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【美術】 妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 京都国際マンガミュージアム

11日に展覧会「妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 」を観に行ってきました。この日が初日でした。

こういう展覧会です。

妖怪展チラシ表

妖怪展チラシ裏


会場は京都国際マンガミュージアム。地下鉄を利用すると烏丸御池の駅で下車、そのまま地上に出て烏丸通を北に向かって進めばほとんど間をおかずに到着します。交通の便は極めて良好です。
それで、北に進んでいけばそれだけで別に脇道に入る必要も無くあっという間に到着するんですが、間際の御池通りを歩き馴れていてもこういうミュージアムがあるということを知らなければ、知らないままに通り過ぎてる人も多いかもしれません。
実はこの施設、マンガミュージアム用に建設されたものじゃなくて、もとは龍池小学校っていう学校で、廃校になった建物を再利用してます。建物自体はそれっぽく改装はしてるものの、運動場がそのまま残っていて、そこは今は芝生になっていて、座り込んで漫画を読んでる人なんかがいます。あまり美術館っぽい雰囲気でもなく、垂れ幕や入場口に気づいて始めてここがそういう場所だって分かるような感じ。場所としてはなかなか面白い場所です。

烏丸通りを御池から北に行けば左手にこういう光景が広がります。
これがおそらく元校庭。この日はコスプレイヤーの交流会があるとかで、コスプレした人が写真を撮りあってました。
マンガミュージアム外観01

さらに進むと入場口が見えてきます。

マンガミュージアム外観02

ここはマンガの収集と閲覧を目的にしてるので、中に入ると壁面においてあるマンガを一心不乱に読んでる人がやたらと目につきます。内装は小学校の雰囲気をそのまま残してる部分もあるかと思うと美術館的な雰囲気のところもあって、他ではあまり見ないような雰囲気になってます。

マンガミュージアム内部01

マンガミュージアム内部02

マンガミュージアム内部02

それでこれが今回の目的の展覧会場の入り口。展覧会を開く場所は他の空間と区別するようなつくりになっていて、内部は学校を改装したという雰囲気はあまり無かったです。
見上げると展覧会の内装パネルの背後に天井まで積みあがった本棚が見えてたので、もとは図書室だったのかもしれません。それとも雰囲気作りのためにわざと一部が見えるようにパネルを設えてあったかのかな。

展覧会場入り口

☆ ☆ ☆

実は小学校を改装し、その空間の一部分しか使ってないギャラリーでは広さ的にも大した数の展示物を揃えられないだろうと思ってあまり期待してなかったんですが、確かに展示物の数はそれほど多くなかったものの、わたしの興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あって、これが観られただけでもわたしにとっては結構面白い展覧会でした。

展覧会は江戸時代を中心として日本の絵巻物や書籍、浮世絵に現れた妖怪のイメージを辿り、現代のキャラクター文化に繋いでいくという観点で構成されてました。
江戸時代に描かれた妖怪を虚構の中から人を楽しませるキャラクターと捉え、現代のキャラクター文化、マンガを現代版の妖怪絵巻と位置づけるような視点だったんですが、わたしはいいたいことは分かるもののそこはちょっと保留というか、江戸時代の妖怪絵巻などが今のマンガ的な役割をしてたのは確かだろうけど、今のマンガの、フィクションの中から人を楽しませるために踊りだしてくるキャラクターの存在やその存在を導いてくる想像力を、江戸時代に妖怪を発想してきた精神のあり方へ還元するのは、妖怪的であることをちょっと無視しすぎてるんじゃないかというのが正直な感想です。妖怪は妖怪であることでしか意味をなさない部分を持っているはずで、妖怪はそういう意味で今のキャラクターマンガ全体と照応するものというよりも、存在の意味合いとしては怪獣だとか、モンスター映画などのほうに限定的に血筋を辿るべきなんだろうと思います。あるいは水木しげるから始まった正真正銘の妖怪マンガに。

この展覧会は妖怪という文脈で水木しげるが果たした役割には心底敬意を表していて、コーナーを設けてるくらいなんですが、その点はわたしも異論は全く無かったです。何しろわたしが様々な妖怪を頭に描く時に出てくるのは必ずこの人が描いたイメージだし、他の人もほぼ全員がそうだろうと思います。水木しげるがいなかったら、わたしは日本人がその想像力の内に妖怪という特異な存在を持ちえたことさえ全く知らないでいたかもしれない。事実水木しげるが妖怪を復権させる以前に、妖怪というものは完全に廃れ忘れ去られた存在に近かったそうです。
今の日本人が持つ妖怪のイメージをたった一人で再構成して作り上げてしまった。水木しげるが成したのはそういうことでこれはやっぱり凄いこととしか云い様が無く、展覧会の一部をこの人に割いてるのは、わたしには極めて妥当なことと思えました。

☆ ☆ ☆

展覧会は江戸期のものが中心となって全体の半分以上が絵巻物、古書の展示に充てられているので、若干古色蒼然とした印象がないこともないんですが、描かれてるのが妖怪ということもあってヴィジュアル的な面白さの方が古臭さを越えてる部分がかなりあり、割と馴染みやすい展示になってます。また古い絵巻物なんかになると描かれてる物語を知らないと肝心の絵の意味が分からないということも結構あるけど、この展覧会に展示されたような絵巻物は妖怪の種類を見せようと意図してるものが多くて、そういう意味で絵巻物の内容を知らなくても楽しめるものが多かったです。
あまりに馬鹿馬鹿しくて印象に残ったのが「神農絵巻」
農業の神様、神農を主役にした妖怪退治の物語なんですが、倒す武器がなんと「屁」。
黄色い火炎放射器のような放屁で妖怪を倒していく光景が描かれてます。これが稚拙というか、何だか能天気なタッチで描かれてるので、観てるだけで頭のねじが何本か緩んできそうな気分になりました。
他には有名どころとして鳥山石燕 の「画図百鬼夜行」なんかも展示されてました。京極夏彦で有名になった、云うならば妖怪百科事典です。
こういう展覧会で絵巻物とか古書とかの展示はその一部を見せるように開いた状態でガラスケースの中に納まってます。仕方の無いことなんだけど、これは苛つくことが多いんですよね。そのちょっと先を見せて欲しいと思っても要求がかなうことは無いわけで、鑑賞体験にしてもそんなごく一部しか見られないで本当に観たといえるのかなんて思ったりもします。

妖怪がテーマとなれば、説話なんかを題材にする浮世絵は絶対に外せないのでここでも幾つか展示されてました。全体的には国芳が中心でした。っていうか他の浮世絵師の作品もあったのに、何故か国芳のものがやけに記憶に残ってます。
わたしは浮世絵って結構好きです。図案的で、表現は大胆。写実なんてことにあまり拘ってない。そういうところが今観ても新鮮な感じがします。
妖怪がらみで土蜘蛛退治とか大江山の酒天童子退治とかが展示されていて、カラフルでダイナミックな構図が目を引きました。国芳の浮世絵は紙を縦に連ねて極端に縦長の画面にして描いてるのもあって、絵柄、構図を考え、必要ならこんな極端なこともしてしまう発想が面白いです。
わたしは国芳の弟子だった月岡芳年の絵が好きなんですけど、残念ながらこの展覧会にはあまり出展されてませんでした。チラシの中央のが芳年の手になる妖怪のはずで、不気味でユーモラスというのが特徴的な絵を多く残してます。

あと浮世絵も展示物に含まれてるなら、北斎の百物語も出品されてないかと思ったんですが、これはやはり妖怪じゃなくて幽霊に近いからか展示物の中には無かったです。他の人が描いた模写の一つとしてただ一部のみ混じってるものがあったんですけど、こんな書きかたしても通じないですよね。
この展覧会と直接関係ないんですけど、ちょっと説明しておくと、北斎が当時の江戸の怪談ブームにのって百物語の絵を100枚制作する計画だったのが、5枚まで描いただけで中断したという代物です。百物語と名はついてるものの5枚で完結。一説では怖すぎて売れなかったのが中断の理由だとか。
わたしは特にさらやしきの絵が好きで、要するに番町皿屋敷なんですけど、こんなお菊さんをイメージしたのは後にも先にもおそらく北斎ただ1人。この人の想像力がいかに桁外れだったかがよく分かる絵になってます。

ネットで探してみたらありました。美術館のページなのか、このページの下のほうにあります。

ー葛飾北斎ー

☆ ☆ ☆

さきに興味をピンポイントでついてくる展示物が数点あると書きました。

実際展覧会場で激しく気を引かれて、その作品の前で立ち止まってしまったものが幾つかあったんですが、その一つは荒井良の作製した妖怪張り子でした。
荒井良の妖怪張り子は京極夏彦の本の表紙を飾ってる写真のモチーフになってるものなんですが、京極夏彦の本は嫌というほど眺めてるのに、今までこの表紙を飾ってる写真にはそれほど特別な関心を持った事は無かったです。
ところが今回実物を観て吃驚。実物がこんなにとんでもない代物だとは実際に観てみるまで全然想像もできませんでした。
展示してあった中では「魍魎」が一番良かったです。京極夏彦の魍魎を扱った小説のタイトルは「魍魎の匣」だったけれど、これも前面がガラス張り周囲は木製の威圧感のある匣に詰められて閉じた世界を形作ってます。匣はかなり大きく高さは6~70センチはあったかもしれません。
わたしは匣に封じ込めてあるという状態に惹かれます。匣のなかに小さな宇宙が閉じ込められてその匣のなかで完結してるようなイメージ、匣で遮られ、その向こうで完結してる小さな世界に触れることも出来ずに、ただ覗き見るしかないという感覚。他の美術家の作品でそういったタイプのものを上げるならジョセフ・コーネルの箱なんかがそういう感じ。

この展覧会にコレクションされてた「魍魎」は妖怪の世界ということで、匣に閉じ込められた世界も異様でした。魍魎が木の陰から身を乗り出して、土の下から掘り出した棺から女の死体を引きずり出し、今にも貪り食おうとしてる光景、その一瞬を凍結させガラス板の向こうに保存してるような世界。
ただ荒井良の張り子の造形は死体の皮膚感とか青白い肌の下に透き通って見える網目のような血管などかなりリアルにしてあるものの、全体のイメージは映画で云うとスプラッター映画のように扇情的な血飛沫や内臓表現には向かわずに、妖怪の持つユーモラスな側面も引き出しています。こういうユーモラスなものと陰惨で不気味なものの同居なんていうのは、妖怪だけが持ちえた特質なのでしょう。この作品「魍魎」はそういう妖怪の独自の雰囲気をよく表現していました。

ネットで探してみたら荒井良の妖怪張り子の写真が観られるところがありました。

ー魍魎ー
ー化けものつづらー

でもこの作品は匣の質量のようなものを捉えないと一番のポイントを落としてしまいそうで、わたしが京極夏彦の本の表紙を観ていながら全く感じ取れなかったのと同様に、写真ではそういうものは伝わってこないような気がします。これは実物を観る以外に無いです。

もう一つ、立体物で面白かったのが、件の剥製。
「くだん」と読み、字の如く人面の牛という見かけの妖怪です。
「件」は牛から生まれ、人の言葉を話します。そして生まれて数日で死ぬんですが、生きてる間に戦争や大災害、疫病のような世界が大きく動く出来事の予言をする。その予言は必ず当るのだそうです。
「件」といえば、内田百間がこれをモチーフに「件」というそのものの題名で白昼夢のような掌編小説を書いていたのを思い出します。

件
チラシに写真が載ってたので拡大してみました。

「件」の他にはこの展覧会ではもう一体、妖怪の剥製として「人魚」が展示してありました。「件」は初見でしたが、この「人魚」のほうはわたしはいろんなところで写真を目にしたことがあります。もちろん木や紙や魚の骨などを組合わせて作ったフェイクもので、その旨展示物の説明にもかかれてました。
ところがこの「件」の剥製に関しては、会場では作り物であるとかの説明はされてないんですよね。まさか本物ということは無いだろうとは思うけど…。

この妖怪の剥製は「件」を題材にした紙芝居とかの後に締めくくりとして観客に見せていたものだそうです。その紙芝居は絵が数枚残ってはいるけど、話のほうの記録が残ってないのでどういう物語だったのかは今ではもう知ることも出来なくなってると解説してありました。
どんな物語だったんだろうと思いを馳せても、既に永遠に知ることが出来なくなってる。製作者の思惑には無かったにしても、偶然が解けない謎のようなものを作品に付加していったわけで、謎は何時だって魅力的、こういうのは結構想像力を刺激します。

ところがあろうことか会場ではこの残された数枚の絵を元にお話を推測し、絵物語のように仕立て上げたものをビデオで流してました。これでは偶然が与えてくれた謎が台無し。これは本当に蛇足を絵に書いたようなものでした。元絵だけ並べてくれた方か余程親切だったと思います。
ちなみにわたしはこのビデオ、一瞥しただけで全体は観ませんでした。

さらにもう一つ、この展覧会でわたしがよかったと思ったのが「稲生物怪録絵巻」。
これを元にした稲垣足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」がお気に入りということもあって、この絵巻物はわたしのなかでは結構特別の位置に居座ってます。
1749年、16歳の少年稲生平太郎が友人とともに行った百物語でしてはいけないことをしたために、7月の一月毎夜妖怪が平太郎の家にやってくるというような話で、絵巻物も稲垣足穂の小説もただひたすら毎日とっかえひっかえやってくる様々な妖怪の描写を続けていくような内容になってます。
その毎日代わりながらやってくる妖怪が、人の指が足の変わりにうじゃうじゃと生えてる蟹だとか、想像力の限界を試してたんじゃないかと思うくらいユニークで、しかも薄気味悪い。
これは画集という形で出版はされてるんですが、実物としてみたのは今回の展覧会が初めてでした。

☆ ☆ ☆

会場の解説のどこかにあった説明で、妖怪は天変地異などの自然の驚異の象徴としてあり、最初は言葉で名づけられただけの存在で実態などなく、やがてその言葉だけの存在に絵で姿を与えることで恐怖の対象から認知可能な領域に引き下ろしてきたというようなことが書いてありました。姿かたちを与えられることで実は恐怖が付け加えられたのではなく、反対に恐怖が減じられたんだと。モンスター映画と全く一緒だなぁなんて思いました。怪物は正面切ってスクリーンに登場した段階でただそれだけのものに成り下がってしまうんですよね。
それで、言葉だけの存在としての妖怪ってどんなものだったんだろうなんて、会場を廻りながら思ってたんですけど、わたしは既に形としての妖怪を知ってしまってるし、たとえ名前しか知らない妖怪であってもそれはわたしが形を知らないだけで、妖怪である以上形あるものとして有ることをわたしは既に知ってしまってるわけです。
もう言葉だけの存在の妖怪など永遠に体験できないところに立ってるんだと、そんなことを考えました。
あるいはそれだけじゃなくて、形を得た妖怪でさえも散文的な世界の中では姿を見失いそうになる。
足穂の小説「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」は最後は永遠に失われてしまったものへの憧憬で締めくくられていて、この日のわたしのなかで度々顔を覗かせた感覚もそれに似たようなものだったかもしれません。

あとね、わたしが展覧会で興味を引かれたものを列挙してみて、立体造形の方に圧倒的に惹かれてたっていうことに気づいたんですが、生来の立体志向はあるにしても、この展覧会自体、あくまでもマンガの文脈での展覧会だったものの、魅力的なものは平面よりも立体の方に多かった展覧会だったような気がします。

☆ ☆ ☆

それで、「件」と「魍魎」に未練を残しながらも、鑑賞終了。展覧会場の一室を出てから、売店に向かいました。わたしが美術館の売店好きなのは以前の記事に書いてるかもしれないけど、美術館では絶対に立ち寄る場所になってます。
京都国際マンガミュージアムではこんな感じのショップでした。かなり狭かった!

マンガミュージアムショップ

必ず買うのが目録なんですが、この日は初日だったのに、午後の半ば過ぎで図録は売り切れ、店員に訊いてみると直ぐに追加を配達してくるということだったので暫らく待つことになりました。それほど鑑賞客がいたようには思えなかったのに。でも誰も手にしてない状態で入手できたのは良かったかな。

妖怪展図録

手にした図録はこういうある種手軽な展覧会ではよく出てくるタイプのもので、市販されてるムック本と大して変わらない出来のものでした。兵庫県立歴史博物館と京都国際マンガミュージアムの編集とあるから、この展覧会の正式な図録なんだろうけど、このタイプの図録によくあるように展示物全てを掲載してなくて、余計な読み物を入れたりしてます。
わたしは展覧会の記録として欲しいので、展示物全てが掲載されてないこういうのはわたしにとっては半ば意味を失ってしまってます。

☆ ☆ ☆

京都国際マンガミュージアムを出てから烏丸通を南下して、六角堂の近くのよく行く中古DVDショップで何か掘り出し物でもあるかとちょっと物色、ブラザーズ・クエイのDVDを見つけたのでそれを購入してから、さらに南へ向かって進みました。
今京都はちょうど祇園祭の時期でそのまま南へ向かって四条通りと交差するところに出て、四条通りを少し東に行くと、長刀鉾がある場所に着きます。長刀鉾は今組み立ての真っ最中。
祇園祭の巡行の先頭に立つ鉾で、わたしの一番お気に入りの鉾でもあります。11日での組み立て状況はこんなところでした。これ釘なんか一切使わずに組み上げていきます。

2009祇園祭01

2009祇園祭02



四条の商店街のアーケードなんかを歩いてるとお囃子を流してるので、ちょっとづつお祭り気分が盛り上がってきます。
ある店の前にこんなのが出てました。

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妖怪天国ニッポン ー絵巻からマンガまでー
開催期間 2009年7月11日~8月31日

京都国際マンガミュージアム・ホームページ


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最後まで読んでくださってありがとう御座いました。

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