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化水幻戯

疎水 伏見付近1





反射する





水の影





水門





忘れ物



2016 / 12 / 墨染 (1)
2016 / 05 / 墨染 (2)
2016 / 12 / 墨染 (3)(4)
2016 / 03 / 墨染 (5)
Nikon Coolpix S9700 / 写ルンです シンプルエース400 / Olympus Pen S3.5
Kodak SuperGold 400


忍法の技の名前みたいなタイトルだ。とは云っても山田風太郎じゃなくて、元は江戸川乱歩から拝借してきた。山田風太郎は甲賀忍法帖のような有名なものもいいけど、わたし的には風来忍法帖が面白い。

京阪の線路と併走している疎水の、墨染を通り過ぎて伏見へとカーブしていくところ、関西電力墨染発電所のある辺りなんだけど、耳鼻科の通院後にたまに墨染から疎水沿いを歩くことがあって、これはそんな時に撮った写真となる。水門だとかの構築物はこの墨染発電所のものだ。実のところもっと水門や機械類を絡めて撮りたいんだけど、当然のことながら発電所には柵があって中に入れないようになっている。最後のは水は写っていないけど、この疎水と変電所の脇にある小さな公園のベンチに置き忘れられていたオブジェだ。
こういうのを見ると各オブジェを配置しなおしたくなる場合がある。以前紅葉のシーズンに地面に落ちたもみじの葉っぱを拾ってきては思うように並べて写真を撮っていた人を見たことがあった。そういうことにあまり抵抗がない人もいるようでも、わたしはちょっと抵抗がある。あまり自分色に染めてしまわない、目の前の空間をそのまま把握するって云う関わり方だから、目の前にこういう配置で存在したものはその配置にも何らかの蓋然性があると考えるほうで、この写真の場合もサングラスや、これはシャボン玉製造機なのか、奇妙なおもちゃの位置が多少バランスを崩していてもそのままにして撮っている。

水は被写体としては面白いね。水そのものは指の隙間から零れ落ちていくほど存在としての確固としたものがないにもかかわらず、反射、透過、屈折、波紋、揺らぎなどの層を通して様々の表情を見せてくれる。日常の当たり前に見るものから神秘的な印象まで、あるいはわたしにとってはさらに恐怖の対象としてまで、刻一刻と変化するその様相は見ていて飽きない。
たった100度程度の範囲で固体から液体さらに気体にまでその存在形態を変える物質は実はかなり特異な存在らしく、これ無しには生命は誕生し得なかったことも考え合わせると、水はある意味奇跡的な物質だ。水道の蛇口から毎日奇跡が迸り出てるんだと思うとなかなか楽しくなる。








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ぐるぐる

ぐるぐるいす





多重する植物





廃車





2016 / 11 / 棚倉
2016 / 10 / 河原町
2016 / 11 / 平城山
Pigeon Flex
Fuji Velvia 100


☆ ☆ ☆


最近はパッとしない天気と寒さで何だか写真撮るための勢いみたいなのが削がれ気味だ。
太陽が出ている日でも安定せずに、まるで電灯をつけたり消したりする感じで光の状態は猫の目のように変化する。きちんと露出を計って、この気分の良い光の状態でさぁ撮ってみようと思ったら、もう日が翳っていたなんていうのはざらにある。そうなるとフィルムに定着させようと目論んだ光が再び顔を覗かせるのをその場で立ち尽くして待ったりするわけだ。
こちらの行動のリズムは乱れるし、そういうのは本当に苛つかせる。

棚倉へは電車の車窓から見えた、もっと別の得体の知れないものを撮りに降りたんだけど、地下道を通って反対側に行ってみると、撮ろうと思っていたものよりもはるかに変なものが目の前に現れて、結局駅の反対側の広場で見たこの奇妙なぐるぐるチェアーの虜になってしまった。このぐるぐるの真ん中を通ればどこか別の時空にでも飛ばされそうだ。
他にもさらに二三枚角度とカメラと日にちを変えて撮っているものもあって、その別角度のぐるぐるチェアーの写真はまぁ別の記事に水増しして載せようと思っている。
それにしてもこの椅子はバスかなんかの待合なんだろうか?わたしがカメラ持ってこの周りをうろついていた時は子供が座り込んでゲームをしていたのに出会ったくらいで、バス待ちの人とか一人も見なかった。

棚倉は目的無しには絶対に降りようという気を起こさせない辺鄙な駅にみえて、木津川アートのイベント時には開催エリアの一つになっていたから、こういう目立つオブジェは誰かが写真に撮っていそうだなぁ。っていうかこれひょっとして木津川アートの作品なのか?

二枚目のはフィルムを巻き忘れて意図しない二重写しになったもの。暫くぶりで使ったピジョンフレックスはあまりの単純な構造ゆえの失敗をいくつかやっている。
ピントを合わそうと思って隣にあるフィルムの巻上げノブをまわしてみたり、レンズキャップ代わりに被せていたモノクロ用の黄色いフィルターを取り忘れて、カラーフィルムを仕込んでるのにシャッターを切ったり。
もうね、あまりにもへまなことをやっていたから、途中でこのフィルム破棄してしまおうかと思ったんだけど、普通に写せたものも混じっているからとにかく最後まで撮りきって現像に出してきた。フィルムを巻きすぎたようなのはどうにもならなかった一方で、黄色フィルターを付けたまま撮ってしまったのは薄い色被り程度でわりと普通に見られるような出来になっていた。
こういう巻き上げるのを忘れて二重で写してしまうのはこの手のカメラではむしろ当たり前のようにやってしまうので、ミスとしては凡庸なものになるかも。同じミスをするにしても、思いがけない結果として結実するようなミスをやってみたい。

ピジョンフレックスはヤシカがカメラメーカーとして活動していくきっかけになったようなかなり古臭い二眼レフなので、古臭いカメラによくあるように撮影の細々としたことにはちっとも親切じゃなく、使えばいろいろとストレスになるのが予測できてなかなか持ち出せなかった。、
フィルムをセットしたのが去年の2月でこの時はセットしただけで放置、その後始めて持ち出したのが真夏の真っ只中の8月の大阪で、でもその時も一枚撮っただけで秋も深まるところまで再び放りっぱなしなんていう使い方になってしまっていた。
なにしろシャッタースピードは最高速が1/200秒しかないんだよ。ファインダーだって昼間の幻燈くらいにしか見えない。今のデジカメが当たり前と思ってたら、この使い勝手にはちょっと吃驚するだろう。
そして持ち出すたびに、間が開いてるものだからそのカメラの撮影リズムを忘れて、こんな失敗ばかりしていたというわけだ。
レンズは富岡光学のトリローザでトーンの描写に秀でて、かなり良いんだけどなぁ。少なくともこの見えないファインダーは何とかならないものだろうかと思う。
三枚目のはノーファインダーで撮ったし、ノーファインダーの導くものには興味はあるけれど、ファインダーに呪縛されてみようと思ってよく見えないと云うのは、これはこれで嫌気が差す。









亡びてしまったのは、いったい何であったのだろう。 / Whispering a Prayer - Steve Vai

時計塔の煙突





風の気配





干上がった池の畔で





冬枯れの木


2016 / 11 平城山 (1)(2)(3)
2016 / 11 棚倉   (4)
Nikon F100 / 写ルンです シンプルエース
AgfaVistaPlus / フジ業務用

☆ ☆ ☆


束の間形となって現れ、虚空へ消えていくもの。
風の囁く声。
かつてそこにあった何か。
枯れ果て、そして再生していくものたち。


タイトルの元ネタは中原中也の詩の一節の、さらに一部から。かっこつけてみようと思ったけどあまり上手くいかなかった感じだ。
儚さ、揺らぎ、刹那、非在、喪失、異界、気配、変容、そういった眼に見えないものへの憧憬と偏愛。
一方でだだ眼に見えるだけの事物性への志向があり、この眼に見えないものへの偏愛とともに、渦を巻いてわたしのなかに混沌としてある。
そういうものの一端を掴み取りたいと思う。わたしの中で渦を巻くものを写真は掬い取れるのだろうかと思う。

ところで中原中也ってあの黒い帽子とマントの有名な写真しか現存していないんだと思っていたら、普通にスーツ着て写真館で撮ったような写真も残っている。これはね、これはちょっと興ざめ。あの有名な写真しか残っていないというほうが浪漫的だったなぁ。


☆ ☆ ☆


フィルム使いにとっては朗報となるものの情報を一つ。
コダックが今年の後半、リバーサルフィルム(ポジフィルム)を一種類復活させるそうだ。復活するフィルムはエクタクローム。
リバーサルフィルムに関しては、2012年にコダックが全廃してから、フジの感度100のものが二種類残っているだけだった。そういう選びようがなかったところに久しぶりに選択肢が一つ増えることとなった。
廃止したフィルムの復活をコダックに決断させたのは、再びフィルムを使う人が増えつつあるということだったらしい。
これは何だか心強い。
フジも見習ってモノクロの感度400のものと、リアラを復活させてくれないかなぁ。リアラは本当に気に入って使っていたから廃盤にされた時は途方にくれた。
それとさらに希望を云うなら、利用者が少なくなっているからという理由で急速に値上がりしていったのを多少は元に戻して欲しいところだ。でも値下げはちょっと無理かな。
とりあえず一度製造廃止になったフィルムが復活するのはほとんどないことだったから、これは単純に嬉しいし期待したいと思う。
コダックはもう見捨てて、フジに鞍替えすると云っていたんだけどね。またちょっと応援してみるか。


☆ ☆ ☆


Whispering a Prayer - Steve Vai


スティーヴ・ヴァイのこの類の曲は結構聴き惚れてしまうものが多い。後半はいつもの派手なギターパフォーマンスになるものの、どこかアジアの大草原を吹きぬけていく風を思い起こすような壮大で、愛らしい祈りの曲。
こういうのを聴きながら、祈りの写真とか撮れるのかなぁなんて空想は広がっていく。
先にあげた見えないものへの偏愛の項に祈りも加えておきたい。


☆ ☆ ☆






お正月の過ごし方

2017お正月 八坂神社01





2017お正月 八坂神社02





2017お正月 八坂神社03





2017お正月 八坂神社04 参拝への途上で


毎年そうであるように、今年もまた三が日は瞬く間に過ぎていった。去年も同じことを書いたんだけど、子供の頃一日過ぎてはあと何日でお正月が終わるという淋しい気分に駆られていたのが大人になった今でも多少は残っていて、三日ともなるとどうにも祭りの後の寂寥感がやってくる予感に捉われてしまう。
特別な期間だという意識が強くて何か特別なことでもやったほうがいいのだろうかと思うんだけど、矢のように過ぎていくお正月の中で大してハレの期日に相応しいようなこともできずに、あぁなんだか今年も特別な日々がそのまま通り過ぎていったと振り返ることとなる。お正月とかこうやって無事に過ごせていることを神様に感謝しながら、ひたすら食って寝ての過ごしかたで正解だとは思うんだけど、何時も何だかお正月らしいすごし方をしたという気分にはなれないままに三が日を駆け抜けていくんだな。
写真もほとんど撮れなかった。一つはあまり天候がよくなかったこと。傘が必要なほどの雨はあまり降らなかったものの、昼前くらいから必ずといっていいほど曇り空となってたまに霧のような雨粒が疎らに落ちてくるといった日が続き、出掛けの晴れた空を見て写真撮れそうと思う気分を昼を過ぎる頃には台無しにされ続けた。
それにお正月っぽい写真とか定番をはずして撮ろうと思うと途方にくれる。神社とかはありきたり過ぎるなぁと街中に行きはするけれど、何もない空虚な空間の中でただひたすらに立ち尽くすのみ。この空虚さこそがお正月の空間だと思い至ってもそれを上手く写真に撮れる自信がない。
結局初詣に行った八坂神社で屋台の写真を数枚と神社に行く道すがらに祇園の外れで妙な置き方をしてあった自転車の写真等、まるでお正月と関係ない写真を撮っただけだった。

初詣といえば今年は珍しく元旦に初詣に行ってきた。元旦なんて人多すぎでとてもじゃないけどそんな中に踏み入れる気は起きないといつもは思っていたけど、二日だって相当に混んでいるし、ひょっとして大差ない?って思ったから。それに去年の元旦に向島の団地へ写真撮りに行って、まるで誰も居ない空間の中で、こんなところ元旦に来る場所じゃないなぁって思ったのもあった。
初詣の神社は去年と同じく八坂神社。贔屓筋の神社で、この数年ブログの記事にしやすいように毎年変えていたのを止めて、元の鞘に収まったような感じだ。
特に目新しいこともなくお参りを済ませ、さておみくじだと勢い込んで引いたものは、また去年と同じく読みにくい数字が書かれていて、これ「十四」?「それとも「四」?と迷うことしきり。数字の上にぽちっと点が打ってあって、これが四方に滲んで「十」に見える。他の人が引いているのをちょっと覗きこんでみると、どうも全部に点が打ってあるようだったので、「四」だと判断して引き換えに行った。
後ろの人も「四」だったと連れの人に話しているのを耳にしながら、おみくじをもらって開いてみると、これがなんと「凶」のおみくじとなっていた。
贔屓筋だといってるのに…。片思いなのかなぁ。
あぁ今年は「凶」なのかと、これはやっぱりあまり気分は良くない。後ろで「四」だったと云っていた人も凶を引いたのが道連れで多少は慰めにはなるか。他にも凶を引いた人、仲間はいるかと思っておみくじを眺めている人の手元をさりげなく覗き込みながら境内をうろついてみると、何人かは凶を引いてる人がいるようだった。こういうのをみると知らない人だけど妙な連帯意識があるなぁ。
ということで、何時もは持ち帰るおみくじも今年は神社に結んで帰ってきた。

帰りに祇園花月の前辺りで、そういえば去年はここで生きた西川のりおを見たんだと思い出した。この時はお正月に西川のりおを見たことは凶兆か否かとひとしきり考え込んだものの、だからといって去年がどうかなったということもなく、結果としては凶兆ではなかった。
だからまたみられるかと思ったものの今年はそんな風には行かなくて、これは残念だった。





謹賀新年 2017

2017 酉年 年賀


あけましておめでとうございます。
彗星絵具箱を今年もよろしくお願いします。

年があらたまったのに去年の記事がトップにあるのもいまひとつなので、ささやかに更新してみる。
この写真のモデルになってくれたのは以前エスニックの雑貨屋で出会って思わず買ってしまった鳥の素朴な人形。新年早々ということでお正月の写真が手元にあるわけでもなく、それでは何か鳥イメージのものが無いかと考えている時、机の目の前に飾ってあったこの人形が眼についた。何だ目の前にあるじゃないか。
それで急遽モデルになってもらうべく、かなり以前に手に入れて別の人形を腰掛けさせていたワイヤーの椅子に座ってもらった。
羽は膝の上に乗るようにポージングしてみたが、普通にたらしておいたほうが良かったか。

今年は本を読む習慣を取り戻したいな。昔は手元に何か読むものがないと苛つくくらい本が欠かせなかったのに、いつのまにやらまるで読まなくなってしまっていた。自分が知らない間に本を読まなくても平気でいられるようになったことに気づいて愕然とし、それでもこの習慣を取り戻したいと思い本は買ってはいたんだけど、読まずに積んでおくばかりで、今や未読の本が部屋のかなりの場所で小高い塔を作っている。今年はこの塔を切り崩してみたい。
写真はまぁ例年の如く。どちらかというと迷いまくれと思っている。迷ってシャッターを切れ、撮った写真を眺めて迷え、答えなんか簡単に出そうとするなと思っている。