ごろりん猫と、どぎまぎ写真 + The Modern Jazz Quartet - I Should Care

まずは目の前に登場
まずはのっそりと目の前に登場。
ここでこの時メインで撮ってたカメラのフィルム終了で、もう一台持ち出していた別のカメラと慌てて交換する。

2013 / 05 / OLYMPUS μ ZOOM 140 / ILFORD XP2 SUPER



ごろごろ開始
こちらを向いて道端のコンクリートの窪んだところでごろりん開始。




我に返る
ひとしきりのごろりんが終わったら、やおら我にかえったように、じっとこちらを見つめ始める。何か期待されてる予感・・・

2013 / 05 / Konica Bigmini F / ILFORD XP2 SUPER

☆ ☆ ☆

よく拝見させてもらってるラサさんの写真ブログ、「彼岸にて。
日常の視線を丹念に拾い集めて、エッジの効いたスタイリッシュな写真へと繊細に組み上げていったり、また遠い地へと誘う旅行写真なども掲載されていたりと、色々と守備範囲の広い写真が楽しめるブログで、なおかつラサさんがフィルムの使い手なのも個人的には心強い。そのラサさんのブログで先日ごろごろする猫の写真がアップされて、これをみた時にそういえばわたしもごろごろする猫の写真を撮って、撮ってはみたもののここには出しそびれて、そのままになっていたなぁと思い出して、ちょっと便乗させてもらおうと思った。
ということで以前に撮ったフォルダから引っ張り出してきたのが今回の写真となる。

2013年の頃に中書島辺りで出会った猫。脇のアパートの影からのっそりと出てきて、目の前まで来てからごろりんし始めた。
わぁ、一体何が始まったんだと思いながら目を見張ってると、急に起き上がってじっとこちらを見つめ始める。今でこそある種の親愛の情だとか遊んでくれって云うようなサインらしいというのは薄々分かるけど、この時はまるでこの猫に何が起こってるのか見当もつかずに、暫く睨みあいして動くことも出来ないうちに、猫のほうから興味を失ったかのように視線をそらすと、またのっそりとどこかへ歩いていった。
こちらといえばまるで初対面の人を前にしてどうしていいのか分からずに立ち尽くしてしまったような状態だった。猫とか飼ったことがないから、向こうからアクションを起こされても事情がさっぱり分からなくて、猫相手に愛想笑いでもしてしまいそうなくらい緊張する。

☆ ☆ ☆

ゴロゴロ猫2





あぁ何だかつまらない
ごろりんしてみたけれど、何だかつまらない。

2014 / 02 / CANON AUTOBOY FXL / Lomography Colornegative 400

☆ ☆ ☆

こっちは伏見稲荷大社にいる猫。わたしは裏参道と呼んでるけど、どうも裏参道と云うのはわたしが思ってるここのことじゃないような気もする。まぁそれはともかく稲荷山へ登る鳥居の参道から分かれてる道で、住宅地の中を通って鳥居の参道とは別ルートで、伏見稲荷大社に繋がってる。住宅地の中にもかかわらず、伏見稲荷の管轄じゃない神社が鈴なりになってる面白い坂道で、ここには結構野良猫が住み着いていたりする。これを撮ってたのは2014年のことで、でもメンバーは変わってるかもしれないけど、今でも野良猫は結構眼にすることが出来るんじゃないかな。人を見てもみんな急いで逃げないくらいは人に慣れてる。
この頃気のすむまで写真撮ってからは撮影場所を変えてしまったから、それ以降稲荷大社へはほとんど行ってないけど、眼力社とかまた参拝しに行きたいな。でも久しぶりに眼力社のある稲荷山の中腹くらいまで登るのは結構大変そうだ。


☆ ☆ ☆


The Modern Jazz Quartet - I Should Care


Youtubeにあったのは、オーディオの性能を見せる動画のようだ。このレコードは録音の良さでも知られてるから、サンプルにはちょうど良かったのかな。
MJQはスーツ着てジャズを演奏してるイメージで、優等生的な感じがもう一つ馴染めず、このレコードしか聴いたことはない。
ただそのたった一枚聴いたレコードにお気に入りの演奏が収録されていた。
ミルト・ジャクソンには悪いけど、ヴァイブの演奏はあまり感覚にはヒットせずに、ただもうひたすらジョン・ルイスのピアノが好きな曲だ。
歩くくらいのテンポで体のリズムに寄り添って進むような曲に自在のタイム感を織り交ぜて、シングルトーンのキラキラしたピアノの音が輝きながら降りてくる。
中盤から始まるピアノのソロはスケールの中の音を適当に拾って手癖で弾いてるようなのとは大違いで、本当に良く歌う。歌心にあふれたフレーズを紡ぎだしてくる。



ヨーロピアン・コンサートというタイトルのレコードだった。わたしはこの曲が入ってるレコードばかり聴いてたから忘れてたけど、二枚組のレコードとなってる。
収録されてるもので、他には「I Remember Clifford」も良く聴いてた。まぁかなり似た演奏だったんだけど、ミディアムテンポでシングルトーンのピアノが歌う、こういう曲調の音楽が好きなのかも知れない。

ちなみに「I Should Care」はセロニアス・モンクのソロピアノにも独特のリリシズムに満ちた演奏があって、こっちも好きだ。



スポンサーサイト

鎌鼬

かまいたち
2016 / 04 / Minolta SR505 / Fuji PRESTO 400を増感現像





壁の矢
2016 / 04 / Minolta SR505 / Fuji PRESTO 400を増感現像





連鎖する靴
2016 / 04 / Minolta SR505 / Fuji PRESTO 400を増感現像


梅雨に入ってからはやっぱり気が滅入る。いつの頃からかずっと撮りあぐねてる感に付き纏われて、そういうのにさらに拍車がかかりそうだ。何だか同じような写真しか撮れないと思い、でも似たような写真しか撮れないにしろ、新しい見慣れない場所へ赴くことは必要なんだと、そう思い定めてはいても、最近の気分は梅雨の陰鬱な雰囲気に勢いを得て、そういう思惑にも足止めを食らわそうとしてるようだ。
撮りあぐねてるなら撮りあぐねてる気分を写真にすれば良い。同じような写真しか撮れないと思ってるなら、飽きるまで同じような写真を撮り続ければ良い。こう云ってしまえれば話は簡単なんだけど、雑念が多くてそのシンプルさになかなか身を委ねることが出来なかったりする。

まぁね、そんなことに身を捉われながらも、出かけてみて似たような写真撮ってる時でも、シャッター切る時になると気分は楽しいし、この楽しい気分でシャッターを切っていられる限り、そのうち面白いことでも起こるだろうと楽観視はしてる。

☆ ☆ ☆

今回の写真は今年に入ってから写真撮りに色々と出かけてる京都の西側で撮ったもの。
もう写真の八割がたを、生活領域の京阪沿線で撮ってるから、ちょっと違うところで撮ってみようかなと思い立ち、そういえば京都の西のほうとかほとんど行ったことがないから、何時も歩いてる東山辺りの観光地の集積地点から離れて、そっちのほうに出かけてみようと思ってのことだった。西のほうと云うと、個人的には通ってた幼稚園が太秦にあったのと、昔通ってたシズキという美容院が西院にあって、そこへヘアカットしに行くのが、体感としての最西端の場所だった。
京都駅から嵯峨野線に乗って、電車は嵐山のほうへ向かうんだけど、わたしは京都駅からあまり離れてない丹波口だとか二条だとか、もうちょっと先に行って花園だとか、その辺りで降りて歩き回ってる。丹波口だと何も電車に乗らなくても、はっきり云って京都駅から歩いていけるし、丹波口で電車を降りても、写真撮りながら歩いて京都駅に戻ってきたりしてるんだけど、まぁ一応電車に乗るのも楽しいので。丹波口は以前親戚が住んでいて子供のころはこの近くに良く遊びに行ってた場所でもある。
嵯峨野線は凄いよ。一時間に3本しか電車が走ってない。一台見逃すと20分駅で待ってなければならない。嵐山の行き帰りの電車なのに、どこの田舎のローカル線なのかと云いたくなる。そしてその超ローカル然としたタイムテーブルのわりに観光客は乗ってくるし、さらに沿線に立命とか仏大があるから学生も大量に参加して、ローカル線ではありえないほど混雑してる場合が多い。

たとえば花園なんていう、きっと見渡す限り花が咲き乱れてるような場所に違いないという名前のところであっても、行ってみると実に何もなかったりする。京都っぽささえもほとんどないというか。でもここから暫く北のほうに向かって歩いたら色々と寺社があって、それなりの観光地になるから、こんな何もないところなのにどうしてっていうくらい外国の観光客風の人がホームにたむろしてたりする。これがちょっと奇妙な印象を与えたりする。
今年の春ごろから出かけてる、花園までの印象は、他の駅も大体こんな感じの、京都っぽささえも希薄な地方の街といった印象なんだけど、何もないところからいかに写真を掬い上げてくるか、考えようによってはなかなか面白いチャレンジが出来たりする場所のような気もする。

☆ ☆ ☆

最初のと二枚目の写真を見ていて思い浮かんだのが鎌鼬という言葉だった。内田百閒にならって、わたしも横町にあるらしい異界への入り口を探し回ってる。
ただ鎌鼬なんてつけてしまうと、京極夏彦風の妖怪写真にでもなりそうで、つけてから云うのもなんだけど、あまりおどろおどろしい方向には進めたくはない。
どちらかというと乾いた写真に乾いた幻想といったものの混合物が今の理想だったりする。
物言いたげでもなく、あっけらかんとした写真に、良く見れば寄り添ってる鉱物質の幻想といったもの、そんなのが撮りたいね。


木馬と街

街の木馬
2015 / 12 / Olympus 35DC / Lomography Color Negative 400


河原町辺りに買い物なんかに出かけた時に撮っていたものから。
単純に気を引いたり、目に留まったものにカメラを向けシャッターを切っていた。ただ目の前にあるものを写し取ってるだけの行為なんだけど、影の感じとか、光の差し込む形だとか、色彩や形の、あらゆるレベルでのコントラストの配分だとか、あるいはフィルムの調子だとか、カメラの光漏れの具合だとか、そういった様々なことが上手く噛み合って、たまにどこか際立つ痕跡のようなものが一緒に写る。その場所やオブジェを切り出したのはわたしでも、それは云わば外在する力で、わたしという主体とは基本的には無関係なものであり、時には写真を撮ったわたしに対してさえ異化する効果があって、それをわたしは面白いと思う。
逆に、大抵の場合はこうなんだけど、ファインダーを覗いても目の前のものがただフレームの中に納まってるだけで、まるでオーラがないじゃないかと、ファインダーから目を離し、カメラを下ろしてしまうこともある。
その辺の事情の違いが明確に分かるなら、喜び勇んでシャッターを切る機会も増えるんだけど、極めて感覚的なことなのでなかなかそうも上手くいかない。
あるいはたとえ明文化でき法則として抽出できたとしても、こうすれば可愛い写真が撮れるというようなハウツー本を読んでるようなものになるなら、それはそれでつまらなそうに見える。




不在の光
2015 / 05 / Olympus 35 DC 35DC / Fuji C200





ドアノブ
2015 / 12 / Olympus 35DC / Lomography Color Negative 400


木馬はお気に入りの被写体だ。街の中で木馬を見つけたら必ずカメラを向けてる。
と云いたいほど気に入ってるんだけど、街中で木馬を見るなんて可能性はほとんどないに等しい。
以前に一度民家の玄関先に木馬が放置されてたのを見つけて撮ったくらいかな。これは確か記事に載せてるはず。特に子供の頃に木馬で遊んでたと言うこともないのに、どこか心をそそる造形物であり続けてる。
二枚目のは特に何が被写体と言うものでもなく、空間の質感を撮ったもの。なぜか結構気に入ってたりする。壁のクリーム色と赤色のコントラスト、横から差し込んでる外光と階段下の暗がりの対比、黒いコードと白い配管のフレーム、曲線と直線のコントラスト、色々複雑な要素が交じり合って、自分には気を引く空間となってる。
電球のランダムさもいいし、この電球、明かりが灯ってないのも良い。これに火が灯ってたらすべてが揃って当たり前のイメージになってたと思う。云うならここにはないもの、不在を写した写真と言った感じかな。何かの「不在」という形で写真撮ってることは結構あるような気がする。

最後のは、説明されてもそうは見えない、ドアの取っ手だ。最初は奇妙な取っ手を写すつもりでカメラを向けたものの気がつけばドアの取っ手であることを伝えようと言う意思などどこかに放り出してシャッターを切ってた。取っ手自体は黒潰れでシルエット状になってしまって、これはこれで何かの記号のようで、取っ手であることは放棄してるイメージだけど、それなりに視覚的には強さをもってるように思う。さらに背景のぼんやり映った何かとか淡い色が滲んで広がってるのが、意味ありげなニュアンスを付け加えてるようだ。


オリンパスのレンジファインダー機 35DCで撮ってる。見返してみると意外なほど気に入った写真が撮れてるのに気づくカメラだったりして、わたしとは相性がいいのかもしれない。シャッターを切ればどのカメラも律儀に写真を撮ってくれるけど、カメラとの相性とかあるんじゃないかなと思う。
でもわたしの35DCはファインダーが曇ってるんだよなぁ。陽の当たるところに向けると青く霞んだような見え方しかしない。これ何とか掃除したいんだけど、モルトくらいは交換できてもこういうのは自力ではちょっと無理そう。




鏡の如き映るもの + Arto Lindsay - Child Prodigy

水田に写る
2016 / 05 / OLYMPUS PEN S3.5





中空の畦道
2016 / 05 / OLYMPUS PEN S3.5





水の痕跡
2016 / 05 / OLYMPUS PEN S3.5



先日電車に乗っていて窓の外を漫然と眺めていたら、水を張った水田に脇の畦道と等間隔に並んでる電柱が写り込んでる光景が流れすぎていった。その日は空一面が単色のグレーで塗り潰したような曇り空の日で、まるで抽象的なラインが、空を反射して水面までグレー一色となった平面に浮遊してるような様相を見せていた。
大体ピクトリアリズムの写真には距離を置くっていうようなことを云ってるけど、こういうのを見てしまうと撮らなければと思うわけで、でもこの時は用事があって乗っていた電車だったから、あの鏡のような水田の写真を撮ってくる!とばかりにその近くの駅で降りることも出来ずに、用事が済んだら撮りに戻ってこようとその水墨画のような光景が目の前を通り過ぎるままにする他なかった。
用事が済んで3時過ぎくらいだったと思うけど、もう一度この場所にやってきて、今度は電車を降りて、鏡面界となっていた水田の近くまで歩いていったんだけど、近くまでやってきてその様子を見て唖然。
通り過ぎたのは大体10時半頃、戻ってきたのが3時過ぎ頃だったから、この間約5時間ほどだったんだけど、この五時間の間にすっかり田植えが済んでしまっていた。あの鏡のように見えていた水田には苗が等間隔に並んでまるで産毛が生えたようになってる。ちっとも鏡のようじゃない。
この日は土曜日で、何も土曜日にしかも今にも雨が降り出しそうな日にこんなに張り切って田植えしないでもいいだろうに。いつもの我がタイミングの悪さに呆れかえりながら、畦道と電柱が反射してる水を張った、産毛が生えてない水田が他にないか探し回ることとなった。
結果昼前にみたような条件が揃っていたところは見つからず、こういう写真を撮ることになったんだけど、これはこれで結構気に入ってるイメージになってたりして、ひょっとしたら撮ろうと思っていた水田で田植えもされずにその場所を撮って満足していたら、今回の写真は撮らずにやり過ごしていたかもしれないから、その場ではタイミングの悪さを呪ってたけど、後になってからはこれはこれでよかったんじゃないかとも思った。
せっかく戻ってきたのに新たな場所探しやってるうちに本格的に雨が降ってきて、結局3~4枚ほど撮っただけでこの日は退散した。
思ったんだけど、曇りの日も結構いいなぁって。まだらに雲が空を覆ってるような曇り空だとあまりそんなことは考えなかったかもしれないけど、均一のグレーの色面が広がってるような日の空気感とか光の感じは、抽象度が増してこの世界の光景とはちょっと印象を異にするようなニュアンスが加わるような気がする。遠くにあるものがグレーの中にしっとりと湿度を持って霞んで行くような雰囲気もなかなかいい。

☆ ☆ ☆

使ったカメラはオリンパスペンS3.5。随分と前に買ったカメラだけど、ファインダー内のブライトフレームが微妙に傾いていて、気づかずに撮った写真の大半がわずかに傾いだ写真になってたのに嫌気が差して使ってなかった。でもブライトフレームは目安程度に、ファインダーの外枠を基準にすれば傾かずに撮れそうと思い、さらに傾いてもかまわないような構図で撮れば問題なしと思い至って、最近写ルンですとハーフカメラにぞっこんなので、せっかく持ってるんだからまた使ってみようという気になったというわけだ。
「S」はペンとしては二代目で、この二代目のペンは仕様の違いで二種類のタイプが存在する。初代ペンの後継としてまず少し明るめのレンズと高性能化したシャッターをつけたS2.8というのが出てきて、その後初代のレンズが評判よかったのか、二代目のペンのレンズを初代のものに戻したタイプのものが登場した。わたしが使ってるのはレンズを初代のほうに戻したS3.5のほうだ。初代から見ると、二代目と見た目はそっくりなので、結果的には初代のシャッターを高性能化した形のカメラといったものになってる。わたしが買った時はまるでそんなことは知らなかったんだけど、オリンパスペンSとしては2.8のものよりも生産台数が少なくて、綺麗な状態のものがなかなか見つからない、若干レアな扱いになってるものらしい。最初はなんだもっと明るいレンズのものがあるのかと外れくじを引いたような気分になってたけど、レアと知ると現金なもので、これが目の前に現れたのは幸運だったんだと思うようになった。

s3.5

まず、このところ写ルンですを使っていて気づいたんだけど、この写ルンですの最初から固定されてる設定、ISO400のフィルムで絞りが10、シャッタースピードが1/140秒というのをそのままこのペンSに流用すれば、まさしく写ルンです的に使えることになる。完全マニュアルカメラなのでとっつきが悪そうに見えるけど、考え方次第でお手軽カメラに変貌したりする。
実際露出計を持たずに一本撮ってみて、写ルンですだったら躊躇なくストロボを使ってる陰が淀んでるようなところは体感露出で設定値を変えなければならなかったけど、外してるのは数コマだけで首尾は上々だった。

ペンはデフォルトの構え方で縦のフレームになる。以前ペンは何が何でも縦構図で撮るのがカメラの特性を生かして面白いと書いたけど、実際のところ縦構図好きを表明してることには変わりないものの、最近はどうもパターン化してるというか、縦に構えても今まで撮ったようなイメージとしてしか目の前に立ち現れてこないことが多く、今回のペンSを使ってる時は横の構図で撮ってみたものが結構多い。さらに今回のようなのは対象自体が横構図を要求してると思う。

あとね、広く視界を取った写真も、そういうことに意図的になってシャッターを押したのも考えてみれば久しぶりという感じ。
クローズアップは倉石信乃が言うように、細部の全体化、抽象化であって、かつて神宿った細部を視覚化するものではない。細部が実現されるのは逆にパンフォーカスの画面、それも制度化された視線で整理されない、ぞんざいに投げ出された(この辺りの思考がかっこいい!)画面なんだという考えには賛同する。
おまけにパンフォーカスという、遥か遠くから手前のものまではっきりとピントが合って見えるというのは、見ようとしたものしか見ない人の視覚と比べれば、極端に不自然で人工的で、言うならむしろサイケデリック、幻想的なヴィジョンだと思ってる。こういうところがスティーブン・ショアのような写真が好きなところだったりする。
かつて細部に神が宿った、サイケデリックで幻想的なものだと看做すなら、安物カメラで実現してるパンフォーカスの写真も際立って面白くなってくる。


☆ ☆ ☆


Arto Lindsay - Child Prodigy


アート・リンゼイをもう一曲。あのダンエレクトロのレトロフューチャーっぽいギターを掻き毟って、ノイズを撒き散らしていた人と同じ人だとは到底思えない透明感にあふれた、美しい、でもどこか逸脱感があるブラジリアンミュージック。
これがブラジル回帰の始まりとなったアルバムなんだけど、これ以降のほかのCDとかも聴いてみると、ノイズ止めてこういう音楽に宗旨替えしましたっていうスタンスじゃなくて、ノイズからこういう音楽までまるで同じ美意識で捉えて音楽を作ってるのがよく分かる。結局は分け隔てなく音そのものに対するセンスが抜群にいい人なんだと思う。






90年代後半の坂本龍一のレーベルGUTからでてる。そういえは坂本龍一なんかとコラボしてたから、ひょっとしたらDNAのノイズギターの人というよりも新感覚のちょっと洒落たブラジリアンミュージックの人って云う受け取り方の人も多いのかもしれない。