暑中お見舞い申し上げます

2017暑中見舞い





2017祇園祭1





2017祇園祭2






2017祇園祭3





2017祇園祭4






2017祇園祭6

2017 / 07
祇園祭 室町通
Olympus Pen E-P5

祇園祭でも撮ってこようと思って夕方に出かけた時のもの。ちなみに前回書いた長刀鉾の粽を全力確保する決意のことだけど、決意が結実したのか今年は無事に手中に収めることが出来た。
それにしても暑すぎる毎日に、まだ夏は始まったばかりというのに早くも気力は加速度的に減退して、カメラ持って出かける気になかなかなれなくなってる。ここへ行けばきっと面白い写真が撮れるなんていう予感めいたものがまったく頭に上ってこなくて、ここへ行ってもどうせ大した物も見つからないだろうという思いのほうが先に来る。
今回の写真を撮りにいったのは夕方だったんだけど、撮り歩いてるうちに思ったのは太陽が頭上にある時よりもやっぱり多少は過ごしやすくなってるなっていうことだった。この感じだと昼間は壊滅状態になってる気力が、夜だとなんとか蘇って来る可能性もある。そんなこんなで夏の間は夜の撮影に徹するかなぁなんて思い始めた。実のところフィルムは夜の撮影に弱くて、というか撮れる人には撮れるんだろうけど、自分はとっても苦手で、今までほとんど撮ったことが無い。今回のもフィルムじゃ無理だと、もう最初からデジカメ持参の撮影だった。
でも夜にフィルムも使ってみたいんだなぁ。そういえばこういうことを書いてみて思い出したけど、この室町通を歩いてる時に、二眼レフを構えてる若者を一人見かけた。こんなに暗いところで昼間でも見難いウエストレベルファインダーを覗いていたけど、その有様を見ていて夜の空間をフィルムでも撮れるんだと思った。まぁ本当に撮れたかどうかはあの人に結果を聞いて見なければ分からないけど。
夜をフィルムで撮る、これは今後のちょっとした課題になるかも。

今回の写真はブロドヴィッチ先生に怒られそう。祇園祭を新鮮なイメージで撮る方法を誰かに伝授してもらいたいところだ。










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午睡 / ジャン・ボードリヤール 「消滅の技法」

眠りうさぎ





手すりと光窓


2017 / 06
嵯峨野
Olympus Pen E-P5 / Konica Eye
Fuji 100

相も変わらず嵯峨野巡り。といっても観光スポットではほとんど撮ってないから、嵯峨野である必要もあまりなかったりする。
嵯峨野、嵐山と名前はもう観光地そのものの場所だけど、行って見ると意外と観光スポットは少ない。竹林の道や渡月橋の辺り、猿山に近隣の寺社くらいじゃないかな。トロッコ列車に乗ったり保津峡の川下りなんていうのもあるけど、だからといって観光地として多彩な印象になるというほどでもない。
桂川もちょっと広すぎて川縁を歩いても気を引くポイントとかほとんどない。先日試しにあまり人が通っていない右岸のほうを歩いてみたけど、舗装した道と川の反対側である山裾と空を覆うような樹木が続いてるだけだった。対岸から見ると木々のトンネルの中を抜けていくようなイメージにも見えてはいたんだけど、木々は実際にはトンネルというほど空を覆ってない。おまけに桂川を対岸へ渡ろうとすると橋は渡月橋しかなく、両岸の散策路を遠くまで歩いてしまうと、向こう岸に渡りたくてもいちいちこの渡月橋のある場所まで戻ってこなくてはならない。それほど探検しなくてもそのうち桂川では船遊びくらいしかやることがなくなってしまう。
で、思いの外大味な場所なので、そろそろ写真撮る場所を変えようかとも思い始めた。
この前引いた大吉のおみくじによると、吉方は東だということだ。嵐山は京都の西で、真逆の方向ではないかと思い至って愕然とする。でも東と云っても東山の辺りもあまり新鮮な気分で撮れそうもない。ということで思いついたのはさらに東に行って大津辺り、琵琶湖の湖畔はどうだろうということだった。大阪には頻繁に行くんだけど、何故か滋賀のほうには足どころか意識さえも向いたことがない。
水辺の写真とか夏にうってつけのようでもあるし、一度行ってみるかなぁと思い始めてる。

嵯峨野は観光客に混じって歩いてみると広いのに限定された観光スポットしかないなぁっていう印象だけど、一つだけ目に留まった場所で御髪神社って云うのがあった。日本で唯一つ髪の毛の神様の神社だそうで、世の男性には救いの神に見える人も多そうだ。そういう男性のための福音をもたらすべく、珍しいのでここは探検に行ってみたい。観光客の歩くルートとも離れてるし、おそらく人通りはほとんどないと思う。

今回の写真はちょっとクールでしょ。こういう撮り方が細部を捉えるとはあまり思ってはいないんだけど、最近はここという位置からさらに下がって広くフレームで切り取るような撮り方をしていたから、こういう接近戦に近いような撮り方をやったのは久しぶりだった。自分で撮って眺めていて思ったのは余白のとり方といったところかな。イメージの抜き加減というか何もない空間を上手く取り入れるということだった。ずっと昔から思っていたことだけど特に縦構図の場合は日本画なんかが参考になるんじゃないかなぁ。掛け軸とかまさに縦構図の完成形のようなのが多いし。


☆ ☆ ☆


社会学者、思想家であるジャン・ボードリヤールが書いた写真論の本。
消滅1

というか、論というほど筋道だって論理的に何かを解き明かしてる風でもなく、覚書に近い思考の断片が連なって、その断片が照応しつつ、輪郭が浮遊しているような不定形の内容空間を形成してる感じだ。そして本はそういう言葉で綴られてる部分とボードリヤールが実際に自分で撮った写真の二部構成になっていて、写真のほうが全体の三分の二くらいと、文章の分量よりも多い。
この本の言語空間はポストモダン的な立脚点から展開していく写真論とでも言うのか、世界を記述する方法として、従来的な表現する主体のようなものよりも客体のほうに重点を置いた方法を試行して行くような展開になってる。矮小な自己で世界を染め上げるよりも、事物そのものに語らせるべきだというような方向性。

消滅2

もうほとんど冒頭の部分に、写真に撮られるのを望んだのは光景のほうであって、あなたが気に入って撮ったと思っているのは実は勝手な思い違いだと、その光景が演出しているのであって、あなたは単なる端役にしか過ぎないというような一節が目に入ってくる。ちょっと前に書いた荒木経惟の本の中に街が表現してるものを切り取ってくれば良いんだよといった件があって、自分はそういう考え方が気に入ってると云うようなことを書いたけど、こういう考え方とボードリヤールの論調は根を同じにしてるように見える。
主体があるイメージで染め上げて表す世界像といったものとは真逆の世界の記述方法の提案は、カメラという機械が指し示す世界像とは意外なほどしっくりと馴染んでるように見える。カメラのレンズは人の眼よりも冷静で正確で、何の修練もなしに誰でもがシャッターボタンを押すだけで世界を切り取れる。ボードリヤールが語る世界の記述法はこんな道具が一番活躍出来そうな世界でもある。

消滅3

ただね、唯一の欠点はこの本、極めつけに難解なんだな。
客体を中心にすえて、主体や主体が生み出すイメージとの関係などを従来的に受け入れられていたものから様々に読み直し相対化していく思考の集積物のような文章部分は、今回これを紹介しようとまた少し読み直してみたんだけど正直この独特の難解さに辟易してしまった。輪郭線がふわふわと浮遊して形を変えていくようなこの本の言論空間はおそらく云っている内容そのものはそれほど難解でも重厚なものでもないと思うんだけど、なにしろボードリヤールの言葉使いが、言葉の厳密な定義もなしにボードリヤール流とでも云うような使い方をしているために、普通の書物のように内容を理解する方向へはなかなか進めない。使われている言葉に対して自分が理解してる意味を与えてみて、こういうことを云っているんだろうと推論するようにしか読めず、こういう風な意味で使ってるんだろうと推測して与えた意味がボードリヤールがこの本で使ってる意味と同じなのか良く分からないという箇所が多い。
で、本当に理解できてるのかどうか何度読んでも確証が得られないようなテキスト部分の言語空間は、面白いけど頭が痛いという感じで、つまらないから思い切り良く切り捨てるということも出来ない難儀なものとなってるんだけど、それとは別に、というより分量的にはこちらのほうが多くなってる写真の部分、これはテキスト部分とは対照的に難儀な様子もなくてなかなか面白い仕上げになってる。社会学者が書いたから文章がメインの本だと思いがちだけど、分量から見てもこの本は写真集であって、はぐらかされるような文章部分はおまけだと思って読むと意外と得したような気分になれる。掲載されてる写真は自分にとってはわりと気を引くものが多かった。とても素人が撮った写真とは思えない、と書くとこの本の趣旨に反してしまうのでそうは書かないけど、並べられた写真は非常に興味深い。それにこんな風に実際に写真を撮って論の実践してる写真論の本ってそんなにないんじゃないかな。

消滅4

ちなみにボードリヤールのメインフィールドである社会学のほうの著作「シミュラークルとシミュレーション」は映画「マトリックス」の発想の元になった本でもある。





カメラがポストモダン的な機械だというのがよく分かる。もっともそんな面白い機械を手にしても、せっかくの脱主体化に恐れをなして従来の表現領域に取り込もうという人がほとんどだけど。


E-P5は外付けのファインダーと標準のズームをつけて使ってる。外付けのファインダーがかっこ悪い。何でこんな不細工なアクセサリーにしかならなかったんだろう。チルト機能なんかいらないからもっと繊細なデザインにして欲しかった。バルナックライカなんかに乗せる、筒状のミニチュア望遠鏡のようなファインダーに比べると、あまりのダサさに目の眩む思いだ。






真夜 + Verklärte Nacht - Arnold Schoenberg

夜の広場にて





夜の電話箱





夜の柱





夜の二階





導かれて行く闇の領土





2017 / 01 / 奈良
OLYMPUS PEN E-P5 / E-P3 ( Body Cap Lens )


全部じゃないんだけど今年のお正月をちょっと過ぎた頃に撮った写真。元旦に八坂神社で引いた凶のおみくじのリベンジもしてみたいと、そういう気分も多少あって春日大社に行ってみようと思い立った。最近奈良との境界辺りが関係深くなっているようで、春日大社を選んだのもその程度の関連からだった。
ちなみにお正月に引いたからといってそのおみくじに一年の吉凶がこめられているかというと実はそうでもないらしく、おみくじの有効期限は自分で決められるんだそうだ。だから凶の日々は今日までと決めてしまっても一向に構わないということで、奈良公園や奈良町は行ったことがあるんだけど春日大社は本殿まで行ったことがなかったので、行ってみようという気分になった。
最初に行ったのは夕方近く、三が日は過ぎていたので人通りは極端に多くもなく、参道には疎らではあるけれど屋台もまだ店を出していた。結果的に云うとこの日は本殿まで辿りつけず意外と遠い道筋に途中で飽きてしまった。
長く単調な参道を歩きつつ、まだつかないのかなぁと思いながらふと空を見上げると、参道の両側の木々から参道の上空をかけ渡すように電線が張られていて、その電線に転々と電灯が並べてあるのに気づいた。
見つけた時は明かりが灯っていなかったので、もっと暗くなってからくるとこの電灯の列が参道を照らすんだなと思うと写真を撮りたくなって、でもその日は明かりが灯るまで待てずに帰宅、翌日だったかその次の日だったか、今度は暗くなってから行ってみた。

この辺が凶を引いた証だろうと思うんだけど、再度行ってみたら辺りは真っ暗闇で、お正月三が日をわずかに過ぎていてもそれなりに歩いていた観光客も誰も居ない。
帰ってから調べてみたら、どうやら最初に行った日がお正月モードの最後の日だったようで、空に浮かぶ明かりを撮ろうと思って暗くなってから行ったこの日は既に通常運転。閉門時間まで早くなってしまっていて、門前払いを食らった形になった。もちろん屋台なんて何一つ出てないし、空の電灯はまだ設置されてはいたけど、真っ暗闇の夜空に溶け込むように明かり一つついていなかった。

参ったなぁと思ってほとんど人通りも絶えた奈良公園で仕方なく撮っていたのが今回の写真だ。夜に撮るということで持って出たのはデジタルのほうだったんだけど、三脚は持ってこなかった。もうちょっと明かりがあると手持ちでもそれなりに撮れたと思うんだけど、結果は大半が手振れしていた。まぁそれもその時の写真の形として現れたものだから、問答無用に失敗とは思わないんだけど、手振れにも気落ちした気分が乗っかっていそうだった。

それからあと、今に至るまで春日大社に行ったのは一度くらいかな。一応本殿までは到達したんだけどおみくじコーナーは人が並ぶほど盛況で未だに凶のリセットは果たせていない。

点々と灯る丸い街灯に誘われて夜の様々な位相を巡り、やがて遠くの闇の中へと消えていく。
夜に撮るのも結構面白いね。フィルムだと夜に撮れる自信がまるでないけど、デジタルは夜の撮影にはかなり有利なんじゃないかと思う。もうちょっと暖かくなったらまた誰も居ない夜の奈良公園で今度は三脚も担いで歩き回ってみようかな。


☆ ☆ ☆

Schoenberg: Verklärte Nacht

夜の曲で頭に浮かんだのがこれ。無調の音楽が浪漫主義の行き着いた果てだというのがよく分かる。







中古で買ったE-P5のほうについていた。目測、パンフォーカスのトイカメラや写ルンですっぽく使えないかと、さらに旧機種のE-P3につけっ放しにしてある。でもやっぱりどこまでいってもデジタルはデジタルというか、逸脱部分までもすっきりと割り切れた逸脱として綺麗に写り、ローファイのテイストは出てこないなぁ。


わたしが持っているCDはカラヤンの指揮した、シェーンベルクのほかにベルク、ヴェーベルンの曲が詰め合わせになっているこれの古いバージョンだけど、どのバージョンもみんな高くなってるなぁ。
高くなっているといえばこの彗星絵具箱で以前に取り上げた、サラ・ムーンの写真集「12345」。最近たまたまこれの英語版のアマゾンでの高騰ぶりに気づいてちょっと吃驚した。あの値段で買う人いるのか?写真集は市場から弾数が不足し始めると急激にプレミア化するものが多い。これもその類のものなんだろうけど、それにしても手に入れられる値段の時に買っておいてよかった。




思う心は千里の闇を縫って走る

千里の闇
思う心は千里の闇を縫って走る
2015 / 10 / Olympus Pen E-P5 / M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm f3.5-5.8

依然100円文庫での買い直しと問答無用半額写真集の狩猟は続いていて、どちらも保存しておくのが第一の目的になってるから、あっという間に収納場所に困り果てることとなった。100円の汚れ果てた文庫を保存対象に考えるのも妙な話なんだけど、やってる行為は、以前持っていて手放したのを買いなおしてる、一度手元にあった本だからお金をかけるのは嫌、100円だとちょっとした宝物探しでもしてる気分にもなる、という性質のものだから、また置く場所がなくなったら処分するという方向へは思考はなかなか流れていかなくなってる。
こうやって集めなおしてる中で、今読んでるのは島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」という本。この短編集に対する興味は昔から表題作の系列じゃなくて、同時に収められてるシュルレアリスム的な作品のほうだった。
それにしても状態の酷い文庫で奥付を見ると昭和四十八年とある。なんと40年以上前の本!本自身も40年後にブックオフの100円コーナーに並ぶことなど想像もしてなかっただろう。ページ全体が茶色に日焼けしてる上に活字が小さい。昔はこんな小さな活字の文庫を平気で読んでたんだとこれは本当に吃驚する。
何しろこちらの眼は老眼が入ってきてるものだから、茶色に変色したページに印刷された活字はコントラストが低く、その小ささと相まって無茶がつくほど読みにくい。というか、電車の中なんかだと窓から差し込む陽光に晒すくらいしないとほとんど読めなかったりする。
これは今新刊の文庫で本屋に並んでるのかなぁ。あまりにも読みにくいので活字の大きな日に焼けてない文庫に、そういうのが出てるなら買い換えたいと、なんだか買いなおし、買い替えの迷路の中に踏み入れてしまいそうな気配になってきてる。

ちなみに古書の類は映画DVDの廃盤とか漁ってる感覚の延長で、基本的には新刊の本なら積んである何冊か下のものを買ったりするような性癖の持ち主なんだけど、それしかないという状況なら割とその性癖に封印して手に取るのにあまり抵抗が無かったりする。でも水濡れの跡がある古本は、これだけは絶対に嫌。珍しい書物を棚に見つけて引っ張り出してもこの水の染みがあったりふやけてる状態の本は速攻で棚に戻すし、今そんなのを手にしたことで穢れてしまったものを洗い落とすのに、そのまま洗面所に駆け込みたくなってしまう。


the end



写真集のほうで入手したのも何冊かあって、その中でとんでもなかったのがマイケル・デウィックの「The End : Montauk,N.Y.」という写真集。「アート写真集 ベストセレクション 101 2001-2014」という本では、超希少本で入手が極めて困難、なんていう紹介のされ方をしていた本なんだけど、950円で出てたのを買って、ためしにアマゾンでどういう取引がされてるのか調べてみたら、なんと約46万円くらいの値段がついていた。もっともいつものことでこんな値段で誰も買わないからアマゾンのマーケットプレースのリストに残ってるわけで、めったに市場には出ないらしいものの、市場に出た場合の実際の取引は5万円くらいのよう。でもそれでも高い。
こんなのが1000円しない形で目の前にあったら、内容がどうのこうのという以前に手を出すほか無い。ちなみにアメリカの片田舎の漁村でサーファーとして一日を送るような生活をしてるコミュニティの様子、永遠の夏のような世界を生きる人たちを写したモノクロ写真集で、表紙の裸体で浜を駆ける女性の写真は非常に綺麗なんだけど、いかんせん水面下のものが全部恐怖の対象になって、サーフィンなどしようと思ったことも無い人間には根本的なところで接点を持てなくてどうしようかと思うような写真集だった。




☆ ☆ ☆



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2015 / 10 / Olympus Pen E-P5 / M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm f3.5-5.8



今回のはフィルムじゃない。オリンパスのデジペン E-P5で撮った写真。レンズはキットレンズ使用。
元々持ってたデジペンはE-P3で一世代前のもの、しかも唯持ってるだけでほとんど使ったことがなかったんだけど、現行機種が結構値崩れしてきてたから、またちょっと気まぐれで手を出してみた。おそらくそろそろ新製品が出るんじゃないかな。新製品が出るのにわざわざ型落ちになる古いほうを?という疑問もあるだろうけど、デジカメを新製品で買うなんていう発想が皆無な者としては、新製品が出るというのは従来機が安くなるサインにしかすぎない。
ペンといっても古いカメラのデザインを引用してるだけの普通のデジカメだから、フィルムの初代ペンを使ってるからなんていうこだわりじゃなく、手を出したのは単純にE-P3で使うために外付けの電子ビューファインダーを既に持っていたから。これがE-P5に最適化されてる、オリンパスの外付けファインダーだと一番高価になるもので、E-P3ではカメラのファームウェアのアップデートで使えるようになってはいたんだけど、自動で液晶と切り替わらないとか、解像度が本来の密度じゃなくなるとか、フルパワーの状態で使えなかった。このファインダーを完全な状態で使ってみたかったというのが、このデジペンE-P5に手を出した一番の動機だったかもしれない。
でも本来の解像度で使ってみても、電子ビューファインダーはやっぱり何かが投影されてるスクリーンを眺めてるようであまり快感じゃないなぁ。光学式のファインダーのほうが抜けが良くて断然覗きがいがある感じ。
で、相も変らずこの世界にあるなかで一番つまらない書物だと思いながら、今回は我慢してマニュアルを読んでる。
結局のところ、わたしは滝の水が白い糸のようになって写ってる、ああいうのを良いとする感覚とはまるっきり無縁なので、シャッタースピードを中心にして撮ることも無く、絞り優先の形で、絞り値と感度の設定をどうやるのかさえ分かれば、特に不自由も無く撮ることができる。マニュアルって他に書いてることは、単純化して云えば画像に追加するエフェクトのことがほとんどという感じで、でもこれ何もカメラの中でやらなくても大半がPC内部でフォトショップでも使えば出来るんじゃないかなと思う。こういうのがマニュアルを煩雑で世界で一番つまらない書物にしてるんだろう。
なんだか文句ばかり書き連ねてる感じになりそうだけど、おまけにそのエフェクトのどれもがどこか紛い物っぽい。道具だからすべては使う人次第なんだろうけど、ずらっと並ぶエフェクト一覧はイミテーションがパレードしてるみたい。オリンパスが提供するエフェクトでいうと、トイフォトだとかクロスプロセスだとか、こんなの数千円のトイカメラで、しかもデジタルエフェクトなんかに比べ物にならないくらい予測不可能なドキドキ感を味わいながら本物が撮れるんだから、なにも10万以上もするような、まぁわたしが買ったのは値崩れで半額以下になってはいたけど、そんな高価なカメラで紛い物を作ることも無いと思う。本末転倒してるぞ。ラフモノクロームも偽者感が半端ない。ボタン一つで森山大道風スタイリッシュなモノクロームを、というような趣旨だと思うけど、ボタン一つで森山大道になることの意味なんてどこにあるとひとしきり考え込んでしまいそうだ。森山大道も今はデジカメで撮ってるけど、もし森山大道がラフモノクロームを使ってボタン一つで森山大道になってたらなんて想像してみると、これはちょっとシュールな状況だろうなぁ。






46万円!!!





日本の写真家の写真集がほとんどピックアップされてないのがいまひとつな写真集ガイド。他の写真集のセレクトもちょっと傾向がありすぎる感じがする。当然入るべきだと思う写真集がもれてしまってるのは、写真史を俯瞰するような包括的なガイドじゃなくて、出版年を限定して編集してるガイド本だからなのかもしれない。でも資料の一つとしてはそれなりに役に立つと思う。