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街の肖像画#14 跳躍する光 見切れ椅子 + Albert Watson 写真集「Cyclops」

Step the light is bouncing
光が跳ねる段差
2015 / 03 / Kodak SuperGold400





3つの椅子
3つのカラフルな椅子
2015 / 01 / Fuji Natura1600


最初のは四条烏丸の交差点、三井ビルを地下道から上がってきたところ。二枚目のは確か大阪梅田の大丸、トイレに向かう通路にあった待合的な空間で、通路にちょっと顔を出していた色の塊が面白くて目を引いた場所でした。顔文字の |ω・`)チラ みたいなものも連想しました。
イメージは極めて断片的でいつものごとくあまり情緒が絡まない、乾いた撮り方になってます。クールな写真は撮ってみたいけど、これはクールというよりもドライという感じかも。もうちょっと情緒を乗せるほうがいいのかどうか、出来上がった写真はいつもどこか腑分けしてるような撮り方だなぁと思うところもあるんだけど、やっぱりこういうのが自分の世界を見る視線なんだろうと思ったりして視線は揺らぎ、そういう視線の揺らぎのようなものを写すのも、写せるものならば面白いのかなと思ったりもします。
それと今回の写真は何かがいろいろ足りないような気がする。シンプルというよりも物足りなさが先にたってる。
でも何が足りないのか答えが出てこない。


このところ「街の肖像画#~」なんていうタイトルで記事を書き続けてるけど、まぁいちいちタイトルを考えないですむのは楽ではあるものの、これ、全部の記事をこのタイトルにしてしまうと、個別の意味も乗らずに、全部同じならいちいちつける必要性もないわけで、やっぱりそれぞれに区別できるものをつけたほうがいいのかなと、ちょっと迷いが生じてる今日この頃。
前にも書いたけどタイトルとかつけるの本当に苦手。ひょっとしたら何を撮ってるのか自分でも判ってないんじゃないかと思うくらいある共通した意味合いで纏めるのが苦手だし、意味のありそうなタイトルをつけようとしても、その方向では有意味なフィールドに辿りつけないんじゃないかと思うものもあって、テーマで纏めると今回のような写真はどういう形で記事にしていいか分からなくなってしまいそうです。

とかなんとか云いながら、それなりにイメージに安定感が出るから、見たままの個別タイトルをそれぞれの写真にくっつけてみたりして。

☆ ☆ ☆

なんだか事あるごとに意味がどうのこうのって言う話題にふれてます。読み返してみて、対象と意味の関連とか乖離とか、自分の中で自分でも思わないほどシリアスな位置にあるのかも。


☆ ☆ ☆

アルバート・ワトソンの写真集「cyclops」です。アルバート・ワトソンの写真集としてはこれが一番最初に出たものらしくて、処女作にすべてが詰まってるなんて云う説に従うと、ここにはワトソンの写真のエッセンスが詰まってるといってもいいかもしれません。
まず「cyclops」って云うタイトルがかっこいい。写真集を見てみると怪物の姿なんてどこにもないし、その内容とはあまり関連してないようだけど、写真集のタイトルとしてはどんなコンセプトで撮られたんだろうと興味を引く意味深なタイトルではあります。
これは情報としては以前から知ってたんだけど、アルバート・ワトソンは生まれつき片目が見えなかったということで、でもこのタイトルとその事実がわたしの中で結びついたのは結構後のこと。気づいた時は、あぁ成程、とパズルピースが組み合い、所定の位置に収まった感じでした



albert watson1



生まれはスコットランドの人、奥さんの仕事の都合でアメリカにやってきて、もともと大学でデザイン関係の勉強はしていたそうだけど、ここで写真家としての自身のキャリアをスタート。のちにヴォーグやハーパースバザーなどで活躍することとなります。そう、活躍の場とした雑誌の名前で一目で分かるとおり、ファッション写真の分野で頭角を現した写真家の一人で、作品はファッション関連だけに留まらず広い範囲をカバーする活動になってるけど、どの写真もそのコアの部分にファッション写真の撮り手であることが明瞭に存在するような、クールでかっこいい写真が目白押しとなってます。
「cyclops」は全写真モノクロでファッション関連が主な活躍の場所ということもあるのか、ポートレートの写真が多いです。
わたしはポートレートって撮ったことないし、撮られた写真を見てももう一つよく分からないっていうのが本音のところで、可愛らしい、美人だ、くらいの反応はするけど、基本的にこの人、誰?って云うところで止まってしまうし、しわだらけの老人の顔とかいかにもイノセントな子供を出して、ヒューマニズムと絡めて何か言いたげで、分かった風な写真は、写真に人生なんか写るかよとばかりに大嫌いとくるから、基本的にはあまり馴染まない素材なんだと思います。
でもこの写真集に出てくるポートレートはファッション的なセンスに軸足を置いて、被写体となってる人物もクラプトンだとかクローネンバーグだとか、マイク・タイソンだとかキース・リチャーズだとか、デニス・ホッパーもいるし挙句の果てには坂本龍一まで分野を越えて有名人ばかりとなると、ポートレート不感症のわたしでも結構興味深く見ることが出来ます。

モノクロの質もトーン重視の人だとまるで版画だと拒否反応が出るかもしれないくらい、影は漆黒に沈みこんでエッジが効いた写真が多いです。ポートレートもオブジェの写真もそんな感じで、漆黒の影を作り出すための、モデルへのライティングとかは、モノクロのポートレートを撮ろうとする人にはかなり参考になるかもしれないと思います。ただ実際にやってしまうと完全にワトソンのコピー写真になってしまうのが落ちだと思うけど。


cyclops1





cyclops2


フィリックス・ザ・キャットの写真と、腕を出したドライバーの写真が凄い好きです。結構前に薬局の前のうさぎの人形の写真で、まさにこんな感じのを撮ったことがあるんだけど、後でこのフィリックス・ザ・キャットの写真見て、圧倒的な存在感の差にめげた事がありました。一体どこにこの存在感の差が出てくるんだろうと。結局自分のうさぎの写真は未だにここに載せてないんだけど、そのうち比較対象でさりげなく載せてみようかな。
ドライバーの写真はデザイン感覚の勝利っていうところ。リアルな空間は色々と雑多なものが存在してるから、その雑然としたところから、こういうシンプルな切り取り方が出来る発想力はもう単純に凄いとしかいいようがない。デザイン方向にのみ突出させたソール・ライターって云う感じで、より街中でのスナップショットにシフトした位置で、斬新なデザイン感覚を持ち込んだ、そのソール・ライターの写真も好きだし、絵的な構成力が際立ってるのがやっぱりわたしの気を引くようです。

もう一つ、全体にクールでかっこいいイメージの写真集なんだけど、その印象に一役買ってるのがデヴィッド・カーソンが担当したタイポグラフィーのセンス。まさにプロフェッショナルになるべくしてなった才能って云うのはこういうものだろうと思わせるセンスは表紙のデザインから全開状態になってます。写真もそうだけどこういう写真を引き立ててるセンスもこの写真集の特筆すべきところなんじゃないかと思います。






実はこの写真集、オリジナル以外にコンパクト版も存在していて、このアマゾンリンクのものは商品情報だとオリジナル版のようだけど、レビューを見るとコンパクト版のレビューも混じりこんで、一体どっちの版か分からなくなってます。
ここで買うのは、どのバーションがやってくるかが分からないので、ちょっと危なっかしいところがあります。
当然オリジナル版の大きな本のほうが写真を十分に見回すには最適で、コンパクト版は予想以上に物足りないんじゃないかと思います。
それとドイツ版と英語版、フランス語版があって、ドイツのほうがオリジナル本流らしいんだけど、レアなのは英語版。わたしのは英語版のオリジナルで、入手するならこれが一番いいんじゃないかと思います。





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街の肖像画#13 黄檗山萬福寺

羅漢さんが持つもの
2014 / 12 / Fuji Venus800


写真を撮りに出かけてるのは山科で、徐々に範囲を広げつつあるようなところなんだけど、今回はちょっと話題を変えて暫く前に何回か記事にした黄檗山萬福寺の写真の続き。

以前の記事で毎月一度訪問してると書いたその理由を明らかにしてみれば、何も信心深いからというわけでもなく、実は二月と十一月を除いて毎月8日、この日一日だけほてい祭りと称して、境内に手作りの品物を並べる屋台が出る催し物をやっていて、この日に限り拝観料が要らない取り決めになってるからでした。
要するに屋台が必ず目に付くということを無視すれば、8日はとにかくただで萬福寺の中に入れる特異日なんですよね。屋台が存在しない境内を永遠に見られないというデメリットはあるものの、ちょっと写真撮りに行くのに毎回500円だったか、拝観料を取られるのはかなり痛いので、この特異日はここぞとばかりに利用させてもらってました。
ただ今年に入ってからは1月の8日にいったきりでご無沙汰気味になってます。ちょっと見慣れすぎたところがあるからなんだけど、境内は毎月少し違う装いにしてるところもあるので、またそのうちに気分を新たにして撮りに行こうかとも思ってます。
万字型に組んである欄干があって、これをかっこよく撮りたいんだけど、万字の向こうに見える背景がどうにも上手く収まってくれない。これを何とか写真にしてみたいです。




万福寺 本堂
2015 / 01 / Fuji Presto400を自家現像





蓮の鉢
2015 / 01 / Fuji Presto400を自家現像

撮ってる時はまるで意識しなかったけど、連続する丸いものの列の写真が続いてます。これ、蓮が植えてある鉢で、撮ったのは冬場だったから鉢だけの形で境内にあるものが全部一箇所にあつめられていました。夏の頃に行くと参道の脇を大きな団扇のような蓮の葉と花が飾るように、一列になって延々と並べられてます。三門の手前、総門に入る参道の傍らには放生池という大きな蓮の池もあるから、ちょっとした蓮尽くしのお寺でもあります。



脇から眺める布袋様
2014 / 09 / Fuji C200



これは他のとは時期が離れて、萬福寺に通い始めた頃に撮った布袋様。ミノルタのSR505を使ったんだけど、アンダー過ぎて結局フィルムからスキャンできずに、同時プリントしたものをスキャンしてます。
あの露出不足のネガからこれだけ画像を引き出せた業務用のプリントマシンはさすがという感じ。

布袋様で思い出すんだけど、萬福寺といえば、こうやって実際にやってくるまでは、わたしにとっては稲垣足穂が居候を決め込んでいたお寺という捉え方でした。ちなみにわたしのこのブログのタイトル、彗星だとか絵具箱といったイメージは、「星を売る店」とか「天体嗜好症」だとか、そんな稲垣足穂の浮世離れした小説のイメージから取ったところもちょっとだけあったりします。彗星という言葉が頭の中に浮かんだ時、足穂っぽくていいじゃないかと、確かそんなことを考えてました。
ところが実際に写真撮りに萬福寺に通いだして、稲垣足穂と絡めて何か書こうと思い、調べてみると、関連するようなことがほとんど出てこないんですよね。どうしてなんだ?と困惑するばかりになってました。
日本の情緒的な文学土壌に何一つ足場を置かなかったような不思議な作品を生み出し続けた、この太って布袋様然とした怪僧的雰囲気の作家が、下帯一つの裸で堂内で胡坐かいてるような写真を昔確かに見た記憶もあるんだけど、ひょっとしてずっと勘違いしていたのか。萬福寺という名前のお寺はここだけじゃなくて、東京のほうにもあるらしく、稲垣足穂が住み着いていたのはこの萬福寺じゃなかったのかと、なんだかよく分からなくなってます。お墓は法然院にあるそうだから、萬福寺も関係があるとするなら、別の萬福寺じゃなくて宇治のこのお寺だと思うんだけどなぁ。




紅葉の季節に
2014 / 12 / Fuji Venus800
















街の肖像画#12 山科疎水2 + 奥山由之 写真集「 Girl 」 + Lisa Ekdahl - Heavenly Shower

疎水の木々
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像





栗原邸の窓
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像

同じく山科疎水で撮った写真。相変わらず山科疎水にまで足を運ぶものの、疎水は眼にするだけで暫く疎水沿いに歩いた後街中に下りてその辺りで写真を撮る、そして疎水の写真は撮らずに帰ってくるような行動の繰り返しではあります。
それならわざわざ山科まで行く必要ないって云うことだけど、そこはあまり行くことがなかった場所だから、多少の新鮮さはあって、そういう新鮮さを保ってる間は気がすむまで道の曲がり角を曲がってみないと何だか納得できないという感じがあったりします。だからといっていつもと違う写真を撮るわけでもなく、代わり映えしない写真を撮るだけなんだけどね。
山の斜面に出来てる街並みがちょっと珍しい、高級別荘地なのか、人の住んでる気配のない家が散見される。明らかに廃屋になってるのも多い、この前の階段の写真も廃墟だったんだけど、こういうところがちょっと面白いです。
今回の窓の反射像の写真も疎水沿いにある栗原邸の廃墟。ただ後で調べてみるとこの栗原邸はかなり有名な建築物で外見は崩れかけたような印象があるもののそれなりに管理されていて、不定期に一般公開もされてる邸宅らしいです。

それと、ほとんど人が路地に出てこないような、路上に濃い影が落ちる、ある種白昼夢のような街をカメラ持って歩いてると、窓の向こう側からこちらを窺う視線があるとするなら、わたしは明らかに不審者に見えてるだろうと思うものの、昨日は向こうから声かけて道案内してくれる人もいて、意外と怪しい人には見えてないのかななんて思った一瞬もありました。古いニコンを襷がけにしてたのを行き当たる前からちらちらと見られてた感じだったから、こういうカメラが声をかけるきっかけになったのかもしれません。
クラシックカメラはどうもおじさんホイホイのような側面もあって、国産コピーライカのレオタックスなんか持って歩いてたら一度薀蓄じいさんが引っかかってきて、コピーだと分かると白けたような顔になったものの、それでも延々と薀蓄話をされたこともありました。この時は早く話が終わらないかなと辟易してました。

今回のはちょっと主情的。
メランコリーだとかノスタルジーだとかあまり写真に上乗せしたくない、過剰に意味を乗せたくないなんて云ってるわりに、しかもそれほど根っからのロマンチストでもないくせに、主観の衣を被せるような、情緒的な撮り方をしてみた写真。
何だかどこかでいろんな人が既に撮ってるような、それなりに類型的なイメージでもあります。
撮ってみると面白ことは面白いものの、やっぱりスタイルはちょっと違うかな。あまり情緒に走らないくらいの位置でフィルムのローファイ的な部分を使って味付けしたような写真は撮ってみたいとは思うんだけど。


山科の猫
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像

猫を飼ったこともないし、言葉の通じる人間相手でも上手くコミュニケーションできないのに、言葉の通じない猫相手では途方にくれるばかり。本当は言葉が通じないから、人相手のような生臭い思惑も介在せずにいいのかもしれないけど、その良さが分かるほどに近しい場所で一緒に生活したこともなく、だから何だか色々と意思表示の動作を示してくれる時もあるのに、不甲斐ないことに何をして欲しいと云おうとしてるのか一切分かりません。
そういう対象だから、仲良く戯れてるようなのはわたしにとっては嘘になるし、むしろコミュニケーションの出来なさを写真に撮るほうが正直かなと思います。
昨日は人一人が通れるか通れないかくらいの細い路地で猫と鉢合わせ。正面向いたままお互いに硬直状態になって、ここはしゃがんで目線の高さを合わせたほうがいいかなとしゃがんだとたん、それがきっかけだったように猫のほうは一瞬にして向きを変えこちらを振りむくことさえなく路地の向こうに走り去っていきました。しゃがんで急には動けない状態になったことを悟られて、その隙に逃げられてしまったわけだけど、でもこの場合はどうしたらよかったのかな。


☆ ☆ ☆


フィルムのローファイ的な要素を上手く使ってるといえば、この前Unionのことを書いた時に名前出した、アパートの入り口の写真でわたしを考え込ませてくれた奥山由之さんの写真集がそんな感じでした。



girl



奥山由之 Girl2


写真集の冒頭に「睡眠中における精神的イメージと感情の記録」とあるのがテーマ。モノクロが主流のところに若干のカラーイメージが紛れ込むように展開される写真は、夢に見る以上何か切実な意味があるはずだというのは分かるものの、どうしても何かの把握可能な意味へと結びついてくれないような、あいまいでもどかしさを伴う感覚を形にしてるという感じかな。
粗い粒子だとか光線引きだとか、上に書いたフィルムのローファイ的なものを表現手段に使ってる、使い方がとても上手い。光線引きしてる写真なんかこんなに適した部分に適した量で光りが入り込んでくるなんて不可能だろうと思うばかりで、どうやってコントロールしてるのか知りたくなりました。
でも、お気に入りの写真家でこの写真集も手元に持ってるのに、実はこの「Girl」という写真集、写真家を気に入ってるのと同様に気に入ってるかというと、それほどでもないというのが正直なところだったりします。

まず展開されてるイメージが多彩ではないということ。時折薄明るい光の中のシーツのひだやカーテンのクローズアップ写真が挟み込まれてるところから、夜明け近い薄明のなかで熟睡するでもなく時折覚醒してはまどろんで見た一つの短い夢の側面を並べてるといったくらいの規模で、それぞれの写真は違うイメージで成立してはいるんだけど、あまり広がったイメージ空間だという感じを受けなかったということと、これは信じがたいことなんだけど、同じ写真が何度もページを変えて出てくるという仕様になっていたこと。
この同じ写真が何度も出てくるのは、最初は落丁本じゃないかと思ったくらいでした。どうも夢の中で同じシーンが反復するのを表現してるらしいんだけど、いくらなんでも表現というには直接過ぎ、稚拙すぎるだろうと。このやり方はただでさえ少ないイメージ展開がさらに少なくなってるという印象しかもたらさなかったです。
同じイメージが並んでるのかわずかに違うイメージが同じ振りをして並んでるのか、そういうところを謎めいたものとして評価してくれる人がいたというようなことを、本人がインタビューで云ってるのを読んだことがあるけど、それ、よほど首ったけになってないと出てこない感想で、普通は落丁本としか思わないです。事実わたしはこれは欠陥品だろうと、買ったところに文句云おうかと思ったもの。

ということでお気に入りの写真家ではあるけど、この写真集じゃなくてUnionでわたしを悩ませてるほうの写真を撮ってる奥山由之さんの写真に興味があるというのが本当のところかも。写真のスタイルもUnionで展開してるものとこのデビューの写真集で見せていたものとは既にかなり異なってるし、この写真集に関しては写真的なセンスはあるものの、内容はそれほど迫ってくることもなくて、ローファイ的な表現や、プリントしたものをさらに複写してイメージの質を変換させるといった方法論のほうが面白かったという程度でわたしの中に納まってしまいました。



☆ ☆ ☆


Lisa Ekdahl - Heavenly Shower


スウェーデンの歌姫リサ・エクダールの、去年出たアルバムに収録されてた曲。
曲調はドラマチックでソウルフルだけど、この独特のロリータ・ボイスで歌われると、いつもなら動かない情動の部分がざわめいて来るようです。この人の歌声はどこかに引っ掛かりが出来てしまうと癖になりかねない。
PVもポラロイドっぽいフィルムライクな質感と色合いでかっこいい。もっとも実際にフィルムを使ってみると必ずこんな色になるわけでもないんだけど、イメージとしてのフィルムの色合いっていうのはこんな感じなんですよね。
結局インポッシブルはポラロイドのフィルムを再現できなかったし、ポラロイドがこの世界から消えてしまったのは本当に取り返しがつかない損失だったんじゃないかなと今更にして思ったりします。













街の肖像画#11 山科疎水 1 + 解かれることを前提にしていない謎

山科疎水 廃屋1
2015 / 04 / Fuji PROVIA100



桜の季節が通り過ぎて、その頃から若干桜繋がりで連想したところもあるんだけど、山科(やましな)疎水の辺りで写真撮り続けてます。山科は京都市の東、滋賀との境にあって市内からは東山、滋賀からは音羽山などで遮られた盆地を形成してる京都の「区」の一つです。北側を囲む山裾の小高いところに、琵琶湖からやってきて、蹴上に向かって東山のトンネルを潜っていく疎水が流れているエリアがあって、ここはジョギングしてる人や散策してる人がいる長大な散歩道となっています。

実はここ、かなり規模の大きな桜の名所です。全長4,3キロくらいの範囲に800本ほどの桜並木が続き、地表近くに咲く菜の花とコラボしてる場所もあったりして、あまり知られてないのが不思議なくらい豪華な様相となります。
わたしは名所の桜は撮る気がなかったから、今年は同じ疎水だったけど藤森の疎水の桜の写真を撮って、最初に書いたようにここは桜のシーズンが終わってからやってきました。ほとんどの桜が散った後でカメラぶら下げて歩き回ってたので、散策してる人からは今頃やってきて何とタイミングの悪い人だろうと思われてたかも。





山科疎水西端
2015 / 04 / Fuji PROVIA100


桜の時にも書いたけどこういう水のあるロケーションでは水がある部分には入れないわけで撮る位置がかなり限られてきます。こういう山間の散策路だと山深く入るようなところは立ち入り禁止で柵だらけになってるからさらに行動は制限されていて、疎水の散策路にやってきてるのに疎水そのものは何だか同じような写真ばかり撮ってる気分になってそのうち枚数が減ってきます。今のところ撮ったフィルムを眺めてみると、わざわざ山科まで疎水縁を歩きにきてるのに、水辺の写真の少ないこと。疎水そのものは被写体としてはあまり面白くないかな。
山のほうの生い茂った木とか疎水のところまで上がってくる間の街中で色々と切り取るように写真撮ってるほうが多いようです。



山科疎水の名残の桜
2015 / 04 / Fuji PROVIA100



いつもはこういうことはほとんど書かないんだけど、観光案内っぽいことを少し書いておこう。
山科へのアクセスはJRだと京都駅から湖西線とか、琵琶湖の方に行く電車に乗れば、次の駅が山科だからとてもシンプルで分かりやすいです。しかもどのタイプの電車でも全部止まる駅だから、普通以外には乗れないなんていうこともない。
電車で行くもう一つのルートは地下鉄の東西線。こっちも六地蔵方面行きに乗ると、そのまま山科駅っていうど真ん中のネーミングの駅があります。JRと東西線の山科駅はほぼ同じ場所にあるのでどちらを利用しても離れた場所に連れて行かれることもないです。
ただ、JRのほうは山科の近辺には他の駅がなく、山科疎水へは山科駅に近い立ち入り地点から入ることになるんだけど、山科疎水自体は東西に長く延びた水路で、たとえば蹴上へと繋がるトンネルへ消えていく西の端のほうに行くとなると、結局山科からそこまで歩いていく以外にないことになります。散策路だから歩いていけばいいんだけど、手っ取り早く西端から散策したければ、東西線の山科の一つ隣の駅である御陵(みささぎ)駅が、ちょうどその辺りのロケーションになってるので、そういう場合は長い疎水へアクセスできる場所が二箇所ある地下鉄東西線のほうが便利かもしれないです。
山科で降りても御陵で降りても疎水へ行くには、先に書いたように疎水は山の麓の小高い位置で山の周辺を巡るように流れてるので、そのまま北の、山が見えてる方向に歩いていけばそのうち着きます。
ただこの辺りになると市内のように碁盤の目の道路ではなくなってるから、行き止まりがあったり、周回しただけでもとの位置に戻ってくる道があったりで、疎水に到達する通路を見つけるのは簡単にはいかないかもしれないけど、こういう時はむしろ迷ったほうが面白いです。この先に何があるか分かってる道筋なんて面白くもなんともない。

一つ注意なのは御陵駅にかけてある周辺地図。これが北を下にした地図で非常に分かりにくいです。どうして逆さまの方向になってるんだろう。この地図を参考にして、このことに気がつかないと全く正反対の方向に歩くことになって、山科疎水には永遠に辿りつけない事になります。
山科も御陵もお寺や近くにある天智天皇の御陵の道案内らしいものはあっても、疎水そのものの案内は思いのほか少なくて、というか案内が立っていても要所要所というわけでもなくてその案内に出くわすこと自体があまりないというか、こっちでいいんだろうかと、辿る道筋に戸惑うところもあるんだけど、分からなかったらとにかく山の見える方向へ進む、これで別に観光案内の地図なんか持ってなくても意外と簡単に疎水にたどり着けるはずです。

普段は山肌を縫う木々の木漏れ日の中の散策路といった風情。桜の季節と紅葉の季節は見ごたえがあります。

☆ ☆ ☆

「Union]という雑誌があります。

ユニオン表紙

先日最新号が出版されて、現在のところ7冊が世に出てる雑誌で、わたしが持ってるのはそのうちの創刊号と5号を除いた5冊分となってます。
雑誌は何だか思いついた時に出版されてるようにしか見えず、それでも一応季刊誌になるのかな。わたしは途中参加で創刊号をみたことがないから、おそらく創刊号にこの雑誌のコンセプトでも載ってたと思うんだけど、この雑誌の趣旨というのは正確にはどういったものだったのかは今もって知らないでいます。
だから中に目を通した印象だけで云うと、一応ファッション誌に分類されるんだろうと思うものの、どのブランドがどうだとか、そういうファッション的な、流行の情報のようなものはほとんど表立って紙面に出てない感じ。ブランドの洋服とモデルを使った写真が多い一方、ブランドを見せるというよりもそういう素材を使ってかっこよく見せる写真そのものを前面に押し出してる紙面作りとなってるようにみえます。さらに面白いのはそれだけだと逸脱気味ではあるけど一応ファッションの雑誌という体裁にはなるのに、それ以外で写真家の作家性を前面に押し出した、ファッションとは直接的にはあまり関係ないけど、でもかっこいい写真をどんどんと積極的に載せてることで、これがこの雑誌を一概にファッション雑誌と括れないユニークな存在としてます。

5巻目からは布張りのハードカバーになって雑誌というには豪華すぎる体裁になりつつあるこのUnionという雑誌。日本の写真家だと一応写真集を持ってるくらいにはファンである奥山由之さんだとか、写真集が欲しいのに高かったり入手困難だったりで未だに持ってない、以前にも書いたノルウェーの写真家だとか、最近では荒木経惟さんが端正なモノクロのポートレートを載せていたりとか、フィルムを使う若手で、お気に入りの写真家が結構参加していてみるのが楽しみなんだけど、暫く前に載っていた奥山由之さんの写真を見て、考え込んでしまったことがありました。


写真の謎が提示される

こういう写真。
どこかのアパートかマンションの入り口か勝手口か、そういうところを切り取った写真なんだけど、見た時になぜ考え込んでしまったかというと、この写真を見た時にどうでもいいようなものを写したつまらない写真という受け取り方じゃなくて、自分の感覚内ではこの写真は作品として成立してるし、かっこいい写真でさえあるとも思ったからでした。
特に個性の判子をべたべたと押してるような撮り方をしてるわけでもなく、特殊な被写体を据えてるわけでもないこの写真が、なぜ作品として成立し、かっこいいという感覚を呼び起こしたのか、これが自分でも理由が分からなかったんですよね。ただマンションの入り口と上へ上がる階段を、しかも綺麗でもない掃除道具なんかもフレームに入ったまま写してるだけなのにどうして?と、こういう疑問が頭の中を駆け巡りました。
色の具合なのか、影の質感なのか、あるいは構図によるものなのか、考え込んでから時間が経ってしまっても、未だにこの写真がなぜかっこよく見えるのかは謎のままです。奥山由之さんの感性の発露といってしまえば、そこで終わってしまうけど、なんでもないものを際立つ印象で写真に撮る秘儀でも隠されてるんじゃないかと思うと、ミステリのように割り切れた回答へ導かれることはないにしても、それで終わらせてしまうのはちょっともったいないっていう気がしてます。

で、Unionを見ながらこんなことを父と話してたら、父曰く、雑誌に載った形で見てるからよく見えるんじゃないかと、何だか見も蓋もない意見もでてきました。大きさが違うだけでも印象が変るから確かにそういう要因もあるかもしれないと、何だか納得するところも多いにあるものの、この意見は導く先に面白そうな物が何もなさそうなので、とりあえず却下です。










街の肖像画#10 花の色々、多分に妖しげ。 + 宇野誠一郎の色々

蛇行する桜?
2014 / 03 / Kodak TriX





両手を開く
2014 / 03 / Kodak TriX


モノクロのほうはちょうど一年位前に撮った写真。
記録を見てみると自家現像ってなってたから、自家現像始めてから結構時間経ってるんだとあらためて思いました。依然として行き当たりばったりのまま手馴れてしまった感もあり、こなした回数分データを蓄積してより思いのままに操れる方向には必ずしも進んではいないのがちょっと痛いところだけど。


あまりにも異様
2014 / 10 / Kodak SG400

カラーのほうは明確に、見た瞬間すげぇ!と思って反射的にシャッター切ったものだし、両方とも被写体の変さに依存して写真にしてる感じ。でも最近はこういう撮りかたはあまりしなくなったと思います。被写体の特異さはシャッターを切る分かりやすいきっかけなんだけど、いささか分かりやすすぎるというか、もうちょっと微妙なものを狙いたい気分のほうが、今は大きいです。
こういうのって常ならざるものを撮るという立場では、時間軸に立脚してはいないけど同じく「決定的瞬間」に近い位置で撮ってるんだと思います。だから古くからある写真の範疇内に入って、感覚的には物凄くオーソドックス。そのオーソドックスさと現代の写真としてニューカラー以後のものが好きな感覚との間で揺らいでしまっていて、自分の中のそういう揺らぎもこういう撮り方とはちょっと距離を置いてる理由になってるかもしれません。


☆ ☆ ☆


少し前にはしだのりひこの曲をアップした時、青木望さんの編曲した曲が好きと云うようなことを書いたけど、同じくこういう分野のお気に入りの作曲家、音楽家としてはもう一人、宇野誠一郎さんがいます。この人が世に送り出した曲にも琴線に触れるものが一杯あります。
メロディアスでジャージーでモダンでロマンチックで、そういう感覚を総動員することにおいて子供相手の曲だからといってまるで手を抜いてない。こういう音楽から手を引くことになったのもテレビでの曲の扱われ方に疑問を覚えたからだというのも納得できるほどよく出来てる曲が一杯あります。


まんがこども文庫 OP


不思議なメルモ OP


さるとびエッちゃん OP


ちなみにムーミンの曲もこの人だったりします。

まるで関係ないけど、最近筒井康隆編の恐怖小説アンソロジー「異形の白昼」を読んでいて、宇能鴻一郎の書いた恐怖小説に出会いました。官能小説の書き手だと思ってたから、意外なものに出くわしてちょっと吃驚。筒井康隆の解説によるとこの世の地獄を描いたらこの人の右に出るものはいないとあって、まるでこちらのイメージと違ったんだけど、元は純文学の人だったんですね。しかも東大大学院出だとか。なんか物凄い生き様でまるで食指の動かなかった官能小説のほうも読んでみようかななんて思ったりしました。
名前が似てるのでちょっと話題にしてみただけ。

このアンソロジーに関しては恐怖小説を集めたものとしては結構有名な本なんだけど、出版されたのがかなり昔ということで、これ以降の恐怖小説を知ってる者にとっては、やっぱりちょっと古臭い感じがします。恒常的に恐怖感覚を伝えることが出来るパワーを持ってる作品はこの中だとどちらも以前に読んだことがある小松左京の「くだんのはは」と遠藤周作の「蜘蛛」くらいかなあ。解説で筒井康隆が絶賛してる笹沢佐保の「老人の予言」とか、何だか説明されてもよく分からない話だし、曽野綾子の「暗い長い冬」もわりと恐怖小説では有名なものだけど、最後の一行のことがほぼ最初から予想がついてるので、本当はこの一言でぞっとするはずなのが、そうだと思ったって妙に納得したような読後感にすり替わってしまうところが今ひとつでした。

小松左京のこの小説と同じモチーフで内田百閒が幻覚小説を書いていて、このぼんやりとした不安感に満ちた、寝苦しい夢のような話も面白かったなと思い出しました。色々と派生していってしばらくは恐怖小説に嵌りそう。