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京都矩形化計画

マネキン
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





駅の編目
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





京都駅玄関上
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700






踊り屏風
2015 / 01 / Nikon F3 / Kodak Gold200



最初思いついたのは「京都駅矩形化計画」。で、今回の写真は確かに全部京都駅で撮ったものだけど、何も駅に限らないでもいいかと思って、京都のあらゆる光と闇、あらゆる空間、あらゆるオブジェ、あらゆる曲がり角、あらゆる隅っこを四角いフレームで囲ってみようという意味合いをこめて、このタイトル。
何だかブログの名前に使えそうだ。っていうか京都の写真サークルでも立ち上げて、その名前にでもできそうだなぁ。
カ行の音が多くて、ギクシャクと尖がってるのも気に入った。

今回のは最後の以外はデジタルで撮ってる。
デジタルで撮ってみて、撮っている時はシャッター切っても、写真撮るという行為だからつまらないとは思わないものの、写っているのが当たり前という感覚が大きくてどうも面白いとは思えない。とはいってもあまり面白いとは思わないといいながら、フィルムを使ってる時とは桁外れに多量の写真を撮ってしまってるんだけれど、どれだけシャッターを切っても感覚的にはあるレベルで飽和状態になってしまってるようで、大量に押した個々のシャッターに、振り返りたくなるほどの感覚の痕跡はあまりのっていないような気がする。
デジタルで面白くなってくるとするなら撮影している時よりもPCに取り込んでフォトショップでいじくり回してる時かもしれない。
わたしがデジタルで撮って一番楽しんでるのはまさにこの時で、なぜかデジタルの画像に関しては編集に関連するリミッターが外れてしまう。もちろんデジタルでも一切編集しないという撮り方も当然できるんだけど、「撮って出し」なんていう言葉があるのなら、同時にそこにはさらに広範囲に「撮って出さない」というものもあることになって、やっぱりデジタルの機材は事物と主体の間にあるものとして、幾分は主体よりの位置にいるのが基本なんだろうと思う。
逆にフィルムを使ってる時はこのリミッターがかかりまくりで、トリミング程度でさえも悪魔の所業だと、忌避する気分のほうが大きくなる。といっても絶対にやらないかというと、そのほうが良くなると思えば結構やってしまったりはするけどね。こういう感覚が生じるのは、フィルムに定着したものは化学反応で物質化した光そのものだと思うからなのか、理由ははっきり分からない。

☆ ☆ ☆

最近ここでは虫と転倒の話ばかり書いている。そういう癖でもついたのか先日駅のエスカレーターに乗っている時、ステップの縁につま先が引っかかって、前のめりになり、思わずステップに両手をついたことがあった。いつもならエスカレーターを歩いて進むなんてやらないんだけど、この時は列の先頭になってしまって、何だか後ろからせっつかれてるような気分になった。そしてどうせ歩くならさっさと行ってしまおうと、足を速めたとたんの出来事だった。これだけだと特に怪我をしたわけでもないし、本格的に倒れこんだわけでもないから、みっともないなぁと思うだけのエピソードだったんだけど、これが特別の意味を持ったのは、この時、今回の撮影に使ったニコンのデジカメを片手に持っていたという要素が付け加わっていたからだった。
左手の手のひらの中に、前にかざせばちょうど水戸黄門の印籠を持っているような形でS9700を携えていて、つま先を引っ掛けた時にこのままエスカレーターのステップの縁に手をついてしまった。要するにカメラをステップの角に思い切りぶつけてしまったというわけだ。しかも全身の体重をかけて。
みっともないからそそくさと立ち上がって、知らん顔してその場を立ち去ることがまず第一に頭の中にあったものの、そのすぐ裏側でカメラが酷い損傷を受けたに違いないという予感が寄り添っていて、この時はさすがに血の気が引いた。
で、その場から離れて、手の中にあるカメラを恐る恐る確認してみたんだけど、これがまた信じがたいことに傷一つついてなかったんだな。後になって光の加減でかろうじて分かるくらいの微細な程度で、鏡胴の周囲を巻いてる素材の一部がかすかにへこんでいるのを見つけたけど、それ以外はかすり傷一つついていなかった。スイッチを入れてみると何事もなかったようにカメラは光をセンサーに取り込むことに専心している。
ここまで丈夫なものだとは本気で思わなかったので、これには結構吃驚してしまった。
今回は壊れなかったという結果だったけど、これ、液晶のほうを外側にして持っていたら、まず液晶は割れるかなにかしていたのは確実で、レンズのほうを表に出して持っていたこと、しかもレンズは収納状態で、ぶつけた縁がレンズの薄いカバーよりもわずかにずれていて、レンズを直撃しなかったことは本当に幸運だったとあとで冷や汗をかいた。もっとも幸運というなら、そもそもエスカレーターのステップにつま先など引っ掛けないわけで、考えようによっては、これは幸運だったのか不運だったのかどうもよく分からない結果となっている。
禍福は糾える縄の如しということなのか。






ということで、今回の写真に使った、丈夫なデジカメ S9700だ。ボタンの配置が妙な具合で押すつもりもないのに動画開始のボタンを押したりしてしまうのが玉に瑕か。デジカメで動画とか撮ってる人、そんなにいるのかなぁ。少なくともわたしにはいらない機能だ。


☆ ☆ ☆

今回はちょっと妙な写真が多い。



鵺、滴る灯 + 富岡多恵子「写真の時代」

赤いハンドル
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





襞
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





光る体
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700








滴る赤い光
2015 / 12 / Pentax K100D Super


京都は今祇園祭の真っ最中。いつも通りにこの記事をアップできたなら、昨日ハイライトの山鉾巡行は終了してるところだけど、これを書いてる今はまだテンションが上がっていく只中にあるという感じだ。
とはいっても実はわたし自身は祇園祭のことをすっかり失念していて、もちろん今がその期間中だというのは分かってはいたけど、この急激な酷暑で頭の中が一杯というか、祇園祭って梅雨の真っ最中にやってる印象があまりないから、まだちょっと先の出来事だと見事に勘違いしていた。先日京阪の七条の駅で降りた時、やけに外国の観光客がいるなぁと思って、駅の張り紙が目に入ったら、今日は祇園祭なので電車の運行がどうしたらこうしたらというようなことが書いてある。外国の観光客の多さに引っ張られて、しまった今日は祇園祭の日なんだとものの見事に勘違いして、粽買うのを忘れたなぁ、長刀鉾のところで買うのが好きなんだけど、八坂神社で手に入るかなぁなんてことが頭を巡って、まだ山鉾巡行の日まで3日ほどあるっていうことがまるで頭の中に戻ってこなかった。
帰宅してから、いやまだクライマックスじゃないではないかと気づいて、土曜日に耳鼻科に行くからそのついでに粽を買ってこようと一安心。このところいかにも京都なんていう物事は、意図的に写真に撮ってないし、もう撮る気もないんだけど、オートハーフの2本目の試写ついでに、暑さと雨と写真的感性の迷いの中、まるで消費できないでいるフィルムを使ってこようかと思ってる。この前の記事の4枚目の、日常の隙間に張り付いていた白昼夢のような写真、またそんな写真が撮れるかなと、自分でもちょっと期待してる。でも期待してしまうと結果はまるで違うものになってしまうのがわたしの常だから、さてどうなるか。
それにしても今頃の京都は超絶なんていう形容が付くほどに蒸し暑い。外国の観光客はこのところ年を追うごとに目に見えて増えてる感じだけど、この時期に高いお金を使って京都に来てしまって、もっと過ごしやすい時に来るべきだったと嘆いてるんじゃないかと思う。あるいはそうではなくて、この暑さを、この季節の京都でしか味わえないと、この時期に来たのが正解だったと思ったりしてるのかな。

☆ ☆ ☆

追記すると、土曜日、要するに祇園祭の宵山だけど、耳鼻科に行った後、粽を買いに出かけてみた。
長刀鉾の設置してある場所は舗道拡張した四条通の拡張されなかった区域で鋒の前を通る人並みがもう満員電車並みにつかえてしまってなかなか進むことが出来ないような状態になっていた。
おまけに長刀鉾の粽はあろうことか売り切れになっていて、結局買うこともできず。
まいったなぁと思いつつ、他の鉾で買うしかないかと、近くにある鉾の中でどこにしようかと考え、月鉾と菊水鉾に絞り込んだ。黒主山の粽も黒い帯が巻かれていたりしてかっこいいけど、場所がちょっと離れてるし、後祭のほうで登場する山なので今売ってるのかどうか分からない。
月とか狂気をはらんでかっこ良さそうと思ったんだけど、厄除けなのに勝手に想定した狂気で入れ込むのもおかしな話で、かたや菊水は戦艦の名前にでもありそうでかっこいいと、こっちも本意を無視した関心の寄せ具合と、あれやこれやと思い巡らしたものの、結局その場のインスピレーションで菊水鉾の粽を買うことに決定。
長刀鉾で粽が買えなかったのは初めてのことで、やっぱり長刀鉾は巡行の先陣を切る鉾とあって人気があるんだ。

オートハーフの試し撮りとか云ってたけど、人の多さと蒸し暑さに辟易して、肩にかけていたコニカのC35EFで菊水鉾の車輪の写真を一枚撮っただけ、オートハーフのほうはリュックの中から出しもしないままに終わってしまった。


☆ ☆ ☆


鎌鼬の記事の前に写真選んで記事の形にしようとしてたもの。得体の知れないものの気配なんていうのにぴったりな、鵺というタイトルで行こうと思ったものの、楢橋朝子の写真集にそのものずばりのnu・eというのがあって、まぁそういう写真集を知らなかったとしても、いかにもという単語だしどうしようかなと逡巡していた。そのうち別の写真を眺めて鎌鼬という単語に思い至り、そっちのほうがまとめやすそうと気分は鎌鼬のほうへと移ろい、写真選び出しただけで放置しかかっていたのがこの記事だ。

目の前のものがそのまま写るというのが、写真だけが持つ特性だと思うけど、写真に写ることで、そのまま写った事物や空間なのに、時として饒舌になることがある。そういう事物や空間の呟きをフレームのなかに閉じ込めたい、こういう写真撮ってる時の無意識的な志向とか、こういったものなんだろうと思う。
でも、明らかに妙なものを被写体にして、妙な雰囲気の写真を撮ったとして、それはキャッチーな写真にはなるだろうけど、わたしはそういう写真は撮った側が写真内の事物に、さぁ色々と喋れ、囁き声なんていうんじゃなく大声で喋れとせっついてるような感じがして、自分でもそういう写真は絶え間なく撮ってるくせに云うのもなんだけど、どうも乗り切れないところがある。そういうのはちょっと違うんじゃない?とか、こういうのは何だか微妙に違うっていう思いが必ずどこかに残ってしまう。
できうるならありきたりのものを相手にして饒舌な写真とか、そういうのを撮ってみたいなぁ。


☆ ☆ ☆



写真の時代

タイトルは何だかおざなりのようだし、著者も詩人であり小説家ではあっても、写真家ではない。こんな条件だけ目にすると面白くなさそうという印象になってしまうかもしれないけど、実は結構面白い本だったりする。
内容は富岡多恵子が1976年から78年にかけてカメラ毎日に連載した時評を纏めたもの。巻末には東松照明との対談が収録されていて、そのなかで東松照明がこの時評をかなり高く評価していた人がいたことを明かしてる。
内容的には写真家や写真家の写真集についての評、連載当時の展覧会についての評、他には写真的なキーワードを契機にしたような様々な論考など。
著者は写真に関しては、海外にカメラ持って出かけても写ってるのは自分ばかりで、どういうことかというとほとんどカメラを他人に預けて撮ってもらってると明記し、門外漢であることを宣言してるんだけど、だからといって的外れなことが書いてあるかと読んでみると、これがまた完全に予想を外れて、見ることについてかなり思考なり体験を重ねてきてるのが良く分かる書きっぷり、しかも今まで写真のコンテクストの中にいなかったから、写真の中に身を置いてる人からはあまり発想されないような視点を確保してる。
写真と表現なんていう言葉で何か云うとするなら、写真のコンテクストの中にどっぷりとはまり込んで考える人なら、これからの写真にはどういう表現が可能か、なんていう方向へと考えは広がっていくだろうけど、富岡多恵子がこの本で色々と展開してる思考には、その通奏低音として、そのもっと手前というか、写真やカメラにとって、表現行為といったものはほんとうにふさわしいものなんだろうかという、従来的な写真の領域ではなかなか発想し得ない思考の起点を用意してる。
写真の登場は写実において完全に絵画を打ちのめし、絵画は別の方向を辿るほかなくなったけど、その絵画を打ちのめした写真は今や打ちのめしたはずの絵画的な表現にはまり込んでる。それは写真の本質でもないし、写真が本来持ちうるはずの独自の面白さへも結びついていかずに、いつまでも絵画の従属物のような存在に留まり続ける。
こういった基盤の上で展開される論考はとても刺激的だ。
写真はコピーするだけのものと定義しても、フレームで切り取ることだけでも主観は介在し、事物と主観の関係においていくらでも変化自在に変貌していく、その揺らぎに応じて論考は様々な切り口を見せて、こういうところも柔軟で面白い。

エグルストンの写真に関する評なんかも入っていて、これなんか読んでみると良く評されるようなアメリカ南部の瘴気だとか、そんな風にはちっとも写真を読み取ってないのが自分には面白かった。わたしもエグルストンの写真ってそんなところにないだろうって思ってたから。

この本を読んで、まぁ似たようなことを考え続けてるから、自分が写真についてずっと考え続けてることは決して方向を誤ってはいないと、ちょっとだけ自信を持ちえたところもあった。でも70年代の後半に自分が思い描くようなことを考えてる人が既にいたというのは正直に云って、後追いにも程があるじゃないかとめげるところもある。自信をもらったことと意気消沈したことと、さてとぢらのほうが自分には大きかったのだろう。












のちに筑摩書房から叢書として再版されたものがあるけど、今はこのオリジナル版共々絶版となってる。古書はこっちのほうが古い分安く手に入りそう。ちなみにわたしが持ってるのも、写真載せたから分かると思うけどオリジナルのほうで、再版された叢書のほうがどんな体裁になってるのかは全然知らない。





残響 + Arto Lindsay

ステップ
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700







反射マネキン
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





影降る路地裏
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





板壁
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700




今回のはデジタルで撮ったもの。撮ってる時はとにかくスムースに進むものだから、何だか手順を進めてるだけのような気分にもなって、あまり面白くないと思うほうが多かったけど、出来上がった写真は意外と気に入ったものが混じってた。ただやっぱり綺麗に写りすぎて面白みに欠けるところはある。もうちょっと曖昧な部分で何かしようと思うから、こういうクリアさは興ざめになるところがあったりする。
かといってフィルター的なものを使うとなると、デジタルは写真的なものをシミュレートして、写真にそっくりなものを生み出してると云う捉え方だし、わたしにとっては紛い物感が増すだけのような気がする。

クールな写真が撮ってみたいな。ピクトリアリズム的な写真はあまり撮ろうとは思わないし、自分が持ってる写真を巡る思考はポストモダニズム的なものだと思うんだけど、感覚的には思考ほどには、そんなに割り切って撮ってない部分も多い。
なんでもない枯れ枝一本を写真に撮って、それを写真として成立させてるものはなんだろうと考えると、別に見慣れた写真として成立していなくてもいいというほどには開き直れなくて、従来的な絵画への追従というような形ではないにしても、どこか絵画主義的なものを必要としてるような気もする。
ある種の美意識のようなもの。道端のゴミを撮ったとしても、そのゴミを捉える視線は美意識を含み持ってるといった感じ。何をどんなに過激に撮ろうと、それが美しいものであるとみなしたから撮るという部分、その美しさはあまり一般化されるものではないかもしれないけど、そういう感覚を取り落としてしまうと、きっと写真はつまらないものになってしまうような気がする。


何だか事物がひそひそと囁き声を交し合ってるような気がしてそちらのほうを向いてみるんだけど、事物たちは視線を投げかけると急にすまし顔で黙ってしまう。でも確かに囁き合っていた残響音のようなものは微かにその場に残っていて、何を囁いていたのかはもう既に意味としても霧散していて判読は出来なくなってるんだけど、その痕跡だけでも留められるかと思ってシャッターを切ってみる。
わたしの感覚はそういうものを十全に感知するにはまだまだ鈍くて、今も思うようには捉えることもできない。
たとえば道端に落ちてる枯れ枝一本からでも、その枝が発する何かを感知できるようなアンテナが、本気で欲しいと切望する。


☆ ☆ ☆


Arto Lindsay - Trans Pecos 2015


ノー・ニューヨークという衝撃的なレコードでわたしの目の前に現れた、DNAというロックバンドの主催者、アート・リンゼイ。ノーニューヨークに納められた過激でうさんくさくてアンダーグラウンドなアート感覚満載のバンドのほとんどが、その尖がった感覚を維持できなかったりしたように、アート・リンゼイも自分のルーツであるブラジルの音楽へ回帰し、まぁそれでも普通に考えるようなブラジルの音楽とはまったく違う、やっぱりDNAの人だと納得するような過激さはあったんだけど、活動を追うのはその辺りで止めてしまっていた。
最近、そういえばこの人どうしてるんだろうと思って、探してみて見つけたのがこれだった。Trans Pecosというのは、どうもニューヨークにあるナイトクラブというかライブ会場というか、音楽をやる施設のようだ、

凄いなぁ、というのが文字通りの感想だ。これだけ長い音楽活動を続けてギターを持ち続けながらも、普通に弾こうと練習さえしてないようなスタイルを維持してるのも凄い。普通だったらちょっとはコードの一つでも憶えようかなと思ったりするものだけど。
本当に唖然として笑ってしまうほど説得力があったのは、実際には奏法以外の部分で結構仕掛けたりしてるんだけど、表面的にはこの引っかき、かきむしるだけにしか見えないようなギターの音と、基本は力の抜けた語りとも歌ともいえないような声音だけで、後半はバンドサウンドになるものの、これだけの時間をたった一人で保ってるということ。こんなこと誰にでも出来るって云うものじゃない。
なによりもアート・リンゼイ自身、楽しそうなのがいい。こんなに得体の知れないことをやって、鑑賞者の眉間にしわを寄せさせ、考え込ませるような人は一杯いるけど、これだけ楽しい、面白いと思わせるミュージシャンって他にはほとんどいないと思うし、存在としては唯一無比だと思う。
この人は自由であることについて、何時も考えさせてくれる。

それと、このギターがまたかっこいい。何だかレトロフューチャーっぽいというか、ホアン・ミロとかイヴ・タンギー辺りがデザインしたといっても納得するくらい、形やラインや色に色気がある。
ダンエレクトロというギターらしいんだけど、売ってるところを見れば他のギターも全部この類の形、曲線、色で、独特の雰囲気のギターが並んでた。
エレクトロっていう名前もかっこいいんだなぁ。カメラでもあった、ヤシカエレクトロ35ゴールドメカニカなんていうのは、さらにメカニカという単語の合わせ技も加わって、名前だけで恍惚となってしまいそうだ。

調べてるうちに出てきたんだけど、ジミー・ペイジも使ってたそうで、写真なんか見るとゼップの頃の若い写真で、ゼップは大好きだったけど、これは本気で知らなかったので吃驚した。結構昔からあるギターで、どうやら最初は少年漫画雑誌の通販で売ってるようなギターだったらしく、フェンダーだとかギブソンだとかとはまったく居場所の違うギターのようだ。ピックアップケースに当時在庫不良だった口紅のケースを代用してたとか。今生産してるのは復刻版も含めてもうちょっとましな作りになってるらしいけど、こういう怪しい存在はその気配に同調して心が震えるな。
これ一本本気で欲しくなった。6万くらいで買えるようだから、そのうち買ってみようかな。

それにしてもやっぱりこの演奏を音楽として認めさせたのは凄い。





アート・リンゼイの出発点となったバンド、DNAの活動を知るならこれが決定版。おそらく一番過激だった活動期のすべての音源が収録されてる。最近のCDに関しては知らない。


このPVに出てくる12弦ギターじゃないけど、ダンエレクトロのギター。


今回使ったコンデジ、ニコンのCOOLPIX S9700。




黒猫 他 + The Tremeloes - Silence Is Golden

黒猫
16 / 04 / Nikon Coolpix S9700





一つ開いた窓
16 / 04 / Nikon Coolpix S9700


ニコンのコンデジ、クールピクスS9700で撮っていた写真から。
カメラの機種を明示してるけど、デジタル臭さはやっぱりあまり面白くなく、PC上で手を加えているので、S9700がこういう傾向のイメージを生み出すというわけでもない。

フィルムが他者的であるのにどこか血肉化した視線という雰囲気なら、デジタルはやっぱり機械化された視線っていう雰囲気がある。
何というか情報量としてのレベルならデジタルのほうが豊富なのかもしれないけど、イメージが含み持つものの量というレベルだとフィルムのほうが豊かなんじゃないかと、少なくともわたしにはそういう風に見える。アートフィルター的なものがデジタルカメラに用意されてるのは、そういう含みの少なさを補完するような意味合いなんじゃないか。
あるいは、別にデジカメのマニュアルにそう書いてあるわけでもないけど、デジタルはことの最初からPCでの編集を前提にしてるんじゃないかとも思うこともある。RAW画像なんかは元のデータ全部劣化無しに手渡すから、後は好きなように料理してって云うような存在だし、結局は元データを自分の気のすむまで弄くりたおすことになったりする。これもある種の補完だろう。
フィルムのほうは、これは使ったことがある人なら感覚的には共鳴してくれると思うけど、フィルムの上に定着された写真を加工するのはちょっと気がひけるところがある。光が化学反応によって物理的な存在として目の前に出現した、云うならば光の事物的な結晶といったものだと思うと、さらにそこに手を加えることに無意識的な抑制が働くという感じかもしれない。
簡単なところだとトリミングさえ、撮った時のフレーミングを変更することに罪悪感を感じたりする。わたしの場合はこうしたほうが良くなると思うならわりとトリミングくらいはやってしまうほうだけど、どちらも似たような写真を結果的に生み出すとはいえ、それに対面する時の考え方とか扱い方はフィルムとデジタル、結構異なってるんじゃないかな。

それにしても、大体いつもここに書いてる、写真は自我によって取り込まれない唯一の存在とか、カメラは他者の眼として機能するほうが面白いとか、写真にあまり情緒を乗せたくないとか、こういうことは「機械化された視線」なんて言葉を使ってみると、そっちのほうが相応しいように思えるのに、なぜかアンビバレントなフィルム的感覚のほうがしっくりと馴染んで見えたりするんだよなぁ。こういうことを考えてると写真の謎めいた部分の一面が立ち現れてくるようだ。





手形
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





整列と反射
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700


黒猫は結構好き。黒猫スープの写真集持ってるくらい。なんだか猫の形をした黒い切抜きにくりくりした目玉がついてるという、ちょっと漫画的なイメージで捉えてる。この写真は愛らしい路線とは縁遠いイメージになってるけど、こういう不思議な雰囲気になってるのも黒猫だとOKっていうところもありそう。
汚れた窓ガラスがイメージの変質に大活躍といったところだ。
先日またこの前を通ったら全く同じ場所に座り込んで外を眺めていた。どうやらここがこの黒猫の専用席のようだった。
わたしの場合だけかもしれないけど、街で出会う野良猫の中に黒猫はほとんど見ない。黒猫の存在というのは意外と珍しいのかな。



☆ ☆ ☆


The Tremeloes - Silence Is Golden

60年代に活躍したブリティッシュ・インヴェイジョンのバンドの一つ。デッカのオーディションをビートルズと同じ日に受けて、ビートルズは落っこちたんだけど、こっちは見事合格した。デッカでビートルズを落とした担当者は後々会社に居辛かっただろうなぁとと思ってたら、見事に首になったそうで、まぁそうなるわなと、これを知った時にもあまり同情する気になれなかった。
でもビートルズが通り抜けられなかった関門を潜り抜けたトレメローズは、そのわりにはわたしの印象だとこの一曲だけしか残らない。レッドリバーも歌っていて曲は馴染みがあるんだけど、このバンドの持ち歌なんだろうか?
それでもイギリスではもちろん知名度もあって、いわゆる懐メロ的な感じで再び集まって演奏してる最近の動画とかがネットで見られたりするから、興味のある人しか覚えてないような日本との差は当然の如くあるんだろうと思う。
ビーチボーイズのようなコーラスを得意としたバンドで、その特質を生かした曲だと思う。わたしの場合は何度か繰り返し聴いてたら頭の中にこびりついてくるタイプの曲かな。
こういう曲、勝手に頭の中で再生されるから困る。ちょっと前ブックオフの店内でやたらとかかってた森山直太郎の曲も頭のなかでフル回転しそうになって困ったことがあった。


☆ ☆ ☆












桜と変容

桜 東野1
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





桜 東野2
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





桜 山科
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





変容の桜
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





自転車リズム
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700



この前の森山大道の特集雑誌がきっかけとなっていつの間にか手元にやってきていた、森山大道と全く関係の無いコンパクトデジカメ、ニコンのクールピクスS9700を、さてどんなものかと試し撮りするつもりで、季節的にも重なっていた桜を撮りに出かけた。
今年はなんだか桜を撮りに出かけるような気分にはあまりならなくてパスしようかと思っていた。なにしろ新鮮な写真が撮れそうな予感が全くしない。出来合いの桜のイメージに付け加える程度のものしか撮れないだろうと、それに写真を撮る対象としても余り興味を引くものでもなくなってきていたりした。
それでも桜を撮りに行こうと思ったのは、桜そのものじゃなくて桜によって変容する空間のようなものを撮れないかと思ったからだった。桜の名所はライトアップなんかされていてどうだこれが綺麗というものだ!とでも云わんばかりにお膳立てしてある。そういうところでは確かに綺麗で豪華な桜の写真は撮れるんだろうけど、美しいもの、豪華絢爛なものとして用意してあるのを写して綺麗な写真を撮れたとして、それは面白い行為なのか?と、そんなことを考えたりするから、桜が撮りたい気分になっていたとしても撮る対象としては演出も何もされてない市井の名もない桜のほうに興味を引かれていた。だから今回も思い立ったら名所の桜よりも街中で咲いてる桜がまず候補に浮かび、そういう桜のほうが周囲の空間をどう変容させるかなんていうのもひょっとしたら撮れるんじゃないかと思った。
とまぁ基本的な気分はこんな感じだったんだけど、一応実際は、去年シーズンが終わってから写真撮りに通っていて、桜が咲いてたらどんな感じだったんだろうと気になってた山科疎水の様子を窺いに行くことになる。
撮る気にならないなぁと思い、曇りや雨が続く天気を眺めながら、桜のほうに向かってテンションが上がるのを待ってる間に桜のシーズンはわずかに盛りを過ぎてしまったようで、一年後に訪れた山科疎水の桜はまるで生彩がなかった。というか桜で名が通ってる場所だから、疎水上を覆い尽くすように桜が咲いて、疎水の流れが落ちた花びらで一面桜色に染まってるような場所だと勝手に想像してたんだけど、実際は密集してるのはほんの一部で疎水の行程の大半は疎らに桜の木がある程度。八割がた緑の空間が広がってるような感じだった。シーズン真っ最中でもこれにちょっと桜色が増える程度なんじゃないかなぁ。桜で名を馳せるつもりなら御陵辺りまで桜並木で埋め尽くしたほうがいいと思うよ。
ということで、元々市井の桜が頭にあったものだから、去年気になっていた疎水の桜がこんなものだと分かると、早々に見切りをつけて街中で色々と撮ることになった。
地下鉄山科の隣の駅、東野の近くにブックオフがあるのを知ってたから、ついでにそこへ足を伸ばして、菜の花が咲いてるのは山科疎水の写真だけど、それ以外はその東野で撮ったものとなる。
変容する空間と云っても桜の存在感が大きすぎて、結局桜で変容した街の空間に咲いてる桜の写真って云う感じのものにしかならなかったかな。さすがにいつものように妖しげにはならなかったけど、妖しい桜というのも撮れれば、何しろ木の下に屍体を抱きかかえてるわけだから、わりとイメージは違和感ないかもしれない。

最後の自転車の写真が、実はこの日に撮った中では一番気に入った出来になったものだった。反射なんかも交えて複雑なイメージになってるのに同時に端正なところもある。神秘の形の円形が一杯あるのもいい。いろんな要素がリズミカルに絡んでるのも音楽好きとしては視覚的に高揚する。縦に二本走ってる白いラインは窓枠なんだけど、白バックの中に置くと画面が3分割されて、縦に細い写真を三つ組み合わせたようになってるのも、これは予想外だったんだけど、視覚効果としてはかっこよく決まったんじゃないかと思う。

ちなみに東野のブックオフではめぼしい写真集もなく、野阿梓の「伯林星列」の上巻だけ100円文庫で見つけるも、結局買うこともなく店を出て、この日の収穫は数枚の桜とこの自転車の写真だけという結果で落ち着いた。


☆ ☆ ☆


s9700

さて、ニコンのデジカメクールピクスS9700を使ってみた感じといえば、やっぱりデジタルは使っていてあまり面白くないなぁって云うのが正直なところかな。基本的に手ごたえに乏しいというか、フィルムのほうがこの目の前のいかした空間を絶対に手に入れたいと息を潜めてシャッターを切る高揚感は強いし、本当にその空間を上手く掠め取れたのか?という不安感も混ざってコントラストが強い陰影のある感覚を体験できる。
このコンデジはおまけにファインダーがなくて液晶を見ながら写真撮るしかできないのがまたあまり手ごたえのない撮影にしてる。森山大道はほかの事はカメラなんて写れば何でもいいという割り切り方で済ませても、この液晶で写真撮るというのは容易く受け入れたんだろうか。技術革新が進んでも、いつまでたっても昼日中に液晶を眺めるのはあまりよく見えないし、何でこんな明るい陽射しの下で液晶なんて見えにくいものを眺めてなければならないんだと、理不尽な思いに捉われていた。他の持ってるデジタルカメラはファインダーがついてるから、これもファインダーが欲しいと思うんだけど、そうなると他に持ってるデジタルカメラと同じになってしまうから、これは見えにくい液晶でしか撮れない写真を撮るカメラということになるのかな。考え方を変えれば、これもまた特別な撮影体験ではあるのかもしれない。
クールピクスのSシリーズはこのS9700から絞り優先モードとかついて、ちょっと本格的なことができるようになってるけど、明るさが3.5くらいから始まるレンズでは絞りを変えてもそんなに効果的に使えるという感じでもなく、これはフィルターっぽいもの以外だとオートで撮るだけだった一世代前のS9500のほうが理にかなってたんじゃないかと思う。おまけにS9700のほうはオートにすると、S9500では電源を落としても記憶してくれていたフラッシュモードを記憶してくれない仕様になっていて、まあオートというならわたしの設定なんて記憶しないほうが本当のオートだとは思うけど、こういう形のコンデジの使い勝手としては前機種のほうが割り切り方が上手い印象がある。森山大道がS9500を使い続けてるのもそういうカメラの持ってる割り切り方が撮影スタイルにマッチしてるということなのかなとも思ったりする。

写りはフィルムのように事物が薄い光の膜を纏っている、あるいは対象との間にある空気の層も写しこんでる感じはなく、全体的にはまさしくデジタルで、均質的にはっきり写る。クリアだけどあまりメリハリのない、そのままだと味のない写り方になりがちのように思う。ただ今回の自転車の写真はそういう細かいところもはっきりと写るというデジカメ的なイメージがマッチしてるように思えた。こういうデジタルっぽい映像も良し悪しはものによるんだろうなぁと思うところがあった。

もう一つ、かなり安かったから両吊りのケースを買ったんだけど、これは首から掛けて使う類のカメラじゃない。この桜を撮りにいった日、カメラを首に掛けていたことは、このカメラが何だか馴染めなかった原因の一つになっていた。これはハンドストラップで片手に持ちながら街のなかを歩くカメラだと思う。
まぁ純正のこういうアクセサリーは後で欲しいと思っても買えなくなってる場合がほとんどだから、かなり安価で買えた時に買っておいたのは正解だったとは思うけど、首から掛けたくなった時に困らないだけで、あまり使わないかな。結局この桜を撮りに出かけた日も、帰ってからハンドストラップに付け替えたから。
ただ、手で持って歩き回るカメラだとは思っても、そのままだとあまり持ちやすくないカメラだったりする。このケースに入れてるとケースの厚みが加わって若干持ちやすくなるから、両釣りを止めてその片側だけにハンドストラップをつけることも出来そうだけど、ケースは三脚の取り付け穴でとめてるだけだから、片側だけで吊り下げたりするのはちょっと危なそうな感じがする。
親指の滑り止めのゴムの真横に、ほとんど隙間なく録画のボタンなんていう、はっきり云って使わないものが配置されていて、これがまた押すつもりもないのに押してしまうことがよくあり、持ちやすさも含めて全体のデザインはそんなに使い勝手を考えてるようには思えない。





これも現行の機種ではなくて、最新のものはもっと機能盛りだくさんで、何だか一眼レフに色目を使ってるような様子のカメラになってきてる。売る側としては新機能とかいろいろと盛り付けて出すほうが売れるのかもしれないけど、こういうタイプのカメラが持つべき方向とは何だか少しずれてるんじゃないかと思わないこともない。
何度も書いてるけど写真ってそれこそ写ルンですでも撮れる。高級な機材と機能てんこ盛りの状態でないと撮れないと思うなら、それは間違ってる。
そういえば写ルンですは今年30周年で記念に初代の外側を再現したジャケット付きのものが限定で販売されてる。他についてる記念グッズがいまひとつ魅力的でもないので買うまでには至ってないけど、普通に買うのとほとんど変わらない値段だし、まだあるなら買っておこうかなと思ったりしてる。
最近若い人を中心に写ルンですは人気を盛り返してるらしくて、わたしはといえばアレック・ソスや、日本だと最近新作の写真集がでて、新刊で速攻買ったお気に入りの写真家、奥山由之が好んで写ルンですを使って作品作りをしてるといったことから、かなり興味を持って一台買ったのが手元にある。
どういう形にしろフィルムを使う人が増えてるって云うのはやっぱりいい。




これ、ヨドバシだと4000円くらいしてた。あまりにアマゾンのが安かったので思わず買ってしまったもの。
でも本文中でも書いたように、こういうのを使うタイプのカメラじゃないんだよなぁ。