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知覚の地図XIV 風をはらむ服を着て

風を呼ぶ装置





角の靴





逆斜光





木馬





竹林風

風をはらむ服が好き。どこかかなたの広大な草原へ誘うような、風にのってかすかに異国の音楽が聴こえてきそうな服。先日ウエストベルトを後ろで結び垂らし、背中を編み上げる紐飾りのついた、ふくらはぎの半ばくらいまであるロングワンピースを羽織りはためかせて歩いていたら、午前中は晴れていたのに夕方近くなって急に雨が降ってきた。風も強く、はためく裾辺りがずぶ濡れになりそうで大慌てだった。日本じゃ乾いた草原という風には上手くいかない。
風をまとって思いをはせる曲と云うならボロディンのこの曲。ちなみにボロディンってこれだけの神がかり的な旋律をこの世界に生み出しておきながら、主に収入を得ていたのは化学者としてだったそうで、これは本当に吃驚。化学の世界でも名を知られてるそうだ。


スタンダードでは「ストレンジャー・イン・パラダイス」という曲として知られ、こっちはそのウクレレバージョン。キヨシ小林のアレンジで楽譜はわたしも持っていてずっと練習中だ。それにしてもこの人は、他にもこの曲集から演奏していて、そのどれもが上手い。始まってすぐの小指使いが痛いんだけど、苦も無く涼しい顔でその運指をこなしている。

もう一度書く。風をはらむ服が好きだ。流行り服など心底どうでもいいし、服くらい他人の目なんか気にせずに好きなものを着ればいいと思う。これこそ簡単に自由になれる方法だろう。どうせ短い命、そのただでさえ短い命のいくばくかを、他律にしか過ぎないわけのわからない束縛に供してどうする。最近歩いていて目につくのは男の子のマッシュルームカット。いくらかっこいいという共有意識が成立してるとはいえ、前髪をすべて前にかき集めておろすような、黒いヘルメット然としたヘアスタイルは画一的で、たとえかっこよくても、なんてつまらないんだろう。


キャベツとアンチョビのソテーにぞっこんになってから、家でも食べようと思ってアンチョビ・フィレを買ってきた。で、いざ家で手をつけるとなるとソテーするのが面倒になって、単純にキャベツのサラダの上に乗せただけでもいいんじゃないかと思いつき、そっちのほうをまず実行してみることに。
盛り付けのセンスのなさは別にして、キャベツの上に乗せたアンチョビの意外なほどに食欲を喪失させる見た目に若干のショックを覚える。話は違うんだけどポストモダン思考の写真なんて云うのをあれやこれやと試行している観点から見ると盛り付けのセンスを度外視してるのは脱構築と云えないかなと、これまた余計なことを考えたりして、そういえば料理にはポストモダンなんて云う潮流がやってこなかったんじゃないか。ノイジー、不協和、相対化、脱構築など、他の表現領域では観念としてわりと当たり前になっているようなものが料理の中には入ってきていない。味覚というのは観念的な快楽なんて云うのを全く度外視して、ただひたすら本能的快楽へ導く調和の感覚しか認めようとはしないってことなんだろう。
まぁそれはともかく、キャベツの上に乗せたアンチョビの、このポストモダン的な感覚。しゃきっとしたみずみずしいキャベツの上に乗るオリーブオイルでぬらりと濡れた質感の不協和音的なコントラスト。土気色で紡錘形の柔らかくぬめりをおびて光る物体は、キャベツの上ではまるでなめくじだ。なめくじ感を強調したければ、千切りのキャベツよりも葉っぱ状の外観が残っている、適度にちぎったキャベツのほうが適してると思う。
もちろんこれがなめくじではなくアンチョビであることは十分に承知してるわけだから、わたしは躊躇うこともなく口に放り込む。
でもあのサイゼリヤでのロートレアモン的な出会いを思い描き期待していたわりには、口の中ではキャベツとアンチョビがちっとも混じりあわない。ロートレアモン的な出会いが約束する痙攣的なものの不在。砕片化した二つのものが細部を細かくしながらどこまで行っても粒立ち良く共存して、それはまるでグルスキーの写真のような食感だった。しかもさらにキャベツからでる水分がアンチョビの塩味を薄めていく。
結果としてこのわたしの手抜き行為はソテーするという手順の偉大さを再発見することになった。単純な行程なのにこれがキャベツから甘みを引き出し、アンチョビのうまみと塩味を加えて混然一体としたものへ、それまでそこに存在していなかった何かへと変化させていく。炒めるという行為を一体だれが発見したのか、その人はそれが偉大な発見だったことに気づいていたのだろうか。
で、アンチョビというのは魚を本来のものとして味わうというよりも、結局のところ魚の持つコクというかうまみを隠し味として付け加える塩分調味料的な存在なわけだから、似たようなもの、例えば塩辛で代用できないんだろうかと思って試しに検索してみたら、キャベツと塩辛のソテーはすでに立派な一品料理として存在していた。誰もが思いつくことだったようだ。

自粛生活だった春から夏の終わりにかけて、いつの間にかやらなくなっていたゲームに手を出したりした以外は、いつもの如く本を読んでいた。読んでいたのは面倒くさい本以外は主に国産のミステリ。今読んでるのはちょっと毛色を変えてテッド・チャンのSF「あなたの人生の物語」だけど、この前読み終わったのは小野不由美の「黒祠の島」だった。同じく小野不由美の「残穢」を読了後に続けて読んで、小野不由美さん、小説書くのちょっと下手になったんじゃないかと思った。ジュブナイルの「ゴーストハント」シリーズや「十二国記」のようなページターナーのものを書いていた人のものとは思えない仕上がりだ。
両方とも現在形の時間軸では物語はほとんど動かない。これが物語の臨場感を確実に削いでいる。「黒祠の島」のほうは事件のすべては物語が始まる直前で終了していて、探偵役の人物は安楽椅子とまではいかないものの、現場を右往左往するだけ。島民からの異物排除の圧を受けながらという不穏なサスペンスは絡んでくるものの、いくらページが進んでも関係者を変えては情報収集するのみにとどまる。海外のミステリによくあるインタビュー小説とでもいったものに近い。ある人物に事情聴取をして、やっとそれが終わったと思ったら、次のシーンでは別の人のところへ赴き、再び同じ出来事に関する事情聴取のシーンになる。人によって別の角度になるとはいえ、今聞いた事件の同じ場面の話をまた最初から聞かされる羽目になる。
かたや「残穢」のほうもマンションに生じた怪異の報告をきっかけにして著者本人を思わせる主人公がその報告者とともに怪異の正体を探るという形で、物語の大半は過去の情報収集が埋め尽くすことになる。
小説も作者の語りを読むという点では同じとは云え、小説内で登場人物の口を借りて過去の間接的なエピソードとして語られる内容は絵画で云うなら背景的な要素を多分に含んでいくことになる。だからこの二冊を読んだ印象は背景ばかりが緻密で豪華な絵画を目の当たりにしている感じに似てる。エピソードに登場する人物もキャラクターが立っているというよりも、ディテールを欠き、輪郭線の少ない姿で背景の一部として紛れ込むように存在してるという印象のほうが強い。これは「残穢」のほうが顕著で、怪異がマンションの一室に起因しているものではないと分かり始めてから、その出所をマンションの建つ場所に求めていく過程で、そのマンションが建つ前にどんな家が建っていてどんな住人が住んでいたのか、一軒じゃなく複数の家が建っていればそれぞれの家族がどこから引っ越してきたのか、あるいは何をきっかけにどこへ引っ越して、引っ越し先で何があったのか、その引っ越し先のさらに後の時代に住んだ人はその後どうなったのかと、戦前を射程に含むほど遠い時代まで過去への調査が進むにつれ、その場所に関係する住人の名前ばかりが増えていって、メモでも取ってない限り混乱するのは必至の描写となっていく。「黒祠の島」のほうも事情は似たようなもので、登場した瞬間に強烈な印象を残す、唯一キャラ立ちしている登場人物、開かずの間の住人であり祭神の守護である、その存在さえ疑問視された少女「神領 浅緋」の登場は物語も終盤に近くなるまで待たなければならない。
まぁ端的に云うと両方とも小説風に肉付けされた名簿を読んでるようで、たいして感情移入もできない人物たちが動きまわるにつれて中だるみしてくる。この人誰だったかと前にページを戻るのも面倒くさくなるくらい、印象が薄いくせに人一倍煩雑な登場人物たちが熱中度に水を差し続ける。
こんな書きっぷりの話ではあったんだけど、テーマ的なものは結構面白いと思った。「残穢」は薄気味悪いホラーの出だしから、ご近所歴史ミステリとでもいうようなあまり例を見ない内容へと発展していって、その時点で最初にあった薄気味悪さ、怖さはまるでなくなるものの、自分の住んでいる場所だって自分が住み始めた時から時間が始まってるわけでもないし、辿っていけばこういう地域極端限定極私的歴史を見出すことになるんだろうなぁと、あるいは自分がいなくなった後でここに住む誰かはわたしがここに住んでいたことなどまるで知らないで過ごしていくんだろうなぁとか、そういうことを想像するような面白さが出てくる。「黒祠の島」は怪しげな因習が広まる孤島の村を舞台にした和風ホラー風味の物語で、でも起きる事件は極めて凄惨なものであってもことさらホラーに傾斜するでもなく、光明へと向かう道はどこにもないと思われる状況から、たった一人の犯人を指し示す論理の道筋を見いだしていく過程はまさしく王道のミステリそのものだった。この部分というかもうクライマックスになるんだけど、ここで無茶苦茶ミステリしてるじゃないかとそれまでだらだらと読んでいた姿勢がまるで正座でもする如く一気によくなり、しまったこういう風になっていくなら途中もうちょっと気を入れて読んでおくんだったと後悔させた。犯人開示と犯人とのやり取りで展開される罪と罰の考察も大谷大学だったか仏教系の大学の出身者らしい内容で興味深い。
「残穢」は山本周五郎賞を取っている。これが賞をとれるほどの内容だったかは正直わたしには微妙だったんだけど、その選評でこの本を身近においておくのも怖いといった内容のことを云われたらしく、これはないだろうと思った。恨みを残す者の、その恨みの相手のみがターゲットになるんじゃなくて、呪怨のようにちょっとでもその場所、ものに触れただけで、まるで無関係でも邪悪な何かが穢れとして無差別に伝播していくという内容だから、この本も忌むべき穢れを運ぶ書物そのものとして身近に置いておくのが嫌という意味だったんだと思う。でも人が誕生してから今の時代まで穢れを生み出す出来事、思いなど星の数ほども誕生してきたのは確実で、そういう意味では世界はすでに穢れがみっしりと敷き詰められてる。いまさら本の一冊を怖がってもしょうがないじゃないかとしか思えない。販促のために云ったとしても、わたしも含めてこの選評に気を引かれたほぼ全員が裏切られた思いを抱くことになるだろう。これは罪深いよ。この選評そのものが穢れについて書かれたこの本よりもはるかに邪悪な一種の穢れだろう。













日々更新していく世の中なので多少旧聞に属する感じになる。内容もそうなんだけど、語り口が無類に面白かった。もうこれ、芸だといってもいいと思う。この人が喋ることのプロなのかどうかはよく知らないけど、ネットの中を彷徨っていて思うのは、ただふざけてるだけ、寒い芸人の口調を真似てノリがいいと勘違いしてるといったユーチューバーのような人が掃いて捨てるほどいる一方で、在野にはプロでもかなわないような面白い人もごろごろいるということだ。
それにしても一つ目の動画のコメント紹介の中に京都系の学者なんて云う言葉が出てくるなぁ。立命の教授の、今回のああいった下手な三文小説でも今どき使わないような陳腐で知性の欠片もない恫喝とその醜態とか、京大の周りには未だにいつの時代かと思うような立て看板が立ってるとか、まぁ京都の大学が左翼の巣窟というのは否定はしない。京都は昔蜷川という共産系の府知事が長い間君臨していたし、そういう方向へと流れる下地はある場所なんだけど、それでも京都系なんて言う言葉のもとで、こういう内実のものとして知られてるのはやっぱり結構不名誉なことではある。





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知覚の地図XIII 托卵

人影





鎌影





居心地の悪い枯れた花





赤い紐
写真はホルガに135フィルムを詰めて撮っていたものを中心にいくつか載せてみた。撮ったのは2015年頃だ。

サミュエル・ベケットが美術に関する異様な評論「三つの対話」でこういうことを書いてる。
要約すると芸術家は失敗することを本領とすべきだといったこと。しかもその失敗は他人があえてしないようなやり方で失敗するようなものでなければならない。この文脈では成功を実現させる、あるいは完成までたどり着くためにはその裏でいっぱい失敗を重ねる必要があるといった意味合いの失敗じゃない。あくまでも純粋に自己完結していて、今まで世界に存在していなかったような失敗、そういう失敗こそが目指すべき唯一のものだと、そういうことを云ってる。そこからしり込みすることは戦列放棄であり、工芸品作り、日常であることに他ならない。
思うに学ぶこと、修練することは、誰もが認めるような何か見栄えのいいものへとたどり着くためじゃなくて、自分の失敗が過去に前例のないものであることを知るためにあるということなんだろうと思う。
前回の記事で幸福な失敗を生み出すカメラ、ダイアナのことを書いたので、ちょっと引き合いに出してみたんだけど、演劇なんていつのころからか関心の対象外になってはいたものの、自分はこういうところからもかなりの影響を受けているんだなと改めて思い知った。ベケットやイヨネスコの異様な不条理演劇も戯曲を読むのは結構好きだったし、ベケットはマルセル・デュシャンとも親交があったらしい。ダダイズムやシュルレアリスムの見慣れないヴィジョンに魅了されて、デュシャンは大昔、わたしの観念的アイドルの一人だった。逸脱、解体、相対化、個性からの解放、世界をとらえる新しい眼差なんていうテーマを巡ってベケットが「失敗」という言葉一つで導き出したような、そういう水脈のごとく続く思想の流れの中にわたしもいるんだと思う。
ただ失敗を目指せ!といえど、前回のダイアナにしてもそうなんだけど、今はその失敗であってもさえ毒気を抜かれて類型の中に秩序づけられ、理解され、了解可能な失敗として並べられていく。了解されないものは、本当はそっちのほうが本義なんだろうけど、失敗にさえたどり着けずに終わるのかもしれない。かなり前にビスケットカメラに関して書いたことでもあるんだけど、その逸脱がトイカメラ風なんて云う類型化されたカテゴリーに収められるほど、一つのジャンルとして理解可能なものへと変換されているなら、これは一見失敗に見えているだけで、本当の意味で失敗とは程遠い場所にいるんだろうと思うところもある。
とまぁちょっと屈折したようなことを考えながらも、ダイアナの記事を書いたのがきっかけで、あのあとフィルムを入れてしまった。ピンクのおもちゃ然としたカメラを持ち歩く気力や勢いを、わたしの体の中から呼び起こさないといけないはめになった。
フィルム装填 ダイアナ
ダイアナはおもちゃ然としてるくせに、フィルムはブローニーフィルムを使う。あらかじめ軸に巻いてある状態で売ってるフィルムを軸ごとセットして、その初端を巻き取り側にセットされてる空軸に巻き込んだあとは、撮影するたびに一コマ分の分量を巻き取っていくだけというシンプル極まりないやり方。巻き取り軸を回すいかにもプラスチックのおもちゃという安っぽいカチカチ音が子気味いい。フィルムと一緒に巻かれてる斜光紙に印字されてる枚数表示の数字が裏蓋に開いている赤窓から見えるので、それに従って巻き取っていけば、二重写しになることもない。あえて巻かない、中途半端に巻き取るといったことをやると意図的に多重露光や一部だけ重ねるなんて云うこともできる。

先日3か月ぶりの定期診察で病院へ行ってきた。もっともわが潰瘍性大腸炎はほぼ寛解状態なので、診察といっても、どうですか?調子いいです。トイレは一日何回くらい?一回か二回くらいかなぁ。出血はしてる?いや、してないです。じゃこのまま今の薬でいきましょう程度の会話でおしまい。一応診察としていつもの、お尻に指を突っ込まれて出血はしてないねとのやり取りはあったけど、それさえもごく短時間。あとはその日の血液検査と尿検査の結果を聞いて特に問題なしとのお墨付きをもらって診察室を出た。次はまた3か月後。ひょっとしたら大腸カメラをやるとか云われるかなと思ってたけど、それもなかった。大腸カメラ、検査そのものは鎮静剤を使うとほとんど苦痛はないものの、2リットル近い大腸洗浄液を飲むなんて云うのから始まる前準備がもう精神的にも体調的にも負担が大きくて、できればやりたくない。
指定難病の経済的な補助を受ける資格を持っているから高額な薬を使わなくてはならない場合もそれほどの負担はない。今回の領収書を見てみると補助がなければ9万近く払うことになっていて、こんなもの、文庫本でさえブックオフの100円文庫で漁ってるのに払えるわけもなく、そうなると治療を断念する以外になくなっているところだ。
ただ、補助を受けるのに審査があって中等症以上だけが該当するという制限は何とかしてほしい。不治の病であり軽症状態でも薬を使って維持する必要がある病気なので、軽症へと移行したからといって経済的な補助を切られれば、その対象から外された軽症状態でさえも維持できなくなる可能性が出てくる。さらに患者数が激増しているようで、希少性というのも変な言い方だけど、そういう病気の希少性が確保できなくなり一般的な病気になった時点で潰瘍性大腸炎そのものが指定難病の対象から外されることもありそうと、色々と先行きには不安な要素がごろごろと転がってる。国としてできるだけ出費を抑えたいというのもわかるんだけど、患者の状況に関してもうちょっと細かい配慮ができないものかとも思う。といっても安倍元総理の持病だから、何かちょっと配慮しただけでも優遇してるとか、またくだらない揚げ足を取られそうでもある。
最近自分の中で人気急上昇の食べ物がキャベツとアンチョビのソテー。サイゼリヤのつけ合わせメニューにあったもので、なんだかちょっと物足りないと思った時に200円で追加できたので注文してみると、これが素朴な家庭料理風の、優し気でどこか懐かしい味がして美味しかった。メニューにも「復活!」なんて云う言葉が添えてあったからサイゼリヤでの人気メニューだったのかもしれない。
サイゼリヤは貧乏人の味方というのもあるんだけど、潰瘍性大腸炎のわが身にとっても食べて大丈夫というメニューがいくつかあったから、食べに行ってもその中から同じものを注文するしかないんだけど、外食時にはよく利用する。イタリア料理というとなんだかイメージとしては真っ赤だったりして色の持つエネルギーだけでも大腸に悪そうなのに、オリーブオイルは潰瘍性大腸炎には意外と刺激が少ないオイルとして油分の補給には重宝する食材だったりする。なんだか店の人にも顔を覚えられてるようで、ドリンクバー飲み放題状態で食事の後もいつも本を読みながら長時間居座ってるから、今日は窓際の席、あそこが空いてますよなんて云う風に明るい席へ案内してくれる。でも限られた同じものしか注文しないから、あの人あの料理がよっぽど好きなんだろうなぁと思われてる確率が高い。
食べ物に関して、潰瘍性大腸炎は意外なことにあまり明確な制限がない。というか辛い香辛料なんかは別にして、これが必ず悪影響を及ぼす、必ず再燃のトリガーになるというような食品が特定されてない。暴飲暴食を慎むなら寛解に近い状態ではほぼ好きなように食べることができる。だからなのかわたしの主治医も良い効果が期待できる食べ物の話はするけど、こういうものは食べるべきじゃないといった話はまるでしてこない。病気に対する影響は腸を通過していく食べ物ならどれも何らかの形で存在するんだろうけど、でもそれが患者に影響してくる度合いは同じ潰瘍性大腸炎であっても人によって千差万別で、何が良くないかは自分の体で実験して自分なりの食べるとやばいリストを作るしかない。
とりあえずキャベツとアンチョビのソテーはわたしには大丈夫な食べ物だった。
200円のこの幸せは結構大きい。その場所に夢中になる本の何冊かを携えていればなお幸福になれる。

それとサイゼリヤのテーブルに置いてあるキッズメニューに載っている間違い探し。これが9月になって新しくなっていた。子供相手にしてはいつも凶悪なクイズで、前回のは何度か通ってるうちに10個の間違い全部発見できたけど、今回のはまだ6個くらい。目が開いてるか閉じてるか、花が一つ多いか少ないか、なんて云うわかりやすいもの以外は、微妙に角度が違うとか微妙に幅が太いとかそういう意地の悪い違いが多いので、大人でも頭をひねること確実だ。さて9月の新作は残り4つほどの間違いを全部発見できるか。




自粛世界へと世界が変貌してから、本を読むのはまぁいつものことで、読む量が増えたといった程度なんだけど、久しく遊んでいなかったゲームに手を出して、そっちのほうに結構はまってる。といっても新しいソフトを買ってどうのこうのといったものじゃなくて、ゲームをやらなくなった頃に手元に買い置いていたものに、ほぼ10年近くたってから手を出したという形。自粛を要望され始めた時にまずドラゴンクエスト8を、そしてその後ファイナルファンタジー12と、両方ともプレイステーション2っていう2世代前のハード用に出されたゲームで、その古臭いゲーム機に乗っかって10年前の世界へと旅してるっていうわけだ。ドラゴンクエストのほうは、買った当時、これを遊び始めてしまったら次のナンバリングのが出るまでまた2年か3年くらい待たなければならないんだろうなぁと思うと、始めるのはもうちょっとあとにしようという気分になって、それがそのままゲーム自体から遠ざかったのに巻き込まれて放置されることになったもの。ファイナルファンタジー12のほうはこのソフトに搭載された新システムが斬新すぎて、何もしてないのにその場をうろうろしてるだけで戦闘が終わってしまっていたりと、システムが判らないというよりもこれで本当に想定されてるような進み方をしてるんだろうかと疑問だらけの状態になった。これでいいのかなんて思って遊ぶのも嫌だ。そこでこんなに勝手に戦闘が終わるのがこのゲームのまともな遊び方なのか確認してから遊び始めようと思ったんだけど、そう思ったのが運のつき。結局確認しようと思ったまま10年近く温存する形となった。
10年前の無印12から始めて、この世界は高画質で体験したいと思いだしたら止まらなくなり、結果として最近新たな装いでリリースされたリマスターバージョンにまで手を出して、それを遊ぶために今年の終わりころには次世代のプレイステーション5が登場するというのに、終わりかけの現行プレイステーション4を買ったりするくらい熱中してしまった。
ゲーム内容を事細かく書いてもあまり意味もなさそうだからそういうのはまぁ書かないとして、10年後にタイムカプセルでも開くかのように始めてみたファイナルファンタジー12に対して一番初めに思ったことは、当時このゲームは酷評と嘲笑に晒されたゲームだったんだけどその当時のゲーマーたちの、そしてわたしも含めてものを見る目のなさについてだった。いったいあの時自分は何を見ていたんだって、本当に呆れ返る。当時この世界を構築したスタッフは、斬新であるが故に向けられたその理不尽なまでの無理解に対して、心底口惜しい思いをしたと思う。10数年後にリマスターという形で再び世の中に出現して、今度は世の中がようやく追いつき高評価に包まれてる状態をみて、少しは溜飲が下がったかな。
シナリオは製作者が病気で途中降板したらしくて、終わりのほうは急ぎすぎという感じがするものの、砂漠の中に出現した中東風近未来都市の、装飾に満ちた絢爛豪華な様相とか、この魅力的な世界構築へ向けた描写力、説得力は半端なく凄い。映像上のリマスターはワイドテレビに対応したのと解像度を上げた程度でポリゴンやテクスチャにほとんど変更は加えていないように見え、ならばこの描画力はプレイステーション2の時代にすでに実現されてたということで、当時のスクエアの技術力のすさまじさがよく判る。
中盤以降のシナリオの失速、帝国と解放軍の骨太の群像劇はどこかになりを潜めてしまい、なんだか古代遺跡巡りツアーみたいになってしまう部分でも、その遺跡の壮大さ、堆積した時間の重さ、滅びて久しい寂寥感、異世界さ、ロマンチシズム等に圧倒されて、占領と解放の闘争なんてそっちのけでツアー客になり切って楽しんでいた。遺跡のビジュアルの壮大さはモンス・デジデリオやピラネージなんかの作品が好きなら、ああいう世界の中に実際に入り込んでいるような感覚をもたらすので夢中になるんじゃないかと思う。
さてゲームも進み、この世界がもうすぐ終わり、ここから抜け出す時が近づいてるのかと思うとなんだかやるせない。12以降ファイナルファンタジーのナンバリングソフトは現在15まで来てるんだけど、12のこの世界はオフライン版ではこれ一作だけで終了している。一作だけでやめてしまうにはあまりにも魅力的な世界だと思うんだけど、どうなのかな。この世界の中でまた違う、濃密でプレイヤーを翻弄するようなストーリーのファイナルファンタジーを作り上げてほしいと思う。リマスターバージョンの出現でそう思ってる人は多いと思うよ。
曲は王都ラバナスタのダウンタウンの曲。長い間ファイナルファンタジーの音楽を作り続けていた植松伸夫氏から崎元仁氏に交代して、植松氏ほど旋律的な音楽でもなくなったのは残念だけど、従来のファイナルファンタジーを旋律的と云うならこの12ではどちらかというと音響的とでもいうか、植松氏では作らなかったと思える曲調となって、これはこれで興味深い。このダウンタウンの曲はパーカッシブでラテン好きの琴線に触れる。ただループが短すぎてちょっと単調かな。繰り返していることそのことが耳についてくる。
王都ラバナスタの地下に広がるこのダウンタウンのシーンはクーロンズ・ゲートを思わせて結構好きだ。実際この動画のように隅から隅まで散策してみたりしてると、人気が絶えた深夜前の錦通りでもそぞろ歩いてる気分になる。

ちなみに先日からプレイステーション5の抽選購入の予約が始まった。この感じだとおそらく当分手にできなさそう。アマゾンのマーケットプレイスでは早速転売屋が跳梁跋扈してるようで、定価5万円ほどの予定のものが40万近い値段で出品されていた。すでに間違ってクリックしてしまった被害者も出ている模様だ。
ハイスペックパソコン並みの内容だと思うから売値は最低でも10万くらいいくだろうと思っていたら、ディスクドライブ内蔵タイプのものでも5万円と意外と安い。現行のプレイステーション4と大して変わらない価格設定だし、この価格だとわたしもいつか買ってしまってるだろうなぁ。気のせいなのかプレステ4の中古ソフトの値段が心持安くなってるような気がする。こういう影響がでてるとするなら大歓迎だ。

















休符で歌う歌声 + Melody Gardot - Over The Rainbow

休符で歌う歌声
光が囁く声を聴けば
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




光が囁く声を聴けば
休符で歌う歌
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400



いつも情緒的な撮り方はしないと書いてるのに、今回は幾分情緒的。たまにこんなのも撮ります。
写真は引き算と云うけど、これは引き算のしすぎかもしれない。

今回のは自分でつけてるタイトルが自分ながらちょっと気に入ってしまった。以前ある写真ブロガーさんのところで、掲載されていた写真に「静寂の音なんていう表現がぴったりきますね」というようなコメントを書いたことがあって、これがちょっと自分でも気に入ってしまい、似たような感じで思いついたのがこのタイトルでした。要するにサウンド・オブ・サイレンス。写真も静けさの音といったもののわたし的イメージです。

新しいブログでも増設するなら、これをブログのタイトルにしてみようかなぁ。


☆ ☆ ☆

こう書いたからといって、サイモンとガーファンクルを持ってくるようなことはやらない。

Melody Gardot - Over The Rainbow

最初の効果音が聞こえだすと、マーティン・デニー辺りのエキゾチカ系?…何かダサい、と思わないこともなく、ボッサのリズムに乗り始めて、おぉボッサノヴァのオーバー・ザ・レインボウ!と身を乗り出すも、フェイクしまくってる歌にこれがオーバー・ザ・レインボウ?と、なんだか最初は散々なんだけど、優雅で洒落たオーケストラが絡みだし、興がのってくるような頃合には、結構耳をかたむけてるようになってると思います。
ささやかな声で歌うところが多いんだけど、外見のささやかさに比べて意外と芯が太いというか質量がある声はこの人の上手さを支えてる感じ。
デビューアルバムは昔オーパの最上階にあるタワーレコードに1000円もしない価格でお勧め盤として紹介されてたのを覚えてます。なぜ覚えてるかというと、ダサいジャケットとその安さからで、印象は大したことがないだろうなぁって言うものだったんだけど、こんなに囁き声で堂々とした歌を歌える歌手だとはそのCDを棚に見たときは想像もつきませんでした。









曖昧な記憶が棲む場所 + ヴォルフガング・ティルマンス展に行ってきた。 + John Scofield - Endless Summer

楽園
王国
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





矩形空間
矩形街
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





裏路地人形
陽射しと人形
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





鳩

2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400


この夏、トイカメラのホルガを持ち歩いて撮った写真。落とした時はブローニーを6×4.5のフレームで撮っていたんだけど、これは落としたものじゃなくて、35mmフィルムを使えるようにするホルダーを後ろにくっつけて撮影していたものです。
ホルダーは今年の夏、京都ヨドバシに店を出してるヴィレッジ・ヴァンガードのアウトレットで7割引で買ったもの。普通のフィルムを使えるようになって元のブローニー専用状態からかなり手軽になった感じです。

それにしてもこういうカメラの作り出すイメージに対してドリーミーな写りとか、よくもまぁ上手い言葉を見つけ出したと感心するんだけど、本当に云いえて妙だと思います。
もともとピントは思うようには合わない、どこにあわせても似たようなものというカメラなんだけど、単純にピントがずれてるとかボケが入ってるとか云うのじゃないような、一眼レフでわざとピントを外しても、こんな絵にはあまりならないだろうなぁと思わせる何かがあります。滲んだような色合いも独特の雰囲気で、これはプラレンズの特徴なんでしょう。

最初の写真はディテールの飛び方が気に入ったもの。どこか記憶の中に棲んでる街といった曖昧な非実在感が漂ってる。右下の鉄骨が邪魔。気分としてはフォトショップで消してしまいたい気分が一杯なんだけど、せっかくフレームに入ってきたんだから、のけ者にするのもちょっと可哀想。ということではずし要素としてこの写真の一部に参加してもらっておきます
人形はかなり以前に同じくホルガで撮ったのを載せたことがあります。これ、半逆光くらいの陽の当たり方のせいか妙に立体感がある感じがする。逆光はドラマチックだけどあざといし、いかにも良い絵だろうと言いたげなわりに紋切り型のものになりがちで、逆光を前にすると、それでも視覚的なスペクタクル感に誘われて撮ってみようって云う気分と、やっぱり逆光はあまり使いたくないといった気分がせめぎあったりするんだけど、このくらいの斜め後ろからの光はそんなに押し付けがましくなくていいかも知れないなぁって思いました。

鳩は、フラットベッド・スキャナーのノイズが乗ってます。おそらく性能の良いスキャナーでも多少はこういう線的なノイズが入るのは避けられない感じがする上に、わたしのところのスキャナーは一応キヤノンのだけど型落ちで1万しなかった安物の上にかなり使ってるから、こういうのや一面の青空といった、単一の色面なんかだとやたらに目立つ形で現れたりします。
あぁ、新しいスキャナーに買い換えたい。
で、修正したりして目立たなくするんだけど、これはどうしようかなぁ、ノイズの出方が面倒くさそうだし、ブログに載せるのやめようかなぁと思ってたりしてました。
でもティルマンスの展覧会を観た後でこれを眺めてるうちに、そういえばティルマンスの写真にコピーを繰り返してわざとノイジーにした作品もあったと思い至り、このままでもいいかとここに載せる気になったものです。他人の作品を見て決断するって若干情けない。
ノイズ上等、くらい言い切ってしまわないと。

☆ ☆ ☆

さて、そのノイジーな画面に強気にさせたティルマンスのこと。
夏の間は暑いから行かないといっていた国立国際美術館で開催中のヴォルフガング・ティルマンス展へ行ってきました。
ここは館内で写真機取り出したら速攻で係りの人が飛んでくるので、一応ホルガを持ってたんだけど、館内に入る前にバッグの中にしまいこんでしまいました。
展覧会は地下一階のロビーから降りて、地下二階の全フロアを使用しての展示。もう一つ下の階のフロアでは別の展覧会をやっていて、複数階のフロアに渡っての展示じゃなかったので規模が小さいようだけど、展示してある写真はそれなりに量があったから、物足りないという感じはしなかったです。今までに出版されたティルマンスの全写真集も鎖はついていたけどテーブルの上ですべて鑑賞可能にしてあり、そういうのも展示の一つとして構成されていて、こういうのは普通展示してあったにしてもガラスケースの中だったりするから、気前がいいといえば気前の良い見せ方になってました。
お金を払ったからにはせっかく鑑賞可能にしてあるんだから、絶対に十冊以上は展示してあったこういう写真集もすべて見てきたかったけど、はっきり言ってこれは一時で見る限界量をはるかに超えてました。写真集十冊以上を一気に見るなんて、集中力が途切れて絶対に無理です。


ティルマンス展1

(展覧会の図録は変った体裁になっていて、外側を厚紙のカバーで包み、幅広のゴムバンドで止めてる中に二冊の本が入ってました。一冊はこの展覧会の写真集でもう一冊は解説や出展目録など、今回の展覧会についてのテキストを載せた本。
変った形になってるから一瞬「お!」ってなるけど、目録としては普通の本のほうが扱いやすいかも。肝心の写真集のほうも結構薄手のものでした。確かにまだ写真集に纏められてない新作とかも混じってはいるんだけど、この展覧会に関連付けないなら、普通に写真集として出てるものに手を出したほうが幸せになれると思います)

ティルマンス展2

会場の展示はいつものインスタレーションで、実際にこの会場でティルマンス本人が構成したんだそうです。額装されないまま、大きさも巨大なものからL判プリントみたいに小さなものまで、特に大きさで纏められることもなく、壁にそのままピン止めされたり、テープで貼り付けられていたり。ティルマンスは結構いろんな手法で写真撮っていて、手法ごとに纏められるような作品も、そういう纏め方をあまりやらずに、他のものと組み合わされるようにあちこち離れたところに展示されてるといった具合です。
テーマ的なものでグループ化されることもない展示だから、意味的な深みへと潜っていくような構成でもなく、むしろ絶えず組み替えられ再構成されて、その展示の組み合わせが作る空間は変容し、垂直方向ではなくて水平方向へと拡散していくようなものを形成していく印象が強かったです。
ただ、会場を回って見てるうちにちょっと散漫な感じがしたのも事実で、こういう展示方法が、作品を意味的な重力から解き放とうとしてる部分は面白いんだけど、正直なところ手が込んでる割には強い印象としては感覚の中に入り込んでこない場合が多かったです。インスタレーションの良いところとあまり良くないところは、この展覧会でも出ていたんじゃないかと思います。

ティルマンス図録頁


ティルマンスは90年代に自分の生活の中、身の回りにあるものや友人たちの生活、当時の若者や、ティルマンスはゲイなので、ゲイ・コミュニティに集う人たちの様子などを写して登場してきた写真家です。今ではわたしも含めてこういう日常を切り取るような写し方は極めてオーソドックスなものになってきたけど、当時はこういう写真を撮る先駆けになった人だったんじゃないかな。時期から見ると日本でもヒロミックスとかが出てきた頃?ひょっとしたら潮流としてそういう写真がやってくる必然性でもあった時代だったのかもしれないです。
若者のポートレートとか、何度も書いてるけど、ティルマンスが撮ったとしてもわたしにはよく分からない類の写真だったりします。妙に尖がった人が写ってたり、ジャージの上下でかっこつけて写ってたりするのを見たり、そういうのには興味を引かれて、ジャージの上下なんて日本ではダサい極み扱いなのに、これでもいいんだと、ジャージ好きになったりした影響はあったけど、人間性がどうのこうのとか性的なマイノリティがどうのこうのといったことにはまるで反応しなかったのは今でもほとんど変わらずです。
ただこの展覧会ではもちろんこの類の写真も展示してあったけど、あまり印象には残らなかったから、展覧会の主軸の扱いでもなくなっていたのかも知れません。というか分からないという異物感よりも結構頻繁に見てるから見慣れてしまったか?

とにかくわたしはこの写真家が日常を切り取る時の感覚が好き。といってもとても風変わりな、人を驚かせるような切り取り方はほとんどしてないんですよね。もう本当に普通に写してるとしか思えないから、波長が合わないとまるでどこがいいのか分からない、ただ適当に撮ったスナップにしか見えないかもしれない。でも波長があうと、感覚的なもので成り立ってる部分に自分が反応してることに気づいて、そうなるとティルマンスの写真は俄然面白くなってきます。これ観た後で会場周辺の街中で写真撮ったりしてたんだけど、今見たあんな風にかっこよくは撮れないなぁと、ただスナップしてるように見せながら何かある、その何かって一体なんだったんだろうと、思い返すことしきりでした。

あまり情緒的な切り取り方をしてないのが、わたしがティルマンスの写真で好きなことの一つです。これは明確に言える。たとえば詩集のなかに挿入されてそうな類の写真ではなくて、だからといって理知的というものでもないんだけど、対象をその色で包んでしまおうとしがちな心情、感情じゃなく、もうちょっと醒めた感覚を拠り所にしてるような写真。あまりべたべたせずに自分の周囲の世界の「形」を見極めようとしてるクールな感覚とも云うようなものが気に入ってるんじゃないかなと自分では思ってます。

それともう一つ、ティルマンスはいろんな手法で写真に関わろうとする写真家で、そういう多彩なアプローチを見せてるところも好き。
この展覧会でも、具象に限界を感じてスタジオに閉じこもり印画紙と薬品を使った抽象的な作品を作り続けていた時期の物が展示されていました。写真集では知ってたけど、これは実物で見たほうが絶対に面白かったし、実物を見られてよかったと思いました。
反対に現代の生活ではネットにあふれては消えていく情報の海を扱わないといけないと言うことなのか、ネットで見るモニター画面をそのままプリントアウトしたようなものがテーブルの上に所狭しと並べられてた作品があって、これはつまらなかったなぁ。まず第一にそもそも写真ですらなかったし。

面白いつまらないはまぁ別にして、第一線にいながら守りに入ることなくいろんな手法を試行する姿勢は、これはやっぱり大したものだと思います。この夏話題の一流盗作デザイナーやその擁護者たちのように、モチーフによっては似てくることがあるなんて情けない自己正当化してる場合じゃない。
写真の可能性はまだまだ未知の領域として目の前に広がってるんだよと、写真とか思いのほか狭い領域に凝り固まり収斂しがちなメディアだと思うから、こういう試行錯誤を積極的に繰り返してそういう領域を示そうという精神は思い切り影響を受けても良いはず。
そういう精神に触れるのもこのティルマンスの展覧会の見所の一つなんだろうと思います。

期間は23日までなので、今これを書いてる時点からは残りはあと一週間ほど。写真が好きで興味が出てきたら早く見に行ったほうが良いよ。
もう暑くもないし。








☆ ☆ ☆

Endless Summer - John Scofield


もう夏は終わったというのに、あんな夏は大嫌いだと言い切っていたのに、今時分になってこんな曲を取り上げてみます。
あんな夏がエンドレスだったらと思うと、夏の間に取り上げなかったのは正解だったとは思うけど。

ファンキーで官能的で、かっこいい演奏。もうこの一言ですべて言い切ってしまえます。緩急をつけながらも全体に疾走感がある曲で、意外とメロディアスなのも聴きやすさを追加して良いです。
ジョン・スコフィールドがこんなにオーソドックスに歌うギターを弾くのはわたしにはかなり意外なことでした。
この人のギターはアウト・スケールの変態みたいなメロディがグネグネとのた打ち回ってるという印象しかもってなかったから。
反対にスコフィールドの変態フレーズが好きな人には、このアルバムはかなり物足りなく聴こえるかもしれないです。
それと、この前のフリゼールもそうだったんだけど、こういうフィールドではあまり見ないテレキャスター使ってるんですよね。一人ジャンルのようなギタリストはテレキャスターを好むとかいった法則でもあるのかな。
わたしはテレキャスターの形、好きだけど。一番はレスポールであるにしても、ストラトよりも好きかも。









展覧会の図録はそのうち書店に出てくるかもしれないけど、今は国立国際美術館に注文するなり買いに行くなりしないと手に入らない。ティルマンスの写真集として一般的な出版物で手に入れやすいとなると、日本語のものはテキスト主体の本が一冊と美術手帖で特集したもの以外は出ていないから、海外の出版物となり、この「neue Welt」辺りになるんじゃないかな。2013年頃のティルマンスの最新写真集。今もまだ最新という冠がついてる写真集のはずです。
これと少し前の記事に載せておいた過去の代表作三冊がボックスセットになったものをプラスして、金銭的な面も含めてそれなりに手軽に、ティルマンスの全体をそれほど不足なく俯瞰できると思います。