桜 -哲学の道-

先日桜の写真を撮りに行ってきました。去年の今頃にも桜の写真を撮りに行ってるので今回が二回目です。
ちなみに去年撮ったのは岡崎公園の桜。美術館なんかが点在してるということもあって、わたしにとって桜が綺麗な場所として一番馴染みの深いのがこの岡崎公園でした。
それで今年も季節は巡ってきて、去年のようにまた桜の写真を撮ってくるつもりになったわけですが、場所はどうしようかと思いをめぐらせて、幾ら馴染みがあるとはいえ今年も同じ場所の桜を撮ってくるのも何だか面白くないと、シーズンが始まる前からそんなことをちょっと考えてました。
わたしの好みから云うと、これは嗜好なので何故かと問われると説明しがたいものではあるんですが、東山界隈がなぜかいつもお気に入りの地域になってます。去年の岡崎公園だってどちらかといえば東山の方だし結局はわたしのお気に入りの地域に入ってます。だから今年も桜の写真を撮りに行くならその辺りで別のところがいいなぁと思ってました。
東山界隈でとりあえず思い浮かんだのが清水寺と円山公園、それとこの何年か個人的な事情でよく訪れてる白川の辺り、哲学の道といったところでした。丸山公園から清水寺は、清水の方には途中で断念していかなかったものの、お正月にちょっと写真を撮ったし、この辺りは今はいいかなと除外して、結局哲学の道が今年の桜の一番の候補になりました。

こういうことを考えている一方で、今年の天候は予想外の波乱含みで何だかちっとも春になった気がしないし、3月の終わりごろはまだまだ桜のシーズンなんて来ないんじゃないかという感覚になりかけてました。でも桜のほうはこの得体の知れない天候でもきっちりと春の訪れを察知していたようで、まだ桜の開花なんてかなり先だろうと思ってたのに、気がつけば知らない間に満開が近いと知らせるレポートが入ってくるようになってました。

こんな感じだったのが大体先月の終わり頃のこと。
気分的にはいきなりに近い形で満開情報を目にし始めて浮き足立ってきたというような状態だったんですが、そういう気分とは反対に、実は今月に入って直ぐにちょっとしたトラブルに見舞われることになってしまいました。
前回の記事をアップした2日の夜中だったと思うんですが、ちょっとした不注意で自宅の階段を二段ほど踏み外したんですよね。その時に階段の縁に踵の側面辺りを思い切り擦り上げて怪我してしまいました。擦り傷にしては出血があって、この部位は擦り傷だけでも思いのほか出血するんだと思いながらもバンドエイドを貼っておいたら、2日後くらいから化膿したような状態に。傷口をみると擦り剥いたというよりももうちょっと深く削り取ったような状態の傷になってました。暫くは靴履くのもためらうような感じになってしまったわけで、怪我の直後は桜の写真を撮りに行く気にもならないような気分になってました。

そこで化膿状態がどうも早急に収まりそうに無い感じがしたので、気分が若干萎えてた間に医者に行って抗生物質を処方してもらうことにしました。
薬を処方してもらった後は抗生物質が効いたのか、治りだすと傷の回復は意外に早かったです。トラブルは桜のシーズンがもうそろそろ終了するかという間際になって何とか回避することに成功。哲学の道に桜を見にいった日には傷はもうかさぶたになって、ほとんど痛むことも無くなってました。
考えてみれば今回桜見物に哲学の道を選んだのは足の怪我にもちょうど具合が良かった感じです。散策路は結構長いんですけど基本的に疎水の縁の遊歩道沿いに桜が植えてあるという光景は最初から最後まで変わらない場所だったので、足が痛くなってきても、まだ見てない場所に思いを残すことなく途中で離脱できそうでしたから。でも実際には哲学の道を端から端まで歩いても傷は痛くならなかったので、途中で離脱することもなかったんですけどね。

☆ ☆ ☆

哲学の道は東山のふもとを南北に伸びる道で、どちらが出発点とか決めてあるのかどうか知りませんけど若王子神社から銀閣寺辺りにかけて流れる琵琶湖疏水分線の傍らに走る散策路のことを云います。疎水は若王子神社側から銀閣寺に向けて流れてるようですが、哲学の道を散歩する人の流れは銀閣寺側から若王子神社の方向、方角で云えば北から南に向けて歩く人のほうが多かったような気がします。わたしも今回は銀閣寺側から歩き始めました。銀閣寺へ道が分岐する場所でもあるせいか、銀閣寺側のほうが哲学の道南端よりも賑やかな感じがします。
道の名前の由来は近くにある京大の哲学者、西田幾多郎博士が思索のために好んでこの道を散策した所から来ているらしいです。長さとしては全長約1,8キロメートルで、歩いてみると結構歩きがいがある距離に感じます。道の近くには北端の銀閣寺を初めとして法然院、安楽寺、永観堂、大豊神社などの社寺が点在してそちらのほうにも簡単に足を伸ばすことができます。

哲学の道 地図
クリックで拡大します。

わたしはこの何年か北白川の辺りに行くことが多くてその時には京阪の出町柳駅から市バスに乗って移動してました。哲学の道へは出町柳の駅付近にある停留所がらバスに乗れば簡単に行くことが出来ます。銀閣寺路へ行くバスに乗って東に向けて移動するだけ。百万遍で京大の前を通って、2箇所ほど停留所を通り過ぎたら即座に目的の場所に到着します。今回もそのルートを通って哲学の道まで行ってきました。

哲学の道 銀閣寺側入り口

白川疎水通01

白川疎水通02

白川疎水通03

哲学の道の北の端、白川通今出川辺りから、銀閣寺方面へ向かう道と南へ伸びる哲学の道とが分岐する銀閣寺橋辺りまでの、白川疎水沿いの桜並木はこういう感じ。実は南に下がっていく哲学の道本来の桜よりもこの辺りの桜のほうが見事なアーチを作っていて見応えがあります。わたしはこの辺りの桜が好きです。

人力車

哲学の道に限らず京都の観光の要所要所にはこういう人力車が待機していて、これに乗って観光地巡りをすることが出来ます。わたしは乗ったことがないんですが観光地を歩いてるとよくすれ違うことがあったり、たまに立ち止まっては人力車の兄ちゃんがお客さんに観光スポットの説明をしてたりするのに遭遇します。通りすがりに説明を耳にしたりするとお客さんとなかなか楽しそうな会話を交えての説明になってるようです。
市バスのりばと書いてありますが、京都の市バスがこれだというわけじゃないです。

銀閣寺橋周辺01

銀閣寺橋周辺02

銀閣寺へ続く道と分岐する銀閣寺橋辺りの光景です。この辺は常時観光地のようなものなので周辺も元から商売してる店舗が並んでいて、屋台とかの臨時的なものはほとんど見当たりません。手前に哲学の道と彫りこんだ石碑が置いてあります。

哲学の道01

哲学の道02

哲学の道03

哲学の道を歩いていくと疎水が流れる縁に桜が配置された、こういう光景が目の前に広がっていきます。
一番上の写真はお地蔵さんの祠があった場所、名前は「幸せ地蔵尊」というらしいです。いかにもご利益がありそう。
「幸せ地蔵尊」のおくにあるのは茶店です。散策路の両側は南にいくほどに民家が多くなって普通の住宅地の道という感じが強くなってくるんですが、銀閣寺に近い辺りはみやげ物屋だとか食事が出来るところ、洒落た喫茶店などが点在していて、観光地的な雰囲気があります。

散策するにはいろいろと目の前に現れてくる桜を堪能できるいい場所なんですが、写真を撮るとなると疎水沿いの桜と散策する人という何だか同じような写真ばかりになって、若干飽きてくるところもありました。帰宅してから撮ってきた写真を眺めてると哲学の道の桜の写真を撮りに行ったのに哲学の道の後半はほとんど写真を撮ってなかったのに気づいたりしてちょっと吃驚。もっと全般的に写真を撮ってたつもりだったのに。

みやげ物屋

大体、みたらし団子だとか蕨餅だとか並んでる店は食べ物屋が多いんですけど、なぜかこういう布物を売ってる店も点在してました。あまりそぐわない感じがして目に付いたのでスナップしてきたんですけど、哲学の道と何か関係でもあるのかちょっとよく分かりません。

疎水風景

桜が絡まない疎水の風景です。少し東に行くと東山の山間の風景に切り替わっていくんですが、その山間の風景がここまで出張してきてるような雰囲気です。ニュアンスに富んでいて、こういう光景も結構好きだったりします。

橋

これは法然院に向かう橋だったかな。似たような写真を撮り続けてたので、ちょっと雰囲気を変えて法然院のほうにも足を伸ばしてみることにしました。

法然院01

法然院02

法然院03

法然院04

東山のふもとという位置関係で、木漏れ日の中を歩いてると山間の地を歩いてるような気分になってきます。木漏れ日の風景って云うのは八坂神社の参道でも結構好きなものだったので、ここも歩いていて随分と気持ちのいい場所でした。
山門をくぐったところに見える白砂壇とこじんまりした庭園の光景、木立で見えませんが道の奥の橋は池にかかってます。それと山門を内側から見たもの。哲学の道は結構人が歩いてたけど、こちらにはほとんど人は来てなかったです。
元は鎌倉時代の法然上人の草庵でそれを江戸時代に再興したものだそうですが、ここには講堂があって、現在では展覧会とかコンサートとかを開催したりする場所にもなってます。あと谷崎潤一郎のお墓もここにあるんですよね。ちなみに境内に入って散策するのは無料です。

支那桃

再び哲学の道に戻って、桜の花に混じって咲いてた白い花。木につけられた札によると「支那桃」という桃の花だそうです。
わたしが見た木にはこういう白い花しか咲いてなかったですけど、調べてみるとピンクの花も同居して咲くらしく、なかには白とピンクの混在した花も咲くことがあるとか。哲学の道では我が物顔に咲いてる桜に混じって見落としそうになるんですけど、凄く可憐な花でした。

哲学の道04

先にも書いたように桜の花の写真を撮りに来てながら、同じような構図の写真を撮ることに途中で無意識的に飽きてきてたんだと思います。帰ってから確かめてみると哲学の道後半部分の写真は桃の花とこれくらいしか撮ってませんでした。

哲学の道05

哲学の道06

地図で云うと正覚寺あたりから、若王子神社にいたる哲学の道の南端部分はそれまでとはちょっと異なった風景が広がってきます。
次第に山間の道のような雰囲気になっていた哲学の道がここに来て急に広々とした空間に出てくることになるんですね。
銀閣寺側から歩いてくるという条件に沿った場合だけのことになりますけど、展望が広がる視覚的な変化はちょっと面白い体験になると思います。
写真には撮らなかったんですが、正覚寺のある西側を眺めると眼下に広がるという感じで市内の風景が眺められ、少し高いところに上ってきていたことに気づきます。哲学の道を歩いてる時は上り坂を歩いてるとは思わないんですけど、1,8キロをかけてここまで緩やかに上ってきていたわけです。

哲学の道南端の猫

この哲学の道の南端の開けた場所にいた野良猫。観光客が絶えることはないので生活は安泰といったところでしょうか。通り過ぎる人の近くでも平然どころか、ベンチに座っていても平気で近づいてきてました。

哲学の道 南端


哲学の道の北と南の両端を比べてみればやっぱり観光地的な雰囲気があるのは銀閣寺のある北のほうということになるでしょうね。南端から西に降りていけばこういう雰囲気の町並みで、ほどなく普通の住宅街にバトンタッチしていくことになります。賑やかな観光地から入って観光地のオーラが抜け切ってしまったところに到着するのはちょっと拍子抜けのところがあります。
ここからさらに南禅寺のほうに廻るという手もあるんですが、哲学の道だけが目的なら南から入って北の銀閣寺でゴールとするほうが面白いかもしれません。

☆ ☆ ☆

今回は桜の季節ということで、それを目的に行ったんですけど、もちろんこの季節の哲学の道の桜の光景はとても綺麗であるにしても、周囲に点在するお寺や洒落た店、様々に咲く花や山間の光景など、哲学の道は他にも観るところが一杯あるという印象でした。桜に拘ってしまうと見逃すものが多そうというか、こういう場所はターゲットをそれほど定めないで散策するのがやっぱり一番面白いんじゃないかと思ったりしました。

☆ ☆ ☆

最後まで読んでいただき、有難うございました。


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【洋画】 岸辺のふたり -音楽の言葉で綴るー

今回はちょっと趣向を変えてアニメ映画を取り上げてみます。いわゆる「アート・アニメーション」の類に入るものだと思うんですけど、「岸辺のふたり」というタイトルの短編です。
小船に乗って旅立ってしまった父親を岸辺で待ち続けた少女の一生を、たった8分という短い時間のなかに封じ込め表現しきったアニメーション映画。「岸辺のふたり」には「8分間の永遠」というキャッチフレーズがついてるんですが、それがまたこの映画の雰囲気を良く表してるようで、キャッチフレーズとしてはなかなか上手いです。
この短編アニメを作り上げたのは映像作家マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット(Michael Dudok de Wit)という人です。何だか耳に馴染みのない響きを持った名前の監督さんですが、どうやらオランダの人らしいです。
1953年生まれで、いくつか学校を渡り歩くなか、スイスのジュネーブでエッチングを、またイギリスでアニメーションを学んで、最終的には1978年にイギリスのウエストスーリ・カレッジ・オブ・アートを卒業してます。その後バルセロナでフリーランスで活動した後ロンドンに移り住み、コマーシャルの製作などに従事。
映像作家としての代表的な作品はこの「岸辺のふたり」以外では1992年 「掃除屋トム」1994年 「お坊さんと魚」2006年 「The Aroma of Tea」などがあります。
「岸辺のふたり」はDVDでその存在が広く認知され、その後劇場で観たいというリクエストが多く寄せられたために実際に大スクリーンで上映されることになります。「掃除屋トム」と「お坊さんと魚」が併映だったそうですが、8分のアニメが、何か他の長編映画の併映として上映されたのではなく、メインのものとして上映されたのはこれが世界で始めて、DVD発売後にロードショーを行った映画も極めてまれな出来事だったそうです。
ちなみに新宿武蔵野館では去年までモーニングロードショーとして1年間期間限定で「岸辺のふたり」を連続上映していたらしいです。

岸辺のふたり


わたしは「アート・アニメーション」といったカテゴリーに入ってくるようなアニメーションは結構観るのが好きなほうだったりします。数をこなして観て来たわけでもないんですけど、興味を惹かれれば普通の映画と同じように割りと積極的に観たりしてます。でもアート・アニメーション」系の映画って、特に短編なんかは、表現形式の実験的な拡張だとか、絵画的な表現に手の込んだアプローチをしてるようなものだとか、あるいは具体的な物語よりも動きの面白さに特化させてるようなものといった、ストーリーラインに沿って進む通常の映画的な文法からちょっと外れたところに立ってるようなものが多いという印象なので、結構楽しんで観てる割にはどこか少し身構えるような感じでも観てしまいがちになります。

でもこの「岸辺のふたり」に関しては、そういう身構えて見るという感じにはほとんどなりませんでした。
寓意に満ちてはいるけれど、視覚的に現れている形はシンプルで非常に分かりやすいというのがまず最初の印象で、シンプルさに導かれてそのままこの世界に馴染んで入っていけます。実は少女の一生を8分に収めるための手際は結構見事なものだったりするんですけど、そういう表現手段の特異さをあえて対象化して見せようとはしてないからあまり意識に引っかかってくることはありません。
「岸辺のふたり」はそういう凝ってはいるけれど、凝っていることをこれ見よがしに見せない分かりやすい語り口で「人を慕う想い」を伝えようとしたところが、多くの人の共感を呼んだんじゃないかと思います。
ちなみにこの映画はそういう共感に裏打ちされて2001年の米国アカデミー賞短編アニメーション部門、2001年の英国アカデミー賞短編アニメーション賞、2002年の広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ、観客賞などを受賞しています。

☆ ☆ ☆

いつもならこの辺でどんなお話なのかあらすじでも書いておくところなんですが、この短編アニメ「岸辺のふたり」ではそういうことができません。というのもこの映画に関しては物語的に捉えることが出来るようなものが劇的空間のなかにほとんど存在してないからなんですね。複数の登場人物がいてそれぞれが動き回ることでエピソードが生まれ、こまごまとしたエピソードが複雑な伏線で絡まりあいながら起承転結を重ねていくような、普通の映画だとあって当たり前のような物語がここでは見出すことが出来ません。
そういうストーリーが存在しない代わりにここにあるのは、キーワード的な単語を使って云うなら「反復と差異(ジル・ドゥルーズの超難解な思想書の題名から反転させてちょっと拝借!)」といったようなものです。「岸辺のふたり」は物語的な要素にはほとんど目もくれないで、その「反復と差異」とでも言い表せるような構造を使って、時間の流れの中で変容していく少女の姿と、それでも変わらない父への思慕を端的に描き、絶えることのない「人を慕う想い」という感情を、観ている側に鮮烈な形を持ったものとして呼び起こそうとします。

映画は父が小船に乗って去っていったのを見送った少女が、その後もこの岸辺に自転車に乗ってやってきては、父が去っていった彼方を眺めて再び帰路につくという光景を繰り返し描写していきます。少女の様子は岸辺にやってくるたびに変化し、描写を重ねていくうちに少女から大人へと姿を変えていきます。少女の変化に対して画面構成は季節的な変化はあるものの基本的に岸辺の並木道のふもとという構成からは離れていきません。
全体の構想が少女が父と別れた岸辺に再びやってくるシーンの繰り返しであるために、そこへ訪れてくるたびに見せる少女の変化が際立って見えてくることになります。少女の一生という変化を短期間の中で見せるには、表現としては思い切っているもののこれはおそらく最適の方法だったんじゃないかと思います。
こういう「反復」することを効果的に使った表現方法は、他の分野ではどうかというと、たとえば小説などを思い浮かべてみてもほとんど使われてないんじゃないかと思います。小説は短編であって、それがたとえ生活のほんの一部分を切り出したようなものでも、よほどの実験的な作品でない限り物語性を放棄するようなことはしないはずです。小さな小さな日常の一齣でもそれなりに起承転結があって出来上がってる。これはおそらく映画という同じジャンルで見ても、実写の短編映画の場合も同じことだと思います。そういう意味でこの短編アニメはアニメーションでしか表せない世界を適切に表現することが出来た、アニメーションであることに必然性を持っていたアニメだったと云えるかもしれません。

少し話が外れるかもしれないけど、わたしが最初にこのアニメーションを観たときに連想したのは、実は小説や他の実写映画やアニメーションではなくて、分野としては一番離れてるかもしれない「音楽」でした。
連想した音楽は現代音楽の作曲家スティーヴ・ライヒが作った「18人の音楽家のための音楽」。
もちろん「岸辺のふたり」にはサウンドトラックとして「ドナウ川のさざなみ」をモチーフにした音楽がきちんと使われていて、これはこの短編アニメに極めてマッチしてると思ってるので、サウンドトラックにライヒの音楽を使った方が「岸辺のふたり」のイメージ的には良かったという意味じゃなく、作品を成り立たせてる基本の部分でライヒの作品は構造的によく似てるんじゃないかという意味で連想しました。
「18人の音楽家のための音楽」はものすごく簡単に云うと、いわゆるミニマル・ミュージックと呼ばれるカテゴリに属する音楽で、短いシンプルなフレーズが延々と繰り返されていくなかで、そのフレーズがゆらぎ、干渉しあううちに、少しずつ変化していく部分が浮かび上がってくるという、まさしく「反復と差異」を先鋭的に具体化したような感じの曲です。わたしには「岸辺のふたり」が見せる場面の構成がこの曲と凄く近い場所に居るもののように思えました。
考えてみれば「反復と差異」って音楽の基本構造でもあります。だからその音楽的な「反復と差異」で成り立ってる「岸辺のふたり」は、映画であるから鑑賞すれば映画的な内容を伝えては来るにしても、映画であるにもかかわらず映画から派生してくるものよりも音楽から派生してくるようなものを根本に持ってる特異なアニメーション、音楽の言葉で綴られたアニメーションのようにわたしには思えました。
「岸辺のふたり」は少女の一生を8分に凝縮する、ある意味時間の表現に特化する他ないアニメなので、時間そのものでもある音楽と繋がりあうのはとても自然なことだったのかもしれません。

☆ ☆ ☆

「岸辺のふたり」の絵はペンシルとチャコールを使って仕上げられています。全体はまるで水彩画のようなタッチで描かれていて、どこか素朴で暖かい手触りのある絵といった感じになってます。
でも優しいタッチの絵ではあるけど、優しく穏やかなだけの絵かというと、彩度を落とした色調のせいなのか、コントラストのきつい影が落ちてくるような、あるいはほとんど影絵とでもいえそうな描画スタイルのせいなのか、わたしにはどこか少女が抱え込んでしまった孤独を投影するような絵にもみえる時がありました。このアニメが展開するイメージは穏やかな水彩風の外見なので一見シンプルに見えるようですけど、少女のその時々の心のありようを言葉ではなくて画面に登場する風景や、事物で語りきろうとする、思いのほか含みの多い絵であったと思います。

またアニメなら当然動きの表現となるんですけど、「岸辺のふたり」のアニメーションは、全体が静的な水彩画風の雰囲気の割りにはよく動いてるように見えました。車輪の回転、前後しながら走る、あるいは追い抜いていく自転車、風に揺らぐ木の枝などから始まって父と娘がシーンごとに見せるさまざまな仕草まで、実に丁寧に動きがつけられてます。特に鳥が群れで飛び立つ動きの秀逸なこと。「岸辺のふたり」は「動くものを観ることの快楽」といったアニメの本来的なものを呼び起こすポイントにおいても、とても上手く出来上がってるように思えます。
固有の物語を生成させないためにだと思うけど、この父と娘のふたりが画面に登場する時には、バストショットは皆無で表情も描かれず、台詞も一切ありません。でもそんな登場人物の様子でも、動きの表現が多彩で洗練されてるから、この父と娘の存在は凄く表情豊かに生き生きと表現されてるんですね。動きだけを拠り所にして、その場面場面で移ろい行く情感まで伝えてくるように腐心しているところが「岸辺のふたり」のアニメーションには確かにあります。なんだかわたしは俳優の顔芸に頼りきってバストショットばかりの狭苦しい画面になってるような実写映画にちょっと見習って欲しいと思ったりしました。ちなみにわたしが好きなシーンはお父さんが小船に乗りかけてまた思い直し、娘のところに戻って娘を抱き上げるところ。何だか抱き上げ、抱きしめる動作に万感の想いが込められてるようで、お父さんの気持ちが思いのほか伝わってきます。
動きに関してはもう一つ、たとえば風に乗って自転車が猛スピードで去っていくようなちょっとユーモラスな場面もいろいろと用意してあって、結構重い話と上手くバランスを取ろうとしてるようにみえるところもいいなぁって思いました。重い話だからといってここぞとばかりに深刻な語り口にするだけがいいとは限らないって事です。

☆ ☆ ☆

わたしはこの映画を観て、「岸辺のふたり」は観る人の心の有り様によっては随分と印象が異なってくる映画になるだろうなというようなことを思いました。ある意味自分を写す鏡のように働く映画といった感じでしょうか。
キャッチフレーズの「8分間の永遠」になぞらえて云うなら、人は永遠ではありえないことを現実の感覚として知ってしまった人は、この短編アニメーションが最後に用意してるヴィジョンにたどり着いた時、思いのほか心を揺り動かされてるんじゃないかと思います。そのことがまだ観念的な領域に留まっていて、現実の側面として目の前に現れてきてない人は「岸辺のふたり」を観ても、何だか繰り返しの多いわりに起伏に乏しい、退屈なアニメとしか目に映らない可能性が高いです。
あるいは、寺山修司じゃないけれど「さよならだけが人生」だと、生きることは失うことの総和にしか過ぎないんだと思い定めてしまったような人には、この「岸辺のふたり」というささやかなアニメーションはそういうニヒリズムに対抗するある種の救いのようなものとして姿を現してくるかもしれませんね。


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原題 Father And Daugther
監督 マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット(Michael Dudok de Wit)
製作年 2000年

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Father And Daugther


Steve Reich • Music for 18 Musicians CD Trailer


「岸辺のふたり」とは直接関係ないけど、一応参考までに。こういう曲です。

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岸辺のふたり [DVD]岸辺のふたり [DVD]
(2003/06/04)
不明

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「岸辺のふたり」のDVDです。現在は廃盤。ただこのDVDは、「岸辺のふたり」一本しか収録されてません。
たとえ廃盤でなくても8分のアニメが入ってるだけのDVDを買えるかどうかはかなり決断が要るんじゃないかと思います。他の作品とあわせて作品集のような形でリリースして欲しいところです。

岸辺のふたり―Father and Daughter岸辺のふたり―Father and Daughter
(2003/03)
マイケル・デュドク ドゥ・ヴィット

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マイケル・デュドク ドゥ・ ヴィット監督は自作のこの短編アニメを自分で絵本にしてます。わたしは読んでないの内容まではどんな出来になってるかは分からないんですが、一応こういう展開もしてるということで。



スティーヴ・ライヒ/18人の音楽家のための音楽スティーヴ・ライヒ/18人の音楽家のための音楽
(2008/10/08)
ライヒ(スティーヴ)

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ミニマル・ミュージックの代表作。一種のトランス・ミュージックでもあります。波紋が拡がるように拡散していく音の波に浸りきってると自我の境界面が溶け出していくような感覚に陥っていきます。
リリースされてるCDにはいくつか種類があるようですが、私はこのバージョンをLPで持ってたので。まずなによりもこのジャケットが好きなんですよね。


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最後まで読んでいただき、有難うございました。