fc2ブログ

変格的祇園

祇園壁面
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fujicolor 100




自転車と影
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fujicolor 100




祇園の窓
2016 / 10 / Konica EYE / Fujicolor 100





東山のエントランス
2016 / 10 / Konica EYE / Fujicolor 100




前回のコメント欄でちょっと書いたことだけど、最近はイベント的に用意されているようなものや所へはあまり出かける気にならなくなっている。時代祭に遭遇して、これ以上人が増えないうちに退散することしか頭になかったし、そろそろ紅葉の季節だというのに一向に写真撮りたいと云う気分が盛り上がってこない。
気になったもの、目を引いたもの、なぜか知らないけどわたしの情動が動き出すような気配を感じたものや場所にカメラを向けているという態度は変わってはいないし、やっていることはいつだってまったく同じなんだけど、それでもどこかに意外と変化していってる部分もあるようだ。
そういう変化が自分にとってどういう意味を持っているのかはよく分からないけど、抗う必要もなさそうなので、自分の自然に任せておくほうがいいんだろうなと思う。
変化といえば、最近ユルゲン・テラーの写真集を見ていて、デジタルのパキパキしたイメージもそんなに悪くないなぁって思った。
デジタルは従来的な写真の真似事なんかしないで、デジタルっぽさを前面に出したほうが面白いんじゃないかなぁ。
フィルム好きは変わらないにしても、自分が思う方向での使い方が見えてくるならデジタルを持ち出す機会は若干増えていきそうな気もする。

大体ね、いろんなものに結構影響されるほうなんだな。いろんなところで見聞きしたものの断片が意識的無意識的を問わずに一杯集まって、わたしはといえばそういうのを攪拌する機械のようなものかも知れない。

☆ ☆ ☆


写真は秋に入ってから入り浸っている祇園とその周辺で撮っていたもの。祇園っぽいものに身をゆだねたり、また反対に身をかわそうとしたりと、結構忙しい。
最初のは四条通りから花見小路を南に入ったすぐのところ、一力茶屋(祇園一力亭)の向かい側にある壁面。一列に並んだポスターを撮ろうと思ってシャッターを切ったんだけど、出来上がった写真を見ると並んだポスターの見せるありきたりな絵面よりも壁のテクスチャが結構良い。その場で見ていたらただのポスターが貼ってある壁に過ぎないのに、写真に撮ってみると相貌は意外なほど変化する。


☆ ☆ ☆


昨日、写真を撮りに笠置に行ってきた。一駅進むだけで電車の乗り換え、そのたびに30分近く待たされたり、最後は一両のワンマン電車に誘われて木津川の渓谷巡りと観光気分を味わうも、京都で乗り込んだ時に改札を通った交通カードがここでは使えないといわれたり、波乱万丈の行程だった。しかしまぁ京都の南端にこんなに辺鄙なところがあるんだと、実は中学の時にブラスバンド部の交流で笠置にある中学校に行ったことはあったんだけど、街中の様子なんか全部頭の中から消え去ってるので、非常に興味深かった。一両編成の電車って生まれて初めて乗ったし。
波乱万丈の行程に思いのほか時間をとられであまりうろつきまわれなかったので、もう何度か行ってみるつもりだ。てんやわんやの電車行と写真の顛末はまぁそのうちにということで。
笠置は個人的には笠置観光ホテルという心霊スポット込みの巨大廃墟のある場所なんだけど、一般的には木津川の渓谷と笠置山のハイキング、そして桜や紅葉の名所としても有名であるらしい。上で紅葉なんて興味ないよといいながら、見ごろになったと情報を見れば、いそいそと出かけているかも知れないなぁ。



スポンサーサイト



祇園で寄り道 + Henry Mancini - Dear Heart

格子 簾
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の曲がり角
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100



父に今日はどこで写真撮ってきたんや?と訊かれて、祇園で撮っていたと答えたら、あんなとこ撮るとこなかったやろと云われてしまった。
まぁね、確かに街全体が一致協力して単一の超強力なイメージを生み出すことに専心しているような場所だから、あの街でイメージをずらし、読み替えて再構築するような思惑は、まず間違いなく拾い集めるのも困難なほど粉砕されるのが落ちなんだろうと思う。
実のところ祇園そのものを撮りに行ったんじゃなくて、東山の護国神社に登っていく道の一筋南隣に沿って延びている坂道、その坂道に隣接して建っている、壁面をパイプが縦横に覆っている、実際は廃墟じゃないんだけど半ば廃墟じみた場所を撮りに行った。だからこの時、祇園はそこへ行くまでに通過する場所だったんだけれど、どうせ通っていくなら写真も撮ってみようと思って、寄り道しながら歩き回ってみたというわけだ。結局目的の場所には思いのほか到着するのが遅くなって、当初思っていたほどには撮れない結果となった。

寄り道といいながら、意外と時間をかけて撮り歩いていた。決まりきった祇園のイメージが巨大な障壁のように立ちはだかってる前で、この場所で延々と再生産され続けているイメージにカメラを委ねて、ちまちまとした個性なんか吹っ飛ばす、誰が撮っても全部同じなんていうのもある種過激なんじゃないかとも思ったり、細部を祇園じゃなくなるまで切り分けていったり、それなりに時間をかけて歩き回っていたところをみると、撮ることを楽しむのはどこでもそれなりに出来るということだったのかもしれない。



光さす祇園
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の玄関
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100


全体になんだか納まりかえったような撮り方になってる。もうちょっと自然体で撮れないものかと思う。ある種通りすがりで目の前を掠めたような、あるいは対象の前に座り込んで絵具でも出しながら絵を描いているような感じじゃなく、その時その場所で出会った一瞬の刹那感とか、あまりがちがちに構えないでそういうものが入り込むような撮り方を試みてみたいところだ。
撮っていたカメラはキヤノンの昔のレンジファインダー機で、レンズの画角は40mm。50mmからこの辺りの標準域のレンズが納まりかえったイメージに貢献しているんじゃないかとも思ったりする。これより広角になると自分としては使いにくいなぁという範疇になってくるんだけど、こういう書き方の延長で言うとこれよりも広角になると体裁よく纏まったイメージが作りにくくなるからとでもいえそうな気がする。
最初の写真は、わざわざ植木がある場所を選んで撮ったんだけど、この木は必要なかったなぁ。いかにもかっこつけて撮ってますという主張以外の役に立っていない。


☆ ☆ ☆

Henry Mancini - Dear Heart

以前に一度載せたことがある曲で、アンディ・ウィリアムスとかペギー・リーなんかのアレンジ違いを載せようかとも思ったんだけど、こういう艶のあるコーラスが好きなので、これがやっぱり一番いい。
ロマンチックで、シンプルだけどヘンリー・マンシーニのメロディメーカーとしての本領発揮といった曲だと思う。










鉄の魚、水の中の太陽 +うつゆみこ写真集「はこぶねのそと」

鉄の魚
2016 / 06 /OLYMPUS μII 110 / Fuji Superia 400





水の中の太陽
2015 / 07 / Nikon AF600 / Kodak SuperGold 400


単純に2枚の写真を並べただけでインスタレーションもないんだけど、こういうのを一度やってみたかった。二つのイメージが隣接することで、元々そんなに異質のイメージでもなかったりすることもあって、シュルレアリスムの解剖台の上でミシンと蝙蝠傘が不意に出会うような美しさまとまではいかないようだけど、それでも二つのイメージが絡み合う、一枚の写真では出てこない何かがあるような気もする。並べた個々の写真も単独で見るよりも、他のイメージと関連付けるように並べると、新たな意味が生じるなんていう大層なものじゃなくても、ちょっとした余白めいたものが生じるようだ。

街中で見かけたものを採集でもするように四角いフレームで拾い集めていった。これはコピーし記録するという写真本来の意味に沿ったものだと思う。でもこういうものを撮っている時にいつも思い、そしてたびたびここでも書いていることは、かっこいいイメージがあるとするなら、それは鉄の魚を作った人や、インコと植物をドームに封じ込めた人の手腕によっているということだ。
こういうことを考え始めると、従来的な表現行為とは無縁でいられる写真の、ある種の過激性が面白くてカメラを持ち、街の中へ探検に出かけるようになったところもあるのに、わたしの想念は幾分揺らぎ始める。

アンディ・ウォーホルの絵画、というかシルクスクリーンの作品とか、大衆消費社会のアイコンなんていう出来合いのものを相手にして、最終的にはウォーホル独自の感覚によったものを生み出していた。モンローやプレスリーやキャンベルのスープ缶を素材としてああいうイメージを生み出せたのはウォーホルしかいなかった。
写真でああいう方向を見出せないものかと夢想する。誰かの作った鉄の魚を、もう少し自分の領域に引き寄せるような写真。写真を加工すればいいというのは一つの方向ではあるものの、でもコピーし記録するという写真の本質を逸脱したくないという条件がつくと、これはちょっと途方にくれてしまいそうだ。

まぁね、カメラ構えてる時はいつもこんな面倒臭いこと考えてシャッター切ってるわけでもないんだけどね。単純に面白そうなもの、自分が好むものを見つけたらフレームで切り取っているだけ。
ただガラスドームのインコのようなのは、その出来合いの空間との関係性で写真を撮るだけじゃなくて、このガラス容器の中に自分でインコと植物を閉じ込めて配置してみたかったというところはあったりする。

☆ ☆ ☆

こんなことを書いていると、うつゆみこの写真集を思い出した。

はこぶねのそと01

はこぶねのそとというタイトルの写真集。
既存のイメージやオブジェに粘液質で生臭そうなものを組み合わせて、キュートでグロテスクといったイメージの写真を作り出した写真集。今見るとどこかサブカルっぽい印象もあるかな。方法としては随分とユニークに見えるけれど、似たような方法、似たようなイメージで写真を撮っている写真家に今道子という人がいる。ただわたしは今道子のほうは数点の写真しか見たことがないので、はっきりとは云えないんだけど、この写真集のようなキュートさはあまりなさそうな印象だ。

はこぶねのそと02



はこぶねのそと03


上で書いたインコと植物を自分の手でガラス容器に封印してみたいと思ったことを、実際に試みている。既存のイメージに思い切り手を加えて作品世界といったものを構築している反面、写真としてはもう単純に目の前のものを端正に記録しているだけ。記録、コピーとしての写真は写真の本質ではあるんだけど、ここまで徹底されると、これが写真の表現だと言い切ってしまうのには、どうも居心地の悪い思いが頭をもたげてくる。この写真集を見ると、どこか矛盾した写真への思いのようなものに絡め撮られたような気分になってくるんだな。

写真集なんだけど写真を対象化するような行為はほとんどなされず、ひたすらに写真の目前で展開される世界に力が注がれている。写真の本質を体現しながら写真であることは目の前から消えうせている奇妙な感覚。目の前のサブカル臭漂うキュートでグロテスクなイメージを楽しむと同時にそういう奇妙さも体験できる写真集とでも云えるかもしれない。

それにしても一枚の写真を撮るために、こういう立体作品を作って、構築した世界一つに対して写真一枚で完結する創作行為とか、何だか凄い無駄を含んでるような気がしないでもないし、写真に撮って完結させるよりも、立体作品として成立させたほうがいいんじゃないかとも思うんだけど、これだけの手間をかけて最後に写真一枚でフィニッシュにするようなどこかねじくれた感性のようなものこそがいいという感じなのかなぁ。

☆ ☆ ☆

読み返してみると、何だか今回は話が落ち着くようで、散らばったまま終わったような内容だな。



☆ ☆ ☆





作る作品世界は面白いんだけど、この路線でそんなに先のほうまで進めるとも思えないなぁ。というかこの路線で果てしなく続けられたら、それはきっと凄いことなんじゃないかと思う。





斑猫

帳
2016 / 05 / 写ルンです シンプルエース





影溜
2016 / 05 / 写ルンです シンプルエース





斑壁
2016 / 05 / 写ルンです シンプルエース


道を指し示すが如く、何かがわたしの少し前に降り立つ。それが何であるのか知りたくて近づいてみても、近づくたびにそれは目の前から遠のいていき、いくら追いかけてもその正体は結局分からないままとなる。まるで斑猫だ。少し前方に舞い降り、近づくたびに道でも教えるように、また少し前に飛び去り舞い降りる、あの美しい斑猫。

とまぁ、怪しげな書き出して始めてみた今回のお話。要するに今回の写真は気配といったものを垣間見たような気がして撮ってはいるものの、それが何だったのかは撮った本人もよく分からないと、そういうことだったりする。それにしても撮った本人もその気配の正体をよく分からないと言い切ってしまっている写真を、どうですか?とでも云う感じで見せられるほうもたまったものじゃないかもしれない。
思うに、撮っているものからすれば、分かっているものを撮るよりも分からないものを撮るほうが面白いんだけどね。

まぁそうは云うものの、分からないだけでは話も進まないので、今回の写真を選んで載せている時に思ったのは、要するに光の表情を追っていたんだと、そんなことを思った。自分で撮っておいてこう云う言い方も妙な感じなんだけど、こんな風に何か分からないけどシャッターを切りたくなった時点で切っていることも結構ある。
でもこういう風に言い切ってしまうと、色々と他にも含んでいたものが全部滑り落ちてしまうような気もするなぁ。光の表情を追いかけたものではあるんだけれど、その時に見ていたものはもっともやもやとしたもので、そうだと思ってしまうと、分からないと云った気配はどこかに霧散してしまいそうだ。

被写体そのものに特殊な意味合いがあるわけでもないんだけれど、それでも好きな被写体といったものもある。最初の幕なんかがそういう感じのもの。こういうのを見ると結構撮りたくなってくる。表面に走るしわや折り重なる表情、風を含む様相、風の写真なんか撮る時に引き立つんじゃないかと思う。
幕といえば以前山科で撮った民家の日よけの幕の写真を載せたことがある。幕の写真としてはあっちのほうが好みで、これはちょっと表情がなさ過ぎる感じがする。

☆ ☆ ☆

ちなみに斑猫はハンミョウの漢字表記。中国での名前らしい。ハンミョウ、別名「道おしえ」という美しくも不思議な虫がいる。わたしはハンミョウといえば初夏の貴船というこれまた美しい響きの場所がセットになって頭の中に浮かんでくる。子供の頃に読んだどくとるマンボウの昆虫記にでも書かれていたような記憶があるんだけど、今となってははっきりと憶えているわけでもなく、結局どんな形で入ってきたのか、この結びつきのみが今も頭の中に残っている。







ということで、またまた写ルンですの登場だ。デジカメだと凍りつくような場所でも楽々と動くらしいカメラ。電池も要らないし雨に濡れてもたぶん平気、面倒な手順を踏まなくてもすぐに写真が撮れて、しかも撮れた写真は思いのほか風雅に良く写っている。これだけ揃っておまけに安いとなると、これはひょっとしたら最強のカメラなんじゃないかと思う。




京都矩形化計画

マネキン
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





駅の編目
2016 / 09 / Nikon Coolpix S9700





京都駅玄関上
2016 / 04 / Nikon Coolpix S9700






踊り屏風
2015 / 01 / Nikon F3 / Kodak Gold200



最初思いついたのは「京都駅矩形化計画」。で、今回の写真は確かに全部京都駅で撮ったものだけど、何も駅に限らないでもいいかと思って、京都のあらゆる光と闇、あらゆる空間、あらゆるオブジェ、あらゆる曲がり角、あらゆる隅っこを四角いフレームで囲ってみようという意味合いをこめて、このタイトル。
何だかブログの名前に使えそうだ。っていうか京都の写真サークルでも立ち上げて、その名前にでもできそうだなぁ。
カ行の音が多くて、ギクシャクと尖がってるのも気に入った。

今回のは最後の以外はデジタルで撮ってる。
デジタルで撮ってみて、撮っている時はシャッター切っても、写真撮るという行為だからつまらないとは思わないものの、写っているのが当たり前という感覚が大きくてどうも面白いとは思えない。とはいってもあまり面白いとは思わないといいながら、フィルムを使ってる時とは桁外れに多量の写真を撮ってしまってるんだけれど、どれだけシャッターを切っても感覚的にはあるレベルで飽和状態になってしまってるようで、大量に押した個々のシャッターに、振り返りたくなるほどの感覚の痕跡はあまりのっていないような気がする。
デジタルで面白くなってくるとするなら撮影している時よりもPCに取り込んでフォトショップでいじくり回してる時かもしれない。
わたしがデジタルで撮って一番楽しんでるのはまさにこの時で、なぜかデジタルの画像に関しては編集に関連するリミッターが外れてしまう。もちろんデジタルでも一切編集しないという撮り方も当然できるんだけど、「撮って出し」なんていう言葉があるのなら、同時にそこにはさらに広範囲に「撮って出さない」というものもあることになって、やっぱりデジタルの機材は事物と主体の間にあるものとして、幾分は主体よりの位置にいるのが基本なんだろうと思う。
逆にフィルムを使ってる時はこのリミッターがかかりまくりで、トリミング程度でさえも悪魔の所業だと、忌避する気分のほうが大きくなる。といっても絶対にやらないかというと、そのほうが良くなると思えば結構やってしまったりはするけどね。こういう感覚が生じるのは、フィルムに定着したものは化学反応で物質化した光そのものだと思うからなのか、理由ははっきり分からない。

☆ ☆ ☆

最近ここでは虫と転倒の話ばかり書いている。そういう癖でもついたのか先日駅のエスカレーターに乗っている時、ステップの縁につま先が引っかかって、前のめりになり、思わずステップに両手をついたことがあった。いつもならエスカレーターを歩いて進むなんてやらないんだけど、この時は列の先頭になってしまって、何だか後ろからせっつかれてるような気分になった。そしてどうせ歩くならさっさと行ってしまおうと、足を速めたとたんの出来事だった。これだけだと特に怪我をしたわけでもないし、本格的に倒れこんだわけでもないから、みっともないなぁと思うだけのエピソードだったんだけど、これが特別の意味を持ったのは、この時、今回の撮影に使ったニコンのデジカメを片手に持っていたという要素が付け加わっていたからだった。
左手の手のひらの中に、前にかざせばちょうど水戸黄門の印籠を持っているような形でS9700を携えていて、つま先を引っ掛けた時にこのままエスカレーターのステップの縁に手をついてしまった。要するにカメラをステップの角に思い切りぶつけてしまったというわけだ。しかも全身の体重をかけて。
みっともないからそそくさと立ち上がって、知らん顔してその場を立ち去ることがまず第一に頭の中にあったものの、そのすぐ裏側でカメラが酷い損傷を受けたに違いないという予感が寄り添っていて、この時はさすがに血の気が引いた。
で、その場から離れて、手の中にあるカメラを恐る恐る確認してみたんだけど、これがまた信じがたいことに傷一つついてなかったんだな。後になって光の加減でかろうじて分かるくらいの微細な程度で、鏡胴の周囲を巻いてる素材の一部がかすかにへこんでいるのを見つけたけど、それ以外はかすり傷一つついていなかった。スイッチを入れてみると何事もなかったようにカメラは光をセンサーに取り込むことに専心している。
ここまで丈夫なものだとは本気で思わなかったので、これには結構吃驚してしまった。
今回は壊れなかったという結果だったけど、これ、液晶のほうを外側にして持っていたら、まず液晶は割れるかなにかしていたのは確実で、レンズのほうを表に出して持っていたこと、しかもレンズは収納状態で、ぶつけた縁がレンズの薄いカバーよりもわずかにずれていて、レンズを直撃しなかったことは本当に幸運だったとあとで冷や汗をかいた。もっとも幸運というなら、そもそもエスカレーターのステップにつま先など引っ掛けないわけで、考えようによっては、これは幸運だったのか不運だったのかどうもよく分からない結果となっている。
禍福は糾える縄の如しということなのか。






ということで、今回の写真に使った、丈夫なデジカメ S9700だ。ボタンの配置が妙な具合で押すつもりもないのに動画開始のボタンを押したりしてしまうのが玉に瑕か。デジカメで動画とか撮ってる人、そんなにいるのかなぁ。少なくともわたしにはいらない機能だ。


☆ ☆ ☆

今回はちょっと妙な写真が多い。