二条・丹波口1600 HiSpeed

壁と蛇口
2016 / 05 / FUJI 写ルンです 1600 Hi・Speed





酒瓶
2016 / 05 / FUJI 写ルンです 1600 Hi・Speed






過ぎ行く光
2016 / 05 / FUJI 写ルンです 1600 Hi・Speed





解体スポット
2016 / 05 / FUJI 写ルンです 1600 Hi・Speed



今回の写真は写ルンですで撮ったもの。
タイトルはコダックのレンズ付きフィルム、ファンサーバーで撮った、アレック・ソスの写真集「BOGOTA FUNSAVER」にしようと、場所とレンズ付きフィルムの合体という形にしてみたんだけど、でも今回使った写ルンですの1600は固有の名前がついてないようで1600 HiSpeedと書いてあるだけ。繋げてみてもなんとも分けの分からないタイトルになってしまうだけだった。感度400のものがシンプルエースっていう名前だから、これもシンプルエースでいいのかな。「写ルンです」はカテゴリーっぽい印象なので、機種個別の名前を繋げたかった。でもパッケージの袋は捨てたし本体は現像に出した時に回収されて名前が書いてあったか確認できない。
今回使った写ルンですは上記のアレック・ソスの写真集に刺激されて、以前に買っておいたものだった。その後写ルンですの30周年記念バージョンをアマゾンで買って、買ってはみたもののパッケージ開けたら値打ち下がるか?と思ってしまうと、この程度のもので値打ちも何もないものだと思うもののどうにも開けられず、結局使うためにもう一台普通の写ルンですをさらに買い足した。ハイスピードのものを撮り終えた後、今はこの買い足した写ルンですで撮影中となってる。さらに今使ってるのを撮り終えた後に使うための予備をもう一台買ってあったりして、何か妙に楽しい。

今回のハイスピードタイプのものは、まぁあまり光の条件の制限を受けないだろうと特に考えもせずに買ったものだったんだけど、ぶれるのを期待したり、ストロボを使う機会を増やしたかったりするなら、1600よりも低感度の400のほうが目的に合ってそうだと思って、最初のはISO1600だったけど、今使ってるのからは感度を落として400のにしてる。ISO100くらいでもいいんだけど、残念ながらこの2タイプの感度のものしか出ていない。

使ってみて思ったのは、基本はトイカメラだなぁってこと。周辺光量落ちもなくかなり綺麗に写るんだけど、糸巻き収差は結構出るし、イメージの質感は幾分ゆるく、どこかにトイカメラっぽいニュアンスが顔を出してきてる。ちなみにわたしはトイカメラ好きだけど、その一番の特徴として取り上げられる周辺光量落ちはあまり好きでもなく、周辺光量落ちしないトイカメラ然とした存在は理想的な形とも云える。
一応メインには今はオリンパスペンS3.5を持って出てるので、こっちはサブ扱いのつもりだったんだけど、気がつけばどちらかというとサブ扱いのこのカメラのほうが良くシャッターを切ってるみたい。かなりラフな気分になるし、天気が悪くてもほとんど気にしないですむ。できたわたしの写真にはおせじにもスピード感があるとは云えないものの、撮ってる時の構えない疾走感は結構新鮮な気分にしてくれる。この疾走感が写真に表れるとまた面白くなるんだけどなぁ。
レンズ付きフィルムなんていう扱いだけど、使ってみればこれでも立派なカメラで、新しい道具を使ってる新鮮さは十分感じ取れ、シャッターを押す触覚や音も楽しい。そういえば使い始めの時、電車の席に座って、膝の上に腕をおいて巻き上げた状態のカメラを無意識にもてあそんでたら、いきなりシャッターが切れた。一番最初のコマでまだシャッターを押したことがなかったから、これだけ軽い感覚どは思わなかった。だから最初のコマは、膝頭と電車の床が写ってるはずとちょっとした波乱で始まったカメラだった。

使い方は簡単だ。カメラ本体に使い方を記した帯が巻いてあるので間違いようもないんだけど、巻き上げノブでフィルムを巻き上げて、ノブが止まったところで準備完了、後はファインダーを覗いてシャッターを押すだけ。ピントや露出を合わせる必要もない。一度シャッターを押すとまたフィルムの巻上げができるようになるので、これの繰り返しで撮影は進んでいき、フィルムが終わるとカウンターには「0」の表示が出るしノブが空回りし始めるので、そうなったらカメラ屋さんにそのまま持っていって現像を頼むだけだ。
頼むのも簡単。現像お願いしますだけで話は通じるし、家にスキャナーがないと現像したフィルムだけだと何も出来ないので、同時プリントかデータCDの形にしてもらうのを一緒に頼むだけ。プリントやCD注文で専門的なことを聞かれることもないから安心して注文すればいいと思う。
わたしの場合は最近スキャナーの調子が悪いので写ルンですに限らず、データ化できないハーフサイズで撮ったフィルム以外はCDにしてもらってる。同時プリントは最初の頃は頼んでたけど置場所に困りだしてからは紙媒体にプリントって言うのはやってない。
少し暗いところだったら、躊躇せずにストロボを使ったほうがいい。独特の人工的でライブ感のある生々しくてクールな写真が撮れるから、ナチュラル志向のような今の風潮に飽きたら試してみるのも面白いよ。
ちなみに他のコンパクトカメラを使ってる時も、以前はストロボ発光禁止の設定だったけど、このところはオートにして、ことあるごとにピカピカ光らせてる。





タイムスリップグリコローライ
本物じゃないけど以前ガシャポンでゲットした写ルンですのミニチュアと、ついでにかなり前にタイムスリップグリコを買った時に出てきたローライフレックスのミニチュア。





アマゾンで見てみると、これはアマゾンが販売するもので適正価格だけど、業者が出品してるものは随分と高い。1000円以上の価格設定にしてるところもあって、シンプルエースの27枚取りでヨドバシ辺りだと800円もしないから、アマゾンの中でもアマゾンが直接提供してるものを選ぶのが得策だと思う。
これはISO1600だけど400で十分かと。




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残響 + Arto Lindsay

ステップ
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700







反射マネキン
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





影降る路地裏
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700





板壁
2016 / 04 / Nikon COOLPIX S9700




今回のはデジタルで撮ったもの。撮ってる時はとにかくスムースに進むものだから、何だか手順を進めてるだけのような気分にもなって、あまり面白くないと思うほうが多かったけど、出来上がった写真は意外と気に入ったものが混じってた。ただやっぱり綺麗に写りすぎて面白みに欠けるところはある。もうちょっと曖昧な部分で何かしようと思うから、こういうクリアさは興ざめになるところがあったりする。
かといってフィルター的なものを使うとなると、デジタルは写真的なものをシミュレートして、写真にそっくりなものを生み出してると云う捉え方だし、わたしにとっては紛い物感が増すだけのような気がする。

クールな写真が撮ってみたいな。ピクトリアリズム的な写真はあまり撮ろうとは思わないし、自分が持ってる写真を巡る思考はポストモダニズム的なものだと思うんだけど、感覚的には思考ほどには、そんなに割り切って撮ってない部分も多い。
なんでもない枯れ枝一本を写真に撮って、それを写真として成立させてるものはなんだろうと考えると、別に見慣れた写真として成立していなくてもいいというほどには開き直れなくて、従来的な絵画への追従というような形ではないにしても、どこか絵画主義的なものを必要としてるような気もする。
ある種の美意識のようなもの。道端のゴミを撮ったとしても、そのゴミを捉える視線は美意識を含み持ってるといった感じ。何をどんなに過激に撮ろうと、それが美しいものであるとみなしたから撮るという部分、その美しさはあまり一般化されるものではないかもしれないけど、そういう感覚を取り落としてしまうと、きっと写真はつまらないものになってしまうような気がする。


何だか事物がひそひそと囁き声を交し合ってるような気がしてそちらのほうを向いてみるんだけど、事物たちは視線を投げかけると急にすまし顔で黙ってしまう。でも確かに囁き合っていた残響音のようなものは微かにその場に残っていて、何を囁いていたのかはもう既に意味としても霧散していて判読は出来なくなってるんだけど、その痕跡だけでも留められるかと思ってシャッターを切ってみる。
わたしの感覚はそういうものを十全に感知するにはまだまだ鈍くて、今も思うようには捉えることもできない。
たとえば道端に落ちてる枯れ枝一本からでも、その枝が発する何かを感知できるようなアンテナが、本気で欲しいと切望する。


☆ ☆ ☆


Arto Lindsay - Trans Pecos 2015


ノー・ニューヨークという衝撃的なレコードでわたしの目の前に現れた、DNAというロックバンドの主催者、アート・リンゼイ。ノーニューヨークに納められた過激でうさんくさくてアンダーグラウンドなアート感覚満載のバンドのほとんどが、その尖がった感覚を維持できなかったりしたように、アート・リンゼイも自分のルーツであるブラジルの音楽へ回帰し、まぁそれでも普通に考えるようなブラジルの音楽とはまったく違う、やっぱりDNAの人だと納得するような過激さはあったんだけど、活動を追うのはその辺りで止めてしまっていた。
最近、そういえばこの人どうしてるんだろうと思って、探してみて見つけたのがこれだった。Trans Pecosというのは、どうもニューヨークにあるナイトクラブというかライブ会場というか、音楽をやる施設のようだ、

凄いなぁ、というのが文字通りの感想だ。これだけ長い音楽活動を続けてギターを持ち続けながらも、普通に弾こうと練習さえしてないようなスタイルを維持してるのも凄い。普通だったらちょっとはコードの一つでも憶えようかなと思ったりするものだけど。
本当に唖然として笑ってしまうほど説得力があったのは、実際には奏法以外の部分で結構仕掛けたりしてるんだけど、表面的にはこの引っかき、かきむしるだけにしか見えないようなギターの音と、基本は力の抜けた語りとも歌ともいえないような声音だけで、後半はバンドサウンドになるものの、これだけの時間をたった一人で保ってるということ。こんなこと誰にでも出来るって云うものじゃない。
なによりもアート・リンゼイ自身、楽しそうなのがいい。こんなに得体の知れないことをやって、鑑賞者の眉間にしわを寄せさせ、考え込ませるような人は一杯いるけど、これだけ楽しい、面白いと思わせるミュージシャンって他にはほとんどいないと思うし、存在としては唯一無比だと思う。
この人は自由であることについて、何時も考えさせてくれる。

それと、このギターがまたかっこいい。何だかレトロフューチャーっぽいというか、ホアン・ミロとかイヴ・タンギー辺りがデザインしたといっても納得するくらい、形やラインや色に色気がある。
ダンエレクトロというギターらしいんだけど、売ってるところを見れば他のギターも全部この類の形、曲線、色で、独特の雰囲気のギターが並んでた。
エレクトロっていう名前もかっこいいんだなぁ。カメラでもあった、ヤシカエレクトロ35ゴールドメカニカなんていうのは、さらにメカニカという単語の合わせ技も加わって、名前だけで恍惚となってしまいそうだ。

調べてるうちに出てきたんだけど、ジミー・ペイジも使ってたそうで、写真なんか見るとゼップの頃の若い写真で、ゼップは大好きだったけど、これは本気で知らなかったので吃驚した。結構昔からあるギターで、どうやら最初は少年漫画雑誌の通販で売ってるようなギターだったらしく、フェンダーだとかギブソンだとかとはまったく居場所の違うギターのようだ。ピックアップケースに当時在庫不良だった口紅のケースを代用してたとか。今生産してるのは復刻版も含めてもうちょっとましな作りになってるらしいけど、こういう怪しい存在はその気配に同調して心が震えるな。
これ一本本気で欲しくなった。6万くらいで買えるようだから、そのうち買ってみようかな。

それにしてもやっぱりこの演奏を音楽として認めさせたのは凄い。





アート・リンゼイの出発点となったバンド、DNAの活動を知るならこれが決定版。おそらく一番過激だった活動期のすべての音源が収録されてる。最近のCDに関しては知らない。


このPVに出てくる12弦ギターじゃないけど、ダンエレクトロのギター。


今回使ったコンデジ、ニコンのCOOLPIX S9700。




砂塵 + Throbbing Gristle - Desertshore Installation

花弁
2016 / 04 / Canon 7 / Fuji PRESTO400を自家現像





丸い窓
2016 / 04 / Canon 7 / Fuji PRESTO400を自家現像





砂嵐
2016 / 04 / Canon 7 / Fuji PRESTO400を自家現像


昨日の15日はわたしの誕生日! 
京都では葵祭の日で、毎年このお祭りの日に一つ歳を重ねる。葵祭のほうにしたら、お前の誕生日なんか知らないと言うだろうけど、わたしとしては葵祭はなんだか他人事じゃないような感じが少しだけあったりする。
最近は迷い道に入り込んだような写真の撮り方になってるけど、これからの一年、そういう気分を吹っ切れたらいいなぁ。

☆ ☆ ☆

気温も上がってきて現像液の温度管理もほとんど室温で大丈夫な季節になってきたこともあって、今年になって始めてやってみたモノクロフィルムの自家現像。久しぶりだったので思い切り勘違いして、かなりイレギュラーな手順を踏んでしまい、その結果が今回の写真となる。ちょっと前にフィルム写真に起こることのすべては失敗なんかではありえないと書いたので、たとえ勘違い処理の結果だったとしても、それもまた偶然の産物、口が裂けても失敗なんて云わない。
二段増感で撮ったフィルムだった。フィルムの本来の感度、このプレストの場合はISO400なんだけど、その感度400のフィルムを感度1600の設定で撮影する。感度1600で撮ったら当然のことながら光量不足のフィルムが出来上がる。その露出アンダー状態のフィルムを現像の段階で増感現像して全体を持ち上げるというようなやり方だ。何か難しいことをやってるように見えたらそれは全然違って、単純に現像時間を普通よりも多めにとるといった作業だ。
わざと露出不足の状態で撮ったフィルムを通常よりも長い時間をかけて現像すると、光量が少なくても一応光が入った部分は時間を長く取った分現像がどんどんと進み、光がほとんど入らなかった暗い部分は時間をかけてもあまり像が持ち上がってこなくて、結果ハイコントラストなネガが出来上がる。基本光量が不足してるわけだからフィルムの粒子は目立つことになって、全体にざらついた質感の写真になる。
また、増感での撮影、現像はこういうハイコントラストや荒れた効果を狙う意味合いもあるけど、シャッター速度を稼ぐためという意味合いもある。実際のところ二段程度の増感だったら、今のモノクロフィルムは性能がいいので、そんなに荒れた感じにもならなくて、シャッタースピードを稼ぐ意味合いで使うほうが多いかもしれない。
で、この今回のフィルムなんだけど、フジが出してるデータ表をみて、二段増感で液温20度だったら9分か、と確認した後で現像を始めたのはいいとして、普通に現像する時は現像液を二倍に希釈して使ってたから、この時も何も考えずに水で薄めて現像してしまった。
ところが後で気づいたんだけど、確認したデータは現像液をそのまま使った時のデータだった。要するに薄めた現像液で原液のときに要する時間で処理したために、まるで現像時間が足りない状態で切り上げてしまったというわけ。しかも、データ表を良く見ると二倍希釈の時は一段オーバーまでしかデータが記載されてなくて、希釈した現像液での二段増感はフジフィルムのほうから、それはどうなるか分からないよと宣言されてるようなものだった。

そんなイレギュラーな作業の結果できあがったのがこんな感じ。
・・・意外と上手くいってる?
確かにコマとコマの境目がどこか分からない、シートに入れるのにカットしたいんだけど、どこでカットしたらいいのかさっぱり分からないというようなコマもあったんだけど、きちんとイメージが出てきてるコマもそれなりに出来上がって、フィルムの上に並んでた。
暗く幻想的なイメージになってなかなか面白い。

でもこういうイメージは気をつけてないとすぐに、とにかく森山大道エピゴーネンへの道まっしぐらっていう感じになってしまうのが玉に瑕かな。誰かの撮った写真そのものの影響とかは受けないようにしつつ、それでも、随分と前にここで取り上げた田原桂一の窓シリーズの、光の粒子が物象化したような感じは自分なりに撮ってみたいと思っていて、こういう方法でいけるんじゃないかと思った。森山大道は良くなくて、田原桂一エピゴーネンはいいのかと云われると、これは言葉を濁すほかない。
この後さらに一本二段増感で撮って、これはちょっと現像に時間かけすぎて全体に白っぽいイメージとなっていた。今、次のモノクロを入れた状態になってるのはもうちょっと極端に、三段増感、現像時間少なめでやってみようか。

使ったカメラ、キヤノン7はライカのL39マウントのレンズを使える、古いレンジファインダー。でもこれはもう使わない。
ファインダーの覗き口の周りが金属の角ばったデザインで囲まれていて、眼鏡のレンズの片隅に擦り傷がついたから。これは昔のカメラでもちょっと酷い。ファインダーの中は広くて見やすいんだけど、眼鏡に傷がつくのとの交換では、これはあまりにも分が悪すぎる。眼鏡かけてる人はこの機種は要注意だ。

☆ ☆ ☆

こういう類の音楽が合いそう。


Throbbing Gristle - Desertshore Installation (Jam Extract)


スロッビング・グリストルの曲。今はグリッスルという読み方になってるようだけど、昔はグリストルといってたように思う。
これ、確か12枚組のCD-Rでリリースされたものだと思うけど、アマゾンにはなかったし、CD-Rという時点でほとんど自主制作盤のような感じで、というかインダストリアル・レコードというのがスロッビング・グリストルのプライベート・レーベルだったりして、すべてが大手の流通に乗るCDでもなさそう。
スロッビング・グリストルの音楽はサブカル御用達のような小さな輸入盤専門のレコードショップに置いてあった怪しげなレコードで聴いてたから、むしろCDになってるのをアマゾンなんかで見つけたらかえって吃驚する。えらく堂々としていて、日の当たる場所においてあるような有り様は、暗い、いかがわしさにはあまり似合わない。

どこか肉感的で催眠的なリズムがかっこいい。ノイジーなギターサウンドはちょっと浮いてる感じがしないでもないけど、中盤のコーラスが入ってくる辺りの雰囲気はこの類の音楽にしては冷たい美しさに満ちていて結構好きだ。


☆ ☆ ☆




上の曲が入ってるのは探せなかったので、セカンドとついてはいるものの、スロッビング・グリストルの実質的なデビューアルバム。
でも音楽的な音とは随分と離れてるというか、聴くのは一種の修行のようになるかもしれない。







神様のデザイン

白い木の実が群れている
2016 / 02 / Fuji Natura Classica / Fuji Natura1600





綿毛
2015 / 07 / Nikon AF600 ( Nikon Mini ) / Kodak Super Gold 400





ライン
2015 / 10 / Nikon F3 / Fuji PRESTO 400を自家現像





街のポロック
2015 / 03 / Nikon F3 / Kodak Gold 200






というわけで、人が作ったものを撮ることに迷い倦み始めると、知らないうちに撮ってるようなものをいくつか。偶然が生み出してるような神様のデザイン。ただこうやって、あの木の曲線じゃなくてこの木のラインといった具合に差別化し、意図としてフレームで切り取ってる以上、画面は完全に偶然に支配されてるというわけでもなく、混沌と偶然のうちにあった神様は、撮ることでわたしの手の内から溶け出して逃れていく。

最初のは宇治川の河川敷、二枚目はどこだったかなぁ、あまり良く憶えてないけど近所を歩いてた時だったかも。次のは去年の後半、木津川で写真撮ってた時だから富野荘の辺りだったと思う。ぐちゃぐちゃに絡まった針金の影。
最初の写真で使ったフジのナチュラクラシカは去年の夏にストラップが切れて地面に落っことしてしまったカメラだけど、これだけ写ってたら落とした影響はほとんどなかったと考えてもいいのかな。ちゃちなファインダーで覗く喜びがまるでないのに、写った写真は好みの写り方になってる場合が多くてお気に入りのカメラだから、壊れてしまうとかなり困る。
空中に浮かぶかのように広がってた小さな白い実(?)を撮りたくて撮ったもの。実は手振れで木の枝は滲み白い実は流れて写ったものもあって、こっちのほうが面白かったんだけど、最近買った奥山由之の写真集の中で、似た感じのものを見つけてしまって、出せなくなってしまった。知らなかったら披露してるところだったんだけど、似たようなものがあると知ると、まぁ平気で出す人もいると思うけど、わたしの場合はちょっと躊躇いが出てしまったというところ。ここに載せたのは幾分端正すぎるところがある。
他人と似たような感覚に従ってるところがあるという点はやっぱり自分にとっては気分的に萎えてしまう感じがする。

三枚目の影の写真は、実際のところ影そのものを撮った写真だと、あぁ面白い影を見つけて撮ったわけねと簡単に了解されてしまって、イメージはそこで閉じてしまうようなところがある。いくら面白い形の被写体でも含みの少ない痩せた写真になりがちで、これもその典型的な撮り方になってるかもしれない。こういうものは、対象はシンプルでも撮る段になると結構工夫が必要なんじゃないかと思ってるんだけど、なかなかね、なかなか上手くいかない。
最近こういう光に纏わるものとしては、その形態のユニークさに引っ張られがちな落ちる影というよりも、影の中に差し込む光といったもののほうが興味を引いてる。
最後のは市井のジャクソン・ポロック。街の中には自覚のない芸術家が潜んでる。


☆ ☆ ☆


ストリートでの写真家の撮影スタイル動画をもう一つ。ウィノグランドの撮影スタイルはチャーミングで結構好き。
一瞬ファインダーを覗くか覗かないくらいのタイミングでシャッター切ってる。ちょっとどんな風に見えるかためしにファインダーでも覗いてみようかなという素振りの間に一瞬で撮ってしまうという感じなのかな。撮った後も撮った!って云う雰囲気じゃなく、ためしに覗いてみただけという雰囲気のままだから、撮られた人もあまり撮られたっていう気分にならないかも。
あといつも迷うんだけどシャッターチャージのタイミング。ウィノグランドのやり方は一枚撮った後すぐにフィルム巻上げ、チャージして、持ち歩いてる間のカメラはずっとチャージ状態のままのようだ。これがタイミングを逃さない一番のやり方だと思うし、シャッターにロックなんかの機構があるところからも、このタイミングが正解なように思うんだけど、何か機械的にずっとテンションがかかってそうで、気分としてはこういうのはどうも落ち着かない。

この動画はウィノグランドが亡くなる2年前のものだそうだ。ウィノグランドは56歳でこの世を去ってる。
かなり変わった写真家というか、撮ることに夢中にはなるけど、現像だとか焼付けだとか、撮った結果のものにはあまり関心がなかったらしく、死後に、本人も見てなかったらしいフィルムが約6500本発見されて、その写真の整理で回顧展を開催するまでに4年近くかかったという。





影と踊ろう

ハート
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





廃屋の窓
2015 / 11 / Nikon F3 / Fuji PRESTO400を自家現像






校舎
2015 / 10 / OLYMPUS PEN E-P5








先日大河ドラマの真田丸を見終わった後、いつもならTVのスイッチ切ってしまうんだけど、この時は何となくつけたままでいたら、次の番組で若冲の特集が始まった。どうやら今東京で展覧会をやってるらしい。
へぇ、そうなんだとちょっと調べてみたら、どうも京都にはやってこないようで、その時点でちょっと腹が立った。
絢爛豪華でなおかつポップでモダンでスタイリッシュ、さらに今で云うところのほとんどドット絵そのものといったぶっ飛んだ絵を発想するような、同時代の絵師たちとはまるで違った独自の眼と技を持っていた画家。その分野の文脈にまるで入らない、自らの感覚のみを頼りに描き続けたような作風は、分野が違っても得るところは多いにある。その分野の文脈で描こうとはしなかったというのはわたしの特に気に入ってるところでもある。わたしは若冲が象を描いたのでも、何しろ象が好きで、というかストレートに象というよりもどちらかと言うとガネーシャなんだけど、ともかく象に関した置物を集めたりしてるくらいだから、この点でも若冲は大好きな日本画家だったりする。
一応今回のこの展覧会は京都には来ないようだけど、数年前、と云ってももう10年くらい前になるか、若冲の展覧会は京都でも開催されていて、確か美術館じゃなくて京都国立博物館のほうだったと思うけど、それは見に行って豪華な図録も手にいれてる。この時の図録は資料的にもかなり良く出来ていたものらしい。
でも一度は開催された展覧会を見に行ってるとはいえ、今やってるのを見られないというのはやっぱりちょっと腹が立つなぁ。
展覧会は開催してるところに行かないと見られないというのが、一点しかないものを見る意味を呼び起こしたりするものの、やっぱりこういうところは古いタイプのシステムなんだと思うところもある。
一応京都で以前に見てるから、お金もかかるし東京へ行く気にまではならないけど、見に行けないなら図録だけでも手に入れたいところだ。美術館のショップのほうではネットでの通信販売はやってなくて、日経の関連ページから注文できるようだった。
展覧会といえば、今は京都で安井仲治の展覧会をやってくれないかなと思ってる。安井仲治のシュルレアリスム的で幻想的な写真は今とても興味を引いてる。また、モホイ=ナジの写真に特化した展覧会もやってくれれば絶対に見に行く。モホイ=ナジの展覧会は数年前に京都で開催されてその時のことはこのブログでも書いてる。でもこの展覧会ではモホイ=ナジの写真に関してはフォトグラム関連以外はあまり展示されずに、会場内の暗くした一室でスライドショーで見せていたくらいで、しかも図録にもあまり記載されてなかった。暗い一室で見ていた一連の写真はスナップショットの類で凄く面白かったんだけどなぁ。フォトグラムは大きく扱われてたけど、この暗い部屋で見たスライドはモホイ=ナジの撮った「その他」の写真扱いで、開催側の学芸員にはバウハウスでの本来の活動やフォトグラムほどには重要に見えてなかったんだろうと思う。
展覧会はそこに行かないと見られないという点と、もう一つ企画する側が企画したものしか見られないという嫌なところもある。向こうの思惑で投げ与えられたものしか見ることが出来ない、自分が今見たいと思っていてもだからといってその展覧会が自動的に発現するわけでもない。これも展覧会のもつ旧態依然とした特徴なんだろうと思う。
与えられたものしか見られないというのは映画でもそういうところはあったんだけど、DVDやブルーレイで今は随分と様子は違ってる。

☆ ☆ ☆

最近はミノルタのフィルム一眼にモノクロフィルムを詰めて、ニコンのコンデジS9700をサブカメラとして、スプリングコートのポケットに入れてるような組み合わせが多い。おかげでS9700が手元に来る前までサブで使ってたオリンパスXA2は撮ってる最中のフィルムが入ったまま一時休業状態のようになってしまってる。フィルムが入ったままというと、ピジョンフレックスと学研のピンホールカメラもそうなんだけど、こっちはフィルムを入れた時の気分と若干違う気分になってるので、これまた手を出せない状態になってる。

あまり面白くないなぁとぼやきながらもポケットからS9700を取り出し、何だかデジのほうでもそれなりにシャッターを切っていて、見直してみれば、デジ臭さを何とか取り除くことができたなら、結果はどうも意外とデジにヒットしたものが多いような気がする。これは本当に思いもしなかった成り行きなんだけど、フィルムで撮ってるほうに当たりが少ないというのが今度は逆に何だか悩ましい気分になる。
街中で撮るには手軽で機動性のいい道具のほうが適合してるんだろうし、ズームもフィルムのほうではほとんど使わなくなってたけど、S9700のズームは機動性を加速させて結構役に立つ。そういうところがコンデジで撮ってる写真に思考が入り込む隙をなるべく作らせないようにしていて、肩の力が抜けた写真を可能にしてくれてるのかもしれない。

一枚目は街中で見たディスプレイの断片。
下に見える、これは店への入り口の上の縁でちょっと邪魔かなと思ったけど、どこか崩して全体に決め決めにならないほうが面白いかなと思って、あえて画面に入れるようにして撮ってみた。結果は崩した不安定感もあまり出てなくて、単に邪魔なだけにも見えてくるなぁ。
街中で撮ってると、どうしても店のディスプレイとか撮ってることが多くなってる。そして、こういうものを撮る時はいつも、これがかっこいいとするならそのかっこよさは撮ったわたしの写真にあるのかディスプレイした人の感覚にあるのかということが頭に浮かんできたりする。前にも書いたけどこれはディスプレイした人の感覚が導いてきたもので、わたしの写真が生み出したものではないだろう。こういうことが頭に浮かんでくるから街中で人間が作ったものはあまり撮りたくないという感情も生まれてくるし、そういう時は森にでも行って神様のデザインによる木々の曲線なんかを撮ってみたりしてる。
単純に街で眼にするものはすべてのものが街を構成するパーツの一つと考えれば、街を観察し撮ることにおいて、何もこんなに屈折した気分にならなくてもすむと思うんだけどね。
二枚目のはとある廃屋で。
最後のは小学校。午後の誰も居なくなった小学校。がらんとした学校の雰囲気は結構好きだ。しかも蛇口が並ぶようなこういう場所は子供の存在をどこかに寄り添わせていて、その不在が際立つ。この場所はさらに全体が日陰になってるところに日差しが差し込んでいた。
閉じた格子状の門の向こうに見えていた場所だったんだけど、陽射しがおちてる光景を撮りたくなって、門の格子の間にレンズを差し入れて撮った写真だった。子供がひけた後とはいえ、小学校でこういうことをやるのはもう完全に不審者の振る舞いだったので、手早くシャッター切って、咎められないうちにレンズを格子から抜いて退散した。


☆ ☆ ☆

ストリートで写真家がどんな風に写真撮ってるか、これ見るたびにいろんな意味で凄いなぁと思う。この動画でも警官に説明してるところがあるけど、日本でやればまず間違いなく交番に連れて行かれる。こういうタイプの撮影方法は認めても、このマーク・コーエンのようなやり方には随分と批判もあるようだ。



了解を取ってたらまず撮れない写真もあると思うから、こういう撮影方法を取るほかないところもあるんだけど、こんなに無礼な態度で接するのは、どこか人の感覚として壊れてるところでもなければ、あるいは変質者だと思われてもまるで平気くらいに開き直るほどでないとできそうにもないだろうなぁ。

人の生き方がどうのこうのなんていうことよりも、壁のこのラインが美しいなんて云ってるのが、自分と似たようなところに反応してる人だなぁと、そういうところも面白かった。