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閉じた合わせ鏡の中で、光は幽閉され行き場を見失う。写し絵の鏡の中で現実は隠されており、黒い光の無限反射の果てに見いだされるその解は 

木立の神社

パソコンのモニターを眺めていて、ふと机の上に視線を落としてみれば、左腕を置いていた場所に、広い範囲で血をにじくった跡があった。松田優作の有名な台詞をまさしく生々しい感情を伴って初体験したような瞬間だった。椅子のひじ掛けを見てみると同様jに血濡れの状態になってる。何事かと思って肘の辺りを鏡で調べてみたら、直径1cmくらいに皮膚がはがれてくすんだピンクの肉が剥き出しになてる箇所があった。いったいいつどういう経緯でこんな怪我をしたのかまるで覚えがない。怪我をした瞬間に痛みもあったはずだし、机のうえになすりつけてる間も痛みがあったはずなのにまるで何も感じなかった。
頭に疑問符が山のように浮き上がったまま、とりあえず絆創膏を貼っておいたけど、なかなか傷口が乾かず、家に常備してあった抗生物質の傷薬はあいにく期限切れで、ドラッグストアに買いに行くことに。アマゾンの売値を調べていったら、ドラッグストアのはその約二倍の値付けになっていた。この値付けにひいてしまったけど、早く欲しかったのでとにかく購入した。あとでアマゾンのを確認してみたらセールでもないのにほぼ半額引きの但し書き付きで、なにか曰くつきの商品だったんだろうか。
それにしてもいまだにどうしてこんな傷を作ってしまったのかまるで分らない。
「にじくる」ってなすりつけると云った意味合いなんだけど、漢字変換できなかったから調べてみたら、京都の方言だと。一般的に使われてると思ってた。

しばらく前に島田荘司の「屋上」を読み終える。以前になんだか嫌な予感がするようなことを書いたけど、予感は見事的中し、まぁ一言で云うなら絵にかいたような駄作だった。御手洗潔ものの50作目にあたるものだったらしいが、50作も書けばこんなになってしまうんだと妙に納得、これではコアな御手洗ファンででもなければ許容できないだろう。
四人の人間が同じビルの上から動機もないのに次々と落下する謎はそんなことで人が全く同じように飛び降りるわけないだろうっていうう程度のものだし、人間瞬間入れ替わりに関してはあまりにも馬鹿らしくていったい自分は何を読まされてるんだと訝しむほどだ。映像化すれば絶対にこの部分は何だこれはと笑えないコントのようになるのは間違いないだろう。土台文字で書いてこそ成り立つトリックで実現不可能なものであり、ある意味小栗虫太郎ばりのものと言い張れば言い張れそうな感じもしないこともないが、あちらは怪しげな衒学趣味で目もくらむような大伽藍を構築して煙に巻く世界を成立させているのにくらべ、「屋上」はメリハリのない関西弁で面白くもないユーモアを作り出そうとしているのみ、この出来損ないのコントみたいなトリックも、あまり必要性を見いだせない関西弁の使用と重ねてみると、ひょっとしたら全体をユーモアミステリとして仕上げたかったのかもしれないけど、関西弁を使ってユーモアミステリにしようとする考えは安直に過ぎ、現に馬鹿げたトリックと平坦な関西弁に空中分解して面白くもなく、ちっともユーモアに結実していない。
ただ島田荘司は魅力的な謎を作り出す才能は傑出していて、謎が解けるまでは読ませるんだなぁ。なのに謎はまるで手品の種明かしのように解かれて、あとは幽霊と見誤った枯れ尾花が山のように積み上がってるばかりの荒涼たる光景になってしまう。「アトポス」とか「眩暈」辺りまでは単行本で出た時にまっさきに読んでいたのに、いつの間にか、といいうか「奇想天を動かす」辺りから文庫でいいやと思いだしたのはこういうところが原因なのかも。
それでもたまに思いついたように読んだ「巨人の遊戯」だとか「ネジ式ザゼツキー」は面白く読めたんだけど、この「屋上」はまるで駄目だった。
つまらなかった本に言葉を費やすのも興ざめなのでこれはこの辺にして、これを読んだあとは「ムーミン谷の彗星」と「星の王子様」なんていうのに手を出した。
ムーミンの「彗星」は日本だと一作目と紹介されたんだけど実際は二作目。ムーミンにしては彗星が落ちてくる話で随分と重苦しくシリアスな話になってる。まだムーミンの世界が固まってない状態ではあるものの、干上がった海、赤く染まる空、家路を急ぐムーミンたちの前に現れる終末下のダンスパーティなど、その分陰鬱でシュールとなった世界は馴染みのあるのとはまた違ったムーミンというのが楽しめてわたしは好きだ。ほの暗いイメージの強い物語にあって結構センスのいいユーモアが所々にちりばめられてるのもちょっと予想外で、楽しくていい。そしてスナフキン初登場の巻でもあって、スナフキン好きとしてはポイントが高い。もっとも一番お気に入りはリトルミイではあるんだけど、この巻にはまだ登場していない。ちなみにリトルミイには兄弟が34人もいるって知ってた?
ムーミン彗星
講談社文庫版のムーミンシリーズにはいくつかカバー違いのものがあって、わたしは21世紀版の限定カバーが飛びぬけて好き。あまりに気に入りすぎてボックスセットを一つ持ってる上に読むためのものをもう一冊ずつばらで持ってる。
「星の王子様」は人間批評みたいな部分がちょっとうざったい。象を飲み込んだ蛇の絵で始まるにしては、もうちょっとイメージの多彩さで語れなかったものかと思う。
すっかり児童文学脳になってしまったあと、次は何を読もうかと思って手元に積んである本を眺め選んだのが、「奇っ怪建築見聞」という日本の不思議な建築の話をまとめた本。実在の幽霊屋敷である三角屋敷に住んだレポートが載ってるというので買った本だ。でこの本を読んでいて気づいたのは寒い間怪談や幻想譚ばかり読んでたのに夏になってからこの類の本をさっぱり読んでなかったこと。もっとも夏に怪談っていう図式は自分にはいまいちよく理解できなくて、蒸し暑い夜に本気で気味悪い話なんか読んだりしたら逆に嫌な汗をかいて寝苦しくなったりするだけだろう。
この建築の本は岩窟ホテルだとか京都にあったオールプラスティックの透明建築だとか常識外れの建築の話が多く、それはそれで面白かったんだけど、幽霊屋敷は三角屋敷だけだった。気味の悪い話に回帰気味となったわたしの志向にはちょっと物足りなくなって,また怪談、心霊ものに舵を切るべく、次は川端康成が残したこの手の作品を集めた本を読もうかと思ってる。実は川端康成は心霊的、幻覚的、病み果てた妄想的な薄気味の悪い作品を数多く書いていて、踊り子さんだけの作家じゃない。
ちくま文庫の「東雅夫編 文藝怪談傑作選 川端康成 片腕」という本なんだけど、手に入れたのは結構前で、美味しいものは一番後までとっておくわたしの悪い癖が出て、パラパラと頁を繰って拾い読みをする程度で今もまだ手元で眺めて、中身を想像しては楽しんでる。
美味しいものを一番最後まで残していざ食べようとする時には満腹になってたりするのが分かってながらこういうことをするんだな。

ディア・ハンターのテーマだ。


大好きな歌 My Romance






DONBASS 2016 ドンバス ドキュメンタリー アン=ロール・ボネル【 日本語字幕】




音楽もあまり聞いたことがないタイプの薄気味悪さでいい。






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夏の光のガラス瓶をかざせば、つかの間見えた始まりの場所に、踊る生と死の白い兔たちよ。

柵

久しぶりに洋服屋さんへ行って、といっても安上りにGUなんだけど、厚底サンダルを買った。変な歩き方をしてると、靴の中で爪先が押しつけられて痛みだすことがあって、サンダルなら大丈夫かもしれない。あとアンダーウエアと区別がつかない無地のTシャツとタンクトップを数枚。夏はこの程度で乗り切れるから楽でいい。サンダルは履き心地に問題なければ色違いでもう一足くらい買い足しておくのもいいかな。GUのサンプル写真を見ると靴下履いてサンダルという人も多いけどこれはどうなんだろう。

痺れを軽減する薬リリカの影響も多分にあると思う睡魔に囚われて、気がつけばやたらと居眠りをしてるし、梅雨に入ってからの蒸し暑さや痺れふらつきのストレスも相まって、集中力がなかなか元に戻らない。気がつけば時間ばかりが過ぎて、手元には何も残らないような日々が続いてる。
そんななかでわずかずつ読み進めていたジャック・カーリイの「デス・コレクターズ」をようやく読み終えて、これはすっとした。やっと次に進める。別に読みにくかったわけでもなく、読み終えてみれば意外なほど面白かったので、ちょっともったいない読み方だった。ジェフリー・ディーヴァーの再来ともいわれてるらしくて、ツイストの効いたプロットなんか納得だ。
30年前にパリの美術学校でシリアルキラーの画家の卵とその崇拝者によって結成された謎めいたコミュニティと現代アメリカに出現した魔術的装飾を施された死体の物語。死体に残された絵画の切れ端が30年の時間を飛び越えてこの二つの物語を結び付けていく。過去の謎めいた出来事に現在の事件が新たな角度から光を与え、その照り返しを受けた現在の事件の輪郭が際立ってくる。こういうのってまさしくミステリの王道の枠組みで、そこへプロローグから周到に張られた伏線だとか、死体の魔術的な装飾の真意だとか、終盤近くに姿を現す時空的に掻かれたことがあり得ない絵画というとびっきりの不可能性を纏った謎なんかが絡みあい盛大に盛り上げていく。注意力散漫で居眠りばかりしながら読んでいたわたしはこの不可能性を具現した絵画の登場でぱっちり目が覚めた。こんなありえないもの出してどうやって解決させるんだ。
シリアルキラーとかサイコパスを登場させてもその猟奇的な犯罪に深入りせず、飽き飽きしたプロファイリングなんかで解決しようとする気さえない語り口も気に入った。
前作同様終盤はアクションものの冒険小説風、ラストは主人公の兄が収監されてる収容所施設でこのスケール感のある物語は終わる。ここで中盤頃から登場していた真っ白い壁に向かってオーケストラの指揮でもしてるような動作を繰り返していたある収容者のこの行動の真意に主人公が気づくシーンがあるんだけど、これがちょっと感動的というか印象に残る。
これを読み終えて次に手を出したのが島田荘司の「屋上」


このカバー絵、どう見てもネタバレ。いいのか?
屋上

とある銀行の屋上から自殺なんて絶対にしないと公言してる行員が四人、立て続けに飛び降り自殺してしまうという、呪われた屋上で起きる奇怪な事件の話だ。解決編の前に読者への挑戦状が挟み込まれて昔懐かしい探偵小説の趣向が気分を盛り上げる。今この解決編の途中まで読み進めているところで、もちろん挑戦状を叩きつけられてもさっぱり分からないんだけど、嫌な予感というか、目の前にあったのにどうして気づかなかったのかと唖然とするような心理的な陥穽と云ったものじゃない、かなり機械的なトリックが出てくるんじゃないかといった駄作臭が濃厚に漂ってきてる。「奇想、天を動かす」の失速感がまちうけてそう。
それにしてもミステリ作家は大変だ。一回演じるごとにすべて種明かしを強いられるマジシャンみたいなもので、どんなにすごいトリックを思いついても一回切りしか使えないし、おまけに読み手のほうをみれば、ついてくる読者はすれっからしのミステリマニアでここぞとばかりにあら捜ししてくるような連中ばかり。さらに序盤で犯人が分かったと云ってマウントを取りにくる読者も現れるし、まるで自分の功績のようにネタばらしして悦にいる不届き者もわいてくるはで、いい加減嫌になってこないんだろうか。


アイルランドの古い歌。ダニー・ボーイとか好きな歌いっぱいあるし、こういう楽器で弾くと映える。








まぁ作り物なんだろうけど、こんなのが壁に貼りついてるのを発見したら発狂ものだろうなぁ。作り物にしてもこんなおぞましいものをイメージできる発想力が凄い。悪夢のような造形から動きまですべてが未知なるものが発する危険信号に満ち溢れて鳥肌ものだ。








知覚の地図 XXXIV 新聞に、暗い土手を蛇のように這いずり回る子供たちの記事が載った、あの日

ソラリスもどき
まるでタルコフスキーだなぁ。っていうか似たような写真、以前に出したような気もするぞ。あまり水面下っていう感じもしないけど、水面下、水の厚い層の向こうで影のように仄見える揺らめく水草とか、どこかこの世じゃない光景のように見えて。

カルネ
「タフィー王子の大冒険」のタフィー104さんとウェブ拍手のコメントで盛り上がった志津屋のパン。京都の代表的な老舗のパン屋さんで、オリジナルの店以外に、普通にスーパーの一角、志津屋コーナーみたいなところで日常的に買えるから知らなかったんだけど、ここのパンって京都でしか食べられないそうだ。一応オンラインショップもあるけど、アンパンだけしか扱っていない。このカルネは志津屋の数あるパンの中でも手軽で、パン好きには京都のソウルフードなんて呼ばれてるくらい人気がある。普通の京カルネとペッパーカルネの二種類があり、微妙な違いだけどペッパーカルネのほうがメリハリがある感じがする。これを買った時もペッパーのほうは残り一個で、普通のカルネよりもこちらのほうがよく売れてるみたい。
作りはシンプルで、使っているパンはわたしは最初フランスパンだと思っていたんだけど、ドイツのカイザーロールというものらしい。噛んだ時の歯の入り具合は柔らかいくせに妙に粘り気のある固さがあって噛み切るのに意外と力がいるそのカイザーロールに、ボンレスハムと玉ねぎが挟み込んであるだけで、カルネマーガリンというもので微妙な風味を織り込んでいる。カルネ独特の味つけの主導権はこのカルネマーガリンが握っているようだ。このマーガリンは通販されているみたいだから、カルネの再現は意外と簡単に家庭でできるかもしれない。
カルネマーガリン2
この写真じゃあまり分からないけど、かなりでかい。普通のマーガリンのパッケージの4倍くらいある。
カルネポスター
カスクート
あと個人的には細身のフランスパンにボンレスハムと、玉ねぎじゃなくてチーズを挟んだカスクートや、独特のソースをたっぷり塗った厚手のカツサンドが大好き。
特に志津屋のカツサンドは子供のころ丸山野外音楽堂へ土曜コンサートに連れて行ってもらった時、帰りによく食べた思い出があって、そういう懐かしい記憶をまとわりつかせてわたしの中に存在し続けている。




古本で本を買っていると、新品ではありえないような状態の本に出くわすことが当たり前のようにある。汚れているとか擦れているとか、その程度だともう常態というか気にも留めていない場合が多い。もちろん綺麗な本のほうがいいという意識がある一方で、いろんな人の手に渡って読み込まれ、日常生活に組み込まれていろんな場所で紐解かれくたびれ果てている本は、むしろ本としては至福の状態であるんじゃないかとも想像する。本来は自分は潔癖症の類だと思っていた。書店に平積みしてある雑誌なんかは確実に何冊か下ものもを取ってレジに持って行っていた。でもこの古本の平気さを思い合わせるなら、自分はそれほど潔癖症でもなかったのかなと認識を新たにする。電車のつり革だって平気で掴むし。平積みの下のほうから取るというのは、潔癖症のせいではなく、ただ単純にこの本のページを繰るのは自分が一番最初だと、その権利を行使するための儀式に過ぎなかったんじゃないかと思う。
古書に関しては使用による劣化はたいていのことなら許容範囲に入ってしまうことになっているんだけど、これだけはどうにも我慢ならないっていうのがいくつかあって、その一つが水濡れによる染み。複数ページにわたってページが波打ち不規則に盛り上がり引き攣れて、しかも雲状の変色した染みが広がっている。
水染み
こういうやつ。
これは本当に汚く不潔に見える。触るだけで何か変な病気がうつりそう。店頭で見かけたら、かなり珍しい本だと心揺らぐものの、それでも間違いなく棚に戻してるだろう。ブックオフオンラインの店頭受取で注文した本だったんだけど、躊躇いなしに問い合わせから返金要求して、今は返品してしまったからもう手元にはない。ブックオフオンラインは本の状態としては水濡れ本は商品として扱わないとサイトに明言してあったから、検品ミスだったんだろうけど、これにはびっくりした。水関連だと醤油らしい飛沫がページに飛んでるのも最近発見したなぁ。これは店頭で気づいて棚に戻した本だった。宇治小倉店の棚に今も置いてある。
あと本の汚れというと、余白に書き込みがしてあったり、やたらラインが引いてあったりするのも嫌気がさす。自分はそんなところに注目していないっていうのに、他人が引いたラインにどうしても目が行ってしまって集中できずに気分が苛ついてくる。本にラインをひいて抵抗のないタイプという人種がいるんじゃないかと思う。そして大抵ラインは本の最初のほうに集中していて途中からは綺麗なページが続くようになって、このライン引いた人、最後まで読めなかったんだなぁと想像させるところまでがワンセットになっている。
欄外の書き込みも同様にいらだたせる。ライン引きと全く同じで読みたくもないのに視線が引きつけられ、他人が、自分しか読むこともないだろうと思って書いた文章とはこんなに読みにくいものなのかと驚嘆しつつ、内容など理解する気もないのに、視界に入った以上解読にわずかなりとも労力を費やしてしまってることに気づくと非常に腹立たしい気分になる。解読しても大抵本文の下手な要約だったり、なぜこんなことが理解できないのかと思う疑問が書き連ねてあったりするのが大半だ。フェルマーような、のちの数学者を330年間悩まし続けた欄外書き込みなんて言う面白いものに出会える確率は皆無に等しいだろう。
謎の書き込み
これは欄外に書いてあったおそらく何かの覚書。どこか古代遺跡にでも書いてあるような文字に比べるとはるかに読めそうで、でもわたしには読めない。
あとこういう署名もたまにある。
誰かの署名
実のところ驚くべきことにこの人のこの同じ署名のある別の本を、別の機会、別の場所でもう一冊手に入れている。こんな偶然ってあるんだと我ながら信じがたい思いだ。もう一冊のほうの署名の日付は1974年だったから、この人は71年から74年の間はおそらく確実に自分の本にこの形で署名していたんだろう。署名を入れた本を売るなよと思う一方で、本の内容からは所有していた北尾哲氏はあまり子供とも思えず、この70年代前半にはすでに大人であったならば、今も生きてる可能性はそれなりに低いはずで、ひょっとして自分で売り飛ばしたんじゃなくて、遺品整理で遺族が処分したものだという可能性のほうも高そうな気がする。どこに住んでいたのかも何をしていた人かも、どういう年代の人だったのかも皆目分からない北尾哲氏が今も生きているのかどうか。確かめるすべは、可能性なんて云う言葉が失笑してしまうくらい皆無だ。

この前書いた「日本怪談集」を読み終える。後半にも収録されていた森銑三のもう一本である「碁盤」がやっぱり面白い。こちらも猫の話同様に全く怖くない。どちらかというとしみじみとした余韻をおぼえるような話になってるんだけど、それでも感触はやっぱり怪談そのものだ。全体に理由付けされているもの、怪異の理屈が分かるように書いてあるものは小説としての完成度は高いのかもしれないものの怪談としては総じてつまらない。怪異の素性が理屈として割り切れてしまうものはいくら恐ろしい現象が書いてあっても、最終的には理に落ちてしまって、理由もないのに後ろを振り返ってみないと収まらないような薄気味悪さに感情をかき乱されることはない。こういう観点から行くとまるで何も説明しない怪異がごろっと転がっているだけのような田中貢太郎の「竈の中の顔」がもやもやと後をひく怪談の楽しみを提供してくれる。江戸川乱歩の「人間椅子」はあらためて読んでみると奇想を成り立たせる濃密な語り口、文体の雰囲気がやっぱり群を抜いている。こんなに内容を熟知していて、いまさら「人間椅子」なんてと思いながらも読み始めてみると、なんだか知らない間に夢中になって読んでしまっていた。江戸川乱歩恐るべし。考えてみれば乱歩さんも実に型にはまらない小説を書いていた。「パノラマ島奇談」なんて乱歩以外誰も発想しえない唯一無比の小説だろう。江戸川乱歩もまた読み返したくなってきたなぁ。実は家に、雑誌連載当時の挿絵もそのまま収録する形で刊行されていた創元社の乱歩全集の文庫が、これはいまだに完結せず10年ほど前に刊行が止まったままになっているんだけど、この文庫全集がかなりの数あるので、読み返すのに本屋に走らなくてもすむ。



新潮現代文学
開高健/日本三文オペラ 夏の闇 他
石川淳/荒魂 紫苑物語 処女懐胎 他
森茉莉/甘い蜜の部屋 恋人たちの森
永井龍男/石板東京図絵 青梅雨 雀の卵 他 各220円
森銑三「物いふ小箱」筑摩書房 700円くらいだった。ヤフオクで。
澁澤龍彦「うつろ舟」福武文庫 確か30円くらい。アマゾンの古書で

新潮現代文学は誰かが大量に放出したようでかなりの冊数がブックオフのワゴンでたたき売られていた。箱入りの全集本で状態もとてもきれい。文庫で持っていたりするのもあったけど、単行本であること、箱入りであること、箱の挿画とかの要素も含めるとまた別の本の趣だし、興味のある作家のものを何冊か買ってしまった。他にも小島信夫のものとか、後でもう一度買いに行ったんだけど、めぼしいものはかなり売れてしまっていて、結局入手したのはこれだけ。
あまりにも面白かったので森銑三の元本を入手。講談社文芸文庫からも出ているが絶版の上に市場に顔を出してもプレミアつきになっている。しかもこの文庫は新仮名遣いに変更してあるのが今一つで、ここは旧仮名遣いのままの単行本のほうが圧倒的に楽しい。
「うつろ舟」は家のどこかにあるはずなんだけど見つからなくて、また買ってしまった。現行のものは河出文庫から出ているが、雰囲気は旧版の福武文庫のほうがいい。福武文庫といえば今は刊行休止となっていて、風変わりな文学を文庫化していた記憶がある。昔の、同じく休刊してしまった辺境の文学の宝庫だったサンリオSF文庫みたいな位置づけで、サンリオ同様に今もファンが多そうだ。それにしてもサンリオの文庫は手に入らなくなった後でも他社が再販しているものは少ない印象で、家にあるものだと79年に出版されたままそれっきりの、アルフレッド・ジャリの「馬的思考」なんていうのも、ヤフオクなんかがなかった時代には幻のような本扱いだったんだろう。







知覚の地図 XXXIII いつ果てるともない螺旋の城で、青いチョークの王はいたましいほどに美しい。

metal

混沌を撮りたいという反面、事物があることで生成される空虚さ、荒涼とした空間も愛する。過剰と欠落、両極端のそれぞれが世界の実相に近づく道筋を示す。
何だか対象の物珍しい特殊さとか決定的瞬間だとか、そんなことはどうでもよくて、むしろ関心は対象があることで周囲に形成される空間、対象と自分の間に様々な形で重なる大気の層、そういう物事のほうに向く。対象は単純に空間や質感を生み出す、そういうことのきっかけに過ぎない。
映画風の画像サイズにしてみたのは、映画の空間にこういう空虚な質感を見つけて気に入ったものがあったから。2019年の「Sound of Metal」、2017年の「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」、2022年の「Gold」、それぞれ冒頭か冒頭少し過ぎたあたりの画面の向こうに広がる空間の質感が三者三様の荒涼とした世界を示す。特に好きなのは「Three Billboards」映画内の登場人物の言によれば迷ったやつかボンクラしか通らない道の、霧深い草地の路肩にぽつんと距離を置いて建つ三枚の広告版の朽ち果て具合と、その広告の剥がれ落ちた絵柄の、荒廃した広告版との相性の良さ。よくこんな場所を探してきたというよりも美術さんが映画用に建てたものなんだろうなぁ。お誂え向きすぎる。

先日古事記を読み終える。最終章の推古天皇に至る数代は再び家系図物語となって壮大な言語空間の終わりとしてはずいぶんと淡々としていたものの、でも目弱王の反乱とかひたすら待ち続けた赤猪子の話とか印象に残るエピソードもきっちりと織り込まれていた。むしろ淡々とした、物語としての終幕を印象づけない、いつの間にか閉じていたといった終わり方のほうが、その後に続く現生の天皇の世へと繋げていくには落差がなくて効果的だったともいえる。後半は人の世の話が中心となっていたせいか裏切りの話とか生臭いものが多かった印象だ。主君を裏切るように指示しておきながら、それが成功した後は、主君を裏切るような奴は信用できないとばかりに成敗してしまうエピソードなんか、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、佐藤浩市が演じていた上総広常の運命を彷彿とさせる。
これで古事記全体の構造は俯瞰図としてとりあえず頭の中に入った。実のところ何を云ってるのかよくわからないエピソードもあったんだけど、そこで拘ってしまうと先に進めなくなるので、わからないところは理解不能としてとりあえず置いておくというような読み方で進めていった。たとえば応神天皇が皇子だった頃のエピソード。敦賀の仮宮で休んでいるときに、夢に現れた土地の神、伊奢沙和気(いざさわけ)の大神に自分の名前と皇子の名前を交換しようと持ちかけられる話。名前はそれがあるから存在が実在することを保証するもので極めて重要なものであるのに、ここでその交換を請われ、承諾することの意味が今一つ把握できない。結果かなり重要な変化が表れて当然の行為のはずが、鼻の毀れた入鹿魚(いるか)が寄ってくるだけで提案した大神の意図からして不明のまま終始する。ひょっとしてただ皇子の名前を名乗りたかっただけ?実のところこのエピソードは今もってその意図がよく分からない、古事記の謎の一つなんだそうだ。解釈は幾通りにも立つらしいんだけど、今のところその意図は確定していない。
古い、時間の分厚い堆積の彼方から届いてくる声、あるいは書物というのはこうでなくてはいけない。長い年月が降り積もる間に人の思考、生活は留めることなく変転して、その痕跡をたどることさえそのうち不可能になっていく、あるいは残されるはずだった言葉の数々が時間という暴力によって寸断され失われていって、完全な形ではもう目にすることさえ不可能になっていく。こういう経過によって謎という形で組みなおされて初めて古い書物は完璧なものとなる。昨日書かれたような隅から隅まで明晰な本などとは別格の存在となっていくのが、古い書物の面白さだろう。
さてこれで「家畜人ヤプー」の続きが読める。やたらと日本神話のエピソードや名称が出てきて、これは日本の神話についてある程度知識を入れておくほうが面白く読めそうだと思って中断していた。でもこの辺りだったかと見当つけて再読し始めたけど、長い間放置しすぎてどうもうまく入り込めない。このまま読み進めるかもうちょっと前に戻って読みなおすか、再読を本格的に始める前にちょっと迷ってる。

日本怪談集


今は種村季広氏編の日本怪談集 取り憑く霊 を読んでいる。二冊構成の怪談アンソロジーでもう一冊は副題が奇妙な場所となっている。わたしが持っているのはこちらだけなんだけど、奇妙な場所っていうのもそのテーマのもとにどんな怪談が集められてるのか面白そうだ。
編者は博覧強記のドイツ文学者。澁澤龍彦と双璧をなす異端ヨーロッパ文化の紹介者であり、澁澤龍彦がマルキ・ド・サドであるのに対し、こちらはザッヘル=マゾッホの紹介者としても有名だ。両者ともすでにこの世の人ではなく、この分野を引き継ぐ後継者もいない。博覧強記の人はいるにはいるんだけど、この迷宮の魔王然とした妖しい光芒を纏っているようなカリスマ性を持った後継者はもう出てこないだろう。
ちなみに両者とも中世ヨーロッパの文化に遊んでいる印象が強いんだけど、実のところ和物にも結構強い。それはこういう形で実を結んでいる。
当然のこと選択のセンスが問われる。特に特異な方向をもとから内に秘めている編者となれば、その選択にある種傾向がかかることはむしろ期待させる。生半可な怪談好きが選んだような、だれもが納得する総花的なピックアップなどむしろ要求されていない。
この本で云えば、森銑三、岡本綺堂、久生十蘭辺りに趣味性が現れているのかも。反面小松左京の「くだんのはは」や内田百閒のもの、あるいは江戸川乱歩の「人間椅子」なんかは選択としては王道すぎ、ありきたりすぎて、久しぶりに読めて楽しめたにしても、特にここで選ばれていてよかったとも思わなかった。内田百閒に関しては岩波文庫の「冥途・旅順入城式」で解説まで書いているから、趣味性のど真ん中に位置しているのは分かるんだけど。
今のところもう少しで半分読み終えると云ったところまで進んでいる。これまで読んだ中では王道の怪談としては橘外男の、不気味さの予感を縦横に張り巡らせて、化け物を出せばホラーだとか云ってるような軟弱な精神を蹴散らしていく、本気で気味の悪い「蒲団」。物事の出し方、見え方のすべてにおいて、薄気味悪さという一点に奉仕させることしか考えていない。これは蒲団というアイテムも秀逸で、こうやってみれば怪談によく似合うオブジェだと認識を新たにする。
それと、もう一遍、森銑三の「猫が物いふ話」。このアンソロジーを読むことで、出会って幸運だと思ったのが森銑三という存在だ。アンソロジーを読む醍醐味は未見の書き手に出会うこと。短編はその世界に入り込めたと思ったころ合いに終わってしまうようなところがあって、続けて読むとその世界への出入りに疲れてしまうんだけど、こういう書き手との出会いがあるからなかなかやめられない。ちなみに森銑三は職業作家ではなくて、在野の歴史学者、書誌学者で、怪談は余技というか、趣味で書き続けていたものらしい。
巻頭に収めてある「猫が物いふ話」はこのアンソロジーの世界へと一気に引きずり込む。まずね、このタイトルの大胆さが凄い。実際話の内容は猫が話す話だから間違ってはいないんだけど、タイトルだけで内容を全部知らしめてしまっている。猫が話す話に「猫が物いふ話」と題して、さらに上回る中身を盛り込んでいる自負の表れなのか、人を喰ったような感覚だけなのか。さらに通常の意味合いでは怖くない。怪談なのに怖くなくて、でも通常考える怖さじゃないところを狙った怪談であることははっきりと伝わってくる。その世界にいることの息遣い、呼吸法が怪談なのだ。日常の隅っこに開いた小さな裂け目。何かの拍子にそこから向こう側に異様な異界が広がっている気配が滲みだしてきているのに気づく。その気配は現実を侵食してくるんだけどそれはあくまでも気配であって、正体はまるで分らない。気配を通して対面した現実に対して、違和感を感じるも、でもそれはあくまでもやっぱり現実である以上拒絶することもなく、それはわずかに変容した現実の中で、今見聞きしたと思ったものはいったい何だったんだろうという、居心地の悪さとして心の片隅に居残り続ける。どちらかというと白日夢に近いそういう感覚をこの「猫が物いふ話」はうまく抽出している。でもこれは犬だと成立しないだろうなぁ。

猫が物いふ話 / 森銑三
くだんのはは / 小松左京
件 / 内田百間
孤独なカラス / 結城昌治
ふたたび猫 / 藤沢周平
蟹 / 岡本綺堂
お菊 / 三浦哲郎
鎧櫃の血 / 岡本綺堂
蒲団 / 橘外男
碁盤 / 森銑三
赤い鼻緒の下駄 / 柴田錬三郎
足 / 藤本義一
手 / 舟崎克彦
人間椅子 / 江戸川乱歩
竈の中の顔 / 田中貢太郎
仲間 / 三島由紀夫
妙な話 / 芥川龍之介
予言 / 久生十蘭
幽霊 / 吉田健一
幽霊 / 正宗白鳥
生き口を問ふ女 / 折口信夫





博物館「ウェルカム・コレクション」 「うつくしい博物画の記録」 グラフィック社 220円
折口信夫 「古事記の研究」 中公文庫 655円
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」 ちくま文庫版全10冊のうち3,4,7巻。手持ちの1,2,5巻と合わせて、あと4冊。

現実を写し取るために精緻を極めようとした結果逆にシュルレアリスティックな世界を切り開いてしまった博物学の画像。
ヘッケル4
これはこの本には入っていないエルンスト・ヘッケルのものだけど、こういうのを集めた本なんて見つけるともう問答無用でレジに走っている。ただこれはそういう類の本なのに収録画像が少なすぎる。
一通り読んだもののわたしの中の古事記はちっとも完結した気配がない、ともあれ一度読んだことで簡単な見取り図は確保したことだし、それを手にしてさらに探査を続けよう。ある意味なんだか開かれた書物の様相となりつつある。
プルーストはすでに持っていたのがちくま文庫版だったから、これで集めているけど、訳の評判としては後発の岩波文庫版が読みやすいという評価になっているようだ。岩波のほうは写真も入ってるようだし、手元に置くなら岩波のほうがよかったかな。






知覚の地図XXXII 酩酊する空は昏い海に落ちた月の告白を聞いている。

堆積
ごたごたと色々ある。カオスを撮りたいんだけど、撮ることで混沌は整理され、どこか慎ましやかな様相を帯びる。見るな。見ることの背後にあるのは秩序だ。あるいはごたごたと色々あることを混沌と見做すな。

「人の役に立つか立たないか…そんなことを若者は考えなくともよい」 アレクサンドル・プルチノフ

古事記を、暇に飽かせて読んでいるんだけど、これ、面白いな。
高天原で大暴れした須佐之男命が天界を追われ、下界へと降りた時、大気都比売(おおけつひめ)の神に食事を所望したところ、大気都比売の神は口や鼻や尻からいろいろとご馳走をだして調理した。そしてその仕業を垣間見た須佐之男命は汚いことをして食べさせようとしていると思い、大気都比売の神を殺してしまう。殺された大気都比売の神の体の、頭からは蚕が、二つの目には稲穂が、二つの耳には粟が、さらに鼻に小豆、股の間に麦、尻には豆ができた。そして神産巣日御祖(かみむすびみおや)の神がそれらを取り集めて種とした。と、こんなエピソードが出てくる。八俣の大蛇退治の直前に登場するエピソードなんだけど、このエピソードを読んでわたしは古事記が大好きになった。ユーモラスでグロテスク。その光景を具体的にイメージしてみれば、それはもう想像を絶する様子が極彩色で頭に浮かぶ。なんてユニークな想像力なんだろう。古代人だからと云って尻から出たもので料理するのがまるで汚い所作だと思わなかったわけもなく、実際須佐之男命はためらいなく殺してしまってるわけで、これがやってしまえば常軌を逸した行為とみなされていたのは確実だろう。一応穀物の始祖、起源を説く説話らしいんだけど、そういう起源を語るものとしてふつうこんな話を持ってくるか?何だかこの説話というか神話の、人格を持っている存在なのかどうかもわからない集合無意識的作者のどうだ凄い光景で吃驚しただろうっていうちょっと得意げな悪戯心まで垣間見えてしまいそうだ。
神話のエピソード的には有名どころは個別にいろんなところで接しているものの、知らない神話がもっといっぱいあるんだろうなぁと思って今回初めて原典を通して読んでみたんだけど、意外と内容のほとんどはいろんな形で広く流布されていた。どこかで接した話の多さは、新しい人にあったというよりも旧知の人と再会したというのに似た感覚を呼び起こす。それでも全体を通して読むことでこの話はこういう一連の大きなエピソードの中でこういう形で表れるものだったんだという、落ち着きどころが分かったというところもある。もちろん知らないエピソードも当然あって、かなり有名どころで不気味さで好きなエピソード、伊邪那美が国生みで最初に産んだのが不具の子水蛭子(ひるこ)で、葦の船に乗せて流し捨てたという話。これなんかは知っていたけど、その時もう一人淡島という、国の数には入れなかった御子がいたというのは今回通して読んでみて初めて知った。水蛭子も淡島もこの場面に名前として一度だけ登場し、流し捨てられた後どうなったかの記述は一切なくて、特に水蛭子はその特異な姿の存在とともに暗い想像力を刺激する。
これを書いている時点で読んでいるところは全三巻構成のうちの神話編である第一巻の後、人の世界に降り立って天皇として平定統治していくさまが語られる第二巻の、神武天皇から始まって、十二代目となる景行天皇のところ。
各天皇のエピソードにはかなりの濃淡があって、神武天皇や十一代垂仁天皇、そしてこの景行天皇は治世の間の出来事、事件が豊富なほうだけど、神武天皇に続く二代目綏靖(すいぜい)天皇から以下八代とまとめられた章に登場する八人の天皇はほとんどエピソードもなくどこを拠点に国を治め、そこで誰と結婚してどういう名前の御子を何人産んだのかという記述が結婚した相手の数だけ続いた後、何歳でお隠れになったと締めくくられるような描写が続く。ちなみに古事記の登場人物は神話編の第一巻から例外なく気が遠くなるほど多い。ギネス級の多さだと云っても間違いないと思う。まぁ一度名前が出ただけで以後一切出てこないという神様、人物が大半なので覚える必要もないし、また覚えることも不可能だろう。この欠史八代の天皇の章も例にもれず、結婚した相手の親や、生まれた御子がのちにどの臣、県の祖となったのかといったことまで含めて、とにかく大量の人物名のみで埋め尽くされている。家系図だけで成立している物語のようなもので、そういう風に見れば、ある種シュルレアリスムの小説のようでもあり、またヌーボーロマンのような前衛小説のようでもある。東洋かぶれになったロブ=グリエが書いたと云っても通用するかも。いつ果てるともなく続く名前の海に身をゆだねて、耳慣れない名前の音列を楽しむのもいいし、はるか太古の時代に実在したかどうかもあやふやなまま一冊の書物に名前だけ残して消えていった人々がどういう人であったのか想像して読むのもいいだろう。この史実を残さなかった八代の天皇も本当に何もなかった治世だったのか、残さない何か理由でもあったのか、今となっては確かめようもない事柄も確かめようがないゆえに興味を引くところもある。
景行天皇の代で悲劇の王、倭建(ヤマトタケル)の命が登場する。昔の東宝特撮映画「日本誕生」で三船敏郎が演じていた人物だ。家系図小説が続いた後での説話的登場はなかなか際立っている。

上を書いてからさらにまた読み進んで今現在応神天皇の章。ここで中巻の終了で、下巻は仁徳天皇から始まる。その前に角川ソフィアの現代語訳を読んでいて、「…またその山の上にテントを張り、幕を立てて…」というところで視線が釘付けになってしまった。テント!?ちなみにこの部分、原文の読み下し文によると「…絁垣(きぬがき)を張り、帷幕(あげはり)を立てて…」となっていて、どうやらテントというのは絁垣を訳してひねり出された単語らしいけど、もうちょっと他に訳し方がなかったのか。古代にテントという言葉が使われていたのか調べてしまったじゃないか。
古事記の多くの側面を彩っている歌謡部分の現代語訳もこの角川ソフィアのは情緒の欠片もない中学生の作文みたいで失笑ものだ。このテントを含め考えようによってはある種ぶっ飛んだ日本語訳として楽しめるところもある。

古事記三冊
今家にある古事記はこの三種類。100円文庫の棚で出会ったものだけなので、これが古事記の最良の選択だとは思っていない。もっと理解のしやすいものや優れた研究の書もあるんだろうと思う。
中心になって読んでいるのは角川ソフィア文庫版だ。講談社のものと同様に原文と注釈、現代語訳の構成になっていて、どちらも似たようなものなんだけど、講談社の三巻分冊のほうは章ごとにこの原文注釈訳文がセットになって繰り返され、なんだか学校の授業を受けているような気分になる。今日はここまで!っていう感じで区切りが入る。角川ソフィアのほうは原文と脚注は同じブロックにまとめられ、現代語訳は一冊の続き物としてそれとは別のブロックとして独立して、物語として中断することなく読めるようになってる。一連の物語としてはこちらのほうが没頭できるつくりになっているんだけど、残念なことに現代語訳が今一つ。原文の雰囲気を残そうとしているのか単純に物語る才能に乏しいのか、妙に意味が取り辛かったりぎこちない文章のところがあったりする。それとわたしの持ってるこれは旧版なのでおそらく新版はもっと活字が大きいはず。100円コーナーで新版を見つけたら買いなおしたい。ルビが小さすぎて読めない。
原文なんてどうせ読んだって分からない、物語だけを研究者のこなれない語り口の文章じゃなくて物語る言葉で読みたいというのなら、これはもう文学者が訳したものを漁るに限る。わたしが持ってるのは「死の島」や「廃市」の作者である福永武彦氏の手によるものだ。詩人でありフランス文学者であり、純文学だけじゃなく加田伶太郎名義でミステリも書き、「誰だろうか(Taredarōka)」のアナグラムで推理作家としての名前を作り出すという遊び心も持ち合わせ、「モスラ」の原作にまで名を連ねたこの破格の作家が、日本最古の書物の現代語訳に挑戦している。ほかにもいろんな小説家が訳したものもあるはずで、その辺は好みの作家のものが一番フィットすると思う。






Wayfaring stranger - 16 Horsepower

映画「Titane」のオープニングシーンで流れる曲。下のトレーラーで流れてるのはゾンビーズだけど、この素朴な音楽とゾンビーズが同じ映画のフィールドで共存できているのが興味深い。


あいかわらす思考の隙間を突いてくるような、でも絶妙に緩さを持って同期しやすい論理で、今あらゆる側面で人の世を覆いつくそうとしているプロパガンダについて切り込んでくる。いわれてみればそうなんだよなぁと納得するところが多々ある。論理が世界のすべてを完璧に明らかにするとは思わないけど、限界があるにせよ論理はわたしたちが世界を理解するために持つことができた最強の武器であることは間違いないだろう。嘘ばかりの写真や映像なんて足元にも及ばない。


オリバー・ストーン監督によってなされたプーチン大統領へのインタビュー。全4パートある。これがきっかけでストーン監督はそれまで大した興味もなかったウクライナのことに関心を持って調べ始めたそう。他には「Ukraine on Fire (2016)ウクライナ・オン・ファイヤー」「Revealing Ukraine (2019)」といったドキュメンタリーを世に出している。一方的なプロパガンダ放送に晒されて視界を完全に閉ざされる前に一度見てみる価値があると思う。今見たと思いこまされている世界がどれほど歪んだ世界なのか気づくかもしれない。ちなみにいちいちURLは貼らないけど、探せば全部日本語訳つきのものをネット上で見ることができる。
それにしても「プラトーン」が大嫌いな映画だったので、この監督にもまるで関心がなかったんだけど、こんな活動もしていたんだ。




宇能鴻一郎 「姫君を喰う話」 宇能鴻一郎傑作短編集 新潮文庫
田中 小実昌 「自動巻時計の一日」 河出文庫
唯円・親鸞 「歎異抄」 川村湊 訳 光文社古典新訳文庫
北村薫 「太宰治の辞書」 創元推理文庫
「姫君を喰う話」が500円、 「太宰治の辞書」が270円、ほかはいつもの100円。

宇能鴻一郎という名前は一度で変換できない。でも変わった漢字を使っているのにいかにも悪目立ちするような字面にもなっていない。官能小説の書き手として有名だけど、デビュー当初は芥川賞作家でのちの作風から受ける印象とはかなり違う。しかも東大出。何かにつけ破格という印象がつきまとう作家という感じ。これはその破格の作家の芥川賞受賞作を含む初期短編集だ。親鸞は吉本隆明の本でなじみがあって、この人もパンクというか破格の人で面白い。今こういう思想態度の宗教家がいたら人はどういう対応になるんだろう。胡散臭い新興宗教家扱いか?ちなみにこの光文社古典新訳文庫は関西弁訳という思い切った体裁で、おそらくくだけた親しみやすい雰囲気にしようとしてのことだと思うけど、関西弁をくだけた感じと受け取れるのはそれこそ関西を中心にした一部分だけで、大半は読みにくい、押しつけがましくて鬱陶しいと思うだけだろう。