2016/07/18

2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700

2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700

2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700

2015 / 12 / Pentax K100D Super
京都は今祇園祭の真っ最中。いつも通りにこの記事をアップできたなら、昨日ハイライトの山鉾巡行は終了してるところだけど、これを書いてる今はまだテンションが上がっていく只中にあるという感じだ。
とはいっても実はわたし自身は祇園祭のことをすっかり失念していて、もちろん今がその期間中だというのは分かってはいたけど、この急激な酷暑で頭の中が一杯というか、祇園祭って梅雨の真っ最中にやってる印象があまりないから、まだちょっと先の出来事だと見事に勘違いしていた。先日京阪の七条の駅で降りた時、やけに外国の観光客がいるなぁと思って、駅の張り紙が目に入ったら、今日は祇園祭なので電車の運行がどうしたらこうしたらというようなことが書いてある。外国の観光客の多さに引っ張られて、しまった今日は祇園祭の日なんだとものの見事に勘違いして、粽買うのを忘れたなぁ、長刀鉾のところで買うのが好きなんだけど、八坂神社で手に入るかなぁなんてことが頭を巡って、まだ山鉾巡行の日まで3日ほどあるっていうことがまるで頭の中に戻ってこなかった。
帰宅してから、いやまだクライマックスじゃないではないかと気づいて、土曜日に耳鼻科に行くからそのついでに粽を買ってこようと一安心。このところいかにも京都なんていう物事は、意図的に写真に撮ってないし、もう撮る気もないんだけど、オートハーフの2本目の試写ついでに、暑さと雨と写真的感性の迷いの中、まるで消費できないでいるフィルムを使ってこようかと思ってる。この前の記事の4枚目の、日常の隙間に張り付いていた白昼夢のような写真、またそんな写真が撮れるかなと、自分でもちょっと期待してる。でも期待してしまうと結果はまるで違うものになってしまうのがわたしの常だから、さてどうなるか。
それにしても今頃の京都は超絶なんていう形容が付くほどに蒸し暑い。外国の観光客はこのところ年を追うごとに目に見えて増えてる感じだけど、この時期に高いお金を使って京都に来てしまって、もっと過ごしやすい時に来るべきだったと嘆いてるんじゃないかと思う。あるいはそうではなくて、この暑さを、この季節の京都でしか味わえないと、この時期に来たのが正解だったと思ったりしてるのかな。
☆ ☆ ☆
追記すると、土曜日、要するに祇園祭の宵山だけど、耳鼻科に行った後、粽を買いに出かけてみた。
長刀鉾の設置してある場所は舗道拡張した四条通の拡張されなかった区域で鋒の前を通る人並みがもう満員電車並みにつかえてしまってなかなか進むことが出来ないような状態になっていた。
おまけに長刀鉾の粽はあろうことか売り切れになっていて、結局買うこともできず。
まいったなぁと思いつつ、他の鉾で買うしかないかと、近くにある鉾の中でどこにしようかと考え、月鉾と菊水鉾に絞り込んだ。黒主山の粽も黒い帯が巻かれていたりしてかっこいいけど、場所がちょっと離れてるし、後祭のほうで登場する山なので今売ってるのかどうか分からない。
月とか狂気をはらんでかっこ良さそうと思ったんだけど、厄除けなのに勝手に想定した狂気で入れ込むのもおかしな話で、かたや菊水は戦艦の名前にでもありそうでかっこいいと、こっちも本意を無視した関心の寄せ具合と、あれやこれやと思い巡らしたものの、結局その場のインスピレーションで菊水鉾の粽を買うことに決定。
長刀鉾で粽が買えなかったのは初めてのことで、やっぱり長刀鉾は巡行の先陣を切る鉾とあって人気があるんだ。
オートハーフの試し撮りとか云ってたけど、人の多さと蒸し暑さに辟易して、肩にかけていたコニカのC35EFで菊水鉾の車輪の写真を一枚撮っただけ、オートハーフのほうはリュックの中から出しもしないままに終わってしまった。
☆ ☆ ☆
鎌鼬の記事の前に写真選んで記事の形にしようとしてたもの。得体の知れないものの気配なんていうのにぴったりな、鵺というタイトルで行こうと思ったものの、楢橋朝子の写真集にそのものずばりのnu・eというのがあって、まぁそういう写真集を知らなかったとしても、いかにもという単語だしどうしようかなと逡巡していた。そのうち別の写真を眺めて鎌鼬という単語に思い至り、そっちのほうがまとめやすそうと気分は鎌鼬のほうへと移ろい、写真選び出しただけで放置しかかっていたのがこの記事だ。
目の前のものがそのまま写るというのが、写真だけが持つ特性だと思うけど、写真に写ることで、そのまま写った事物や空間なのに、時として饒舌になることがある。そういう事物や空間の呟きをフレームのなかに閉じ込めたい、こういう写真撮ってる時の無意識的な志向とか、こういったものなんだろうと思う。
でも、明らかに妙なものを被写体にして、妙な雰囲気の写真を撮ったとして、それはキャッチーな写真にはなるだろうけど、わたしはそういう写真は撮った側が写真内の事物に、さぁ色々と喋れ、囁き声なんていうんじゃなく大声で喋れとせっついてるような感じがして、自分でもそういう写真は絶え間なく撮ってるくせに云うのもなんだけど、どうも乗り切れないところがある。そういうのはちょっと違うんじゃない?とか、こういうのは何だか微妙に違うっていう思いが必ずどこかに残ってしまう。
できうるならありきたりのものを相手にして饒舌な写真とか、そういうのを撮ってみたいなぁ。
☆ ☆ ☆

タイトルは何だかおざなりのようだし、著者も詩人であり小説家ではあっても、写真家ではない。こんな条件だけ目にすると面白くなさそうという印象になってしまうかもしれないけど、実は結構面白い本だったりする。
内容は富岡多恵子が1976年から78年にかけてカメラ毎日に連載した時評を纏めたもの。巻末には東松照明との対談が収録されていて、そのなかで東松照明がこの時評をかなり高く評価していた人がいたことを明かしてる。
内容的には写真家や写真家の写真集についての評、連載当時の展覧会についての評、他には写真的なキーワードを契機にしたような様々な論考など。
著者は写真に関しては、海外にカメラ持って出かけても写ってるのは自分ばかりで、どういうことかというとほとんどカメラを他人に預けて撮ってもらってると明記し、門外漢であることを宣言してるんだけど、だからといって的外れなことが書いてあるかと読んでみると、これがまた完全に予想を外れて、見ることについてかなり思考なり体験を重ねてきてるのが良く分かる書きっぷり、しかも今まで写真のコンテクストの中にいなかったから、写真の中に身を置いてる人からはあまり発想されないような視点を確保してる。
写真と表現なんていう言葉で何か云うとするなら、写真のコンテクストの中にどっぷりとはまり込んで考える人なら、これからの写真にはどういう表現が可能か、なんていう方向へと考えは広がっていくだろうけど、富岡多恵子がこの本で色々と展開してる思考には、その通奏低音として、そのもっと手前というか、写真やカメラにとって、表現行為といったものはほんとうにふさわしいものなんだろうかという、従来的な写真の領域ではなかなか発想し得ない思考の起点を用意してる。
写真の登場は写実において完全に絵画を打ちのめし、絵画は別の方向を辿るほかなくなったけど、その絵画を打ちのめした写真は今や打ちのめしたはずの絵画的な表現にはまり込んでる。それは写真の本質でもないし、写真が本来持ちうるはずの独自の面白さへも結びついていかずに、いつまでも絵画の従属物のような存在に留まり続ける。
こういった基盤の上で展開される論考はとても刺激的だ。
写真はコピーするだけのものと定義しても、フレームで切り取ることだけでも主観は介在し、事物と主観の関係においていくらでも変化自在に変貌していく、その揺らぎに応じて論考は様々な切り口を見せて、こういうところも柔軟で面白い。
エグルストンの写真に関する評なんかも入っていて、これなんか読んでみると良く評されるようなアメリカ南部の瘴気だとか、そんな風にはちっとも写真を読み取ってないのが自分には面白かった。わたしもエグルストンの写真ってそんなところにないだろうって思ってたから。
この本を読んで、まぁ似たようなことを考え続けてるから、自分が写真についてずっと考え続けてることは決して方向を誤ってはいないと、ちょっとだけ自信を持ちえたところもあった。でも70年代の後半に自分が思い描くようなことを考えてる人が既にいたというのは正直に云って、後追いにも程があるじゃないかとめげるところもある。自信をもらったことと意気消沈したことと、さてとぢらのほうが自分には大きかったのだろう。
のちに筑摩書房から叢書として再版されたものがあるけど、今はこのオリジナル版共々絶版となってる。古書はこっちのほうが古い分安く手に入りそう。ちなみにわたしが持ってるのも、写真載せたから分かると思うけどオリジナルのほうで、再版された叢書のほうがどんな体裁になってるのかは全然知らない。