夜が聴いている / ヤフオクの顛末

夜が聴いている1






夜の音3





夜の音5





夜が聴いている6
2017 / 07 浜大津、近所
2011 / 05 難波
Nikon Coolpix S9700 / Contax TVSⅡ
fUJI Reala Ace 100

昔山田風太郎の小説のタイトル「夜よりほかに聴くものもなし」を見て、夜を聴く対象にするのか!と山田風太郎の外界認識に感心したことがあって、まぁ実際は夜は聴いている主体であって対象ではなかったんだけど、今回の写真を眺めていてそんなことが頭に浮かんだ。もっともこの詩的な言葉は山田風太郎のオリジナルじゃなくて、ヴェルレーヌの詩の一節から取られたものらしい。さすがに詩人の感性だ。

☆ ☆ ☆

先日バスに乗ろうとして、たまにしか来ないバスの待ち時間の間近所にあったブックオフに行こうとした時、とある店先に並べて置かれていた幟の一本が風に倒されてるのを見つけた。かなり風の強い日だった。何気なくその倒れた幟を見てみると、くしゃくしゃになった布を巻きつかせて向こう側に倒れてる幟の支柱の真横に、少し間隔を置いて立っている隣の幟の影が少し角度をつけた並行状態で手前に落ちて並んでる。これがね、一目見ただけで絵になってると思った。
並行に近い形で、でもちょっとニュアンスを含んだ角度をつけて、冬の陽光が照り返す白い地面の上に並ぶ、延びる方向が真逆の二本の支柱のライン、片方が実物のラインでもう一方が逆光でできた影のラインという質感の違い。倒れた支柱に地面の上でくしゃくしゃと纏わりつく実物の幟と狂ったように風にはためいてる様子を窺える幟の影、こんな風ないろんな形のコントラストが絡み合って目の前の空間にバランスよく治まってた。
ところがこの日は色々と行くところがあって、カメラを持って出かけなかった。だからこの二本の幟の様子を見てもこの時は残念ながら写真に撮れなかった。
しまったなぁ、こんな時に限ってこういうものが視線にひっかかってくるんだよなぁと思ったんだけど、何を思おうとカメラを持ってきていなかったので何も出来ずに、後ろ髪を引かれながらもその場を通り過ぎてブックオフに向かう他なかった。
結局暇つぶしのブックオフでは100円コーナーで見つけたら買おうと思ってリストにしてある本は何も見当たらずに、程なくバスに乗るべくもと来た道を戻ることになった。バス停に戻る道でさっきの幟が倒れてた場所までやってきてみると、わたしがブックオフで暇つぶしをしてる間にどうやら前の店の人が倒れた幟を立て直したようで、さっきの絡み合ったコントラストの光景はどこにも見当たらなくなってしまってた。
要するにその日のその時間に暇つぶしをしようと思いついてたまたまそこを通り過ぎた時に、たまたま幟の一本が倒れていたために偶然目にすることが出来た、一瞬だけこの世界に出現した絡み合うコントラストの光景だったわけだ。こうなると逃してしまったという感覚はかなり大きくなってくる。カメラを持ってこなかったという判断ミスはこの日一日中わたしのどこかに後悔として引っかかり続けることになった。
かといってカメラ持ってる時は大して撮りたいと思わないようなものばかりが目についたりするんだなぁ。見つけても撮れないという状況が逆にカメラがあれば絶対に撮ってるのにと思わせるものに視線を向けてしまう強い刺激にでもなってるかのようだ。

☆ ☆ ☆

この前の記事で年末年始にヤフオクに夢中になっていたと書いた、その顛末。
大晦日にTVつけるのも忘れて競り合いの動きを見ていたものと、この前の記事を書いた時に入札しようかと迷っていたものの2件で、アイテムは両方とも服。どちらもコートの類で大晦日のは軽めのカーディガン風のもの、もう一つのほうはツイードの重厚なタイプのコートだった。重厚なほうは、ディテールはオーソドックスなフード付きのコートだったんだけど、風をはらむように長くゆったりしたシルエットがまるでどこかアジアの遊牧民が着てそうなイメージでかっこよかったんだな。この遊牧民風コートのほうはオークション終了手前であっという間に3万超えて、もう洋服にそんなお金を出す気になってないものとしては早々に撤退気味の気分になり、争う気も失せた途中からは嫌がらせに値段吊り上げの入札を数回した程度で終わった。結果は確か3万6千円くらいで落札されたんだったかな。キルトの裏地付きで、厚手ツイード生地を目一杯使ったようなコートの値段としてはわたしが服に出せる価格を超えてはいたけど、これでも随分と安かったかもしれない。
大晦日のは1600円ほどで大して競ることもなくこちらに落ちてきた。ところがこれ、家に到着してポケットを探ってみればなかに何か入っていて、何だろう、何か値打ちのあるものでも入れたまま忘れてしまったのかと思いつつ取り出してみると、これがなんと使用済みのマスクなんていう代物だった。
こんなものが入ってたなんて驚愕ものだ。あんたが入れたんだろうと言われても反論できないぞと思いながらも、出品者にどうしても一言いいたくて、こんなものがポケットに入ってた、こういうところもチェックしたほうがいいと思うよ、みたいなことを書いて返信したら出品者から即座に返事が返ってきた。その返事にはお詫びの言葉と返金するということが書かれてた。送ってきたコートはどうするかと尋ねてみたら、もうこちらのほうで処分するなり何なりして欲しいとのこと、返品は必要ないということだった。
結局返送しなくてもいいといわれたものの、使用済みマスクが入ったコートはもう着る気をなくしてしまって、年末年始に動向を見ていたヤフオクは収穫ゼロという結果に終わった。まぁお金を使わなかったっていうのが冷静になってから思う一番の収穫だったかもしれない。
カメラのオークションはこのところ手を出してない。当方素人なので動作確認できませんでしたなどと書いてあるのは、まず間違いなく壊れて動かないということの別の表現だと気づいてしまったからにはもう好奇心だけでは手の出しようがない。

そろそろ出品者側にも回ってみようかな。










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化水幻戯

疎水 伏見付近1





反射する





水の影





水門





忘れ物



2016 / 12 / 墨染 (1)
2016 / 05 / 墨染 (2)
2016 / 12 / 墨染 (3)(4)
2016 / 03 / 墨染 (5)
Nikon Coolpix S9700 / 写ルンです シンプルエース400 / Olympus Pen S3.5
Kodak SuperGold 400


忍法の技の名前みたいなタイトルだ。とは云っても山田風太郎じゃなくて、元は江戸川乱歩から拝借してきた。山田風太郎は甲賀忍法帖のような有名なものもいいけど、わたし的には風来忍法帖が面白い。

京阪の線路と併走している疎水の、墨染を通り過ぎて伏見へとカーブしていくところ、関西電力墨染発電所のある辺りなんだけど、耳鼻科の通院後にたまに墨染から疎水沿いを歩くことがあって、これはそんな時に撮った写真となる。水門だとかの構築物はこの墨染発電所のものだ。実のところもっと水門や機械類を絡めて撮りたいんだけど、当然のことながら発電所には柵があって中に入れないようになっている。最後のは水は写っていないけど、この疎水と変電所の脇にある小さな公園のベンチに置き忘れられていたオブジェだ。
こういうのを見ると各オブジェを配置しなおしたくなる場合がある。以前紅葉のシーズンに地面に落ちたもみじの葉っぱを拾ってきては思うように並べて写真を撮っていた人を見たことがあった。そういうことにあまり抵抗がない人もいるようでも、わたしはちょっと抵抗がある。あまり自分色に染めてしまわない、目の前の空間をそのまま把握するって云う関わり方だから、目の前にこういう配置で存在したものはその配置にも何らかの蓋然性があると考えるほうで、この写真の場合もサングラスや、これはシャボン玉製造機なのか、奇妙なおもちゃの位置が多少バランスを崩していてもそのままにして撮っている。

水は被写体としては面白いね。水そのものは指の隙間から零れ落ちていくほど存在としての確固としたものがないにもかかわらず、反射、透過、屈折、波紋、揺らぎなどの層を通して様々の表情を見せてくれる。日常の当たり前に見るものから神秘的な印象まで、あるいはわたしにとってはさらに恐怖の対象としてまで、刻一刻と変化するその様相は見ていて飽きない。
たった100度程度の範囲で固体から液体さらに気体にまでその存在形態を変える物質は実はかなり特異な存在らしく、これ無しには生命は誕生し得なかったことも考え合わせると、水はある意味奇跡的な物質だ。水道の蛇口から毎日奇跡が迸り出てるんだと思うとなかなか楽しくなる。








壁際のサンタたちとChristmas Bells

横並びのサンタ
2016 / 11 / Nikon Coolpix S9700




ランプ整列
2016 / 12 / 写ルンです シンプルエース400




季節的なイベントものはもう撮る気になれないと云いつつ、サンタさんの写真を撮ってしまったりして、他のかたちでは載せようもなさそうだから、小さな記事にしてこっそりと挟み込んでみる。本来的な記事は土曜日にアップ予定。

曲のほうも合わせてクリスマスソングだ。でも大好きな曲はほとんどここに載せてしまっているし、だからといって大して好きでもない曲を選ぶのも面白くない。ということで今回は今までにピックアップした好きなクリスマスソングの中から再掲載してみる。この曲、かなり前のクリスマスの時期にピックアップしたんだけど、その時はYoutubeからあっという間に削除されてしまった。
わたしの音楽体験の中ではパティ・ペイジの歌でしかほとんど耳にしたことがない曲だ。シンプルでチャーミングな曲だと思うんだけど、ホワイトクリスマス並みにとは云わないにしても、どうしてクリスマスのスタンダードとして広まらなかったのかなぁ。もっと広く知れ渡っていてもおかしくない曲だよ。

Christmas Bells - Patti Page



☆ ☆ ☆



どうもね、エスカレーターのステップの縁に叩きつけてから、手振れ補正が上手く働いていないような気がする。やたらとブレブレの写真を量産している。外見は堅牢で一見まともに動いてはいるけどそこはやっぱり精密機器、衝撃には弱いってことか。
アウトドアで使うのが主な機材なのに、雨には弱いぶつけることにも弱いって、道具としての設計の根本に大きな錯誤でもあるんじゃないかとも思えたりする。


その点これは凄い。ボディにひび割れでもできない限り、何が起ころうとまるで平然と写真を撮り続けるんだから。シンプル・イズ・ベストを絵に描いたような道具だ。






京都矩形化計画

マネキン
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





駅の編目
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





京都駅玄関上
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700






踊り屏風
2015 / 01 / Nikon F3 / Kodak Gold200



最初思いついたのは「京都駅矩形化計画」。で、今回の写真は確かに全部京都駅で撮ったものだけど、何も駅に限らないでもいいかと思って、京都のあらゆる光と闇、あらゆる空間、あらゆるオブジェ、あらゆる曲がり角、あらゆる隅っこを四角いフレームで囲ってみようという意味合いをこめて、このタイトル。
何だかブログの名前に使えそうだ。っていうか京都の写真サークルでも立ち上げて、その名前にでもできそうだなぁ。
カ行の音が多くて、ギクシャクと尖がってるのも気に入った。

今回のは最後の以外はデジタルで撮ってる。
デジタルで撮ってみて、撮っている時はシャッター切っても、写真撮るという行為だからつまらないとは思わないものの、写っているのが当たり前という感覚が大きくてどうも面白いとは思えない。とはいってもあまり面白いとは思わないといいながら、フィルムを使ってる時とは桁外れに多量の写真を撮ってしまってるんだけれど、どれだけシャッターを切っても感覚的にはあるレベルで飽和状態になってしまってるようで、大量に押した個々のシャッターに、振り返りたくなるほどの感覚の痕跡はあまりのっていないような気がする。
デジタルで面白くなってくるとするなら撮影している時よりもPCに取り込んでフォトショップでいじくり回してる時かもしれない。
わたしがデジタルで撮って一番楽しんでるのはまさにこの時で、なぜかデジタルの画像に関しては編集に関連するリミッターが外れてしまう。もちろんデジタルでも一切編集しないという撮り方も当然できるんだけど、「撮って出し」なんていう言葉があるのなら、同時にそこにはさらに広範囲に「撮って出さない」というものもあることになって、やっぱりデジタルの機材は事物と主体の間にあるものとして、幾分は主体よりの位置にいるのが基本なんだろうと思う。
逆にフィルムを使ってる時はこのリミッターがかかりまくりで、トリミング程度でさえも悪魔の所業だと、忌避する気分のほうが大きくなる。といっても絶対にやらないかというと、そのほうが良くなると思えば結構やってしまったりはするけどね。こういう感覚が生じるのは、フィルムに定着したものは化学反応で物質化した光そのものだと思うからなのか、理由ははっきり分からない。

☆ ☆ ☆

最近ここでは虫と転倒の話ばかり書いている。そういう癖でもついたのか先日駅のエスカレーターに乗っている時、ステップの縁につま先が引っかかって、前のめりになり、思わずステップに両手をついたことがあった。いつもならエスカレーターを歩いて進むなんてやらないんだけど、この時は列の先頭になってしまって、何だか後ろからせっつかれてるような気分になった。そしてどうせ歩くならさっさと行ってしまおうと、足を速めたとたんの出来事だった。これだけだと特に怪我をしたわけでもないし、本格的に倒れこんだわけでもないから、みっともないなぁと思うだけのエピソードだったんだけど、これが特別の意味を持ったのは、この時、今回の撮影に使ったニコンのデジカメを片手に持っていたという要素が付け加わっていたからだった。
左手の手のひらの中に、前にかざせばちょうど水戸黄門の印籠を持っているような形でS9700を携えていて、つま先を引っ掛けた時にこのままエスカレーターのステップの縁に手をついてしまった。要するにカメラをステップの角に思い切りぶつけてしまったというわけだ。しかも全身の体重をかけて。
みっともないからそそくさと立ち上がって、知らん顔してその場を立ち去ることがまず第一に頭の中にあったものの、そのすぐ裏側でカメラが酷い損傷を受けたに違いないという予感が寄り添っていて、この時はさすがに血の気が引いた。
で、その場から離れて、手の中にあるカメラを恐る恐る確認してみたんだけど、これがまた信じがたいことに傷一つついてなかったんだな。後になって光の加減でかろうじて分かるくらいの微細な程度で、鏡胴の周囲を巻いてる素材の一部がかすかにへこんでいるのを見つけたけど、それ以外はかすり傷一つついていなかった。スイッチを入れてみると何事もなかったようにカメラは光をセンサーに取り込むことに専心している。
ここまで丈夫なものだとは本気で思わなかったので、これには結構吃驚してしまった。
今回は壊れなかったという結果だったけど、これ、液晶のほうを外側にして持っていたら、まず液晶は割れるかなにかしていたのは確実で、レンズのほうを表に出して持っていたこと、しかもレンズは収納状態で、ぶつけた縁がレンズの薄いカバーよりもわずかにずれていて、レンズを直撃しなかったことは本当に幸運だったとあとで冷や汗をかいた。もっとも幸運というなら、そもそもエスカレーターのステップにつま先など引っ掛けないわけで、考えようによっては、これは幸運だったのか不運だったのかどうもよく分からない結果となっている。
禍福は糾える縄の如しということなのか。






ということで、今回の写真に使った、丈夫なデジカメ S9700だ。ボタンの配置が妙な具合で押すつもりもないのに動画開始のボタンを押したりしてしまうのが玉に瑕か。デジカメで動画とか撮ってる人、そんなにいるのかなぁ。少なくともわたしにはいらない機能だ。


☆ ☆ ☆

今回はちょっと妙な写真が多い。



鵺、滴る灯 + 富岡多恵子「写真の時代」

赤いハンドル
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





襞
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





光る体
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700








滴る赤い光
2015 / 12 / Pentax K100D Super


京都は今祇園祭の真っ最中。いつも通りにこの記事をアップできたなら、昨日ハイライトの山鉾巡行は終了してるところだけど、これを書いてる今はまだテンションが上がっていく只中にあるという感じだ。
とはいっても実はわたし自身は祇園祭のことをすっかり失念していて、もちろん今がその期間中だというのは分かってはいたけど、この急激な酷暑で頭の中が一杯というか、祇園祭って梅雨の真っ最中にやってる印象があまりないから、まだちょっと先の出来事だと見事に勘違いしていた。先日京阪の七条の駅で降りた時、やけに外国の観光客がいるなぁと思って、駅の張り紙が目に入ったら、今日は祇園祭なので電車の運行がどうしたらこうしたらというようなことが書いてある。外国の観光客の多さに引っ張られて、しまった今日は祇園祭の日なんだとものの見事に勘違いして、粽買うのを忘れたなぁ、長刀鉾のところで買うのが好きなんだけど、八坂神社で手に入るかなぁなんてことが頭を巡って、まだ山鉾巡行の日まで3日ほどあるっていうことがまるで頭の中に戻ってこなかった。
帰宅してから、いやまだクライマックスじゃないではないかと気づいて、土曜日に耳鼻科に行くからそのついでに粽を買ってこようと一安心。このところいかにも京都なんていう物事は、意図的に写真に撮ってないし、もう撮る気もないんだけど、オートハーフの2本目の試写ついでに、暑さと雨と写真的感性の迷いの中、まるで消費できないでいるフィルムを使ってこようかと思ってる。この前の記事の4枚目の、日常の隙間に張り付いていた白昼夢のような写真、またそんな写真が撮れるかなと、自分でもちょっと期待してる。でも期待してしまうと結果はまるで違うものになってしまうのがわたしの常だから、さてどうなるか。
それにしても今頃の京都は超絶なんていう形容が付くほどに蒸し暑い。外国の観光客はこのところ年を追うごとに目に見えて増えてる感じだけど、この時期に高いお金を使って京都に来てしまって、もっと過ごしやすい時に来るべきだったと嘆いてるんじゃないかと思う。あるいはそうではなくて、この暑さを、この季節の京都でしか味わえないと、この時期に来たのが正解だったと思ったりしてるのかな。

☆ ☆ ☆

追記すると、土曜日、要するに祇園祭の宵山だけど、耳鼻科に行った後、粽を買いに出かけてみた。
長刀鉾の設置してある場所は舗道拡張した四条通の拡張されなかった区域で鋒の前を通る人並みがもう満員電車並みにつかえてしまってなかなか進むことが出来ないような状態になっていた。
おまけに長刀鉾の粽はあろうことか売り切れになっていて、結局買うこともできず。
まいったなぁと思いつつ、他の鉾で買うしかないかと、近くにある鉾の中でどこにしようかと考え、月鉾と菊水鉾に絞り込んだ。黒主山の粽も黒い帯が巻かれていたりしてかっこいいけど、場所がちょっと離れてるし、後祭のほうで登場する山なので今売ってるのかどうか分からない。
月とか狂気をはらんでかっこ良さそうと思ったんだけど、厄除けなのに勝手に想定した狂気で入れ込むのもおかしな話で、かたや菊水は戦艦の名前にでもありそうでかっこいいと、こっちも本意を無視した関心の寄せ具合と、あれやこれやと思い巡らしたものの、結局その場のインスピレーションで菊水鉾の粽を買うことに決定。
長刀鉾で粽が買えなかったのは初めてのことで、やっぱり長刀鉾は巡行の先陣を切る鉾とあって人気があるんだ。

オートハーフの試し撮りとか云ってたけど、人の多さと蒸し暑さに辟易して、肩にかけていたコニカのC35EFで菊水鉾の車輪の写真を一枚撮っただけ、オートハーフのほうはリュックの中から出しもしないままに終わってしまった。


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鎌鼬の記事の前に写真選んで記事の形にしようとしてたもの。得体の知れないものの気配なんていうのにぴったりな、鵺というタイトルで行こうと思ったものの、楢橋朝子の写真集にそのものずばりのnu・eというのがあって、まぁそういう写真集を知らなかったとしても、いかにもという単語だしどうしようかなと逡巡していた。そのうち別の写真を眺めて鎌鼬という単語に思い至り、そっちのほうがまとめやすそうと気分は鎌鼬のほうへと移ろい、写真選び出しただけで放置しかかっていたのがこの記事だ。

目の前のものがそのまま写るというのが、写真だけが持つ特性だと思うけど、写真に写ることで、そのまま写った事物や空間なのに、時として饒舌になることがある。そういう事物や空間の呟きをフレームのなかに閉じ込めたい、こういう写真撮ってる時の無意識的な志向とか、こういったものなんだろうと思う。
でも、明らかに妙なものを被写体にして、妙な雰囲気の写真を撮ったとして、それはキャッチーな写真にはなるだろうけど、わたしはそういう写真は撮った側が写真内の事物に、さぁ色々と喋れ、囁き声なんていうんじゃなく大声で喋れとせっついてるような感じがして、自分でもそういう写真は絶え間なく撮ってるくせに云うのもなんだけど、どうも乗り切れないところがある。そういうのはちょっと違うんじゃない?とか、こういうのは何だか微妙に違うっていう思いが必ずどこかに残ってしまう。
できうるならありきたりのものを相手にして饒舌な写真とか、そういうのを撮ってみたいなぁ。


☆ ☆ ☆



写真の時代

タイトルは何だかおざなりのようだし、著者も詩人であり小説家ではあっても、写真家ではない。こんな条件だけ目にすると面白くなさそうという印象になってしまうかもしれないけど、実は結構面白い本だったりする。
内容は富岡多恵子が1976年から78年にかけてカメラ毎日に連載した時評を纏めたもの。巻末には東松照明との対談が収録されていて、そのなかで東松照明がこの時評をかなり高く評価していた人がいたことを明かしてる。
内容的には写真家や写真家の写真集についての評、連載当時の展覧会についての評、他には写真的なキーワードを契機にしたような様々な論考など。
著者は写真に関しては、海外にカメラ持って出かけても写ってるのは自分ばかりで、どういうことかというとほとんどカメラを他人に預けて撮ってもらってると明記し、門外漢であることを宣言してるんだけど、だからといって的外れなことが書いてあるかと読んでみると、これがまた完全に予想を外れて、見ることについてかなり思考なり体験を重ねてきてるのが良く分かる書きっぷり、しかも今まで写真のコンテクストの中にいなかったから、写真の中に身を置いてる人からはあまり発想されないような視点を確保してる。
写真と表現なんていう言葉で何か云うとするなら、写真のコンテクストの中にどっぷりとはまり込んで考える人なら、これからの写真にはどういう表現が可能か、なんていう方向へと考えは広がっていくだろうけど、富岡多恵子がこの本で色々と展開してる思考には、その通奏低音として、そのもっと手前というか、写真やカメラにとって、表現行為といったものはほんとうにふさわしいものなんだろうかという、従来的な写真の領域ではなかなか発想し得ない思考の起点を用意してる。
写真の登場は写実において完全に絵画を打ちのめし、絵画は別の方向を辿るほかなくなったけど、その絵画を打ちのめした写真は今や打ちのめしたはずの絵画的な表現にはまり込んでる。それは写真の本質でもないし、写真が本来持ちうるはずの独自の面白さへも結びついていかずに、いつまでも絵画の従属物のような存在に留まり続ける。
こういった基盤の上で展開される論考はとても刺激的だ。
写真はコピーするだけのものと定義しても、フレームで切り取ることだけでも主観は介在し、事物と主観の関係においていくらでも変化自在に変貌していく、その揺らぎに応じて論考は様々な切り口を見せて、こういうところも柔軟で面白い。

エグルストンの写真に関する評なんかも入っていて、これなんか読んでみると良く評されるようなアメリカ南部の瘴気だとか、そんな風にはちっとも写真を読み取ってないのが自分には面白かった。わたしもエグルストンの写真ってそんなところにないだろうって思ってたから。

この本を読んで、まぁ似たようなことを考え続けてるから、自分が写真についてずっと考え続けてることは決して方向を誤ってはいないと、ちょっとだけ自信を持ちえたところもあった。でも70年代の後半に自分が思い描くようなことを考えてる人が既にいたというのは正直に云って、後追いにも程があるじゃないかとめげるところもある。自信をもらったことと意気消沈したことと、さてとぢらのほうが自分には大きかったのだろう。












のちに筑摩書房から叢書として再版されたものがあるけど、今はこのオリジナル版共々絶版となってる。古書はこっちのほうが古い分安く手に入りそう。ちなみにわたしが持ってるのも、写真載せたから分かると思うけどオリジナルのほうで、再版された叢書のほうがどんな体裁になってるのかは全然知らない。