こんな状態になったらまず間違いなくそうすると思う。
先に書いたように大半はどこで何を撮ったのか覚えていたから、このところの寒波の襲来ですぐには無理でも、少し穏やかになって晴れ間が出たらおそらくまた撮りに行くとは思う。でももう一度同じようなのを撮るとか、あまり面白いものでもないだろうなぁ。



☆ ☆ ☆



気落ちした時に、最近ニコ動で大笑いした動画。
コメント込みでみるほうが面白い。




団地 + 写真集 Jeanloup Sieff 「40 Years of Photography」

壁際の枯れた花
2015 / 12 / OLYMPUS 35DC +F.ZUIKO 40mm f1.7 / Lomography Color Negative 400






公園
2015 / 12 / OLYMPUS 35DC +F.ZUIKO 40mm f1.7 / Lomography Color Negative 400


去年の暮れからお正月にかけて、向島の団地で撮っていた写真。年末に入手したペンタックスの大昔のデジイチがどんな感じなのか感触を確かめるのに持ち出していたために、この期間撮った写真ではフィルムのほうが少なくなってる。今回はそのうちのフィルムで撮った分から。このフィルム、年末には撮り終えてたんだけど、大晦日の日にフォトハウスKへ現像を頼みにいったら、まぁ時期が時期だけにもう休んでるだろうなぁと思ってた予想がぴたりと当たって既にお正月休みに入っていた。チェーンで通せんぼした人気のない店前の空間と閉じたシャッターを目の前にして、予想していたとはいえ若干の落胆は隠せず、この日は結局その後ブックオフやGUなんかに寄って帰ってきただけとなる。ただまるで無駄足だったかというとそういう風でもなく、ブックオフの洋書コーナーでジャンルー・シーフの写真集を見つけたりして、出かけてきたことの帳尻は何とか合ったという感じになった。
店の前の貼り紙では新年は四日からということだったので、四日に再び現像を頼みにいって、新年の挨拶を交わすついでに現像をして貰って来た。年末には撮り終えていたこのフィルムの結果を見たのは年を越してからということになった。

空ろなもの、朽ち果てた空間、そんなものを撮りたくて、去年の秋ごろから京都の片隅をうろつきまわってた。小椋の干拓池もそういうものを撮りたくなったら一番に頭に浮かびそうな場所だ。視界を遮るものもなくただ広い田畑が広がるばかりで、そのところどころに農家の作業小屋のようなものが建ってるだけ。でも実際に行ってみると空ろな雰囲気が気を引くよりも先に、被写体になりそうなものとものの合間の空間が広すぎて、さて次の被写体でも探してみようと思うたびに、広がる農地の中を延々と歩かなければならない。これが結構辟易する。
ということが頭の片隅にでもあったのかどうか、あまり意識はしてなかったんだけど、年末にこの辺りにやってきた時は結局干拓地のほうには入らずに、近鉄の向島の駅をはさんで反対側、団地が広がるほうへと足を伸ばしてみた。だだっ広い干拓池は雪でも降ると誰もまだ踏み荒らしてない雪原でも出現しそうで、そういうのが出来上がってたら撮りに来たいとは思ってるものの、今年の冬は驚愕するほどの暖冬になってるから、おそらく雪なんて降らないだろうと思う。去年は自分の書いたブログの記事を読んでみると、どうやら元旦に雪が降ってたみたいだけど。
それで思い出した。去年の今頃、珍しく本降りになった元旦の雪に誘われたか、その後水面に降りそそぐ雪なんていうのを撮りたくなって、宝ヶ池へ何回か通ったんだ。でも元旦以外は結局雪なんか降らずに、ここもだだっ広い水面が広がるばかりの池の様相を見ただけで、ただひたすら寒さに辟易して帰ってくる日々だった。




稲妻ライン
2015 / 04 / Nikon F3 + Ai-S 50mm / Fuji PROVIA 400X


最初の写真はテクスチャを撮ろうとしたもの。最近事物の質感とか触感みたいなものを撮りたいと思っていて、こういう感じのものをよく撮ってる。枯れた花が被写体だけどこの花自体はそんなに意味があったわけじゃなくて、あくまで枯れた質感と壁のまだらに汚れた質感に気を引かれた。

二枚目のは事物に囲まれて空ろな空間ってところかなぁ。団地は巨大な建物が連続して建ってるので、物理的にはもので満ちてるんだけど、印象はどこか空ろな感じがする、結構矛盾した空間と思うことが多い。
こういう広い視野を含める感じの写真が最近どうも撮りにくくて、その辺りで四苦八苦してる感じ。この場所に立って同じような日に同じカメラで同じ方向を向いてシャッターを切れば、きっと同じような写真が撮れる。写真はそういう風に自我に還元されない部分があるのが過激で面白いところなんだけど、そうは分かっていても、広い空間を切り取るような撮り方のどこかに自我の痕跡を埋め込みたいっていう欲望もあるわけで、その辺の納め具合を見失ってるような感じがする。

☆ ☆ ☆

大晦日に帳尻が合ったジャンルー・シーフの写真集はドイツの出版社タッシェンが出してる「40 Years of Photography」というものだった。
タッシェンの25周年記念として過去に出た写真集の廉価での再版シリーズの一冊。
同様の装丁でウィリー・ロニだとかブラッサイだとかアッジェだとかの写真集も出てる。わたしはブラッサイとアッジェのものも持ってるけど、すべて版型は大きくて豪華な写真集だ。
実のところこの写真家の写真集で手軽に手に入るものは他にはあまりない。
ただ25周年記念再版バージョンのものは、以前は大体1500円前後くらいで入手できたんだけど、版元で絶版、流通在庫も底をつき始め、古書でしか手に入らないような状態になってくると値段は跳ね上がって、今はあまり廉価の写真集といったイメージでもない。


ジャンルー1


ジャンルー2

ジャンルー・シーフは最初はマグナムに所属していたけどのちにファッションの分野で活躍することになった写真家。広角レンズの使い手で広角の使い方のお手本になるような写真を数多く撮ってる。写真集はファッション写真だけじゃなくて、各年代ごとの代表作を取りまとめて一冊の本にしており、35mmフィルムのカメラで広角を使った写真が分量としては一番多くて8割強くらいで、残りはスクエア・フォーマットで撮られた写真が纏められてる。35mmはライカかな。スクエア・フォーマットのほうはハッセルかも。
広角のほうは確か21mmだったと思うけど、ワイドレンズで撮った写真と真四角写真だとか、使いにくくてわたしが苦手にしてるものばかりで一冊出来上がったような写真集だ、
写真はすべてモノクロ。モノクロの色気がページの端々まで充満してるようで、これはいい。

ただこの本に納められてる広角で撮られた写真は、確かにこういう風に撮るのが効果的だというのがよく分かる撮り方にはなってるし、苦手意識があるわたしにとっては参考になりすぎるくらいなんだけど、あまり冒険的でもなく、優等生といえば優等生的な写真とでもいうのか、才気で突っ走って、破格で強烈な印象を残すような写真とはちょっと毛色が違うという印象だった。結果今までに単発で見たことがあるシーフの写真では面白いものがあったんだけど、ここに収められてるものに限っては、中心舞台だったファッション写真に特化するというよりももっと普段の感覚で撮られたスナップ中心になってる感じで、そういうものを期待するとちょっとはぐらかされたような気分になるかもしれない。
生涯を俯瞰するような纏め方なので、個別の感覚に深入りする方向でもなく、その分誰が見ても文句なしの写真にスポットを当てた、当たり障りのない選択になってしまってるんだろう。
わたしは特にファッション写真が目的でもなかったからそれなりに全貌を見渡せるのは良かったんだけど、シーフの中心的だったファッション写真が目当てだったら、この場合もこの写真集はちょっと物足りない出来になってるんじゃないかと思う。スタイリッシュでかっこいいというなら、以前ここで取り上げた同じくファッション写真で活躍したアルバート・ワトソンの写真集 サイクロプスなんかのほうが印象に残る。
とまぁ、写真集としてはこれは凄い!というような印象でもなかったんだけど、広角レンズで作る絵は手馴れていて、効果を最大限に生かして見栄えがするし、写真集としては先に書いたように色気のある美しい本になってると思う。









2015年の締めくくり

蔦の家
2015 / 12 / OLYMPUS 35DC +F.ZUIKO 40mm f1.7 / Lomography Color Negative 400






赤い路地へ
2015 / 12 / OLYMPUS 35DC +F.ZUIKO 40mm f1.7 / Lomography Color Negative 400


今年の締めくくり。
今年一年、写真を見に来てくれた皆様へ、本当に有難うございました。
こんな写真もまた、いいかもって思ってくれた方、あるいは思ってくれなかった方も、来年もまたよろしくお願いします。

最近思うことは、壁の穴に溜まった落ち葉だとか、ガード下の鉄梯子だとか妙なものを好んで撮ってはいるけど、結局のところ撮ろうと思ってる感覚は、それが美しいものだということであって、これは絶対に外してはならないっていうことかな。みんなが認める絶景だとか、名画的な美しさとはまるで違うし、どちらかというと惹かれるものの多くは、視線から逸れようとするもの、挙句の果てに薄汚れてさえしまったものに類するようなオブジェ、空間なんだけど、でもそこから受ける感覚はこれは美しいものだという感覚以外の何者でもないと、そういうのを写真に撮ってみたい、そんなことを思ったりしてます。シュルレアリスムなんかもコラージュだとかフロッタージュだとか、自動書記だとか、新奇な手法を持ってある種際もの的に新しいイメージの展開に賭けたけど、狙っていたのは見たこともない美的なものの創出だったし、何だかそういう精神を見習いたい。
世界は美しい細部で満ち溢れてると、そういうことを写真で証明してやろうじゃないかと、極めて大きな風呂敷を広げて来年の写真につなげてみたいと思う年末ではあります。

☆ ☆ ☆

今回の写真はオリンパスの昔のレンジファインダー、35DCで撮った写真。確か500円くらいで買ったカメラで、持ち出したのは半年振りくらい。
広角寄りで撮っていて自分の持つ距離感との乖離に身悶えしてた後で使ってみると、このカメラの40mmって云う画角は物凄く使いやすかったです。何だか心底安心して使えたような気分というか、これでも50mmに比べると広角寄りなんだけど、35mmほど見たままって云う感じでもなくてわずかに注視感が感じられるのがいいのかも。
一見中途半端な数字に見えて、本当は結構オールマイティな画角。レンズ交換できない形のカメラにつけるには標準的に使えた上にちょっとだけ広角寄りもカバーしてるなんて、最適の画角なんじゃないかな。
ちなみにこの1本撮り終えた後で、気分よく使えたから即座に次のフィルムを入れ、今のところこれと、さらにお気に入りのペンFにもフィルムを入れて、ペンタックスの昔のデジイチK100D Superも加えた三台体制で、このどれかを持っていつもお出かけ中。
お正月もこのうちのどれかをメインに、何かサブにもう一台、トイカメラでも持ちだして撮ってると思います。そろそろアレック・ソスを気取ってレンズ付きフィルムの出番かな。

☆ ☆ ☆


木立の道を行けば
初夏のある日、白い花に導かれて木立の道を歩いていく。
2015 / 06 / CONTAX T3 + Carl Zeiss Sonnar T* 35mm f2.8 / Kodak Gold 200


一年の締めくくりに廃墟っぽい写真だけというのも何なんで、初夏の頃に宇治で撮った、ちょっと見通しのよさそうなのを一枚添えて、
それでは、皆様、良いお年をお迎えください。