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夏のスケッチ + Saul Leiter - early color

sale
sale
2015 / 09 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak SuperGold 400




渡辺橋1
on the corner
2015 / 09 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak SuperGold 400


ジャズの曲名でタイトルをつけようと思ったけど、関連付けられそうなタイトルなんていう縛りをかけたら、マイルス・デイビスのアルバムのタイトルを思いついただけで、他はまるで頭に思い浮かばない。saleのほうはlove for saleなんていうのが頭に浮かんだけど、単に単語が一個、一致してるだけでした。
ジャズのお気に入りのアルバムをピックアップして、そのアルバムに収録されてる曲、全曲のタイトルからその曲の数だけ何か写真を撮ってみるっていうのも思いついたものの、こんな体たらくではあっという間に却下となりました。
わたしの大好きな曲「My Foolish Heart」、このタイトルだけでも写真にしろといわれたら途方にくれるばかりとなるのが目に見えてます。そう考えたらレコードのジャケット作ってた人とか、凄い才能だったんだなぁと今更の如く感心します。

☆ ☆ ☆

前回のフィルムの続き、同じくPen Fで撮っていた写真。
ティルマンス展に行った日以降に、またあの辺りへ出かけて撮ったものです。
最初のショーウィンドウの写真が、写ってるものはなんてことのないものなんだけど、何か雰囲気があってお気に入りです。コーナーの俯瞰写真はかっこつける方向としては結構ありきたりな感じがするかな。

☆ ☆ ☆

フィルム機のPenはレンズ固定のレンジファインダーが中心の展開になっていたけど、一機だけレンズ交換可能な一眼レフタイプの「F」というのがありました。

ペンF

その一眼レフタイプのPenにもいくつか世代があって、わたしのFは初代のモデルです。初代の特徴はボディにFのアルファベットの花文字が刻み込まれてること。初代は二回巻き上げしないと撮影できなかったり、露出計がついてなかったりするモデルだからあまり人気が無いようだけど、露出は単体の露出計を持ってるからそんなことはまるで問題にならず、露出計を持ってなくても晴天順光は感度400でシャッター1/1000、絞り8を基準に日陰なら三段開くとか、体感露出で撮ることができる。二回巻き上げも、だからといってどうなんだといった程度のことなので、その程度の違いしかないんだったらこの花文字がついてる機種のほうが持つには絶対にいい。装飾的で持っていて楽しい。わたしは装飾的なものとかわりと好きなほうで、クラシックカメラだと、Exakta Varex VXなんかが一度持ってみたいカメラです。まるでアンティークの道具みたいで、なおかつメカニカルな、スチームパンク・カメラ。
塗装がはげてたから手を出してないけど、京都のカメラのナニワに委託品が一台置いてあるのを知ってます。

ただPenFはレンズ交換ができるといっても、なぜか今の時代レンズそのものが、終わったシステムとしてはかなり高価になっていて、特に広角のものなんかは手が出しにくくなってます。レンズそのものもそれほど市場で見たことがないし、ひょっとしてアダプターを介してデジカメで使うために買ってる人が多いのかなぁ。
だからわたしの場合はレンズ交換できるといってもPenFのレンズはこの標準のと、なぜかこれだけは安価で売ってる100mmの望遠レンズしか持ってません。でも、広角は今もって惑うことのほうが圧倒的に多いわたしの撮り方でいくと、これで十分っていう感じです。

デジタルのPenも、説明書を最初のほうだけ読んだまま放置してるのを一台持ってます。これはでも名前と全体のカメラデザインを受け継いでるだけで、ごく普通のデジタルカメラだし、ハーフカメラとしてのPenはやっぱりフィルムカメラとして存在し、終焉したといってもいいんじゃないかと思います。
だって一番の特徴である縦位置のファインダーがデジタルには実装されてないんだもの。縦構図の対象化こそがハーフカメラのレゾンデートルだと思ってるわたしには、これはありえないです。
とはいうものの、たとえデジタルのPenでオリジナルPenの完全再現とばかりに液晶が縦位置になっていたとしても、馬鹿げてるからわたしは手を出さないと思うけど。

☆ ☆ ☆

このところPenの話題に絡めて、縦構図縦構図とやたらと口にしてるので、縦構図の魔術師、というほど大げさでもないんだけど縦構図好きの琴線に触れるに違いない写真集を一冊。

アーリーカラー1


アーリーカラー2

ソール・ライターの1940年代中ごろから60年代にかけて撮られたカラー写真を集めた写真集、「アーリー・カラー」
ソール・ライターはアメリカの写真家で、もとはファッション写真の分野で仕事をしていた人。でもファッション写真の業界というか写真のあり方に馴染めないところがあって、しだいにその分野から身を引くようになり、やがて表舞台からは消え去ってしまうことになります。もともと名声とか写真家としての成功などにほとんど関心がなかったとも云われてるけど、そういう気質も自らフェードアウトしていったことに関係していたのかもしれません。
再評価のきっかけになったのがこのシュタイデル社が出版した「アーリー・カラー」という写真集で、この本はなかなか手に入らない希少本になってたんだけど、今は再刊されて手軽に手に入れられるようになってます。ちなみにシュタイデル社はドイツの小さな出版社。世界一美しい本を作ると云われる出版社で、ここから著名な写真集も数多く出版されてます。
写真集ってかなり有名な写真家のものでもあまり売れないのか、大抵初版だけ、それを逃したら手に入れるのがかなり困難になるというのが多いです。そんな中、ソール・ライターのこの写真集は再版されたわけで、一般的に今でも名前はほとんど知られてはいないと思うんだけど、一部ではあれ伝説的な写真家としての熱狂的な支持はあったんじゃないかと思います。わたしはまだ見たことがないんだけどソール・ライターのドキュメンタリー映画「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」というのもあるそうで、こんな風な映画って思い入れのある人がそれなりにいないと作られないです。

写真の特徴はとにかく縦フレーム。もちろん普通の横長フレームのもあるけど、印象的なのは圧倒的に縦長のフレーム。
そしてその縦構図の中に詰め込まれた、斬新な構成力といったところかな。
切り取り方はかなりユニークで洒落たものがあり、こんな撮り方は思いつかない、なんてかっこいい把握の仕方だろうって思いながらちょっと嫉妬心交じりでページを繰るような写真集でした。被写体はほぼ全部が都市、おそらくソール・ライターが生活していたマンハッタンだと思うけど、そういう都市の詩情とでも云ったものを、ユニークな視点で切り取ってます。詩情あふれるといっても、絵画的な構成力だとか色の配置だとかが最前面に出てるから、被写体の内情にあまり深入りしないような、硬質のリリシズムといったものに留まってるのもわたしのお気に入りのところ。
反面、被写体の変化は乏しく、おそらくソール・ライターの好みなんだろうけど、水気で曇った窓越しとかガラスの反射とか雪の日だとか、わりと大きなカテゴリーで纏められるようなところもあって、ユニークなんだけどイメージの展開はちょっと単調という印象もある写真集でした。

わたしはもう一冊ソール・ライターの本を持っていて、これは写真だけじゃなく活動の全貌を俯瞰するような本で、写真集としてみるにはかなり不足感のあるものだったんだけど、この本にはソール・ライターの描いた絵画も纏められてました。
ソール・ライターの出発点は写真じゃなくて絵画。もともとニューヨークへ行ったのも画家を志してということでかなり絵画志向があります。
絵画のほうは、同じく絵画志向の写真家で、モノクロが当たり前だった作品的な写真にカラーを使うことを一般化させたニューカラーのウィリアム・エグルストンが描いていたような、気まぐれで得体の知れない抽象画といった印象だったけど、明示されないまでも写真のほうにもその志向は確実に出てきてると思うし、わたしがソール・ライターの写真に惹かれる大きな要因になってるんだろうと思ってます。






数点だけだけどこの「アーリー・カラー」の写真を紹介したものがYoutubeにありました。ビル・エヴァンスの音楽付きで、音楽がつくと詩情倍増って感じになりますね。










☆ ☆ ☆

締めにもう一枚。

ラバーダック2
ラバーダック
2015 / 09 / RICOH GR Digital 3 + GR LENS 6.0mm f1.9


今回はこれでお終い。




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アウトスケールステーション + ラバーダックを見に行って来た。

空中回廊
空に架かる回廊
2015 / 07 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak SuperGold 400


今年の夏の初めに久しぶりにハーフカメラのPenFにフィルムを入れて、京都駅で撮った写真。結局夏の間は暑すぎて、PenFはこの時京都駅で数枚撮っただけで、後は暑さで溶けようがどうしようがあまり気にもならないと思っていたホルガに、でも落としてみるとたかがおもちゃのカメラなのにそれなりにショックだったホルガにバトンタッチ。京都駅の数枚で中断したこのフィルムの続きを撮り始めたのは9月にはいってからでした。フィルムを眺めてみると、この後明治天皇陵やティルマンス展に行った後で渡辺橋から淀屋橋、梅田など、あの辺りを再訪して撮ってた写真が並んでます。24枚撮りを入れても倍の50枚近く撮れるので、その分撮り終わるのに時間がかかり撮った写真をなかなか見られないという、便利なのか不便なのかよく分からないフィルムカメラです。
一応これで夏の間にカメラに入れたフィルムは全部撮り終えたことになります。今年の夏の始まりと締めを担当したのがこのカメラって云うことになりました。結局この夏はフィルム何本撮れたのかなぁ。

と思って数えてみたら、ブローニー合わせて8本くらいでした。二ヶ月でこのくらい、暑さと悪天候でほとんどカメラ持って出かけてないような印象だったけど、そのわりには、多くはないんだけどそれなりに消費してました。ただ春先からの迷いは今も続いてるから、納得がいかない写真の数はかなり多い結果ではありました。


音楽
陽射しのリズム
2015 / 07 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak SuperGold 400

久しぶりにハーフで撮ったコマを眺めてみると、ライカ判のものよりも若干幅が広いんですね。縦位置はこのくらい幅があったほうが安定感がありそう。
それとハーフカメラはファインダーがデフォルトで縦位置になってます。こういうファインダーのカメラを使ってると、どうしてなのか意地でも縦位置で撮ってやろうと思い初めて、たまに横長で撮ると、この場合カメラは外見的には縦位置で撮ってるような構え方になるんだけど、何だか負けたような気分になるというか。変な感じです。
上に書いたフィルムが倍撮れるなんていうのはハーフカメラに人気があった当時にはメリットだったかもしれないけど、今となってはまるで意味が無いといってもいいかも知れず、だからあえて今ハーフカメラを使うということの意味合いなんかを考えてみると、ひょっとしたらこの縦位置での撮影に自覚的になるという辺りにあるんじゃないかと思ったりします。

それにしても壁に投影される影とかやたら撮ってます。その写真に封じた空間の感触だとか生成されるものはそれぞれ違うんだけど、我ながらもうちょっと工夫すればいいのにと思わないこともないです。


☆ ☆ ☆

18日から中之島でラバーダックが出現してるらしいということで、ティルマンス展以降、ここで写真撮るのが多くなってるから、一度見たかったこともあって見物に行ってきました。

ラバーダック
ラバーダック
2015 / 09 / CONTAX T3 + Carl Zeiss Sonnar T* 35mm f2.8 / Lomography Color Negative 100

川に自由に浮かんで流されてるのかと思ったら、ちょうど薔薇園の辺りに係留された形で川面を彷徨うこともなく、本当のところ川にプカプカ気ままに浮いて橋に引っかかってるような様子が見たかったのでその辺はかなり期待はずれでした。時間とか期日によっては係留が解かれるのかなぁ。
視覚的なインパクトはやっぱり強烈で、周囲の空間を歪ませるくらいの異様な存在感はありました。ちょっとした怪獣映画の中に紛れ込んだような気分を味わえます。でも素材はお風呂に浮かべる小さなラバーダックのものじゃなく、ただの風船という感じ。これはかなり興ざめで、ここはやっぱり本物と同じラバーで作って欲しかった。
一月くらいは展示されるそうなので、その中には係留を解かれる日もあるかも知れず、そういう日に行き合わせたら、橋に引っかかってどうしようもなくなってる様子とか撮ってみたいです。




曖昧な記憶が棲む場所 + ヴォルフガング・ティルマンス展に行ってきた。 + John Scofield - Endless Summer

楽園
王国
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





矩形空間
矩形街
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





裏路地人形
陽射しと人形
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400





鳩

2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400


この夏、トイカメラのホルガを持ち歩いて撮った写真。落とした時はブローニーを6×4.5のフレームで撮っていたんだけど、これは落としたものじゃなくて、35mmフィルムを使えるようにするホルダーを後ろにくっつけて撮影していたものです。
ホルダーは今年の夏、京都ヨドバシに店を出してるヴィレッジ・ヴァンガードのアウトレットで7割引で買ったもの。普通のフィルムを使えるようになって元のブローニー専用状態からかなり手軽になった感じです。

それにしてもこういうカメラの作り出すイメージに対してドリーミーな写りとか、よくもまぁ上手い言葉を見つけ出したと感心するんだけど、本当に云いえて妙だと思います。
もともとピントは思うようには合わない、どこにあわせても似たようなものというカメラなんだけど、単純にピントがずれてるとかボケが入ってるとか云うのじゃないような、一眼レフでわざとピントを外しても、こんな絵にはあまりならないだろうなぁと思わせる何かがあります。滲んだような色合いも独特の雰囲気で、これはプラレンズの特徴なんでしょう。

最初の写真はディテールの飛び方が気に入ったもの。どこか記憶の中に棲んでる街といった曖昧な非実在感が漂ってる。右下の鉄骨が邪魔。気分としてはフォトショップで消してしまいたい気分が一杯なんだけど、せっかくフレームに入ってきたんだから、のけ者にするのもちょっと可哀想。ということではずし要素としてこの写真の一部に参加してもらっておきます
人形はかなり以前に同じくホルガで撮ったのを載せたことがあります。これ、半逆光くらいの陽の当たり方のせいか妙に立体感がある感じがする。逆光はドラマチックだけどあざといし、いかにも良い絵だろうと言いたげなわりに紋切り型のものになりがちで、逆光を前にすると、それでも視覚的なスペクタクル感に誘われて撮ってみようって云う気分と、やっぱり逆光はあまり使いたくないといった気分がせめぎあったりするんだけど、このくらいの斜め後ろからの光はそんなに押し付けがましくなくていいかも知れないなぁって思いました。

鳩は、フラットベッド・スキャナーのノイズが乗ってます。おそらく性能の良いスキャナーでも多少はこういう線的なノイズが入るのは避けられない感じがする上に、わたしのところのスキャナーは一応キヤノンのだけど型落ちで1万しなかった安物の上にかなり使ってるから、こういうのや一面の青空といった、単一の色面なんかだとやたらに目立つ形で現れたりします。
あぁ、新しいスキャナーに買い換えたい。
で、修正したりして目立たなくするんだけど、これはどうしようかなぁ、ノイズの出方が面倒くさそうだし、ブログに載せるのやめようかなぁと思ってたりしてました。
でもティルマンスの展覧会を観た後でこれを眺めてるうちに、そういえばティルマンスの写真にコピーを繰り返してわざとノイジーにした作品もあったと思い至り、このままでもいいかとここに載せる気になったものです。他人の作品を見て決断するって若干情けない。
ノイズ上等、くらい言い切ってしまわないと。

☆ ☆ ☆

さて、そのノイジーな画面に強気にさせたティルマンスのこと。
夏の間は暑いから行かないといっていた国立国際美術館で開催中のヴォルフガング・ティルマンス展へ行ってきました。
ここは館内で写真機取り出したら速攻で係りの人が飛んでくるので、一応ホルガを持ってたんだけど、館内に入る前にバッグの中にしまいこんでしまいました。
展覧会は地下一階のロビーから降りて、地下二階の全フロアを使用しての展示。もう一つ下の階のフロアでは別の展覧会をやっていて、複数階のフロアに渡っての展示じゃなかったので規模が小さいようだけど、展示してある写真はそれなりに量があったから、物足りないという感じはしなかったです。今までに出版されたティルマンスの全写真集も鎖はついていたけどテーブルの上ですべて鑑賞可能にしてあり、そういうのも展示の一つとして構成されていて、こういうのは普通展示してあったにしてもガラスケースの中だったりするから、気前がいいといえば気前の良い見せ方になってました。
お金を払ったからにはせっかく鑑賞可能にしてあるんだから、絶対に十冊以上は展示してあったこういう写真集もすべて見てきたかったけど、はっきり言ってこれは一時で見る限界量をはるかに超えてました。写真集十冊以上を一気に見るなんて、集中力が途切れて絶対に無理です。


ティルマンス展1

(展覧会の図録は変った体裁になっていて、外側を厚紙のカバーで包み、幅広のゴムバンドで止めてる中に二冊の本が入ってました。一冊はこの展覧会の写真集でもう一冊は解説や出展目録など、今回の展覧会についてのテキストを載せた本。
変った形になってるから一瞬「お!」ってなるけど、目録としては普通の本のほうが扱いやすいかも。肝心の写真集のほうも結構薄手のものでした。確かにまだ写真集に纏められてない新作とかも混じってはいるんだけど、この展覧会に関連付けないなら、普通に写真集として出てるものに手を出したほうが幸せになれると思います)

ティルマンス展2

会場の展示はいつものインスタレーションで、実際にこの会場でティルマンス本人が構成したんだそうです。額装されないまま、大きさも巨大なものからL判プリントみたいに小さなものまで、特に大きさで纏められることもなく、壁にそのままピン止めされたり、テープで貼り付けられていたり。ティルマンスは結構いろんな手法で写真撮っていて、手法ごとに纏められるような作品も、そういう纏め方をあまりやらずに、他のものと組み合わされるようにあちこち離れたところに展示されてるといった具合です。
テーマ的なものでグループ化されることもない展示だから、意味的な深みへと潜っていくような構成でもなく、むしろ絶えず組み替えられ再構成されて、その展示の組み合わせが作る空間は変容し、垂直方向ではなくて水平方向へと拡散していくようなものを形成していく印象が強かったです。
ただ、会場を回って見てるうちにちょっと散漫な感じがしたのも事実で、こういう展示方法が、作品を意味的な重力から解き放とうとしてる部分は面白いんだけど、正直なところ手が込んでる割には強い印象としては感覚の中に入り込んでこない場合が多かったです。インスタレーションの良いところとあまり良くないところは、この展覧会でも出ていたんじゃないかと思います。

ティルマンス図録頁


ティルマンスは90年代に自分の生活の中、身の回りにあるものや友人たちの生活、当時の若者や、ティルマンスはゲイなので、ゲイ・コミュニティに集う人たちの様子などを写して登場してきた写真家です。今ではわたしも含めてこういう日常を切り取るような写し方は極めてオーソドックスなものになってきたけど、当時はこういう写真を撮る先駆けになった人だったんじゃないかな。時期から見ると日本でもヒロミックスとかが出てきた頃?ひょっとしたら潮流としてそういう写真がやってくる必然性でもあった時代だったのかもしれないです。
若者のポートレートとか、何度も書いてるけど、ティルマンスが撮ったとしてもわたしにはよく分からない類の写真だったりします。妙に尖がった人が写ってたり、ジャージの上下でかっこつけて写ってたりするのを見たり、そういうのには興味を引かれて、ジャージの上下なんて日本ではダサい極み扱いなのに、これでもいいんだと、ジャージ好きになったりした影響はあったけど、人間性がどうのこうのとか性的なマイノリティがどうのこうのといったことにはまるで反応しなかったのは今でもほとんど変わらずです。
ただこの展覧会ではもちろんこの類の写真も展示してあったけど、あまり印象には残らなかったから、展覧会の主軸の扱いでもなくなっていたのかも知れません。というか分からないという異物感よりも結構頻繁に見てるから見慣れてしまったか?

とにかくわたしはこの写真家が日常を切り取る時の感覚が好き。といってもとても風変わりな、人を驚かせるような切り取り方はほとんどしてないんですよね。もう本当に普通に写してるとしか思えないから、波長が合わないとまるでどこがいいのか分からない、ただ適当に撮ったスナップにしか見えないかもしれない。でも波長があうと、感覚的なもので成り立ってる部分に自分が反応してることに気づいて、そうなるとティルマンスの写真は俄然面白くなってきます。これ観た後で会場周辺の街中で写真撮ったりしてたんだけど、今見たあんな風にかっこよくは撮れないなぁと、ただスナップしてるように見せながら何かある、その何かって一体なんだったんだろうと、思い返すことしきりでした。

あまり情緒的な切り取り方をしてないのが、わたしがティルマンスの写真で好きなことの一つです。これは明確に言える。たとえば詩集のなかに挿入されてそうな類の写真ではなくて、だからといって理知的というものでもないんだけど、対象をその色で包んでしまおうとしがちな心情、感情じゃなく、もうちょっと醒めた感覚を拠り所にしてるような写真。あまりべたべたせずに自分の周囲の世界の「形」を見極めようとしてるクールな感覚とも云うようなものが気に入ってるんじゃないかなと自分では思ってます。

それともう一つ、ティルマンスはいろんな手法で写真に関わろうとする写真家で、そういう多彩なアプローチを見せてるところも好き。
この展覧会でも、具象に限界を感じてスタジオに閉じこもり印画紙と薬品を使った抽象的な作品を作り続けていた時期の物が展示されていました。写真集では知ってたけど、これは実物で見たほうが絶対に面白かったし、実物を見られてよかったと思いました。
反対に現代の生活ではネットにあふれては消えていく情報の海を扱わないといけないと言うことなのか、ネットで見るモニター画面をそのままプリントアウトしたようなものがテーブルの上に所狭しと並べられてた作品があって、これはつまらなかったなぁ。まず第一にそもそも写真ですらなかったし。

面白いつまらないはまぁ別にして、第一線にいながら守りに入ることなくいろんな手法を試行する姿勢は、これはやっぱり大したものだと思います。この夏話題の一流盗作デザイナーやその擁護者たちのように、モチーフによっては似てくることがあるなんて情けない自己正当化してる場合じゃない。
写真の可能性はまだまだ未知の領域として目の前に広がってるんだよと、写真とか思いのほか狭い領域に凝り固まり収斂しがちなメディアだと思うから、こういう試行錯誤を積極的に繰り返してそういう領域を示そうという精神は思い切り影響を受けても良いはず。
そういう精神に触れるのもこのティルマンスの展覧会の見所の一つなんだろうと思います。

期間は23日までなので、今これを書いてる時点からは残りはあと一週間ほど。写真が好きで興味が出てきたら早く見に行ったほうが良いよ。
もう暑くもないし。








☆ ☆ ☆

Endless Summer - John Scofield


もう夏は終わったというのに、あんな夏は大嫌いだと言い切っていたのに、今時分になってこんな曲を取り上げてみます。
あんな夏がエンドレスだったらと思うと、夏の間に取り上げなかったのは正解だったとは思うけど。

ファンキーで官能的で、かっこいい演奏。もうこの一言ですべて言い切ってしまえます。緩急をつけながらも全体に疾走感がある曲で、意外とメロディアスなのも聴きやすさを追加して良いです。
ジョン・スコフィールドがこんなにオーソドックスに歌うギターを弾くのはわたしにはかなり意外なことでした。
この人のギターはアウト・スケールの変態みたいなメロディがグネグネとのた打ち回ってるという印象しかもってなかったから。
反対にスコフィールドの変態フレーズが好きな人には、このアルバムはかなり物足りなく聴こえるかもしれないです。
それと、この前のフリゼールもそうだったんだけど、こういうフィールドではあまり見ないテレキャスター使ってるんですよね。一人ジャンルのようなギタリストはテレキャスターを好むとかいった法則でもあるのかな。
わたしはテレキャスターの形、好きだけど。一番はレスポールであるにしても、ストラトよりも好きかも。









展覧会の図録はそのうち書店に出てくるかもしれないけど、今は国立国際美術館に注文するなり買いに行くなりしないと手に入らない。ティルマンスの写真集として一般的な出版物で手に入れやすいとなると、日本語のものはテキスト主体の本が一冊と美術手帖で特集したもの以外は出ていないから、海外の出版物となり、この「neue Welt」辺りになるんじゃないかな。2013年頃のティルマンスの最新写真集。今もまだ最新という冠がついてる写真集のはずです。
これと少し前の記事に載せておいた過去の代表作三冊がボックスセットになったものをプラスして、金銭的な面も含めてそれなりに手軽に、ティルマンスの全体をそれほど不足なく俯瞰できると思います。




夏の眼差 + Bill Frisell - Pretty Flowers Were Made For Blooming

真夏の高架下で
夏の高架下
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400


この夏撮った写真から。
タイトルからいくといかにも夏らしい写真が撮れたような気分だけど、実際はそうでもなかったです。今年の夏は暑さと悪天候であまりうろつきまわれずに使用したフィルムの数もあまり増えないままに終わってしまった感じ。おまけに二回もカメラ落としてしまってるし。
ちなみに今回の写真は落としたナチュラ・クラシカに入れていたフィルムから。
この前の記事を書いてからいかにも雨が降りそうな日だったけど大急ぎで残りを撮ってしまって現像に出してきました。数日前に現像に出しておいたブローニーが仕上がる日に持っていって、35mmのカラーネガは1時間ほどで現像してくれるから、仕上がったブローニーと一緒に持って帰ったのも予定通り。

仕上がったのを見てみると、落としてから以降に撮った写真も特に問題なく写っていて一安心でした。落とした直後にフィルムが幾分ずれたのか、どこから入った光か分からない光線引きと一緒になって、コマがずれて写った写真が一枚あったのが唯一のトラブルでした。でも一応今は普通に使えてるけど、使ってるうちに今回の落下の影響が現れてくる可能性もありそうで、でもまぁその時はその時でまた対応すればいいかと考えてます。
落としたもう一台のホルガはまたこの時の写真で記事を書いた時にでもレポートします。それにしてもカメラって頑丈なのか華奢なのかよく分からない機械だ。

このナチュラ・クラシカ、表面は一見革風なんだけど実はゴムで、わたしは左目が効き目だからファインダーを左目で覗いてるんだけど、その時鼻がカメラの裏側に当たって、鼻の脂なんかがついたするのを繰り返してるうちにその当たっていた部分が劣化してきてます。
それでそのままにしておいたら鼻の頭が黒く汚れそうなので、先日劣化したゴムの部分をエタノールで拭いてみたら、何と裏蓋の塗装部分まではがれてしまって、本体の黒いプラスチック部分が露出してしまいました。
嘘!これ塗装だったんだと思った時にははがれてしまった後でどうしようもなし。
傷だらけになるほど自分の道具の形になってきてるといえばそうも言えるんだけど、やってしまったという感じは拭えないだろうなぁ。
劣化したゴムの部分と塗装がはがれた部分には上から黒のビニールテープを貼って誤魔化してます。

☆ ☆ ☆

カメラは明らかに右目が効き目の人用に作られていて、左目が効き目だと使いにくいところがあるので、最近は右目でファインダーを覗く練習をしてたりします。ちょっと慣れてきてるんだけど、左目も開いた状態でファインダーを覗いてると、やっぱり左目から入ってくる情報が優先されて、ファインダー内の様子を見失うことも多いです。



夏空
夏の曲がり角
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400





夏の空
夏の堤防
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400





夏の屋形船
夏の屋形船
2015 / 09 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Kodak Super Gold 400


全部伏見の桃山辺りで撮っていた写真。
暗い場所を潜り抜けるという行為が何かの通過儀礼のようなものを暗示させて、出会えば撮りたくなる高架下。
それと、ちょっとありきたりかなと思わないでもない夏空の写真が二枚。道路沿いのはここまで家が並んでいたのが途切れてえらく開放的な空間になってるところで、その一気に広がった空間を撮ろうと思ってシャッター切ってみたんだけど、あまり広がる感じは出てないように思います。曲がり角って言うのもポイントが高い。曲がり角とか向こうに何があるんだろうって思わせるところなんかが結構好きです。ちなみに広がった空間は宇治川の堤防でこの向こうに道路に沿って宇治川が流れてます。

最後のはまるで曇りや雨の日ばかりだった今年の夏の後半に撮ったもの。空がメリハリのない曇り空でこんな写真になったけど、空が青空だったら水面は蒼く染まって、空を行く船のような写真になったかもしれないのが残念といえば残念なところかな。

☆ ☆ ☆

Bill Frisell - Pretty Flowers Were Made For Blooming



ディレイを駆使して一人多重演奏をしてしまうような、とってもユニークなアメリカのギタリスト、ビル・フリゼールのアルバム「ブルース・ドリーム」に入ってる曲。このアルバムはジャケット写真がこれまた惚れ惚れするくらいにかっこいい。
演奏は現代的な感覚とノスタルジックなものが何の齟齬もなく同居してる、幻想的で冷たい夢のような感触の音空間といったところだけど、このいかしたジャケット写真の雰囲気は良く合ってます。
フリゼールは一時アメリカのルーツ・ミュージックに深入りしてたから、そういう要素がフレーズの端々に現れてるようです。これが結構心に染み入ってくるようで、フリゼールはアメリカのルーツ・ミュージックそのものとでもいえるシェナンドーなんかの演奏もしていて、それと通してるようなところが凄い好き。
それにしてもこの人の演奏スタイルは一応ジャズギターに入るんだろうけど、ジャンルに納まりきらないというか、ジャンルを横断してるという感じでもなく、まだ名前のついてないジャンルで一人演奏してるような感じがします。

二枚目の写真の、遠く広がっていく空と、どこかあってるような気がして取り上げてみました。








坂道の街

坂の向こうに
坂道の街
2014 / 11 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Ilford XP2 SUPER





坂道
坂道の街
2014 / 11 / Leotax F + Summitar 50mm f2 / Ilford XP2 SUPER





影絵
坂道の街
2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Ilford XP2 SUPER





坂道の街の野良猫
坂道の街の野良猫
2014 / 12 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Ilford XP2 SUPER


また路上にカメラを落としてしまった。今度落としたのはこの前のホルガのようにもともと壊れそうなところがほとんどない単純なカメラじゃなくて、電子制御の繊細なナチュラ・クラシカでした。ちなみに今回の写真の後半二枚を撮ったカメラでもあります。ハンドストラップをつけてたんだけど、ストラップが切れました。
立ち止まって鞄からカメラを出し、ストラップに手を通して下に下げて何かした拍子にいきなり落下。動き回って腕を振ってるような状態で切れたんじゃなかったので、カメラは膝辺りの高さからそのまま真下に向けてアスファルトの上に落ちたと言う感じ、急いで拾ってざっと点検してみたところ外観で破損してるところはなく、作動させてみた限りでは確認できるところは全部問題なく動きました。レンズを繰り出す前でカバーされたまま格納状態だったことと、勢いがつかない状態で比較的落下距離が短かったのが幸運だったのかな。ただシャッターがまともな速度で動いてるか、そもそもシャッターそのものが動いてるかと言ったことはフィルムが入ってる状態なので確認できずに、内部状態はフィルムの仕上がりで判断する他ないところがあります。
落下させた時に撮影済みだったのは15枚くらい。36枚撮りのを入れていたので半分ほどまだ未撮影の状態だったから、とにかくフィルムを全部撮って現像に出す必要がありそうなんだけど、このところ雨ばかり降ってるからこの残り半分のフィルムがなかなか消費できない。なんとか撮り進めて今現在残りあと6枚くらいになったから、週明けに現像に出していたブローニーが1本仕上がるので、その時までにこの残りを撮り終えて現像に出したいんだけど、どうも晴れる気配がないのでイラついてます。

それにしても立て続けに二回もカメラを落とすって、どういうことだ。でも落下続きでどちらもアスファルトの上に落とすなんていう落下条件としては最低の条件で落としてるのに、これは幸運としか言いようがないんだけどほとんど壊れた形跡がない。両方とも落としたのは観月橋の辺りを歩き回ってる時だったんだけど、壊すまではしないからここで撮影するなと言う、何かからの警告でも受けてるのだろうかなんて思ったりしてます。明治天皇の御陵の近くだからなんかありそうな気がする。
ストラップはよく鞄なんかに下げるマスコットとかに使われてるような金具から細いコードのわっかが出てるタイプで、以前からこれ大丈夫かなと思ってたものでした。今回のことでこのタイプはやっぱり使えないと確信。今はアクセサリーに使うつもりで買い置きしてあった小さなナスカンと金属リングで繋ぎなおして、これでまず切れてしまうことはないだろうと思ってます。
ナチュラ・クラシカはトイカメラは別にして、わたしが唯一新品で手に入れたカメラ。最近まで中古屋に行かなくても普通に買えたカメラだったので、フジフィルムのほうで修理もまだまだ受け付けてくれるから、フィルムの状態によっては修理が必要になるかもしれないけど、そういう点は選択肢があるから安心ではあります。


これで切れない?

上が切れたのと同タイプで、この形の繋ぎ手のものは使わないほうが良いです。このタイプの繋ぎ方で鞄につけていたマスコットとかほぼ全部切れてどこかで落としてるし。
下がナスカン使って繋いでみたもの。当然これが落とした当のナチュラ・クラシカになります。

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今回の写真は去年の秋に紅葉を撮りに泉涌寺の辺りを散策していた時に撮ったものです。
ここも背後に御陵を背負ってるから山の裾野に展開してる街という感じがあって、坂の上り下りが結構目立ちます。市内は盆地だから上下の高低差なんてほとんどなく、そういう地形を見慣れてると上下に展開してる空間というのはそれだけでも物珍しい感覚として視界の中へと入ってきます。一言で云うとスペクタクルな空間という感じかなぁ。下に降りるという感覚も同時にありはするけど登りつめていくという感覚はどこか聖性を帯びた場所に導いていくニュアンスもあって、結構好きな空間の形態になってます。
ルネ・ドーマルの「類推の山」の感覚。

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最初の二枚はレオタックスにライカのズミタールをつけて撮ってます。レオタックスは日本製のバルナック・ライカのコピー機。海外ではレアな機種としてコピーライカの中ではマニアックな人気があるということらしいです。操作はまるでバルナック・ライカと同じで、バルナック・ライカのマニュアルがあるなら、それをそのまま適用できるくらいそっくりです。
ズミタールはライカのレンズの中では一番人気がないレンズらしくて、そのせいでライカのレンズにしては安価で手に入ります。使った感じは随分と線の細い繊細な写り方をすると云うのが一番の印象でした。ホルガの4Bくらいの鉛筆で描いたようなボヤボヤの描写も好きだけど、こういう繊細な感じも結構好きです。ボケ方は典型的なグルグル回転ボケで、これが嫌いだという人が多そうです。ひょっとしたらズミタールの人気のなさはこの辺に起因してるのかもしれないけど、被写体を真ん中においてみると視線を真ん中へと導くような感じになって面白いです。





伏見魔界行

高架下
高架下を抜けて
2013 / 05 / Konica BIG mini F + KONICA LENS 35mm f2.8 / ILFORD XP2 SUPER




閉ざされた商店
閉ざされた商店
2013 / 05 / Konica BIG mini F + KONICA LENS 35mm f2.8 / ILFORD XP2 SUPER





三つの面
御幣おたふく
2013 / 05 / Konica BIG mini F + KONICA LENS 35mm f2.8 / ILFORD XP2 SUPER





蔦に埋もれる
廃屋
2013 / 05 / Konica BIG mini F + KONICA LENS 35mm f2.8 / ILFORD XP2 SUPER


こんな写真を撮ったけど、どうでしょう?



で済ませれば理想的、なんて前回書いたけど、グダグダと文字を連ねなければ気がすまない性分なのでどうも落ち着かない。
ということでちょっとだけ文字を連ねます。
今回の写真は2013年に撮ったもの。それなりに古いです。どんな形で記事にしようかなと考えてたり、もっとここで写真撮るつもりで撮りたまってきたら記事にしようとか、色々と思惑があったんだけど、上手く纏める形を思いつかなかったり、河岸を変えたりしてるうちに記事にする気分もタイミングも逸してしまったようになった写真でした。それでも、異様に伸びた根っこの木とか何枚かは記事にはしたんだけど、後が続かなかった感じ。
撮影した場所は伏見です。でも伏見区はかなり大きいから、伏見です、なんて云ってもあまり意味を成さないとは思います。

伏見を魔界なんて言い切ってしまうと住んでる人に怒られそうだけど、ここで撮っていた写真を後で眺めたらどこか異界へと通じてる気配があったんですよね。今にも異界の扉が開きそうな写真も何枚か撮れてたし。伏見で撮った写真を放り込んでいたフォルダの名前はずばり「異界の伏見、中書島」なんてつけてました。

今はそんな視点ではあまり写真撮ってないかもしれない。平坦な日常のどこかに開く亀裂や非日常を見つけ出すと言うよりも、もう少し日常側にシフトした立ち位置で撮ることが多くなってるのかなと、撮り方はたった二年ほど前のことだけど結構変化してるような気がします。と言っても浮気性だから今はこういう視点で撮ってると明言できるほど固定化はしてないと思うんだけどね。
それにこれ、35mmレンズで撮ってる。最近なかなか馴染めないとか、やたらとぼやいてる画角の一つ。この頃は画角とかほとんど気にしなかった感じかなぁ。ビッグミニよく写って面白い!とか、そんな関心が主流で撮ってたような気がします。
この画角はどう撮るのが一番いいのかなんてあまり考える必要はないってことか?直感に任せてしまえばまた活路が見出せると言うことなのか?
とまぁまた考えてしまうんだけど、これはやっぱりわたしの癖なんだろうなぁ。

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先日ホルガを路上に落っことしてバラバラに散らばった様子、サブにもう一台カメラを持ってたんだから、バラバラに弾けとんだ様子を写真に撮っておけば良かった。散らばったパーツとフィルムを回収するのに必死で、写真撮ろうなんてまるで思いつかなかったけど、こういう時でも写真機を出すほど、頭の中を写真で埋め尽くすくらいでないと駄目だなぁって後になって思ってました。

目の前にあるのにシャッターが切れない対象に動物の骸なんかがあります。今年は二度路上で死んでる烏を見かけて、これは写真に撮ったんだけど、やっぱり凄い躊躇いがあるというか、珍しいから撮らないとと思う反面、結構な抵抗感もありました。宇治川の河川敷で見たものは躊躇いでかなりぶれて写ってたし。
川内倫子の写真で、鳩の骸とか撮ってるのがあったような記憶があるから、撮ると決めたなら余り抵抗感を持つ必要はないのかなとも思うんだけど、何しろフィルムで撮ったりすると、物理的な存在として手元に残ってしまうからなぁ。