思う心は千里の闇を縫って走る

千里の闇
思う心は千里の闇を縫って走る
2015 / 10 / Olympus Pen E-P5 / M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm f3.5-5.8

依然100円文庫での買い直しと問答無用半額写真集の狩猟は続いていて、どちらも保存しておくのが第一の目的になってるから、あっという間に収納場所に困り果てることとなった。100円の汚れ果てた文庫を保存対象に考えるのも妙な話なんだけど、やってる行為は、以前持っていて手放したのを買いなおしてる、一度手元にあった本だからお金をかけるのは嫌、100円だとちょっとした宝物探しでもしてる気分にもなる、という性質のものだから、また置く場所がなくなったら処分するという方向へは思考はなかなか流れていかなくなってる。
こうやって集めなおしてる中で、今読んでるのは島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」という本。この短編集に対する興味は昔から表題作の系列じゃなくて、同時に収められてるシュルレアリスム的な作品のほうだった。
それにしても状態の酷い文庫で奥付を見ると昭和四十八年とある。なんと40年以上前の本!本自身も40年後にブックオフの100円コーナーに並ぶことなど想像もしてなかっただろう。ページ全体が茶色に日焼けしてる上に活字が小さい。昔はこんな小さな活字の文庫を平気で読んでたんだとこれは本当に吃驚する。
何しろこちらの眼は老眼が入ってきてるものだから、茶色に変色したページに印刷された活字はコントラストが低く、その小ささと相まって無茶がつくほど読みにくい。というか、電車の中なんかだと窓から差し込む陽光に晒すくらいしないとほとんど読めなかったりする。
これは今新刊の文庫で本屋に並んでるのかなぁ。あまりにも読みにくいので活字の大きな日に焼けてない文庫に、そういうのが出てるなら買い換えたいと、なんだか買いなおし、買い替えの迷路の中に踏み入れてしまいそうな気配になってきてる。

ちなみに古書の類は映画DVDの廃盤とか漁ってる感覚の延長で、基本的には新刊の本なら積んである何冊か下のものを買ったりするような性癖の持ち主なんだけど、それしかないという状況なら割とその性癖に封印して手に取るのにあまり抵抗が無かったりする。でも水濡れの跡がある古本は、これだけは絶対に嫌。珍しい書物を棚に見つけて引っ張り出してもこの水の染みがあったりふやけてる状態の本は速攻で棚に戻すし、今そんなのを手にしたことで穢れてしまったものを洗い落とすのに、そのまま洗面所に駆け込みたくなってしまう。


the end



写真集のほうで入手したのも何冊かあって、その中でとんでもなかったのがマイケル・デウィックの「The End : Montauk,N.Y.」という写真集。「アート写真集 ベストセレクション 101 2001-2014」という本では、超希少本で入手が極めて困難、なんていう紹介のされ方をしていた本なんだけど、950円で出てたのを買って、ためしにアマゾンでどういう取引がされてるのか調べてみたら、なんと約46万円くらいの値段がついていた。もっともいつものことでこんな値段で誰も買わないからアマゾンのマーケットプレースのリストに残ってるわけで、めったに市場には出ないらしいものの、市場に出た場合の実際の取引は5万円くらいのよう。でもそれでも高い。
こんなのが1000円しない形で目の前にあったら、内容がどうのこうのという以前に手を出すほか無い。ちなみにアメリカの片田舎の漁村でサーファーとして一日を送るような生活をしてるコミュニティの様子、永遠の夏のような世界を生きる人たちを写したモノクロ写真集で、表紙の裸体で浜を駆ける女性の写真は非常に綺麗なんだけど、いかんせん水面下のものが全部恐怖の対象になって、サーフィンなどしようと思ったことも無い人間には根本的なところで接点を持てなくてどうしようかと思うような写真集だった。




☆ ☆ ☆



close
CLOSE
2015 / 10 / Olympus Pen E-P5 / M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm f3.5-5.8



今回のはフィルムじゃない。オリンパスのデジペン E-P5で撮った写真。レンズはキットレンズ使用。
元々持ってたデジペンはE-P3で一世代前のもの、しかも唯持ってるだけでほとんど使ったことがなかったんだけど、現行機種が結構値崩れしてきてたから、またちょっと気まぐれで手を出してみた。おそらくそろそろ新製品が出るんじゃないかな。新製品が出るのにわざわざ型落ちになる古いほうを?という疑問もあるだろうけど、デジカメを新製品で買うなんていう発想が皆無な者としては、新製品が出るというのは従来機が安くなるサインにしかすぎない。
ペンといっても古いカメラのデザインを引用してるだけの普通のデジカメだから、フィルムの初代ペンを使ってるからなんていうこだわりじゃなく、手を出したのは単純にE-P3で使うために外付けの電子ビューファインダーを既に持っていたから。これがE-P5に最適化されてる、オリンパスの外付けファインダーだと一番高価になるもので、E-P3ではカメラのファームウェアのアップデートで使えるようになってはいたんだけど、自動で液晶と切り替わらないとか、解像度が本来の密度じゃなくなるとか、フルパワーの状態で使えなかった。このファインダーを完全な状態で使ってみたかったというのが、このデジペンE-P5に手を出した一番の動機だったかもしれない。
でも本来の解像度で使ってみても、電子ビューファインダーはやっぱり何かが投影されてるスクリーンを眺めてるようであまり快感じゃないなぁ。光学式のファインダーのほうが抜けが良くて断然覗きがいがある感じ。
で、相も変らずこの世界にあるなかで一番つまらない書物だと思いながら、今回は我慢してマニュアルを読んでる。
結局のところ、わたしは滝の水が白い糸のようになって写ってる、ああいうのを良いとする感覚とはまるっきり無縁なので、シャッタースピードを中心にして撮ることも無く、絞り優先の形で、絞り値と感度の設定をどうやるのかさえ分かれば、特に不自由も無く撮ることができる。マニュアルって他に書いてることは、単純化して云えば画像に追加するエフェクトのことがほとんどという感じで、でもこれ何もカメラの中でやらなくても大半がPC内部でフォトショップでも使えば出来るんじゃないかなと思う。こういうのがマニュアルを煩雑で世界で一番つまらない書物にしてるんだろう。
なんだか文句ばかり書き連ねてる感じになりそうだけど、おまけにそのエフェクトのどれもがどこか紛い物っぽい。道具だからすべては使う人次第なんだろうけど、ずらっと並ぶエフェクト一覧はイミテーションがパレードしてるみたい。オリンパスが提供するエフェクトでいうと、トイフォトだとかクロスプロセスだとか、こんなの数千円のトイカメラで、しかもデジタルエフェクトなんかに比べ物にならないくらい予測不可能なドキドキ感を味わいながら本物が撮れるんだから、なにも10万以上もするような、まぁわたしが買ったのは値崩れで半額以下になってはいたけど、そんな高価なカメラで紛い物を作ることも無いと思う。本末転倒してるぞ。ラフモノクロームも偽者感が半端ない。ボタン一つで森山大道風スタイリッシュなモノクロームを、というような趣旨だと思うけど、ボタン一つで森山大道になることの意味なんてどこにあるとひとしきり考え込んでしまいそうだ。森山大道も今はデジカメで撮ってるけど、もし森山大道がラフモノクロームを使ってボタン一つで森山大道になってたらなんて想像してみると、これはちょっとシュールな状況だろうなぁ。






46万円!!!





日本の写真家の写真集がほとんどピックアップされてないのがいまひとつな写真集ガイド。他の写真集のセレクトもちょっと傾向がありすぎる感じがする。当然入るべきだと思う写真集がもれてしまってるのは、写真史を俯瞰するような包括的なガイドじゃなくて、出版年を限定して編集してるガイド本だからなのかもしれない。でも資料の一つとしてはそれなりに役に立つと思う。





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過剰なるものへの考察、夏の陽に滴る魚 + Mars - Helen Fordsdale

過剰であること
過剰なるものへの一考察
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像


実のところ写真は引き算なんていう言葉、本当はそんなに信じてはいない。何しろ混沌としたものが好きだから、そういうものを前にして整理してどうするんだと。
確かに効果的に引き算されてメインの被写体が際立つような撮り方は上手い写真になる可能性は高いと思う。でも上手い写真が必ず良い写真かというと、自分はちょっと即答できないところがある。これはイコールで結ばれるような等式じゃないんじゃないかって。上手くて綺麗で、見た瞬間にわぁ綺麗!って思うんだけど、それだけの写真。意識に引っかかるようなフックが何もないような、綺麗という残像だけ残して通り過ぎていくような写真。そういう写真でも撮れるのは凄いと思うところはあるんだけど、自分が思い描く写真とはやっぱり違う地平に立ってるとしか思えない。でもこういう風に書くと上手く撮れないことへの開き直りのようにも見えるな。
混沌が好きだと云いつつ差し出したこの写真。でもこの写真は混沌じゃない。要素は鉄塔と碍子と電線と、極めて限定的で一緒にあって収まりがいい物の集合だし、そういう意味では最初から選別されてるといってもいいかもしれない。ここにたとえば蝙蝠傘や解剖台が入ってくるような状況は被写体のほうであらかじめ引き算がされてる。撮ったわたしの事情も加えると、密度の違う部分を用意して配置に動きを出そうとしてる。
結局のところ徹底的に無秩序、混沌といったものは撮るのは極めて困難なことなのかもしれないと思う。NO NEW YORKの音楽のような写真とでもいうのかなぁ、そういうのが撮ってみたいと感覚の一部では思ってるんだけど、コントーションズもDNAも結局こちらの地平に戻ってきてしまったし、そういう方向へ歩を進めるのは不毛なのかもしれない。
ところで、こういう変電所のような場所って結構好きなんですよね。碍子の形とか妙に超常的にSFで、なおかつエロチックな曲面の集合体だし、なによりも東宝怪獣映画に出てくるようなイメージなのが最高。



卵が一杯
過剰なるものへのまた別の考察
2015 / 01 / Fuji Natura Classica + 28mm-56mm f2.8-5.4 / Fuji Natura 1600

巨大な規模でも緻密でもない、貧血のグルスキー。

新京極のスター食堂。子供の頃によく連れて行ってもらったレストラン。以前は隣の寺町にも店があったんだけど、今はこの新京極の店だけとなってる。
これだけ卵料理を並べられると視覚的にももたれてくる感じがする。




夏の陽に滴る魚
夏の陽に滴る魚
2015 / 09 / Olympus Pen F + F.Zuiko Auto-S 38mm f1.8 / Kodak Gold 200

思わしくなかった写真の、意味を成さなかった部分の切り出し。



☆ ☆ ☆



Mars - Helen Fordsdale


上の文章でNO NEW YORKなんて書いたものだから、ここから一曲ピックアップ。
わたしはこのコンピレーション・アルバムのなかではコントーションズとDNA命だったんだけど、Marsもなかなかかっこいい。
これ、78年頃のリリースで、収録されたバンドの実際の活動は70年代の中頃からとすると、ゆうに40年近く経ってしまってる。近年来日したジェームス・チャンスなんかチャンス翁なんて書かれてる始末だし、このMarsでもメンバーの二人が既に亡くなってる。
時の流れは容赦ないんだけど、音のほうはそんなすべてを腐食させていくような時間の暴力もなんのその、そんなに時間が経ったような音には到底思えない。これはやっぱり凄い。









休符で歌う歌声 + Melody Gardot - Over The Rainbow

休符で歌う歌声
光が囁く声を聴けば
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




光が囁く声を聴けば
休符で歌う歌
2015 / 09 / Holga 120 CFN +60mm f8 / +35FilmHolder / Lomography Color Negative 400



いつも情緒的な撮り方はしないと書いてるのに、今回は幾分情緒的。たまにこんなのも撮ります。
写真は引き算と云うけど、これは引き算のしすぎかもしれない。

今回のは自分でつけてるタイトルが自分ながらちょっと気に入ってしまった。以前ある写真ブロガーさんのところで、掲載されていた写真に「静寂の音なんていう表現がぴったりきますね」というようなコメントを書いたことがあって、これがちょっと自分でも気に入ってしまい、似たような感じで思いついたのがこのタイトルでした。要するにサウンド・オブ・サイレンス。写真も静けさの音といったもののわたし的イメージです。

新しいブログでも増設するなら、これをブログのタイトルにしてみようかなぁ。


☆ ☆ ☆

こう書いたからといって、サイモンとガーファンクルを持ってくるようなことはやらない。

Melody Gardot - Over The Rainbow

最初の効果音が聞こえだすと、マーティン・デニー辺りのエキゾチカ系?…何かダサい、と思わないこともなく、ボッサのリズムに乗り始めて、おぉボッサノヴァのオーバー・ザ・レインボウ!と身を乗り出すも、フェイクしまくってる歌にこれがオーバー・ザ・レインボウ?と、なんだか最初は散々なんだけど、優雅で洒落たオーケストラが絡みだし、興がのってくるような頃合には、結構耳をかたむけてるようになってると思います。
ささやかな声で歌うところが多いんだけど、外見のささやかさに比べて意外と芯が太いというか質量がある声はこの人の上手さを支えてる感じ。
デビューアルバムは昔オーパの最上階にあるタワーレコードに1000円もしない価格でお勧め盤として紹介されてたのを覚えてます。なぜ覚えてるかというと、ダサいジャケットとその安さからで、印象は大したことがないだろうなぁって言うものだったんだけど、こんなに囁き声で堂々とした歌を歌える歌手だとはそのCDを棚に見たときは想像もつきませんでした。









水に触れる、川面の相貌 + Chris Connor - Moonlight in Vermont

水面
水に触れる
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





皮膜の下
川面の相貌
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





風が強く吹く
風が強かった日
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像



暑い季節の間は自分で現像なんかしなかったけど、そろそろ汗もかかなくなってきたということで、夏が過ぎてから初めて現像した一本から。プレストが生産終了になった時に、買いだめというほどでもないけど少し買っておいたのがあって、使用期限が今年の12月となってるのに気づいて慌てて使ってます。冷蔵庫で保存してるし、まぁ1年くらい期限過ぎても大丈夫とは思うけど、暫くはモノクロフィルム中心で写真撮ってるかも。期限が過ぎてるといえば、最近ヴィレッジヴァンガードで買っていた7割引のホルガ。大抵フィルムが1本セットになっていて、コダックのポートラ400VCのブローニーと、これまた今では生産してないフィルムでした。これの使用期限が2012年。また微妙な期間というか、10年くらい過ぎてたらこれは駄目だと判断できるのに、3年くらいだったら使えるんじゃないかと、ちょっと悩ましい存在となって、使うなら早めにと決断を迫られてます。不安定な写りとか偶然を呼び込むなら格好の状態のフィルムなんだけどなぁ…、現像所で現像液が痛むとか拒否されるかな。
暑いさなかに自分で現像しなかったのは、一つはダークバッグの中に突っ込んだ手が汗をかいて、その湿度でフィルムがリールに上手く巻けなくなる可能性があったことと、もう一つは現像液の液温の管理が難しそうだったから。作業中、といってもフィルムが現像液に触れてるのは6分ほどなんだけど、すぐに温度が上がってしまう。寒い時もすぐに温度が下がってしまうとなるはずなんだけど、なぜか体感的には液温が上がるよりも下がっていくほうが対処しやすい感じがします。

☆ ☆ ☆

撮影したのは宇治川派流。夏の間は屋形船が通り、春には桜並木が幻想的な色で染めるささやかな流れの運河。観月橋の少し下流辺りで宇治川からの支流として伏見の街中に流れ込み伏見の酒蔵の合間を縫って、三栖閘門で再び宇治川の本流に合流する川です。屋形船が観光客を乗せて遊覧してるけど、写真撮るのに歩いて往復も簡単にできるくらい距離的には短いです。あっという間だから二往復くらいしないと乗ってる人は絶対に満足してないと思う。

川の水面の少し下、川底から延びてる水草の類がぼんやりと水面下に見えてるという感じが、不気味で幻想的で大好き。水面下に広がる水の巨大で暗い空間というのも、たとえばわたしにとっては宝ヶ池なんかでボートに乗ってる程度でも不安でいたたまれなくなってくるほどに恐怖の対象なんだけど、その異界の奥にぼんやりと姿が望める何か、水面の少し下、形もはっきりとはしなくなる境界辺りで蠢いてるものとか、得体の知れない怖さ、不安で舞い上がってしまうほど大好きだったりします。こういう感覚はブログを始めた当初、映画「フランケンフィッシュ」のことを書いたときにも力説してました。今ではフェイクとして収まってるオーストラリアで撮られたシーサーペントの有名な写真なんか、いつまで眺めていても見飽きないです。

二枚目のこの写真撮ってる時、水面下の水草が揺らめいてる場所で、場所を変えたりしながら何度もシャッターを切ったんだけど、こういうのって上手く写らないですね。今回の場合は荒れた粒子が気に入ったから、上手く写らないほうが面白かったと納得はしてるんだけど。水面の反射とかじゃなくて、光が上手く届かないような水面下のものを撮るコツとかあるのかな。


☆ ☆ ☆


Chris Connor with Stan Free Quartet - Moonlight in Vermont



以前にウィントン・ケリーが演奏したカクテル・ピアノっぽいのを載せたことがある曲。曲自体が好き。
クリス・コナーの歌声はハスキーで、低く太い声、ジャケットの写真もとにかく大きく口を開いて歌ってる写真が目に付くように、全身全霊で音量も豊かに歌う声だけど、張上げるようながさつな感じもしない。歌い方はジャズの大御所的な歌い方でもなく結構オーソドックスなところがあって、これがまたその全身全霊さが素直に届いてくるような感じでよかったりします。いかにもジャズっぽいっていうような軽妙洒脱な歌い方とか、たまに鼻につくことがあるから、イーディ・ゴーメとか割とオーソドックスに歌い上げるような歌手が好きになってるというのがわたしの場合は多いかも。




このCDの船の舳先のジャケットも良いんだけど、クリス・コナーのレコードジャケットといえば、初のレコードとなった10インチアルバム「Sings Lullabys Of Birdland」のマイクを両手で抱え込むように背をそらして歌う姿を写した、バート・ゴールドブラットのデザインによるモノクロジャケットのが良いです。このレコードのジャケット写真、大好き。


一応アマゾンにあったから、小さいけどこういう写真。

人を対象としたポートレート写真はまるで理解できないといつも書いてるけど、省みるとこういうのは凄くかっこいい写真だと思ってるんですよね。人を写してるのは変わりないのに、なぜなんだろう?







空の網目、花の街。 + Howard Roberts - Girl Talk

花の街
花の街角
2015 / 04 / Olympus μ2 + Olympus Lens 35mm f2.8 / Kodak SuperGold400





花篭自転車
花篭自転車
2015 / 06 / Nikon FM3A + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Lomography Color Negative 100





空の網目
空の網目
2014 / 03 / Nikon F3 + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Fuji SUPERIA PREMIUM 400


先日テンプレートを変えてみました。以前のはいつの頃からかタイトルバックの色面の四隅が上手く表示されなくなって、ブログの内実には影響はなく、目立つ傷でもなかったんだけど、どうも気になるというような状態になってました。
写真を表示するのでできる限りモニタ画面を全域で使えるようなものというのが条件だったんだけど、FC2にはそういうのはあまり揃ってません。見つかってもなんだかダサいとか、そんなのばかり。
そのなかで、これしかないと思ったのが、この今使ってるテンプレート。実はわたしが選んだ時には公式テンプレートのトップに置いてあった、探すのも無意味だったテンプレートでした。
とにかくプレビューしてみると、段違いに写真が映えます。他ので試してもPCのフォルダに放り込んであるものが外に出ただけって云う印象しか与えないのに、このテンプレートだけまるで写真のグレードが上がったような印象でモニタの中に現れました。
際立って見えるのは、単純にサイドのバナーを下にまとめて、白バックの上にシンプルに配置してるだけのように見えながら、所々に使ってる黒の色面の分量だとか全体の配置だとか、また文字の大きさとかが適材適所的に決まってるからなんだろうと思います。
下のほうまで眺めれば、プロフィール画像が大きめのサイズで置かれてるのも、バランス的な感覚が駆使されてる感じがするし、トップに視線を返せばタイトルバックの黒の分量も、単純にタイトルを載せるためだけならこんなに分量はいらないんだけど、このテンプレートの質感を出すためにはこれだけの分量の黒の色面が必要だと、ただ広い面が必要というだけじゃなくて、その分量までも的確に判断されてるようにみえます。

で、これが凄く気に入ったんだけど、実はブログの管理画面で保存はしたものの、実際に変えてしまうまでには暫く時間を置いてました。1カラムっていうのが、どうなんだろうと思って。ブログを始めた時は3カラム、途中から2カラムにしたけど、1カラムというのは使ったことがありませんでした。
一応この部分にも情報を乗せてるんですよね。たまにクリックしてくれる人がいる、使ってみて感動したタマリスフィトリークの場違いな紹介だとか、お気に入りの写真集のウィジェットだとか。
写真集のほうは気が向けば内容の一部を変えたり追加したりしてるし、このなかからピックアップして記事のほうに何か書いたりもしてます。
今までサイドに載せていたこういうものが完全に隅に追いやられて機能しなくなりそうだなぁって言う危惧があって、保存はしたものの実際に使うのはちょっと躊躇ってました。
結果的に写真の見え方がとにかく良くなるというのが一番だと思って、変更することにしたんだけど、使ってみて数日経過した感じだと、変更してよかったかなと思ってます。思いのほか気分一新されるし、そういうのはやっぱり歓迎すべきことだと。
ただ変更した結果、上に書いたお気に入り写真集のテキストが上手く表示されなくなってるのが、新しい傷ともいえるんだけど、写真の見栄え優先だから、これは仕方ないこととして置いておくしかないといったところか。

☆ ☆ ☆

今回の写真は柄にもなく花が関わる写真。厳密に云うと一番下のは花じゃないけど。
花の類はたまに思いついた時にしか撮らないから、使ったカメラは全部異なったものとなってます。どれもお気に入り、ニコンの二種類の一眼レフは常時メインで使ってるものだし、オリンパスのは防水で、雨の日にも使えて写りもいい上に、店の人の「これ、動くかなぁ」という声とともに確か100円で買ったから、なんだか掘り出し物を見つけた気分が未だに上乗せされてます。

真ん中の写真はヨドバシカメラのデジカメ売り場に掲げてある、スタッフが撮りましたとキャプションがついた作例写真のようだ。

☆ ☆ ☆

根がそれほどロマンチストでもないから、花を撮ってもあまりロマンチックなものにならないなぁ。どこかで従来的なものからはちょっと外そうっていう意識もあったりはするんだけど、それにしても「わぁ綺麗」って云う方向にはなかなか向かない。
今もまだ流行のような、癒し系の写真とか、また対極にあるシリアスで重厚な写真とかも、あまり資質でもなさそうで撮ろうという気にはならないし、自分の撮り方を省みてみると、大体今まで写真が扱ってきたこれこそ写真といった文脈に、これは途中から垣間見るような係わり合いの仕方をしてるからだろうと思うんだけど、そういう王道的なものに浸かりきるほどにはその文脈の中にはいない感じもする。軸足は写真的なものというよりも美術的なほうに傾いてる感じ。というかそういう傾斜で撮ってみたいといつも切望してる。

自分にはどういう写真が撮れるかなんて、撮ってみることでしか形としては現れてこないから、撮ることで見出していくほかないんだけど、今はまだ亡羊としたものの真っ只中。
花を前にしてロマンチックに一歩踏み入れるんじゃなくて、別の方向に数歩踏み出すような撮り方、「風景写真」という言葉に何だか妙な抵抗感を感じる感覚、そんな感覚は一体どんな写真を撮る方向へ導いてくれるんだろう。

☆ ☆ ☆

それでも撮ってみたいと思うものはあって、それは何かというと、耽美的、退廃的なもの。
澁澤龍彦の昔から、こういうものへの傾向、偏愛は止みがたくありました。
でもこれは街中のスナップではまずほとんど不可能というのは分かってます。
耽美的、退廃的というので一番に思い浮かぶのはジョエル=ピーター・ウィトキンだけど、こんなことはとてもじゃないけどできないし、やったとしても二番煎じ丸出しになるだけ。


☆ ☆ ☆


Howard Roberts - Girl Talk


曲は映画「ハーロウ」の主題歌です。元歌はジュリー・ロンドンが歌ってました。
ハワード・ロバーツのギターは、ここで数曲ピックアップしたことがあるバディ・コレットのアルバム「BOSSA NOVA」で演奏していたのがお気に入り。
土臭さとは無縁の洒落た演奏で、そういう特徴はこの曲でも良く現れてると思います。
そんなに難しいところもなくイージーリスニング的に聴けるのもいいし、ギターとオルガンがよく合うって言うのの最上の例にもなってるかもしれない。






ラウンジミュージックのコンピレーションアルバムのシリーズ、ウルトララウンジの一枚。これ全部で何枚リリースされてるんだったかな。この曲はハワード・ロバーツのアルバムとしては「Goodies」って云うのに入ってるんだけど、入手困難です。

このシリーズは選曲もいいし、ジャケットデザインも洒落てる。盤ごとにテーマ的なものを決めて選曲していて、シリーズ全体としての印象は昔の日活映画にでも出てきそうなキャバレー的な曲や、モンド系の怪しげなダンスミュージックなんかの玉手箱といったところかな。





籠 + Phillip Phillips - Home

籠

2015 / 05 / Nikon F3 + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Fuji Provia100F





踏み切り
踏み切り
2015 / 05 /Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji Provia100F


今年の初夏の頃にニコンのF3にリバーサルフィルムを詰めて撮っていた写真の中から。このフィルムロールからは以前に山科で撮ったものを数枚ここに載せてます。
リバーサルは、いわゆるポジフィルム、またはスライドフィルムのことなんだけど、反転像になるネガとは違い、撮った写真はそのまま普通の形で見ることが出来るイメージとしてフイルム上に並ぶこととなります。これがまるでフィルムの上に写真のミニチュアが並んでるようでなかなか楽しい。

リバーサルをオーソドックスな形で使ったのは実はこの時が始めてのことでした。
何だか露出がシビアだとか露出補正ができないと上手く使えないとか、やたら難しいフィルムというイメージを撒き散らしてる人たちが一定量存在して、面倒くさそうだから多少露出を間違っても全然問題ない、許容範囲が広いネガでいいやとなったり、ライトボックス越しにルーペを使ってみるというリバーサル独自の閉じた鑑賞形態が、何しろわたし自身が人見知りであまり外交的でもないときてるから、写真までそんなところに立ちたくないと本気で嫌だったりと、これまでにクロスプロセスをやるのに二本ほど使ったきりで、使おうとは思わないフィルムの範疇に入ったまま、いつの間やらそこが正しい居場所のように収まってしまってました。

そういう存在だったフィルムを使ってみようかと思ったのは単純な気まぐれだったんだけど、使ってみるとそんなに悩ましいほど使うのが難しいフィルムでもなかったです。
考えてみればトイカメラの王道のクロスプロセスを担ってるフィルムなんだから、露出のコントロールが出来ないトイカメラできちんと写真として成り立つものを生み出せてるわけで、ネガのように普通に撮っても何の問題もないだろうって云うのは簡単に予測できたこと。確かに露出の不備に関してはネガよりもシビアな感じはするけど、補正を+1か+1.5かどちらにするべきなのかといった厳密な判断を強いられるほどでもなくて、よほど酷くはずしてない限りはネガと同様にそれなりに撮れてしまいます。むしろ外した時の破綻具合は、色が汚くなったりするネガの場合よりも絵になってるかもしれない。
それになによりも透過光でみる写真が予想外に美しかったこと、これがリバーサルを実際に使ってみて体感した最大のことだったかもしれません。35mmはちょっとコマが小さいけど、光にかざしてその光の中に浮かんでる写真。相も変らずライトボックスの上に乗せてルーペで見るなんていう方法は大嫌いだしやろうとも思わないけど、窓に向かってリバーサルフィルムをかざして、その光で見るのは凄く好きになりました。

前にも書いたけど、こんなことならもっともっとリバーサルも使っておくべきだったと思ってます。すでにコダックはリバーサルフィルムから撤退、残ったフジも感度100のものを2種類だけ残して他は作るのをやめてしまってるし、明るいレンズがあれば感度100で十分なんだけど、選択肢がほとんど無くなってしまってるのはやっぱりよくない。欧州のほうではローライだとかフォマだとかそれなりにフィルムの生産は続いてるし、確かリバーサルなんかも作ってるはず。入手しやすかったからコダック、フジだけで充足していたけど、この二大大手の規模縮小はそれ以外の海外のフィルムを使ういいきっかけになってるのかもしれません。
ともあれコダックのリバーサルも撤退する前に使っておけばよかったと、これは今更のように思ってます。


自動車
自動車
2015 / 05 / Nikon F3 + Nikkor Ai-S 50mm f1.4 / Fuji Provia100F


何かに視線を絡み取られて、何だろうと思いカメラを向ける。
でもファインダーを覗いてみると、フレームの中には視線を絡め取ろうとしたオブジェは収まってるけど、絡め取られそうになった何かはその視界の中には見つからずに、ただそのオブジェだけが寒々とした佇まいを見せてるだけ。そんな場合は、これは、わたしが見かけたものじゃないと、シャッターを切らずにカメラを下ろしてしまう。
あるいはそのオブジェと一緒に、視線に絡んできた何かがフレームの中で息づいてると感じる時は、それを取りこぼさないようにシャッターを切る。
こうしてシャッターを切ることを繰り返して積みあがっていく写真を、暫く時間を置いて現像が仕上がった時に眺めてみると、何かがあった気配を感じてシャッターを切ったはずなのに、出来上がった写真からはどこを探しても見つからないものになってる場合があったりする。あったりするどころじゃないな、そういう場合のほうが圧倒的に多い。
そんな中からあの時オブジェと重なるようにしてあった何かも写真の中に封じ込めたと思える写真を選び出して、誰かに見せてみる。
そこで、自分が絡み取られ、写真の中でも息づいてると思っていた何かが、見せた人に伝わるかどうかは、これまた別問題となって、実のところほとんど伝わらなかったりする。
でも、めげない。自分が見ようとしたものがどんな形で写るのか知りたいというのが最大の動機だったりするから。

写真を撮っていってる過程はこんな感じかも。シンプルに一つのオブジェを被写体としてる場合はこの気配のような何かがファインダーの中に潜んでるように感じられたら、結構気分は高揚します。


☆ ☆ ☆


Phillip Phillips - Home


結構色っぽい声とフォーキーな雰囲気がマッチしていてなかなか心地よい。
アメリカン・アイドルというTV番組のシーズン11の優勝者なんだそうです。
曲もメロディアスなコーラス部分が妙に耳に残る印象的な仕上がりになっていて、この部分がお気に入り。でもこのコーラス部分、違う曲で似たようなのを聴いたことがありそうな気がしてるんだけど、どういう曲だったのかどうも思い出せない。
PVの映像もフォーキーでアコースティックな雰囲気に合わせてるのかアナログっぽいイメージが随所に出てくるので、これもかっこいいと思いました。










仄暗い世界の片隅 + Bill Frisell - Shenandoah

輪
集合するもの
2015 / 09 / Holga120GCFN + 60mm f8 / Ilford HP5


レイライン
目の前に光の道が現れる。
2015 / 09 / Holga120GCFN + 60mm f8 / Ilford HP5


この夏トイカメラのホルガで撮っていた写真。再びモノクロです。

地面に落としたホルガを使ってます。落とした時のフィルムは路上に転がり出て全面的にアウトだったから、その後に入れたフィルムで撮っていたのが今回の写真。
真四角写真じゃないからあまりホルガっぽくないけど、ホルガはこういう6×4.5のフレームでも撮れます。
こんなフレームマスクを使ってたのはいつものへそ曲がりの発露というより明確な理由があって、一つは縦構図が好きだということと、周辺減光がそれほど好みじゃないって云うこと。もう一つは撮れる枚数が6×6の場合よりも4枚増えるっていうこともありました。6×6のブローニーで撮れる12枚は撮り切るにはいい分量かもしれないけど、仕上がって眺めた時にあっという間に見終わってしまって、何だか物足りない感じがいつも付き纏います。

縦長のフレームに交換して撮ると、真四角で撮った時にトンネル効果なんていう言葉で売りにしてる四隅の部分を使わないことになるから、周辺の光量落ちが目立たなくなります。
周辺の光量落ちに関しては、若干周囲が薄暗くなるといった感じのものだとか、ランダムっぽい形で出てくるものは、ドラマチックな感じになって効果的な場合もあるものの、こういうトイカメラのようにまるで画面の真ん中をくりぬいたように露骨に出てしまうとわたしにはちょっと邪魔だと思うほうが強くなってきます。今の気分だとスクエアフレームで撮っても、よほど効果的でもなければ、おそらく一回り小さくトリミングして周辺部分は捨ててしまうかも。

ただのレンズの設計不足に過ぎない周辺の光量不足を、トンネル効果という言葉を使って表現の一環のような扱いで売ろうとするトイカメラの商業主義を嫌う人は、トンネル効果なんていう言葉そのものを嫌う人も多いだろうけど、この辺りはわたしは考え方がちょっと違っていて、むしろただのレンズの設計不足に過ぎないものを言葉を与えることで対象化し、不備なものじゃなくて価値を持ったものという形を与えたのは、わたしは発想としては面白いものだと思います。言葉を与えることで対象は形を持つって、他のことで前に一度書いたことがあるけど、これもそんな感じ。
だからといって、周辺光量落ちはあまり好きじゃないという感覚には変りはないんだけど。

ちなみにホルガについてちょっと書いておくと、香港生まれの非常に安価なカメラ。当時販促用のノベルティなんかに利用されていたダイアナというこれまた安価なカメラがあって、このダイアナがホルガの発想の元になってるということらしいです。ダイアナのほうは70年代に生産終了となっていたのを、のちにロモグラフィーが復刻させて今風トイカメラとして遊べるようになってます。ダイアナは絞りが何段階にも変えられたりしてホルガよりもずっとカメラらしい作りなのに、全体の破綻具合はホルガよりも上というような何だかとんでもないカメラ。何かに載っていたダイアナで撮った写真で好きなのがあって、そういうのが撮りたくて買ったんだけど、未だその気に入った感じでは撮れずにいます。
それはともかくホルガは最初は中国の市場を相手に売ろうとしたものの、結果的に庶民には買えず、裕福層は高級カメラを買うから結局中国では上手く売ることが出来ず、それではと元々はストロボを作って成功した会社だったのでその販路を利用して売る方向へ切り替えたら、たまたまあるカメラマンが使ったのがきっかけで欧州のほうで評判になり、その後世界へと知れ渡ることになったという話です。何だかロシアのLC-Aと広まり方がよく似てる。
ホルガは李定武という人が作ったのは分かってるんだけど、その元になったダイアナのほうは九龍の長城塑膠工廠で作られていたということだけで、誰が発案したのかなど資料がなくて今ではよく分からないらしいです。
九龍城という魔宮を配した九龍の空間のどこかで、どんな人の頭にこの稀有なカメラのアイディアの最初の明かりが灯ることになったのか、もう知ることもできないとなると余計に想像力を刺激するところがあります。



何を喋ってるのかさっぱり分からないけど、どうやらこの人がホルガを世に送り出した人らしい。


☆ ☆ ☆

何かしら偶然性への道を開くための道具と思ってるから、意図するように撮れなくても当たり前なんだけど、それにしても気に入ったものが撮れる確率は少ないかも、この夏のホルガも消費したフィルムの数が少なかったのもあって、気に入ったものは本当に僅かという結果に終わりました。前に使ったのは大阪港に写真撮りに行ってた時だから、かなり長期間使わなかったというのも思わしくなかった原因の一つなんだろうと思います。何にしてもやっぱり使わないと。

最初のは実は何なのか撮った本人も分かりません。何かの工場の壁に並べてかけられていた謎のオブジェ。
ストロボを焚いてるわりに、全然明るくなってない。ホルガのストロボはほとんど遠くまで届かない感じで、ひょっとしたら2mも届いてないんじゃないかなぁ。カラーのストロボはさらに光は届かなくなるし屋外ではほとんど色がつかないし。ストロボがついてると便利そうだけど、外部ストロボを使う仕様の一番安いホルガのほうがストロボ周りは使い勝手がよさそうです。


マネキン
マネキン
2015 / 09 / Holga120GCFN + 60mm f8 / Ilford HP5

最近のマネキンは美形の顔つきといった造形をしないのが増えてるのかなぁ。これなんかほとんどシュールレアリスムの作品みたいになってる。こういうものを撮る時の常で、この写真の中に閉じ込めた空間がかっこいいとするなら、それはマネキンを作った側か、写真を撮った私の側の腕前なのかどちらなんだろうって言う疑問がまたしても頭に浮かんできます。まぁマネキンを作ったほうっていうのが正解なんだろうけど、撮った側としてはそれで終わるのはやっぱり癪に障る。成果の幾分かは何とかこちらの側へと引き寄せたい。
自分を取り巻く世界を構成するものを採集するように撮ってると、こういう疑問はいつだって目の前に立ち現れてくるもので、たまにそういうのに嫌気がさしてくると、木だとか猫だとか撮りたくなってきます。木は神様以外の誰のデザインも受けてないし、猫は肖像権なんか主張しないから気が楽です。


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Bill Frisell - Shenandoah


フリゼールのシェナンドーは「east/west」に収録されてるのが好きだったんだけど、見つけられなかったので別バーションのを。
マリリン・モンローの「帰らざる河」とか西部劇の主題歌や主題歌っぽい曲は結構好き。
欧州から渡ってきた移民によって作られていった国だから、アメリカの音楽の基本部分にはたとえばアイルランドの古い音楽なんかに通底してるところもあるだろうし、そういう部分に反応して好きになってるところもあるんだと思います。
そう思ってそういうのを期待して、アメリカの歌そのものだろうとカントリーなんかを聴いてみたら、まるでイメージと違う音楽だったりするんだけど、西部劇に出てくるような音楽とか、カントリーとはまた別物なのかなぁ。カントリー&ウェスタンって一くくりになってるけどかなり違ってる気がする。