2014/09/22
人の形を成したもの

茶碗坂 2014/07
清水寺に向かう茶碗坂の、寺にはいるちょっと手前くらいの民家の玄関横に堂々と鎮座してるほていさん。このほていさん、わたしは妙に気に入ってしまって何度か写真撮ってるんだけど、なぜかどうも上手く撮れない。うまく撮れないというよりも納得した撮れ方にならないという若干困った被写体でもあります。大体光の当たり具合で強烈な影が出来る位置に立ってるほていさんで、結構光は移ろっていき、その加減が思うようにならないといったところなんだろうけど、この写真は胴体に妙な光が当たる時間帯だったようで、胸とお腹が奇妙な形を浮き上がらせてました。
人を撮るのは大の苦手。街中で写真撮ってると、人というのは結構大きな意味合いの被写体になると思うんだけど、だからといって撮るとなるとかなり敷居が高い。
知人ならともかく、知らない人を写した写真は後で見返してもわたし自身の感覚から云えば結局これは誰なんだと思うばかりであまり面白くないし、根本的に人見知りの内弁慶な人間なので、全くの通りすがりの人に、道を訊くような、知らない人に話しかける誰も文句のつけようがない理由でもあるようなのとはまったく逆の、他人に話しかけるにしてはまるで必要性もないような、撮影の許可を求めることからしてストレスが大きすぎて、気分が萎えます。
アクセント的に欲しいと思うような時には添景として人の姿を入れるようなこともあるんだけど、こういう風に画面の隅っこに人らしいものを入れるのも何だか未練がましいっていう気も最近ではしてきて、こうなると、人らしいものがフレームに入ってたら、珍しく人が写ってるなんて云われるような武田花さんの写真のように、積極的に人を入れない写真にしようかなとも最近は思ったりしてます。
第一わたしはポートレート写真って云うのがさっぱり分からない。とても美人で見惚れるとかいうのだったら分かるけど、しわだらけの老人の写真を出して、人生がどうのこうのなんて云いたそうなものは、わたしは写真は徹底的に表層的なものしか写さないと思ってるから、何だか薄っぺらいヒューマニズムもどきのものを纏って、表層的であることを恥ずかしがってでもいるように、いかにも意味ありげに仕立ててるもののようにしか見えないところがあります。

藤森 2014/07
藤森小学校の門の前にいつも立ってる飛び出し注意の子供。満身創痍とでもいえそうな見かけで、飛び出すとこうなるよと、身をもってメッセージにリアリティを盛り込んでるのだろうか。
写真として人を撮ることの意味合いとか未だにいまひとつ理解し得ないところがあり、それは基本的にはわたしの人間への関心の薄さのようなものとリンクしてるんだろうと思います。
でも人の生き様のようなものを描こうとしたりすることにそれほど注意が向かない、というか自分の任じゃないと思ってるにしても、人に関わることにまるで無関係でい続けてるというわけでもなく、人の形については結構興味を持ってるんじゃないかと思ってます。
人の形は呪物の根源にあるものだし、マジカルでとても特殊なもの。
本来の人そのものには臆してしまうことがあるけど、人形好きだったり、マネキンや人の形をした看板なんかを見ると結構嬉々としてシャッター切ってるのは、人の形を取ることで呪物化するそういう妖しげなところに惹かれてるからかもしれないです。

梅田 2014/07
こういうのを写真に撮ると、いつも思うんだけど、この写真がたとえばかっこいい仕上がりになっていたとしても、そのかっこよさはディスプレイした人のセンスによるものであって、写真を撮った自分にあるものじゃないだろうっていうこと。
そこから、ならば自分の表現にしてしまおうといろんなテクニックを積み重ねてイメージを表現的に組み立てていくか、写真の本義は記録にあるとして記録者に徹するか。まぁこんな極端な分かれ方は実際にはしないと思うけど、シャッターを切るだけで誰でも目の前にあるイメージを簡単に切り取れるカメラという媒体を使う限り、そういうことはいつも頭の片隅に残ってるんじゃないかと思います。
この写真は乱舞する浮輪の様子も面白かったんだけど、マネキンの光の当たり方がかっこよくてシャッターを切りました。