秋の空を滑空するか、眼差。

枯葉
枯葉のステップ
2015 / 11 / Golden Half + 22mm Lens / Fuji SUPERIA PREMIUM 400





壁が奏でる
壁が奏でる。
2015 / 11 / Golden Half + 22mm Lens / Fuji SUPERIA PREMIUM 400






秋の空を滑空するか眼差
秋の空を滑空するか、眼差。
2015 / 11 / Golden Half + 22mm Lens / Fuji SUPERIA PREMIUM 400


とは云っても、見上げてはいるものの視界は壁に遮られて、空に通じてるのは一枚だけだけど。
写真は全部、この秋にサブカメラの一つとして持ち歩いてるトイカメラのゴールデンハーフで撮ったもの。ハーフサイズのアスペクト比はライカ判のものより、縦位置にした時に横幅が若干広いのが、わたし的には結構使いやすかったりする。ライカ判も悪くはないけど、たまに細長いなぁって思うことがあるから。重いというよりも持ち運ぶ時の馴染まなさが半端じゃなくて、あまり持って出かけないMamiya RZ67 Pro IIのフレームに、まだちょっと細長いけど近いかな。ゴールデンハーフは一番安価で手軽に使える6×7に近いフレームっていうところか。

元々フィルムの面白さに気づくことになったきっかけがトイカメラだった。だから、トイカメラは今でも大好きだし、普通のカメラに少し倦んだ時なんかには使いたくて心がざわめくこともある。夏頃からトイカメラの叩き売りで重宝してる、京都ヨドバシのヴィレッジヴァンガードのアウトレット。その店で豪快に放出されてる様子からしても、既にトイカメラなんて流行でもなんでもなくなってるけど、トイカメラ好きとしてはそのほうが気分的には使いやすい。
でも、好んで使ってるからといって、こういうのが個性的だとはほとんど思わない。かなり以前に、これはフィルムじゃなくてトイデジのビスケットカメラについて書いたことは今でも考え方としては変っていなくて、むしろ類型的なものの典型なんじゃないかと思う。

☆ ☆ ☆

今回の写真はいつにも増して主観的というか情緒的な写し方になってるかなぁ。
純粋に客観的かどうかという観点なら、そちらの方向を向いて、ある特定の範囲をわたしという個人的な視線で切り取ってる段階から既に客観的ではなくなって、主観的なイメージになってる。カメラ任せに撮っていて情緒的というのも考えてみれば妙な話なんだけど、ピントリングさえついてないような曖昧なフォーカスや、現実の色からはどこか傾斜してるような色合い、安定しない光の入りかたといったものが、そういう風に見えるサインを含んでいるんだろう。本来的にはもうちょっとドライな撮り方が性にあってるような気がするんだけど、こういう類型的な逸脱、情緒的に見えることもあるちょっと胡散臭い揺らぎのようなものもなかなか楽しい。それに、すぐに凝り固まってしまう感覚に、本格的逸脱への未踏の道に気づかせてくれるかもしれない可能性だってある。

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最初のは東福寺辺りの鴨川の、堤防の壁面に降り積もっていた枯葉。撮っていた時は東福寺では紅葉の真っ盛りで、駅周辺でさえも、しまった来るんじゃなかったと思うほど人が多かったんだけど、撮りに行こうとしていた場所は東福寺とは正反対の方角だったので、一気に人の気配は途絶えて、それほど辟易することもなかった。
一番下のも同じく東九条辺りで撮ったもので、遠くに京都タワーがぼんやりと見えてたりする。ちなみに東九条は映画「パッチギ」の舞台になったところで、映画は無知を下敷きにして平気な政治的プロパガンダに辟易するものの、そういうのを無視できるなら、不良学生がひたすら喧嘩に明け暮れる娯楽映画としては楽しめる。少し前の、でも今となってはもう見ることも出来ない京都の町も懐かしい。俳優は主役じゃなかったけど桐谷健太が面白いんだなぁ。沢尻エリカも可愛らしかった。

真ん中のは藤ノ森の高架下。右下の縦に細いグレーの出っ張りと下の白っぽいラインと暗号めいた文字がポイントだ。





調節は出来ないけど、フラッシュがつけられるホットシューを装備してるのが、この類のトイカメラとしてはかなりの利点となってる。
写りは実は意外なほどまともで、しっかりと撮れるカメラ。普通によく撮れるのでトイカメラっぽさを期待するとちょっとがっかりするかも。



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Things to Come + 写真に関する書物「The Body: Photographs of the Human Form」

来るべき世界
Things to Come
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





鳩

2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





航路
航路
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像



いろいろとタイトル考えるのに疲れてきたなぁ。拘泥しすぎるとタイトルが思い浮かばなかったらブログに載せられないような気分にさえなってくるから、これはまいる。逆にタイトルが思い浮かぶと、どの写真を組み合わせようか色々と思考が働き始めることもあるんだけど、思いつく思いつかない以前に、そもそも写真に説明する言葉なんか不要という態度が一番最初にあるんじゃなかったのか。
思い浮かばないし、不要だというのなら、いっそのこと全く別の存在として、必ずしも内容に沿うものでもない、はぐらかすためのタイトルでもつけてみるのも面白い。オブジェの間や写真の間だけじゃなく写真とタイトルの間でも、解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いを画策するべく、マルドロールの歌でも朗詠してみようか。

写真のほうは最初のなんかは大昔のSF映画にでも出てきそうな空間という感じかな。SF映画といえば、もうすぐ新作がお目見えするスターウォーズなんかも好きだけど、大昔のモノクロ、レトロフューチャーなSF映画の、手作りによる視覚効果が一杯詰まったようなのも大好き。フリッツ・ラングの「メトロポリス」の都市光景なんか、見るたびにため息もので食い入るように見てしまうんだけど、多層の道路の上をラッシュアワーの列を成して流れていく、本来はそんな小さな車の個別の動きなんか目に留めない、小さなミニチュアの車の一つ一つの動きに注目してみたりすると、これがフィルムの向こう側でコマ撮り撮影などこまごまと操作してる人がいたんだと想像できたりしてなかなか楽しい。こういうのはCGでやってしまうと、リアルには見えるもののそう見えるのが当たり前感満載となって、まるで面白くなくなってしまう。

色々と撮った写真をモニタに流して眺めてると、しかしそれにしてもいつも似たような撮り方をしてるなぁと我ながらに思う。自分が周りの世界を見ることについて写真を撮ってみるというような撮り方をしてるから、それは周囲の世界に対する自分の見方が形を成しつつあるからだと思うなら、目的には近づいてるのかもしれないけど、でも写真を撮ることで、これは逆にいささか硬直してきてないか?
第三の外在する眼であるカメラを通すことによって、二つの肉眼ではなかなか見ることが出来なかったものを察知する、写真を撮るということは視覚の可能性を広げるといったようなことでもあるはずなんだけど、逆にカメラで撮ることが視線を縛りつけようとしてる。
写真を撮るには良い季節になってるんだけど、惑うことも多い。


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この前書いたのを読んでカメラうさぎって何だ?となるのは必至だと思い、写真を撮ってみた。カメラうさぎってこういうカメラだ。

カメラうさぎ

なかなかキュートなカメラでしょ。
ついでに仲間入りさせておいたのが写ルンです1600。
ちなみにレンズ付フィルムで撮ったアレック・ソスの写真集は「Bogotá Funsaver」というもの。このFunsaverというのがコダックの出してるレンズ付きフィルムの商品名で、要するにソスが家族とともにコロンビアのBogotáへ行った時 コダックの使い捨てカメラFunsaverを使って撮った写真集って言うことになる。積極的にレンズ付きフィルムを選択したというより、行く場所のせいで普通のカメラを持っていくことを制限されたのかな。
フジのレンズ付きフィルムは高くても1000円以内で買えるのに、アマゾンで見てみるとこのFunsaverって云うカメラ、ちょっととんでもない値段で売られてる。ひょっとしたら今はもう製造されてなくてプレミアがついてるのかもしれないけど、それにしてもこんなものにもプレミアとかつくのか?
今F3とオリンパス35DCとコンタックスT3とナチュラクラシカとクリアショットSとゴールデンハーフにフィルム入れてしまってるので写ルンですの出番はかなり先になると思う。いつもは大概カメラ二台にフィルムを入れておく程度で、こんないっぱい同時進行でフィルム入れたことなんて今までに無かったのに、なぜか今そんな状態になってしまってる。


☆ ☆ ☆


最近買った本で面白そうだったもの。面白かった本と云えないのは英語の本なので、まだ読みもしてないから。しかも読んだとしても本当に読めるのかどうかも分からない。
「The Body」というのがその本で副題は「Photographs of the Human Form」となってる。

THE BODY



the body 2
(右側のが、JIri Stachというチェコの写真家の作品、異様で良い。ちょっとジョエル=ピーター・ウィトキンっぽいか?この本には当然の如くウィトキンの作品も一枚紹介されてる。)



写真の中での身体の扱われ方、人間の体という物理的な存在を造形的にどういう風に写真で表現してきたか、あるいは身体のあらゆる側面を使ってどういうものが表現されてきたのかといったことについての評論とでも云えばいいのかな。
ポートレートには不感症だけど、人のフォルムに関する関心だとか、造形的な再構築なんていうアプローチといったものなら、これは理解できるしかなり興味深いテーマともなる。
おまけにこの本、評論主体の本なんだけど、結構写真が多くて、しかも普通の写真の雑誌なんかだとほとんど取り上げられない、見たこともないような作家のものが数多く収録されてる。奇形や皮膚病のような衛生博覧会的なものから、ダークサイドに落ちてしまった幻覚に近いものまで、人間性がどうのこうのという地点からはかけ離れた地平で妄想されたものを見せてくれるような編集とでもいうかな。特に後半の「metamorphosis」とか「mind」と章立てされた部分で展開されてるものは、身体の美を追求するあくまでも綺麗なヌードとかは他の評論や写真集に任せ、ちょっと特殊なポイントからでしか現れない美しさ、ーそれは退廃的でグロテスクではあるんだけど、でも同時にシュルレアリスムなんかの延長上で見出された「美」の範疇であるのは間違いないといったもののコンパクトなコレクションとなっていて、眺めていて本当に楽しい。
しかしまぁ本当に名前も聞いたことが無い作家ばかり。中にはアンドレ・ケルテスなんていう有名どころも混じってるけど、強烈な印象を残すのはこの本で始めて知った作家のほうがほとんどだったりして、拡張されていく写真の領域をまざまざと見せつけられることとなる。
写真を撮ることで視線が縛りつけられるとかいってる場合じゃないな。










奇譚 + Beach House - Zebra

歪なソファ
湾曲について思考するソファ
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





カリガリ博士の窓
カリガリ博士の部屋
2015 / 10 /Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





逢魔ヶ時
奇譚
2015 / 08 / Ultra Wide & Slim + Ultra-Wide Lens 22mm / Lomo ColorNegative 100


歪なもの、逸脱するものについて視覚を巡らすこと。
特異な何かを見出すと写真を撮ってみたくなる。あまりあからさまに特異というのは、分かりやす過ぎて多少興醒めすることもあるんだけど、写真にすることで見出されそうな何かという形なら、特にこれは風変わりな被写体だ!とも意識しないままにレンズを向けていることがある。
でも本当のところは、こういう対象の特異性に頼って写真を撮らないほうが良いという意識、というか「撮らない!」なんていう、そんなに禁欲的な気分というよりも、対象の特徴に頼らない写真を撮ってみたいという願望もあって、カメラを持って出歩いてる時は、最近は特にその両極の間で揺れ動いてる感じがする。ひょっとしたら今年の春、桜の季節の直後に迷い込んだ山科を歩き回っていた頃からどうも撮りあぐねてるという感覚になってきてるのも、理由はその辺にあるのかもしれないなぁと思ったりする。

まぁ撮りあぐねてるといっても、こうやって面白そうなものがあれば嬉々としてシャッター切ってるわけだけど、特異なものを撮る、風変わりなものを撮るって、多分に写真的には制度化された視線で、わたしの視線、わたしが見るということとは完全に一致しない、なんと云うか他者性のようなものが必ず付きまとってる感じがする。できるならそういう写真的に制度化された視線といったものとは違うところから撮りたいとは思ってるんだけど、なかなか難しいというか、こういうことを考えてるから撮りあぐねるような気分になってくるんだろうなぁ。

お気に入りの写真家の一人、アレック・ソスが普段の大判カメラを離れて、レンズ付きフィルムで写真撮って写真集を出してるのを、最近になって知った。凄い興味がわいて、持ってるカメラだとフジのクリアショットSあたりがフィルム交換できるレンズ付きフィルムといった感じのものだから、これにフィルムを詰めたんだけど、やっぱり本物とは違うんだろうかと思ったので、結局正真正銘のレンズ付きフィルムを買ってしまった。何だかそれなりの決断でもいりそうに書いてるけど、買ったのは「写ルンです1600」で、出費は900円ちょっと。実はこういうカメラは使うのは初めてなので、新しいトイカメラでも手にした気分で結構うきうきしてる。

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Beach House - Zebra


2000年代に起こったドリームポップと称される音楽の牽引役となったバンドの曲。どっちがバンド名でどっちが曲名なのか一見して分からないけど、Beach Houseのほうがバンドの名前。
この曲は三作目のアルバム「Teen Dream」の一曲目に収録されてる。
中心メンバーはフランス出身のヴィクトリア・ルグランとボルチモア出身のアレックス・スカリーの二人で、ヴィクトリア・ルグランはフランスの作曲家ミシェル・ルグランの姪なんだそうだ。
浮遊感があってちょっとメランコリックなポップソング。
垂れ流しのセンチメンタルじゃなくて、どこかに寄り道してるようなセンチメンタルというか、所々にさりげなく顔を出すそういう部分が耳に残る。


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一番下の空の写真を撮ったトイカメラ。Vivitarが出したのがオリジナルのような印象だけど、元になったカメラはもっと別のどこか、OEM製品専門の小さな工場で作られて、Vivitarのものも、そのOEMだったかもしれない。
このカメラに関しては、とにかく色を変えたりしただけで同じ形のカメラがいろんなブランドの名前で世に出てきている。今では大半が市場からは消えてしまって、中古市場に出てくるようなカメラでもなく、結果今それなりに容易に手に入るのはこのWide Lens Camera Seriesとして、多色展開してるタイプのもの一種類だけとなってる。といってもこれも既に生産は終了してるようだけど。
ちなみに数年前の京阪のおけいはんポスターで、おけいはんがEximusブランドの黒いボディに赤の差し色が入ってるこのカメラを首にかけて京都を散策していた。
今年の夏。ホルガとともに持ち出していたカメラで、感度100のフィルムを入れてたから、絞り、シャッタースピード固定のトイカメラでは条件がシビア。ちょっと暗いところで撮った写真はそれほど思うような結果にはならないままに終了という形になった。でも撮れないことは無かったからまた感度100のフィルムでトライしてみるかな。
ちなみにわたしはカメラうさぎのホワイトがお気に入りなんだけど、アマゾンでは見つからなかった。














日常の、少し手前。 + 雑誌 「KINFOLK」

理容院への階段
しんとして、微かに謎めいた場所
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像





車内
斜光
2015 / 10 / Nikon FM3A + Nikkor Ai 135mm f2.8 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




電車のだけはJRの奈良線だけど、他の二枚は夏の終わりにティルマンスの展覧会に行ってから、暫くの間中之島辺りに出掛けては街中や川沿いで撮ってた写真から。
大阪は京都には無い高いビルとかあって珍しい。でもやたらといろんなところに警備員がいて、何かというと写真は駄目と詰め寄られるから、嫌気が差して最近は行ってない。そんなことをいうとあの変電所は川縁の堤防から見渡せるし、大阪のビジネスビルなんかよりも変なことされたらよほど危険だと思うんだけど、京都は街中のゴミ箱を撤去したりはするけどある程度おおらかなのかな。

たとえばわたしが目覚めた時から世界はわたしの色に染まって、わたしに了解可能なものとして目の前に現れる。時折想像するんだけど、世界はわたしが目を閉じてる間も同じようにわたし色に染まって存在するんだろうか。もしそうでないなら、わたし色に染まらない世界ってどんなのだろう。目を閉じることでしか出現しないような世界。まるでシュレーディンガーの猫だけど、目を開いた瞬間に霧散してしまうようなそういう世界を垣間見てみたい。
この写真がそういう写真だとは云わないけど、そういうことを夢想する時がある。日常の少し手前から聞こえてくる何かの微かな残響音のようなものが画面からも聴こえてこないかと思いつつ、シャッターを切ってみる。


☆ ☆ ☆


このところ何しろ使用期限が迫ってるモノクロフィルムが数本手元にあるせいで、F3やFM3Aには途切れることなくモノクロフィルムを詰めて、期せずしてモノクロ三昧の撮り方となってる。
モノクロに特化した感覚になるというほど、道を究めようとする剣士のような撮り方ではないにしても、結局モノクロは光の表情を読み、粒子の平面に定着させるといったことなんだろうなぁと体感し始めるようなところがある。おそらく被写体が何であるかはそんなに重要じゃない。被写体が存在しないと光もまた表情を生むことは無いわけで、光こそが主役なら光が表情を持つためにだけ被写体の存在があると、これは必ずしも極論でもなさそうな気がする。
もっとも取り立てて意味もなさそうな被写体を写して見せられても、見せられた側はたまったものじゃないかもしれないし、それは退屈な写真であるかもしれない。でも綺麗だけど凡庸という写真があるように、退屈なのに刺激的というような写真はあるとわたしは思ってる。
まぁそうはいっても、退屈な写真を撮って、なおかつ凡庸という落とし穴も、とてつもなく巨大な穴として眼前にあるわけで、綺麗という軸をあえて外そうという写真は危険が一杯というところかな。








ランプ
ランプ
2015 / 10 / Nikon F3 + Nikkor Auto 105mm f2.8 Ai改 / Fuji NEOPAN 400 PRESTO を自家現像




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kinfolk1



kinfolk2


これ、アマゾンのサイトを覗いた時にわたしへのお勧めって言うような形でやたらとモニタに現れたことがあって、タイトルからは何が頭に思い浮かぶわけでもなく、最初は何の雑誌なんだろうと結構胡散臭く思ってたけど、正体はアメリカのポートランドからネイサン&ケイティ・ウィリアムスという夫婦が中心になって発信するライフスタイルの雑誌だった。小さな集まりのガイドというのがコンセプトなんだそうだ。
実のところライフスタイルがどうのこうのというのは、私のこの雑誌に対する興味の中心では必ずしもないんだけど、ではなぜそういう本を持ってるかというと、アマゾンのお勧めに根負けしたわけじゃなく、中に掲載されてる写真が結構良かったからというのがその理由だったりする。色味とか被写体としてるモチーフの扱い方とか、とにかくシックで綺麗。写真そのものは今風の癒し系の写真とでもいえそうなもので、直接的にはわたしの写真とは繋がるところはあまり無いんだけど、色の感じとかモチーフの質感の捉え方とかはちょっと真似してみたいほど感覚的な親和性がある。
似たような雑誌だと以前に「UNION」というのをピックアップしたことがある。あれはファッション雑誌なのに、今風のコーデ(コーデとか云う言い方は気味悪い)がどうだとかいった服の情報そっちのけでファッションをきっかけにした作品写真に特化した雑誌だったけど、これはライフスタイルをきっかけにして写真に特化した雑誌だと、発行した本人はおそらくそんな意図をこめてたとは思わないけど、受け取る側としてはそういう風に把握しても齟齬を感じないような作りになってると思う。

今までに出版されたものはそれなりに巻数は多いようで、ここにピックアップしたのはその7巻目。アイスクリームの特集で中でも人気がある回なんだとか。
日本語に翻訳されてるのも全巻じゃないようだけど、何冊かは出版され、今も翻訳は継続中ということらしい。