2014/03/02

先日、大阪渡辺橋にある国立国際美術館で開催されているアンドレアス・グルスキー展に行った時、乗っていた京阪の窓から外を流れ去る光景を何枚か写真に撮ってみました。高梨豊さんの写真集「IN'」の真似?
あいにくの雨や曇りの空模様のうえに国立国際美術館は館内撮影全面禁止なので、ほとんど写真撮れないだろうと思って、たいそうなカメラを持って出る気にもなれず、かといって何も持っていかなかったら何かの拍子に写真撮りたくなった時に困るから、ほとんど持ち歩かないデジタルのコンパクトカメラ、GRD3を持って出かけました。デジタル使ったのは本当に久しぶり。
京阪に乗ってる時、窓の外を眺めてはここは写真に撮ったら面白いだろうなぁというポイントがいくつかあって、ちょっと写真撮りたくなるポイントではあっても、電車を降りてそこまで写真撮りにいくまでは行動していない、そういうところをこの日は撮ってみようかなと思いついたわけです。
京阪電車の座席は進行方向に向かって二人掛けの座席が並んでるという形になっていて、この日は運よく窓側の席を確保。そんなに混むこともなく結局乗り換えの京橋駅まで隣には座る人も来なくて、この二人掛けの座席をわたし一人で占有でき、カメラもあまり気兼ねせずに出せました。
窓際にカメラを置いてレンズ鏡筒を窓ガラスに密着させてスタンバイ。こうしないと窓の映り込みも写真に写ってしまいます。
撮ろうと思ったポイントは、何しろ乗りなれた路線ということであらかじめどの辺りでやってくるかは分かっていたから、その少しくらい手前で大体同距離にありそうなものがきた時にピントを決めてスタンバイ。ポイント通過にあわせてシャッターを押し切るって云うようなやり方で撮っていきました。
もっともシャッターのタイミングが合わなくて、思った位置でシャッターが切れなかった写真が大半で結果はあまり思うようには行かなかったんだけど、何枚かは大体思ったタイミングで撮れていて、線路脇の鉄塔なんかもフレームにはいって邪魔しなかったものから一枚アップしてみます。
今回のは東福寺と鳥羽街道の間くらいのポイント。東福寺の三ノ瀬川から伸びる川筋が線路の下を通って京阪に沿って流れる疎水へと流れ込むところ。
デジタルカメラのそのままの画像はなんというかあいまいさを排除しすぎてるというのか、いつももうちょっと加工したくなる気分が沸きあがってくるんだけど、今回もそういう気分が濃厚だったので、結果的にはPC上でコントラスト、色合い、彩度等に手を加えてます。
GRD3がそのままで提示する写真じゃないです。
撮影時から写真が出来上がってくるまでの面白さ、一回性の存在感は圧倒的にフィルムカメラではあるけど、でも手を加えるのが前提なら、アウラは消え去るもののデジタル写真も意外と面白い結果が得られるかなと、あれこれ画像を弄くりまわしながら思ってました。
RICOH GR DIGITAL III
☆ ☆ ☆
さて、アンドレアス・グルスキー展です。

以前この展覧会が開催されると書いた時に、グルスキーに関してはカミオカンデやピョンヤンのマスゲームなど限られた作品しか知らなかったから、作家活動の全貌が知れるような展覧会だったらいいというようなことを書きました。
実際に展覧会はどうだったかというと、この点では期待はずれ。
まず何よりも展示作品数が少なかったし、展示された作品も、これは作者の監修によるものだったらしいいけど、テーマ別にまとめるとかせずにばらばらに解体したような形で展示されてたという感じで、全体像を俯瞰するような展示方式にはなっていませんでした。
ある意味テーマに沿って先にテーマありきのような見方をして欲しくなくて、作品そのものをそこに付随してくる様々な意味づけのようなものから切り離してみてもらいたかったのか、テーマ的なものや時系列を無視した配置で作品間に新たな関係性を構築しようとしたのか、意図はそれほどよくは分からなかったけど、確かにいえるのはちょっと見にくい展示だったということで、こういうのはなんだか現代美術で流行ってる、ヴォルフガング・ティルマンスもこういう展示の仕方をしてるインスタレーション的なものだろうとは思うけど、ちょっとはぐらかされたような印象はありました。同一の対象を撮ったシリーズの作品が会場のあちこちにばらばらに置かれてるから、この被写体のは確かあっちにもあったと、グルスキーの監修意図とは関係なしに会場をあちこち動き回ることになって、こういう展示をするなら、むしろ観客の動きも完全に制御しないと意味ないんじゃないかなんて思ったりしました。
で、こんなことを書いてるから展覧会はつまらなかったのかと云うと、それが全くの正反対でこんなに面白かった展覧会は久しぶりだったというのが正直な感想でした。会場ではとにかく圧倒されまくりで、視覚から入ってくる刺激で頭の中は「!」マークで埋め尽くされるような鑑賞の時間となりました。
何に圧倒されるかというとまず単純に目の前に見える、具体的な作品のとんでもない大きさ。美術館の壁の高さに届くかと思うくらい巨大な写真が並んでいて、まずこれで「わ、凄い!」って思います。展示作品の数が少なかったのは、こんな大きな作品を広さが決まってる会場の壁に並べるには限度があったためじゃないかと思えるくらい。
なぜこんな大きな作品にしてるかということについてはグルスキー曰く、実に単純にこれは大きいほうが良かったと思ったからというようなことらしく、最初の頃はお金がなくて大きく出来なかったんだそうです。
大きさの印象がまず眼に飛び込んできて、うわぁ!って思うんですけど、驚かせるために大きくしてるんではなくて、まぁ多少は吃驚させるつもりもあったのかもしれないけど、写されているものを見れば作品が出来る限り大きくなくてはならなかった理由がよく分かります。
とにかく細かい細部がぎっしりと詰まってるようなイメージ、ディテールの暴走とでもいえそうな圧倒的な量感がこの人の作品の代表的なイメージだと思うけど、このディテールの極端な集積を表すためには小さな画面では絶対に駄目だと判断していたんでしょう。
また、眼もくらむような細部の密集、たとえば北朝鮮のマスゲームの一体何人いるんだろうと思うくらいの巨大な人の集合体を構成する一人ひとりの人物の、それが誰であるのか知人が見たら容易に区別が出来るくらいの精密さで捉えられたディテールの奔流ともいうべきものを表現するために、この巨大なスケールの写真全体が隅から隅までピントがあったパンフォーカスにしてあって、これが視覚的な効果としても、自然に見えることを志向しつつ、あるレベルではありえないほど不自然で、ある種サイケデリックで眩暈がするような視覚体験へと導くようで面白かったです。
この極端なパンフォーカス、普通のカメラではピントがあってるように見えるという程度のパンフォーカスにしかならないから、実はこの形に仕上げるために、大判のカメラで複数撮ったイメージをデジタルで合成してこのイメージを作ってるというような、結構手の込んだことをやってるらしいです。
画面を埋め尽くす小さなものが、たとえば証券会社の証券マンだったり、巨大スーパーマーケットの棚に並ぶ小さな商品だったりするから、ここから消費時代の現実だとか資本主義がどうしたとか、旧態依然としたテーマ性を見つけ出そうとする場合があるかもしれないけど、おそらくグルスキーは徹底的に美術系の人、視覚の構造に興味の大半があるような作家の印象があって、そんなテーマ性は二の次で、グルスキーが目にしてる世界がただひたすら驚異的な視覚イメージとして目の前にたち現れてくるのを体験すると、別に社会的なテーマのようなものを見つけようとしなくても、それだけで十分なように思えます。
美術的な文脈の人という印象はこの細部の氾濫という特徴のほかに、もう一つ見出すことが出来る特徴、こっちはディテールの過剰さとは正反対というか、全体にストイックなほどの構成を保持しようとしてるところにも現れてるかもしれないです。いうならば細部という微視的な視線とは対極にあるような巨視的な視線。
バンコクの汚い川面の油膜が作る模様だとか、プラダの靴が整然と並べてある棚だとか、異様な幾何学模様を作るレース場のコースだとか、グルスキーの写真には形と全体構成に関して常に最大限の関心が向かってるような印象があります。
この抑制された構成力という点で凄いのはカミオカンデのような暴走する細部が特徴の作品でも、同じ場所にこういうストイックな構成も同時に組み込んでるということで、しかも構成的でありつつ、そのことにおいて細部を統制するでもなく、どちらかというと混沌と秩序が同じ場所に共存してるようなイメージを成立させてるところが、ヒエラルキーを排除した遍在的な世界が特徴のグルスキーの写真に良くフィットしてるんじゃないかと思います。
あと凄く気に入ったのは縦構図の写真が多かったことと、俯瞰の写真が多かったことかな。縦構図は去年の夏にそればかり撮ってたくらい、構築的なフレームで好きだし、俯瞰は、遠くまでぎっちりと埋め尽くしてるイメージにするには外せない要素だったんだろうけど、俯瞰好きには、しかもその好きな俯瞰を仰ぎ見るほど大きな画面で見られたのは楽しい体験でした。
展示数は少なかったけど、写真に興味がある人は必見。
こんなに巨大な写真が見られるという機会もあまりないだろうから、それだけでも必見。


会場ではハードカバーでかなり立派な図録が売られてます。グルスキーの写真集を一つ欲しかったから買ったけど、巨大さが必須の作品なら、美術館の壁の高さくらいある写真集でないと駄目なわけで、そういう意味では欲しかったから手に入れたものの、豪華だけど根本の部分では無意味である本だったのかもしれないです。
☆ ☆ ☆
Michael Buble - Quando Quando Quando
マイケル・ブーブレって最初に名前知った時、変な名前って思ってそれっきりだったのが、何かの拍子に実際に歌を聴いてみると、なんだか予想外に色気があって、しっとりと滑らかで、ムンムンした押し付けがましいものじゃない、こんなに優雅な色気を出せる男の歌い手ってあまりいないんじゃないかと思ったら、積極的に聴こうとは思わないまでも結構お気に入りの歌手になってました。
曲は元はトニー・ロニスが歌ったカンツォーネの古い曲。その後エンゲルベルト・フンパーディンクの歌でヒットした曲でもあります。
元歌はちょっとラテンっぽい曲調が好みかなぁ。