2013/12/15

この記事は腕を怪我する前に書いたものです。
もうちょっと何か書き足そうかなと思ってたんだけど、今年中にアップするつもりだったので、この辺りで表に出してみます。
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いつだったかさかのぼって調べるのも面倒だけど、おそらくもう2年ほど前くらいに、現像タンクとフィルムピッカーなるものを買って、モノクロフィルムを自分で現像してみると書いたことがありました。
書いてから暫くは、なんだか本当にやれるのかと半信半疑の状態に陥って放置状態だったんだけど、今年の夏頃から他に必要な道具を買い揃えていって、先日、これは記念として日にちを明記しておいたほうがいいかもしれないので日付つきでいうと10月の10日に初めて自分の手でモノクロフィルムを実際に現像してみました。
と書き始めたものの、これは現像の手順なんて微にいり細にいり書いたとしても、おそらく興味を持って読んでくれる人なんてほとんどいないだろうから、ごく簡単にやったことを列挙して済ませてしまいますけど、現像の手順は5つしかなくて、現像、停止、定着、水洗、水切りー乾燥と、これだけですんでしまいます。極端に言えば5種類の薬液を使う分だけビーカーに入れて、最初の3種類は経過に沿って現像タンクに入れ替えていくだけ。残りの水洗系統の2過程はタンクから取り出した現像完了のフィルムのリールを指定時間薬液につけるだけで処理できます。
やってみる前はややこしそうと思っていたけど、整理してみるとこれだけの過程で、溶かした後安定するまで一日ほど安静にさせておかなくてはならない現像液など、薬液の準備といった前段階の作業や、仕上がったフィルムの乾燥などの後処理の時間を省くと、現像タンクに薬液を入れて攪拌してるような要の工程は30分もかからずに終了してしまいます。
難しく考えて、失敗したらフィルムに写した画像そのものも得られないような結果に終わると思っていたのに、かなり適当な作業になってしまったんだけど、それでも画像を得るという段階はかなり無茶なことをやったとしても画像の質は問わないなら簡単にクリアできるようなレベルで心配する必要もなかった感じでした。やり方の上手い下手で斑が出来たりするというのも聞いていたけど、そういうこともわずかでも下手を打つと見舞われるというほどのこともなく、仕上がったフィルムをスキャンしてみると、初めてやってみた作業だったのにまるで現像むらになったところなんてないという結果で終了しました。
やってみた感じはまるで理科の実験のようだということ。フィルムを使った写真のウェット・プロセスはまさに化学反応の結果だし、薬液を入れたビーカーを使う順番に目の前に並べ、作業の経過にそってタンクに注ぎいれたり排出したりなんていうことを繰り返してるのは、実験のようだというよりも化学実験そのものの行為だったかもしれません。
そういう化学反応の果てに、現像タンクから取り出したフィルムに自分が撮った写真が浮かび上がっていたのを見た時は、これはやっぱりちょっとした驚きであって、ワクワクドキドキのなかなか楽しい体験でもありました。
とにかくどうなるか分からないけど一度実際にやってみないことには始まらないと思ってやってみた結果として振り返ってみると、現像の作業そのものは整理してみればシンプルなものだったけど、作業手順のスピードが思った以上に余裕がなかったということは完全に思惑違いでした。頭の中では何度もシミュレーションしてから始めてるのに、現像液をタンクに注ぎ込む開始の作業からして慎重に行き過ぎて20秒くらいかかって、最初の連続1分攪拌を残り40秒に短縮するのかそのまま1分強行で攪拌を静止させるまでの時間を1分20秒まで延長するかという判断を迫られたのを皮切りに、その後の25秒放置の後5秒攪拌というのを6分くらい続けるという過程の、こんなことでさえも考えていた以上に余裕がなかったことはやってみて始めて分かるようなことでした。
慌てなければ大丈夫と頭では分かっていても、実際には慌てます。
結局、予想外に早く進む秒数に押されてこの程度で次の段階に移ってもいいのか?作業量がたりないんじゃない?っていうのが重なり、時間通りに進まない気配濃厚なのにもうちょっとやっておいたほうがよさそうと、規定されてる配分をわずかに超過する部分も多くて、得られた画像の質は若干現像しすぎたんじゃないかというところがありました。ブログに載せてるのは若干フォトショップで明るさやコントラストを修正してます。
今オリンパスのOM-1に次に自分で現像するつもりの2本目のモノクロ・フィルム、コダックのトライXを入れて撮ってるんですけど、これを撮り終わったら次の現像はもうちょっと首尾よく出来るんじゃないかと思ってます。
ともあれこれでモノクロは印画紙に焼くという段階を除けば(なんだかこれが一番重要なプロセスだという気がしないでもないけど)、かなりの部分を自分で制御できる可能性を手に入れたし、なによりもランニングコストがかなり軽減されるという利点もあって、フィルムで写真を撮っていく上で助かる部分が多いです。
映画だってフィルムの質感にノックアウトされてるような人間だし、トイカメラから始まって、写真でも粒子による画像にそういうフィルムの質感好きの体質を覚醒させられた段階で、ランニングコストのことはある程度度外視はしてました。フィルム代をどうこう云うほどけち臭くないといったような意気込みでやってはいたんだけど、そういう考えはまた別として現像代などの外部に発注していた費用が軽減されるのは単純に歓迎するところがあります。
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一番最初の写真はこの前の記事で書いたように狐のお面に誘われたのがきっかけで大いにはまってしまって、今でも暇さえあれば写真機片手に足を運んでる伏見の稲荷大社で撮った写真。正確に言うと稲荷大社の背後にそびえる霊山稲荷山の、山巡りへ誘う鳥居のトンネルをくぐって行った先で、一番最初に稲荷山のいかにも異界らしい光景を目にする場所。この石段を上がったところに熊鷹社という社と新池、別名谺ケ池(こだまがいけ)という、神秘的な山中の池とお塚群があって、ここから稲荷山の本格的な山登り、異界巡りが始まります。
このところブログの中でもごちゃごちゃした混沌そのものというような写真が撮ってみたいなんて書いてますけど、そういう意図がわりと上手く出た写真じゃないかと、この自家現像フィルムの中では一番気に入った出来になっていた写真でした。
自家現像、失敗しなくて良かった。画像を得ることはかなり簡単にクリアするとは書いたけど、手酷い失敗をしたら、この写真、得られない可能性もあったところでした。でもそんな失敗してたらこの写真があったことも分からない結果になっていたから、痛恨の出来事扱いにもならなかったかもしれないけど。

初めての自家現像フィルムからさらに何枚か載せてみます。
これは熊鷹社のほうじゃなくて、千本鳥居への入り口の鳥居の脇の森の中においてあった像。まだ山に入るはるか手前くらいのところで稲荷大社の敷地内、本殿の裏側とでもいうような場所にありました。傍らに由来とか説明が書いてあったけど読んでないです。今度行ったら読んでこよう。
なにやら向こう側に開いてるような空虚な穴を掲げて見せてるような狐の像はここにしか見ないものでした。
空虚な穴を掲げてるというのがなんだかこの世界の論理からちょっとずれてしまってるようなところがあって面白いです。説明読んでたらまるで違うことが書いてあるのかもしれないけど、前に立った感想はそんなところでした。
シンメトリーな画像にしたかったけど、撮影に使っていたコンタックスT3はコンパクトカメラだから、どうしても近接の対象だとパララックスが発生するために、一応気を使ってはいたものの若干ずれてしまってます。これとかレンジファインダーの類は作者側の意図が届かない部分が持ち込めてそれが使う面白さではあるものの、真ん中に置きたいとか思うようなフレーミングにはあまり適切なファインダーじゃないです。
それと背景もこんなにぼかすつもりじゃなかったんだけどなぁ。
T3は、というかT3に限らずコンパクトカメラの多くはプログラム・オートで撮ると出来るところまで開放絞りで撮って、開放で撮れなくなってから絞り始めるという動きをするから、この暗い森の中だとおそらく絞りは開放に近くなっていたんだと思います。
絞り優先でも撮れるようになってるカメラだけど、こういう機能は開放好きの人が絞り開放で撮るために使いそうな機能というより、むしろオートだと開放で撮ってしまうような状況で絞り込みたい時に使う機能っていう感じがします。これも絞り優先でちょっと絞って撮ったほうが良かったかな。

伏見稲荷大社でおそらく一番有名な千本鳥居。伏見稲荷大社の写真は今も撮り続けてる最中なのでそのうちまとめてブログに載せるつもりでいます。なにしろ稲荷山もまだ中腹までで頂上まで登っておらず、見てないところが一杯あります。



こっちは街中で撮っていた写真。街の形や色、この場合はモノクロだから陰影になるんだけど、そういうのをファインダーで切り取ってフィルムに採集していくような意図で撮ってる写真です。これは場所は河原町丸太町辺り。自転車置き場なのかこういうディスプレイなのかよく分からないけど、自転車が直立してました。
自転車はもう少し上にフレーミングしたほうが良かったかな。電灯の笠の位置でフレームを決めたんだけど、画面上部の暗闇の分量はちょっと多すぎて間延びしてる感じがします。
CONTAX T3 +Sonnar f2.8 / 35mm
Kodakのモノクロフィルム Tri-XをKodakの現像液D-76で自家現像
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Huun-Huur-TuのThroat singingの動画を探していて見つけたもの。初めて聴いてちょっと変わっていたので興味を惹かれました。
Tumivut - Inuit Throat Singing - The Competition Song
Inuitとあるからエスキモーの間で歌われてるもののよう。
ちょっと調べてみると、タイトルにもあるように競技的な、というか動画を見てもそんなに競い合ってる感じもしないから、ちょっとしたゲームのような歌のようです。
男たちが狩りに行ってる間に女たちがする娯楽。女性二人が向かい合って、歌の技を繰り出し、息が続かなくなったり歌が止まったり笑ったりしたほうが負けというようなゲームらしいです。
日本でいうにらめっこのようなものの歌バージョン?
とにかく笑ったら負けというから、ゲームは必ず笑顔で終わるんですね。
考えてみたら、にらめっことかも笑顔で必ず終わるし、敗者が絶対に笑って終わるというあり方は競い合うものとしてはかなりユニークなものなんじゃないかと思います。
Female Mongolian Throat Singer
こっちもThroat singingの動画を漁っていて見つけたもの。わたしはこういう歌はドスがきいてるし、男性が歌ってるという思い込みがあったので、女性の歌い手さんが歌ってるのはかなり新鮮でした。
モンゴルではこういうのが一般的な歌い方だったら、カラオケとかはかなりサイケデリックだろうなぁと妄想してみたり。
前にチベットの尼僧チョイン・ドルマの音楽を取り上げた時にも書いたけど、声明なんかにも通底してるこういう音楽は、アジアの人間だと感覚的には無条件で理解できます。