2019/05/01
機械式辻占師言行録Ⅱ / レベッカ 1986 早稲田大学 Live

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四条坊城(1)(3)
三条大宮(2)(4)(5)('7)
浜大津(6)
2016 / 04 (1)(2)(3)(4)(5)(7)
2017 / 09 (6)
Nikon Coolpix S9700
Fuji NaturaClassica (6)
Fuji Natura1600 (6)
先日新しい病院へ紹介状を持って出かけてきた。病院を変更することになったのは、今までかかっていた病院が入院患者中心の病院となって一般外来が縮小、その結果わたしが通っていた科が消滅したためだったんだけど、紹介状を書いてもらったおかげで新しい病院へはスムーズに移行できた。もっともこの新しい病院へ初めて行った時はどの医者が自分の厄介な病気に合ってるのかなんてさっぱり分からない状態だったのでこの日を選んだのも含めて何もかもが完全に行き当たりばったりだった。結局その日は当日外来担当で出てきていた医者から、潰瘍性大腸炎にとても詳しい先生がいるということで、そちらに院内紹介のような形を取ってもらうこととなった。結局二度手間になるの?おまけに紹介だけできっちり診察料も取られてなんだかなぁっていう感じも抱きつつ、最初だし詳しい医者に担当してもらえるならこの首尾でも今日はまぁいいかと納得する。そして今日その詳しい医者の診察の予約日だったので再び来院。初日から特定疾患の医療費助成の登録の手続きをしてるかと訊かれてしてないと答えるとそれならこちらで書類を作っておきましょうとなにやら展開が速い。特定疾患対応の大病院が希望の火を灯してくれる。大きな病院はある程度治療が進んで一段落すると後はかかりつけの医者のほうに返される形になるけれど、わたしの場合はかかりつけの病院が消滅した形となってるから、できるなら詳しい医者のいる設備の整ったここで治療を続けられればいいと思う。それにしても何ヶ月も下血が続いて絶対に貧血になると思っていたのが意外とそうでもなく、むしろ影響は靴のサイズが一つダウンしたとか、腕時計の留め穴が二つ内側になったとか、そういう方向で出てきてるようだ。あまり食べられないのと吸収とかの臓器の能力も落ちてきてるのかもしれない。ダイエットだとばかりに喜んでもいられないなぁ。線分収集家といい、この機械式辻占師といい、名づけてるのは自分自身に他ならないんだけど妙な肩書きが増えていく今日この頃、その割には肩書きほどには異様な写真も撮れていないというのはまぁご愛嬌というところか。言行録っていうのはアルフレッド・ジャリの著作「フォーストロール博士言行録」から拝借。ちょっと古風な語感が個人的には良かったりする。今回はこの前の記事と同様のタイトルをつけて趣旨は同じとしているものの、趣旨が同じように見える見せかけの下に写真を集めているだけであるのかもしれない。おそらくまったく異なる趣旨を予兆させるタイトルのもとにこの中の数枚を紛れ込ませたら、その別の趣旨に沿った外殻を纏った写真に変貌しているだろう。ところでこの前の写真、K階段の写真をみていて気づいたことがあって、わたしはこの階段をアプリオリに上へ登る階段として記事に書いている。でも上に上がるかどうかはこの写真の中には判断する要素は含まれておらず、これをみて上から下りてくる階段と判断する人もいるんだろうなと気づいてみると、何だか妙な気分になる。わたしが当たり前にみているものも、あらゆるレベルにおいて当たり前でもない可能性がある。わたしが見ている世界は同意されているようにみえる部分のみ共有化されているだけで、実は人の数だけまったく違う世界が並立され、その違いは永遠に共有されることも無く気づくこともない空間に仕舞いこまれてる。空間といえば、別にこれがわたしの大発見というわけでもなく、今までに様々な形で言われてきているものだろうと思うけど、空間そのものとしては存在しない。それはまさしく空ろな間であり、あるものとあるものの間の関係性において成立するものでしかない。つまりは言い換えるならオブジェが空間を生成する。オブジェは何らかの空間の中にあるのではなくて、空間はオブジェの属性であり付帯物なのだろう。どうしてこんなことを書いてるかといえば、写真はオブジェとともにそのオブジェが生成してる空間も写し取っていると思うから。佐内正史だったか雑誌スイッチだったと思うけど、とまるであやふやな記憶で書いてみると、どうして写真っぽい場所で写真を撮らないのかといったことを訊かれて、心底不思議そうに写真を撮るなら写真的じゃない場所しかないでしょと答えていた。この気分はわかる。「いわゆる写真」的なところは実は最も写真から遠いところだと。写すべきは周りの退屈で凡庸な日常であり、しかもそれを退屈で凡庸な日常の様相として捉えるのではなくて、日常に取り囲まれて身動きできなくなっている視線と存在を見晴らしのいい場所へと引き上げる契機とすること。シュルレアリスムの視覚表現なんかとは異なって、写真においてこのことは、見晴らしのいい場所はこれだと押し付けがましく強要するような非日常の対象ではなかなか実現できない。そんなもので視線は解放されないだろう。で、思いついて書き始めたこの話に繋がるかどうかはいまひとつ自信はないけど、先に書いたオブジェが空間を生成するという話。空間はあらかじめそこに存在しているオブジェのための入れ物なんかじゃない。オブジェが、世界の構成物が、日常がその場で生み出していくもっと動的なものだと思う。そしてその動的なものは日常を動的に、空ろな器の中に閉じたものではなくて関係性の場において未知なる何かへとわたしたちを導く可能性を秘めていて、写真はそういうものを顕現させることができる。おそらく優れた写真はそういったものを捉えるのに成功した写真なんじゃないかと思う。対象は風光明媚だとか異様だとか千載一遇の瞬間だとか特別なものではなく、ただの目の前に転がるゴミの一片や積み上げられた椅子であり、そういう非「いわゆる写真」的なものをそれが周囲に生み出す動的な空間共々掬い取ってくる。上手い言葉を思いつかないけれど、その空間には強度といったものがあって、ただのゴミの一片しか被写体になっていなくても、その強度さえあれば有無を言わせない説得力のようなものを身にまとって写真として立ち上がってくる。ゴミを写して唯のゴミの写真になるか問答無用の写真になるかの違いはこの生成される空間の強度の差にあるんじゃないかと思ったりする。わたしの写真はまるで強度不足だ。おそらく、矛盾したことのように見えるかもしれないけど、それはこの退屈で凡庸な日常への愛情のようなものが自分には本来的に欠けてるからなんじゃないかと思う。
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ちょっと文字を入れてみた。普段写真に文字を入れてみるとかほとんどやらないんだけど、かっこつけた写真にはなるな。ちなみに入れた文字はリンチの廃工場写真集のタイトルだったりする。
レベッカ・・・1986 早稲田大学 Live
これは、今さらの如く人気があったのも当然といった感じがする。小さくて可愛らしいのがステージのそこいらじゅうで縦横無尽に弾けてるような勢いが魅力的だし、MCの予想外にちっともスタイリッシュじゃない、かっこつけない話し方も親近感があっていい。今わたしのヘアスタイルはシルバーベージュにカラーリングしたソバージュっぽい癖毛風縮れ毛パーマだし、このファッションをみて真似したくなって、古着のGジャンを買ってきた。アクセサリーのネックレスとかはパールビーズなんかを買ってきて似たようなのを自分で作れる。こういうのをジャラジャラつけるのは大好きだ。でもアクセサリーをあれやこれやと作ってるうちにGジャンの季節じゃなくなりそうだ。