暑中お見舞い申し上げます

夏の挨拶
2016 / 07 / Konica C35 EF / Lomo ColorNegative 400



梅雨明け前から酷い暑さが続いてます。どうそ皆様もお体を大切にお過ごしください。


写真はこの前、祇園祭の長刀鉾で粽が買えなかった日、さぁどうしようと考えをめぐらせながら歩いてた時に撮ったもの。ちょっと前の記事で菊水鉾の車輪を撮っただけで終わったと云ってた、その当の写真がこれだ。
こういうのを撮る時、以前だったら縦横90度交差で、格子がきっちりと正確なパターンを見せてるような位置から撮らないと気がすまなかったんだけど、最近はべつに正確に並んでなくてもいいんじゃない?という感覚のほうが面白くなってきて、あまり気にしなくなってきた。どこか外した感じがあるほうがなんだか余裕があるイメージに見えるというか、対象との関係性は幾分変化しつつある。

☆ ☆ ☆


使ったのはピッカリコニカという愛称のカメラ。
c35EF

オリンパス35DCと並んで自分的には結構しっくりとくるカメラだ。というわりには梅田のガーデンシティで使ったきりだったんだけど、まぁ細かいことは云わない。距離計は目測で適当にあわせて、ただシャッターを切るだけ。世界初のストロボ内蔵だったカメラは暗いところでも感覚を中断することなく走り抜けていく。
ポラロイドのイメージと結びついてるアンディ・ウォーホルが愛用したカメラの一つとしても知られていて、そういう部分でもお気に入りの度合いが幾分プラス側に傾いてる。ウォーホルは他にもダイアナなんかも使ってたりして、一眼レフのような大掛かりなカメラを持ってる写真なんか見たことがないから、手軽な大衆的コンパクトカメラの類が好きだったんだろう。
大衆的なアイコンを駆使したポップアートと、手軽で誰もが使える疾走感にあふれたカメラは、精神としてどこかで通じてるところがあるのかもと思うと、このカメラはポップな写真を生み出してくれそうな予感も孕んでる。

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久しぶりに展覧会の話題も。
と云っても写真撮りに歩き回るのも一時間もすれば本気で嫌になってくるような暑さの中で、わたし自身まだ見に行ってない。だからここに書けるのは情報だけなんだけど、現在京都ではダリ展が開催されてる。今回の展覧会は京都市美術館と文化博物館の二ヶ所で同時開催という形をとっていて、文化博物館のほうはダリの作品の中で版画だけを集めた展示になってるらしい。ダリの版画とかわたしはほとんど見た事がないので、これはちょっと珍しいな。でも一ヶ所でやりなよと思う。入場料金が両方ともかかってしまうのはなんとも納得がいかないじゃないか。

ダリ展フライヤー

シュルレアリスムを代表する画家ではあるものの、なぜかわたしがシュルレアリスムのことを思い浮かべた時、ダリはあまり頭の中には登ってこなかったりする。王道すぎるのか、シュルレアリスムという運動体の一つとして納まるよりも、誰もダリのようには描かなかった「ダリ」という極めて個別的な形で完結してしまってるせいなのか、たとえばブルトンだとかエルンストとかがシュルレアリスムと即座に結びついて現れてくるようには、自分の中ではダリは現れてこない感じがするんだなぁ。結果的には典型的なイメージになりすぎて、その分シュルレアリスムの本質の一つを体現してるんだとは思うものの、一般的なイメージとして流布した結果、幾分通俗的なシュルレアリスムという印象でとらえられる部分もどこかにあるような気がする。即座に思い浮かべられないのはそんなところが影響してるんだろうか。
ダリもいいけどマックス・エルンストの展覧会もやってくれないかな。ある日街中で見た絵をきっかけに船員から画家へ変身したというエキセントリックなエピソードを持つイヴ・タンギーの絵画の実物も見てみたい。シュルレアリストじゃなくダダイストだけどマルセル・デュシャンの大回顧展なんてやってくれたら舞い上がってしまうと思う。フィラデルフィア美術館に行かなければ覗き穴から中を覗けない遺作とか本気で覗いてみたい。デュシャンは卒論のテーマだったんだよ。


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河原町・墨染 シンプルエース。隅っこの大冒険

垂れ流し配線
2016 / 05 / Fuji 写ルンです シンプルエース





高架下
2016 / 05 / Fuji 写ルンです シンプルエース





窓
2016 / 05 / Fuji 写ルンです シンプルエース


最近ポケモンGOの話題をいくつか眺めていて、これ、異界への扉を探して、カメラ片手に路地裏へ分け入っていくのとよく似てるなぁと思った。でもカメラ片手の異界巡りのほうは、たまに顰蹙をかいながらも、どこかやばいかもと思いつつ街中、路地裏を彷徨してるところがあるのに反して、ポケモンGOのほうはどうやら、世界はポケモンGOのために存在してるといったような考えのもとで展開されてるようだ。カメラでいうならカメラを作ってる会社が取扱説明書で、さぁ他人の家に乗り込んで遠慮なく写真を撮ってみようと書いてるようなもので、独りよがりで傲慢さに満ちた世界が現実世界を侵食しようとしてる。隠しもしない集客狙いもちっともスマートじゃない。
任天堂は京都の企業だし家庭用コンピュータ・ゲームという未踏の地を開拓していったパイオニアで、人並み以上にゲームが好きだった者としては贔屓目に見てたけど、こんな浅慮でダサいことやって何だか評価が地に落ちてしまったというか、見損なってしまったなぁ。開発は任天堂じゃないという擁護もネットに見られたけど、頬被り出来るほど無関係でもないだろう。

ところで任天堂といえば創業のビルが今もあるのを知ってます?
昔の五条楽園の近くにあって、元遊郭の写真撮ろうとあの辺りをうろつきまわっていて偶然見つけたんだけど、意外とこじんまりした建物だった。ビルはまだ使われてるようだったけど、ゲーム関連のことをやってるような雰囲気でもなかったし、ひょっとしたら昔からの花札とかの関連なんだろうか。

☆ ☆ ☆

三月頃にフィルムを入れて、その後に関心が他のカメラに移ってしまったためにそのまま一枚も撮らずに投げっぱなしになっていた二眼レフのピジョンフレックス。
梅雨が明けてから、とにかく撮り終えてフィルムを取り出そうと思って持ち出してる。でも二眼レフの特徴のことごとくが自分の感覚にあまりフィットしなくなってるのを今さらのように確認してしまって全然進展していかない。最近は大阪のアメリカ村でよく撮ってるんだけど、ピジョンフレックスを持っていっても一日に一枚くらいしか撮れない。
まずウエストレベルのファインダーがしっくりこない。かなり視線が下がるので、たとえば目の前の穴の向こうに何かが見えるというような空間を撮ろうとしても、カメラの視線は下に下がってるから、穴の向こうに見えてたものがファインダー越しには見えなくなってるというような場合が非常に多い。わたしの好きな俯瞰も、構え方で撮れないこともないんだけど、非常に面倒だ。
さらにやっぱり四角いフレームは扱いにくいというのもある。どういう風に空間を切り取っても、それなりに様になるように見える。何でもそれなりに絵になるんだったらいいじゃないかと思うかもしれないけど、でもそれなりに様になるだけで、これしかないというような、とても様になる絵にはなかなかならない。逆にまるで様にならないという絵が出来てしまうほうが、実は使いやすいんじゃないかと思う。
もう一つはなにしろヤシカの前身になったカメラなんていう古い代物なので、ファインダーはただのすりガラス、覗き込んでも像はほとんど見えないというか、昼間に幻燈してるような見え方しかしないということ。最後はもうこんな風に写ってるんだろうなぁと想像しながらシャッターを切ることになって、何だかまるで手ごたえがない感じがする。
早く撮り終わりたいから一応外に出る時には持ち出してるんだけど、これあと残り10枚を撮り終えるのに一夏全部費やすことになるかもしれない。まぁがんばって撮ってみるけど。

☆ ☆ ☆

最近持ち出してるカメラ事情はこんな感じで進行中だけど、今回は写ルンですで撮っていた写真から。7月中ごろの今現在で三台目を消費中。オートハーフの試し撮りが介入してきてるので、あまり枚数はこなせてないんだけど、やっぱり面白い、このカメラ。意外なほどよく写るトイカメラっていうところ、相反する要素を飲み込んで、この矛盾の塊のようなところがいい。

最後のは隅っこの冒険というよりも、ただフレームの隅っこに置いただけっていう感じがしないでもない。これ民家の窓に、外に向けてアピールするように飾ってあったもので、何だろう?ちょっと異様だなぁと思って撮ってみたものだ。でもひょっとしたらわたしが知らないだけで、実は結構ありきたりなポスターとか、そういう可能性もありそう。
こういうのよくやるんだな。自分が知らないというだけで、ちっとも珍しくもないものを得意げに差し出してみたりすること。






鵺、滴る灯 + 富岡多恵子「写真の時代」

赤いハンドル
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





襞
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700





光る体
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700








滴る赤い光
2015 / 12 / Pentax K100D Super


京都は今祇園祭の真っ最中。いつも通りにこの記事をアップできたなら、昨日ハイライトの山鉾巡行は終了してるところだけど、これを書いてる今はまだテンションが上がっていく只中にあるという感じだ。
とはいっても実はわたし自身は祇園祭のことをすっかり失念していて、もちろん今がその期間中だというのは分かってはいたけど、この急激な酷暑で頭の中が一杯というか、祇園祭って梅雨の真っ最中にやってる印象があまりないから、まだちょっと先の出来事だと見事に勘違いしていた。先日京阪の七条の駅で降りた時、やけに外国の観光客がいるなぁと思って、駅の張り紙が目に入ったら、今日は祇園祭なので電車の運行がどうしたらこうしたらというようなことが書いてある。外国の観光客の多さに引っ張られて、しまった今日は祇園祭の日なんだとものの見事に勘違いして、粽買うのを忘れたなぁ、長刀鉾のところで買うのが好きなんだけど、八坂神社で手に入るかなぁなんてことが頭を巡って、まだ山鉾巡行の日まで3日ほどあるっていうことがまるで頭の中に戻ってこなかった。
帰宅してから、いやまだクライマックスじゃないではないかと気づいて、土曜日に耳鼻科に行くからそのついでに粽を買ってこようと一安心。このところいかにも京都なんていう物事は、意図的に写真に撮ってないし、もう撮る気もないんだけど、オートハーフの2本目の試写ついでに、暑さと雨と写真的感性の迷いの中、まるで消費できないでいるフィルムを使ってこようかと思ってる。この前の記事の4枚目の、日常の隙間に張り付いていた白昼夢のような写真、またそんな写真が撮れるかなと、自分でもちょっと期待してる。でも期待してしまうと結果はまるで違うものになってしまうのがわたしの常だから、さてどうなるか。
それにしても今頃の京都は超絶なんていう形容が付くほどに蒸し暑い。外国の観光客はこのところ年を追うごとに目に見えて増えてる感じだけど、この時期に高いお金を使って京都に来てしまって、もっと過ごしやすい時に来るべきだったと嘆いてるんじゃないかと思う。あるいはそうではなくて、この暑さを、この季節の京都でしか味わえないと、この時期に来たのが正解だったと思ったりしてるのかな。

☆ ☆ ☆

追記すると、土曜日、要するに祇園祭の宵山だけど、耳鼻科に行った後、粽を買いに出かけてみた。
長刀鉾の設置してある場所は舗道拡張した四条通の拡張されなかった区域で鋒の前を通る人並みがもう満員電車並みにつかえてしまってなかなか進むことが出来ないような状態になっていた。
おまけに長刀鉾の粽はあろうことか売り切れになっていて、結局買うこともできず。
まいったなぁと思いつつ、他の鉾で買うしかないかと、近くにある鉾の中でどこにしようかと考え、月鉾と菊水鉾に絞り込んだ。黒主山の粽も黒い帯が巻かれていたりしてかっこいいけど、場所がちょっと離れてるし、後祭のほうで登場する山なので今売ってるのかどうか分からない。
月とか狂気をはらんでかっこ良さそうと思ったんだけど、厄除けなのに勝手に想定した狂気で入れ込むのもおかしな話で、かたや菊水は戦艦の名前にでもありそうでかっこいいと、こっちも本意を無視した関心の寄せ具合と、あれやこれやと思い巡らしたものの、結局その場のインスピレーションで菊水鉾の粽を買うことに決定。
長刀鉾で粽が買えなかったのは初めてのことで、やっぱり長刀鉾は巡行の先陣を切る鉾とあって人気があるんだ。

オートハーフの試し撮りとか云ってたけど、人の多さと蒸し暑さに辟易して、肩にかけていたコニカのC35EFで菊水鉾の車輪の写真を一枚撮っただけ、オートハーフのほうはリュックの中から出しもしないままに終わってしまった。


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鎌鼬の記事の前に写真選んで記事の形にしようとしてたもの。得体の知れないものの気配なんていうのにぴったりな、鵺というタイトルで行こうと思ったものの、楢橋朝子の写真集にそのものずばりのnu・eというのがあって、まぁそういう写真集を知らなかったとしても、いかにもという単語だしどうしようかなと逡巡していた。そのうち別の写真を眺めて鎌鼬という単語に思い至り、そっちのほうがまとめやすそうと気分は鎌鼬のほうへと移ろい、写真選び出しただけで放置しかかっていたのがこの記事だ。

目の前のものがそのまま写るというのが、写真だけが持つ特性だと思うけど、写真に写ることで、そのまま写った事物や空間なのに、時として饒舌になることがある。そういう事物や空間の呟きをフレームのなかに閉じ込めたい、こういう写真撮ってる時の無意識的な志向とか、こういったものなんだろうと思う。
でも、明らかに妙なものを被写体にして、妙な雰囲気の写真を撮ったとして、それはキャッチーな写真にはなるだろうけど、わたしはそういう写真は撮った側が写真内の事物に、さぁ色々と喋れ、囁き声なんていうんじゃなく大声で喋れとせっついてるような感じがして、自分でもそういう写真は絶え間なく撮ってるくせに云うのもなんだけど、どうも乗り切れないところがある。そういうのはちょっと違うんじゃない?とか、こういうのは何だか微妙に違うっていう思いが必ずどこかに残ってしまう。
できうるならありきたりのものを相手にして饒舌な写真とか、そういうのを撮ってみたいなぁ。


☆ ☆ ☆



写真の時代

タイトルは何だかおざなりのようだし、著者も詩人であり小説家ではあっても、写真家ではない。こんな条件だけ目にすると面白くなさそうという印象になってしまうかもしれないけど、実は結構面白い本だったりする。
内容は富岡多恵子が1976年から78年にかけてカメラ毎日に連載した時評を纏めたもの。巻末には東松照明との対談が収録されていて、そのなかで東松照明がこの時評をかなり高く評価していた人がいたことを明かしてる。
内容的には写真家や写真家の写真集についての評、連載当時の展覧会についての評、他には写真的なキーワードを契機にしたような様々な論考など。
著者は写真に関しては、海外にカメラ持って出かけても写ってるのは自分ばかりで、どういうことかというとほとんどカメラを他人に預けて撮ってもらってると明記し、門外漢であることを宣言してるんだけど、だからといって的外れなことが書いてあるかと読んでみると、これがまた完全に予想を外れて、見ることについてかなり思考なり体験を重ねてきてるのが良く分かる書きっぷり、しかも今まで写真のコンテクストの中にいなかったから、写真の中に身を置いてる人からはあまり発想されないような視点を確保してる。
写真と表現なんていう言葉で何か云うとするなら、写真のコンテクストの中にどっぷりとはまり込んで考える人なら、これからの写真にはどういう表現が可能か、なんていう方向へと考えは広がっていくだろうけど、富岡多恵子がこの本で色々と展開してる思考には、その通奏低音として、そのもっと手前というか、写真やカメラにとって、表現行為といったものはほんとうにふさわしいものなんだろうかという、従来的な写真の領域ではなかなか発想し得ない思考の起点を用意してる。
写真の登場は写実において完全に絵画を打ちのめし、絵画は別の方向を辿るほかなくなったけど、その絵画を打ちのめした写真は今や打ちのめしたはずの絵画的な表現にはまり込んでる。それは写真の本質でもないし、写真が本来持ちうるはずの独自の面白さへも結びついていかずに、いつまでも絵画の従属物のような存在に留まり続ける。
こういった基盤の上で展開される論考はとても刺激的だ。
写真はコピーするだけのものと定義しても、フレームで切り取ることだけでも主観は介在し、事物と主観の関係においていくらでも変化自在に変貌していく、その揺らぎに応じて論考は様々な切り口を見せて、こういうところも柔軟で面白い。

エグルストンの写真に関する評なんかも入っていて、これなんか読んでみると良く評されるようなアメリカ南部の瘴気だとか、そんな風にはちっとも写真を読み取ってないのが自分には面白かった。わたしもエグルストンの写真ってそんなところにないだろうって思ってたから。

この本を読んで、まぁ似たようなことを考え続けてるから、自分が写真についてずっと考え続けてることは決して方向を誤ってはいないと、ちょっとだけ自信を持ちえたところもあった。でも70年代の後半に自分が思い描くようなことを考えてる人が既にいたというのは正直に云って、後追いにも程があるじゃないかとめげるところもある。自信をもらったことと意気消沈したことと、さてとぢらのほうが自分には大きかったのだろう。












のちに筑摩書房から叢書として再版されたものがあるけど、今はこのオリジナル版共々絶版となってる。古書はこっちのほうが古い分安く手に入りそう。ちなみにわたしが持ってるのも、写真載せたから分かると思うけどオリジナルのほうで、再版された叢書のほうがどんな体裁になってるのかは全然知らない。





いつかの夏のある日 + Keith Jarrett - Spirits 15

ステンドグラス
2014 / 07 / Minolta SR505 / Kodak SuperGold400





光射す塔
2014 / 07 / Minolta SR505 / Kodak SuperGold400





矢田寺の一角
2014 / 06 / Nikon FM3A / Fuji Presto 400





祭り14
2014 / 07 / Minolta New X-700 / Ilford XP2 Super



この前の記事を書いて程なく、まだ梅雨なのにいきなりの強烈な酷暑となって、ほとんど動く気になれない状態に気分が固まってしまった。気分のちぐはぐさにいらつき、どうせ酷暑なら、それに相応しい真夏の気分に手っ取り早く切り替えたくて、今まで夏に撮った写真でアップしてないものを探してみた。だから今回のはまだ夏にもなってないのに、夏の思い出の写真となる。
なんだか夏と言うと実際に体験してる真っ最中の夏はあまりの暑さにうんざりするだけという場合がほとんどだけど、記憶の中にある夏は甘美なものとして残ってる。思い出なんていう言葉と結びつき、その関係がもっとしっくりくるのは夏だろう。秋の思い出とか春の思い出とか、べつにそう云ってしまってもなんら不都合なところは無いものの、それはまさしく文字通りに過ぎなくて、夏の思い出と云った時の祝祭的な特別感はあまりないように思う。写真もそういう記憶の中の夏のようなものを刺激するような撮り方ができたら、おそらく祝祭的な写真になるんじゃないかな。蒸し暑さとか酷暑とか思い出させる、今体験してるライブ感あふれる夏の写真も有りだとは思うけど、そんなのが撮れたとしても、みんなうんざりしてあまり見る気がしないかもしれない。

でも探してみたけど、いかにも夏っぽい写真とか撮ってないことに今さらの如く気づく。さらに記憶の中の夏を想起させるようなのもほとんどない。逆に蒸し暑さを思い起こさせることもなく、ただ六月七月に撮ったというだけの写真だ。もともとあまり季節的な写真を撮ろうという撮り方でもないから、当たり前の結果だとは思うけど、こんなことを書いてしまったからには、今年の夏は夏の甘美な記憶を呼び起こすような写真を目指して撮ってみようか。

このところ先日のオートハーフにフィルムを装填して試し撮りの真っ最中。でもちょっと歩き回っただけで頭の中は暑い暑いという言葉で埋め尽くされて、写真の言葉なんてほとんど弾き飛ばされてしまったような状態になる。
まずはこの早すぎる酷暑に気分を追いつかせないと、わたしの夏の出来事も始まらない。

今回のはね、4枚目の写真が凄いと思うんだ。2014年の祇園祭で撮ったものだけど、何が凄いといって、写ってる人物五人の誰一人として顔が分かる形で写ってない、ある意味奇跡的な一枚だ。写真を良い写真と駄目な写真に区分けしてしまうような人だと、これはおそらく典型的に駄目な写真の部類に入るんだろうなぁ。


☆ ☆ ☆




以前にも載せたことがある曲なんだけど、好きな曲だしキース・ジャレット続きということで。
曲調はあまりジャズっぽくもなく、素朴で、コンドルは飛んでいくの親戚みたいな感じかな。
曲作りもキース・ジャレットが手がけ、おまけにすべての楽器がキース・ジャレット本人の演奏による多重録音だそうで、キース・ジャレットのルーツのひとつは意外なところにもありそうな予感がする。








廻廊にて 続き + 始めてオークションで入札してみる。 + The John Buzon Trio - Don't Worry 'Bout Me

人が積む塔
2012 / 09 / Canon Autoboy Tele / Kodak Try-X




木立の中の像
2013 / 01 / Lomo Diana+





緑の扉
2012 / 10 / Konica C35EF / Kodak Gold 100


今年の梅雨は豪雨が降り続くという印象でもないけど、何だか性根の悪い降り方をしてるようだ。
陰鬱な日が続くなか、あまり気乗りがしなくてもとにかく出かける時はカメラは持って出てる。でも出歩いてる途中で小雨が降ってきたりして、カメラ持っていても写真撮れないで、そのまま帰ってくることが多い。気がつけばいつの間にか撮る写真の数が激減していて、最後までまだ撮り終わってないままのフィルムが何本か、カメラの中で淀んでるような状態になってる。そんな日が続くと、何だかどんな風にして写真撮っていたのか、何をきっかけにファインダーを覗いたり、目の前の空間を切り取る判断をしてたのか、忘れてしまいそうになる。
七月に入ってもう半月位すれば梅雨も明けると思うけど、まぁその後に酷暑が控えていて、それがまた気力をそぎ落としそうではあるものの、とにかくこんなに気が滅入る梅雨は早く明けて欲しい。梅雨明け宣言の次の日に雨が降っても、もう梅雨じゃないというだけで、それがどんな土砂降りの雨だったとしても、気分は晴れやかになってると思う。

☆ ☆ ☆

最近ヤフオクで始めて入札してみた。騙しにかかる人ばかりという印象で今まで手を出す気にはなれなかった。でも古いカメラとかリアル世界の中古屋だけだと、たまたま店にあるものしか相手にできないことを考えると、品物が集まってくる規模が大きいほど、そういう古いものに出会う確立も多くなるわけで、騙されそうと思う反面利用できたら便利だろうなと思っていた。

利用して思ったのはよく言われるように物欲の伏魔殿そのもので、よほど引き締めてないと物欲に流されてしまいそうだということだった。

入札してみたのはカメラ二台。一つは東ドイツにあった、イハゲー社のエキザクタ ヴァレックス IIaで、もう一つはリコーの、確か70年代頃の古いカメラである、オートハーフ。
エキザクタのほうは昔からそのデザインに一目ぼれで、東独のカールツァイスのレンズを備えてたりするから写りは酷いものじゃないとは思うけど、実のところこのカメラに関してはそんなことは結構どうでも良かったりする。わたしにとってはこのカメラはデザインだけが突出してる。とにかく問答無用でかっこいいんだ。

exakta varex

写真代わりにYoutubeから引っ張ってきたのは外国のユーザーがコレクションについて説明してる動画で、後半は使い方講座になってるから手に入れてからは役立ちそう。カメラ紹介としては長すぎる動画になってる。

見てのとおりの古い工芸品のようなカメラで、わたしは装飾的なものが大好きときてるから、このカメラは最初に知ったときから琴線に触れまくる存在となってる。
でもこのカメラ、装飾的な工芸品的外観は一世紀ほど前のアジェとかがいた時代のもののようにも見えるけど、実は戦後のカメラで見た目ほどにはそんなに云うほど古いというわけでもない。戦後にこういうテイストのデザインを考案する感覚がイカしてる。

オートハーフE
もう一つのリコーオートハーフというのはこんなカメラ。
ぞっこんのハーフカメラなんだけど、中古屋では意外に高価で並んでる。これもデザイン的に面白い。今のデジカメは他に類を見ないデザインとか、こんなところに労力を注ぎ込む余裕があまりないようなもの作りの印象で、今のデジカメ製品に混ざっても異彩を放つんじゃないかと思う。ぜんまい仕掛けのモーターで駆動するようなギミックが本当に楽しい。

さてヤフオクの入札の結果だけど、エキザクタのほうは、上で自分で撮った写真を貼らずに誰とも知れない外国人の動画で誤魔化してるのでも分かるように、終盤で横から高値入札の誰かに掻っ攫われて落札できず、オートハーフのほうだけまぁ納得の安値で落札できたという形で終わった。
終わる10秒ほどの間に入札すれば逃げ切れるんじゃないのと思ってたけど、上手くできてるもので最終の入札から自動的に5分だったか時間延長になるから、相手の入札を時間切れで封殺できないようになってる。相手がその5分の間に意図的に入札するのを止めるいう形以外では終わらない。わたしは競り合いで予算オーバーになってきたので、ここでブレーキがかかって競るのをやめてしまい、値段吊り上げてた誰かに取られてしまったというわけだ。何だか、妙に負けてしまったという感覚が残る。入札できたほうもこっちの競り上げで不必要な金額を上乗せして買わざるを得なかったのは、ざまをみろとは思うけど、やっぱり負けたという気分はどうしても残る。こういう気分に捉われるのが伏魔殿の罠の一つなんだろうなぁ。


☆ ☆ ☆


今回の写真、もはや廻廊に見立てたものも無いけれど、一応暫く前に記事にした西梅田ガーデンシティの写真の、それも忘れた頃の続きということで。廻廊はこっちの漢字のほうがかっこいいな。


二枚目のはトイカメラのダイアナで撮ったもの。ひょっとしたらホルガよりも酷いカメラかもしれない。ロモが復刻するカメラはトイカメラなんだから上手く写らなくてもかまわないというような、なめた考えで作ってるとしか思えず、フィルムではリリースしてくれてるのに感謝はするけど、カメラに関してはとてもじゃないけど賛同できないところがある。
イタリアにベンチーニ・コロールという洒落た大衆カメラがあって、安くで見つけたら欲しいカメラの一つなんだけど、作りはほとんどトイカメラということもあって、ベンチーニファンの人が、ロモに目をつけられてダイアナのようにならなければいいけどと云ってたのを読んだことがある。それを読んだ時に、ああ、ロモが復刻したために酷いカメラとして世に出てると思う人がここにもいるんだと思った。
と、こんなことを書いてる割にダイアナはレギュラーのものとピンクのど派手なものの二台、おまけにワイドレンズの交換用レンズまで持ってたりするので、心底嫌いというほどでもなく、酷いカメラなのは承知の上でたまに面白いのが撮れたりするから使ってみたりしてる。
今回のもわりと効果的に写ってたものだった。
復刻版のダイアナはいかにもトイカメラ風にするためなのかわざと周辺光量落ちが出るようにしてある感じで、このわざとらしい、まるで望遠鏡を覗いてるような仕上がりになるのが大嫌いなので、一回り小さなフレームに付け替えて使ってる。撮れる枚数が少し増えるのも好都合だ。

最後の緑の扉のような写真は最近は撮らなくなったなぁ。

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The John Buzon Trio - Don't Worry 'Bout Me


Don't Worry 'Bout Meにはキース・ジャレットの極め付きの演奏があるんだけど、これはその薫り高く繊細な音空間を描いていくような演奏とは正反対というか、古臭くて安っぽくてうさんくさくて、オルガンがまたここぞとばかりにモンド感を持ち込んだりして、だからこそキース・ジャレットにはない面白さ満載のDon't Worry 'Bout Meだ。
マイトガイが出てくる昔の日活のプログラムピクチャなんかで眼にするキャバレーのシーン。そんなシーンで半裸の踊り子さんが踊る背後で鳴ってるような音楽とか、結構好きだったりする。


ちなみにキース・ジャレットの演奏はこういうの。以前にも記事の中で紹介してる。
Don't Worry 'Bout Meは1938年にRube Bloomによって書かれたスタンダード曲。でも同名異曲のものがあって、そっちのほうが圧倒的に新しい曲だからなのか、アイドル的なロックバンドが歌ってるからなのか、検索しても違うほうがヒットして面食らう。
何かにあやかろうとしてるのか、過去の曲名と同じ名前なんてつけないで欲しいな。