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影と遊ぶ

波板でダンス
2015 / 10 / Nikon F3 / PRESTO 400を自家現像





白い扉
2015 / 06 / Nikon FM3A / LOMO ColorNegative 100





足元で踊る光
2015 / 04 / Konica Bigmini F / Kodak SuperGold 400





水草と光
2015 / 10 / Fuji Natura Classica / Natura 1600



影と遊ぶといっても、何もこの写真だけ特別な態度で撮ったというわけでもなく、写真撮ることは大抵影と遊んでるようなものだと思うし、まぁなにかを云ってるようで実のところ何も云ってないに等しいタイトルではある。何か云ってるようで実のところ何も云ってないというのは、影がどうのこうのという前にわたしの撮ってるような写真には相応しい有り様かも知れない。
なにしろ写真を使って何かを云う、なんていうのよりも、写真そのものがただひたすらにそこにあるだけというような存在の写真、そういうのが理想なんじゃないかと思う時があるくらいだから。
意味という外在する要素で補強され、テーマや意図を伝えるための手段と化した存在ではなくて、意味があるとすればそれが写真であるということだけという、写真としてだけで自立してるような写真。読み取る世界の断片の一つであると同時に読み取られる世界そのものである写真。実際にそんなのが撮れるのかどうかは別にして、何だかこういうことに関して思いをめぐらすのは思いのほか楽しい。

全部去年に撮ってブログで披露しなかった写真だ。それにしても気が多いというか、全部違うカメラで撮ってる。
レンズの味がどうのこうのと、そんな意味合いでもなく、大体レンズの味の区別なんかそんなにつけられるほうでもないし、色々カメラを代えて使ってるのは使い勝手の差といったものや気分転換といったものによるところが大半だったりする。名前は聞くけど使ったことがないという道具がそんなに高価でもない形で目の前に現れれば、好奇心で手を出してみるし、そんなことをしてる間に手元にカメラが集まってきてしまったという感じ。だから数だけは増えていくのに、トイカメラ好きや、写真は写ルンですでも撮れるという考えも相まって、歴史的で高級なカメラとか面白いほど集まってこない。有名な高級カメラというなら父から譲ってもらったハッセルブラッドと、ライカだったら本体じゃなくレンズで、レオタックスにつけて使ってるズミタールを持ってるくらいか。ハッセルブラッドのほうはどうにも正方形フレームが馴染めないし、ズミタールは随分と線の細い繊細な描写をすると思い、使うと凄い楽しいんだけど、特にこれがどうしても使いたいというほど執心してるわけでもない。
そういえば以前、父が昔丹平に所属して写真撮ってたので、知り合いのなかで使わないからライカあげるとか云う人はいないのかと聞いてみたことがあったけど、そんな人いるわけないとつれない返事が返ってきただけだった。


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黒猫 他 + The Tremeloes - Silence Is Golden

黒猫
16 / 04 / Nikon Coolpix S9700





一つ開いた窓
16 / 04 / Nikon Coolpix S9700


ニコンのコンデジ、クールピクスS9700で撮っていた写真から。
カメラの機種を明示してるけど、デジタル臭さはやっぱりあまり面白くなく、PC上で手を加えているので、S9700がこういう傾向のイメージを生み出すというわけでもない。

フィルムが他者的であるのにどこか血肉化した視線という雰囲気なら、デジタルはやっぱり機械化された視線っていう雰囲気がある。
何というか情報量としてのレベルならデジタルのほうが豊富なのかもしれないけど、イメージが含み持つものの量というレベルだとフィルムのほうが豊かなんじゃないかと、少なくともわたしにはそういう風に見える。アートフィルター的なものがデジタルカメラに用意されてるのは、そういう含みの少なさを補完するような意味合いなんじゃないか。
あるいは、別にデジカメのマニュアルにそう書いてあるわけでもないけど、デジタルはことの最初からPCでの編集を前提にしてるんじゃないかとも思うこともある。RAW画像なんかは元のデータ全部劣化無しに手渡すから、後は好きなように料理してって云うような存在だし、結局は元データを自分の気のすむまで弄くりたおすことになったりする。これもある種の補完だろう。
フィルムのほうは、これは使ったことがある人なら感覚的には共鳴してくれると思うけど、フィルムの上に定着された写真を加工するのはちょっと気がひけるところがある。光が化学反応によって物理的な存在として目の前に出現した、云うならば光の事物的な結晶といったものだと思うと、さらにそこに手を加えることに無意識的な抑制が働くという感じかもしれない。
簡単なところだとトリミングさえ、撮った時のフレーミングを変更することに罪悪感を感じたりする。わたしの場合はこうしたほうが良くなると思うならわりとトリミングくらいはやってしまうほうだけど、どちらも似たような写真を結果的に生み出すとはいえ、それに対面する時の考え方とか扱い方はフィルムとデジタル、結構異なってるんじゃないかな。

それにしても、大体いつもここに書いてる、写真は自我によって取り込まれない唯一の存在とか、カメラは他者の眼として機能するほうが面白いとか、写真にあまり情緒を乗せたくないとか、こういうことは「機械化された視線」なんて言葉を使ってみると、そっちのほうが相応しいように思えるのに、なぜかアンビバレントなフィルム的感覚のほうがしっくりと馴染んで見えたりするんだよなぁ。こういうことを考えてると写真の謎めいた部分の一面が立ち現れてくるようだ。





手形
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





整列と反射
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700


黒猫は結構好き。黒猫スープの写真集持ってるくらい。なんだか猫の形をした黒い切抜きにくりくりした目玉がついてるという、ちょっと漫画的なイメージで捉えてる。この写真は愛らしい路線とは縁遠いイメージになってるけど、こういう不思議な雰囲気になってるのも黒猫だとOKっていうところもありそう。
汚れた窓ガラスがイメージの変質に大活躍といったところだ。
先日またこの前を通ったら全く同じ場所に座り込んで外を眺めていた。どうやらここがこの黒猫の専用席のようだった。
わたしの場合だけかもしれないけど、街で出会う野良猫の中に黒猫はほとんど見ない。黒猫の存在というのは意外と珍しいのかな。



☆ ☆ ☆


The Tremeloes - Silence Is Golden

60年代に活躍したブリティッシュ・インヴェイジョンのバンドの一つ。デッカのオーディションをビートルズと同じ日に受けて、ビートルズは落っこちたんだけど、こっちは見事合格した。デッカでビートルズを落とした担当者は後々会社に居辛かっただろうなぁとと思ってたら、見事に首になったそうで、まぁそうなるわなと、これを知った時にもあまり同情する気になれなかった。
でもビートルズが通り抜けられなかった関門を潜り抜けたトレメローズは、そのわりにはわたしの印象だとこの一曲だけしか残らない。レッドリバーも歌っていて曲は馴染みがあるんだけど、このバンドの持ち歌なんだろうか?
それでもイギリスではもちろん知名度もあって、いわゆる懐メロ的な感じで再び集まって演奏してる最近の動画とかがネットで見られたりするから、興味のある人しか覚えてないような日本との差は当然の如くあるんだろうと思う。
ビーチボーイズのようなコーラスを得意としたバンドで、その特質を生かした曲だと思う。わたしの場合は何度か繰り返し聴いてたら頭の中にこびりついてくるタイプの曲かな。
こういう曲、勝手に頭の中で再生されるから困る。ちょっと前ブックオフの店内でやたらとかかってた森山直太郎の曲も頭のなかでフル回転しそうになって困ったことがあった。


☆ ☆ ☆












桜と変容

桜 東野1
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





桜 東野2
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





桜 山科
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





変容の桜
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





自転車リズム
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700



この前の森山大道の特集雑誌がきっかけとなっていつの間にか手元にやってきていた、森山大道と全く関係の無いコンパクトデジカメ、ニコンのクールピクスS9700を、さてどんなものかと試し撮りするつもりで、季節的にも重なっていた桜を撮りに出かけた。
今年はなんだか桜を撮りに出かけるような気分にはあまりならなくてパスしようかと思っていた。なにしろ新鮮な写真が撮れそうな予感が全くしない。出来合いの桜のイメージに付け加える程度のものしか撮れないだろうと、それに写真を撮る対象としても余り興味を引くものでもなくなってきていたりした。
それでも桜を撮りに行こうと思ったのは、桜そのものじゃなくて桜によって変容する空間のようなものを撮れないかと思ったからだった。桜の名所はライトアップなんかされていてどうだこれが綺麗というものだ!とでも云わんばかりにお膳立てしてある。そういうところでは確かに綺麗で豪華な桜の写真は撮れるんだろうけど、美しいもの、豪華絢爛なものとして用意してあるのを写して綺麗な写真を撮れたとして、それは面白い行為なのか?と、そんなことを考えたりするから、桜が撮りたい気分になっていたとしても撮る対象としては演出も何もされてない市井の名もない桜のほうに興味を引かれていた。だから今回も思い立ったら名所の桜よりも街中で咲いてる桜がまず候補に浮かび、そういう桜のほうが周囲の空間をどう変容させるかなんていうのもひょっとしたら撮れるんじゃないかと思った。
とまぁ基本的な気分はこんな感じだったんだけど、一応実際は、去年シーズンが終わってから写真撮りに通っていて、桜が咲いてたらどんな感じだったんだろうと気になってた山科疎水の様子を窺いに行くことになる。
撮る気にならないなぁと思い、曇りや雨が続く天気を眺めながら、桜のほうに向かってテンションが上がるのを待ってる間に桜のシーズンはわずかに盛りを過ぎてしまったようで、一年後に訪れた山科疎水の桜はまるで生彩がなかった。というか桜で名が通ってる場所だから、疎水上を覆い尽くすように桜が咲いて、疎水の流れが落ちた花びらで一面桜色に染まってるような場所だと勝手に想像してたんだけど、実際は密集してるのはほんの一部で疎水の行程の大半は疎らに桜の木がある程度。八割がた緑の空間が広がってるような感じだった。シーズン真っ最中でもこれにちょっと桜色が増える程度なんじゃないかなぁ。桜で名を馳せるつもりなら御陵辺りまで桜並木で埋め尽くしたほうがいいと思うよ。
ということで、元々市井の桜が頭にあったものだから、去年気になっていた疎水の桜がこんなものだと分かると、早々に見切りをつけて街中で色々と撮ることになった。
地下鉄山科の隣の駅、東野の近くにブックオフがあるのを知ってたから、ついでにそこへ足を伸ばして、菜の花が咲いてるのは山科疎水の写真だけど、それ以外はその東野で撮ったものとなる。
変容する空間と云っても桜の存在感が大きすぎて、結局桜で変容した街の空間に咲いてる桜の写真って云う感じのものにしかならなかったかな。さすがにいつものように妖しげにはならなかったけど、妖しい桜というのも撮れれば、何しろ木の下に屍体を抱きかかえてるわけだから、わりとイメージは違和感ないかもしれない。

最後の自転車の写真が、実はこの日に撮った中では一番気に入った出来になったものだった。反射なんかも交えて複雑なイメージになってるのに同時に端正なところもある。神秘の形の円形が一杯あるのもいい。いろんな要素がリズミカルに絡んでるのも音楽好きとしては視覚的に高揚する。縦に二本走ってる白いラインは窓枠なんだけど、白バックの中に置くと画面が3分割されて、縦に細い写真を三つ組み合わせたようになってるのも、これは予想外だったんだけど、視覚効果としてはかっこよく決まったんじゃないかと思う。

ちなみに東野のブックオフではめぼしい写真集もなく、野阿梓の「伯林星列」の上巻だけ100円文庫で見つけるも、結局買うこともなく店を出て、この日の収穫は数枚の桜とこの自転車の写真だけという結果で落ち着いた。


☆ ☆ ☆


s9700

さて、ニコンのデジカメクールピクスS9700を使ってみた感じといえば、やっぱりデジタルは使っていてあまり面白くないなぁって云うのが正直なところかな。基本的に手ごたえに乏しいというか、フィルムのほうがこの目の前のいかした空間を絶対に手に入れたいと息を潜めてシャッターを切る高揚感は強いし、本当にその空間を上手く掠め取れたのか?という不安感も混ざってコントラストが強い陰影のある感覚を体験できる。
このコンデジはおまけにファインダーがなくて液晶を見ながら写真撮るしかできないのがまたあまり手ごたえのない撮影にしてる。森山大道はほかの事はカメラなんて写れば何でもいいという割り切り方で済ませても、この液晶で写真撮るというのは容易く受け入れたんだろうか。技術革新が進んでも、いつまでたっても昼日中に液晶を眺めるのはあまりよく見えないし、何でこんな明るい陽射しの下で液晶なんて見えにくいものを眺めてなければならないんだと、理不尽な思いに捉われていた。他の持ってるデジタルカメラはファインダーがついてるから、これもファインダーが欲しいと思うんだけど、そうなると他に持ってるデジタルカメラと同じになってしまうから、これは見えにくい液晶でしか撮れない写真を撮るカメラということになるのかな。考え方を変えれば、これもまた特別な撮影体験ではあるのかもしれない。
クールピクスのSシリーズはこのS9700から絞り優先モードとかついて、ちょっと本格的なことができるようになってるけど、明るさが3.5くらいから始まるレンズでは絞りを変えてもそんなに効果的に使えるという感じでもなく、これはフィルターっぽいもの以外だとオートで撮るだけだった一世代前のS9500のほうが理にかなってたんじゃないかと思う。おまけにS9700のほうはオートにすると、S9500では電源を落としても記憶してくれていたフラッシュモードを記憶してくれない仕様になっていて、まあオートというならわたしの設定なんて記憶しないほうが本当のオートだとは思うけど、こういう形のコンデジの使い勝手としては前機種のほうが割り切り方が上手い印象がある。森山大道がS9500を使い続けてるのもそういうカメラの持ってる割り切り方が撮影スタイルにマッチしてるということなのかなとも思ったりする。

写りはフィルムのように事物が薄い光の膜を纏っている、あるいは対象との間にある空気の層も写しこんでる感じはなく、全体的にはまさしくデジタルで、均質的にはっきり写る。クリアだけどあまりメリハリのない、そのままだと味のない写り方になりがちのように思う。ただ今回の自転車の写真はそういう細かいところもはっきりと写るというデジカメ的なイメージがマッチしてるように思えた。こういうデジタルっぽい映像も良し悪しはものによるんだろうなぁと思うところがあった。

もう一つ、かなり安かったから両吊りのケースを買ったんだけど、これは首から掛けて使う類のカメラじゃない。この桜を撮りにいった日、カメラを首に掛けていたことは、このカメラが何だか馴染めなかった原因の一つになっていた。これはハンドストラップで片手に持ちながら街のなかを歩くカメラだと思う。
まぁ純正のこういうアクセサリーは後で欲しいと思っても買えなくなってる場合がほとんどだから、かなり安価で買えた時に買っておいたのは正解だったとは思うけど、首から掛けたくなった時に困らないだけで、あまり使わないかな。結局この桜を撮りに出かけた日も、帰ってからハンドストラップに付け替えたから。
ただ、手で持って歩き回るカメラだとは思っても、そのままだとあまり持ちやすくないカメラだったりする。このケースに入れてるとケースの厚みが加わって若干持ちやすくなるから、両釣りを止めてその片側だけにハンドストラップをつけることも出来そうだけど、ケースは三脚の取り付け穴でとめてるだけだから、片側だけで吊り下げたりするのはちょっと危なそうな感じがする。
親指の滑り止めのゴムの真横に、ほとんど隙間なく録画のボタンなんていう、はっきり云って使わないものが配置されていて、これがまた押すつもりもないのに押してしまうことがよくあり、持ちやすさも含めて全体のデザインはそんなに使い勝手を考えてるようには思えない。





これも現行の機種ではなくて、最新のものはもっと機能盛りだくさんで、何だか一眼レフに色目を使ってるような様子のカメラになってきてる。売る側としては新機能とかいろいろと盛り付けて出すほうが売れるのかもしれないけど、こういうタイプのカメラが持つべき方向とは何だか少しずれてるんじゃないかと思わないこともない。
何度も書いてるけど写真ってそれこそ写ルンですでも撮れる。高級な機材と機能てんこ盛りの状態でないと撮れないと思うなら、それは間違ってる。
そういえば写ルンですは今年30周年で記念に初代の外側を再現したジャケット付きのものが限定で販売されてる。他についてる記念グッズがいまひとつ魅力的でもないので買うまでには至ってないけど、普通に買うのとほとんど変わらない値段だし、まだあるなら買っておこうかなと思ったりしてる。
最近若い人を中心に写ルンですは人気を盛り返してるらしくて、わたしはといえばアレック・ソスや、日本だと最近新作の写真集がでて、新刊で速攻買ったお気に入りの写真家、奥山由之が好んで写ルンですを使って作品作りをしてるといったことから、かなり興味を持って一台買ったのが手元にある。
どういう形にしろフィルムを使う人が増えてるって云うのはやっぱりいい。




これ、ヨドバシだと4000円くらいしてた。あまりにアマゾンのが安かったので思わず買ってしまったもの。
でも本文中でも書いたように、こういうのを使うタイプのカメラじゃないんだよなぁ。



回廊にて

回廊
2012 / 10 / Fuji Natura Classica





人工の花
2012 / 10 / Fuji Natura Classica





エスカレーター
2012 / 09 / Nikon F2 / Kodak Try-X





ガラスの中のマネキン
2012 / 10 / Fuji Natura Classica


先日中古で買った森山大道愛用のカメラであるクールピクスS9500、若干不具合が出てきたので返品、買い直しをするということになった。返品は出品業者とやり取りしないと出来ないのかなと、面倒だなぁと思いながらアマゾンの注文履歴の中にあった返品のボタンを押したら、ここが変なんだよ!というこちらの主張を書き記すことは要求するも、その真偽を確かめるでもなくそのまま返品手続きのページに進んで、あっという間に手続き完了となった。
品物の状態を見ずにこちらの主張を全面的に信用してかまわないのか?とちょっと吃驚したんだけど、まぁ面倒なことも無くすみそうなのでそのまま云われるとおりに荷造りをして、アマゾンの専用の集荷サービスがあるようなので、それを使って返送した。
必ず再現される不具合でもなかったから、受け取ってからどこがいかれてるんだと判断され、送り返されてくるかもしれないとも思ってたけど、返品を受け取ったという報告とともに返金の作業も完了したと、その確認の要請をするメールが入ってきて、流れ作業の如く返品の工程も完了することになった。
品物によってはアマゾンの返品を迅速に進めることができる条件で売ってるものがあるようで、中古で買うなら出品業者の何らかの保障の有無と、こういう返品の場合のスムーズな処理とかは安全策として考慮しておいたほうがいい。ちなみに最初どの中古を買おうかと選んでた時に、メーカーの保証書がついてると説明されてる中古も目についたけど、ユーザーのコメントに店名も購入日も記載されて無い保証書なんか使えないとあったから、これはあまり信用出来ないと思ったのもあった。
その後買い直すことにして、森山大道のカメラは数日だけど手元にあってどんなものかは感じとしては分かり、またカメラとして自分には何となく不備なところも分かって、買いなおすにしても同じものは芸が無いと、ちょっと金額を足してもう一世代後のものにすることにした。買わないという選択肢もあったけど、手元にカメラがやってくるという高揚感だけは残っていた。
冷静に考えてみると森山大道の雑誌特集の記事に刺激されて買ってしまうまでの展開は論理的に筋道たって展開してるんだけど、最終的に手にしたカメラは結局森山大道のものとは全く違うカメラとなったわけで、おまけに基本の部分では雑誌見るまでデジカメ増やす気なんてまるでなかったのを思いあわすと、目の前にあるクールピクスS9700を眺めて、まぁ自分で決めて選んで買ってはいるんだけど、なんでこんなものが今わたしの目の前にあると、妙な巡り会わせに思い至らないこともない。


☆ ☆ ☆


写真は2012年に撮ったもの。この頃は西梅田のガーデンシティに入り浸って撮ってたんだけど、その時撮った写真はなぜかこのブログにはほとんど載せてない。別にとんでもなく気に入らないものばかりだったというわけでもないんだけど、ひょっとしたらもうちょっとましな展開になるかもしれないと思ってるうちに、違う場所に気が移って、ここで撮った写真は自分では終わったもの扱いになっていたのかも知れない。
大阪に住んでると別に珍しい場所でもないのかもしれないけど、阪急やJRの駅のほんの近くにあっても、そちらのほうに行かなければそんな場所は存在しないも同然で、わたしが梅田辺りに出かけた時の行動範囲とは方向がずれていたために、この写真を撮った頃までこんな場所があるとは全然知らなかった。
自分にとって物珍しかっただけで、知ってる人には単純に綺麗に整えた散策も出来る商業地区程度のものかもしれないけど、この自分にとって物珍しいというのがやっぱり大きなポイントだったと思う。
自分が珍しいと思って撮ったものでも、自分が知らなかっただけで、一般的にはこれのどこが珍しい?という場合もあって、でもそんなことは全く気にしないことにしてる。

回廊とつけては見たけど、実際は回廊でもなんでもなかったりする。ただ柱が並んで長い廊下に幾何学的な影を落としてるようなイメージが好きで、これを撮った時にそういうイメージを重ね合わせていたというだけのこと。もうひとつ、辻邦生の小説のタイトルから拝借したところもある。辻邦生も亡くなってからは何だか話題にも上らない、読者以外には忘却の縁にいるような作家だけど、「夏の砦」とか「安土往還記」とか、小説を読む楽しみのようなものを濃厚に体験させてくれて面白かった。新潮文庫の白地に濃いグリーンでタイトルのみを記したデザインも好きだった。
二枚目のは商業地区の地下の入り口に飾ってあったもの。おそらく造花だと思う。もともと人工的なものだからどこか不自然なところがあったんだけど、いつものごとくわたしがこういうものを撮ると見るからに妖しげになるという見本みたい。別にわざとやってるわけでもないし、カメラはそこまでわたしの眼として肉化されてはいないはずなんだけど。
それにしても例えカメラが完全に肉化されたとしても、カメラが自分の眼のようになるというのは、一見究極的な形に見えるようだけど、それは本当に理想なのかなとも思う。むしろ他人の眼のようなかたちでもう一つの眼となるほうが、写真が個性のようなもので取り込まれない唯一の存在として面白がってるわたしには相応しいような気もする。
三枚目はこういうオブジェ的なものはもう少し端正に撮れないものかと思う。事物的には美しい形だと思うし、写真の中に写真的にこういう美しさを引き出すには、あまり思い入れとかは無いほうがいいような気がする。この写真に関しては若干ぶれてるので、端正に撮る以前にぶれないで撮ることを練習するのも必要だったりするんだけど。
最後のはまぁいつも撮ってるような反射だとかマネキンだとか、好きなものを集めたようなイメージかな。反射する映像は一枚ベールを被ってるようでどこか記憶の中で探り当てたような手触りがある。
この頃ここで撮った写真を眺めていて、興味を引かれてるのはあまり変わらない事物だったりもするんだけど、撮り方は、今はあまりこんな感じでは撮ってないなっていうのも多かった。そんなに云うほど昔でもないのに、それでもやっぱり変化はあり、流転していく。