【近況】展覧会の応募作品を提出したこと +【美術】大阪国立国際美術館 コレクションの誘惑展 +【写真】街角スナップ +【音楽】愛の歌聴き比べ

この前から懸案だった展覧会に応募する写真。なんとか選んで郵送する形にまで持っていけました。これを書いてるのは5月の27日なんですけど、5月終了まで数日という時点で、あとは郵便局に持って行くだけという状態になってます。
別に参加したからといって何かもらえるわけでもないし、3日間無条件で一般的に公開してもらえるというだけのイベントなんですが、いざ送るとなると、どの写真を送ろうか予想外に迷ってしまって選ぶのに難儀してしまいました。
まず迷った要因の一つはあなたのとっておきの一枚を見せてくださいという展覧会の趣旨。とっておきの一枚って、言うのは簡単だけど結構選ぶのに苦労します。だって自分にとっては全部が何らかの形でとっておきなんだから。どのどっておきを送ろうかとこれは本当に途方にくれてしまいました。それと迷ったのがその選びにくいとっておきの一枚にさらに、込めた気持ちを書いてくれという注文がついてたということ。極私的な関心で撮りはしていても、そんなに人に語るような気持ちを込めて撮るような撮り方をしてないから、何を書いても本心じゃない部分が混じってどうも後ろ暗い気分が残りそうでした。

結局最終的に選んだのは、ブログに今まで載せたものは除外するという選び方をしたから、撮った中でも比較的気に入ったものを選べないという制限も出来てしまってこれも選択を難儀にした要素だったんですけど、今まで撮ってブログに載せたもの以外だと、とりあえず見慣れたものからは選びにくいと思ったこともあって、一番最近に撮っていた、自分にも新鮮で、まだブログで記事にしてない奈良で撮ったものから選んでみようということになりました。
そんな風にして選んだ写真は雰囲気的な写真と若干ネタに走ったようなものの2枚。応募は一枚なのでこのうちのどちらかというところまで絞り込み、この2枚を応募の指定サイズに引き伸ばしてみることにしました。引き伸ばしを頼みに行ったのはいつも現像をしてもらってるムツミ・フォトステーション。
期せずして応募しようと選んだ二枚は両方とも縦構図の写真で、横の構図のほうは応募規定では色々とサイズを選べたのに、縦方向の写真は写真を貼る応募パネルの大きさにもよって、六切りサイズ一つの規定となってました。ムツミにネガを持っていって、これとこれを六切りまで引き伸ばして欲しいというと、フィルムカメラで撮ったライカ判の画面サイズは六切りにすると両端を、縦構図の場合は上下になるんですが、かなりトリミングしてしまうことになるサイズなんだとか。六切りのワイド判のようなサイズもあるからライカ判で撮った写真を引き伸ばすにはそちらのほうが良いんじゃないかといったようなことを云われかけたものの、実は応募しようという目的のための引き伸ばしで、そのサイズの指定が六切りなんだと説明することになりました。
その後、どうしてもトリミングする以外に選択肢がないものだから、選んだ写真の上下のどのバランスでトリミングするか店の人と話をしながら決めていくことになったんですが、これがまるで何かの共同作業をしてるようでなかなか面白かったです。
もともとフィルムで写真を撮ってると現像段階でどうしても撮った写真を他人に見られるわけで、担当の人は現像しながらいろいろと思ってるんだろうなぁと想像したりすると、ちょっと恥ずかしくなったりして、その辺は勢いで乗り切ったりしてるところもあるんですけど、そのあとはフィルムをスキャナで取り込んだりフォトショップを通したりと作業はPCの中で完結することになります。そのPCで完結してしまう部分も含めて最後まで今回は他人と話しながら進めて行くようなことになったわけで、頼みに行く前は自分の中だけでは完結しない、意に沿わないようなところやちょっと気が進まないところもあるかもしれないと思ってたのに、実際はそうでもなかったのは結構意外なことでした。

六切りは引き伸ばしにしてはそれほど大きくはならないサイズだったんですが、それでも仕上がった写真を観ると、いつもはL判の同時プリントという出来を確認する程度のプリントで済ませていたところから比べると印象の差は歴然としていて、撮った本人でも見違えるような出来の写真になってました。PCを通して出来上がる写真とはまるっきり密度が違うというか、35mmのフィルムでもここまで緻密な絵としてフィルムに定着されてたんだと再発見でもしたような気分になる印象でした。
今回の引き伸ばしで思ったことは、撮った写真は絶対に印画紙に銀写真プリントしたほうが良いということと、できれば大きめできちんとした写真にしてみるということが必要だということでした、PCで自己完結するのは写真という出来事の途上で立ち止まって引き返してるようなものだと半ば確信した感じ。これからは撮ったフィルムについて、全部というのは負担が大きすぎるので、そのなかで気に入ったものの1~2枚は大きくきちんとした写真にしてみようと思いました。

2枚六切りに引き伸ばしてその両方が縦構図の写真。どちらを選ぼうと縦構図の写真であることは変わらないことになって、応募はここのHNではしなかったから会場ではわたしの写真がどれなのかは分からないはずですけど、縦構図の写真がわたしのものだけだったら自動的に分かることになるなぁと、そんなことを漫然と考えたりしてます。会場は全国各地で設定されていてすべての応募作品が一堂に会するわけでもなく、そのうちのどこの会場に飾って欲しいかは提出する時に選ぶようになってるんですけど、あいにくと京都では会場は設定されてないようだったので大阪の会場を指定しておきました。
会期中に自分でもどんな感じで自分の写真が並べられてるのか確認しに行ってみるつもりでいます。

追記)5月の28日に郵送しました。これで、アンデパンダン形式の気楽な展覧会と自分で云いながらも妙に意識のある部分を占領し気になっていたものが取り除かれて、なんだかホッとした感じです。

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この前の記事に観にいきたいと書いていた展覧会、大阪国立国際美術館で開催されている「コレクションの誘惑」展を観にいってきました。
国立国際美術館ってなんだか物々しい名前の美術館。去年の夏に森山大道展をやっていたのを観にいったきり、ほぼ一年ぶりの訪問となりました。京都からだと京阪の淀屋橋行きに乗って、終点淀屋橋に着く少し手前の京橋駅で、3つほど駅があるだけですぐに終点に着く極めて短い中之島線に乗り換えるという道順になっています。
行ったのは5月の下旬に入ってすぐくらいの時で、一年前の記憶を頼りに、中之島線は京橋から分岐するとすぐに地下にもぐって地下鉄となり、その地下のもぐった目的の駅で降りて地上に出てから一度曲がり角があるくらいで美術館まではほとんど道なりだったのは覚えていたから、特に場所の確認が必要だとも思わずに出かけました。
それで、何の疑問もなく終点の中ノ島で下車。でもその後地下から地上に出て眼前に広がった光景が川沿いだったという点は去年と同じだったものの、去年のようにその川沿いを歩いていっても、見える光景は微妙に印象にないものばかりでした。一年でこんなに変わるのかなと呑気なことを考えながら歩いて見覚えがあるようなないような橋がある所で、去年はここを曲がるとすぐに美術館があったと記憶どおりに道を折れて歩いていきました。ところがこの角を曲がればすぐだと思った角を曲がっていっても、あるはずの美術館に一向に行き着かないんですよね。行き着かないどころか美術館があるはずの場所に何処かの運送会社の倉庫が立ってる。この辺りで道を間違えたというよりも降りる駅を間違えたことに気づき、実は大阪国立国際美術館に行くために降りるべき駅は終点の中之島じゃなくてその一つ前の渡辺橋という駅でした。

降りる駅を間違えたということに気づいてからは、幸運にも間違って降りた駅が終着駅だったから、本来降りるべきだった駅は乗り過ごしてきた駅だったのかここから先にある駅なのか、どちらなんだろうという判断を迫られることもなくて、知らない街に来たついでに街の様子でも見物しながら電車がやってきた方向に戻ってみることにしました。途上でなにやら学校のようなものの廃墟しみた空間を見つけ、門扉の隙間からカメラを突っ込んで写真を撮ってみようかなぁなんて思ったりしながらも、そんなことをしてる場合じゃないと美術館探しに戻ったりしながら歩いてると、一駅戻る程度の距離だったから、程なく美術館の方向案内の看板があるのを見つけ、それを見つけて以降は去年付近を歩いで見たものと一致する光景が一気に目の前に増えてきて、後は簡単に目的の場所にたどり着くことが出来ました。結局美術館は間違って降りた中之島駅とその一つ前の渡辺橋駅の中間少し渡辺橋寄りくらいの位置にありました。

美術館はもとは大阪万博の時の建物を再利用して始まったものらしく、その後この地に移転して今の形になったもののようです。外観はパイプのフレームで組み上げた鉄骨むき出しのような構築物で成り立つドーム状の部分とそこからドーム頭上の空間に突き出たパイプの装飾物で構成されてる建築です。建築というにはちょっと風変わりかも。外空間に突き出てるパイプの装飾はデザイン的にもたいしたことがなく、わたしにはあまり美的なものにはみえないものだったんですけど、建物の存在様式は考えて見るとかなりユニークで、面白い構造になってます。何しろパイプとガラス壁のドームを入ると外からもガラス越しに見える一階部分には案内のテーブルしかなくて、その案内の人に促されるように地下へ降りていくエスカレーターに直通することになります。美術館は地下一階から始まり地下三階まで展示空間を展開する形になっていて、まるで普通だったら地上に積み上げていく建築を逆向きに地下に向けて積み上げて行ったような構造になってるんですね。建築といえば地上に伸び上がっていくもののイメージがあるから、地上部分の本来的に建築物といいたくなるような部分は地下へ降りていくところに蓋をしてるようなドームしかない形になってるこの美術館は、ドームのデザインの今ひとつな感じは別にしても、かなりユニークな印象を与えるものだと思います。


コレクションの誘惑展チラシ1

コレクションの誘惑展チラシ2


さて、そういう風変わりな美術館で開催されていた展覧会なんですけど、結論的に云ってしまうと、予想外に面白い展覧会でした。「コレクションの誘惑」というタイトルからなんだか所蔵品を漫然と並べた展覧会なのかなという印象を持っていて、展示作家の中に興味のある人物がいたからそれを観られるだけでも良いやと思って観に行った程度だったのが、展覧会全体の構成が良く考えられていて会場を出るまで、思ってた以上に興味を持続して各コーナーを巡り歩く感じで鑑賞することが出来ました。

大阪国立国際美術館の趣旨は20世紀の美術と戦後現代美術で拡張されていく様々な芸術的な試みや同じく戦後の日本での芸術動向を跡づけていく作品を収蔵していくというようなものらしくて、非常に広範囲にわたる収蔵品を地下二階の第一会場にタブローや、ミクストメディアによるオブジェ的な作品、地下三階の第二会場には20世紀から現代の写真作品と大きく分けてたうえで、第一会場の美術フロアでは各展示室を、「20世紀初頭~1950年代」「1960年代~1970年代」と10年おきに区切って「2000年以降」という最後の区切りまで、20世紀から今日までの大まかな美術の動きを俯瞰できるような構成になっており、地下三階の第二会場の写真展示のほうは「イメージ」「時間」「身体」「空間」といった、こちらは年代的というよりも写真が内包する各テーマごとに様々な作家がどういう風なアプローチを試みたかというような区分で展示空間を構成してました。
現代美術というだけで、あるテーマや時代や有名画家に偏って闇雲にコレクションしてるのではなくて、時代の全体像を俯瞰できるような意図でコレクションしている美術館の意図が良く分かるような展示になってます。
なにしろ第一会場に入った最初にプロローグ的に目にはいってくるのがピカソの「道化役者と子供」のタブローなんですけど、ピカソ、有名だし集める値打ちがあるといった扱いでもなくて、本当に20世紀美術の開始地点というだけの意味合いで展示されてます。一方会場全体はそんな有名作家にスペースを割くでもない、風変わりでもっと時代に生々しく密着してるような作品が多くて、20世紀から現代までの美術を教科書的ではなく、わたしたちならこういう風に俯瞰するという意図が割りとよくでてる展覧会になってるようでした。

チラシでも分かるかもしれないけど、この展覧会のわたしの一番の目的はデュシャンの作品が観られるということでした。そして、ピカソを眺めながら第一会場に入った最初の展示室で、何しろこの展示室のテーマは「20世紀初頭~1950年代」だものだから、いきなりデュシャンの作品と対面することになりました。
それにしても、このテーマだとまずシュルレアリスムそのものになるところが、ピカソの扱い同様に、シュルレアリスムの代表選手に違いないダリの作品なんかが一つも展示されてないのが小気味良いというか、その代わりといってはなんですけど、エルンストやマン・レイの作品やデュシャンが並べられてるのがわたしの嗜好にぴったりと合ってしまって、ワクワクして作品を眺めることが出来ました。

デュシャンに関しては絵画は早々と描くのを止めて後年はチェスプレーヤーに転進、密かに遺作を作ってはいたものの芸術活動として表立ったことからは完全に身を引いてしまっていたために作品そのものはそれほど多いともいえず、代表はスキャンダラスな、便器を逆さまに置いただけのレディメイド「泉」辺りと捉えられると、ひょっとしてこれが展示されてるのかなというちょっとした危惧がありました。レディメイドという観念は面白いけど、実際のオブジェとして提示される便器は特に見て面白いわけでもないから、デュシャンは好きでもこれが会場に堂々と鎮座してるのもちょっと嫌だなと。
ところがそういう危惧は杞憂というか、会場の真ん中に展示台に載せられて置かれてたのは「トランクの中の箱」という、わたしは写真でしか見たことがなかったユニークな作品でした。観念先走りのデュシャンの作品の中だと見て面白い類に入るようなオブジェ作品。

箱
図録からデジカメで撮ってみました。スキャンするには分厚すぎて。

どういうものかというと自作の作品のミニチュアを箱詰めにして販売したというオブジェなんですね。デュシャン自身は移動美術館と云っていたそうで、中にはミニチュアの「大ガラス」や同じくミニチュアの便器「泉」とかが封入されています。一作オリジナル主義とも云うべき従来の美術の考えの中で、のちに社会の中で一般的になるような大量生産のコピーといった観念を持ち込んでるような作品でもあります。
普及版と豪華版の二種類があったらしく、国立国際美術館が所蔵してるのは普及版のほう。基本複製品がオリジナルの特徴だったから、国内でも他の美術館で所有しているところがあるようです。当時どういう販売方法で売られたのかは知らないけど、美術館がコレクションのために買う以外、一般人も買えたとするなら、買った人は今やガラスケースの向こう側でしか見ることが出来ない作品を手にしたわけで、わたしはこれを買えた人が本当にうらやましいと思った作品でした。
会場では箱を展開して、中に封入されているものが一覧できる形で展示されてました。ちっちゃな便器だとかガラスのヒビまで再現された小さな「大ガラス」がなかなか楽しいというか、ミニチュア的なもの、ドールハウス的なものが大好きなわたしの琴線に触れるものが夥しい展示物でもありました。

他にはマン・レイの物が面白かったです。写真だと、デュシャン関連で、「大ガラス」を話題にしたときにちょっと書いた「埃の培養」が出てたし、デュシャンの女装人格であるローズ・セラヴィの肖像を写した有名なものも展示されてました。「醒めてみる夢の会」の皆で集まってなにやらこれから妖しげな実験でも始めそうな写真はそういう会があったら絶対に入ってみたいと思わせました。
でもマン・レイの作品のなかで今回の展覧会として一番面白かったのは写真ではなくてオブジェ作品である「イジドール・デュカスの謎」でした。あるオブジェを厚手の布で包んで縄で縛った作品。まるで宇治川公園で見た水道管のオブジェそのままのような作品です。こんなのを観るとひょっとしたら宇治川のオブジェは市井に潜む無名のマン・レイが作ったものじゃなかったかと思えてきたりします。

謎
同じく図録に載っていた写真をデジカメで。

そのオブジェにかけられた布のシルエットとタイトルから、タイトルのイジドール・デュカスというのはロートレアモンの本名で、ロートレアモンの詩「マルドロールの歌」に出てくる「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」という一節がシュルレアリスムの本質を表す定義として扱われてるところから、布に包まれてるのはミシンだというのは良く分かるんですけど、たとえばどんな色でどんな装飾が施されたようなミシンだったのか、あるいはタイトルと形からミシンだと良く分かるとと思わせてるだけで、本当は布につつんだ時にミシンに見えるだけの全く違うオブジェが厚布の中に潜んでいるのか、包まれた中身に関するそういったことはこういう風に作品として成立してしまうともう二度と縄を解くわけには行かずに永遠に知られないままになってしまいます。
この永遠に知られないという観念はわたしにはざわざわと波立つような感覚を覚えさせるもので、岡倉天心とフェノロサが法隆寺の千年以上に渡って閉ざされてきた夢殿の封印を解いたのとは逆のバージョンになるんだなぁなんて事を連想しました。時間が経るにつれて観る側のこの縄を解いて厚布を払いのけてみたいという衝動は増して行くことになるでしょうね。

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最大の目的だったデュシャンの作品を展覧会場の一番最初のコーナーで堪能してしまい、後はつけたしかと思いながらも次の展示コーナーに入ってみると、ここがまたとても興味深い展示構成となってました。
20世紀初頭のダダやシュルレアリスムの時代も大好きだけど、60年代のアンダーグラウンド的で混沌とした時代の芸術も結構好きなんですよね。
次の展示テーマである「60年代~70年代」のところでは、そういうわたしの興味に直結する日本のアンダーグラウンド美術がいくつか置いてあって、60年代頃を中心に「人の真似をするな」というテーゼの元に活動した具体美術協会という前衛芸術集団の回顧展で随分と昔に見たことがある、白髪一雄の足で描くアクション・ペインティングなんかもあったんですけど、そのなかでも特に興味深かったのは工藤哲巳のサイケデリックでグロテスクなオブジェと三木富雄の耳のオブジェをみられたことでした。

芸術活動の枠組みを拡張していくような熱気と混沌が渦巻いていたような60年代、パフォーマンスなどでその動的な時代の空気を体現するようなイメージがある工藤哲巳のグロテスクなオブジェは写真では見たことがあったけど、実物を観るのは今回が始めて。まさか工藤哲巳のものが展示されてると思わなかったから、会場の片隅に見つけた時は思いのほか集中して細部まで確認するような感じで眺めてしまいました。鳥かごの中に人体の破片のようなものや、蛍光色でサイケデリックに塗られた男性器風の芋虫的オブジェなど、有機的でグロテスクな断片が詰め込まれた立体作品。写真で見るほどには人体の破片はリアルでもなかったけど、全体の存在感はやっぱりちょっと圧倒的でした。どうせなら生首の造形物が鳥かごの中に転がってる「イオネスコの肖像」が見たかったものの、展示されてるのは「危機の中の芸術家の肖像」などでそこがちょっと心残りだったかなぁ。調べてみると「イオネスコの肖像」はなんと京都国立近代美術館が所蔵してるそうで、もったいぶらずに見せて欲しいと思います。
ちなみに小さいけどチラシの写真の裏のほうの右上に出てる写真が工藤哲巳の作品です。

もう一人、生涯ひたすらに耳をモチーフとした立体作品を作り続けた三木富雄の作品は随分と前に展覧会で一度見たことがあって、とにかく耳に憑かれた作家という印象で記憶に残りました。3Dのモデリングなんかしてみると耳の形って異様というか、こんな形は人の発想では思いつかないと思えるほどユニークなものだと嫌というほど思い知らされるから、形として耳にとりつかれてしまう造形作家の精神は十分に理解できるところがあります。

60年代はポップアートの時代でもあったけど、今回の展覧会ではウォーホルの作品、マリリン・モンローのシルクスクリーンなんかがいくつか飾られていただけでこれは物足りなかったです。オルデンバーグの巨大ハンバーガーだとかリキテンスタインの印刷物をそのまま持ち込んだような絵画とか見てみたかったです。

70年代以降の潮流として展示されていたコンセプチュアル・アート的な作品群は昔は面白かったけど、今は作品の物質性を軽んじすぎていてあまり興味のある対象ではなくなった感じで、河原温なんかの黒地に白で日付だけを書いた作品が壁に掛けてあったものの今ひとつ興味を引かず。でもそういえば昔はこういうアートに凄く興味があったと懐かしい思いで見ることは出来ました。
コンセプチュアル・アートって芸術の観念そのものを対象化していくようなもので実はデュシャンの直系のような位置づけにも出来るんですけど、デュシャンはいつまでも興味の中心にいるのに、コンセプチュアルアートの作家はもう興味の範囲には入らないなぁと云うのが正直な感想でした。でも河原温はアメリカでもっとも成功した日本の美術家の一人なんですよね。

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各展示コーナーは入り口の所でその時代、造形作家たちが時代とどうか代わり合ってどういう作品として結実させていったのか、簡単な外観を説明するパネルがあってそのパネルの内容を裏打ちするような形で作品が展示されてます。
先にも書いたようにシュルレアリスムを説明するのに、これはまぁ所蔵してないからだと思うけど代表的なダリなんかを持ってこなかったりする感性は各展示コーナーでも一貫していて、そうはいっても本当に外せないポップアートのウォーホルの作品なんかはためらいもなく展示したうえで、そこそこ知られてるけどそれほど知れ渡ってる感じでもない、でもそのコーナーの意図は十分に果たせるような作家の作品が上手く配置されてるようでした。

あまりにもマニアックな選択眼にも寄ってない微妙なバランス感覚が、見慣れた作家をあまり展示しない新鮮さを保ちながら、展覧会の展示意図は凄くよく分かるという状態をうまく作っていて、なかなか面白いと思えた展覧会でした。

それと全体を見渡して面白く思えた作品は絵画よりも立体作品のほうが個人的には多かったです。展示の説明書きではミクスト・メディアと表示されていた作品。立体といっても従来的な彫刻なんかの立体作品じゃなくて、いろいろな素材を使ってそれこそユニークな発想の元に手で触れるような量感を伴って空間の一定量を占めてるような作品です。デュシャンの「触ってください」というタイトルのオブジェも含めて、50年代のコーナーにおいてあった、この作家もお気に入りの作家の一人であるジョセフ・コーネルの、世界の些細な断片を集めて組み合わせ、標本箱のような箱に収めて詩的で小さく閉じた世界を作る博物誌のような箱詰めのオブジェをはじめとして、70年代以降の展示には表現形式の多様化の元に従来では見られなかった素材や表現による立体作品が立ち並んでました。
こういう形式にあまり囚われてない立体作品は表現形式を拡張し続ける現代の美術の一番面白い部分を見られるんじゃないかと思うところもあり、これだけいろんな種類のミクスト・メディアの作品を一時に鑑賞してみると、従来の感覚からはみ出てるところが判りにくいという部分もありはするけど、その多様性がかなり豊かなものに感じられるところがあって、なかなか楽しかったです。

こういった今回の展覧会で予想外に面白かった立体作品では、船越桂の木彫りの人物オブジェが、イメージとしては天童荒太の本の装丁や広告などで見慣れたものだったのに、実際に立体物として目の前にしてみると、実物の持つ静謐な存在感とでも云うものにちょっと圧倒されるような印象を持ったのが新鮮でした。前に四谷シモンの人形の前で圧倒されてしばらく動けなくなった時があったんですけど、その時のこの場所を動きたくないという感覚が、この船越桂の作品の前で再びわたしの中で立ち上がってきたような感じになりました。立体はやっぱり紙媒体で見るよりは立体そのものとして体験しないと感じ取れない部分があると痛感します。
それとどうも人の形をしたものに惹かれる傾向があるようで、船越桂の人物オブジェ以外にも、棚田康司のひょろ長い男の子像なんかの前でもいちいち立ち止まって眺め回したりしてました。形として人の形というものにはやっぱり特別な何かがありますね。

文句なしに有名という教科書的な収集でもなく、絵画にこだわらず様々な立体作品も視野に入れてるというのが大阪国立国際美術館のポリシーだとするなら、今回の「コレクションの誘惑」展はまさにその現代美術のバラエティに富んで豊かな部分を魅力的に見せて、その意図は十分に伝わってくるような展覧会だったと思います。
予想外のデュシャンの作品も見られてかなり満足した展覧会でした。

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この展覧会で二部構成になっていたもう一つのテーマである写真。この美術館は写真のコレクションも積極的に展開してるようで、そのコレクションの成果の一端を今回の展覧会で披露してくれてました。
写真のほうは第一部の美術のように年代別の区分じゃなくてテーマ的な区分になってたんですが、それは写真は美術ほどは時代の潮流というか形式の拡大というような方向には向かわないものなのかもしれないということを指し示しているようにも思わせました。確かに印画紙になにかの像を焼き付けるという方法は美術でカンバスを捨てるほどには自由に出来ない方法で、印画紙を捨ててしまうと写真ですらなくなってしまうところから、写真は根本の部分で平面を飛び出して立体作品に拡張していくような方向には向かいにくいのかもしれないと思わせます。
だからこの展覧会の展示も写真が本来的に持ってるような基本的なテーマ、「空間」だとか「身体」だとか「時間」だとかいう写真としていつも携えてるような普遍的なテーマに作家がどういう風に向かい合ったのかという観点での展示になっていたのは凄く当然のことだったのかもしれません。形式の拡張もマン・レイなんかが試みた流れは続いているけど、この展覧会の写真の部は形式の拡張というよりもテーマの現代的な拡張という観点で構成されているようでした。
だからおのずと焦点は時代に見る特徴というよりも展示作家個人の個々の感性に還元されるような感じになって、時代的な流れというのはそれほど見えない展示となり、写真の会場は絵画などの第一会場で感じたような統一した雰囲気というか、まとまった何かがあまり感じられない展示構成になってるようにわたしには見えました。

面白かった写真家のものを上げてみると、まず「イメージ」テーマでまとめられたコーナーにあったドイツのヴォルフガング・ティルマンスの抽象写真。最近美術手帖のバックナンバー、2010年の5月号でこの人の特集を読んだこともあったりして馴染みがあった写真家です。日常的なリアルな瞬間を撮ったように見せるために徹底的にフィクショナルなアプローチを試みる作家のもう一つの側面である、被写体のない印画紙上で操作して作る写真。白バックに揺らめくように流れる色彩の繊細な線が美しい写真で、バックナンバーで触れられていたティルマンスの抽象写真の一端に触れられて興味深かったです。

「時間」テーマのコーナーでは宮本隆司の日比谷映画劇場やベルリン大劇場などの巨大な建築物の廃墟の写真と九龍城を被写体にした写真が圧巻のイメージで迫ってきました。廃墟はもともと対象物としては無視してられないものとしてわたしの中にあるから、それを全面的に扱った写真が面白くないわけがなく、また九龍城の混沌としたイメージを様々な角度から抽出していく写真も、組写真的に数多く展示されてたんですけど、どれも見ていて飽きなかったです。九龍城のような意空間にカメラを持って投げ込まれたらそれこそ一日中飽きもせずにシャッターきってるだろうなぁと思いました。それほど廃墟と九龍城は被写体として魅力的。あと九龍城の写真を見ていて、PSの昔のゲーム「クーロンズ・ゲート」を雰囲気そっくりなんて思い出したりしてました。あまり流行らなかったゲームだけどわたしは美脚屋なんていう妙なものが出てくるこのゲームの世界がかなり好きだったんですよね。

「空間」テーマのところに展示してあった米田知子の一連の空き地写真も面白かったです。可能な限り主観を排したような視線で街中にある空き地を淡々と写した写真群だったんですけど、思い入れを乗せた主観写真が氾濫してるところにこういう空間の特性に任せてしまったような冷たい手触りの写真を観ると凄く新鮮でした。空き地に過去の記憶の風化を絡めとるような意図があるようで、ただの空き地に廃墟的な空間が立ち上がるような気配もあって、そういうところにも惹かれたのかも。でもこの人のもう一つの組み写真、過去の偉人の所持しためがねのフレームを通してその人の著作の文面を撮るというのは、アイディア倒れという感じがしました。写真としてみていてあまり面白くないんだもの。

全体としては現代の写真を集めてるのに、依然モノクロの作品が多かった印象が際立ってました。やっぱりテーマ性を際立たせたりするには色という具体的なものは排除したほうがやりやすいということなのか。こういうのを観てるとわたしもまたモノクロで撮りたくなってきます。モノクロは上手く撮れなかったら精彩を欠いたものになりやすくて、今はカラーを詰めたカメラを持って出歩いてるんですが、ハッセルには宇治川公園で撮りきれなかったモノクロフィルムがまだ入れたままになってるし、あれを再び携えて何処かに写真撮りに行こうかなと思ったりしながら展示を見てました。

コレクション展チケット


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いつものごとく会場の一番最後に設置されていたグッズ・ショップのコーナーで展覧会の図録を購入。本来の売店は地下一階にあるのになぜか今回の展覧会では地下三階の写真フロアの最後にも出張所が設けられてました。

コレクション展図録
NIKON COOLPIX P5100

この図録、タイトルは国立国際美術館2012といったもので、今回の「コレクションの誘惑」展の図録という体裁にはなってません。この美術館の2012年現在での収集物とこれまでの美術館活動の記録を収録したものになっていて、今回の展覧会には出品されてなかった収集物も掲載されてます。今回の展覧会の作品は美術館がこれまでに収集したものの一部を展示するという形だったので、この本の体裁で結果的にこの展覧会の展示作品も掲載されてることになってるわけです。
各作品の簡単な解説と過去の展覧会の記録など、この展覧会の図録として作られるよりも結果的には豪華な本になって、すべてカラーの写真できちんと収録され、この厚さで1500円というのはかなり安いという印象でした。

☆ ☆ ☆

美術館のレストランでランチタイムは過ぎてたけどメニューがそのまま置いてあるのをみて、まだ注文できるかどうか訊いてみたら大丈夫という返事だったので、ここで遅めのランチを食べました。食べたのはハンバーグのランチ。ご飯はお代わり自由なんて書いてあったけど、定食屋でもないちょっとすましたレストランでお代わりする人っているのかなぁ。
その後梅田辺りまで足を伸ばして、中古カメラショップを覗いたりして帰宅。
降りる駅を間違えて始まった一日はどうなることかと思ったけど、それなりに無事に満足感を伴って終了という結果に落ち着きました。


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今までに撮った写真から何枚かアップ。

祇園の路地にて
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
祇園界隈の路地にて

祇園界隈
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
祇園の家の屋根の上

八坂神社
OLYMPUS PEN F : E.Zuiko Auto-T 100mm F3.5 FUJICOLOR 100
八坂神社

全部、オリンパスのハーフカメラで今年のお正月過ぎに撮っていたものです。この前の軒先飾りの写真を撮った時に一緒に撮ったもの。

一番上のは水が溢れてるところと泳いでる魚とどちらを中心にしようか迷って魚のほうを中心にした写真。真ん中は鍾馗さんですね。祇園辺りの家の軒先には結構鍾馗さんが佇んでたりするんですけど、これは祇園だけのことなのかなぁ。どうなんだろう。
一番したのは部分だけクローズアップして撮ってみようと思ってシャッターを切ったもの。「物」を撮りながら「物」の写真となることにちょっと距離を置けるような気がします。

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Sissel - Mon cœur s'ouvre à ta voix


サン=サーンス作曲のオペラ「サムソンとデリラ」で歌われるアリア。邦題は「私の心はあなたの声に開く」というものだそうです。ただひたすらにサムソンへの愛とその愛に応えて欲しいという切なる思いを織り込んでロマンティックに歌いあげられる歌曲で、フランス語の響きがいいです。フランス語ってこういう歌を歌うために作られたんじゃないかと思うくらい。
クロスオーバー系の歌手シセルの歌はかなり素直というか、あえてそういう風にしてるところもあるんでしょうけど、綺麗に聴こえはするけどどことなく押しの足らないような部分も併せ持つ感じが若干あります。
このセシル版は最後の囁くような声で一言愛してると呟くところがお気に入り。この締めくくりの囁きで曲全体のイメージを総仕上げしてるような感じで、余情たっぷりの情感を聴き終わったわたしの中に残していきます。

他にはマリア・カラスが歌ったものも聴いたことがあります。シセルの澄み切った歌声に比べるとちょっと暗い情緒といったものを併せ持っている感じの複雑なテクスチャを纏うような歌声で、歌い方も少しドラマチック。こちらのバージョンもいいです。

Maria Callas - Mon coeur s'ouvre à ta voix




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マイ・ハートマイ・ハート
(2004/06/23)
シセル

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