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魔法を唱える機械箱。赤い実、他。 + WAGNER - Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod

赤い花
青い塀と赤い実
2015 /01 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Fuji Natura 1600


20日くらいに近畿も梅雨が明けたようで、湿り気のある日は大の苦手だからそれはよかったんだけど、梅雨明けしたのにまた雨勝ちの日が続いて気分的にはまだ冴えない感じ拭い去れない状態です。
梅雨の間、今年は結構雨が降った梅雨だったんじゃないかと思うけど、こんな憂鬱な雨の合間に写真を撮っていた状況もまた、未だにちょっと引きずってる冴えない気分の原因の一つになってるかもしれません。
梅雨の間写真取ることに関してやっていたことといえば、コダックの100年前のカメラの状態をテストしていたことと、何だか使いこなせない35mmと28mmのレンズを集中的に使ってみたこと。
使い慣れないレンズの集中使用は、判断はその場では下さないというものの、眺めても納得できない写真ばかりを生み出して、使いこなせるようになってうれしいどころか、写真撮る動機がどこかへ雲隠れしそうな按配になりかけていたし、コダックの100年前カメラは蛇腹の穴を塞ぐのに試行錯誤の連続で、穴は塞いだと思って試し撮りした2本目のフィルムが最初の試し撮りのものよりも酷い光漏れを起こしていて途方にくれたりして、これも何しろ100年前のものだから使い勝手の悪さも手伝って、試しに撮ってるだけだから何でもいいのに構える気にもなかなかなれずに、持ち出しても1枚撮って帰るかどうかなんていう使い方をしてました。
ちなみに蛇腹の穴を塞ぐのは、自分でやってみたところでは、木工用ボンドに墨汁とベビーパウダーを適量混ぜたものを塗るというのが一番効果的でした。これ、ネットで調べて見つけた方法の中では一番使えなさそうだったから最後にやってみた方法だったんだけど、蛇腹の伸縮にも剥がれたりせずに難なく追従して、一番しっかりと塞げたのはちょっと吃驚でした。ただベビーパウダーを混ぜる意味がよく分からない。つや消しにするためなのか、ひょっとしたら穴を覆う皮膜の強度を増すためだったのかな。

雨降りが多い梅雨だったから基本的に写真を撮りに出かけることも出来ない日が多く、さらに雨の合間をぬってこんな状態で写真撮ってたから、納得できない写真さえも大した枚数も撮れないで過ぎていきました。
梅雨が明けてから文句なしに晴れた日に、梅雨の間に詰めていたフィルムを使い切ってしまおうと、なじみの50mmレンズに戻して出かけたら、なんだか霧が晴れたような自由さというか、撮りやすさがあって、やっぱりあまり無理するものじゃないなぁと思いました。さてこれでまた以前の気分が戻ってくるといいんだけどな。


螺旋階段
人形と螺旋
2015 / 04 / Nikon FM3A +Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / Fuji PROVIA 100


最初のはまとまりもなく塊で垂れ下がっていた植物を撮ったもので、バックの波板はほとんど目に入ってませんでした。でも仕上がってみるとこんな誰も目に留めないような波板もそれなりに映える感じで写ってたので、自分で撮ったんだけど、へぇ!っと、ちょっと感心してしまった写真でした。
これがそうだと臆面もなく云ってしまう気はないけど、何だか特に作為的にならなくても、シャッターを切るだけ、フレームで切り取るだけで、たまに魔法がかかることがあるというか、写真は実はあれこれひねくり回さなくても、ただシャッターを切るだけで日常を変貌させる魔法を備えてると思うことがあります。ゴミ箱だって綺麗に撮ろうと意識的にならなくても、そういう魔法が発動すればフレームの中へ、見るに値するもののように写せると。
まぁたまにしかその魔法は発動しないし、だから魔法を唱える機械箱を構えていても、意図的に魔法をかけようと画策するのがほとんどだったりはするんだけど。

二枚目のはわたしの好きな神秘の形態、螺旋です。今までに螺旋の形態を撮ったのは何枚かここに乗せてるけど、その一環としての螺旋写真。この場所はステップに置いてある人形に近づいて撮ったのももう一枚別にあるんだけど、ちょっと引いて螺旋の周囲を取り囲む垂直線なんかも取り入れたほうが面白そうと思って、違う日にもう一度行って撮ってみた写真でした。

ガラスの向こうに見える世界っていう、隔離されて到達不可能な気配のある空間というのも結構好き。標本箱とかジョセフ・コーネルの「箱」なんかに見られる感覚に近いかな。箱に対する偏愛はわたしのブログのタイトルでも現れてるのかもしれません。汚れた窓というのも向こうの空間への隔絶感を増幅させてるようでいい感じです。
一応枯れてもいないサボテンが並んでたし、実際は誰かが住んでるんだろうけど、家としてはどう見ても廃墟という感じの場所でした。汚れ越しに見えていた植物もどことなく不気味な印象があって、これも好みのイメージ。


汚れた窓の植物群
汚れた窓の植物群
2015 / 03 / Olympus Mju2 +35mm f2.8 / Fuji Venus 800


☆ ☆ ☆


それで、螺旋といえばわたしにとってはこの曲以外にありえないという曲があって、螺旋写真を載せたからその一曲をピックアップ。

WAGNER - Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod (Furtwangler/Flagstad)


ワーグナーは楽劇そのものは見たことがないんだけど、その曲だけ独立して抜き出せる形になってる前奏曲の類は結構好きで聴いてました。コッポラの「地獄の黙示録」辺りから映画を通してワーグナーを知った人も多いと思うけど、わたしもその口だったかもしれない。
前奏曲の中ではこの「トリスタンとイゾルテ」と「ニュールンベルクのマイスタージンガー」が好き。あとはクナッパーツブッシュが指揮したブルックナーのCDに入っていた、ひょっとしたらおまけだったのかもしれないワーグナーの「ジークフリート牧歌」もよく聴いてました。
で、この「トリスタンとイゾルテ」なんだけど、最初に聴いた時の印象がこの「螺旋」だったんですよね。巨大な螺旋がうねりながら蠢いてる、音はゆっくりと螺旋を描きながら至高点へ向けて高みを上り詰めていくようなイメージ。繰り返す波のように寄せてくる旋律は官能的に美しいし、この無限に高みへと登っていくような感じが気持ちよくて、一撃で好きになった曲でした。それ以来この曲と螺旋はわたしのなかではセットになった形で収まってます。

安アパートの螺旋階段にワーグナーを聴くなんていうのもなかなかのもの。







わたしが聴いてたのは入門用の980円くらいで売ってたもの。確か指揮はショルティだったと思うけど、PVに合わせて、こっちのほうがかっこよさそうなのでフルトヴェングラーのリンクを貼っておこう。
まぁ、指揮者による演奏の違いとかそんなに聞き分けることが出来るほど聴き込んだリスナーでもないので、何でもいいといえばなんでもいいほうだけど、今までに聴いてきたもののなかで指揮者によってまるっきり雰囲気が違うとはっきり分かったCDがあって、それはEMIから出ていたオットー・クレンペラーの指揮によるマーラーの大地の歌でした。ものすごく荒々しい、ざらついたモノクロ写真というか、筆の動きも生々しい極端にコントラストがついた墨絵のような印象の演奏で、これが大地の歌を最初に聴いた演奏だったからこういう曲だと思い込んでたら、後になって確かバーンスタインだったと思う大地の歌を聴いてまるで荒々しくない印象に嘘!と思ったことがあります。
ちなみにクレンペラーのほうが飛びぬけて良かったです。







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太陽が見た夢の話 + Anita Bryant - Laughing On The Outside (Crying On The Inside)

石塀
石塀
2014 / 05 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm f1.4 / ILFORD XP2 SUPER 400





ボンネット

2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / ILFORD XP2 SUPER 400


前回同様に、若干影の分量が多いような写真をさらにアップ。
光が作る影の写真ということで、太陽が見た夢なんていうタイトルをつけてみたけど、考えてみれば陽光で視覚化される世界を掬い取るなんていう意味では、大抵の写真が太陽がまどろむ夢の結晶なわけで、ちょっと大上段に振りかぶりすぎという気配がなくもないっていうようなところ。

それにしても影中心に撮ってみようとすると、わたしがやると何だかホラーものの情景のようになるというか、もうちょっとコントラストの低い柔らかい写真も撮ってみたいと思うんだけど、なぜかこんな写真ばかりになってしまうようです。
というかコントラストの強いモノクロでも、ホラーものっぽいのじゃない雰囲気の写真が撮ってみたい。





路地へ
路地へ
2015 / 05 / Fuji Tiara + SUPER-EBC FUJINON LENS 28mm f3.5 / Kodak TriX 自家現像


最初のは泉涌寺だったか東福寺だったか、あの辺りを歩いてる時に撮った一枚でした。あまりはっきりとは覚えてない。
二枚目は車のボンネットに写りこんだイメージ。方法としては特に目新しいものでもないけど。
最後のは最近おなじみの山科の街中でスナップしたものです。誰も通ってない道路に濃い影が落ちる、しんとした真昼とか、その場に立ち止まってると、周りの世界はシュルレアリスティックに変容していきそうな気配に満ちてきます。

いつものFM3Aとフジのコンパクトカメラを使用してます。35mmもそうだけど、28mmももうちょっと使いこなせるようになりたいと、このティアラとか梅雨に入ってからは同じく28mmレンズ搭載のニコン・ミニなんかをサブに持って出てます。ティアラのほうは晩年の植田正治の愛機で、このコンパクトカメラで撮った写真を集めた写真集なんかも出版されて、わたしも持ってるんだけど、軽々と使いこなしてるのが手に取るようにわかる写真集だったりして、眺めてみるとこんな風には撮れないなぁとため息が出るばかり。



☆ ☆ ☆


Anita Bryant - Laughing On The Outside (Crying On The Inside)


1946年のポピュラーソングです。
単純に旋律が好きな曲かな。こういうメロディはわたしにとっては聴いていて気持ちよく高揚するタイプのもので、なぜ好きかなんて説明することはできません。
よく聴いたのはアレサ・フランクリンのアルバム「Aretha Sings the Blues」に収録されていたバージョンでした。
これはアレサ・フランクリンのいつもながらのソウルフルなバラードになっていたけど、今回はちょっと変えて、50~60年代に活動したアメリカの歌手Anita Bryantのオールディーズ風のものをピックアップです。


リリースされたのは65年、シングルの「Welcome, Welcome Home」のB面でした。
LPだと「ANITA BRYANT WORLD OF LONELY PEOPLE」というのに収録されてるんだけど、CDでは出てないのかな。アマゾンでは見つからなかったです。










壁伝う影 + William Basinski - d|p 1.2

壁

2014 / 10 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Fuji SPERIA PREMIUM 400





快挙ゲート

2014 / 10 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Fuji SPERIA PREMIUM 400





直進
駐車場
2014 / 06 / Minolta SRT101 / Kodak Gold 200


タイトルはワンダと巨像から。影と壁が要素になってるというだけで写真の意図に特に合ったタイトルでもないけど。
上の2枚は萬福寺の近くにある自衛隊の基地周辺で。自衛隊の基地に隣接して、というか自衛隊の一部なのか、廃墟じみた一角があって、そこで撮ったものです。撮った時は凄くかっこいいのが撮れたと思って現像が仕上がるのが楽しみだったのに、出来上がったのは最初の思惑ほどではなかったという写真でした。でも暫く放置しておいて結構時間が経ってから眺めなおしてみると、思ってるほど酷いこともないかなと、自分の中で居座る位置がレベルアップ。撮った時には自分でも気づかなかった無意識的なものに、何がきっかけだったかは自分でも分からないけど反応するようになったとか云う感じかも知れないです。
最後のは西九条の辺りで撮影。これも最初は要素が少なすぎると思ってた写真だったんだけど、何度か見直してるうちに、このくらいの何もなさ加減のほうがよかったように思えてきた写真でした。闇に沈み込む中に開いた四角い光の窓も何だかかっこいい。

無意識に任せて撮ってみる。判断はその場では下さない、といったところです。





☆ ☆ ☆


William Basinski - d|p 1.2


ミュージシャンであり作曲家でもあるミニマリスト、ウィリアム・バシンスキーによるミニマル・ミュージックの作品。
わたしの勝手なイメージだけど、初期フランク・ステラのようなミニマル・アートにも引っ張られて、ミニマル・ミュージックって言葉を見ると無機的であまり情緒的じゃない音楽を思い浮かべるところがあります。でもこの作品はそういう意識で聴き始めるとかなり新鮮な感覚を覚えることになると思います。短いフレーズがループしてる全体の平坦さはまさしくミニマル・ミュージックなんだけど、聴いた感じは殺伐としてるどころか、相反するようなメランコリーに満ちてる感じがします。アンビエントっぽい感じもあるから、情緒的な部分はそういうところによってるのかも。

ちょっと面白かったのが、バシンスキーは古い録音の音源を使って、オープンリールのテープデッキで繰り返しループさせるような曲作りをしている人だけど、ループさせるうちにテープの劣化などによって音源自体が痛んできて、その結果音の輪郭が曖昧になったりにじんで混ざり合ったりするようになっても、バシンスキーはそういうのを厭わないどころか積極的に活用するらしいということ。こういうバシンスキーの思考を知った時、この考え方はわたしが銀塩写真に対して考えてることと凄くよく似てると思いました。
フィルムとデジタルのどちらがいいなんていうテーマで論争なんかが起きてたら、フィルム派の人は大抵記録の物理的な堅牢性のようなものを、単なるデータの記号的な存在であるデジタルの脆弱性に比較して取り上げるんだけど、これ、わたしが思うには全く逆。
フィルムは時間の経過で劣化するし、むしろ劣化するのがデジタルにはないフィルムの面白いところなんだと思ってます。これはフィルムの弱点じゃなくて、要するにフィルムは撮った瞬間からの時間さえも取り込んで変化していけるということ。云うなら定着されたイメージも時間の中で生きているということで、これは撮った瞬間に凍りついたようなイメージから、意図的な加工によってしか変化することが出来ないデジタルにはない、あえて言うけど長所なんだと考えます。
フィルムに対してこんなことを思ってるから、バシンスキーの劣化する音も取り込んでいく作品の作り方には凄く共鳴するところがありました。

とにかく半端なことはやらないとでも覚悟を決めてるのか、これでもかと反復が続きます。気の長い人でないと最後まで聴けないんじゃないかという気配が、最初の数ループで既に頭をもたげ始める感じかな。数えたことはないけど、終曲までに一体何回ループしてるんだろう。
途中で2回ほとんどの音がストップするところがあって、延々といつ果てるともなく続いてきた音が消え去る少しの間は、その反復する終わりのない音空間に馴染んできていた耳には急に予想もしない場所に放り出されたような気分を呼び起こされるところもあって、妙にドキドキします。
この一瞬は意外とスリリング。













大阪カラフル + Buddy Collette - Samba Da Tartaruga

階層
階層案内
2015 / 03 / Nikon F3HP + Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Kodak Gold 200




籠

2015 / 03 / Nikon F3HP + Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Kodak Gold 200





写真
古びたショーケースと写真
2015 / 03 / Nikon F3HP + Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Kodak Gold 200



電車に掲げられていた今月のイベント案内に、京都市美術館でマグリット展、何必館でウィリー・ロニの写真展が開催とありました。
マグリットは絵画を成立させている観念は面白いけど、絵画はそれを具現化しただけって云うところがあって、わたしにとっては観念さえ把握してれば絵画のほうは画集なんかで見て十分というか、実物をどうしても見なければならないって言う方向には向かわない画家だし、ロニのほうは前世紀前半のパリを撮った写真家として名前は知ってるけど、あまり写真を見たことがない写真家、前世紀の初め頃のパリの写真といえばわたしはブラッサイだとかもうちょっと古くなるけどアッジェとかのほうが馴染みがあります。ロニの写真集のタイトルがストールン・モーメンツと、ジャズの曲と同じタイトルなのでそれも記憶に残ってるんだけど、何か関係があるのか、こういうところもよく分からない。
ただ、日本での知名度があまり高くないせいなのかロニの写真の展覧会もほとんど開かれていないようなので、今回のは割と貴重な機会になってるのかもしれません。両方とも明日にでも観にいきたいというほどではないけど、片や画集で十分と思ってる画家と、見る機会のあまりない写真家と、形は違ってもわたしにとっては展覧会とはあまり関連付けられてなかった人たちという具合だから、貴重な機会だというならこの夏のうちには観にいこうかなと思ってます。
ちなみにロニの展覧会は現在開催中で今月の26日まで。マグリットのほうは今月の11日からの開催だそうです。


☆ ☆ ☆


写真のほうは心斎橋辺りに出かけた時に撮ってるものから。心斎橋そのものは観光客や買い物客が途切れなく歩いてるだけという印象なので、二筋くらい外した隣接する通りで撮ってます。飲食店街の裏口が並んでるというような印象の場所で、昼間に行っても雑然とした印象というか何だか白けたような雰囲気のほうが強いんだけど、それでも京都の似たような場所に比べると下世話というか猥雑な感じも垣間見えたりして、やっぱり京都とはちょっと違うなぁと、シャッター切るのがなかなか面白かったりします。
心斎橋に行くとかなり難波よりにある店と、心斎橋店と合わせてブックオフ巡りすることが多く、目的は安い値段で発見する写真集なんだけど、100円の文庫ミステリも結構買い込んできます。でも文庫のほうはいくら100円といっても電車賃使っていったらあまり意味無いんですけどね。
写真集はルイジ・ギッリのときほど上手く行く時はやっぱりほとんどないです。本当に良く名前を見るような写真家のものが、たとえば蜷川実花の金太郎飴のような花の写真集とかが期間を置いて棚に現れる程度。尾仲浩二の写真集とがどれでもいいので欲しいんだけど、こんなの一度さえもブックオフの棚に置いてあるのを見たことがないです。それでも最近の収穫でホンマタカシのベイビィランドとか、須田 一政の人間の記憶、鬼海弘雄の東京夢譚なんかを安価で見つけてはいるんだけど、やっぱりブックオフでは欲しいと思ってる写真集とはほとんど出会わないです。ネットの古書では見かけたりしてもちょっと珍しかったら即座にプレミアがついてたりするから、問答無用の半額なんてことをやってくれるブックオフで見つけたいんだけどなぁ。


☆ ☆ ☆



Buddy Collette - Samba Da Tartaruga


夏も近いということで、ボッサの曲を。このアルバムからは以前に別の曲を一曲ピックアップしてます。
バディ・コレットのアルバムだけど、これ知らずに聴いたら、バディ・コレットはギタリストだと勘違いしそう。フルート吹いてるのがバディ・コレットで、ギターはハワード・ロバーツ。なんだかギターが中心となって展開してるような印象を持つのはわたしだけなのかなぁ。
録音の状態にもよってるんだろうけど、全体に素朴な音で、まるでローファイのカメラで撮った写真みたいに味のある演奏。コレットのフルートの音が導いてるのか上品なノリで進行する上に、ウエストコーストで活躍していた小粋でクールな演奏が気持ちいです。BGM的に聴いてるうちにちょっと耳をそばだててるのに気づくような曲かも。












山科異聞 + Crushed Stars - Copenhagen

網目
網目
2015 / 04 / Nikon FM3A + Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Fuji Provia100X





トンネル
トンネル
2015 / 05 / Nikon F3 +Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Fuji Provia400F





路地
路地
2015 / 05 / OLYMPUS 35DC +40mm F1.7 / Fuji C200





駅前
広場
2015 / 04 / Nikon FM3A +Ai-S Nikkor 50mm F1.4 / Fuji ACROS100 自家現像




最初のはおそらく廃屋、荒れた庭先に建材の一部なのか積み上げられて午後の光の中で影を落としていたもので、二枚目はJRが上を通ってるトンネルの中、暗い場所に天井の明り取りから光りが差し込んでいた場所、次の写真は木々に覆われた暗くて細い路地で上を見上げて撮ったもので、最後のはピントを合わさないで撮った写真。後戻りできないフィルムの一眼レフでどこにもピントを合わさないって思いのほか勇気がいるよ。
これだけピンボケでも子供がこっち向いてるのがわかる。これはカラーでやったほうが色がにじんだようになって面白かったかも。

春から梅雨前くらいの間撮っていた山科です。いつものごとくどこで撮ったというようなことがあまり意味を成すような写真でもないです。

まるで特殊なものがない場所で写真を撮り続けることは、感性豊かだったらどうかは知らないけど、やっぱりなかなか困難なところがあって、だから場所なんかどうでもいいと思いながらも目新しい場所を探して写真撮りに行くことになります。そうするとここがどこであるかなんて大して意味は無いという写真撮るつもりでいても、明らかにシャッターを押せる回数が増えたりするんですよね。やっぱり来たことがない場所の視覚の新鮮さは、たとえ直接的にシャッターを切る契機にならない場合でも、外界と対面してる皮膚感覚のようなもの全体を活性化させてるような気がします。

とまぁこんな感覚で、新しい場所を絶えず探すことになるんだけど、梅雨に入ってからそういう意気込みというか行動への意志が若干鈍りがちになってます。これはちょっと困った。

山科に通っていた後宇治のほうで写真撮ったりして、梅雨に入ってからごく最近は吉田山へ行ってみようと出かけてみたんだけど、出町柳の駅から街中の路地裏で写真撮りながら吉田山を目指したものの、京大辺りに到着する前にもういいやという気分になって引き返してきたりしてました。バスに乗って吉田山の近くまで行けばいいというものだけど、わたしはバスが大嫌いなので出来れば乗りたくないし、路地を歩かないでどうするっていう写真の撮り方だから、目的地に着けばいいって言うものでもなかったりします。

いきなり真夏並みの暑さを伴ってやってきた梅雨に初動で気圧されてしまったというか、夏はわたしにとっては気分的には大好き、体的には耐え難いという相反する反応を引き起こす季節で、このいきなり暑くなった今年の梅雨はまず体のほうの反応を最初に引き起こしてしまったような感じになってるんじゃないかなと自己分析。開放的で生命力にあふれた勢いを享受するような気分がまだ追いついてないというか、遠くに立ち止まったままやってこないからちょっときつい感じになってるんじゃないかと思ってます。

あとですね。暫くカメラなんて買ったことがなかったんだけど、梅雨に入った頃に、1915~25年製造というから100年位前に作られたコダックのカメラを、3000円で出てたので衝動買いしてます。クラシックカメラというよりも、もうほとんど骨董品、アンティークといったほうがいいようなカメラ。
一度試し撮りして初動の結果は一応出てるんだけど、一世紀近く前のカメラで本当に写真が撮れたのか、その首尾はまたそのうちに披露してみたいと思ってます。


☆ ☆ ☆



Crushed Stars - Copenhagen


この前載せたTear Ceremonyのフロントマンだったトッド・ゴートロー(Todd Gautreau)の、Tear Ceremony解散後に作ったロックバンド「Crushed Stars」の曲。バンドといってもどうもワンマンバンドのようだけど。
何だか60年代のシンプルなサイケデリックサウンドのような曲で、わたしはちょっとヴェルヴェット・アンダーグラウンドを連想しました。メロウなサウンドが主体なんだけどリバーブがかかった音とか、抑揚を欠いた歌い方とか、全体は静かにトリップする感じで纏められて、メロウなんだけど、癒しになるような音とはまたちょっと違う手触りがあるように思います。
アルバムタイトルが今の季節にぴったり。