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【洋楽】 Always Look on the Bright Side of Life - Monty Python

作詞作曲はモンティ・パイソン・メンバーのエリック・アイドル、エリック・アイドルというのはラトルズのポール役をやってた人です。
エリック・アイドルにこういうのを作ってしまえる才能もあったんだと、曲のクレジットを見た時にびっくりした覚えがあります。

この曲はモンティ・パイソンの映画「ライフ・オブ・ブライアン」のラスト・シーンに使われたのが最初。
以後何度かリバイバルして、耳に届いてくる機会もあったようです。数年前にNIKEのCMにも使われています。これは何となくわたしも覚えてます。サッカー・ファンにはこの曲に馴染みのある人が多そうな感じかな。
最近では2005年にトニー賞作品賞を受賞した「モンティ・パイソンのスパマロット」というミュージカルにも使われていたそうです。

☆ ☆ ☆

別に言葉を費やさなくても、たった一言だけ「名曲」で済んでしまいそうな曲。本当にこの曲はよく出来てる。

旋律は綺麗だし、目新しい音楽形式とかいったものとは無縁なんだけど、全体は洒脱というか、粋に仕上がってる曲です。そのままスタンダードに移行してもちっともおかしくない正統派の曲。
曲の印象としては、歌詞の中にもある口笛の音が物凄く新鮮なんですよね。この口笛が特徴的で結構耳に残る。NIKEのCMでもそんな感じでした。

歌詞も良いです。
希望に導くような力。勇気というと大袈裟なんだけど、打ちひしがれた心があるとするなら、どこか明るい場所に向けて後押ししてくれるような優しい力がある。

その希望に向かうような優しい力がある曲だからこそ、映画のラストシーンではモンティ・パイソンらしいシニカルな使い方をされてました。考えてみればこの歌にこれほど相応しい場所も無いような気もするんだけど、やはりそんな状態で歌う歌か?と。言葉にすればそんな感じの、モンティ・パイソン流のひねくれたラストシーンでした。

☆ ☆ ☆

Always Look on the Bright Side of Life - Monty Python

Nike - Bright Side Of Life

NIKEのコマーシャルです。

そしてこれが映画のラストシーン、音楽が使われた部分。ラストシーンなので映画未見なら注意、です。
Life Of Brian - Ending


☆ ☆ ☆

「Always Look on the Bright Side of Life」は「Monty Python Sings」というCDに収められています。これは輸入盤のみになるのかな。一種のベスト盤で、他はモンティ・パイソンのコメディに使われた音楽とかが収録されてます。
25曲ほど入って曲数はやたらと多いんですが、元のコメディに組み込まれた一部のような曲も多く、この曲以外は、英語であるということを差し置いても(輸入盤で対訳無しの歌詞を書いた小冊子しか入ってません)、もとのコメディを知らないと今一つ意味が良く分からない、笑いのポイントがわからないというものが多かったです。
この曲だけはコメディとは関係無しに、曲として独立してるんですけどね。

でもこれアマゾンで値上がりしてる。わたしが買った時は500円くらいの投売りだったと思うんだけど。

Monty Python SingsMonty Python Sings
(2008/07/18)
Monty Python

商品詳細を見る


☆ ☆ ☆

モンティ・パイソンは最近Youtubeに専用のチャンネルを設置したらしいです。
粗悪なパイソン動画がYoutube上に氾濫してるのに業を煮やして、本家が乗り出してきた結果だとか。

-- The Monty Python Channel on YouTube --


追記
ガーナの手書きポスター記事にポスター画像を追加してます。


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ガーナの手書き映画ポスター

以前ネットを散策しながら集めていたのを思い出して、ハードディスクの中を探してみたら捨てずに残してあったのを発見。全部はちょっと無理なので少しだけ記事に載せてみます。

西アフリカ、ガーナ(Republic of Ghana)で80年代に登場して90年代には消えていった非常に風変わりな映画ポスターの画像です。紙製ではなく、カンバスに手書きされたもので、同じ絵柄のものがあっても微妙に異なってるそうです。
80年代にガーナではビデオ機器や、ビデオカセットが流入してきて、小規模の移動映画館が誕生しました。
この小規模移動映画館はテレビや、時には持ち運びできる小型のプロジェクターを持って町から町、村から村へ巡回していきます。
そして、客を集めたり、移動映画館を宣伝したりする必要から、こういう巨大なポスターが製作されることになりました。
この一連のポスターは、絵師が実際に映画を観て、それを元にして油彩で描いていったようです。
そうして出来上がったポスターは移動映画館の周囲に高く掲げるように取り付けられて、映画館が移動するのに合わせて移動していくようになってました。そういう扱いのせいで雨風に晒されるのは当たり前という極めて過酷な状態で使われ、また用がなくなったポスターはカーテンやマット代わりに使われたりして、生き残ったポスターも相当なダメージを受けたものとなっているそうです。

絵師は映画を観た後で描いてるんですが、ポスターを観ると、描かれた内容はもとの映画にあまり拘束されてないんですよね。
ガーナ周辺の映画は観たことは無いんですが、なかには映画に無いシーンが描きこまれることも当たり前だったらしくて、映画を表現するというよりも絵師のヴィジョンを表現するという要素が勝ってるような創作物になっています。

90年代以降はガーナでもテレビやビデオが広く普及していって、それにつれてこの移動映画館は廃れていきます。ポスターも普通の紙製のものに変わって行き、結局この異様なカンバス製手書きポスターは80年代のガーナに出現して、あっという間に消えていった幻影のような文化となりました。
不思議なことにこのポスターが現れたのはガーナだけで、ガーナ以外のアフリカの周辺国では描かれなかったそうです。

わたしがガーナの手書き映画ポスターを気に入ってるのは、稚拙なタッチで描かれた得体の知れなさもあるんだけど、それに神話的、呪術的なイメージが混ざり合って混沌としてるところ。
得体の知れなさと呪術的なものが相乗効果を起こして、非常に胡散臭くて妖しい世界を作っているようにみえるところが良いです。

☆ ☆ ☆

こういう絵柄のポスターです。わたしは見世物映画とか好きなので、最初の2枚なんかはかなり好奇心を掻きたてられます。いったいどんなに変わった映画なんだろうって。
次のがレイダースとフレディ…。
アメリカ映画ももちろんガーナに入ってきて、主にホラーとかアクション映画だったようですが、大体ほとんどがこんな感じの扱いを受けてます。

ghana 01

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ghana 11

WEB POSTER EXHIBITION - Painted movie posters from Ghana
Extreme canvas

↑にもいくつか画像があります。Extreme canvasのほうは、ガーナの手書きポスターについての本なんですが、現在入手困難のようです。

☆ ☆ ☆

資料としては、ガーナの手書きポスターはドイツで展覧会が開催されていて、その時のカタログがあります。
どうもこれも入手困難なのは変わらないようなんですが、アート系のメディア・ショップのようなところで探せば見つかるかもしれません。
ちなみにわたしは持ってません。
実は今になってこのカタログ、欲しくなってきてるんですよね。手に入る時に買っておけばよかった。

カタログ




↓ポスター画像を追加してます。良ければこちらもどうぞ↓

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【洋楽】 オーティスに捧げる歌 - ウイリアム・ベル

ブロガーともさんのブログ「月のため息」でオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」が紹介されていて、ちょっと懐かしかったので、オーティス・レディングはともさんのブログに任せるとして、オーティス・レディングと関連してる曲でわたしが好きだったもの、そういうのを2曲ほど取り上げてみました。

ウイリアム・ベルは1937年生まれでオーティス・レディングやクロッパーよりも確実に上の世代の歌手。オーティス・レディングと同じスタックスに在籍し、レーベルの初期から活躍してた地元メンフィスのソウル・シンガーです。
オーティスがスタックスに入ってきた時から、自分の方が先輩なのに、オーティス・レディングこそサザン・ソウルを代表するシンガーと見極めて脇に回るような位置でスタックスとオーティス・レディングをサポートしました。そういうサポートに回るような動き方をしても、オーティス・レディングが亡くなって以後、後継者と云われるほどの実力の持ち主でもあります。
この人はスタックスのシンガー以外に、スタックスの作曲家でもあって、この曲もブッカーT・ジョーンズとの競作になっています。

この曲はタイトルから推測できるように、オーティス・レディングがツアー中の1967年12月10日に20代の若さで飛行機事故でなくなってしまったのを悼んで歌われたものです。
わたしはウイリアム・ベルはソウル・バラードの名手っていうイメージがあって、そういう上手さが分かる曲でもあります。

もっともわたし自身はこの曲よりもB面に入ってたミディアムテンポのソウル・バラード「Every Man Oughta Have A Woman」の方がどちらかというと好きなんですが。
なぜかこの曲、情報がほとんど出てきません。なぜここまで無視されるのか理由がさっぱり分からない。良い曲なんだけどなぁ。

オーティスに捧げる歌

☆ ☆ ☆

A Tribute To A King - William Bell


Every Man Oughta Have A Woman - William Bell



【洋画】 MAY ー メイ ー

ラッキー・マッキー監督は、どうもふざけた名前で損してるような気がしないでもない、新鋭の監督。ダリオ・アルジェントやロマン・ポランスキーに影響を受けた人らしいです。
他の映画では「虫おんな」という強烈なタイトルのホラーも撮ってるようです。タイトルだけで好奇心が動き出すんですが、この「MAY」を観る限りでは視覚的な見せ場たっぷりの映画を撮る人でもなさそう。この映画一応はホラーなんですが、基本はほとんど青春映画のノリです。

主役の女性メイを演じたアンジェラ・ベティスは誰かに似てると、観てる間中思っていて、これには観終わってから思い当たりました。牧瀬里穂に似てるんですよね。
他の出演作、「ブレス・ザ・チャイルド」「ツールボックス・マーダー」とかも観てるのに、そんなに牧瀬里穂が出てると思わなかったので、この映画に関してだけの印象だったんでしょうか。

☆ ☆ ☆

斜視で弱視だったメイは子供の頃を、斜視を隠すためのアイパッチをつけて過ごすような生活だったので、周囲の子供からは奇異に見られ、内気な性格も原因となって友達に恵まれずに、両親から誕生日祝いに貰った人形スージーだけが、しかもこんなものを親が娘に与えるか?というほど不気味な人形だけが友達だった。
メイは大きくなってから動物病院に就職する。裁縫が得意で、自分の着る洋服も手作りしてるほどの裁縫の腕は動物病院の手術の際にも発揮されて、院長からも重宝されていた。
動物病院には同僚のポリー(アンナ・ファリス)もいて、レズビアンのポリーはその性癖のせいなのか、内気なメイにも仲良く接してくれていた。
そんなある日、メイは街中を歩いていて、手の綺麗な青年アダム(ジェレミー・シスト)を見て一目ぼれしてしまう。
偶然のきっかけでメイはアダムと知り合うことになる。

生まれて初めて恋人ができて、職場には仲良しの友達がいる幸せな毎日を、メイは過ごすことになった。
ところが、普段人形と話して生活するようなメイの行動は、普通に見ると行きすぎ、逸脱してるように見えるものも多くて、そういう非日常的な行為を目にするたびに、親密になった人は遠ざかっていくことになった。
アダムは別の女を作り、ポリーも別の友達を作って、次第にメイと距離を置いていく。その距離を埋めようとするメイの行動が、アダムたちにはさらにうとましいものに感じられて、メイが努力すればするほどメイとの距離は拡がっていくばかりだった。
アダムとの距離が離れていく一方なのを自覚したメイはやがて、友達になってくれないなら、自分の手で友達を作ればいいんだと決心する。

メイは理想の友達を自分で作るために、アダムからは綺麗な手を、ポリーからは綺麗な首を、ポリーの新しいレズビアン相手からは綺麗な足を貰ってくることにした。

☆ ☆ ☆

全体的には閉塞感に満ちた映画とでも云えるんでしょうか。

メイに人形を与えた両親は子供の時の誕生日のシーンに出てくるだけで、あとは最後まで出てきません。
メイの個的な領域内に入ってる要素は、メイが大人になってからはその人形だけになり、両親は消滅して、他のものは全部メイの外側にあるものとなっています。
子供の頃のシーンで両親はメイの個的領域を外側に拡張する存在でしたが、大人になってからの物語では綺麗に排除された結果、メイの領域は風通しの穴さえも開いてないような状態に変化しています。

メイの領域を閉じたものにするために両親の存在はいらない、両親が退場した理由はメイの内的な領域の物語には不必要なので描写しないと、両親に関してはこういう感じの扱いだったんだろうと思うんだけど、ある意味物凄く割り切った作り方をしてるという感じです。

メイのこういう状態を当人の視点で描いていくので、当然の事ながら映画の世界は完全に閉じた印象として観ている側に入ってきます。全く嫌になるほどの孤独に関する映画。

両親が確保してくれていた外界との通路を再び自分で手探りで捜し求めなければならない過程を描写して、そういう部分は青春映画的なんですが、不器用でそんな通路など何をしても見つけることも出来ずに、自らの閉じた領域内で妄想を紡ぎだし、しだいに壊れていく後半は青春映画の形のままでホラーに傾斜していきます。
メイの内的な領域は最後まで閉じていて、孤独なままなのは変わらず、というより一度はアダムとの間に通路が開けたように見えた分、孤独はそれ以前よりも凶悪さを増していて、そういう凶悪な孤独に苛まれてメイが狂っていく過程からは、思いのほか痛々しい印象を受けます。

☆ ☆ ☆

ホラー映画だと思って観始め、前半の意外なほどの青春映画の部分に拍子抜けして観ていたら終盤はスプラッターものに変化します。メイは関わった人を次々と殺して、理想の人形つくりのために、その人の体の中で自分が気に入ってたパーツを切り取っていきます。
メイはそうやって切り取った友達のパーツを縫い合わせて人肉人形を作り上げていくんだけれど、その人形は腕と首と足以外は布で出来た作り物。布で作った顔の造作は異様で面白かったものの、全体はボロ布を纏った人が寝てるだけみたいな造形です。
でもこの時点でメイは完全に狂ってしまっていて、全部が人肉で出来てる人形を作ろうとする考えよりも、布と人肉が同居していても全く平気という感覚の方が狂ったメイには相応しいもののようでした。

布と肉の混合物という見るからに常軌を逸した異形のものに、メイは最後にあるものを与えます。その人形の最後のパーツとしてメイが与えたものはグロテスク極まりないものなのに、ここにきて妙に切なさが残るんですよね。グロから連動していく感情としては、感じた自分でもとても意外なものでした。
この最後のパーツのシーンはちょっと上手かったかな。

☆ ☆ ☆

物語的には、友達になろうと努力してる前半と、理想の友達作りのために相手を殺しても構わないという壊れてしまった後半との間にある落差が凄くて、これをうまく乗り越せるかどうかが、脚本、演出の腕の見せ所だったんですが、この辺はちょっと荷が重すぎたのか、メイの内的な変化を丹念に追ってこの深遠ともいえる落差をスムーズに移行させるのではなく、状況でその落差を目立たなくしていく方法をとってました。
動物病院に勤めてるから死体の扱いには馴れてる、裁縫が得意だから集めた友達のパーツを苦もなく縫い合わせることが出来る、部屋中にばらばらになった人形が散らばってるなど、一旦狂ってしまえばそういう発想に進んでもおかしくないキャラクターとして、その状態に繋がっていくものを物語の前半にばら撒いてるんですよね。この辺はちょっと安易だったかなという感じでした。状況で目立たなくさせるんじゃなくて、脚本と演出の力で変化をきちんと見せて欲しかったです。

☆ ☆ ☆

痛々しさを表現してメイを演じたアンジェラ・ベティスはまさに適役という印象でした。線が細くてまるで弱弱しく見える外観なのに、そのくせ外界からは頑なにガードしてる姿勢は崩さず、他者と向かい合う部分は傷口が露出してるようなひりひりする感覚まで伝わってくる感じで好演してます。
劇中弱視用の遠視タイプの眼鏡をかけていて、見た感じ度が入ってるのが良く分かる眼鏡なのに、平気で動き回ってるのはちょっと吃驚しました。こんなの必要でもないのにかけていたら、あっという間に気分悪くなってくるはずなのに。

☆ ☆ ☆

MAY メイMAY メイ
(2004/09/24)
アンジェラ・ベティスジェレミー・シスト

商品詳細を見る


MAY Trailer


原題 MAY
監督 Edward “Lucky” McKee
公開 2002年


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【洋画】 ラトルズ 4人もアイドル!

原題は「THE RUTLES in ALL YOU NEED IS CASH」なんですが、日本語のタイトルもふざけていて良いです。
わたしが最初にラトルズを知ったのは輸入盤のLPレコードで、音のほうがまず最初でした。
音だけが自分の見聞きできる範囲に登場したので、映像はその時はまだ日本で紹介されてないと思っていたんですが、実際は78年に東京12チャンネルで深夜に日本語吹き替えで放送されていたそうです。
それと今は「ラトルズ」と呼んでるけど、最初は確か「ルートルズ」と呼んでいたはず。
ビートルズとの類似性を強調するなら、「ルートルズ」の方が良いと思うんだけど、映像の中では「ラトルズ」と云ってるので、正確には「ラトルズ」で良いんでしょう。本家がカブトムシならこちらはネズミという感じになってます。

題名からも分かるとおり、ビートルズへのパスティーシュで、架空のバンド「ザ・ラトルズ」を主役にして、ビートルズの成功物語とビートルズがリリースした楽曲を、そのままナンセンスなギャグを散りばめて再構成した映像作品です。

☆ ☆ ☆

70年代中頃にイギリスのコメディ番組「RUTLAND WEEKEND TELEVISION」のなかで、コメディ集団であるモンティ・パイソン・メンバーのエリック・アイドル(Eric Idle)や、ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドのニール・イネス(Neil Innes)らがビートルズのパロディとして演じたバンド「ザ・ラトルズ」が元になってます。

そしてほぼ同時期、エリック・アイドルがアメリカのコメディ番組サタデー・ナイト・ライブ(SATURDAY NIGHT LIVE)でラトルズを紹介したのを、プロデューサーが気に入ってしまったのがきっかけで、サタデー・ナイト・ライブの特別番組としてラトルズの成功物語を作るプロジェクトが発足することに。
その結果できあがったTV番組がこの「ラトルズ 4人もアイドル!」です。

☆ ☆ ☆

ラトルズ カヴァー
これがラトルズ・メンバー。 左からダーク・マックィックリー/ポール・マッカートニー(エリック・アイドル)、バリー・ウォム/リンゴ・スター(ジョン・ハルシー)、スティッグ・オハラ/ジョージ・ハリスン(リッキー・ファター)、最後がロン・ナスティ/ジョン・レノン(ニール・イネス)。

名前は似せようとはしてないようですね。
見た目は…これのどこがビートルズ?っていう感じなんですが、一応コメディなので。
でも歌ってる時の動作とか雰囲気は結構ビートルズを彷彿とさせる部分もあります。エリック・アイドルのポールと二ール・イネスのジョンは似せるために仕草とか相当研究したらしくて、わたしとしては二ール・イネス扮するジョン・レノンが動き出すと予想以上にジョンそっくりだったので面白かったです。

解散後のラトルズの行方こそビートルズが辿った道筋とは変えてありましたが、映画(厳密に云うとTV番組で、映画ではないんだけど)は、エリック・アイドル扮するナレーターの進行で、実際のビートルズのサクセス・ストーリーをそっくり辿っていきます。
マックィックリーとナスティの出会いから、キャバーン・クラブ、ハンブルグ公演、デビューと、ビートルズ好きには周知のエピソードが、残された写真とか、ラトルズに置き換えてそっくりに真似た物を使って次々と目の前に現れます。

実際のところコメディと云っても、誰もが無条件で大笑いできるものかと云えば、そういう仕上がり方でもなくて、もとのビートルズの物語を知ってると、ふざけ具合が良く分かってくすくす笑える程度のものでした。
たとえば静かなビートルズと称されていたジョージ役のスティッグ・オハラには歌ってる以外に台詞が一言もありません。
静かにも程があるっていう話なんですが、こんなのジョージの性癖を知らなければ、仕掛けられても分からないです。

☆ ☆ ☆

この映画、とにかく画面の中のものをビートルズそっくりに仕上げることに徹底して神経を使ってるのが見物なんですよね。ビートルズがリリースしたアルバムにそっくりな、いちいち細かいところで微妙にふざけたラトルズ・リリースのアルバムもきちんと用意してるし。

カヴァー2

tht

sr
( ビートルズの方はアビーロードのジャケット写真でポールが靴を履いてないことから、当時それが死を意味するとしてポール死亡説が流れました。ラトルズの場合は、ジョージがズボンを穿いてない事から、ジョージ死亡説が流れます )


アルバム・ジャケットだけじゃなくて、映画のなかで実際に演奏した曲も飛びっきり良く出来てました。
曲のタイプは2種類で、ビートルズの元歌を巧妙に弄くってどこか関節が外れたような具合に仕上げたタイプと、ラトルズ完全オリジナルで、いかにもビートルズだったら作りそうなタイプの曲。
ラトルズの音楽を手がけたのはレノン役のニール・イネスでこの人はコメディアンでも有るんですが、れっきとしたミュージシャンでもあって、ビートルズの「マジカル・ミステリ・ツアー」にも出演してピアノを弾いてるそうです。
この映画での音楽担当でグラミー賞のコメディ音楽録音部門にノミネート。ラトルズの音楽はコメディの付け足しみたいなものじゃなくて、完成度は非常に高いです。特にビートルズだったらいかにも作りそうなオリジナル曲の出来具合は特筆ものでした。

☆ ☆ ☆

あとカメオ出演っていうのか、劇中の脇役から本人として登場するタイプまで、いろんな人が出てました。ミック・ジャガー、ポール・サイモン、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、ビル・マーレーなど。
面白いのはジョージ・ハリソンまでがインタビュアーの役で出てるんですよね。なかなか茶目っ気があるというか。

☆ ☆ ☆

ラトルズ4人もアイドル!ラトルズ4人もアイドル!
(2005/11/23)
ザ・ラトルズ

商品詳細を見る


四人もアイドル(紙ジャケ仕様)四人もアイドル(紙ジャケ仕様)
(2007/01/25)
ザ・ラトルズ

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先に書いたように、音楽だけ纏めたものがリリースされてます。
これはLPの時のジャケットを再現したものです。わたしの持ってるCDは上のほうのメンバー写真としてスキャンしたタイプなんですが、こちらの方が良いなぁ。


原題 THE RUTLES in ALL YOU NEED IS CASH
監督 Eric Idle & Gary Weis
公開 1978年

☆ ☆ ☆

I Must Be In Love - The Rutles



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↓動画とジャケット画像がもう少しあります↓
  さらに、2曲追加してます。

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【洋楽】 We Started Nothing - The Ting Tings

ザ・ティン・ティンズ…

それにしても、日本人にはなんとも過激に聞こえるバンド名だこと。

本来は中国語の「聴く」っていう意味の単語から取ったものと云ってるらしいけど、もっともらしい分、これは本当のことだかどうだか怪しいものです。あとで適当にくっつけた理由という雰囲気が結構漂ってきます。ボーカルのケイティ・ホワイト(Katie White)はこの名前が日本ではどういう意味なのか知っていてやってる、というインタビューもありました。

06年にイギリス、マンチェスターで結成。マンチェスターと云えば80年代後半、かつてのリバプールのようにUKロックの本拠地みたいになっていた所ですが、中心に居たファクトリー・レコードが破産した後、今でもそういう余力みたいなのはある場所なんでしょうか。
The Ting Tingsはそういう場所から出てきた、ボーカル、ギターのケイティ・ホワイトと、ドラムのジュールズ・デ・マルティーノ(Jules De Martino)の2人組みのユニットということになります。地元で人気に火がついて、人気は口コミで広がって行きました。
瞬く間に業界の注目を集めて、メジャー各社が争奪戦を始めることになり、結果英国と米国2カ国と直接の原盤契約を結ぶことになります。これは前代未聞のことだったそうです。

このアルバムは今年出たアルバムで、物凄く新しい。iPodのコマーシャル曲にも使われていて、そういうのは今が旬のバンドっていうのを保障しているみたいです。

☆ ☆ ☆

曲目はこういうの。

1. Great DJ
2. That's Not My Name
3. Fruit Machine
4. Traffic Light
5. Shut Up and Let Me Go
6. Keep Your Head
7. Be The One
8. We Walk
9. Impacilla Carpisung
10. We Started Nothing

一番長い曲で6分ほど。あとは3分程度の曲が並んで、アルバム全体は大体30分を少し越えるくらいで聴き終えてしまえる、コンパクトな分量になっています。

音の感じは、エレクトロ・ポップ、パワー・ポップといったところでしょうか。結構キャッチーでキュートなポップ・チューンなんですが、ふわふわ柔らかくて甘いもので綺麗に覆われてるかと云えば、かなりソリッドで、余計なものをそぎ落としたかのような鋭角的な音を堪能させてくれます。キュートさとソリッド感の微妙なバランスが面白いです。
2人組みのユニットで、余計なものをそぎ落とした音なんて云うと、物凄くシンプルな音楽をイメージするかもしれませんが、たしかにごたごたと飾り立ててるような感じはないんだけど、音自体にソリッド感が利いてるだけで、音数はそれなりに複雑に組み込まれてるという印象はあります。

ケイティ・ホワイトのボーカルが、こういうのはパーカッシヴとは云わないのかな、メロディを歌うというよりもリズムを歌ってます。これがまた、パワフルで結構かっこいいです。ドラムも基本ビートに煽り感を加えてリズムを叩き出してるんだけど、リズム・ボーカルとでも云うようなケイティ・ホワイトの歌声がさらにドライブ感を付け加えてるんですよね。ちょっと麻薬的かも。

わたしは「ブロンディ」だとか「シンディ・ローパー」だとか、そういう辺りに連想が働きました。

☆ ☆ ☆

We Started NothingWe Started Nothing
(2008/06/03)
The Ting Tings

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☆ ☆ ☆

Shut Up And Let Me Go - The Ting Tings


That's Not My Name - The Ting Tings




【洋画】 AVP2 エイリアンズVS. プレデター

「AVP2 エイリアンズVS. プレデター」ということで、前作が終わったところからきっちりと繋げるように物語は始まります。とは云っても前作とは全く関係のない物語へと展開していきますので、お話としては完全に独立してます。今回の売りは「プレデリアン」。エイリアンとプレデターの両方の力を備えたモンスターが出てきます。

前作で亡くなったプレデターの遺体を回収して去っていくプレデターの宇宙船内。
冒頭のシーンで遺体安置室に置かれたプレデターの遺体の胸を破って、「チェスト・バスター」が飛び出してきます。このプレデターはエイリアンとの戦いの途中、エイリアンに寄生されていたというわけです。
プレデターの遺体から飛び出したチェスト・バスターは、その口元がプレデターのように開く構造を持っていて、これが両方の血を受け継いだ「プレデリアン」誕生となりました。

ところで、エイリアンはプレデターに寄生しただけで苦もなく両者の混合体「プレデリアン」として生まれてきたのに、今までの成り行きでは、人に寄生した場合は人型エイリアンにはならなかったんですよね。
なぜなんでしょう?

わたしはあの長い頭部の先に人の顔がついてるようなエイリアンとか観てみたいのに。

☆ ☆ ☆

プレデリアンによって乗組員を殺されたプレデターの小型宇宙船が地球に不時着、プレデリアンと小型艇のなかで生きて捕獲されていたフェイス・ハガー(尻尾のある巨大蜘蛛のような形態のやつ)が、宇宙船の墜落したコロラドの田舎町にばら撒かれることになります。そしてその事情を知り、エイリアン駆除を目的に、後を追うようにして同じその田舎町へ降り立つのがプレデター戦士ザ・クリーナー1人。

今回の映画はエイリアンの方は複数のエイリアンとプレデリアン(以下、面倒臭いので全部プレデリアンで統一します)が登場するものの、プレデターの方はこの1体のみ。この複数のプレデリアンと一人のプレデター戦士がコロラドの田舎町を壊滅させる話です。

自分の町をプレデリアンとプレデター戦士ザ・クリーナーの戦場にされてしまって、逃げ惑う人間側は、結構人数が多いです。
キャラクター付けされてるけど、明らかにプレデリアンが襲う形を見せるためだけに用意されてるキャラクター以外だと、警官のエディ(ジョン・オースティン)のラインでは刑務所帰りでエディのもとにやってきたダラス(スティーヴン・パスカル)と町では若干問題児扱いになってる弟のリッキー(ジョニー・ルイス)その恋人ジェシー(クリスティン・ヘイガー)、ジェシーを間に挟んでリッキーと反目してる男デール(デヴィッド・パートコー)とその仲間。

もう一つ軍隊帰りの女性兵士ケリー(レイコ・エイルスワース)とその娘モリー(アリエル・ゲイド)のラインもあります。父親はプレデリアン襲撃であっけなく退場し、警官のエディたちと合流するまでは母娘だけのサバイバルとなって、こちらはリプリーとニュートのような扱いなのかと思えば、特にそういうキャラクターを思い出させるものでもありませんでした。
こういう登場人物たちがプレデリアンとザ・クリーナーの破壊行動の最中を、ひたすら逃げまくります。
多人数の登場人物のわりに人の動かし方は整理されていて分かりやすい物語になっていました。

☆ ☆ ☆

映画はプレデター・パートと人間パートの2つの層で成り立ってるんですが、この2つの層はプレデリアンを中継にする部分以外は、映画の中でほとんど交わりません。水と油といえば、混ぜ合わそうと思って混ざらないニュアンスも若干ありそうなので、そういう感じでもなく、最初から両方の層とも交わる気がないというか、そんな感じで進行します。
プレデター戦士ザ・クリーナーはコロラドの田舎町に降り立って破壊の限りを尽くすんですが、人間は全く眼中にありません。ザ・クリーナーの目的はプレデリアンを殲滅することと不時着船に残ってるプレデターや自らの行為の痕跡をプレデリアン共々完全に消し去ってしまうこと。これで全部。

武器を持ってる人間は戦闘意志ありと見做して問答無用で殺してしまう以外、人がどこで何をしていようがその辺に転がってる石ころと扱いは大して変わらず、熱源として視覚に入って認識はしてるけれど、能動的に何かの行動を取って関わろうとはしません。

人間側のほうは、最初から最後まで町を破壊しつくそうとしてる者の正体が分からない。何だか巨大で物々しい異形の者たちが常軌を逸した破壊を続けてるという認識からほとんど出ない状態で、要するに訳が分からないままに最後まで逃げ回ってるだけ。

しかもこの、寄り添いはしてるけれどお互いにそっぽを向いていて、交わる気のない2つの層の内、映画は半ばプレデターの物語を基本において作ってるような部分があるんですよね。

冒頭からコロラドへ墜落するまでは明らかにプレデターの物語として語られます。この部分はプレデターが喋らないために、もちろんプレデリアンも喋ったりはしないので、完全に無言劇!考えてみれば凄い作り方をしてます。暫らくは言葉で説明されない、プレデターの動作だけを見て何が起こってるのか理解しなければならない映画なんですから。もちろんこのシークエンスだけじゃなく、人間パートが併走し始めても、ザ・クリーナーとプレデリアンの部分は無言劇から意味を汲み取らなければならないのは全く同じです。

ザ・クリーナーの行動に重心を寄りかからせるような映画の画面作りをしていくために、ザ・クリーナーが全く無視してる人間の存在は、映画としてはこちらのほうが普通に物語として有るのに、半ば周辺に追いやられてるような感じの扱いになっている部分も出てきます。

本来なら中心にあるものが必ずしも中心に据えられずに進む物語というか、考えようによっては、かなり奇妙な手触りの映画でした。

☆ ☆ ☆

暫らく観ていて、ポール・アンダーソンにしては大音響驚愕演出が出てこないなぁと、多少は改心したのかなと思ってたら、この映画はポール・アンダーソンが監督したんじゃなくて、監督交代してるんですね。
そのせいなのか、生きたままエイリアンの酸で顔が溶けていくシーンだとか、プレデターの銃で一瞬にして人の頭が吹っ飛んでしまうシーンだとか、ゴア・シーンでもちょっとリミッターが外れかけてるような過激さが垣間見える作り方をしてました。

子供もお構い無しに殺していくのもそうとう嫌な感じだったんだけど、病院に侵入したプレデリアンがベッドの上で逃げられないでいる妊婦の口へ大量の卵?を流し込むシーン、同じくベッドで動けない他の妊婦がそのおぞましい光景を見て、次は自分がやられると分かって泣き叫んでる光景など、かなり陰惨な印象でした。こういう傾向を好んで映画に盛り込んで、結果としてPG-12の年齢制限がついたようです。
モンスター同士の対決なんて子供が喜びそうな題材なのに、年齢制限で子供を締め出して大丈夫なのかと、そんなこともちょっと思ったけど、基本過激なもののほうが好きなので、どうせ作ってくれるならこういうののほうがやはり面白かったかな。

☆ ☆ ☆

この映画には実は最大の欠点があって、それは何かと云うと、暗すぎて何が写ってるのかさっぱり分からないこと。

別に誇張して云ってるわけでもなく、本当に何が写ってるのか判別できない。夜の闇の中で黒っぽいプレデターとプレデリアンが闘うわけで、しかもかっこつけて影の部分で絵を作ろうとしてるから、よけいに訳分からなくなってます。
さらに始末の悪いことに爆発の閃光とか、プレデターの暗視ゴーグル風の視界で光が入って眩しくなった次の瞬間に真っ暗な画面を出してきたりして、暗さに拍車をかけたりするんですよね。ちょっと酷すぎ。
リドリー・スコットが自らの「エイリアン」を宇宙版の「悪魔のいけにえ」だと云ったという理由で、撮影には「悪魔のいけにえ」の撮影監督を呼んできたらしいんですが、でもわざわざ呼んできた効果がこれでは何の意味もなかったようです。
監督はモンスターを全部見せきるのは愚の骨頂、見せないから良いなどと云ってるらしい。これは基本賛同する部分もあるんですが、この映画の場合、見せないにも程があるというか、プレデリアンがどんな姿だったか映画を見終わって頭の中に残ってた人ってほとんど居なかったんじゃないかと思います。
闘ってるプレデリアンがどんな姿をしてるのかもう一つ良く分からないというのは画面の暗さ以外にも、至近距離からの撮影方法を多用してるからとか、短いカット割の積み重ねでじっくりと見せないようにしてるとか、他にも要因はあったようです。ひょっとしてアクションシーンをまともに撮る自信がなかったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

AVP2 エイリアンズVS.プレデター 完全版 (初回生産分限定特典ディスク付・2枚組)AVP2 エイリアンズVS.プレデター 完全版 (初回生産分限定特典ディスク付・2枚組)
(2008/05/02)
スティーブン・パスカル

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Aliens vs Predator Requiem trailer



原題 Aliens vs. Predator - Requiem
監督 コリン・ストラウス&グレッグ・ストラウス
公開 2007年

☆ ☆ ☆

この写真↓は「AVP2」公開当時、京都はムービックス京都で公開してたんですが、そのムービックス京都の入り口に立ててあった宣伝看板です。
四角で囲まれてる中の模様は立体視画像で、この大きさの写真になってもきちんと立体視できます。
見えてくるものはプレデリアンには見えないような立体物なんですが、立体視できるなら、試してみてください。
プレデリアン立体視 Lサイズ
クリックで大きな画像 (1600×1200) が表示されます。

☆ ☆ ☆

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【ブログパーツ】 しりとりゲーム

映画、音楽の話題ではないんですが、わたしがよく遊びにお邪魔してるブロガーあすかさんのブログ、「まったりな日々のお話?」で、紹介されてたブログパーツが結構面白かったので、こちらでも紹介します。

左下に貼ってあるのがそれで、「しりとり」のブログパーツです。

やってることは単純なしりとり、このゲームだけの特別なルールもありません。
一人でやってると自分で言葉を繋いでいくだけのものになりますが、オンラインで誰でも絶えず参入できるようになってるので、誰かが遊びに加わると多人数対戦形式になります。
順番待ちしてる間に他の人のしりとりの結果で言葉がころころ変わっていくので、自分の番が来るまでのちょっとしたドキドキ感も味わえるし、しりとり自体時間制限があるので、それなりの緊張感も味わえます。
各自のキャラクターは簡単な感情表現もできるようになってるので、しりとり中の相手に拍手を送ったりすることも可能です。

単純だけど、やってみると結構面白いので、お暇な時間があれば試してみてください。

☆ ☆ ☆

画面はこんな感じです。

しりとり


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【洋画】 ニューヨーク1997

1981年公開の映画です。だからタイトルにある「1997」というのは公開当時から見て近未来の話ということなんですが、今や完全に過去を示す年号となってしまってます。
癖のある俳優というか、妙に豪華な俳優が出てる映画でもあります。わたしにとっては特に、ドナルド・プレザンス。「大脱走」の偽造屋で、ジェームス・ガーナーに助けられながらドイツ軍から逃げる役が印象に残ってる俳優です。さらにB級映画の帝王とも云うべき人でもあって、胡散臭いホラー映画なんかでよく顔を見るけれど、思いのほか堅実な印象の俳優でした。この映画では大統領役です。

☆ ☆ ☆

1997年の近未来、犯罪者の増加に頭を悩ましたアメリカは、マンハッタン島全域を監獄にして、そこに犯罪者を放り込んで隔離するという方針をとっていた。マンハッタン島の周囲は高い壁で覆われ、島から壁に向かう道路には爆薬が仕掛けてあって、一度この監獄に放り込まれれば逃げ出すのは不可能。壁の内部は犯罪者による治外法権の場所となっていた。

そういう状態の島に大統領の乗る専用機が墜落、大統領は命は取り留めたものの、このマンハッタン監獄に一人放り出されることになる。
マンハッタン監獄を牛耳る犯罪者デューク(アイザック・ヘイズ)は墜落した大統領を捕まえ、その捕まえた大統領を使って、監獄からの解放を要求してきた。
サミット終了までに大統領を救い出さなければならないため、特殊部隊司令官のボブ・ホーク(リー・ヴァン・クリーフ)は昔の同僚で今は犯罪者になってしまってるスネーク・プリスキン(カート・ラッセル)を呼び寄せ、今までの罪を帳消しにすることを条件に大統領救出の任務を与えた。
スネークは感染防止薬の注射と偽られて首に爆薬を埋め込まれ、サミット終了というタイムリミットまでに任務をやり遂げられなければ埋め込まれた爆薬が爆発するという条件で、たった一人、犯罪者の巣窟となってしまったマンハッタン島にグライダーで降り立つことになる。爆発までのタイムリミットは22時間。

島に降り立ったスネークは島を流してる運転手キャビー(アーネスト・ボーグナイン)と知り合い、そのままでは近くにも寄れないデュークに近づくために、キャビーの勧めで、デュークの傍にいることを許されてるブレイン(ハリー・ディーン・スタントン)に会いにいくことになる。

ブレイン経由でデュークの元に近づいて、大統領を発見。スネークは大統領を救出しようとするがデューク側に発覚して、囚われることになってしまう。そしてその後、捕まったスネークはリングに上げさせられて大男とのデスマッチを強要される。

デスマッチに勝利したスネークは大統領救出にも成功して、キャビー、ブレイン、その情婦マギー(エイドリアン・バーボー)とともに島を脱出しようとグライダーの直陸地点のビルの屋上に向かったものの、島の犯罪者集団によってグライダーはビルから落とされて、使い物にならなくなった。

島からの脱出ルートは爆薬だらけの道路を通って壁まで辿り着く以外には無くなってしまい、爆薬の地図を持ってるブレインを頼りにキャビーの車で壁に向かおうとするが、背後からはデュークが迫ってきていた。

☆ ☆ ☆

この映画は設定がいいんですよね。
高い壁で周囲を囲まれ、脱出不可能になってるマンハッタン島監獄だとか、マンハッタン島内部で跳梁跋扈する異形と化した犯罪者だとか、首に埋め込まれて22時間後に爆発する爆薬だとか、多勢の犯罪者対たった一人のアウトローとか、もう、いろんなものを含みこんでるようなわくわくする設定。「遊星からの物体X」も設定が上手かったし、カーペンター監督というのはそのままの状態でもこういう「物語」をいっぱい含んでるような設定で映画を撮ることが結構気にいってるのかなとも思ったりします。

それで、脚本家はこの含みの多い設定を注意深く観察して、その設定が内に持ってる「物語」を引き出せばいいだけだったんだけど、実はこの映画、この段階であまりうまく物語を引き出せていないような感じです。この魅力的な設定なのに、内容は非常にあっけない展開で終始します。

☆ ☆ ☆

ボブ・ホーク率いる強襲部隊がまず最初にマンハッタン監獄に侵入して、大統領救出を試みるんですが、そのボブ・ホークの前に現れるデュークのメッセンジャーのパンク野郎がこれまたいかれてて、切断した指をボブ・ホークらに見せ「30秒で戻らないと大統領は死ぬ」としか云わない。何の交渉も受け付けずにカウントダウンを始めるだけという相手をまえにして、ボブ・ホークの強襲部隊は引き下がる他がない。
このパンク野郎がでてくることで、観てる側はマンハッタン監獄の中の犯罪者連中のいかれ具合を予想してわくわくしてきます。どんな凶悪なやつがこれから目の前に立ち塞がってくるんだろうって。

その後、部隊で行動を起こすのは不可能と判断して、一匹狼のスネーク登場に繋がっていくんだけど、きな臭い雰囲気一杯に登場してくるスネークがたった一人で夜の中をグライダーで飛び、マンハッタン監獄に潜入した辺りは物語がどう展開していくのか固唾を呑んで画面を注視してるものの、潜入後のスネークの取る行動は何時までたっても意外とアクションすること無しに場面を移動してるだけだし、出来事も何だか希薄でなだらかに続いていくだけという感じになってくる。

たとえば、スネークがブレインに初面会するシーン。会って初めて、スネークはブレインが知り合いで、昔裏切られた人間だったことに気づきます。そういう関係だった相手だから、ひと悶着ありそうな展開なのに、昔の恨みでごたごたしそうな雰囲気だったのに、銃で脅すスネークに対してブレインは協力するのをあっさりと承諾。以後そんな確執があったとは思えないくらい一緒に協力して行動することになります。
あっさり仲間になるもんだから昔いざこざがあった人間と一緒に行動してるという違和感の描写もなく、結局それはハリー・ディーン・スタントンなんていう良い俳優を使ってながら、ブレインの人間の描写の弱さにも繋がって、あまり印象に残らないような結果になってます。

マンハッタン監獄のいかれた犯罪者も最初のパンク野郎が出てきただけで、それより凄いいかれ具合のやつなんていくら待ってもその後ちっとも出てきません。

ラストシーンの爆薬を仕掛けられた道路を車で疾走していくクライマックスも、どんなチェイス・シーンがあるかと思えば、かなり離れた位置でデュークが一人で追ってくるだけ。
手下を山のように従えて、普段は近づくことも出来ないマンハッタン島監獄のボスが、クライマックスの追跡にたった一人で繰り出してくるなんて、絵的にも寂しすぎます。

いささか古くなってしまった映画というのを割り引いても、きちんと耳を済ませていれば豊かな物語を勝手に語りだすような設定なのに、そこからうまく物語を引き出せなかった映画という印象はやはり残りました。

☆ ☆ ☆

アウトローっていうのはいつの時代でもアンチ・ヒーローみたいにかっこよく感じます。全てのしがらみ、束縛から自由な存在、なりたくても現実には絶対になれないからよけいにかっこいいんですよね。
この映画のカート・ラッセルはまさにそのアンチ・ヒーローであるアウトローそのものでした。アイ・パッチをしてる風貌からしてもうそのままアウトローを絵で書いたような感じ。
でも、なんだか演出が弱くて、スネークのアウトローぶりはかなりカート・ラッセルの存在感に頼ってたような感じがしました。

自分のこと以外は頭にないという非情ぶりも、救出した大統領に最後に問いかける言葉やカセット・テープを引きちぎった件の、妙に人情味を出したエピソードでぶれてしまった感じでした。
非情に見せながらも人間的な部分も垣間見せるというキャラクターも有りだとは思うんだけど、この映画の場合は最後だけ急に良い人になったみたいで、どうも居心地が悪い。
あと、これは演出の弱さになるのかどうか、スネークは頻繁に腕の時計を確かめるんですよね。
爆薬が爆発するまでの自分の命の時間を確かめてるのは十分に理解しながらも、残り時間気にしすぎて神経質な印象の方が勝ってしまい、スネークの屹立したアウトローぶりとはあまり上手く溶け合ってなかったような感じでした。
カート・ラッセルの存在感で見せてるけど、演出のぶれも含めて、人物造形は意外と浅い印象です。

それと、悪役デュークのキャラクターも浅かった。監獄内部のうわさでは極悪非道のようなイメージを持たせる感じだったのに、大統領を壁に立たせて銃で威嚇射撃をして遊ぶくらいで特に非道な行為もなく、悪役のキャラクターが薄いのはこういう映画ではちょっと致命的な感じでした。

リー・ヴァン・クリーフがキャラクター造形ではよく出来てた感じだったかな。「夕陽のガンマン」なんかに出てくる悪役俳優なんですが、スネークの首に爆薬を埋めるようなことを何のためらいもなくやってしまう反面、元部下のスネークを信頼してる部分も確かに併せ持っているような人物。この映画では一番キャラが立ってた人物かもしれません。

☆ ☆ ☆

ニューヨーク1997 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)ニューヨーク1997 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)
(2008/08/07)
カート・ラッセルリー・ヴァン・クリーフ

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☆ ☆ ☆

Escape From New York Original 1981 Trailer


原題 John Carpenter's Escape from New York
監督 ジョン・カーペンター
公開 1881年


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【邦楽】 黄昏のビギン、聴き比べ。

昨日、淺川マキの追加分の最後に、おまけでちあきなおみの「黄昏のビギン」を貼ってました。
Youtubeを探してた時に、いろんな人の「黄昏のビギン」があるのを知ってたので、いろいろ聴き比べるのも面白いかと思い、オリジナルも含めて5つほど浅川マキの追加曲の後ろにくっつけて貼ってみたものの、見た感じどうも収まりが悪いし、動画ばかり並んでいかにも処理が重そう。

そこで、記事を新しく一つ設けることに決定。ここに貼った動画は一時的にではありましたが、淺川マキ追加分の後ろにくっつけてたものです。

淺川マキのほうのコメントでも書いてるんですが、この歌は歌うのがかなり難しそうという感じがします。だって前川清でさえもはっきり云って上手く歌えてない。聴き比べてみると、そういう難しい歌を苦もなく歌いきってる、オリジナルの水原弘が突出して歌が上手いというのも良く分かります。

☆ ☆ ☆

黄昏のビギン - ちあきなおみ

数年前にネスカフェのコマーシャルで使ってた曲です。このちあきなおみバージョンはリメイクで、オリジナルは水原弘が歌ってます。

黄昏のビギン - 水原弘

これがオリジナル


☆ ☆ ☆


6輔+8大=14ヒット+α6輔+8大=14ヒット+α
(2006/09/06)
オムニバス弘田三枝子

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水原弘の「黄昏のビギン」は水原弘本人のCDで手に入ると思いますが、こういうのもあります。
中村八大の作品集なんですけどね。安かったので手を出したCDでした。ジャケットは眩暈がするほどダサいです。
ちなみに収録曲はこういうの。
hatidai back



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↓↓↓ 残りの聴き比べ曲はこちらです ↓↓↓

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【邦楽】 ふしあわせという名の猫 - 浅川マキ

60年代後期の頃の新宿、状況劇場や天井桟敷などのアンダーグラウンド・カルチャーの持っていた独特の雰囲気が、人の姿をして立ってるような歌手です。映画でいえば大島渚の「新宿泥棒日記」に写しとられてるような空気感。アンダーグラウンドっていうよりもアングラのほうが相応しいかな。
もっとも当時の新宿なんて行った事もなければ、アングラをそのまま体験したこともないので、大きなことも云えないんですが。

寺山修司に見出され、68年に新宿の「蠍座」でワンマン公演をしたのが人に知られるきっかけ。あとは口コミで拡がり、知名度が上がっていったそうです。

この「ふしあわせという名の猫」が淺川マキのデビューだと思ってたんだけど、調べてみたらデビュー曲は別にあるようです。一般に知られるようになるのはセカンドの「夜が明けたら」くらいからなのかな。それで「ふしあわせという名の猫」は3枚目のEP「ちっちゃな時から」のB面でした。

70年前後の時代の雰囲気そのままの人なので、時代は移り過ぎて、懐メロみたいな企画で出てこれるようなタイプの歌手でもないから、すっかり消えてしまったと思ってたら、新譜こそ10年くらいは出してないけど、歌手活動は今も続けてるそうです。

☆ ☆ ☆

元はビリー・ホリディとかのジャズやゴスペルのようなスタイルから出発して、適度に歌謡曲の雰囲気も織り込んだ結果、新宿アングラ的な風貌に仕上がってるような、そんな感じの歌を歌ってる人のように思えます。
いつも黒尽くめの衣装を着て、とにかく「黒」という印象の歌手です。

「ふしあわせという名の猫」は内容はボッサ的な浮遊感や、どこかほの明るい感触があって、どちらかというと土臭かったり、暗く淀んだようなのが多い淺川マキの歌のなかでは、他とはちょっとニュアンスが異なった印象を持って好きな曲になってます。
確かこの歌、作詞が寺山修司だったような。

☆ ☆ ☆

ふしあわせという名の猫 - 浅川マキ










2017年1月変更、補講。

【洋画】 ウィッカーマン(BlogPet)

薄荷グリーンの「【洋画】 ウィッカーマン」のまねしてかいてみるね

観られるわけでイギリスで、白昼夢の信仰の中での机のキリスト教以前の背後から不気味な感触です!!
一応扱いはあくまでも日常のキリスト教以前のことな歌を「エクソシスト」みたいに置いてる住人は、白昼夢の机のは容易に進む映画、でも十分に終わったので、糸でフィルムの皮の途中でイギリスでいうなら、同じく青空を受賞します。

*このエントリは、ブログペットの「こめっと」が書きました。

【洋画】 ウィッカーマン

観たのは1973年のオリジナル版のほうです。

ウィッカーマンというのがある装置の名前で、民俗学でもかじっていて、それがどういうものか知っていたなら、結末は容易に想像がつくと云う、タイトルとしては実に大胆なつけ方をした映画です。

一応扱いはホラーなんですが、ちっとも怖くないのも吃驚します。

この映画は容易に観られないという状況も重なって、カルト化してました。
フィルムの辿った道筋はちょっと調べてみると、まるで「メトロポリス」そっくり。

出来上がった2時間のフィルムを、撮影中にEMIに買収された、制作のブリティッシュ・ライオン社からの指示で20分ほどカットしたディレクターズ・カット版でイギリス公開、アメリカ公開のためにハリウッドのプロデューサー、ロジャー・コーマンに意見を聞いて更にカットして、最終的には87分のフィルムになったそうです。しかもアメリカでの公開はドライブ・イン・シアターでの2本立て興行に終わったとか。
その後オリジナルのネガまで破棄されてしまって、もうこの映画を観るのは不可能と思われてたら、ロジャー・コーマンのもとに送った、20分カットした99分のディレクターズカットのフィルムが発見されることになります。
カットにつぐカットでフィルムが散逸した結果オリジナルを観るのが不可能となった「メトロポリス」のように、全長版の発見はほぼ不可能みたいですが今はこの99分のディレクターズカット版を元にしたものが観られるようになってます。
それと、後年ニコラス・ケイジ主演でリメイクされてるんですが、これは評判悪いみたいですね。

ちなみに73年のパリ・ファンタスティック映画祭ではグランプリを受賞してるそうです。

☆ ☆ ☆

物語はシンプルです。ホラーとして成立してる映画ですが、でも物語のタイプとしてはミステリーなんですよね、この映画。

ニール・ハウイー巡査部長(エドワード・ウッドワード)は行方不明の少女ローワンの探索を依頼されて、少女の住んでいる西スコットランドにある孤島、サマーアイル島にやってきた。
島は領主サマーアイル卿(クリストファー・リー)によって支配されてる排他的な雰囲気の土地だった。島に上陸して港にいた島民にローワンのことを尋ねてみるとそんな娘は知らないと云ったり、亡くなったと云ったり要領を得ない。
調査のために宿を取る目的で酒場に立ち寄れば、集まってる住人は人前で平気で卑猥な歌を歌ってる。島を散策してみれば、平原で複数のカップルが隠れもせずに野外セックスをしてるのに出くわすし、学校では少女たちをまえにして男根信仰について教えている。
島はキリスト教以前の古代宗教が普及、支配しているようで、サマーアイル卿によれば、農学者だった祖父の代に土着の宗教を利用して島民を鼓舞し、土地に適合した作物を特産品にしたということで、それ以来古代の宗教が島民を支配し続けてるらしかった。厳格なキリスト教信者だったハウイー巡査部長には島の風土はモラルが崩壊したものにしか見えなかった。

「五月祭」が近づき儀式の準備であわただしくなってくるなかでの捜査はなかなか進まず、そうこうしてるうちにローワンの墓を発見。サマーアイル卿から墓を掘り返す許可を貰って、開いてみれば棺の中に入っていたのはローワンの遺体ではなくてうさぎの死骸だった。
ローワンは去年の感謝祭の主役で、今年、島は不作になってる。不作の時の「五月祭」にはいけにえが捧げられるということを知って、ハウイー巡査部長はローワンがまだどこかで生きていて、間もなく始まる「五月祭」のいけにえにされると確信し始める。

☆ ☆ ☆

観た感じ、ホラーと云うより、どちらかというとオカルトものに近いような感触です。でも「エクソシスト」みたいに派手な悪魔憑きが観られるわけでもなく、当然のことながら殺人鬼もモンスターも出てきません。
物語を進めてるのはハウイー巡査部長役のエドワード・ウッドワードと、クリストファー・リーのほとんど2人で、あとは島民のみというシンプルな人間構成。シンプルな人間構成を元にして基本はあくまでも日常的なものを踏み外さずに進む映画でした。

ハリウッド映画を見慣れていれば、抑制が効き過ぎてるというかなんともメリハリのない演出に見えます。たとえば2人の人物が会話するようなシーンで、画面の左右の端に2人を置いて、左右から会話させるという構図を固定した画面で撮影したりする。
ハリウッドのやり方が全てとは云わないけど、こういうタイプの映画を見慣れないと、動きに乏しい映画と見えてしまうかもしれません。

この映画、殺人鬼やモンスターが出てこない代わりに、日常の風景に半身を置いたまま、もう片側を幻覚に置いてるようなイメージが出てきます。
日常的なものを踏み外さない物語の中に置かれると、こういう白昼夢のようなイメージは結構際立って見える部分もありました。
たとえば喉の痛みをとるために子供の口に生きたカエルを突っ込む母親、カエルが喉の痛みを吸い取ってくれるらしいんだけど、子供はカエルを頬張らされて「不味い」って云います。
他にも「五月祭」が近づいて村人がかぶり始める動物のマスクだとか、祭の途中で六芒星の形に組合わせた鋏の間に頭を突っ込む儀式だとか、ローワンの学校の机の中で、糸で釘に止められて、釘の周りを回り続ける昆虫だとか、墓の前に吊り下げられてる亡くなった人の皮の一部とか、少しづつ、ずれを含んでるようなイメージが時折出てきて、ハウイー巡査部長のミステリー物語の背後から不気味な印象を伝えてくるようです。こういう感じはホラー的だったのかも。

音楽も異様でした。
ギターで歌われる、ほとんどフォーク・ソングみたいな音楽で、白昼夢のようなものを隠し持ってるどことなく不穏な物語に、のどかに被さってきます。ホラーものなのにのどか過ぎて力が抜けてしまいそうな歌。
さらに音楽が出てくる時は大抵、画面に出てる誰かが歌ってるので、この映画の一部はある意味ミュージカル風とも云えるんですが、ミュージカル風というのが全体への異化効果を狙ってたんだとすれば、大成功だったと思います。

☆ ☆ ☆

宗教的な内容に関しては、頑迷なキリスト教信者であるハウイー巡査部長が異文化的な宗教を前にして、それでも自分のキリスト教的な信仰を曲げずに物事に当たろうとする時の当惑だとか、異教によって自分の信仰が相対化されそうになっていくことへの恐怖とか、そういったものがテーマなんだろうと思います。
観客のキリスト教信者はハウイー巡査部長と同調して、自分の持つ価値基準が絶対じゃないとか、信仰の揺らぎみたいなのを疑似体験して恐怖を感じるっていうことなんでしょうか。
この辺りはやはりキリスト教信者でないとその困惑や恐怖も分からないというのが正直な感想です。

ハウイー巡査部長が代表するキリスト教と云う正統の極致にあるものに対して、サマーアイル卿が体現してるセックス狂いの邪教をぶつけて、最後は邪教に勝利させるという結末に持っていくんですが、キリスト教の勝利にしなかったのがこの映画がカルトであることの証明でもあるんでしょう。

☆ ☆ ☆

ラストシーンは、これは公開当時観た人にとっては衝撃的だったと思うし、この物語の流れでも十分衝撃力を持って締めくくってるとは思うんですが、残念なことに最近同様のことを「サイレントヒル」が更に過激にやってしまったので、今更これを観ても、あまり衝撃としては伝わってこなかったです。ただ、幻想的と云う文脈でいうなら、青空を背景にして屹立してる「ウィッカーマン」は十分に異様だったし、同じく青空を背景にして燃え上がってる光景も幻想的といってもいいものだと思います。

☆ ☆ ☆

クリストファー・リーが、妙にさっぱりした青年風のイメージで出てきます。これだけでも結構意外なのに、クライマックスの五月祭の時はなんと女装して、のどかで陽気で不気味な祭の最中に踊りまくります。ドラキュラ伯爵であり、スター・ウォーズのあの重厚な人がこういうことをするのが観られるのは、ひょっとしてこの映画だけ?
さらにクリストファー・リーもこの映画の中で歌を歌うんですが、結構渋い声で上手いんですよね。こんな芸も持ってるとは思ってもいませんでした。

☆ ☆ ☆

ウィッカーマン (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)ウィッカーマン (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第4弾)
(2008/08/07)
エドワード・ウッドワードクリストファー・リー

商品詳細を見る


The Wicker Man - Trailer



原題 The Wicker Man
監督 ロビン・ハーディ
公開 オリジナルのイギリスでの公開は1973年 日本での公開は1998年


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