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【洋楽】 Blame It on the Bossa Nova - Eydie Gorme

イーディ・ゴーメの曲は去年クリスマス・ソングの記事を書いた時に一曲取り上げてます。だから今回で記事にするのは2回目です。
わたしはこの人の歌声、かなり好きなんですよね。わたしの中では女性ヴォーカリストのオールタイム・ベスト5でもリストアップすれば、もう確実にランクインするくらいお気に入りの歌声だったりします。
でも世評はどうかと云えば、忘れ去られた歌手という感じでもないんですが、知っている人の間では普通に知られてるものの、そこからもう新しいリスナーへとあまり広がっていかないような位置に落ち着いてる歌手というかそんな感じがします。
わたしがCDを漁りに行く、京都河原町、ファッションビル「オーパ」8Fにある「タワー・レコード」では、イーディ・ゴーメの名前で区切った棚もなく、ジャズ・ヴォーカルのコーナー、「E」の棚に他の雑多なCDと一緒に入れてあるだけ、京都の老舗CD、楽器ショップ「十字屋」でも扱いは大して変わりません。
かなりお気に入りの歌手だけに、この扱いはちょっと残念です。
ついでに書いておくと、ブログ村のトラックバック・コミュニティにイーディ・ゴーメ専用のものを見つけたんですが、参加者はコミュニティを立ち上げた人一人、それも05年から放置されたままでした。

☆ ☆ ☆

1931年生まれで、本名はイーディ・ゴルメザーノ(Edith Gormezano)。
イーディ・ゴーメ自身はニューヨークのブロンクス生まれですが、両親はスパニッシュ系のトルコ人だったそうです。こういう血筋がラテン系の歌を得意とする要因になっているのか、イーディ・ゴーメのアルバムにはトリオ・ロス・パンチョスと共演したものもあります。ちなみにブロンクスの高校時代にはスタンリー・キューブリックもいたとか。
英語とスペイン語の両方が喋れるという特技を生かして、国連の通訳になります。そして通訳の側、トミー・タッカー楽団などのビッグ・バンド専属の歌手として音楽活動を始めます。
53年にショー・ビジネス業界の実力者スティーブ・アレンのオーディションを受け、スティーブ・アレン・ショーなどのレギュラーで活躍。57年に男性歌手スティーブ・ローレンスと結婚し、その後はソロ以外にも夫婦のデュオとしても活動することになります。スティーヴ・ローレンスは59年のPretty Blue Eyes(恋のブルー・アイズ)や60年のFootsteps(悲しき足音)などで人気があった歌手です。
60年にはスティーブ・ローレンスとのデュオがベストヴォーカルグループとして、67年にはイーディ・ゴーメ自身が女性のベストヴォーカルパフォーマンスとしてグラミー賞を受賞しています。
さらに最近では映画「オーシャンズ11」に夫婦揃って当人役で出演してます。

イーディ・ゴーメは、CDはジャズヴォーカルの棚においてあるものの、フェイクしまくって原曲の旋律が分からなくなってるとか、面妖なスキャットに拡張していくとか、そういう所謂ジャズっぽい歌い方とは全く対極にあるようなスタイルで歌う歌手です。
対極にあるといってもささやき声で終始するようなタイプではなくて、歌い上げていくタイプの歌手ではあるんですが、実に堂々と歌い上げていっても、フェイクするような方向には走らずに、その歌は抑制が効いていて、曲の形に合わせて盛り上げるところは盛り上げ、穏やかな曲線を描いてるところでは繊細に寄り添うように様々にコントロールされて、理想的な歌の形を作り上げていきます。ちょっと聴いただけでも分かるくらい、イーディ・ゴーメのこういう自在に制御していく歌い方はやっぱり物凄く上手いです。

そして、そういう奔放に歌いながらも曲の持っている形を綺麗に織り出していくような、完成された歌唱法に、イーディ・ゴーメの持ち味でもあるつややかで伸びのある、特徴的なヴィブラートに装飾された優しい声が乗っかってくるわけです。
イーディ・ゴーメの声のつややかさもわたしにとっては相性の良い、聴いていて気持ちの良いポイントになってます。

ただ上手すぎる性なのか、時として上手いということしか耳に残らない感じもあって、そういう点では若干印象が薄くなるところもあります。こういう部分は上手いために出てきた弱点というか、ちょっと理不尽な感じがしますね。

☆ ☆ ☆

「Blame It on the Bossa Nova」は63年リリースのイーディ・ゴーメのボサノヴァ・アルバム。邦題は「恋はボサノヴァ」というもので、ちょっとダサいです。
わたしが関心を持ち出す以前のことなので、事情は今一つよく分からないんですが、日本ではこの人はボサノヴァの歌手として捉えられてるようで、それはこのアルバムがヒットしたからじゃないかと思ってます。でも実際にはイーディ・ゴーメはボサノヴァというカテゴリに収まるというよりも、はるかに許容量の大きい、万能タイプの歌手なんですけどね。

曲目はこんなの。

1. One Note Samba
2. Melodie d'Amour
3. Gift
4. Sweetest Sounds
5. Dansero
6. Blame It on the Bossa Nova
7. Desafinado
8. Message
9. Almost Like Being in Love
10. Moon River
11. Coffee Song
12. I Remember You
13. Sweet Talk
14. Oba Oba

各曲の日本語タイトルは

1. ワン・ノート・サンバ
2. メロディー・ダモール
3. ギフト(レカード・ボサノヴァ)
4. 甘き調べ
5. ダンセロ
6. 恋はボサノヴァ
7. デサフィナード
8. 恋のメッセージ
9. まるで恋のようだ
10. ムーン・リバー
11. コーヒー・ソング
12. アイ・リメンバー・ユー

13、14は輸入盤のみ収録。

「One Note Samba 」「Desafinado」のようなボサノヴァ・スタンダードと「Sweetest Sounds」「Moon River」などのスタンダード曲の詰め合わせのような内容のアルバムになってます。ちなみにビルボードの全米チャート第7位を記録してミリオンセラーの結果を残しました。

わたしが一番好きなのは4曲目の「Sweetest Sounds」。これはスタンダードのボサノヴァ・ヴァージョン。でもこれ残念ながらYoutubeでは探しきれませんでした。
オスカー・ハマーシュタインIIとコンビを組んでミュージカルのスタンダードを数多く作り続けたリチャード・ロジャースによる曲で、ミュージカル「No Strings」のメインタイトル曲。のちに97年のディズニーのシンデレラTV版でも使われることになる曲です。ディズニーのシンデレラ版は黒人歌手Brandyが歌ってるんですが、イーディ・ゴーメのこのアルバム収録のものと較べると、雲泥の差というか。

このアルバムを代表する曲を上げるなら、3曲目の「Gift」になるのかな。この曲は「Recado Bossa Nova」というのが原曲。ブラジル出身のジャルマ・フェレイラ(Dijalma Ferreira)作曲で、ハンク・モブレー(Hank Mobley)の演奏したものと、このイーディ・ゴーメ版が有名です。
86年に日本では煙草の「セブンスターEX」が新発売になった時にCMに使われて、これで記憶に残ってる人が多いかもしれません。
イーディ・ゴーメはアメリカではショービジネスのメインストリームを歩き続けてきた人なんですが、なぜか日本ではあまり話題に上ることもなく、、このCMでようやく一般に知れ渡ることになりました。

わたしはコーヒー好きなので、11曲目の「Coffee Song」もちょっと気を引くかな。作詞Bob Hilliard 作曲Dick Milesによるアメリカのポピュラー・ソングで、確かシナトラが歌ってました。スターバックスとかで店内で流せば良いのに。

2曲目の「Melodie D'amour」もキュートで良いです。こういうキュートな曲は、このアルバム自体の軽い指向性とよく馴染んでる感じがします。

ちょっと失敗してるんじゃないと思ったのが10曲目の「Moon River」。これを軽快でうきうきするようなリズムに乗せると、ノリが良いっていうよりも何か忙しないというか、この曲はゆったりしてるほうが良いです。しかも4拍子に変更されてるし…。

ボサノヴァ・アルバムといっても、当時のアメリカのボサノヴァの流行にあわせて作製された、ボサノヴァ・テイストを持ったポピュラー・アルバムといったほうがアルバムの雰囲気は近いかもしれません。
何よりもイーディ・ゴーメの歌い方が、ボサノヴァと云った時に思い浮かぶような典型とはかけ離れてるんですよね。ささやき呟くような声なんて何処にもなく、全部天真爛漫に歌い上げてる。
だからこのアルバムはボサノヴァを扱ってはいるものの、ボサノヴァが持っていそうなブラジルの土着的な要素のようなものはとりあえず脇においておくような感じで、軽快で洒脱で、とにかく溌剌とした印象に満ち溢れてたものになってます。
つややかで伸びのある声で歌われる溌剌としたボサノヴァって、ひょっとしたら意外と他では中々見つからないかも。

☆ ☆ ☆






CDは入手できるものとしては現在国内盤紙ジャケット仕様のものがリリースされてるはすなんですが、アマゾンでは見当たりませんでした。各店舗の在庫限りのような感じになってるのかな。


(2010年4月18日 追記)
記事を書いた時はほとんど入手不可の状態だったんですが、現在、日本版がリリースされてます。

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The Gift!(Recado Bossa Nova) - Eydie Gorme


Blame It On The Bossa Nova - Eydie Gorme


Melodie D'amour - Eydie Gorme



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【洋画】 ダークシティ

この映画を観終わった時に、今だとおそらく「マトリックス」を思い浮かべる人が多いと思います。もちろん話の内容は全く異なっているんですが、物語の向いてる方向に似てるところがあるんですよね。
「ダークシティ」の一番の印象は「マトリックス」が3作使って描いたものを100分程度のコンパクトな形で纏めようとした映画だという感じでしょうか。
実際は「マトリックス」のほうが後に制作されてるんですが、見せ方としては「マトリックス」よりもこの映画のほうが上手く仕上げてるような印象を持ちました。

この映画、かなりユニークなところがあって、物語は最初から探偵もののミステリのような形で進むのに、何と映画開始直後のナレーションで、映画に仕組まれた謎のコア部分をネタばれさせてしまいます。これには吃驚します。
確かにナレーションでネタばらしをしてる部分は、あらかじめ観客に知らせておかないと、映画自体何が起こってるのか分からなくなる可能性がある部分です。普通のミステリ的にこの部分を最後まで謎として引っ張っていくと、観客は映画のほとんど最後まで、主人公に負けないくらい五里霧中の状態におかれることになった可能性が高かったと思います。
ミステリ的なのに全てを隠して進めようが無くなってるのは、こういう物語の構造にしてしまったために必然的に出てきてしまった物語上の脆弱なポイントとも云えそうなんですが、とりあえず観客を五里霧中の状態に置き続けることを好まなかった結果としてのネタバレナレーションだったんでしょう。

☆ ☆ ☆

原初の闇から時が生まれ出るころ、異邦人(ストレンジャー)も生まれた。異邦人は意思の力で物質を変化させる能力(チューン)を持っていた。
後に異邦人たちは絶滅の危機に直面することとなり、自分たちの世界を捨てて生きのびる方法を探す旅に出る。そして旅の途上で自らの目的を達せそうな星、地球を発見することになった。
異邦人たちは地球に降り立ち、地下深くに潜行して、地上の人間に対してある実験を始める。
その実験とは様々な時代から集めた人々をある場所に閉じ込め、集めた人々から記憶を奪い、奪った様々な記憶を混ぜ合わせて新しい記憶となったものを再び人間に刷り込んで、新しい人格の元で人の個性がどう反応するか観察することだった。
「全体」しか持たないために停滞し絶滅に向かっていた異邦人は、人間を実験材料にすることで、自分たちが生き延びるのに必要な「個」というものがどんなものなのか捜し求めていた。

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いつも闇に閉ざされているダークシティ。その街のとあるホテルの一室、浴室のバスタブの中でジョン・マードック(ルーファス・シーウェル Rufus Sewell)は目覚めた。しかしジョンは目覚めて間もなく自分が記憶を失ってることに気づく。
戸惑うジョンにどこかから電話がかかってくる。電話の相手はダニエル・P・シュレーバー博士(キーファー・サザーランド Kiefer Sutherland)という謎の人物で、博士は実験の失敗でジョンの記憶を消してしまった、さらにジョンを追ってくるものがいるから逃げろとジョンに忠告をする。気がつけば部屋の片隅には胸に螺旋の傷を彫られて血まみれになって死んでる娼婦の死体があった。
自分が殺したのかも記憶がなく、このままでは殺人犯にされてしまうと思って、ジョンはその場を逃げ出した。逃げる途中でジョンは物質を変貌させる怪しげな力(チューン)を使うスキンヘッド集団に襲われたが、応戦している途中でなぜか自分も彼らと同じ力が使えることに気づき、その力の助けでかろうじて逃げ切ることが出来た。

ジョンはホテルの部屋にあった自分の所持品らしいものから鍵をみつけ、とりあえず自宅に戻ることにする。自宅には妻のエマ(ジェニファー・コネリー Jennifer Connelly)がいて、ジョンはエマの浮気が原因でシュレーバー博士の心理療法を受けており、その後に家を飛び出したのだと教えられた。

娼婦連続殺人を担当するフランク・バムステッド警部(ウィリアム・ハート William Hurt)はホテルの宿泊簿からジョンを犯人と定めて追跡し始めた。
バムステッド警部が迫ってきてるのを知って、ジョンは自宅から逃げ、エマに教えてもらったシュレーバー博士のもとへ行くことに決めた。殺人現場に電話をかけてきた謎の人物であり、何かを知ってるかもしれなかったからだ。

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博士に会いに行く途上で、ジョンは時計が夜中の0時を指した瞬間に街の人間が全員その場で眠りに落ちるのを目の当たりにした。街からは一瞬にして全ての動きと音が消え去った。
動くもののいなくなった深夜の街を唖然として眺めていると、今度はジョンの目の前で地面から生え出すように新しいビルがせりあがってきて、今まであった建物は不定形にゆがみながら観たことも無い別の建物に変貌していった。ジョンは建物が生き物のように蠢きながら、街の外観を全く異なったものへと変化させていくという信じがたい光景を目にすることになった。
スキンヘッドの怪人たちと共に行動しているシュレーバー博士を追って、ジョンは博士が新しくなった建物の中で眠ったままの住人に奇妙な注射器を頭に挿して新しい記憶を刷り込む現場を見てしまう。その注射器は自分が目覚めたバスルームに転がっていたのと同じものだった。

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ジョンは隙を見てシュレーバー博士に近づき、博士を問い詰めようとするがスキンヘッドに邪魔をされて何が起こってるのか聞き出すことが出来なかった。
その後さらに手がかりを得ようと、ホテルの部屋にあった所持品の一つ、シェル・ビーチの絵はがきを眺めていて、そこから叔父カール・ハリスの存在を探り当てた。
叔父の元へ行って見ると、叔父は懐かしがって昔シェル・ビーチに住んでいた頃のスライド写真を見せてくれた。写真の一つに写ってる自分は幼い時に遭遇した火事で腕にやけどの跡があったが、今の自分にはそんな痕跡が無いことにジョンは気づいた。自分の少年時代として存在してる記録、叔父の中にある自分の幼い頃の記憶は偽物だと確信することになった。

ホテルの部屋にいる時から、所持品の中にあったシェルビーチの絵葉書は、眺めると断片的な記憶が蘇りそうになったりして気になっていたものだった。道行く人に時折シェル・ビーチへの行き方を尋ねたりしたが、不思議なことにシェル・ビーチのことは知っていても行き方となると誰もが明確に答えられなかった。
地下鉄ではシェル・ビーチ行きの電車が走っているにもかかわらず駅に止まらないので乗ることが出来ない。地下鉄路線図を見るとシェルビーチはこの街の外れにあって、まるでここから脱出するにはここを目指す以外にないような場所に見えた。
だれもがその場所のことを知ってるのに、誰も行き方を知らないという謎めいた場所、そして自分の頭の中にフラッシュ・バックするように断片が蘇るにもかかわらず明らかに捏造されている記憶の場所であるシェル・ビーチ。ジョンはこの曰くありげで不可思議な場所に、何か真相を開示するものがあるのではないかと思い始めた。

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その後執拗に追うバムステッド警部によってジョンは捕まってしまう。
警察の取調べでバムステッド警部に自分の記憶がないこと、自分が怪しいものに追われていること、自分が妙な力を使えること、なぜか誰も気にしていないが、この街には日が昇らないこと、シェル・ビーチでの自分に関することが捏造されていること、シェル・ビーチへの行き方を誰も知らないことなどを説明する。
娼婦連続殺人犯として取り調べていたバムステッド警部は初めは信じなかったものの、最近自分が母の形見として受け取ったアコーデオンを、所持してるのに貰った記憶がないことや、ジョンにシェル・ビーチへの行き方を尋ねられて、よく知ってる場所なのに、行き方をどうしても答えられないことに気づいて、この街ではとてつもなく奇妙なことが起こってるんではないかと疑い始めた。

バムステッド警部が署を出た直後、スキンヘッド集団(ストレンジャー)が警察署を襲った。ジョンを確保するためだったが危険を察知してジョンは逃げた後だった。
ジョンはストレンジャーの手先になってるシュレーバー博士の元へ、バムステッド警部もまたシュレーバー博士の元にやってきて、ストレンジャーの手先になってるために街の住人が落ちいってる状況とは無縁のシュレーバー博士なら案内できるだろうと、博士を連れて問題のシェル・ビーチのある場所に向かうことになった。

☆ ☆ ☆

物語はもうこれは完全にパズルのような体裁を持っています。
記憶を失ってる人物が主人公ということもあって、ジョンが遭遇する出来事、考えること全てがパズル・ピースのような断片として映画に現れてきます。

おそらくジョンの視点に限定して脚本が書かれてたら、観客はほぼ最後までジョンの混迷に付き合わされる羽目になったのは間違いなかったでしょう。だから最初に書いたように、この映画はミステリ的な進行をするにもかかわらず、冒頭のナレーションに始まって随所にネタバレを挟み込むという大胆な方法をとりながら進むことになります。映画の視点もジョンの単独視点ではなくて、第三者視点で進む部分が結構大胆に織り込まれていくことになる。異邦人はもうほとんど映画開始直後といっても良いような段階で画面に出てきますし、地下の伽藍で、異邦人たちが集まって「チューン」を開始するスペクタクル・シーンも、ジョンよりも圧倒的に早い段階で観客は目にすることになります。

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云うならばジョンが行動するにつれて、異様な形のピースが混ざりありながら増えていくような悪夢のパズルの中に、その完成図を書いた紙切れのようなものが結構大きめの断片に引きちぎられて混ぜ込んであるというか、そんな感じ。部分だけでも全体がかろうじて分かりそうなそういう完成図の断片を時折見せられることで、観客は、そのままでは再構成も困難なパズルを、難解であることを楽しみながらでも容易に解きほぐせるようになっていきます。こういう動きを制御していく脚本はかなり上手いです。
また、この映画は隠してるものが2つあって、その一つである異邦人と異邦人によって操作される記憶の話は今書いたように謎を暴きながら進むんですが、もう一つの秘密、最後にジョンの目前に立ち現れるあるヴィジョンは、おそらくこの映画が一番見せたかったもののはずで、だからこそ、ジョンの前に立ち現れる瞬間までその気配さえも徹底的に隠しています。この辺りの謎の扱いの的確さというか、そういうのも上手いなぁと思いました。

さて、お話そのものは記憶を失った、と云うかシュレーバー博士によって娼婦連続殺人犯の記憶を刷り込まれる前に目覚めてしまったジョンの話と、チューン中も眠らずに、人間でありながらチューンも使えるジョンを発見して、これこそが異邦人の求めてる精神状態を持つサンプルだと、ジョンを追いかける異邦人側の話の二本立てで進行していきます。
この2つの物語の内、異邦人の方は普通に話として収まっていくんですが、ジョンの方の話は話の内容そのものが一筋縄でいかない側面を持っていました。

ジョンの物語は娼婦連続殺人の物語です。主人公が記憶喪失という要素は入ってますが、バムステッド警部という人物も出てきて、紛れもなく犯罪ミステリ以外の何者でもないという形を取りながら物語は展開していきます。
普通はこういう物語の映画だと、その殺人犯の人生、犯行、その後の運命とか、そういうものの描写を通して、その殺人犯の人間性とか、人の内に住む邪悪なものとか、そこからの人間の救済だとか、そういった様々なことを表現することで、意味のある映画として成立することになります。

ところがこの映画の場合ジョンにまつわる娼婦連続殺人の話は、ことの最初から最後まで徹底的にフェイクなんですよね。殺人犯は異邦人がただ適当に用意した人格に過ぎずに、それ以上の意味など何もない。
物語の途中、バムステッド警部の同僚で、チューン中に目覚めてしまって真相を知った刑事が出てくるんですが、ほとんど狂人と化したこの人物がすべてはフェイク・アイデンティティで、殺人事件など本当は何処にも起こってないんだと指摘するように、ジョンにまつわる話は映画が進行するに連れて次第に全く意味を成さないものになっていきます。
事実映画の中で重大事件のように始まった娼婦連続殺人は後半部分ではそんなことがあったのかと思うくらいどこかに飛んでいってしまい、誰も見向きもしなくなってくる。

フェイク・アイデンティティを扱った映画である以上、主人公が担ってる物語は本来物語が持っていたはずの意義や役割を失ってしまっていて、そのことを語る映画もまたその部分では無意味なものを抱えたものになる他ないと。わたしには映画がこういう「無意味さ」を内に含んでしまうのは、こういう構成の物語を採用した、この映画の弱点に他ならないような気がします。

☆ ☆ ☆

娯楽映画なので、パラノイア的な世界、表に見えてるものと本当のものは違うんじゃないかといった特異な世界の感触を楽しめればそれで良いんだと思いますが、あえてこの映画のテーマをあげるなら、記憶とアイデンティティといったようなものになるんでしょうか。
この映画に出てくる人物は全員、自分の全アイデンティティを「記憶」に委ねています。そして記憶が変わればそれまで自己を確立させていた一切のものが崩れて無に帰すような有り方に置かれてる。
ジョンとバムステッド警部が自分たちはダークシティに連れてこられる以前は、本当は何処にいた誰だったのかをシュレーバー博士に問い詰めるシーンがあります。シュレーバー博士の答えは記録が失われてしまってもう分からなくなってると、今の記憶が全てでそれを外せば何処から来た誰なのか一切分からない存在になるというものでした。そして今警部という存在の根拠になってる記憶もチューンされる前はバムステッド警部は警察勤務でさえもなかったんだと。

この映画ではアイデンティティはその時の記憶によって保障されてるに過ぎない脆弱なものとして扱われています。バムステッド警部以外にも、ジョンの妻のエマもこの脆弱さを体現するかのように終盤のチューンでアンナという別人格にされて、ジョンとは出会いもしなかった全く別の人生におかれてしまうことになります。
人を人として成立させているものが個人という殻に包まれた極私的な記憶だという、そして記憶がなくなればそれまでいかに親密な人間関係を築いていても関係の中心である自己が存在しなくなるので、全てが無に帰するんだという、そういう世界観で映画は進んでいくわけです。

わたしはなんだか現代の個人主義が陥ってる孤独感みたいなものが漂ってくるなぁと思いながら観ていました。それでこの脆弱な人間存在のままで映画は終わりまで行き着くんだろうと思っていたら、意外なことに最後の最後で映画が提示した結論は人は記憶を失っても存在根拠を失わないというものだったんですよね。
このラストはある意味意表をついていて、しかも個人主義がどうしたとかいったことを思い浮かべて観てたわたしにとっては、この映画は最終的に人は孤独じゃないんだという願いを伝えて来てるかのように思え、予想外に感銘を受けるものでした。

☆ ☆ ☆

「ダークシティ」というタイトルが示すとおりに、この映画で描かれている都市は、ある意味映画の主役でもあります。
ダークシティの基本デザインは「スカイキャプテン」のようにレトロフューチャーなんですが、単純にレトロフューチャーで纏めてしまわない工夫がしてあり、それは異邦人があらゆる時代の人間を集めてきてはそこから記憶を奪い去り、そのあらゆる時代が混じりあった記憶を元にして、ダークシティの外見を作り出してるという設定でした。この設定が効いていて、ダークシティは時代を混ぜ合わせたような雑多なイメージとして成立して、特定の時代を思わせない不思議な空間を作り出すことに成功してます。レトロフューチャーという、こういう映画では馴染みの形態を取りながら、それに収まらないユニークな都市景観になってる。この設定は視覚的な面でも非常に有効に働いてるようでした。
あと街の光景を作るのにミニチュアを併用してるんですが、こういう映画のミニチュアって云うのはむしろミニチュアっぽさが残ってる方が良い味を出すことがあって、この映画のミニチュア併用はやり方としてはよかったと思います。

都市の視覚効果でもうひとつ面白かったのが、チューン最中にダイナミックに建物が変貌していくシーン。その時に建物の内部にいて階段を上がろうとしたジョンの足元で階段のステップが延びていく描写はほとんんど悪夢に出てきそうな光景だし、街が文字通り形を変えていく描写も、そんなシーンがある映画ってどれだけ存在するのか知らないけど、前代未聞といっていいくらい、観たこともない奇妙な光景でした。

視覚的なものでは映画全体に印象的な影を落としてるシェル・ビーチも面白かったです。スライドでは明るい陽光に照らされた光景なんですが、ダークシティで目にするイメージは古びて色あせかけた絵葉書だとか、ビルの上で電気仕掛けで動いてる薄暗い大看板であるとか、ある種不気味なイメージのものばかり。ここに行けさえすれば何かがあると思わせる、もういかにも曰くありげな場所って云う雰囲気が満ち溢れてるような演出でした。

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主役のルーファス・シーウェルは眼光が異様な感じを与える表情が良いです。この目つきが、崩壊しそうな精神を的確に表してるようで、パラノイアックな物語には最適の人物。
ジェニファー・コネリーは太い眉毛が印象的で、わたしには現代的な美女とは若干ずれてるような印象があるせいか、レトロな街ダークシティのジャズ・シンガーという役割が予想通りの似合い方をしてました。

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心理学者役のキーファー・サザーランドは博士に見えるように、それなりに年を取ったような演技をしてるのが、かえって若すぎる印象を強めてしまったような感じがしました。でもこの役、良い役ですよ。人類を裏切って異邦人の手先として動きながら、最後の最後で異邦人の意表をつくような奇策でジョンに異邦人と対決できる力を与えます。悪役からヒロイックな人物にまで変化する振幅の大きい役どころです。結局のところ右往左往してるだけのジョンよりも印象に残るかもしれないキャラクターでした。

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Dark City Trailer



原題 Dark City
監督 アレックス・プロヤス (Alex Proyas)
公開 1998年

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